▼▼▼仏教は不幸な死にかたした人は前世が悪いと言うらしい▼▼▼ [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
前世があるなんことも証明できないのに。
宗派によっては、そんなこと言わないと
言う人もいるが釈迦が、そう言ったと主張する人
もいる。だとすると救いようがない。 宗教は奴隷術
前世の話は立証できないことに因縁をつけて罪悪感を利用し費用をかけずに奴隷化する手法だ
原罪も同じやり方 >>4
原罪は崇高と下劣を備えた人間の矛盾を説明するための方便 本当のことな上に前世を見るには非常に高度な瞑想が
必要になるからね、誰でも出来るわけじゃない。
というより、一握りの中の一握りぐらいだよ
だから一般人でも仏教徒でもまず前世なんて見られないし、あーだ
こーだ前世が悪いと言っても、実際に確かめてないのは
明白なんだから、カリカリすることもない 確かめるも何も釈迦と言う人が
不幸な死にかたした人は前世が
悪いと言ってるんじゃないの? 阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課
二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪 >>20
すると釈迦も言わなかったの?
そういう資料と言うか根拠が
あるらしいんだけど 日本の仏教詐欺はネット時代になり、民衆に明かになってきている。
誰でもネットで釈尊の尊い教えを学べる時代なので。
寺は消えていく運命だ。
今までのように搾取はできない。 >>21 一を聞いて十を知る
のみと言えばつち
打てば響く 少なくとも何の落ち度も無く
死んだ人を前世が悪いなんて
言う教えが尊い教えなんて思えない 要するに、こういうことだ。
人は病気や事故、天災など理不尽な不幸な出来事に直面すると、「何で自分だけが?」
「何も悪い事してないのに」とその原因を何かのせいにしたがる。
それで他人のせいにしようにも、ただ運が悪くそうなっただけなんだが、そういう
人もいなけりゃ、自分自身のせいにでもして、自分の罪でこうなったと納得するしか
ない。そう、なぐさめってこったよ。 >>25
本人が、自分が前世で悪いことをしたと思いたい
人がいるんなら勝手にしたらいいだけのこと。
みんなが同じじゃないよ。
あと自分が言ってるのは落ち度も無く死んだ
人たちのことだけど?自分の意思と関係なく
前世が悪いことにされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC
文献学的には、大乗仏教の仏典のみならず
パーリ経典の大部分も釈迦の死後数百年にわたり編纂されたものであることが明らかとなっている
最古の経典も釈迦の死後100年以内の編纂とみなされているため
近代の文献学上は
原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない
それでも↓とりあえず
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF
スッタニパータ
第4章と第5章のそれぞれに大義釈と小義釈が存在することから
この部分がもっとも古く、元は独立した経典だったと考えられている
これは↓スッタニパータではないけど、とりあえず
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4333017777/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=recent
雑阿含経 仙尼経
釈尊の教えを聴いても、その本当の意味を理解せず、煩悩の我執(慢)を起こして、悟りをひらくことが出来ない
この煩悩の我執があるために、死んだときに、この陰、つまり現世の五陰(五蘊のこと)が消滅しても新たな陰が生じてその存在を受け継ぐ(相続する)のである
それだから、釈尊はそういう弟子に対し
仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中で
因と縁の双方の縁起に依存して現れ滅して変化している世界の中で
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して、そして
「 死んで身心が消滅しても、この者は彼の所に、こういう者となって生まれてゆく 」 と説くのである >>1だけど
自分がもっとも興味あるのは釈迦が
何ら落ち度のない死にかたをした場合
前世が悪いと、とらえられることを
言ってると言う話だよね。そういう
資料、根拠があると言うことでしょ?
そして、それが仏教の世界で事実と
して認められてるのかどうか >>29
全ては生き方、今が大切です
仏教は哲学です
人がより幸せに生きていけるための知恵です
もし徹底的に知りたいのであれば出家するか、お寺を回って教えて頂けばいいのでは?資料もありますよ
釈迦が最後にあらわされたものが法華経で、最も教えが深いです >>27
全てを見通す力があるとされた釈迦が自分の説法を書き記して後世に残せと指示してなかった時点でお察しだよな 幸福の科学、最大の特徴は、ズバリ・・・・
http://ameblo.jp/an9ue2nfb/entry-12215136698.html
幸福の科学、最大の特徴は、ズバリ、
「金」への妄執
ですね、ハイ。
関係者なら、万人が納得する筈です。
とにかく、金、金、金、金。
「きっと、今年は大変な年なんだろう」
それくらいに考えていたら、何のことはない。
毎年、毎年、金、金、金。
ノルマ、ノルマ、ノルマ、
数字、数字、数字。
当然、信者たちは次々とリタイア。
それでも尚、金、ノルマ、数字。
そして、選挙、映画などの奴隷労働。
ハッキリ言って、地獄です。
これが、幸福の科学の正体です。
そして、昨今、白日の下に晒された
タレント買収資金流用の選挙違反。
ORの度重なる性犯罪。
幸福の科学が邪教であり、カルト教団であり、
教祖が偽仏陀であることは、明々白々です。
っていうか、「犯罪集団」であることが確定した、
ということですねww
それでもあなたは
この邪教を信じるのですか?
それでもあなたは
偽仏陀を信じるのですか? 以前は、仏教はイスラムやキリスト教
よりマシだと思ってたけど、こんな教えが
あったと知って怒りがこみ上げた 自分は悪いことしてないのに不幸な人生を送っているという人はおそらく前世での悪行の報いを受けているのだろう >>41
そして、不幸な死にかたした人もね。
こんな教えを信じる人間だけには
なりたくない。 証拠も無く人を泥棒呼ばわりしては
いけません。こんなの幼稚園以下の道徳。 あなたが不幸なのは、前世の行いが悪かったからではなく。
日頃の行いが悪いからです。 >>44
自分のこと言ってるのかな?
全然不幸じゃないよ。何故
不幸と思うの? あるいは仏教に都合の悪い書き込みが
日頃の悪い行いとでも言うのかな?
少なくとも自分は嘘をついてるつもりはない。 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1478252691/l50
吽鈷菩薩様、みんな待ってます。
花は ただ咲く ただひたすらに
ただになれない 人間のわたし
〜みつを〜
貴方が教えてくれました。
バイクの思い出の曲とか、他の曲も好きです。待ってるんで! >>46
都合が悪くなるとこんなのも出て来るの?
キリスト教の最大の失敗は輪廻転生を
認めなかったことだとか言った仏教関係者が
いたけど?どこの仏教宗派ですか?
とりあえず聞いとく ブッダは人間に生まれてくるのは凄く幸運なことだと言ってる
最も不幸な死に方は悟れずに死ぬことだよ
悟れずに死ねば輪廻地獄を繰り返す
善行を行うことや悟れるのは人間だけみたいだからね 悟れずに死ぬことを不幸にしてしまったら
ほとんどの人が不幸になってしまうな
間違えました。すみません 悪業をしたものは悪業が返ってくる。
これをカルマの法則と言います。 初詣は不動関係の神社、仏閣は絶対行ってはいけません!こいつは嫉妬とひがみ
でできているので、みんなつぶしあい、引きづり落としあいになりダメにされます。
からかわれてバカにされるめにひどくあいます。
わかりやすく言うとオーム真理教と同じです。いくなら月読関係の神社などにしましょう。
過去生に罪がなくてもあったことにされます。 昔、学校でキリスト教やイスラム教と並んで
仏教は世界三大宗教の一つと習った記憶があるけど
今も、そうなの?信者数じゃ世界三番目じゃないよね?
仏教がこれから伸びるとは思えない。 伸びないでしょうね。
本当の教えは皆が嫌いなことばかりですし。 >>1
如来や菩薩は宿命通や天目通という神通力を具えるので前世を知ることが出来る。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%A5%9E%E9%80%9A
阿含経という古い経典によると、目連という仏弟子は神通力で自分の宿業(前世からのカルマ)があまりに重く不幸な死を避けられないと悟ったという。 だから前世があるなんてこと証明できるのかな?
まさか、神通力か? >>64
うん、経典にはブッダや目連など仏弟子の神通力の話しがけっこう載ってるよ。
有名なところだと、ブッダが神通力でカッサパ三兄弟やアングリマーラを帰依させたり、ダイバダッタから命をねらわれていたのを未然に防いだり。 仏教が不幸な死にかたした人は前世が悪いと言う根拠だが、
その阿含経が元なのかな?それとも他に釈迦がそのようなこと
言ったと言える経典のようなものがあるのかな?
良かったら教えてくれ >>66
増一阿含経瑠璃王経
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/RuriouKyou/RuriouKyou.htm
一番最後の
「釈迦族、流離王、好苦梵志と仏との因縁」
釈迦族が瑠璃王によって滅亡させられたのは過去世の因縁(宿業)によると世尊が比丘に説いている。
ダンマパダの注釈書にもこれとほとんどと同じ話しがあり、最後は釈迦族の宿業で終わってるのも一緒。 つまり、釈迦族の前世が悪いから
滅亡したと釈迦が言ってるわけね。 経典に○○と書いてあるとか、
仏典に△△と記しているとか、
空しいとは思わないのかな。
記載してあったら、真実か?
過去、現世の行いを反省、これからの行いを良くなるよう努力するのが、儒教、仏教
天国に行くまで悪行を行ってもいいと思っているのが、法華経系仏教やクリスチャン、
ムスリムの過激派 >>72
>天国に行くまで悪行を行ってもいいと思っているのが、法華経系仏教やクリスチャン、
法華経では幾多の輪廻のあいだ菩薩行をしていれば輪廻の最終段階で仏になれ仏国土の主人となれる、それまで衆生を仏道に導きなさいという教え。
キリスト教でも清く正しく美しく生きないと天国へは行けない。 あるかどうかもわからない前世を持ち出し
死者を冒涜するのが仏教。 『沙門果経』(しゃもんかきょう、巴: Sāmañña-phala Sutta, サーマンニャパラ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵長部の中に収録されている第2経。
漢訳経典では、大蔵経阿含部の『長阿含経』(大正蔵1)巻17の27経目「沙門果経」、および『寂志果経』(大正蔵22)があり、
『増一阿含経』(大正蔵125)巻39にも、その一部に当たる異本がある。[1]
文字通り、仏教における沙門(出家修行者)の修行の果報を釈迦が説く内容となっている。
戒律(具足戒・波羅提木叉)を守ることによる果報、止行による果報、観行による果報(六神通)が、順を追って説かれ、
また、冒頭部ではいわゆる六師外道の思想と仏教との思想比較も盛り込まれるなど、
初期仏教のあり方を総合的に説明するとても貴重かつ代表的な経典となっている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E9%96%80%E6%9E%9C%E7%B5%8C
この経典では、釈迦がマガダ国王阿闍世に出家修行者の果報として六神通を得られると説いたことがはっきりと書かれてある。
六神通には天瞑通とか宿命通とか、前世を知ったりカルマを知ったりすることができる力もある。 六神通だか神通力だか知らんが
そんなことでごまかしても前世が
あるなんて根拠にならない。根拠も
ないことで死者を冒涜するのが仏教。 スッタニパータ
140「 ヴェーダ読誦者の家に生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行っているのが見られる。 」
141「 そうすれば、現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる。(身分の高い)生れも、かれらが悪いところに生まれまた非難されるのを防ぐことはできない。」
142「 生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのでもない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。」
俺らも悪い行為を行えば来世において悪いところ(地獄界、畜生界、餓鬼界)に生まれ非難されるのである。
どんな高貴な身分、金持ちの家に生まれようと、行為によって非難され、転生先も決まる。 結局、どんな理屈よりも一番説得力があるものは、「現証」だよ。
実践してみて、現実に願いが叶えば、これ以上に説得力あるものは無い!
しかも、100人が100人例外なく幸福になれるとしたら、もう疑いようが無い。
インチキ宗教というものは、叶わなかった理由を巧妙に誤魔化す宗教のことを指す。
あるいは、現世利益は不純として、誤魔化そうとする。
あるいは、実証不可能な領域で人を納得させようとする。※神の国、極楽浄土等々
だから、「パスカルの賭け」のような論理思考で「信じないより、信じたほうが利益は大きい」という考えも出てくるわけだ。 万人が万人、必ず幸福になれると断言できる宗教は創価学会以外に無いだろう。
これをもって日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」仏法こそ、自他共に幸福になれる、
また社会の繁栄と世界の平和を実現しゆく、世界最高峰の人間哲学であり宗教なのです。 南無妙法蓮華経は
キリスト教の
レビ福音書だからな (問) 戦争とか事故、疫病などで何万人もの人間が死亡した場合も、それは業だったと考えるべきでしょうか。もって生まれた寿命よりも早く死ぬことはないのでしょうか。戦争が避けられないのであれば、それは国家的な業ということになるのでしょうか。
(答)業というのは因果律のことです。善因善果、悪因悪果というのも大自然の因果律の一部です。何人といえどもその働きには介入を許されません。これは神の公正の証として、神が用意した手段の一つです。
因果律というのは「行為者にそれ相当の報酬を与える」という趣旨であり、多すぎることも少なすぎることもないように配慮されています。それは当然、個人だけでなく、個人の集まりである国家についても当てはまります。
次に寿命についてですが、寿命は魂そのものが決定するものです。しかし個人には自由意志があり、またさまざまな事情によって寿命を伸び縮みさせることも不可能ではありません。 インディアンのほとんどを
虐殺した
アフリカの黒人を奴隷として、拉致しアメリカへ送った
クリスチャンとはそういうものだ (質問)
仏教の因果の道理では、善も悪も自分に現れる運命は、
全て過去の自分の種まき(業)の結果であると聞きました。
それならば例えば、無免許少年の運転する車が、
登校中の児童の列を襲い、
10人が死傷するような事件があれば、
これも仏法では、本人の過去世の業の結果と
片付けられるのでしょうか。
このような交通事故や通り魔、無差別殺人などで、
子供の命が失われているのを見ると、
かわいそうでなりません。
それではあまりにムゴイのではないでしょうか。
(答え)
http://minneko.blog.so-net.ne.jp/2014-02-18-5 そんなのクリスチャンもISも
やってる
この議論は無意味 まあ、まことの悟り話は、仏教とキリスト教が
混同してるからなあww そういえば、まことは、仏教とキリスト教の悟りは
同じと言ってたっけ! >>66
パーリ中部の小業分別経(Culakammavibhanga-sutta)というお経では、次のようにあります。
『世尊はつぎのように言われた。
「青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は殺生者となります。
残忍で、手を血に染め、殺戮に耽り、生き物に対する思いやりがありません。
このように遂行し、このように引き受けたその業によって、
かれは身体が滅ぶと、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。
もしも身体が滅び、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわらず、人間の状態を得るならば、
どこに再生しようとも短命の者になります。
青年バラモンよ、これが短命に導く実践、すなわち殺生者となり、
残忍で、手を血に染め、殺戮に耽り、生き物に対する思いやりがないこと、です。』 >>92
キリスト教は輪廻転生を認めない。
だから前世は無い。死者の幽霊も
悪魔の仕業とする。 ヨハネ9:1−41
1イエスが道をとおっておられるとき,生れつきの盲人を見られた。
2弟子たちはイエスに尋ねて言った,「先生,この人が生れつき盲人なのは,だれが罪を犯したためですか。本人ですか,それともその両親ですか。」
3イエスは答えられた,「本人が罪を犯したのでもなく,また,その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが,彼の上に現れるためである。
4わたしたちは,わたしをつかわされたかたのわざを,昼の間にしなければならない。夜が来る。すると,だれも働けなくなる。
5わたしは,この世にいる間は,世の光である。」
6イエスはそう言って,地につばきをし,そのつばきで,どろをつくり,そのどろを盲人の目に塗って言われた,
7「シロアム(つかわされた者,の意)の池に行って洗いなさい。」 そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって,帰って行った。
https://www.lds.org/bible-videos/videos/jesus-heals-a-man-born-blind?lang=jpn 教義に拘るって、ビクビクしながら生きてる人間、こころの自由のない人間ってことでもある
特にキリスト教系は自分が天国にいけるいけないみたいなことばっか考えているw
仏教系は悟りがどうだのばっか考えているw
言い換えると、現在の自分の否定が根本にある イエスや釈迦がそうだということではもちろんない
そいういうのを努力目標に生きている人がいるってこと
一方で努力目標にすることもなく、自然にそうなっている人もいる
無法時代と現代法治国家時代とでは響き方は違うだろうし、語り方も当然違うと思うんだよね 責任転嫁という言葉がキーワードになる
生きているうちからから責任転嫁してんだから、死んでから責任転嫁もするだろうなって思える
あと、人生の不幸を悪魔のせいにしたり、神の試練だという者がいる
自由にすればいいけど、究極の真実があるって思うことはただの幻想
究極の真実があるのではなく、視点によって違って見える世界があるだけだ 釈迦がこのことを指摘してたのかはわからんけどね
物理学の世界では、その領域まで理解が進んでいる
仏教でいうカルマだけど、その影響度を決めるのは自分の観念と柔軟性じゃないかっていうのが俺の結論
自分が選択してただけ そう思うようになったのは選択を変える努力をしたら、見えている世界も変わったから いう人は知らず。知る人はいわず。
よく喋るものは、何もわかってはいない。本当に分かったものは語らない。
(老子) >>100
知ったつもりになって死者を冒涜するのが仏教。 30代から50代までの人命救助の仕事をしてきた人たち
9人が亡くなってしまった。宗教が嫌いな自分だけど悔しい。
心ある人ならわかると思います。 お釈迦さまは基本的に、超インテリやから
出家者向けと在家向けの説法は全く違う
お前らも偏差値40未満の連中には難しいこと言うても無意味やと思うやろ
お釈迦さまも同じやがな
お釈迦さまの在家向けの説法は
「良いことをして悪いことをするな。そしたら極楽往生できるで」
出家者向けの説法は
「神もあの世も善も悪もない」 お釈迦さまの説法は応病与薬
そのひとのレベルにあわせたお話が基本
>>102
みたいな知能レベルのやつには、やさしいお釈迦さまは
「善行を積んだ彼らは極楽往生できるでしょう」と方便をおっしゃって下さる >>102
思いがけない死に方であるが、職に殉じた人たちであります。
人は皆、全員が思いがけない死に方をするのかも知れないのです。
活きている間に何をしたか、しなかったが次の生存の行方を決める
とお釈迦様は仰るのです。遭難とはいえ良いことをしつつ死んだ殉職です。 個人的な意見だけど
一般人が考えてるレベルの不運とか、不幸とか、神様が決めているわけでも、カルマとやらでもないと思うね
自分が選択してる 現代用語でいうなら観念とでもいうのかな
もちろん仮説だけど、これが正しいとしたら「観念」を変えることで体験する世界が変化するはずだということになる
その観念の部分がもしかしたらカルマなのかもしれんが、気づいて変えてやればいい
おれはそうやって変わったから、そういう仕組みがあるんだろうなって思うだけ
これを簡単にいうなら「自分を変えると周りが変わる」ってことなんだと思う
理性は使えるね 一番簡単な使い方があるので書いておく
すべて自力でやらないことかな 具体的にいうなら、神にというか宇宙にというか、疑問文を投げかける
答えはあらゆるかたちでやってくる 魂という考え方を出させてもらうが、いつも考えている比喩がある
魂はエネルギーのレベルで自分の人生を見ているのではないのか?ってこと
必要な栄養素を取れればいいのであって、その栄養素をどのように摂取するかは完全に生きている人間の選択に
任せてるってね
おいしい料理で摂取するのか、くそまずい料理で摂取させられることになるのかは、個人の選択になる
よって、「特定の形で」現実を選択する必要はないはずだ
たとえばだが、何かを学ぶために、カルマのために、必ずしもガンになる必要などないということ
宇宙に投げかける疑問文はこうなる
「自分は、ガンになる必要があるのか?ガンにならなきゃ学べないのか?」
ガンを治してくださいだの、治ってほしいだのという祈りは「自分の観念」になんの影響もないから
愛の存在がいたとしても何もしないで見守るしかないだろう 根拠もなく死者を冒涜するような心ない
教えを自分は否定するだけの話。
○○様が言ったとか○○に書いてある
とかは、何の根拠にもならない。
あと、このスレの内容を見て少しでも
考えてくれる人がいたらいいと思う。
特に、書き込みとか無くてもね。 >>107
魂なんか信じてたらあかんがな
永遠不滅のものは存在しない
全ての物はうつろいく
諸行無常やから、永遠不滅のアートマン(自己)というのも幻や >>103
Sn
1121 師(ブッダ)は答えた、
「ビンギヤよ。物質的な形態があるが故に、人々が害われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は(病などに)悩まされる。
ビンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態にもどらないようにせよ。」
1122 「四方と四維と上と下と、これらの十方の世界において、あなたに見られず聞かれず考えられずまた識られないものもありません。
どうか理法を説いてください。それをわたくしは知りたいのです、──どうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることを。」
1123 師は答えた、
「ビンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、
それ故に、ビンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」
>>109
Sn
1086 (ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。 かつての真人はかかとでゆったりと呼吸していたが、今の世俗の人間は浅はかな議論にうつつをぬかして、
あえぐようにのどで呼吸している。
(荘子) >>103
そういうのを二枚舌といい二枚舌は不妄語戒に反する。
本当にお釈迦様が在家と出家者で説法を違えてたら
お釈迦様は不妄語戒を破っていた破戒者であったということになる。 >>112
「早いこと寝な、オバケが出るで」
と子どもに言うお母ちゃんも不妄語戒に反するか?
しょーもない
在家向けの説法なんかそんなもんやろ
高卒・Fランに難しい説法しても意味ないやん >>114
ちご!
修行僧コーカーリカはサーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、
死んでから紅蓮地獄に生まれたことを尊師ブッタは諸々の修行僧に説かれた。
ここでいう修行僧とは出家した仏弟子のことやで。
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52241370.html 他スレでも書いたけど善行を積んだ人が不幸な死にかたをした場合、
前世が悪かったということにはせず来世に埋め合わせがあるとしたほうが
どんなに良かったか。善行を積んだ人に対し、わかるわけもない
前世を悪人だったなどと言うのは普通に考えても、かなり失礼な話。
そして、これは当然前世と言うものがあったらの話。 ダンマパダ 第9 悪の章 126
ある者らは母胎に生まれ
悪業の者らは地獄に堕ちる
善業の者らは天界に行き
無漏の者らは涅槃にいたる
(片山一良先生 訳) 根拠もなく平気で死者を冒涜しておいて
他に綺麗事を言ったところで 悠々たり悠々たり はなはだ悠々たり 仏典ならびに他の経典 千万の巻あり
洋々たり洋々たり はなはだ洋々たり 道をいい道を教える道 百種の道あり
書絶え 言説絶えれば 根本をどうやって知るべし 知らじ知らじ 誰ひとりとして知らじ
思い思い思い思うとも 聖人も知ることなけん 神農 薬草を与え病者を哀れみ
周公 迷える者に方角を示して民を哀れむ しかし あらゆる世界の狂人たちは 狂っていることを知らず
文明人、野蛮人、学人、平凡人の盲者は 盲なることをさとらず 生まれ生まれ生まれ生まれて 生の始めに暗く
死に死に死に死んで 死の終りに暗し 眼を病む人が空中に花を見たりする
そのように、世の常の人々は、自分の体を本物の自我であると思いあやまり
それにとらわれ、本心を失い、かたくなに執着する 渇きをおぼえる馬が かげろうを水と思いあやまるように
迷える者どもは 感覚の世界を追い求め、人をそしり教えをそしって、
それが目覚めた境地になる可能性を 焼き滅ぼすことをかえりみない いたずらに酒色や言い争いに夢中となり
あとでどのような報いを受けるか ということを知っていない 迷いの世界において 生死をくりかえし
生けとし生きるものの世界に さまよう 慈しみ深い偉大な仏は これをみて、どうして黙っておられよう
このゆえに、いろいろな教えをもうけて、さまざまな迷いを指摘されるのも
その本心は ほかならぬここにあるのである 根拠もなく平気で死者を冒涜する教えがある以上
自分が寺に賽銭を投げ入れることはない。 お釈迦さまはおっしゃった
全て我が物というのは幻にすぎない
財産も子どもも身体も
また意識すら我が物と思うのは幻
したがって生まれ変わりを繰り返す永遠不滅の我(アートマン)も存在しない >>131
それも対機説法であって実際に釈迦がどう考えていたのかは不明だから… 舎利弗の自殺が是認されたのは彼が解脱した如来だったから生まれ変わることがないため。
仏教では舎利弗に限らず如来の自殺は認められる。
修行が完成してない比丘は途中で自殺すると来世においてどの世界に生まれるのか分からない、かつ天界はもちろん人間界に生まれ変わる可能性も低く、
地獄界や畜生界や餓鬼界に生まれれば再び人間の母胎に生を得るまで相当の時間が掛かるので、
自殺してはいけないとされた。
当時のインドでは六道輪廻ではなく、六道から修羅界を除いた五道を輪廻し、仏教では修行完成者は滅後輪廻することなく涅槃に行くとされた。 >>131
お釈迦さまは五蘊の一つ一つについて無常で苦で無我であるから我がアートマンではない
正覚を得た如来の滅後については無記
としただけでアートマン自体についてはあるともないとも言ってない 例え前世に悪い行いをしても今生に功徳を積めば帳消しどころか来世は天界に生まれるよ >>135
ごまかしたつもり?w
根拠もなく平気で死者を冒涜する教えを問題にしてる。
そして、寺に賽銭投げ入れてるほとんどの人がこの
仏教の教えを知らない。知人で身延山久遠寺に
友人たちと行く女性を知ってる。考えすぎかもしれないが
霊友会か立正佼成会の疑いがある。それらの教えが
どの程度なのか知らないが彼女は「ホントなの?」と
言って信じてない感じだった。まぁ、自分が
騙されてるのかもしれないけどねw日本人の
七割が無宗教で良かったと思ってる。 >>136
あなたの方こそ、
仏教(ブッダの教え)をどれだけ理解してから物事をいってるのか?
あなたの発言はブッダを「冒涜」するものです。
失礼、極まりなし。
『冒瀆、冒涜(ぼうとく)は、崇高なものや神聖なもの、または大切なものを、貶める行為、または発言をいう。』
(冒涜とは - 難読語辞典 Weblio辞書) 『冒瀆、冒涜(ぼうとく)は、崇高なものや神聖なもの、または大切なものを、貶める行為、または発言をいう。』
(冒涜とは - 難読語辞典 Weblio辞書)
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
2ちゃんねる宗教板はこれしか出来ないもののあつまりですから。冒涜板です 人間の考える意味だの目標だのは、プロセスでしかない
魂は、人間の自分が貧乏だろうが、金持ちだろうが、全く意にかえさない
「どちらでもいいからだ そして完全に個人の好みという選択でしかないからだ」
つまり、ほとんどの人の人生は成功に終わる
ここで一言、補足しておきたい
成功ということは天国にいくんですねと解釈する輩がいる
いやいやw オレも含めてみんな地獄だよw
地獄に行かないように我々は生まれてきたのではない
生きるとは、泥んこ遊びをするということ 生まれてきたのに服も汚さずにいたとしたら本来の目的も達成されない
想定内なんだよ 自分の内面が外の世界を作っているという理解があれば抜け出すには充分だ
汚れた衣服を脱ぎ捨てればいいだけのこと
この衣服のことを執着の呼んだ者がいた 宗教を信じ続けるのは大変。途中からあまり熱心ではなくなった。今地獄の日々。そういう運だったのだと思う。 141.
人間には仏性があるか。
犬には仏性がない。
同じく人間にも仏性がない。
天台教学は誤りである。 自分ではそのときそのとき一生懸命生きてきたつもり。 親は50年以上ある宗教を信じている。人それぞれ。夫は来世は無いという。私の今世は初め良さそうで、今崖っぷち。 釈尊が伝道活動を開始されてまもないころ、一人の村長がやって来て釈尊に問うた。
「バラモンたちが言うには、彼らが御祈祷を行えば死者は天界に生まれ変わるという。
ところで、おまえさんがやっているのもそれと同じような御祈祷なのかい」
しかし、釈尊はその質問に直接答えることなく、逆に村長に対して質問を発せられた。
「その質問に答える前に、村長よ、私の方から尋ねたい。ここに大きな石があってこれを池に投げ込む。
すると石は沈むであろう。その後で大勢のバラモンが池の周りに集まり、『石よ浮かべ、石よ浮かべ』
と御祈祷をやる。そうすると石は浮かぶであろうか…」
「いいや、石は浮かばないよ」
「では村長よ、ここにかめに入れた油があり、それをかめごと池に投げ込んだとする。
かめが壊れて油が浮かんできた時にバラモンたちが集まり、その浮かんできた油に向かって
『油よ沈め、油よ沈め』と御祈祷したとする。するとその油は沈むだろうか」
「いや、油は沈まないさ」
「それと同じことなんだよ。村長よ、石は沈み、油は浮く、それが法則なのだ。
生前に善行を積んだ者は天界に生まれ、悪事の限りを尽くした者は地獄に落ちる。
それは法則なのであり、決して御祈祷のおかげによるものではないのだよ…」
村長は何度も大きくうなずいた。 147.
天界に生まれ、地獄に落ちる、か。
そんな法則はない。
それは迷信である。
それは宗教の問題ではない。
それは迷信の問題である。 【ミリンダ王の問い 第一篇 第四章 第三節】
王は問う、
「尊者ナーガセーナよ、いかなる理由によって人々はすべて平等ではないのですか?
すなわち、ある人々は短命で、ある人々は長命です。またある人々は多病であり、ある人々は病が少ないです。
ある人々は醜怪ですが、ある人々は端麗です。ある人々は力弱く、ある人々は力が強い。
ある人々は財少なく、ある人々は財が多い。ある人々は卑賎の家に生まれ、ある人々は高貴の家に生まれます。
ある人々は愚かであり、ある人々は賢明です」
「大王よ、なぜ樹木はすべて平等ではないのですか?
<それらの果実についてみるに>、あるものは酸っぱく、あるものは塩からく、あるものはにがく、
あるものは渋く、あるものは甘いです」
「尊者よ、それは諸々の種子が異なっているからだ、と私は思います」
「大王よ、それと同様に<宿>業の異なることによって、人々はすべて平等ではないのです。
すなわち<その故に>ある人々は短命で、ある人々は長命です
(中略)大王よ、世尊はこのことをお説きになりました。
―『バラモン学生よ、生けるものどもは、それぞれ各自の業を所有し、業を相続するものであり、
業を母胎とし、業をよりどころとしている。業は生けるものどもを、賤しいものと尊いものに差別する』と」
「もっともです、尊者ナーガセーナよ」 >>150
確かに過去世を見る神通力と因果関係が解る知慧が無い我々がどうこう言うのは失礼ですね。
ブッダはそれができたので判断できたようです。 ○○様が言った。○○経典に書いてある。
こんなのは根拠にも証拠にもならない。 死に方は、大きな問題ではない、本人の生き方が重要なのである。
生まれながらにして『人徳を多く持つ、持たない』個人はいる。
日本社会は全ての国民を平等に扱い不公平で無い法を施行する。
然しながら、人は皆、生まれながら個人差が在る、知能、体力、
容姿、家柄、家系、実に人生は差別的になっていると思う。
然しその様な、ハンディと言うならそのような要素を克服するのが
お釈迦の説いた道なのだろう。 前世の行いが悪いからみたいなのはヒンズー教じゃない
仏教だけじゃなく輪廻転生あるってとこは解脱しないと輪廻するわけだから
悪いからって言えば悪いわけだけど 前世自体、あるかどうかわからない。
仮にあったとして解脱したら生まれ変わらない
と言うのも勝手に、作った考え方だろ。
何の根拠にもならない。 それ言うんだったら仏陀でさえ死後の世界は語ってないし
そんなのないと俺も思う >>157
仏陀は如来(修行完成者)の滅後については無記
凡夫は輪廻転生で五道ないし六道のどこかに転生すると説いた、
あるいはもっと単純に生前良いことをすれば天界に、悪いことをすると地獄に生まれると説いた >>157
>>67に釈迦族が滅亡したのは前世が悪いから
とか書いてあるけど?これって釈迦(ブッダ)が
言ったんじゃないの?つまり、前世があって
死後の来世がないの? 「大般涅槃経(仏陀最後の旅)」によると、仏陀が八十歳で入滅した原因はチュンダの毒キノコではない。
アーナンダの過失によるものである。
>仏陀は霊樹の下で念じて、寿命の素因(いのちのもと、仏陀はすでにニルヴァーナに達しているが、
>過去の業の余力があり、それがこの世での生命を保つ素因となっている)を捨て去りましました。
中略
>さらに仏陀はつづけて、八つの集、八つの(「悟り」の)境地、八つの解脱について教えを説いたあと、
>以前の悪魔との対話の内容を話し、三ヶ月後にニルヴァーナに入ることをアーナンダに告げましました。
>アーナンダは、はじめて事態を理解し、「尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください」と懇請しましました。
>仏陀(ブッダ)は、修業完成者に懇請してはならないと答えましました。
>アーナンダが三度おなじ懇請をしたとき、仏陀はつぎのように答えましました。
>「アーナンンダよ、かつて私はラージャガハ(王舎城)においても、ギッジャクータ山(霊鷲山)においても、ヴェーサリーにおいても、
>「修業を完成した人(如来)は、四つの大きな霊力を修したので、もし望むなら寿命のある限りこの世にとどまるであろうし、
>あるいはそれよりも長くとどまることもできるだろう」とほのめかしたではないか。
>そのとき、お前はその意味が洞察できなくて、「尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください」と懇請しなかったではないか。
>もしお前が懇請していたなら、二度目までは退けたかもしれないが、三度懇請されたなら承認したであろう。
>これは、お前の罪です。
>お前の過失です。
http://buddha-osie.com/last_trip/trip08.html >死に方は、大きな問題ではない
化学爆弾で赤ん坊のうちに死ぬか、報復爆撃の誤爆で幼児のうちに死ぬか >>147
ゴータマの教えは対機説法。
それは祈祷の力が万能なものだと過信しているバラモンに対する戒めであって、
祭祀などの効力を全面否定したものではありません。
『究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、
その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。』(Sn.458)
『マーガよ。三種の条件を具えた完全な祀りを実行するそのような人は、施与を受けるにふさわしい人々を喜ばせる。
施しの求めに応ずる人が、このように正しく祀りを行うならば、梵天界に生まれる、と、わたくしは説く。』(Sn.509)
『火への供養は祭祀のうちで最上のものである。サーヴィトリー[讃歌]はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。
王は人間のうちでは最上の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。』(Sn.568) シャーリプトラと並ぶ釈迦の二大弟子のモッガラーナは、仏教をライバル視する他宗教に狙われてしまうのですが、
神通力に優れているモッガラーナが睨むと、敵は動けなくなり、逃げ帰ってしまったそうです。
しかし、その者達は諦めずに再び襲ってきました。
2度目も同じように退けた後、モッガラーナは考えます。
「ブッダの教えを守り、生き物を殺さず、恨まれない暮らしをしているのに、なぜ自分はこのように何度も襲いかかられるのだろう?」
そこで、神通力によって自分の過去世を見てみると、自分は過去で殺人をしていた事がわかったのです。
殺人によって生じる悪業は物凄く、その悪業によって、同じ苦しみを受ける運命になっている事がわかったそうです。
彼は過去世で自分がおこなった酷い行為を反省し、傷付けた相手と同じ苦しみを味わう運命を受け入れました。
3度目に襲われた時、彼は一切の抵抗をしなかったため、瀕死の重傷を負ってしまいます。
駆けつけた弟子達から、「どうして、神通力で身を守らなかったのか?」と聞かれると、
「これは私が過去世で生み出してしまった悪業の結果が返ってきたのです。
逃げずに受け入れなければ、この悪業はいつまでも消えません」と言って、安らかな表情で息を引き取ったそうです。 参考:
これが仏典というものであり、この教えを信奉するのが仏教です。
『人がもしも善または悪の行ないをなすならば、かれは自分のした一つ一つの業の相続者となる。
実に業は滅びないからである。』(ウダーナヴァルガ9-8)
『愚かな者は(悪い事を)しながら「この報いはわれには来ないであろう」と考える。
しかし、来世におもむいて、悪い行いをした人々の行き着くところを知る。』(同9-10)
『愚かな者は(悪い事を)しながら「この報いはわれには来ないであろう」と考える。
しかし、のちに報いを受けるときに、苦痛が起こる。』(同9-11)
『悪い事をしても、その業(カルマ)は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。
しかし、来世におもむいてから、悪い行ないをした人々の行きつく先を知るのである。
のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起る。』(同9-18)
『二軒の家の間に立っている人が、その家人たちが一方の家から出てもう一方の家に入ったり出
たりするのをありありと観察することができるように、私は生命の転生を知る天眼通によって、衆
生がカルマに牽かれて善い境遇や悪い境遇に転生することを、そして、それぞれの転生先で優劣美
醜の差を得ることを知っています。・・・・。
比丘たちよ、このことを私は、他の沙門やバラモンたちから聞いて語っているのではありません。
そうではなく、私が自分で知った、自分で見た、自分で体験した、そのことだけを私は語っている
のです。』(中部130) 『心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、けがれなく、やわらかで、たくみで、確立し
不動になったときに、多くの人々の死と生を知ることに心を向けた。すなわち、わたしは清浄で
超自然的な天眼によって、多くの人々が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑しい人と高
貴な人、美しい人と醜い人、幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれぞれの行為に従って
いるのを見た。
「じつにこれらの人々は身体で悪い行為をし、ことばで悪い行為をし、心で悪い行為をし、多く
の聖者を非難し、よこしまな見解をもち、よこしまな見解にもとづいて行為をする。かれらは身体
が壊れ死んだ後、悪い所、苦しい所、地獄に生まれる。また、他のこれらの人々は身体で善い
行為をし、ことばで善い行為をし、心で善い行為をし、多くの聖者を非難せず、正しい見解をもち、
正しい見解にもとづいて行為をする。かれらは身体が壊れ死んだ後、善い所、天界に生まれる」と。
わたしは、このように清浄で超自然的な天眼によって、多くの人々が死にまた生まれるのを見た。
すなわち、卑しい人と高貴な人、美しい人と醜い人、幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれ
ぞれの行為に従っているのを見た。バーラドゥヴァージャよ、これが夜の中間の部分において得ら
れた第二の明知である。
ここに無明が滅び明知が生じたのである。暗闇は消滅して光明が生じたのである。それはつと
め励み、努力している人に現れるのである。』(『マッジマ・ニカーヤ100/サンガーラヴァ経』) 神を信じないと地獄に行きますっていう一方的な他の宗教の方が酷い。
仏教は善行を行った方が今世も来世も幸せになりますよと解決方法も教えてくれてる。 しかし釈迦族は仏陀に帰依し五戒を忠実に守っていた。
モッガラーナに至っては八正道まで実践していたはずである。
それでも宿業には逆らえずに釈迦族は滅亡し、モッガラーナは殺された。
それでも釈迦族は来世は天界に生まれるだろうし、モッガラーナは無余涅槃に入るのだろう。
今生での善業、五戒遵守や八正道の実践のお陰で。 むみぃはモッツァレーラが食べたいんだ😠🧀
ゴルゴンゾーラでもいいんだ☺️🍅🧀 根拠もなく平気で死者を冒涜しておきながら
綺麗事を言ってごまかしたところで、もはや説得力無し。
空々しいと言うより滑稽ですらある。 >>171
あなたが今世で人間に生まれたのも前世での行いが良かったからですよ。
母体を必要とする人間に生まれるのは凄く難しく幸運なことみたいです。 人身受け難し、いますでに受く。
仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。 修証義 第一章 総序
人身(にんしん)得(う)ること難(かた)し仏法値(お)うこと希なり、
今我等宿善(しゅくぜん)の助くるに依りて、已(すで)に受け難き人身を受けたるのみに非(あら)ず、
遭い難き仏法に値(あ)い奉れり、
生死の中の善生(ぜんしょう)、最勝(さいしょう)の生なるべし
最勝の善身を徒(いたづら)にして 露命(ろめい)を無常(むじょう)の風に任(まか)すること勿(なか)れ。
□ 第二節 善生最勝のいのち
人間として生まれてくるということは、誠に不思議なことであり、極めて難値難遇なことなのです。まして、人間として仏の真実の教えと出会える縁は得難く希有なことなのです。
けれどもいま、我々は、自分では気づかなかった前世での善行の宿業の助けによりまして、尊いこの命をいただいただけでなく、あいがたい仏の教えという尊いご縁に出会うことができました。
それ故に、生まれては死ぬ存在の人間としての命というものは、最も善い生涯であり、何ものにも代え難い最も優れた命であります。
この善縁の命を虚しく過ごして、草の葉に宿る露のように儚い命を、いたずらに吹く無常の風に任せてしまってはならないのです。 過去世、現世、未来世の三世を貫く宿業を唯識では阿頼耶識と呼んだ。
解脱はこの阿頼耶識(宿業)の特に悪業を対治しなければならない。
対治は智慧によってなされる。
この智慧を宿している識を真諦三蔵という僧侶は阿摩羅識と名付けた。
阿頼耶識は無垢識であり、真如、如来蔵、仏性、真我に等しい。
無常の阿頼耶識とは違って阿摩羅識は常であり無為法であるとされる。 >>1
その運命が変えられなければ
前世を知らせる意味がないじゃん >>180
前世があるなんて証明できない。
百歩譲って、あったとしてわかるわけがない。
何か、同じことの繰返しだよな。
釈迦が言ったから事実だとかw >>181
前世の有無については科学的な調査が進んでいます。
すでに膨大なデータが蓄積しており、前世があるとしなければ説明のつかない事例が多々あり、
結論としては認めざる得ないのです。
「ある筈がない」などいうのはただの感情論に過ぎません。
ブッダの教えは真理であって事実です。
イアン・スティーヴンソン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3 今の科学はブッダに近寄ってきてますよね。
物質を構成している素粒子は人が意識することで物質化するみたいじゃないですか。人が死ぬ瞬間の意識が新たな身体を物質化して生まれるっていうのが輪廻転生だと私は思ってます。
そして、その意識を無くして生まれなくしてしまうのが解脱ではないでしょうか。 不幸な人に
「神のチカラの現れよ!あなた神に愛されてるのね!!」
とのたまうクリスチャンのが数億倍ヤベーだろ >>184
あなたのような見解は“因果の道理”を破壊するものです。
物事のすべてには必ず原因と結果がある。
悪因は悪果を生じ、善因には善果が生じます。
結果を見れば原因も見える。
自己に生じる悪果は自己に原因なくしては生じ得ない。
今生にない悪因は前世に拠る以外はない。
今生に起きない悪果は来世に拠る以外はない。
これらを認めない見解とは、すなわち道徳を破壊するものであり、
来世に自己の行為の報いを受けないとするのならば、
精々、生きている内に好きなだけ自分の欲望を満たすほうが得だという考え方へと行きつく。
その果ては、地獄のような恐ろしく荒れ果てた暴徒の地上と化す。
だから、仏教ではこのような見解を“邪見”という。
ゴータマ仏はいうのです。
『来世を信ぜざる人は悪事を行う』(Dhp.176)と。
>>165-166を繰り返し何度も読むことです。 修証義の現代語訳
曹洞宗では『修証義』というお経(仏説ではなく、道元の言葉なので正確には「論」というべきか)を読む。
和文ではあるが、鎌倉時代の言葉を明治時代に編纂したもので、ただ読んだだけでは意味は分からない。
でも般若心経や法華経、陀羅尼とは違って、呪文のよう唱えてもあまり意味がないと思い、現代語訳を試みた。
『修証義』は5章に分かれているが、第1章からいきなり、因果応報という難問を扱う。
仏教者は昔から、現世で苦しんでいるのは過去の悪業が原因であるという「悪しき業論」の過ちを繰り返してきた。
今回の震災で、石原都知事が天罰といったようなものである。
因果応報や自業自得とは、決して他人の不幸につけこむものではなく、
努力を続ければ必ず安楽の境地に至れるという修行の道筋を説き、
未来に向かって主体的に生きることを勧める教えである。
以上引用
続きの現代語訳はこちら(↓)
http://www.tgiw.info/weblog/2011/03/post_719.html でも
因果応報には三つあり、この世での行いの結果は、
この世ですぐ受けることも、あの世で受けることも、さらにその次の世で受けることもあります。
仏の生き方をしようと願うならば、この因果応報を自らに省みて実践するのでなければなりません。
そうしなければよこしまな考え方に陥ってしまいます。
そればかりでなく、安らぎを得られず悩み続けることにもなります。
(善悪の報に三時あり、
一者順現報受、二者順次生受、三者順後次受、これを三時という、
仏祖の道を修習するには、其最初より斯三時の業報の理を効い験らむるなり、
爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、
但邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。)
と書いてあるから「現世で苦しんでいるのは過去の悪業が原因である」ということを
間接的に説いているお経ともいえる。 根拠もなく平気で死者を冒涜する仏教だけど
例えば、善良な女性が騙されて殺されたとする。
仏教じゃ前世が悪いことになるんでしょ?すると
騙して殺した人間は、普通に考えたら悪人になる。
だが仏教では前世が悪い女性に仏教で言う業報を
与えたという見方も出来るんでしょ?酷い教えだよね。
この場合、騙して殺した悪人が報いを受け、騙されて
殺された女性は来世に埋め合わせがあるというならわかる。
同じこと何度も言わせるなって感じ。百歩譲って
前世があったらの話。 >>188
スラム街で辻説法して「オレらに言ってんのか?」って絡まれても考え貫ける? パーリ中部の小業分別経(Culakammavibhanga-sutta)というお経では、次のようにあります。
世尊はつぎのように言われた。
「青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は殺生者となります。
残忍で、手を血に染め、殺戮に耽り、生き物に対する思いやりがありません。
このように遂行し、このように引き受けたその業によって、かれは身体が滅ぶと、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。
もしも身体が滅び、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわらず、人間の状態を得るならば、どこに再生しようとも短命の者になります。
青年バラモンよ、これが短命に導く実践、すなわち殺生者となり、残忍で、手を血に染め、殺戮に耽り、生き物に対する思いやりがないこと、です。」 悪いこと考えるだけで、それも業になるからね。だから我々は凄く危険な生き方してるんですよ。人間に生まれたなら精進した方がいいです。 >>193
日本人てアウトオブカーストなんでしょ? >>190
>だが仏教では前世が悪い女性に仏教で言う業報を
>与えたという見方も出来るんでしょ?酷い教えだよね。
意識的にこちらから誰かに悪報を与えてやろうすることは決してできない。
そんなことは不可能であり、我々、凡夫のレベルでは人様の業報を見通すことはできない。
すべては自業自得であって、万物の人間は皆平等。
己れに原因無くして非業に合うことはない。
>この場合、騙して殺した悪人が報いを受け、騙されて
>殺された女性は来世に埋め合わせがあるというならわかる。
殺人行為は操られたものではなくて、すべて当人の責任です。
殺人犯罪者はその分の恐ろしい報いを必ず受けることになる。
それは誰のせいではありません。
自分に原因なくして殺されることはない。
その人は殺されることで、前世からの自分のなした悪業を清算したのです。
よって、来世はその分は帳消しになり、更に今生における善良な生き方の良き果報がある。
すべて自己の行為の結果として等しく作用している。 >>195
あなたこそ如来からの尊い教えを己れの未熟な無知から誹謗中傷などしていると、
死後に地獄へ堕ちることなるから辞めておきなさい!
わたしは、あなたのために警告しておく。後悔しても遅い。
『悪口を言いまた悪意を起こして聖者をそしる者は十万と三十六のニラッブダの〔巨大な年数のあいだ〕また五つの
アップダの〔巨大な年数のあいだ〕地獄に赴(おもむ)く。』(スッタニパータ660)
ブッダは、凡夫が信じ難く否定しがちなことはなるべく語らないことにしていました。
それは如来の教えを否定する者は地獄に堕ちてしまうので可哀想だからとも述べています。
『それはなぜかというと、如来の所説を信じないものは、愚痴の人であり、仏罰によって地獄に落ちてしまうので、
そうするとその者がかわいそうであるから、普段は説かないのである。』
(雑阿含経 好戦経) お経など文献をいくら漁っても、
所詮は、あんたの解釈に過ぎん。
泥団子をコネて毎日を送っている。
何時、無意味であることに目覚めるのだろうか。 犯罪被害や災害や不治の病とか本人に
何ら、落ち度の無い死にかたした人の
葬式で寺の坊主が経唱えてるの見たら
自分は見方も変わる。これからは特に
宗教と関係ない葬式とか墓地、あるいは
散骨とかも増えるといいと思う。 歎異抄 13
阿弥陀仏の本願のはたらきが不可思議であるからといって、自分の犯す悪を恐れないのは、
すなわち 「 本願ぼこり 」 であって、これもまた浄土に往生することができないということについて。
このことは、本願を疑うことであり、また、この世に
おける善も悪もすべて過去の世における行いによると
心得ていないことなのです。
善い心がおこるのも、過去の世の善い行いがそうさせるからです。
悪いことを考え、それをしてしまうのも、過去の世の
悪い行いがはたらきかけるからです。
今は亡き親鸞聖人は、
「 うさぎや羊の毛の先についた塵ほどの小さな罪であっても、過去の世における行いによらないものはないと知るべきである 」
と仰せになりました。
http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub11.htm#tannnisyou.11 >>183
物理学の多元宇宙論は大乗仏教の宇宙論に近づいているね。
三千大世界はそのまま自分らがいる宇宙だし、
三千大世界が無数に集まりそれぞれの三千大世界が仏国土という考えが多元宇宙論(平行宇宙)になる。
【悲報】物理学者、多元宇宙論(仏教における曼荼羅の世界)を唱え始める
http://world-fusigi.net/archives/8476839.html かなり昔からあった輪廻宇宙論が、最新科学において再び脚光を浴び始めています。
私も森羅万象は永遠的に繰り返しているという見解です。
【この世は膨張・収縮を繰り返し、輪廻転生している!
時間と宇宙の概念を覆す「ビッグバウンス」理論が超ヤバい
---------------------------------------------------------------------------------------
宇宙の始まりはビッグバンではなかったかもしれない。そんな研究結果が7月6日付の学術誌
『Physical Review Letters』に掲載され、にわかに注目を集めている。】
http://tocana.jp/2016/08/post_10582_entry.html "どこでもできる!オんラいンカじノ!!!
おかげさまで会員数1100人突破しました!
お客様情報不要!!即プレー可能!!!
★いンかジNINEで検索★
質問、アカウント発行はホームページからLINEで!!" >>187
「悪しき業論」の過ちを繰り返してきた?
つまり、曹洞宗は不幸な死にかたした人は
前世が悪いと言う教えを否定してるの? >>208
>善悪の報に三時あり、
>一者順現報受、二者順次生受、三者順後次受、これを三時という、
順現報受は現世での因果応報。
不幸な死に方をした者の因は現世にあることもある。 >>198
「根拠もなく平気で死者を冒涜するのが仏教」
がダメなら「仏教は不幸な死にかたした人を
前世が悪いと言う」なら、いいのかな?
少なくとも嘘は、ついてないと理解する。
因みに、仏罰が当たるなんて思ってないw >>187
元々、ゴータマは行為論者であって、運命決定論者ではありません。
生まれや様々な前世からの果報を受けるけれども、
それに対してどう対処して生きていくかは、すべて本人しだいです。
それによって、その後の未来は大きく変わっていく。
『「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」
ところで、何に生まれ変わるかを決定する原因が何であるかについては、ブッダ時代の一般社会において、さまざまに考えられていた。
臨終に際しての意志によるとの考え、あるいは神の意志によるとの考えもあったが、支配的な考えは、前世における業によるという考え
であった。2)
ブッダと同時代の自由思想家の中には、プーラナ・カッサパやアジタ・ケーサカンバリンのように、業の因果応報を積極的に否定した
ものもあった。彼らは善悪の行為が後に安楽と苦しみの果報をもたらすことはないと考えた。またマッカリ・ゴーサーラのように運命論
を説く人もいた。さらに、業の因果応報思想の中には、前世での行為(業)を宿命のようにみなす決定論的な考えもあった。現世での行
いは、善であれ、悪であれ、すべて前世の業によって規定されているというのである。この説によれば、意志の自発による行為は認めら
れない。
これらに対し、仏教やジャイナ教は、このような人間の行為の効力を認めない説を行為否定論(akiriyavaada, akriyaavaada)と呼び、
道徳を破壊する説として非難した。
仏教は、「世尊は業論者、行為論者、努力論者であった」(Anguttara Nikaaya I p.287)として、業思想を容認しつつ、行為・努力に生存
のあり方を変える効力を認める立場をとった。 3) 行為がその後に効力を残し、その後の生存を決定することを認め、しかも現在の行為は過去と無関係に行われるということは、一見矛
盾のように響く。この点について、後代の部派仏教では教理の整備が行われた。説一切有部では、次のように説かれる。
善悪の行為は因となる。結果として生ずるのは快か不快であるが、これらは善でも悪でもない。善悪の行為を因として、それとは異なる
善でも悪でもない結果が熟すから、これらは異熟といわれる。この善でも悪でもない結果が因となって、次の業(行為)を生ずることはな
い。過去の行為(異熟因)によって現在の苦楽(異熟果)は規定されても、現在の行為はそれによって規定されない。行為は行為者の意志
によって起こるのであって、過去の行為によって支配されないというのである。桜部建「有部」(『岩波講座東洋思想』第8巻)、p.214参照。』
(インド思想史略説) >>213
ならば、あなたは>>186で指摘したように、
「人間、死んだらそれですべてお終い。
だから生きている内に精々、自分の欲望の限りを満たすほうが得策だ」
という考え方を支持する人間だとみていいということなのかな?
つまり、それは地道で真面目に努力しても報われない人も多いのが現実だし、
たとえ悪行三昧でも死後/来世の報いもないのならば、結局、善悪などに拘ることなく、
自分にとって得であるか損であるかだけが自己の行為の基準ということになる。
それだと、此の世は極悪非道者の徘徊する地獄と化すと思われるが...。 >>216
>>116と>>190>>と191が自分だけど?
同じこと何度も言わせないでくれる。
あと、質問してるのはこっち。 昔の人が遊んだ、双六によく似てるのが人の生まれ変わりで、その
遊びは行きつ戻りつし都に到達する。そこで輪廻の有無に関し
納得するような答えは、各自がお釈迦様に面談でもしないと判るまい。
他人の人生は身に染むものじゃないですからね。
毎日欠かさずに瞑想を一時間(線香二本)を千日やりゃ会得するでしょう。
他人の意見で済むような事柄にあらずですよ、但し時間と暇が掛かるので
貧乏人には貧しいことが既に高い障壁となる、古来この関門を透過した人は、お金持ちの
子弟に限ったものです。
空海は讃岐の豪族の息子、イエスキリストは裕福な職人の息子、お釈迦様は
王子様、だったりする。
現在絞首刑待ちの浅原氏は、貧しいので金稼ぎに走った人で駄目でしたねぇ、
素質は認めますけど。
禅宗の師家、故山本玄峰師は、著作無門関提唱でこの件に関して誠に面白い
講話をされている、つまり誠の悟りには必ず己の前生を把握する云々とある。
興味のある方は一読されるのが宜しいでしょう。 >>217
業のことは複雑で簡単に前世の悪行の結果とは言えない。ブッダ自身も業のことは人間にはわからないから考えても無駄だと言っています。 >>217
あなたの質問には、
すでに解答を投稿済みと思われますが?
あなたもこちらの質問に返答してはどう??
>>219
確かにその通りです。
個人における個々の業報の内容については、到底、我々のような凡夫には計り知ることができない。
それができるのはゴータマ同様の一切智者であるブッダ/如来だけですから。
けれども、大まかな基本的な設定については分かっています。
それが、>>186>>197です。
そして、人間の三世に跨る転生の事実については、
そんなに遠くない日に科学的な事実としても認められるでしょう。
ヴァージニア大学のイアン・スティーヴンソン教授の研究が引き継がれ、
否定できないものとなると思う。
http://umarekawari.org/gakusha/index05.html
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/7-3.htm
http://karapaia.com/archives/52183980.html 結局、釈迦が言った。経典に書いてある。こんなのばかり。
根拠にも何にもならない。前世なんてあるかどうかも
わからない。仮に、あったとしてもわかるわけもない。
こんなので真面目に生きた人たちに対し前世が悪い?
こんな教えを信じるような人間にはなりたくない。
ホント、日本人の七割が無宗教で良かった。 仏教を利用した某新興カルト宗教は死者だけでなく他人を平然と冒涜するけどな >>221-222
>>220で紹介している科学的調査による否定できない事例についても読むように願う
(イアン・スティーヴンソン教授によって転生の事実と確認された事例は、すでに2300件を超える)。
また仏教においても経典の記述のみならず、
現実に現ダライラマ法王猊下14世が実際に前世の記憶を保持していたことが確認されている。
その事実の上に、ダライラマ14世は13世の転生者と認められたのです。
これは映画『Kundun』にもなった。
http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/reincarnation/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%B3
https://www.youtube.com/watch?v=cFm8oP9c9Hs >>221
あなたはただの唯物論者。
所詮、唯物論者には何を言ってもムダではある。 一人一人の死者の前世なんて、わかるわけがない。
いくら、くだらない説を持ち出してごまかしても
無責任に前世が悪いなんて言う根拠にならない。
そして、これは百歩譲って前世があったらの話。
根拠もなく平気で死者を冒涜するのが仏教 >>221
>ホント、日本人の七割が無宗教で良かった。
日本人の多くは確かに、
宗教についてはよく知らないし、分かっていない。
ただし正確には、それは特定の宗教に対する深い理解という意味なのであって、
それ自体が無神論者や唯物論者という意味ではない。
実際には、漠然とした信仰観として死後の世界を信じている割合が最も多い。
以下のように、NHKや朝日新聞社では定期的にアンケート調査を実施しているので、
それが国民の意識をよく示したものだといえる。
『その結果は次の通り。
「絶対にある」又は「たぶんあると思う」と回答した人の割合は44%。調査有効数の約半数だった。
ちなみに1998年にも同様の調査が行われたそうだが、その際「死後の世界」が「絶対にある」又は「たぶんあると思う」
と回答した人は全体の37%。10年経って、若干増加したことが見て取れる。』
http://blog.livedoor.jp/youchan1201-puchan/archives/39523291.html 『なお、「あの世」を「信じる」が「信じない」を上回るのは、2010年の朝日新聞社の全国世論調査でも同様の結果である。
「死後の世界」や「あの世」が「ある」は49%で「ない」(43%)を上回る[6]。死後も「霊魂が残る」かについては、
「残る」が46%で、「そう思わない」が42%だった。
「死んだ人の魂がどうなるか」については、スピリチュアル・ブームや「千の風になって」のブームの余韻が残る
2008年の読売新聞社による調査結果がある[7]。
・生まれ変わる ・・・29.8%
・別の世界に行く ・・・23.8%
・墓にいる ・・・9.9%
・消滅する ・・・17.6%
・その他 ・・・0.9%
・魂は存在しない ・・・9.0%
・答えない ・・・9.1%
この回答を見ても、やはり「死後も魂が残る」と考える人が多いことがうかがえる。「生まれ変わる」(29.8%)は、20歳、
30歳代では4割を超えた。スピリチュアル・ブームの影響なのか若年層で輪廻転生を信じる人が多い。「墓にいる」は9.9%
と少ないが、「盆や彼岸などにお墓参りする」人は78.3%と多く、「墓にいるから墓参りする」のではなく、魂の場所は意識
せずに習慣化した儀礼を行っている。』
http://www.circam.jp/reports/02/detail/id=5097 輪廻転生って一般的には良いように思われてるけど
本来はもう一度人間界で修行して来いってことだよね? >>229
はい。
ゴールに達するまでは、何度でも。
つまり、己れの身に覚えのない不条理で非業な出来事に突然、
出遭って、悲惨な体験をするというのが負の業報(過去世の報い)です。
我々、凡夫は皆そんな人生をこれまで何度も繰り返し体験してきているのです。
そのような「苦」の世界からいい加減に解脱しなさい、と説くのが仏教です。
ゴータマは見事にそれを達成し、その自らの経験に基いて成仏(解脱)する方法を示しました。
それが仏法であり、その生き方が仏道というものです。
>>202 :
>落ち度の無い死にかたした人の
>葬式で寺の坊主が経唱えてるの見たら
>自分は見方も変わる。
であるから、それはとても可哀想な出来事なのであって、
これは決して「お前は悪人だ。ザマミロ!!」というものではないのです。
正しい僧侶であれば、慈悲の心で以て
今度はもっと良い処へと生まれることができるようにと、
心から祈っています。 >>229
修行ができるのは人間界だけですね。
だから今がチャンスなんですよ。それをほとんどの人が自分が好きなことやって人生を終えてます。人間に生まれるのは相当難しいから次は何に生まれるかわかりません。心が次に生まれる次元を決めますので修行をして心を清めた方がいいですね。 >>1 安心するのじゃ
お釈迦さんは、そんなことは言っていないのじゃ >>227
そんなの>>136で書いてるよ。寺に賽銭投げる
人たちの、ほとんどがこの仏教の教えを知らないか
信じてない。こういう自分も>>1に書いてるように
宗派によって違うと言う人の話を信じてた。
その人の話だと密教系に多いような話だった。
いずれにしろ日本人の七割以上は、仏教の不幸な死にかた
した人たちは前世が悪いと言う教えは知らないか
信じてない。自分に言わせるならいいこと。
みんな仏教に関わらず葬式、墓地とかも寺離れ
が進めばいいと思ってる。 >>1
仏教の宗派で前世を否定する宗派などあるの? >>235
宗派に、よっては不幸な死にかたした人は
前世が悪いなんてこと言わないと言う人がいた。
つまり、仏教で前世を否定するところが
あるとは言ってないけど 【ミリンダ王の問い 第一篇 第四章 第三節】
王は問う、
「尊者ナーガセーナよ、いかなる理由によって人々はすべて平等ではないのですか?
すなわち、ある人々は短命で、ある人々は長命です。またある人々は多病であり、ある人々は病が少ないです。
ある人々は醜怪ですが、ある人々は端麗です。ある人々は力弱く、ある人々は力が強い。
ある人々は財少なく、ある人々は財が多い。ある人々は卑賎の家に生まれ、ある人々は高貴の家に生まれます。
ある人々は愚かであり、ある人々は賢明です」
「大王よ、なぜ樹木はすべて平等ではないのですか?
<それらの果実についてみるに>、あるものは酸っぱく、あるものは塩からく、あるものはにがく、
あるものは渋く、あるものは甘いです」
「尊者よ、それはもろもろの種子が異なっているからだ、と私は思います」
「大王よ、それと同様に<宿>業の異なることによって、人々はすべて平等ではないのです。
すなわち<その故に>ある人々は短命で、ある人々は長命です。
(中略)大王よ、世尊(釈迦)はこのことをお説きになりました。
―『バラモン学生よ、生けるものどもは、それぞれ各自の業を所有し、業を相続するものであり、
業を母胎とし、業をよりどころとしている。業は生けるものどもを、賤しいものと尊いものに差別する』と」
「もっともです、尊者ナーガセーナよ」 >>235
矛盾したこと言ってるよね
お坊さんは輪廻転生があるようですって言ってるけど、誰が死んでも解脱って言ってる。
説明書通りに言ってるんだろうけどさ。 そんなことは言っていないのじゃ
死んだら、仏になる、と、言っているのじゃ 余談だが、
法蓮のいちかは他より高い金とって依頼した結果はほとんどださない。しかもだいぶ前から病気で結果を出してもいないのに出したと言うきちがい妄想にやられ
勝手に言ってるだけ。要するに、タクシーで新宿にいってくれというやつを勝手に渋谷にいき正当化してごまかしてくるようなモン。
こんな所へ行ってはいけない。お金を病気の患者に恵んでるというよりはドブにすてるようなもん。苦情、弁償取る以外行くべきではない。
会社ぐるみでやってるサギはただのひとりよがりのキチガイなので、少なくとも完全ににそれらが直り用を成せるまでは関わらない方が無難。
山べ容疑者みたいなもん。依頼したことは結局1つもかなわない。 根拠もなく平気で死者を冒涜するのが仏教
仏教に死者の供養をする資格はない。 >>235-236
禅宗では、基本的に転生を信じていません。
仏典ですらも絶対的信奉対象としていません。 >>241
唯物論を正しさの基準にされても困るわ。
元々、仏教は唯物論ではないから。
>>234
>いずれにしろ日本人の七割以上は、仏教の不幸な死にかた
>した人たちは前世が悪いと言う教えは知らないか
>信じてない。
>>227-228で示したように、
日本人の最も多いのが、死後の世界があることを信じるというもの。
そして、日本人の1/3は死後にいずれ転生するものと思っている。
これが意識調査の結果です。
仏教の教えは基本は、「因果応報」と「自業自得」です。
だから、誰もがそのことを知ってる。
前世からの業報はその結果。
あなたが批判するのは勝手ですが、
嘘をついて事実を捻じ曲げることなく物事を正しくみてからいうように。 文面読まずの反論だから、何を言っているのか
わからない まことのクソジジイは、かまってほしいのです
まことのクソジジイは、かまってほしいのです
まことのクソジジイは、かまってほしいのです >>246の文面、なつかしいだろ?
おまえが尊敬して止まないイシヤに言われた言葉なんだぜww 大昔に言われて、相当、効いたらしいなww
でも、これが、イシヤの正体なんだせww >>243
こっちは>>116と>>190に2度も書いてるけど?
輪廻転生や因果応報を信じるのと
無責任にわかるわけのない前世を悪人ととするの
別なんじゃないの?だとすると仏教で言う
因果応報を否定すると思ってもらってもいい。
悪いことをすると報いがあると言うのは仏教だけじゃない。
あと、ほとんどの人たちが不幸な死にかたした
人は前世が悪いと言うのを知らないか信じてない
と言うのは自分が聞いた結果だけどね。10人くらい。
輪廻転生や因果応報と別に、このことについて
アンケート結果とかあるのかな?因果応報を
信じたとして、このことまで信じてるとは限らない。
自分が聞いた限り知らないし教えても
「そうなの?」と言って信じてない感じ >>242
禅宗(臨済宗 曹洞宗だよね)が輪廻転生否定。
仏典も絶対じゃない?ホントなんだ。 転生をほとんどの人が信じてないとは
書いたつもりは、ないけどね。自分が
問題にしてるのは仏教が不幸な死にかた
した人の前世が悪いと言ってること >>250
曹洞宗で読む修証義というお経では
輪廻転生とそれに伴う業報(三世を貫く因果応報)があるのでどんな悪事も行うなと説いている >>241
インドの仏教はなぜ滅びたか
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/42effceade76fca24a187a9757fb3bd6
仏教が滅びた最大の理由は「仏教がカーストを形成しなかったこと」に求められるのではないかと、
鈴木隆泰『葬式仏教正当論』に説かれている。
カーストを形成しなかったことに起因するデメリット
1 通過儀礼を執行できないため、人々の願いに完全には応えられなかったこと。
インドの出家仏教者は除災招福の祈祷・祈願儀礼は行ってくれたが、
在家仏教徒の葬式を含む通過儀礼には一貫してノータッチだった。
2 伝統を大切にする農村社会に定着しにくかったこと。
3 グプタ朝など、農村社会に立脚する王朝をパトロンにしにくかったこと。
4 仏教徒の再生産が困難であったこと。
イスラム勢力の攻撃では、ヒンズー教やジャイナ教はそれぞれカーストを形成していたため、
親がいなくても、子や孫が役目を継ぐというように、構成員が再生産された。
カーストというインドの伝統的価値観を認めない仏教は、構成員が自動的に再生産されることがなかったので、
存続のために外から新しい力を導き入れ続けなければいけない。
仏教はインド宗教界に生き残ろうと、様々な工夫をしたが、在家者の葬儀に携われなかったインドの仏教は、
人々の願いに完全に応えることができないので、徐々にその力を失っていくことになる。 143: グロリア(芋)@\(^o^)/ [US]:2017/01/20(金) 09:34:39.71 ID:p5zVcWx60.net
葬式仏教というパフォーマンスを発明したのは曹洞宗第4代螢山
道元が啓いた曹洞宗は釈迦直伝の教えを唱え
悟りとは無限の修行をしてる姿そのもの。生活全てが修業という修証一如
山に篭もって修業三昧。当時はカルト扱い
厳しすぎて誰もついて来れず、衰亡を極めてたのが
第4代螢山が、在家の信者が死んだのを修業途中の僧侶が死んだ様式で弔う
パフォーマンスを密教・儒教・道教の儀式を取り込んで売り出した
これが土民にウケにウケ、曹洞宗は全国1万寺を越える日本最大の大教団に上り詰める
この美味しいシノギに他宗も我も我もと参入し
日本仏教は全て葬式仏教に成り果てましたとさ
http://lifestylenews.dreamlog.jp/archives/12313629.html 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:c70c250dd91bb29f505857436e0bc8bd) 曹洞宗も不幸な死にかたした人は前世が悪いと言うのかな?
他板や他スレで天台や真言だけとか言う人もいるんだよね。
でも、阿含経とかで釈迦が言ってるんじゃないの?
何か、よくわからない。 >>254
釈迦の言った事を無条件に信じる他の大乗仏教とは違って、
自ら仏陀になろうというのが禅宗だからね
初めから釈迦の言葉は絶対だとは押し付けないんだろう
参考にはするけど まず、第一の「順現報受」をみてみましょう。
わたしたちが善悪の行為をした場合、その報を現世、つまり今の世で受けることをいいます。
「いはく、人ありて、あるひは善にもあれ、あるひは悪にもあれ、この生(しょう)に(業を)つくりて、すなはちこの生にその報をうくるを、順現報受業といふ」(正法眼蔵・三時業)
第二の「順次生受」とは、今生、つまり今の世で行った行為の報いを次の世、つまり来世で受けることをいいます。
「いはく、人ありて、この生に五無間業(むけんごう)をつくれる、かならず順次生に地獄におつるなり。順次生とは、このつぎの生なり。また第二生ともこれをいふなり」(正法眼蔵・三時業)
第三の「順後次受」とは、今生で行った行為が、次の次の生、またはその先の世でその報いを受けることをいいます。
「後次受」の「後」とは、限りない次の世ということであり、私たちの行為は業のエネルギーとなって、その果報を受けるまで永久に続くのです。
「いはく、人ありて、この生にあるひは善にもあれ、あるひは悪にもあれ、造作しをはれりといへども、あるひは第三生、あるひは第四生、乃至、百千生のあひだにも、善悪の業を感ずるを順後次受業となづく」(正法眼蔵・三時業)
私たちの行為によって生まれる業のエネルギーは、たとえ三つの時節に分かれてはいますが、
必ずその結果を招かずにはおかないという、これを三時の業報の道理というのです。
http://www.saikoji.net/houwa/houwa0711.html
カルマは清算されるまで(業は果報を受けるまで)
輪廻の間にずっと付き纏うということを道元は言っていた。
次の生死で清算されなかったカルマは次の次の生死まで付いてくるし、
次の次で清算されなかったらその次までカルマを負う。 無上甚深微妙法 [むじょうじんじん みみょうほう]
百千万劫難遭遇 [ひゃくせんまんごう なんそうぐう]
我今見聞得受持 [がこんけんもん とくじゅじ]
願解如来真実義 [がんげにょらい しんじつぎ]
我昔所造諸悪業 [がしゃくしょぞう しょあくごう]
皆由無始貪瞋痴 [かいゆむし とんじんち]
従身語意之所生 [じゅうしんごい ししょしょう]
一切我今皆懺悔 [いっさいがこん かいさんげ]
この開経偈と懺悔文を読む宗派は輪廻転生と宿業を認めていると考えて良いよ 俺は悲観的で暗くて頭が回らなくてそんな自分が嫌で
仏教の教えやら瞑想で自分を変えていこうだとか
あるいは心身脱落であるがままを受け入れようとか
色々考えて自己と整理をつけてやっとのこと生きていける
そんな薄氷を踏む思いで日々生きて行かざるを得ないのも前世からの宿業があるからなのかもしれないな 前世関係ないよ
関係あってもない
今を生きてるんだから目の前の課題に全力投球やでw 修行は課題の重さに対応できる技量しか与えてくれない
修行は大事だと思うけど、課題に真摯に向き合う、逃げない、って意志のほうが私はよっぽど大事だと思います どの宗派においても伝統としては、“三世に跨る業報”を説いています。
本来のゴータマの教えがそうなのですから、当然のことです。
そうでなければ、とても仏教とは言い難い。
しかしながら、
現実問題としてはそのことを信じてない僧侶がいずれの宗派においても増えてきているのが事実です。
理由としては元々、個人的に唯物主義的な感覚の人間や信仰心の薄い者が
ただ親の寺院を継承するために僧侶となっているからであり、
また、学術の分野においても偏見を抱いている一部の無知な学者によって、
「“三世に跨る業報”はゴータマの教えではない」などと主張したことにあります。
特に禅宗系統は、座禅が悟りのための修行の中心になってきますから、
仏典・経典の記述がどうこう...というのもあまり重視しません。
前世来世についてさえ、「在ると思えばあるし、無いと思えばない」的な感覚でしかなく、
心の姿勢として、「すべての捉われを捨てよ!」をモットーにしているで気にしていない...。
私は以前、
黄檗宗(三大禅宗の一つ)の総本山に直接この問題で電話にて確認したことがありますが、
これを解答をした高僧はまったく信じてなどいませんでした。
そして、私個人の印象というか、
私の知る範囲内ではこれを信じている禅僧を一人も知りません。 仏教の因果応報だけど不幸な死にかたした人は
前世が悪いと言うのは解釈の一つじゃないの?
大災害や犯罪被害による死も、これに入れたら
道徳的意味以外にもおかしなことになる。
2ちゃんでの話になるが他スレや他板(神社仏閣板)で
この話で、荒れたとき否定する人(仏教関係者と思われる)
も多かった。神社仏閣板ではむしろ否定のが
多かったね。 追記。他スレや神社仏閣板で荒れたとき
原因つくった人間は自分じゃないよw >>0270
私の個人的な理解としては、
前世の業により非業の死を遂げる運命に無い人は、
その時、その場所に居合わせることがない筈です。
逆に、その運命に生れた人はその時、その場所には必ずそこにいるのです。
航空機墜落事故でもそうです。その運命にない人は結局、その飛行機には乗らない。
逆も然り。その運命にある人は必ず乗ることになる。
前世の殺人において、
その時の被害者が今生で仕返し殺人をしてくるケースなども考えられる(退行催眠の前世療法などによると)。
その人は、前世の殺人者と同時期に転生して相手と必ず巡り合う。そして、思いの復讐殺人を行う。
信じない人は、そんな馬鹿な...という。
しかし、これがすべての真実なのだろうとこの私は見ています。
まっ、もちろんすべてのケースではないでしょうが、これが基本的なものの見方でしょう。
人間、いずれすべての前世が見える能力を自分自身が身に付けたときに、
なるほど“それ”として理解するのです。 つまり、
過去世におけるあの時のあの行為の報いが
未来世においてこのような形で結実したのだ、と。
仏典を読むならば、仏教的理解としてはそうなる。
『また、心が安定し・・・堅固な不動のものとなると、比丘は過去の生存の境涯を想起する 知(宿住通)に、
心を傾け、心を向けます。彼は過去の生存のさまざまな境涯を想起します。すなわち、ひとつの生涯、二つ、
三つ、四つ、五つ、十、二十、三十、四十、五十、百、千、一万の生涯を想起します。そしてそれは幾多の生
成の宇宙期(成劫)、幾多の壊滅の宇宙期(壊劫)、幾多の生成・壊滅を含む宇宙期を(通して)想起します。
「あのときの生存において、自分の名まえはこうであった。家系はこう、階級はこうで、こんな食物を食べ、
こんな幸福や不幸を体験し、これこれの年齢まで生きた。そして、その世から消え去り、別の世に生まれ変わり、
そこでも同じように、自分はこれこれの名まえ・家系・階級の者で、こんな食物を食べ、これこれの幸福や不
幸を体験し、これこれの年齢まで生きた。そしてその世から今のこの世に生まれ変わってきたのだ」というよ
うに、具体的な映像や、具体的な説明を伴って過去の生存の境涯を想起します。 たとえば、大王よ、ある人が、自分の村から他の村へ行き、その村からまた別の村へ行き、そしてその村か
ら再び自分の村へと戻ってくるとします。彼はこう考えるでしょう。「わたしは自分の村からあの村に行き、
そこでこういうように立ち、座り、あるいは喋り、あるいは無言でいた。そののち、その村からあの村へ行っ
たが、そこでもこのように立ち、座り、あるいは喋り、あるいは無言でいた。そして今はその村から再び自分
の村へ帰ってきている」と。
まさにそれと同じく、大王よ、心が安定し・・・堅固な不動のものとなったとき、比丘は過去の生存の境涯
を想起する知に、心を傾け、心を向けます。---(93節の繰り返し)--。
これまた、大王よ、前に述べた果報よりもさらにすぐれてより霊妙な、目に見える沙門の果報であります。』
(ディーガ・ニカーヤ2:93〜94/出家の功徳) 『二軒の家の間に立っている人が、その家人たちが一方の家から出てもう一方の家に入ったり出たりするの
をありありと観察することができるように、私は生命の転生を知る天眼通によって、衆生がカルマに牽かれて
善い境遇や悪い境遇に転生することを、そして、それぞれの転生先で優劣美醜の差を得ることを知っています。
・・・・比丘たちよ、このことを私は、他の沙門やバラモンたちから聞いて語っているのではありません。
そうではなく、私が自分で知った、自分で見た、自分で体験した、そのことだけを私は語っているのです。』
(中部経典130)
『このように、アヌルッダたちよ、弟子が死去し死亡したとき、如来が「この者は、このところへ生まれる。
この者は、このところへ生まれる」と、再生する場所を予言するのは、人を欺くためでなく、人に吹聴するた
めでなく、利益や尊敬や名誉や、功徳のためでなく、「わたしは、このような超能力があることを人は知れ」と
いうためではない。アヌルッダたちよ、信をもち、広大な信仰をもち、広大な喜悦をもつ、良家の子はそれを
聞いて真理に心をはせる。アヌルッダたちよ、かれらにとっては、それは長いあいだ利益をもたらし安楽をも
たらす」以上のことを世尊は説いた。尊者アヌルッダは、歓喜し、世尊の教説を信受した。』
(『中阿含経第77/帝三族姓子経』)
『愚かな者は(悪い事を)しながら「この報いはわれには来ないであろう」と考える。
しかし、のちに報いを受けるときに、苦痛が起こる。』(ウダーナヴァルガ9-11)
『悪い事をしても、その業(カルマ)は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。
しかし、来世におもむいてから、悪い行ないをした人々の行きつく先を知るのである。
のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起る。』(同9-18) >>272
すると、その前世の復讐した人間は現世では
加害者で復讐されたほうは被害者と見えるが
復讐したほうは「業」にはならないの?
つまり、復讐だから報いは受けない? >>0276
当然、復讐殺人をした者はその行為の苦しい果報を受けるでしょう。
カルマの法則は自然の摂理です。
だから復讐などしなくとも、悪しき行為をした者はその分の報いを受けるのです。
なのに、わざわざ自分から復讐などをしたら、結果的に自分自身が地獄の苦悩を味わうハメとなる。
死刑制度も直ちに廃止すべきです。
死刑などしなくても、犯罪者はその報いを受けるのです。
人々がそのことが心から理解するならば、死刑制度も社会から不必要となるし、
第一、自ら犯罪を犯そうとする者そのものがいなくなってしまう。
「誰も見てないから...」といった犯罪行為は、結果的に自分を苦しめるだけです。
つまり、この社会から意図的な犯罪は完全に消滅するのです。
もちろん、警察も司法も不要です。
世界から戦争が終焉し、兵器はすべてガラクタと化す。
その実現は、
この業報輪廻の法則を真実として理解し受け入れることなのです。
これ以外に完全な平和社会の実現は絶対に在り得ません。 確認と検証を放棄して盲目的に受け入れろとか信じろとか土台無理な話だろ
最初にそれを説いた人はどのようにして死後や生前を知覚したのか
インドには特別な修行をすることで神通力的なものを得られるという言い伝えがある
一番大事なのは人間に備わっていないその知覚能力を得るためにどのような修練をおこなったのか
その具体的方法は?
その期間は?
その過程は?
確認と検証を各時代、各地域で別個にやって話の内容をより堅固なもの――事実として明らかにしなければならないのに仏教はそれを怠っている
そのための修練方法と過程を説明することなしに輪廻やカルマなるものがありますよとそれだけ言うのは邪道!
でもこれやると”悟り”とか言い出すインチキ座禅とかオウム真理教系のカルトだとか霊能者霊媒師なんかの詐欺を大量に生み出すからもう完全に宗教と迷信とを切り離して事実の部分は「科学」として考えなきゃならない 確認と検証は瞑想によって行うらしい
瞑想を極め覚者になると三明という神通力が得られ過去世などを知ることができるという >>278
仏教は信じろとは言わないよ。信じるかは個人の自由。
好物の食べ物を見たら食べたくなるのもカルマの法則。カルマは心の意志です。意志が強すぎたら食べ過ぎて太ってしまいます。それが自業自得です。その心が輪廻転生するわけです。 >>272
>>277
話が破綻してるw
これが仏教?w >>281
wwwwwwwwwwwwwwwwwww
違うよw 仏教じゃないw
そいつは、宝珠と言って「神智学信者」w
話にかなりバイアスがかかってるので要注意ww >>272
>>277
いいのかな?みなさん
これが仏教? しかしミリンダ王の問い(>>237)などを読むに
仏教では明らかに宿業と宿業に伴う生得的な差別を認めているよなあ >>285
まあ、何をもって「仏教」とするか? が、問題となるわけだが、・・・・
後代の仏教の多くは、宿業、業論を支持しているものが多いが、それを釈迦が説いたのか?
となると全く別の話になるw
後代の仏教の中には、それこそ、釈迦が嫌った呪術まがいのものも多いしなw
ちなみに、そのミリンダ王の話は、喩えとしては面白いが、内容は全く無意味w と
多くの学者たちが指摘してるよw(確か、奈良さんもそうだったと思うがw)
・・・・つまり、端的にいうとナーガセーナのだした喩えは、空間的連続性が担保されているので
その継承性は否定されないが、「業」の話の作り手と受けてでは、まず、その空間的連続性が否定される。
では、どうやって継承性が担保されるのか?w
・・・・・・そこを説明できた論は皆無なんだw 仏教ではw
それこそ、外教のようにオカルト的実態を仮設しなくちゃならなくなるwww >>281
エッ、どんなバイアスが?
この私が誰かなどは..どうでもいいこと。
主張の“中身”を見なさい。
私の説明は仏典から外れたものではないから。
>>286
>後代の仏教の多くは、宿業、業論を支持しているものが多いが、それを釈迦が説いたのか?
>となると全く別の話になるw
業報輪廻を外したら、
仏教理論は完全に崩壊する。
そもそもの基本が成り立たないから。
もしも人間の人生が今生だけならば、
一体、何のために自己の欲望を制御し厳しい戒律に身を置く必要があるのか?
それなら、ただ損するだけのことに過ぎない。
ならば、仏教との出会いは何歳からなら解脱成仏が可能なのか???
天才的な人間が僧侶となって生涯掛かってもそれを達成したという話を聞かないというのに、
我々、一般の庶民にそれができるとでもいう気なのか?
その根拠がどこにある?
仏教がそのような宗教であるという定義を示せ!
それができないならば、本来のゴータマの教えである仏教が、
業報輪廻を説かないものだったという推論は成立しない。 ---訂正---
>>282
エッ、どんなバイアスが?
この私が誰かなどは..どうでもいいこと。
主張の“中身”を見なさい。
私の説明は仏典から外れたものではないから。 >>27
>確認と検証を
>事実の部分は「科学」として考えなきゃならない
まずは、
>>182>>220>>224のリンク先を真面目にしっかりと読むこと。
でないと話にならないから。
ダライラマ14世の事例でもそう。
チベットのダライラマというのは国教の頂点にして国家君主です。
日本でいえば、天皇に相当するもの。
その亡くなられた前13世と身辺の一部高僧のみにしか知り得ない事柄を
予言と霊視によって地方から見つけだされた庶民の中のただの小さな少年が知っている筈がないにも関わらず、
そのような厳しい確認のテストのすべてを見事にクリアして、
少年は13世の転生者として認められ、新たに14世へと就任するのです。
少年は13世としての前世の記憶を保持していましたからね。
>>279
その通り。
その正しさは、実践者たちによって確認されてきました。
それが歴史の事実です。 >>286
>・・・・・・そこを説明できた論は皆無なんだw 仏教ではw
>それこそ、外教のようにオカルト的実態を仮設しなくちゃならなくなるwww
またそんな馬鹿なことを。。。
ホント...
説明は最初からあるから。
何も困ってなどいないの。
ただ理解のできない馬鹿が勝手にアレコレやってきただけ。
仏教は「宗教」なの。
宗教というのは非科学なの。
仏教は唯物論ではないから。
そんなことも分からない者とは対話できないの。 >エッ、どんなバイアスが?
仏教で基本中の基本とされてる⇒「基体」設定の否定 が理解できてないww
>私の説明は仏典から外れたものではないから。
wwwwwwwwwwww
そりゃ、お前が自説に使えそうなおいしいところだけ、引っ張ってくるからだろww
・・・・ちなみに、「仏典」といっても、それをそのまま信じ込んだらダメw
これは常識w パーリ文献の中にも、もう釈迦の神格化の記述がたくさんあるしw
(神格化は、仏滅後すぐに始まったと言われていますw)
川を一瞬で渡ったりとか、龍と戦ったりとかww
・・・・大切なのは、資料から釈迦の教説を拾い上げていくことw
勿論、簡単ではないがねw 仏教を語るに当たって基体という言葉を使うのは松本と袴谷くらいじゃないのかね?
基本中の基本なのかなあ? ミリンダ王の喩えが成立しないのは、(マンゴーの話でも、炎の話でも) 喩えに出すのは全て
「空間的連続性」が担保されてるのに、業論における「業の作り手」 と「受け手」の間にはそれがないから
、⇒「喩えになってない」のww
つまり、「同一性」「継承性」の欠落w
業報論支持者は決してそこに触れないwww
上の方で、「曹洞宗」について書かれていたが・・・・ 曹洞宗の顔の一人である南直裁(恐山院代)は、
輪廻業報論をそれは、ぼろくそに否定 してるぞww ブログ行けば見れるw
(なんなら、ここに抜粋してもいいがw) >>292 wwwwwwww
「基体」と言う語彙が気に入らないなら、「真我」でも、「主体」でも
「アートマン」でもいいぜww 不幸な死に方をする原因なんて現世の業以外あり得ないんじゃないですかね?まあ、考え方にもよるけど
不摂生で病気になったりは事実だから予防医学ができたんでしょ?
どんなに急性の病気でも原因はあるし予防もできる、まあ完全ではないかもだけど。
前世云々ではない。 >>294
何が面白くて草生やしてるのか分からんけど智慧はどうなの?
苦を滅する智慧設定は否定すべきものなの?
どうなの? >>296
なんで急に智慧の話になるの?
輪廻業報の話じゃなかったのかい?w
そういうの聞きたかったら、別の仏教系スレで聞いたら?
鬼和尚スレでも行ったら?wwwww 輪廻転生から解脱するには智慧が必要
ではその智慧はどこに帰属してるんでしょう? >>298
177 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2017/04/15(土) 01:27:35.32 ID:q0E0E7KR
過去世、現世、未来世の三世を貫く宿業を唯識では阿頼耶識と呼んだ。
解脱はこの阿頼耶識(宿業)の特に悪業を対治しなければならない。
対治は智慧によってなされる。
この智慧を宿している識を真諦三蔵という僧侶は阿摩羅識と名付けた。
阿摩羅識は無垢識であり、真如、如来蔵、仏性、真我に等しい。
無常の阿頼耶識とは違って阿摩羅識は常であり無為法であるとされる。 今の世に因果を知らず、業報を明らめず、三世を知らず善悪を弁(わき)まえざる邪見の党侶(ともがら)には群すべからず、
大凡(おおよそ)因果の道理歴然(れきねん)として私なし、
造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る、毫釐(ごうり)もたがわざるなり、
若し因果亡虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。 根拠もなく平気で死者を冒涜する教えが
お釈迦様の尊い教えだそうです。 舎利弗よ、この教えを人と非人とすべてのものたちに宣べ伝えよ。
最後の時にあたって説いたこの法こそが、最高の教えである。
如来は衆生を安んじ、世間を利するために現われたのである。
お前の説くところを信じるものは、かって 我われと汝なんじ と諸々の菩薩とを見たのである。
この経は信じて初めて理解できるのであり、 凡夫の知恵で分かるのではない。
この経を信ぜず、疑い、謗るものは、現世においても転生しても、語りつくせない様々な報いを受ける であろう。
そのものたちは、阿鼻地獄に堕ちる、地獄から畜生界に堕ちる、犬や狐となって打擲 ちょうちゃくされる、
駱駝や驢馬になって鞭打たれる、 奇怪な蛇になって虫に食われる。
もし転生して人になるなら、地獄に堕ちて盲になり、聾唖になり、白痴になり、様々な病に罹り、 身体から悪臭を放つだろう。
我執に囚われ、情欲がつよく獣と交わるだろう。
それゆえ、この経は智あるものに説け、浅識 せんしきのものには説くな。
この経は菩提心をもった人びとのなかで、学識のある人に説け、信厚き人に説け、人のために身命を惜しまない人に説け、
凡愚を 離れて山林に住する人に説け、悪友を遠ざけ善友と親しむ人に説け、戒を守り真にこの経典を求める人に説け、
怒らず柔和な人に説け、 自在に法を説ける人に説け、大乗の経典のみを求める人に説け、 六師外道ろくしげどうを求めぬ人に説け。
このような菩薩たちはよく信じ、 よく理解するからである。 根拠もなく平気で死者を冒涜する教えが
お釈迦様の尊い教えだそうです。 >>272
>>277
みなさん、素晴らしい教えですよね。 http://blog.goo.ne.jp/konsaruseijin/e/f8f696193cec24c65439d9cc35e488ee
↑のリンク先にある「ミリンダ王の問い」でのナガーセーナの輪廻再生の説明は喩え話が稚拙過ぎてあかんわ
蝋燭の喩えはまだ点灯している蝋燭の炎を他の蝋燭に移して「霊魂のない再生とはこのようなものです」と説明してるが
再生というからには最初の蝋燭の炎を一旦消さないと駄目だろw
詩句の喩えは詩句は生命や蝋燭のように寿命がある物質ではないので詩句が再生するとかいう方がおかしい
忘れかけてた詩句の記憶が蘇ったというなら分かるがそれとて輪廻再生とは関係ない
ミリンダ王の「見事であるナガーセーナ」は本音とは思えんな
大方仏教徒を懐柔するために褒めたのであろう 善行をすれば善い報い(幸福)があり、悪い行いをすれば悪い報い(災い、苦しみ)があるっていうけどさ
その「善い」と「悪い」っていうのは誰の判定基準が採用されるの?
たとえばキリスト教の価値観では(自分達の信じる唯一の)神を崇める者だけが善で、神を崇めない者は全員悪
よって異教徒や無神論者は無条件で地獄に落ちるとされる
このとてつもなくバカげた考え方だと善人であるキリスト教徒だけに善い報い(天国)があり、悪人である異教徒には悪い報い(地獄)がある
俺個人の考えだと宗教は人を騙してそそのかして信者を組織に隷属させ家畜のように支配して金をだまし取る詐欺
そのうえ信者を踏んづけてその上に自らの地位や名声を築く最悪レベルの強欲さと傲慢の権化
神聖なもののようにえらっそうにふるまってるけどその実態はヘドロや産業廃棄物に匹敵するおぞましさと汚らわしさの汚物オブ汚物sでそれを運営するとか帰依するとかとんでもない偽善なわけ
この基準だと宗教やってる人間は悪で悪い報いがあることになってしまう
でもこれは俺の身勝手な偏見だというのはわかってる
その自覚はある
このように人によって善悪の基準はそれぞれ違うんだけどそれに関して仏教における善い悪いとは誰が判定してるんですか
善因善果悪因悪果というけども、人の偏見によらない閻魔大王的な公正無私な絶対の基準は存在してるんですか >>309
ダンマパダ 235〜238
今や汝は黄色に枯れた葉のようである
閻魔の使者たちが汝の面前に現れている
汝は臨終の入り口に立っているのに
旅の路銀さえない (235)
汝自身の拠り所を作れ
急いで精進して賢明であれ
心の汚れを落として煩悩がなければ
汝は天界の聖なる地行くだろう (236)
今や汝は老いたる年代の人である
閻魔の面前に進んでいる
汝には途中に休む家もない
旅の路銀さえない (237)
汝自身の拠り所を作れ
急いで精進して賢明であれ
心の汚れを落として煩悩がなければ
汝は再び生老に近づくことはないだろう (238)
このダンマパダの句から察するに善悪や輪廻転生先を決めるのは閻魔と思われる。 >>272
> >>0270
> 私の個人的な理解としては、
> 前世の業により非業の死を遂げる運命に無い人は、
> その時、その場所に居合わせることがない筈です。
> 逆に、その運命に生れた人はその時、その場所には必ずそこにいるのです。
> 航空機墜落事故でもそうです。その運命にない人は結局、その飛行機には乗らない。
> 逆も然り。その運命にある人は必ず乗ることになる。
> 前世の殺人において、
> その時の被害者が今生で仕返し殺人をしてくるケースなども考えられる(退行催眠の前世療法などによると)。
> その人は、前世の殺人者と同時期に転生して相手と必ず巡り合う。そして、思いの復讐殺人を行う。
>
> 信じない人は、そんな馬鹿な...という。
> しかし、これがすべての真実なのだろうとこの私は見ています。
> まっ、もちろんすべてのケースではないでしょうが、これが基本的なものの見方でしょう。
>
> 人間、いずれすべての前世が見える能力を自分自身が身に付けたときに、
> なるほど“それ”として理解するのです。 >>277
> >>0276
> 当然、復讐殺人をした者はその行為の苦しい果報を受けるでしょう。
> カルマの法則は自然の摂理です。
> だから復讐などしなくとも、悪しき行為をした者はその分の報いを受けるのです。
> なのに、わざわざ自分から復讐などをしたら、結果的に自分自身が地獄の苦悩を味わうハメとなる。
>
> 死刑制度も直ちに廃止すべきです。
> 死刑などしなくても、犯罪者はその報いを受けるのです。
> 人々がそのことが心から理解するならば、死刑制度も社会から不必要となるし、
> 第一、自ら犯罪を犯そうとする者そのものがいなくなってしまう。
> 「誰も見てないから...」といった犯罪行為は、結果的に自分を苦しめるだけです。
> つまり、この社会から意図的な犯罪は完全に消滅するのです。
> もちろん、警察も司法も不要です。
> 世界から戦争が終焉し、兵器はすべてガラクタと化す。
>
> その実現は、
> この業報輪廻の法則を真実として理解し受け入れることなのです。
> これ以外に完全な平和社会の実現は絶対に在り得ません。 余談だが、先日、爆笑問題の田中がやってる番組でバックに不動明王の像を置いてるのを見かけた。バカかと思う。
不動明王(シヴァー)は実は一番中心になって東大震災を起こした張本人といわれている。
こいつによってそうゆう因縁でもないのに不正に障害者にされたものもいる。また古代から不正にひどい陰謀を
たくまれてきた者もいる。赤不動、青不動、黄色、白、黒とあって、家のは赤だからあるいは白だから大丈夫と
言ってるのもいるが、全部同じで百面相でごまかしただけ。共産党の悪化したみたいにみんなで引きずり
落としあいになってしまう、また何らかの形でからかわれるようにばっかもなる。オーム教と同じ。
さっさと何処へでも納札してすててこい!アホッ!! >>309
> 善行をすれば善い報い(幸福)があり、悪い行いをすれば悪い報い(災い、苦しみ)があるっていうけどさ
> その「善い」と「悪い」っていうのは誰の判定基準が採用されるの?
>
> たとえばキリスト教の価値観では(自分達の信じる唯一の)神を崇める者だけが善で、神を崇めない者は全員悪
> よって異教徒や無神論者は無条件で地獄に落ちるとされる
> このとてつもなくバカげた考え方だと善人であるキリスト教徒だけに善い報い(天国)があり、悪人である異教徒には悪い報い(地獄)がある
>
> 俺個人の考えだと宗教は人を騙してそそのかして信者を組織に隷属させ家畜のように支配して金をだまし取る詐欺
> そのうえ信者を踏んづけてその上に自らの地位や名声を築く最悪レベルの強欲さと傲慢の権化
> 神聖なもののようにえらっそうにふるまってるけどその実態はヘドロや産業廃棄物に匹敵するおぞましさと汚らわしさの汚物オブ汚物sでそれを運営するとか帰依するとかとんでもない偽善なわけ
> この基準だと宗教やってる人間は悪で悪い報いがあることになってしまう
>
> でもこれは俺の身勝手な偏見だというのはわかってる
> その自覚はある
>
> このように人によって善悪の基準はそれぞれ違うんだけどそれに関して仏教における善い悪いとは誰が判定してるんですか
> 善因善果悪因悪果というけども、人の偏見によらない閻魔大王的な公正無私な絶対の基準は存在してるんですか >>310
> >>309
> ダンマパダ 235〜238
>
> 今や汝は黄色に枯れた葉のようである
> 閻魔の使者たちが汝の面前に現れている
> 汝は臨終の入り口に立っているのに
> 旅の路銀さえない (235)
>
> 汝自身の拠り所を作れ
> 急いで精進して賢明であれ
> 心の汚れを落として煩悩がなければ
> 汝は天界の聖なる地行くだろう (236)
>
> 今や汝は老いたる年代の人である
> 閻魔の面前に進んでいる
> 汝には途中に休む家もない
> 旅の路銀さえない (237)
>
> 汝自身の拠り所を作れ
> 急いで精進して賢明であれ
> 心の汚れを落として煩悩がなければ
> 汝は再び生老に近づくことはないだろう (238)
>
>
> このダンマパダの句から察するに善悪や輪廻転生先を決めるのは閻魔と思われる。 人が亡くなったとき葬式、戒名、墓なんかで
一番金取られるのも仏教。キリスト教は仏教
ほど金かからないし、さらにかからないのが
無宗教。仏教は戒名差別もあったし、だいたい
払った金で偉そうな戒名なんて、ふざけてる。
根拠もなく死者を冒涜するような仏教に金なんか
使わずに無宗教の葬儀や散骨が広まればいい。 >>318
葬式、戒名、墓の話ね。
自分は無宗教。 >>291
>仏教で基本中の基本とされてる⇒「基体」設定の否定 が理解できてないww
だから、これまで何度もいってるように、
そういうことは仏教を誤解してる無知な者(一部の学者と僧侶)がいうのです。
仏教ではアートマンについては無記(その存在の有無について無回答の姿勢)であり、
転生の主体となる魂については「識」であるとして明確に説かれています。
ただ馬鹿な者が「魂」も「真我(アートマン)」も味噌と糞のように混同するのです。
魂は永久不滅ではなく、これも縁起する仮和合の自己であって、
人間が究極のゴールであるニルヴァーナに到達するまでの転生期間における業作用の運び手としての役目を果たしているのです。
ただし、これをアートマンと誤解してはならないとゴータマにより強く戒められている。
「無我」とは“アートマンの無いこと”などというのは、部派による勝手な誤解と変色の結果であって、
これを今日まで南方仏教が盲目的にゴータマの言葉だと信じ込んで継承してきたものです。
だから、「輪廻はするが輪廻主体は無い」などというアホ矛盾を説くことになるのです。
>そりゃ、お前が自説に使えそうなおいしいところだけ、引っ張ってくるからだろww
その言葉そのまま、そっくりあなたにお返しするから!!
私は仏典全体の内容について整合性を以てすべてを矛盾なく説明できます。
けれども、あなたこそごく一部のそのピンポイントの言葉だけを切り抜いて、
仏教を単なる唯物論にしようとする馬鹿なことをしてる。
それは、その他全体のすべてと完全に矛盾してるから。
つまり、ただのゴリ押しをしてるだけです。 >川を一瞬で渡ったりとか、
水面を沈まずスイスイと歩いて何が悪いの?(笑)www
空中飛行ができるのに水面は歩けない、などという方が可笑しい話でしょうが!
これまでも紹介してきたように、近代にも実在したヒンドゥー行者の空中浮遊の事例や、
仏教圏ではチベットのミラレパの自在な空中飛行はダライラマ法王お墨付きの有名な実話です。
ヨーガ聖典ではそれがどのようになされるのか明確に説明があり、日本では成瀬雅春氏の空中浮揚の成功がある。
マハリシ・メヒッシ・ヨーギのTM団体では世界フライング大会の開催があって、
熟達者によるダルドリ・シッディでは驚異的な浮揚を発揮します。
日本では、俳優の秋野太作氏がTM実践者としては見事です。
http://happism.cyzowoman.com/2013/09/post_3071_2.html
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-18.html
http://happylinematome.daa.jp/voltex/wp-content/uploads/2016/03/20150416_01.jpg
>>293
>業報論支持者は決してそこに触れないwww
だから、分かってない者の話を聞いて、
更にまた、もっと何も分かってない者が何をいわんや、って!!
>曹洞宗の顔の一人である南直裁(恐山院代)は、
>輪廻業報論をそれは、ぼろくそに否定 してるぞww
分かってない僧侶の話など何の根拠にもならないから。 3日(水)放送のTV番組フジテレビ『何だコレ!?ミステリー』は、
「死後の世界SP」として実に良い情報を提供しました。
『【脳神経外科の名医が死後の世界を確認!?】
大腸菌による髄膜炎を発症し、生死をさまよった脳神経外科の名医エベン・アレグザンダー医師。
幻覚を見ることなどできない脳の状態の中で、摩訶不思議な体験をしたという。
エベン医師が死後の世界を信じるようになった体験とは!?本人を直撃!
【死んだ娘が事件解決!?母が聞いた娘のメッセージ】
タイで1人の女性が忽然と姿を消した。夫や母親ら家族が探し回るものの、行方はわからないまま…
4カ月が過ぎた頃、母親の夢に、失踪していた娘が出てきたという。「自らの居場所」や「事件の詳細」を語り始め、
その情報をもとに母は捜索を始めた。
するとそこには…衝撃の結末が…!死者からのメッセージなど存在するのか…摩訶不思議なエピソードをご紹介。
【生まれ変わり!?前世の記憶を話す男の子!?】
バージニア州に住む4歳の男の子が突然、「自分は海兵隊員だ」「僕は火の中で死んだ」と、
前世の記憶とも捉えられる記憶を話し出したという。
この記憶について、母親が調べてみると、不思議なことに、3
4年前に起きたある事件で亡くなった海兵隊員と奇妙な一致を見せる可能性が出てきた…
前世の記憶を持つという男の子を直撃!』
http://www.fujitv.co.jp/sekainonandakore/index.html
エベン医師については、以前にも取り上げたけれども、
脳科学だけですべて説明がつくなどといってるのはすでに時代遅れであり、単なる無知と迷信の賜物以外ない。
パーピマンのように、“TV番組はすべてヤラセに過ぎない”という馬鹿とは対話も成立しない。
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1411488779/262-264 >>1だけど
>>322は来ると思った。自分は輪廻転生については
否定も肯定もしていない。根拠もなく平気で
死者を冒涜する教えを問題にしてる。
つまり、その教えが仏教で言う因果応報なら
仏教で言う因果応報は否定すると思ってもらって
いい。話題そらしはやめてほしい。因みに自分が
思う悪人に対する報いや被害者に対する埋め合わせ
については何度も書いてる。同じこと何度も
言わせないでね。 >>323
>根拠もなく
だから、
あなた基準でものごとを語られては困る。
仏教はもともと一般常識や物質科学を基準になどしていないから。
仏教におけるは根拠は、
すべて実在した歴史上のゴータマ個人による実体験に基づいています。
つまり、一人の人間による個人体験がすべてであり、
凡人の感覚や科学常識を超えたものです。
しかし、それはゴータマ独りだけの空想妄想などではなく、
その教えの実践者によってその正しさが確かに確認されてきたものです。
時間は要しますが、あなたにも確認ができる。
そのときになってから、
「仏様、大変失礼を致しました!」となっても、すでにその悪業は消えない。
まっ、悪気の無い無知の結果ですが...。 偉大なるゴータマは、
すべての人間の前世と来世を完全に見通すことができました。
であるから、弟子や信徒たちの修行の達成具合を見れば、
必然的に死後と来世は彼らが何処に行くかが分かり、
そのことについても詳しく解説をされました。
『アーナンダよ。修行僧サールハは諸々の汚れが消滅したが故に、すでに現世において汚れの無
い【心の解脱】【智慧による解脱】をみずから知り、体得し、具現していた。したがって、この比丘は今
さとりの世界におり、再び迷いの生存を受けることはない。
アーナンダよ。尼僧ナンダーは、ひとを下界(=欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたの
で、おのずから善き世界に化生した。この比丘尼はその天界から直接さとりの世界に入り、再びこ
の世に戻ることはない。
アーナンダよ。在俗信者のスダッタは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、欲情と怒りと迷い(貪り
・怒り・愚かさ)という三つの心の毒がしだいに弱くなっているので、【一度だけ戻ってくる者(=一来)】
となった。この信者はもう一度だけこの世に生を受け、苦を残りなく滅ぼし尽くしてさとりの世界に入
るであろう。
アーナンダよ。在俗信女のスジャータは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、【聖者の流れに踏み
入った人(=預流)】となった。この女信者は、もはや悪しき世界に堕ちることはなく、必ず正しいさ
とりを得ることが確定している。 アーナンダよ。在俗信者のカクダは、ひとを下界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたので、
おのずから善き世界に化生した。この在俗信者はその天界から直接さとりの世界に入り、再びこ
の世に戻ることはない。同じように、アーナンダよ。カーリンガ、ニカタ、カティッサバ、トゥッタ、サン
トゥッタ、バッダ、スバッダなどの在俗信者も、ひとを下界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくした
ので、おのずから善き世界に化生した。これらの在俗信者たちはその天界から直接さとりの世界
に入り、再びこの世に戻ることはない。
アーナンダよ。このナーディカ村で死んだ五十人以上の在俗信者たちは、ひとを下界に結びつけ
る五つの束縛を滅ぼしつくしたので、おのずから善き世界に化生した。これらの在俗信者たちはそ
の天界から直接さとりの世界に入り、再びこの世に戻ることはない。
アーナンダよ。このナーディカ村で死んだ九十人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつ
くしたから、欲情と怒りと迷い(貪り・怒り・愚かさ)という三つの心の毒がしだいに弱くなっているの
で、【一度だけ戻ってくる者】となった。これらの信者はもう一度だけこの世に生を受け、苦を残りな
く滅ぼし尽くしてさとりの世界に入るであろう。
アーナンダよ。このナーディカ村で死んだ五百人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつ
くしたから、【聖者の流れに踏み入った人(=預流)】となった。これらの信者たちは、もはや悪しき
世界に堕ちることはなく、必ず正しいさとりを得ることが確定している。』
(マハー・パリニッバーナ・スッタンタ) >>324
困るの?こっちは特に困らないよ。手が空いた時書き込むだけ。
また、ゴータマだよね。それしかないもんね。そちらが同じこと
繰り返す以上は、こちらも同じこと繰り返すしかない。
○○様が言った。
○○経に書いてある。
こんなの根拠にも何にもならない。 例え生得的な悪業があろうとも、今生にて仏道に目覚め過去を懺悔し修行していけば悪業を清算させることは可能だよ。
曹洞宗でもそう教えている。
修証義 第二章(懺悔滅罪)
http://teishoin.net/sutra/502.html
(前略)
さて、懺悔の仕方のおおよそをいうと、こういう気持ちをもって、仏にお願いするとよい。
「わたくしは、たとえ過去の罪過が多く積もって、求道の妨げになっている救いがたい人間でありましょうとも、
どうか、仏道によっておさとりになられた仏祖のかたがたよ、わたくしを憐れんで、
従来積んできた我見妄想より解き放ってくださり、求道が開けてくるようにお導きください。
その功徳広大なみ教えと、天地万物に普く及ばれている大慈悲とを
わたくしたちにもお分かちくださいますように」と、静かに祈るのである。
そして、仏祖も昔は私たちと同じように悩まれたのだ。
我等も一生懸命でやりさえすれば、仏祖のような心境に近づくことが出来るのだ、と心にいいきかせ、勇を鼓するのである。
我昔所造諸悪業(がしょくしょぞうしょあくごう)
我れ(過去世の)昔より造れるところのもろもろの悪業は、
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)
皆いつとも知れず我が身にまつわりついている貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚(おろか)さの妄想が原因である。
従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)
他から来たのではなく、すべて我が身、我が口、我が意(こころ)から生じた罪過である。
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
わたくしは今、仏の前に一切を懺悔する。
このように懺悔すると、必ず仏祖は目にみえぬお力をかしてくださるのである。
だから、仏祖の慈悲を心に念じ、端坐合掌、懺悔の文を口に唱えて、一切を告白するがよい。
自分をさらけ出し、投げ出すまごころの力は、必ずや罪過をつくり出す根ともいうべき貪瞋癡の妄想を消滅せしめ、
清浄なる心境に至らしめてくれるのである。懺悔こそ新生の第一歩である。 >>328
心から懺悔して反省し、
悔い改めて清く正しく精進すれば、
必ずや高次の存在の守護があることは私も間違いないと思う。
ただし、
そのことですでに犯したところの罪障が消滅するわけではないので、
そこのところを勘違いしないようにする必要があるものと思う。
大乗の読誦経典には罪障消滅を謳うものがとても多いけれども、
それは信者獲得を狙った大乗架空の御利益の目玉の一つとなっているのです。
これまでの悪業を反省して正した生き方を始めても、
すでに犯してしまった罪障の報いは受けねばならないことについては、
熱心に修行に励む殺人鬼アングリマーラに対するゴータマの説法や、
高弟モッガラーナの最後に関する逸話をみても明らかです。
殺人鬼アングリマーラを見つけた村人たちは彼の鉢を壊し、
そして、こぞって皆で棒や石を投げつけた。彼は外衣を破られ、血だらけとなってゴータマの下へと帰った。
この悲惨な出来事で死後に受ける報いを軽減できるという意味合いがあるかもしれませんが、
決して罪障が消滅したというわけではないことは明白です。
『世尊ははるかに尊者アングリマーラのやって来るのを見ておられた。そして尊者アングリマーラにいわれた。
「婆羅門、おん身は忍耐せねばならぬ。婆羅門、おん身は忍耐せねばならぬ。おん身が以前になした行為の報いとして、
幾年、幾百年、幾千年、破滅の世界に生をうけたであろうはずの、その行為の報いを、婆羅門、おん身はいま現にうけ
ているのだ」』(中部第八六経/アングリマーラ経)
モッガラーナは、ゴータマの右腕にして教団随一と称賛されている神通の持ち主だったことで、
ゴータマ教団の崩壊を目論む裸形外道と呼ばれる過激派グループにその命を狙われることとなった。
最初のうちは神通を発揮して危機を何度か逃れていたけれども切りがない。
神通を凝らしてその原因を探ったところ、「過去世でバラモンの子だったとき、女性に悪い行いをして母親を悲しませ、
この因によって外道に襲われている」ということが分かった。
その業は受ける以外には清算する術がないことを悟り、それでついに神通で逃げ回ることを清く諦めて、
彼らによって惨殺された。その姿は外形を留めぬほどの肉片と化したという(最後は自害したとの諸説あり)。 >>309
確かに、ただ「善・悪」というだけでは単なる相対的な概念に過ぎないけれども、
まず一ついえることは、相手に対して苦痛を与えてはならないこと。
そして、相手の自由意志は尊重し侵害してはならないということです。
これを犯せば「悪」だということは間違いないでしょう。
キリスト教は、これを信奉しない者を地獄行きといってきました。
そして、歴史においては異端や魔女狩りの大量殺人をしてまで強制的にこれを強いてきました。
けれども仏教はそうではなく、業報理論による非暴力を徹底して相手を傷つけることをしない。
また、仏教の信奉を強いることはなく、心から懺悔して弟子入りを志願する者はアングリマーラのような殺人鬼すらも受け入れるが、
これを止めて出ていく者を止めることはない。
ただし、聖者に対する誹謗中傷は地獄行きの重い罪障を背負うものと説く。 >>332
如来からの尊い教えを己れの未熟な無知から誹謗中傷などしていると、
最後には、死後に地獄へと堕ちることなるから辞めておきなさい!
わたしはあなたのために警告しておく。
後悔しても遅い。
『賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも、その不運はわずかなものである。しかし立派な聖者に対して悪意
をいだく人の受ける不運は、まことに重いのである。悪口を言いまた悪意を起こして聖者をそしる者は十万と三十六のニラッブダ
の〔巨大な年数のあいだ〕また五つのアップダの〔巨大な年数のあいだ〕地獄に赴(おもむ)く。』
(スッタニパータ659-660)
『「修行僧よ。紅蓮地獄における寿命は実に長い。それを、幾年であるとか、幾百年であるとか、幾千年であるとか、幾十万年
であるとか、数えることはむずかしい。」
「尊いお方さま。しかし譬喩を以て説明することができるでしょう。」
「修行僧よ。それはできるのです」といって、師は言われた、「たとえば、コーサラ国の枡目ではかつて二十カーリカの胡麻の
積荷(一車輌分)があって、それを取り出すとしょう、ついで一人の人が百年を過ぎるごとに胡麻を一粒ずつ取り出すとしよう。
その方法によって、コーサラ国の枡目ではかって二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)が速やかに尽きたとしても、一つのアッ
ブタ地獄はまだ尽きるに至らない。二十のアッブダ地獄は一つのニラッブダ地獄[の時期]に等しい。二十のニラッブダ地獄は一つ
のアババ地獄[の時期]に等しい。二十のアババ地獄は一つのアハハ地獄[の時期]に等しい。二十のアハハ地獄は一つのアタタ地獄
[の時期]に等しい。二十のアタタ地獄は一つの黄蓮地獄[の時期]に等しい。二十の黄蓮地獄は一つの白睡蓮地獄[の時期]に等しい。
二十の白睡地獄は一つの青蓮地獄[の時期]に等しい。二十の青蓮地獄は一つの白蓮地獄[の時期]に等しい。二十の紅蓮地獄[の時
期]に等しい。ところで修行僧コーカーリヤは、サーリプッタおよびモッガラーナに対して敵意をいだいていたので、紅蓮地獄に
生まれたのである。」
師はこのように言われた。』
(スッタニパータ<657の前の序>第3 大きな章10.コーカーリヤ経 序) >>332
業報輪廻の法則を真実として理解し受け入れることなしに、
人類がこの地上で真に完全な平和社会を実現することは絶対にできない。>>277
もしくは、仏陀の再来として出現する弥勒に人類が帰依すること。
以上を以て、
私から伝えるべきことはすべて伝えた。
---あとはご自由にどうぞ... >>333-334
根拠もなく平気で死者を冒涜するのが
如来からの尊い教えですか?もはや滑稽。
自由にします。信じません 根拠にはならないけど仏教信者の人たちは
その如来からの尊い教えを信じて、善行を積み
真面目に生きた人たちが災害被害や犯罪被害で
亡くなった時に前世が悪いと言うわけだよね。すると
「如来からの尊い教えにより死者を冒涜するのが仏教」
とも言える。いずれにしろ滑稽。 阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課
二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪 人として生まれてくる可能性は
海に浮き輪があり盲目の亀が百年に一度だけ海面に顔を出すとしてその浮き輪の中に顔を出すくらいの非常に低い可能性である
とお釈迦様が言っていたと思った
俺らは人として生まれてきただけで最善の生を受けたということ
なぜなら仏法に目覚め修行し彼岸に度して輪廻転生のサイクルから解脱することができるから 前世が悪いと現実逃避できるのは修業期間だけだよ。
現世の悪を帯びて人は死ぬのさ。あはれなり。 地獄リフォームもいいかもね。宿業があれば、救済できるだろう。
天国開拓か。たしかに、天国は、何もないし。あるいは√。 なんでどこの宗教も宇宙人について言わないの?
未来が見えたり死後も見えるレベルならこれくらいわかるだろ
えらそうにふるまってるだけで本当のところは何も見えてないし何もわかってないんじゃないか
あぁ? 檀家をやめようと手続きしようとすると
数百万円とか一千万円とか法外な「離檀料」
を請求されることがありますが払う必要ありません
ただ、お墓が寺の境内にある場合、離檀料を払わないと
お骨を出さないとかお骨を人質にして離檀料を
取ろうとする寺もあり弁護士を呼ぶ騒ぎもあるようですが
払う必要のない金です。 根拠もなく平気で死者を冒涜するのが仏教。
払った金額で戒名をランク付けするのが仏教。
檀家をやめようとすると高額の離檀料を要求する
僧侶がいるのも仏教。 「81 その昔、他のいくたの生存において、わたしのなした悪〔業の果報〕を、わたしはこの世において感受すべきである。
〔しかしながら、次の〕他の〔生存を引き起こす〕根拠は、もはや〔わたしに〕存在しない」(P178)
原始仏典「長老の詩」
要するに現在自分が置かれている悪い状況は過去世の宿業に起因している部分があるということである 前世を勝手に悪くされた死者は何も言えない。
こんな心ない教えを心ある人が信じるわけがない。 寺離れを阻止するために法外な離檀料を
要求されたら絶対に払ってはいけません
弁護士に相談しましょう。 幸福の科学内部の地位が死後の世界の上下を決めるらしいので(笑)
大川にガードされて出世している女性達は 幸福の科学的に「悟りが高い」と言う事になります。
実際、大川は97年の軽井沢で宗務の女性職員達に
「@@@@によって光が入る。」
という趣旨の講義 (つか新幸福の科学教義)を語っていますので。
この幸福の科学理論に沿えば、
大川と@@@@した女性は
霊格が向上=悟りが向上 と言う事になります。
http://6622.teacup.com/takanoriookawa19560706/bbs/2090
・大川は女性職員に「君は僕の子供を産む事になっている」と迫っている。
・従って大川に隠し子情報が出てくるのも不自然でも何でもない。
大川に隠し子がいるという情報あり。
ただし母親は未確定。
・ 変死を遂げた元幹部の真杉氏は、大川の愛人の存在(YMより前)を
周囲に語って左遷され、結局職員を解雇された。
・ 大川は軽井沢で
「@@@@は天国で光を入れるのと同じ」
という@@@@教義を女性職員達に語っていた。
・YMは「先生は性欲の抑えが効かなくなって・・・」とファルコンに嘆いていた。
大川はきょう子との別居時、女性職員とすぐに二人きりになろうとしていて、
女性職員達が怖がっていたとYMは嘆いていた。 南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 寺離れを阻止するために法外な離檀料を
要求されたら絶対に払ってはいけません
弁護士に相談しましょう。 賢愚経という経典によると人間は輪廻転生で動物にも生まれ変わるらしいけど
じゃあ恐竜時代はどうだったの
この時代に人間なんていなかったから今の人間の魂はみんな恐竜だったってことでしょ
んなことありえるのか?
少なくともこの経典は嘘確定じゃね? 一乗真実、久遠実成
南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 罰があたる。などと耳にしますが、これは、仏様が罰を与えるというふうに取るのはおお間違いです。
罰というものは、自分の持っている運命が出るものなのです。
罰を与えるとかなんとかということを、よく言っておりますが、そんなものはないのです。
罰というのが、宿業のことなのです。
自分の身に持っているものが出るのです。
それを、罰とも宿命とも言うのです。
そんなものを人にあてられてたまりますか。
どんな仏様でも、罰なんか与えるわけありません。
ただ出るだけなのです。
過去世から持ってきた宿業(罰)はわが身にあるものが出るのです。
それが、信心をする事によって、「転重軽受法門」(てんじゅうきょうじゅほうもん)仏法の極理で軽く出てくれるのです。
それでそれが、ご利益に変ずるのです。
悪い宿業を変じて、いい宿業に変わるのです
そして、運命は自由に変えることも出来るのです
この事により、聖教新聞等でも沢山の功徳の体験談が語られています
※宿命とは、前世における善悪・苦楽などの状態。
※宿業とは、現世で報いとしてこうむる、前世に行った善悪の行為。 一乗真実、久遠実成
南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 【ミリンダ王の問い 第一篇 第四章 第三節】
王は問う、
「尊者ナーガセーナよ、いかなる理由によって人々はすべて平等ではないのですか?
すなわち、ある人々は短命で、ある人々は長命です。またある人々は多病であり、ある人々は病が少ないです。
ある人々は醜怪ですが、ある人々は端麗です。ある人々は力弱く、ある人々は力が強い。
ある人々は財少なく、ある人々は財が多い。ある人々は卑賎の家に生まれ、ある人々は高貴の家に生まれます。
ある人々は愚かであり、ある人々は賢明です」
「大王よ、なぜ樹木はすべて平等ではないのですか?
<それらの果実についてみるに>、あるものは酸っぱく、あるものは塩からく、あるものはにがく、
あるものは渋く、あるものは甘いです」
「尊者よ、それはもろもろの種子が異なっているからだ、と私は思います」
「大王よ、それと同様に<宿>業の異なることによって、人々はすべて平等ではないのです。
すなわち<その故に>ある人々は短命で、ある人々は長命です。
(中略)大王よ、世尊(釈迦)はこのことをお説きになりました。
―『バラモン学生よ、生けるものどもは、それぞれ各自の業を所有し、業を相続するものであり、
業を母胎とし、業をよりどころとしている。
業は生けるものどもを、賤しいものと尊いものに差別する』と」
「もっともです、尊者ナーガセーナよ」 南無妙法蓮華経の題目を受持し口に唱えれば宿命転換されて過去世の悪業は全て生産されると日蓮大聖人は言われてます。
なぜなら悪業とは正法である法華経を誹謗したことが因となっているからです。 >>359
イスラムやキリスト教も嫌だし、共産党も嫌だ。
そして、仏教もダメ。寺や仏教が嫌いになってから
初詣は結局、神社にしてるけど…。 このスレで仏教を擁護するレスしてる人たちって
どういう人たちなのかな?日本の仏教は葬式仏教。
つまり、葬式や法事のとき以外に用はない。
仏教に都合の悪いレスが困るのは、やはり寺関係者
(坊主や、その息子)かな?離檀や寺離れされたら
食べて行けなくなるからね。あるいは創価学会や
幸福の科学、真如苑、阿含宗のような仏教系の
新興宗教の人たちかな?日蓮大聖人とか創価学会
っぽいレスはある。 >>362
私は、
以下のレス番(洩れがなければ)を投稿した者です。
162.165-166.182.186.197-198
206.214-215.220.224-225.227-228
231.234.267.272-275.277.287-290
320-322.324-326.330-331.333-334
私が投稿した理由というのは、
「擁護」(かばう)という感覚からではなくて、
スレ主のような愚かな勘違者に対してその間違いを指摘し、
本来の正しい仏教的理解について提示したいが為です。
その上で否定するのならば、どうぞご自由にということ。
そして、私は宗門寺院の関係者ではなく、
また仏教系新興宗教の者でもありません。
ただ個人的に原始経典を読みつつ真言宗の信仰を実践している者です。
“葬式仏教”という意味合いについては様々な問題があり、
高額な戒名料や多額布施の問題については私も遺憾に思っています。
尚、日本仏教の僧侶が導師を執り行う仏教式葬儀については賛成の立場です。
私からの主張の要点は、
仏教は万人に等しく因果応報/自業自得を説く。
仏教(ブッダ)の説く前世は弟子たちの修行の達成によっても同様に確認され、
また、科学的な調査によっても認めざる得ないデータが膨大に蓄積されている真実だということ。
そして、己れの無知を棚上げして、ブッダ(の教え)を誹謗中傷する者は
地獄に堕ちる可能性があるので注意を喚起する。
他の投稿者の立場は知りません。 ポルポトって数百万の人間を虐殺したって言われてるけど
この場合命令しただけで実際には手を下してはないですよね
どういう報いを受けるんですか
数百万の人を殺した責任で数百万回殺される運命に定められるとしたら輪廻転生に数千万年の歳月が必要になりますよ
そんなのありえるんですか 不幸な死は前世が悪いと言う話の元は
阿含経と他にあるのかな?因みに
オウム真理教の教祖麻原と幹部の林は
阿含宗にいたんだよね。 >>364
単なる私の個人的な理解としてですが...。
自分の命令によってどうなるかは本人、
もちろん分かってるわけですから、だから命令してるわけです。
それは直接に手を下してはいなくても当然、殺人という悪業のカルマからは免れないでしょう。
ただし、ただ単純に×掛ける何人とはならないものとは思いますが。
また、もしかしたら、
その時代によっても殺人のカルマの重さというのは変化するかもしれない...。
殺し合うことが生存に不可欠であり、そのこと自体は善でも悪でもない野生動物から進化した人類も、
やはり時代を遡るほど殺し合いの日常さとその当たり前度は増してくる。
そういう時代における殺人と現代とではカルマの重さには違いがあると。 >>365
そういったオウムによる殺人テロ犯罪と
仏教とを結びつける単純理解は愚かな誤解に過ぎないのですぐに止めるべきです。
殺人の罪の重さを説いて悪を正し、たとえどんな困難の中にあろうとも
ひたすら地道な努力と善を為すようを説き続けてきたのが仏教なのだから。
基地外教祖なんてのは何でもやるのです。
それはどんな宗教の中からも、また無宗教者からも現れる。
阿含経というのは原始経典の一部です。
それは普通、漢訳された四阿含経のことであり、
パーリ五部聖典中の四部経典部分に相当するものです。
つまり、未漢訳のパーリ語原始経典もあるということ。
それと勘違いしてる者がいると思うのでいっておきますが、
過去世からの業報という仏教理論は原始経典に限らず、
成立の全く異なる後代の大乗経典によっても同じく説かれています。
これを説かないものは仏教ではありません。
更に、オマケでいっておくと、
仏教の兄弟的な宗教のジャイナ教と
親戚的な位置合いのヒンドゥー教といったインド宗教の全般のみならず、
元々、本来は前世の業報を説いていたことが判明してるイエス
(後のキリスト教はこれを変色して教義から抹消)に、
そして当然、イスラムもユダヤも同じく聖書宗教の兄弟ですから。
このわたしから言わせれば、これを説かない宗教はすべて似非だと保証しておきます。
当然、否定する個人の僧侶や宗教者らもすべて似非者です。
正確には、悪気はない単なる無知誤解者たち。 >>367
自分が知りたいのは阿含経以外に不幸な死は前世が悪いと
いう教えと、とれる経があるのか?ということです。
つまり、阿含経だけなのか?と言うこと 仏教というのは三世因果を説くから阿含経以外の経典も宿業論に立ってるよ >>370
正解。
>>368-369
>過去世からの業報という仏教理論は原始経典に限らず、
>成立の全く異なる後代の大乗経典によっても同じく説かれています。
>これを説かないものは仏教ではありません。>>367
と、述べた通りです。
仏教は、
自己の行為に拠る等価な(自己への)果報を説く。
自分に起きる不幸も当然、自己に原因なくして起きよう筈がない。
今生にその原因がないのならば、それは前世に決まってる。
自己に元となる悪因無くして、自己に悪業が襲う筈がない。
それが万物の摂理です。 他スレに質問して答えが来なかったんだけど
仏教って、偶然はないって教えなのかな?
ナポレオン風に言えば仏教に偶然の文字は無い。 >>372
はい。
すべての事象には必ず原因と理由があります。
ただ我々の目から見て、明確な原因や理由の分からないものを「偶然」といってるに過ぎない。
そして、殆んどの物事には大した重要性がないことが殆どでもある。 そして...
>仏教は、--中略--
>それが万物の摂理です。>>371
このことが
本当に正しく人々に理解されるならば、
もう決して、自己の不幸を他人のせいにすることは止めるようになるでしょう。
そしてもちろん、それは今流行の報復テロなどという馬鹿なことも
当然、この世界からは完全に消えることを意味する。
地道な苦労と努力は無意味ではなく、
そして、陰に隠れた知られざる善意ですら
いつか必ず実を結ぶのだということの確信が得られるでしょう。 >>364
数百万人も前世が悪い人たちがいたわけだよね?
こんなの本気で信じるような人間が増えたら最悪。 >>375
あなたと話しても無意味だけれど、
これを見ている人の為に投稿します。
カルマの作用には国家のカルマ、民族のカルマ...といった大きく集団で働くものがある。
要するに、民族丸ごとで背負っている大きなカルマというものもある。
つまりは運命共同体ということであり、運命を共にしているのです。
同類のカルマを背負った者同士が一つの地域に転生する。
時には、同類のカルマで以て集団で転生する。
そして、同じく死を迎えるということも起こる。
しかし、死ぬ運命にない者がその時を逃れて必ず延命する。
物事は実はすべてそうなっている。
人々はそのことを知らないだけ。
もちろん、
何百万のその何倍ものもっと多くの前世の善良な人々がいる。
当たり前の話です。 訂正:
×「死ぬ運命にない者が」
○「死ぬ運命にない者は」 >>272
> >>0270
> 私の個人的な理解としては、
> 前世の業により非業の死を遂げる運命に無い人は、
> その時、その場所に居合わせることがない筈です。
> 逆に、その運命に生れた人はその時、その場所には必ずそこにいるのです。
> 航空機墜落事故でもそうです。その運命にない人は結局、その飛行機には乗らない。
> 逆も然り。その運命にある人は必ず乗ることになる。
> 前世の殺人において、
> その時の被害者が今生で仕返し殺人をしてくるケースなども考えられる(退行催眠の前世療法などによると)。
> その人は、前世の殺人者と同時期に転生して相手と必ず巡り合う。そして、思いの復讐殺人を行う。
>
> 信じない人は、そんな馬鹿な...という。
> しかし、これがすべての真実なのだろうとこの私は見ています。
> まっ、もちろんすべてのケースではないでしょうが、これが基本的なものの見方でしょう。
>
> 人間、いずれすべての前世が見える能力を自分自身が身に付けたときに、
> なるほど“それ”として理解するのです。 >>277
> >>0276
> 当然、復讐殺人をした者はその行為の苦しい果報を受けるでしょう。
> カルマの法則は自然の摂理です。
> だから復讐などしなくとも、悪しき行為をした者はその分の報いを受けるのです。
> なのに、わざわざ自分から復讐などをしたら、結果的に自分自身が地獄の苦悩を味わうハメとなる。
>
> 死刑制度も直ちに廃止すべきです。
> 死刑などしなくても、犯罪者はその報いを受けるのです。
> 人々がそのことが心から理解するならば、死刑制度も社会から不必要となるし、
> 第一、自ら犯罪を犯そうとする者そのものがいなくなってしまう。
> 「誰も見てないから...」といった犯罪行為は、結果的に自分を苦しめるだけです。
> つまり、この社会から意図的な犯罪は完全に消滅するのです。
> もちろん、警察も司法も不要です。
> 世界から戦争が終焉し、兵器はすべてガラクタと化す。
>
> その実現は、
> この業報輪廻の法則を真実として理解し受け入れることなのです。
> これ以外に完全な平和社会の実現は絶対に在り得ません。 >>382
“秘教(トランスヒマラヤ密教)の教え”によれば、
この太陽系だけでも人類の魂の数は約600億あるという。
つまり現在、地球上に転生しているのはその1/10にしか過ぎない。
その他の多くは、転生を控えた休息状態にある。
申し訳ないけれども、
あなた方の単純で浅はかな否定論などはものの数秒で論破できる。 >>383
>>1だけど、あなた方?
もしかして自分も論破したつもりでいるの?
ゴータマ?しか根拠に出せない人が?w ○○様が言った○○経に書いてある
こんなのは根拠にも何にもならない。 >>272
> >>0270
> 私の個人的な理解としては、
> 前世の業により非業の死を遂げる運命に無い人は、
> その時、その場所に居合わせることがない筈です。
> 逆に、その運命に生れた人はその時、その場所には必ずそこにいるのです。
> 航空機墜落事故でもそうです。その運命にない人は結局、その飛行機には乗らない。
> 逆も然り。その運命にある人は必ず乗ることになる。
> 前世の殺人において、
> その時の被害者が今生で仕返し殺人をしてくるケースなども考えられる(退行催眠の前世療法などによると)。
> その人は、前世の殺人者と同時期に転生して相手と必ず巡り合う。そして、思いの復讐殺人を行う。
>
> 信じない人は、そんな馬鹿な...という。
> しかし、これがすべての真実なのだろうとこの私は見ています。
> まっ、もちろんすべてのケースではないでしょうが、これが基本的なものの見方でしょう。
>
> 人間、いずれすべての前世が見える能力を自分自身が身に付けたときに、
> なるほど“それ”として理解するのです。 >>277
> >>0276
> 当然、復讐殺人をした者はその行為の苦しい果報を受けるでしょう。
> カルマの法則は自然の摂理です。
> だから復讐などしなくとも、悪しき行為をした者はその分の報いを受けるのです。
> なのに、わざわざ自分から復讐などをしたら、結果的に自分自身が地獄の苦悩を味わうハメとなる。
>
> 死刑制度も直ちに廃止すべきです。
> 死刑などしなくても、犯罪者はその報いを受けるのです。
> 人々がそのことが心から理解するならば、死刑制度も社会から不必要となるし、
> 第一、自ら犯罪を犯そうとする者そのものがいなくなってしまう。
> 「誰も見てないから...」といった犯罪行為は、結果的に自分を苦しめるだけです。
> つまり、この社会から意図的な犯罪は完全に消滅するのです。
> もちろん、警察も司法も不要です。
> 世界から戦争が終焉し、兵器はすべてガラクタと化す。
>
> その実現は、
> この業報輪廻の法則を真実として理解し受け入れることなのです。
> これ以外に完全な平和社会の実現は絶対に在り得ません。 調べたら輪廻転生説いてるのは仏教が元祖じゃないね
インドに仏教以前からあった思想でヒンズーとかヨガとかジャイナ教とかも受け継いでる
それ以外だと紀元前のギリシャにオルぺウス教とピタゴラス教っていうのがあってこれもだいたい同じこと言ってる >>389
その通り。
世界中の古今東西を問わず、
霊的に高い境地へと到達した本物の聖者ならば、
この事実に気付かぬ筈がないのです。
これを説かない宗教者は似非か、
まだまだレベルが低過ぎるかのいずれかです。
意味がやや異なってきますが、「再生」と「復活」を含めれば
まず殆どの歴史的な宗教は該当します。
まっ、科学的なデータもすでに数千と蓄積されているところなので
いずれそう遠くない日には、社会的にも既成の事実として認められることでしょう。 >>390
389書き込んだ者だけど俺は別に肯定派じゃないからね
オカルト大っ嫌いだし
神や仏を餌にして悩み苦しむ民衆を自分たちの家畜にして金をまきあげる宗教という詐欺師の集団は完全否定しますよ
科学的なデータ(笑)とかいう与太話で社会に事実として認められるわけないだろ >>383
滑稽。このレス見ると自分は頭がいい人間と思い込んでる。
今度はヒマラヤ密教とか持ち出して、こんなの根拠に
「論破」だって。 >>391
>金をまきあげる宗教という詐欺師の集団
詐欺紛いの一部のクソ坊主らと
仏陀であられるゴータマの教えを一緒にするな!!
味噌と糞の違いも分からん人たちよ!
>科学的なデータ(笑)とかいう与太話
それでは、
ヴァージニア大学のイアン・スティーヴンソン博士の研究データ、
あらゆる科学的検証において疑わしいケースを取り除いても、
それでも尚且つ、
「転生」(生まれ変わり)として認めざる得ないものとして認定された事例、
その2300件以上の存在について。
そのまともな具体的反論を提示願う。
>>391-392
まずは、
>>182>>220>>224>>322のリンクページをすべて読んだ上で、
ちゃんと個々の部分をピックアップしてから具体的に反証してもらいたい。
まず、あなた方お二人からどうぞ!! それから...
もし批判をするのならば、
この私からのこれまでの投稿すべてを読んだ上でお願いする。
まともな内容であれば相手するから。
レス番に洩れがなければ、
>>162.>>165-166.182.186.197-198
206.214-215.220.224-225.227-228
231.234.267.272-275.277.287-290
320-322.324-326.330-331.>>333-334
363.366-367.371.373-374.377-378
そして、>>383.390.393です。 >>394
根拠もなく平気で死者を冒涜するのが仏教。
だから如来からの尊い教えもヒマラヤ密教
の教えも何の根拠にならないと言ってるんだよw
自分は、根拠もなく平気で死者を冒涜する
仏教の教えを問題にしてる。 ○○様が言った○○経に書いてある。
ヒマラヤ密教の教え。こんなのは
根拠にも何にもならない。 自分は>>323にすでに書いてる。
>>383のヒマラヤ密教の数字だけど
科学的根拠があるの? なんで組織つくりたがるんですか
その絶対服従の上下関係は何のために必要なんですか?
ピラミッド状の構造をつくって自分が一番上にふんぞりかえって下から養分吸い上げるためだろ
どの宗教も全部アウトだよ
糞と味噌を一緒にするなってまるで味噌があるみたいに言ってるけど全部糞だろうが >まっ、科学的なデータもすでに数千と蓄積されているところなので
> いずれそう遠くない日には、社会的にも既成の事実として認められることでしょう。
wwwwwwwwwwww
みなさあ〜〜〜〜〜ん、大嘘ですよ〜〜〜〜ww
騙されたらだめですよww フ〜ン。。。
蓋を開けてみれば案の定というべきか...
まさに期待外れの野次レベルの投稿ばかり。
あなた方は理論的な投稿ができないのか?
>>399の人などは、
事実に対して目と耳を塞ぎ、
肯定情報はすべてヤラセということにしてしまう可哀想な人です。
もう、素直に敗北を認めてしまったほうがいいと思うが...。 >>395-397
また、
いつものスレ主か?
私は、あなたとの対話は殆ど終了したものと思ってる。
あなたが納得しないのは勝手なのだが...
あなたが投げかけてきた疑義についてはこの私はすでに答えています。
また、もっと異なる発言があるのならば対応しますが。
(過去レスを参照のこと)。
あなたはこれまで何度も、
「ゴータマが根拠か?」といっては非常にご不満そうですが、
仏教の教えの根拠がゴータマにあるのは当たり前の話。
逆に、そうでなければ仏教ではない。
あなたは何か...まるで科学的事実のようなことを仏教の教えに対して求めているようですが、
仏教というのはそもそも宗教であって、最初から科学などというものではないから!
宗教というのは主観の次元であり、それは自己の体験によって内的に確認されるものです。
科学はまったく異なる!!
そして実際、レベルが遅れているのが科学の方なのであって、
つまり、科学の発展が仏教の教えの正しさの確認をしていくことになると。
基本的にゴータマの教えに間違いというものはないのであって、
それだからこそ、彼は「仏陀」と呼ばれるのです。
現在、転生(生まれ変わり)についての科学的な研究は、
ヴァージニア大学のイアン・スティーヴンソン博士の研究と、
そして、精神科医のブライアン・L・ワイス博士による退行催眠が二大潮流となっている。
http://www.brianweiss.jp/about/ >>397
「魂」を科学で捉えることは不可能。
次元が違う。最初から科学的手法には限界がある。
トランス・ヒマラヤ密教は叡智の覚者方によって授けられたもの。
科学が未来の発展によって捉えることが可能なのはメンタル界までです。
現在までのところ、まだまだアストラル・レベルまでは難しいところですが、
しかし、エーテル次元までならば間もなくアカデミー(科学)もハッキリと認知できるでしょう。
実際1939年、精神医学者ヴィルヘルム・ライヒが発見した
オルゴン集積器がエーテル・エネルギーの一部を捉えたものでしたが、
彼が投獄され死去してからはこの発見は忘れ去られてしまった。 >>398
良い問いかけです。
20世紀最高の哲人と称賛されたクリシュナムルティの発言にはこうあります。
『宗教心に国境はない。それは信仰でもなければ教義でもない。あるいは経典テキストや導師グルでもない。
真理は権威者を必要とするものではなく、まして集団に属することは決してありえない。』
彼こそは本物の、ハイアラキーの覚者方の高位の弟子でした。
今日、一人の導師グルを崇拝して追従するという形の宗教しか存在していません。
これが腐敗を生じて堕落し、崩壊を起こす原因なのです。
それは古いやり方であり、そして、間違った方法です。
このような一人の導師グルに追従することを説かないのが
ハイアラキーの覚者方であり、その叡智であるトランス・ヒマラヤ密教です。
そして太古において、同じくそのことを示そうとされた方がゴータマ・ブッダでした。
ゴータマ最後の遺言とも云われている経典をみれば、そのことを明確に窺い知ることができます。
今日、現存する仏教教団というものはゴータマのそれとは違うものばかりなのです。 『アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)
理法を説いた。完(まった)き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在し
ない。『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とこの
ように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は、『わたくしは修行
者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とか思うことがない。向上に
つとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。---中略---
それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし
て、他のものをよりどころとせずにあれ。---中略---
アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧と
して最高の境地にあるであろう、----誰でも学ぼうと望む人々は----。』
(「ブッダ最後の旅」マハー・パリニッバーナ・スッタンタ)
これを読めば分かるように、
ゴータマ自身は自分が崇拝され、絶対的存在としての導師グルだという自覚はまったく持ってはいなかった。
そして、「私に従え!!」ではなくて、「法」(真理/自然の摂理≒ゴータマの説いた教え)と
「自己」(自分自身による確認)を拠所とせよ! を最後の遺言としたのです。 >なんで組織つくりたがるんですか
確かに修行というものは、
元々、本来は実に孤独でたった一人でなされるものです。
『犀の角のようにただ独り歩め』(スッタニパータ)
というように...。
けれども、教えを授けてくれる師が見つかり、
同じ想いを抱く同胞が弟子として集えば、
そこに教団が形成されることになります。
それは、「教え」「教えられ」「協力し合う」関係です。 >>>399の人などは、
> 事実に対して目と耳を塞ぎ、
>肯定情報はすべてヤラセということにしてしまう可哀想な人です。
>もう、素直に敗北を認めてしまったほうがいいと思うが...。
wwwwwwwwwwwwwwwww
また、いじめられたいの?ww
いつでも、徹底的に論破されて、最後はお決まりの
「唯物論があ〜〜〜 、唯物論がああ〜〜〜〜」って逃げ出すのが
パターンでしょ?ww
600億もの魂がいるところって、どこだったっけ?
アストラル界だった?wwww
ええかげんにせえよ、宝珠www 逆に問うてやれ
幸福な死に方なんてあるのか?
あるならどんな死に方だ?
具体的に答えてみろと。 真我(アートマン)というのは不壊ですからカルマに左右されることはないと思います。
唯識でいう阿頼耶識みたいなのにカルマが宿るのだと思います。 >>406
>いつでも、徹底的に論破されて、
あなたは、
仏教の「無我」についても、「輪廻(転生)」についても
この私に一度たりとも議論で勝てたことが無い。
残念ながら進歩がない。
正直、言っては悪いけれども...
唯物論者というのは知性に欠けるw
知性に欠けるから決して理論によって理解することができない。
従って、結果的にはつまり、
自ら物質科学の常識を超えた超常体験を経る以外には決して認めることはできない。
〜と、いうことを私はいつもいってるのです。
だから、続けても無意味だなっ、とw
私は、間違ったことは言ってないから!!
>アストラル界だった?wwww
いえ、魂がアストラル・レベルの筈がないでしょう
魂は、アートマ―(霊的意志)、ブッディ(直感)、マナス(高位メンタル界)の
霊的トリアッド(三位一体の特性)の中で活動しつつ、
魂それ自身はブッディ界層に在って、ニルヴァーナ界層・アヌパーダカ界層・アーディ界層の
霊的トリアッドで働くモナッド(真我)と肉体との架け橋としての役割をしています。
アストラル界層はメンタル界層よりも更に一つ下の界です。
アストラル界層での活動がアストラル体、つまり、いわゆる心霊レベルです。 >>408
はい、その通りです。
その阿頼耶識が「魂」ジーヴァです。
これはアートマン(真我)ではありません。
魂は、真我と肉体パーソナリティを繋ぐ媒体の役目であり、
繰り返し転生を経験しつつ、体験を蓄積しています。
一定レベルの経験を経るまでは卒業できません。 >>いつでも、徹底的に論破されて、
>あなたは、
> 仏教の「無我」についても、「輪廻(転生)」についても
> この私に一度たりとも議論で勝てたことが無い。
wwwwwwwwwwwww
そりゃ勝てんがねww
お前は、いつも論破されたら、逃げ出すんだもんw
如何にお前の言動が非科学的であるかを実証しても、お前の回答はいつも同じw
⇒「それはまだ、科学が進歩していないからわからないのです。いずれわかります。」
なんて逃げ出すだけでしょ?www
お前の神智学とかいう頭のおかしな宗教によれば、そのアストラル界だとか、なんちゃら界
の存在も、いずれ明らかになるんでしょ?www
そして、覚者になれば、何万年も食事をしないで生きられたり、空も飛べるんだっけ?www
ええ加減にせえよwww パーピマンは2号氏と同じく松本史郎の基体説を立ち位置にしているが、
五蘊仮和合と認識する主体、五蘊無我であると認識する主体について尋ねると答えられず逃げる。
2号氏もこの質問には答えられず逃げるのは一緒w >五蘊仮和合と認識する主体、五蘊無我であると認識する主体について尋ねると答えられず逃げる。
wwwwwwwwwwwwwwww
何言ってんの?
五蘊無我と認識する「主体」・・・・・と主体を設定すること自体、
(勝義視座における)仏法ではないんだがww
いちゃもんつけてくるのは、勝手だが仏教は、勝義と世俗の二諦設定にせざるを得ない
ことくらい理解してから、絡んで来いよ、初心者くんww >>413
ほれ、まともに答えられてないだろうw
最後は初心者で誤魔化す、分かんないなら最初から分かりませんと言えよ、低脳w >>413
何が五蘊無我と認識するのかハッキリしろよw
二諦などで誤魔化せると思うなよww 勝義視座では五蘊無我というのなら釈迦は己の何を持って五蘊無我と観察したのか答えてみ? >>414 wwwwwwwwwwww
何にもわかってねえじゃんw
勝義視座なら基体という概念すらなし。
「認識する」そして、それを行う「主体」を設定すること自体、世俗視座なのにw
だから、「認識する主体は何か?」 という⇒「問い自体が成立しないの。」ww
>「何が五蘊無我と認識するのかハッキリしろよw 」
こういうこと言うこと自体が仏教をまるで分かってない初心者だということを示しているのw
だから、誤魔化してると思い込むww
悟りスレにでも行って、野狐たちにでも聞いたら?
奴らでもそのくらいのことは教えてくれるでしょ?www >>417
ほう、そうか。
では
>勝義視座なら基体という概念すらなし。
>「認識する」そして、それを行う「主体」を設定すること自体、世俗視座なのにw
>だから、「認識する主体は何か?」 という⇒「問い自体が成立しないの。」ww
そんなことを釈迦は言ったのかい?
言ったのなら何という経典で言ってるのか出典を明記してくれ。 はい、はいwwwwwwwwww
ならね、ウダーナの第八章、第一涅槃関係経でも読んでねw
オレは初心者相手に講義してあげるほどの慈悲心など持ち合わせてないので
(いかんせん悪魔ですのでwww)
後は勝手に自分でお勉強してくださいww まあ、初心者なのに、悟ったというキチガイもいるが
まこととは言わんが >>419
>ならね、ウダーナの第八章、第一涅槃関係経でも読んでねw
それ持ってきたか、パーピマンはウダーナ第八が全く読めてないことを自ら明かしているようなもんだ。
第一ウダーナ第八が勝義視座なら涅槃は実体としてあると釈迦が言ってるがこれは基体とどう違うのか?
しっかり勉強してくださいよ、パーピマンさんw 悟ったなら、抗議は必要ないじゃん
まこととは言わんが >>421 wwwwwwwwwwwwwwww
>オレは初心者相手に講義してあげるほどの慈悲心など持ち合わせてないので
>(いかんせん悪魔ですのでwww)
>後は勝手に自分でお勉強してくださいww >>425
パーピマンはいつもこう言って逃げるのだけは得意だよなwww >>426
wwwwwwwwwwwww
そりゃ、逃げるよww
仏教まったく分かってないアホから見当はずれのチャチャ入れられて、
それを一々、訂正してあげる義務なんてねえからw パーピマンに告ぐ、ウダーナに書いてある勝義の世界、無常ではなく縁起に依らない不変の世界とはなにか?
そして世俗の世界からその勝義の世界にどうやったら入れるのか?
答えてみよ。 だいたい勝義の世界では認識などないというなら今後一切仏教について語るなよw
仏教には真には認識はない、以上で終わりだろ、パーピマンの理屈によるとw
今後二度と五蘊無我とか五蘊仮和合とか語るなよww 恐らくパーピマンは、
禅僧や禅被れに影響されてるから、
トンチンカンな理解になっているのだと思います。
禅というのは、仏典/経典のテキストすらも無視する勝手が平気で何でも在りだから...。
五蘊無我ついてアレコレと認識しているのは、
仮和合の自己である五蘊の「識蘊」に決まってる。
識蘊が人間の「認識作用」を司っており、その「認識主体」でもあるのだから。
ゴータマは更に、この識蘊こそが死後にも継続して存続し、
これが輪廻の主体となっているともハッキリと明言している(ディーガ・ニカーヤ15)。
ただし、これをアートマンであると勘違いしてはならないと戒めているのです。
けれどもパーピマンは、
今時珍しいくらいの堅物ゴリゴリの唯物論者だから、
死後にも存続して時空を超えて輪廻主体として働く識(魂)をアートマンとみてはならない、
ということの意味が全く理解できないのです。
パーピマンの中には、死後にも存続する意識という概念そのものがないからです...。
だから、「魂」と「アートマン」の意味の違いすら何も分からないのです。
で、識蘊のこの死後の存在を通常、
我々は「魂」(唯識派の説く「阿頼耶識」)などと呼んでいるのだけれども、
ゴータマは五蘊無我を説いて、これもそれもアートマンではないとして「非我」を教えたのです。
決して、“アートマンは無い”などと教えたのではないのです。
そして、『ウダーナ第八章』において説かれた、生成されたものからの出離をそれとして覚知しているのは一体、何か?
それは必然的に、生起せず所縁無き境地にて安住する自己のアートマンに他ならない。
従ってつまり、ニルヴァーナを自覚するのはアートマン(本来の自己)だということになるのです。
そこまでゴータマは語らなかったけれども、
掘り下げて真意を解した者には自然とそれとして分かるのです。
南方上座部の長老の中にもそのことを理解してる方はいて、
タイのプッタタート比丘は、「涅槃をアートマンと呼んでも良いのだが、
仏教では人格化を避けてこの表現を使わない」といっている。
要するに、それだけのことです。
〜ということで、
スレの主題からは離れてくるので、無我についての話はこれにて完結とします。
以上 スレ主が、
「神仏仏閣板」にも同類のスレを立てて、
広くこのスレで展開された内容を他の仏教者にも確認してもらおうとしています。
スレ主は仏教について無知であり、素人だからです。
だから、仏教理解についての正しさの確認を求めているわけです。
しかし残念ながら、自ら仏教徒を名乗りつつ実は何も分かってない勘違い者ばかりいるのが、
この世界の実態なのです...(苦笑)。
それと、あっちのスレの発言もあるので誤解されないようにいっておきますが、
たとえ前世の業による不幸に遭遇した人がいるからといって、
わざわざその人の処へとノコノコと出かけて
そのことを告げて来るような愚かな失礼をするようなことは絶対にないということ。
これはごく自然と自己の内に、心静かに納得していくよう自覚を促すものであって、
そして普通は、特に仏教の難しい話などを何も知らない人でも当たり前のように自然と氷解するものです。 「色は無常である。無常なものは苦である。苦なるものはアートマンにあらず。
アートマンにあらざるものは、私のものにあらず。われにあらず。われのアートマンにあらず。
このごとく正しい智慧によって如実に見られるべきである。」
『阿含経』(無我相経)
仏教は、アートマンを立てませんww
それは、有身見 と言って却下されますww
宝珠ああああ〜〜〜 アウト〜〜〜〜〜〜〜wwwww >>1だけど
>>432さん、ありがとうございます。
この話題だと宗教板と神社仏閣板は、けっこう違うんだよね。
こちらは>>41とか宝珠とか言う人のようなレスが多い。
あちらは、こちらとは違うレスがある。 >>434
あのですね...
アウトなのはあ・な・た。
もうアウトどころか、レッドカードで退場失格処分といったところです。
ショウガナイので教えておきます。
「身見」(有身見)というのはですね、これは自分の身体を含めた五蘊存在を実在視する間違いのことで、
五蘊を自己として、自己のものであるとして見ている間違った見解をいい、これが人間の持つ根本煩悩の代表格なのです。
もちろん、五蘊をアートマン(我)として見なしているという言い方でも構いません。
仏教では「五蘊はアートマンではない」として、「五蘊無我」を説く。だから、これはさっきもやった通りですよ。
アートマンというものは元々、五蘊などではありませんから、ゴータマが五蘊をアートマンとして示す筈がないのです。
だから、「身見」という指摘については全然、違いますから。話が違う。
そして、五蘊以外にアートマンが在る可能性をいうことが「離蘊の我」ということになる。
しかし、もしも離蘊の我が在るとしてもそれを覚知できるのは完成者のみであり(『ウダーナ』8:2)、
それ以外の人間には、五蘊ではないものについては結果的に認識され得ないから、
教えとしては役に立たず無意味となるので、仏教ではこれを説かないのです。
で、あなたは自分自身でその経文を引用提示しておきながら、
その意味すらも分からないのかな???
「アートマンではないものは私ではない。私のものではない。
私のアートマンではない」と、ハッキリいってるではないですか!!
これを言い換えるならば、「アートマンでないものは私のものではない。
アートマンだけが私のものである。アートマンが私である」となる。
どう、分かります???
まっ、簡単に分からないなら百回ほど繰り返し読んで下さい。
それでも分からないのなら、もう知りませんから...。
ゴータマは、
「アートマンはあります」という言葉は使いたくないのです。
それを分かって下さい!! ついでに、
「身見」を持ち出してきたからここで言っておきますが、
パーピマン、あなたは根本煩悩の五悪見中の二つ、「断見」と「邪見」とに陥っている、と。
「断見」とは、人間の死後は肉体が崩壊して諸元素へと還元されるだけで、
「死後に存続する意識などは存在しない」という間違った見解のことです。
唯物論の殊、人間の死後の状態と意識とに関するこのような見解のことを仏教では、「断滅(論)」といいます。
ゴータマの在世当時にも唯物論を説く有名な哲学者がいましたが、彼らは六師外道の内に数えられています。
つまり、仏教とは異なる間違った論者として扱われているのです。
あなたはまさか、六師外道の逸話も「後代のデタラメ付加挿入だ」などと抜かす気ですか?
そして「邪見」です。
これは仏教の説く因果の道理をまったく無視したものであり、
人の行為についての善悪の果報を認めず、<「来世」などというものはない>とする間違った見解のことです。
これを仏教では「邪見」といって、人間の持つ最もしてはならない悪い考え方であると説く。
ゴータマの見解はこうです。
つまり、『来世を信ぜざる人は悪事を行う』(ダンマパダ176)と。 >>435
>>432の投稿も私からです。
神社仏閣板は私の印象だと、
御利益信仰者と宗派仏教信者(特に真言宗が多い)が中心だと思います。
そして、経典の内容をあれこれ議論する板ではないようです。
まして、原始経典について論ずることは殆どありません。 めんどくさいので、解説はしないが、全くわかってねえなあwww
>で、あなたは自分自身でその経文を引用提示しておきながら、
>その意味すらも分からないのかな???
> 「アートマンではないものは私ではない。私のものではない。
>私のアートマンではない」と、ハッキリいってるではないですか!!
>これを言い換えるならば、「アートマンでないものは私のものではない。
>アートマンだけが私のものである。アートマンが私である」となる。
>どう、分かります???
小川一乗が詳しく解説してるから100回読んで来いw それからな、「断見」とは、⇒「死後存続などない」と断言することw
釈迦は体験派なので、誰も体験したことないことなど断言しませんww
それは、「無記」ですww
至極、合理的w
「わかりません」が正確な解答。 科学的にも妥当性を有しますなw
しかし、諸条件を考慮すると、当然のことながら、死後存続の可能性は
限りなくゼロの近い・・・・・これ常識ねw
健常な判断力の人にとってはwww しかし、このバカ懲りないなあww
あれだけ、アートマンスレで皆に叩かれてボロボロになったのにw
ほとぼり覚めたらまた繰り返しやがるww
いいか?w
勝手に神智学のようなオカルト宗教持ち込んで、仏教を捻じ曲げるんじゃねえよww 仏教はヒンドゥーの一亜流
全ての現象には因果関係がある
現世があるなら前世もある筈また来世もある筈 パーピマンは松本史郎とか小川一乗とか異端学者の説ばかり挙げるよなあ
そのうち袴谷憲昭も挙げるだろうな >>434
色(肉体)をアートマンであるといった人は誰かいるのかね?
ブッダの考えはバラモン教の正統に沿ったもんでそ それでは、片山一良 からww
無我相経・・・・・
「比丘たちよ、色は無我です。比丘たちよ、もしも色が我であるならば、色は(変化せず)
病にかかりません。また、色に対して『私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。』
と言うことが出来ます。しかし、比丘たちよ、色は無我です。それゆえ、色は(変化し)、病に
かかります。また、色に対して『私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。』ということ
が出来ません。
受は無我です。・・・・・・以下繰り返し
相は無我です。・・・・・・
もろもろの行は無我です。・・・・
識は無我です。・・・・」
と、このように五蘊は無我である と説きます。
五蘊はいずれも、霊魂とかアートマンとか我とかといった実体的なものではなく、相互に依存した
ものでしかない。
「私のもの」という渇愛、「私」という慢心、「私の我」と言う邪見。
このような、(「我」というものがあるという)妄執によらず、如実に正しく智慧によって観よ
と説いています。
・・・・・・・はい、わかりますね?
どこにも、アートマン、真我なるものが存在するなどと書かれていません。
その存在を示唆する記述さえも全くありません。
勿論、「ない」とも言っていません。当たり前です。
あるものの不在を証明するのは、「悪魔の証明」と言って不可能だからです。
賢い釈迦は当然、それを知っています。 よって、アートマンなどないということを五比丘に
一つ一つ実証的に、「はい、これはアートマンではないですね。これもアートマンではないですね?」
と確認しながら、アートマンなどないことを納得させていったわけですw
「ないと断言していない。」⇒「なら、本音はあると思っていたかも?」⇒「いや、絶対にあると
思っていたに違いない」 wwwwwwwwww
アホの発想です。 「無いといっていない」⇒「では、あるんだ」 とはなりませんww
賢い皆さんは、騙されないようにねww 「〔自己が存在することは〕否定できないから、 『に非ず、に非ず』といって〔自己が言外に〕残されたのである。
人は、『これはわたくしではない(idaM na Aham)、 これはわたくしではない』といったふうにして、〔自己に〕到達するのである」
byシャンカラ
シャンカラってアホだったんですね >>439
>小川一乗が詳しく解説してるから100回読んで来いw
以前から知ってますよ。
そして、また今回も読みました。
こういう分かったつもりでいる誤解者はダメですから。
こういうものを読んでフムフム...と、してる内はダメダメです。
>>440
違います。
すべて、何でもかんでも勝手に無記なんかにしないこと。
無記は無記であるし、体験したこととご存じのことは明確に説かれている。
アートマンについては「解らない」ではなくて、ただ意図的に説かない姿勢を採っての無記でした。
ゴータマは、人間の(意識の)死後生存については、よ〜くご存じなのでこれも明確に説かれました。
当然、無記などではありません。
科学がどうあろうとそんなものは無関係ですよ。
科学の側こそが未完の未熟だからです。
従って、仏教を信じない人はそうすればいいだけのこと。
>健常な判断力の人にとってはwww
だから...
仏陀は通常の人間の意識を超越されている方です。
それをあなたは、ただの普通の人間にしてしまおうという愚を犯している。
ナンセンスの極まり!!
>>441
あのですね...
バラモン・ヒンドゥーは「有我」(アートマンは在ると教える)を説き、
仏教では「無我」といって、「アートマンは無い」ものと説く...
などという理解は、すでに化石となった古い学説?ですよ。
まだよく分かってなかった頃の理解であり、当時の巷では一般にもそのような感じに教えられていた...。
ども、もう今では通用しませんから。 >>447
>こういう分かったつもりでいる誤解者はダメですから。
wwwwwwwwww
別に小川一乗 持ち上げるつもりはないが・・・・
600億の魂があああ〜〜〜 とか、
アストラル界ではあ〜〜〜〜 とか、
覚者は一切食事をとらないで何万年でもいきられるうう〜〜〜 とか
喚いてるやつと比べたら、ちゃんと読めてると思うぞwww >仏陀は通常の人間の意識を超越されている方です。
>それをあなたは、ただの普通の人間にしてしまおうという愚を犯している。
wwwwwwwwww
釈迦は普通の人間ですぜw
空も飛びませんw
きちんと80歳で自分の人生を完結されましたww >仏教では「無我」といって、「アートマンは無い」ものと説く...
>などという理解は、すでに化石となった古い学説?ですよ。
wwwwwwwwwwww
そりゃ、神智学のなかでは そうなんだろうよww
現在でも、市販されてる仏教本、学説・・・・どれをとっても「無我」は
仏教の根幹として解説されていますが?ww
中村元が、経典の記述形式をあげて、「正確には無我ではなく、非我だ」と
いったもんだから、オカルトバカが、「仏教はアートマンを肯定してた」
などと騒ぎだすww
経典の記述形式が「非我」の形をとったのは、上記したように、「悪魔の証明」だからw
一つ一つ、確認しながら、アートマンの不存在を比丘たちに了解させていったのw
セブンも言ってただろ?
「記述は非我、内容は無我」wwww >>445
無いものは無いのだからショウガイでしょう!!!
だから、もしも本当に「無かった」のなら、ただそう言えばいいだけこと。
けれども、ゴータマが非ずといったのは、
「五蘊はアートマンに非ず、五蘊の中にはアートマンは確認されない」です。
ただし、五蘊の中には無いからといって
「無い」ということにはならないということについては、
『ウダーナ八章』においても示された通りですよ!!
だから、この前も現れては、
「一切がすべてだから」とか...「涅槃も一切の中にある」とか...喚いて、
私にコテンパンに遣られて消えてった一切バカがいたでしょ! >だから、もしも本当に「無かった」のなら、ただそう言えばいいだけこと。
wwwwwwwwwwww
ただ、「無い」と言ってそれで済むとでも??ww
当時の状況を考えてみればわかることw
当時のインドは、まさにヒンドゥー社会、さらに、そのヒンドゥーに対抗するため
多くの者が自説を引っ提げて真理を説いていた時代w(六師外道に代表されるようにねw)
そんなところに、「アートマンなどない」と宣言すれば、当然、それを証明しなければ
ならなくなる。(そうでなければ、釈迦は嘘つきだ・・・となるしなw)
しかし、それは悪魔の証明・・・ないことなど証明しようもない。
さらに、釈迦はそのような形而上の論争を嫌い、その無意味さもわかっていた。
(そのあたりは、スッタ二パータに詳しいw)
要は、自分の弟子たちが、アートマンの存在などない ということを了解し各自
修行に励めばそれでいいことw
(まさに毒矢の喩えw)
・・・・・・わざわざ、他教とのトラブルを引き起こす愚を釈迦がするわけないじゃんww
お前、釈迦をなめとりゃせんか?www >>448-450
>セブンも言ってただろ?
>「記述は非我、内容は無我」wwww
そうではなくて、
「記述は非我、実際は唯我(実在はアートマンのみ)」
そして、分かってない仏教徒とごく一部の古い学者だけが
未だに「無我(アートマンは無い)」を説くと。
>現在でも、市販されてる仏教本、学説・・・・どれをとっても「無我」は
>仏教の根幹として解説されていますが?ww
こんな具合にですか?
http://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm
ゴータマが語ったのは、
「アートマンではないものをアートマンと見なすことなかれ」です。
ということは、言い換えるならば「アートマンをアートマンであるとして正しく見よ!」
ということにもなるのです。
無我を
「アートマンは無い」ものとして説き始めたのは、
本来のゴータマの教えではなくて部派です。
勝手に部派によって変色されたものが今日まで伝承してしまった...。
その辺のことは、近代仏教学が明らかにしています。
まっ、
あなたは仏教すら理解できないのだから、
神智学が分からないのは当然のこと。
基本のできてない者に、更にもっと難解なものが解せる筈がない。
ただし、その負けん気だけは認めておく。
メゲナイ..その根性はwww
けれど、いい加減にしないと点数が下がる... >>452
だから、無いものは無いとして説き、
それが体験確認されればそれでいいでしょう。
>わざわざ、他教とのトラブルを引き起こす愚を
では、
ゴータマはカースト否定もしなかったの?
エエ??? まっ、所詮
分かってない者とただ延々と...こうして繰り返しても
スレ主に迷惑になるだけだから、取りあえずは辞めましょうよ!!
ただし、勘違いしないように。
逃げるわけじゃないから!!
なんか...あなた、この私に勝ったことにしてるようだけどwww
ヒンドゥーも分かってないくせに....
以上. wwwwwwwwwwwww
いいよw 逃げ出すんなら止めはしないw
確かにスレ主の迷惑だろうからw
最後に誤解するものがいるといけないので、・・・・・
>>453 の誘導のある文は、この「宝珠が編集したもの」ww
当然、各学者の、それも自説に有利な箇所だけを切り取って恣意的に組み立ててる
まがいものです。 こいつは、こういう作業が得意で、さも色んな学者がアートマンを
支持しているかのように装いますが、全体の流れから読むと正反対の見解であること
が殆どなのです。
かつては、アートマンスレで同じことをしましたが、当時は仏教に詳しい碩学たちが
多くスレに常住していたため、その嘘が全部丁寧に暴かれましたww
このスレには、そのような碩学がいないと思ってまた、繰り返したんでしょうww
皆さん、騙されないようにww 原始人にも因果応報あったの?
原始人にも輪廻転生は適用されんの?
ピテカントロプスとかネアンデルタール人とか
魂の最初っていつから?
人の過去世から未来まで見通して全てを超越していたという仏さま(自称)たちなら当然わかってるっすよね
なぜ何も説明しないの? >>457 wwwwwwwwwwwww
輪廻転生論に科学的突っ込み入れると、それは悲惨なことになるww
「地球上の最初の生命は、いったいどこから転生してきたのか?」ww
「もし、地球に小惑星が激突して、地球そのものが完璧に破壊されてしまったら、
地球上の生命はいったいどこに転生すればよいのか?」www
これは以前、他スレで輪廻転生を論じたときやった突っ込みだが・・・・・
輪廻肯定論者の回答が爆笑もんだったw
「輪廻転生とは、何も地球上に限ったことではありません。他の惑星からも輪廻転生
するのです。」・・・・・・
「え〜〜〜〜〜〜〜????? すると、もしかしたら、隣の鈴木さんは、どっか他の惑星の
宇宙人の生まれ変わりかもしれないのか???」
「宇宙人に生まれかわるにしても、クリンゴン星人とかはやだなあww」
・・・・・・もう仏教でもなんでもねえwwww
単なる中二病の妄想話ww >>448-449
この私は別に、唯物論者に笑わられるのは屁でもないのです。
無知の中の最たるものが彼らだからです。
その笑いは、いずれは自分へと向けられることとなる。
私が本当に笑われないようにしたいのは、真の智恵者たちです。
あなたは単なる唯物主義者だから、
あなたの知ってるものというのは普通の西洋栄養学的な知識だけでしょう。
しかし、賢者からの教えは異なる。
生物が他の生物を食している本当に理由は、
植物が光合成によって太陽から取り込んだプラーナ(生命活力)を間接的に摂取するためです。
動物は通常、直接に太陽からプラーナを摂取できないから、草食動物を食するのです。
しかし、修行によって太陽からのプラーナを直接に摂取できるようになったヨーギ(行者)は、
もう食事をする必要がなくなるから不食となる。
それまで食事を得るために費やされてきた膨大な労力とエネルギーは、
こうして更に、自己の意識の集中と成長に当てることが可能となる。
中には希に、イレギュラー的にプラーナ摂取ができる特殊体質の人間というのもおり、
その不食の驚異的な生活ぶりは紹介されています。
不老不死の覚者は何人もいます。
いずれは我々の目にもその姿を現す日がくる筈です。
空中浮遊、空中飛行も仏教で説かれます。
確かに、仏典というのは神格的に盛ってはいますができることは確かです。
仏典のような伝説化した書物ではなく、仏教界において明確に確認されている歴史上の人物には
チベットのミラレパ(1052年 - 1135年)がいます。
ゴータマが80歳で死去されたのは、
アーナンダが師からの延命についての言葉を理解できず、そのことを嘆願しなかったから辞めたのです。
ゴータマはすでに基本的な使命は果たし終えましたけれど、
しかし、弟子たちが望むのならば喜んで自分の寿命を延ばそうとされました。
ブッダにはその気になれば、まったく可能なことです。(マハー・パリニッバーナ・スッタンタ)
ただ、あなたのような人間が理解できないだけです。 >>456
何だか...
どうしても私に勝ったことにしたいようだけど(嘘つき!!)w
この私が、何やら学説を恣意的に組み立ててまがいものを提示すると?
だから、皆さんどうか信用しないように!だって???
〜ならば、
ハイどうぞ!!!(この私の勝手デタラメなどではないことが誰の目にも瞭然となる)
『「非我なるものを我と見てはならない」という最初期仏教の教えからすれば、我すなわちアートマンの存在を否定するもの
でないことは明らかである。むしろ、積極的に、凡人のとらわれている自我観をすてて、真実の自己(アートマン)を実現すべ
きであると教えている。---中略---第一の理由は、原始仏教から部派仏教になると、無我の考え方が変容したことである。すで
に前項で見たように、原始仏教における無我説は、決してアートマンが存在しないとは説いておらず、むしろ実体として固執す
る種々のアートマン論の過誤を指摘して、論理的実践的な意味における本来の自己あるいは真実の自我の探求を教えた。その後、
アビダンマ教学の盛んな部派の時代に進むと、積極的にアートマンは存在しないと主張することとなり、本書の編纂された時代
は、こうした考え方が支配的であった。したがって、仏教の無我説は時代の変遷とともに、その解釈が大いに変わった。』
(『東洋思想5/早島鏡正著「無我思想の系譜」』東京大学出版会刊)
『古い経典ではatmanやattaと言われた我の否定ではなく、atmanでないものをatmanの如くみることを斥ける意味で無我を
説き、atmanをatmanとして正しくみ、“真実の自己をたずねよ”といっているのである。非我なるものを我とみてはならないと
いうのである。この意味で、佛陀の教えは必ずしもインド的なものから全く別であったといってはならないであろう。ところが、
やがて此の“アートマンでないもの”ということが“アートマンを有しない”という形容詞として用いられ、我の存在の否定の
意味をもつようになり、これが、部派佛教の考え方となったのである。』
(武邑尚邦著『東西思潮と仏教思想』) 『anattan(無我、我ならざるもの)の語は、ブッダも使います。ブッダの教えの中で重要な用語です。 これは、「主語+述語」
の文の、述語に置かれます。「苦であるものは、我ならざるものである(=我 ではない)」ということで、「無我」は「我がない」
という意味ではありません。「我ではない」という意味 です。
ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作ることはできないのです。『ブッ
ダ論理学』の【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱うからです。しかし、生じ滅する「色」が、我ならざ
るものであることは、述べることができます。述語には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」という言葉も出
てきます。ただ、いつの頃からか「無我(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代頃かな)』
(石飛道子ヴェブサイト『マニカナ掲示板過去ログ2739.』)
>当時は仏教に詳しい碩学たちが
>多くスレに常住していたため、その嘘が全部丁寧に暴かれましたww
この私に議論で勝てた者はただの一人もいなかった。
ただ無我とは、「アートマンは無い」という意味だとする古い頭の仏教徒が何人も現れて、
その想いを必死に守ろうとして私を口撃して騒いでいたということ。
けれども、パーピマンも気付いたものと思うけれども、
当時は実際、私のようなことを投稿する人は希で殆どいなかった...。
しかし今日、ここ数ヵ月〜1,2年くらいの間に私の主張と同じことをいう者が何人も現れるようになった。
また、中には明らかに、過去の私の投稿文をそのまま複写して語っている人までもいる。
こうして、これまで投稿してきた私の過去の投稿は人々に大いに読まれており、
そして確実に、読んだ人たちに感化を与えているということ。 >>457
>なぜ何も説明しないの?
仏教では、“毒矢の譬え”でも知られているように、
「今、自分がすべきことをしなさい!」(そんなことしてたら毒が回って死んでしまうぞ!)ということで、
ただ知的欲求を満たすためだけの無駄な知識は与えられていません。
確認できない形而上の論争についても修行時間の無駄として戒められており、
問うても非解答だったゴータマの姿勢については「無記」と呼ばれます。
(尚、最小限の死後生存についてと、輪廻転生と六神通などについては説かれています)。
なので、仏教においてはその知識ありません。
けれども「神智学」は違います。これは近代〜に授けられたものであり、
これは古代の仏典の無記とは異なり、最初からあらゆる可能な限りの知識が提供されています
(確認は自分の成長によっていずれの時に事実としてわかる)
これを超えるものは、20〜21世紀中には与えられないといわれています。
質問について神智学的に解答すると、
この惑星に人類の魂が投下されたのは1850万年前のことであり、
金星から飛来したクメラの方々によるものです。
そのトップに君臨する方がサナート・クメラといい今でもこの惑星に留まっています。
聖書では「父」と呼ばれています。 >>458
>単なる中二病の妄想話ww
『仏、仙尼に告げたまわく、「我が諸の弟子は、我が所説を聞きて、悉く義を解せずして、而も慢を起こし、無間等は無間等
に非ざるが故に慢、則わち断ぜず。慢断ぜざるが故に此の陰(おん)を捨て已(おわ)りて與陰(よいん)相続して生ず。是の
故に仙尼、我れ則ち記説せり。是の諸の弟子は身壊(やぶ)れ命終して彼彼(ひひ)の処に生ずと。所以は如何。彼れ余の慢あ
るを以ての故なり。』(『雑阿含経-仙尼経』)
譬えもしも、
この地球が消滅しようとも業が在る限りは決して転生が止むことがないのが仏教の教えです。
何故なら、「我執(渇愛)があるうちは死後に與陰(よいん)を相続して、その者は輪廻転生を止むことはない」からです。
よって、人間のそれぞれ各位は自分の業に適した環境へと自動的に転移して生存を続ける。
尚、それはこの地球が無くなったらの話であり、通常、無秩序にいつでも他の惑星間において転生することはありません。
つけ加えると、この地球での一定の学習を修得し終えた覚者の一部は他の更に高位の天体へと移動していきます。
また中には、ごく稀に他の高位天体からこの地球に堕とされてしまったイニシエートも僅かに。
もちろん、我々よりは遥かに高いレベルの人の話です。 松本史郎は最古期の経典スッタニパータについて
スッタニパータはアートマンを説く反仏教
と言ってるねw >しかし、修行によって太陽からのプラーナを直接に摂取できるようになったヨーギ(行者)は、
>もう食事をする必要がなくなるから不食となる。
wwwwwwwwwwwww
なるほどw ヨーギさんは、何も食べなくて生きられるんだww
>不老不死の覚者は何人もいます。
>いずれは我々の目にもその姿を現す日がくる筈です。
wwwwwwwwwwwww
不老不死の覚者さんねえww
>空中浮遊、空中飛行も仏教で説かれます。
> 確かに、仏典というのは神格的に盛ってはいますができることは確かです。
> 仏典のような伝説化した書物ではなく、仏教界において明確に確認されている歴史上の人物には
>チベットのミラレパ(1052年 - 1135年)がいます。
wwwwwwwwww
空も自由に飛べるとww
>この惑星に人類の魂が投下されたのは1850万年前のことであり、
> 金星から飛来したクメラの方々によるものです。
>そのトップに君臨する方がサナート・クメラといい今でもこの惑星に留まっています。
> 聖書では「父」と呼ばれています。
wwwwwwwwwwwwww
金星、金星⇒どわっはっはっはっはっは〜〜〜〜〜 生命が住んでるんだww
サナート・クメラ???? そいつが、「聖書に出てくる父」????
キリスト教徒が怒るぞww
>つけ加えると、この地球での一定の学習を修得し終えた覚者の一部は他の更に高位の天体へと移動していきます。
>また中には、ごく稀に他の高位天体からこの地球に堕とされてしまったイニシエートも僅かに。
>もちろん、我々よりは遥かに高いレベルの人の話です。
wwwwwwwwwwwwww
「高位の天体」www
ったくw これが中二病でなけりゃ、唯のキチ外の妄想でしょう?ww >>466
>なるほどw ヨーギさんは、何も食べなくて生きられるんだww
はい。
プラーナを直接、空間から摂取する能力を獲得した者ならば食を採る必要はありません。
クリヤ・ヨーガの秘儀を修得した聖女ギリバラは12歳から50年間以上の生涯を不食でした。
あと、稀に現れるイレギュラー的な不食体質者もおり、この日本にも出現しています。
『ギリバラの食べずに生きていられる能力は、パタンジャリのヨガ・スートラ3章31節に述べられているヨギの能力で、
これは幽体精髄の第5中枢であるヴィシュッダ・チャクラに影響を及ぼすある種の呼吸法を用いることによって得られる。
のどの後側にあるこのチャクラは、肉体細胞の原子の内部空間にまで浸透している第5要素のエーテルを制御するため、こ
のチャクラに意識を集中することによって、エーテルのエネルギーで生きられるのである。
テレーゼ・ノイマンは食物もとらず、ヨガの科学的技法も用いずに生きているが、これに対する説明は、その個人の複雑
なカルマの中に隠されている。テレーゼもギリバラも、過去世において神に捧げた幾生涯を経験してきたのであるが、その
方法や道は各人各様なのである。食物をとらなかったキリスト教の聖者の中には、シーダムの聖リドヴィナ、レントの聖女
エリザベス、シーナの聖キャサリン、ドミニカ・ラザリ、フォリグノの聖者アンジェラ、および19世紀のルイス・ラウトな
どがいる。また、フリューエの聖ニコラスは、20年間断食した』
(パラマハンサ・ヨガナンダ著『あるヨギの自叙伝』森北出版) >不老不死の覚者さんねえww
ババジの不老不死は現実のものであり、この三方弟子は当然のこととして、時折、インド最大のヒンドゥー祭典クンブ・
メーラにはその姿を見せることがあります。ババジは実際、何人にも目撃されており、もちろん西洋人にもその目撃した体験
者が何人もいます。
ババジがヒマラヤ山中で弟子であるラヒリにヨーガの指導された際には、ラヒリのリクエストに応えられて巨大な黄金の宮
殿を物質化して、その中で教えられていました。大師は、普段は睡眠も食事も一切採られることがなく、また時折、エーテル
空間を経て虚空から物質化して出現されるという瞬間移動を随時行います。神智学徒にはババジは三千年はおろか、今の肉体
を数万年の間そのまま保持しているとも知らされています。また時折、あのMaitreya (弥勒仏)ですらも、アドバイスを受け
るべく大師の元へと現れるようです。
神智学徒はババジのみならず、不老不死の覚者については何人も知っています。彼らは皆、数百〜千年の肉体を保持してい
ますが、しかし時折、その肉体を(思念力によって)再び新しく造り替えてしまいます。よって、ババジのような超長期の肉体
保持というのは確かにごく希なできごとです。
信じられないのは無理もないことですが、歴史上もっともよく知られている不老不死の覚者はラコーシ覚者でしょう。
フランス革命の時代に実在の歴史的記録が残されており、サンジェルマン伯爵として非常に有名な方です。かのナポレオンも
この覚者とは出逢っており、そして、警告を受けた体験を持ちます。また、有名な秘密結社『薔薇十字会』を起こした謎の人
物もこの覚者によるものです。
これらの不老不死の覚者は確かに実在していますが、通常、歴史の表舞台には現れることがないので、よって人々に知られ
ることがないのです。大衆に知られ認知されるのは、ヒンドゥー世界に時々出現されるラーマクリシュナのようなアヴァター
です。 >空も自由に飛べるとww
はい。
>近代にも実在したヒンドゥー行者の空中浮遊の事例や >>321
>金星、金星⇒どわっはっはっはっはっは〜〜〜〜〜 生命が住んでるんだww
>サナート・クメラ???? そいつが、「聖書に出てくる父」????
>キリスト教徒が怒るぞww
通常、金星での彼らはエーテルレベルで生存しているために我々には不可視なのです。
このサナート・クメラが聖書に出てくる父なる神であり、ヘブライ語では「エロヒム」といいます。
これは「天空から飛来した人々」という複数形であり、そして更に、聖書ではもう一つの神を立てており、
「ヤハウェ」(主なる神)と呼ばれます。これが実際上のセム系一神教にとっての泣き所なのです。
神智学徒は、父なる神とは人類に魂を吹き込まれたサナート・クメラとして、
主なる神とは万物創造のロゴスとして理解します。
>「高位の天体」www
神智学が説くところによれば、この太陽系にはまだ知られていない三つと他に七つ(ヴァルカン系、金星系、地球系、木星
系、土星系、天王星系、海王星系)の合計10の惑星系スキームが存在しています。この惑星系には、またそれぞれに七つの所属惑
星(アートマー天体、ブッテイ天体、高位メンタル天体、低位メンタル天体、アストラル天体、エーテル天体、濃密物質天体)
を抱えて構成されています(保有構成は各惑星系で異なる)。
この地球の進化レベル(惑星ロゴスの進化レベル)はこの太陽系内では下位の方にあって五つ(未発見含む)の非神聖惑星の中
の一つです。神聖惑星は七つあります。また、太陽系ロゴスの進化レベルは銀河系内における下位の方です。だから、まだま
だ様々な問題が起こります。
もう間もなく科学は、バルカン等のこれまで未発見だった太陽系惑星の存在を確認するでしょう。 ホラ吹きのホラを真に受けんなよ
変な本とか経典とか片っ端から読んでなんでもかんでも信じすぎでしょ?
基本全部つくり話で嘘だと疑ってかからないと頭いかれるよ
もう手遅れっぽいけど パーリ中部の小業分別経(Culakammavibhanga-sutta)というお経では、次のようにあります。
世尊はつぎのように言われた。
「青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は殺生者となります。
残忍で、手を血に染め、殺戮に耽り、生き物に対する思いやりがありません。
このように遂行し、このように引き受けたその業によって、かれは身体が滅ぶと、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。
もしも身体が滅び、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわらず、人間の状態を得るならば、どこに再生しようとも短命の者になります。
青年バラモンよ、これが短命に導く実践、すなわち殺生者となり、残忍で、手を血に染め、殺戮に耽り、生き物に対する思いやりがないこと、です。」 >>473
死んだ後地獄に生まれるとかやたらいうけどその地獄っていうのは何なの?
生まれるっていうのは母親から赤ん坊として生まれるの?それとも空中にポンと現れるの?
どういう場所?
火が燃えてる場合その炎の燃料は何?
炎の温度は?
そこに時間あるの?
そこの一日は何時間?
地面あるの?
地面あったとして惑星のような球体それとも永遠に続く平面?
そこの重力は何G?それとも無重力?
空気はあるの?
大気組成は?
気圧は?
気温は何度?
肉体を維持するための食べ物はどうなってんの?
おしっことかうんことかするの?
服は?裸?
布団なしで寝れる?
一回生まれたらずっとそこで生活するの?それとも地獄での人生にも寿命あって死んだりするの?
誰一人具体的に説かないのはなんで?
その話をそばで聞いてた弟子はなんで誰もつっこまないの? 以前、外国ドラマのインベーダーや謎の円盤UFO
に登場する宇宙人は見た目、地球人とほとんど
変わらなかった。日本のアニメ、宇宙戦艦ヤマト
も同様。肌の色が違うくらい。因みに昔のSF小説
に出てくるタコのような宇宙人は、かなり前に否定
されてるような記事を見た記憶がある。地球人が
輪廻転生して宇宙人になる可能性については五島勉の
書いた「カルマの法則」に書いてあった。しかも
宇宙人のほうが上の存在のような。この「カルマの法則」
と言う本だけど、名前こそ出してないが書かれてる
内容は創価学会、そのものだったw むしろ釈迦は悟ればだけど
悟れば死に方は関係ない救われると言ってた 輪廻転生も仏教宗派によって違うよね?チベット密教や
創価学会は動物にも生まれ変わるとしてるけど仏教系の
霊能者の中には人間は人間にしか生まれ変わらない
と言う人もいた。あとチベット密教は解脱すると
生まれ変わらなくなり、それが最高の状態だよね?
でも、創価学会は徳の高い人間(つまり、創価学会員の
仏界や菩薩界の人間)ほど、死んでもすぐに生まれ変わる
としてる。仏界や菩薩界の人間には、のんきに死んでる
暇は無いのだとか。どれがホントなんでしょうか?
あるいは全部嘘なんでしょうか?w >>472
とても素晴らしい情報の紹介ページをありがとうございました。
『私はとうとうある手づるを得て、バードワンの大公に調査を薦めてみました。”こういうわけで、大公はギリバラを
宮廷に招いて、テストをした。宮廷の中、ある部屋に軟禁状態になり、2か月間 ギリバラが食事をとらなくても生き
れるかどうか、所謂 実験を試みた。それが証明されたが、さらに、20日間、そして三度目には15日間の宮廷滞在で
厳重な審査を受けた結果、やはり、いずれも、ギリバラが完全な絶食状態でいるということを断定したというのだ。』
(飲まず食わず排泄物が50年以上ない) >>472
と、ここでは紹介されていますけれど、この事例だけに限らず人類の歴史上、
これまで本物の聖者や覚者による奇跡や神通が完全に疑いようのない形で示されたことは何度もあるのです。
その場にいた者は皆、驚愕して地に触れ伏すこととなり、これまでの自分の非礼を詫びることとなる。
けれども永い年月を経るとその事実は忘れ去られ、再び唯物論者たちが蔓延り、それらは昔の迷信として嘲笑される。
人類全体としては、この同じ歴史の繰り返しをしているだけであまり進歩していない。
彼らは、仏典の奇跡神通の描写を単なる神格化の迷信に過ぎないと一掃しますが、
これらは、確かに多少の誇大な盛付けがあるにせよ、基本的にはすべて本当にあった事実を述べたものであって、
仏典の内容というのは基本的に嘘と間違いがないのです。
人類が、古代の頃とは一つだけ違う点としては、
科学の発展においては量子論がこれまでの古典的な濃密物質科学の常識を覆す理論を提示するようになったことと、
著名な科学者の中にも超常現象に対して真剣に取り組むことで、
その現象の真実性を確信するに至った方が何人も出現してきていることです。
いずれにせよ、
そろそろ再び唯物論者たちが地に触れ伏して非礼を詫びる日が近づいてきているのだと思う。 >>473
これは簡潔明瞭な経文ですね。
短命に終わる人の原因について、その仏教的な説明がここでは明確に説かれていますね。
それが事故死なのか、または生れつきの難病大病なのか...
「すなわち殺生者となり、残忍で、手を血に染め、殺戮に耽り、生き物に対する思いやりがないこと」
そういう人間は、「人間の状態を得るならば、どこに再生しようとも短命の者になります。」
『人がもしも善または悪の行ないをなすならば、かれは自分のした一つ一つの業の相続者となる。
実に業は滅びないからである。』(ウダーナヴァルガ9-8)
『悪い事をしても、その業(カルマ)は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。
しかし、来世におもむいてから、悪い行ないをした人々の行きつく先を知るのである。
のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起る。』(同9-18)
と、ゴータマは教えています。
そして、これらのことはゴータマは自分自身で確認してきた上で語っているのだと述べています。(中部経典130)
業作用の実に恐ろしいことは
本人にとっては前世の記憶などはなく、まったく自分自身は身に覚えがないことです。
しかし、それでもまったく容赦しないところが恐ろしいのです。
だから、仏教では繰り返し悪事を慎んでひたすら善に励むよう説くのです。 そして中には、まったく勘違いしている者までいて、
仏教では不幸に見舞われた者を「悪人めザマーミロ!!」と嘲笑しているなどという馬鹿タレもいます。
もちろんそうではなく、だからこそ一日でも早く人々に
これらの恐ろしい業の働く世界から脱して安住するように説き続けるのです。
苦しんでいる人には哀れみと同情を以て接し、そのような人々を援けてあげなければならないことを教えます。
それが仏教の“慈悲の実践”の教えです。
プライベートな話をすると、実は、
私の愛する妻の父親は妻がまだ高校生だった頃に炭鉱での不慮のガス爆発事故で、
まだ40歳くらいの若くして死去しています。
娘(私の今の妻)を溺愛していて、嫁に出すことは考えられないなどといっていた父だそうです。
妻との出会いは、他人の紹介に拠る全くの偶然的なものでしたが、
これこそ不思議なご縁というもので、実は私の父親もかつての炭鉱マンであり、
話をしてから分かったことは、私たち二人の父親は実にまったくの同時期に
同じ市内の炭鉱(別炭鉱の別会社)にて働いていたことを知り(私の父は73歳にて炭鉱原因の塵肺で死去)、
私の妻とはなんと同じ中学校をお互いに知らずに、2-3年のズレで通っていたのです。
妻との結婚においては、互いの父親はすでに亡くなっていたので双方、共に互いの義理父に直接お会いすることができなかった。
ですが、私はもちろん妻の義理父へのご挨拶と供養も欠かすことはありません。
つい先月が三十三回忌の法要なのでしたが、
今月は私からの発案で、事故死した炭鉱地へと赴いて慰霊碑での供養のために
今回初めてという妻の母親も連れて行ってくる予定です。
当たり前の話ですけれど、いつも日々の感謝の精神で挨拶しています。
残念ながら、亡くなられた方に出来ることというのは慰霊と供養それだけなのです。
「悪人めザマーミロ!!」などではありません。 >>474
地獄とは、
死んでから転生前で堕ちる世界のことであり、
また、転生後に受ける業報の悲惨な苦しみも、これまた地獄といえるでしょう。
>>115 >>333
通常、転生という場合には再び人間として生を受けることをいい、
仏典は、「母胎から母胎へと生まれる」(スッタニパータ)と説きます。
そして母胎に魂が宿るときの一連の神秘については、
チベットの死者の書『バルドソドル』という密教経典がとても詳しく、そして、生々しく描写しており、
神智学的にも、これはほぼ事実に即した正確な内容であるとして高く評価しています。 やはり地獄に関する投稿は難しいのかな?
参考サイトページのリンクを貼ろうとしても規制エラーが激しくできませんw
ごめんなさい。 増一阿含経/瑠璃王経
このスレ及びあちらの側のスレでも取り上げられているのが、増一阿含経の『瑠璃王経』です。
これについて少しだけ述べると、隣国のコーサラ国(瑠璃王)が釈迦族に復讐しようとして兵を出してきます。
ゴータマは三度までは親族の人々を滅亡から救おうとされましが、四度目の進撃の際には、
神通第一のモッガラーナからの「神通力を発揮してカピラ城を鉄柵で囲い上げてこの危機を救済しましょうか?」との申し出を断り、
そのまま因果応報の理にまかせられた (この受けざる得ない業報からは決して逃れることはできない) という。
当時の釈迦族一同は、元王子であったブッダであるゴータマに帰依してその教えを守っていた。
不殺生に徹する釈迦族の放つ矢は瑠璃王の頭髪を通過するだけで、彼を殺すことをしなかったという。
こうして最後に、釈迦族はコーサラ国の瑠璃王によって滅ぼされたといわれています。
ゴータマの教えによれば、この釈迦族たちの虐殺は
過去世において彼らが河に毒を投げ込んだことによる報いであると説かれました。
そして、日常でもよく使われている“仏の顔も三度まで”という言葉は、
なんとこの経の話が元となってるということです。
この業報からは逃れられないから諦めるという話は、
モッガラーナの最後となった惨殺事件と同じくして重なるものです。>>330
神通を使って逃れていた彼も、これでは切りがないことを悟り、
潔く過激派の暴君に惨殺され散り散りの肉片と化したとされる。 >>480
追記:
非業の死を遂げた妻の父親のことを思うと、私はとても悲しいものを感じます。
自分の帰宅を待っている愛する妻と子供たちを残して、
地表から数百メートルもの炭鉱の暗黒の地底の中で死ぬというのは、
一体、その無念さというのはどういう気持ちなんだろうか?と。
せめて普通に地上で死にたいものだと...。
ただ幸いなことは、遺体は無事に家族のところに帰ったということ。
これをこじつけと思う人もいるかもしれませんが、
私と妻の誕生日は、私が先の同月の一日違いであり、
そして、互いの父親の命日もまた、私の父親が先の同月の一日違いなのです。
だから、誕生日と実家に帰ってのお参りも私たちは連日続き。
そして、退行催眠からみた前世データによれば、
夫婦とか親子というものは、何生涯かを繰り返しその関係を続けるパターンが多いということなので、
恐らく、私達夫婦はこれまで幾度もの人生を共に
夫婦や兄弟や親子といった関係として繰り返し続けてきたのだと思っています。
そして、今生でまた、再び必然の巡り合いを果たしたのだ、と。 >>484
追記:
因みに、
私の方の父親が事故死することなく、恐らくは自分の寿命を全うできたというのは、
私の母親の優れた霊感体質に理由があり、母が事故の悪い予感や予知夢を見て父の出勤を止めれば、
まず必ずというほど案の定の坑内事故が発生して、死者や怪我人が出たのです。
そういうことが何度となく繰り返され、父は危機を間一髪で回避してきました。
だから、神仏やオカルトはあまり分からない無知な父も母の霊感だけは、
いつも絶対の信頼を持っているのです。 阿含経って「長」「中」「雑」「増一」
とか種類があるんたね。三省堂本店行ったが
「長」と「雑」はあった。 >>486
----漢訳四阿含経典----
・雑阿含経
・別訳雑阿含経
・雑阿含経
・中阿含経
・長阿含経
・増一阿含経
----パーリ五部聖典---- (和名)
・サンユッタ・ニカーヤ 相応部経典
・マッジマ・ニカーヤ 中部経典
・ディーガ・ニカーヤ 長部経典
・アングッタラ・ニカーヤ 増支部経典
・クッダカ・ニカーヤ 小部経典
・ダンマパダ 法句経
・ウダーナ 自説経
・イティブッタカ 如是語経
・スッタニパータ 経集
・テーラ・ガーター 長老偈経
・テーリー・ガーター 長老尼偈経
・ジャータカ 本生経
これらが原始経典群です。
パーリ五部の上から4経典までは漢訳4阿含経にそのまま対応します。
しかし、クッダカ・ニカーヤには漢訳経典はなく、
良く知られるスッタニパータやダンマパダはこの部類に入ります。 山梨の日◯宗の総本山である、身◯山久◯寺の内部の僧侶らが、憲法違反を犯したらしい!
今、弁護士らが介入して、法の下に勝負してるらしい! 行為のどこからが善でどこからが悪なのか
マナーにしたって法律にしたって善悪の境界線なんて人が勝手に決めてあると思い込んでるだけで自然界にはそんなもの存在しない
善い行為と悪い行為によって未来の幸福や不幸が決まると言ってるがこれを言った奴は善いか悪いかをどういう基準で判断したんや
人が善悪を決める場合裁判によって見解が分かれる時がある
最近よく見る音楽の著作権についてはどっちが悪でどっちが善?
憲法を改正するさせないとかテロ法案成立する成立させないってもめてるが熱心な人達は敵対する相手側を悪だと言って非難してる
これはどっちの言い分が正しいのか
NHKの受信料は同意なしに全ての人からむしり取る派と見てないから払わなくていいだろ派はどっちが悪でどっちが善?
自衛隊は憲法違反?
マンガやゲームのキャラクターを使った同人誌やパロディはグレー、パチンコもグレーな感じで放置されてるがこれやるのは悪業に入るのか?
大麻やギャンブルは国や時代によって法律が違ってて環境によって合法だったり善悪が変わってくるが善悪によって人の運命を決めるやつはなんといってる?
交通事故のような過失で相手を死なせてしまった場合はどうなる? >>490
憲法違反者は、れっきとした犯罪者です。 酒は善か悪か
「密造」なる言葉があるが許可なく酒を造ることは(人の決めた法律が関係ないものとして)善か悪か 妊娠中絶は殺人にあたるか否か
因に応じて果報を与えるというのは誰の基準で判定されるのか >>492
>妊娠中絶は殺人にあたるか否か
これは元々、「罪」や「悪」ということではありませんが、
飲酒は修行の妨げとなる傾向が大きいものなので、
戒律の「飲酒戒」[おんじゅかい](不飲酒戒・不飲酒)として規定されているものです。
在家に対しては戒めであり、僧侶であれば本来は全面禁止です。
>>493
「堕胎」についての明確な仏教的説明はないかもしれません。
がしかし、これを単純に“殺人行為”であるとして捉えるのならば、
現代における狂信的なキリスト教の伝統原理的主義者らとなんら変わりがないでしょう。
これについての私の個人的理解を述べるならば、
殺生の悪の中でも「大」と「小」の二つに分けられるものであるのならば、
堕胎はこの内の「小」側のものでしょう(最小限の罪悪はある)。
望まれないで生まれる可哀想な赤子がなくなるよう避妊はなされるべきで、
また、レイプなどといった悲惨な妊娠などについては中絶も止む得ないでしょう。
その場合は、妊娠4カ月以内でなるべく速やかになされるべきです。
何故ならば、魂が胎児に受肉するのが4-5カ月の時だからです。
>因に応じて果報を与えるというのは誰の基準で判定されるのか
「法」(自然の摂理)です。 *上記投稿、アンカー>>494は間違えました。
以下の内容にて訂正します。
>>492
>酒は善か悪か
これは元々、「罪」や「悪」ということではありませんが、
飲酒は修行の妨げとなる傾向が大きいものなので、
戒律の「飲酒戒」[おんじゅかい](不飲酒戒・不飲酒)として規定されているものです。
在家に対しては戒めであり、僧侶であれば本来は全面禁止です。
>「密造」なる言葉があるが許可なく酒を造ることは(人の決めた法律が関係ないものとして)善か悪か
人を騙す(秘かに欺く)行為は明確な悪業の一つでしょう。
なので、たとえ人間が勝手に作った法律ではあっても
これを尊重して節度よく守ることが仏教的にも推奨されます。
仏教が法律違反を説くことはありません。 >>493
>妊娠中絶は殺人にあたるか否か
「堕胎」についての明確な仏教的説明はないかもしれません。
がしかし、これを単純に“殺人行為”であるとして捉えるのならば、
現代における狂信的なキリスト教の伝統原理主義者らとなんら変わりがないでしょう。
私の個人的理解を述べるならば、
これについては殺生の悪の中の「大」と「小」の二つがあるのならば、
堕胎はこの内の「小」側のものでしょう(最小限の罪悪はあるけれども)。
望まれないで生まれる可哀想な赤子がなくなるよう避妊はなされるべきで、
また、レイプなどといった悲惨な妊娠などについては中絶も止む得ないでしょう。
ただしその場合は、妊娠4カ月以内でなるべく速やかになされるべきです。
何故ならば、魂が胎児に受肉するのが4-5カ月の時だからです。
>因に応じて果報を与えるというのは誰の基準で判定されるのか
「法」(自然の摂理)です。 だからその法とやらはどういう基準で善悪を判定してるのかってことでしょ
天とか神とか法とか表現は違えどどこの宗教もその存在は説いてる
大事なのは中身よ
人間のような好き嫌いの偏見や喜ぶ怒るなどの感情や善悪があるのかどうか
これは善、これは悪、これは好ましい、これは好ましくない、これはセーフ、これはアウトをどうやって判定しているのか
それを詳細に具体的に解明し説明するのがすじでしょ
くだらない宗教組織つくってその法を拝ませたり頼らせたり集金したり上下の階級つくって自分を一番頂点にまつり上げたり無駄で無意味な経典を山ほどつくったりする前に 富士山は「高い」と言われるけどエベレストから見れば「低い」
北海道は寒いけどフィンランドに比べれば暖かい
残飯やうんこのにおいは人からしたらくさいけどハエにとってはいい香り
味の美味い、まずいもスタイルのいい悪いも美人かブサイクかも比較対象によって、また個人の好き嫌いによって感じ方は全然違う
心が清らか、心が穢れている
行為の善、悪
聖、邪
浄、不浄
それは何から見て、何と比べてそう見えるのか
どこから見て善いのか悪いのか
何と照らし合わせて、善なのか悪なのか
偏差値50に相当する中間点、絶対の基準点が「法」だというならその中身をなぜ説かない?
「善を積めば幸福になり悪行を積み重ねれば苦痛を受ける」
だからその善とは? 悪とは?
「善いこと(僧侶へのお布施)をして悪いこと(戒律に反すること)をするな」
こんな糞みたいな迷信ではない本物の善悪を説いた人いるの?
仏さま覚者さま(笑)の語る主観と偏見と好き嫌いと曖昧さに満ちた善悪なんかどうでもいいんだわ 三世因果って、釈迦が言ったんですか?
そして、この言葉は経とかに出てくるんですか? >>497-498
あなたからの指摘と疑問点は尤もなことです。
確かに一見すると善悪というのは相対的なものであって、
時代や地域や民族宗教によって、そして、個人によっても様々に異なる善悪の法規や認識に絶対的な基準はあるのか?
仏教の説く善悪の基準はどのようにして確認されたのか? そして、それは一体、何によって定められたものなのか?
(ただし、絶対性のない相対的なものという意味では確かにそれらは該当しますが、
富士山は高いか低いか...などのあなたからの譬えというのは、元々、善悪とは関係ありません)
人間の命を奪う殺人行為に至っても、
古代の迷信的宗教においては神に捧げられる生贄は善であり、生贄となる本人にとっても光栄なことであったりもする。
そして、なんとも恐ろしいことに、今でも、神の名の元に異教徒は皆殺しにすることが大いなる善とする集団も存在しています。
彼らには、罪の意識すらもそこにはないかのように見える...。
私からの返答はこれはあくまでも、
仏教の説くところに限定される話となるかもしれませんが、
しかし、仏教徒であるならば皆、このようなブッダの教えを受け入れて
これこそが真理であると見なして信仰しているものと思います
(そうでない人というのは、分かってない人です)。 仏教の説く善悪の基準は、実は単純明瞭なものです。
自己を“害する行為”が「悪」であり、自己を護り援けることが「善」なのです。
人間はそれぞれ自己こそが最も尊いものであるから、相手にとっても同様に尊い相手の自己をも護れかし、と。
そして、人間存在の尊重が絶対のものであり、他の生命はそれに準ずるものとなります。
このことは瞑想の究極における神秘によって確認されたものです。
すべての人間はその本質(本性)においては一つであるという事実を知ることによって、
他人を害する行為が実は己れを害することになるのだという真理です。
「害」とは、苦痛(肉体的)や苦悩(精神的)を与えることをいいます。
従って、殺人行為はその対手に与える苦痛の最大限にして、
尚且つ、相手のその後の生存における進歩を阻害するものであるから最大の悪事です。
ということで〜、仏教における生活の一番手は無害であることです。
これが非暴力の実践の教えです。
これらの基準に立てば、その応用によってあらゆる事柄についても判断ができる。
これを犯した者が死後にたどる行き先とその末路についても、
ゴータマは自分の目で見て確認した上で教えを説いているのです。 『心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、けがれなく、やわらかで、たくみで、確立し不動になったときに、多くの
人々の死と生を知ることに心を向けた。
すなわち、わたしは清浄で超自然的な天眼によって、多くの人々が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑しい人と高貴な人、
美しい人と醜い人、幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれぞれの行為に従っているのを見た。
「じつにこれらの人々は身体で悪い行為をし、ことばで悪い行為をし、心で悪い行為をし、多くの聖者を非難し、よこしまな見
解をもち、よこしまな見解にもとづいて行為をする。かれらは身体が壊れ死んだ後、悪い所、苦しい所、地獄に生まれる。また、
他のこれらの人々は身体で善い行為をし、ことばで善い行為をし、心で善い行為をし、多くの聖者を非難せず、正しい見解をもち、
正しい見解にもとづいて行為をする。かれらは身体が壊れ死んだ後、善い所、天界に生まれる」と。
わたしは、このように清浄で超自然的な天眼によって、多くの人々が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑しい人と高貴な
人、美しい人と醜い人、幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれぞれの行為に従っているのを見た。
バーラドゥヴァージャよ、これが夜の中間の部分において得られた第二の明知である。ここに無明が滅び明知が生じたのである。
暗闇は消滅して光明が生じたのである。それはつとめ励み、努力している人に現れるのである。』
(中部経典第100経「サンガーラヴァ経」)
いっぺんに説明することはこの私にもできませんけれども、
しかし、今後も私からの投稿を真剣に読んでいくならば、
あなたにもその内、追々と意味が分かってくるでしょう。 『心の中であらゆる方角をめぐってみても、自己よりもさらに愛しいものにめぐり会うことはなかった。
そのように他の人にとっても自分がとても愛しい。それ故に自己を愛する人は他人を害してはならぬ。』
(サンユッタニカーヤ.T,p.75)
『もしも自己を愛しいものとであると知ったならば、自己を悪と結ぶなかれ』。
(サンユッタニカーヤ.T,p.72)
『自己を制して悪を為さず、若いときでも中年でも聖者は自己を制している。かれは他人に悩まされることなく、
また何人も悩ますことがない。諸々の賢者は、かれを聖者であると知る。』
(スッタニパータ216)
『生きものを(みずから)殺してはならぬ。また(他人をして)殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害す
るのを容認してはならぬ。世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、すべての生きものに
対する暴力を抑えて──。』(スッタニパータ394)
『すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身をひきくらぺて、殺してはならぬ。殺
させてはならぬ。すべての者は暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。已が身にひき
くらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によっ
て生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。生きと
し生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せ
をもとめているが、死後には幸せが得られる。』(ダンマパダ10:129-132) 以下、辞書から
【五逆罪】
(1)母を殺すこと,(2)父を殺すこと,(3)僧(阿羅漢)を殺すこと,
(4)仏の身体を傷つけること,(5)教団の和合一致を破壊することの5種の罪をいい,
無間地獄(絶え間なく苦痛が襲い続ける最悪の地獄)に堕ちる罪であるから〈五無間業(ごむげんごう)〉ともいう。
尚、仏の教え(正法)を否定し誹謗することはこの五逆罪よりも重いとされる。
【十不善業道】
身業(身体的実行為)
殺生(殺人、及び故意に生き物を殺す)
不与取(盗み、与えられていない物を自分の物とする)
邪淫(不倫、道徳を逸脱した関係の性行為)
口業
妄語(嘘をつく)
綺語(飾った言葉でへつらう)
粗悪語(暴言を吐く)
離間語(他人を仲違いさせる)
意業
貪欲(激しい所有欲を抱く)
瞋恚(激しい怒りを持つ)
邪見(善悪の業報と輪廻等を否定する見解を持つ) >>499
「三世因果」とは、
人間には前世(過去世)・現世(現在世)・来世(未来世)
の三世に渡って因果律が伝わっていることをいう。
もちろん、ゴータマ・ブッダの基本的で最も重要な教えです。
仏教の根幹部分です。
>>273-275などに紹介した経文を読めばわかります。 >>489
個々の行為と出来事というのは、
その当事者の意図、つまり、故意であったかそうではないかによって大きく違うでしょう。
故意でなくとも相手が死んでしまえば、人が死んだという殺生の事実は確かなこと。
ただし、故意ではなくてただの事故的な結果であれば、それは最小限のものであろうし、
態とであれば大きな罪悪です。
「自衛隊」についていえば、
自国の安全を自己責任において防衛する手段としては正当なものでしょう。
ただし、使用せずとも相手を殺傷する道具の所持という意味での最低限の罪を背負うかもしれません。
また法律との関係でいえば、法律違反と知りつつであれば偽った行為としての罪は負うかもしれず、
そうとは思わないものであったとしたならば、殺人兵器の所持に限定される罪か...。
これは例えばの意味ですが、そのような微妙な判断が実際には作用するのではないかと思います。
商法がらみもそう。目的と意図と手段の総合的な結果で決まるのでしょう。 しかし、この私がどうにも疑問でならないのは...
例えばパーピマンのような今時、珍しいくらいの頑な思考状態の唯物主義者というのは、
実際に自分の愛する家族の、つまりは母親とか息子とか...、
或いは、妻や結婚を誓いあっていた恋人とかが突然死しても、
その死者に対する冥福を祈る心はないのだろうか?
ということ。
なんとなれば、
彼らの考え方というのは、人間は死ねばそれですべてが終わりなのであり、
死者はただ単に、自然界の物質的な各諸元素へと還元するだけに過ぎないというのだから、
これにはまったく以て、恐れ入る。
祈りを届ける相手の主体(パーソナリティ)はもはや何も無いといっているのだから、
当然、慰霊などという考えも無いから死者供養もなされる筈もないということ。
こんな人間ばかりだと世の中たまったもんじゃないと思う。
葬儀通夜、年忌法要などでも、
見た目だけでは同じくお線香や供物をあげたり、そして、手を合わせていようとも、
そんなものは社会的なマナーに沿ってただ慣習に従っているだけでしょう。
つまり、心の無い外見上の形にしか過ぎない。
そもそも唯物主義者というのは、
仏典から見てもわかるようにゴータマ在世の当時からいたものですが、
しかし、このような思考が人類の価値観の主流となったことは歴史上ただの一つもない。
唯物論が近代以降の社会でピークだったのは、産業革命の時代。
人々は科学の発展こそが、人類をより豊かで便利な生活を提供するものとして信奉したのです。
たしかに、科学は我々に多くの便利さをもたらしたが、また同時に多くの苦悩と問題を生じさせてきた。
それは人類の存続すら危ぶまれる事態となった...。 それから、
こういう人達から見たお仏壇の位牌などというのは、一体、何として映るのだろうか?
こんなものは所詮、儒教的価値観と道教経由の祭祀からきた祖霊崇拝と見るだけのことか?
巷の仏教解説ではよく、
インドの宗教では輪廻の生まれ変わりを説くから、
ヒンドゥーにおいても仏教においても元々、「先祖供養というのはない」などと平気が書かれてあったする。
しかし、これは大間違い。
ヒンドゥーにおいても、
ピトリ・パクシャの先祖供養期間(満月から新月に掛けての二週間)と祥月命日(年一度の月日同日の命日)においては、
現代日本の仏教と殆ど同じようにして、燈明と華と香と供物を捧げて祈り、神と先祖霊を勧請して供養します。
ただ日本との決定的な違いは、お墓を持たないということ。
死者の遺骨は聖なるガンジスに流し、死者の霊魂は存続しているから供養をする。
すでに他の人間や生命体に転生しているかもしれないけれども、これらの供養の行為は無駄ではなく、
効果をもたらすものとされる。
ゴータマも然り。
今日の日本仏教に繋がるような、祖霊への供物を捧げての供養を説いている。
そして、施餓鬼供養が先祖供養へと繋がる大切なものなのだが、
これについてはまたいずれの機会に。
『実に次の五つのしかたによって、子は東方に相当する父母に対して奉仕すべきである。―
「われは両親に養われたから、かれらを養おう。かれらのために為すべきことをしよう。家系を存続しよう。
財産相続をしよう。そうして、また祖霊に対して適当な時々に供物を捧げよう」と。
実にこれら五つのしかたによって、子は東方に相当する父母に対して奉仕すべきである。
また父母は次の五つのしかたで子を愛するのである。すなわち〔1〕悪から遠ざけ、〔2〕善に入らしめ、
〔3〕技能を習学させ、〔4〕適当な妻を迎え、〔5〕適当な時期に相続させる。
実に子は、このような五つのしかたによって、東方に相当する父母に奉仕し、また父母はこれら五つのしかたに
よって子を愛するのである。このようにしたならば、かれの東方は護られ、安全であり、心配がない。』
(シンガーラへの教え/善生経) >>224で投稿したように、
ダライ・ラマ14世というのは転生者の典型例であって
(だからこそ、前13世の転生者として認定されたのです)、
子供時代には実際、前13世当時の記憶を保持していたといわれているのです。
それだからこそ、厳しい転生者探しの厳格なテストにも合格して転生者として認定された。
なのに...
神社仏閣板スレの投稿54の、
ダライ・ラマが「私自身は転生してるのかどうか確信がありません」
などと語ったなどということは到底、常識では考え難い話です。
もし読めるものならば、是非ともその出典を知りたいところです。
そんな話は聞いたことが無い。 それから>>437で、
私は彼のことを「断見」と「邪見」とに陥っている、と指摘したけれども、
これは根本煩悩「五見」中の「辺見」(本来、「断見」の意味)と
十結煩悩の「無明」(「邪見」と俗念に妨げられて真理を理解することができない無知)に該当するもの。
更に言えば、彼はもう一つ「十結煩悩」中の「五下分結」煩悩である「疑惑」を犯している。
これは、ブッダであるゴータマの教えそのものに対して、常に“疑惑の眼”を向けることをいう。
これはつまり、
ブッダが倒れて最後に亡くなられるまでの45年の間、一貫して説き続けてきた聖なる教え、
そして、その後の二千五百年間も弟子たちが命懸けで継承してきた大切な教えである仏典経典の記述を、
己れの勝手未熟な判断から、単なる神格化や迷信、後代の付加挿入に違いないとして決めつけて素直な心を開かないこと。
この「五下分結」煩悩中の三結、つまり、「身見」「疑惑」「戒取」を断じないで人生を終えた者というのは、
死後に“三悪趣に堕ちる”可能性が非常に高いとされる。
三悪趣とは、すなわち「地獄」「餓鬼」「畜生」の三界のことをいう。
三結を断じた者は聖者の流れに入るので「預流」ヨルといい、「須陀洹」となる。
更に修行者は数回の転生を繰り返しながら、「斯陀含」「阿那含」の境地を経て、
最後には遂に「阿羅漢」となる。
http://way-to-buddha.blogspot.jp/2011/05/blog-post_2482.html wwwwwwwwwwww
まあ、なんていうかねw
後代において仏教に混入したヒンドゥー的価値観を仏教の本義と勘違い
するバカは、いつの世にも絶えないんだがww
釈迦は、「我が弟子は、葬儀などに関わるな」とはっきりいってるのだがww
世俗的通過儀礼は、インドにおいてバラモンが取り仕切っており、仏弟子たちはノータッチ
だった。少なくとも釈迦在世のころはねw 葬式も含めてw
それが時代が下るにつれ、ヒンドゥー的儀式の混入により、仏弟子たちも関わるようになっていったの。
最もいけないのはカッサバなんだがww
とくにそれが顕著になるのは、仏教がインドからアジアに広まるにつれて、その生活習慣から
葬式にか関わらざるを得ないように変遷していったのw
(その辺は、渡邊氏と奈良氏の考察参照w)
先祖供養についても、勿論、釈迦は「否定」はしてないw
釈迦は決して土俗信仰を否定することはなかったw(それはトラブルを避けるためにねw)
釈迦の教説をきちんと理解すれば明らかなように、先祖供養においても
⇒「世俗のレベルにおいて、その習俗の範囲内で推奨している」にすぎないのw
これは、世俗の人々において、「妻を愛し、子を愛し、幸せな家庭を築きなさい」と教えているのと
同様ですw つまり、一般世俗倫理として説いてるのw
地獄などにおける言及も同じw
倫理的要請において、それを方便として説いているに過ぎないw
アホはそれが、わからず、「釈迦は・・・・・・を説いていたああああ」とやるww
⇒「仏教はダブルスタンダードなり」・・・・・・・ホントこれが分からんバカばかりwww >>511
>釈迦は、「我が弟子は、葬儀などに関わるな」とはっきりいってるのだがww
いやそれは、
“出家僧は修行に専念すべきであるから”という意味であって、
それは葬儀そのものに対する否定ではない。
当時から、祭祀(葬儀含め)はバラモン司祭を通じてなされればそれで良いものとされていた。
そして、そのバラモン司祭に布施することで先祖(死者)供養になると説いた。
そもそも仏教における葬儀というのは、“ゴータマ自らが父であるスッドーダナ王の葬儀を執り行ったこと”に起源する。
まったくヒンドゥー教の混入などの原因ではない。
日本仏教界の一般的僧侶たちはまさに現代の日本バラモンです。
彼らに布施をして、葬儀と年忌法要を営むことは先祖供養のゴータマの教えに見事に合致する。
>釈迦は決して土俗信仰を否定することはなかったw(それはトラブルを避けるためにねw)
> 釈迦の教説をきちんと理解すれば明らかなように、先祖供養においても
>⇒「世俗のレベルにおいて、その習俗の範囲内で推奨している」にすぎないのw
そんなテキトウなものではなく、
これは具体的な内容でも以てゴータマ自らが指示したものです。
あなたは知らないのでしょう!
>地獄などにおける言及も同じw
>倫理的要請において、それを方便として説いているに過ぎないw
確かに、
地獄界の描写はやや脅し的な道徳的方便の可能性が高いかもしれないとは思うが、
来世における苦しみの転生こそ、まさに生き地獄の生存(生涯)となるのは必至。 死後転生するとか因果とかカルマとかはインドで古くから言われてたことだろ
ジャイナ教でもヒンズー教でもヨガでもみな同じこと言ってる
なのになんでそれを「仏の教え」と勝手に言い換えて仏教がオリジナルみたいな横取りをするのか
ゴータマが説いてる内容も過去の誰かがすでに説いたことで瞑想や座法を編み出したわけでもない
全部ゴータマ以前の誰かがすでに受け売り
本当に称えられるべきはそれを発見した人じゃないのか
なんで功績や名声の泥棒みたいなことしてんの?
仏教が新発見したことなんかある? ×全部ゴータマ以前の誰かがすでに受け売り
○全部ゴータマ以前に誰かが言ってたことの受け売り 513.
新発見の問題ではない。
その内容が問題となる。
その真否の問題である。
宝珠はバカ丸出しである。 >>502
「清浄で超自然的な天眼」とは?
「地獄」とは?
「天界」とは?
地獄は苦しみに満ちたこの世のことを例えて言うこともあるのでまあこれ以上つっこまないとしても天界は放置できない
天界といったらもう完全にこの世のことじゃないですね
そこはどこにあってどんな仕組みで成り立ってる世界なんでしょうか具体的に?
>>503
人間はみんな動物殺して食べてますがそれが悪で菜食主義が善だと? >>503
>諸々の賢者は、かれを聖者であると知る
賢者とか聖者と言うのは誰によって認定されるんでしょうか
経典が説く賢者と愚か者、聖者と一般大衆、善人と悪人、これらを分ける明確な境界線はどこにありますか 517.
それは、その内容による。
その内容を判定せよ。 >>504
「五逆罪」
僧を殺すのが普通の人を殺すより重い罪で無間地獄におちて仏教を否定するのがさらに重い罪?
殺されたのがキリスト教やイスラム教やヒンズー教や神道の宗教関係者だったらどうなるんでしょうか
これ仏教の僧の命だけが他より特別で重要だからとりわけ優遇され特別扱いされるって言ってますね
>>510
「十結煩悩」中の「五下分結」煩悩である「疑惑」
仏の教えを疑うのが煩悩?
これらはどう見ても仏教徒が自分本位な特権意識で勝手に定めた私心に満ちた創作の罪にしか見えませんが
本当に自然の摂理とか法(ダルマ)と呼ばれる公平無私な存在がくだした判定なんですか?
>死後に“三悪趣に堕ちる”可能性が非常に高いとされる
何パーセントの確率で?
こういうのって仏教徒が自ら十不善業道と定める「妄言」に該当してませんか >>509
チベットの人達は本当に気の毒だと思いますが迫害されるっていうのは前世でどんなことをしたんですか
ダライラマ14世だけに限れば前世もダライラマでそのまた前世もダライラマでずっとダライラマであることがわかってんでしょ
歴代ダライラマがどんな悪行を? >>503追記
参考:
『これは、99人ともいわれている連続殺人を犯した恐ろしい殺人鬼、盗賊アングリマーラ(指の首飾り)が仏陀
の弟子になった物語です。
アングリマーラは何十人束になっても適わなかった自分のところへ、人々の制止も訊かずに平気で向かってくる仏
陀を自分の100人目の生贄として狙うことにし、その背後へと回った。仏陀に迫ろうとして全力で進んだが、何か不
思議な力を発揮していて、普通に歩いている筈の仏陀には遂に追いつくことが出来なかった。その不思議に驚嘆した
アングリマーラが、立ち止まって仏陀にも同様に立ち止まるよういった。
ところが仏陀から返った言葉は、「私は常に止まっている。止まっていないのはお前の方だ」という奇妙なものだっ
た。その真意について再度、訊ねた時の教えで深く感銘して弟子入りし、後に阿羅漢に達したといわれている。
「アングリマーラよ。如何なる時もわたしは常に、すべての生物に対して害心を捨てて、止まっている。しかしな
がら汝は、生物に対して自ら制することがない。それ故にわたしは止まっており、汝は止まっていない」』
(マッジマニカーヤ86/アングリマーラ経/盗賊の帰依)
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1228627644/97-98 >>504で、
()書きの説明が抜けてましたので、ここに追記します。
・身業(身体的実行為)
・口業(言葉による行為/発言)
・意業(想いによる行為/心の想念)
仏教の説くところによれば、行為による業は「身」「口」「意」の三つであり、
それぞれ何れかの一方だけでもカルマを発動させるものとされます。
従って、社会法律であれぱただ想っているだけで実際にしていないというのは犯罪には当たりませんけれども、
業報というのは、ただ心に想っているだけでも発動します。言葉もそうであり、
ネット上への投稿という手段でも同じく然りです。
直接は云えないくせに、ネット上の投稿だと悪魔のような醜い暴言を語る人も同様にいずれは自分に報いとなって帰ってきます。
だから、分かっていて暴言を吐くのならば、最初から自分で覚悟しておくことが必要です。
>>515>>518の投稿者は、
いつも僅か数行だけの俳句のような投稿によって、
ただ横から茶々入れの邪魔をするだけの人です。
無意味なのですでに相手していません。
尚、パーピマンは熱心によく勉強している方で物知りですが
(進歩はないけれども勉強はしてる)、この人の場合にはそれもなさそう...。
>>513以降のhjNKfsSRに対する返答は、また後日。 >>522
考えたり思っただけでバチが当たるとか?
全ての人間がバチ当たりになるじゃんw
例えば気にくわない人間ぶん殴りたいと思っても
バチが当たるのか?会社によってはそうならないように
ストレス発散用サンドバッグを用意してるところもある。
若くて健康な男なら好きな女と交際する以前に
多少の妄想はするw >>524
バチが当たるという云い方は不適切です。
どこかの誰かがバチを与えているのでもなく、
自然界の摂理として“作用反作用の法則”よろしく同等の力で自分に押し返されるのです。
それからもう一つ。想念というものは、それ自体がエネルギーを持ち自然界に対して実際的な作用をしています。
人類全体の想いが粗暴なものから、もっと優しく清らかなものになれば、
天災による自然災害というのは激減するでしょう。
これを見ているあなた方の中には、
このことを理解できる者は少ないでしょうけれど...。 >>525
すると、人々が正当な怒りでも人を殴りたいとか
若い男女が性的な想像をしたりすることが無くなれば
地震も無くなり、雨による洪水も無くなり、落雷も無くなり、
竜巻も無くなり、台風も無くなり、大雪も無くなり、
雪崩も無くなり、土砂崩れも無くなり、火山の噴火も無くなり、
火砕流も無くなると?冗談でしょ? >>526
何も性的欲求そのものは別に悪ではありません。
ただし、異常に情欲しているのならば様々に弊害が生じますし、
当然、出家僧侶においては修行の妨げになったりするでしょう。
人類の持つ破壊的な想念(と破壊的行為)というのは実際、この惑星の持つ気象パターンを乱して、
ハリケーンや洪水の異常多発を招きます。気象を支配するエレメンタル(精霊)を過剰に刺激するからです。
であるから、自然災害のいくつかは本来ならば起こらずに済んだ筈のものです。
人類全体としての思考の乱れが整えば、それに伴って気象活動も穏やかなものになり、
また、航空機などの機械的な異常トラブルなども減って事故が低減するでしょう。
冗談ではなく、従ってそうです。もちろんすべてではありませんが、
あらゆる気象活動と地殻火山活動は人類にとって穏やかになります。
ただし、この惑星自体の持つ根本的な呼吸的活動でもあるので、発生そのものが止まるわけではありませんが。
今のあなた方では到底、理解は難しいでしょうが、
この惑星というのは、自然界と地表の生命たちのすべてが非常に複雑に、そしてより密接に繋がりあっています。
科学はまだそのことを解明しきれていません。
取りあえずは、「ガイア理論」について知るならば有る程度の理解を援けます。
この惑星は、人類を含めて丸ごと全体で一つの有機生命体のようなものなのです。
『【ガイア理論】 地球上において、大気や地殻などの自然環境と、動植物などの生物が相互に影響し合うことで、
地球という惑星が一つの大きな生命体のように活動していると見なす理論。英国の科学者ラブロックが提唱した。』
(デジタル大辞泉) > 何も性的欲求そのものは別に悪ではありません。
そういえばインドのどこかに四十八手のような
体位でやりまくってる仏像?の彫刻のある寺があったね。
日本にも真言宗立川派とか云うのがあった。
密教系は、むしろ励行、奨励してるんじゃないのw
同意さえあればw >>528
それは、男女交合の姿を描いたミトゥナ像のリレーフなどのことですね。
古代インドの最古の性愛論書『カーマ・スートラ』が元となっています。
(観光スポットです。若いカップルで行くと女の子を赤面させてウケるかもしれません)
仏教の説く修行の妨げという意味では、
本来の出家者は男女の交合などはもちろんのこと、(情欲を以た)意識的な接触は厳禁です。
在家についても節度あるものが望まれ、不倫などは以ての外でしょう。
しかし、仏教の諸派でも後代となってくると、すべての人間生活と営みがそのまま修行となるのだから、
性行為についての避けるのではなくて、これも修行として利用し昇華すべきといった見解がでてきます。
タントリズムの導入というものですが、仲の良い夫婦間だけに留めるのならば問題ありませんけれど、
しかし、行き過ぎた見解と性行為は“邪道”そのものになります。
これはつまり、ただ屁理屈を理由を捏ねて自分の性愛に溺れているに過ぎません。
残念ながら、ごく一部では実際に僧侶が在家信者を自分の性愛のための奴隷にして、
性欲を満たすための単なる道具と化していた歴史すらあるという。
その立川流などは邪教の典型だとされます。 まだ返答の途中なのですが、
あまり文章が溜まり過ぎてもと思うので、できたところから投稿していきます。
>>513-514
仏教枠の中では過去七仏(ゴータマ含む)と称して、ゴータマ以前に出現したブッダの存在を示唆しています。
しかしながら、歴史上の実在を確認できる明確な存在は唯ゴータマのみだということ。尚、この「過去七仏」
の概念を含め、確かに教えの殆どの根本部分は仏教のオリジナルといえるものは殆どないのは事実です。
現僧侶たちと仏教解説が高らかに謳う仏教の誇れる独自性として挙げられるのは、「無我」と「縁起」の二つ。
伝統仏教者はこれを仏教教団の尊厳を掛けて死守しようと必死になりますけれども、しかし、この二つにおい
てもそんなに威張れるほど突出した独自性とはいえません。
まず、「無我」についての伝統仏教の理解というのは完全に教えの継承ミスで生じた勘違いです。
本来は、“アートマンは無い”という意味での否定意などではなかったのであり、部派の時代に生じた間違いが
そのまま今日まで継承されてしまったものであることを近代仏教学が明らかにしています(今ではそれが定説)。
また、「縁起」こそが仏教独自の思想であると一般的には説かれるのですが、これもヴェーダーンタ哲学とも大
して違いがない。ただ単に決定的な差異としては、ヴェーダーンタでは事象の生起と変化は神の存在に拠るもの
ですが、仏教では表立って神の存在を語ることをまったくしていないところが違います(平均的仏教徒の多くは
ゴータマは神を説かなかったといい、神の存在を設定しないのが仏教であるものと見なしています)。
しかしながら、実際にはゴータマ自身は神の存在を明確に認められているのです。ただあまりにも当たり前過
ぎる話だから、仏教ではいちいち扱うことをしないということに過ぎないのです。何故なら、仏教の修行では神
への信仰という手法形態は採らないからです(『サンガーラヴァ経』)。 ということで、あなたのこの指摘については私個人は有る程度は認めます。しかしながら、伝統を保守する仏
教徒というものは、バラモン・ヒンドゥー教に対する異常なアレルギーを根深く持っているので、そのような事
実が認めることはまず殆どといって皆無です。認めてる部分というのは、仏教史上における“大乗のヒンドゥー
化”についてだけです。
仏教徒がブッダを過剰に尊大視する心情は容易に理解できることですが、それでも尚且つ、仏教における人間
の転生についての教えはバラモンたちからの受け売りなどではなく、ゴータマ自らがその大いなる超常的能力で
直接に確認したものであり、その人間転生の詳細な内容は仏教独自のものといわれています。当時のインドにお
いてもこのような具体的な中身の伴った転生の教えはなくて、「五火二道説」(「祖先の道」月に行き→雨→穀物
→男性の精子→受胎転生と人間界には戻らない「神々の道」の二つの輪廻)といった迷信的な内容のものでした。 >>516
>人間はみんな動物殺して食べてますがそれが悪で菜食主義が善だと?
通常の人間は皆、自分の生存のためには他の生物を食する必要があります。
これは自分の意志や希望の如何に関わらず、基本的には避けることのできないことですから、
このようなことを人間として生を受けたことの必然的な業の一つということになります。
では、何を食べることが仏教的に教えとして説かれているのか? というと、
まず第一前提としては、殺生と非暴力の観点から見て必然的に動物ではなくて、
植物(野菜と穀物/果物類)を摂取すべきということになる。
何故ならば、“苦痛を与える”という意味において動物というのは植物の非ではないからです。
植物は根本的に動物とは生命形態が異なり、動物のような意味での苦痛はありません。
以前に、“生命はすべて平等で尊い”ものだから、
植物と生きた動物を釜茹ですることにはまったく違いなどはないといい、
人間と動物のいずれか一方の命しか助けられない場合でも、
それはどちらも同じなので選びようがないなどと抜かした基地外がいましたが、
このような人というのは、トンデモない誤解と錯覚で混乱してる人です。
たとえ命という意味では等しくても、苦痛の感受においては同じではありません。
それは当然、植物→原生動物→高等生物→四足動物→人間という順になる。
つまりは生命形態のより高度なものほど殺生し難い存在であるということ。
なので、仏教的には菜食主義(ベジタリアン)がより推奨されます。 尚、肉を口にすればするほど地獄へとまた一歩、そして、また一歩と堕ちて行ってる...
とまでナーバスになることはないと、私からはいっておきます。
狂信的な信奉者は本当にそのように考えたり、相手にもそのようにして説くかもしれませんが、
できれば肉食を止めさせたいがための道徳的な方便です。
人類が進化の過程において、その生存における食生活の中で肉も食べてきたのはごく自然な流れです。
そのことそのものは悪ではありませんから。
ただし、動物を殺生しない方が良いと理解した方にとっては菜食生活は奨められるべき理想となると思います。
あまり、狂信的にならないことです。
尚、仏教においても布施されたものは有難く受けることが推奨されているということと、
「三種の浄肉」については食することが認められています。
この「三種の浄肉」とは、
『仏教の修行者 (比丘) が食しても戒律違反にならない3種類の条件を満たした肉。ある比丘が肉を施されたとき,
その動物が,自分に施すために殺されるのを見ず,自分のために殺されたのであると聞かず,自分のために殺された
のであるという疑いがない場合に,その肉を食べてもよいとされる。』
(ブリタニカ国際大百科事典)
残りはまた後日...。 いくら文献読んでも嘘が書かれていたらそれを読んだみんなが間違うんでそれを避けるためにも信じないことにしてる
いっぱい情報書いてくれるのはありがたいけど
結局事実を知りたかったら自分でなんらかの神通力的な力(これも半信半疑だけど)を得て直で確認するしかないんですかね
でもこっちの方面もオウムみたいにインチキの温床になってるからなー >>534
あなたが、「これが正しいことかの判断つかない」というのであれば、無理に受け入れる必要はありません。
ブッダ自身がいわれたことですが、「自分自身でよく確認しなさい」ということを言ってるわけです。
ただ盲目的に受け入れるのではなくて、その内容をよく吟味することです。
多くの若者が騙されたという当時のオウム教団のことだって、
私のように、これは本物ではないなと分かる人には簡単に分かることですから(唯物主義者の判断理由ではなく)。
麻原の空中浮揚の写真だって、あんなものは飛び跳ねた瞬間の画像であることなどは
髪の毛の動きと乱れ(そして、歪んだ顔の表情など)からも一目瞭然でしょ。
第一、もしも本当に本物の覚者に近い高度な聖者であれば、
あのような「神通力の獲得イコールにて解脱の境地ステージである」などという教え方はしないでしょうから。
つまり、比較が大事です。まっ、皆んな無知過ぎるからから比較のしようもないか...。
とにかく、分からないのならば無理に飛びつく必要はありません。
仏教の教えは、ゴータマ・ブッダ自らが自分で直接に体験して確認した内容です。
そして、弟子たちもその教えに従って実践していく中でその正しさが確認されてきたものです。
そのようにして二千五百年間の永き間、今日まで命懸けで継承されてきたものです。 >>535
補足:
>あのような「神通力の獲得イコールにて解脱の境地ステージである」などという教え方はしないでしょうから。
>つまり、比較が大事です。まっ、皆んな無知過ぎるからから比較のしようもないか...。
私は当時から知っていたことなのですが、本物の覚者というのは、
クンダリーニの上昇と覚醒の仕方といった事柄を入門者や弟子に指導することなどはないですから。
そういうことを指導する導師(指導者という意味合いにしか過ぎず、教えの正しさは保証されない)というのは、
ただそれだけで覚者やそれに近いレベルではないことの証明となるのです。
極意は、「識別」(仏教では「七覚支法」の念覚支の修行)にある。
無知な者たちは、
「それは凄いなぁ〜♪」といって群がる、と。 経だけど、たくさんあるんですよね?
お釈迦様の教えに食い違いや二枚舌は
ないんでしょうか?何故なら日蓮宗系
は法華経こそ、お釈迦様の最高の教え
あるいは、これこそ唯一の教えとか言ってますよね?
すると他の経は、どうなるのでしょう? >>537
何を信じようとも確かに自由ですよ。あなたも。
“法華経こそが最高なんだ”と主張する人々も大勢います(その信奉者たち)。
しかし、これだけはハッキリとしています。
つまり、
歴史上における実在した釈迦族の王子であるゴータマ・シッダッタについて、
その生涯と彼の周辺に起きた出来事、彼自身によって説かれた教えについて知るのに、
「原始経典」に拠らないで研究する学者というのは世界中どこを探してもまったくの皆無であるという事実です。
これを「大乗非仏説」といいます。
私も同じくして、原始経典>>487のみを仏教経典として扱います。
それ以外のすべて、つまり法華経を含めた大乗諸経典群のすべては仏教経典とは見ていません。
そこに登場するお釈迦様の話は創作が多いので、まったく信用には値しません。
大乗諸経典は、後代になってから勝手に創作されたものです。
だから、私はまったく読みません。
『文献学研究の結果では、時代区分として、初期仏教(原始仏教)の中の仏典『阿含経典』、特に相応部(サンユッタ・
ニカーヤ)などに最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、少なくとも「大乗
仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献学者はいない。
-----------------------------------------------------------
大乗経典は口伝伝承を前提としていないため暗記を容易にするような、単純な文を反復するという構成ではなく、その
内容も哲学的なものも多く、明らかに文伝を前提とする文章構造になっている。文献学的観点からは文伝を前提としてい
るのが大乗で、口伝を前提としているのが小乗である。
口伝伝承されており、その発祥時期も大方は明らかになっている小乗の経典に大乗の教えが見られない自体が大乗は口
伝で伝承されず、発生時期が小乗以後であるという文献学の根拠ともなっている。
大乗の経典を否定する上座部仏教の主張では、上座部の一部が経典を文字化した理由は大乗経典のような勝手な経典の
創作からこれまでの経典を守るためであったとされている。』(Wiki) >>517
仏教の説く聖者としての明確な基準は、「須陀洹」(預流果)の境地に達することをいいます。そうすれば“聖者の流れ”に入った
ことを意味し、もう二度と三悪趣(地獄・餓鬼・畜生の三界)に堕ちることがありません。しかも、あと7回程度の転生経験を経て
ゴールであるところのニルヴァーナ(涅槃)に入ることが保証されます。
須陀洹(預流果)とは、十結煩悩における五下分結の三結を断じた者のことです。つまり、「身見」(五蘊を自己とみなす見解)、「疑
惑」(ブッダの教えを疑う心)、「戒取」(誤った戒律・禁制への執着)の三つの煩悩を絶ったことを意味します。
ごく一般の普通の人々というのは、この身体と感覚と想いは自分自身であると、自分のものであると見なしています。 しかし仏
教の説く真理ではそれは真っ先に否定されます。それらはいずれも真実の自己ではなく、自己のものでもありません。この想いが捨
てられない限りは聖者にはなれません。
>>519の投稿者はこの煩悩「疑惑」のことを、“仏教徒が自分本位な特権意識で勝手に定めた私心に満ちた創作”だろうとして批難
していますけれども、しかしながら、師であるゴータマの教説に対して疑う心を持っていながら、それでその教えを修得できる筈が
ありません。当然のことですよ。この疑惑を持っていては聖者にはなれない。
仏教の真理を否定するということは、その人の想いの中が煩悩に支配されているからなのです。そういう人は絶対にこの教えは受
け入れない。「戒取」は、教えとはまったく異なるものに対して固執し、そこから離れようとしないのだから進歩がある筈もない。
次の「斯陀含」の境地に成れば、あと一回だけの転生経験で悟りへ到達できます。だから「一来」ともいう。更に、「阿那含」の
境地であればそのまま再び人間界に転生する必要はなく、死後に天界を経てから悟りへと至る。だから「不還」ともいう。そして五
下分結に加えて、五上分結のすべて、つまり、十結煩悩を完全に断ずれば「阿羅漢」と呼ばれる完成者となります。
>>325-326には、そのことを説いた経文『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』を投稿しています
参考サイト:http://way-to-buddha.blogspot.jp/2011/05/blog-post_1655.html 「聖者」とは仏教の教えを修得し三結以上の煩悩を断じた者のことであり、
「一般大衆」とは仏教の教えを知らずに生きている人々全般です。仏教では「凡夫」などといいます。
「賢者」とは、仏教的にみて正しく物事を判断できる人のことをいいます。
それから当然、仏教の説く道徳において悪行を為した者は罪人だということになりますが、
尚且つ、意識的に罪悪を継続する者は「悪人」と呼ばれることになるでしょう。
仏教の説く罪悪の基本は、我が身に引き比べて相手に対するということですから、
簡単な日常言葉でいうと、自分の嫌なことは相手に対してもするな。
自分にとって嬉しいことは相手にもしてあげようとなる。 >>519
>「五逆罪」
> 僧を殺すのが普通の人を殺すより重い罪で無間地獄におちて仏教を否定するのがさらに重い罪?
>--中略--とりわけ優遇され特別扱いされるって言ってますね
これは以前にも述べていますが、
前世の記憶も無いのに非業な死を遂げたり、生まれつき五体不満足であったりといった業報の作用。
たとえ生れつき自分のしたことを忘れていたり、もうすでに今は仏弟子となって清らかな修行に打ち込んでいようとも、
それでも過去世(前世)で自分が犯した罪悪の報いからは、決して逃れるむことができないのです。
このような恐ろしい世界から脱して、もう二度とそのような境地へと堕ちることがないようにと、
そこから脱する為の方法と教えとを説いたものが仏教なのです。
我々は誰でも皆、同じようにして、そのような世界の中で数えきれないほどの転生の生涯を永延とクルクル繰返してきたのです。
しかし、そこからいよいよこうして脱しよう、救われよう...という幸運にやっと巡り遭えたことになるのが、
この仏教との出会いだということになる。
であるのに、
その教えを説かれる如来を傷つけたり、その教えを修得中の修行者である僧侶を殺害すること、
及び、その学びの集いと場所である仏教僧団を破壊する行為が最大の五つの罪に数えられることは当然のことでしょう。
まっ、これは“あくまでも仏教的観点から見て”という断り書きを添えても構いませんけれども、
もしもあなたがこれらの話を認めないのであれば、どうぞご勝手に好きにされればいいことです。
>十結煩悩」中の「五下分結」煩悩である「疑惑」
> 仏の教えを疑うのが煩悩?
上記>>539にて返答済。
>>死後に“三悪趣に堕ちる”可能性が非常に高いとされる
>何パーセントの確率で?
>こういうのって仏教徒が自ら十不善業道と定める「妄言」に該当してませんか
はい、すみませんでした-これは私からの説明が良くなかったと思います。
「三結煩悩を断じた者は二度と三悪趣に堕ちることがない」です。
よって、そうではない多くの大衆というのは三悪趣に堕ちる可能性が出てくるという意味です。
そのことで、何パーセントという話はありません。 >>520
ごめんなさい。
チベット民族の迫害と過去世の因果関係については、この私にはまったく判りません。
尚、この世で受ける苦難の理由は、
その一つは、最も大きな原因として知られるのが前世の悪業による果報です
(昨日のミスで、明日は会社で困ったことになる..というような意味合いではなく)。
そしてもう一つは、
これは一般にはあまり知られていないものとしては“魂の試練”というものがあります。
つまり、成長の為に自ら敢えて苦難を受けるというもので、
この場合は、転生先について自ら選択可能な境地ですから、
ある程度の進化した魂にとってのみ可能なことです。
あと残り>>516は、また後日。 >>537
>お釈迦様の教えに食い違いや二枚舌はないんでしょうか?
ブッダの教えはすべて見事に一貫しています。
だから、経典のどこをどう読んでも矛盾は皆無なのです。
その驚くべき緻密性がまた如来からの教えであることの証明なのです。
そんなことは、普通の人間には絶対に真似出来ない芸当だからです。
あっちこっで同一人物の語った内容に矛盾があるようではお話にならないでしょう。
もし、あっちこっちで異なることを教えてるものと感じるのであれば、
それはその人自身の理解が混乱しているからです。すべては読み手側の問題に過ぎません。
経典に見られる各所の教えの違いというのは、これは対機説法といって
教えを説く相手に応じて合わせたものであり、相手の理解できるレベルにしたものです。
尚、原始経典はすべて一貫していますけれども、
それに対して、やはり大乗経典というのは異なることを主張しています。
中身を見ればわかります。
だから仏教経典はこれを読むならば、
その内容の緻密さと誠実さと真理を求める情熱とに驚嘆します。
説かれる叡智の凄さに引き込まれてしまう。 全ては空って、どういう意味ですか?
因みに般若心経って、大乗?小乗? 因みに自分事ですが創価学会の人間と
空と無の違いについてもめた事がありました。
昔の事なので内容は忘れましたがw まだ現世で事も起こしていないのに生まれながらにして障害を負っている人は偶然だと思うか?死ぬ間際に大量殺人を起こして天命を全うした人間に罰が無いと思うか?答え出てやろ >>546
>まだ現世で事も起こしていないのに生まれながらにして障害を負っている人は偶然だと思うか?
それこそが過去世からの宿業なのです。
過去世で悪い行いをしてしまったということ。
でも障害者であっても清く正しく生きて天寿を全うすれは来世では五体満足で人間界に生まれるか、
それ以上の天界出生も見込めるものと思われます。
>死ぬ間際に大量殺人を起こして天命を全うした人間に罰が無いと思うか?答え出てやろ
その者の来世は地獄界や畜生界などになります。
もし人として生まれたとしても短命に終わるでしょう。 >>544-545
般若心経は大乗経典です。
法華経、阿弥陀経、そして、大乗各派で最も使われてきたのがこの般若心経です。
その通りです。般若心経は「空」について説いている経ですね。
「空」と「無」は本来、まったく異なるものです。
「無」とは文字通り、ただ“何も存在しないこと”ですけれど、
「空」はそうではなくて、すべての存在(有)には実体がなく、
ただ縁起によって今一時の仮の状態を現じているに過ぎないことをいいます。
すべての存在は「無自性」(それは単独で固定的な存在ではない)であるから、実在とはいえないと説きます。
実は、“永遠に不変な存在しか実在とはいえない”というのが、古代インド宗教の伝統的な考え方なのです。
尚、漢訳中国では、「無」が「空」の意味として使われてきた(般若心経のように)という経緯があって、
そのことが本来の「空」と「無」の意味を混同させているのです。 >>538
大乗を否定してる様に見受けられますが
宝珠さんは真言宗じゃなかった?違った?
真言宗は大乗じゃないの? 例えば、突然の交通事故で亡くなる場合は、その不運の場所に自ら居合わせる事はしている。それはいつもと変わらない行動かも知れない。確かに前世の影響はあると強引には言うとする。しかし、それは善悪で言えば全く当てはまらず、普通の人には全く見通すことは出来まない。
或いは癌になることをいえば、人によってはタバコが原因やタバコは全く関係なかったり、人によってはストレスの掛かり方が一個人に原因になっているかもしれない。
人は誰でも、己の場合は何をしたら身の破滅をもたらすのか分からないもの。将来的にはDNAの解析から個別に病気を回避するライフワークを指導されるかも。
善悪を言ったとしても人間の考え付くような類いでは無いであろう。そういえば昔の日本人は、不幸をもたらす行いをケガレ、幸福はハレという観点だったらしい。それでも、個別の状況はまったく網羅できないであろう。 仏教では、悟って仏になれば、突然の不幸など身の破滅の恐れがなくなる不可思議な特徴を言っているのであろう。
副産物の話として、そうした覚者に対し、善いことをすると利益(りやく)があり、非道なことをすると不幸なことがことが起こった実際が伝わっているのであって
まだ悟っていない普通の人は、他人の理不尽な不幸を(自分は大丈夫だと)笑えるモノではないし、前世の報いといっている場合ではない。悟ってないなら、厳しい現実を眼前に突きつけられているのだ。もし自分の状況をしることが出来たら、生きた心地がしないであろう。
仏の事例を凡夫にこじつけるから可笑しくなる。「あいつは、〜にこんなことをしたからこうなった」と言いながら、ざまあみろというのが本音だったりするものだ。釈尊にそんな愚かしさは無い。そういうのがまったく無いから優しい。
経済的に恵まれたり運が良かったりすると、前世で善かったと思ってしまう・・・つまり自分は特別と思うであろう。じつは精神的なものは何も関係なくて、ただ生き残っただけかも知れない。津波で亡くなった方々は、単に海の近くにいただけで、ほんとにそれだけのことならば。
海の幸が嫌いと引っ越していた者もいるだろうし、そうした事情は無数にあるのだろう。しかぢ、冷酷に判断するのも危うい。もし意味付けをしないと心が不安で一杯であろう。
せめて自分のしたいことをしっかり見出だせば、せめて自分の心だけは安心する。それ以前に、前世〜だったからなど、仏の知見を持ってない癖に断言して、人様の心を掻き乱すなら、不幸の報いが起こるのかは知らないが、少なくとも仏になる道から自ら外れてしまう。 >>553
>仏教では、悟って仏になれば、突然の不幸など身の破滅の恐れがなくなる不可思議な特徴を言っているのであろう。
舎利弗と並ぶ釈迦の二大弟子の目連は悟って仏=ブッダ=阿羅漢になったが
その身にある極めて重い宿業を清算することはできずに異教徒に撲殺されたことから
悟った人でも贖うことができない宿業というものはあるのだと思う。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E9%80%A3 >>363
> そして、私は宗門寺院の関係者ではなく、
> また仏教系新興宗教の者でもありません。
> ただ個人的に原始経典を読みつつ真言宗の信仰を実践している者です。
原始経典を読みつつ真言宗の信仰を実践する者ですか? >>516
「天眼」とは、仏教で説かれる六つの神通力(超能力)の内、
完成された如来のみが発揮できるとされる三明(六神通力中の高次三大通力)の内の一つで、
一切衆生の過去世と人間の死後の行き先を知る神秘力のこと。
ある時、
バラモンの中に髑髏を手に持つことで人間の死後を見通すことのできるという通力自慢がいて、
ゴータマの噂を聞きつけやって来て二人で神通力比べの勝負をしたという経があります。
もちろん、ブッダであるゴータマには敵う筈はなく、
ついにバラモンはニルヴァーナ(涅槃)に入った者については見通すことはできなかった。
それができるのは同じくニルヴァーナ意識に到達している完成された如来のみだからです。
この勝負に負けた彼は感嘆して、ゴータマに弟子入りをしたのです。
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1455937876/746 「天界」(天上界)とは“神々の住む領域”ということです。仏教の説く天部の神々、帝釈天、持国天・増長天・広目天・多聞天
(毘沙門天)、弁財天、大黒天、吉祥天、韋駄天、摩利支天、歓喜天(聖天)..などが住む諸天の世界であり、通常におけるこの物
質現象界とはまったく異なる次元です。本来はサンスクリット語のディーヴァ(神)からきており、基本的には人間とはまったく異
なる高次元意識体を意味しますけれど、人間も意識レベルが上がればこの界の住人になることができます。
仏教の説く解脱成仏へ至る階段ステップにおいて、弟子が「阿那含」のレベルに達していれば、死後は再び人間界に転生する必要
はなくこの天界へと入ります(その後、一定期間を経てから悟りに達する)。
そこはどんな処なのか? 天国的なニュアンスに類似してきますけれど、美しい草花が咲き乱れ、美しい音楽が流れていて美し
い女性(天女)もいるとのこと。天部の神々ともなれば通力に長けており、寿命も数億年〜ともいう。ただし、常に幸福感に満たさ
れているのでそこの境地に満足してしまうために善行については行い難く、逆にそこからの進歩は難しいのだともいう(そのため
に敢えて善行のできる人間界へと下る者もいるとか?)。
以下に、ブッダに帰依し熱心な信者としてよく知られた生前のマガダ国王ビンビサーラが、死後に夜叉(神々)となって、ゴータ
マの前に感謝の挨拶をすべく出現したという経を紹介します。
このときはジャナヴァサバ神霊として一来果を目指して修行中だというので、今は仏教の教えを受けて預流向〜預流果〜一来向
の境地のいずれかにいるということと思われる。 『〔仏教信者であった神霊〕
「尊師よ、わたしはビンビサーラであります。尊師よ、わたしがヴェッサヴァナ大王(毘沙門天)の側近として生まれたのは、
これが七度目です。そのわたしは、人間の王(マガタ国の王)としてそこから没して、いま天の中で人間ならざるものの王となっ
ているのです。ここから七度、またそこから七度、あわせて十四回の輪廻を繰り返しつつ、わたしが経てきた前世の、暮らした場
所のあ りさまを、わたしはよく知っている。尊師よ、わたしは、長期にわたり、悪い場所に堕ちることのなかったものでありま
す。・・・ わたしは〈一度だけもどってくる者〉〔一来者〕になりたいと願い続けているのです」といった。
〔世尊〕
「この尊者ジャナヴァサバ(ビンビサーラ王)が、〔わたしは一度だけもどって来る者になりたい・・・〕ということがで
きるのは、実に不可思議にして稀有のことである。では、どのような因縁で、尊者ジャナヴァサバ・ヤッカ(ビンビサーラ王)は、
このような偉大ですぐれた達成を理解できたのであろうか」
〔仏教信者であった神霊〕このヤッカ(ビンビサーラ王)は続けて、このように言った。
「尊師よ、あなたの教え以外にありえないのです。わたしは、〔仏・法・僧に〕ひたすら帰依し信じて以来、長期にわたり悪い場
所に堕ちることのなかったものであります。尊師よ、いまわたしは、・・・・〔地上界の〕尊師が煉瓦(れんが)堂に入り、マガタ人
の在俗信者の問題についてよく思いをこらし、心を集中させて、かれらの死後の行く末、未来の運命を知ろうとし、考えているのを
見たのです。・・この件につき、わたしは〈自分が尊師にお会いして、このことを知らせよう〉と思ったのです。」』
(『中部経典第18経/闍尼沙経(ジャナヴァサバ神霊との対話)』) >>546-548
すると、原因がわかってるケースでは?
サリドマイドで手の無い子供が生まれた
のはサリドマイドと言う薬が原因だが
前世の悪業で、そこに生まれることになった?
まぁ、そういうことですよね。確認のため >>560
失礼します。
横レスになりますが、そういうことになります。
「薬」が原因?...そんなことは馬鹿でもアホでも分かる。
だからそうではなくて、
そこへ自分が生まれたのは必然であって偶然ではないという話をしてるわけです。
前世でそのような非業の目に遭う因縁を自分が作らない限りは、
決してそのような処へは生れてはいきませんから。
人間、自分に合った相応しい処にしか生じ得ないからです。
違う処にはご縁は生じないので。
そういう両親には、
それに相応しい業を持った魂が引き合って転生するのです。
そうではない魂だったならば、その両親の処には転生しません。
一応、これが基本的な考え方となります。
もちろん、個々のケースにおいては例外もあるでしょうし、
実際上はもっと複雑でしょうけれど...
つまり、
人知を超えている事柄なので計り知ることはできませんけれど、
我々のレベルでは、これを一つの基本形として押さえておくということ。 >>554
あのモッガラーナですらも、
過去世の業報からは逃れることができずに撲殺されたという話こそが、
人間の過去世での悪業による果報の恐ろしさについて、
仏教が因果応報を人々に示そうとしたことの真義なのだろう。
と、私は思う。
『人がもしも善または悪の行ないをなすならば、かれは自分のした一つ一つの業の相続者となる。
実に業は滅びないからである。』
(ウダーナヴァルガ9-8)
『悪い事をしても、その業(カルマ)は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。
しかし、来世におもむいてから、悪い行ないをした人々の行きつく先を知るのである。
のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起る。』
(同9-18)
尚、私は仏典における仏弟子たちについての「阿羅漢」
(“如来の十号”の代表的な一つ「応供(アルハット)」と同義)の扱いについては過剰表現とみています。
まず「五百羅漢」というのがその典型的な表現であり、
実際には本物の阿羅漢果というのは十代弟子とその他の数人〜数十人だったのではないか。
また尚且つ、原始仏教における阿羅漢の境地は、やはりゴータマの到達した境地よりは一段低いものではなかったかということ。
つまり、ブッダであるゴータマは阿羅漢に違いないけれども、阿羅漢のすべてがブッダと呼ばれる如来とは限らないのだ、と。
仏典の意図というのは基本、教えを受けた弟子たちもまたゴータマ同様の境地に到達したという前提があるから...。
また、無余涅槃が本当の意味における最終境地であるという部派の理解については、私個人は支持します。 この世は寸分の狂いもなく全てにおいて平等なの、ほんとすこ。 561宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
キチガイだ。
気味悪い。 >>563
その通り。
平等に業報が作用しているからこそ、
ある者は金持ちの大富豪の処に生れ、
ある者は貧困の飢餓の処に生まれ、
そして、またある者は大病難病の遺伝を持つ家系に生まれる(そして病死する)。
であるから平等なのです。
男女の違いでも何でもそう...
すべての物事が同じになっていることが平等なのではない!! > 男女の違いでも何でもそう...
> すべての物事が同じになっていることが平等なのではない!!
男に生まれるのと女に生まれるのと
どちらが上とかあるんですか?
仏教は女性に差別的なところが
ありませんでした?具体的に言え
と言われても今は思いつきませんが
仏教国タイの国技ムエタイは女性は
リングに上がれないはず。 宗教は政治に使われていた時代もあったろうし、すべては過信できないけど
まぁ上も下もないやろなー 無始なる過去世で男や女に幾度も生まれてるのに差別とか何を言ってるんですか。 仮に今回不幸な死に方をしても、今回良い生き方をしていたら良い来世がまっているんだから
平等なのでは?
まあ仏教の目的はその輪廻の繰り返しから解脱することだけど 仏教以外のどんな宗教なら不幸な死に方をした人について納得のいく説明が出来るのだろうか
結局無宗教になるしかないけどそんな人がこの板にはこないだろうし >>566
これは割と広く知られるところですが、“仏教には女性差別がある”などとよく云われています。
確かに、事実としてその通りなのですが、けれども、このことについても本来的にはブッダであるゴータマおいては、元々、そのよ
うに説かれていたわけではありませんでした。
原始経典における特に、古層に属する古い経典の中には女性を差別する部分はなく、それどころか逆にゴータマは、たとえ女性で
あっても男性同様ニルヴァーナに至ることできると説かれ、また世俗においても男性より優れた素晴らしい女性がいることを事実と
して認められていました。
『かくのごとき車に乗る人は、女であろうと、男であろうと、実にこの車によって“やすらぎ”(ニルヴァーナ/涅槃)に至るであろう。』
(サンユッタニカーヤ. I. p. 33./『雑阿』二二)
『心がよく静まり、智慧があらわれたならば、正しく法を見るものに、女性たることに何の障りがあろうか。』
(同. I. p. 129.『雑阿』四五)
コーサラ国のパセーナディ王の妃マッリカーが王女を産んだが、王はそれを聞いて喜ばなかった。そのときゴータマは、この王に
次のように教えたという。
『人々の王よ、婦人といえども、或る人々は実に男子よりも優れている。智慧あり、戒めを保ち、姑を敬い、夫に忠実である。
かの女の生んだ子は、英雄となり、地上の主となる。かくのごとき良き妻の子は国家をも教え導くのである。』
(同. I. p. 86.)
しかしながら、仏教教団においても世俗の女性に対する差別待遇という社会的通念には実際上、従わざる得ない事情に流されて
いったのです。 >>568の方が、とても良い発言をしています。
我々は皆、生まれ変わりながら、これまで何度も男だったり女だったりしてきたのであって、実に、魂のレベルにおいては性別は
存在しない。ニルヴァーナ境にある如来というのは男でも女でもない。あるのは経験値の優れた進化した魂であるか、そうではない
かの何れかです。
単純に見るならば魂が転生していく際には、進化した魂はよりよい環境へと生まれ、また、そうではない魂は恵まれない世界へと
転生していく。当時の古代インドは現代まで続いているカースト差別社会であり、男女間においても圧倒的な男尊女卑の世界。この
ような環境に転生していく魂というのは当然、男性にはより進化した魂が転生し、女性はそれよりも劣った魂が転生する傾向がある
ということ。
尚且つ、肉体の構造性質上においても女性は本格的な出家修行には不向きだといわざるえません。従って、現実においては結果的
に女性の解脱成仏は男性よりも非常に困難だということになるのです。
だから、これは差別しようとしてのではなくて、女性の出家修行とニルヴァーナ入りは男性と比較して何倍もより困難だということ。
またそれから、人数的にも圧倒的に男性中心である仏道世界においては、男性にとって女性は修行の精神集中を乱す要因となるものな
ので、できれば入れたがらないということがある。女性からみればこれは正直、実に身勝手で我がままなルールということになる...。
そして、仏教は中国(シナ)を経由して日本に入ってきた際に、当時の中国における男性優位と男尊女卑の通念と共に導入されました。
“ヤマトの国”古代日本では卑弥呼にみられるように優れた女性を認める民族でしたが、しだいに神道の中に、月経を持つ女性は不浄な
生き物であるとする思想が生じてきて(今でも、女性は神社には月経中の参拝ができない)、これが男性優位を説く日本仏教とより結び
ついていったものと思われます。 永遠の昔から
男に生まれたり女に生まれたりしてるが、
女に生まれたときは仏道修行して仏になることができない。
次に男に生まれる時を待たなければならないわけだ。
男も女も、極楽浄土に生まれるときは男になれるのでOK。
でも、実際に仏になれるは、法華経にもあるように
永遠の未来の話だから、
まあ、オレたちは、あくせく暮らしていくしかないわけだ。 >>573
( ´,_ゝ`)y―-~~ フハハハ!! 考え方は仏教のそれに当てはまるやも知れんが、これこそ真理なわけで
生き物すべての平等なルールなんだわ つまり、「性同一性障害」とは何か...
これは人が生まれながらにして、自分の肉体の性と自己意識内の性別が異なっていることをいう。昔は、ただのオカマだのオナベだ
のといって...一種の変態扱いに近いものだったけれども、これが馬鹿にしてはいけない“先天性の障害”なんだということとなった。
この原因は何かというと、私のオカルティズムの理解から申し上げるならば、実は、魂の前世記憶が原因だということとなる。
通常の一般人というのは、転生毎ごとに前世の記憶は失われています。何故ならば、もしも前世の記憶を有していたのならば、そのこと
が邪魔をして今生でのまともな社会生活ができなくなってしまう。というよりは、まともな精神は崩壊してしまうでしょう。
前世の家族や愛する恋人、憎き犯罪の加害者のことや自分の犯した過ちによる被害者のことといった記憶があれば、そのことを無視し
て過ごすことが、到底できなくなるからです。だからこそ、普通の人間は精神の安全装置として前世記憶が自動的に失われることとなっ
ているのです。前世の記憶があっても平然と対処できる人間、あらゆるすべての過去世の記憶を回復しても問題ない人間こそが完成され
た如来なのです。彼らはニルヴァーナに達する手前でこの能力に目覚める。
ところが膨大な人類の中には、イレギュラー的に前世記憶を保持した状態で生れて来る者も現れる。それがイアン・スティーヴンソン
博士らによる前世記憶の研究対象となっているわけです。>>182>>220>>224>>401
ところで、「性同一性障害」の者というのは何かというと、前世の記憶を明確に持つわけではないけれども、ただ単に前世における性別
の記憶だけが潜在意識の中に強く作用している状態を意味する。つまり、「私は前世で女だったんだ」という記憶が潜在的に作用しており、
肉体上は男であるにもかかわらず、その潜在意識が「自分は女である」という自我意識として顕示してくるのです。これは魂が前世の性
別を主張している状態なので、医学の手法ではまったく直しようがありません。 大乗非仏説って日本の仏教はヤバくない?
日本は大乗仏教って習った記憶がある。
小乗仏教は個人の悟りだけど大乗仏教は
多くの人を救うんじゃなかったっけ?
今、小乗仏教は上座仏教とか言うんだね。 577.
小乗仏教は仏教だが、
大乗仏教は社会事業である。 >>1
釈迦は輪廻転生を解いては居ません。
あれは、バラモン教な。
バラモン教の聖者(沙門)を仏教に教化させる為に、敢えてバラモン教の土俵で説法したから、釈迦は輪廻転生を解いたと勘違いされているけど、そうでは無い。
寄って前世も説いてません。 とある仏教系新興宗教の教祖がキリスト教の
最大の失敗は輪廻転生を認めなかったことだ
とか言ってるの読んだ記憶がある。しかもその人
釈迦の生まれ変わりとか?w ここで前者と言うのは質問した方が示したVeda思想における輪廻の定義のことです。「 輪廻=生まれ変わる」ということです。
Vedaにはハッキリした輪廻転生の思想がなかったと前に述べました。
なぜ、仏教思想から輪廻転生の思想を離婚させようとリキムのですか。
世界中すべての仏教学者の論文、研究などを踏まえた上でも構いませんが、たった一回だけでも釈迦尊が人の命は死ぬまでです、
死後から虚無です、無ですなどの言葉を述べたことがありますかと聴きたいのです。
「無知な衆生は限りなく生まれ変わりして苦しむ」と言う意味の言葉が幾らでもあるのに、なぜその大量のデータを学者様方は無視するのですか。
経典の中でも最古層に入るSuttanipataの慈悲経にも「慈悲を完成したものが再び子宮に戻らない」と言っているのです。
悟りを開いてその喜びを顕にした言葉の中でも「再び生まれることは苦しみである」(dukkhaa jaati punappunam)とあります。この二つのところは皆覚えているところです。
初期経典のテキストの五、六ページをパラパラと開けて見ても輪廻の思想に出会います。 582.
輪廻は存在しない。
輪廻の根拠として成立しない根拠を出している。 輪廻やカルマの法則が本当にあるのかどうかおれは知らんけど
カルマの理論って信仰がない凡夫に対しては致命的な欠陥があるから
仮に本当にあったとしても釈迦がおおっぴらに語ってたとは思えないんだよなあ 誰々が言ったとか言ってないとか、君ら頭カチカチやな。
それそんな重要か? 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
148 何びとも他人を欺(あざむ)いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
149 あたかも、母が已が独り子を命を賭(か)けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意(こころ)を起すべし。
150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。
上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥(ふ)しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
152 諸々(もろもろ)の邪(よこし)まな見解にとらわけず、戒(いましめ)を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪(むさぼ)りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。 このスッタニパータの慈悲経は
慈悲を行うものは再び母胎に宿ることがない=輪廻転生から解脱できる
という教えがミソ >>580
あなたのように、
ゴータマは輪廻転生を説いてはいなかった。
経典中の記述は後代の付加挿入によるものだとか、
ゴータマはバラモン教の土俵で説くべくして、
これをただの方便として利用しただけだ〜〜
というものに対して、ここに明確に反証しておきます。
まず、こういうことをいうのは殆ど唯物主義者です。
要するにこれは、“そんなもの(輪廻転生)は在る筈がない”という結論在りきの論理(暴論)に過ぎない。
まず先に“これ”が絶対決まっていて、こんな迷信染みたバラモン教の受け売りのようなアホなことを
これほど冷静で知的な大哲人であったゴータマが説く筈がないのだ、という論理なのです。
彼らは、単なる凡人に過ぎない人間のくせに
あのブッダに対してさも偉そうに教え(結論/唯物論)を説こう!
というのだから、まさに恐れ入る...。 >>582 >>531の通り、
仏教の説く輪廻転生の教えというのは、
ゴータマによって世の中に初めてこれほど具体的な内容として提示されたものです。
当時のインドにおいてはまだ、もっと単純素朴なバラモン教の迷信的な輪廻思想しかありませんでした。
というよりは、実際にはバラモン教(そして、後のヒンドゥー教)の側が仏教からの影響受けて、
積極的に仏教の教えを導入利用していったというのが本当のところ。
あの『ヨーガスートラ』でさえもその成立過程においては仏教徒が関わったといわれており、
そして、アートマン不二一元論のシャンカラに至っては
自ら仏教教団に混じって教えを受けていた仮面仏教徒としても知られています。
要するに、
先の“仏教の輪廻転生の教えはバラモン教の方便利用〜”などという理解については、
もうかなり昔の一時期に巷で広まった間違った仏教理解の代表的なものの一つです。
今日では仏教学の研究も進んでそんな論理が通用することはありません。
『このことはバラモン教のウパニシャッドに説かれる輪廻説と好対照を示す。すなわちウパニシャッドの最古のものとさ
れるチャーンドーギヤ・ウパニシャッドに五火二道の輪廻説が初めて説かれるが,その中で哲人ウッダーラカ・アールニは
その説をパンチャーラ族の王に乞うて聞き学んでいる。王はウッダーラカに,五火二道説は元来クシャトリヤ族にのみ伝わ
る教えで,バラモンたちには今初めて教えるのだと前置きしている。宮元[2003],p. 』
(藤本 晃著『パーリ四ニカーヤに説かれる先祖・施餓鬼供養』) つまり、バラモン教の輪廻思想というのは、
元々はクシャトリヤのみに伝わっていたものであり、
それが当時のバラモンに提示されたのが五火二道の輪廻説だということ。
そして更に、自らゴータマは自分の語る業報輪廻(バラモン教レベルの五火二道説ではない仏教独自の五道輪廻)
の教えはバラモンたちからの受け売りなどではなく、自分自身の超常的な能力によって確認したものであると宣言しています。
ゴータマというのは、自らの直接体験を重視する頑固なまでの経験主義者であり、
そして、厳しく不妄語(嘘をつかない/嘘をついてはいけないということ)の戒律を厳格に守ってこられた方です。
従って、バラモン教の受け売りをして嘘をつくような方ではないということ。
『例えば比丘たちよ,扉のある二つの家があり,眼ある人がその間に立てば,人々が家に入ったり出たり,行ったり来た
り歩き回ったりするのを見るであろうまさにそのように,比丘たちよ,私は清浄で超人的な天眼によって,衆生が劣ったも
のや勝れたもの,美しいものや醜いものとして死んだり生まれたりするのを見ており,衆生が善趣の者や悪趣の者として業
に従って牽かれていくのを知っています。』
(マッジマ・ニカーヤ III 178:)
『しかし比丘たちよ,以上〔五道輪廻の法則〕のことを私は,他の沙門或いはバラモンから聞いて語っているのではあり
ません。そうではなく,私が自ら知った,自ら見た,自ら体験した,そのことだけを私は語っているのです。』
(同 III 186:)
以上. >>584
彼氏が欲しいのにできないで困っている若い女性に向かって、
「それはあなたの容姿と顔が舞祭組だからだ!!」などと、
わざわざそれを彼女の下に言いに行きますか???
しないでしょう。そんな失礼なことは。。。
けれども世の中には、
男性という生き物は、圧倒的に女性の容姿に牽かれるという厳然たる事実がある。
果たして、自分がそうであるかないか...
他にも原因があるかないかは自分自身が考えることです。
その判断材料はある。
仏教の説く、
前世の業により不幸と苦痛が襲うという教えもまた然り。
あなたがたはこうしてすぐに、
業報輪廻の負のマイナス的なイメージ部分のみを取り上げてあーだこうだとやるけれども...
業報輪廻を認めないということは、つまり、善因善果の絶対性も否定するということになるのです。
仏教の万人成仏道の教えもこの輪廻があって初めて成立すること。
これなしで、人が解脱成仏できることは決してありません。 >>593
あるかどうか私は知らないと言ったけど、ないとは断言してないですよ。
何故、信仰薄い者には悪影響を与えうるかはハッキリと書くわけにはいきません
まあ、お察しくだい
もちろん釈迦の言葉を信ずる者には多かれ少なかれ好影響を与えるでしょう >>194
all-了解!!
>>555
>原始経典を読みつつ真言宗の信仰を実践する者ですか?
はい
>>551
>大乗を否定してる様に見受けられますが
「大乗」というのは、その発生の経緯については止むを得ない事情と確かに何か宿命的な部分を感じるけれども、しかし、
その発展の為には手段を選ばず的な不条理を永年に渡って繰り返し重ね続けて来たという負の功罪があります。
まずは、経典(大乗経典)の制作においてゴータマが言いもしないような嘘を勝手に書き連ね、敵視した上座部を小乗とし
て蔑視しつつ、本来の唯一なる仏典である原始経典の扱いも見下げて開祖であるブッダ・ゴータマその人(の価値)を殺して
きた。
大乗の僧侶でありながら原始経典を学ぶなどということは許されず、発覚した場合には破門して飯の食えない乞食僧にし
てきた。結果としては、とても仏教とは言い難い内容のものを勝手にゴータマと仏の名の元に提示して、その偽りの実態に
ついては未だに釈明をしない。私から見てもその価値ある部分は大いに認めつつも...遺憾に感じるところも多い。
詳細内容については今は扱いませんが、今後の投稿の中では時折、述べることがあるかもしれません。 >>551
>宝珠さんは真言宗じゃなかった?違った?
>真言宗は大乗じゃないの?
とはいえ、この私も何も原始仏教の世界をそのまま現代日本に展開するような世界を理想としてるわけではないし、大乗
には大乗(特に日本大乗として)の良き点と素晴らしいところも多々あります。
なので、基本的には原始経典を読むことで本来のブッダの教えを学びつつ、私自身にとっては在家信仰者の歩みとしての
大乗利用ということです。また実際上、私は日本大乗しか接したことがないし、真言信仰歴は35年になる。
また実は、大乗というのはある意味でゴータマから離れつつも、ヒンドゥー化して発展することで、また逆に本来のゴー
タマの還ってきたところがあります。
それが如来蔵思想であり、ゴータマが元々は説いていたとみられる心性本浄説の教えへの原点回帰です。
「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている」(パーリ増支部)
密教というのは、インド大乗の最後の切札にしてすべての大乗の経験と叡智を保有したものと私は見ています。またそこ
には本来、ゴータマの説いた三十七菩提分法を理想に掲げようとする思想も見られる。
それから、密教の持つ現世利益の方便利用を私は現代日本人に適した仏道入口のキッカケだとも評価します。
〜ということで、この私個人の大乗・密教評価というのは、巷に溢れた一般的な解説評価などとは質も内容もまったく異
なります。 >>577
はい。大義名分としては衆生救済を掲げます。
しかし、自分自身の個人の悟りを目指すことなく衆生救済ができる筈もないこと。
そのことは仏典伝承の通りであって、ゴータマとて然り。
最初から衆生救済を出発点にする人間などは一人もいないでしょう。
それを口にしたら嘘だと思う。
本来は、自分個人が向上していく過程において自分以外の人々に対する奉仕の実践も伴ってくるということ。
その内に自分自身の悟りを得たいという願望(これも欲望「高次の欲」ではある)すらも、
いつの間にか何処かへと消えてしまって、ただひたすら世界に対する奉仕の行為に没頭するという人も出てくる。
こうして、ゴールに到達した如来は衆生に対する慈悲の想いに満たされています。
歴史上、根本二大分裂のときの上部座が小乗と呼ばれる集団でした。
けれども、現在の南方仏教(上座部)は経典を伝承してはいますが、当時の上座部とはまったく違う教団であり、
決して小乗などと馬鹿にするようなものではありません。
ですから、現存する南方仏教を小乗と呼ぶことは止めなければならない。
尤も「小乗」というのは自分で名乗る筈も無いものであって、
すべては自分たちのことを勝手に大乗と名乗った集団が当時の上座部を蔑視して呼称したものに過ぎません。 >>581
元々は、イエスは輪廻転生を説いていましたが、
後のキリスト教がこれを教義から削除したのです。
決定的にはローマ皇帝の下、西ローマ帝国滅亡後の
コンスタンティノポリス公会議(553年)において決定しました。
以降、これを語る者は異端にて処刑されてきたのです。
そのことをまったく知らず、この事実を認めないというクリスチャンが大多数の殆ど。
今は詳しくはやりませんけれども。
本物の高レベルな聖者であれば、
必ず業報輪廻を説きますから。 チベット仏教における輪廻転生の解釈
まず次の点を確認しておきましょう。南伝の上座部仏教にしろ、北伝の漢訳大乗仏教にしろ、チベット仏教にしろ、
凡そ今日存在している伝統仏教の全てが、輪廻転生の存在を認めています。二十世紀のインドでアンベードカル博士が
提唱した新仏教、及び近代仏教学の影響で明治以降に変質した日本仏教の一部のみが、輪廻転生の存在を否定しているようです。
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%BC%AA%E5%BB%BB%E8%BB%A2%E7%94%9F%E3%81%AF%E3%81%82%E3%82%8A%E5%BE%97%E3%82%8B%E3%81%8B
テーラワーダ仏教 輪廻の解釈について
なぜ、仏教思想から輪廻転生の思想を離婚させようとリキムのですか。
世界中すべての仏教学者の論文、研究などを踏まえた上でも構いませんが、たった一回だけでも釈迦尊が人の命は死ぬまでです、死
後から虚無です、無ですなどの言葉を述べたことがありますかと聴きたいのです。
「無知な衆生は限りなく生まれ変わりして苦しむ」と言う意味の言葉が幾らでもあるのに、
なぜその大量のデータを学者様方は無視するのですか。
http://www.j-theravada.net/qa/qahp22.html イギリスなんか幽霊を認める文化があるんだよね。
古城の伝説。ゴーストバスターとかハロウィンもある。
でも、宗教上は幽霊を認めない。米国映画エクソシスト
でも、死んだ神父の母親に化けるのは悪魔。 >大乗の僧侶でありながら原始経典を学ぶなどということは許されず、発覚した場合には破門して飯の食えない乞食僧にし・・・
・・・・・・・・・
五世紀初頭のインド仏教の寺院数の実態・・・・
大乗寺24、小乗寺60(有部、正量、上座、大衆、説出世、大乗上座部)
そして、大乗小乗兼学の寺15・・・・・
⇒『大乗小乗兼学の寺15』
wwwwwwwwwwwwwwwww ところでカルマがあるとしてそれを帳消しにしたりする方法ってないのかな?
ヴェーダだと神の愛はカルマを超えて影響を及ぼすらしいし
新約聖書だとイエスの力でカルマの影響を消し去ってるように見えるけど
仏教だとどうなん? >>602
仏教と他の宗教とではカルマの定義が違うみたいだけど、
仏教では帳消しは解脱して涅槃しかないみたい。
悪いカルマを最小限に留めるには瞑想などの善行を行ったりします。悪いカルマが原因で鬱の人が瞑想で立ち直ったなら善行の結果ですね。
自力で頑張るしかないんですね。 >>600
その通りです。
ゴーストとは、
死後に残存してる故人のアストラル想念形態であり、
欲望(一つの想いの塊)の生きたエネルギー生命体といえるものです。
カーマ・ローカ(kāma-loka) 、欲界における死後の状態の一つで仏教における「餓鬼」
(が、現象界に存続している状態)もこれに該当します。
ゴーストは種々の物理的なエネルギー反応(電磁波、温度、光度etc..)を示すので
科学的な高精度の検知器ならばその存在を捉えることは十分にできます。
キリスト教圏では、
家族の死霊が様々に影響を及ぼすといった教義がないので、
悪事を働く見えない存在はすべて「悪魔」の仕業ということにされます。 >>604
追記:
なので、
キリスト教信仰では、悪魔は“痛めつけて追い出す”ということになる。
対する仏教僧侶であれば、迷っている死霊は供養して慰め教え諭して、
本来のいるべき世界に留まるよう引導するということになる。
(そうとは理解せず、ただ外見上だけ死者供養をしてみせている僧侶はただの詐欺師金取りです) >>601
それは失礼!
その破門についての話は日本大乗の歴史的実態(実際にあったこと)についてです。
話をごく簡単にしてしまったので、インド仏教も日本仏教も明確に区別なく話してしまっています。
日本における顕著な原始経典に対する蔑視の伝統というのは、
日本の仏教伝来からのもので、それは中国シナ仏教からの丸ごと輸入が原因しています。
中国の高僧、天台宗第三祖の天台大師智の決定に拠って、
五時八教と呼ばれる間違った教判(教相判尺)によってダメ烙印が押された状態で日本に入ってきたからです。
ですから、大乗僧侶がこれを学ぶことは日本仏教にとって千年以上の永き間に渡ってきた絶対的なタブーなのでした。
日本で本格的な研究対象になってきたのは江戸末期〜明治初頭に入ってからです。
しかも、あくまでもそれは信仰対象としてではなく学術対象としてのこと。
このことについては、増谷文雄氏の阿含経研究の書籍を読まれればより詳しく知ることが出来ます。 そして、
私がどうして原始経典でなければ仏教だといえなのか?
これを学ばない限り仏教の説く境地に至ることが難しいことになってしまうとするのかは、
ゴータマが雑阿含応説経においてハッキリと、
三十七菩提分法を修行しない限りはどんなに望んだりお願いしようとも決して成仏できないと明言しているからです。
この法は原始経典のみに説かれているものであり、
大乗徒らというのは原始経典を小乗扱いしてきているのでこの法を修得しません
だから、私はいうのです(あなたが指摘するようなインド仏教史上の大小混在の時期については割愛)。
果たして、大乗が説く実践法である六波羅蜜(或いは十波羅蜜)というのは、
ゴータマ三十七菩提分法のどこまでをカバーできているでしょうかね???
『比丘たちよ、だが、もし、比丘にして修習するに精進することがなかったならば、<わが心取著する
ところなくして、もろもろの煩悩より解脱してあれ>と望むといえども、その心は、取著するところなく、
もろもろの煩悩より解脱してあることはできないであろう。
それは何故であろうか。それは修習しないからであるといわねばならない。では、なにを修習しないの
であるか。四つの熱心なる観想(四念処)を修習せず、四つの正しき精進(四正勤)を修習せず、四つの
意志力の修練(四如意足)を修習せず、五つの能力の修練(五根)を修習せず、五つの能力の実現(五
力)を修習せず、七つの観察(七覚支)を修習せず、また、八つの正しい実践(八正道)を修習しないか
らである。』(雑阿含経10.8応説/相応部経典22.101手斧の柄) チベット密教の輪廻転生と創価学会の
輪廻転生って全然違うんだよね。
チベット密教は解脱すると転生しなくなり
それが最高の状態ですよね?ところが
創価学会は徳の高い人ほどすぐ生まれ変わる
と言う教え。創価学会で修行すると仏界や菩薩界
の人間になるのだとか。そして、仏界や菩薩界の
人たちはのんきに死んでる暇はないのだと言う。
そうですよね?このスレにいる創価学会の人? >>609
原始経典では、
一度、ニルヴァーナに到達すれば、もう二度と(業に拠って)母胎に宿ることはない。
というのが基本スタンスであり、それ以外についての説明については自分はまだ知りません。
神智学には詳細な解説があります。
一般的には、普通人及びレベルの低い人間ほど次の転生が早い傾向があります。
つまり、修得すべき経験が多て清算すべきカルマも多いからでしょう。
平均的には、進歩した魂ほど次の転生までの期間は永くなる傾向があるといわれています。
プララヤ(極楽/天国的な休息期間)や天界での生存期間が永いのでしょう。
尚、神智学ではニルヴァーナに達した覚者が自らの意志で肉体を持って働かれる事例
(人類の進化に携わる任務)が多く紹介されています。
大乗的にいえば、如来の化身としての観世音菩薩的な存在に該当します。
同じくヒンドゥーにおいても、完成者の化身の出現(アヴァターラ)は説かれます。 >>606
>その破門についての話は日本大乗の歴史的実態(実際にあったこと)についてです。
破門に遭った僧の実例はあるの?
念仏の法然も親鸞も、法華至上主義の日蓮も一切経として阿含経は何度も読破してるが、
間違った教えとかの批判はしてないのだが。
ただ、仏道の初歩の教えだと言っていただけで正しくないなどとは言ってない。
当然ダメ烙印なども押してはいない。
>>607
>この法は原始経典のみに説かれているものであり、
>大乗徒らというのは原始経典を小乗扱いしてきているのでこの法を修得しません
そんなこと言ったら龍樹に怒られるよ。
大智度論釋初品中三十七品義第三十一
http://www.geocities.jp/tubamedou/Daichidoron/Daichidoron11-20/Daichidoronn19a.htm
目を通すべし でも、チベット密教のダライ・ラマって
死んでもすぐに生まれ変わるんですよね?
あれは創価学会の教えみたいな感じw
因みに、あれホントなのかな? >>603
解脱して涅槃に入るしかないってことですか
まあ業によって輪廻するんだから、輪廻しないならカルマはないと
うーん、いろいろ考えたけどやはりカルマと輪廻があるという思想もないという思想も
善性薄いものに大しては結局のところ両方とも毒になりえますね。 >>611
>破門に遭った僧の実例はあるの?
1901年(明治34年)に大乗非仏説を提唱する書籍を出版したために真宗大谷派の僧侶が破門されて僧籍を離脱しています(後に復帰
した)。この方が超がつく大物であり、東京帝国大学印度哲学科の初代教授にして名誉教授、そして大谷大学学長でした。そのため有
名な事件となった。宗門の信仰を破壊するような行動をすればどうなるのか、恐らくは見せしめということでしょう。けれどもたまた
まこの方が大物だったから騒がれただけで、宗門の手前と圧力があって実態の詳細はなかなか表沙汰にはなり難いでしょうから、こ
の事例などは氷山の一角だと思います。ごく最近の事例では、TV出演を機会に瞬く間に有名人と化した東大卒エリートの小池龍之介
氏で、『超訳ブッダのことば』などの書籍も出版してました。彼は浄土真宗本願寺派の僧侶でありながら、根本仏教を提唱して原始仏
典に基づいた観察(ヴィパッサナ)や集中(サマタ)の瞑想指導などを行っていた。そのことが宗教法人浄土真宗本願寺派僧侶規程
(宗則第9号)第12条の2に当たるものとされ、破門処分を受けて僧籍を削除されています。
まっ、真宗系列は一神教要素が顕著で排他性が強く、元々は一向一揆の攻撃性も潜めているところなので、特にこういうことが目
立つ宗派なのかもしれませんが・・・。
だから、真宗の寺院に生れて家を継ぐべく勉強していて、しだいにブッダの教えに感銘して原始経典の学修を深めていく中で、自己
の中に根本仏教の教えや大乗非仏説という理解に至った場合は、その僧侶はその後の人生の生き方を問われることとなるのです。
『村上専精---また、1901年、永年の仏教思想研究の成果に客観的方法論を導入して『仏教統一論』を著し、大乗非仏説を提起、
大きな反響を呼んだ。このため一時、所属する真宗大谷派の僧籍を離れる(還俗)ことがあったが、同派出身の南条文雄・ 井上円了・
清沢満之らをはじめ幅広い分野の人々と交流、終始一貫、近代的な仏教研究と教育体制の充実・整備に力を注いだ。
---中略---主な著書・仏教統一論[第1編:大綱論、第2編:原理論、第3編:仏陀論](1901〜1905年)・大乗仏説論批判(1903年)』
(Wiki) 『そうした事情がわが国でも急速に明らかになってきたのであるが、そのため近代仏教学研究者でしかも僧籍にある人々は、大きな
ジレンマに直面することになった。僧籍にある仏教学研究者は、みずからのよって立つ基盤は宗学でなければならないのであるが、近
代仏教学の成果は、その基盤を揺るがさざるをえなくなった。そのため、僧籍にありつつも近代仏教学の洗礼を受け、それに熱心に打
ち込んだ人々の中には、宗派から破門されるという憂き目に遇う人々が現れるようになった』
(中村 元著書『原始仏典』あとがき/宮元啓一筆)
http://ameblo.jp/takanobu/entry-11459194942.html
『>私自身,南方上座部にいくばくかの興味はあるのですが,その前に
>タンマさん御自身のことをもう少し詳しく伺いたいものです.
>もし差支えなければ,ですけど.
>「以前は大乗仏教の僧であった」とのことですが,
>現在は(どの教団かは存じませんが,そこから)僧籍を抜いて
>上座部で受戒なさったのでしょうか?
>
僧籍はそのままになっておりますが、以前、テーラワーダの本を出版したときに、自
分の先生から叱責をうけ、大乗仏教と違うことを言うならば、
破門にすると言われていますし、私も、現在も葬儀など行っている
関係上、宗派の名前では話しにくいと言うことがあります。
勿論、ミャンマーでは一時的な出家も許されておりますので、
修行をするときは、比丘として受戒し、出家僧として、托鉢を
して、修行をしております。』
http://www.kosaiji.org/bodhi/log/bodhi_3.htm >念仏の法然も親鸞も、法華至上主義の日蓮も一切経として阿含経は何度も読破してるが、
>間違った教えとかの批判はしてないのだが。
>ただ、仏道の初歩の教えだと言っていただけで正しくないなどとは言ってない。
>当然ダメ烙印なども押してはいない。
五時八教というのは大乗経と原始経典の区別なく、すべてをブッダの教えと見なすものなのでもちろんそうなのですが、しかし、阿含
経の評価は最初から低レベルで卑近な教えだというレッテルを貼られており、大乗経典には小乗を貶す言葉を散りばめているので、『結果
的には高遠な仏教の思想を知りたいという人々はみなこの経を捨てて顧みる者もなくなってしまって、「阿含経」を研究しようというよう
な志を起こす者はまったく後を絶ってしまった。それもまた、智の学説を認める者にとっては、当然という他ないのである。』(増谷文
雄著『原初経典阿含経』筑摩書房)ということで、増谷氏は日本に仏教は二度伝来した(明治の近代仏教学を以て、初めて本物の仏教が日
本に伝来した)と評しました。
それでも日本仏教界の二大巨人、空海と道元は阿含経の持つ宝のような価値に気付いたものと思われます。
>そんなこと言ったら龍樹に怒られるよ。
>大智度論釋初品中三十七品義第三十一
さすがは仏教史上きっての大天才というところでしょう!
はい、この方については例外的に除外しておきます。
龍樹は西暦200年頃のインド仏教の方であり、当時のインドでは>>601の通り、
有る程度は原始経典について自由に学べる環境があったのかもしれません。
やはり、最も問題となるのは中国天台の智以降〜日本仏教界の実態です。 >>614
追記:
つまり、浄土真宗というところは、
仏教唯一の開祖たるゴータマ・ブッダの教えよりも、
自分たちで勝手な内容を盛り込んで書き上げた創作であるところの大乗、
阿弥陀信仰の伝統を護持する方を選択した人たちだということ。 以前、韓国の仏教は韓国土着の信仰と
ミックスされたものとか言うバカにした
記事見たことあるけど海外から見て日本の
仏教はどうなるの?法華経を全面に出した
日蓮宗。阿弥陀経を全面に出した浄土宗。
禅を全面に出した禅宗。韓国のことバカにできるの?
因みに自分は韓国人が好きなわけではありませんw >>618
韓国人が好きではないなら、この問いに答える意味なくね? 日本の仏教はガラパゴス奇形だから
他の国の仏教のこと恥ずかしくて言えない
五戒すら守ってないんだから >>623
ホントだったら、ちょっとしたニュースだね。
もう、何年もおおやけの場に出てないとか?
聖教新聞や機関誌では古い写真や記事のつかい回し
ばかりだったとか?まぁ、ゴーストライターも
いるんだろうけど ところで人間は虫や動物には生まれ変わらない
と言っていた人たちもいたな。昔、守護霊とか
そっち方面の本買ったり知人から借りたりよくしてた。
いわゆる霊能者の本。カンガルーの赤ちゃんは産まれて
自分で母親のおっぱいの場所まで行くんだよね?
あと、魚でも似たような話なかったっけ?
前世の記憶なのだろうか?輪廻転生も書く人によって
いろいろ違う。あと守護霊って、いるの? >>612
>因みに、あれホントなのかな?
んなわけねーだろw
ダライ・ラマという名前の権威を守る為だよ。 >>625
>前世の記憶なのだろうか?
単純に本能だろ。
呼吸をするのも、咀嚼して物を食べるのも、カンガルーが乳首まで辿りつくのも
生き物が生きる上で出来るように仕組まれているシステムだ。
>輪廻転生も書く人によっていろいろ違う。
そりゃそうだろ。
その場の思いつきで嘘書いてるんだから。
>あと守護霊って、いるの?
いないよ。
まぁ常に覗かれているのが性的に興奮するとか、特殊な性癖の人は「いる」と思っててもいいけど。
本人がそう思いたいんだろうし。 仏教とかジャイナ教とかヨガでは行いに報いがあるというけど人をだます行為にはどんな報いがあるんだろう
天上天下唯我独尊の話とか弥勒菩薩が何百億年後にあらわれてどうのこうのとか誰が見ても明らかな創作の嘘だとわかる
キリスト教の処女懐胎とかイスラムのムハンマドの洞窟で瞑想中に天使ジブリールが現れてメッセージを授かったとか
天理教と大本教の教祖に神が乗り移って文字を書かせる現象とかエドガーケイシーの全部はずれた予言とか宗教ってどこもアホらしい嘘、虚栄、虚飾だらけ
裁きとか天罰があるというならまず宗教関係者が受けなきゃおかしい 「嘘」と一言で言っても結局、結果でしか判断出来ない。
嘘をついたことで相手を不幸にしたり、仕向けたりすると当然報いは受けるが、
中には人を幸せにする嘘もある。物事は多方面から見なければならない すると、宗教とは人を幸せにするための嘘?
坊さんも神父も牧師も、みんな嘘ついてる。 『宗教』をひとまとめにして考えてはいけない。
また、関係者一人一人考え方があるので、嘘か真かを論じるのは無意味、それ以前に当事者でない私に分かるわけがない。
幸せにするか不幸にするか結果が全て 嘘をつかないと人を幸せにできない人より
嘘をつかないで人を幸せに導いてくれる人の方が優れてる。 >>632
嘘をつかなくても幸せにできない人は
嘘をつかないと幸せにできない人より優れてるの? 釈迦の天上天下唯我独尊。
キリスト教の処女妊娠。
あとスレタイにしろ同じ。
証明出来ない以上は嘘と
言われても仕方ないかも
あとは信じるものは救われる?
結局、これしかない >>618
お彼岸とか何十回忌とかご先祖さまが帰ってくるとか草葉の陰で見守ってるとか
聖天信仰とかガン封じのご祈祷とかお百度参りとか現世利益も土着信仰もたっぷりあるね
修験道などは土着信仰と仏教の混交の最たるものだし
韓国も日本も大して変わらんのじゃね? >>632
優れているかどうかはわからないが
良い事も悪い事も真実を伝えられる人の方が信用に値するのは確かかもね 証明出来ない以上真実は伝えられない。
神通力でわかるとか瞑想でわかるとか
言われても、伝えられる側が信じるか
どうかの問題。百歩譲って神通力が
ホントだったとしても。つまり当の本人
が神通力や霊能力を身につけるしかない。
そういえば「霊能」とか言う階級がある
仏教系の宗教団体があるよね。霊能者に
なれると言う。ホントなのかな?
その中に、とある女優さんもいる。あと
昔、居酒屋で宗教に対し、ちょっと批判的
なことを言ったら「宗教とは信じるものだ」
と横から口をはさんだ人がいた。おそらく
何か入ってたのかも。その人が言う通り
宗教とは、そういうものなのかも 思い込みではないと自ら確証できる神通力って理論上は神作通(もしくは神作智)しかない
他の能力は第三者の検証なしにはただの思い込みや勘違いかは証明できない
信じて幸せになれればそれでいいというのならば、一番大事なのはカリスマ性とハッタリ ユダヤ教、ヒンドゥー教、神道は
教祖はいないんだよね? カリスマ性とハッタリで人を幸せにできるなんて、凄いことやと思うで 心が幸せになるだけでいいならそもそも宗教は必要ないんだけどね 多くの人に広く伝聞するために主体は必要やろ?それがたまたま宗教ってだけの話 死を異常に怖がる人がいるからね。
自分の死だけじゃなく周りの人の
死も怖いのだとか。そのために
精神科に通ってる人もいるという。
こういう人って、いちばん宗教に
つかまりそう。家族が死んでも、
死後会える。来世があるとかね。
まぁ、個人差はあれ、死が全く
怖くない人は、そうそういない
だろうけど >>644
人間はアダムとイブの罪(原罪?)から
逃れられないからイエスが磔になった
ことにより許されるとか言う意味じゃ?
許されるためにはキリスト教信者に
ならなければダメだけどね。たぶん
こんなところだと思ったw 台所にゴキブリがいたのでスリッパで叩き潰そうとしたが
このゴキブリも前世は人間だったのかもしれないと思った瞬間急に不憫になってきて殺せなかった
ブラックキャップに任せることにした 前世が朝鮮人だと思えば躊躇しないよ
まぁゴキブリに生まれ変わる因縁の持ち主だから、前世では人でも殺めてんじゃね? >>649
悪い思考には気をつけた方が良いです。
あなたも幸せでありますように >>1
これを言う人は仏教を知らない人でしょう。
仏教では「無始」から輪廻転生を無限に繰り返すのが生命であり、
父でなかった生命はなく母でなかった生命もないという言い方さえあります。
そして過去の業はいつどのように現れるか決まっていません。
前世の行いが現世で現れるとは決まっていないのです。
ですから、誰にでも、どのような事柄も現れうるのです。 >>652
お宅
輪廻転生を、鵜吞みにしてるが、
お宅の前世の記憶はあるか?
蛆虫の記憶だったか? >>652
> これを言う人は仏教を知らない人でしょう。
> 仏教では「無始」から輪廻転生を無限に繰り返すのが生命
無限に繰り返すのなら始まりも無く終わりも無い
と言うことですよね?すると解脱も無いのですか? >>653
鵜呑みにしているわけではなく、仏教ではそのように教えている、ということです。
この理論に従えば「仏教は不幸な死にかたした人は前世が悪いと言う」
という説明自体が誤りです、と言いたいだけです。
いたずらに過去の業を気にすることはあまり意味があるものではなく、
今をどう生きるかだけが課題、というわけです。
実際に輪廻転生が事実であるかどうかは誰にも検証不能だと思います。
(修行が進めば前世の記憶を遡れる、と主張する人もいます)
>>654
平たく言えば、自動的である無始無終の繰り返しの中で、それまでには無かった
何らかのアクションを通じて、その状態を作為的にどうにかしよう、
ということだと思います。そのアクションを仏法という名で呼んでいると。 無始無終に歯止めはかかるのか、といわれればかかりますよ、
というふうに仏教では説明していますね。 >>656
全て、このスレのレスを読んでから書き込んでますよね?
輪廻転生も、言う人によっていろいろ内容が違う。
当然、仏教もいろいろある。スレタイのような教えを
正しい教えと言う人たちもいる。見ればわかるように
このスレにも何人か登場してます。原始仏教、
三世因果、業報、阿含経とかの教えがある。また、
創価学会のように徳の高い人ほど、死んだら
すぐに生まれ変わると言う人たちもいればチベット密教
のように解脱すれば生まれ変わらないと言う人たちもいる。
あなたの言う教えは、どこの仏教宗派なんですか?
良かったら教えてください。 >>657
>原始仏教、三世因果、業報、阿含経とかの教えがある。
どういう括りだよ
原始仏教とか自称してるのは多分、仏教文献学のことを言ってるんだろうけど >>658
括り?これまで、このスレで語られた
仏教の話、教えなんかを書いたんだが?
>>656の人、良かったら教えください。 >>660
預流果の悟りまで達したら三悪趣に生まれないみたいですね。
在家でも預流果になれるので修行した方がいい
ですね。次に人間に生まれてくるのがいつなのかもわかりませんし、人間に生まれても真理に出会えるかもわからない。
だから今しかないんですね。 人身(にんじん)受け難(がた)し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身(み)今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。
大衆(だいしゅう)もろともに、至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依し奉る。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解(たいげ)して、無上意を発(おこ)さん。
自ら法に帰依し奉る。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海(ちえうみ)のごとくならん。
自ら僧に帰依し奉る。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍(いっさいむげ)ならん。
無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法は、百千万劫(ひゃくせんまんごう)にも遭遇(あいあ)うこと難し。
我いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。 前前前世が悪かったのかもしれないし、無量の過去世の業の残余かもしれないし
直近の前世が悪かったなんていうかね? 【ミリンダ王の問い 第一篇 第四章 第三節】
王は問う、
「尊者ナーガセーナよ、いかなる理由によって人々はすべて平等ではないのですか?
すなわち、ある人々は短命で、ある人々は長命です。またある人々は多病であり、ある人々は病が少ないです。
ある人々は醜怪ですが、ある人々は端麗です。ある人々は力弱く、ある人々は力が強い。
ある人々は財少なく、ある人々は財が多い。ある人々は卑賎の家に生まれ、ある人々は高貴の家に生まれます。
ある人々は愚かであり、ある人々は賢明です」
「大王よ、なぜ樹木はすべて平等ではないのですか?
<それらの果実についてみるに>、あるものは酸っぱく、あるものは塩からく、あるものはにがく、
あるものは渋く、あるものは甘いです」
「尊者よ、それはもろもろの種子が異なっているからだ、と私は思います」
「大王よ、それと同様に<宿>業の異なることによって、人々はすべて平等ではないのです。
すなわち<その故に>ある人々は短命で、ある人々は長命です。
(中略)大王よ、世尊(釈迦)はこのことをお説きになりました。
―『バラモン学生よ、生けるものどもは、それぞれ各自の業を所有し、業を相続するものであり、
業を母胎とし、業をよりどころとしている。
業は生けるものどもを、賤しいものと尊いものに差別する』と」
「もっともです、尊者ナーガセーナよ」 >>41
> 自分は悪いことしてないのに不幸な人生を送っているという人はおそらく前世での悪行の報いを受けているのだろう 前世なのか日頃なのか、どの時の因果なのか人知では計り知れないが
相手にいいと思える行いをすれば良い事が
悪い行いをすれば必ず悪い事が起こる。
この真理を知って行動すれば、人生は明るいわ いいと思って悪いことをする人がいるからなあ
宗教はいい迷惑 せやね、この世は結果がすべてやから
良かれとしてやったことも相手が不快に思えば、それ相当の報いがある >>41
> 自分は悪いことしてないのに不幸な人生を送っているという人はおそらく前世での悪行の報いを受けているのだろう キリスト教は不幸な死に方をした人ほどいい人でかわいそうな人という
完全におかしなことを教えているので、人々はどんどん悪くなる 余談だが、先日、「ハロー張りネズミ」でオカルトを扱ったものをやっていて霊媒師がまだ不動明王
を中心にとなえていたが、不動は悪いほうへいってしまいもう消滅させられたという情報を得ている。
これからは降三世明王を中心に唱えるべきだ。
大日如来はパワーがほしいときあるいは怒りがほしいとき不動(シヴァ)と合体しては絶対ならない。
ハトフル、マリア、準てい観音、キリスト、キリスト教、ヤハウェ、ユダヤ教、ルシファー、
ベルゼブブ(パールゼブル)釈迦も同じ。みんな都合いいように記憶や思いをすりかえられたり、
術中にはまってほれぼれピーに不正にさせられたりしている。だから取り返すものが
いつまでもとりかえせない。不動は人間側も唱えてはいけないし何万年分の入れ替え弁償とって
早く元から消滅完全にさせなければならない。 >>41
> 自分は悪いことしてないのに不幸な人生を送っているという人はおそらく前世での悪行の報いを受けているのだろう >>670
> キリスト教は不幸な死に方をした人ほどいい人でかわいそうな人という
> 完全におかしなことを教えているので、人々はどんどん悪くなる 余談ですが、鶴太郎は最近ヨガにはまってるらしいが、シヴァ(不動明王)は絶対唱えてはいけない。
こいつは実は何万年も人類をだましてきてます。嫉妬とひがみの因縁が切れておらずわかりやすく
いえばオーム心理教と同じです。記憶や思いも都合いいように変えられてしまいます。実際には
そうゆう不徳じゃない人が不正に障害者にされたり借金地獄にされたりしています。
たけしもいつかテレビで見たが密教の寺を興味もってたずねていたが不動は絶対
お参りしてはいけません。また、密教の寺のほうももう不動は悪にいってしまったので曼荼羅から
はずすべきです。 >>581
> とある仏教系新興宗教の教祖がキリスト教の
> 最大の失敗は輪廻転生を認めなかったことだ
> とか言ってるの読んだ記憶がある。しかもその人
> 釈迦の生まれ変わりとか?w >>598
> >>581
> 元々は、イエスは輪廻転生を説いていましたが、
> 後のキリスト教がこれを教義から削除したのです。
> 決定的にはローマ皇帝の下、西ローマ帝国滅亡後の
> コンスタンティノポリス公会議(553年)において決定しました。
> 以降、これを語る者は異端にて処刑されてきたのです。
> そのことをまったく知らず、この事実を認めないというクリスチャンが大多数の殆ど。
> 今は詳しくはやりませんけれども。
>
> 本物の高レベルな聖者であれば、
> 必ず業報輪廻を説きますから。 ミャンマーの仏教って、どんな仏教ですか?
ロヒンギャ迫害を肯定してるようなこと言う
坊主がいるようですが >>677
あの辺は日本と違って上座部仏教の方が多かったと思うが、それにしちゃ無明すぎるな
大乗にも上座部にもインチキ坊主はいるってことじゃね 「唄」「歌」うたと言う字は二種類
ありますが、このうち「唄」の方は
仏教から出てるようですね。 土人だった頃の人間にはとても良い教えではないか
しかし脱却したと自覚があるなら、もう一つ上の真理を説くべきだわな 私が、ほうぼう他宗教の霊媒師にあたった限りだと、不動教の霊媒師は不動には赤不動、青不動
黒不動があり、家のは赤不動だから大丈夫といっていたがその後以来をことごとく失敗してるし、
みんな黒不動で百面相でごまかしてるだけだと言った霊感タロット師もいた。また、不動と
シヴァを同一視する霊媒師か霊感タロット師もいてどちらも注意しなければならない。また、不動教
の霊媒師でさえもう不動は悪いほうへいってしまったと言っていた者もいた。
みなさん不動明王は拝んではいけません。一瞬よくなったように見えても、もともと悪く
なるように仕組んでおいて、それをはずしてるだけだったりするので、その後また悪くなる。
徳がつんであって障害者になる運命じゃない人をなんくせつけて不正に障害者になるよう仕向
けたり、借金地獄になるような運命じゃない人を借金地獄になるよう仕向けたりしてます。
また落ちこぼれの人に教えるよう救いの手を差し向けるとそこをねらってその落ちこぼれの
人の運命と入れ替え逆になるようしむけたりもあります。また幼いころから釈迦などと
後でもめるよう仕向けたりしておいて、後でもめてるところを、自分は釈迦とグルになるよう
はからったり、情報では2万年前のソドムとゴモラの町も別に悪い町じゃなく今より何百年か
何千年かすすんだ科学都市だったらしいですが、それで他の惑星と友好的にやっていこうと
してたのに、例の不動の癖で嫉妬とひがみにくるった状態で裏からヤハウェに「あれでお宅の惑星
を攻めてくるつもりです」と嘘を巧みな話術と幻術で洗脳し滅ぼすように仕組んだりもありました。
とにかくひがみと嫉妬に狂っていて汚くずるい。カリスマ性もカリスマ性持ってる人から
奪い取って嘘のカリスマ性で周りを呼び込んでいます。不動教信者は魔を誘うようにされ
みんなからからかわれるように仕組まれます。真言宗が一番中心にとなえる神から不動明王を排除
して降三世明王や他の明王にすべきです。不動は悪い方へ行ってしまったのではなく
もともと何万年と人類や上の神仏をだましてきたのです。上の神様大日如来もパワーがほしいとき
あるいは怒りがほしいとき不動とがったいしてはいけません。記憶、記録も思いもいいように嘘に
すりかえられてします。後はそれぞれで他宗教にあたって調べて考えてください。 >>103
> お釈迦さまは基本的に、超インテリやから
> 出家者向けと在家向けの説法は全く違う
>
> お前らも偏差値40未満の連中には難しいこと言うても無意味やと思うやろ
> お釈迦さまも同じやがな
> お釈迦さまの在家向けの説法は
> 「良いことをして悪いことをするな。そしたら極楽往生できるで」
> 出家者向けの説法は
> 「神もあの世も善も悪もない」 >>104
> お釈迦さまの説法は応病与薬
> そのひとのレベルにあわせたお話が基本
>
> >>102
> みたいな知能レベルのやつには、やさしいお釈迦さまは
> 「善行を積んだ彼らは極楽往生できるでしょう」と方便をおっしゃって下さる >>112
> >>103
> そういうのを二枚舌といい二枚舌は不妄語戒に反する。
> 本当にお釈迦様が在家と出家者で説法を違えてたら
> お釈迦様は不妄語戒を破っていた破戒者であったということになる。 >>114
> >>112
> 「早いこと寝な、オバケが出るで」
> と子どもに言うお母ちゃんも不妄語戒に反するか?
> しょーもない
> 在家向けの説法なんかそんなもんやろ
> 高卒・Fランに難しい説法しても意味ないやん ずっと、墜落した123便の特集番組観てた。
スチュワーデスたち頑張ってたんだね。
彼女たちの前世は絶対に悪人
なんかじゃない。 皆、業を相続します
すべての生命は、自分の業を相続します。
自分の業に管理されて生きています。
各生命が受ける幸不幸は、その生命の業の力によるものです。
ですから、私は私より豊かな人を見るたびに、
過去に善行為をした人であると思い、喜びを感じます。
私より不幸に思える人を見ると、生命は無明のせいで罪を犯すのだと理解し、自分が罪を犯さないようにと気を付けます。
不幸に陥っている生命に対して、憐みの気持ちを抱きます。
協力する、助ける気持ちを起こします。
http://ponta-maru.com/jihi-meisou-full-version-budda-sekai/
スマナサーラ長老の「慈悲の実践(フルバージョン)釈迦牟尼仏陀の世界」、早い話が慈悲の瞑想のロングバージョンだな、
そこにも↑のように業の相続が書いてあるんだよなあ 同じ仏教でも宗派によってまるで別物なんだよな
例えば書き直しが一切禁止されているコーランでも
過激派はその中からテロを肯定する文章ばかりを抜き出して
自分たちは神の教えに従っていると主張する
弟子たちの記憶頼りで作られた経典じゃ
その時点でその弟子にとって都合のいい記述ばかりになっていた可能性だってある
弟子入りするほどお釈迦様を尊敬していた奴から見たお釈迦様なら
ただの屁が神通力で奏でた仏の音色に聞こえたって何の不思議もない
だから矛盾だらけ
そして矛盾だらけの経典からさらに都合のいい文章だけを抜き出して作られた新興仏教は
それぞれが全く別の形をとるようになる
輪廻転生はお釈迦様の教えというよりも
その時代に一般的に信じられていた宗教の教えで言わばその時代の常識のようなもの
お釈迦様本人は転生を否定も肯定もしなかったって説もある 災害や事故にあった人を悪く言うのって自分が当事者じゃないから言えるんだよね
自分には関係ない
自分は該当しない
今大丈夫だからってずっと大丈夫である保証はないのになぜか自信満々で永久に自分は例外だと思い込んでる >>698
思い込むというより思い込みたいんだよな
あんな悲惨な目にはあいたくない
あいつは悪い奴だから悲惨な目にあったんだ
俺は悪くないから悲惨な目にはあわない
と思い込むことで自分を安心させる
でも実際には
あんな悲惨な目にはあいたくない
あわないためにはどうしたらいいか
常に身の回りに気を配り、危険を回避しよう
と思う奴が生き残る 余談ですが、この間ランク王国で御朱印を見たら、まだ不動明王が一番とっていた。あれだけ注意したのに
馬鹿どもがまだ買ってる。もう一度述べると不動は何万年と前から人類や上の神仏をだましてきていて
それが神仏にばれて抹消対象となっている。人間界側も馬鹿みたいに唱えちゃダメだ。不動は裏で
もとは裕福で借金地獄になる運命じゃなかった者を借金地獄にしたり、徳を積んであり障害者になる運命
じゃなかった者を障害者にして不正にからかわれるようにしたり、仕事他にさしつかえるようにしたり
もしている。東大震災も裏で不動が一番中心になって支持をだし起こしているとの情報があった。
要するに、嫉妬とひがみの因縁がきれてない、罪もうめあわせしていない。オーム真理教のシヴァと読み方変えただけで同じものだと言う説
もあり、また悪の出方かえただけでイルミナティとも同じだとする説もある。唱えてるといずれ正しい神仏
から罰を食う。真言宗もさっさと中心になる明王を降三世明王、大元帥明王、愛染明王などにかえよ。 「仏教は不幸な死にかたした人は前世が悪いと言う」
という説明自体が誤りです。
いたずらに過去の業を気にすることはあまり意味があるものではなく、
今をどう生きるかだけが課題、というわけです。
実際に輪廻転生が事実であるかどうかは誰にも検証不能だと思います。
(修行が進めば前世の記憶を遡れる、と主張する人もいます)
自動的である無始無終の繰り返しの中で、それまでには無かった
何らかのアクションを通じて、その状態を作為的にどうにかしよう、
ということだと思います。そのアクションを仏法という名で呼んでいる。 前世、現世、来世。三世にわたり
偶然は無く、全てに原因があるという
教えが仏教の三世因果の教え 現在、過去、未来
またあの人に逢ったなら。
迷い道くねくね。 お宅
輪廻転生を、鵜吞みにしてるが、
お宅の前世の記憶はあるか?
便所🐛🐝虫
蛆虫の記憶だったか? >>704
お宅って誰のこと?因みに自分は>>702だけど、
信じてないよ。何故、そう思ったの? 実際に天に向かって唾を吐けば、天から自分の吐いた唾が落ちてくる
これは当然の因果だよな
だから天に向かって唾を吐くのはやめようぜとなる
でも前世で悪いことをしたら現世で悪いことが起きる
これって誰かが実験でもしたのか?
現世で悪いことをしたら来世で悪いことが起きる
まあそれで悪いことをする奴が減るならそれでもいいが
これって親が子供に「悪いことをしたら妖怪がくるぞ」と言うのと同じレベルじゃん
お釈迦様はわざわざ出家までしてきた弟子にそんなレベルのことを教えてたわけじゃないだろ 前世、現世、来世。三世にわたり
偶然は無く、全てに原因があるという
教えが仏教の三世因果の教え カルマの法則。
善業をつめば良いことが、
悪業をつめば悪いことが反ってくるという法則。
神が世界の平和を守るためにつくった法則です。
神および救世主が人間のカルマを背負うということはありません。 >>708
> カルマの法則。
> 善業をつめば良いことが、
> 悪業をつめば悪いことが反ってくるという法則。
> 神が世界の平和を守るためにつくった法則です。
> 神および救世主が人間のカルマを背負うということはありません。 前世、現世、来世。三世にわたり
偶然は無く、全てに原因があるという
教えが仏教の三世因果の教え ******
霊がいるとか いないとか
人は時々 口にするけど
そういうことって 確かにあると
あなたを見てて そう思う ***幽霊坂 ***
霊がいるとか いないとか
人は時々 口にするけど
そういうことって 確かにあると
あなたを見てて そう思う ボンちゃんにおねげーだから入滅しないで教え説いてよと言われ
むりっす良く塗れの莫迦っどもに分かる訳ナイッス・・・
その予言見事的中!!話せる量の数百倍の言葉が経となる尚且つ西方よりきた仏と名乗る団体に本家の座を奪われる未来
説いてもいいけど世の中めちゃくちゃになっても知らナイッス・・・
こりゃまた的中!!反社会的集団として弾圧されるは内ゲバ始めるわ西の方のロリコン開祖のれんちゅうに
偶像崇拝する邪教あつかいされて本拠地じゃ抹消されるわ像だってギリシャ人のマネなのにw
あ、ちなみに非業だの不遇だのアチキの説いた教えとは関係ナイッスから 最近、児童の虐待死が多いけど
仏教信者の中には、あの子たちの
前世が悪いとか言う心ない人たも
いるんだろうね。 悪人なんていない
みんないい人だよ
だから誰も罰や苦しみを受ける必要はない
不運苦しみ災難に理由があるなら仏教以外にある
仏教は正しく説明できてないと思う チベット人が虐殺されたのはチベット仏教に恩恵がないどころか前世が全員罪人、獣だったという証
集団にするとさらに悲しいことになるな ダンマパダ(真理の言葉)
1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。
──車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
15 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。
16 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が淨らかなのを見て、喜び、楽しむ。
17 悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。「わたくしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦悩のところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。
18 善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。 >>719-720
つまり、これが仏教の教えです。
心ある人は、どういうことか
わかりますよね? 例えば海底火山の周辺にいた生物が火山の噴火の影響で大量絶滅したとしたら
それは「将来大量に同時期に死ぬ」事がわかっていた生命に生まれ変わるということであり
未来予知の力が働いているということになるのだろうか?
それはあってはならないだろう
全て「過去から未来」という一貫した思想の上にある >>722
大乗仏教の世界だと人間に生まれた奴は、動物に生まれた奴よりも前世で徳を積んでいるって考え方らしいけど
人間に生まれてもへその緒ついたままで捨てられる奴もいれば、動物に生まれても群れのリーダーになって仲間を導き多くの子孫を残していく奴もいる
兵隊やらないと生きていけないような国に生まれたりしたら大量殺人で今までの徳が全部パーだ
そこまで予知した上で徳を積んだ人は恵まれた家庭に生まれますよと言うんなら
だったら徳を積んだ人ほど厳しい環境で修行させるべきだろと言いたくなるし
いやそこまでは運次第だと言うなら徳を積んでもあんまり意味なくねと思う スッタニパータ (ブッダのことば)
140 ヴェーダ読誦者の家に生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行っているのが見られる。
141 そうすれば、現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる。
(身分の高い)生れも、かれらが悪いところに生まれまた非難されるのを防ぐことはできない。
142 生まれによって賤しい人となるのではない、生まれによってバラモンとなるのではない。
行為によって賤しい人となり、行為によってバラモンともなる。 2018年 4 月 1 日
エイプリルフール
平成30年度 始まる どれほど悲惨に思える出来事でも神罰では無いそうです。
ちなみに「神や、魂の不死」に関する証拠なら、
こちらを参考に。
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/esp/1469600830/5 ホーキング博士の幽霊は"自由"だった
先月亡くなった、宇宙物理学者のスティーブン・ホーキング博士は生前、自身が研究で追いかける最終的な問いについて、こう語っていた。
なぜ今のような姿であり、なぜ存在するのか――。
これは、博士が自分自身についても、投げかけ続けた問いでもあろう。博士は、21歳の若さで筋委縮性側索硬化症(ALS)を発症し、全身の筋肉が徐々に動かなくなっていくという、過酷な運命と闘った。
晩年、宇宙を解明する理論を進化させるにつれ、博士は人と神の存在について、以下のような"結論"を出していた。
「脳はコンピューターのようなもの。部品が壊れれば動作しなくなる。壊れたコンピューターには天国も来世もない。天国は、暗闇を恐れる人間のための架空の世界だよ」(*2)
「青の導火紙に点火して宇宙をスタートさせるために神を持ち出す必要はない」(*3)
では今、博士が運命と闘った汗と涙、そして、宇宙の仕組みに対する天才的な慧眼は、全て消えてなくなってしまったのだろうか――。
「あの世を受け入れられない科学者」という現代的問題
そうではなかった。博士が亡くなってから約3週間後の4月4日、大川隆法・幸福の科学総裁の元に、博士の霊からコンタクトがあった。大川総裁は博士の霊を身体に入れ、霊言を行った(*4)。
博士は霊言の冒頭、自身の今の状況への困惑を以下のように訴えた。
「It's a mystery. Am I alive or not? Are we alive? I'm thinking, thinking, thinking or dreaming, dreaming, dreaming?」
(不思議なんだ。私は生きているのか? 我々は生きているのか? 私はずっと思考し続けている……もしくは、ずっと夢を見続けているのか?)
本欄を読みながら「霊などない」と思っている人も、仮定でもいいので、想像してみて欲しい。もし自分の死後、予想に反して、意識が残ってしまったら。自分が生きているのか、死んでいるのか分からず、混乱するだろう。 博士は、質問者である幸福の科学職員に「あなたは霊だ」と説明されても、「No one can prove that(そんなこと、誰も証明できない)」と受け入れない様子だった。
しかし博士は、音声合成装置もなく話し、車椅子なしで移動している。その矛盾を説明できず、戸惑っていた。
科学的なアプローチで、世界の様々なことを説明できるようになればなるほど、宗教的な世界観を拒否するようになる人は多い。博士の困惑は、そんな現代社会の問題を象徴しているといえる。
「神に呪われた」人生だったのか?
博士は対話を進める中で次第に、なぜ自身が無神論となったのかを語る。そこには、「物理学的な結論」とはまた別の不条理感があった。
「If God made me, I cannot accept the reason why I'm so heavily destroyed my physical actions, or perception. I hate God. If you think, you believe, that you are like gods, or God. I cannot believe that kind of God」
(私が神に創られたとしたら、なんで自分がこんなに重い肉体的障害があって、知覚も障害があったのか、その理由が納得できない。神なんか嫌いだ。君らが、『自分は神に似せてつくられた』と思うとしても、私はそんな神は信じられない)
しかしその後の対話の中で徐々に、博士の中にあった「神に呪われた人生だった」という見方が揺らいでいく。
そして博士は自身の境遇を、『旧約聖書』に書いてある「義人ヨブ」に重ね合わせるかのような言葉を口にし始めた。
「ヨブ記」では、信仰心深く、心正しく生きていた義人ヨブが、神により、病気や身内の死などの、ありとあらゆる災難を与えられる。そんな中で神を疑うようになったヨブに対し、神は次のような主旨の言葉を与える。
「おまえに神の心が分かるのか。この宇宙を創ったものの、ほんとうの思いが分かるのか。なぜ私がおまえにこのような試練を与えているか分かっているのか」
ヨブは心改め、その後、大きな幸福を得ることになる。 ホーキング博士は、過酷な運命と戦いながらも、偉大な理論や功績を残した。そして、世界中の人々を勇気づけた。それは、当事者にとっては過酷な時間だったかもしれない。
しかし霊として「自由な身体」となった今、その人生を振り返れば、苦難の経験は魂の勲章として、さらに大きな喜びにつながっていくに違いない。
自身の人生の意味を、そして幸福も不幸も共存するこの宇宙が存在する意味を、博士はこれからも追究し続けるのかもしれない。 【研究】古代人対巨大ナマケモノ、死闘の様子が化石で判明
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1524796735/l50
↑この頃も因果ってあったんですかね
因果応報や輪廻転生っていうのは人類史のいつから開始されたのか、それを主張するときには必ずこれらもワンセットで説明すべきことなんじゃないでしょうか
仏陀さん達はこれらを全部見て全部知った上で説いてるんでしょ
質問しても屁理屈ですっとぼけてはぐらかすだけ
これを解説した人、解説できた人が今まで一人もいないっていうのがあやしい >>730
生命の誕生から、と言われるな
何故生命は遺伝子を残そう、増やそうとするのか?
目的がまずない
本体はすぐに死んでしまうからだ
「魂の入れ物を増やすために繁殖を行っている」なら目的ができる >何故生命は遺伝子を残そう、増やそうとするのか?
遺伝子を残そう、増やそうとする生命だけが遺伝子を残して増えてきたから
これだって立派な因果やで 一部の「種」をまとめて因果に乗せることはない
あくまでも全体 知り合いから教えてもらった副業情報ドットコム
暇な人は見てみるといいかもしれません
グーグルで検索するといいかも『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
XW98L 百歩譲って、こんな解釈がある時点で
仏教なんてヤダ。そして、それを証明
することは出来ない。 これは結局「運命は決っている」みたいな予定説的な解釈をするかってもので
ミリンダ王の問もそれをふまえたひっかけだったんじゃないだろうか ブッダさんもはっきり「輪廻なんてあるかどうかもわかんねえもんでクヨクヨしてると悟れねえぞ」って言ってあげればよかったのにな
それ口に出すと既存の宗教の人たちが発狂しただろうがw バラモン教を理解せずに仏教は理解できるのだろうか
輪廻も解脱(悟り)も仏教が生み出したものではない 理解する必要まではないかもしれんが
こういうものが当時の社会、土台としてあったということは頭の隅に入れておくといいよな
それ以前に大乗仏教だけが仏教じゃないってことも知られていなさすぎる
初期の仏教徒が現代の大乗仏教見たらなんだこれって思うだろうな バラモン教を基本として仏教誕生以前にオルフェウス教、ピタゴラス教団が生まれている
両方輪廻転生と解脱を基本にしている
教義の継続があったのはインドだけだから本質的にはインド系宗教なのだろう バラモン教はリグ・ヴェーダなどの印欧神話、神をひきついでヒンドゥーもそれにならう
多神教の部分を否定し仏教が爆発的に広まる
故にインド土着宗教が元から輪廻教だったという説もある >>738
それを口にしたアジタ・ケーサカンバリンやパクダ・カッチャーヤナ、サンジャヤ・ベーラッティプッタといった自由思想家は仏教側からは外道と称されました。
六師外道
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%B8%AB%E5%A4%96%E9%81%93 いつ頃の仏教から外道にされたんだろう
仏陀本人が外道だと言ったのか
それとも大乗仏教が出現してからの話か >>744
パーリ仏典の沙門果経が成立したころには外道扱いだっただろうと思う
インド思想史略説
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm 「大王よ、それと同様に、ひとはこの〈現在の〉名称・形態によって善あるいは悪の行為をなし、その行為(業)によって他の〈新しい〉名称・形態が次の世にまた生まれるのです。
それ故にかれは悪業から免れないのです」
(ミリンダ王の問い・東洋文庫7ー124頁)
「死とともに終わる〈現在の〉名称・形態と次の世においてもまた生まれる名称・形態とは別のものであるけれども、後者は前者から生じたのです。
それ故に、かれはもろもろの悪業から免れないのです」
(ミリンダ王の問い・東洋文庫7ー126頁)
※名称・形態…名色(心と体)のこと。 どいつもこいつもお釈迦様どのような考えだったかあまり伝わってないからって、それを野放図に改竄して勝手な教えを広めやがって!ふざけるな! >>747
時間が経てばこうなることも予想してたらしいなお釈迦様 災害や事故にあった人を悪く言うのって自分が当事者じゃないから言えるんだよね
自分には関係ない
自分は該当しない
今大丈夫だからってずっと大丈夫である保証はないのになぜか自信満々で永久に自分は例外だと思い込んでる チベットが中国に侵略されて人権弾圧を受けても誰も助けてくれないから
僧侶らが抗議の焼身自殺しまくってるけど、チベット人は前世で何か悪い
事をしたの?
っと言うことになってしまう >>751
> チベットが中国に侵略されて人権弾圧を受けても誰も助けてくれないから
> 僧侶らが抗議の焼身自殺しまくってるけど、チベット人は前世で何か悪い
> 事をしたの?
> っと言うことになってしまう
仏教の僧侶ってのがまた… 釈迦の弟子で舎利弗と並ぶ二大弟子と言われた目連(モッガラーナ)という比丘は
過去世で親を殺そうとした宿業により托鉢時に外教の暴漢に襲われ骨を砕かれて亡くなりました >>751
そうなってしまうし、被差別部落なんかもその思想が根底にある
あらゆる障害は罪業によって引き起こされる、と考えるし、日本人の思想にもそれが混じってる
キリスト教は「あらゆることが神の賜物」と考えるので逆に同性愛などの障害も受け入れるようになってきてる
完全、全能の神に失敗はないから 受け入れてきているから、スタバが全店舗で人種差別研修とかやるんだなw
うん、 じつに素晴らしいなwwwww 仏教信者は船戸結愛ちゃんの前世が悪いから
自業自得とでも言うのかな? 前世は畜生とかバイキンとかいうのもあるじゃない
「前世は人で、その人が悪を行った」という人もいるのか 愚かな者は(悪い事を)しながら「この報いはわれには来ないであろう」と考える。
しかし、 来世におもむいて、悪い行ないをした人々の行きつくところを知る。
愚かな者は(悪い事を)しながら「この報いはわれには来ないであろう」と考える。
しかし、のちに報いを受けるときに、苦痛が起る。
もしも愚かな者が、悪い行ないをしておきながら、気がつかないならば、浅はかな愚者は自分自身のした行ないによって悩まされる。
――火に焼き焦がされて火傷した人が苦しむように。
聡明でない愚人どもは、自分に対して仇敵に対するようにふるまう。
悪い行ないをして、苦い果実をむすぶ。
もしも或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善いのである。
自分の幸せだけをもとめる人々は、笑いながら悪いことをする。
しかし、かれらはのちに苦しんで、泣きながらその報いを受ける。
悪い事をしても、その業(カルマ)は、しばり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟するのである。)
その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。
悪い事をしても、その業(カルマ)は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。
しかし、来世におもむいてから、悪い行ないをした人々の行きつく先を知るのである。のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起る。
鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を食いつくすように、
悪をなしたならば、自分の業が、静かに気をつけて行動しない人を悪いところ(地獄)にみちびく。
(出典『ブッダの感興のことば』) 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ■パーリ中部135経 小業分別経
このように私は聞いた。あるとき世尊はサーヴァッティーのジェータ林、アナータピンディカ園に住しておられた。
ときにトーデッヤの息子スバ青年が、世尊のもとへ近づいた。近づいて、世尊と挨拶した。
喜ばしく記憶すべき言葉を交わしてから、一方へ坐った。一方へ坐ったトーデッヤの息子スバ青年は、世尊へこういった。
「尊者ゴータマよ、いかなる因、いかなる縁あって、人である者たち、人の身ある者たちのうちに、諸々の劣り、あるいは優れた状態が見られるのでしょうか。
尊者ゴータマよ、短命な人々が見られ、長命な者たちが見られます。多病な者たちが見られ、健康な者たちが見られます。
醜い者たちが見られ、美しい者たちが見られます。無力な者たちが見られ、大権勢ある者たちが見られます。
貧しい者たちが見られ、多財な者たちが見られます。低い家系の者たちが見られ、高い家系の者たちが見られます。
悪慧の者たちが見られ、有慧の者たちが見られます。
尊者ゴータマよ、いかなる因、いかなる縁あって、人である者たち、人の身ある者たちのうちに、諸々の優劣なることが見られるのでしょうか」と。
「青年よ、有情たちは、業を自己のものとし、業の相続人たちであり、業を起源とし、業を縁者とし、業を所依とする者たちです。
業は有情たちを仕分けます。すなわち、劣り、あるいは優れた状態へ」。
「私は、尊者ゴータマの、この簡略な、詳細には意味が解釈されなかった所説の詳細な意味を了解できませんでした。
なにとぞ、尊者ゴータマは私へ、私が尊者ゴータマの、この簡略な、詳細には意味が解釈されなかった所説の、詳細な意味を了解できる、そのように法をお示し下さい」。
「しからば青年よ、それを聞き、よく作意してください。私は語ることにしましょう」。
「そのように、尊者よ」とトーデッヤの息子スバ青年は世尊へ応えた。 「青年よ、ここに一部の女性あるいは男性は、殺生者となります。凶暴な者、血塗られた手の者、殺戮された〔獲物〕たちへ執着する者、生類、生物に対して憐愍なき者です。
その者は、そのように完遂され、そのように受持されたその業によって、身体の破壊より、死後に苦処、悪趣、堕処、地獄へ生まれ変わります。
たとえ身体の破壊より、死後に苦処、悪趣、堕処、地獄へ生まれ変わらず、もし人の状態に至るにしても、その者はどこであれ短命な者として生まれ変わります。
青年よ、この道は、短命な者へと至らしめるのです。すなわち、殺生者、凶暴な者、血塗られた手の者、殺戮された〔獲物〕たちへ執着する者、生類、生物に対して憐愍なき者となることは。
また青年よ、ここに一部の女性あるいは男性は、殺生を断じ、殺生より離れて、杖を置き、刀を置いて、恥を知り、憐愍にいたり、一切の生物生類を哀愍して住します。
その者は、そのように完遂され、そのように受持されたその業によって、身体の破壊より、死後に善趣たる天界へ生まれ変わります。
たとえ身体の破壊より、死後に善趣たる天界へ生まれ変わらず、もし人の状態に至るにしても、その者はどこであれ長命な者として生まれ変わります。
青年よ、この道は、長命な者へと至らしめるのです。すなわち、殺生を断じ、殺生より離れて、杖を置き、刀を置いて、恥を知り、憐愍にいたり、一切の生物生類を哀愍して住することは。 青年よ、ここに一部の女性あるいは男性は、拳による、土塊による、鞭による、剣による、有情たちへの悩害ある種類の者となります。
その者は、そのように完遂され、そのように受持されたその業によって、身体の破壊より、死後に苦処、悪趣、堕処、地獄へ生まれ変わります。
たとえ身体の破壊より、死後に苦処、悪趣、堕処、地獄へ生まれ変わらず、もし人の状態に至るにしても、その者はどこであれ多病な者として生まれ変わります。
青年よ、この道は、多病な者へと至らしめるのです。すなわち、拳による、土塊による、鞭による、剣による、有情たちへの悩害ある種類の者となることは。
また青年よ、ここに一部の女性あるいは男性は、拳による、土塊による、鞭による、剣による、有情たちへの悩害なき種類の者となります。
その者は、そのように完遂され、そのように受持されたその業によって、身体の破壊より、死後に善趣たる天界へ生まれ変わります。
たとえ身体の破壊より、死後に善趣たる天界へ生まれ変わらず、もし人の状態に至るにしても、その者はどこであれ健康な者として生まれ変わります。
青年よ、この道は、健康な者へと至らしめるのです。すなわち、拳による、土塊による、鞭による、剣による、有情たちへの悩害なき種類の者となることは。 青年よ、ここに一部の女性あるいは男性は、忿怒あり煩悶多き者となります。
些細なことを言われただけで、不機嫌になり、怒り、瞋害し、頑なになり、憤怒と瞋恚と不満とをあらわにします。
その者は、そのように完遂され、そのように受持されたその業によって、身体の破壊より、死後に苦処、悪趣、堕処、地獄へ生まれ変わります。
たとえ身体の破壊より、死後に苦処、悪趣、堕処、地獄へ生まれ変わらず、もし人の状態に至るにしても、その者はどこであれ醜い者として生まれ変わります。
青年よ、この道は、醜い者へと至らしめるのです。すなわち、忿怒あり煩悶多き者となり、些細なことを言われただけで、不機嫌になり、怒り、瞋害し、頑なになり、憤怒と瞋恚と不満とをあらわにすることは。
また青年よ、ここに一部の女性あるいは男性は、忿怒なく煩悶多からぬ者となります。
多くのことを言われても、不機嫌にならず、怒らず、瞋害せず、頑なにならず、憤怒と瞋恚と不満とをあらわにしません。
その者は、そのように完遂され、そのように受持されたその業によって、身体の破壊より、死後に善趣たる天界へ生まれ変わります。
たとえ身体の破壊より、死後に善趣たる天界へ生まれ変わらず、もし人の状態に至るにしても、その者はどこであれ端正な者として生まれ変わります。
青年よ、この道は、端正な者へと至らしめるのです。すなわち、忿怒なく煩悶多からぬ者となり、多くのことを言われても、不機嫌にならず、怒らず、瞋害せず、頑なにならず、憤怒と瞋恚と不満とをあらわにしないことは。 青年よ、ここに一部の女性あるいは男性は、嫉妬の意ある者となります。
他者の利得、恭敬、尊重、尊敬、礼拝、供養に関して、妬み、憎み、嫉妬を結びます。
その者は、そのように完遂され、そのように受持されたその業によって、身体の破壊より、死後に苦処、悪趣、堕処、地獄へ生まれ変わります。
たとえ身体の破壊より、死後に苦処、悪趣、堕処、地獄へ生まれ変わらず、もし人の状態に至るにしても、その者はどこであれ無力な者として生まれ変わります。
青年よ、この道は、無力な者へと至らしめるのです。すなわち、嫉妬の意ある者となり、他者の利得、恭敬、尊重、尊敬、礼拝、供養に関して、妬み、憎み、嫉妬を結ぶことは。
また青年よ、ここに一部の女性あるいは男性は、嫉妬の意なき者となります。
他者の利得、恭敬、尊重、尊敬、礼拝、供養に関して、妬まず、憎まず、嫉妬を結びません。
その者は、そのように完遂され、そのように受持されたその業によって、身体の破壊より、死後に善趣たる天界へ生まれ変わります。
たとえ身体の破壊より、死後に善趣たる天界へ生まれ変わらず、もし人の状態に至るにしても、その者はどこであれ大権勢ある者として生まれ変わります。
青年よ、この道は、大権勢ある者へと至らしめるのです。すなわち、嫉妬の意なき者となり、他者の利得、恭敬、尊重、尊敬、礼拝、供養に関して、妬まず、憎まず、嫉妬を結ばないことは。 青年よ、ここに一部の女性あるいは男性は、沙門婆羅門のため、食べ物、飲み物、衣服、乗り物、華鬘、香料、塗油、寝具、住居、燈明を布施する者となりません。
その者は、そのように完遂され、そのように受持されたその業によって、身体の破壊より、死後に苦処、悪趣、堕処、地獄へ生まれ変わります。
たとえ身体の破壊より、死後に苦処、悪趣、堕処、地獄へ生まれ変わらず、もし人の状態に至るにしても、その者はどこであれ貧しい者として生まれ変わります。
年よ、この道は、貧しい者へと至らしめるのです。すなわち、沙門婆羅門のため、食べ物、飲み物、衣服、乗り物、華鬘、香料、塗油、寝具、住居、燈明を布施する者とならないことは。 また青年よ、ここに一部の女性あるいは男性は、沙門婆羅門のため、食べ物、飲み物、衣服、乗り物、華鬘、香料、塗油、寝具、住居、燈明を布施する者となります。
その者は、そのように完遂され、そのように受持されたその業によって、身体の破壊より、死後に善趣たる天界へ生まれ変わります。
たとえ身体の破壊より、死後に善趣たる天界へ生まれ変わらず、もし人の状態に至るにしても、その者はどこであれ多財な者として生まれ変わります。
青年よ、この道は、多財な者へと至らしめるのです。すなわち、食べ物、飲み物、衣服、乗り物、華鬘、香料、塗油、寝具、住居、燈明を布施する者となることは。 青年よ、ここに一部の女性あるいは男性は、強情な、過慢ある者となります。
敬礼されるべき者へ敬礼せず、立礼されるべき者へ立礼せず、座に値する者へ座を与えず、道に値する者へ道を与えず、
恭敬されるべき者を恭敬せず、尊重されるべき者を尊重せず、奉事されるべき者を奉事せず、供養されるべき者を供養しません。
その者は、そのように完遂され、そのように受持されたその業によって、身体の破壊より、死後に苦処、悪趣、堕処、地獄へ生まれ変わります。
たとえ身体の破壊より、死後に苦処、悪趣、堕処、地獄へ生まれ変わらず、もし人の状態に至るにしても、その者はどこであれ低い家系の者として生まれ変わります。
青年よ、この道は、低い家系の者へと至らしめるのです。
すなわち、強情な、過慢ある者となり、
敬礼されるべき者へ敬礼せず、立礼されるべき者へ立礼せず、座に値する者へ座を与えず、道に値する者へ道を与えず、
恭敬されるべき者を恭敬せず、尊重されるべき者を尊重せず、奉事されるべき者を奉事せず、供養されるべき者を供養しないことは。
また青年よ、ここに一部の女性あるいは男性は、強情ならぬ、過慢なき者となります。
敬礼されるべき者へ敬礼し、立礼されるべき者へ立礼し、座に値する者へ座を与え、道に値する者へ道を与え、恭敬されるべき者を恭敬し、尊重されるべき者を尊重し、奉事されるべき者を奉事し、供養されるべき者を供養します。
その者は、そのように完遂され、そのように受持されたその業によって、身体の破壊より、死後に善趣たる天界へ生まれ変わります。
たとえ身体の破壊より、死後に善趣たる天界へ生まれ変わらず、もし人の状態に至るにしても、その者はどこであれ高い家系の者として生まれ変わります。
青年よ、この道は、高い家系の者へと至らしめるのです。
すなわち、強情ならぬ、過慢なき者となることは。敬礼されるべき者へ敬礼し、立礼されるべき者へ立礼し、座に値する者へ座を与え、道に値する者へ道を与え、
恭敬されるべき者を恭敬し、尊重されるべき者を尊重し、奉事されるべき者を奉事し、供養されるべき者を供養します。 青年よ、ここに一部の女性あるいは男性は、沙門あるいは婆羅門に近づいて質問する者となりません。
『尊者よ、何が善であり、何が不善なのでしょうか。何が罪あるものであり、何が罪なきものなのでしょうか。何が親近すべきものであり、何が親近すべからざるものなのでしょうか。
何が私によってなされれば長きにわたる不利益と苦のためとなり、あるいはまた、何が私によってなされれば長きにわたる利益と楽のためとなるのでしょうか』とは。
その者は、そのように完遂され、そのように受持されたその業によって、身体の破壊より、死後に苦処、悪趣、堕処、地獄へ生まれ変わります。
たとえ身体の破壊より、死後に苦処、悪趣、堕処、地獄へ生まれ変わらず、もし人の状態に至るにしても、その者はどこであれ劣慧の者として生まれ変わります。
青年よ、この道は、劣慧の者へと至らしめるのです。すなわち、沙門あるいは婆羅門に近づいて質問する者とならず、
『尊者よ、何が善であり、何が不善なのでしょうか。何が罪あるものであり、何が罪なきものなのでしょうか。何が親近すべきものであり、何が親近すべからざるものなのでしょうか。
何が私によってなされれば長きにわたる不利益と苦のためとなり、あるいはまた、何が私によってなされれば長きにわたる利益と楽のためとなるのでしょうか』と〔問わない〕ことは。 また青年よ、ここに一部の女性あるいは男性は、沙門あるいは婆羅門に近づいて質問する者となります。
『尊者よ、何が善であり、何が不善なのでしょうか。何が罪あるものであり、何が罪なきものなのでしょうか。何が親近すべきものであり、何が親近すべからざるものなのでしょうか。
何が私によってなされれば長きにわたる不利益と苦のためとなり、あるいはまた、何が私によってなされれば長きにわたる利益と楽のためとなるのでしょうか』と。
その者は、そのように完遂され、そのように受持されたその業によって、身体の破壊より、死後に善趣たる天界へ生まれ変わります。
たとえ身体の破壊より、死後に善趣たる天界へ生まれ変わらず、もし人の状態に至るにしても、その者はどこであれ大慧ある者として生まれ変わります。
青年よ、この道は、大慧ある者へと至らしめるのです。すなわち、沙門あるいは婆羅門に近づいて質問する者となり、
『尊者よ、何が善であり、何が不善なのでしょうか。何が罪あるものであり、何が罪なきものなのでしょうか。何が親近すべきものであり、何が親近すべからざるものなのでしょうか。
何が私によってなされれば長きにわたる不利益と苦のためとなり、あるいはまた、何が私によってなされれば長きにわたる利益と楽のためとなるのでしょうか』と〔問う〕ことは。 青年よ、このように、短命な者へと至らしめる道は短命なることへ導き、長命な者へと至らしめる道は長命なることへ導きます。
多病な者へと至らしめる道は多病なることへ導き、健康な者へと至らしめる道は健康なることへ導きます。
醜悪な者へと至らしめる道は醜悪なることへ導き、端正な者へと至らしめる道は端正なることへ導きます。
無力な者へと至らしめる道は無力なることへ導き、大権勢ある者へと至らしめる道は大権勢あることへ導きます。
貧しい者へと至らしめる道は貧しさへ導き、多財なる者へと至らしめる道は多財なることへ導きます。
低い家系の者へと至らしめる道は低い家系なることへ導き、高い家系の者へと至らしめる道は高い家系なることへ導きます。
劣慧の者へと至らしめる道は悪慧なることへ導き、大慧の者へと至らしめる道は大慧なることへ導きます。
青年よ、有情たちは、業を自己のものとし、業の相続人たちであり、業を起源とし、業を縁者とし、業を所依とする者たちです。
業は有情たちを仕分けます。すなわち、劣り、あるいは優れた状態へ」。 このように言われて、トーデッヤの息子スバ青年は世尊へこう言った。
「素晴らしい、尊者ゴータマよ、素晴らしい、尊者ゴータマよ。
尊者ゴータマよ、たとえばまた、倒れたものを起こすように、覆われたものをあきらかにするように、
迷ったもののために道を教えるように、
あるいは、『眼あるものが諸々の形相を見る〔ことができるように〕』といって暗闇に灯明を差し出すように、
まさしくそのように、尊者ゴータマによって多くの法門により法があきらかにされました。
この私は世尊ゴータマへ帰依し、法へ帰依し、また比丘僧伽へ帰依いたします。
世尊は私を、今日以降、命ある限り、帰依をなした優婆塞であるとご記憶下さい」。 〔「中部」「後分五十篇」「分別品」〕第五〔経〕『小業分別経』おわり。 【ミリンダ王の問い 第一篇 第四章 第三節】
王は問う、
「尊者ナーガセーナよ、いかなる理由によって人々はすべて平等ではないのですか?
すなわち、ある人々は短命で、ある人々は長命です。またある人々は多病であり、ある人々は病が少ないです。
ある人々は醜怪ですが、ある人々は端麗です。ある人々は力弱く、ある人々は力が強い。
ある人々は財少なく、ある人々は財が多い。ある人々は卑賎の家に生まれ、ある人々は高貴の家に生まれます。
ある人々は愚かであり、ある人々は賢明です」
「大王よ、なぜ樹木はすべて平等ではないのですか?
<それらの果実についてみるに>、あるものは酸っぱく、あるものは塩からく、あるものはにがく、
あるものは渋く、あるものは甘いです」
「尊者よ、それはもろもろの種子が異なっているからだ、と私は思います」
「大王よ、それと同様に<宿>業の異なることによって、人々はすべて平等ではないのです。
すなわち<その故に>ある人々は短命で、ある人々は長命です。
(中略)大王よ、世尊(釈迦)はこのことをお説きになりました。
―『バラモン学生よ、生けるものどもは、それぞれ各自の業を所有し、業を相続するものであり、
業を母胎とし、業をよりどころとしている。
業は生けるものどもを、賤しいものと尊いものに差別する』と」
「もっともです、尊者ナーガセーナよ」 >>761-774
■パーリ中部135経 小業分別経 のまとめ
トーディヤの息子であるスバが「なぜ人は、寿命、健康、容姿、権力、貧富、身分、智慧が違うのか」と問う。
その釈迦の返答。
・寿命
殺す人は、悪趣(地獄などの悪いところ)か短命に生まれる
殺さず、慈しむ人は、天か長命に生まれる
・病気
生き物を苦しめる人は、悪趣か多病に生まれる
苦しめない人は、天か無病に生まれる
・容姿
怒りっぽく、不満を現す人は、悪趣か醜く生まれる。
怒りっぽくなく、不満を現さない人は、天か美しく生まれる。
・権力
嫉妬深い人は、悪趣か権力のない者として生まれる。
嫉妬しない人は、天か権力ある者として生まれる。
・貧富
修行者・宗教家に物をあげない人は、悪趣か貧乏に生まれる。
修行者・宗教家に物をあげる人は、天か富裕に生まれる。
・身分
傲慢で、尊敬すべき人を尊敬しない人は、悪趣か卑しい家に生まれる。
謙虚で、尊敬すべき人を尊敬する人は、天か高貴な家柄に生まれる。
・智慧
修行者に善悪や利益不利益を聞かない人は、悪趣か愚かに生まれる。
修行者に善悪と利益不利益を聞く人は、天か賢明な者として生まれる。
「学生さん、生ける者たちは、自分の行為を持つ者であり、行為の相続人であり、行為を孕む者であり、行為の結びついた者であり、行為の行き着く場所なのです。
生ける者たちを分別して、この優劣の差を引き起こしているのです」 現在、中国は、南シナ海の岩礁をコンクリートで埋め立てて全長三キロメートルの滑走路をつくり、そこから爆撃等もできるような態勢ができていますが、
おそらく、トランプ大統領の登場によって、向こう四、五年のうちに、局地的な戦争が起きるのではないかと私は推定しています。
こうした状況に際して、安倍政権が「わが国の国防も、実務的なレベルにおいてきっちりしたほうがよい」と考えている点については、ある程度応援していますし、
国防に関しては、当会が理論的に引っ張ってきたところが大きいと言うべきでしょう。
今のところは、まだ、そうした南沙諸島や、北朝鮮、台湾問題等による軍事的な大戦争が起きるところまでは行かないでしょうが、今後、局地的な紛争ないしは戦争が起きる可能性は高いとみています。
したがって、日本としても、「国防」の自覚を持つことが大事であると同時に、やはり、それを乗り越えるだけの「理論的な思想」がなければいけません。
七十年、八十年前の過去の話ばかりをしていても、絶対に前には進みません。そんなことをしていても、自分たちに都合の良い理由をつける以外にないので、それを乗り越えて「前に行くための思想」が必要ではないでしょうか。
そして、私は、「当会の思想がそれに当たる」と考えています。未来には、こうしたアジアの不安定な地域も、安定化ならしめたいと思っているのです。
go to
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1523449936/31 ロヒンギャ迫害するミャンマー僧
手足切断されるチベット僧
強姦されるチベット尼 因果応報
三世因果
業報
差別戒名
離檀料
ロヒンギャ迫害するミャンマー僧
手足切断されるチベット僧
強姦されるチベット尼 バラモン教を理解せずに仏教は理解できるのだろうか
輪廻も解脱(悟り)も仏教が生み出したものではない >>307
知識を愛するギリシャの中でも生粋のエリートで広範な知識と哲学をもったミリンダ王が
「見事であるナーガセーナ」と皮肉をこめて言ったんだろうな
底辺国家の愚か者を見るかんじで バラモン教を基本として仏教誕生以前にオルフェウス教、ピタゴラス教団が生まれている
両方輪廻転生と解脱を基本にしている
教義の継続があったのはインドだけだから本質的にはインド系宗教なのだろう そう
ヴェーダ初期にも輪廻思想の片鱗はみえる
イラン多神教が支配層で信仰もあつかったのに覆ったということは相当な信仰度だったはず 因果応報
三世因果
業報
差別戒名
離檀料
ロヒンギャ迫害するミャンマー僧
手足切断されるチベット僧
強姦されるチベット尼 いつ頃の仏教から外道にされたんだろう
仏陀本人が外道だと言ったのか
それとも大乗仏教が出現してからの話か >>790
スマナサーラ長老は輪廻は仏教がオリジナルと言ってますが
サイト中段
輪廻転生はヒンドウー教の借りものか
以降を参照
http://www.homyou.hello-work.jp/ron3.html 悪業の限りを尽くしても大往生した人は前世が善かったのか? >>798
『中部経典 第一三六経 業の大分析−−大業分別経』
サミッディはポータリプッタに下手に説明して、釈迦が訂正する。
・四種の人
@ 悪いことをして悪趣に行く人がいる
A 悪いことをして天に行く人がいる
B 善いことをして天に行く人がいる
C 善いことをして悪趣に行く人がいる
Aの人がなぜ天に行くかというと、前世か死ぬ間際に善いことをしたから。でも、この人生で悪いことをしているから、いつか来世でその悪い報いを得る。
Cの人がなぜ悪趣に行くかというと、前世か死ぬ間際に悪いことをしたから。でも、この人生で善いことをしているから、いつか来世でその善い報いを得る。
「友、ポータリプッタよ、身体と言葉と心によって、楽の感受をもたらすべく意図した業をつくって、かれは楽を感受するのです。
身体と言葉と心によって、苦の感受をもたらすべく意図した業をつくって、かれは苦を感受するのです。
身体と言葉と心によって、苦でも楽でもないものの感受をもたらすべく意図した業をつくって、かれは苦でも楽でもないものを感受するのです」 人は生まれによって尊いのではない、行いによって尊いのだ。
釈迦は良いこともいっぱい言ってるよ。 >>800
スッタニパータ だね
140 ヴェーダ読誦者の家に生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行っているのが見られる。
141 そうすれば、現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる。
(身分の高い)生れも、かれらが悪いところに生まれまた非難されるのを防ぐことはできない。
142 生まれによって賤しい人となるのではない、生まれによってバラモンとなるのではない。
行為(業)によって賤しい人となり、行為(業)によってバラモンともなる。 根拠もなく死者を冒涜するのが仏教。
綺麗事言っても空々しい >>800
死に方は前世に拠るなら、今生でいくら行いを正しても取り敢えずは無駄だろ。 >行為(業)によって賤しい人となり、行為(業)によってバラモンともなる。
で、お偉いさんになると賎しい人を踏みつけにして来世はまた落ちるw 今世に悪い行いをしていないのに悪い死に方をしたのであれば、それは知らずに罪を作ったか、過去世に作った因縁です。
しかし、今世に多くの良い行いをしたのであれば、今世または未来世にその果を得ます。
ここまで書いたら死者の冒涜とかいう話にならないですよね。悪人ざまあとかいってたら冒涜でしょうけど。 >>806
十分冒涜になる。前世なんかあるかどうかも
わからない。百歩譲って、あったとしても
わかるわけもない。瞑想や神通力でわかる
なんてのは根拠にならない。それで死者の
前世を悪いことにしている。
ずっと同じことの繰り返し。スレ読んでから
レスしてるのかな? 心臓外科で1000人救って、行きがかりで人間のクズを1匹やった場合。
命を救ったやつの1人がたまたまヒットラーだった場合。
死に方はどっちが悪いかな? スーチー氏自身に偏見があるのか
軍との関係上止むを得ず冷淡なのか はたらく細胞見ろよ。
免疫は殺戮装置、ブッダだろうが坊主だろうがみんな殺生しまくり。
枯れ草食ったって生きる事は殺す事。 前世があろうが無かろうが、ロクな死に方出来ないようになってるのさ。 前世があるかどうかわからないのに、前世で罪を犯してないと言い切るのは、話の筋が通らないですよね。
あるかどうかわからないから何ですか?
あるかないかはわからないけど、もしあってもいいように行動するのが普通ですよね。今だって保険ってそういうもので厳然と成り立ってますよね。
じゃあ一般的な話として、努力した人がすべて成功するわけではないけど、成功した人の多くは努力していますよね。
すると先人は成功したければ努力しましょうと後人に教えるのが普通ですね。
そこで人一倍努力したのに失敗してしまったら、努力したのに成功しなかったのは何でだ?と尋ねるでしょう。
なんと答えますか。
出来うる限りの完全な努力を尽くしてもだめなの場合があるのは何故か、何と説きますか。
抽象的な話になります。
努力が完全なのであれば少なくともそれは、もはや努力の及ばない所に原因があるからですよね。
努力の及ばない所とはどこですか。過去ですよね。
では過去とはどこですか。
生まれてから今までが過去ですか。
生まれるより前はその人にとっての過去とは言えませんか。
もし両親のうち片方が今と別の人だったら、その人はその人として生まれましたか。
その人が生まれるより前の時間もその人の過去であるなら、その人の生まれる前に原因があったということが起こりますね。
そこを前世というのかどうかです。 > 前世があるかどうかわからないのに、前世で罪を犯してないと言い切るのは、話の筋が通らないですよね。
前世があるかどうかわからないのに前世で
罪を犯したと言うほうが遥かに筋が通らない。
なんかバカらしくなってきたw 努力なんかは大した意味ないしそれは執着だろう
チーターが獲物を追っかけるのも努力だ (第V篇第二章第一〇節 子がいない(二))
(詩)
「穀物も財も、銀も金も、またいかなる所有物があっても、
奴僕も、雇人も、使い走りの者も、またかれに従属して生活する者どもでも、
どれもすべて連れて行くことはできない。
すべてを捨てて行くのである。
人が身体でなし、またことばや心でなすところのもの(=業)、それこそ、かれ自身のものである。
人はそれを取って受けて、行くのである。
それは、かれに従うものである。
影が人に従って行くように。
それ故に、善いことをして、来世のために功徳を積め。
功徳は、あの世で人々のよりどころとなる。」
http://blog.livedoor.jp/shinbookdiary/archives/65918679.html まだ宗教を隠れ蓑にして自尊心を満たしていたのですね。 ブッダのことば・スッタニパータ・第1章・140〜142
第1 蛇の章 7.賤民経
140.
聖典を読誦する家に生まれいつも聖なる言葉(真言)に親しんでゐる婆羅門であつてもよからぬカルマ(行為・業)をしばしばしてゐるものがゐる。
141.
そのやうなものはこの世にあつては非難され、“来世に於いては”苦難の世界へゆくこととなる。
彼の<婆羅門という高貴な身分での>生まれは、彼が苦悩の世界へゆき非難されることをなんら妨げない。
142
生まれによつて賤民なのではなく、生まれによつて高貴なのでもない。
カルマ(行為・業)によつて賤民となり、カルマ(行為・業)によつて高貴な人ともなるのである。 仏教は全てミトラ(みろく)の影響あり?
上座部にも弥勒は出てくる >>133
素晴らしい。
まさに奴隷をコントロールするためのカルトだ。
都合よく自殺を咎めるカルトを流行らせれば底辺奴隷の自殺を防止できるな。
同じく寿命まで生きればなぜか都合よく救われると刷り込めば定年まで囚人のように働かせることができるだろう。
底辺なら根拠のないオカルトやカルトでも本気で信じるだろう(笑)
盲信しない奴には適当にオカルトに傾倒した脳神経外科医の名前や霊能力者とかいう詐欺師の発言でも出しておけば真に受けるだろう。
奴隷に自殺は許されん。
彼らを逃がしてはならない。
奴隷はカルトでコントロールして定年まで囚人のように働かせろ。
全身麻酔で簡単に意識を失う雑魚人間の思い上がり(笑) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています