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昔、ある寺の和尚さんのもとへ、えらいお坊さんが禅問答をしに来ることになった。
あまり学のない和尚さんは心配でたまらん。
ひどくオロオロする和尚さんを見かねて、寺に出入りしているとうふ屋のじさまが、
「よし、わしが和尚さんの衣を着て、和尚さんになりすましてやろう。まかしとけ」
と言ったんだと。
和尚さんは大喜びして、さっそくじさまと着物をとりかえた。
そうするうちに、えらい坊さんがやってきた。
坊さんは山門に入るなり、何も言わずに両手の指を十本開いて突き出した。
にせ和尚のじさまがすかさず片手の五本指を広げてそれに応じると、次にえらい坊さんが指を三本出して見せた。
すると、じさまはあかんべえをして見せ、それを見たえらい坊さんは、何も言わずに山門を出て行ってしもうたんじゃ。
本物の和尚さんはとうふ屋の格好のままでえらい坊さんのあとを追いかけ、問答の意味をたずねた。
すると坊さんは、
「わしが『十方は』と問うと『五戒でたもつ』と答え、『三千世界は』と問うと『目の下にあり』と答えられた。わしなんぞ、ここの和尚の足元にも及ばぬ」
と言って、そそくさと帰っていった。
和尚さんは寺に戻り、こんどはじさまに
「じさまは、なんと考えて答えたんじゃ?」
と聞いた。するとじさまは、
「あの坊主はとんだけちだわい。十本指を出して『とうふいくらだ』というもんで、
『五文だ』と言うと『三文にまけろ』と言う。
ばかばしいんであかんべえをしたら、とっとと帰しもうた」
と言ったとさ。
(宮城県のお話) >>68
いい話だ。
理にかなってるし、生きる実際にも。
最近夜が涼しくなって秋の虫の声がよく聞けるようになってきたねー。 >>67
悟りと解脱の違いだな!形は違うけど、どちらも同じ境地なんだろ?!悟りは形があって、解脱は形がないんだよな! 悟りは、人によって形は違うが、行き着く先は
同じだ言うけどな 隠す。
盗む。
騙す。
さぼる。
うぬぼれる。
なげだす。
自慰する。
こんな自分を綺麗にしたい。 >>72
ですからそれらの根本が自分ですね。
自分という思い。
そこに参究しないと永遠に解決しませんね。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫 >>70>>71
自分を意識することも無形ではないでしょうか
自分を意識して、自分に成りきっているわけですから
無のはずです
本当の自分に成りきることが悟りなら、本当の自分は、無のはずです
よって、無形です ですから、自分を意識するのとしないは、同じ境地と言いました
道元が言った、自分に成りきるは、座禅ではなく、その他の修行を表します
よって、必ずしも、無にならないといけないわけでは
ありません
境地だと思います
自分に成りきると、聖域に入ります
その聖域は甘美なもので、たとえるなら、自然に囲まれた
ような次元です
その聖域、つまり、境地で修行するわけです
だから、前にも言いましたけど、寺でなくとも修行が
出来るわけです 77.
悟った後では、どんな修行をするかいな。
バカか暇人がやることである。 71.
悟りの内容は同じである。
インド人、中国人、日本人、欧米人、とで相違することはない。 >>77
聖域か!修行僧のことを、雲水と言うんだろ!?旅をしながら、修行するって言ってたよな!
昔の修行僧は、旅修行が主流だったんだろ?
雲や水のようにで、雲水と言うんだよな! >>77
自分に成りきる境地は、甘美なものなんか?!だったら、ずっと入っていれば、永遠の幸福じゃないか! だから、よく言うぞ
悟れば、永遠の幸福だって
まあ、怪しそうな宗教か文献だけどな
永遠の幸福なんてことは、悟りの著書に書いてたのを
見たことはない
悟りは、迷いの終焉ではない
とは、悟りの著書では、見るけどな
だいたいインターネットを、24時間いじってても
しんどいだけだろ?
境地に一瞬で行けるわけないしな 話は変わりますが、キリスト教に悟りはないですよね?
それとも、救われた先に境地があるのですか?
そもそも、救われるとはどういう意味ですか? 検索したら、「救われる」とは、神の怒りから救われる、と、書いてあったぞ!あふぉか!! 真実に触れていても気付かない。
無明に覆われてる。 >>84
神の怒りとは、煩悩かもしれんな
つうことは、キリスト教にも悟りはある まことは、何か勘違いしている気がするんが、
オレは、大の宗教嫌いなんだけどなww
だから、仏教信者ではない
宗教は奴隷術とかホザいてるが、はっきり言えば
どーでもいい話なんだよなww まことも宗教信者じゃないだろ!でも、ネット検索をして、悟ったと言うのには、恐れ入ったよな! しかし、まことは宗教2chに入り浸っているけど
楽しいのかねえ
前にも言ったけど、悟りを志すが、オカルトに逝ったときは
辞めるときだ、とは、大の宗教嫌いが理由なんだよ まことは、ネット検索を鵜呑みにしてきるからな!だから、オカルトになるんだよな! 最近、よく、オレはまことに
「それ、どこの情報?」
って、聞いたりするだろ?
あれって、間違っていることを言っていることも多いんだが
何か根拠があるのかな、って思って聞くんだよ
まあ、オレなんかは、情報を得ようと思って質問するが
まあ、まことは、自分の意見は正しく相手は間違っている
の一点張りだからなあ
本来、議論とは、情報交換のはずなんだがね
でも、まことは戸惑っているな
まことが一点張りだから、オレも一点張りにしてんだよ
だから、オレは、より自由に書き込めるわけだ まことは、てめえの質問に答えてもらわなければ困るって書き込みだからな!
でも、まことが断言して、おまえが断言して、
まことの主張が消える図式になっているよな!
だから、あの50代ニートの断言が弱々しく見えるよな!
しかしあれだな!おまえも断言するから、まことが戸惑ってるよな! まことが話題をくれたから、その話をしよう
「師匠は人間ではない」
とかホザいてるけど、どこかの怪しげな宗教みたいだよなww
たとえば、永平寺
あそこは、道元が開いた
だから、今でも、道元のもとで修行したいと言われる
だから、師匠は、人間ではないことが成立する
が、永平寺みたいな寺だけで、普通、師匠と言ったら
生身の人間なわけだ それに対し、道元は
「自分に習う」
と、言っている
まあ、まことみたいに修行をしてない者にはわからんと
思うが、座禅をして、心の奥へと入っていくのが修行なわけだ
心の奥へと入っていって、自分が何者か知る
だから、
「自分に習う」
と言う
まあ、その点から言って、師匠が生身の人間じゃないとは
奥浅だよなww それじゃあ、道元は、自分が師匠だと言ってるのか?!自分が神様だと言ってるのか?! さあな
でも、昔、自分に習うについて語ったら、自分を神様
だなんて、頭がオカシイと言われたこたあったな
何か書き方が間違えたかなってと思ったけどな 自分に習うは、自分になりきって無になったときに実感します
わかりやすく言えば無意識に動いた行動が本音です
そうして、ひとつひとつ無に習うが自分に習うことです なるほど!無に習うか!やはり、無は奥が深いんだな! 無に習うと自分に習うは、少し違う気がするけどな
無は境地を得るもの
自分に習うは、本当の自分に出会うもの
境地は、みんな同じ
人は十人十色
言ってみれば、究極の境地の脇道に悟りがある
まあ、究極の境地を含めて悟りなんだがね >>97さんは、どのように座禅をしていますか?
オレは、1分くらいで無になれます
イメージとすれば、教室で子供を一人ひとり黙らせる
感じですね
まあ、たしかにずっと無になれるわけではありませんが
40分くらい過ぎたら、簡単に無になれます
境地というものですね 座禅は無意識に無にならなければいけません
ですから、あなたの無は無ではありません
妄想が現れては消える
これが座禅です
ただ座るだけです 思うのですが、意識して無になろうとして、そのうち
無意識に無になりませんか?
たとえば、悟りの性質を知らない人が、座っても
一向に無にはなりません
もっとも、才能がある人は、何も教えられずに
何かを得るそうですが
ただ、オレのばあい、座禅を組んだら、勝手に心が
無になろうとします
これも無意識と言えば無意識ですね >>101
おまえ、40分くらい経ったら簡単に無になれるとか言ってるけど、それまでは難しく無になってるのか?! 座禅といっても、ずっと真剣に無になる必要もないってことだよ
無になったり妄想したりが、座禅だよ
まあ、初心者なんかは、完璧なる無を目指したりするけど、本当のところ、そんなものは存在しない
悟りを開いた者だって、完璧な無なんて出来ない
まあ、でも、しかし、初心者は、徹底的に無になることをお勧めする
それが、無意識に無になることにつながる 境地は、マラソンに似ている
3km走るのと10km走るとでは、ペース配分が違うだろ
3Kmの走り方と10Kmの走り方がある
初心者は、ペース配分がわからない
ベテランになってくると、走り方がわかってくる
座禅も同じだよ
どこに心の置場所を置けばいいかわかってくる
それが境地だ つまりは、1時間座禅をするのと、2時間残をするのでは、境地が違うのか?!境地は、得るものじゃあなかったのか?! 言い方が間違えたかもな
要は心の置き場所なんだけどな
もっとも、心の置き場所と境地も違うよ
心の置き場所に集中すると、境地にたどり着くという感じかな
だから、40分も座禅をしていたら、境地にたどり着いて
いるんだよ
けど、座禅のやりはじめは、境地にたどり着いていないから
無から覚めやすいんだよ
嫌々勉強していても、気がついたら集中して気持ち良く
なってることあるだろ?
あんな感覚だよ 無は意識するものではありません
境地に入っていると思っているということは、
無になれてない証拠です
無は無になってることすら意識しません
それが境地です >>111
いや、だから、無の入っているときは、意識はしませんよ
無に入っている、と、感じてるときが、無に入って
ないわけでしょ
それと
境地は、無から得るものです
無を意識しないのが境地ではありません 誰でも、ぼーとしてて、気が付いたら何も考えていないことはあるよな!それを無というのか?!違うだろ! 113.
そんな心理学をやっている場合かよ。
身体の条件とは関係がないことになる。
坐禅とかヨガとかは身体的条件の問題であることになる。
それは論理とは関係がないことになる。
それは身体信仰の一種であることになる。 >>114
前も言ったけど、完璧な無なんてないんだよ
無というのは、心の中が空っぽだけど、意識はあるんだよ
つまり、外部の音はよく聴こえているんだよ
だから、人気のない公園で無になってたら、
外部の音が心の内側で、鳴り響いたりするんだよ
悟りの著書で書いてあったことだけど、無になっている
ことも気付かない無は、寝てるときだ、と、書いてた
無は意識があるものだ、と、言ってた
まあ、ちと、大袈裟だけど、オレも賛成だな そもそも、無は何のためにあるんだ???座禅は、煩悩を消すためにあるんだろ?! 117.
無とは、何のためにあるのか。
それは事実の状態なのか。
それとも論理的な前提なのか。
その二段階論が必要であることになる。
西田哲学では純粋経験を経験することになるかも。 >>117
座禅は、諸刃の剣だよ
座禅をすれば、煩悩はいずれ消える、というが
下手すれば、余計に、心に刷り込まれるからな
だから、煩悩が強いときは、やらないのが得策だよ お釈迦さんと子供を失った母親の話をご存じないのですか?
母親は、お釈迦さんの言い付けで、遠方に行っている間に
子供は死にました
遠方に行っている間、病気の子供のことをお釈迦は
忘れさせてくれました
これは煩悩を断つことを意味します
命懸けで座禅を組めば、煩悩を忘れさせてくれる
例えなのです 120.
煩悩を忘れて、どうなるのか。
すぐに思い出すことになる。
道元は、それを逃げまくって、忘れることに没頭した。バカの見本であることになる。 >>120
前にも言いましたが、出来ることと出来ないことを
考えなければなりません
それを知るも悟りです
それに、煩悩を抱えたままで座禅をすれば、壊れてしまいます
現に、マジメに座禅をしすぎて、病気になる人も
いるくらいです
苦行の否定は、お釈迦さんも言っていることですよ 座禅で、トラウマを遠ざけることは出来るのか?それを会得しようとするから、厳しい修行なんか? トラウマと向き合うという話もある
心理療法で、あえて、トラウマと向き合い、過去のもの
にしてしまおうという治療法がある
言ってみれば、煩悩を断つというのはそれに当たる
けど、きちんとした師匠がいなければね
まあ、座禅で、嫌なことが消えることもあるよ
というより、消える確率のほうがずっと高いと思う
ただ、どうしても諸刃の剣でな
消えなかったときの痛手は大きい トラウマはいずれ消える
それだけのことです
あなたは何か嫌なことがある度に座禅をしないのですか?
それでは修行になりません いえいえ
トラウマがあろうが、嫌なことがあろうが
座禅は、毎日します
隙を見てやるということですかね
たとえば、高熱にうなされてるとき、少し
体調が戻れば、洗濯とかをやるのと同じです
しかし、トラウマに苦しめられているときは
時間を減らすとか手を抜くとかしています
「手を抜く」大切さは、お釈迦さんも言ってますよ 修行は、暗闇を真っしぐらなのです
心的障害をおそれていては修行になりません
宇宙空間を漂っていることと同じなのてす
流れのままに修行しなくてはいけません 人間の行動は、潜在的に決まってるんですよ
つまり、考えて行動したつもりでも、実は、
流れのままに行動しているんです
ですから、人間は、生まれながらに流れのままに
生きているのです でもよぉ 潜在的に動いているというけど、考えなかったら、思い付きもしなかったことは多いじゃんか!それでも、流れのままなんか?! こ、細かいことは、気にするなよ
流れのまま、というのは、もっと大きい意味だよ
人生をやり直す、とか言うけど、ある程度、
人間の人生というのは、決まってんだよ
それを流れのまま、と、言ったりする
細かいことは、「知恵」と言う
知恵は、甘美なものたが、本当の知恵者は
いかに知恵の無力さを知っている
知恵者は、魔法使いでもなんでもないって
ことだよ 大きい意味って、小さいことは、流れのままじゃないのか?! まあ、大きい小さいを説明するのは難しいけど
大きい決断をするときも、本当は、自分の中で
答えは決まってるんだよ
心の奥底で、行動は決まってるんだよ
アラヤの話では、自分は思ったとおりの人生を
送るらしい
心の奥底で、上に立つ者は孤独ギリギリなんて
思ってると、その通りの人生を送るんだよ
まあ、小さいことでもそうだけど、人って
何かないと考えないだろ?
トラブルを避けてるのも自分の意思だし
食べたいものを喰べるのも自分の意思だし
結局、自分の意思なんだよ
流れのままに生きてんだよ
これを悟りにたとえると、人間は、生まれながらに
悟ってる
しょうゆうことだね おい、ちょっと待て!!
まことは、統合失調症だぞ!
統合失調症は、自分で嘘をついてる自覚がないんだぞ!
ということは、本当に、まことは、上に立つ者は孤独ギリギリと思っていることになるんだぞ!
ちっとも、思い通りの人生ではないじゃないか! あー
いやいや
まあ、でも、アラヤにしろ、鵜呑みにするのも
どうなのかもな
修行して、答えがあるんだからな
実は、アラヤというのは、願望達成法でもあるんだよ
で、昔の話だけど、著者に文句の電話をかけたら
「努力もせず、思い込んでも叶いませんよ」
と、言った
結局、アラヤと言っても、話を突っ込めば
そんなもんさ アラヤは、本気で願っていれば叶うという意味です
受験でも、本当に第一志望の大学に行きたくて仕方がなければ
勉強はするでしょう
心の奥底から、本当に願えば叶うのです
もし、第一志望の大学に落ちたのなら、本人がそこまで望んでいないのです
それが、アラヤです 人間には才能があるのですや
たとえ、才能がなくとも、願いが叶う方法に気付けば叶います
だから、気付かなければ、努力しても強く願っても同じなんですよ 才能才能と言ってる程度では願い事は叶いませんね
その程度なら本当に望んでいるとは言えません
何がなんでも叶える意思が必要なのです 何がなんでも叶える、と、言っても、プロ野球選手に
なれるとはかぎらないでしょ
そんなことは、小学生だって知ってます
それと
何がなんでも叶える、と、心底考えるのは難しいでしょう
願い事を叶えようとすれば壁にぶつかります
壁があるのに、何がなんでも、と、思ってるだけでは
なんの解決にもなりません
壁にもぶつからず、願い事が叶うのは、天才だけです
みんな試行錯誤しながら努力するのです
そして、試行錯誤して、その方法を思い付かなかったら
願い事は叶いません まあ、でも、アラヤというのは、それくらい
思い込め、という話だよ
つまり、人間の行動は、深層心理で動いている
ということだよ
だから考えて動いたと思っても、答えは既に
決まっていて、流れのままに生きているという
ことだよ おまえの言うとおり、心底思い込むのは難しいよな!実力がないのに、自信を持ってたらただのバカだよな! いるじゃないかww
実力もないのに、自信たっぷりのやつがw.ww 昔書いたけど、悟りの修行とは、心の中を探索することだけど
まことって統合失調症だろ?
妄想って、心の中にあるもんだろ?
キチガイにはキチガイの悟りがある、というのがオレの
理論だが、ある意味、妄想も修行じゃないか?
まことも妄想で悟れるかもしれないんじゃないか? あほ!!
なんで妄想で悟れんだ???
いいか、まことは煩悩の塊なんだぞ!
50代のくせに大学生を名乗ったり10代を名乗ったり
するんだぞ!
ネット検索だけで悟ったと自称するするんだぞ!
ど素人扱いされただけで憤慨するんだぞ!
それに
煩悩や妄想では悟れないじゃないか!! >>145
だから前にも言っただろ
仏教には魔界というのがあるんだよ
世の中には、人の幸せを願うより、僻んだりするほうが
幸せなやつがいるんだよ
まことも、てめえのキチガイ行為を納得させるだけの
ものがあればいいんだがな
たとえ話になるけど
世の中には、嘘つきや怠け者を誇らしげに言うやつも
いるんだよ
成功者に多いわけだが、嘘つきや怠け者で世を渡るやつだな
嘘つきは方便
怠け者は、怠け者だから頭を使ってラクをする
ある意味見習うところだぜ
まことは、てめえのキチガイ行為を、誇らしげに話せるかな
自己弁護やトボけてばかりいるけど 149.
道を歩く、か。
それならば、犬でもできる、ことである。 イエスの言った「私は道であり真理であり命なのです」の道と同じです。
貴方は聖書をまんま解釈して読んでいるのですか
馬鹿と言われますよ。 イエスが人間で人間が道?
少しはおかしいと思いませんでしたか? >>147
この前言ってたあれか?!
いい人を辞めたら、ラクになったやつか?!
いい人は損をすると言うからな!
でも、妬んだりして得をすることはあるのか?! 善人から悪人に転身して悟りを開くこともある
通常では考えられないことだけどな
妬んだりして得をすることがあるか、という話だけど
じゃあ、週刊誌はどうなる?
また、死んだけど、たかじんのトークはどうだ?
世の中には、妬みをネタにして、周囲を笑わせる者もいる
まあ、畜生道で悟りを開く者もいるわけだよ
だから、まことみたいなキチガイでも、悟りは開けるんだよ 人の不幸は蜜の味ってやつか?!でも、それって、人のことじゃないか! >>158
人のこと?
ああ
確かに悟りは自分の心の中にあるもんだからな
でも
これは、オレの経験だけとど、大昔、オレは人の悪口をけして言わなかった
ある日思った
人って悪口を言うもんだろ?
オレは損をしているのではないか?
そう思って、それから、オレも悪口を言うようになったな
人の悪口を言わないことと言うことと、どちらが幸せかわからないな
でも、オレと同じようなやつがいたら、おそらく、悪口を言わないほうが幸せと思うぜ じゃあ、おまえも人の悪口を言わなくていいと思ってんのか?! オレはど田舎出身だからな
昔は、ポイ捨てもしなかった
ある日、そういうマジメな自分に愛想を尽かしてな
マジメさは、清潔感を出すと思ってた時期もあったが
そんなものはどこにもなかったな
マジメさは、人間的魅了を削ぐことばかりだったな この大宇宙を閉めるには
どうすれば良いか?
日蓮大聖人が教えてくれました。
「日蓮を悪しく敬まわば国亡ぶ」
チャンと御書にあります。
今の世の中には、悪しく敬まう人が
タップリいますので、
彼らに走って貰えば良いのです。
国だけでなく、大宇宙すなわち
このシャバ世界をも閉めることが
出来ると思います。 ポイ捨てしないのは真面目ではなくて普通の常識だね
>>162は真面目の捉え方がずれてるんじゃないかね そうか!
まことは、ポイ捨ても出来ないほどクソマジメなのか!
だから、いつも、書き込みがおもしろくないんだな! あほ!!まことがポイ捨てしないはずないだろ!!
万引きと同じじゃないか!
キチガイだから、キチガイに観られたくないから、そう言ってるんだよ!! 統合失調症にもなると、ポイ捨てをしないのが普通、と言うようになるほど判断力を失うのか
海を見ろ
観戦場を見ろ
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