真理の考察をしないか? [無断転載禁止]©2ch.net
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大学・大学院の6年間、自分なりに仏教学を中心に宗教を学んでそれに沿って真理の考察をしてきたが、未だに漠然としているわけです。
自称勉強をしてきた人希望ですが、真理という概念の考察をしませんか?
よろしくお願いします。 1です。
議論を中心に様々な視点から考察していきたいので、聡明な方が来られる事を待ち望んでおります! 議論のとっかかりとして、
まずあなたの真理観を提示されたらどうですか。 ただ真理と言っても、仏教の真理なのか、キリスト教の真理なのか、
自然科学の真理なのか、何をどう話したらいいのだろうか。
中道、四諦八正道、十二支縁起などが真理なのかどうなのか。
龍樹の中や空が真理なのかどうなのか。
いったい何をどう話したらいいのだろうか。
それとも真理そのものを定義するのだろうか。
テーマが漠然としていてわからない。 ご意見ありがとうございます!
そもそも私自身の理解として、真理は一つでもなく全てでもなく、人智の及ぶものではないものだと考えてます。
人智の及ぶ時点で、それは一つの理論でしかないと言えます。理論は真理でないのは言わずもがなでしょう。
しかしながら真理を考察するには、理論を持ってそれを利用するしか考察出来ないのが現状です。
そのような前提を持って色々と語り合えたらなぁと個人的には思っているのでございます!
捉えきれない真理というものを一旦概念化して考えると、色々な議論が出来るのではないかとも考えてはいます!
また、仏教にとっての真理・キリスト教にとっての真理等々と区分して考えることは個人的には、スレッドがただただ荒れる原因にもなるかも知れないと思っていますので、各種スレッドにて専門的なお話が出来たらとは思います・・・
ちなみに余談にはなりますが、私1は龍樹の中論の研究をしていましたので、何か専門的な質問等ありましたら気軽にお願いします!w こんにちは。私はヒンドゥー教徒です。何人かのグルは、仏教もキリスト教も同じ真理を伝えていると言います。もちろんヒンドゥー教もです。
真理は、人知を超えたものです。だから、それまでの道のりはいくつもあります。どこを歩んでも、智慧を学んで煩悩が滅却出来たらそれでいいのです。わかりますか?
禅宗のお坊さんには理解してくれましたが、ある牧師さんに上記のようなことを話しました所、「キリスト教以外を信仰しているようじゃ救われない」と言われました。理解してくれる牧師さんもいらっしゃいましたが、彼はいわゆる原理主義者だったのでしょう・・・。
確かにキリスト教の教えで人は救われます。ですが、この教えだけが正しいと言うべきではありません。私は、宗教の壁を超えて、同じ真理を探究出来ると思うのです。
真理はひとつという考え方は必ずしも正しいとは言えないでしょう。ですが、この理解を広めていかないと、宗教を原因とした争いは無くならない気がします。 ヒンドゥー教徒の方、コメントありがとうございます!
私も同じ考え?だとは思いますが、少し補足があります!
仏教徒にとっての真理・キリスト教徒にとっての真理等、真理という漠然とした普遍なる概念をアレだコレだと区分する考えを完全に否定するわけではありません。
学問的な考察をする上では上記のような区分をするのは仕方の無い事ではあるのかなぁと個人的には思います。
そうでなければ宗教学としての学問追求にならないからです。
ただ、宗教に基づいた実践生活が舞台になると、上記の理解のまま区分して生きるとなると話は変わります。
私は仏教思想をベースとした仏教徒として日頃生活を送ってますが、仏教にとっては真理はコレで、キリスト教にとっての真理はコレという区分はしておりません。
どちらかというと、漠然とした真理の追求を実践生活を通して考察する手段として各種宗教思想を利用しているだけなのであって、そのように利用するような立場でしか居られないという一人間であるという自覚を持って生活を送っております。
私は全ての宗教の目指すべき場所は、真理の追求と、排他的思考の撤廃であると考えております。
"真理はコレである"という考えによって、同じく真理を追求する立場にある他の宗教思想を排他し、自身の思想にのみに焦点を当てる。
そのような盲目的な思想が宗教ではないと考えております。
宗教は思想であり、哲学であり、文学であり、史学であり、先人の智慧と理解を超えていくためのものでもある。そのようなものであると思います。
私が"真理を考察する"という漠然としたテーマでスレッドを立てたかと言うと、真理自体我々からしたらその漠然性を孕んだ概念でしかないという事が言えるからです。
真理を追求することは、雲を掴むようなものでしかなく、この人生の全てを賭けても達することは無いでしょう。
しかしながら私も皆さんと同じく普通の人間なので、この場で真理の考察というテーマを通して何か皆さんとお話したいという知的欲求がありますので、様々なご意見等お聞き出来ればと思っております! ウィキによれば、真理とは次のようなものになるらしい。
真理とは、確実な根拠によって本当であると認められたこと。
ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。真実とも。
真理は、現実や事実と異なり、妨害・障害としての虚偽・誤謬を対義語
としており、露わさ、明らかさ、隠れなさに重点がある。
西欧哲学において真理論は論理学や認識論においてとりわけ主題化される。 従って、真理の定義は次のようになる。
@ 本当のことだとして、ある内容が言語で表現される。
A その内容が、多くの人々によって事実であると認められるようになる。
B その時、言語で表現された、その内容が真理だと言われる。
C しかし、真理にされた事実は、言語には存在しない。
D 言語は体験した事実の報告に過ぎない。
E ある事実を体験する。→ それを言語表現 → 真実か虚偽かの判定
F 大多数が真実だと判定する。→ それは真理だと認められる。
自然科学 ・・・ 水は高い所から低い所へ流れる。→ 真理
宗教の場合 ・・・ 神はいる(キリスト教)、神はいない(大乗仏教)
→ いまだ真偽不明 → 真理かどうかは信仰の有無に左右される。 神がいるかいないかは真偽不明だが、仮に誰かが神に出会ったとしたら、
その人にとっての真理は「神がいること」になる。霊魂も同じであり、
霊魂体験をした人の真理は「霊魂があること」になる。
従って、誰かが神や霊魂を体験すれば、この問題を解決する糸口ができる。
それらを体験する方法が多少なりとも明らかになるからだ。
神がいないこと、霊魂がないことの場合は違う。実際には存在するのに、
その人がまだ体験していないだけかもしれないからだ。
神がいないこと、霊魂がないことの証明は決してできない。 存在しないことの証明は不可能だ。
それにも関わらず、それをやろうと挑戦したのが竜樹である。
竜樹がこんな挑戦をしたのは画期的だが、それが不可能である以上、
中論には必ずどこかに論理の破綻がある。
それを見破るのは、中論を継承した日本人の義務になるだろう。 真理なんて無いもの考えてもしょうがないよ。
人によって判断基準が変わる「正しいこと」を考察したほうが有益。
まぁ2ちゃんだから、暇潰しに真理考察したいだけなのでしょうけど。
それにしても、暇潰しするにも最初から無い真理を考察するなんて、くだらないよ。 心は五感では確認できない。しかし心の存在を疑う人はいない。
この場合、「心はある」or「心はない」のどちらが真理なのだろうか。
心と同じように、命や霊魂も五感では確認できない。
五感で確認できなくても、それらが存在する可能性は十分にある。
霊と言われる存在は、物質ではないと言われている。
それから「真理」という言葉の使い方を間違えていないだろうか。
正しいと判断された知識を「真理」という。>>8 1です!
色々とご意見ありがとうございます!
真理という概念の定義自体で議論するのも面白いのかも知れませんね!
"真理はない"という意見もありましたが、真理を有・無の分別で理解すること自体に疑問を感じてしまいますね・・・
また、龍樹の中論に関する意見もありましたので、私の答えられる範囲で龍樹の中論における立場を述べさせていただきます。
まず、中論は龍樹と対立思想家との対論を大まかに歌調(シュローカ調)にして書き記しています。
対立思想家の偈頌と、龍樹の偈頌とで構成されており、1〜27章において龍樹の思想が対立思想家に対する帰謬論法で述べられています。
1〜25章にかけて龍樹は、対立思想家の"法(ダルマ)は実在である"という意見を、空でなければならない、空でなければ矛盾することになる、と帰謬論法を用いて批判しています。
対立思想家は、一切の本質であるダルマは実在すると考えており、そのダルマが業等によって別のダルマに成ると理解しているが、ダルマが実在である限り、ダルマは不変でなければなりません。
例を挙げると、十二支縁起の無明→行→識→・・・の変化は、無明が無明という実在で恒常のダルマであるなら、無明→行への変化は矛盾します。
対立思想家の意見のまま説明すると、無明は無明のまま恒常でなければなりません。
無明から行に変化することはないのです。
無明は恒常で不変なものでなければならないのですから。
龍樹は、対立思想家の"法は実在である"という部分を徹底的に否定します。
法は空である、空であるから縁に縁って変化が可能である。
"一切の本質が空である"という前提を説くために中論のような対論をしたのだと言えます。
なので龍樹は、決して"存在しないことの証明"をしたかったのではなく、
"有るのでなく・無いのでなく・有、無のどちらでもあるのでなく・有、無のどちらでもないのでもない"。
そのような四句分別を超えた空という真理の証明のをしたかっただけなのです。
中論に見られる龍樹の思想は、大乗仏教教団の思想の根底となる思想であるので、是非皆さんも興味がある方はお目を通してみて下さい!
長文失礼いたしました! >>14
>そのような四句分別を超えた
>空という真理の証明をしたかっただけなのです。
誰も「空」という事実を確認できない以上、「空」という真理は
どこにも存在しないと思いますが、どうでしょうか?
それに四句分別したからと言って、それで真理になるわけでもありません。
四句分別は、論議領域を示しているだけだと思いますが? 龍樹は「中論」の中で、有と無を縁起させています。
中村元著「龍樹」〜 中論第五章第六詩参照
しかし、有と無は果たして縁起するのでしょうか。
有と言う以上、五感の対象になる、何かしら物質的な存在なのでしょう。
ところで、無はどうでしょうか? 無とは何もないわけだから、
自分の目の前にあるのは有だけになりませんか。
有だけしかないなら縁起は成立しません。
龍樹の誤りは、有と無を縁起させている所から生じているようです。
有は、無を相手にしたら空振りするばかりですね。
これはもちろん、龍樹の誤りの中の、ひとつでしかありませんが。 このことがあるとき、このことがある・・・中論1章10詩
これが縁起ですが、有と無が縁起してるなら「有があるとき、無がある」
ということになるわけです。しかしこれはありえません。
有があるときは有しかないからです。
かの有名な中論24章18詩
どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたもので
あって、それはすなわち中道である。
龍樹は有と無を縁起させます。四句分別から、有もなく無もない。
有かつ無は矛盾する。従って、空とは後に残った非有非無(虚無)になる。
空は同時に中道でもあります。ただ、無と非有非無(虚無)は違うようです。
虚無を喩えれば、夢や蜃気楼のようなものらしいのですが、
龍樹が何を言いたいのか今ひとつすっきりしません。
人生には実体がなく、夢、まぼろし、蜃気楼の如しでしょうか。 さて龍樹は、中論2章で、説一切有部の論理的な矛盾を突き、
去るものは去らず、という奇妙な主張を展開します。
運動を否定するわけですが、これは事実に反する詭弁でしょう。
さらに19章では時間を否定します。
これは運動を否定することの当然の結果だろうと思われます。
この世から運動と時間を取り除くわけですが、そんなことをすれば、
夢、まぼろし、蜃気楼のような現実になることでしょう。 人生、夢、まぼろしと来れば、信長が好んだ幸若舞の「敦盛」でしょう。
思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ 日本人は古来、仏教にも深く影響されてきました。
人生を夢、まぼろしと観じるのは、仏教の影響かもしれません。
でもそれはキリスト教も同じです。
あの世を目指すキリスト教は、仏教の世界観と酷似しているのです。
その人が救世主になるか、売国奴になるかは紙一重です。 知りうる対象は実在ではなく
知られないものこそが実在する
知の否定によって
あるがまま
起こるがまま
知ることとはどういう事か?
という 中論3章2詩・・・実に見るはたらき(視覚、眼)は、自らの自己を見ない。
自己を見ないものが、どうして他のものを見るのであろうか。
龍樹は、人間の眼は<見る主体>である自己を見ることができないと
主張します。これによって彼は<見る主体>を否定します。
見る主体がなければ、見る働きもなく、見る対象もないと話を展開します。
つまり龍樹によれば、人間はこの現実において、夢、幻、蜃気楼を見てるに
過ぎないのです。過ぎ去ってしまえばまるで夢、幻のようだし、
歴史の中に消えて行った人々のことを思えば尚更です。
理屈はともかく、こういう感性に共感する日本人は多いことでしょう。 では3章2詩の場合、龍樹のどこが誤りなのか。
実際には、自分で自分自身<見る主体>を見ることが可能なのです。
もちろん簡単ではありません。しかし可能です。
人間の心は、意識、マナ識、アラヤ識という三重構造になっています。
信じ難いでしょうが、その意識それぞれに身体があり、
五根(眼耳鼻舌身)が存在するのです。
さらにアラヤ識の先に、透明な丸い球体である霊魂が存在します。
霊魂には意識があり、必要に応じて触覚も視覚も聴覚も出現するのです。
これが、究極の<見る主体>であり、究極の自我です。
ちなみに、坐禅中に滅尽定を経て脱魂、坐禅中のマナ識が意識を取り戻せば、
脱魂した霊魂を上空に見上げることができます。
ただし、死ぬ可能性があるので指導者の下で挑戦してください。 身体から霊魂が抜けても、身体はすぐには死にません。
身体にはマナ識が残っていて、これが空中の霊魂を見上げます。
瞬間的ですが、自分が二つに分かれるのです。
その結果、マナ識にある見るはたらきで、<見る主体>である霊魂を
見ることができるのです。
見るはたらきは、自らの自己を見ることができる ← これが真理です。 まだ霊魂体験をした人はほとんどいません。
しかし、霊魂体験をする方法はすでに明らかにしました。
従って、霊魂が存在する ← これも真理です。
人間の中に霊魂という実体が存在する以上、
→ 龍樹の「中論」に基づいた大乗仏教はどれもこれも成立しない。 中論18章1詩・・・もしも我(アートマン)が五つの構成要素(五蘊)で
あるならば、我は生と滅とを有するであろう。
もしも我が五蘊と異なるならば、我は五蘊の相をもたぬであろう。
(注)五蘊とは色受想行識をいう。
人間の中には、常住の我(アートマン)である霊魂が存在します。
しかし、龍樹は霊魂体験がないため、8詩後半の我の定義を間違えます。
身体(色)がなくても、霊魂には受想行識があります。← これが真理です。
龍樹の定義では、霊魂が排除されています。
身体があるから生と滅がある。身体がない霊魂には生と滅がないのです。
この霊魂が、キリスト教で言われる「永遠の命」に該当します。
それはイエスと無関係であり、坐禅によって体験できるものなのです。
逆に言えば、坐禅以外では絶対に体験できません。 中論27章17詩・・・もしも一部分は神的で、一部分は人間的であるなら、
無常でもあり、常住でもあることになるであろう。
しかし、そういうことは理に合わない。
同章18詩・・・もしも無常と常住の両者が成立するならば、常住でもなく、
無常でもないということが、欲するがままに、成立するであろう。
人間は霊魂と肉体から構成され、霊魂は常住であり肉体は無常なので、
龍樹が理に合わないと考える17詩と18詩が常に成立します。
霊魂(神的) → 常住 → 無常ではない・・・常見とも不断とも
肉体(生滅) → 無常 → 常住ではない・・・断見とも不常とも
仏教は「不断不常の中道」を宗旨とします。
従って、人間に霊魂があることは、仏教の宗旨に沿ったものなのです。
霊魂を否定すれば、断見外道に落ち、仏教の否定になります。 非有非無の「空」など存在しないのです。
大乗の「空」は、事実の裏付けがないので、虚偽ないし誤謬になります。
もうこんな話は卒業しようじゃないですか。
こんな所で停滞していてはいけない。
まだまだ先があるのです。 個は存在しない
全てが消滅しても残る
破壊され得ず、触れられず、変化しないそれ
実際それだけが唯一の実在であり、究極の救いなのだ >>21 >>30
謎めいた文章ですね。
凡人にもわかるように語ってくれると有り難いです。 不断不常の「中道」とは何か。
人間は霊魂と身体(物質)を生きているのだから、
霊的なことばかりに没頭するのではなく、身体の世話もしなければならない
ということでしょうね。
そういった意味で、信者の布施に頼って生活する仏教の在り方は疑問です。
十一献金で生活しているキリスト教の神父や牧師も同じ。
どんな人であっても、世間で働けるうちは働くべきなのだと思います。 僧侶にしても、神父や牧師にしても、
お金が貰える方に心が向い、媚びへつらい、ウソをつき始めるのです。
世の中で誰が一番堕落するかと言えば、
仏教の僧侶とか、キリスト教の神父とか牧師になるでしょうね。
彼らは因果な商売をやっているのです。
世間はつらいけど、世間で生きる方がよっぽど幸せです。 >>32
【タイの民衆はなぜ熱心に僧の托鉢に応えるのか】
タンブン(功徳を得る、徳を積む)にはさまざまな行為があるが、寺院を建て、土地を寄進することが最高のものである。
これはかつて王侯貴族が盛んにおこない、現在は富豪にのみできることだが、
村の祠堂の修繕や新築に少額の寄付を寄せ合ったり労力を提供することは、庶民も日頃おこなうところである。
毎朝、托鉢僧に食物を捧げることや、折にふれて僧に衣や日用品を供与することは、庶民に一般的なタンブンである。
僧の方からは托鉢を、「衆生を喜ばせる行」とよんでいる。
在家者にタンブンの機会を与えるために僧がわざわざ出向いていくという発想である。
http://www.alter-magazine.jp/index.php?%EF%BD%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AE%E6%B0%91%E8%A1%86%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%86%B1%E5%BF%83%E3%81%AB%E5%83%A7%E3%81%AE%E6%89%98%E9%89%A2%E3%81%AB%E5%BF%9C%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BD%9E
信者の布施に頼って生きてるのではない。
信者のほうが功徳を得る機会を僧の托鉢という布施行に頼っているのだよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています