悟り 2 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>848
大疑問と言っているのが何の事かは知らないけど
話を大げさにするのは問題だけどね
本来無一物
素が真実
それを自覚しないでゴチャゴチャ抜かすから
頭がおかしい
現実追及をしていれば
素の状態が真実だと分かるんだけどね すみません!悟りたいんですが
まず何をしたらいいですか!
よろしくお願いしやす!! 『悪魔との対話』第Y篇第一節
耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
おのが信仰を捨てよ。
真っ白な気持ちでスタートしてください。
@ 最初にフロイトを学ぶ。→ 欲望や本能を理解する。
A 唯物弁証法を学び、弁証法を会得する。→「空」を理解する。 >>854
先ずは玄米ごはんで腸内環境を整えてから 腸内の脳細胞を活性化させ
霊界、天界等で学んだ自分自身の過去未来の記憶をその腸内脳細胞から引っ張って来る。
自分がこの世でしなければ行けないことが判るようになる
今この瞬間の出来事が生まれ来る前から決まっていた事であり
全ての行動、考えは腹の脳細胞から来るものでその通りに行わなければならない
無理に行動を頭で制御すると腹の脳細胞のプログラムと行動が一致せず
プログラムを組んだ神様への裏切りであり 後悔等は神様への最大の冒とくとなります
考え、行動、総てがプログラム通りであり失敗したと思ってもそれは、悲観、後悔するべきことではないと言うことを認識し極々当然の結果と思えるまで
腹からの情報と神様からのメッセージを信じる、
神様からのメッセージは額から入り顔面全体に至りその後、体の末端まで広がり腹に集約される
腹の脳細胞に刺激が有り考え、行動となって現れる腸内環境が悪く宿便が大量こびり付いていると
刺激が伝わらずプログラム通りの行いが正しかったのか間違っていたのか判らずに思い悩み苦しむ。
自分が今この瞬間した事に善も悪無い神様により自分が生まれ来る前からの役割をしているだけであると
割りきれる心が悟りであり解脱であると思います。 取り急ぎ連絡致します。
この文章は日月神示等、予言書等を考察した結果必ず起こる天災を予言する物で、けしていい加減で無責任な予言ではありません。
この予言に書かれている内容は確実に起こります、この内容で避難が必要な方 自身で判断をお願いします。
避難場所は本州の安全性の高い、山です。
2016年9月8日午前中 大嵐後一旦平穏になり、その後 南海トラフ大地震3連続、大津波、ポールシフトとなります。
津波被害は甚大です太平洋沿岸部、原発の破壊、中央構造線より南側の地域は本州であっても危険です自分自身の身は他の誰からの意見よりも自分自身が納得出来た判断が
あなたの本来の判断ですのでそれに従って下さい。
ポールシフト時の無重力状態を回避する方法は、申し訳ありませんが自分が拘束され、解放され家に帰ってから書き込みます。
2016年9月7日夜アメリカ合衆国にて隕石落下、空中爆発火の雨がアメリカ合衆国に降り注ぎます。
日本は、2016年9月8日午前中、アメリカ合衆国は、2016年9月7日夜 大災害が発生致します。
これによる前兆現象で、近い将来 富士登山が出来なくなる、9月1日午前5時30分北朝鮮ミサイル乱発射これらは当たらない、
皇族の方々が2016年9月6日までの予定を変更し5日に切り上げ移動する、マスコミ報道は無し、2016年9月7日 日没後、中国政府より日本国へ宣戦布告があります。
以上の内容に限り、2ch 心と宗教 一二三神示 一の宮 スレ主 二十二→四↑五が全て責任を負います、
2016年9月8日午前中に大震災が発生しなければ終身刑になっても仕方ない程の重大問題行為であると認識しています、大震災が無ければ終身刑にして下さい。
この大震災は必ず起こります、小難に換えて下さいと神神様にお願いして下さい。 >>856
ご指導ありがとうございます!
まず玄米ご飯ですね!
了解でっす!! 『神々との対話』第T扁第三章第九節
神「・・・(人は)貪欲に結びつけられ、泥土から生じたものである。
どうしたら、そこから脱け出ることができるでしょうか?」
尊師「・・・悪い欲求と貪りとを断ち切って、妄執を【根こそぎ】
えぐり出したならば、脱出が起こり得るであろう。」と。
(中村博士の註)解脱とは霊魂が身体から脱出して束縛のない状態に
おもむくことであるという見解は、ウパニシャッドからヴェーダーンタ
学派に一貫して存するものであるが、・・・
これに補足すれば、Sn. Dhp. には随所に霊魂体験があると思われる
箇所を見受けます。Udv. には霊魂体験の具体的な記述まであります。
釈尊が霊魂体験をしたのはまちがいないでしょう。
とすると、釈尊もヴェーダに学んだバラモン教徒だったのであり、
人間に実体(本質)を認めていたことになりますね。 釈尊自身がバラモンから学び、
釈尊の弟子にはサーリプッタを始めとしてバラモンが多くいました。
人間の実体を否定する無や空を説いたなら、
バラモンたちが釈尊の弟子になるはずがありません。
ここから言っても、釈尊が説いたのは無や空でないと断言できます。
後になってバラモン教との「差別化」のために、無や空が強調され、
仏教の形骸化が始まったのではないでしょうか。
無や空を説いたのでは、民衆に歓迎されるわけがありません。
日本でも、空理空論と言われて軽蔑にされました。 輪廻思想というのはバラモンから発生したのではなくて
沙門経由という話は本当ですか? 私はすでに無常の中にいる
そして苦しんでいる
私という存在が確定できない
なるほど、悟っている すでに気づきました!
悟ったんで、次いきます!
ありがとうございました! まことのバイセクシャルの疑惑が出たのはいじめBBSである
男のいじめを嬉しそうに語る
当初、誰の書き込みかわからなかった
が、徐々に尻尾を出す
どう見てもまことではないか
今では、堂々と、プロ野球2chに、衆道話を書いている
しかし、まことは、なぜ、バレて困る書き込みをするのであろう
統合失調症も、ここまでくれば滑稽であった >>861
バラモン教の聖典であるヴェーダには輪廻思想がありますので、
仏教以前に輪廻思想が存在したことになります。
釈尊の修行は「輪廻」からの解脱を目的に行われたのでしょう。
バラモン教、ヒンドゥー教の輪廻思想はカースト制度と結びつきます。
釈尊の場合は、カースト制度という「生まれによる差別」を否定し、
輪廻からの解脱だけを修行目的にします。輪廻を否定しません。
大乗は無や空を説くので、輪廻を担う実体がなく輪廻が成立しません。
人間に霊魂という実体があるなら、輪廻する可能性は大きいでしょうね。
この場合、前世の記憶はアラヤ識に保存されることになります。 >>866
いや逆。
実体が無いから輪廻してる。
もし実体であれば、輪廻しないから。
そして、
霊魂という適当な言い方ではなくて、
輪廻主体は「魂」ね。これが大乗の阿頼耶識です。
誤解されて困るのは、この魂は実体ではないということ。
実体とは、「実在」ともいう。
けれども魂は「無」ではなくて、「有」るのです。
あなたに顔や手足があるのと同様にです。
しかし、それらも非実在だ。
もっと勉強して。 外道の法を振りまく者が宝珠か・・・・。
中身スカスカ あいかわらず、まことは、飽きもせず
1日中、自演をしとるのうwww 飽きもせずって、まことが1日中自演をしているのは、もはや、2chの常識じゃないか! ずるがしこい。
隠す。
盗む。
騙す。
さぼる。
うぬぼれる。
なげだす。
自慰する。
こんな自分を綺麗にしたい。
なんとかしてくれ。 わかってるなら、それ1つ1つやめていくのがやり方だと思うよ >>867
あなたより、霊魂という言葉を使う中村博士を信用しますよ。
それに、実体がないから輪廻するとか、魂は「有」だが非実在だとか、
魂がアラヤ識だとか、あなたの言ってることは意味不明です。
あなたは、霊魂もアラヤ識も知らないのでしょうね。
本で読んだり、頭で考えただけでは知ったことになりません。
洗脳されただけであり、あなたの空想に過ぎません。 人を非難するときは自分なりの論を書いてから
批判しましょうね^^
論無し批判はバカでもできる^^ ・・てゆうか・・
同じ土俵に上がれないでしょうね^^
そう思われてもしかたがないな^^ >>871
あなたは、あなたが列挙したことを善いことだと思っています。
そう思わせているものは、あなたの「欲望」や「煩悩」です。
でも他方、これではいけないと思わせるものこそが、
あなたに内在する「本来の自己」になります。
これを解決するには、
@ 意志の力(根性)で「欲望」や「煩悩」を押さえ込むか、
A 釈尊のように悟り、一瞬のうちに消滅させるか、
のどちらかの道を歩む以外にありません。
悟りとは価値観の転倒です。今まで思っていた善が悪に、悪が善に
ひっくり返ることです。欲望や煩悩を根こそぎにすることです。
これが原始経典に書かれている釈尊の教えです。 神との出会いが聖霊体験です。それは聖霊の体験であって、
何か意味不明なことをゴニョゴニョ言うような異言の体験ではありません。
私が知る限り、聖霊体験を語った者はスエデンボルグひとりです。
その時、スエデンボルグは親族間と遺産相続で争っていました。
親族なのに、欲の皮が突っ張り、少しも譲らないから醜い争いになります。
その過程で彼は、争いの原因が「欲望」にあることに気づきます。
そして自分自身も「欲望」をベースに生きてきたことに気づきます。
キリスト教徒として正しく生きようとして来たのに何ということだ・・・
彼はショックを受け、自分の過去を心から悔います。
心から悔いた瞬間、彼の頭の中に神の雫がほんの一滴落ちて来ます。
神(命)を知れば、もはや「欲望」など親の仇のようなものです。
新しい善悪を知るから、古い善悪を捨てられるのです。 >>878
俺は子供の頃でさえこの程度の事
普通に理解していたんだが
くだらなすぎる大人だとは思わないか?
こんなもんで聖霊とか言っている時点で
大分痛い奴だと思えて来るのは気のせいだろうか? でも、昔を思い出すぜ
論破されてるのに、粘着していたなww 無知なのに反論してたんだろ?否定するのに、根拠を言わないんだろ?!それで議論と言えるのか?! 878.
新しい善悪を知る、か。
そんなものは人間関係の問題である。
神との出会いは、人間関係ではないよ。
その次元の相違を考えることである。 ネットヲタクほど、自分の意見を否定する者は悪らしい
これほど、まことに当てはまっていることはない >>879-884
この中に原始経典、スッタニパータなどを読んだ人はいますか。
聖書の新約、旧約を読んだ人はいますか。
悟りたいと思うなら、これぐらいは読まないとダメです。
般若心経などの、大乗経典群は全部スルーしましょう。
大乗経典はむしろ、悟りを遠ざけ、悟れないようにしたワナです。
悟った後、大乗批判のために読むならかまいませんが。 「大乗経典はむしろ、悟りを遠ざけ、悟れないようにしたワナです。」
たとえばどこ?^^ 子供のうちは絶対に悟れません。
なぜなら、子供の仕事は成長して大人になることだから。
悟りすましたような子供では、かえって気持ち悪いと思いますね。
そんな子供は必ず早逝するでしょう。
イエスは33歳で聖霊体験、釈尊は36歳で成道したのです。
ムハンマドが神に目覚めたのは40歳です。
求聞持法の空海は20歳前後で霊魂体験をしたようですが、
これは例外であり、裏口入学のようなものです。
自分や世の中のことがある程度わからないと悟れません。
孔子が自分を制御できたと思えたのは70歳(従心)のようです。
あまり焦らなくてもよいのかもしれません。
悟りはたぶん、一生の仕事なのでしょう。 >>887
無や空を目的にしているところですね。
それは目的ではなく、手段(道具)ではないかと思います。
この現実における身体は無や空であると考えるのはよいのですが、
この身体の中に無や空でないものが同時にあるわけです。
それは「命」です。
大乗に洗脳されると「命」に気づけなくなります。 885.
悟りの理論書を読んだほうが良い。
鈴木大拙が最高であろう。
その弟子が秋月龍民であり、その本が良いかも。
西田哲学で完成となるかも。 『悪魔との対話』第X扁第10節ヴァジラー尼 六
そなたは何故に(生ける者)という者を認めるのか?
悪魔よ。汝は悪しき見解をいただいている。
この(生ける者)はただ諸々の形成されたものの集合である。
ここに<生ける者>は認められない。
たとえば実に諸々の部分が集まったならば「車」という名称が起こる
ように、それと同じく、五つの構成要素(五蘊)が存在するのに
対して<生ける者>という仮りの想いが起こるのである。
◇ 部分を集めただけの「車」には「命」が存在しません。
ヴァジラー尼には「命」とは何かの問題意識が欠落しています。
この「命」を知るのが聖霊体験なのです。実際に体験すれば即座に、
聖霊こそが「神」であるとわかります。 >>889
仏教のことのはじめは「苦」から始まってるからね〜^^
そこから無とか空の世界が見えてきた・・
「苦をなくすにはどうしたらいいのか?」
命なんて言葉仏教に出てくるのかな〜〜^^
出てきたら・・
「命をなくせばいい」とか言い出しそう^^ あっ・・
「即身成仏」があったかー
やはり・・
言い出しやがった^^ うん?
うわぁああああああああああああああああああああ
なんかコテがついてる^^
これまた失礼すますた^^ 大乗仏教は「命」を無視するから、悟れないのです。
悟るには順番があるのです。
まず「聖霊体験」をして、神(命)を知らなければなりません。
神が命であることを知って「慈悲」の心が生まれます。
坐禅は、この神(命)への絶対的な信頼と服従によって行います。
その信頼と服従によって、非想非非想処→魔境→想受滅→霊魂体験へと
一直線に通過し、短期間に成道が達成できるのです。
空海が裏口入学なのは、聖霊体験を欠いているために
求聞持法で霊魂体験を目指したからです。求聞持法のねらいは、
想受滅、霊魂体験からの無事帰還です。
そのために陀羅尼を50〜100日間で100万回唱えます。
意識を失っても、無意識に陀羅尼を唱え、意識を戻すためです。
意識が戻らないと死ぬからです。 「大乗仏教は「命」を無視するから、悟れないのです。
悟るには順番があるのです。」
ここまでいうからには体験したんだよね^^
どうだった? 死に近づくほど瞑想レベルが上がっていくみたいだけど・・
どうなんだろうね^^ 死に近づく・・ドパーミンが大量に出る
幻覚や妄想などの症状が引き起こされる・・
てなことにならなければいいが^^ >>893
人生における苦を無くすために四苦八苦していたら、
たまたま「聖霊体験」をして神と出会い、
さらに坐禅で「霊魂体験」をして自分と出会い、
すべてが了解でき、安らぎの境地に達した、ということですよね。
「命は」説一切有部の五位七十五法の中に「命根」として登場します。
有為法の中のひとつだから、生滅変化する現象的存在として位置づけられます。
「命」は仏教的には神でもないし、永遠不滅の存在でもないわけです。 902.
体験の問題ではない。
なんでか。
それは、体験の主体が、存在することは、失格であり、誤りであるからである。
それは基礎理論であることになる。 常に死を想うのじゃ。
死が後ろにあると思えば怠けられないのじゃ。 怠けられないって、鬼和尚、いや、まことは、50代まで怠けていたじゃないか! 悟るためには順番があり方法があります。それを無視したら悟れません。
かって数えきれない人が道半ばで倒れたのはそのためです。
@ 黙想 → 欲望を消滅させる ⇒ 聖霊体験 → 神霊を知る ⇒ 信仰
A 坐禅 → 想受滅を通過する ⇒ 霊魂体験 → 自分を知る ⇒ 悟り
まず最初に黙想し、欲望の正体を知って、欲望を消滅させます。
これがうまく行けば聖霊体験をすることができます。これによって神霊(命)
を知り、神への絶対的な信頼と服従が確立します。
次に坐禅を始めます。坐禅の目的は霊魂体験をして自分を知ることです。
非想非非想処 → 魔境 → 想受滅 → 霊魂体験 → 地上帰還と無事
通過するためには、神への絶対的な信頼と服従が欠かせないのです。
坐禅によって霊魂体験をすることを「悟り」と言います。
仏教で悟れないのは、欲望を消滅できず、聖霊体験をやってないからです。 欲望の消滅に関しては、釈尊の教えにも問題があるようです。
その消滅の仕方を具体的に説いてないし、それを消滅させたときに
神(命)との出会いがあることも語られていません。
しかし、釈尊の説法は2500年前です。そもそも「神が命である」ことを
語る社会的な土壌が皆無だし、「聖霊」という言葉もありません。
語ろうとしても語れなかったのではないでしょうか。
そのため聖霊体験が抜け、欲望の消滅 → 坐禅の修行 になります。
これでは、自分を知るための坐禅ではなく、欲望を消滅させるための坐禅で
あるかのようにも誤解されます。時代的にやむをえなかったとはいえ、
これでは悟ることが至難の業になってしまいます。 わたしはフロイト著作集と唯物弁証法だけで聖霊体験をしています。
宗教に興味がなかったのがむしろ幸いしたようですね。
聖書は聖霊体験をした後に読み始めました。
さらに天台小止観の簡単な流布本を参考に坐禅を始めましたが、
半年ぐらいで想受滅から霊魂体験をしました。
さて、自分が何を体験したのかを知るために随分時間がかかりました。
でも幸い、聖書は簡単に手に入るし、中村博士によって原始経典も訳され、
クルアーンや儒教なども読むことができます。イエスを神と崇拝する
キリスト教も盛んだし、これらは釈尊の時代との違いです。
そんなことで、釈尊が語ろうとして語れなかったことを語るべき時代が
やって来たのかもしれません。 906.
神と自分とを対置することは誤りである。
なんでか。
その二項対立は次元が相違しているからである。
欲望を消滅させるか。
そんなバカなことをやっているのか。
欲望を消滅させなくても、信仰とか悟りとかに至ることができる。
それを無視した理論とか体験とかは、どう評価すべきなのかや。
それはバカの提案であることになる。
欲望の消滅がない、と断定されて、終わり、ということになるのだが。 欲望、煩悩を消滅させないと聖霊体験はできません。
逆に言えば、釈尊が欲望、煩悩を【根こそぎ】にすると言っていることで、
釈尊が聖霊体験をしたことがわかるのです。釈尊は欲望、煩悩に代わる
ものを【体得した】のです。それを実際に【見た】のです。
たとえば、好きな人を嫌いになるにはどうしたらいいでしょうか。
それは好きな人に欠点を見つけ、好きな人を嫌いになることから始まります。
そんな人を好きになった自分に嫌気がさすかもしれません。
でもそれだけでは足りません。後で気が変わるかもしれないからです。
ここで新しく好きな人ができたらどうでしょうか。
前の人への想いを断ち切り、新しい人へ心から忠誠を誓えることでしょう。
これによって前の人への想いはきれいさっぱり消滅するのです。 910.
欲望、煩悩を消滅させる、か。
それは迷信である。
それは錯覚である。
その錯覚の上に、どんな理論と体験を設定するのか。
カルトになるかもよ。
それは唯物弁証法であることになる。 キリスト教というか、聖書には学ぶべきことが多々あります。
しかし、キリスト教の根幹であるところのパウロの贖罪説によって、
聖書の「悔い改め」がすっかり形骸化してしまいました。
イエスを神にしたことがキリスト教の根本的な誤りなのです。
彼は釈尊と同じ、人類の先生でしかないのです。
他方、大乗仏教の「無」や「空」も悟りの「手段」でしかなく、
それ自体は悟りの「目的」ではないのです。それに「無」や「空」を
直接体験できるわけでもありません。
ですから、キリスト教にしても大乗仏教にしても、そのままでは
悟りの役に立ちません。悟りにとってはむしろ邪魔です。
しかし、キリスト教には聖霊体験の教えがあり、仏教には「無」や
「空」の教えがあります。これは利用できます。利用できると言うか、
キリスト教 + 大乗仏教 が「悟り」ではないかと。 三位一体はキリスト教の根底 それを踏まえて
■まずは原罪について正しく知ることです。
原罪は理解するものではあっても否定や拒否をするものではないと私は考えています。
エデンは確かにありエデンがあるのになぜ人間は最初からエデンにいることが出来ないのか(原罪)。
それは自覚の問題だからです。
1度目に生まれた時点では人は己の所在地が分からないのです。 この事を原罪と呼び、2度生まれる必要があると聖書は説くのです。
二度生まれることで聖書で説明される原罪は克服されます。
二度生まれるのは個々人における実践であり、過去に十字架にかかった1人の人物により
全人類の原罪が帳消しになるようなことはありません。自覚の問題だからです。
多くの人が特に日本人は原罪論と贖罪論を受け入れられずキリスト教離れが 加速しています。
それは正しい認識をキリスト教会自体が伝えきれていないからです。
二度生まれるのは個々人における実践であり、 その二度目が贖罪(十字架)なのです。
原罪とは自分にしか解決出来ない公案とも言えるでしょう。
キリスト様が解決してくれましたではその問いから逃げているのと同じなのです。
悟りとは自覚を伴うものだからです。
そして十字架とは出家のこと。
天界に 再生せよと 釈迦が言い 914.913.912.
キリスト教と仏教と。
それは他人の教えである。
それよりも自分の、教えが大事である。
そこで迷信を設定しても、説得力がないことになる。
他人の教えを並べて何を言いたいのか。
内容がない。迷信になっているのだが。 しかし、まことはキモいね
宗教2chを見たやつは、どう思ってるとか考えないのかねえww
自演とバレとるのに、気持ち良さそうに書き込んどるもんなあww それで、指摘されたら、赤面してたんだろ?!さすが、統合失調症だよな! >>914
>これが悟りだwww
>キリスト教 + 大乗仏教
914に重大な誤りがあったので訂正しお詫びします。
これが悟りだwww
【非】キリスト教 + 【非】大乗仏教 仏教は白坂慎太郎に聞け。
悟りの説明が面白い。You
Tubeで見れる。 白坂慎太郎の動画、「仏教の教えを簡単に」の1バラモン教と2釈迦の教え
を見ました。見た感じ頭がよさそうで、題名通り簡単に解説しており、
よく勉強しているようですね。でもちょっと違います。
釈尊を「縁起」で片付けるのは乱暴でしょう。すでに書いて来たように、
次のような順序と方法で整理すべきだろうと考えます。
@ 欲望や本能の性質を徹底的に考える → 聖霊体験 → 慈悲の誕生
A その後に坐禅を開始する → 霊魂体験 → 欲望の消滅
縁起からは慈悲が生まれないし、この順序でやらないと絶対悟れません。
聖霊体験をしないで、いきなり坐禅を始めるから悟れないのです。
坐禅は、神と出会い、神への絶対的な信頼のもとに行います。
そうしないと悟れないし、命の危険もあるのです。 空海は求聞持法で霊魂体験をしたようです。
しかし、いきなり坐禅をして霊魂体験を目指すのは相当危険だし、
邪道ではないかと思います。
なぜなら、霊魂体験→聖霊体験の順序は考えられないからです。
聖霊体験は、頭の中で、欲望を消滅させることで生じます。
でも、その欲望が霊魂体験で消滅していたらどうでしょうか?
聖霊体験の起こりようがありません。
それに先に霊魂体験をしたら、もはや聖霊体験を望まないでしょう。
これによって失われるものは「悔い改め」と「慈悲」です。 先に聖霊体験をして欲望をほぼ解体できれば、
坐禅を始めた時、わりと簡単に欲望を消滅させることが可能です。
それに聖霊体験をすると、自然に霊魂体験に向かいます。
不思議だけど坐禅をしたくなるのです、
坐禅などやったことがないのに。
こういったことからも、聖霊体験→霊魂体験が順番だと思います。
聖霊体験を知らない大乗仏教は完全に間違ってますね。
入口がないから誰も悟れないのです。 君たちは自分の知覚は正常で幻想など見たこともない。と信じきっているが
見てるものはみなマボロシだよ。
恐ろしいのはマボロシを本当にしてしまう君たちのほうだ。
霊魂体験、精霊体験、光体験、神体験、幽霊体験、UFO体験、観音体験、人生体験 みなマボロシとして同じだ
あらゆる体験とははそんな程度のもの
そこに格差があり、境地の差があり、段階の差があるとか まるで馬鹿げている。 この宇宙自体が幻だからなw
我々の住んでるこの宇宙はマトリクス世界のようなもので、
実体がなく幻のようなものだ。
それに気が付いた者がこのカルマの法則から離脱できる。
言うのは簡単だけど実践するのは難しい。
般若心経 「超訳」
https://www.youtube.com/watch?v=fAqqpMnbmp0
般若心経. 現代語訳
https://www.youtube.com/watch?v=E_SgUM2NhM0 922.
縁起からは慈悲が生まれない、か。
そこから慈悲が生まれると白坂氏は断定している。動画になっているから見るべきかも。 924.
欲望を解体、消滅させるか。
そんなことは、しなくても、救われる方法を考える。
なんでか。
それは無理、無駄なことであるからである。 >>925-926
自分の考えを相手に強制することはできません。
それぞれが、自分が正しいと思うところを信じればいいのです。
心が安らぐなら、その人にとってはそれで十分です。 >>927
縁起から慈悲が生まれるなら、同じように無慈悲も生まれてきます。
縁起の「空」からは、善悪という道徳が生まれないのです。
白坂氏は仏教の中道を「空」と欲望・煩悩の間を生きることだと言います。
しかしこれは変ですよね。欲望・煩悩の反対は「空」ではありません。
これでは中道が見えず、定まりません。 >>928
>欲望を解体、消滅させるか・・・
>それは無理、無駄なことであるからである。
釈尊が「縁起」を悟っただけなら、欲望も煩悩も消滅しません。
「空」からは善も悪も生じるからです。
そうではなく、自分の意志で悪を切り捨てるから、悪が解体するのです。
悪が解体すれば、善だけが残り、善がその姿を現します。
それが聖霊であり、命の雫であり、神なのです。
それは無償の愛であり、叡智であり、永遠の真理なのです。
命への慈しみはここから湧いてきます。それこそ、こんこんと。
神こそが慈悲の根拠なのです。 >>931
君はまだまだ頑張りが足りないのだ。
人生をしっかりと真剣に命がけで生きなさい。
ここで偉そうに強がっているように、現実の場でもハッキリと自分の意志を表明し貫きなさい。
自分の信じる善を他人にどんなに思われようとも、完全に成し遂げなさい。
言い訳や人のせいにすることを金輪際やめなさい。
自分をよく見せるような真似をやめなさい。
これができなければ悟りは遠い。 >>932
いや〜
自分の信じる善を完全に成し遂げる必要は無いですよ
神様じゃないからね
言い訳は要らないでしょうけどね しかし、まことは小難しいことを書いてるが、
その前に、まずは、黙って座ってみろ、という
風な書き込みだよなあ
修行をしている者なら、誰にでもそう突っ込まれるぜ 修行者にとって、修行もせず、科学的に解釈するやつが一番嫌われるんだろ?!まことの書き込みってそうだよな! 930.
中道を実体化してはいけない、とする主張が白坂氏である。
だからして、中道は見えない、ことになる。
欲望、煩悩を実体化して、空を実体化してはいけない、ということである。 931.
悪を切り捨てる、のか。
その方法が問題となる。
自力でやるのか、他力でやるのか、そこが問題である。
自力でやれば、神は必要ない、ことになる。
そこで中道が問題となる。
その中道とか神とかは実体ではない、ことになる。
それではなにか。 <悟りへの道> 〜 順番と方法 (>>922を少し訂正しました)
@ 欲望の否定 → 聖霊体験 → 神との出会い → 慈悲の誕生
A その後に坐禅開始 → 霊魂体験 → 自分との出会い → 成道
自力(意志の力)で欲望を否定します。他力ではできません。
信じれば救われる信仰だと、そのままの状態で救われたことにされます。
実際には、欲望の根っこがそのままの状態で放置されています。
悟りにとって他力信仰は猛毒なのです。
欲望を根こそぎにしないと聖霊体験は生じません。 <中道とは何か>
人間は命と物質が合体した存在です。
つまり霊的存在(常住)であり、身体的存在(断滅)でもあるわけです。
人間存在そのものが二元的であり中道なのです。
人間の二元的思考はここから生まれます。
人間は常住かつ断滅であり、常に非断非常の中道が成立します。
霊と身体のどちらにも偏らないのが中道ですが、
霊が神に由来する以上、「霊主体従」が正しい生き方になります。
→ 中道と唱えても、実体的なものでなければ無意味です。
白坂さんのように、空と欲望を並べても何の役にも立ちません。
その時の気まぐれで生活することになるでしょう。 941.
中道は実体ではない。神も実体ではない。
だからして、実体と思うことは誤りである。
なんでか。
霊とか身体とかの実体の延長に、または中間に実体として設定すべきものではないことになる。
なんでか。
宗教は実体についての教えではないからである。 >>942
神(命)は存在するし、霊魂も存在するのです。
神も霊魂もすでに発見されました。それを発見することが「悟り」です。
残念ですが、竜樹の縁起「空」は間違いだったのです。
釈尊の「中道」は、霊魂と身体の、どちらにも偏しないという意味での、
実体的なものです。白坂さんの空と欲望とか、竜樹の非有非無とかのような、
はっきりしない、曖昧模糊としたものではありません。
かりにそういったものであるなら、実際の生活でまったく役立ちません。
空理空論と言うか、無意味な空念仏でしょうね。 そういえば、竜樹の「空」で助かったこともありましたね。
ですから全部が全部間違いでもないです。
25歳ごろ、唯物弁証法に熱中していた時、
善悪の関係は一つコインの裏表なのではないかと気づいたのです。
今思えば、これが竜樹の縁起「空」ですね。
これを「悟り」との関係で整理すると次のようになります。
@ 凡夫時代(〜25歳まで)・・・世間的な善悪に苦しむ
A 弁証法で「空」を知る(25歳)・・・善悪が90度回転する
B 聖霊体験(30歳ごろ)・・・善悪が180度回転する
C 善悪が360度回転したら元の木阿弥・・・それはない(^^)w >かりにそういったものであるなら、実際の生活でまったく役立ちません。
釈迦の悟りは 無用の用 なのサ 943.
神、霊魂が存在する、か。
それは、存在バカ、の言うことである。
それは宗教を理解していないことの証拠となる。
それでは、悟り、が存在しないことになる。インチキ悟りでも生きていけるかも。 944.
善悪に苦しむ、か。
善悪なんてものは生活の問題である。
それは人生の問題である。
それは宗教の問題とならないものである。
その区別ができないで、悟り、かよ。 >>944
龍樹は菩薩ですから、衆生が助かることを望んでおられます。 「相手にしてない」
この言葉を、初めてまことが使ったのは、10年ほど前に遡る
初めて会ったのだから、このじいさんも必死である
が、さんざんに惨敗する
敵わない
まことは、そう思ったはずである
なぜなら、格下相手を相手にしないほどの器量は、この男にはない >>946-947
白坂さんのサイト紹介ありがとう。
仏教を簡単にまとめ、仏教の概略を知るガイドになってますね。
それは違うぞなどと思いながらも、仏教知識を簡単に整理できるし、
わかりやすいので、もうすでにいくつか見ています。
これだけ語れるのは、相当な勉強家なんだろうと思います。
しかしながら、白坂さんは悟りを矮小化してますね。
釈尊の悟りを「縁起」「空」にしてしまったのはとても残念です。
坐禅についても語ってますが、その内容から「非想非非想処」の境地だと
想像できました。じつはその先がまだあるのです。
魔境 → 想受滅(滅尽定)→ 霊魂体験 → 成道 です。
ここまで到達できた求道者は、釈尊以下、数えられるぐらいでしょう。
それほど難しいのです。真の悟りは簡単ではありません。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。