ここは一さんが「悟り」と「自己」について立てたスレですよね。
乙です。

で、
人間に「悟り」は無いです。だからこその仏法です。
「自己」は対象があって「自己」を認識することでそれも
他者や対象物があってこそ。
人間の目でこの世を見るには人間の目で見るしかないです。
色を見るのも人間の視力によってですがそれも頼りない。
人間以外の生物が見る世界とはまた違ったものです。

つまり、色眼鏡で仏法を解釈するのが人間です。
お経には色についても詳しく書いてあります。

>金・銀・瑠璃・玻?合成せり。上に楼閣あり。
>青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて微妙香潔なり。

また、

>白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥なり。

阿弥陀経では上のように浄土についても説かれています。
このような世界が見えるのは人間に生まれて死を感じてからでないと
わからないし感じとれないことです。
つまり生死は同じなのだが生ばかりにかまけて何も見えてないのが人間ということ。
死んでもどこへも行かず、形を変えて存在し続ける、また、してきたことがわかれば
悟る必要もないし、ここも安楽国だったと気づくのではないでしょうか?
動植物、この世に有るものを見ていても何も不満も言わずただこの世を荘厳する為に
繰り返し絶やさず存在している。
人間もその一部であると思うのですが

「悟った」とか言い、嘘をつく人は何がわかったのか聞いてみたいものです。