ということは、もういなくなる私(イエスキリスト)ですから
私を覚えておくのには、グッドアイデアなのです。
食べてしまうので形は残らないしね。
パンとぶどう酒は、毎回の食事に出るほどその地域の人々にとって
主食なのです。
食事は毎日毎日、何時間かごとに取ります。
イエス様の真意は、いつも私はあなたがたと一緒にいる。
ではないのでしょか。
大ばあ様が、食事の時に手を合わせてすべてに感謝して神様に感謝するのですよ
と小さい頃から言われました。
一日2〜3食だとして毎日、毎日、食事のタイミングで神様と出会うのです。
他の事に感謝をささげるのは、人によってばらばらになりますが、
人は万民共通して、食事だけは毎日します。

そして、その記念は側近弟子であろうが、関係ない。
ペトロの離反も知っているイエス様なのです。

弟子であるから、教会で受洗したから、信仰告白したから聖餐にあずかれるとか、
イエスキリストに認められ救われた側だとか、
まったく関係がないではありませんか。

ノンクリに対して、人間の考えでとか自分の都合でとか
言われるクリスチャンがおられますが、
そのように言うクリスチャンこそ、自分たちの都合で
作り変えているのではないのでしょうか。
イエスキリストの権威ではなく、人間教会の権威(自分たちの都合)
なのではないのか・・・・。