くまは、瞑想は心の健康法として有効だと実感しておりますが、
それを「無我」の実感を得るため、自らに無我の確証を得させるための取り組みとした場合、
困難さが予想されます。
一般に、証明においては、不存在の証明は「悪魔の証明」と言われ、不可能とされています。
従って、立証責任は常に存在を主張する側にあります。
しかも、ここにおいて証明を求められるのは、「無我」=自分と思っているものは自分ではない、自分のものではない、ということであります。
心身の痛みを感じるとき、それは疑いようもなく自分の痛みでありましょう。
それが、自分のものではないなんて・・・・
従って、ここにおいて、一般の原則に従い、無いこと=無我の確証を得ようとするよりも、あること=「海の意識」の実感を得ようとする方が合理的かなと思ったのであります。
しかし、考えてみますと、ここにおいて証明とは、他者に対してするものではなく、自己が確証をもつために行われるものであり、
必ずしも一般の原則の適用が求められるものでも、有効なものでもないかもしれないと、昨夜思い付きました。
「止観」、「ヴィパッサナー」、「内観」とかいう技法は、全て自分の「心」のありのままを観察する技法でありましょう。
その観察において、「ありのまま」といっても、機が熟さないと、観察対象は潜在意識の奥深くにしまいこまれていて出てきません。
だからこそ、激しく「苦」が意識される時こそ、観察の好機となるわけですが、
ただ観察を捗らせるために自ら「苦」を招くようなことは、したくありません。
やはり、深く静かに心の観察をし、潜在意識の奥底まで追求してみることを続けることが必要なのでありましょう。
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(-(ェ)-)
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