▼▼▼仏教は不幸な死にかたした人は前世が悪いと言うらしい▼▼▼ [無断転載禁止]©2ch.net
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前世があるなんことも証明できないのに。 宗派によっては、そんなこと言わないと 言う人もいるが釈迦が、そう言ったと主張する人 もいる。だとすると救いようがない。 富士山は「高い」と言われるけどエベレストから見れば「低い」 北海道は寒いけどフィンランドに比べれば暖かい 残飯やうんこのにおいは人からしたらくさいけどハエにとってはいい香り 味の美味い、まずいもスタイルのいい悪いも美人かブサイクかも比較対象によって、また個人の好き嫌いによって感じ方は全然違う 心が清らか、心が穢れている 行為の善、悪 聖、邪 浄、不浄 それは何から見て、何と比べてそう見えるのか どこから見て善いのか悪いのか 何と照らし合わせて、善なのか悪なのか 偏差値50に相当する中間点、絶対の基準点が「法」だというならその中身をなぜ説かない? 「善を積めば幸福になり悪行を積み重ねれば苦痛を受ける」 だからその善とは? 悪とは? 「善いこと(僧侶へのお布施)をして悪いこと(戒律に反すること)をするな」 こんな糞みたいな迷信ではない本物の善悪を説いた人いるの? 仏さま覚者さま(笑)の語る主観と偏見と好き嫌いと曖昧さに満ちた善悪なんかどうでもいいんだわ 三世因果って、釈迦が言ったんですか? そして、この言葉は経とかに出てくるんですか? >>497-498 あなたからの指摘と疑問点は尤もなことです。 確かに一見すると善悪というのは相対的なものであって、 時代や地域や民族宗教によって、そして、個人によっても様々に異なる善悪の法規や認識に絶対的な基準はあるのか? 仏教の説く善悪の基準はどのようにして確認されたのか? そして、それは一体、何によって定められたものなのか? (ただし、絶対性のない相対的なものという意味では確かにそれらは該当しますが、 富士山は高いか低いか...などのあなたからの譬えというのは、元々、善悪とは関係ありません) 人間の命を奪う殺人行為に至っても、 古代の迷信的宗教においては神に捧げられる生贄は善であり、生贄となる本人にとっても光栄なことであったりもする。 そして、なんとも恐ろしいことに、今でも、神の名の元に異教徒は皆殺しにすることが大いなる善とする集団も存在しています。 彼らには、罪の意識すらもそこにはないかのように見える...。 私からの返答はこれはあくまでも、 仏教の説くところに限定される話となるかもしれませんが、 しかし、仏教徒であるならば皆、このようなブッダの教えを受け入れて これこそが真理であると見なして信仰しているものと思います (そうでない人というのは、分かってない人です)。 仏教の説く善悪の基準は、実は単純明瞭なものです。 自己を“害する行為”が「悪」であり、自己を護り援けることが「善」なのです。 人間はそれぞれ自己こそが最も尊いものであるから、相手にとっても同様に尊い相手の自己をも護れかし、と。 そして、人間存在の尊重が絶対のものであり、他の生命はそれに準ずるものとなります。 このことは瞑想の究極における神秘によって確認されたものです。 すべての人間はその本質(本性)においては一つであるという事実を知ることによって、 他人を害する行為が実は己れを害することになるのだという真理です。 「害」とは、苦痛(肉体的)や苦悩(精神的)を与えることをいいます。 従って、殺人行為はその対手に与える苦痛の最大限にして、 尚且つ、相手のその後の生存における進歩を阻害するものであるから最大の悪事です。 ということで〜、仏教における生活の一番手は無害であることです。 これが非暴力の実践の教えです。 これらの基準に立てば、その応用によってあらゆる事柄についても判断ができる。 これを犯した者が死後にたどる行き先とその末路についても、 ゴータマは自分の目で見て確認した上で教えを説いているのです。 『心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、けがれなく、やわらかで、たくみで、確立し不動になったときに、多くの 人々の死と生を知ることに心を向けた。 すなわち、わたしは清浄で超自然的な天眼によって、多くの人々が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑しい人と高貴な人、 美しい人と醜い人、幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれぞれの行為に従っているのを見た。 「じつにこれらの人々は身体で悪い行為をし、ことばで悪い行為をし、心で悪い行為をし、多くの聖者を非難し、よこしまな見 解をもち、よこしまな見解にもとづいて行為をする。かれらは身体が壊れ死んだ後、悪い所、苦しい所、地獄に生まれる。また、 他のこれらの人々は身体で善い行為をし、ことばで善い行為をし、心で善い行為をし、多くの聖者を非難せず、正しい見解をもち、 正しい見解にもとづいて行為をする。かれらは身体が壊れ死んだ後、善い所、天界に生まれる」と。 わたしは、このように清浄で超自然的な天眼によって、多くの人々が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑しい人と高貴な 人、美しい人と醜い人、幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれぞれの行為に従っているのを見た。 バーラドゥヴァージャよ、これが夜の中間の部分において得られた第二の明知である。ここに無明が滅び明知が生じたのである。 暗闇は消滅して光明が生じたのである。それはつとめ励み、努力している人に現れるのである。』 (中部経典第100経「サンガーラヴァ経」) いっぺんに説明することはこの私にもできませんけれども、 しかし、今後も私からの投稿を真剣に読んでいくならば、 あなたにもその内、追々と意味が分かってくるでしょう。 『心の中であらゆる方角をめぐってみても、自己よりもさらに愛しいものにめぐり会うことはなかった。 そのように他の人にとっても自分がとても愛しい。それ故に自己を愛する人は他人を害してはならぬ。』 (サンユッタニカーヤ.T,p.75) 『もしも自己を愛しいものとであると知ったならば、自己を悪と結ぶなかれ』。 (サンユッタニカーヤ.T,p.72) 『自己を制して悪を為さず、若いときでも中年でも聖者は自己を制している。かれは他人に悩まされることなく、 また何人も悩ますことがない。諸々の賢者は、かれを聖者であると知る。』 (スッタニパータ216) 『生きものを(みずから)殺してはならぬ。また(他人をして)殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害す るのを容認してはならぬ。世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、すべての生きものに 対する暴力を抑えて──。』(スッタニパータ394) 『すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身をひきくらぺて、殺してはならぬ。殺 させてはならぬ。すべての者は暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。已が身にひき くらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によっ て生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。生きと し生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せ をもとめているが、死後には幸せが得られる。』(ダンマパダ10:129-132) 以下、辞書から 【五逆罪】 (1)母を殺すこと,(2)父を殺すこと,(3)僧(阿羅漢)を殺すこと, (4)仏の身体を傷つけること,(5)教団の和合一致を破壊することの5種の罪をいい, 無間地獄(絶え間なく苦痛が襲い続ける最悪の地獄)に堕ちる罪であるから〈五無間業(ごむげんごう)〉ともいう。 尚、仏の教え(正法)を否定し誹謗することはこの五逆罪よりも重いとされる。 【十不善業道】 身業(身体的実行為) 殺生(殺人、及び故意に生き物を殺す) 不与取(盗み、与えられていない物を自分の物とする) 邪淫(不倫、道徳を逸脱した関係の性行為) 口業 妄語(嘘をつく) 綺語(飾った言葉でへつらう) 粗悪語(暴言を吐く) 離間語(他人を仲違いさせる) 意業 貪欲(激しい所有欲を抱く) 瞋恚(激しい怒りを持つ) 邪見(善悪の業報と輪廻等を否定する見解を持つ) >>499 「三世因果」とは、 人間には前世(過去世)・現世(現在世)・来世(未来世) の三世に渡って因果律が伝わっていることをいう。 もちろん、ゴータマ・ブッダの基本的で最も重要な教えです。 仏教の根幹部分です。 >>273-275 などに紹介した経文を読めばわかります。 >>489 個々の行為と出来事というのは、 その当事者の意図、つまり、故意であったかそうではないかによって大きく違うでしょう。 故意でなくとも相手が死んでしまえば、人が死んだという殺生の事実は確かなこと。 ただし、故意ではなくてただの事故的な結果であれば、それは最小限のものであろうし、 態とであれば大きな罪悪です。 「自衛隊」についていえば、 自国の安全を自己責任において防衛する手段としては正当なものでしょう。 ただし、使用せずとも相手を殺傷する道具の所持という意味での最低限の罪を背負うかもしれません。 また法律との関係でいえば、法律違反と知りつつであれば偽った行為としての罪は負うかもしれず、 そうとは思わないものであったとしたならば、殺人兵器の所持に限定される罪か...。 これは例えばの意味ですが、そのような微妙な判断が実際には作用するのではないかと思います。 商法がらみもそう。目的と意図と手段の総合的な結果で決まるのでしょう。 しかし、この私がどうにも疑問でならないのは... 例えばパーピマンのような今時、珍しいくらいの頑な思考状態の唯物主義者というのは、 実際に自分の愛する家族の、つまりは母親とか息子とか...、 或いは、妻や結婚を誓いあっていた恋人とかが突然死しても、 その死者に対する冥福を祈る心はないのだろうか? ということ。 なんとなれば、 彼らの考え方というのは、人間は死ねばそれですべてが終わりなのであり、 死者はただ単に、自然界の物質的な各諸元素へと還元するだけに過ぎないというのだから、 これにはまったく以て、恐れ入る。 祈りを届ける相手の主体(パーソナリティ)はもはや何も無いといっているのだから、 当然、慰霊などという考えも無いから死者供養もなされる筈もないということ。 こんな人間ばかりだと世の中たまったもんじゃないと思う。 葬儀通夜、年忌法要などでも、 見た目だけでは同じくお線香や供物をあげたり、そして、手を合わせていようとも、 そんなものは社会的なマナーに沿ってただ慣習に従っているだけでしょう。 つまり、心の無い外見上の形にしか過ぎない。 そもそも唯物主義者というのは、 仏典から見てもわかるようにゴータマ在世の当時からいたものですが、 しかし、このような思考が人類の価値観の主流となったことは歴史上ただの一つもない。 唯物論が近代以降の社会でピークだったのは、産業革命の時代。 人々は科学の発展こそが、人類をより豊かで便利な生活を提供するものとして信奉したのです。 たしかに、科学は我々に多くの便利さをもたらしたが、また同時に多くの苦悩と問題を生じさせてきた。 それは人類の存続すら危ぶまれる事態となった...。 それから、 こういう人達から見たお仏壇の位牌などというのは、一体、何として映るのだろうか? こんなものは所詮、儒教的価値観と道教経由の祭祀からきた祖霊崇拝と見るだけのことか? 巷の仏教解説ではよく、 インドの宗教では輪廻の生まれ変わりを説くから、 ヒンドゥーにおいても仏教においても元々、「先祖供養というのはない」などと平気が書かれてあったする。 しかし、これは大間違い。 ヒンドゥーにおいても、 ピトリ・パクシャの先祖供養期間(満月から新月に掛けての二週間)と祥月命日(年一度の月日同日の命日)においては、 現代日本の仏教と殆ど同じようにして、燈明と華と香と供物を捧げて祈り、神と先祖霊を勧請して供養します。 ただ日本との決定的な違いは、お墓を持たないということ。 死者の遺骨は聖なるガンジスに流し、死者の霊魂は存続しているから供養をする。 すでに他の人間や生命体に転生しているかもしれないけれども、これらの供養の行為は無駄ではなく、 効果をもたらすものとされる。 ゴータマも然り。 今日の日本仏教に繋がるような、祖霊への供物を捧げての供養を説いている。 そして、施餓鬼供養が先祖供養へと繋がる大切なものなのだが、 これについてはまたいずれの機会に。 『実に次の五つのしかたによって、子は東方に相当する父母に対して奉仕すべきである。― 「われは両親に養われたから、かれらを養おう。かれらのために為すべきことをしよう。家系を存続しよう。 財産相続をしよう。そうして、また祖霊に対して適当な時々に供物を捧げよう」と。 実にこれら五つのしかたによって、子は東方に相当する父母に対して奉仕すべきである。 また父母は次の五つのしかたで子を愛するのである。すなわち〔1〕悪から遠ざけ、〔2〕善に入らしめ、 〔3〕技能を習学させ、〔4〕適当な妻を迎え、〔5〕適当な時期に相続させる。 実に子は、このような五つのしかたによって、東方に相当する父母に奉仕し、また父母はこれら五つのしかたに よって子を愛するのである。このようにしたならば、かれの東方は護られ、安全であり、心配がない。』 (シンガーラへの教え/善生経) >>224 で投稿したように、 ダライ・ラマ14世というのは転生者の典型例であって (だからこそ、前13世の転生者として認定されたのです)、 子供時代には実際、前13世当時の記憶を保持していたといわれているのです。 それだからこそ、厳しい転生者探しの厳格なテストにも合格して転生者として認定された。 なのに... 神社仏閣板スレの投稿54の、 ダライ・ラマが「私自身は転生してるのかどうか確信がありません」 などと語ったなどということは到底、常識では考え難い話です。 もし読めるものならば、是非ともその出典を知りたいところです。 そんな話は聞いたことが無い。 それから>>437 で、 私は彼のことを「断見」と「邪見」とに陥っている、と指摘したけれども、 これは根本煩悩「五見」中の「辺見」(本来、「断見」の意味)と 十結煩悩の「無明」(「邪見」と俗念に妨げられて真理を理解することができない無知)に該当するもの。 更に言えば、彼はもう一つ「十結煩悩」中の「五下分結」煩悩である「疑惑」を犯している。 これは、ブッダであるゴータマの教えそのものに対して、常に“疑惑の眼”を向けることをいう。 これはつまり、 ブッダが倒れて最後に亡くなられるまでの45年の間、一貫して説き続けてきた聖なる教え、 そして、その後の二千五百年間も弟子たちが命懸けで継承してきた大切な教えである仏典経典の記述を、 己れの勝手未熟な判断から、単なる神格化や迷信、後代の付加挿入に違いないとして決めつけて素直な心を開かないこと。 この「五下分結」煩悩中の三結、つまり、「身見」「疑惑」「戒取」を断じないで人生を終えた者というのは、 死後に“三悪趣に堕ちる”可能性が非常に高いとされる。 三悪趣とは、すなわち「地獄」「餓鬼」「畜生」の三界のことをいう。 三結を断じた者は聖者の流れに入るので「預流」ヨルといい、「須陀洹」となる。 更に修行者は数回の転生を繰り返しながら、「斯陀含」「阿那含」の境地を経て、 最後には遂に「阿羅漢」となる。 http://way-to-buddha.blogspot.jp/2011/05/blog-post_2482.html wwwwwwwwwwww まあ、なんていうかねw 後代において仏教に混入したヒンドゥー的価値観を仏教の本義と勘違い するバカは、いつの世にも絶えないんだがww 釈迦は、「我が弟子は、葬儀などに関わるな」とはっきりいってるのだがww 世俗的通過儀礼は、インドにおいてバラモンが取り仕切っており、仏弟子たちはノータッチ だった。少なくとも釈迦在世のころはねw 葬式も含めてw それが時代が下るにつれ、ヒンドゥー的儀式の混入により、仏弟子たちも関わるようになっていったの。 最もいけないのはカッサバなんだがww とくにそれが顕著になるのは、仏教がインドからアジアに広まるにつれて、その生活習慣から 葬式にか関わらざるを得ないように変遷していったのw (その辺は、渡邊氏と奈良氏の考察参照w) 先祖供養についても、勿論、釈迦は「否定」はしてないw 釈迦は決して土俗信仰を否定することはなかったw(それはトラブルを避けるためにねw) 釈迦の教説をきちんと理解すれば明らかなように、先祖供養においても ⇒「世俗のレベルにおいて、その習俗の範囲内で推奨している」にすぎないのw これは、世俗の人々において、「妻を愛し、子を愛し、幸せな家庭を築きなさい」と教えているのと 同様ですw つまり、一般世俗倫理として説いてるのw 地獄などにおける言及も同じw 倫理的要請において、それを方便として説いているに過ぎないw アホはそれが、わからず、「釈迦は・・・・・・を説いていたああああ」とやるww ⇒「仏教はダブルスタンダードなり」・・・・・・・ホントこれが分からんバカばかりwww >>511 >釈迦は、「我が弟子は、葬儀などに関わるな」とはっきりいってるのだがww いやそれは、 “出家僧は修行に専念すべきであるから”という意味であって、 それは葬儀そのものに対する否定ではない。 当時から、祭祀(葬儀含め)はバラモン司祭を通じてなされればそれで良いものとされていた。 そして、そのバラモン司祭に布施することで先祖(死者)供養になると説いた。 そもそも仏教における葬儀というのは、“ゴータマ自らが父であるスッドーダナ王の葬儀を執り行ったこと”に起源する。 まったくヒンドゥー教の混入などの原因ではない。 日本仏教界の一般的僧侶たちはまさに現代の日本バラモンです。 彼らに布施をして、葬儀と年忌法要を営むことは先祖供養のゴータマの教えに見事に合致する。 >釈迦は決して土俗信仰を否定することはなかったw(それはトラブルを避けるためにねw) > 釈迦の教説をきちんと理解すれば明らかなように、先祖供養においても >⇒「世俗のレベルにおいて、その習俗の範囲内で推奨している」にすぎないのw そんなテキトウなものではなく、 これは具体的な内容でも以てゴータマ自らが指示したものです。 あなたは知らないのでしょう! >地獄などにおける言及も同じw >倫理的要請において、それを方便として説いているに過ぎないw 確かに、 地獄界の描写はやや脅し的な道徳的方便の可能性が高いかもしれないとは思うが、 来世における苦しみの転生こそ、まさに生き地獄の生存(生涯)となるのは必至。 死後転生するとか因果とかカルマとかはインドで古くから言われてたことだろ ジャイナ教でもヒンズー教でもヨガでもみな同じこと言ってる なのになんでそれを「仏の教え」と勝手に言い換えて仏教がオリジナルみたいな横取りをするのか ゴータマが説いてる内容も過去の誰かがすでに説いたことで瞑想や座法を編み出したわけでもない 全部ゴータマ以前の誰かがすでに受け売り 本当に称えられるべきはそれを発見した人じゃないのか なんで功績や名声の泥棒みたいなことしてんの? 仏教が新発見したことなんかある? ×全部ゴータマ以前の誰かがすでに受け売り ○全部ゴータマ以前に誰かが言ってたことの受け売り 513. 新発見の問題ではない。 その内容が問題となる。 その真否の問題である。 宝珠はバカ丸出しである。 >>502 「清浄で超自然的な天眼」とは? 「地獄」とは? 「天界」とは? 地獄は苦しみに満ちたこの世のことを例えて言うこともあるのでまあこれ以上つっこまないとしても天界は放置できない 天界といったらもう完全にこの世のことじゃないですね そこはどこにあってどんな仕組みで成り立ってる世界なんでしょうか具体的に? >>503 人間はみんな動物殺して食べてますがそれが悪で菜食主義が善だと? >>503 >諸々の賢者は、かれを聖者であると知る 賢者とか聖者と言うのは誰によって認定されるんでしょうか 経典が説く賢者と愚か者、聖者と一般大衆、善人と悪人、これらを分ける明確な境界線はどこにありますか 517. それは、その内容による。 その内容を判定せよ。 >>504 「五逆罪」 僧を殺すのが普通の人を殺すより重い罪で無間地獄におちて仏教を否定するのがさらに重い罪? 殺されたのがキリスト教やイスラム教やヒンズー教や神道の宗教関係者だったらどうなるんでしょうか これ仏教の僧の命だけが他より特別で重要だからとりわけ優遇され特別扱いされるって言ってますね >>510 「十結煩悩」中の「五下分結」煩悩である「疑惑」 仏の教えを疑うのが煩悩? これらはどう見ても仏教徒が自分本位な特権意識で勝手に定めた私心に満ちた創作の罪にしか見えませんが 本当に自然の摂理とか法(ダルマ)と呼ばれる公平無私な存在がくだした判定なんですか? >死後に“三悪趣に堕ちる”可能性が非常に高いとされる 何パーセントの確率で? こういうのって仏教徒が自ら十不善業道と定める「妄言」に該当してませんか >>509 チベットの人達は本当に気の毒だと思いますが迫害されるっていうのは前世でどんなことをしたんですか ダライラマ14世だけに限れば前世もダライラマでそのまた前世もダライラマでずっとダライラマであることがわかってんでしょ 歴代ダライラマがどんな悪行を? >>503 追記 参考: 『これは、99人ともいわれている連続殺人を犯した恐ろしい殺人鬼、盗賊アングリマーラ(指の首飾り)が仏陀 の弟子になった物語です。 アングリマーラは何十人束になっても適わなかった自分のところへ、人々の制止も訊かずに平気で向かってくる仏 陀を自分の100人目の生贄として狙うことにし、その背後へと回った。仏陀に迫ろうとして全力で進んだが、何か不 思議な力を発揮していて、普通に歩いている筈の仏陀には遂に追いつくことが出来なかった。その不思議に驚嘆した アングリマーラが、立ち止まって仏陀にも同様に立ち止まるよういった。 ところが仏陀から返った言葉は、「私は常に止まっている。止まっていないのはお前の方だ」という奇妙なものだっ た。その真意について再度、訊ねた時の教えで深く感銘して弟子入りし、後に阿羅漢に達したといわれている。 「アングリマーラよ。如何なる時もわたしは常に、すべての生物に対して害心を捨てて、止まっている。しかしな がら汝は、生物に対して自ら制することがない。それ故にわたしは止まっており、汝は止まっていない」』 (マッジマニカーヤ86/アングリマーラ経/盗賊の帰依) http://mimizun.com/log/2ch/psy/1228627644/97-98 >>504 で、 ()書きの説明が抜けてましたので、ここに追記します。 ・身業(身体的実行為) ・口業(言葉による行為/発言) ・意業(想いによる行為/心の想念) 仏教の説くところによれば、行為による業は「身」「口」「意」の三つであり、 それぞれ何れかの一方だけでもカルマを発動させるものとされます。 従って、社会法律であれぱただ想っているだけで実際にしていないというのは犯罪には当たりませんけれども、 業報というのは、ただ心に想っているだけでも発動します。言葉もそうであり、 ネット上への投稿という手段でも同じく然りです。 直接は云えないくせに、ネット上の投稿だと悪魔のような醜い暴言を語る人も同様にいずれは自分に報いとなって帰ってきます。 だから、分かっていて暴言を吐くのならば、最初から自分で覚悟しておくことが必要です。 >>515 >>518の投稿者は、 いつも僅か数行だけの俳句のような投稿によって、 ただ横から茶々入れの邪魔をするだけの人です。 無意味なのですでに相手していません。 尚、パーピマンは熱心によく勉強している方で物知りですが (進歩はないけれども勉強はしてる)、この人の場合にはそれもなさそう...。 >>513 以降のhjNKfsSRに対する返答は、また後日。 >>522 考えたり思っただけでバチが当たるとか? 全ての人間がバチ当たりになるじゃんw 例えば気にくわない人間ぶん殴りたいと思っても バチが当たるのか?会社によってはそうならないように ストレス発散用サンドバッグを用意してるところもある。 若くて健康な男なら好きな女と交際する以前に 多少の妄想はするw >>524 バチが当たるという云い方は不適切です。 どこかの誰かがバチを与えているのでもなく、 自然界の摂理として“作用反作用の法則”よろしく同等の力で自分に押し返されるのです。 それからもう一つ。想念というものは、それ自体がエネルギーを持ち自然界に対して実際的な作用をしています。 人類全体の想いが粗暴なものから、もっと優しく清らかなものになれば、 天災による自然災害というのは激減するでしょう。 これを見ているあなた方の中には、 このことを理解できる者は少ないでしょうけれど...。 >>525 すると、人々が正当な怒りでも人を殴りたいとか 若い男女が性的な想像をしたりすることが無くなれば 地震も無くなり、雨による洪水も無くなり、落雷も無くなり、 竜巻も無くなり、台風も無くなり、大雪も無くなり、 雪崩も無くなり、土砂崩れも無くなり、火山の噴火も無くなり、 火砕流も無くなると?冗談でしょ? >>526 何も性的欲求そのものは別に悪ではありません。 ただし、異常に情欲しているのならば様々に弊害が生じますし、 当然、出家僧侶においては修行の妨げになったりするでしょう。 人類の持つ破壊的な想念(と破壊的行為)というのは実際、この惑星の持つ気象パターンを乱して、 ハリケーンや洪水の異常多発を招きます。気象を支配するエレメンタル(精霊)を過剰に刺激するからです。 であるから、自然災害のいくつかは本来ならば起こらずに済んだ筈のものです。 人類全体としての思考の乱れが整えば、それに伴って気象活動も穏やかなものになり、 また、航空機などの機械的な異常トラブルなども減って事故が低減するでしょう。 冗談ではなく、従ってそうです。もちろんすべてではありませんが、 あらゆる気象活動と地殻火山活動は人類にとって穏やかになります。 ただし、この惑星自体の持つ根本的な呼吸的活動でもあるので、発生そのものが止まるわけではありませんが。 今のあなた方では到底、理解は難しいでしょうが、 この惑星というのは、自然界と地表の生命たちのすべてが非常に複雑に、そしてより密接に繋がりあっています。 科学はまだそのことを解明しきれていません。 取りあえずは、「ガイア理論」について知るならば有る程度の理解を援けます。 この惑星は、人類を含めて丸ごと全体で一つの有機生命体のようなものなのです。 『【ガイア理論】 地球上において、大気や地殻などの自然環境と、動植物などの生物が相互に影響し合うことで、 地球という惑星が一つの大きな生命体のように活動していると見なす理論。英国の科学者ラブロックが提唱した。』 (デジタル大辞泉) > 何も性的欲求そのものは別に悪ではありません。 そういえばインドのどこかに四十八手のような 体位でやりまくってる仏像?の彫刻のある寺があったね。 日本にも真言宗立川派とか云うのがあった。 密教系は、むしろ励行、奨励してるんじゃないのw 同意さえあればw >>528 それは、男女交合の姿を描いたミトゥナ像のリレーフなどのことですね。 古代インドの最古の性愛論書『カーマ・スートラ』が元となっています。 (観光スポットです。若いカップルで行くと女の子を赤面させてウケるかもしれません) 仏教の説く修行の妨げという意味では、 本来の出家者は男女の交合などはもちろんのこと、(情欲を以た)意識的な接触は厳禁です。 在家についても節度あるものが望まれ、不倫などは以ての外でしょう。 しかし、仏教の諸派でも後代となってくると、すべての人間生活と営みがそのまま修行となるのだから、 性行為についての避けるのではなくて、これも修行として利用し昇華すべきといった見解がでてきます。 タントリズムの導入というものですが、仲の良い夫婦間だけに留めるのならば問題ありませんけれど、 しかし、行き過ぎた見解と性行為は“邪道”そのものになります。 これはつまり、ただ屁理屈を理由を捏ねて自分の性愛に溺れているに過ぎません。 残念ながら、ごく一部では実際に僧侶が在家信者を自分の性愛のための奴隷にして、 性欲を満たすための単なる道具と化していた歴史すらあるという。 その立川流などは邪教の典型だとされます。 まだ返答の途中なのですが、 あまり文章が溜まり過ぎてもと思うので、できたところから投稿していきます。 >>513-514 仏教枠の中では過去七仏(ゴータマ含む)と称して、ゴータマ以前に出現したブッダの存在を示唆しています。 しかしながら、歴史上の実在を確認できる明確な存在は唯ゴータマのみだということ。尚、この「過去七仏」 の概念を含め、確かに教えの殆どの根本部分は仏教のオリジナルといえるものは殆どないのは事実です。 現僧侶たちと仏教解説が高らかに謳う仏教の誇れる独自性として挙げられるのは、「無我」と「縁起」の二つ。 伝統仏教者はこれを仏教教団の尊厳を掛けて死守しようと必死になりますけれども、しかし、この二つにおい てもそんなに威張れるほど突出した独自性とはいえません。 まず、「無我」についての伝統仏教の理解というのは完全に教えの継承ミスで生じた勘違いです。 本来は、“アートマンは無い”という意味での否定意などではなかったのであり、部派の時代に生じた間違いが そのまま今日まで継承されてしまったものであることを近代仏教学が明らかにしています(今ではそれが定説)。 また、「縁起」こそが仏教独自の思想であると一般的には説かれるのですが、これもヴェーダーンタ哲学とも大 して違いがない。ただ単に決定的な差異としては、ヴェーダーンタでは事象の生起と変化は神の存在に拠るもの ですが、仏教では表立って神の存在を語ることをまったくしていないところが違います(平均的仏教徒の多くは ゴータマは神を説かなかったといい、神の存在を設定しないのが仏教であるものと見なしています)。 しかしながら、実際にはゴータマ自身は神の存在を明確に認められているのです。ただあまりにも当たり前過 ぎる話だから、仏教ではいちいち扱うことをしないということに過ぎないのです。何故なら、仏教の修行では神 への信仰という手法形態は採らないからです(『サンガーラヴァ経』)。 ということで、あなたのこの指摘については私個人は有る程度は認めます。しかしながら、伝統を保守する仏 教徒というものは、バラモン・ヒンドゥー教に対する異常なアレルギーを根深く持っているので、そのような事 実が認めることはまず殆どといって皆無です。認めてる部分というのは、仏教史上における“大乗のヒンドゥー 化”についてだけです。 仏教徒がブッダを過剰に尊大視する心情は容易に理解できることですが、それでも尚且つ、仏教における人間 の転生についての教えはバラモンたちからの受け売りなどではなく、ゴータマ自らがその大いなる超常的能力で 直接に確認したものであり、その人間転生の詳細な内容は仏教独自のものといわれています。当時のインドにお いてもこのような具体的な中身の伴った転生の教えはなくて、「五火二道説」(「祖先の道」月に行き→雨→穀物 →男性の精子→受胎転生と人間界には戻らない「神々の道」の二つの輪廻)といった迷信的な内容のものでした。 >>516 >人間はみんな動物殺して食べてますがそれが悪で菜食主義が善だと? 通常の人間は皆、自分の生存のためには他の生物を食する必要があります。 これは自分の意志や希望の如何に関わらず、基本的には避けることのできないことですから、 このようなことを人間として生を受けたことの必然的な業の一つということになります。 では、何を食べることが仏教的に教えとして説かれているのか? というと、 まず第一前提としては、殺生と非暴力の観点から見て必然的に動物ではなくて、 植物(野菜と穀物/果物類)を摂取すべきということになる。 何故ならば、“苦痛を与える”という意味において動物というのは植物の非ではないからです。 植物は根本的に動物とは生命形態が異なり、動物のような意味での苦痛はありません。 以前に、“生命はすべて平等で尊い”ものだから、 植物と生きた動物を釜茹ですることにはまったく違いなどはないといい、 人間と動物のいずれか一方の命しか助けられない場合でも、 それはどちらも同じなので選びようがないなどと抜かした基地外がいましたが、 このような人というのは、トンデモない誤解と錯覚で混乱してる人です。 たとえ命という意味では等しくても、苦痛の感受においては同じではありません。 それは当然、植物→原生動物→高等生物→四足動物→人間という順になる。 つまりは生命形態のより高度なものほど殺生し難い存在であるということ。 なので、仏教的には菜食主義(ベジタリアン)がより推奨されます。 尚、肉を口にすればするほど地獄へとまた一歩、そして、また一歩と堕ちて行ってる... とまでナーバスになることはないと、私からはいっておきます。 狂信的な信奉者は本当にそのように考えたり、相手にもそのようにして説くかもしれませんが、 できれば肉食を止めさせたいがための道徳的な方便です。 人類が進化の過程において、その生存における食生活の中で肉も食べてきたのはごく自然な流れです。 そのことそのものは悪ではありませんから。 ただし、動物を殺生しない方が良いと理解した方にとっては菜食生活は奨められるべき理想となると思います。 あまり、狂信的にならないことです。 尚、仏教においても布施されたものは有難く受けることが推奨されているということと、 「三種の浄肉」については食することが認められています。 この「三種の浄肉」とは、 『仏教の修行者 (比丘) が食しても戒律違反にならない3種類の条件を満たした肉。ある比丘が肉を施されたとき, その動物が,自分に施すために殺されるのを見ず,自分のために殺されたのであると聞かず,自分のために殺された のであるという疑いがない場合に,その肉を食べてもよいとされる。』 (ブリタニカ国際大百科事典) 残りはまた後日...。 いくら文献読んでも嘘が書かれていたらそれを読んだみんなが間違うんでそれを避けるためにも信じないことにしてる いっぱい情報書いてくれるのはありがたいけど 結局事実を知りたかったら自分でなんらかの神通力的な力(これも半信半疑だけど)を得て直で確認するしかないんですかね でもこっちの方面もオウムみたいにインチキの温床になってるからなー >>534 あなたが、「これが正しいことかの判断つかない」というのであれば、無理に受け入れる必要はありません。 ブッダ自身がいわれたことですが、「自分自身でよく確認しなさい」ということを言ってるわけです。 ただ盲目的に受け入れるのではなくて、その内容をよく吟味することです。 多くの若者が騙されたという当時のオウム教団のことだって、 私のように、これは本物ではないなと分かる人には簡単に分かることですから(唯物主義者の判断理由ではなく)。 麻原の空中浮揚の写真だって、あんなものは飛び跳ねた瞬間の画像であることなどは 髪の毛の動きと乱れ(そして、歪んだ顔の表情など)からも一目瞭然でしょ。 第一、もしも本当に本物の覚者に近い高度な聖者であれば、 あのような「神通力の獲得イコールにて解脱の境地ステージである」などという教え方はしないでしょうから。 つまり、比較が大事です。まっ、皆んな無知過ぎるからから比較のしようもないか...。 とにかく、分からないのならば無理に飛びつく必要はありません。 仏教の教えは、ゴータマ・ブッダ自らが自分で直接に体験して確認した内容です。 そして、弟子たちもその教えに従って実践していく中でその正しさが確認されてきたものです。 そのようにして二千五百年間の永き間、今日まで命懸けで継承されてきたものです。 >>535 補足: >あのような「神通力の獲得イコールにて解脱の境地ステージである」などという教え方はしないでしょうから。 >つまり、比較が大事です。まっ、皆んな無知過ぎるからから比較のしようもないか...。 私は当時から知っていたことなのですが、本物の覚者というのは、 クンダリーニの上昇と覚醒の仕方といった事柄を入門者や弟子に指導することなどはないですから。 そういうことを指導する導師(指導者という意味合いにしか過ぎず、教えの正しさは保証されない)というのは、 ただそれだけで覚者やそれに近いレベルではないことの証明となるのです。 極意は、「識別」(仏教では「七覚支法」の念覚支の修行)にある。 無知な者たちは、 「それは凄いなぁ〜♪」といって群がる、と。 経だけど、たくさんあるんですよね? お釈迦様の教えに食い違いや二枚舌は ないんでしょうか?何故なら日蓮宗系 は法華経こそ、お釈迦様の最高の教え あるいは、これこそ唯一の教えとか言ってますよね? すると他の経は、どうなるのでしょう? >>537 何を信じようとも確かに自由ですよ。あなたも。 “法華経こそが最高なんだ”と主張する人々も大勢います(その信奉者たち)。 しかし、これだけはハッキリとしています。 つまり、 歴史上における実在した釈迦族の王子であるゴータマ・シッダッタについて、 その生涯と彼の周辺に起きた出来事、彼自身によって説かれた教えについて知るのに、 「原始経典」に拠らないで研究する学者というのは世界中どこを探してもまったくの皆無であるという事実です。 これを「大乗非仏説」といいます。 私も同じくして、原始経典>>487 のみを仏教経典として扱います。 それ以外のすべて、つまり法華経を含めた大乗諸経典群のすべては仏教経典とは見ていません。 そこに登場するお釈迦様の話は創作が多いので、まったく信用には値しません。 大乗諸経典は、後代になってから勝手に創作されたものです。 だから、私はまったく読みません。 『文献学研究の結果では、時代区分として、初期仏教(原始仏教)の中の仏典『阿含経典』、特に相応部(サンユッタ・ ニカーヤ)などに最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、少なくとも「大乗 仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献学者はいない。 ----------------------------------------------------------- 大乗経典は口伝伝承を前提としていないため暗記を容易にするような、単純な文を反復するという構成ではなく、その 内容も哲学的なものも多く、明らかに文伝を前提とする文章構造になっている。文献学的観点からは文伝を前提としてい るのが大乗で、口伝を前提としているのが小乗である。 口伝伝承されており、その発祥時期も大方は明らかになっている小乗の経典に大乗の教えが見られない自体が大乗は口 伝で伝承されず、発生時期が小乗以後であるという文献学の根拠ともなっている。 大乗の経典を否定する上座部仏教の主張では、上座部の一部が経典を文字化した理由は大乗経典のような勝手な経典の 創作からこれまでの経典を守るためであったとされている。』(Wiki) >>517 仏教の説く聖者としての明確な基準は、「須陀洹」(預流果)の境地に達することをいいます。そうすれば“聖者の流れ”に入った ことを意味し、もう二度と三悪趣(地獄・餓鬼・畜生の三界)に堕ちることがありません。しかも、あと7回程度の転生経験を経て ゴールであるところのニルヴァーナ(涅槃)に入ることが保証されます。 須陀洹(預流果)とは、十結煩悩における五下分結の三結を断じた者のことです。つまり、「身見」(五蘊を自己とみなす見解)、「疑 惑」(ブッダの教えを疑う心)、「戒取」(誤った戒律・禁制への執着)の三つの煩悩を絶ったことを意味します。 ごく一般の普通の人々というのは、この身体と感覚と想いは自分自身であると、自分のものであると見なしています。 しかし仏 教の説く真理ではそれは真っ先に否定されます。それらはいずれも真実の自己ではなく、自己のものでもありません。この想いが捨 てられない限りは聖者にはなれません。 >>519 の投稿者はこの煩悩「疑惑」のことを、“仏教徒が自分本位な特権意識で勝手に定めた私心に満ちた創作”だろうとして批難 していますけれども、しかしながら、師であるゴータマの教説に対して疑う心を持っていながら、それでその教えを修得できる筈が ありません。当然のことですよ。この疑惑を持っていては聖者にはなれない。 仏教の真理を否定するということは、その人の想いの中が煩悩に支配されているからなのです。そういう人は絶対にこの教えは受 け入れない。「戒取」は、教えとはまったく異なるものに対して固執し、そこから離れようとしないのだから進歩がある筈もない。 次の「斯陀含」の境地に成れば、あと一回だけの転生経験で悟りへ到達できます。だから「一来」ともいう。更に、「阿那含」の 境地であればそのまま再び人間界に転生する必要はなく、死後に天界を経てから悟りへと至る。だから「不還」ともいう。そして五 下分結に加えて、五上分結のすべて、つまり、十結煩悩を完全に断ずれば「阿羅漢」と呼ばれる完成者となります。 >>325-326 には、そのことを説いた経文『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』を投稿しています 参考サイト:http://way-to-buddha.blogspot.jp/2011/05/blog-post_1655.html 「聖者」とは仏教の教えを修得し三結以上の煩悩を断じた者のことであり、 「一般大衆」とは仏教の教えを知らずに生きている人々全般です。仏教では「凡夫」などといいます。 「賢者」とは、仏教的にみて正しく物事を判断できる人のことをいいます。 それから当然、仏教の説く道徳において悪行を為した者は罪人だということになりますが、 尚且つ、意識的に罪悪を継続する者は「悪人」と呼ばれることになるでしょう。 仏教の説く罪悪の基本は、我が身に引き比べて相手に対するということですから、 簡単な日常言葉でいうと、自分の嫌なことは相手に対してもするな。 自分にとって嬉しいことは相手にもしてあげようとなる。 >>519 >「五逆罪」 > 僧を殺すのが普通の人を殺すより重い罪で無間地獄におちて仏教を否定するのがさらに重い罪? >--中略--とりわけ優遇され特別扱いされるって言ってますね これは以前にも述べていますが、 前世の記憶も無いのに非業な死を遂げたり、生まれつき五体不満足であったりといった業報の作用。 たとえ生れつき自分のしたことを忘れていたり、もうすでに今は仏弟子となって清らかな修行に打ち込んでいようとも、 それでも過去世(前世)で自分が犯した罪悪の報いからは、決して逃れるむことができないのです。 このような恐ろしい世界から脱して、もう二度とそのような境地へと堕ちることがないようにと、 そこから脱する為の方法と教えとを説いたものが仏教なのです。 我々は誰でも皆、同じようにして、そのような世界の中で数えきれないほどの転生の生涯を永延とクルクル繰返してきたのです。 しかし、そこからいよいよこうして脱しよう、救われよう...という幸運にやっと巡り遭えたことになるのが、 この仏教との出会いだということになる。 であるのに、 その教えを説かれる如来を傷つけたり、その教えを修得中の修行者である僧侶を殺害すること、 及び、その学びの集いと場所である仏教僧団を破壊する行為が最大の五つの罪に数えられることは当然のことでしょう。 まっ、これは“あくまでも仏教的観点から見て”という断り書きを添えても構いませんけれども、 もしもあなたがこれらの話を認めないのであれば、どうぞご勝手に好きにされればいいことです。 >十結煩悩」中の「五下分結」煩悩である「疑惑」 > 仏の教えを疑うのが煩悩? 上記>>539 にて返答済。 >>死後に“三悪趣に堕ちる”可能性が非常に高いとされる >何パーセントの確率で? >こういうのって仏教徒が自ら十不善業道と定める「妄言」に該当してませんか はい、すみませんでした-これは私からの説明が良くなかったと思います。 「三結煩悩を断じた者は二度と三悪趣に堕ちることがない」です。 よって、そうではない多くの大衆というのは三悪趣に堕ちる可能性が出てくるという意味です。 そのことで、何パーセントという話はありません。 >>520 ごめんなさい。 チベット民族の迫害と過去世の因果関係については、この私にはまったく判りません。 尚、この世で受ける苦難の理由は、 その一つは、最も大きな原因として知られるのが前世の悪業による果報です (昨日のミスで、明日は会社で困ったことになる..というような意味合いではなく)。 そしてもう一つは、 これは一般にはあまり知られていないものとしては“魂の試練”というものがあります。 つまり、成長の為に自ら敢えて苦難を受けるというもので、 この場合は、転生先について自ら選択可能な境地ですから、 ある程度の進化した魂にとってのみ可能なことです。 あと残り>>516 は、また後日。 >>537 >お釈迦様の教えに食い違いや二枚舌はないんでしょうか? ブッダの教えはすべて見事に一貫しています。 だから、経典のどこをどう読んでも矛盾は皆無なのです。 その驚くべき緻密性がまた如来からの教えであることの証明なのです。 そんなことは、普通の人間には絶対に真似出来ない芸当だからです。 あっちこっで同一人物の語った内容に矛盾があるようではお話にならないでしょう。 もし、あっちこっちで異なることを教えてるものと感じるのであれば、 それはその人自身の理解が混乱しているからです。すべては読み手側の問題に過ぎません。 経典に見られる各所の教えの違いというのは、これは対機説法といって 教えを説く相手に応じて合わせたものであり、相手の理解できるレベルにしたものです。 尚、原始経典はすべて一貫していますけれども、 それに対して、やはり大乗経典というのは異なることを主張しています。 中身を見ればわかります。 だから仏教経典はこれを読むならば、 その内容の緻密さと誠実さと真理を求める情熱とに驚嘆します。 説かれる叡智の凄さに引き込まれてしまう。 全ては空って、どういう意味ですか? 因みに般若心経って、大乗?小乗? 因みに自分事ですが創価学会の人間と 空と無の違いについてもめた事がありました。 昔の事なので内容は忘れましたがw まだ現世で事も起こしていないのに生まれながらにして障害を負っている人は偶然だと思うか?死ぬ間際に大量殺人を起こして天命を全うした人間に罰が無いと思うか?答え出てやろ >>546 >まだ現世で事も起こしていないのに生まれながらにして障害を負っている人は偶然だと思うか? それこそが過去世からの宿業なのです。 過去世で悪い行いをしてしまったということ。 でも障害者であっても清く正しく生きて天寿を全うすれは来世では五体満足で人間界に生まれるか、 それ以上の天界出生も見込めるものと思われます。 >死ぬ間際に大量殺人を起こして天命を全うした人間に罰が無いと思うか?答え出てやろ その者の来世は地獄界や畜生界などになります。 もし人として生まれたとしても短命に終わるでしょう。 >>544-545 般若心経は大乗経典です。 法華経、阿弥陀経、そして、大乗各派で最も使われてきたのがこの般若心経です。 その通りです。般若心経は「空」について説いている経ですね。 「空」と「無」は本来、まったく異なるものです。 「無」とは文字通り、ただ“何も存在しないこと”ですけれど、 「空」はそうではなくて、すべての存在(有)には実体がなく、 ただ縁起によって今一時の仮の状態を現じているに過ぎないことをいいます。 すべての存在は「無自性」(それは単独で固定的な存在ではない)であるから、実在とはいえないと説きます。 実は、“永遠に不変な存在しか実在とはいえない”というのが、古代インド宗教の伝統的な考え方なのです。 尚、漢訳中国では、「無」が「空」の意味として使われてきた(般若心経のように)という経緯があって、 そのことが本来の「空」と「無」の意味を混同させているのです。 >>538 大乗を否定してる様に見受けられますが 宝珠さんは真言宗じゃなかった?違った? 真言宗は大乗じゃないの? 例えば、突然の交通事故で亡くなる場合は、その不運の場所に自ら居合わせる事はしている。それはいつもと変わらない行動かも知れない。確かに前世の影響はあると強引には言うとする。しかし、それは善悪で言えば全く当てはまらず、普通の人には全く見通すことは出来まない。 或いは癌になることをいえば、人によってはタバコが原因やタバコは全く関係なかったり、人によってはストレスの掛かり方が一個人に原因になっているかもしれない。 人は誰でも、己の場合は何をしたら身の破滅をもたらすのか分からないもの。将来的にはDNAの解析から個別に病気を回避するライフワークを指導されるかも。 善悪を言ったとしても人間の考え付くような類いでは無いであろう。そういえば昔の日本人は、不幸をもたらす行いをケガレ、幸福はハレという観点だったらしい。それでも、個別の状況はまったく網羅できないであろう。 仏教では、悟って仏になれば、突然の不幸など身の破滅の恐れがなくなる不可思議な特徴を言っているのであろう。 副産物の話として、そうした覚者に対し、善いことをすると利益(りやく)があり、非道なことをすると不幸なことがことが起こった実際が伝わっているのであって まだ悟っていない普通の人は、他人の理不尽な不幸を(自分は大丈夫だと)笑えるモノではないし、前世の報いといっている場合ではない。悟ってないなら、厳しい現実を眼前に突きつけられているのだ。もし自分の状況をしることが出来たら、生きた心地がしないであろう。 仏の事例を凡夫にこじつけるから可笑しくなる。「あいつは、〜にこんなことをしたからこうなった」と言いながら、ざまあみろというのが本音だったりするものだ。釈尊にそんな愚かしさは無い。そういうのがまったく無いから優しい。 経済的に恵まれたり運が良かったりすると、前世で善かったと思ってしまう・・・つまり自分は特別と思うであろう。じつは精神的なものは何も関係なくて、ただ生き残っただけかも知れない。津波で亡くなった方々は、単に海の近くにいただけで、ほんとにそれだけのことならば。 海の幸が嫌いと引っ越していた者もいるだろうし、そうした事情は無数にあるのだろう。しかぢ、冷酷に判断するのも危うい。もし意味付けをしないと心が不安で一杯であろう。 せめて自分のしたいことをしっかり見出だせば、せめて自分の心だけは安心する。それ以前に、前世〜だったからなど、仏の知見を持ってない癖に断言して、人様の心を掻き乱すなら、不幸の報いが起こるのかは知らないが、少なくとも仏になる道から自ら外れてしまう。 >>553 >仏教では、悟って仏になれば、突然の不幸など身の破滅の恐れがなくなる不可思議な特徴を言っているのであろう。 舎利弗と並ぶ釈迦の二大弟子の目連は悟って仏=ブッダ=阿羅漢になったが その身にある極めて重い宿業を清算することはできずに異教徒に撲殺されたことから 悟った人でも贖うことができない宿業というものはあるのだと思う。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E9%80%A3 >>363 > そして、私は宗門寺院の関係者ではなく、 > また仏教系新興宗教の者でもありません。 > ただ個人的に原始経典を読みつつ真言宗の信仰を実践している者です。 原始経典を読みつつ真言宗の信仰を実践する者ですか? >>516 「天眼」とは、仏教で説かれる六つの神通力(超能力)の内、 完成された如来のみが発揮できるとされる三明(六神通力中の高次三大通力)の内の一つで、 一切衆生の過去世と人間の死後の行き先を知る神秘力のこと。 ある時、 バラモンの中に髑髏を手に持つことで人間の死後を見通すことのできるという通力自慢がいて、 ゴータマの噂を聞きつけやって来て二人で神通力比べの勝負をしたという経があります。 もちろん、ブッダであるゴータマには敵う筈はなく、 ついにバラモンはニルヴァーナ(涅槃)に入った者については見通すことはできなかった。 それができるのは同じくニルヴァーナ意識に到達している完成された如来のみだからです。 この勝負に負けた彼は感嘆して、ゴータマに弟子入りをしたのです。 http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1455937876/746 「天界」(天上界)とは“神々の住む領域”ということです。仏教の説く天部の神々、帝釈天、持国天・増長天・広目天・多聞天 (毘沙門天)、弁財天、大黒天、吉祥天、韋駄天、摩利支天、歓喜天(聖天)..などが住む諸天の世界であり、通常におけるこの物 質現象界とはまったく異なる次元です。本来はサンスクリット語のディーヴァ(神)からきており、基本的には人間とはまったく異 なる高次元意識体を意味しますけれど、人間も意識レベルが上がればこの界の住人になることができます。 仏教の説く解脱成仏へ至る階段ステップにおいて、弟子が「阿那含」のレベルに達していれば、死後は再び人間界に転生する必要 はなくこの天界へと入ります(その後、一定期間を経てから悟りに達する)。 そこはどんな処なのか? 天国的なニュアンスに類似してきますけれど、美しい草花が咲き乱れ、美しい音楽が流れていて美し い女性(天女)もいるとのこと。天部の神々ともなれば通力に長けており、寿命も数億年〜ともいう。ただし、常に幸福感に満たさ れているのでそこの境地に満足してしまうために善行については行い難く、逆にそこからの進歩は難しいのだともいう(そのため に敢えて善行のできる人間界へと下る者もいるとか?)。 以下に、ブッダに帰依し熱心な信者としてよく知られた生前のマガダ国王ビンビサーラが、死後に夜叉(神々)となって、ゴータ マの前に感謝の挨拶をすべく出現したという経を紹介します。 このときはジャナヴァサバ神霊として一来果を目指して修行中だというので、今は仏教の教えを受けて預流向〜預流果〜一来向 の境地のいずれかにいるということと思われる。 『〔仏教信者であった神霊〕 「尊師よ、わたしはビンビサーラであります。尊師よ、わたしがヴェッサヴァナ大王(毘沙門天)の側近として生まれたのは、 これが七度目です。そのわたしは、人間の王(マガタ国の王)としてそこから没して、いま天の中で人間ならざるものの王となっ ているのです。ここから七度、またそこから七度、あわせて十四回の輪廻を繰り返しつつ、わたしが経てきた前世の、暮らした場 所のあ りさまを、わたしはよく知っている。尊師よ、わたしは、長期にわたり、悪い場所に堕ちることのなかったものでありま す。・・・ わたしは〈一度だけもどってくる者〉〔一来者〕になりたいと願い続けているのです」といった。 〔世尊〕 「この尊者ジャナヴァサバ(ビンビサーラ王)が、〔わたしは一度だけもどって来る者になりたい・・・〕ということがで きるのは、実に不可思議にして稀有のことである。では、どのような因縁で、尊者ジャナヴァサバ・ヤッカ(ビンビサーラ王)は、 このような偉大ですぐれた達成を理解できたのであろうか」 〔仏教信者であった神霊〕このヤッカ(ビンビサーラ王)は続けて、このように言った。 「尊師よ、あなたの教え以外にありえないのです。わたしは、〔仏・法・僧に〕ひたすら帰依し信じて以来、長期にわたり悪い場 所に堕ちることのなかったものであります。尊師よ、いまわたしは、・・・・〔地上界の〕尊師が煉瓦(れんが)堂に入り、マガタ人 の在俗信者の問題についてよく思いをこらし、心を集中させて、かれらの死後の行く末、未来の運命を知ろうとし、考えているのを 見たのです。・・この件につき、わたしは〈自分が尊師にお会いして、このことを知らせよう〉と思ったのです。」』 (『中部経典第18経/闍尼沙経(ジャナヴァサバ神霊との対話)』) >>546-548 すると、原因がわかってるケースでは? サリドマイドで手の無い子供が生まれた のはサリドマイドと言う薬が原因だが 前世の悪業で、そこに生まれることになった? まぁ、そういうことですよね。確認のため >>560 失礼します。 横レスになりますが、そういうことになります。 「薬」が原因?...そんなことは馬鹿でもアホでも分かる。 だからそうではなくて、 そこへ自分が生まれたのは必然であって偶然ではないという話をしてるわけです。 前世でそのような非業の目に遭う因縁を自分が作らない限りは、 決してそのような処へは生れてはいきませんから。 人間、自分に合った相応しい処にしか生じ得ないからです。 違う処にはご縁は生じないので。 そういう両親には、 それに相応しい業を持った魂が引き合って転生するのです。 そうではない魂だったならば、その両親の処には転生しません。 一応、これが基本的な考え方となります。 もちろん、個々のケースにおいては例外もあるでしょうし、 実際上はもっと複雑でしょうけれど... つまり、 人知を超えている事柄なので計り知ることはできませんけれど、 我々のレベルでは、これを一つの基本形として押さえておくということ。 >>554 あのモッガラーナですらも、 過去世の業報からは逃れることができずに撲殺されたという話こそが、 人間の過去世での悪業による果報の恐ろしさについて、 仏教が因果応報を人々に示そうとしたことの真義なのだろう。 と、私は思う。 『人がもしも善または悪の行ないをなすならば、かれは自分のした一つ一つの業の相続者となる。 実に業は滅びないからである。』 (ウダーナヴァルガ9-8) 『悪い事をしても、その業(カルマ)は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。 しかし、来世におもむいてから、悪い行ないをした人々の行きつく先を知るのである。 のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起る。』 (同9-18) 尚、私は仏典における仏弟子たちについての「阿羅漢」 (“如来の十号”の代表的な一つ「応供(アルハット)」と同義)の扱いについては過剰表現とみています。 まず「五百羅漢」というのがその典型的な表現であり、 実際には本物の阿羅漢果というのは十代弟子とその他の数人〜数十人だったのではないか。 また尚且つ、原始仏教における阿羅漢の境地は、やはりゴータマの到達した境地よりは一段低いものではなかったかということ。 つまり、ブッダであるゴータマは阿羅漢に違いないけれども、阿羅漢のすべてがブッダと呼ばれる如来とは限らないのだ、と。 仏典の意図というのは基本、教えを受けた弟子たちもまたゴータマ同様の境地に到達したという前提があるから...。 また、無余涅槃が本当の意味における最終境地であるという部派の理解については、私個人は支持します。 この世は寸分の狂いもなく全てにおいて平等なの、ほんとすこ。 561宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk キチガイだ。 気味悪い。 >>563 その通り。 平等に業報が作用しているからこそ、 ある者は金持ちの大富豪の処に生れ、 ある者は貧困の飢餓の処に生まれ、 そして、またある者は大病難病の遺伝を持つ家系に生まれる(そして病死する)。 であるから平等なのです。 男女の違いでも何でもそう... すべての物事が同じになっていることが平等なのではない!! > 男女の違いでも何でもそう... > すべての物事が同じになっていることが平等なのではない!! 男に生まれるのと女に生まれるのと どちらが上とかあるんですか? 仏教は女性に差別的なところが ありませんでした?具体的に言え と言われても今は思いつきませんが 仏教国タイの国技ムエタイは女性は リングに上がれないはず。 宗教は政治に使われていた時代もあったろうし、すべては過信できないけど まぁ上も下もないやろなー 無始なる過去世で男や女に幾度も生まれてるのに差別とか何を言ってるんですか。 仮に今回不幸な死に方をしても、今回良い生き方をしていたら良い来世がまっているんだから 平等なのでは? まあ仏教の目的はその輪廻の繰り返しから解脱することだけど 仏教以外のどんな宗教なら不幸な死に方をした人について納得のいく説明が出来るのだろうか 結局無宗教になるしかないけどそんな人がこの板にはこないだろうし >>566 これは割と広く知られるところですが、“仏教には女性差別がある”などとよく云われています。 確かに、事実としてその通りなのですが、けれども、このことについても本来的にはブッダであるゴータマおいては、元々、そのよ うに説かれていたわけではありませんでした。 原始経典における特に、古層に属する古い経典の中には女性を差別する部分はなく、それどころか逆にゴータマは、たとえ女性で あっても男性同様ニルヴァーナに至ることできると説かれ、また世俗においても男性より優れた素晴らしい女性がいることを事実と して認められていました。 『かくのごとき車に乗る人は、女であろうと、男であろうと、実にこの車によって“やすらぎ”(ニルヴァーナ/涅槃)に至るであろう。』 (サンユッタニカーヤ. I. p. 33./『雑阿』二二) 『心がよく静まり、智慧があらわれたならば、正しく法を見るものに、女性たることに何の障りがあろうか。』 (同. I. p. 129.『雑阿』四五) コーサラ国のパセーナディ王の妃マッリカーが王女を産んだが、王はそれを聞いて喜ばなかった。そのときゴータマは、この王に 次のように教えたという。 『人々の王よ、婦人といえども、或る人々は実に男子よりも優れている。智慧あり、戒めを保ち、姑を敬い、夫に忠実である。 かの女の生んだ子は、英雄となり、地上の主となる。かくのごとき良き妻の子は国家をも教え導くのである。』 (同. I. p. 86.) しかしながら、仏教教団においても世俗の女性に対する差別待遇という社会的通念には実際上、従わざる得ない事情に流されて いったのです。 >>568 の方が、とても良い発言をしています。 我々は皆、生まれ変わりながら、これまで何度も男だったり女だったりしてきたのであって、実に、魂のレベルにおいては性別は 存在しない。ニルヴァーナ境にある如来というのは男でも女でもない。あるのは経験値の優れた進化した魂であるか、そうではない かの何れかです。 単純に見るならば魂が転生していく際には、進化した魂はよりよい環境へと生まれ、また、そうではない魂は恵まれない世界へと 転生していく。当時の古代インドは現代まで続いているカースト差別社会であり、男女間においても圧倒的な男尊女卑の世界。この ような環境に転生していく魂というのは当然、男性にはより進化した魂が転生し、女性はそれよりも劣った魂が転生する傾向がある ということ。 尚且つ、肉体の構造性質上においても女性は本格的な出家修行には不向きだといわざるえません。従って、現実においては結果的 に女性の解脱成仏は男性よりも非常に困難だということになるのです。 だから、これは差別しようとしてのではなくて、女性の出家修行とニルヴァーナ入りは男性と比較して何倍もより困難だということ。 またそれから、人数的にも圧倒的に男性中心である仏道世界においては、男性にとって女性は修行の精神集中を乱す要因となるものな ので、できれば入れたがらないということがある。女性からみればこれは正直、実に身勝手で我がままなルールということになる...。 そして、仏教は中国(シナ)を経由して日本に入ってきた際に、当時の中国における男性優位と男尊女卑の通念と共に導入されました。 “ヤマトの国”古代日本では卑弥呼にみられるように優れた女性を認める民族でしたが、しだいに神道の中に、月経を持つ女性は不浄な 生き物であるとする思想が生じてきて(今でも、女性は神社には月経中の参拝ができない)、これが男性優位を説く日本仏教とより結び ついていったものと思われます。 永遠の昔から 男に生まれたり女に生まれたりしてるが、 女に生まれたときは仏道修行して仏になることができない。 次に男に生まれる時を待たなければならないわけだ。 男も女も、極楽浄土に生まれるときは男になれるのでOK。 でも、実際に仏になれるは、法華経にもあるように 永遠の未来の話だから、 まあ、オレたちは、あくせく暮らしていくしかないわけだ。 >>573 ( ´,_ゝ`)y―-~~ フハハハ!! 考え方は仏教のそれに当てはまるやも知れんが、これこそ真理なわけで 生き物すべての平等なルールなんだわ つまり、「性同一性障害」とは何か... これは人が生まれながらにして、自分の肉体の性と自己意識内の性別が異なっていることをいう。昔は、ただのオカマだのオナベだ のといって...一種の変態扱いに近いものだったけれども、これが馬鹿にしてはいけない“先天性の障害”なんだということとなった。 この原因は何かというと、私のオカルティズムの理解から申し上げるならば、実は、魂の前世記憶が原因だということとなる。 通常の一般人というのは、転生毎ごとに前世の記憶は失われています。何故ならば、もしも前世の記憶を有していたのならば、そのこと が邪魔をして今生でのまともな社会生活ができなくなってしまう。というよりは、まともな精神は崩壊してしまうでしょう。 前世の家族や愛する恋人、憎き犯罪の加害者のことや自分の犯した過ちによる被害者のことといった記憶があれば、そのことを無視し て過ごすことが、到底できなくなるからです。だからこそ、普通の人間は精神の安全装置として前世記憶が自動的に失われることとなっ ているのです。前世の記憶があっても平然と対処できる人間、あらゆるすべての過去世の記憶を回復しても問題ない人間こそが完成され た如来なのです。彼らはニルヴァーナに達する手前でこの能力に目覚める。 ところが膨大な人類の中には、イレギュラー的に前世記憶を保持した状態で生れて来る者も現れる。それがイアン・スティーヴンソン 博士らによる前世記憶の研究対象となっているわけです。>>182 >>220>>224 >>401 ところで、「性同一性障害」の者というのは何かというと、前世の記憶を明確に持つわけではないけれども、ただ単に前世における性別 の記憶だけが潜在意識の中に強く作用している状態を意味する。つまり、「私は前世で女だったんだ」という記憶が潜在的に作用しており、 肉体上は男であるにもかかわらず、その潜在意識が「自分は女である」という自我意識として顕示してくるのです。これは魂が前世の性 別を主張している状態なので、医学の手法ではまったく直しようがありません。 大乗非仏説って日本の仏教はヤバくない? 日本は大乗仏教って習った記憶がある。 小乗仏教は個人の悟りだけど大乗仏教は 多くの人を救うんじゃなかったっけ? 今、小乗仏教は上座仏教とか言うんだね。 577. 小乗仏教は仏教だが、 大乗仏教は社会事業である。 >>1 釈迦は輪廻転生を解いては居ません。 あれは、バラモン教な。 バラモン教の聖者(沙門)を仏教に教化させる為に、敢えてバラモン教の土俵で説法したから、釈迦は輪廻転生を解いたと勘違いされているけど、そうでは無い。 寄って前世も説いてません。 とある仏教系新興宗教の教祖がキリスト教の 最大の失敗は輪廻転生を認めなかったことだ とか言ってるの読んだ記憶がある。しかもその人 釈迦の生まれ変わりとか?w ここで前者と言うのは質問した方が示したVeda思想における輪廻の定義のことです。「 輪廻=生まれ変わる」ということです。 Vedaにはハッキリした輪廻転生の思想がなかったと前に述べました。 なぜ、仏教思想から輪廻転生の思想を離婚させようとリキムのですか。 世界中すべての仏教学者の論文、研究などを踏まえた上でも構いませんが、たった一回だけでも釈迦尊が人の命は死ぬまでです、 死後から虚無です、無ですなどの言葉を述べたことがありますかと聴きたいのです。 「無知な衆生は限りなく生まれ変わりして苦しむ」と言う意味の言葉が幾らでもあるのに、なぜその大量のデータを学者様方は無視するのですか。 経典の中でも最古層に入るSuttanipataの慈悲経にも「慈悲を完成したものが再び子宮に戻らない」と言っているのです。 悟りを開いてその喜びを顕にした言葉の中でも「再び生まれることは苦しみである」(dukkhaa jaati punappunam)とあります。この二つのところは皆覚えているところです。 初期経典のテキストの五、六ページをパラパラと開けて見ても輪廻の思想に出会います。 582. 輪廻は存在しない。 輪廻の根拠として成立しない根拠を出している。 輪廻やカルマの法則が本当にあるのかどうかおれは知らんけど カルマの理論って信仰がない凡夫に対しては致命的な欠陥があるから 仮に本当にあったとしても釈迦がおおっぴらに語ってたとは思えないんだよなあ 誰々が言ったとか言ってないとか、君ら頭カチカチやな。 それそんな重要か? 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。 148 何びとも他人を欺(あざむ)いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。 149 あたかも、母が已が独り子を命を賭(か)けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意(こころ)を起すべし。 150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。 上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。 151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥(ふ)しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。 この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。 152 諸々(もろもろ)の邪(よこし)まな見解にとらわけず、戒(いましめ)を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪(むさぼ)りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。 このスッタニパータの慈悲経は 慈悲を行うものは再び母胎に宿ることがない=輪廻転生から解脱できる という教えがミソ >>580 あなたのように、 ゴータマは輪廻転生を説いてはいなかった。 経典中の記述は後代の付加挿入によるものだとか、 ゴータマはバラモン教の土俵で説くべくして、 これをただの方便として利用しただけだ〜〜 というものに対して、ここに明確に反証しておきます。 まず、こういうことをいうのは殆ど唯物主義者です。 要するにこれは、“そんなもの(輪廻転生)は在る筈がない”という結論在りきの論理(暴論)に過ぎない。 まず先に“これ”が絶対決まっていて、こんな迷信染みたバラモン教の受け売りのようなアホなことを これほど冷静で知的な大哲人であったゴータマが説く筈がないのだ、という論理なのです。 彼らは、単なる凡人に過ぎない人間のくせに あのブッダに対してさも偉そうに教え(結論/唯物論)を説こう! というのだから、まさに恐れ入る...。 >>582 >>531 の通り、 仏教の説く輪廻転生の教えというのは、 ゴータマによって世の中に初めてこれほど具体的な内容として提示されたものです。 当時のインドにおいてはまだ、もっと単純素朴なバラモン教の迷信的な輪廻思想しかありませんでした。 というよりは、実際にはバラモン教(そして、後のヒンドゥー教)の側が仏教からの影響受けて、 積極的に仏教の教えを導入利用していったというのが本当のところ。 あの『ヨーガスートラ』でさえもその成立過程においては仏教徒が関わったといわれており、 そして、アートマン不二一元論のシャンカラに至っては 自ら仏教教団に混じって教えを受けていた仮面仏教徒としても知られています。 要するに、 先の“仏教の輪廻転生の教えはバラモン教の方便利用〜”などという理解については、 もうかなり昔の一時期に巷で広まった間違った仏教理解の代表的なものの一つです。 今日では仏教学の研究も進んでそんな論理が通用することはありません。 『このことはバラモン教のウパニシャッドに説かれる輪廻説と好対照を示す。すなわちウパニシャッドの最古のものとさ れるチャーンドーギヤ・ウパニシャッドに五火二道の輪廻説が初めて説かれるが,その中で哲人ウッダーラカ・アールニは その説をパンチャーラ族の王に乞うて聞き学んでいる。王はウッダーラカに,五火二道説は元来クシャトリヤ族にのみ伝わ る教えで,バラモンたちには今初めて教えるのだと前置きしている。宮元[2003],p. 』 (藤本 晃著『パーリ四ニカーヤに説かれる先祖・施餓鬼供養』) つまり、バラモン教の輪廻思想というのは、 元々はクシャトリヤのみに伝わっていたものであり、 それが当時のバラモンに提示されたのが五火二道の輪廻説だということ。 そして更に、自らゴータマは自分の語る業報輪廻(バラモン教レベルの五火二道説ではない仏教独自の五道輪廻) の教えはバラモンたちからの受け売りなどではなく、自分自身の超常的な能力によって確認したものであると宣言しています。 ゴータマというのは、自らの直接体験を重視する頑固なまでの経験主義者であり、 そして、厳しく不妄語(嘘をつかない/嘘をついてはいけないということ)の戒律を厳格に守ってこられた方です。 従って、バラモン教の受け売りをして嘘をつくような方ではないということ。 『例えば比丘たちよ,扉のある二つの家があり,眼ある人がその間に立てば,人々が家に入ったり出たり,行ったり来た り歩き回ったりするのを見るであろうまさにそのように,比丘たちよ,私は清浄で超人的な天眼によって,衆生が劣ったも のや勝れたもの,美しいものや醜いものとして死んだり生まれたりするのを見ており,衆生が善趣の者や悪趣の者として業 に従って牽かれていくのを知っています。』 (マッジマ・ニカーヤ III 178:) 『しかし比丘たちよ,以上〔五道輪廻の法則〕のことを私は,他の沙門或いはバラモンから聞いて語っているのではあり ません。そうではなく,私が自ら知った,自ら見た,自ら体験した,そのことだけを私は語っているのです。』 (同 III 186:) 以上. >>584 彼氏が欲しいのにできないで困っている若い女性に向かって、 「それはあなたの容姿と顔が舞祭組だからだ!!」などと、 わざわざそれを彼女の下に言いに行きますか??? しないでしょう。そんな失礼なことは。。。 けれども世の中には、 男性という生き物は、圧倒的に女性の容姿に牽かれるという厳然たる事実がある。 果たして、自分がそうであるかないか... 他にも原因があるかないかは自分自身が考えることです。 その判断材料はある。 仏教の説く、 前世の業により不幸と苦痛が襲うという教えもまた然り。 あなたがたはこうしてすぐに、 業報輪廻の負のマイナス的なイメージ部分のみを取り上げてあーだこうだとやるけれども... 業報輪廻を認めないということは、つまり、善因善果の絶対性も否定するということになるのです。 仏教の万人成仏道の教えもこの輪廻があって初めて成立すること。 これなしで、人が解脱成仏できることは決してありません。 >>593 あるかどうか私は知らないと言ったけど、ないとは断言してないですよ。 何故、信仰薄い者には悪影響を与えうるかはハッキリと書くわけにはいきません まあ、お察しくだい もちろん釈迦の言葉を信ずる者には多かれ少なかれ好影響を与えるでしょう >>194 all-了解!! >>555 >原始経典を読みつつ真言宗の信仰を実践する者ですか? はい >>551 >大乗を否定してる様に見受けられますが 「大乗」というのは、その発生の経緯については止むを得ない事情と確かに何か宿命的な部分を感じるけれども、しかし、 その発展の為には手段を選ばず的な不条理を永年に渡って繰り返し重ね続けて来たという負の功罪があります。 まずは、経典(大乗経典)の制作においてゴータマが言いもしないような嘘を勝手に書き連ね、敵視した上座部を小乗とし て蔑視しつつ、本来の唯一なる仏典である原始経典の扱いも見下げて開祖であるブッダ・ゴータマその人(の価値)を殺して きた。 大乗の僧侶でありながら原始経典を学ぶなどということは許されず、発覚した場合には破門して飯の食えない乞食僧にし てきた。結果としては、とても仏教とは言い難い内容のものを勝手にゴータマと仏の名の元に提示して、その偽りの実態に ついては未だに釈明をしない。私から見てもその価値ある部分は大いに認めつつも...遺憾に感じるところも多い。 詳細内容については今は扱いませんが、今後の投稿の中では時折、述べることがあるかもしれません。 >>551 >宝珠さんは真言宗じゃなかった?違った? >真言宗は大乗じゃないの? とはいえ、この私も何も原始仏教の世界をそのまま現代日本に展開するような世界を理想としてるわけではないし、大乗 には大乗(特に日本大乗として)の良き点と素晴らしいところも多々あります。 なので、基本的には原始経典を読むことで本来のブッダの教えを学びつつ、私自身にとっては在家信仰者の歩みとしての 大乗利用ということです。また実際上、私は日本大乗しか接したことがないし、真言信仰歴は35年になる。 また実は、大乗というのはある意味でゴータマから離れつつも、ヒンドゥー化して発展することで、また逆に本来のゴー タマの還ってきたところがあります。 それが如来蔵思想であり、ゴータマが元々は説いていたとみられる心性本浄説の教えへの原点回帰です。 「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている」(パーリ増支部) 密教というのは、インド大乗の最後の切札にしてすべての大乗の経験と叡智を保有したものと私は見ています。またそこ には本来、ゴータマの説いた三十七菩提分法を理想に掲げようとする思想も見られる。 それから、密教の持つ現世利益の方便利用を私は現代日本人に適した仏道入口のキッカケだとも評価します。 〜ということで、この私個人の大乗・密教評価というのは、巷に溢れた一般的な解説評価などとは質も内容もまったく異 なります。 >>577 はい。大義名分としては衆生救済を掲げます。 しかし、自分自身の個人の悟りを目指すことなく衆生救済ができる筈もないこと。 そのことは仏典伝承の通りであって、ゴータマとて然り。 最初から衆生救済を出発点にする人間などは一人もいないでしょう。 それを口にしたら嘘だと思う。 本来は、自分個人が向上していく過程において自分以外の人々に対する奉仕の実践も伴ってくるということ。 その内に自分自身の悟りを得たいという願望(これも欲望「高次の欲」ではある)すらも、 いつの間にか何処かへと消えてしまって、ただひたすら世界に対する奉仕の行為に没頭するという人も出てくる。 こうして、ゴールに到達した如来は衆生に対する慈悲の想いに満たされています。 歴史上、根本二大分裂のときの上部座が小乗と呼ばれる集団でした。 けれども、現在の南方仏教(上座部)は経典を伝承してはいますが、当時の上座部とはまったく違う教団であり、 決して小乗などと馬鹿にするようなものではありません。 ですから、現存する南方仏教を小乗と呼ぶことは止めなければならない。 尤も「小乗」というのは自分で名乗る筈も無いものであって、 すべては自分たちのことを勝手に大乗と名乗った集団が当時の上座部を蔑視して呼称したものに過ぎません。 >>581 元々は、イエスは輪廻転生を説いていましたが、 後のキリスト教がこれを教義から削除したのです。 決定的にはローマ皇帝の下、西ローマ帝国滅亡後の コンスタンティノポリス公会議(553年)において決定しました。 以降、これを語る者は異端にて処刑されてきたのです。 そのことをまったく知らず、この事実を認めないというクリスチャンが大多数の殆ど。 今は詳しくはやりませんけれども。 本物の高レベルな聖者であれば、 必ず業報輪廻を説きますから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる