▼▼▼仏教は不幸な死にかたした人は前世が悪いと言うらしい▼▼▼ [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
前世があるなんことも証明できないのに。
宗派によっては、そんなこと言わないと
言う人もいるが釈迦が、そう言ったと主張する人
もいる。だとすると救いようがない。 ホラ吹きのホラを真に受けんなよ
変な本とか経典とか片っ端から読んでなんでもかんでも信じすぎでしょ?
基本全部つくり話で嘘だと疑ってかからないと頭いかれるよ
もう手遅れっぽいけど パーリ中部の小業分別経(Culakammavibhanga-sutta)というお経では、次のようにあります。
世尊はつぎのように言われた。
「青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は殺生者となります。
残忍で、手を血に染め、殺戮に耽り、生き物に対する思いやりがありません。
このように遂行し、このように引き受けたその業によって、かれは身体が滅ぶと、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。
もしも身体が滅び、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわらず、人間の状態を得るならば、どこに再生しようとも短命の者になります。
青年バラモンよ、これが短命に導く実践、すなわち殺生者となり、残忍で、手を血に染め、殺戮に耽り、生き物に対する思いやりがないこと、です。」 >>473
死んだ後地獄に生まれるとかやたらいうけどその地獄っていうのは何なの?
生まれるっていうのは母親から赤ん坊として生まれるの?それとも空中にポンと現れるの?
どういう場所?
火が燃えてる場合その炎の燃料は何?
炎の温度は?
そこに時間あるの?
そこの一日は何時間?
地面あるの?
地面あったとして惑星のような球体それとも永遠に続く平面?
そこの重力は何G?それとも無重力?
空気はあるの?
大気組成は?
気圧は?
気温は何度?
肉体を維持するための食べ物はどうなってんの?
おしっことかうんことかするの?
服は?裸?
布団なしで寝れる?
一回生まれたらずっとそこで生活するの?それとも地獄での人生にも寿命あって死んだりするの?
誰一人具体的に説かないのはなんで?
その話をそばで聞いてた弟子はなんで誰もつっこまないの? 以前、外国ドラマのインベーダーや謎の円盤UFO
に登場する宇宙人は見た目、地球人とほとんど
変わらなかった。日本のアニメ、宇宙戦艦ヤマト
も同様。肌の色が違うくらい。因みに昔のSF小説
に出てくるタコのような宇宙人は、かなり前に否定
されてるような記事を見た記憶がある。地球人が
輪廻転生して宇宙人になる可能性については五島勉の
書いた「カルマの法則」に書いてあった。しかも
宇宙人のほうが上の存在のような。この「カルマの法則」
と言う本だけど、名前こそ出してないが書かれてる
内容は創価学会、そのものだったw むしろ釈迦は悟ればだけど
悟れば死に方は関係ない救われると言ってた 輪廻転生も仏教宗派によって違うよね?チベット密教や
創価学会は動物にも生まれ変わるとしてるけど仏教系の
霊能者の中には人間は人間にしか生まれ変わらない
と言う人もいた。あとチベット密教は解脱すると
生まれ変わらなくなり、それが最高の状態だよね?
でも、創価学会は徳の高い人間(つまり、創価学会員の
仏界や菩薩界の人間)ほど、死んでもすぐに生まれ変わる
としてる。仏界や菩薩界の人間には、のんきに死んでる
暇は無いのだとか。どれがホントなんでしょうか?
あるいは全部嘘なんでしょうか?w >>472
とても素晴らしい情報の紹介ページをありがとうございました。
『私はとうとうある手づるを得て、バードワンの大公に調査を薦めてみました。”こういうわけで、大公はギリバラを
宮廷に招いて、テストをした。宮廷の中、ある部屋に軟禁状態になり、2か月間 ギリバラが食事をとらなくても生き
れるかどうか、所謂 実験を試みた。それが証明されたが、さらに、20日間、そして三度目には15日間の宮廷滞在で
厳重な審査を受けた結果、やはり、いずれも、ギリバラが完全な絶食状態でいるということを断定したというのだ。』
(飲まず食わず排泄物が50年以上ない) >>472
と、ここでは紹介されていますけれど、この事例だけに限らず人類の歴史上、
これまで本物の聖者や覚者による奇跡や神通が完全に疑いようのない形で示されたことは何度もあるのです。
その場にいた者は皆、驚愕して地に触れ伏すこととなり、これまでの自分の非礼を詫びることとなる。
けれども永い年月を経るとその事実は忘れ去られ、再び唯物論者たちが蔓延り、それらは昔の迷信として嘲笑される。
人類全体としては、この同じ歴史の繰り返しをしているだけであまり進歩していない。
彼らは、仏典の奇跡神通の描写を単なる神格化の迷信に過ぎないと一掃しますが、
これらは、確かに多少の誇大な盛付けがあるにせよ、基本的にはすべて本当にあった事実を述べたものであって、
仏典の内容というのは基本的に嘘と間違いがないのです。
人類が、古代の頃とは一つだけ違う点としては、
科学の発展においては量子論がこれまでの古典的な濃密物質科学の常識を覆す理論を提示するようになったことと、
著名な科学者の中にも超常現象に対して真剣に取り組むことで、
その現象の真実性を確信するに至った方が何人も出現してきていることです。
いずれにせよ、
そろそろ再び唯物論者たちが地に触れ伏して非礼を詫びる日が近づいてきているのだと思う。 >>473
これは簡潔明瞭な経文ですね。
短命に終わる人の原因について、その仏教的な説明がここでは明確に説かれていますね。
それが事故死なのか、または生れつきの難病大病なのか...
「すなわち殺生者となり、残忍で、手を血に染め、殺戮に耽り、生き物に対する思いやりがないこと」
そういう人間は、「人間の状態を得るならば、どこに再生しようとも短命の者になります。」
『人がもしも善または悪の行ないをなすならば、かれは自分のした一つ一つの業の相続者となる。
実に業は滅びないからである。』(ウダーナヴァルガ9-8)
『悪い事をしても、その業(カルマ)は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。
しかし、来世におもむいてから、悪い行ないをした人々の行きつく先を知るのである。
のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起る。』(同9-18)
と、ゴータマは教えています。
そして、これらのことはゴータマは自分自身で確認してきた上で語っているのだと述べています。(中部経典130)
業作用の実に恐ろしいことは
本人にとっては前世の記憶などはなく、まったく自分自身は身に覚えがないことです。
しかし、それでもまったく容赦しないところが恐ろしいのです。
だから、仏教では繰り返し悪事を慎んでひたすら善に励むよう説くのです。 そして中には、まったく勘違いしている者までいて、
仏教では不幸に見舞われた者を「悪人めザマーミロ!!」と嘲笑しているなどという馬鹿タレもいます。
もちろんそうではなく、だからこそ一日でも早く人々に
これらの恐ろしい業の働く世界から脱して安住するように説き続けるのです。
苦しんでいる人には哀れみと同情を以て接し、そのような人々を援けてあげなければならないことを教えます。
それが仏教の“慈悲の実践”の教えです。
プライベートな話をすると、実は、
私の愛する妻の父親は妻がまだ高校生だった頃に炭鉱での不慮のガス爆発事故で、
まだ40歳くらいの若くして死去しています。
娘(私の今の妻)を溺愛していて、嫁に出すことは考えられないなどといっていた父だそうです。
妻との出会いは、他人の紹介に拠る全くの偶然的なものでしたが、
これこそ不思議なご縁というもので、実は私の父親もかつての炭鉱マンであり、
話をしてから分かったことは、私たち二人の父親は実にまったくの同時期に
同じ市内の炭鉱(別炭鉱の別会社)にて働いていたことを知り(私の父は73歳にて炭鉱原因の塵肺で死去)、
私の妻とはなんと同じ中学校をお互いに知らずに、2-3年のズレで通っていたのです。
妻との結婚においては、互いの父親はすでに亡くなっていたので双方、共に互いの義理父に直接お会いすることができなかった。
ですが、私はもちろん妻の義理父へのご挨拶と供養も欠かすことはありません。
つい先月が三十三回忌の法要なのでしたが、
今月は私からの発案で、事故死した炭鉱地へと赴いて慰霊碑での供養のために
今回初めてという妻の母親も連れて行ってくる予定です。
当たり前の話ですけれど、いつも日々の感謝の精神で挨拶しています。
残念ながら、亡くなられた方に出来ることというのは慰霊と供養それだけなのです。
「悪人めザマーミロ!!」などではありません。 >>474
地獄とは、
死んでから転生前で堕ちる世界のことであり、
また、転生後に受ける業報の悲惨な苦しみも、これまた地獄といえるでしょう。
>>115 >>333
通常、転生という場合には再び人間として生を受けることをいい、
仏典は、「母胎から母胎へと生まれる」(スッタニパータ)と説きます。
そして母胎に魂が宿るときの一連の神秘については、
チベットの死者の書『バルドソドル』という密教経典がとても詳しく、そして、生々しく描写しており、
神智学的にも、これはほぼ事実に即した正確な内容であるとして高く評価しています。 やはり地獄に関する投稿は難しいのかな?
参考サイトページのリンクを貼ろうとしても規制エラーが激しくできませんw
ごめんなさい。 増一阿含経/瑠璃王経
このスレ及びあちらの側のスレでも取り上げられているのが、増一阿含経の『瑠璃王経』です。
これについて少しだけ述べると、隣国のコーサラ国(瑠璃王)が釈迦族に復讐しようとして兵を出してきます。
ゴータマは三度までは親族の人々を滅亡から救おうとされましが、四度目の進撃の際には、
神通第一のモッガラーナからの「神通力を発揮してカピラ城を鉄柵で囲い上げてこの危機を救済しましょうか?」との申し出を断り、
そのまま因果応報の理にまかせられた (この受けざる得ない業報からは決して逃れることはできない) という。
当時の釈迦族一同は、元王子であったブッダであるゴータマに帰依してその教えを守っていた。
不殺生に徹する釈迦族の放つ矢は瑠璃王の頭髪を通過するだけで、彼を殺すことをしなかったという。
こうして最後に、釈迦族はコーサラ国の瑠璃王によって滅ぼされたといわれています。
ゴータマの教えによれば、この釈迦族たちの虐殺は
過去世において彼らが河に毒を投げ込んだことによる報いであると説かれました。
そして、日常でもよく使われている“仏の顔も三度まで”という言葉は、
なんとこの経の話が元となってるということです。
この業報からは逃れられないから諦めるという話は、
モッガラーナの最後となった惨殺事件と同じくして重なるものです。>>330
神通を使って逃れていた彼も、これでは切りがないことを悟り、
潔く過激派の暴君に惨殺され散り散りの肉片と化したとされる。 >>480
追記:
非業の死を遂げた妻の父親のことを思うと、私はとても悲しいものを感じます。
自分の帰宅を待っている愛する妻と子供たちを残して、
地表から数百メートルもの炭鉱の暗黒の地底の中で死ぬというのは、
一体、その無念さというのはどういう気持ちなんだろうか?と。
せめて普通に地上で死にたいものだと...。
ただ幸いなことは、遺体は無事に家族のところに帰ったということ。
これをこじつけと思う人もいるかもしれませんが、
私と妻の誕生日は、私が先の同月の一日違いであり、
そして、互いの父親の命日もまた、私の父親が先の同月の一日違いなのです。
だから、誕生日と実家に帰ってのお参りも私たちは連日続き。
そして、退行催眠からみた前世データによれば、
夫婦とか親子というものは、何生涯かを繰り返しその関係を続けるパターンが多いということなので、
恐らく、私達夫婦はこれまで幾度もの人生を共に
夫婦や兄弟や親子といった関係として繰り返し続けてきたのだと思っています。
そして、今生でまた、再び必然の巡り合いを果たしたのだ、と。 >>484
追記:
因みに、
私の方の父親が事故死することなく、恐らくは自分の寿命を全うできたというのは、
私の母親の優れた霊感体質に理由があり、母が事故の悪い予感や予知夢を見て父の出勤を止めれば、
まず必ずというほど案の定の坑内事故が発生して、死者や怪我人が出たのです。
そういうことが何度となく繰り返され、父は危機を間一髪で回避してきました。
だから、神仏やオカルトはあまり分からない無知な父も母の霊感だけは、
いつも絶対の信頼を持っているのです。 阿含経って「長」「中」「雑」「増一」
とか種類があるんたね。三省堂本店行ったが
「長」と「雑」はあった。 >>486
----漢訳四阿含経典----
・雑阿含経
・別訳雑阿含経
・雑阿含経
・中阿含経
・長阿含経
・増一阿含経
----パーリ五部聖典---- (和名)
・サンユッタ・ニカーヤ 相応部経典
・マッジマ・ニカーヤ 中部経典
・ディーガ・ニカーヤ 長部経典
・アングッタラ・ニカーヤ 増支部経典
・クッダカ・ニカーヤ 小部経典
・ダンマパダ 法句経
・ウダーナ 自説経
・イティブッタカ 如是語経
・スッタニパータ 経集
・テーラ・ガーター 長老偈経
・テーリー・ガーター 長老尼偈経
・ジャータカ 本生経
これらが原始経典群です。
パーリ五部の上から4経典までは漢訳4阿含経にそのまま対応します。
しかし、クッダカ・ニカーヤには漢訳経典はなく、
良く知られるスッタニパータやダンマパダはこの部類に入ります。 山梨の日◯宗の総本山である、身◯山久◯寺の内部の僧侶らが、憲法違反を犯したらしい!
今、弁護士らが介入して、法の下に勝負してるらしい! 行為のどこからが善でどこからが悪なのか
マナーにしたって法律にしたって善悪の境界線なんて人が勝手に決めてあると思い込んでるだけで自然界にはそんなもの存在しない
善い行為と悪い行為によって未来の幸福や不幸が決まると言ってるがこれを言った奴は善いか悪いかをどういう基準で判断したんや
人が善悪を決める場合裁判によって見解が分かれる時がある
最近よく見る音楽の著作権についてはどっちが悪でどっちが善?
憲法を改正するさせないとかテロ法案成立する成立させないってもめてるが熱心な人達は敵対する相手側を悪だと言って非難してる
これはどっちの言い分が正しいのか
NHKの受信料は同意なしに全ての人からむしり取る派と見てないから払わなくていいだろ派はどっちが悪でどっちが善?
自衛隊は憲法違反?
マンガやゲームのキャラクターを使った同人誌やパロディはグレー、パチンコもグレーな感じで放置されてるがこれやるのは悪業に入るのか?
大麻やギャンブルは国や時代によって法律が違ってて環境によって合法だったり善悪が変わってくるが善悪によって人の運命を決めるやつはなんといってる?
交通事故のような過失で相手を死なせてしまった場合はどうなる? >>490
憲法違反者は、れっきとした犯罪者です。 酒は善か悪か
「密造」なる言葉があるが許可なく酒を造ることは(人の決めた法律が関係ないものとして)善か悪か 妊娠中絶は殺人にあたるか否か
因に応じて果報を与えるというのは誰の基準で判定されるのか >>492
>妊娠中絶は殺人にあたるか否か
これは元々、「罪」や「悪」ということではありませんが、
飲酒は修行の妨げとなる傾向が大きいものなので、
戒律の「飲酒戒」[おんじゅかい](不飲酒戒・不飲酒)として規定されているものです。
在家に対しては戒めであり、僧侶であれば本来は全面禁止です。
>>493
「堕胎」についての明確な仏教的説明はないかもしれません。
がしかし、これを単純に“殺人行為”であるとして捉えるのならば、
現代における狂信的なキリスト教の伝統原理的主義者らとなんら変わりがないでしょう。
これについての私の個人的理解を述べるならば、
殺生の悪の中でも「大」と「小」の二つに分けられるものであるのならば、
堕胎はこの内の「小」側のものでしょう(最小限の罪悪はある)。
望まれないで生まれる可哀想な赤子がなくなるよう避妊はなされるべきで、
また、レイプなどといった悲惨な妊娠などについては中絶も止む得ないでしょう。
その場合は、妊娠4カ月以内でなるべく速やかになされるべきです。
何故ならば、魂が胎児に受肉するのが4-5カ月の時だからです。
>因に応じて果報を与えるというのは誰の基準で判定されるのか
「法」(自然の摂理)です。 *上記投稿、アンカー>>494は間違えました。
以下の内容にて訂正します。
>>492
>酒は善か悪か
これは元々、「罪」や「悪」ということではありませんが、
飲酒は修行の妨げとなる傾向が大きいものなので、
戒律の「飲酒戒」[おんじゅかい](不飲酒戒・不飲酒)として規定されているものです。
在家に対しては戒めであり、僧侶であれば本来は全面禁止です。
>「密造」なる言葉があるが許可なく酒を造ることは(人の決めた法律が関係ないものとして)善か悪か
人を騙す(秘かに欺く)行為は明確な悪業の一つでしょう。
なので、たとえ人間が勝手に作った法律ではあっても
これを尊重して節度よく守ることが仏教的にも推奨されます。
仏教が法律違反を説くことはありません。 >>493
>妊娠中絶は殺人にあたるか否か
「堕胎」についての明確な仏教的説明はないかもしれません。
がしかし、これを単純に“殺人行為”であるとして捉えるのならば、
現代における狂信的なキリスト教の伝統原理主義者らとなんら変わりがないでしょう。
私の個人的理解を述べるならば、
これについては殺生の悪の中の「大」と「小」の二つがあるのならば、
堕胎はこの内の「小」側のものでしょう(最小限の罪悪はあるけれども)。
望まれないで生まれる可哀想な赤子がなくなるよう避妊はなされるべきで、
また、レイプなどといった悲惨な妊娠などについては中絶も止む得ないでしょう。
ただしその場合は、妊娠4カ月以内でなるべく速やかになされるべきです。
何故ならば、魂が胎児に受肉するのが4-5カ月の時だからです。
>因に応じて果報を与えるというのは誰の基準で判定されるのか
「法」(自然の摂理)です。 だからその法とやらはどういう基準で善悪を判定してるのかってことでしょ
天とか神とか法とか表現は違えどどこの宗教もその存在は説いてる
大事なのは中身よ
人間のような好き嫌いの偏見や喜ぶ怒るなどの感情や善悪があるのかどうか
これは善、これは悪、これは好ましい、これは好ましくない、これはセーフ、これはアウトをどうやって判定しているのか
それを詳細に具体的に解明し説明するのがすじでしょ
くだらない宗教組織つくってその法を拝ませたり頼らせたり集金したり上下の階級つくって自分を一番頂点にまつり上げたり無駄で無意味な経典を山ほどつくったりする前に 富士山は「高い」と言われるけどエベレストから見れば「低い」
北海道は寒いけどフィンランドに比べれば暖かい
残飯やうんこのにおいは人からしたらくさいけどハエにとってはいい香り
味の美味い、まずいもスタイルのいい悪いも美人かブサイクかも比較対象によって、また個人の好き嫌いによって感じ方は全然違う
心が清らか、心が穢れている
行為の善、悪
聖、邪
浄、不浄
それは何から見て、何と比べてそう見えるのか
どこから見て善いのか悪いのか
何と照らし合わせて、善なのか悪なのか
偏差値50に相当する中間点、絶対の基準点が「法」だというならその中身をなぜ説かない?
「善を積めば幸福になり悪行を積み重ねれば苦痛を受ける」
だからその善とは? 悪とは?
「善いこと(僧侶へのお布施)をして悪いこと(戒律に反すること)をするな」
こんな糞みたいな迷信ではない本物の善悪を説いた人いるの?
仏さま覚者さま(笑)の語る主観と偏見と好き嫌いと曖昧さに満ちた善悪なんかどうでもいいんだわ 三世因果って、釈迦が言ったんですか?
そして、この言葉は経とかに出てくるんですか? >>497-498
あなたからの指摘と疑問点は尤もなことです。
確かに一見すると善悪というのは相対的なものであって、
時代や地域や民族宗教によって、そして、個人によっても様々に異なる善悪の法規や認識に絶対的な基準はあるのか?
仏教の説く善悪の基準はどのようにして確認されたのか? そして、それは一体、何によって定められたものなのか?
(ただし、絶対性のない相対的なものという意味では確かにそれらは該当しますが、
富士山は高いか低いか...などのあなたからの譬えというのは、元々、善悪とは関係ありません)
人間の命を奪う殺人行為に至っても、
古代の迷信的宗教においては神に捧げられる生贄は善であり、生贄となる本人にとっても光栄なことであったりもする。
そして、なんとも恐ろしいことに、今でも、神の名の元に異教徒は皆殺しにすることが大いなる善とする集団も存在しています。
彼らには、罪の意識すらもそこにはないかのように見える...。
私からの返答はこれはあくまでも、
仏教の説くところに限定される話となるかもしれませんが、
しかし、仏教徒であるならば皆、このようなブッダの教えを受け入れて
これこそが真理であると見なして信仰しているものと思います
(そうでない人というのは、分かってない人です)。 仏教の説く善悪の基準は、実は単純明瞭なものです。
自己を“害する行為”が「悪」であり、自己を護り援けることが「善」なのです。
人間はそれぞれ自己こそが最も尊いものであるから、相手にとっても同様に尊い相手の自己をも護れかし、と。
そして、人間存在の尊重が絶対のものであり、他の生命はそれに準ずるものとなります。
このことは瞑想の究極における神秘によって確認されたものです。
すべての人間はその本質(本性)においては一つであるという事実を知ることによって、
他人を害する行為が実は己れを害することになるのだという真理です。
「害」とは、苦痛(肉体的)や苦悩(精神的)を与えることをいいます。
従って、殺人行為はその対手に与える苦痛の最大限にして、
尚且つ、相手のその後の生存における進歩を阻害するものであるから最大の悪事です。
ということで〜、仏教における生活の一番手は無害であることです。
これが非暴力の実践の教えです。
これらの基準に立てば、その応用によってあらゆる事柄についても判断ができる。
これを犯した者が死後にたどる行き先とその末路についても、
ゴータマは自分の目で見て確認した上で教えを説いているのです。 『心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、けがれなく、やわらかで、たくみで、確立し不動になったときに、多くの
人々の死と生を知ることに心を向けた。
すなわち、わたしは清浄で超自然的な天眼によって、多くの人々が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑しい人と高貴な人、
美しい人と醜い人、幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれぞれの行為に従っているのを見た。
「じつにこれらの人々は身体で悪い行為をし、ことばで悪い行為をし、心で悪い行為をし、多くの聖者を非難し、よこしまな見
解をもち、よこしまな見解にもとづいて行為をする。かれらは身体が壊れ死んだ後、悪い所、苦しい所、地獄に生まれる。また、
他のこれらの人々は身体で善い行為をし、ことばで善い行為をし、心で善い行為をし、多くの聖者を非難せず、正しい見解をもち、
正しい見解にもとづいて行為をする。かれらは身体が壊れ死んだ後、善い所、天界に生まれる」と。
わたしは、このように清浄で超自然的な天眼によって、多くの人々が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑しい人と高貴な
人、美しい人と醜い人、幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれぞれの行為に従っているのを見た。
バーラドゥヴァージャよ、これが夜の中間の部分において得られた第二の明知である。ここに無明が滅び明知が生じたのである。
暗闇は消滅して光明が生じたのである。それはつとめ励み、努力している人に現れるのである。』
(中部経典第100経「サンガーラヴァ経」)
いっぺんに説明することはこの私にもできませんけれども、
しかし、今後も私からの投稿を真剣に読んでいくならば、
あなたにもその内、追々と意味が分かってくるでしょう。 『心の中であらゆる方角をめぐってみても、自己よりもさらに愛しいものにめぐり会うことはなかった。
そのように他の人にとっても自分がとても愛しい。それ故に自己を愛する人は他人を害してはならぬ。』
(サンユッタニカーヤ.T,p.75)
『もしも自己を愛しいものとであると知ったならば、自己を悪と結ぶなかれ』。
(サンユッタニカーヤ.T,p.72)
『自己を制して悪を為さず、若いときでも中年でも聖者は自己を制している。かれは他人に悩まされることなく、
また何人も悩ますことがない。諸々の賢者は、かれを聖者であると知る。』
(スッタニパータ216)
『生きものを(みずから)殺してはならぬ。また(他人をして)殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害す
るのを容認してはならぬ。世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、すべての生きものに
対する暴力を抑えて──。』(スッタニパータ394)
『すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身をひきくらぺて、殺してはならぬ。殺
させてはならぬ。すべての者は暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。已が身にひき
くらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によっ
て生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。生きと
し生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せ
をもとめているが、死後には幸せが得られる。』(ダンマパダ10:129-132) 以下、辞書から
【五逆罪】
(1)母を殺すこと,(2)父を殺すこと,(3)僧(阿羅漢)を殺すこと,
(4)仏の身体を傷つけること,(5)教団の和合一致を破壊することの5種の罪をいい,
無間地獄(絶え間なく苦痛が襲い続ける最悪の地獄)に堕ちる罪であるから〈五無間業(ごむげんごう)〉ともいう。
尚、仏の教え(正法)を否定し誹謗することはこの五逆罪よりも重いとされる。
【十不善業道】
身業(身体的実行為)
殺生(殺人、及び故意に生き物を殺す)
不与取(盗み、与えられていない物を自分の物とする)
邪淫(不倫、道徳を逸脱した関係の性行為)
口業
妄語(嘘をつく)
綺語(飾った言葉でへつらう)
粗悪語(暴言を吐く)
離間語(他人を仲違いさせる)
意業
貪欲(激しい所有欲を抱く)
瞋恚(激しい怒りを持つ)
邪見(善悪の業報と輪廻等を否定する見解を持つ) >>499
「三世因果」とは、
人間には前世(過去世)・現世(現在世)・来世(未来世)
の三世に渡って因果律が伝わっていることをいう。
もちろん、ゴータマ・ブッダの基本的で最も重要な教えです。
仏教の根幹部分です。
>>273-275などに紹介した経文を読めばわかります。 >>489
個々の行為と出来事というのは、
その当事者の意図、つまり、故意であったかそうではないかによって大きく違うでしょう。
故意でなくとも相手が死んでしまえば、人が死んだという殺生の事実は確かなこと。
ただし、故意ではなくてただの事故的な結果であれば、それは最小限のものであろうし、
態とであれば大きな罪悪です。
「自衛隊」についていえば、
自国の安全を自己責任において防衛する手段としては正当なものでしょう。
ただし、使用せずとも相手を殺傷する道具の所持という意味での最低限の罪を背負うかもしれません。
また法律との関係でいえば、法律違反と知りつつであれば偽った行為としての罪は負うかもしれず、
そうとは思わないものであったとしたならば、殺人兵器の所持に限定される罪か...。
これは例えばの意味ですが、そのような微妙な判断が実際には作用するのではないかと思います。
商法がらみもそう。目的と意図と手段の総合的な結果で決まるのでしょう。 しかし、この私がどうにも疑問でならないのは...
例えばパーピマンのような今時、珍しいくらいの頑な思考状態の唯物主義者というのは、
実際に自分の愛する家族の、つまりは母親とか息子とか...、
或いは、妻や結婚を誓いあっていた恋人とかが突然死しても、
その死者に対する冥福を祈る心はないのだろうか?
ということ。
なんとなれば、
彼らの考え方というのは、人間は死ねばそれですべてが終わりなのであり、
死者はただ単に、自然界の物質的な各諸元素へと還元するだけに過ぎないというのだから、
これにはまったく以て、恐れ入る。
祈りを届ける相手の主体(パーソナリティ)はもはや何も無いといっているのだから、
当然、慰霊などという考えも無いから死者供養もなされる筈もないということ。
こんな人間ばかりだと世の中たまったもんじゃないと思う。
葬儀通夜、年忌法要などでも、
見た目だけでは同じくお線香や供物をあげたり、そして、手を合わせていようとも、
そんなものは社会的なマナーに沿ってただ慣習に従っているだけでしょう。
つまり、心の無い外見上の形にしか過ぎない。
そもそも唯物主義者というのは、
仏典から見てもわかるようにゴータマ在世の当時からいたものですが、
しかし、このような思考が人類の価値観の主流となったことは歴史上ただの一つもない。
唯物論が近代以降の社会でピークだったのは、産業革命の時代。
人々は科学の発展こそが、人類をより豊かで便利な生活を提供するものとして信奉したのです。
たしかに、科学は我々に多くの便利さをもたらしたが、また同時に多くの苦悩と問題を生じさせてきた。
それは人類の存続すら危ぶまれる事態となった...。 それから、
こういう人達から見たお仏壇の位牌などというのは、一体、何として映るのだろうか?
こんなものは所詮、儒教的価値観と道教経由の祭祀からきた祖霊崇拝と見るだけのことか?
巷の仏教解説ではよく、
インドの宗教では輪廻の生まれ変わりを説くから、
ヒンドゥーにおいても仏教においても元々、「先祖供養というのはない」などと平気が書かれてあったする。
しかし、これは大間違い。
ヒンドゥーにおいても、
ピトリ・パクシャの先祖供養期間(満月から新月に掛けての二週間)と祥月命日(年一度の月日同日の命日)においては、
現代日本の仏教と殆ど同じようにして、燈明と華と香と供物を捧げて祈り、神と先祖霊を勧請して供養します。
ただ日本との決定的な違いは、お墓を持たないということ。
死者の遺骨は聖なるガンジスに流し、死者の霊魂は存続しているから供養をする。
すでに他の人間や生命体に転生しているかもしれないけれども、これらの供養の行為は無駄ではなく、
効果をもたらすものとされる。
ゴータマも然り。
今日の日本仏教に繋がるような、祖霊への供物を捧げての供養を説いている。
そして、施餓鬼供養が先祖供養へと繋がる大切なものなのだが、
これについてはまたいずれの機会に。
『実に次の五つのしかたによって、子は東方に相当する父母に対して奉仕すべきである。―
「われは両親に養われたから、かれらを養おう。かれらのために為すべきことをしよう。家系を存続しよう。
財産相続をしよう。そうして、また祖霊に対して適当な時々に供物を捧げよう」と。
実にこれら五つのしかたによって、子は東方に相当する父母に対して奉仕すべきである。
また父母は次の五つのしかたで子を愛するのである。すなわち〔1〕悪から遠ざけ、〔2〕善に入らしめ、
〔3〕技能を習学させ、〔4〕適当な妻を迎え、〔5〕適当な時期に相続させる。
実に子は、このような五つのしかたによって、東方に相当する父母に奉仕し、また父母はこれら五つのしかたに
よって子を愛するのである。このようにしたならば、かれの東方は護られ、安全であり、心配がない。』
(シンガーラへの教え/善生経) >>224で投稿したように、
ダライ・ラマ14世というのは転生者の典型例であって
(だからこそ、前13世の転生者として認定されたのです)、
子供時代には実際、前13世当時の記憶を保持していたといわれているのです。
それだからこそ、厳しい転生者探しの厳格なテストにも合格して転生者として認定された。
なのに...
神社仏閣板スレの投稿54の、
ダライ・ラマが「私自身は転生してるのかどうか確信がありません」
などと語ったなどということは到底、常識では考え難い話です。
もし読めるものならば、是非ともその出典を知りたいところです。
そんな話は聞いたことが無い。 それから>>437で、
私は彼のことを「断見」と「邪見」とに陥っている、と指摘したけれども、
これは根本煩悩「五見」中の「辺見」(本来、「断見」の意味)と
十結煩悩の「無明」(「邪見」と俗念に妨げられて真理を理解することができない無知)に該当するもの。
更に言えば、彼はもう一つ「十結煩悩」中の「五下分結」煩悩である「疑惑」を犯している。
これは、ブッダであるゴータマの教えそのものに対して、常に“疑惑の眼”を向けることをいう。
これはつまり、
ブッダが倒れて最後に亡くなられるまでの45年の間、一貫して説き続けてきた聖なる教え、
そして、その後の二千五百年間も弟子たちが命懸けで継承してきた大切な教えである仏典経典の記述を、
己れの勝手未熟な判断から、単なる神格化や迷信、後代の付加挿入に違いないとして決めつけて素直な心を開かないこと。
この「五下分結」煩悩中の三結、つまり、「身見」「疑惑」「戒取」を断じないで人生を終えた者というのは、
死後に“三悪趣に堕ちる”可能性が非常に高いとされる。
三悪趣とは、すなわち「地獄」「餓鬼」「畜生」の三界のことをいう。
三結を断じた者は聖者の流れに入るので「預流」ヨルといい、「須陀洹」となる。
更に修行者は数回の転生を繰り返しながら、「斯陀含」「阿那含」の境地を経て、
最後には遂に「阿羅漢」となる。
http://way-to-buddha.blogspot.jp/2011/05/blog-post_2482.html wwwwwwwwwwww
まあ、なんていうかねw
後代において仏教に混入したヒンドゥー的価値観を仏教の本義と勘違い
するバカは、いつの世にも絶えないんだがww
釈迦は、「我が弟子は、葬儀などに関わるな」とはっきりいってるのだがww
世俗的通過儀礼は、インドにおいてバラモンが取り仕切っており、仏弟子たちはノータッチ
だった。少なくとも釈迦在世のころはねw 葬式も含めてw
それが時代が下るにつれ、ヒンドゥー的儀式の混入により、仏弟子たちも関わるようになっていったの。
最もいけないのはカッサバなんだがww
とくにそれが顕著になるのは、仏教がインドからアジアに広まるにつれて、その生活習慣から
葬式にか関わらざるを得ないように変遷していったのw
(その辺は、渡邊氏と奈良氏の考察参照w)
先祖供養についても、勿論、釈迦は「否定」はしてないw
釈迦は決して土俗信仰を否定することはなかったw(それはトラブルを避けるためにねw)
釈迦の教説をきちんと理解すれば明らかなように、先祖供養においても
⇒「世俗のレベルにおいて、その習俗の範囲内で推奨している」にすぎないのw
これは、世俗の人々において、「妻を愛し、子を愛し、幸せな家庭を築きなさい」と教えているのと
同様ですw つまり、一般世俗倫理として説いてるのw
地獄などにおける言及も同じw
倫理的要請において、それを方便として説いているに過ぎないw
アホはそれが、わからず、「釈迦は・・・・・・を説いていたああああ」とやるww
⇒「仏教はダブルスタンダードなり」・・・・・・・ホントこれが分からんバカばかりwww >>511
>釈迦は、「我が弟子は、葬儀などに関わるな」とはっきりいってるのだがww
いやそれは、
“出家僧は修行に専念すべきであるから”という意味であって、
それは葬儀そのものに対する否定ではない。
当時から、祭祀(葬儀含め)はバラモン司祭を通じてなされればそれで良いものとされていた。
そして、そのバラモン司祭に布施することで先祖(死者)供養になると説いた。
そもそも仏教における葬儀というのは、“ゴータマ自らが父であるスッドーダナ王の葬儀を執り行ったこと”に起源する。
まったくヒンドゥー教の混入などの原因ではない。
日本仏教界の一般的僧侶たちはまさに現代の日本バラモンです。
彼らに布施をして、葬儀と年忌法要を営むことは先祖供養のゴータマの教えに見事に合致する。
>釈迦は決して土俗信仰を否定することはなかったw(それはトラブルを避けるためにねw)
> 釈迦の教説をきちんと理解すれば明らかなように、先祖供養においても
>⇒「世俗のレベルにおいて、その習俗の範囲内で推奨している」にすぎないのw
そんなテキトウなものではなく、
これは具体的な内容でも以てゴータマ自らが指示したものです。
あなたは知らないのでしょう!
>地獄などにおける言及も同じw
>倫理的要請において、それを方便として説いているに過ぎないw
確かに、
地獄界の描写はやや脅し的な道徳的方便の可能性が高いかもしれないとは思うが、
来世における苦しみの転生こそ、まさに生き地獄の生存(生涯)となるのは必至。 死後転生するとか因果とかカルマとかはインドで古くから言われてたことだろ
ジャイナ教でもヒンズー教でもヨガでもみな同じこと言ってる
なのになんでそれを「仏の教え」と勝手に言い換えて仏教がオリジナルみたいな横取りをするのか
ゴータマが説いてる内容も過去の誰かがすでに説いたことで瞑想や座法を編み出したわけでもない
全部ゴータマ以前の誰かがすでに受け売り
本当に称えられるべきはそれを発見した人じゃないのか
なんで功績や名声の泥棒みたいなことしてんの?
仏教が新発見したことなんかある? ×全部ゴータマ以前の誰かがすでに受け売り
○全部ゴータマ以前に誰かが言ってたことの受け売り 513.
新発見の問題ではない。
その内容が問題となる。
その真否の問題である。
宝珠はバカ丸出しである。 >>502
「清浄で超自然的な天眼」とは?
「地獄」とは?
「天界」とは?
地獄は苦しみに満ちたこの世のことを例えて言うこともあるのでまあこれ以上つっこまないとしても天界は放置できない
天界といったらもう完全にこの世のことじゃないですね
そこはどこにあってどんな仕組みで成り立ってる世界なんでしょうか具体的に?
>>503
人間はみんな動物殺して食べてますがそれが悪で菜食主義が善だと? >>503
>諸々の賢者は、かれを聖者であると知る
賢者とか聖者と言うのは誰によって認定されるんでしょうか
経典が説く賢者と愚か者、聖者と一般大衆、善人と悪人、これらを分ける明確な境界線はどこにありますか 517.
それは、その内容による。
その内容を判定せよ。 >>504
「五逆罪」
僧を殺すのが普通の人を殺すより重い罪で無間地獄におちて仏教を否定するのがさらに重い罪?
殺されたのがキリスト教やイスラム教やヒンズー教や神道の宗教関係者だったらどうなるんでしょうか
これ仏教の僧の命だけが他より特別で重要だからとりわけ優遇され特別扱いされるって言ってますね
>>510
「十結煩悩」中の「五下分結」煩悩である「疑惑」
仏の教えを疑うのが煩悩?
これらはどう見ても仏教徒が自分本位な特権意識で勝手に定めた私心に満ちた創作の罪にしか見えませんが
本当に自然の摂理とか法(ダルマ)と呼ばれる公平無私な存在がくだした判定なんですか?
>死後に“三悪趣に堕ちる”可能性が非常に高いとされる
何パーセントの確率で?
こういうのって仏教徒が自ら十不善業道と定める「妄言」に該当してませんか >>509
チベットの人達は本当に気の毒だと思いますが迫害されるっていうのは前世でどんなことをしたんですか
ダライラマ14世だけに限れば前世もダライラマでそのまた前世もダライラマでずっとダライラマであることがわかってんでしょ
歴代ダライラマがどんな悪行を? >>503追記
参考:
『これは、99人ともいわれている連続殺人を犯した恐ろしい殺人鬼、盗賊アングリマーラ(指の首飾り)が仏陀
の弟子になった物語です。
アングリマーラは何十人束になっても適わなかった自分のところへ、人々の制止も訊かずに平気で向かってくる仏
陀を自分の100人目の生贄として狙うことにし、その背後へと回った。仏陀に迫ろうとして全力で進んだが、何か不
思議な力を発揮していて、普通に歩いている筈の仏陀には遂に追いつくことが出来なかった。その不思議に驚嘆した
アングリマーラが、立ち止まって仏陀にも同様に立ち止まるよういった。
ところが仏陀から返った言葉は、「私は常に止まっている。止まっていないのはお前の方だ」という奇妙なものだっ
た。その真意について再度、訊ねた時の教えで深く感銘して弟子入りし、後に阿羅漢に達したといわれている。
「アングリマーラよ。如何なる時もわたしは常に、すべての生物に対して害心を捨てて、止まっている。しかしな
がら汝は、生物に対して自ら制することがない。それ故にわたしは止まっており、汝は止まっていない」』
(マッジマニカーヤ86/アングリマーラ経/盗賊の帰依)
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1228627644/97-98 >>504で、
()書きの説明が抜けてましたので、ここに追記します。
・身業(身体的実行為)
・口業(言葉による行為/発言)
・意業(想いによる行為/心の想念)
仏教の説くところによれば、行為による業は「身」「口」「意」の三つであり、
それぞれ何れかの一方だけでもカルマを発動させるものとされます。
従って、社会法律であれぱただ想っているだけで実際にしていないというのは犯罪には当たりませんけれども、
業報というのは、ただ心に想っているだけでも発動します。言葉もそうであり、
ネット上への投稿という手段でも同じく然りです。
直接は云えないくせに、ネット上の投稿だと悪魔のような醜い暴言を語る人も同様にいずれは自分に報いとなって帰ってきます。
だから、分かっていて暴言を吐くのならば、最初から自分で覚悟しておくことが必要です。
>>515>>518の投稿者は、
いつも僅か数行だけの俳句のような投稿によって、
ただ横から茶々入れの邪魔をするだけの人です。
無意味なのですでに相手していません。
尚、パーピマンは熱心によく勉強している方で物知りですが
(進歩はないけれども勉強はしてる)、この人の場合にはそれもなさそう...。
>>513以降のhjNKfsSRに対する返答は、また後日。 >>522
考えたり思っただけでバチが当たるとか?
全ての人間がバチ当たりになるじゃんw
例えば気にくわない人間ぶん殴りたいと思っても
バチが当たるのか?会社によってはそうならないように
ストレス発散用サンドバッグを用意してるところもある。
若くて健康な男なら好きな女と交際する以前に
多少の妄想はするw >>524
バチが当たるという云い方は不適切です。
どこかの誰かがバチを与えているのでもなく、
自然界の摂理として“作用反作用の法則”よろしく同等の力で自分に押し返されるのです。
それからもう一つ。想念というものは、それ自体がエネルギーを持ち自然界に対して実際的な作用をしています。
人類全体の想いが粗暴なものから、もっと優しく清らかなものになれば、
天災による自然災害というのは激減するでしょう。
これを見ているあなた方の中には、
このことを理解できる者は少ないでしょうけれど...。 >>525
すると、人々が正当な怒りでも人を殴りたいとか
若い男女が性的な想像をしたりすることが無くなれば
地震も無くなり、雨による洪水も無くなり、落雷も無くなり、
竜巻も無くなり、台風も無くなり、大雪も無くなり、
雪崩も無くなり、土砂崩れも無くなり、火山の噴火も無くなり、
火砕流も無くなると?冗談でしょ? >>526
何も性的欲求そのものは別に悪ではありません。
ただし、異常に情欲しているのならば様々に弊害が生じますし、
当然、出家僧侶においては修行の妨げになったりするでしょう。
人類の持つ破壊的な想念(と破壊的行為)というのは実際、この惑星の持つ気象パターンを乱して、
ハリケーンや洪水の異常多発を招きます。気象を支配するエレメンタル(精霊)を過剰に刺激するからです。
であるから、自然災害のいくつかは本来ならば起こらずに済んだ筈のものです。
人類全体としての思考の乱れが整えば、それに伴って気象活動も穏やかなものになり、
また、航空機などの機械的な異常トラブルなども減って事故が低減するでしょう。
冗談ではなく、従ってそうです。もちろんすべてではありませんが、
あらゆる気象活動と地殻火山活動は人類にとって穏やかになります。
ただし、この惑星自体の持つ根本的な呼吸的活動でもあるので、発生そのものが止まるわけではありませんが。
今のあなた方では到底、理解は難しいでしょうが、
この惑星というのは、自然界と地表の生命たちのすべてが非常に複雑に、そしてより密接に繋がりあっています。
科学はまだそのことを解明しきれていません。
取りあえずは、「ガイア理論」について知るならば有る程度の理解を援けます。
この惑星は、人類を含めて丸ごと全体で一つの有機生命体のようなものなのです。
『【ガイア理論】 地球上において、大気や地殻などの自然環境と、動植物などの生物が相互に影響し合うことで、
地球という惑星が一つの大きな生命体のように活動していると見なす理論。英国の科学者ラブロックが提唱した。』
(デジタル大辞泉) > 何も性的欲求そのものは別に悪ではありません。
そういえばインドのどこかに四十八手のような
体位でやりまくってる仏像?の彫刻のある寺があったね。
日本にも真言宗立川派とか云うのがあった。
密教系は、むしろ励行、奨励してるんじゃないのw
同意さえあればw >>528
それは、男女交合の姿を描いたミトゥナ像のリレーフなどのことですね。
古代インドの最古の性愛論書『カーマ・スートラ』が元となっています。
(観光スポットです。若いカップルで行くと女の子を赤面させてウケるかもしれません)
仏教の説く修行の妨げという意味では、
本来の出家者は男女の交合などはもちろんのこと、(情欲を以た)意識的な接触は厳禁です。
在家についても節度あるものが望まれ、不倫などは以ての外でしょう。
しかし、仏教の諸派でも後代となってくると、すべての人間生活と営みがそのまま修行となるのだから、
性行為についての避けるのではなくて、これも修行として利用し昇華すべきといった見解がでてきます。
タントリズムの導入というものですが、仲の良い夫婦間だけに留めるのならば問題ありませんけれど、
しかし、行き過ぎた見解と性行為は“邪道”そのものになります。
これはつまり、ただ屁理屈を理由を捏ねて自分の性愛に溺れているに過ぎません。
残念ながら、ごく一部では実際に僧侶が在家信者を自分の性愛のための奴隷にして、
性欲を満たすための単なる道具と化していた歴史すらあるという。
その立川流などは邪教の典型だとされます。 まだ返答の途中なのですが、
あまり文章が溜まり過ぎてもと思うので、できたところから投稿していきます。
>>513-514
仏教枠の中では過去七仏(ゴータマ含む)と称して、ゴータマ以前に出現したブッダの存在を示唆しています。
しかしながら、歴史上の実在を確認できる明確な存在は唯ゴータマのみだということ。尚、この「過去七仏」
の概念を含め、確かに教えの殆どの根本部分は仏教のオリジナルといえるものは殆どないのは事実です。
現僧侶たちと仏教解説が高らかに謳う仏教の誇れる独自性として挙げられるのは、「無我」と「縁起」の二つ。
伝統仏教者はこれを仏教教団の尊厳を掛けて死守しようと必死になりますけれども、しかし、この二つにおい
てもそんなに威張れるほど突出した独自性とはいえません。
まず、「無我」についての伝統仏教の理解というのは完全に教えの継承ミスで生じた勘違いです。
本来は、“アートマンは無い”という意味での否定意などではなかったのであり、部派の時代に生じた間違いが
そのまま今日まで継承されてしまったものであることを近代仏教学が明らかにしています(今ではそれが定説)。
また、「縁起」こそが仏教独自の思想であると一般的には説かれるのですが、これもヴェーダーンタ哲学とも大
して違いがない。ただ単に決定的な差異としては、ヴェーダーンタでは事象の生起と変化は神の存在に拠るもの
ですが、仏教では表立って神の存在を語ることをまったくしていないところが違います(平均的仏教徒の多くは
ゴータマは神を説かなかったといい、神の存在を設定しないのが仏教であるものと見なしています)。
しかしながら、実際にはゴータマ自身は神の存在を明確に認められているのです。ただあまりにも当たり前過
ぎる話だから、仏教ではいちいち扱うことをしないということに過ぎないのです。何故なら、仏教の修行では神
への信仰という手法形態は採らないからです(『サンガーラヴァ経』)。 ということで、あなたのこの指摘については私個人は有る程度は認めます。しかしながら、伝統を保守する仏
教徒というものは、バラモン・ヒンドゥー教に対する異常なアレルギーを根深く持っているので、そのような事
実が認めることはまず殆どといって皆無です。認めてる部分というのは、仏教史上における“大乗のヒンドゥー
化”についてだけです。
仏教徒がブッダを過剰に尊大視する心情は容易に理解できることですが、それでも尚且つ、仏教における人間
の転生についての教えはバラモンたちからの受け売りなどではなく、ゴータマ自らがその大いなる超常的能力で
直接に確認したものであり、その人間転生の詳細な内容は仏教独自のものといわれています。当時のインドにお
いてもこのような具体的な中身の伴った転生の教えはなくて、「五火二道説」(「祖先の道」月に行き→雨→穀物
→男性の精子→受胎転生と人間界には戻らない「神々の道」の二つの輪廻)といった迷信的な内容のものでした。 >>516
>人間はみんな動物殺して食べてますがそれが悪で菜食主義が善だと?
通常の人間は皆、自分の生存のためには他の生物を食する必要があります。
これは自分の意志や希望の如何に関わらず、基本的には避けることのできないことですから、
このようなことを人間として生を受けたことの必然的な業の一つということになります。
では、何を食べることが仏教的に教えとして説かれているのか? というと、
まず第一前提としては、殺生と非暴力の観点から見て必然的に動物ではなくて、
植物(野菜と穀物/果物類)を摂取すべきということになる。
何故ならば、“苦痛を与える”という意味において動物というのは植物の非ではないからです。
植物は根本的に動物とは生命形態が異なり、動物のような意味での苦痛はありません。
以前に、“生命はすべて平等で尊い”ものだから、
植物と生きた動物を釜茹ですることにはまったく違いなどはないといい、
人間と動物のいずれか一方の命しか助けられない場合でも、
それはどちらも同じなので選びようがないなどと抜かした基地外がいましたが、
このような人というのは、トンデモない誤解と錯覚で混乱してる人です。
たとえ命という意味では等しくても、苦痛の感受においては同じではありません。
それは当然、植物→原生動物→高等生物→四足動物→人間という順になる。
つまりは生命形態のより高度なものほど殺生し難い存在であるということ。
なので、仏教的には菜食主義(ベジタリアン)がより推奨されます。 尚、肉を口にすればするほど地獄へとまた一歩、そして、また一歩と堕ちて行ってる...
とまでナーバスになることはないと、私からはいっておきます。
狂信的な信奉者は本当にそのように考えたり、相手にもそのようにして説くかもしれませんが、
できれば肉食を止めさせたいがための道徳的な方便です。
人類が進化の過程において、その生存における食生活の中で肉も食べてきたのはごく自然な流れです。
そのことそのものは悪ではありませんから。
ただし、動物を殺生しない方が良いと理解した方にとっては菜食生活は奨められるべき理想となると思います。
あまり、狂信的にならないことです。
尚、仏教においても布施されたものは有難く受けることが推奨されているということと、
「三種の浄肉」については食することが認められています。
この「三種の浄肉」とは、
『仏教の修行者 (比丘) が食しても戒律違反にならない3種類の条件を満たした肉。ある比丘が肉を施されたとき,
その動物が,自分に施すために殺されるのを見ず,自分のために殺されたのであると聞かず,自分のために殺された
のであるという疑いがない場合に,その肉を食べてもよいとされる。』
(ブリタニカ国際大百科事典)
残りはまた後日...。 いくら文献読んでも嘘が書かれていたらそれを読んだみんなが間違うんでそれを避けるためにも信じないことにしてる
いっぱい情報書いてくれるのはありがたいけど
結局事実を知りたかったら自分でなんらかの神通力的な力(これも半信半疑だけど)を得て直で確認するしかないんですかね
でもこっちの方面もオウムみたいにインチキの温床になってるからなー >>534
あなたが、「これが正しいことかの判断つかない」というのであれば、無理に受け入れる必要はありません。
ブッダ自身がいわれたことですが、「自分自身でよく確認しなさい」ということを言ってるわけです。
ただ盲目的に受け入れるのではなくて、その内容をよく吟味することです。
多くの若者が騙されたという当時のオウム教団のことだって、
私のように、これは本物ではないなと分かる人には簡単に分かることですから(唯物主義者の判断理由ではなく)。
麻原の空中浮揚の写真だって、あんなものは飛び跳ねた瞬間の画像であることなどは
髪の毛の動きと乱れ(そして、歪んだ顔の表情など)からも一目瞭然でしょ。
第一、もしも本当に本物の覚者に近い高度な聖者であれば、
あのような「神通力の獲得イコールにて解脱の境地ステージである」などという教え方はしないでしょうから。
つまり、比較が大事です。まっ、皆んな無知過ぎるからから比較のしようもないか...。
とにかく、分からないのならば無理に飛びつく必要はありません。
仏教の教えは、ゴータマ・ブッダ自らが自分で直接に体験して確認した内容です。
そして、弟子たちもその教えに従って実践していく中でその正しさが確認されてきたものです。
そのようにして二千五百年間の永き間、今日まで命懸けで継承されてきたものです。 >>535
補足:
>あのような「神通力の獲得イコールにて解脱の境地ステージである」などという教え方はしないでしょうから。
>つまり、比較が大事です。まっ、皆んな無知過ぎるからから比較のしようもないか...。
私は当時から知っていたことなのですが、本物の覚者というのは、
クンダリーニの上昇と覚醒の仕方といった事柄を入門者や弟子に指導することなどはないですから。
そういうことを指導する導師(指導者という意味合いにしか過ぎず、教えの正しさは保証されない)というのは、
ただそれだけで覚者やそれに近いレベルではないことの証明となるのです。
極意は、「識別」(仏教では「七覚支法」の念覚支の修行)にある。
無知な者たちは、
「それは凄いなぁ〜♪」といって群がる、と。 経だけど、たくさんあるんですよね?
お釈迦様の教えに食い違いや二枚舌は
ないんでしょうか?何故なら日蓮宗系
は法華経こそ、お釈迦様の最高の教え
あるいは、これこそ唯一の教えとか言ってますよね?
すると他の経は、どうなるのでしょう? >>537
何を信じようとも確かに自由ですよ。あなたも。
“法華経こそが最高なんだ”と主張する人々も大勢います(その信奉者たち)。
しかし、これだけはハッキリとしています。
つまり、
歴史上における実在した釈迦族の王子であるゴータマ・シッダッタについて、
その生涯と彼の周辺に起きた出来事、彼自身によって説かれた教えについて知るのに、
「原始経典」に拠らないで研究する学者というのは世界中どこを探してもまったくの皆無であるという事実です。
これを「大乗非仏説」といいます。
私も同じくして、原始経典>>487のみを仏教経典として扱います。
それ以外のすべて、つまり法華経を含めた大乗諸経典群のすべては仏教経典とは見ていません。
そこに登場するお釈迦様の話は創作が多いので、まったく信用には値しません。
大乗諸経典は、後代になってから勝手に創作されたものです。
だから、私はまったく読みません。
『文献学研究の結果では、時代区分として、初期仏教(原始仏教)の中の仏典『阿含経典』、特に相応部(サンユッタ・
ニカーヤ)などに最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、少なくとも「大乗
仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献学者はいない。
-----------------------------------------------------------
大乗経典は口伝伝承を前提としていないため暗記を容易にするような、単純な文を反復するという構成ではなく、その
内容も哲学的なものも多く、明らかに文伝を前提とする文章構造になっている。文献学的観点からは文伝を前提としてい
るのが大乗で、口伝を前提としているのが小乗である。
口伝伝承されており、その発祥時期も大方は明らかになっている小乗の経典に大乗の教えが見られない自体が大乗は口
伝で伝承されず、発生時期が小乗以後であるという文献学の根拠ともなっている。
大乗の経典を否定する上座部仏教の主張では、上座部の一部が経典を文字化した理由は大乗経典のような勝手な経典の
創作からこれまでの経典を守るためであったとされている。』(Wiki) >>517
仏教の説く聖者としての明確な基準は、「須陀洹」(預流果)の境地に達することをいいます。そうすれば“聖者の流れ”に入った
ことを意味し、もう二度と三悪趣(地獄・餓鬼・畜生の三界)に堕ちることがありません。しかも、あと7回程度の転生経験を経て
ゴールであるところのニルヴァーナ(涅槃)に入ることが保証されます。
須陀洹(預流果)とは、十結煩悩における五下分結の三結を断じた者のことです。つまり、「身見」(五蘊を自己とみなす見解)、「疑
惑」(ブッダの教えを疑う心)、「戒取」(誤った戒律・禁制への執着)の三つの煩悩を絶ったことを意味します。
ごく一般の普通の人々というのは、この身体と感覚と想いは自分自身であると、自分のものであると見なしています。 しかし仏
教の説く真理ではそれは真っ先に否定されます。それらはいずれも真実の自己ではなく、自己のものでもありません。この想いが捨
てられない限りは聖者にはなれません。
>>519の投稿者はこの煩悩「疑惑」のことを、“仏教徒が自分本位な特権意識で勝手に定めた私心に満ちた創作”だろうとして批難
していますけれども、しかしながら、師であるゴータマの教説に対して疑う心を持っていながら、それでその教えを修得できる筈が
ありません。当然のことですよ。この疑惑を持っていては聖者にはなれない。
仏教の真理を否定するということは、その人の想いの中が煩悩に支配されているからなのです。そういう人は絶対にこの教えは受
け入れない。「戒取」は、教えとはまったく異なるものに対して固執し、そこから離れようとしないのだから進歩がある筈もない。
次の「斯陀含」の境地に成れば、あと一回だけの転生経験で悟りへ到達できます。だから「一来」ともいう。更に、「阿那含」の
境地であればそのまま再び人間界に転生する必要はなく、死後に天界を経てから悟りへと至る。だから「不還」ともいう。そして五
下分結に加えて、五上分結のすべて、つまり、十結煩悩を完全に断ずれば「阿羅漢」と呼ばれる完成者となります。
>>325-326には、そのことを説いた経文『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』を投稿しています
参考サイト:http://way-to-buddha.blogspot.jp/2011/05/blog-post_1655.html 「聖者」とは仏教の教えを修得し三結以上の煩悩を断じた者のことであり、
「一般大衆」とは仏教の教えを知らずに生きている人々全般です。仏教では「凡夫」などといいます。
「賢者」とは、仏教的にみて正しく物事を判断できる人のことをいいます。
それから当然、仏教の説く道徳において悪行を為した者は罪人だということになりますが、
尚且つ、意識的に罪悪を継続する者は「悪人」と呼ばれることになるでしょう。
仏教の説く罪悪の基本は、我が身に引き比べて相手に対するということですから、
簡単な日常言葉でいうと、自分の嫌なことは相手に対してもするな。
自分にとって嬉しいことは相手にもしてあげようとなる。 >>519
>「五逆罪」
> 僧を殺すのが普通の人を殺すより重い罪で無間地獄におちて仏教を否定するのがさらに重い罪?
>--中略--とりわけ優遇され特別扱いされるって言ってますね
これは以前にも述べていますが、
前世の記憶も無いのに非業な死を遂げたり、生まれつき五体不満足であったりといった業報の作用。
たとえ生れつき自分のしたことを忘れていたり、もうすでに今は仏弟子となって清らかな修行に打ち込んでいようとも、
それでも過去世(前世)で自分が犯した罪悪の報いからは、決して逃れるむことができないのです。
このような恐ろしい世界から脱して、もう二度とそのような境地へと堕ちることがないようにと、
そこから脱する為の方法と教えとを説いたものが仏教なのです。
我々は誰でも皆、同じようにして、そのような世界の中で数えきれないほどの転生の生涯を永延とクルクル繰返してきたのです。
しかし、そこからいよいよこうして脱しよう、救われよう...という幸運にやっと巡り遭えたことになるのが、
この仏教との出会いだということになる。
であるのに、
その教えを説かれる如来を傷つけたり、その教えを修得中の修行者である僧侶を殺害すること、
及び、その学びの集いと場所である仏教僧団を破壊する行為が最大の五つの罪に数えられることは当然のことでしょう。
まっ、これは“あくまでも仏教的観点から見て”という断り書きを添えても構いませんけれども、
もしもあなたがこれらの話を認めないのであれば、どうぞご勝手に好きにされればいいことです。
>十結煩悩」中の「五下分結」煩悩である「疑惑」
> 仏の教えを疑うのが煩悩?
上記>>539にて返答済。
>>死後に“三悪趣に堕ちる”可能性が非常に高いとされる
>何パーセントの確率で?
>こういうのって仏教徒が自ら十不善業道と定める「妄言」に該当してませんか
はい、すみませんでした-これは私からの説明が良くなかったと思います。
「三結煩悩を断じた者は二度と三悪趣に堕ちることがない」です。
よって、そうではない多くの大衆というのは三悪趣に堕ちる可能性が出てくるという意味です。
そのことで、何パーセントという話はありません。 >>520
ごめんなさい。
チベット民族の迫害と過去世の因果関係については、この私にはまったく判りません。
尚、この世で受ける苦難の理由は、
その一つは、最も大きな原因として知られるのが前世の悪業による果報です
(昨日のミスで、明日は会社で困ったことになる..というような意味合いではなく)。
そしてもう一つは、
これは一般にはあまり知られていないものとしては“魂の試練”というものがあります。
つまり、成長の為に自ら敢えて苦難を受けるというもので、
この場合は、転生先について自ら選択可能な境地ですから、
ある程度の進化した魂にとってのみ可能なことです。
あと残り>>516は、また後日。 >>537
>お釈迦様の教えに食い違いや二枚舌はないんでしょうか?
ブッダの教えはすべて見事に一貫しています。
だから、経典のどこをどう読んでも矛盾は皆無なのです。
その驚くべき緻密性がまた如来からの教えであることの証明なのです。
そんなことは、普通の人間には絶対に真似出来ない芸当だからです。
あっちこっで同一人物の語った内容に矛盾があるようではお話にならないでしょう。
もし、あっちこっちで異なることを教えてるものと感じるのであれば、
それはその人自身の理解が混乱しているからです。すべては読み手側の問題に過ぎません。
経典に見られる各所の教えの違いというのは、これは対機説法といって
教えを説く相手に応じて合わせたものであり、相手の理解できるレベルにしたものです。
尚、原始経典はすべて一貫していますけれども、
それに対して、やはり大乗経典というのは異なることを主張しています。
中身を見ればわかります。
だから仏教経典はこれを読むならば、
その内容の緻密さと誠実さと真理を求める情熱とに驚嘆します。
説かれる叡智の凄さに引き込まれてしまう。 全ては空って、どういう意味ですか?
因みに般若心経って、大乗?小乗? 因みに自分事ですが創価学会の人間と
空と無の違いについてもめた事がありました。
昔の事なので内容は忘れましたがw まだ現世で事も起こしていないのに生まれながらにして障害を負っている人は偶然だと思うか?死ぬ間際に大量殺人を起こして天命を全うした人間に罰が無いと思うか?答え出てやろ >>546
>まだ現世で事も起こしていないのに生まれながらにして障害を負っている人は偶然だと思うか?
それこそが過去世からの宿業なのです。
過去世で悪い行いをしてしまったということ。
でも障害者であっても清く正しく生きて天寿を全うすれは来世では五体満足で人間界に生まれるか、
それ以上の天界出生も見込めるものと思われます。
>死ぬ間際に大量殺人を起こして天命を全うした人間に罰が無いと思うか?答え出てやろ
その者の来世は地獄界や畜生界などになります。
もし人として生まれたとしても短命に終わるでしょう。 >>544-545
般若心経は大乗経典です。
法華経、阿弥陀経、そして、大乗各派で最も使われてきたのがこの般若心経です。
その通りです。般若心経は「空」について説いている経ですね。
「空」と「無」は本来、まったく異なるものです。
「無」とは文字通り、ただ“何も存在しないこと”ですけれど、
「空」はそうではなくて、すべての存在(有)には実体がなく、
ただ縁起によって今一時の仮の状態を現じているに過ぎないことをいいます。
すべての存在は「無自性」(それは単独で固定的な存在ではない)であるから、実在とはいえないと説きます。
実は、“永遠に不変な存在しか実在とはいえない”というのが、古代インド宗教の伝統的な考え方なのです。
尚、漢訳中国では、「無」が「空」の意味として使われてきた(般若心経のように)という経緯があって、
そのことが本来の「空」と「無」の意味を混同させているのです。 >>538
大乗を否定してる様に見受けられますが
宝珠さんは真言宗じゃなかった?違った?
真言宗は大乗じゃないの? 例えば、突然の交通事故で亡くなる場合は、その不運の場所に自ら居合わせる事はしている。それはいつもと変わらない行動かも知れない。確かに前世の影響はあると強引には言うとする。しかし、それは善悪で言えば全く当てはまらず、普通の人には全く見通すことは出来まない。
或いは癌になることをいえば、人によってはタバコが原因やタバコは全く関係なかったり、人によってはストレスの掛かり方が一個人に原因になっているかもしれない。
人は誰でも、己の場合は何をしたら身の破滅をもたらすのか分からないもの。将来的にはDNAの解析から個別に病気を回避するライフワークを指導されるかも。
善悪を言ったとしても人間の考え付くような類いでは無いであろう。そういえば昔の日本人は、不幸をもたらす行いをケガレ、幸福はハレという観点だったらしい。それでも、個別の状況はまったく網羅できないであろう。 仏教では、悟って仏になれば、突然の不幸など身の破滅の恐れがなくなる不可思議な特徴を言っているのであろう。
副産物の話として、そうした覚者に対し、善いことをすると利益(りやく)があり、非道なことをすると不幸なことがことが起こった実際が伝わっているのであって
まだ悟っていない普通の人は、他人の理不尽な不幸を(自分は大丈夫だと)笑えるモノではないし、前世の報いといっている場合ではない。悟ってないなら、厳しい現実を眼前に突きつけられているのだ。もし自分の状況をしることが出来たら、生きた心地がしないであろう。
仏の事例を凡夫にこじつけるから可笑しくなる。「あいつは、〜にこんなことをしたからこうなった」と言いながら、ざまあみろというのが本音だったりするものだ。釈尊にそんな愚かしさは無い。そういうのがまったく無いから優しい。
経済的に恵まれたり運が良かったりすると、前世で善かったと思ってしまう・・・つまり自分は特別と思うであろう。じつは精神的なものは何も関係なくて、ただ生き残っただけかも知れない。津波で亡くなった方々は、単に海の近くにいただけで、ほんとにそれだけのことならば。
海の幸が嫌いと引っ越していた者もいるだろうし、そうした事情は無数にあるのだろう。しかぢ、冷酷に判断するのも危うい。もし意味付けをしないと心が不安で一杯であろう。
せめて自分のしたいことをしっかり見出だせば、せめて自分の心だけは安心する。それ以前に、前世〜だったからなど、仏の知見を持ってない癖に断言して、人様の心を掻き乱すなら、不幸の報いが起こるのかは知らないが、少なくとも仏になる道から自ら外れてしまう。 >>553
>仏教では、悟って仏になれば、突然の不幸など身の破滅の恐れがなくなる不可思議な特徴を言っているのであろう。
舎利弗と並ぶ釈迦の二大弟子の目連は悟って仏=ブッダ=阿羅漢になったが
その身にある極めて重い宿業を清算することはできずに異教徒に撲殺されたことから
悟った人でも贖うことができない宿業というものはあるのだと思う。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E9%80%A3 >>363
> そして、私は宗門寺院の関係者ではなく、
> また仏教系新興宗教の者でもありません。
> ただ個人的に原始経典を読みつつ真言宗の信仰を実践している者です。
原始経典を読みつつ真言宗の信仰を実践する者ですか? >>516
「天眼」とは、仏教で説かれる六つの神通力(超能力)の内、
完成された如来のみが発揮できるとされる三明(六神通力中の高次三大通力)の内の一つで、
一切衆生の過去世と人間の死後の行き先を知る神秘力のこと。
ある時、
バラモンの中に髑髏を手に持つことで人間の死後を見通すことのできるという通力自慢がいて、
ゴータマの噂を聞きつけやって来て二人で神通力比べの勝負をしたという経があります。
もちろん、ブッダであるゴータマには敵う筈はなく、
ついにバラモンはニルヴァーナ(涅槃)に入った者については見通すことはできなかった。
それができるのは同じくニルヴァーナ意識に到達している完成された如来のみだからです。
この勝負に負けた彼は感嘆して、ゴータマに弟子入りをしたのです。
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1455937876/746 「天界」(天上界)とは“神々の住む領域”ということです。仏教の説く天部の神々、帝釈天、持国天・増長天・広目天・多聞天
(毘沙門天)、弁財天、大黒天、吉祥天、韋駄天、摩利支天、歓喜天(聖天)..などが住む諸天の世界であり、通常におけるこの物
質現象界とはまったく異なる次元です。本来はサンスクリット語のディーヴァ(神)からきており、基本的には人間とはまったく異
なる高次元意識体を意味しますけれど、人間も意識レベルが上がればこの界の住人になることができます。
仏教の説く解脱成仏へ至る階段ステップにおいて、弟子が「阿那含」のレベルに達していれば、死後は再び人間界に転生する必要
はなくこの天界へと入ります(その後、一定期間を経てから悟りに達する)。
そこはどんな処なのか? 天国的なニュアンスに類似してきますけれど、美しい草花が咲き乱れ、美しい音楽が流れていて美し
い女性(天女)もいるとのこと。天部の神々ともなれば通力に長けており、寿命も数億年〜ともいう。ただし、常に幸福感に満たさ
れているのでそこの境地に満足してしまうために善行については行い難く、逆にそこからの進歩は難しいのだともいう(そのため
に敢えて善行のできる人間界へと下る者もいるとか?)。
以下に、ブッダに帰依し熱心な信者としてよく知られた生前のマガダ国王ビンビサーラが、死後に夜叉(神々)となって、ゴータ
マの前に感謝の挨拶をすべく出現したという経を紹介します。
このときはジャナヴァサバ神霊として一来果を目指して修行中だというので、今は仏教の教えを受けて預流向〜預流果〜一来向
の境地のいずれかにいるということと思われる。 『〔仏教信者であった神霊〕
「尊師よ、わたしはビンビサーラであります。尊師よ、わたしがヴェッサヴァナ大王(毘沙門天)の側近として生まれたのは、
これが七度目です。そのわたしは、人間の王(マガタ国の王)としてそこから没して、いま天の中で人間ならざるものの王となっ
ているのです。ここから七度、またそこから七度、あわせて十四回の輪廻を繰り返しつつ、わたしが経てきた前世の、暮らした場
所のあ りさまを、わたしはよく知っている。尊師よ、わたしは、長期にわたり、悪い場所に堕ちることのなかったものでありま
す。・・・ わたしは〈一度だけもどってくる者〉〔一来者〕になりたいと願い続けているのです」といった。
〔世尊〕
「この尊者ジャナヴァサバ(ビンビサーラ王)が、〔わたしは一度だけもどって来る者になりたい・・・〕ということがで
きるのは、実に不可思議にして稀有のことである。では、どのような因縁で、尊者ジャナヴァサバ・ヤッカ(ビンビサーラ王)は、
このような偉大ですぐれた達成を理解できたのであろうか」
〔仏教信者であった神霊〕このヤッカ(ビンビサーラ王)は続けて、このように言った。
「尊師よ、あなたの教え以外にありえないのです。わたしは、〔仏・法・僧に〕ひたすら帰依し信じて以来、長期にわたり悪い場
所に堕ちることのなかったものであります。尊師よ、いまわたしは、・・・・〔地上界の〕尊師が煉瓦(れんが)堂に入り、マガタ人
の在俗信者の問題についてよく思いをこらし、心を集中させて、かれらの死後の行く末、未来の運命を知ろうとし、考えているのを
見たのです。・・この件につき、わたしは〈自分が尊師にお会いして、このことを知らせよう〉と思ったのです。」』
(『中部経典第18経/闍尼沙経(ジャナヴァサバ神霊との対話)』) >>546-548
すると、原因がわかってるケースでは?
サリドマイドで手の無い子供が生まれた
のはサリドマイドと言う薬が原因だが
前世の悪業で、そこに生まれることになった?
まぁ、そういうことですよね。確認のため >>560
失礼します。
横レスになりますが、そういうことになります。
「薬」が原因?...そんなことは馬鹿でもアホでも分かる。
だからそうではなくて、
そこへ自分が生まれたのは必然であって偶然ではないという話をしてるわけです。
前世でそのような非業の目に遭う因縁を自分が作らない限りは、
決してそのような処へは生れてはいきませんから。
人間、自分に合った相応しい処にしか生じ得ないからです。
違う処にはご縁は生じないので。
そういう両親には、
それに相応しい業を持った魂が引き合って転生するのです。
そうではない魂だったならば、その両親の処には転生しません。
一応、これが基本的な考え方となります。
もちろん、個々のケースにおいては例外もあるでしょうし、
実際上はもっと複雑でしょうけれど...
つまり、
人知を超えている事柄なので計り知ることはできませんけれど、
我々のレベルでは、これを一つの基本形として押さえておくということ。 >>554
あのモッガラーナですらも、
過去世の業報からは逃れることができずに撲殺されたという話こそが、
人間の過去世での悪業による果報の恐ろしさについて、
仏教が因果応報を人々に示そうとしたことの真義なのだろう。
と、私は思う。
『人がもしも善または悪の行ないをなすならば、かれは自分のした一つ一つの業の相続者となる。
実に業は滅びないからである。』
(ウダーナヴァルガ9-8)
『悪い事をしても、その業(カルマ)は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。
しかし、来世におもむいてから、悪い行ないをした人々の行きつく先を知るのである。
のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起る。』
(同9-18)
尚、私は仏典における仏弟子たちについての「阿羅漢」
(“如来の十号”の代表的な一つ「応供(アルハット)」と同義)の扱いについては過剰表現とみています。
まず「五百羅漢」というのがその典型的な表現であり、
実際には本物の阿羅漢果というのは十代弟子とその他の数人〜数十人だったのではないか。
また尚且つ、原始仏教における阿羅漢の境地は、やはりゴータマの到達した境地よりは一段低いものではなかったかということ。
つまり、ブッダであるゴータマは阿羅漢に違いないけれども、阿羅漢のすべてがブッダと呼ばれる如来とは限らないのだ、と。
仏典の意図というのは基本、教えを受けた弟子たちもまたゴータマ同様の境地に到達したという前提があるから...。
また、無余涅槃が本当の意味における最終境地であるという部派の理解については、私個人は支持します。 この世は寸分の狂いもなく全てにおいて平等なの、ほんとすこ。 561宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
キチガイだ。
気味悪い。 >>563
その通り。
平等に業報が作用しているからこそ、
ある者は金持ちの大富豪の処に生れ、
ある者は貧困の飢餓の処に生まれ、
そして、またある者は大病難病の遺伝を持つ家系に生まれる(そして病死する)。
であるから平等なのです。
男女の違いでも何でもそう...
すべての物事が同じになっていることが平等なのではない!! > 男女の違いでも何でもそう...
> すべての物事が同じになっていることが平等なのではない!!
男に生まれるのと女に生まれるのと
どちらが上とかあるんですか?
仏教は女性に差別的なところが
ありませんでした?具体的に言え
と言われても今は思いつきませんが
仏教国タイの国技ムエタイは女性は
リングに上がれないはず。 宗教は政治に使われていた時代もあったろうし、すべては過信できないけど
まぁ上も下もないやろなー 無始なる過去世で男や女に幾度も生まれてるのに差別とか何を言ってるんですか。 仮に今回不幸な死に方をしても、今回良い生き方をしていたら良い来世がまっているんだから
平等なのでは?
まあ仏教の目的はその輪廻の繰り返しから解脱することだけど 仏教以外のどんな宗教なら不幸な死に方をした人について納得のいく説明が出来るのだろうか
結局無宗教になるしかないけどそんな人がこの板にはこないだろうし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています