【非思量】石の上で瞑想すると何が見えてくるのか3【瞑想】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレ
非思量】石の上で瞑想すると何が見えてくるのか2【瞑想】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1471071690/ 「自我への執着」が、心の悩み、人生問題をとめどなく再生産している根本原因
「思いは本当の自分ではない」と知る“無我”の体験、これが仏教の伝え
心の悩みをつくっているのは、対象に対する“執着”で、その執着を捨てれば、
心静かに生活できる 物への執着は比較的、落ちやすいものです。
しかし、経験的にも、心の現象に対する執着(我執)は、
なかなか絶ちがたいものです。
真宗では、この我執を「自力の心」と呼んで、
この我執との闘いに勝利することを仏道の中心に据えています。 仏教は、この我執を断つことで、悩みのない平和な生活、
すなわち涅槃(執着のない心境世界)に入ると教えています。 1.思いの通りにならないことを「苦」といいます。
2.その苦の原因は、思いに対する「執着」です。
3.思いに執着するのは、「思いは自分」という誤解があるからです。
4.その誤解が解けることを「さとり」といいます。
5.さとれば、思いに対する執着がなくなります。
6.執着がなくなれば、苦がなくなります。
7.苦がなくなると、心配・不安・恐怖がなくなります。
8.心配・不安・恐怖のない生活を「極楽」といいます。 我執があるなんて普通は気がつかない^^
というか・・
ほとんどの人が気がついていない^^ もっと言えば・・
我執から苦が生じるなんて知る由もない^^ 無明
仏教では十二因縁の根源に無明をおく。すべての苦は、無明(迷い)を
原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。
我というものが存在するという見解(我見)が無明である。
無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。
すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。
この苦しみを消滅する方法は、初期経典には定型文句として四諦、八正道である
と説かれている。この四諦、八正道を知らないことも無明である。 『スッタニパータ』などの最初期の韻文経典では、無我はさかんに説かれる。
それらによれば、「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが
我ではない(諸法無我)と観察し、これを智慧によって理解すると、
清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。 諸法無我
我々人間は、しらずしらずの間に私自身の現存在を通じて、
そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の
成長変化を認めながら、そこに「私」と呼ぶ実体的「我」を想定し、
成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考える。
しかし、諸法無我はそれこそ我執であるとして退け、変化をその変化のままに、
変化そのものこそ私なのだと説くのである。
この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、
つねに一切の力の中に「関係そのもの」として生かされてあるという、
縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。
一切のものには我としてとらえられるものはないという考え方を
徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて
一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えている。
このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、
他者に対する慈悲の働きがありうるとする。 無常・苦・無我は仏教の教えの中でも重要です。
四諦聖の実践で得られる「悟り」とは、「無常・苦・無我」を悟ることです。
いわば、無常・苦・無我は悟りの内容そのものになってきます。
少し正確にいえば、無常・苦・無我を悟ったから「悟り」ともいえます。
うわっ^^ 「(自分などの)人に我がない」ことを「人無我(にんむが)」、
「物事に我がない」ことを「法無我(ほうむが)」といって、区別しています。
そしてそれらをすべてひっくるめて、「すべての存在が無我である」ことを
「諸法無我(しょほうむが)」といいます。 「(自分などの)人に我がない」と言葉で言われても・・
理解できるものではなく・・・
言葉による悟りなんて・・
できるはずもない^^ では・・どうすればいいのか・・^^
それは簡単である^^
体験するだけでいいのである^^ 瞑想により体験すればいいだけ^^
ただそれだけ^^ 神がウンコを創ったといって批判するのは人間(自分)からの視点、
自我でしかないのです。 でもね・・・^^
普通の人では・・無利といわざるを得ない^^
しかし・・短時間でその境地にいくことができる^^
物理的にね^^ Aから見ての悪魔はBから見た天使である事もある。
この相対性をまずは理解することです。 二元論、二項対立の相対的世界で、普通にものを認識し理解する能力を知恵とよび、
常に有無、善悪、是非など対立概念で分類し分析し区別して判断(分別)するので
差別知といわれ、判断の基準の中心には“我”が存在している。
まさしくこれ^^ 知恵(ちえ)=分別知(ふんべつち)=凡夫(おまえら)の知恵=差別知
智慧(ちえ)=無分別智(むふんべつち)=仏(菩薩)の智慧=無差別智
これなんだよな^^ 無分別智
相対的な主観・客観の分別を離れた真実の智慧。
識別・弁別する分別智に対して、それを超えた絶対的な智慧をいう。 そして・・
大乗仏教においては、般若経・龍樹・中観派等によって、
認識対象・認識内容の「空性」「無自性」が強調され、世俗諦(分別智)ではなく、
真諦(無分別智)としての正覚を目指す本来の仏教、釈迦への回帰が主張される一方、
各種の大乗仏教経典によって具現化・広大化された諸仏や、複雑化・詳細化された
縁起観・自然観などを通じた観想によって、正覚に至ろうとする各種の行法も発達した。 互いに対・差異となる事象・概念に依存し、相互に限定し合う格好で
相対的・差異的に成り立っており、どちらか一方が欠けると、もう一方も成り立たなくなる。
このように、あらゆる事象・概念は、それ自体として自立的・実体的・固定的に存在・成立している
わけではなく、全ては「無自性」(無我・空)であり、「仮名(けみょう)」「仮説・仮設(けせつ)」
に過ぎない。こうした事象的・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」に焦点を当てた発想が、
ナーガールジュナに始まる中観派が専ら主張するところの「縁起」である。 龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることを論証している。
この因果関係を釈迦は「縁起」として説明している。(龍樹は、釈迦が縁起を説いたことを『中論』の最初の帰敬偈において、賛嘆している)
さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(=自性)はないことを明かしている。
これによって、すべての存在は無自性であり、「空」であると論証しているのである。
龍樹の「空」はこのことから「無自性空」とも呼ばれる。 しかし、空である現象を人間がどう認識し理解して考えるかについては、
直接的に知覚するということだけではなく、概念や言語を使用することが考えられる。
龍樹は、人間が空である外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。 龍樹は、人間が空である外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、
仮に施設したものであるとする。
あー龍樹ちゃんはこんなこと言ってたのか・・^^
「言葉は仮に施設したものである(キリッ」 三性
@物事を宗教的倫理の立場から区別する三つの性質。
善と悪と無記(善でも悪でもないもの)。
A唯識学派・華厳宗などで説く,この世の存在の三つの在り方。
実体がないものを実在であると思い込む遍計所執性へんげしよしゆうしよう
事物が縁によって生まれたものであると知る依他起性えたきしよう
完成された真の存在としての円成実性えんじようじつしよう
この三性をも空とする三無性と併せて説かれる。 三性
このような識の転変によって、存在の様態をどのように見ているかに、3つあるとする。
@遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)構想された存在 凡夫(おまいらの日常の認識。
A依他起性(えたきしょう) 相対的存在、他に依存する存在
B円成実性(えんじょうじっしょう)絶対的存在、完成された存在
このような見方は唯識を待つまでもなく大乗仏教の基本であり、その原型が既に般若経に説かれている。
遍計所執性とは、阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当して、
存在せず、空である 空性の「無分別の智・不二の智」により、分別・戯論・煩悩が止滅される働き そういえば・・
昔みたいに苦がなくなってるな^^
なぜだろう^^ 「空ぅうううううううううううう」
なんちゃって^^ おまいらって・・
ほんとうに・・
くだらん^^
またまた寝る^^ けど・・
スレの内容って覚えているもんだな^^
このままスレを消化していくと・・
本当に悟る日がくるかもしれん^^
どうしよう^^
てへ^^ 縁起・・無自性・・空観・・
から無我へと・・
瞑想の結果こうなる^^ 空観により・・無分別の智が生じ・・分別・戯論・煩悩が止滅される・・ すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、
智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。 「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが
我ではない(諸法無我)と観察し、これを智慧によって理解すると、
清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。 無分別智によってになるんだよな^^
相対的な主観・客観の分別を離れた真実の智慧。
識別・弁別する分別智に対して、それを超えた絶対的な智慧をいう。 二元論、二項対立の相対的世界で、普通にものを認識し理解する能力を知恵とよび、
常に有無、善悪、是非など対立概念で分類し分析し区別して判断(分別)するので
差別知といわれ、判断の基準の中心には“我”が存在している。 判断(分別)するので差別知といわれ、判断の基準の中心には“我”が存在している。 世俗諦(分別智)ではなく、真諦(無分別智)としての正覚を目指す本来の仏教 真諦(無分別智)としての正覚
無分別智としての正覚^^ 空性とは、一切の存在・事象を実体として見るとらわれを離れ、
主客二分による分別は虚妄であることを知り、無分別を理解して、
また、縁起関係にあるあらゆる相対・対立をも超えた「不二絶対」を
明らかに知見していくことが重要であり、空性はいわゆる
「無分別の智・不二の智」のことであります。 是の諸の識転変して 分別たり所分別たり
此に由りて彼は皆無し 故に一切唯識のみなり 依他起の自性の 分別は縁に生ぜらる
円成実は彼が於(うえ)に 常に前のを遠離せる性なり 故に此は依他と 異にも非ず不異にも非ず
無常等の性の如し 此を見ずして彼をみるものには非ず 無得なり不思議なり 是れ出世間の智なり
二の麤重(そじゅう)を捨するが故に 便ち転依を証得す 此は即ち無漏界なり 不思議なり善なり常なり
安楽なり解脱身なり 大牟尼なるを法と名づく この識の転変は分別である。それによって分別されたものは存在しない。それ故、
この一切は唯だ識のみのものである。 依他起性は分別であり、(それは)縁によって生じるのである。円成実性は、それ(依他起性)
が、常に前(遍計所執性)を離れていることそのことである。 この故にこそ、それ(円成実性)は依他起性と別ではないし、別でないのでもない。(この関
係は)無常性(と無常なる事物)等のようにいわれるべきである。これ(円成実性)が見られ
ないとき、それ(依他起性)は見られない。 これは無心であり、無所得[ 対象を見ない・主観と対象との分別が無い ] である。それはま
た、出世間智である。転依である。二種[ 所知障と煩悩障との二種の仏道の障害 ] の祖重
[ 煩悩の種子 ] を断じたが故に これこそが無漏界であり、不可思議であり、善であり、永遠である。これは楽であり、解脱身
である。これが大牟尼の法と謂われるものである。 対象や自我への執着が落ち、言語的な枠組も非実体化されるとき、
遍計所執の世界が円成実性の世界に転じる 円成実性《えんじょうじっしょう》
依他起性をそのまま依他起性として正覚して(空性(縁起空)・無自性の正覚)、
遍計所執性(虚妄分別)を離れること。 言葉でいうのは簡単・・
それを瞑想で体験しないと・・
真に理解したことにはならない(キリッ 今週の瞑想は・・
空観瞑想に入るとするかなっと^^ このままおいら・・・
どこに行ってしまうのだろうか・・^^まる え〜〜と^^
つまり・・・
相性とうやつですね^^ けど・・・
実を言うとですね^^
もうすでに「空」の体験してるんですよ^^
秘密ですけどね^^
当然・・石の上の瞑想で^^ うわぁあああああああああああああああああああああああああ
ということで・・
寝る^^ 俺は寝むった...。寝むり続けた...。
そして宇宙すらをも超えて無限の世界を駆け巡り、
因縁果 ◆d........oから、因縁果 Outside of one(アウトサイド オブ ワン)へと昇華したのだ!
「因縁果 Outside of one 孤高なるネラーの戦い」 前回のあらすじ。
ひょんなことから寝むりたくなって寝た因縁果。
に、ひょんなことからOutside of oneに昇華したとかほざいているどっかのなんか。
さて!こられから一体全体何がはじまるんだぁぁ!!! ルール違反だったみたいなんで去ります。笑
さーせん。 煩悩即菩提かー^^
煩悩=我執 菩提=慈悲のこころ
すなわち・・
我執がなくなれば慈悲のこころが現れる・・
当然だよな^^ つまり・・
「無分別の智により、分別・煩悩が止滅される時・・
慈悲のこころが現れる」・・
それは・・
仏性と言われるものかもしれないな^^ 86.
我執がなくなれば慈悲の心が現われる、か。
そんなことはない。 今日のありがたいお言葉^^
「人間が「煩悩」( 雨や露 ) を生じさせなければ
苦悩(発芽)は起こらない^^」 又云く、(浄土論に)「正道の大慈悲は出世の善根より生ず」とのたまえり。
この二句は「荘厳性功徳成就」と名づく。乃至。性はこれ本の義なり。
言うこころはこれ浄土は、法性に随順して、法本に乖かず、事、
『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ。
また言うこころは、積習して性を成ず。法蔵菩薩を指す。諸の波羅蜜を集めて、
積習して成ぜるところなり。また性と言うは、これ聖種性なり。 「正道の大慈悲は出世の善根より生ず」
ふむふむ^^ ゆえに・・
慈悲のこころが現れないならば・・
すなわち仏性が現れないならば・・
まだまだ「修行がたりん」と・・
こうなる^^ そこが悟ったかそうでないかの・・
判断基準になるかもしれん^^ 法蔵菩薩の悟った平等性智(無分別智)、「(八地以上の位たる真如)平等の法身」の
悟りだということです う〜〜ん
なんかしらんけど・・
法蔵菩薩が夢にでてきた^^
法蔵菩薩ちゃ〜〜〜〜〜ん^^
いっしょにあそぼ^^ これは無心であり、無所得[ 対象を見ない・主観と対象との分別が無い ] である。それはま
た、出世間智である。転依である。二種[ 所知障と煩悩障との二種の仏道の障害 ] の祖重
[ 煩悩の種子 ] を断じたが故に ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています