仏教では、悟って仏になれば、突然の不幸など身の破滅の恐れがなくなる不可思議な特徴を言っているのであろう。

副産物の話として、そうした覚者に対し、善いことをすると利益(りやく)があり、非道なことをすると不幸なことがことが起こった実際が伝わっているのであって

まだ悟っていない普通の人は、他人の理不尽な不幸を(自分は大丈夫だと)笑えるモノではないし、前世の報いといっている場合ではない。悟ってないなら、厳しい現実を眼前に突きつけられているのだ。もし自分の状況をしることが出来たら、生きた心地がしないであろう。

仏の事例を凡夫にこじつけるから可笑しくなる。「あいつは、〜にこんなことをしたからこうなった」と言いながら、ざまあみろというのが本音だったりするものだ。釈尊にそんな愚かしさは無い。そういうのがまったく無いから優しい。

経済的に恵まれたり運が良かったりすると、前世で善かったと思ってしまう・・・つまり自分は特別と思うであろう。じつは精神的なものは何も関係なくて、ただ生き残っただけかも知れない。津波で亡くなった方々は、単に海の近くにいただけで、ほんとにそれだけのことならば。

海の幸が嫌いと引っ越していた者もいるだろうし、そうした事情は無数にあるのだろう。しかぢ、冷酷に判断するのも危うい。もし意味付けをしないと心が不安で一杯であろう。

せめて自分のしたいことをしっかり見出だせば、せめて自分の心だけは安心する。それ以前に、前世〜だったからなど、仏の知見を持ってない癖に断言して、人様の心を掻き乱すなら、不幸の報いが起こるのかは知らないが、少なくとも仏になる道から自ら外れてしまう。