私は仏教に限らず、宗教全体全く門外漢ですが、
>>794>>795は議論としておかしくないですか?
話の筋道が立っていないと思います。

「『 私は幸せでありますように』と念じるのは【自我】だから、気持ちが悪い。 違和感がある」
と批判する人が多いというのが論点ですよね?

【自我が気持ち悪い】と言っていのです。
説明するまでもなく、【自我】とは「自分の考える自分」であり【アイデンティティ】のこと。
もっと簡単に言うと「私は、こう思う」の「私」が自我だということ。
日々、「私は・・・」と、自分を思い感じる部分が全て自我ということ。

その「私は!私は!」(自我)という点が気持ち悪いということが眼目のはずですよね。


そう考えると、「 私は幸せでありませんように」と念じることも【自我】であり、
これまた気持ち悪いという話をしているのです。

それなのに論点が「幸せを願う」とか「不幸を願う」という問題にすり替えられ、
「不幸を願うと嫌な気分がする」のだから素直に「幸せを念じるべきだ」という結論になってしまっている・・・
全く「自我むき出しが気持ち悪い」という問いの返しになっていませんね。

しかも、「不幸を願うと嫌な気分がする」ということがまるでお約束のように当然のこととして通過させてしまっていますが、果たしてそんな事実がどこにあるのですか?

現実には、世の中五万と自分の不幸を願う人もいるわけです。
まあ、これも結局突き詰めれば自我(エゴ)の塊に他ならず、
幸福を願おうが不幸を願おうが、そういうエゴイズムが気持ち悪いと批判者は言っているのです。
全くそこにスマナサーラは答えていないし、皮肉なことにも返答自体が自我むき出しになっているという結論に帰着していませんか?