そして、
私がどうして原始経典でなければ仏教だといえなのか?
これを学ばない限り仏教の説く境地に至ることが難しいことになってしまうとするのかは、
ゴータマが雑阿含応説経においてハッキリと、
三十七菩提分法を修行しない限りはどんなに望んだりお願いしようとも決して成仏できないと明言しているからです。
この法は原始経典のみに説かれているものであり、
大乗徒らというのは原始経典を小乗扱いしてきているのでこの法を修得しません
だから、私はいうのです(あなたが指摘するようなインド仏教史上の大小混在の時期については割愛)。
果たして、大乗が説く実践法である六波羅蜜(或いは十波羅蜜)というのは、
ゴータマ三十七菩提分法のどこまでをカバーできているでしょうかね???

 『比丘たちよ、だが、もし、比丘にして修習するに精進することがなかったならば、<わが心取著する
ところなくして、もろもろの煩悩より解脱してあれ>と望むといえども、その心は、取著するところなく、
もろもろの煩悩より解脱してあることはできないであろう。
 それは何故であろうか。それは修習しないからであるといわねばならない。では、なにを修習しないの
であるか。四つの熱心なる観想(四念処)を修習せず、四つの正しき精進(四正勤)を修習せず、四つの
意志力の修練(四如意足)を修習せず、五つの能力の修練(五根)を修習せず、五つの能力の実現(五
力)を修習せず、七つの観察(七覚支)を修習せず、また、八つの正しい実践(八正道)を修習しないか
らである。』(雑阿含経10.8応説/相応部経典22.101手斧の柄)