いまから6時間以内に悟りをひらきたい [無断転載禁止]©2ch.net
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ひらけたらピザ頼む。
ダメだったら、断食する。
だから誰か、知ってる人おしえてくれタノム。 食い物を褒美に求める者は
他者を食い物にすることを褒美に求める
そのようなものは容赦なく餓鬼道に落とされる。 悟りとは差取り。すなわち格差ないこと。隠さない事である
ゆえに自らの恥部を隠すアダムとイブの子孫は
永遠に悟りを開くことはできない。
諦められよ。 1および2です。
じゃぁ、あなたはどうなの?
裸なの? ↓これを六時間で実感できれば、小悟かも!張り切って参りましょう!
比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。(南伝相応部経典22-15)
比丘たちよ、色(肉体)は無我である。比丘たちよ、もし色が我であるならば、色が病に捲きこまれるようなことはあるまい。あるいは、その色について、わたしの色はかくあるがよい、わたしの色はかくあってはならないということができるはずである。
だが、比丘たちよ、色は我ではないからして、色が病に捲きこまれることもある。あるいは、その色について、わたしの色はかくあるがよい、わたしに色はかくあってはならぬということはできないのである。(南伝 相応部経典22-59 五比丘) >>11
Wikipedia 色 (仏教) より抜粋。
仏教における色(しき、サンスクリット語: 、rpa)とは、一般に言う物質的存在のこと
漢訳で「色」と訳されたサンスクリット語のルーパ(rpa)は、「色彩」とともに「形」という意味も含んでいるため、「いろ」「かたち」で表現される物質的存在という意味が、すべて「色」という漢語の中に集約されている。
だ、そうであります。 何をもって自我を感じるかと考えた時、痛みや快楽をを感じたり、見たり聞いたり匂ったりする体の存在は誰しも疑えないところだから、体と言ってるのかな?
その体の機能を通してしか世界を認識し得ないから体と言ってるのかな?
∧∧
(-・(ェ)・-)
_| ⊃/(___
/ └-(____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ほーん
ほいじゃぁ苦なるものは無我ってのはなんやろう?
苦しみは無我?
意味不明やね。 Wikipediaによりますと、
無我(むが、パーリ:anatt、サンスクリット: antman)は、仏教用語で、「我」に対する否定を表し、文字通りには「我ならざるもの」という意味である。
だ、そうであります。
従いまして、「苦しみは無我」とは、
苦しみのまっただ中にあり苦しみと一体になってしまったように感じるときでも、それは我ではないよ。といった意味でありましょうか? 前世が何者なのか悟ることは己を知ること
知って後悔するのも歓喜するのも悟りのうち たとえば思考、感情、体の感覚(五感)
これらが自分、我ではない、というのは分かるんだよ。なんとなく。
でも、それにスポットを当てるもの、注目するもの、意識??
これはどうしても自分、としか思えない。 たとえば、腰で体を支えている感覚。
本当は24時間いつもある、起こっていることなんだけど、これに注目して、名前をつけたり、気持ちがいいとか、痛いとか思っても。
そのときの腰の感覚は、そのときにしか現れない。
つまりいくら頭で、捕えようとしたって、自分の体のことですら、捕えられない。
思考も実は同じで。
いくらそれに注目しても、いろいろ発見とか、大事な何かとか、分かったとしても、それも「思考」という機能に着目した、ということにしかならない、
集中した、というか。
つまり、思考にも、感情にも、感覚にも、頼れない。 >>19
>たとえば思考、感情、体の感覚(五感)これらが自分、我ではない、というのは分かるんだよ。
←それはすごいですね!
>でも、それにスポットを当てるもの、注目するもの、意識?? これはどうしても自分、としか思えない。
←スポットを外しみようとしても、それを意識すればするほどスポットを当ててる主体が自覚されてしまうので、この際逆に、一日中スポットをあてつづけてみようとしても、これもまた難しいですよね。 スポットを一日中当てる、、、?
つまり、スポットも我ではない、ということだと思うんだけど、1度それも試してみます。。。 集中力を高めて高めて集中対象と一体になるほど高めて、忘我に至ることができるひとは、そこからふとしたきっかけで「自我」が生じる場面(我にかえる)をとらえることができるのでしょうが、
凡人にはそれはなかなか困難でありますので、逆に常に「自我」を意識してみる習慣をつけてみることは、注意深い行動につながり悪いことではないと思うのであります。
そして、何かに集中した時に、自我が消えると言うか、もともと「我がある」ということ自体が観念妄想に過ぎなかったと気づけるのではないかと妄想してみた自我であります。
生じる場面をとらえるのが難しければ、消える場面をとらてみよぉう!
はてさて。
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_) 無我とは、生きてある限り疑いようのない「自我」の実感が、実は幻想なのだよという仏教的真理とされるものみたいでありますね。
修行によりその実感を得ることにより自らに証明するまでは、自我の実感は疑いようがなく、無我を仏教的真理だからと信仰することは、恐らく修行の妨げにしかならないでありましょう。
(´・(ェ)・`)ゞ なるほど。
無我みたいなものを感じたことはある。
ああ仏陀やキリストが言いたかったのはこれか、と思った。
でも、そう「思った」ってのは、やぱり自我なのかな?? >>27
何かを見たり聞いたりにおったり感じたりしたときに、それを瞬間に記憶と照合して、それを言葉=観念に置き換え認識する主体が「自我」。
その言葉=観念に置き換えられたものとしてのみ自分を含めた世界を認識しているのが、自我。
ただ、観念に過ぎないものは儚く消え去る。
実体があるとか無いとかの思考も、観念に過ぎない。
観念=「脳」より外に人はでれない。
実体のある無しを問題にしてるのではなく、思考、感情、苦の原因、全てはその儚い観念としてしか認識しえない。
しかし、心の観察を続けていれば、ひょんなことから「無我」の「実感」を得られるかもしれないなぁ・・・と期待(執着)しないように装いながら、本心期待してしまうのであります。
はてさて。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_) と、ところで、あなたは悟っておられる方なのでしょうか??
どちらにもとれる文だったので… もっと自分の経験に自信をもって勘違いして生きたほうが良いと思います。 .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ旦と)
.と_)_)
いえいえ、単に「止観」を実践してみたら、生きるのがかなり楽になったとを実感したというだけであります。
「止観」は誰にでも出来る生きるのが楽になるテクニックでもあると思うであります。
けど切実な「苦」から遠ざかると、「止観」の取り組みも今一つ甘くなります。
苦しみを抱えてる時ほど修行は捗るようでありますね。 >>31
勘違いとは??
例をあげていただけませんか。 >>32
そうですね、僕もそうです。
苦しみから開放されるために、苦しんでいなければ修行に打ち込めないなんて、馬鹿な話ですが笑 >>34
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ旦と)
.と_)_)
で、ありますね!
けど、「止観」で楽になれる実感を得たことは、やってみて本当に良かったなと思うであります。
どうせなら「無我」まで行ってみたいであります。
無我ってのは、自他の別も主観も客観も、生死の別もない、ただひとつの意識のみある境地だそうでありますが、
「苦」があれば、その境地を求める修行が捗るなら、新たな「苦」すらも、その時心を観察することを忘れさえしなければ、ある意味受け入れられそうな気もするであります。 瞑想はじめて間もないですが、寝起きスッキリしてきました。
ちょっとずつ続けていこうと思います。 .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
がんばりましょう! 苦しんでいる時ほど修行に打ち込める理由は何故でありましょうか?
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)
たとえば、深い悲しみや怒りの直中にあり、その感情に支配されてるとき、それはそこに明確に「意識」され、それは自分自身と一体のように感じられる。
この克服対象としての「意識」を明確に「意識」することができるのが「苦」の体験だから、修行に打ち込めるのでありましょう。
この「くまの」「意識」が「ただ一つの意識」と入れ代わるか、「くまの」の部分が実は幻想なのだと気付くことが「無我」の実感なのでありましょうが、くまにはくまが付きまとうのであります。
はてさて・・・・ うーーーん。
なるほどー。
途中まで理解しました笑 .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ旦と)
.と_)_)
途中までご賛同いただき心強いであります。
くまは無我の実感未だなく、くままみれでありますので、無我を説明するのは不適切なのでありますが
無我っていうのは、無我に「なる」っていうことではなく、あ〜っそぉ〜なんだ!と気付くことらしいのであります。
そうすると、無我って気付くのは「誰?」ってことになるのでありますが、
身体(脳)の機能としての思考、感情、感覚等が消えてなくなるわけではなく、それらの思考、感情、感覚等の「主体」が存在しない、「自我」と思っているものが実は幻想であると言うことに気付けば良いらしいのであります。
無我を実感し得たとしても、記憶喪失になるわけでも、感覚が麻痺するわけでも、思考できなくなるわけでもなく、
「くまの」の部分がなくなるだけみたいであります。 すごく研究、観察されてますね。。。
くまさんも座禅をするのですか?? ..∧_∧
(〃・(ェ)・〃)
.(つ∪と)
.と_)_)
いえいえ、とんでもないであります。
けど、苦しかったので、かなり真剣に、瞑想に取り組んだであります。
で、当初の目的はある程度達せられてしまったので、最近はサボりがちであります。
ただ、以前書いた通り最近はできるだけ日常生活を通して意識的にあろうとしてるであります。
半端者のくまでありますので、あくまでも、できるだけでありますが・・・・ ..∧_∧
(〃・(ェ)・〃)
.(つ∪と)
.と_)_)
はずかしなから、半端者くまののうがきのつづきであります。
で、ありましてでありますね、日常意識的にあり続けようとしても、なかなかどうしてこれが、そうそうできたもんではないのであります。
ついつい無意識にいろんな事をしてるのであります。
てか、できちゃうんであります。
思考する時、感じる時も同じなのであります。
意識的に課題に取り組むこともできますが、無意識の反応として多くの課題を処理したり、バカにされたら反応として怒ったりしてるのであります。
で、「苦」に繋がるような怒りとか不安といった感情や思考に囚われたとき、それが「自分の」怒りであり不安であると意識されるのであります。
日常無意識にできちゃう事も、それは当然「自分が」してるのであって、無意識にしたことも責任は当然「自分に」あるのであります。
ここで、くまがほざきたいのは、個体としての責任の有無の問題ではなく、
くまの行動、くまの思考、くまの感情、というように「くまの」と意識されずに行動、思考、感情が生じているという経験的な事実なのであります。
「無我」の実感とは程遠いのでありますが、これは>>9で引用した
>無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。(南伝相応部経典22-15)
ということを、言葉として理解するヒントくらいにはなるのではないかと愚考するくまなのであります。 おそくなりました。ゆっくり読ませていただいてます。
意識的、というのは、無意識を観察する、という感じですか?
未開拓な土地を開拓していくような?? いえいえ、くまがやろうとしてるのは、もっと簡単なことであります。
歩くとき、食べるとき等々、日常無意識にしていることを自覚的に、ただ気付いていようとしてるだけであります。
思考や感情についても、それを意識的にコントロールしようとするよりも、それにただ気付いていようと心掛ける方が、感情や妄想に巻き込まれることが少ないであります。(否定も肯定もせず、抑圧もせず)
けど、常に自覚的、意識的にあることは難しいであります。
無我を求めて逆に、自我を強化してしまわないように、ただ気づいているという点が重要な気がするであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)
.と_)_) それは、意識的に「無我ではない、無我を感じていない自分」をみる、ということでしょうか?
もしそうなら、海を感じようとして、魚を見つめている、ようなことではないでしょうか。
魚は海ではありませんが、海の一部といえます。 >意識的に「無我ではない、無我を感じていない自分」をみる、ということでしょうか?
←だいたいそうであります。否定できない自我をそれをそのまま「みる」であります。
>もしそうなら、海を感じようとして、魚を見つめている、ようなことではないでしょうか。
←魚を登場させるとくまの籾殻脳が混乱してしまうので、
海=「遍在する意識」に対して、その波立つ海の飛沫であるところな「個の意識」を見てみようとしてるのであります。
「分離された飛沫が意識を持ってしまったとの幻想を抱いている」いう比喩が適切な比喩であるかどうかを、飛沫であるくまは確かめてみようとしてるのであります。
果たしてくまは「遍在する意識」を実感できるか!
くまの大冒険であります!
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_) ..∧_∧
(〃・(ェ)・〃)
.(つ旦と)
.と_)_)
はっ。オモシロがっていただけると、くまも本望であります。
修行は楽しくやりたいであります。
くまのれぞんでーとるは「癒し」と心得ております。 何だか、ぼくも目標というか、同じ感じのような気がしてきました。
ところで、ここはご存知ですかー?
http://www.geocities.jp/ubik0101/
すごいところですよ… >>52
.∧_∧
(・(∀)・)
.(つ旦と)
.と_)_)
>目標というか、同じ感じのような気がしてきました。
同行者があることはうれしいことであります。
くまが修行を志した動機はあくまでも「苦」を何とかしたかったということであります。
その方法が宗教である必要もスピリッチャルである必要もオカルトであるひつようもなかったのであります。
何か特別なことを「求めた」のではなく、「苦」を免れたかっただけなのであります。
ところで、ご紹介いただいサイトの最初の方だけちょぴっと読んでみましたが、くまにはピンと来るものがなかったので、読み進むことはないでありましょう。
けど、ありがとう。 いまは苦は、なくなったのですか??
その時に抱えていた苦がなくなったのか、それともすべての苦がなくなったのかな??
読んでもらって、ありがとう。まぁまた機会があれば。 くまは修行中のくまでありまして、「苦」がなくなったわけではないであります。
けど、「止観」の実践のお陰で、感情やそれをもたらす思考、妄想、をコントロールすることは容易いことん実感できたので、だいぶ生きやすくなったであります。
>読んでもらって、ありがとう。まぁまた機会があれば。
←もしかして、ブログの製作者さんなのでありますか?
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ旦と)
.と_)_) へー、止観って、仏教の瞑想のこと、なんですね?
ウィキを見ました。
いえいえ、自分は一読者のひとりです。
濃い掲示板ではいつも質問に答えてもらったりしてます。 うんうん。
けど、釈迦が発明した方法ではなくもっとずぅ〜っと昔々からインドで行われていたらしいでありますよ。
釈迦は、超頭の良い人だったみたいでありますが、当時の宗教では自分の「苦」は克服できなかったので、自分一人で自分の心に問いかけ、悟りを開いたらしいであります。
人生は「夢」のようなものであり、目覚めた人とされるのが釈迦でありましょう。
その目覚めるため教えが釈迦の教えでありましょう。
その方法として推奨されたのが「止観」らしいであります。
「止」=集中。集中して思考妄想を止める。
「観」=心に浮かぶありのままを観察する。
自分の「苦」を克服できるのは自分だけでありましょう。
どのような苦境にあっても、この誰でも出来る「止観」という方法が「仏教」的と評されることを釈迦は望んでいなかったでありましょう。
くまなり理解では「縁起」とか「因果」とか「八正道」とかは、「観」の際のガイドみたいなものかと思うのであります。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_) 止観といっても、止と観は別のものなのでしょうか。
妄想をとめて集中する、と
心を観察
って反対のことに思えてしまいます。 >>58>>59
>止と観は別のものなのでしょうか。
←一緒にやっちゃおうとする方法もあるみたいでありますが、くまは別々にやる方がやりやすかったでありますが、
どっちでもよいのではないでしょうか。
妄想をまみれでは、それに巻き込まれ何をどう観察すりゃいいのやら、途方にくれてしまうくまでありました。
で、まず呼吸に集中して、出来るだけ無思考の状態を維持するようしたであります。
そこはほれ、半端者のくまのやることでありますので、「できるだけ」でありますが・・・。
で、妄想まみれの心というか思考というか、とにかくちょぴっと静まってきても、それでも出てくる、思考、妄想にまみれないように、できるだけ早くそれに気付いて、
集中対象である呼吸にもどるだけであります。
この思考妄想に気付くと言う部分が、ある意味観察の基礎みたいなものでありましょうが、
観察は、その思考妄想を否定も肯定も抑制もせず、
ただありのままに観察するのがよいみたいであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
半端者、修行中のくまの能書きでありました。
けど、くまは↑こんなんで、かなり楽になれたであります。
おすすめであります! ほぇー
また参考にさせていただきます。
ちなみに、今まで冥想してて、なにか不思議なこととか、体験とか、ありましたか?? >>61
うん。ありますが、ごくありきたりなことでありまして、読んだり聞いたりすることが、本当にあるのかな?と半信半疑でやってると、
ありゃ?みたいな感じでありますよ。
それは脳内物質の影響でありましょうから、格別不思議なことでも何でもないであります。
不思議なことに、それらは求めてない時にはじまるのであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)
.と_)_) 籾殻脳くまのたわごと。
ただ一つの意識=海の意識。
波立つ海の飛沫の一滴が、分離された独自の意識をもっているという幻想が自我の意識。
という表現が正しかったとして、
分離された自我意識は、個々の記憶に基づく観念=言葉により世界や自分を理解しようとし、表現しようとする。
そして今くまもくまの籾殻脳理解に基づきこれを書いている。
無我、不二一元、と言っても、あなたが居ないわけでもくまがいないわけでもなく、みんなみんな居るのである。
本来海の水の一滴でしかないものが、自分は海であることを思い出すことが「悟り」なのでありましょうかねぇ。
万事に執着するなと言うのも、この一滴のくまにとって疑いようのない「自我」を薄めて、「くまは海なんだ!」と実感するための訓練方法の一つなのかもでありますね。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つ∪と)
.と_)_) おはようございます。
やっぱり瞑想は奥が深い、ですね。
ちょっとずつ続けてみようかなって、思います。 こんにちは。
そうでありますね!
身体の健康のために散歩が効果があるように、心の健康のために瞑想習慣は効果絶大であります。
禅宗では、安楽の法門とも言われるようであります。
∧_∧
( ´∀`)
⊂ ノつ
人 Y
し (_) きのうはくまさんの言葉で思い出して、瞑想、ではなく散歩とランニングに行きました。
身体もあたまも、なんだかスッキリです。
今日は雨だし、瞑想に集中しようかなーと思う、いまこの頃です。 ∧∧
(-・(ェ)・-)
_| ⊃/(___
/ └-(____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
うんうん。心地よく身体を動かし、好きなことを集中して行うことにより集中力を鍛え、その集中力で自分の心をありのままに観察するだけで、
ありゃ不思議!の世界に誰でもちょぴっとだけなら行けるような気がするくまであります。
世界平和!みなの心の平安!
おやすみなさい。 でもどうなんだろうくまさん。
俺思うんだけど、無我の境地とか、まぁ感じたとするよね?
でも、それって多分世界の全部が完成とか輝いてる感じになるんだよね?
ってことは、何か無我の境地とか、悟りとか、そこにゴールというか、目標のモノがあるわけではない、んじゃないかな?
とか、思うんだ。 どうなのでありましょうね?。
自我のフィルターを通さず、ありのままをみれば、
>世界の全部が完成とか輝いてる感じになる
←らしいでありますね。
更に「死」をもって閉じる自らの存在に対する不安との戦いを終え、
完全な平安の中に入れたら、それは流石に「にゴール」でありましょう。
>何か無我の境地とか、悟りとか、そこにゴールというか、目標のモノがあるわけではない、んじゃないかな?
←大乗の誓願のことでありましょうか?
/ / / /
_n_
///|ヾ\ / /
⌒⌒|⌒⌒
/ |∧_∧ / /
|・(ェ)・`)
/ Oと ) / /
しーJ。。。。。 昨日は瞑想、なんかいい感じに出来ました。
思考を思考と気づくのが、今までダメダメだった気がします。
大乗の誓願?ググってもでません、、何でしょうか? .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)
.と_)_)
うんうん。何かいい感じに行くときと、じゃない時がありますよね。
Wikipediaによりますと、
誓願(せいがん、梵: praidhna, プラニダーナ)とは、大乗仏教において、仏道を志すものが願いを成就させるという誓いを立てること。
菩薩が一切衆生を救済するという願いと誓いを立て、願いが叶うまでは自分が涅槃には赴かないとする。大乗仏教徒によって強調された。また阿弥陀仏の本願も誓願と同じ。
だ、そうであります。
(つづく) >何か無我の境地とか、悟りとか、そこにゴールというか、目標のモノがあるわけではない
←無我であり、不二一元であるとするならば、自他の別も、主客の別も、生死の別もなく、スタートもゴールも目標もないということになるのでありましょう。
ここで、全てが観念であり幻想であるとするなら、何故「誓願」だけ別なんだ?という点に付きましての、くまなり籾殻脳理解では、
そもそも、観念だ幻想だと言っても、くまや皆や、くまの掌にあるガラ携や、居住空間や空や大地や宇宙が幻であり、何も存在しないと言う話ではなく、
ないのは「自他の別」と言う「観念」であり、「ガラ携」、「宇宙」と言った「観念」 なのでありましょう。
くまは、自分や世界を言葉と言う極めて限定的不十分な道具で多面的な対象の一断面をとらえて「認識」することしかできませんが、
無我の実感を得ることがもし出来れば、
自我のフィルターを通さず、ありのままの世界を受けとる(?)ことができるようになるということでありましょう。
「不二一元」とは、自他、主客、生死、一切合切全て「ない」、その一も全てもない・・・という、むちゃくちゃな、みもふたもない話でありますが、
おそらくそこで言われてるのは、それらの「観念」「言葉」を捨て去ることによってしか、本当のことには到達できませんよって事なのではないでしょうか?
完全な「悟り」にまで至らなくても、「無我」の実感まで何とかたどり着ければ、そこにおいては、
不安や恐怖や欠乏感等を感じる「主体」がないわけでありましょうから、ある意味それで一丁上がり!って感じになってしまってもよいのでしょうが、
そこはそれ、他者のまだ、「苦」を抱え込んで、もがいているくまたちのために、手をさしのべましょううて、修行を始める前に誓いましょうって話ではないかな・・・と
くまの行き当たりばったりの籾殻脳理解でありますので、変だなと思ったら、この前のサイトの先生に聞いたり、調べたりしてみてください。
.∧_∧
(・(ェ)・) 例えば、「次元」という「観念」があります。
点が一次元、線が二次元、それに高さが加わって三次元。
これがくまたちの住んでる世界であります。
三まであるならそれより更に高い次元を想定できるはずでありますが、ぼんくらな凡くまであるくまにはわからないでのであります。
高さのない二次元においては、三次元を知ることはできないのであります。
なぜなら、「高さ」が「ない」からであります。
同様に仮に高次元を垣間見ることができたとしても、それは二次元で平面の影を見て高さを想像させるような言葉でしか説明できないでありましょう。
りんご、ごりら、ラッパ、パイナップル、ルビー、ビーダマ、マイク、くま。
やっとくま登場。
まぁ〜そのぉ〜、言葉を聞くと、それらのイメージはわくのであります。
そのイメージをもって、そのものを知っているという気になってしまうのであります。
また、イメージのわかないものは、認識出来ないのであります。
くまを離れられないくまは、波立つ海の飛沫の一滴のまま、もがくのであります。
まさかくまが海だとはイメージがわかないのであります。
「自我」とはなんぞや?
くまにとっての自我とは、まさに、記憶であり、その記憶は言葉でありイメージであります。
ことば=観念で理詰めで「無我」を実感しようとしても不可能なのであります。
無我夢中ということばがありますが、
一所懸命集中して、我を忘れ、対象と一体化し、ふと我にかえった時に、自我が生じる瞬間を目撃できれば、
その瞬間こそが、逆に遍在する意識を実感できる瞬間なのではないかなと思うのであります。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_) あっ!それからもう一つ、
>>48でピザ主さんが、
>魚は海ではありませんが、海の一部といえます。
と書いてる点なのですが、
人の体はたくさんの細胞というか命のより集まったもので、赤血球とか神経とか
詳しいことはわかりませんが大腸菌とかガン細胞とかも命でありましょうが、それらを命を意識せずにくまやみながあるように、
宇宙からみれば、人も地球の一部であり、地球も銀河の一部であり、
全ては生まれて滅するものであり、それでもある「意識」が所謂一つの海の意識なのでありましょうかねぇ?
そのように考えると、まぁ小せぇことはほっといて、みな仲良くしようや!
って気になる単純なけまであります。
.∧_∧
(・(∀)・)
.(つ∪と)
.と_)_) くまさん、本当は無我とか体験したことあるのではないですか?笑 >>75
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
いいえ。
くまはくままみれのくまであります。
何かを知りたい、「苦」を克服したいと張り切ってるのはまぎれもなく、くまであります。
けど、ある程度感情や思考に苦しむことに対する対処法が身についてくると、まぁ小さいことはほっといてもいいじゃん!
的な受け入れ方ができる様になってきたとは言えるであります。
くまには「主体がない」という実感はなく、主体は「生成変化する」程度でしかありません。
遍在する意識の存在に気付く=実感できれば良いなと思うのでありますが、
取り組みとしてそれは、無我の実感を得ようとすることと同じことのようでありますが、実は大きく異なるのかもしれません。
なぜならそれは、無我の実感=自我の不存在はそのまま自らの「死」とイメージが重なるからでありましょう。
否応なしに死すべくしてあっても、やはりそれは究極の「苦」であり、それとの真剣な取り組みを無意識に避けたいとくまが思ってるのでありましょう。
無我を深く追求して行く道はまだまだこれからであります。
この辺まで来ると、心の健康法を越えて、チョピッと「修行」ぽくなってくるでありますね。 そうですねぇ、悟りや無我なんて、最高の健康法のはずですよね。
だからこそ求めてしまうので。
そらまぁ悟った人には、運動や食事、習慣の方が大事だ、なんて言われそうですが。
くまさんの仰ること、全てその通りと思います。
そして、言われるように理詰めでは仕方ない。。
ではどうするか?
瞑想と、自分の研究、日常をちゃんと過ごすこと。
というのが僕の方法かな?
早く無我を手に入れて、ピザを食べてしまって、【ピザ主】であることから解放されたいです。
お互いの健闘を祈ります… 本気出すなら・・
今からサウナに行く・・
体を清め・・サウナに入る・・10分(ここで苦を感じる)
水風呂に入り頭と体を冷やす・・3分(ここで解脱の感覚を味わう)
外に出て座禅・瞑想する・・5分(私がいないことを知る(涅槃の境地)
これを4回繰り返す・・
最後の瞑想で自我が無いことを知れば成功^^
仮の涅槃の境地になるにはこれしかない^^
はよ急げ^^
検討祈る・・
あと結果はここに書いてね^^ くまは、瞑想は心の健康法として有効だと実感しておりますが、
それを「無我」の実感を得るため、自らに無我の確証を得させるための取り組みとした場合、
困難さが予想されます。
一般に、証明においては、不存在の証明は「悪魔の証明」と言われ、不可能とされています。
従って、立証責任は常に存在を主張する側にあります。
しかも、ここにおいて証明を求められるのは、「無我」=自分と思っているものは自分ではない、自分のものではない、ということであります。
心身の痛みを感じるとき、それは疑いようもなく自分の痛みでありましょう。
それが、自分のものではないなんて・・・・
従って、ここにおいて、一般の原則に従い、無いこと=無我の確証を得ようとするよりも、あること=「海の意識」の実感を得ようとする方が合理的かなと思ったのであります。
しかし、考えてみますと、ここにおいて証明とは、他者に対してするものではなく、自己が確証をもつために行われるものであり、
必ずしも一般の原則の適用が求められるものでも、有効なものでもないかもしれないと、昨夜思い付きました。
「止観」、「ヴィパッサナー」、「内観」とかいう技法は、全て自分の「心」のありのままを観察する技法でありましょう。
その観察において、「ありのまま」といっても、機が熟さないと、観察対象は潜在意識の奥深くにしまいこまれていて出てきません。
だからこそ、激しく「苦」が意識される時こそ、観察の好機となるわけですが、
ただ観察を捗らせるために自ら「苦」を招くようなことは、したくありません。
やはり、深く静かに心の観察をし、潜在意識の奥底まで追求してみることを続けることが必要なのでありましょう。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_) >>79
.∧_∧
(・(∀)・)
.(つ∪と)
.と_)_)
サウナ+水風呂セットは確かに極楽極楽でありますね。
>>78
全体も個もない、主も従もない、始まりも終わりもない、というみもふたもないはなしを釈迦はしてたみたいで、当然宗教も奴隷も王さまもないみたいでありますよ。
まぁ、それで「苦」が克服できればいいじゃんみたいな話しみたいでありますよ。 >>81
4日間連続で行ってサウナ水風呂瞑想・・1日6時間くらいやってる・・
明日も行って瞑想する・・
苦(サウナ)・・解脱(水風呂)・・瞑想(涅槃)って意識してる・・
ちょうど外に瞑想に最適な石があってその上で座禅冥想してる・・
自我が消え私がいなくなる・・
自然に溶け込む・・
仮想体験だけど・・
やみつきになる^^ あっおもしろい動画あったから貼っとくか^^
パパジ〜「悟りは今ここに:この世で一番簡単なことが悟り」
https://www.youtube.com/watch?v=iuCClgCRJek
ほとんど仏教だけどね^^ >>83
(土)からヨガナンダさんの映画が渋谷ではじまり、全国回るらしいであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_) 訂正
(土)→先週の(土)から
(´・(ェ)・`)/ >>77
>お互いの健闘を祈ります…
はい。がんばりましょう。
.∧_∧
(・(∀)・)
.(つと)
.と_)_)
「6時間・・・」というライトな瞑想お手軽コース的なスレタイにひかれて、おじゃましましたが、
ピザ主さんと知り合えたお陰で、書き込みしてるうちに、自分自身新たに気付けたことがたくさんありました。
感謝してるであります。ありがとう。 >>79
アドバイスありがとうございます。
6時間チャレンジはあっけなく終了したのですが、今度そのサウナ水風呂瞑想もチャレンジ、気持ち良さそうだし、やってみますね。
ただ79さんが変なお客さんに思われていないか、少し心配です… >>80
悪魔の証明ですか。そう言われるとチャレンジしたくなりますね〜
そうですね、そういわれると、自分で苦を招くことも難しい、ですね。
自分を出来るだけ苦しめるには何をすればいいのか、それすら自分でも分からないです。
たとえば大事な誰かに危害を加えたとして、それが出来てる時点で、狂ったやつ、だとしたら、ちゃんとそれで苦しめるか微妙です。
いまある苦で十分、なんですかね。 >>86
そうでした、ここはお手軽な悟りを探求するスレでした。
ついつい真面目になってしまうのがぼくの性分です。
これからはたまにバカもやろうと思います。
こちらこそ、くまさんとのやりとり、いつも楽しんでます。
ありがとう。
まだここも続けられそうなので、またいつでも来てください。 >>88
「悪魔の証明」とは、何かがあるか無いかを証明しなければいけない時、あると主張する側は、ただ一つの証拠を提示すれば済むが、
(例えば、雪男がいると主張するのであれば、探して連れてくればよい。)
無いこと=不存在の証明には、ありとあらゆる存在可能性がないことを証明し尽くさなければならず、事実上不可能であると言うことです。
論理的な話しと言うよりもむしろ、事実上不可能なことを強いる点で「悪魔の」という比喩が使われるようです。
ただ、これは、訴訟の場面などにおける話であり、「止観」の実践に際しては、むしろ余計な観念を付け加えるだけの結果となりそうです。
やはり、ただひたすら、ありのままの心を観察したほうがよいかと思い直しました。
何か(=海の意識)を探し求めることは、ありのままの観察とは言えず、またそれは、そのような観念に対する執着ともいえるかとも思いました。
生きること、老いること、病むこと、死ぬこと、無常であること、「一切皆苦」だそうでありますので、わさわざ自分を苦しめようなどとは間違っても考えないほうが、よいかと思います!
そのように考えて、本当に引寄せてしまったら、たいへんです!
ただ、苦しい時の方が、真剣に心と向き合えますよねというだけでありまして、
目的である苦の克服のために苦を呼び寄せることはないでしょう。
ありのままを観察、否定も抑制もせず、ただ巻き込まれずにありのままを観察すればよいだけのようです。
(´・(ェ)・`)/ おもしろい!
ほんとですね。
ない、を証明するのってそんなに難しいんだ…!
そうなんでしょうね、自分がない、は体感する他ないようですね。
もちろん、そのために、苦を呼びつけようなんて自分は考えておりません。
なければ、ないほど良いです…
今日も軽く運動しました、これから瞑想するであります。 籾殻脳くまの一人ごと。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)
くまは、仏教徒ではないのである。信仰は持たないのである。
ただ、釈迦が残してくれた、究極の苦撲滅テクの実践をてみたら、大いに効果あったので、これからも続けるのであります。
で、輪廻とか業とか言う概念はくまにとってはあまり関心事ではなかったのでありますが、
最近なんとなく、なるほどなと思うようになったのである。
不二とかは、取り合えず、言葉が使いにくくなっちゃうのでは、横に置いといて、
1)永遠を想定できるのであれば、時間は幻想なのである。
あるいは、永遠の中にありながら、有限という幻想を測るための、便宜なのである。 2)無限を想定できるのであれば、無限の組み合わせがあると同時に、当然同じような個としての経験が無限に繰り返されるのである。
1)2)を前提に、考えると、輪廻、や業はくまにも、ふむふむと思えるのである。
例えば、くまが、くまとして生まれた境遇に苦しんでいたとして、
その「苦」はなぜ生ずるのだろう?
どうしたら「苦」を克服できるだろう?
と思った時、その究極の克服法として、「止観」があるのでありますが、
自らの心の観察に向かわせる前提として、
例えば、くまが、なんでくまをくまとして産んだんだよぉ〜と親を恨んでいたとする。(くまは幸いなことに感謝している。)
恨みはまさに「苦」である。
「苦」には常に原因があるが、原因を外に求め続ければ、永遠に「苦」を克服することはできない。
原因を内側=業に求めることにより、はじめて「修行」の価値に気づくことができる。
自分になんの責任もないのに、自分のこの苦はなんだ!
責任者出てこぉ〜い!
と新たな苦を自分で作り出すよりも、
全ては輪廻の中における自分の業によるものだと見極め、自ら克服する道を選ぶ方が、籾殻脳的にはふむふむと思えるのでります。 .∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)
くまの部屋はいつも何かの雑音が聞こえている。
冷蔵庫のコンプレッサー、建物の揚水ポンプ、水道管、近所の声、
通りを走る車、時々飛行機、等々、
静寂はない。
それが、くまの生活環境である。
瞑想時に、呼吸に集中し、思考を少なくし、特になにか特別なことは求めず、ただ感覚に気づいているようにつとめる。
で、気づいてる中で取り分け、音について、面白い感覚を感じた。
普通、外部の音を自分が聞いていると感じる。
そして、この音は飛行機、これはモーター、これは近所の赤ちゃん、などと認識し、うるさい、とか、音楽のように聞こえるとか、評価し、感情や妄想を呼び起こしたりする。
瞑想時にただ、それに気づいているだけという感じでいると、外部の音と自分との隔たりが曖昧になってくるのを感じた。
音と、自分という観念が分けられないように感じた。
これが鳥のさえずりとか、川のせせらぎとかなら、何かそれっぽい話しなのだか、生活音、雑音でも、こんな感覚になることがあるものなのだなと思った。
音と自分との隔たりが曖昧になることにより、一気に「自我」が薄らぐ気配も感じた。
音と自分との隔たりが曖昧になり、
その音と隔てがない自分という観念・・・
音があるように(あるいはあるので)自分があり、音がなければ自分はない、・・・のかも!
などと、思考を巡らせはじめるとその感覚も消え、瞑想は中断された。
やはり、何かを求めようとするとそれは遠退く。 >>92
おぉ、ぼくも似たような考え方だよ。
輪廻は、自分という意識の苦しみのリレーじゃないか、って思う。
永遠とか無限とかってのは、僕の頭ではちょっとついてけないけど。
でも
>永遠を想定できるのであれば、時間は幻想なのである。
あるいは、永遠の中にありながら、有限という幻想を測るための、便宜なのである。
これはカッコいいね >>93
いいねぇ〜なんかすごくいい感じっぽいですね。
くまさんにピザが届く日もそう遠くないのかもね?
楽しみだね〜
おれも頑張ろう .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
>>94
>輪廻は、自分という意識の苦しみのリレーじゃないか
←くまは、ちょぴっと違うのであります。輪廻だけでなく、「自分」も何もかも、全ての「観念」は幻想なのだということが、大前提なのであります。(そのような実感はないでありますが、取敢ずそう前提をたてるのであります。)
その上で、その幻想の観念で構築した理論を組み立てていくと、なるほどなとおもえるのであります。
幻想を承知で、論理的に(←これも幻想でありますが)、考えると、自分が経験してきたこと、これから経験すること、感じることは、永遠に無限に繰り返されるのだとくまの籾殻脳は結論に至ったのであります。
とにかく、永遠とか無限てどういうことかなと籾殻脳で想像してみたら、そう思えちゃったのであります。
そんなの嫌だぁ〜い!と思うくまは、その輪から1抜けたぁ〜い!と思うのであります。
>・・・・これはカッコいいね
←でぇへへ、でありますか!ありがとう。 .∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)
くま、思うのでありますが、観察は、ありのままかえるのぱぱ、でなければ観察にならないのであります。
知識は不要。否、邪魔なのであります。
こう見えるのが正しいとか、こう見えるはずだという思い込みが妄想を生むのである。
で、輪廻や業同様に今までにくまの大きな関心事ではなかった無執着という概念に、くま的には脚光があたったのである。
輪廻や業は心の観察に人を向かわせるための動機付けとして説かれ、
無執着は修行(=止観)に取り組む際の心構えとして、説かれたのではないだろうか?
と、籾殻脳で妄想してみたくまなのでありました。
おやすみなさい。 僕の、場合、どっからでも手をつけられるほど雑念だらけですね。
でも今日は割りかしいい感じだったかな。
無執着、ヒントに、なりそうです。
ありがとう。
おやすみなさーい .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
>どっからでも手をつけられるほど雑念だらけですね。
←雑念だらけの一つ一つの雑念に、もぐらたたきのように「気付き」、そして集中対象にもどっていける。もどれるという実感を瞑想をはじめた初期にえたことが、
これは使える!これは有効だ!と確信した理由でした。
雑念とは記憶であります。記憶の内容は観念でありイメージであります。
うっかりすると記憶のおもちゃ箱から浮かび上がる観念に巻き込まれる。
感情は、反応です。その記憶を原因として反応は起こります。
で、ありますから、怒り、悲しみ、不安等々の感情は、原因である事実の記憶を呼び起こされることにより、生じるのであります。
この単純な仕組みの有効性を、既にビザ主さんも実感してるのではないでしょうか?
で、ありますれば、
>どっからでも手をつけられるほど雑念だらけですね。
という状況下で、もぐらゲームたたきのテクニックをあげて行けばよいと思うであります。
それは、感情のコントロール法であり、くまが瞑想を心の健康法として実践の価値大と確信したゆえんであります。 うーん、そもそも集中対象に集中することが不可能、です。
ここでは呼吸として。
呼吸に集中するとして、必ず二人連れ、になります。
気づいていても、呼吸だけに集中することが不可能です。ちょっと考察してみます。 >>101
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
高度な集中力、完璧な集中。
ボールやパンチがスローモーションのように見えるようなプロスポーツ選手のような集中力。
そんな特殊能力はぜぇェぇ〜んぜん必要ないんであります。
ゲームとか読書とかテレビとか、好きな対象に夢中になる程度でよいのであります。
いや、むしろそれすら不要で、集中が続かず、雑念が起こる。
時々集中することを忘れる。はっ!と気がつき、集中に戻る。戻れると言うことを何度も何度も繰り返すことでよいのであります。
で、時々何となく今日はうまくいったなぁと言うときの状態を再現したいなおと思うようになり、姿勢などを工夫するようになるのであります。 あ、そんなんでいいんですか。
集中することを忘れて考えごとしてたぜー、さぁ集中集中、てな具合で。
それなら出来そうです! .∧_∧
(・(∀)・)
.(つと)
.と_)_)
いいのであります。
むしろ、数息観などで、何でこんな簡単なことができないんだろう?くらいのほうがよいのであります。
その間に、雑念の多さを知り、その雑念=観念の生じるさま、消える様を実感としりて知り、感情の起こる様、消える様を知るのであります。
で、ピザ主さんは、既にそれを実感してるのでありましょう。 ちょっとした筋トレやストレッチ、みたいなつもりで取り組めばいいんですね。
わかりました!
うーん、どうだろう。
発生というと、何もないところから、産まれるのを、目の当たりしてるみたいですが。
僕の状態を表現すると、すでにもやっとずっと思考があるところに、別の思考がもふっと入ってくる、ような感じでしょうか?
それらの思考の原因は、不安からの逃避、欲望、とか大抵はそんなことっぽいです。 >>106
>僕の状態を表現すると、すでにもやっとずっと思考があるところに、別の思考がもふっと入ってくる、ような感じでしょうか?
←それがその時のピザ主さんの観察なのです。次は違った観察になるかも知れませんが、答えあわせは不要でありましょう。
>思考の原因は、不安からの逃避、欲望、とか大抵はそんなことっぽいです。
←この点であります!
この不安の中にはまさに、瞑想って逃避じゃね? っていうこと自体が不安になっていませんか?
まさに、逃避の手段として瞑想は超有効なのであります。
で、しかも、超簡単なのであります。
で、ありますから、場合によっては堕落の入り口になるんじゃね?って不安になるのであります。
感情をコントロールし、怒りや悲しみや恐怖や不安にくるしむことから解放されたと思っても、
より大きな、不安が押し寄せてきますので、心配しなくても、堕落の法問にはなりません。
まずは、荒れ狂う感情をコントロールする術を超簡単に身につる。
そこから、全てが始まると籾殻脳くまは思うのであります。
.∧_∧
(・(∀)・)
.(つ∪と)
.と_)_) >←それがその時のピザ主さんの観察なのです。
あ、そっか。笑
>この不安の中にはまさに、瞑想って逃避じゃね? っていうこと自体が不安になっていませんか
うーん。たしかに、逃避の手段として、瞑想に救いを求めているかもしれません。
でも、そもそも漠然とした不安があって、そこからの逃避として、瞑想をしている感じでしょうか。
その不安があれこれの思考を呼び起こしている、というように思います。
その日常を常にボカしているような、つきまとっているような不安というか、苦というか、そいうのがあります。ある気がしてるだけ、とも考えたりはしますが。
くまさんは、そいうのありませんか??
いつもアドバイスや、お付き合い、ありがとう。
今日はこれから少し瞑想してから寝ます。 荒れ狂う感情をコントロール、ですか。
思いっきり怒ったり、恥ずかしいくらい泣いたり、笑い転げたり、しても、結局は感情という機能が働いているだけ、と思います。
いくら悲しくても、人生はいつまでも悲しんでいるほことはない、という認識もあります。
それと、幾ら感情がどこかに震えても、どこか冷めてるというか、ということはあります。
子どものころ、親に叱られて泣きじゃくりながら、勿論、少し落ち着いてからですが、ニヤッと笑ってみたことがあります。
自分は分裂してるタイプなのかもしれません。
自分でも、無意識と意識的の中間くらい?に、環境によって印象や雰囲気を変えている、のを感じます。 と、気づいてからは演技や、そんな嘘はなしにしようとはしてきましたが、それでも髪型が変だったり、靴が気にいらないとか、それだけで変化する自分の性格をどうにかしたい、という感じ、かな。笑 >>108
>日常を常にボカしているような、つきまとっているような不安というか、苦というか、
←くまの場合は、一時期、具体的且つ切迫したものがあったのであります。
それを何とかしたくて瞑想に取り組んだので、明らかな効果を実感できたのだと思うであります。
>>110
>それだけで変化する自分の性格をどうにかしたい
←この辺が、瞑想の最も得意とする分野であります。
もう、どうにかできるようになっているのではないでしょうか!
∧_∧
( ゚(ェ)゚)
と O
〜( /´
と\_)
さてと、お洗濯をはじめましょう。 くまさんも大変だったんですねぇ〜
オオカミにでも噛まれましたか?笑
>それだけで変化する自分の性格をどうにかしたい
←この辺が、瞑想の最も得意とする分野であります。
そうなんですか。
いや、まだ人の目は気にしてしまいますかね。
それを自覚してるだけマシではあるかも、とは思いますが。 >>113
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
くまがのうがきほざけるのは、この辺まででありましょうかねぇ。
感情コントロール方法としての瞑想の有効性は確かだと実感しております。
怒り、不安、悲しみ等々で苦しんでる人にはおすすめであります。
余りにも簡単すぎで、狐ならねくまにつままれたようなお話と思わず、実践してみることをおすすめしたいであります。
高額セミナーやヘンテコ宗教など不要であります。
座る場所さえあればできるであります。 .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
で、ありますからして、ここまで、すなわち、生きるのが楽になる感情コントロール法としての「瞑想」に、できるだけ絞って、今後はのうがきをほざこうかと、くまは思うのであります。
然れど、ほれ、なんせ籾殻脳でありますれば、ちょいちょい脱線しするかもであります。
まず、くまが実践した方法は足を組んで座り、背筋を伸ばしつつ脱力し、リラックスすることから始まるのであります。
色々やり方はあるようでありますが、くまは目を閉じで行っております。
足組は当初達人座→ハンカフザ→ケッカフザと変わってきております。
くまは、カチンコチンに身体が固く、まさかケッカフザができるようになるとは思いませんでしたが、
出来るようになろうと思い立ってから、ユルユルと慣らしていったら、6週間程で出来るようになったであります。
型に拘る必要はないとは承知しつつも、いざ出来るようになると、安定感抜群で、リラックス出来る座方であります。
足を組んで座る瞑想の場合、当然最初は痺れに悩まされるのであります。
身体は徐々に慣れて行くのでありますが、その「痺れ」そのものが、格好の観察対象になると思うのであります。
瞑想を始めてしばらくして、30分くらいすると、痺れの限界になり、集中どころではなく、それこそガマン大会状態になっていたのでありますが、
ある日、痺れで瞑想を中断し目を開き、すぐに足組をとかず、そのまま横においてあった本を読み始めたのであります。
そしたら、あら不思議!そこから更に30分以上座っていられたのであります。
同じ痺れがあるにもかかわらず!
↑こんなことを通じで、感覚とその受け止め方を実感して行くこともできたのでありましたとさ。くまくま。 おそくなりました、ごめーん!
>で、ありますからして、ここまで、すなわち、生きるのが楽になる感情コントロール法としての「瞑想」に、できるだけ絞って、今後はのうがきをほざこうかと、くまは思うのであります。
わーいありがとう!
>型に拘る必要はないとは承知しつつも、いざ出来るようになると、安定感抜群で、リラックス出来る座方であります。
そうなんだ〜ちゃんと意味があるのですね。チャレンジしてみよかな。
>あら不思議!そこから更に30分以上座っていられたのであります。
すごいねー
けど、しびれって体に悪くないのかな?
なんかそんなことも気にしてしまいそう。
へんな時間に起きちゃったなぁー
さっそくやってみようかな!
瞑想のお陰かなー、最近仕事も心も頭も、調子が良い! .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ旦と)
.と_)_)
>そうなんだ〜ちゃんと意味があるのですね。チャレンジしてみよかな。
←そうなのであります。
ケッカフザとかはヨ-ガの座方でありまして、4〜5千年来伝わってきているのであります。
然れどそれが伝統であるから価値があるのではなく、それなりの効果があるから価値があるのであります。
瞑想の脳を含めたところの身体技法としての側面と言えましょう。
とは言え、無理は禁物でありますし、ある意味趣味的な部分でありますので、無理して身体を壊すのは本末転倒でありましょう。
出来るようになりたいなぁと思うのであれば、予想以上に簡単に誰でもくまでもできるようになると言うだけであります。
>けど、しびれって体に悪くないのかな? ←そのような話しも検索するとたくさん出てくるであります。
全ては自己責任でありまして、くまにだまされたぁ〜!と言われてもくまは困ったでありますねェ。としかお返ししようがございませね。
ほどほどに!適当に!がくまの方針であります。
>瞑想のお陰かなー、最近仕事も心も頭も、調子が良い!
←何よりで、あります!
そのように効果あるもの なのであります! 四〜五千年の歴史!笑
へーそうなんだ!
それはますます興味が湧いてきます。
チャレンジしてみます。
楽にできる範囲内で。
ところでくまさんは、毎日瞑想するのですか? >←何よりで、あります!
そのように効果あるもの なのであります!
余計なことを考えるのが少なくなる=集中力がつくって感じなのかなー? >>118
>毎日瞑想するのですか?
←以前失業中は一日に何時間も座ってたでありますが、今は毎日はできないであります。
>>119
>集中力がつく
←何をするにも集中力はあった方がよいでありましょう。
一所懸命やる!という気持ちが何より尊いと思うであります。
また、土日に思い付いたことを書いてみるであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)
.と_)_) .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
くまがこうやったという座方のお話の続きでありますので、姿勢のお話をしてみようと思うのであります。
やることは、集中すること、雑念チェックして、できるだけ思考の少ない状態を作ることが、最初の段階であります。
で、ありますから、椅子に座ろうが横になろうが、それができるのであれば何でも良いのであります。
けど、くまの場合横になって、思考少なくすると寝ちゃうのであります。
椅子に座ってじゃ気分が出ないのであります。
で、どうせやるならと、いろいろやってるうちに、ケッカフザ出来るようになったのであります。
で、姿勢でありますが、これはもう背筋を伸ばして、リラックスするのであります。
腰を入れて、チョピっとお臍をつき出すようにして座り、
肩を心持ち引いてというか、胸をチョピッと張り、
肩や首に力みがないように気を付ける。
脳の中心、胸の中心、お腹の中心、尾てい骨が一直線になるようなイメージ、
宇宙の中心から、くまの中心を突抜、地球の中心に向かう一直線上にくまが居て、くまが宇宙の中心と直結しているようなイメージ!
←うん!これ、今思い付いたイメージでありますが、これいいと思うであります。
そんなイメージを持って座れば、姿勢を大切にしようという気持ちも強くなるでありましょう。
姿勢を意識しながら瞑想したことある人ならば、すぐに気づきますが、雑念に巻き込まれてる時は必ず姿勢が崩れています。
で、ありますから、瞑想中は動かないとか決めて崩れた姿勢をそのままにするよりも、気づいたら直した方がよいとくまは思うであります。 何時間も、、すごいなぁ、、、僕はまだまだ長くて20分くらいかなぁ
座ってやって、飽きてきたら、後は寝転んでやるかーって、結局そのまま寝るのが多いかなぁ?
姿勢と、呼吸、大事なんだね。
僕が気にしてたポイント、だいたいあってたみたいだよ。
体がしっくりくる、それぞれの部位の元の位置とでもいうか、を心がけてたら自然とこうなったんだけど、割と当たってたみたいで嬉しいな。
ずっと姿勢を気にするのでなくて、曲がってると気づいたときに直す、ということ感じですかね。なーるほど!確かにそっちの方がやりやすい!雑念ひとつ、増やさなくて済みますね。 >すごいなぁ
←・・・時間は5分でも10分でもよいのであります。
くまは失業くまでありましたので、時間がたくさんあったのであります。
また、45分〜60分を4〜6回くらいだったと思いますが、がんばって長時間座ったというのではなく、そうしたいからそうしただけなのであります。
時間ノルマを決めてやろうとすると、それが負担になり逆効果かもしれないであります。
もうちょっと座っていたいなぁくらいで切り上げで、よし!次はもっと集中力を高めようくらいの方がよいかもであります。
で、>飽きてきたら、後は寝転んでやるかーって、結局そのまま寝る
で、よいのではないでしょうか?
>体がしっくりくる、それぞれの部位の元の位置とでもいうか、を心がけてたら自然とこうなったんだけど、
←そうそう、身体が教えてくれるのであります。その微妙な身体感覚を観察するのであります。
∧∧
(ェ)・*) ≡=
O┳O )〜 ≡=
(*)し(*) ≡=
さてと、お買い物に行ってきまぁす。 .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
今日は数息観と腹式呼吸について書きかけたのでありますが、そんなのはググればいっぱいでてくるのでやめにして、
最初なころを思い出して、くまの籾殻脳内がどんなんだったかを書いてみるであります。
1)まず、呼吸を数え始める。
2)最初はその呼吸のことを考えている。
3)数えるのを忘れて、別のことを考えてる。
4)はっ!と気づき、1)に戻る。
この繰り返しでありました。
ショックでありました。
けど、心配はいりません。こんなくまでも、少しづつ出来るようになったのであります。何でも慣れであります。
この過程で重要なことは、自らの雑念の多さを知ること、
その雑念に気づきさえすれば、容易く集中対象に戻ることが出来ることを知れたことでありました。
↑この、容易く集中対象に戻る戻れると言うことを瞑想をはじめた最初の段階で実感できたことが、くまが瞑想にはまっていったきっかけなのでありました。
なぁ〜んだ、そんなことかと思われるでありましょう。
がっかりさせて、ごめんなさい。
けど、雑念とは記憶の断片やその組合せでありまして、感情とはその記憶に伴う反応でありますので、雑念を整理できれば、感情も整理できるのであります。
そして、↑この当たり前な仕組みを実感することにより
雑念としての過去や未来に対する後悔や不安といった感情に対してのみならず、今直面している事態に対して冷静に対処することもできるようになってくるのであります。
まぁ、そのぉ、文書にすると何かあっという間に凄い精神的な成長をしてしまうようでありますが、
そんな大袈裟なものではないまでも、
不安で不安でどうにもならない、とか、怒り心頭で許せん、とか、常にそんな気分でいる人には効果が実感できるかと思うであります。 >>123
おお、自転車にも乗るんだ!
都会によく馴染んでますなぁ。
>←そうそう、身体が教えてくれるのであります。その微妙な身体感覚を観察するのであります。
了解、それも集中してやってみる。 >この過程で重要なことは、自らの雑念の多さを知ること、
>その雑念に気づきさえすれば、容易く集中対象に戻ることが出来ることを知れたことでありました。
自分を見る、って感じですね。
自分が無意識にやっていることを見ている。
思考を観察して、その思考くんのやりたいこと、やっていることを観察。
そうして思考くんのことが分かってくること、自分の奥底を知ること。
いらない思考をやめて、集中しようとするのに、逆に自分の思考が見えてくる。
>けど、雑念とは記憶の断片やその組合せでありまして、感情とはその記憶に伴う反応でありますので、雑念を整理できれば、感情も整理できるのであります。
そうなのかも…
>不安で不安でどうにもならない、とか、怒り心頭で許せん、とか、常にそんな気分でいる人には効果が実感できるかと思うであります。
まさにうちのオヤジだ…
そうか、釣りがそういう人に向いてるってのも、同じようなことなのかもしれないね…笑
魚が餌を食べるのをじっと集中して待ってたりするんだろう。笑 .∧_∧
(・(∀)・)
.(つと)
.と_)_)
>いらない思考をやめて、集中しようとするのに、逆に自分の思考が見えてくる。
←あれでありますよ、集中力の強い人が、真剣に取り組んで、一気に忘我の域に行けるのであれば、それでよいのであります。
勉強や運動や音楽、手作業や何でも、才能のある人はたいてい集中力が人並み外れているでありましょう。
スポーツの世界でチョピッ前に話題になった、ゾーンとかもこの応用と言えましょう。
けど、瞑想の効果はそのような特別の能力のない愚鈍なくまでも充分享受できるのであります。
愚鈍なくまでもできるのだから、誰でもできるとくまは断言する次第であります。エヘン!
・・・・・チョピット複雑な心境でありますが。
で、まぁ、ピザ主さんのいう通り、>いらない思考をやめて、集中しようとするのに、逆に自分の思考が見えてくる。
←できるだけ無思考をの状態を求めつつも、敢えて完璧を求めず、叩いても叩いても出てくる、もぐら、
けど、叩けば引っ込むもぐら、
ここでもぐらとは、思考=観念=雑念でありますが、
叩けば=気付けば引っ込むと言う実感を得ることが、最初の瞑想の大なる恩恵と、くまは愚考しているのであります。
はい!では、やってみよう! 読んだだけで、ちょっと不思議な気持ちになったよ
完璧を求めなくてイイってのは、楽でいいや。
いまからちょっと、集中してやってみます。 >>128
.∧_∧
(・(∀)・)
.(つ∪と)
.と_)_)
取敢えず求めるべきは「できるだけ」の「集中」だけでありまして、それ以外は何一つ求めない方が良いかと思うであります。
集中の程度は「完璧」である必要は全くないとくまが考える理由は前回書いた通りであります。
また、土日に思い付いたことを書いてみるであります。 なんだろうね。
瞑想は長くできないし、呼吸に集中すらすることができないね。
何かに集中することが、まず難しい。
集中できてるかどうか確かめようとする=ただ対象を観察する意識とは別の意識、とでもいうか。
なんか小学校くらいからずっとこんな気がする。
それを止めようとすると、止められてるかどうか確かめようという意識、ということになる。
まぁ、これも、こんな観察、ということなのかもしれないけど。
でも、それでも何か効果があるのか、寝てる時に、いつもより深く寝てるとか、ちょっと合間に目が覚めて何だかいつもより余計なものがスッキリしてるような不思議な感じもする。
とりあえずマイペースに続けてみるよ。
土日、楽しみにしてるね。 *。☆
゚☆*
*|∧ ∧
∩・(ェ)・)
ノ ⊃
しJ
>・・・できないし、・・・すらすることができない、・・・まず難しい。
←こんな簡単そうなことが、やってみると実は難しいことを知り、いらだちがあるけど、前向きに出来るようになりたいという意欲があるのではないでしょうか?
ようこそ!瞑想の世界へ!
>・・・確かめようとする・・・別の意識、・・・まぁ、これも、こんな観察、ということなのかもしれないけど。
←まさにその通りだと思うであります!
意識のありようを観察してるということは、自分とは何ものであるのかを観察してることであり、
くま的には、瞑想でやろうとすることは、まさにそのことなのであります。
もしかしてそこに、いらだちやあせり等一見負の感情が新に生じてるように感じられても、それにより、もっと出来るようになろうという意欲に繋げることができると思うのであります。
>いつもより深く寝てるとか、ちょっと合間に目が覚めて何だかいつもより余計なものがスッキリしてるような不思議な感じもする。
←思考があっても、それは普段の雑念妄想の溢れかえった状態と異なり、集中すること、自分の意識に関すること、そこに絞り込まれていること、
普段と同様の雑念が起こってもそれに気付こうとし、気付けることにより、
結局、脳の「思考」を司る部分を休ませ、呼吸等「自律神経」を司る部分を優勢にしているからではないでしょうか?
きっと、大脳前頭葉が休息できてるので、スッキリするのではないでしょうか。
また、あとで、前回、ググればたくさん出てくるということではしょりました、腹式呼吸と呼吸の観察に付いてチョピッと書いてみようと思うであります。 ∧_∧
(・(ェ)・)
ヽ つ0
し―J
くまもたはじめて瞑想に取り組んだ時は、5分も座ってられなかったのであります。
呼吸を数えていても忘れてしまうのであります。いらいらするのであります。がっかりするのであります。
数えるのを忘れて、いつの間にか何かをぼぉ〜っと考えてたりするのであります。
これではただお座りして妄想に耽ってるだけのくまではないかぁぁ!!状態だったのであります。
ただ、やろうとすることがあまりにも簡単そうなことなので、せめてもうちょぴっと出来るようにならないとと、悪戦苦闘したのであります。
で、取り入れてみたのが、ラベリングアプローチという方法なのでありました。
呼吸を数えるのではなく、お腹がふくらんでいる、へこんでいると敢えて言葉で意識し、雑念が起こったら、考えているとラベルをはり、また、呼吸にもどる、イライラする等の感情を感じたら、イライラしてるというラベルを貼るのであります。
このように、ラベルはりをすることにより、集中を邪魔すれものの原因を一々明らかにして行くのであります。
確かに、最初の頃、雑念妄想が溢れかえる脳内を整理するには有効であったと思うのであります。
けどその後、雑念妄想=観念=言葉に巻き込まれないで集中するために、同じ言葉=ラベルでチェックするのは、思考を別の思考で牽制してるだけのような気がして、
くまは、この方法はやめたのであります。
腹式呼吸のことを書こうとしてるのでありますが、話が逸れてしまったので、また改めてつづきを書くであります。 ∧∧
(ェ)・*) ≡=
O┳O )〜 ≡=
(*)し(*) ≡=
ただいまぁ。
で、ありましてであります、腹式呼吸であります。
呼吸は肺でしてるのであることは、くまでも誰でも知ってるのであります。
お腹には胃と腸があるのであります。
腸はは第二の脳とも言われるそうでありますが、それに触れるとまた脱線するので、関心あればググって見てくだせい。
要は、息を吸うときお腹を膨らませ吐くとき凹ませる呼吸であります。
誰でもくまでも、仰向けに寝て、お腹の上に手を置いて感じてみれば、確認できるでありましょう。
これを座ってやるだけであります。
慣れれば簡単であります。
難しいのは、それに集中し続けることであります。
雑念がわいて、忘れてしまうケースに対しては、それに気づいたら戻ればよいだけであります。
少しづつ早く気づけるようになるのであまり気にしない方がよいでありましょう。
(つづく) (つづき)
困るのは、呼吸を見失ってしまうことであります。
原因として考えられる一つ目は、姿勢の崩れであります。妄想に巻き込まれてると猫背になったりしてるであります。
そうすると、お腹の動きが感じにくくなるのであります。
解決法としては、普通に胸の辺りで、呼吸を感じたり、鼻孔や上唇の辺りで感じたりする方法があるのでありますが、
くまは、腹式呼吸が重要だと思うので、胸の辺りで呼吸を感じてると、腹式呼吸がやりにくくなるような気がするのであります。
また、鼻孔や上唇で感じる方法は、こりゃ更に微妙で難しいのであります。
けど、チャレンジして修得すれば、きっと集中力はかなり強化されるでありましょうが、くまは今のところやってません。
見失ってしまう原因の第二は、心が静まってきて、実際に呼吸が浅くなり、呼吸数が極端に少なくなってきて、気づきにくくなってることであります。
いずれにしても、呼吸はしてるのであります。試しに洗面器に顔をつけてみるまでもなく、呼吸してなきゃくまも皆も死んじゃうのであります。
オギャアと産まれてから、最後の一呼吸までが人生なのであります。
で、ありますから、見失ってしまうしまったら、まず、姿勢が崩れてないかをチェックしてみる。
それでも見つからなかったら、自分がいつも感じてる部分に意識を集中してみる。
確かに、安定した呼吸に意識を寄り添わせるようにのせることができていると、瞑想がうまくいっているような気がしますが、
見失なったから瞑想がうまくいっていないというわけではないのであります。
見失なったら見失っなったで、その身体感覚に集中してみればよいだけなのであります。
この次はに腹式呼吸と「気」について書いてみようかと思うであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)
.と_)_) おはよう。
∧_∧
(・(ェ)・`)
/) /)
⌒⌒//| ̄∪∪ ̄//"⌒
".゙"//| ̄ ̄ ̄ ̄//""゙"
で、ありましてですねぇ、くまは呼吸を見失ってしまいあせり、探し回ったりしてたのであります。
で、いろいろやってみたのであります。
で、下腹部の動きを感じやすい座方を微妙に調整して行き、上半身を極限までリラックスさせて、何とか最適な姿勢を探りあてたのであります。
それが、前に書いた、腰をいれ、へそを少しつき出す、肩を引き、胸をはり、首、肩の力みがないかをチェック、宇宙の中心から糸で吊るされたような感じで座るのであります。
で、膀胱の辺りに呼吸の袋があるようなイメージで、まずその袋から息が全て抜けきるようなイメージする。その袋の重みで全て抜けきるようなイメージであります。
で、抜けきったら、自然に身体が必要とするだけの息を吸い込むのに任せる。
この繰り返しであります。
(つづきはまた後で書くであります。) ∧_∧
_(・(ェ)・)
|≡(つ旦と)≡|
`┳(_)(_).┳′
…・┴………………………┴…
で、「気」とかは、感じない人もいるらしいのでありますが、感じちゃう場合には、「禅病」とか、「クンダリニー症候群」とかのことは、チョピット調べて知っといた方がよいでありましょう。
けど、しかし、それはあくまでも、感じてしまったらということでありまして、積極的に求めるとなると、「気功」とか「仙道」とか別の話しになってしまうであります。
腸には身体中で最も長い毛細血管が張り巡らされてるそうでありまして、そこに意識を集中していると血流が多くなり、発熱してくるように感じるのであります。
くまは、子くまの頃、学習雑誌とかの「気」の特集とか見て、手のひらで気を感じたりそれを上半身に巡らせたりすることは、簡単にできちゃったのでありますが、
その「気」は磁気のような心地よい反発感のような感覚であり、気を熱として感じることはなかったのであります。
それが、座り方の工夫と丁寧な腹式呼吸を追求している内に気を熱として感じるようになったのであります。
(つづく) (つづき)
で、ありましてですね、その熱感が、下腹部から色彩を伴って少しづつ上昇し、胸の辺りまで上昇して消えたのであります。
それからしばらく座るたびに同じ感覚がありましたが、たしか一週間ほどでなくなり、その後はなかなか再現できなくなりました。
禅病の心配よりも、新感覚に遭遇した興奮の方が勝り、それを積極的に追求しだしたら、消えてしまったのであります。
その後どのくらい経ってからか、3か月〜半年くらいしてから再現した時は、その熱感としての「気」はしばらくの間定着し、かなりいじり回すことが出来るようになりました。
普段の生活時に、何の前触れもなく発熱しだし、大腿部から背中にかけてポッポと火照ったりしてました。
その頃の瞑想は、集中対象は、その気でありました。
子くまの頃ならきっとこの「気」に夢中になっていたと思うのでありますが、今は方向性がちがうので、
熱感を伴う「気」が徒に脳まで上昇して下がらなくなるような禅病対策として、その気をコントロールして体内を巡らす所謂「小周天」の練習をして、ある程度コントロール出来るようになりました。
そう言えば、ここ一年くらい熱感は消えてます。
気も十分にコントロールできれば、瞑想を深める役にたつらしいのでありますが、危険もあるそうなので、
もし感じちゃったら、深入りする前によく調べ、異変を感じたら即止め、危ないと思ったらお医者さんへ行きましょう。
禅病 、白隠、夜船閑話(やせんかんな)とかでググるといろいろ出てくるでありましょう。
(´・(ェ)・`)ゞ こんばんは。
まず、131と132への、返信させてもらうね。
くまさんのこのラベリング?ってのをヒントに、自分なりの瞑想方法が思いつきました。
瞑想の方法として、まず海を思い浮かべます。
そして、いま考え事をしているか?問います。
しているなら、それを雲として思い浮かべます。海の上の空に、うろこ雲なのか、入道なのか、一面を覆うどんより雲なのか、その思考のイメージを、雲として海の上の空に浮かべてみます。
さらに、色をつけてみてもいいかもしれません。
そして、新たに何か思考が浮かんだら、また雲としてイメージ、浮かべてみます。
これをただただ続けていきます。
…、というのを思いつきました。
我ながらよく出来ているのでは?と思っておるのですが、何かご意見やアドバイスなど、いただきたいです。 .∧_∧
(・(∀)・)
.(つ∪と)
.と_)_)
おー!ピザ式瞑想法でありますね!
くまが書いたラベリングアプローチと言うのは、仏教上座部のテ-ラワダのやり方であり、
数息観は禅仏教などで取り入れられてる方法です。
どちらも、サイトとか本とかでやり方や注意点等の詳細が簡単に入手できます。
ピザ式瞑想法は、くま的には、「思考」に曇のイメージを当てはめ行く点でラベリングアプローチに似てる気がします。
雑念が多い時に、ゲーム感覚でそれを自覚化し整理するのに有効そうでありますね。
雑念にレッテル貼りをしたり、ピザ式のようにイメージに置き換えたりするのは、、脳内の交通整理には役たつように思います。
ただ、ある程度、交通整理がすすみ、集中力がつき、心の観察に重点がおく瞑想法に進んだ際には、
思考妄想、雑念という観念に、同じ観念であるレッテルやイメージを置き換える作業は、観察対象そのものを評価せずにとらえることの邪魔になる気がします。
それでくまはラベリングアプローチはやめにしました。 予告
|∧_∧
|・(ェ)・)
|⊂ノ.
|`J
明日のくまなり籾殻能書きシリーズは、今のところ、テーマとして、「くまと宗教」と言う大上段に構えたテーマで、ツラツラと書いてみる予定であります。 |∧_∧
|・(ェ)・)
|⊂ノ
|`J
子くまの頃からの思い出を書きかけたのでありますが、正面から宗教のことを書くのはやめにしたであります。
世界にはただ呼吸をしてるだけ、生きてるだけで心身ともに苦しいぜ、という人もたくさんいるでありましょう。
無宗教無信仰のくまが、宗教を語るのは、控えるべきでありましょう。
くまは無宗教ではありますが、釈迦の苦克服のための方法論であるアーナパーナサティスートラの有効性は実感してるであります。
くまが最初の頃に読んだテキストは、「呼吸による癒し」でありました。 >>139
また、おそくなりました…
そう、ラベリングのパクリだよ!笑
人に瞑想を勧めようと思って思いついたんだけど、こんな教え方していいのか不安になって聞いちゃったよ。
そうだね、観察になれてきたら邪魔になるね。
あくまで、「自分がいかに思考しているか」に、まず気づくための方法って感じかな。 反応できずにごめん、、
くまと宗教、ちょっと読んで見たかったなぁ。
自分も無宗教、でも仏教のおいしいとこ取り、みたいな感じだから近いのかも?
そういや、オススメのサイトをまた…
今度はきっと楽しんでもらえると思うよ!笑
仏教の禅宗、無門関のとこなんか、よく読んでるよ。
また暇なときに、見てみてね
http://bunchin.com/choyaku/ >>143
.∧_∧
(・(∀)・)
.(つ∪と)
.と_)_)
流石であります!
独自のビザ式瞑想法を考案されれビザ殿であります!
くまが何を面白がるか、すっかりしっかりぴったりお見通しであります!
超訳【碧巌録】を今読んでるであります!
これなら誰でもくまでも読めるであります!
NHK教育とかでアニメ化すれば、海外へも輸出できるでありましょう! おお!
ヒットしたみたいだね!!
良かった!!笑
早速よんでくれたんだねー
禅って、おもしろいよね…
あ、また上のにも、ちゃんとお返事するね〜 呼吸、そうなんだよね、呼吸を観察といっても、身体には鼻も喉も胸も腹もあるわけで、その全部が同時に動作してるわけだから、どの部分で観察すればいいか分からなかったんだよ。
上唇とか、鼻腔とか、どこでも一点でもいいよってことなんだね。
姿勢は、背骨や腹はちゃんとできてたけど、そう、ふだんから、肩を引くのが苦手なんだよね。小学校のころから、肩が出てる姿勢をしていたからね。
瞑想の間だけでも、頑張って治すよ。
さて、いまから一度座ってみるよ。
「気」へのおへんじ、また書くよ。 .∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)
超訳碧巌録と維摩経を読破。
なかなかのものでありますね。
これならくまでも読めるであります。
碧巌録や無門関は修行者向けで維摩経は仏教入門者後期向けでありましょうかね。
呼吸は観察対象というよりも集中対象と考えた方か良いかとくまは思うであります。
上唇とか、鼻腔とか、で感じることができるようになるころにはそれだけではかなりの集中力が養正されてると思うであります。 「ゴエンカ」で検索するといろいろ出てくるでありましょう。 読み応えバッチリだよね。
ここに、何個か救われるような言葉があったよ。
えっと、集中対象と観察対象って、どうちがうの?? .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)←カップ麺
.と_)_)
>ここに、何個か救われるような言葉があった
うんうん。維摩経は、大乗仏教の基本的知識の確認と、修行に向かうやる気を起こさせてくれそうでありますね。
>碧巌録や無門関は、原典ではチンプンカンプんで挫折するだろうけど、超訳を読むと、よし!調べてみよう!勉強してみようって気になるかもでありますね。
何れにしても、この超訳でも、これだけではわからないことが多いので、ブックオフとかで岩波文庫とか購入する気になれば、サイトの作成者さんの意図は達せられるのではないでしょうか。
>集中対象と観察対象って、どうちがうの?
←前にチョピット書いたでありますが、一緒に扱う方法もあるようであります。
テラワダの方法はそれじゃないかな?
止観の止は心の働きを止めること、観は心の働きを観察することで、
くまは今集中してるのか、観察してるのがはっきり意識を分けた方がやりやすいのであります。
呼吸をにらめつけるようにするのではなく、ただ意識を呼吸に寄り添わせるようにして離れないだけみたいにな感じであります。
けど、その寄り添わせるように意識をおき続けることが、詳細な観察の基本でもあるかとも思うであります。
ピザ主さんは、今まで通りやりやすい方法で続ければ良いと思うであります。 僕は無門関だけ書籍版まで買っちゃったよ笑
手作り感はあるけど、大事にしたくなるのが届いたよ笑
なーるほど!そうやるんだ。。。
呼吸に添わせる、ね。
その方がやりやすいかも!!
つぎんときは、それでやってみるよ。 悟り一般があるのではない。
個別の悟りがある。
何に対して悟るのか、が問題である。 昔むかし、1、2の3四郎って少年マンガの名作があったであります。その作家がファッツ マイケル?って猫マンガの名作も書いてたであります。
実は、くまは、マイケルを師匠と考えてるのであります。
散歩
∧_∧
(・(ェ)⊂ヽ
⊂ ノ
人 Y
し (_)
スワイショーで腰痛対策。 |∧_∧
|・(ェ)・)
|⊂ノ.
|`J
>>151
個はなく、従って個別はないことを悟るんではないでありましょうか。
対する対象も主体もないことを悟るんではないでありましょうか?
で、問題はないことを悟るんではないでありましょうか?。 さて、公案と言えば、
で、ありましてですねぇ、
アレキサンダー大王がインド近くまで征服した時代に既に、ギリシャの哲人たちは地球は球であることを理論的に突き止めていたらしいのであります。
征服した地にアレクサンドリアを建設し、図書館を建て、ギリシャ風文化を世界に広めたらしいので、
もしかしたら当時最先端の知識である地球は丸い説も、インドにも伝わってたかもしれないであります。
お釈迦さんはそれよりもちょぴっと前に活躍してたし、
そもそも、釈迦は苦の克服する方法に関すること以外は語らなかったそうでありますので、どうでもよいのでありましょう。
流石に、愚鈍なくまも地球は球だと知ってるし、何の疑問もなく受け入れてるのでありますが、
けど、しかし、雨は天から振るもの、おむすびは坂の上から下へ転がるもの、お日様やお月様は東から昇り西に沈むものであり、
もし反対だったら、それでいいのだと、くまには割りきれないのであります。
これを万有引力なる専門用語で説明されても、くまは本当はよくわかってないのであります。
このよくわかってなさ加減が、「相対的」と言うことを、くまなりに何となく納得する助けになるのであります。
ブラジルのひとは、くまが上と思ってる方が下であるのであります。
て、ことはやっぱり、バガボンとはじめちゃんのパパの言う通り、これでいいのだ!と言うのが答えでありましょうか・・・・
∧_∧
(・(ェ)・`)
/) /)
⌒⌒//| ̄∪∪ ̄//"⌒
".゙"//| ̄ ̄ ̄ ̄//""゙" きのうは返信書きながら寝落ちしてたよ。
スワイショウ、はじめて知りました。
色んなのがあるんだね。
ぼくは趣味で音楽演奏するんだけど、ドラム叩いてるときなんか少し瞑想に近い気がするね。 引力について、ぼくもあるとき思ったんですが。
我々は地球の引力に引っ張られて生きているけど、頭は外に向かってはえている。
磁石のように、吸い寄せる力には頭から引き寄せられるのが普通でしょう?
なのに、その逆であるということは、我々は自立したところで許されている、ということではないか。
なにか安心、ひとつ、根源、そんなのを求めてしまうけど、それよりまず、そんな引力が、つかず離れず、になるように、働いてくれていることに、驚きを感じました。 (つづき)
で、ありまして、つづきであります。
鏡の上下左右であります。何故左右逆転するのに、上下はそのままなのか?
これは、さっきの上下よりは、まだ、日常の言葉で説明されれば、くまでも何とかわかった気になれるであります。
で、万有引力でも、鏡の上下でも、ちゃんと筋道をたてて理解しようとすれば答えのある問いなのであります。
公案は違うのであります。
答えが本来ないのであります。
てか、答えがないように問いを発してるのであります。
答えのない問いをとことん思考するのであります。
観念=言葉の限界を越えその向こう側へ行かせようとする訓練方法なのであります。
自己観察、自分とは何かを観察することも、もし、「無我」であるのなら、答えは、「無」となるのが正解でありましょうが、
それを知識で答えるのではなく、とことん観察して、本当にその答えが実感できるまで観察するための、基礎訓練方法として、
公案は使えるかもでありますね。
∧_∧
_(・(ェ)・)
|≡(つ旦と)≡|
`┳(_)(_).┳′
…・┴………………………┴… これでいいのだ、ってことについて。
たとえばいまから一瞬で宇宙の法則を変えることも、神か何かなら可能。
宇宙を閉じることも可能。
なのに、毎秒毎秒、これ。
当たり前で気づかないけど、これの持続は、すごいことのように感じます。 >>155
.∧_∧
(・(∀)・)
.(つ∪と)
.と_)_)
おー!ドラムでありますが!
すごいであります。
手足をみんな別々に激しく動かして、複雑なリズムを刻む、人類究極の身体技法のように思えるであります。
究極の集中力と無心が求められるでありましょうから、ドラムス瞑想方があっても良さそうでありますね!
演奏中にトリップすることありませんか? >>158
>たとえばいまから一瞬で宇宙の法則を変えることも、神か何かなら可能。
宇宙を閉じることも可能。
←神様を登場させなくても、「無常」であれば、法則は変わり、今ある宇宙もいつか閉じるでありましょう。そのいつかは次の瞬間かもでありますね。
>当たり前で気づかないけど、これの持続は、すごいことのように感じます。
←くまには難しいことはよくわかりませぬが、超頭のいい人達が、一所懸命考えて、いろんな不思議を一つ一つ解き明かしてくれてきたのでありますね。
で、ありますから、言葉は観念に過ぎない、限界があるとは言うものの、
その言葉でしか理解できないのでありますから、それをそれとして、尊重し、先人に敬意をあらわし、
で、その上で、瞑想により、一人心を観察して実感としてどこに行き着くのか楽しみでありますね!
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ旦と)
.と_)_) ごめん、交差しちゃってたね。
>>159
トリップというより、冷静になって、気付くことがあるよ。
はじめに姿勢の大事さに気づいたのも、ドラムだったよ。
勢いや、若い何となくのテンションだけでやってて、ある時、あ、これじゃダメだ。もっと体もドラムも、大事にしなくちゃ、って思ったよ。
ドラムとか、ジャンベとか、太鼓は、体の観察にすごく役に立つと思う。
手足バラバラ、車の運転と同じで、すぐ慣れるたよ、
でもそう、その無心が出来ないんだよ!笑
いつもこうでもないあぁでもない、とか、まったく他のことを考えてる。瞑想の時間とあんまり変わんないかな。笑 体だけじゃないな、思考もだなぁ。
他の人とか、上手な人たちと一緒に叩いたりすると、あぁ、自分はこういうこだわりがあるなぁ、とか思うよ。
そういう思考と、姿勢と、動き、いろいろ連動してるなぁとか、思ったりするんだよ。 デケデケ ドコドコ
ドムドム ダダダダ♪
☆ ☆ ♪
ヽ オラオラッ!!
`=≡= ∧_∧ ☆
/〃 (・∀・#) /
/ ┌\と\と`∈≡∋
‖ γ⌒ヽヽコノ ‖
‖ΣΣ | |∪〓 ‖
∧ヘ人_ノノ 」L ∧ヘ
ガッガッガッ ♪
ドチドチ!
昔、テレビでエマーソン・レイク・アンド・パーマーってバンドのライブ映像で、ドラムのソロとか見て感動した。
音楽詳しくないし、そもそもどの名前の人がドラムかも知らないけど、かっこよかったであります。 elpかー、あんまり聞いたことないやー!
ぼくは黒人が好きで、黒人みたいに叩けるようになればそれが究極と思ってるんだ!
さて、、いまから外で蚊取り線香でも焚きながら、座ろうっかな。^_^ ∧_∧
_(・(ェ)・)
|≡(つ旦と)≡|
`┳(_)(_).┳′
…・┴………………………┴…
こんにちは。
今日からちょぴっとづつ「止観」の「観」について書いてみたいと思うであります。
何を観察するかと言うと、自分であります。
自分の感情とか思考とかをありのままに観察するのであります。
理想的な自分を夢想するのではないのであります。
ありのまま、カエルのパパであります。
自分の本心をとことん追求するのであります。
くまは、
逃避、言い訳に、開き直り、自業自得の苦。あげくの果てにそれから逃れたいために瞑想をはじめたのであります。
最初は、ただ楽になりたかったのであります。
最初に取り組んだ「止」の行により、雑念妄想を整理する方法を身につけたことにより、はじめて、自分の本心を全て観察しつくしてやろうという気になれたのであります。
この「止」の行だけでも、集中力の強い人であれば、サマディとか変性意識とかを経験することもあるらしいのでありますが、
くまは未体験でありますが、それでも十分楽になれたのであります。
で、せっかく楽になれたのに、わざわざパンドラの箱を開けて苦を召喚しなくてもよいではないかと、最初は抵抗もあったのでありますが、
「止」の行で身につけた雑念=観察撃退法ががあったればこそ、先に進めたと思うのであります。
で、いざくまの本心を観察してみようとすると、長年の逃避により潜在意識の奥底に仕舞いこまれた「考えたくないこと」はなかなか観察対象として浮上してこないのであります。
観察のチャンスは瞑想時よりもむしろ日常の些事で、ムッとしたり、いらっとしたり、微笑んだり、よくある感情が起こった瞬間にあるのでありますが、
それはそれとして、次は、瞑想時の「観」について、実際やってみたことを書いてみたいと思うであります。 観察は常にしてるんだけどなぁ、でもやっぱり無意識に自分をかくまってるんだろうなぁ。
それをしなけりゃもっと進めるんだろう。
瞑想と共にそっちの観察もさらに覚悟決めてやらないとだな。 そうそう。
覚悟!覚悟が決まれば、それだけで先に進む不思議もあるのであります!
人それぞれだと思うのでありますが、、くまの場合意外とあっさり、でありました。
先に、「止」の方にちょぴっとこだわってみたのがよかったのではないかと思うであります。
ほどほどに、でありますが。
あたふた
∧_∧
( ゚(ェ)゚)
と O
〜( /´
と\_)
さてと、お弁当つくらなきゃだ! くまさん弁当、なんかおいしそうだなぁ〜
やっぱり鮭は欠かせないのかな?
覚悟なー、あーやだやだ、でもがんばるよー そもそも妄想癖?がある。
自分以上の自分になる妄想をしている。
自分がいまの自分であることに不安がある。
なぜか?
ほかの、ある人はもっと儲けていて、もっとうまく遊んでいる。
また、人から愛されていて、問題がなさそうである。
またまた、ある人が何も余計なことを考えずにすんでいそうに見えるからである。
これは、たとえばドラマの中の人たちが、Aという何か事件や、話題が出たら、A以外のことに意識が行かなくて済んでるように見えるのだ。
自分は、唾を考えると、唾がずっと出てくるように、何か漫然とした不安や恐怖、何か足りない感じ、求めている自分がずっといる。
どうして自分でいることが不安なのか、足りないのか。
このように、ほかの人と比べる、からだろうか。
妄想、空想の満足を求めている、ということかもしれない。
観察、探求は続く…♪( ´θ`)ノ ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
ふりかけ以外の鮭はもう何年も食してないであります。くまなのに・・・・
>自分以上の自分になる妄想 ・・・
は良いと思うであります。
それを否定的な「妄想」ととらえず、自己の潜在意識をだまくらかすほどの強い確信をもって、既に実現したと、明確なイメージを思い描くのであります。
いわゆる引き寄せであります。
無論、働きかけることができるのは自分自身に対してだけであります。
既に理想的な自分が実現していると信じることが、本当にできれば、思考がかわり、振る舞いががかわり、表情が変わり、自分が変われば周囲も変わり、世界が変わるでありましょう!
ねたみは良くないであります。
ポジティブに行かなきゃダメであります。
他人と
↑このことと、瞑想とは関係ないでありますが、集中して強く明確に信じるための訓練にはなるかもでありますね。 うーんでもなぁ禅では自分になりきるのが修行とか、完成とかいうじゃない??
自分を忘れた時に自分になりきるとか。
よくわからんけど、なんか分かる気がする分、そうなのかなー、そうなりたいなーて思うよ。 ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
>自分になりきるのが修行とか、完成・・・・自分を忘れた時に自分になりきる
うんうん。だとして、自分になりきると言うときの自分とは何でありましょうか?
目で見て観察する場合、外界の観察対象を認識してるのは脳であります。
各自の視力や注意深さの違いにより見えかたは微妙に違うでありましょうが、全て各自の脳で認識してるのでありましょう。
外界を自分なりに認識しているその脳のありようも、「自分になりきる」というさいの「自分」でありましょう。
で、脳内にしかないとは言わないまでも、脳内にある「認識」と「自分」とを分別しないように努めることも
>自分になりきる
ということとも言えるのではないでしょうか! ∧_∧
(・(ェ)・`)
/) /)
⌒⌒//| ̄∪∪ ̄//"⌒
".゙"//| ̄ ̄ ̄ ̄//""゙"
で、ありますからして、
>自分になりきる
ために忘れる自分も、
本来の自分も、
どっちの自分も無いと言うのが「無我」であるとして、それが本当にそうなのだ!と実感できるまでは、
どのような自分にもなれるはずだ!と思っちゃった方がお得かなと思うくまなのであります。
ただ、なりたい自分に本当になってると、潜在意識をだまくらかすほどに信じ込めるためには、あまりかけ離れた夢物語ではダメでありましょう。
手足バラバラにリズムを刻むドラムの演奏も、はじめから無謀だと諦めず、努力訓練を続けたから出来るようになったのでありましょう。
性格とか生活習慣とかを変えることくらい、ピザ主さんにとっては、ドラムに比べれば容易い話でありましょう! ごめんなさい、ぼくのあたまはかたくわるく、意味が理解できません。。優しさだけは伝わります。すみません。 わからない。。。
何度読んでもわからない。。。
何をすればいいの。。。 くまさん、自分がえらい、一番、という思考を脱却するには、どうすればいいと思いますか? >>174
決してピザ主さんのあたまがかたくわるいのではないのであることは明らかなのであります。
意味が理解できない理由は、
1)ピザ主さんが、>自分になりきる
と書いてる時に、くまが「無我」の話を持ち出したのがいけなかったのであります。
2)そもそもその「無我」をくまは未だ実感できてないのであります。
その自分が実感できてないことを書こうとすることに無理があるので、文章がちんぷんかんぷんになっちゃうのであります。
>>175
くまは自我とは何ぞやと思考した時に、その思考してる主体が自我であると強く感じるのであります。
で、その思考はうつりかわり、さ迷いつつ、記憶として蓄積され、強化され、自分はこういうものだ、こういうくまだという確からしさみたいなものとして
「自我」の存在は疑えないものとして、今のくまにはあるのであります。
けど、それは、記憶=言葉やイメージとしての蓄積であり、観念なのであります。
実体はないのであります。
くまが何をしようとしてるかというと、座ってできるだけ無思考を維持するように集中し、自分を忘れるくらいに一所懸命集中し、忘れた自分が再度あらわれるとこれを目撃してやろうとしてるのでありますが、、
当然のことながら一度も成功したことはないであります。
一度も成功したことはないのに、楽になれちゃったのであります。
>>176
>自分がえらい、一番、
という思考を脱却したいのでありますか?
そのままでもよいのではないでしょうか?
そのことを自覚せず、傲慢になっているのであれば弊害もあるでありましょうが、まず自分を大切にしないことには何も始まらないでありましょう。
あと、「無我」に似た意味合いの言葉に「真我」というのがあります。
興味があったら検索してみて下さい。
くまは「無我」派でありますが、どっちでも良いでありましょう。
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ旦と)←アールグレー
.と_)_) で、ありましてでありますが、
前回から「止観」の「観」について書いてるのでありますが、あくまでもくまなり理解に基づくくまなり実践法であります。
で、前回予告通り、くまがいろいろやってみたことを書いてみるであります。
まずやってみたのが、ありとあらゆる否定的、悲観的な心の闇を象徴するような言葉を思い描き、その言葉に対する自分の感じ方、そのような自分の側面の有無、程度を探ってみようとしたのであります。
←ぜんぜんうまく行かなかったのであります。
そういう闇の部分があろうとなかろうと、それはドラマの犯罪場面を眺めるようなものであり、ぜんぜん真に迫って来ないのであります。
次に、具体的な自分の経験、恥ずかしかったこと、悔しかったこと、悲しかったこと、等々をできるだけありありと思い描き、その時の感情を再体験してみようとしたのであります。
これは、本当はあまりやりたくなかったのであります。辛くなると思ったからであります。
で、そこそこ観察対象として浮上させることはできても、その感情の強さは日常突然に無意識から浮上した時のような強さはなかったのであります。
で、次に「内観」法により、幼少期から自分の記憶にある周囲の人達との関わりの中で感じたことを時間を追って事細かに思いだしてみると言うのにチャレンジしつみようとしたのでありますが、
これは一人でやるのはたいへんそうなのでやめたのであります。
で、人やくまの究極の「苦」である自分の「死」を具体的にイメージしてみるというのをやってみたのであります。
これも、のんきなくまにはなかなか真に迫ってこなかったのであります。
(´・(ェ)・`)(つづく) (つづき)
で、結局何をやってもどうしたら自分を観察したことになるのかわからなかったのであります。
ただ、自分の本心を観察し尽くしてやろうという覚悟だけはどんどん強くなっていったのであります。
そもそも何で自分の心を観察するのか?
観察することによりどんな効果、結論が期待できるのか?
この時点でくまが漠然と思っていたのは、自分が「苦」と感じることから目を反らし続けて見ないふりをし続けているだけでは、逆にそれは隠されてあり続けるだけであり、
抑圧すればするほど、吹き出したら時にはより大きな「苦」になると予想できるので、一度あらいざらい直視して見極めてやろうと思ったのであります。
て、ことで、今日はなかなかうまく行かなかったというおはなしでありましたが、覚悟を決めてやっても、くまの場合パンドラの箱の蓋はなかなか開かなかったのであります。
続きはまた書くでありますが、「落ち」は中途半端であっけないものとなるでありましょう。
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)←ハムエッグキャベツらいす。
.と_)_) .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)
.と_)_)
えー今のくまは「無我」って本当かなぁ?と心の探検をしてるのでありますが、
けど、無我とか実感できなくても、瞑想により、十分生きるのが楽になったでありますよ、という話しに絞って書いていこうとしてるのでありますが、
ついつい肉球がすべって実感できてもいない「無我」とかのことを語ろうとするので、混乱しちゃうのであります。
反省くまであります。
昨日のつづきは来週書くであります。 / / / /
_n_
///|ヾ\ / /
⌒⌒|⌒⌒
/ |∧_∧ / /
|・(ェ)・`)
/ Oと ) / /
しーJ。。。。。
雨にぃ〜濡れながぁぁらぁぁ〜
佇ぅぅむくまがいるぅ〜う!
一週間おつかれくまであります。
またあとで書きにくるであります。 .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)イオンのたぬきそば
.と_)_)
くま帰巣せり。
おつかれくまである。
さてと、つづきであります。
そんなこんなで覚悟を決めて自分自身を観察してみようといろいろやってみたけど、肝心な観察対象が浮かんでこないのであります。
あるはずの、不安、怒り、悲しみ、劣等感、絶望、等々諸々の感情を抱えてるはずの自分の心があらわれてこないのであります。
覚悟が決まるまでは、せっかく瞑想の入り口で生きるのが楽になったのに、そんな諸々の「苦」の種をほじくりだすなんて嫌だ嫌だ嫌だ
〃"∩∧_,∧
⊂⌒(`(へ)´) ヤダヤダ!
\_つ_つ
ジタバタ
と抵抗があったのに、いざ覚悟を決めてやってみると、肩透かしだったので、あります。
で、仕方がないので、またはじめに戻って 呼吸に集中する「止」の行に戻ったので、あります。
(つづく) (つづき)
そしたら、ある日、いつものように心がしずまり、集中が高まってきたときに、突然、うわぁ〜ぁっと、瞬間に、潜在意識の奥底から潜在意識の奥底にあるものが、沸き上がってきたのであります。
こんな話しはネットでも本でも読んだことも聞いたこともなかったのでありますが、
くまは、ビックリたまげたくまだったのであります。
その時のそのままそれを観察し続けることができていたら、どうだったのかとあとになってからは思ったのでありますが、
とにかくその時のくまはビックリたまげたくまでありまして、瞑想をやめてしまったのであります。
あれがなんだったのがよくわからないのでありますが、走馬灯のようにとかいうような、一つ一つのことが明らかなものではなく、見たくない聞きたくない思い出したくないといった、無いことにしたいくまが一気に固まりとしてあらわれた感じでありました。
けど、全く分析的ではないのでありますが、くまの自己観察は一気にその時進んだような気もするのであります。
∧_∧
_(・(ェ)・)
|≡(つ旦と)≡|
`┳(_)(_).┳′
…・┴.………┴… ∧_∧
_(・(ェ)・)
|≡(つ旦と)≡|
`┳(_)(_).┳′
…・┴.………┴…
で、あのときのわぁぁ〜っ一気に溢れてきたものがなんであれ、
今では、思い出したくない過去とか、想像したくない未来とか、なんであれ、心に生じる思いに対して抵抗感がないのであります。
出てくるなら出てらっしゃい!てな感じなのであります。
今でも日常の些細なことでムッとしたり、ハッとしたり、うひゃぁ!ってなったり、いろいろあるのでありますが、それらにとらわれて少なくとも負の感情にとらわれ続けることはなくなったのであります。
おそらくこれは、「止」の行=集中の訓練を通して、観念の儚さを十分に実感できたことの成果ではないかと思うのであります。
と、いうわけで、あっけなくも、中途半端なくまなり瞑想体験談はこの辺までであります。
まぁ簡単でありますし、どう考えても誰でもできると思うので、苦しいなと思う人にはおすすめであります。 おはよ
|∧_∧
|・(ェ)・)
|⊂ノ.
|`J
くまである。
雨である。
お洗濯できないので、これから安楽の世界でくつろぐのである。 >>187
その時くまが感じたのは、
何かが見えたとか、何かを知ったとかではなく、びっくりたまげた以外には、
解放感でありました。
あの、わぁぁっと噴出した固まりは、確かにくまの諸々の苦の種みたいなものであったということはわかるのでありますが、
にもかかわらず、その時の感覚は「解放感」だったのであります。
>そのとき、愛とか感じませんでしたかー?
と問われてはじめて、安らぎとか安心感が伴っていたと表現できるとも思うであります。
>>188
いろんな人がいるのでありますね。
くまのわぁぁ〜体験みたいなのをした人が他にもいるでありましょうかね?
じっくり読んでみるであります。
ありがとう。
∧∧
(-・(ェ)・-)
_| ⊃/(___
/ └-(____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ >>188
読んでみたであります。
くまのわぁぁ〜体験は、覚醒とか至高体験と言えるようなものではないのでありますが、
至高体験をする人は、わぁぁ〜の人がほとんどみたいでありますね。
くまのわぁぁ〜は単にくまが表現する言葉をしらないだけなのでありましょう。
抑圧しなければ、ただの観念にすぎないものを、自分で肥大化させて恐れていただけであり、
そのことを実感を伴って気づいたので、解放感をもたらしたのかもしれないであります。
来週はまた思い付いたことを書いてみるであります。
∧∧
(-・(ェ)・-) おやすみなさい。
_| ⊃/(___
/ └-(____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 色んな体験があるみたいですね。
くまさんのも、良かったら見もう少し詳しく聞きたいな〜
止観、ゆっくり読ませてもらうね。 .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)
.と_)_)
おはよ。
最近くまのやってる瞑想法は満員電車瞑想法であります。
毎日、50分ほど乗車率250%の車中のくまは、瞑想してるのであります。
回りのみんなもくまも黙々と、我が身の楽と安全を求めてそこにあるのであります。
そこでは些細なことに心が動くのであります。電車か動くとくまの心も動くのであります。
むっとしたり、はっとしたり、ヒヤッとしたり、被害者になったり、加害者になったり、怒ったり、憐れんだり、助けてあげたいと思ったり、いろんな思考や感情がわいてくるのであります。
それを一つも逃さず観察してやろうとするのであります。
で、その思考や感情に巻き込まれないようにある練習をするのであります。
で、気弱で降りたいのに降りまぁ〜すと言えない人とかいたら、代わりに降りまぁ〜す!とか言ってあげたりするのであります。
余計なことするくまなのであります。 .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)
.と_)_)
おつかれくまぁ〜。
実はくま、今朝土曜日と勘違いしてたのであります。
6月を乗りきって安心して、月末を週末と勘違いしてたのであります。
で、いつものように携帯アラームがなって、気づいたのであります。
いやはや、なんともはや、ぼけぼけくまであります。 て、ことで、この満員電車瞑想法が、以前>>22>>24 で、常に意識的であろうとするとしたことの一例なのであります。
電車か動き、些細なことで、感覚が生じ、思考が生じ、感情が生じ、放っておくとどんどん妄想が膨らんで行くでありましょう。
それは瞬時に起こるのでありますが、そのようなことであると承知していれば、瞬時の感覚から妄想への流れが、遮断できることが実感できるようになるでありましょう。
毎朝満員電車でイライラしてる人にはおすすめであります。
∧_∧
( ゚(ェ)゚)
と O
〜( /´
と\_)
さてと、お洗濯をはじめましょう。お買い物にも行かなくちゃであります。 .∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)
都会に住むくまは、周囲は雑音だらけなのでありますが、どのような環境にあっても瞑想はできるのであります。
満員電車瞑想法は心を観察する方法の一つでもあります。
まずは集中力を高めるための座して行う「止」の行によって高めた集中力で観察すれば、より詳細な観察ができるようにもなって行くでありましょう。
以前、腸は第2の脳と言われていると言うことをちょぴっと書きましたが、下腹部に集中していると、そこから大脳に信号が行き、脳内物質が分泌され、「快」が生じたりするのであります。
呼吸等自律神経を司る部分(=爬虫類脳)を活性化させると同時に、感覚や思考を司る部分(=前頭葉等)を休ませることにより、ちょぴっと非日常の世界を経験するのであります。
けど、瞑想や禅の目的はその非日常の世界に遊ぶことではなく、あるいは、「気」を感じてそれをいじくり回すことでもないのであります。
そう言った脳の仕組みを利用して、独力で、「苦」からの解放に挑もうとするのが、瞑想や禅の目的だとくまは思うであります。
脳と禅との関係については、お医者さんが解説したサイトもありますので、興味があったらググって見てください。 ふうう。
ぼくは火曜日がお休みなのです、いまサラダを食べて落ち着きました。
また遅くなってしまった。
満員電車瞑想法、便利そうだなぁ。
でもぼくそもそも「止」ができてないんだよなぁ、、、
まずは「止」ができるようになることを目標にしようかな! ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
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(_(_(_)_) ‖
ピザ主さんは、無念無想とかをイメージして、そうなれることが、「止」ができることと思ってるのではないでしょうか?
もちろんそうなれる人は目指してみてもよいのでしょうが、
くまのは、半端なくまの半端な集中でありまして、あくまでも出来るだけなのであります。
要は雑念が整理され、思考が少なくなり、観念妄想が消えて行く様を実感できればよいだけなのであります。 くまさんはするどいなぁ。。。
その通りだよ、、、
なんかわかったような気がする。
その感じでやってみる!
いつもありがとう。 ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
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日常の雑念妄想も寝て見る夢も、同じようにあらわれては消えるのであります。
夢は頑張って覚えとこうとしないと、すぐ忘れちゃうのであります。
日常の雑念も、それがあらわれたことに意識的に気づけばよいのであります。
くまにとりまして「止」は、取り合えずそれができる程度の「止」でありまして、そこまででも、十分楽になれちゃうのであります。
「止」はサマディへと誘う道らしいのであります。興味ある人はどんどん進んでみたらよいでありましょう。 / / / /
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/ Oと ) / /
しーJ。。。。。
くまは苦の克服のために瞑想をはじめたのであります。
苦しくてたまらなくて、どうしたらいいのかわからないと言う人は、くまにつままれたような気分でお試しになってみたらいかがですかといったところなのであります。
最初は5分もじっとしてられなくても、
1)背筋を伸ばし、自分が一番リラックスできる姿勢を捜し、その姿勢を崩さないように意識すること。
2)呼吸に意識を寄り添わせ、そこから離れないようにすること=集中すること。
3)雑念が生じたら、それにできるだけはやく気づき、意識を呼吸に戻すこと。
その際に、雑念を抑制したり否定したりするのではなく、
ただ、その雑念を思い描いてるのが「自分」であり、集中対象に意識を戻すことによりその雑念妄想は夢のように消えて行くことを知れればそれだけでよいのであります。
ここまでは、ちょぴっとがんばって続けていれば、誰でもくまでも、すぐに実感できるでありましょう。
で、次のハードルがくまの場合、足の痺れだったのであります。
30分もすると痺れで瞑想どころではなくなり、我慢大会状況になってたのでありますが、
以前ちょぴっと書きましたが、意識を他に振り向けることにより、痺れは痺れのままそのまま変わらずあっても、
それが瞑想の邪魔をするものとして=苦として意識されないという受け止めかたができるようになったりするのであります。
続けていれば、身体が慣れると言ってしまえばそれまででありますが、それだけでなく、
脳内物質の分泌がなんかの拍子に活発化した時に、まるで抜歯の際の麻酔にかかってるときのように、感覚を全く感じなくなったりしたこともあるでありますが、
修行不足のくまは、その辺の感覚は気まぐれで、コントロールできないのであります。
けど、ガンばれば心頭滅却すれば火もまた涼しと言うのはあながち、大袈裟な話ではないらしいとその時感じたであります。
今週は、ちょぴっと不思議な脳内物質の実感の話に言及してみたであります。
ちゃんちゃん♪ 日常の雑念を意識するのって、それは浮かんで来たことを、あ、浮かんで来たなぁって見ること?
それとも、その内容をちゃんと見ること?
なのでしょうか、、、 車中等の場合は、
あっ!足踏まれた!痛い!あっ!知らん顔してる!むかっ!
みたいな、内容を観ることであります。
何を原因に、どんな思いが浮かぶかに対して意識的であろうとして、
そして、それらが消えて行く様を観察するのであります。
落ち着いて座ってする「止」の時は、
>あ、浮かんで来たなぁって見
て、集中に戻るのであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)
.と_)_) こんばんは。
くまは、止=集中と観=観察を分けた方がやりやすいかなと思ってるのであります。
最初の方は止=集中について書いてきたのであります。
で、>>165から観=観察について書いてきたのであります。
>>199>>200 で書いてることは、止のお話しなのであります。
止の訓練で、観の基礎力がつくと同時に、くま的には 止だけでもかなり楽に生きられるようになっちゃったのであります。
コツ としては、できるだけ毎日続けること。 そのためには無理をしないこと。
そして、ちょぴっと難しいかもだけど、何かを期待したりしないこと。
こんなところでありましょうか。
で、観については、思考を抑制否定したり、矯正したり、理想を思い描いたりするのではなく、あくまでもありのままを観察するようにしてるのであります。
 ̄| / ̄
. (´ェ`)/
_(ノ_)つ
(__ノ /
UU
ありのママ うぉーーー瞑想まったくやれてません!!!
なんだか不満?いっぱい?で、エネルギーを何かにぶちまけたくて仕方がない。。。 ところでくまさん!
くまさんは、
犬に仏性はありますか?
って聞かれたらどうしますか?? ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
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(_(_(_)_) ‖
>>204
←おおぉぉ!瞑想の効果を確かめるチャンスであります。
何かにぶちまけたくなるほどの強い感情。それを今抑制してるのでありますね。
まず、日常でその抑えがたい感情がわいてきたときに、下腹部辺りで呼吸を感じて集中してみましょう。
それで、消えてしまうのであればそれでよく。
消えないほど強い感情であれば、それを抑制せず、否定せず、ありのままに観察してみましょう。
その強い過剰がある時にしかそれは観察できません。対象がなければ、観察しようがありません。
さて、今その感情はありますか?
>>206
>犬に仏性はありますか?
自己紹介してなかったかもでありますが、似たようなものでありますが、くまなのであります・・・
どうやら、「無」と答えるのが無難らしいであります。
有も無もな、不二一元なら、「無」と言うのも変ではないか!と言うところ辺りから、籾殻脳をふりじぼってみるであります。 .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
何だか不満がいっぱい、不安がいっぱい、怒りがいっぱい、悲しみかいっぱい、そう苦しみかいっぱい。
それに対する自力対処法として、瞑想は有効であります。
くまが「止」への取り組みでかなり生きるのが楽になったと書いたのは、呼吸などの感覚に集中することにより、その間、わき起こる雑念が薄らぐのではなく、消える実感を得たからなのであります。
これは最初の頃は、抑制であり、ごまかしであり、逃避であって抜本的な解決ではないのではないかとも思いましたが、とにかくそれでも良いから楽になりたかったのであります。
瞑想をしてる間と余韻のある間だけでも楽になりたかったのであります。
それだからこそ続けられたのだと思うのであります。
だからこそ、くまなのにナマケモネで飽きっぽいくまでも続くられたのであります。
最初はなかなかうまく行かず、集中してたのが、いつのまにか雑念に巻き込まれぼぉ〜っと考え事してたり・・・てか、今でもそんな感じでありますが、
でも段々慣れてくるのであります。
で、その雑念が消える実感と言うのが、観念=思いの儚さなのであります。
はかなく、消えるのであります。
観念、思いは、はかなく消えると言う実感を得ることにより、瞑想を続けて行くことが出来るようになったのであります。
瞑想の深みはまずちょぴっと楽になってから、ボチボチ探って行けばよいでありましょう。 で、「自我」もその儚く消える観念に過ぎないものであり、実体はないと実感を得れるかどうか探検中のくまなのであります。
∧_∧
( ゚(ェ)゚)
と O
〜( /´
と\_)
さてと、お洗濯をはじめましょう。 (・(ェ)・)っ
(っ ,r どどどどど・・・・
i_ノ┘
∧_∧
⊂.(・(ェ)・)
ヽ ⊂ )
(⌒) |どどどどど・・・・・ 三 `J
i||
i||
i||
.∧ ∧
. (・(ェ)・ )
o. ,o
O_Oノ..
さてと、これからちょぴっと心の観察であります。 ∧ ∧
(*・(ェ)・*)
( )
v v
川
( ( ) )
くまの心の探検番外編
夢 であります。
むかし、親しい友達に、こんな夢を見たというメールを送ったら、詳しく分析してくれて、それがあまりにも的を射てるので、ビックリたまげたことがあるあります。
フロイトやユングやフロムにより夢分析は潜在意識の分析法として確立されたようであります。
夢の中での心や身体の状態、登場する人、物、動植物、等々に象徴的意味があるようであります。
友達の分析の的確さにくまは驚きましたが、それは夢の象徴的な意味に、友達の知っているくまを重ね合わせ、くまの心に伝わるように翻訳表現してくれたからでありましょう。
夢が心の奥底、深層心理、本当の自分を観察するのに役立つと思うのであります。
観察はありのままに観ることが肝心であり、分析したり、評価したり、肯定否定したりすることではないのでありますが、
このありのままと言うのが、簡単なようでなかなかどうして難しいのであります。
思い込みや先入観、経験や知識、そう記憶を介した観察から逃れられることは難しいのであります。
黄色のサングラスを黒に変えるのではなく、眼鏡の曇りを拭う手法として、夢分析の手法か役立ちそうな気がするのであります。
結果の分析ではなく、ありのままの観察のありのままさ加減についての訓練とでも申しましょうか、何かまとまらないのでありますが、
役立ちそうな気がするのであります。
夢分析の中の象徴には、人類共通の象徴的な事象もあったりするのであります。
この事は、事前にググったりして知っていない方がよいでありましょう。 .∧ ∧.
(´-(ェ)-∩ zzzz
_| ⊃/(___
/ └-(____/
疲労困憊くま帰巣せり。
ヘロヘロであります。
昨夜、むかしよく飲みに行った店のマスターが夢に出てきたであります。
その人に勧められて、手話の資格をとろうとして勉強し、あと一点で3級合格できるところであったであります。
落ちたことによりある今のくま以外のくまはないのであります。
てか、くまが探してるのは、今のくまも別のくまもないと言う実感なのであります。
無くまであります。 くまにとりましての瞑想の楽しみは、安楽なのであります。
足を組んで座り、背筋を伸ばして脱力し、腹式呼吸をし、それや他の身体感覚に集中する。
わき上がる雑念を消そうとするのではなく、だだそれがわき上がったことに気づいたら、集中対象に戻ってみる。
もどることができて、雑念が消える。
その、雑念=観念=記憶の断片が消える様を実感できるようになり、瞑想が安楽になったのであります。
また、怒りとか不安とか不満とか何らかの強い感情があるとき、腹とか心臓の辺りとか内臓のどこかに、不快な圧迫感があるでありましょう。
それが、下腹部に集中することにより、すぅぅ〜っと消えて行く様を実感できれば、、不快が消えて快を感じ、それも安楽の実感といえましょう。
∧_∧
( ゚(ェ)゚)
と O
〜( /´
と\_)
さてと、お洗濯をはじめましょう。
洗濯機の音を聞きながら座るであります。 _/ミ\
(|ミOミ|〜
T\ミ/〜 ∧_∧
||  ̄〜 (・(ェ)・)
_/ ̄L O旦と )
(_◎_) (_(_つ
さてと、背筋を伸ばして、リラックス。呼吸をお腹で感じてすわりましょう。 ちょぴっと前に、「自分とは何か?」と自分に問うことを書いたでありますが、
これを公案のように続けてると、自分とは、「自分とは何か?」と問う者であるという気がするようになるのであります。
で、ふと、その問いをやめた瞬間に、自分は無いように思えたりする・・・・のではないかと思ったりする昨今のくまなのであります。
_/ミ\
(|ミOミ|〜
T\ミ/〜 ∧_∧
||  ̄〜 (・(ェ)・)
_/ ̄L O旦と )
(_◎_) (_(_つ /⌒ヽ
⊂ ̄ ̄ ̄⊃
( ・(ェ)・)
.(つ∪と)
....と_)_)
おはよう。
梅雨明けであります。
本日も張り切って参りましょう! .∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)
集中の練習をちょぴっとすることで、だれでもくまでも雑念を少なくし、なんちゃって無思考に近づけるのであります。
そこまででも瞑想の恩恵大なのでありますが、そこまで簡単にできちゃうと、自ずと瞑想にはまって行くのであります。
呼吸に集中する→雑念が浮かぶ→呼吸への集中に戻る→雑念が消える。
これを繰り返して、まずはほぼ無思考に近い状態を維持する練習をするのであります。
その、思考がない状態をみている思考とかは取敢えず考えなくてよいのであります。
呼吸集中してること以外の、おやつのこととか、友達のこととか、仕事のこととかの雑念に巻き込まれてなければそれで良いのであります。
何がなんでも思考を止めようとすると、ますます思考に巻き込まれるのであります。
記憶に蓋をするのが目的ではないのであります。
ただ、集中という目的を設定した上で、それでもあふれでてくる思考に、気づいていればよいのであります。 /⌒ヽ
⊂ ̄ ̄ ̄⊃
( ・(ェ)・)
.(つ∪と)
....と_)_)
最近取り入れた、日常の「観」の一種、満員電車瞑想法は別名「くまとは誰か?」瞑想6法なのであります。
これは、環境から受ける感覚を敏感に察知して思考、感情が浮かんだり、ただぼぉ〜っと思いが起こったりした時に、
その内容は放っといて(緊急事態の場合にはその限りにあらず)、
そのように思考し、感じてるのは誰か?とまず問い、
答えは当然、それはくまであるとなるわけでありますが、
すかさず更に問う、くまとは誰か?というのであります。
これは、常に自覚的であろうとする=一日中スポットをあてつづける(>>22)練習法なのでありますが、生活習慣になるまでやってみようと思うのであります。
では、やってみよう! /⌒ヽ
⊂ ̄ ̄ ̄⊃
( -(ェ)-)
.(つと)
....と_)_)
で、>>217の>何がなんでも思考を止めようとすると、ますます思考に巻き込まれる
ということや、
>>218>>22の>スポットを外しみようとしても、それを意識すればするほどスポットを当ててる主体が自覚されてしまう
と言うような、瞑想を深める上での、ヒント満載なのが、「信心銘」と言う漢詩なのであります。
曰く、
>止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種
どうをやめ、しにきすれば、しさらにいよいよどうす。ただりょうべにとどこおらば、なんぞいっしゅをしらんや。
くまの理解以上に深い意味があるやも知れませぬが、なかなかどうして、なるへそへそのごまと思わせるものであります。、 /⌒ヽ
⊂ ̄ ̄ ̄⊃
( ・(ェ)・)
.(つ∪と)←コーヒ
....と_)_)
最近見る夢を観察しようとしてるのであります。
夢は、くまの記憶の断片の組合せにより構成されてるのでありましょうが、そこにくまが登場することはあまりなく、
主体と言うものが感じられず、確かに何かを語ったりしたりしてる登場人物は、くまの記憶の断片に基づき何かを語ったり、行為したりしてるのでありますが、
主体ではない、自分ではないと感じられるのであります。
だからと言って、スクリーンを見ている観客と言うわけでもない。
うぅ〜ん。何か重要な発見に近づいたような気がするくまであります。 くまさん!!ごめーん!!
携帯の不具合でずっと見れなかった、、、書き込みが反映されなかったり、パソコンでもこのスレ探したんだけど、過去ログに入ってるって言われちゃった、、、なんで元に戻ってるんだ、、、???
いま携帯からちゃんとアクセス出来てビックリ!!!
久しぶりになってしまって、ホントごめんなさい。 元気そうで何よりだよ、、、
瞑想はたまにしかしてないけど、姿勢はできるだけずっと気にしてる。
いやぁ色々また面白そうなこと、書いてくれてるね、、、
またちゃんとお返事するよー おお、重要なこと!?
なんやろなー
楽しみだね!
それで夢、だけど。
夢はよく、見るけど、ほとんど覚えられない、、笑
見てる間はすっごく楽しんでるんだけど、、
手に入れてないものを、手に入ったような夢が多いかもね。
夢を見るのも、解析するのも、割と好きだよ。 >>224
何かを思ったり感じたりした時に、それを思い感じてるのは自分であると常に自覚する。→その自分とは誰かと問えば、そのように自問自答している者であるとの日常では感じられる。
このマハリシ一人問答が、習慣化してきて、(先の文を書いた前の晩は)夢の中でも自問していたのであります。
で、日常においては即答される自問自答している自分と言う自我感覚がその時には、何度も夢の中で自問してみても全くなかったのであります。
その時だけだったなのか、一般的に夢の中ではそういうものなのか、まだわからないのであります。 くまの夢修行続編報告
‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
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(_(_(_)_) ‖
今朝は、感情を伴う夢で目覚めたのであります。
ただひたすら、「それが自分じゃないか!」「それが自分ってものだろ!」と、多分、無我の主張に対してイライラしながら、そう思ってるのが自我であると言い張りながら目覚めたのであります。
「自分とは誰か?という」問いの部分がなかったのであります。
肝心なのはこの問いに対して、自我感覚を感じないということの再現性なのであります。
従いまして、くまの夢修行はまだまだ続くのであります。 ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
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(_(_(_)_) ‖
今朝のくまの夢は、箱を持ってた夢でありました。
意味わからんでありますが、
それが夢でありましょう。
夢の中の意識を使えば、なんか楽に修行が進みそうな気がするくまであります。 なんか毎日すげー夢を見るんだけど、起きたらすぐに消去がはじまる、、、
夢を見てたらジブリなんていらないかも、、
夢解析、ぼくもそう思います、、 .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)
.と_)_)
日常においてできるだけ意識的にあろうとする生活習慣といっても、例によって、半端なくまの、できるだけ…でありますが、
それでも、それが定着してきて夢の中でも、自問することがあったので、これは使えるかなと思ったのであります。
今日は「痛み」について、思い付きを書いてみるであります。
身体の表面上の痛みは痛点ってのがあって、そこで感じるらしいのであります。
針治療とかはその痛点をはずしてツボを刺激するのでありましょうか?
エベレストの氷河で発見された五千年前のミイラ(アイスマン)の身体に奇妙な入れ墨かあって、それが東洋医学のツボと一致するっていう話をテレビでみたことがあるのであります。
アイスマンは腰痛の治療をしていたらしいのであります。
くまも、子供のころ歯痛の時なと、激痛に耐えかねて、偶然手の指を反らしたり、親指の付け根を押さえたり、こめかみや耳の下を押さえると痛みが緩和されることを発見したりしたので、
五千年前の人も経験的に見つけたのでありましょう。
とにかく心身の「痛み」は克服したいものであります。
くまの瞑想の目的は心身の「痛み」が「苦」と感じられることを完全克服することであります。 .∧_∧
(*・(ェ)・*)
.(つと)
.と_)_)
心の痛みのただ中にある時は、修行への門戸が開かれるでありましょう。
身体の痛みのただ中にある時には修行は困難でありましょう。
くまはくまを観察し、くまの認識の中にある宇宙を観察するのであります。
で、心身の痛みを克服したいのであります。
くまの宇宙大冒険であります。
くまは今までにかなり痛みを伴うとされる病に二つなったことがあるのであります。
その二つに対するくまの自覚症状は、強烈な違和感と息苦しさであったのであります。
病院へ行って診てもらうと医者に、あんたよく一人で来られたね、痛かったでしょう?と聞かれたのであります。
けど、くまの自覚症状は先に書いたようなものだったのであります。
そのころくまがやってたのは、気功でありました。
最近昼休みに5分ほどやってるスワイショ-もその一つであります。 くまの籾殻考
.∧_∧
(*・(ェ)・*)
.(つ∪と)
.と_)_)
自分の内側と外側。
自分の内側とは、外側を認識してる主体であります。
くまがくまと思ってる自我であります。
自分の外側とは認識の対象であります。
外側はあるのであります。
どの様にあるかと言うと、くまが認識しているようにあるのであります。
愚鈍な凡くまの認識は不完全極まりない認識なのであります。
ある意味くまの認識など幻に等しきものでありましょう。
けど、不完全だからと言うことで自分=内側を無いと言うことにはならず、また、くまが認識しているように外界があるとも言えないのであります。
くまの知識不足や理解力不足に起因する不完全な認識を越えたありのままカエルのパパの有り様を観察により気付けるかどうかなのであります。
で、取敢ず全てはあると思うのであります。
ただ、不完全なくまの認識のような有り様ではないであろうということなのであります。
で、全てはあるのでありますが、その全ての中には無いも含まれるとすると、話がややこしくなって、愚鈍なくまの「言葉」の限界に突き当たるのであります。
無いがなければあるも無いでありましょうから・・・・
で、ありますれば、全てはあるといっても無いと言っても同じことなので、それじゃわけわからないので取敢ず空ということにしたのでありましょうか? 空、たぶん、そうでしょうじゃないでしょうか。
外も内も同じ、主体はなく、一如
外も内も違う、全てが主体、一如
とか?? 何かを感じたり、思考したりする主体のことを「自分」と定義してみるであります。
その上で普段くまが自分であると思っているものが、本当に自分であるか検証してみるであります。
1)まず、くまの身体は自分でありましょうか?
例えば指先の肉球を見つめる。その肉球でガラ携から文字を打ち込んむ。
定義からすると、肉球は見られるものであり、また、ガラ携のボタンを感じ押すものであって、言い換えると、見られるものであり、感じる対象であって、主体ではない。
従って、身体(=肉球)は自分ではない。
2)くまはピザさんの「一如」と言う言葉を読んで、思い出したことを書いてるのでありますが、
くまは、その記憶や思いを、(正しいか間違ってるかは別として)知ることができる=(主体が)知る対象であるので、「思い」は自分ではない。
客体になる以上主体ではあり得ない。
うん。
けで、反省とか自問自答とかたりすることもあり、上記のようであったとしても、実感が伴わないのであります。
くま籾殻脳沸騰中であります。
脳を静めて寝るであります。
(・(ェ)・)っ
(っ ,r どどどどど・・・・
i_ノ┘
∧_∧
⊂.(・(ェ)・)
ヽ ⊂ )
(⌒) |どどどどど・・・・・ 三 `J
∧∧
(-・(ェ)・-) おやすみなさい
_| ⊃/(___
/ └-(____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ うん、ぼくも考えるのは苦手、わけわかんなくなって眠くなります。
とくに最近は頭が回らない。
外は暑いなぁ
瞑想は夏バテにも効くのかなー、、?? で、月曜の晩に書いたつづきがあるのであります。
今朝投稿してから、いつものように、満員電車瞑想法をやってて、新瞑想法を思いついたのであります。
名付けて、日常のなんちゃって無我瞑想であります。、
これは、「止」の応用であります。
雑念、思い、感情がわいきたことにただできるだけ気づいてればよいのであります。
思いや感情は、巻き込まれないように注意さえして、放っておけば消えちゃうのでありますが、なんちゃって無我瞑想においては、雑念が消えるかどうかは取敢ずどうでもよいのであります。。
朝の書き込みの理屈で、思いや感情は客体として気付かれる対象であり、それに気づいてる意識を取敢ず、「自我」と仮定するのであります。
思いに気付いてる意識。うん、これは普通に素直に自我かなと思うところなのでありましょうが、ここで大変なことに気づいたのであります。
(´・(ェ)・`)つづく つづき
気づいている意識とその客体である思いの区別と言うか境界線がわからない、ていうか、同じものとしか思えないのであります。
ここからちょぴっと無理矢理なんでありますが、客体である思いは朝の理屈で自分で
はない。
その自分ではない「思い」と区別のつかない気付いてる意識も、自分ではないとする(?)のであります。
自我と思ったものが、あら不思議、自我のでも誰のでもない意識であることを発見してしまったという。
自分を探してみたら、自分のでも誰のでもない意識のみが見つかっちゃったとい・・・
名付けてなんちゃって無我瞑想であります。
で、ところでこの意識はだれの意識かと言うと、ただ一つの意識であり、みなの意識であり、当然自分=くまの意識でもあるのであります・・・・
‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
夏バテ対策瞑想方なら、気功とかヨガの中にありそうでありますね。
梅雨で籾殻脳にむしでもわいたのでありましょうか?
天日ぼししなくちよでありませ。
しばらくは、なんちゃって無我瞑想法の有効か試してみるでります。 たはは
くまさんとの阿吽のこくゅうでしょうか。
さっき瞑想してて、ほとんど同じことに気づいた気がします。
いつからかずーっと僕にまとわり付いているある意識、思考。それにすこし切り込んだのです。それは、唾を意識すると唾が永遠に出てくる気がするように、自分は誰?自分はどれ??という思考が自分である、というこないだのクマさんの言葉と同じことでした。
そしてその何か自分を支配するような思考があるとして、それはただの思考であって、自分自身ではない、ということでした。
ちょっと進んだかな。 >>237 さん
ありがとう、ございます。
良ければ、お気軽になんでも話してください おはようございます。
>何か自分を支配するような思考があるとして、それはただの思考であって、自分自身ではない、ということでした。
うんうん。
思考とか感情とか思いにとらわれてる時はあたかも自分はその観念そのもののように感じられますが、
それらの観念が起こる毎に、それを抑圧も否定もせずにただそれに気付くようにして、呼吸に意識を戻すだけで、観念は消えて行く。
そのことを瞑想始めたばかりの頃に実感できたので、おっ!これは使える!くまでも誰でも出来る!と思った次第であります。
一切の観念、思考にとらわれず、ただありのままカエルのパパを観察するのであります。ピザさんもますますはまって行くでありましょう。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_) くまが、止観の止を始めたばかりの時に、かなり早い段階で感情に苦しめられることが少なくなり、瞑想の効果を実感できたのは、
もしかしたら、このなんちゃって無我を実感できてたからなのかもと思うのであります。
集中するという目標を設定することにより、雑念=観念がわいても、放置して目標に戻るだけで、雑念が儚く消え去る。
その事を繰り返し、思いや感情に気づく習慣がついてくると、その思いは自分の思いであり、それに気づいているのも普通に自分であると疑わなかったのでありますが、
気づく対象でとしての「思い」や「感情」は記憶に基づく、ひとかたまりの思いや感情であり、
気づく意識は、まんべんなく存在する意識のようにも思えるのであります。
実感として、その両者(主体と客体)を区別できないので、なんちゃってがつくのでありますが、
対象としての思いは、夢の中の思いと同様、儚く消え去るものであり、それは自分ではないと思えるのであります。
でありますから、残るテーマは、なんちゃ
ってただ一つの意識の取り扱いなのであります。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_) >>238
>その何か自分を支配するような思考があるとして、それはただの思考であって、自分自身ではない、ということでした。
瞑想時に浮かぶ雑念、「思考」はひとかたまりの対象としてあり、それが浮かんだことに気付き、放っとけば消えちゃうのであります。
それに気づいている意識も、その儚く消え去る思考の一部なのか、別のものなのか、
それを観察して見極めようとしてるくまであります。
無分別が、「観」の基本的手法でありますから、そもそも主体と客体に分けない方がよいのでありましょう。
となると、観察の対象の思考とそれに気付いてる意識は分別されないものであり、儚く消える思考同様、気づいている意識も儚く消えるのか、
あるいは、「自分の」気付いてる意識というかたちで、気付いている意識にへばりつく「自分の」の部分だけ剥げ落ち、意識だけ残るのが、見極めたいのであります。
見極めるだけではダメでありまして、実感できるかなのであります。
くまの宇宙大冒険は続くのであります。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_) うむむ。や、でもその観念が消えるは、まだ実感してないのです。多分。
とにかく無になりたいけど、頭が忙しすぎる。
無になることを意識しすぎているのかもしれない。
そういえばそうだ、昔からだ、無になることを意識してすぎている、、
どうすればいいかなぁ、、? >観念が消えるは、まだ実感してないのです。
←5分前に何を思っていたかどのくらい覚えてるでありましょうか?
様々な観念を定着した記憶にするには、努力を要するのであります。
夢は起きたら忘れてしまうように、雑念は次つきに沸き起こり消え去っているのであります。
そのことに気づけば、こっちのもの、ピザさんのもの、くまのものであります!
で、ありますから、無になることを目標とせず、雑念整理のために、集中対象を設定してみるのであります。
呼吸や身体感覚に集中することが難しければ、ただ数を数えるだけでも良いでありましょう。
で、出来るだけ早く雑念に気付き、それが無自覚に消え去る前に雑念に気付く練習なのであります。
無になる練習と思うから、難しく感じるのであります。本当は超簡単なのであります。
_/ミ\
(|ミOミ|〜
T\ミ/〜 ∧_∧
||  ̄〜 (・(ェ)・)
_/ ̄L O旦と )
(_◎_) (_(_つ で、そんな紙おむつに水で書いた文字のように消え去る雑念、それを何度も何度も実感してる内に、「思い」なるものが「自分」であると言う実感が薄れてきたのであります。
けど、一塊の消え去る「雑念」=「思い」とは別に、それに気付いている意識は確かにあるのであります。
内容(雑念)は消え去っても、うつわ(意識)は残ってるのであります。
消え去るものと残るものの境界線の観察中のくまであります。
て、言うか、両者を分別せずに一体として観察して、「無我」が本当かどうかを探るくまの宇宙大冒険なのであります。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つ旦と)←コーヒー
.と_)_) 無思考状態をどうしても求めてしまう、、、渇望してる、、、なぜか?それを自問自答してみます。。。 ぼくは苦しみをどうにかするために瞑想するんじゃないんだよ。無思考状態になりたいんだ。
それを味わえないのが1番の苦しみだ。 無思考を渇望することが雑念を生じさせて、無思考になることをじゃましてるように感じてるのでありましょうか?
早く寝なくちゃと思ってると寝れなくなるみたいなものかもでありましょいか。
くまは無思考になることは目的にしてないので、例によってホドホドできるだけてきとうなのでありますが、
腹式呼吸がおすすめであります。気を頭から下ろすイメージであります。
リラックスであります。背筋を伸ばしつつ肩や首の力を抜く。
緊張を全てといたら崩れてしまうでありましょうが、適度な緊張かリラックスの自覚をもたらすでありましょう。
∧_∧
( ゚(ェ)゚)
と O
と_)_) で、ありますが、目をあけてする日常の観察においては、無思考の観察をくまも求めるであります。
心の観察、いわゆる瞑想をするときには、まず、呼吸に集中してできるだけ無思考の状態(完全ではない)を維持し、
そこに沸いてくる思考が消えて行く様に気付く練習をしていたのであります。
ここにおいて、できるだけの無思考状態は思考、感情を観察しやすくするためであり、無思考状態自体が目的ではないのでありますが、
それでも慣れてくると思考の少ない状態はできるようになってくるであります。
で、ありますが、目をあけて視覚での観察をするときは、言葉を介在させずにありのままを観察するのであります。
見たままと言っても見るもの全てに名前があり、外界のものが目に入ると同時に、これは携帯、これは指、これは壁と認識されてしまうのでありまして、
それをありのままに観察すると言っても難しいのであります。
できるだけの言葉を介在しさせずに、見えていると言うその事自体に気付いていると言う観察であります。
この時は無思考であろうとする意思に支えられた観察をしてるであります。
_/ミ\
(|ミOミ|〜
T\ミ/〜 ∧_∧
||  ̄〜 (・(ェ)・)
_/ ̄L O旦と )
(_◎_) (_(_つ /⌒ヽ
⊂ ̄ ̄ ̄⊃
( ・(ェ)・)
.(つ∪と)
....と_)_)
かつて子ぐまのころ、くまは自分のことを、思いやりがあり優しいくまであると信じていたのであります。
されど年齢を重ねる毎にどうやらそうでもないらしとい気付くのであります。
くまの本性は、冷淡で自分勝手な、おろかなナマケモノだったのであります。
でも、それだけではないのであります。
てか、そうでないものになることもできるのであります。
くまがくまと思ってるものは、単なる思いなのであります。
思いは消すことも変えることも自在なのであります。 おはよう。
ふむう。目でやる、瞑想もあるんだねぇ。
てことは耳も鼻も、あぁ、鼻は呼吸ってことか。いろいろあるんだね。
、、、ふぅ。夏のビッグイベントが終わって一息ついたー 昨日ある人に、本当におとなしいねって言われて気づいたんだけど、
たぶんいい格好しい、なところがあって、自分の評価を下げたくないからそうなんだろうなって、思ったよ。
砕けた人とは良く話すもんね。
なぜいい格好しいなのかといえば、
まぁそれで色々得したりしたいという、欲だろうなぁ。
好かれたい、尊敬されたいってね。
思う癖や兆候があるよ。 /⌒ヽ
⊂ ̄ ̄ ̄⊃
( ・(ェ)・)
.(つ∪と)
....と_)_)
さっき、一斉に蝉がなきやんだであります。秋近しでありますね。
思いが儚く消え去るものであるとすれば、思いを変えることも容易いはずでありましょう。
ナマケモモノのくまが、ナマケモモノでないくまに変身することもできるはずであります。
・・・無論くまの最終目標は自我などは無いと実感することなのでありますが、
その目標に達する為にもまずは、ナマケモモノではないくまに変身すべく頑張ったほうが良いでありましょうね。
その頑張るという要素と
ただひたすら自己を観察し、また、あるときは掘り起こし、とことんとんとん、観察すると言うことを、どうやって折り合いをつけて実践するかであります。 はてさて、くまはどんなくまでありましょうかと日々自問するくまであります。
経験が積み重なり、自分とはこんなものだという思い込みに縛られてあるくまなのであります。
それと対比された理想のくまもあるのであります。
思い込みのくまも理想のくまも、ともに観念、思いに過ぎないのであります。
で、思い込みのくまは、くまなのにナマケモモノなくまであり、
理想のくまは、お掃除のできるくまなのであります。
今、くまは染み付いたナマケモモノの習慣と理想を実現したいと言う葛藤の中にあるのであります。
取敢ずお布団干しましょうかね。
/⌒ヽ
⊂ ̄ ̄ ̄⊃
( -(ェ)-)
.(つと)
....と_)_) \ \ \ \ \
――――――――――――――――‐┬┘
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.. ⌒|⌒|⌒ |/ ⊃旦と)|
 ̄ ̄ ̄ ̄' ̄ ̄ ̄ |
集中のコツは、寄り添うように意識を対象(呼吸)におき続けること。
雑念(思考、感情)が起こったら、できるだけ早くそれに気付くこと。
決して、その雑念を抑制・否定しようとしないで放置したまま意識を集中対象に戻すこと。
次から次に雑念がわいてきても、それを嫌わす、気付いて、集中対象に戻ること。
嫌えば、追いかけられ、放置すれば消え去るでありましょう。
そもそもくまも、思考・感情に苦しむことから逃れたく瞑想をはじめ、その効果大なりと実感できたので、続けてるのでありますが、
何かを強く期待することは、効果を得る妨げになるでありましょう。
コツはありのままに気付きつつ、放っておくことであります。
で、雑念が少なくなり心がしずまってきて、潜在意識に隠れていた嫌な思い出とかが浮上してきたりすることがあっても、それに気付き、放置して集中に戻るのであります。
否定したくなるような自分の本性が浮上してきても、それに気付き放置して集中に戻るのであります。
(心的外傷・トラウマ等ある場合は取り組み注意でありましょうが、)
ここまでなら、変性意識とかサマディと言われる状態にならなくても到達出来るでありましょう。
(つづく) (つづき)
で、ここまでを意識的に「集中」として行い、思考・感情が消えて行く様を実感できたら、恐れずに自分の心を積極的に観察できる心持ちになれるでありましょう。
そもそもくまの場合思考や感情に苦しむことから逃れたくはじめた瞑想で、仮にその思考や感情を掘り起こすことになったたとしても、それらは観念に過ぎず、恐れる必要はないことを実感できてるからであります。
まず、「集中」とほぼ同じことを意識的に「観察」として行うのであります。
「集中」により出来た心のスクリーンに何も写っていない状態に意識を置く。
思考、感情がわいたら、その瞬間をとらえるべく観察し、流れるに任せるのであります。
ここで、その思考を積極的に思考するのではないだけでなく、一切コントロールしようとせず、流れるに任せるだけという感覚と、思考に巻き込まれてることの違いがわかりにくいかもでありますが、
それは、最初の「集中」において、他人事のように気付ける感覚が身に付くので、やってみると難しくないと思うであります。
そして、放置して消えて行く様を観察する。消えてもまたあらわれる様を観察するのであります。
ここにおいて、その思考、感情とセットになってあり、かつそれらの思考感情がないときも常にある、無色透明な「意識」を実感できるでありましょう。
(´・(ェ)・`)/ .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)
.と_)_)
ところで、
前にもチョピット書いたかもでありますが、腸は第2の脳とも言われる重要な器官なのでありますが、腹式呼吸をして下腹部に集中しすると、大脳に信号が行き、脳内物質が分泌しやすくなるそうなのであります。
その効果もあり、脳の機能の内、呼吸や血圧等自律神経を司る下層脳の働きが活発になり、思考を司る前頭葉がお休みモード入りするそうなのであります。
それで、続けていると思考が少なくなるのであります。
少なくともインドにおいて5千年の歴史のある瞑想法はなかなかどうして合理的な、心の健康法なのであります。 なるほど。
そういう、理屈で脳が休まるのですね。。
よーしいまからやってみるぞー。
呼吸に集中。
思考には気づいて放置、また集中に、戻る、、、
押忍! .∧_∧
(-(ェ)-)
(つと)
と_)_)
集中であります。
第2の脳(=ポンホン)に集中するのであります。
集中することで、前頭葉脳を休ませ、爬虫類脳を活性化させるのであります。
くまの脳にも皆の脳にも爬虫類脳があるのであります。
毎日少しづつでも続ければ、やがて効果を実感できるでありましょう。 瞑想中はどんな、思考も
あらいざらい放っておいて
集中してみます!
ポンポンに!笑
ありがとう! .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ旦と)
.と_)_)
以前、ラべリングアプローチって方法について、ちょぴっと書きました。
思考が生じてそれに気づいたら、「思考している」とか「思っている」とラベルをはり、感情や感覚を感じたら「感じている」とラベルをはるという方法であります。
脳内の状態を自覚化、意識化する方法として有効でありますが、
くまの場合、どんなラベルを貼ろうかな?と新たな思考を産み出してしまい、籾殻脳が忙しくなってしまうので、やめました。
ラベルはりと言ってしまうから、めんどうになるので、ありのままの脳内の状態に気づいていれば良いだけなのであります。
やるべき事として集中を設定してるにもかかわらず、それを忘れて無自覚に思考に巻き込まれてることが少なくなって行けば良いのであります。
思考が生じることを嫌わず、それに気づけるチャンスがたくさんあることを歓迎してやれば良いのであります。
思考がたくさんあるのなら、思考が次から次に現れては消えて行くことを、たくさん実感できるでありましょう。 ∧_∧
ミ(・(ェ)・)
ミ ( つコO
/ /(\) 。
(_ノ  ̄>ヘ ノ∴
゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙
ザックリ
穴掘る時は穴掘ることを考え
/\
/ >
/ /
..∧∧ >、 /
((^・(ェ</`イ|
( つ 示
(_へ_) /‖\
星を観察するときは観察することを考え、
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)
瞑想するときは、心を観察することを考えるのであります。
そう、考えてるのであります。
次から次に思考が現れては消える状態が、整理されて行く過程をつぶさに観察できるチャンスであります。
整理がある程度できて、雑念に邪魔されなくなってきたら、観察している主体は?対象である心は?と言う、単純な観察になり、そこから新な瞑想が迷走を始めるかもであります。
それが、「止観」の「観」の醍醐味であるかもであります! デケデケ ドコドコ
ドムドム ダダダダ♪
☆ ☆ ♪
ヽ オラオラッ!!
`=≡= ∧_∧ ☆
/〃 (・∀・#) /
/ ┌\と\と`∈≡∋
‖ γ⌒ヽヽコノ ‖
‖ΣΣ | |∪〓 ‖
∧ヘ人_ノノ 」L ∧ヘ
ドラムを演奏する時は思考より先に身体がリズムを刻むのでありましょうか?
日頃の練習により考えなくても身体か動くようになるのが、スポーツや音楽、芸術の世界の人逹が経験できてる世界でありましょう。
瞬間に反応する脳機能は、訓練されてることは間違いないので、瞑想もコツさえつかめば、ドンドン深まるでありましょう!
思考より先に気付けるようになるかもであります。
不器用でのろまなくまは、兎と亀作戦で、のたのたぼちぼちよたよたと進むだけであります。 Λ,,Λ
(::´・(ェ)。塩ラーメン
(::::::::..つニフ
 ̄ ̄と とノ ̄ ̄ ̄
ヤンキースの松井が運転中にインタビューを受けてる姿を見たことがあるであります。
バックミラー3つをぐるぐると絶え間無く確認しながら答えていたであります。
運転に慣れてしまうと、つい疎かにしてしまう安全運転の基本であります。
ドラムをやっていても、慣れてしまうと、考え事をしながらでもある程度の演奏はできてしまうのではないでしょうか?
訓練されて一度にいくつものことが処理できてしまう人の脳にとって瞑想は、
300k/hでる車を5K/hで徐行させるようなものであり、最初はむずかしく感じるかもでありますね。
くまの籾殻脳は、三輪車みたいな性能でありますので、その点ラッキーでありました。 で、そのぉ〜
無念無想といったその道の達人のような境地に至らずとも、雑念が消えて行く実感、思いが消えて行く実感を体験することこそが、くまにとりましては、重要な体験だったのであります。
それを何度も書いてるだけなのでありますが、
くまはこれで楽になっちゃったので、何度でも同じことを書いちゃうのであります。
脳には、外部から情報を取得する部分、記憶する部分、記憶の断片の組合せを変えてみたり、演算したりする部分、外部刺激を受信する部分、身体の基本機能を維持する部分、等などいろいろあるのでありませ。
人にもくまにも、オンオフスイッチみないなものは無いのでありますが、
使うと消耗するので、睡眠をとったり、お食事したり、機能を維持するためのメンテナンスとして、余暇を楽しんだり瞑想したりするのであります。
で、くまは呼吸を集中対象に設定することにより、雑念整理に取り掛かるのであります。
脳内の爬虫類さんも持ってるのと同じ部分、呼吸や心臓の機能を制御する部分を活発に働かせる反面、思考する部分を休養させるのことができるのであります。
これが、瞑想の重要な効能なのでありますが、
くまが言ってるのは、それと同じくらい重要な瞑想の効能についてなのであります。
思考、感情 = 観念 は消えるという実感を得れるということであります。
そして、その思考、感情、感覚等に気付いている意識の存在、それらの内容を映し出すスクリーン、あるいは受け入れる器のような意識の存在を実感できることなのであります。
∧∧
(ェ)・*) ≡=
O┳O )〜 ≡=
(*)し(*) ≡= ドラムの場合、体より頭でやっちゃうと、ダメみたい。
音楽は耳で聴いて体で楽しむのが1番みたいです。
たしかに、ドラムを叩きながら物凄く思考したりも、しています。
おっと、ドラムを叩いているんだっけ、と集中に戻ったり、逆にしっかり考えてみたりしてます。 ふむう。また難しいけど面白い、ですな。。
ちょっとまだまだ理解出来そうにありませんが、頑張ってみます。。 ‖ ‖‖
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‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
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>難しい
と、感じるのはくまの説明が下手だからであります。
>まだ理解出来そうにありません
←理解すると言うより、ありのままを体験する、とか実感するって感じかなと、思うであります。! >ドラムの場合、体より頭でやっちゃうと、ダメ ・・・
音楽は耳で聴いて体で楽しむのが1番
←音楽とりわけ太鼓は感情揺さぶり、身体を反応させ、生命の躍動を感じさせることができる、「楽」の表現でありますね!
>たしかに、ドラムを叩きながら物凄く思考したりも、しています。
←ここで、音楽に没入してみることは、ピザさんにしか出来ない瞑想法となるかもでありますね!
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_) ダメだ
ふだんから
自分の勝手な都合の良いイメージを持って、
生きている。。
実際より賢く美しく自分を見てしまっている。
気をつけるしかない!?? >>271
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
その事に気づけば、それでよいのでありましょう。
はてさて、理想の自分と本当の(?)自分、どちらが本物の自分でありましょうか?
自分って何なんでありましょうか? むかしから何度もこの状況に陥っている気がする。前に進んでないなぁ、、
なんだか難しくて、とても大事そうな質問ですね!!知ってる人は即答、知らない人には難問みたいな。 .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)←アセロラドリンク
と_)_)
>>225でちょぴっと書きましたが、ラマナ・マハルシさんって人が、「私はだれか?」と問い続けることが、最も大切な修行であると言ってたそうであります。
いつもくまが自分と感じてるものは、くまの記憶の中にある観念、イメージであり、その組合せであります。
その組合せにより理想を思い描くこともあれば、思いもよらなかった、後から否定したくなるような自分を発見することもあるのであります。
それもこれも全部くまであるのであります。
悪っくまがやらかしたことの責任は悪っくまとしてのくまの責任なのであります。その報いはくまが当然負うべきなのであります。
そのことと、観念、イメージとしてあるくまは、善いっくまも悪っくまも儚く消え去り、また、普通くまになることも、へんてこくまになることもあると言うことは別なのであります。
その変幻自在というか、普段確かにあると思っている「自分」と言うものの向こう側に「本当の自分」を探して行くと、つねにありのままカレルのパパのくまがいるだけであります。
「本当の自分」=「真我」と言うか、「真我」も否定して、「無我」と言うかは説明の違いであって、くまにとりましてはどーでもよいのでありますが、
そのようなことを書物や知識の中に探しても、実感を伴わなくては無意味でありましょう。
ひたすら「くまとは誰か?」と問い続けてみようかなと思うのであります。 >むかしから何度もこの状況に陥っている気がする。前に進んでないなぁ、、
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ∪と)←バナナ入りヨーギルト
と_)_)
子くまの頃、そうはじめてのお使いの頃、「自分っなんだろう?」って問いが籾殻脳内でぐるぐると繰り返されたことがあるであります。
誰しもが体験するいわゆる「自我の目覚め」であります。
そこから時間も始まったのでありましょう。
もしかしたらそこで目覚めたのではなく、「自我」と言う深い「夢」の中に陥り、未だに覚めてないだけなのかもしれぬ・・・と思うのであります。 .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ∪と)
と_)_)
くまは、止観によりだいぶ感情をコントロールできるようになったと書いてきましたが、最近職場で経営者と対立し、感情的になっている自分を観察できました。
まだまだ修行中のくまであります。
でも、よく観察してみると、その感情も、その時直面している事態に対することのみに原因があるのではなく、他者に対する感情のみでもなく、自分自身に対する怒りでもあり、
むしろそちらの側面の方が強いこともわかってきました。
我が身のことをまず知り尽くすべく、自己観察を続けて行く所存のくまであります。 悟りは大疑問に対する答えである。
その疑問を省略したところでは答えはないことになる。
残念なり。 |∧_∧
|・(ェ)・)
|⊂ノ
|`J
くまは貧である。
くまは大疑問そのものである。
くまはもしその時意識があれば、最後の一呼吸の時まで、くまって何だ?と問い続けるであろう。 ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(-(ェ)-)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
満員電車瞑想法。
次から次にまんべんなく受ける感覚、次から次に浮かぶ雑念、思考。
揺れや、温度、体感に意識を向けるとそれがあり、場合によって連想ゲームが始まる。
そして消え去る。
雑念、思考は次から次に浮かんでは消える。
もちろん、そこにとどまることもできるし、消え去るままにすることもできる。
それらを他人事の様に観察するのが、満員電車瞑想法であります。 瞑想のこつはとにかく続けること、なのかな。
自分を見尽くしたつもりで、まだまだ全然って感じなのかな、ぼくは。
瞑想はぼーっとすること。
自分を見るのはまた別のことって感じがする。感情や思考、言動を見ることと、ぼーっとすることは。ぼーっとして見えてくる自分もある、ということなのかな。 ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
>とにかく続けること、なのかな。
←そうであります!
>すること。
←ぼーっとしちゃうことはあっても、いつでもどこでも自由自在にぼーっとするのはむずかしいでありましょう。
>自分を見るのはまた別のこと
←
ぼーっと考え事をしてるのか、ぼーっと本当になにも考えてないのか、ぼーっとしたいのにぼーっとできず、それと戦ってるのか、今の自分の心をありのままに見るのであります。
それを抑制したり、拒絶したりせずにありのままに。
そして、それがうつろい行き消えて行く様を見るのであります。
するとあら不思議!残るのは、「ぼーっと」だけになるのであります。
>感情や思考、言動を見る
←感じている、考えている内容を見るのではないのであります。くまの頭の中に、今、あー仕事へ行くの嫌だなぁ〜と言う思考が浮かび、感情が起こったとします。
その内容を見るのではなく、そのよつな雑念があることに気付き、
また、ガラ携での打ち込みに戻れば、思いも感情も消えるのであります。 どうしても、奥を探ろうとする癖がついているなぁ。何か自分に怒りとか、逃げとか感じたら、その原因とかを追求して、自分の無意識に守っていることとかを探ろうとする。それも、自分を知ることだって、思っている。
でも、そう思い過ぎかもしれない。
やり方が下手なんだろうな僕は。
さぁ来い来い、怒りでも迷いでもなんでも来い、全部正面から受け止めてやるーなんて思っていても、そう思っている間は怒りや迷いはどっかに隠れて出てこないみたい。
人間がいると隠れて出てこないゴキブリみたい笑 >何か自分に怒りとか、逃げとか感じたら、その原因とかを追求して、自分の無意識に守っていることとかを探ろうとする。それも、自分を知ることだって、思っている。
←その通りでありますね。しかも、
>どうしても、奥を探ろうとする癖がついているなぁ。
←で、あれば、それはとてもよいことでありましょう。
怒りや、不安の原因をとことん追求し、本当の原因が見つかれば、それだけでそれらが消えることもありましょう。
て、書くと、えっ?て思うかも知れませんが、
原因である事実にもとづき、反応としての感情(怒りとか不安とか)があるのでありまして、原因事実の記憶も、それに対する反応としての感情も、ともに観念なのであります。
反応のほうの感情も、まんがのふきだしの中の「怒ったぞ!ぷんぷん」みたいなものなのであります。
感情は環境の危険から身を守る身体の機能みたいなものでありますから、消し去る必要はないのであります。
ただ、いつまでも、その感情な振り回されることの煩わしさから自らを解放することは簡単にできるのであります。
ただ、心を観察して、本当の原因を見つければよいのであります。
くまが>>276で書いた経験もそんなことなのであります。
>人間がいると隠れて出てこないゴキブリみたい笑
←ふむふむ、自我ってのは、ゴキくんみたいなものでありますね。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_) こないだ夜中に、ある部屋の扉を開けると、あいつら2匹いたんだ。若いのと大きいの。
それで睨み合いながら、どうやって2匹やっつけるか考えてたら、大きいのが自分に向かって来た。間合いに入ってすぐ踏んづけたけど、その間に若いのに逃げられちゃった。
いつもなら人の反対側で逃げ場所の、多い方へ一目散なのに。
これはやっぱり若いのを庇ったのか??としか思えないんだよなぁ。人に言っても、何も考えていないだけさ、なんて言われるんだけど。
ごきぶりの綺麗な話。 >>285
.∧_∧
(-(ェ)-)
(つと)
と_)_)
ゴキくんたちは、くまや人よりも何億年も前に誕生し、くまや人がが滅んだあとも、長く生きるでありましょう。
ゴキくんたちにも意識はあり、自己防衛のためにピザさんに向かってきたのかもでありますね。 似たようなことが前にもあったんだよね。メスをかばうように雄が僕を惹きつけようとした、みたいなね。
ゴキさんからは人格というか、そんなのを感じるよ。
容赦なく始末するけどね。 .∧_∧
(・(ェ)・)
(つと)
と_)_)
じつは、くまもゴキくんは苦手なのであります。
修行不足なのであります。
昔、スティーブマックィンのパピヨンって映画で、脱獄の名人である主人公が、ついに離れ小島の独房に隔離され、食事も満足に与えられず、
それでも諦めず、動物性タンパク質を摂取して体力をつけるためにか、ゴキブリをつぶして無表情に食するシーンがあったであります。
将来の滅亡を前にしたくまや人類にとって、生命力繁殖力の強い昆虫は大切な食糧になるでありましょうから、
たいした理由もなくゴキくんを嫌うことを反省せねばと思うくまであります。 すごい話ですね。。。
俺なら死を選ぶかな、、
いやぁ、ここんとこ出来るだけ毎日、瞑想、少しでもやってるんですが、長く続けられないですね。
でもとりあえず毎日やり続けてみますか。 .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ〇と)
と_)_)
何でも好きなことなら少しずつでも続けられるのでありましょう。
あっ!これは使える!これはいい!って感覚を得られれば良いのでありますが・・・・
もし、今はその気が起きなくても、
将来どうしても心が苦しくて、困ったくまったと言う時に、思い出してやってみたら、効果を実感できるかもであります。
心がひりひりする様な時ほど効果を実感できるでありましょう。
安楽の道であります。 ∧∧
(-・(ェ)・-)
_| ⊃/(___
/ └-(____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
くまが瞑想を始めたばかりの頃どうだったか思い出してみた。
そう、じっとしてることにイライラして5分も続かなかった。
で、少しずつ時間を伸ばして行ったけど、時間を決めてやると、それが心理的負担になり嫌になっちゃうので、時間は決めなかった。
で、15分〜30分座れるようになったのは、心の修行と言うよりも、身体技法としての側面を意識するようにしてからだったような気がするの。
姿勢の崩れにできるだけ早く気づき、腹式呼吸を丁寧にすること。
で、30分〜45分座れるようになると、今度は、足のしびれとの戦いだった。
何か、心の鍛練と言うよりもひたすら足のしびれとの格闘が続いた。
今でもしびれはあるけど、始めたばかりの頃のようには、しびれが瞑想の邪魔にならず、無視できるようになっている。
長く座るこよりも、何も考えないようにしようとすることよりも、心、意識に浮かぶ観念、イメージに気づき、それが浮かぶ瞬間を捉え、それが消え去る実感を得られたら良いのではないかなとくまは思う。
そして、そのための入口として、瞑想の身体技法としての側面を意識してみると良いかもと思うであります。 ∧∧ ∩
(-・(ェ)・-)
_| ⊃/(___
/ └-(____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
あっ!それともう一つ、
短い時間しか座れないと言うことは、本当はもっと座っていたいと言う思いがあると言うことだと思いますが、
その、あーもうやめようと言う思いに気付き、等間隔で、あーもう少し座れるようにようになりたいと言う思いに気づいてみる。
その時、あーもうやめようと言う思いを否定したり抑圧したりせずにそのまま気付いているだけにし、ただすぐに座を解かず、あーもう少し座れるようになりたいと言う思いにも気付くようにしてみる。
何か、幼稚な方法みたいだけど、確か効果あったような気がする。 .∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
ストレスとは生活上の精神的重圧、また、それを感じた時の感覚 だそうであります。
くまもそんな重圧や感覚と折り合いをつけながら生息中であります。
ストレス対策に瞑想は効果抜群であります。
そんなストレスで、思いが溢れかえってる時の方が、その心と対峙しやすいと感じる最近のくまであります。
以前はそんな時は瞑想どころではなく、ストレスの原因であるところの思いにどっぷり巻き込まれていたであります。
真に瞑想は安楽の道であります。 なんか、無を感じていない自分→自分は間違っている誤っている倒錯している
という思考があって、常に無になりたいと願っている。それが僕を悩ませている。
無を感じないでも、このままで、いいのかな? >>294
>常に無になりたいと願っている。それが僕を悩ませている。
←数息観や経行(歩く瞑想)とかやってみたらどうでありましょう。
数息観や経行は、雑念に巻き込まれないようになる為の合理的で単純な練習法であります。
ちょぴっと練習すれば、日常でも常に応用できるであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_) .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
数息観や経行は、普段無意識にしていることに、意識をとどめる練習であります。
歩くときだけでなく、ご飯を食べる時、洗濯物を干す時、トイレに入った時、いついかなるときも、雑念に囚われたなと気付いたら、その時していることに意識をとどめてみる。
その時何もしてないなら、呼吸に意識をとどめてみる。 ・無を感じていない自分
・間違っている誤っている倒錯していると思考する自分
・常に無になりたいと願っている僕。
・悩まされている自分
←くまは倒錯してるとは感じないし、悩まされることもないでありますが、同じように、自分があるであります。
集中力が極限まで高まれば、一時的にしろ「無」の境地を垣間見ることができるらしいでありますが、
自分がある限り、常に無であることは無理であり、それはそれこそ悟りの境地ではないでしょうか?
小さなことからコツコツと積み重ねて行きたいと思うくまであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_) 無を求めすぎてる自分に気がついただけで随分楽になった気がする。。
いつも極力意識を自分に向けているんだけど、それは自分というより空想した無に向けている、みたいな感じだったかもしれない。
瞑想すると、ちゃんと自分に向くというか、そんな、効果があるみたいですね。 >いつも極力意識を自分に向けている
←意識を自分自身に向けることの効果は、無意識に思考雑念が浮遊することに気付き、それに気付きさえすれば、思考雑念は幻想のように消えるものであると実感できることだと、くまは思うであります。
既に、ピザさんは意識を自分に向けておく習慣がついてるのであれば、「空想した無」を思考すると言う力(りき)みが抜けさえすれば、瞑想が深まって行くでありましょう!
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_) .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
空想した無に意識を集中するのも、一つの瞑想法だと思うであります。
無とか空とか言う言葉の意味をよく理解して、全ては無、あるいは空とみなすように瞑想する方法もありでありましょうが、
それはちょぴっと難易度か高いような気がするであります。 .∧_∧
(-(ェ)-)
(つと)
と_)_)
肩の力を抜いて、背筋を伸ばして、ただひたすら、呼吸に寄り添う。
何も求めず、そのことだけに集中する。
何も求めないでいるっ言うのが肝なのでありますが、ついつい何か求めてしまうくまであります。 またあけてしまった。。。
やはり音楽瞑想法がいいのかもしれません。。
楽器をやっているときが1番集中している。
もちろん、普通のとあわせてやるべし、なんでだろうなあ。
くまさん、悟りを開いた人は潜在意識も自由に使えて、能力を100%発揮できるっていうけど、本当だと思いますか?? ‖ ‖‖
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>は潜在意識も自由に使えて、能力を100%発揮できるっていうけど
←ほよぉ〜っ!それはすごいでありますね!
本当かもでありますね。 本当なら楽しいよね。
さて今から軽く瞑想しようかな。
くまさんは、瞑想、どのくらいのペースでやってるのかな?? ‖ ‖‖
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できるだけ毎日する習慣にして行こうと思うのでありますが、今は座ってするのは週に3〜4であります。
歩くとき、何かするときに、そのことに意識をとどめると言うのであれば、毎日できるだけやってるであります。
これから、満員電車瞑想法であります。 ∧_∧
(・(ェ)・)
/つ△と←アップルパイ
―――――UU
初めての人と話す時は、話すこと、聞くことに集中するでありましょう。
人を説得し、了解を得ることを仕事として日常行ってるような人であっても、友人間や家族内では気をゆるし、無意識の内にうっかり本音をもらしトラブルになるなんてこともあるでありましょう。
一人でする瞑想の場合はそんな心配は不要であります。
心の観察は、集中して緊張感を高め、心を固定してしまうことではなく、逆にリラックスしつつ、ありのままの心の声に気付き続けることだと思うのであります。
本音を否定、抑圧するのではなく、ありのままの本音に気付き、そしてそれもまた消えて行くことを観察するのであります。
↑これは「止観」の「観」のことであります。
で、「観」はいつでもどこでもできるであります。
気付くことにより、消えて行くと言う感覚は、一度実感してしまえば、乗れなかった自転車に乗れるようになるみたいなものであり、いつでもどこでも日常に応用できるでありましょう。 >>307
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つと)
と_)_)
うんうん。ゆっくりやりましょう。
もつれまくってる、そのありのままに気付いていましょう。
そのもつれてる中に、いろんな感情や思考が見つかったら、それにも気付いていましょう。
それが、「観」です。
集中の訓練、「止」の訓練は、何かを見つめるとか、単純な動作を繰り返すとが、ドラムなど好きなことに夢中になるでもよいでありましょう。 自分のもやもやの原因や理由を探るって感じかな??もやもやしてる自分の思考と感情か。
それが「観」。
よーし、ちょっと腰をいれてやってみよー >>311
もやもやの原因を追求できるのならやってみましょう?
わからなくなっちゃったら、わからなくなっちゃとたと気付いていましょう。
もやもやしてるものが、何なのか、気付いてあげましょう。
もやついて、消える前に気付いているあげましょう。
そう。消えてるのです。気付く前に消えちゃうから、いつまでももやつくのではないでしょうか?
気づいたら、それが消えることを確認しましょう!
それがくまなり「観」であります。
そう!腰をいれて、肩の力を抜いて、リラックスしましょう。
ミ゙゙ミ ∧_∧. ミ゙゙ミ
ミ゙゙ミ(・(ェ)・)ミ゙゙ミ
゙゙\ /゙゙゙
i⌒ヽ|
(_) ノ
∪ ∧_∧
(・(ェ)・)
|つと|
―――-――UU------------
くまの心の中には、正義のみかたも悪魔の手先も棲んでるのであります。
天使や悪魔の思いが起こるとき、くまはそれになるのであります。
天使も悪魔も「言葉」であります。
言葉=観念であります。
言葉=観念とは分別する道具であります。
意識にあらわれるのはその道具である言葉=観念であります。
実体ではないのであります。
言葉=観念は儚く消え去るものなのであります。
で、ありますから、もやもやの正体が何かに気付くだけでも、それがまた消え去ることにも気づけるでありましょう。
もし、それが消え去らないようであれば、さらにその正体を見極めましょう。
例えば、
怒りの感情がもやもやして消えない。
原因はなんだろう?
正義感、嫉妬、プライド・・・心の奥底まで追求できれば、「観」は深まるでありましょう。
このように書くと、思い出したくないことをほじくりかえす苦痛を伴う事のように思えますし、
経験の違いや実践の深度により、確かに苦痛を伴うことになる事もあるかもであります。
けど、深い心の傷、トラウマ的なものがないのであれば、くまの経験ではそれはほぼ一瞬で吹き出し、解消されるように思うであります。 やっぱり、人と接するとすぐに観察対象にすべき自分が見えて来る気がします。
怒りや不満やら。
もっとちゃんと大人になって安心や平穏を与えられる人になりたいであります。 言葉イコール観念の意味は、理解できません。
いろんなところで目にしてきたのですが、僕の経験や脳味噌の理解を、超えています。 >>314
そう。丹田を意識するのであります。
>>315
そう。
大人の階段を一歩づつ!
_________|_
| ______ ∧_∧|_
 ̄| _____ (ェ)` )_|_
 ̄| __ と つ__|_
 ̄| __< <ヽ |______
 ̄| _(_)_γヽ____
 ̄| ___(__ノ____
 ̄| _______
 ̄| |
>>316
言葉イコール観念がわかりづらければ、「言葉」でよいであります。
始めて見るものでも、経験することでも、何等かの言葉で表現できるでありましょう。
週末に、ちょぴっとまとめられたら書いてみます。 くまさん、なんとなくくまさんは約束を守ったり、嘘つかなかったり、誠意がある人の、ような気がします。
いかがですか。
そういうことを、、必死に守ろうとするのか。
それとも自然とそういうことが出来るのか。
教えて欲しいです。 >>318
自然と当たり前になるのであります。
>>319
元気であります。
本日は勤労奉仕場の忘年会でありました。
観念の話しをまとめたかったのでありますが、むずかしいであります。
多分言葉で表現できることが観念でありましょい。
言葉で表現できないことは、実感するしかないのでありましょう。
‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
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(_(_(_)_) ‖ 実感=確信=信念 とか、言葉で表現しようとすとる、かけ離れたものになる気がするであります。
敢えて、表現すれば、安心かな。
(´・(ェ)・`)/ ∧_∧
_ (´・(ェ)・`)__
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`T ̄∪∪ ̄T
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くま、色々なことで行き詰まり苦しかった時に、瞑想に取り組み、乗り越えてこれたので、その事を出来るだけ伝えられたらいいなと思ってるであります。
で、その苦しいことをある程度和らげることができさえすれば、瞑想に取り組んだ目的は達成されたと言えるのでありますが、
それだけでなく実利的な効果もあるのであります。
それは、「ありのまま」を観察する訓練によるのではないかとおもうのであります。
自分の思考感情、心を否定も抑圧もせずありのままに観察する訓練であります。
それをほじくりかえしてきて睨み付けるように観察すると言うのではなく、たんたんくまくまと気付いてれば良いだけなのであります。簡単なのであります。
そのことにより、なんでもかんでも状況を受け入れるというのではなく、ありのままの状況を受けとめて、それに対する反応としての感情を理性的コントロールし、状況を改善して行くことができやすくなるのであります。
籾殻脳の上大雑把な資質のくま故解りづらい説明しかできぬのでありますが、いわゆる「引寄せ」みたいな効果があるのであります。 悟りたいという思いに従って行動するとすべて失敗する。
思いに依よらない行動をし生活していることが大事である。
求めても得られない。
機が熟せば、自分以外(天、神、仏、自然、超自然、、、何でもよいが) から与えられる。 ∧_∧
⊂.(・(ェ)・)
ヽ ⊂ )
(⌒) |どどどどど・・・・・ 三 `J
新年あけおめことよろであります。
最近なかなか、すわることができてないくまであります。
お勤めをしてると、心が荒れることも多いのであります。
そう言うときこそ瞑想に取り組むべきなのでありますが、・・・・できてないのであります。
その代わりにやっているのが、歩くとき丹田に意識を集中すると同時に一歩一歩を意識し続けることであります。
心の在処を常に意識し続ける感じであります。
経行(きんひん)とか歩く瞑想とかほど厳密なものでなく、一歩一歩に意識をのせておくだけなのでありますが、
くまには、荒れた心を癒す効果が感じられるであります。
ちょぴっと、こつがあるのであります。
一歩一歩に意識を乗せておこうとすると、つい数えてしまったり、数と足の運びが合わなくたって、その事に気が散ってしまい、続かなかったりするのであります。
そこで、くまが考案したのが、意識を主に置いておくのは丹田、その上で丹田の意識から一歩一歩を眺めてる感じと言うか、・・うまく説明できないのでありますが、まぁ、そんな感じたのであります。
何ともまとまりのないことになってしまいましたが、
本年も張り切って参りましょう! (・(ェ)・)っ
(っ ,r どどどどど・・・・
i_ノ┘
∧_∧
⊂.(・(ェ)・)
ヽ ⊂ )
(⌒) |どどどどど・・・・・ 三 `J
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
心ってなんでありましょうか?
いろんな観念が浮かんだり消えたりする場所のことでありましょうか?
観念って何でありましょうか?
その浮かんだり消えたりする思いのことでありましょうか?
思いは、くまがそう思えば、そうなのであります。
そう思わなければ、そうでないのであります。
その思いを思い描いてるのがくまでありましょう。
くまが主体として存在して思い描いてると言うことに疑問を持つのは難しいであります。
いろんな観念、記憶の断片が消え去り、何も思いが浮かばない時も、その浮かばない状態を観ているくまがいることに気付いた瞬間にくまが存在してるのであります。
ただ、何も思いが浮かばない状態に接近して行くことは、ちょぴっと練習すればできるようになるのであります。
「止」=集中の練習であります。
思いがある心の通常運転中に、集中により、何も思いが浮かばない状態を、ポツンポツンと作って行くのであります。
いろんな色紙の壁にに針でポツンポツンと穴をあけてくと、色紙の壁の向こうに、「何もない」だけがある背景がひろがってるらしいことが感じられる=思われるようになるのであります。
どんな色紙でも貼れる、キャンパス、スクリーンのようなもの、それが意識でありましょう。
そのスクリーンにはどんなくまの思いでも貼れるでありますし、消すこともできるのであります。
で、そのスクリーンは、くまの思いがあるときでもないときでもあるべきものと感じられるのであるとすれば、それ=スクリーン=意識は、「くまの」ではないのでありましょう。 .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
くまいつも、何気なく実感するしかないみたいな書き方をしてるでありますが、
実感すると言うのも、そのような観念を思い描いていると言うことでありますから、
独りよがりになっていないか、とことん見極めねはなりますまいね! 心が荒れた時、凍てついたとき、それに巻き込まれる。
巻き込まれて荒れた心のくま、凍てついた心のくま、それに苦しむくまがいる。
で、普通の反応として、荒れた凍てついた心に蓋をして隠そうとする。抵抗し否定し抑制し消し去ろうとする。
けど、抵抗する程に闇は深まる。
で、抵抗をやめて、その闇に気付いてあげる。そう他人事のように気付いてあげるのである。
全てに気付いてあげるのである。
くまの心の闇にも、それに抵抗しようとしていることにも、全てに気付いてあげるのである。
心のうつろい行く変化全てに、ありのまま気付いてあげるのである。
そう、うつろい行くのである。そして闇ははれるのである。
こんなのが、くまのやってる「観」であり、うまく行くときと行かないときがあっても、これで随分と楽になったので、おすすめである。
─-─┬──┬────
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| ○ ○ ||
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||... ∧〃∧||
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 ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(つ@と ||
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.... し'し||||
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
こんにちは。
明日はまだ来てないし、昨日は戻って来ないのである。
だから今しかない・・・と言うわけではないのである。
今の中に明日も昨日もあるのである。
今の中に現象も時間も一つのものとして全てあるのである。
道元さんの正法眼藏の有時の巻を読んでみたのであるが、超難しいのである。 有時(うじ)の巻きに解説されてる時間論は、唯識とか非二元(ノンデュアリティ)、無我と同じで、考えて理解することではなく、本当にそうか気付けて実感できなきゃ無意味なのでありましょう。
なんせ、これらの解説によると、本当は、自他の別も主客も時間すらもないっていうのでありますから、なかなかどうして、困難な道であります。
けど、本当にそうなら、「苦」を感じる主体なく、究極の「苦」である「死」からも解放されるのでありますよね。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_) ─-─┬──┬────
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 ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(つ@と ||
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.... し'し||||
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
集中と観察の瞑想がちょぴっとできるようになると、その時していること、例えば歩いている時であれば、足を動かしていることに意識をとどめおくことが容易にできるようになるのである。
その事により、雑念妄想が漂うこと少なくなるのである。
自分に気付いていることがだんだん当たり前に普通にできるようになってくるのである。
安楽の道をとことこと歩くくまである。 ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
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(_(_(_)_) ‖
電車がおくれてるのである。
くまは、呼吸に集中することから、始めたのである。
集中力を鍛えるのが「止」の行である。
雑念が浮遊する心を制御する練習である。
で、この集中の練習をする過程で、同時に、観察の練習も始まっているのである。
集中しようとしても、次々に雑念が浮かんでくるようす、集中することによって、それが消えて行くようすなどに気付くことができるのである。
「止」である程度心の制御ができるようになってきたら、高まった集中力をもって、心の観察を「観」の行として取り組むのである。
この、観察は、心だけでなく、身体も対象なのである。
心に思いや感情が生じたり消えたりするときに、身体にどんな反応が起こるがも観察するのである。
最初に呼吸に集中する練習を積むことにより、微妙な呼吸の変化にも気付けるようにするのである。
不快な感情があるとき、身体が道反応するかを観察するのである。
で、それをじっと観察することにより、どんな効果があるかは、自分で繰り返し試してみるしかないのである。
勿論これは、いつでもどこでもできるのである。 ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
帰りの電車である。
ずぅ〜っと乗ってたわけではないのである。
で、不快な感情に苦しむとき、いわゆるストレスが高まったとき。
対処法として、観の行がスッゴク有効なのである。
その不快な感情をありのままに観察するのであるが、その溶解して行く様は、ちょぴっと練習すれば誰でも実感できると思うのである。
ただ、不快な感情をありのままに観察することと、その感情に巻き込まれていることの区別が、実践し、実感するまではわかりづらいのである。
で、心の反応である感情と同時に起こる身体の反応の方をメインに観察してみるのである。
で、身体の反応に気付き、じぃ〜っと観察することにより、身体の反応も不快な感情も消え失せる実感を得られればしめたものなのである。 ∧_∧
(´・(ェ)・)
(っ=川と)←野菜たっぷりタンメン
 ̄ ̄ヽ二フ ̄ ̄ ̄ ̄\
心が荒んだ時は、お散歩が一番速効性があるであります。
>>324 .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
心に浮かぶ雑念の内容は、思考であったり感情であったりイメージであったり、記憶のオモチャ箱からでたらめにでてくる。
呼吸に集中する訓練をして、雑念の少ない状態を維持できるようになってくると、
心に浮かび上がってくる思考やそれに伴う感情を生じた瞬間に捉えることができるようになる。
そして、また呼吸への集中に戻ると、瞬間にその雑念は消え去ることも実感できる。
思考は自分の思考であり、感情は自分の感情であり、イメージも自分のイメージと実感されるが、それらは夢幻のように消え去るものとも実感される。
と同時に、それら雑念の内容を映し出すスクリーンのような意識の存在に気付く。
内容(=雑念)の映ってないスクリーン(=意識)である。
その何も映ってないスクリーンを見ている自分はいるのであるが、少なくても一つのスクリーン=一つの意識と言うのはありそうな気がしている。
であるから、修行中の身としては、自他の別なしとは、自分の観念記憶は夢幻のように消え去るものであるり、それを映し出す意識は一つのものとしてある。
一つのスクリーンを見ている自分=主観も、写し出している意識=客観も一つのものである。
という程度にとらえている。 くまさん、久しぶりになってしまいました。
あけましておめでとうございます。
今年もヨロシクどうぞでございます。
最近はまったく座れていません。
心も荒んでいます。
いつもモヤモヤに覆われている感覚です。
昼は眠たくて夜は寝れない悪循環、ストレスが多くて自分が嫌いになっています。
くまさんの投稿を見てすこし安心したり考えたりしています。
とりあえず今から久しぶりに座ってみようかな。そのままモヤモヤを観察、そして身体を観察。
今日はちょっと暖かいし。 >>335
おはようであります。
>心も荒んでいます。
いつもモヤモヤに覆われている感覚です。 昼は眠たくて夜は寝れない悪循環、ストレスが多くて自分が嫌いになっています。
そういうとき、いきなり心の観察は、難しいでありましょう。
そもさも、その心を直視しようと言う気が起きないでありましょう。
1、まず、呼吸に集中してみようと決意する。
2、呼吸に集中していても、モヤモヤや、自分が嫌いだと言う思い雑念がわいてくる。
3、3に気づいたら、呼吸への集中に戻る。
←ここまでの練習を繰り返してみるだけで、雑念=思い=観念、が消え去る実感を得ることができるでありましょう。
心の制御とかいうと大袈裟ですごくたいへんな技のようですが、簡単なのであります。
これが身に付くと、せっかく楽になったのに、心の観察などして、苦しみたくないと想うでありましょうが、
既に、思いは儚く消え去る実感を得ているので、心の深層に立ち向かって行けるようになるのであります。
心の苦しみから逃げたり、ごまかしたりしても、 解放されるどころか、雪ダルマのように大きくなってゆくでありましょう。
心のありのままに気付き、気付くだけで溶解するその実感を得るための技として「止観」は使えると想うであります。
くまの心も荒んでいるであります。
そのことに今も気付いてるであります。
ありのまま、カエルのパパであります。
(´・(ェ)・`)/ そうですね!気がついているだけで全然違います!
自分の纏っている重い鎧を1つずつ脱いでいこうと思います。自分で気づいていくこと。
瞑想もそんな自己観察の役に立つ! 僕の脳内はほんとに散らかっています。
ほんとに、モヤモヤ、を観察する君はとてもなれません。
放っておいて、呼吸に集中していいんですね!
やってみます! インディージョーンズって映画で、宝の在りかにたどり着く為には、奈落に落ちる中空を渡って行く道しかない、といシーンがあったであります。
苦しみから解放されるためには、逃げてはダメなのであります。だからといって苦しみを受け入れよとか、苦しみに巻き込まれて苦しめというのではないのであります。
苦しい心、気付いてるあげるだけでよいのであります。
どうでしょう?そのまま放っておいて、集中にもどれませんか?
___
_l≡_、_ |_
(*´・(ェ)・`)
<__ヽyゝヽy━・
/_l:__|
lL lL もう一つ思い出したであります。
以前テレビで、ティクナットハーン(ノーベル平和賞を受賞したベトナムの禅僧)が、戦時の平和活動時に、伴に活動していた友の理不尽な死に際し、怒りの苦しみを克服するために徹底した歩く瞑想を行い、怒りを克服したと言う話を聞いたであります。
感情の苦しみに大小はないでありましょう。
克服できない苦しみもないでありましょう。
‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖ (⌒;,ノ;
∧_∧ :(' ;ソ.
.( ・(ェ)・) ΩΩ)
( つ旦O 〔 ̄ ̄〕
と_)_) |_━_|
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
そう言えば、お正月に買ったお餅があったのである。
これから焼いて食すのである。
2年ぶりである。
小さなくまの幸せである。 .∧_∧
(-(ェ)-)
(つと)
と_)_)
これからちょぴっと座るであります。
今生最後の一呼吸のつもりで集中・・・・って、いつも想うのでありますが・・・・ どうすれば綺麗な心をもてるかな?ほんと自分本位な思考しか出来なくて。そういう自分本位な思考を自分本位な思考と気づいていけばいいのかな?
人とまともに会話できない。 >どうすれば綺麗な心をもてるかな?
それは、でありますね、綺麗な心をすでに持っているように、話せばよいのであります。振る舞えばよいのであります。
その上で、本当はどう思っているのか、偽善と思ってるのが、カッコ悪いとおもってるのか、本心にいつも気づいてればよいのであります。
その内、本物の綺麗な心になってるかもであります。
‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖ .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
例えば、であります。
くまは、もう長いこと、どんな小さなことでも、誰かに何かをしてもらったら必ず声に出して「ありがとう」っていうのであります。
コンビニのレジでも、牛丼やのカウンターでも、交通整理のお巡りさんやガードマンでも、何かしてもらったときは必ずありがとうっていうのである。
もう完全に習慣になってるのである。
それだけでも、そのぶんだけ、綺麗な心になるような気がする単純なくまなのである。 >>343
>どうすれば綺麗な心をもてるかな?
→と、思っている。
>自分本位な思考しか出来な
→いと、思っている。
>人とまともに会話できない。
→と、思っている。
↑ありのままに観察できてるのであります。
先に、「止観」の「止」からはじめて、そのような諸々の観念が消えて行く実感る得る練習をした方が、心の観察に取り組み安いかもしれないでありますし、くまはそのような順番を踏んだのであります。
けど、普段深層心理に隠れている、見ないようにしていることごとが、何かの機会に噴出してきたときに、苦しいでありましょうが、思いきって観察してみるのも良いかもであります。
観察してやるぞぉ〜って構えて観察しようとしても、そのような時は観察対象として諸々の負の観念が真に迫って浮かんでこないので、あります。
何かで、苦しんでるとき、思い悩んでるときこそが、観察のチャンスなのであります。
自分の心を自分の心が観察するのであります。その観念に巻き込まれて、そのことを考えるのではないのであります。あくまでも、観察するのであります。
抑圧したり否定したりしちゃだめなのであります。
苦しければ苦しいと、ありのままに観察するのであります。
無理しないようにね! .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)←スジャータ入りコヒ-
と_)_)
時間のことである。
道元さんが『正法眼蔵』、有時の巻で時間のことを書いてるのである。
超難しくてちんぷんかんぷんなのである。
解説等を読んだりしてみて、ちょぴっとわかった気になったりしたことを、難しい内容の解説として書く能力は籾殻脳にはないのである。
それを又、偉そうに処世訓みないなこととして書くのも気恥ずかしいのである。
けど、まぁ、くまの一人言として書きつづけてるので、その流れの話なのである。
過去や未来に思いを馳せることは、反省し前向きに物事に取り組む動機ともなろうが、
悔恨の思いに捕らわれ、不安におののき、「苦」の原因ともなるのである。
だから、今だけと言う話ではないのである。
過去は既になく、未来もまだない。
あるのは今だけ。
何か働きかけることができるのは常に今だけ・・・だから今だけと言うことでもないのである。
そもそも、時間とは、始まりと終わりがあることを前提としてるのである。
永遠を前提とすれば、時間はないのである。
ないけどあるのである。
今の中に過去も未来も全部あるのである。
ないの中に全部あるのである。 何年も前にパパくまが死んだ時、
何度となく車窓から見ていた平城京にはじめており立ち、歩いてみたのである。
その時、話しかけてくれた人に案内していただき、ゆったりとした時間を過ごしたのである。
Wikipediaによりますと、
138億年前にビックバン
46億年前太陽系誕生、35億年前生物活動の化石証拠、約1000万年前にヒト亜科がヒト族とゴリラ族に分岐、19万年前 - ホモ・サピエンス(現在のヒト)の出現。
で、くまがおりった平城京はわずか1300年前の都でありました。
/\
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..∧_∧ >、 /
(´・(ェ</`イ|
( つ 示
(_へ_) /‖\
くまは本当は望遠鏡は所持してないのであり、旅するお金も時間もないのであるが、
都会の星の少ない夜空を眺めれば、そこに138億年の幻想を旅することができるのである。
その夢幻の中でくまは生あることの奇跡を堪能するのである。
永遠の幻想である。
くまはいずれ煙となり、灰となり、仮に一時的にその一部が墓場に行くとしても、永遠のただ一つの意識あるいは宇宙に戻るのである。 もう意味わかんねよ!
なんだこのいつまでもスッキリしない感じ。もう10年以上は進んでないぞ!
おれはどれだけ馬鹿なんだよ! 幾千幾万の過去世の心の修行にもよりますが、以下の課題をクリアすれば、
覚者となる方が出てくると思います。
◯悟りを開く方法 「男女20歳以上を対象」
精神統一は、腹式呼吸から始めること。「椅子も可」
@改心の涙の清い心
心の波立ちの原因を探り、六大煩悩の囚われを見つけること。
A明鏡止水の心境
心の波立ちが少なくなり、透明な心持ちに一つとなり、ついに心の波立ちは
無くなり、鏡のように観えてくる心境のことです。
Bギブ&ギブの精神的心境
明鏡止水の心境は、煩悩から離れた無心の心境でありますから、ギブ&ギブの
精神的心境として昇華する前提があって、無私無償の心で、他の人の幸せを祈
ることができるようになります。
C覚者の登竜門に参入「菩薩・天使」のピカピカの一年生
慈悲の光が頭上からおり、心は光の参入となり、慈悲の光を利自即利他へと
手向ける光の器となることが、覚者となる心境であります。
一京無限 自分を忘ずる。自分はない。自縛の縄をほどく。自ら分けるで自分。
どういう意味だ? 自分が知りたいのは悟りではなく。自分はない、自分とは?かもしれない。 >>349
わからん!
>>350
もう意味わかんねよ!
←わからん、のがくまの書いてることであるなら、それはくまの能力の問題か、あるいは、ちょぴっと楽になった体験談だけ書こうとしたのに、くま自身未だよくわかってないこと書いてるからであります。
>なんだこのいつまでもスッキリしない感じ。もう10年以上は進んでないぞ!
←これは、くまも同じであります。
>ちょっとおれおかしい!
←その苦しさを、ごまかしたりねじ伏せたりせずに、立ち向かおうとするのは、困難かもだけど、その困難に立ち向かわざるを得なくなった時に、くまが実践したのが、書いてきた「止観」とかビバッサナ-とか言われる方法です。
>>354
>自分を忘ずる。自分はない。自縛の縄をほどく。自ら分けるで自分。
どういう意味だ?
←意味など知っても意味ないでありましょう。嵐を鎮めた後趣味的に、あるいは人に知らせるために、意味を調べてみたら良いでありましょう。
自分のありのままの心を集中して観察するだけでよいでありましょう。
観察とは、嵐に巻き込まれるのではなく、嵐があることに気づいていることであります。
これも、嵐の直中にいるときは無理でありましょうが、大丈夫、嵐は去ります!
去った後、今の嵐を忘れずに、立ち向かう覚悟を決めたら良いでありましょう。
>>355
くまが知りたいのも、自分とは?であります。
頑張りましょう!
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_) 356.
自分とは。
それは対象の問題である。
宗教は対象の問題ではない。
だからして自分が存在しない世界の問題である。わかるかな。無理や。 でおー、語る。
「余談だが、聖胎長養なんていう禅用語に全く関心を示さなかった俺様wだがw
俺的修行は12月から、今年の遅くても6月ぐらいを終了の目安にしているんだが、
、こういう用語に該当するんだろうなあ・・・と修行の日々で思えてきたなw」 くまさん
いや、特にくまさんの書いてあることって、ことじゃないんだ。色んな人の書いてあることが全部わかんない。
けど肝は「自分がない・自分を持ってくるな」ってとこなんだなって思った。
昨日は2回座禅してみたらスッキリ寝れたよ。ありがとう。 >>357
自分と対象に分れるところから分裂、解釈、そして損得勘定がはじまる。
日常は「自分の心を満たすためのことばかり」になる。
だから自分が存在しない、分裂しない、自分を忘れていること。
それが大事ってことかな?
それを実際にどうするのか。 361.
自分が存在しないと、悩みとか煩悩とかが発生しないことになる。
実際には心理学になるか論理学になるか、の問題である。 >肝は「自分がない・自分を持ってくるな」ってとこなんだなって思った。
←自分がないとは、苦しむ自分が無いと言うことでありすから、苦からの解放と言えましょう。
それを仮に知的に理解し得たとしても、苦しむ自分がいるのであれば、あまり役にたたない知識でありましょう。
喜んだり悲しんだり、不安になったり、痛かったり気持ちよかったりする自分がないって言う話であります。
そんなこと、読んだり聞いたりしても、実感できるわけないと、くまは思うのであります。
ただ、「止観」に取り組んで、かなり楽になり、その効果を実感してしまったので、この延長線上に何らかの意識の変容があるのかなと思ってるのであります。
で、ありますから、まず取り組むべきは、1)集中力を鍛えること。その過程で観念妄想は容易く消せる実感を得ること。
2)思いは消せる。思わなければない!と言う当たり前の実感を得ていれば、
見たくないようなありのままの自分の観察に取り組めるでありましょう。
理想の自分を妄想するのではなく、ありのままの自分に気づいていればよいのであります。
で、(1)だけでも、楽にれるのであります。
ただ、読んだり聞いたりしても、楽にはならないのであります。
やってみて、実感することが、胆であるとくまは思うのであります。
(´・(ェ)・`)/ 頭では理解しているから実感、実際そうなりたい、ということであります😑 例えば「無我」であります。
例えば ただ一つの意識であります。
例えば「不二一元」であります。
例えば「唯識」であります。
ふむふむそうなのかなと思えても、それだけなのであります。
例えば、無我でありただ一つの意識しかなく、不二一元で、唯識の通りであったなら、自他の別なく、主体なく客体なく、時間もなく、
「苦」なし、でありましょう。
その事を「理解する」と言う表現も違うでありましょう。
ただ、瞑想により、雑念を少なくし、無思考に近い状況になることは容易であり、そのことにより、観念の儚さを実感する。
くまの場合、思考や感情の主体として「自我」を最も強く意識するので、
観念、思考、感情が儚く消える実感は、自我の儚さ、と実感されている。
儚くはあっても、自我はある。
何かある毎に苦しむ自我はある。
ここまででも、充分楽にはなってるのであります。
止観の効果を実感してるのであります。
何かもう一歩で、「意識の変容」が起こりそうな気もするので、あります。
がんばるであります。
:::(;;: ∧_∧ '';:;;;):
: ;:::;;⊂(・(ェ)・) ;:;;))
:;;:,,,. ヽ⊂ ) ;:;;)))
(;:;;; (⌒) |どどどどど・・
三 `J まぁ一歩一歩やってくしかないですもんね。
瞑想でも仕事でも音楽でも、自分を忘れるくらいやれればいいんですけどね。
http://www17.plala.or.jp/tozanji/index.html
最近読んでます。
雪担和尚という方のサイト、面白くておすすめです。 まぁですから、実際にそうなりたい、と言っているだけであります😑 368.
それを心理学をやっている場合であることになる。 >>372
くまは、こうしたら楽になれますよぉ〜って体験談を主に書きたいのであります。
この道を歩いてきたら、こんな景色が見えてきましたよぉ〜って話がしたいのであります。
本当は、その背景に高邁な学問や宗教があった方が良いのでありましょうが、
信仰してるのではないのであります。
「苦」を克服する実践をしてるのであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)←スジャータ入コヒ
と_)_)
さてと、
洗濯と掃除をしなくちゃであります。
その前に、朝食の準備であります。
怠け心に打ち勝たねばであります!
本日も張り切って参りましょう! 373.
それは生活の問題である。
宗教は生活の問題ではないよ。 >>374
その通りであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_) > ひらけたらピザ頼む。
>
> ダメだったら、断食する。
>
> だから誰か、知ってる人おしえてくれタノム。 1)一切皆苦、無常、無我。>>9だ、そうであります。
2)で、独力で何とかしましょうってのが、ビパッサナ-とか止観とか禅であります。
3)ひらけるかどうかは、ひらいてないので、くまにはわかりませぬが、散乱する思いをしずめ、制御するテクニックを身に付けるのはそんなに難しくないでありますよ。
‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖ おはよう、諸くま君。
くまの心の中は、引続き嵐である。
以前は、嵐に翻弄され、コロコロとのたうち回った。
それが苦しくて、逃げたくて、瞑想に取り組んだ。
集中する訓練。
嵐が消える実感。
けど、日常に戻ればまた嵐の中。
でも、嵐=観念は幻想であると本当に実感できれば、ありのままの心の観察をすることができるようになる。
↑今のくまはここまでで、もたもたのそのそしてるのである。ここまでは、簡単なのである。
で、ありのままの観察を続けていると、嵐が霧になり、瞬間霧の向こうが見通せそうな時もあるのである。
ずんずんずんずん歩むのである。
∧_∧
( ・(ェ)・)
⊂ ノつ
人 Y
し (_) ─-─┬──┬────
_| []__[]__ ||
| ○ ○ ||
| |_______.||
 ̄|「. ||
||... ∧〃∧||
||...(-(ェ)-`||
 ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(つ@と ||
-------------( (┏||
.... し'し||||
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
できるだけいつも意識的にあろうとしてるのである。
例によって出来るだけであるが。
最近は、簡単にできるようになってきた気がしてるのである。
ちょぴっとづつでも毎日続けてると上達できるのである。
こつは、気負わないことである。
ただ意識的にあろうとすればよいのである。
一所懸命であろうとなどしなくてよいのである。
気づいていればよいのである。
自分の感覚、思考、感情に気付いていようと、1日に何回か思うだけでも良いのである。
それでとうなるかと言うと、どのような思いも消えちゃうことを知れるのである。
消えちゃうと、ほとんどの場合忘れちゃうのである。
忘れちゃうのはくまだけでありましょうか? >>379
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
けど、忘れちゃうのが目的ではないのであります。
気付いていることが大切なのであります。
変なはなしでありますが、自我の勝手にさせないのであります。
うん。書いてて今思い付いたであります。
自我は勝手に記憶のおもちゃ箱から、沸き上がってきては消えてしまうようなものであるかも知れぬでありますね。 ところでくまさんてどこに住んでるの??
おらぁ大阪だでよ。 ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
どこかの古いおもちゃ屋さんの店先で、笛を吹き、テケテケと太鼓を打ちならし、はげしく首をふるくまを見かけたら、それがくまでありましょう。
そこがくまの住処でありましょう。 おはようございます。
アハハ、じゃぁ、会ったことあるかもねー^_^
今日も1日のはじまりはじまり〜 >>383
∧_∧
_(・(ェ)・)
|≡(つ△と)≡|
`┳(_)(_).┳′
…・┴………………………┴…
大阪のおもちゃ箱に3年間いたこともあるであります。 一昨日、気づいたんですよ。
自分はダメって思い続けてる、て。
それに依存してる、て。
いやースッキリだ。 >>386
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
スッキリだー!って、実感が大切であります。
そのスッキリは、気のせいでも、たまたまでもなく、意識的にあることにより、ありのままの本心にに気づいたからだと思うのであります。
一つ一つスッキリさせていくうちに、そのうちまとめてスッキリになってゆくでありましょう。 そうですね〜まぁそうなればそうなったでラッキーかな〜 お昼休みはスワイショ-
∧_∧
( ・(ェ)・)
. (.つノつ
人 Y
し (_)
心地よいのであります。
歩くときに、すわいしょる時、ぼぉ〜っと体内の気配にのみ気付いてるだけなのであります。
おすすめであります。 くまのスワイショ- のやり方
∧_∧
( ・(ェ)・)
. (.つノつ
人 Y
し (_)
1)掌を前に向けて。
ぼ〜ぃぽ〜ぃと、くまの気を宇宙に還すのである。
回りに自然があった方が気分が出るのであるが、部屋の中でも同じなのである。
2)掌を後ろに向けて
よぉ〜いしょ、こらしょと、地面から宇宙の気を吸い上げ、脳天から宇宙の気を体内にかきこむのである。
よぉ〜いしょこらしょとか、かきこむとか言っても、
語感に意味はないのである。
宇宙の気はくまの気なのである。
ぐるぐると回ってるイメージでやると爽快なのである。
時間がないときには、1)だけで、2)も同時にイメージしちゃってもよいのであるが、最初は、1)で濁った気を捨て、2)で清浄な気を取り込むとイメージした方がやりやすいのである。
本当は清浄も汚濁もないのである。 スワイショ- 日和であります。
∧_∧
( ・(ェ)・)
. (.つノつ
人 Y
し (_)
∧_∧
(・(ェ)・)
⊂ ⊂ノ
人 Y
し (_)
体内の気配に意識をのせるのであります。 .∧_∧
(-(ェ)-)
(つと)
と_)_)
さてと、なにも思わない練習をするのである。
あるのは身体感覚と、それに気づいていようとするくまの意思と気付いているくまの意識である。 スワイショウ、はじめて聴きました。瞑想と同じで、効果を感じられればすごく楽しそうですね〜 精神と肉体、肉体はものであり、そこに命、心、精神がやどり、くまがいて、ピザさんがいるのでありましょう。
実体はあるのか、ないのか、4千年前のギリシャ人は唯一の実体は神であるとしたのであります。
25百年前のインド人は、実体があるかないかは、不明としたのであります。
その上で、人にとっての重要課題は死すべくして生きる上での苦の克服であるとしたのであります。
その後、2500年前インド人が語らなかったことを、りゅうじゅとか言う中国の天才が観念的説明に成功してしまったのであります。
しかも、観念的理解では何も変わらないと言うことまで説明してしまったのであります。
実感を得るしかないのであります。
その実感を得るための方法が止観であり気功なのであります。
止観は心をありのままに観察、気功は肉体の気配をありのままに感じとる方法だと、くまは思うであります。
(´・(ェ)・)ゞ 呼吸に集中する練習は、思考、感情を抑圧する練習ではないのであるが。
思考、感情が記憶から浮かび上がることに意識的に気付く練習なのである。
気づいてないと、巻き込まれるのである。
思考、感情に気付いて、呼吸への集中に戻れること、もどると思考、感情が消えてることを実感する練習なのである。
眠ってる時にみる夢は意識的に覚えていようとしなければ忘れてしまうのと同じなのである。
厳密さを求めなければ、すごく簡単なのである。
こんな簡単なことをちょぴっとづつ続けていたら、思考、感情を日常的にもコントロールしやすくなるのである。
これをもっと真剣にやれば、もっとすごいことになるかもしれないと思うのであるが、ちょぴっと楽になっちゃうと、生来怠け者のくまは、そこでとどまってしまうのである。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_) .∧_∧
(-(ェ)-)
(つと)
と_)_)
たんたんと意識的にあろうしつつ、とことんとん集中力を高めることを決意し、座るのである。
意識的にあろうとするとは、感覚、思考、感情、に気づいていると言うことである。
集中力を高めるのは、その気付きを逃さないためである。
そのことで、ありのままの自分の心を観察するのである。
では、やってみよう! でおーはガチで精神病だろ。
数ヶ月前から構想を練っていたとか、地獄の修行とか、定期的な書き込みとか、俺様呼称とか異常だろ。
入退院を繰り返しているのかもな。
偏執病か?
あと、異常性癖者かもな。
オナニーとかマゾとか調教とかシコシコとか、偏執的な性癖を窺わせるな。
まぁ、精神を病んでなければ、施設に入所している知的障害者かも知れないな。 なるほど。
入院を繰り返してるから、定期的に書き込めない時期があったのか。
そう考えると、でおーも哀れに思えてくるから不思議だ。 ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
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ヽ ( つ‖(゚*
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(_(_(_)_) ‖
くま、アファメーションはずめたのである。
・自分は常に冷静で不動の心を持っている。
・私は何事にも直ぐにとりかかることで自信がより強くなっていく。
・私は何事にも前向きに取り組み、満足してる。
・私は毎日、あらゆる点でよくなっている。
・私は必要なものを、すべて持っている。
・私は自分をうまく表現できる。
・私は毎日、豊かになっている。
・私の人生は花開いている。
・私は健康で楽しい。
・私は人生を思うように生きられる。
はやく全部暗記しなくちゃ!
なのである。 友人、知人に自分を「悟りを開かれた尊い方じゃ」と言わせられたら仏陀の
仲間入り。 ∧_∧
_ (´・(ェ)・`)__
|≡(∪_∪≡|
`T ̄∪∪ ̄T
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
自分の手、自分の指、自分の携帯、自分の思考、自分の意思、自分の感情。
手、指、携帯、思考、感情。
身体、物、観念。
物、観念。
物=無常→苦
「自分の」=観念
「自分の」の部分がなければ「苦」はないのでありますね。
やっぱり「無我」が良さそうであります。 .∧_∧
(-(ェ)-)
(つ旦と)
と_)_)
自我に実体がなく観念に過ぎないとしても、容易く自我の存在を否定できないことであります。
難問であります。
くまったこまったくまである。
世界平和みなの心の平安! とりあえずアドレスを貼るのみで、当スレからは立ち去りますが、
もし興味ある方は読まれて下さい。
『救済的真理の伝達・証明』
《神・転生の存在の科学的証明》
http://message21.web.fc2.com/index.htm
‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
ハラペコリンである。
ドンキで割引弁当購入して帰巣して、食したら、瞑想の安楽を堪能するのである。 まったく放置して申し訳ない。
凹んでしまうと全部嫌んなってしまう、まだまだな自分であります。
あーホント、ちゃんとしよ。。。 自分の体でさえ、自分の思い通りにならない。
足が痛い、痛くなくなれ!
でも足は痛く無くならない。足は自分とは勝手に痛い。
足は自分ではない?でも自分でもある。
自分もそう、自分も自分の思い通りにならない。
単純な細胞がたくさん集まり複雑な自我(心)が芽生えた(仮構築)、生存に適するため。
細胞は劣化し、やがて消滅する。
しかし、生存したい業識が、存在したい業識が、そもそもの発生(ビックバン?)した業識が刹那刹那に消滅を繰り返す。 >>405
凹んでしまって全部嫌んなってしまった時、その「苦」を観察するチャンスであります。 観察する者が観察される者。
観察者は干渉者。
目が目を観ることが出来ない様に、ありのままの自分を観察する事は出来ない。
観察する事は干渉する事だから。 >>410
確かに、>観察する事は干渉する事
かもでありますね。厳密には、干渉による影響を受けた結果を見てるのかもでありますね。
けど、できるだけ、ありのままを見ようとすればよいのであります。
くまのやってる心の観察とは、記憶のおもちゃ箱から心に浮かんでくる思考、感情に気づいていることであります。
否定も抑圧も評価もせず、ただ気づいていることであります。
それは記憶にとどめようとしなければ、夢幻のように消えて行くでありましょう。
で、そのように、思考、感情等に気づき、それらが幻想のように消えて行く様を実感することこそが目的なのであります。
>目が目を観ることが出来な
・・・くても、
>ありのままの自分
・・・の思考、感情を観察することはできるでありましょう。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_) 『マハムドラ-の詩』
マハムドラ-はすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの詩を与うべし
「空」は何ものも頼まず
マハムドラ-は何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきをうち壊し
解脱を手の内にするなり
もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり
空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん
空間に象と影の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし
『存在の詩』より
つづく(´・(ェ)・`)つ 『マハムドラ-の詩』つづき
長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず
「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表され得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり
からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝のからだを休ませよ
マハムドラ-は何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん
『存在の詩』より
次回につづく(´・(ェ)・`)つ 『マハムドラ-の詩』つづき
真言、波羅蜜多、の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに
いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり
切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラ-に於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラ-に於いて
人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり
解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり
ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行いへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし
『存在の詩』より
つづく(´・(ェ)・`)つ ぼくが座禅するとき、すぐに退屈になって眠くなるのは、何か身心脱落だとか、そんなのが起きることを待っているからだ、、と分かったよ。
何かを待つのって、退屈だからね。
そんな自分に気づいたら、集中できるようになったかな 存在の詩、はじめてお目にかかりました。解脱した人の言葉って感じですね。 >>415
‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
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(_(_(_)_) ‖
そうなのであります!
何かを待ったり、期待したりしない方が、瞑想ぽくなりやすいのであります!
無思考になろうと、じたばたすることそのことが、思考であり、邪魔をするのであります。
ただ、思考がわいてきたことに、気付いていればそれで良いのであります。
それが、夢のようにわいたり消えたりすることに気付いていればよいのであります。 『マハムドラ-の詩』つづき
二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏む者、ブッダフッドに至らん
はかなきかなこの世
幻や夢のごと、それは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
まもなく汝はマハムドラ-にたどり着き
無達成なるものを達成せん
木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん
心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見出だすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし
与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラ-はすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに−
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマへと溶解し
自己意志と高慢は無の中に消滅せん
『存在の詩』より
つづく (´・(ェ)・`)つ 『マハムドラ-の詩』つづき
至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり
はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてガンがーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ−
『マハムドラ-の詩』おわり
『存在の詩』より
‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((・へ・(-(ェ)-)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
おはよう諸くま君。
なんちゃって不動心くまである。 >>421
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
うんうん、ただひとつの意識が空や海にたとえられ、自我とか観念とかが、雲や波の飛沫の一滴にたとえられるのでありますね。
一滴も海なのであります。
飛沫の一滴は、自分が海であることを忘れてしまっているので、それを思い出そうってのが、止観でありましょう。 おい!
自爆轟沈・三毒ヘタレのかかし丸!
>それともビビってるのか?
>マヂで訪ねるからちゃんと教えろ
さぁ!
場所は教えた通りだ!
早よせいや?
いつ行くんだ?
行く日を宣言しろや? .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
できるだけいつも、自分を観察してるくまである。
いろんな感情を観察してるくまである。
できるだけ、今にとどまり、妄想が生じたらそれに気づき、今にもどるのである。
悲しみを感じたら悲しみのままに、不安を感じたら不安のままに、怒りを感じたら怒りのままに。
それらは、消え去るるものであることを知ってるので、直視できるのである。
直視すると、消えるのである。
それから逃げようとすると、つきまとわれるのである。
つきまとうのが、自我でありましょう。 くまさん、おはようございやす^o^
一昨日は合計2時間くらい?座禅しましたー
だんだん、楽しくなってきました。
ところでくまさん!
雪担和尚って知ってますか??
http://www17.plala.or.jp/tozanji/
最近よく読んでます^_^ >>427
─-─┬──┬────
_| []__[]__ ||
| ○ ○ ||
| |_______.||
 ̄|「. ||
||... ∧〃∧||
||...(・(ェ)・`||
 ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(つ@と||
-------------( ( ┏||
.... し'し||||
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
うんうん!
良かっであります。
飛ばしすぎて息切れしないように、続けて行きませう! 今日は坐禅チャンスだ
アサラト瞑想ってのもあるらしいー
いろいろあるなぁ笑 _/ミ\
(|ミOミ|〜
T\ミ/〜 ∧_∧
||  ̄〜 (・(ェ)・)
_/ ̄L O旦と )
(_◎_) (_(_つ
アサトラ瞑想
ググってみたであります。
ドラマーのピザさんにぴったりでみたいでありますね。 デパスマンだ!
\\\└(՞ةڼ◔)」////
デパスマンすごいなあ! 最近は眠らなくてもパワー満開。
やったの、もう数週間前だけど。。
瞑想の効果か?笑笑 >>436
それは、よかったであります。
元気が一番(´・(ェ)・`)b \( ‘ᾥ’ )/ 「俺様は禅定力No1だじょー!」
( ´∀` )「ふーん、一緒に坐禅するか?」
\( ‘ᾥ’ )/ 「(ぐっ)・・・・・」
. パコーン!
(+・д・)
⊂☆彡)) ‘ᾥ’ )/'.・;'
. ブヒッ!
でおー逃走www .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
むかし、五つ子の友達に、ちび太というおでん大好きな少年がいたのである。
その子が「だじょ〜」って言うのが口癖だったのである。
明らかにくまとは異なるでありましょうが、
他人のしたことしなかったことは、見なくても良いのであります。
自分のしたことしなかったことだけを観察すれば良いのであります。 ちび太ではなく、はたぼうでありますね。
∧_∧
(・(ェ)・)
⊂ ノつ
人 Y
し (_) おでんかー
そろそろ季節になってきたなー
よくしゅんだ卵が食べたいわー 悪魔は自分の領域(欲の世界)から出たいと望んでいる人間を妨害する欲の世界の支配者。
世間的には常識的考えの代表者とも言える。
苦しみの世界からの完全なる解放を得たいなら、
悪魔の軍隊に勝利しなければならない。
そのためには智慧が必要。
智慧とは物事の本質を理解して、その目的、構造、機能を理解すること。
その智慧はもの事をありのままに観察することによって得られる。
欲望を満足させることが幸福だという誤解をなくし、欲望が苦しみの原因だということを、観察から理解した人は、欲望を満足させることではなく、欲望をなくすことに努力する。
そのために、欲望の燃料、その欲望に関する思考、妄想を止める。そうすると欲望は燃料不足のために消滅する。
ブッダのことば(スッタニパータ) 第3 大いなる章、2、つとめはげむこと
の解説をまとめてみた。
(´・(ェ)・`)つ その通りですな。
では、思考、妄想を止めるのは、瞑想?日常に集中?とめよう、と思うと、とめよう、と思考していることになる。 >>447
ぼーっと無思考な状態を意識的に作るのは難しいのであります。
>思考、妄想を止めるのは、瞑想?
←止めようとすると、溢れかえるのが妄想であります。
で、「止」の行とか、サマタとか、言われる集中の訓練があるのであります。
強制的に無念夢想になろうとして取り組むと、挫折するのであります。
まず、集中して、思考がわいてきたらできるだけ早くそれに気付き、集中に戻る訓練であります。
要は、無意識に考え事に巻き込まれることができるだけないようにすればよいのであります。
考え事にをしていることに気付いてればよいのであります。
(´・(ェ)・`)つ なるほど〜なるほど〜思考にひっぱられない、思考を振り切るってやつですね〜 >>449
単に記憶がよみがえり、思考、感情に囚われている無意識状態をできるだけ少なくする訓練であります。
(´・(ェ)・`)つ そんならやっぱりドラムやってるとか、ギター弾いてるとか、そん時が1番だ〜
そーでないときも、そーでいーんだろうけど >>451
そうかもでありますね。
できるだけ常に意識的であろうとすることにより、発見できるかもであります。
(´・(ェ)・`)つ 彡⌒ ミ
ブチィ ( ・ω・)
バリバリCミ 彡⌒ ミ
/ ( ) ぎゃー
(ノ ̄と、 i
しーJ ☆
|\
∴∴∴
(´・(ェ)・`)
.(つ旦と)
.と_)_) ☆
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(´・(ェ)・`)
.(つ旦と)
.と_)_)
うむ。メリークリスマス。
である。 ╋┓"〓┃ ●┃┃
┃┃ ━┛ョ━ ━┛・
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≦\ あけおめ〜 /┃
┃Δ× ∧_∧-∠〃Z
┠Σ○(・(ェ)・)○そ┨
凵 \ ノ 乙≧
┃ Σ (⌒ヽ |-て<
┠─ム Lノ / ヾΖ┨
o///o(_ノ了V个o
┃〃Z┼√▽│×◇┃
┗〆━┷|/━┷ヾ\┛
2 0 1 8 おめでとうございまーす!
ことしは座禅ももっとするぞー 捕手くま
∧ ∧
( *・(ェ)・) シュッ!!
( っ(⌒) (;;;)≡=─ ⊂(><; )
`v v' ヽ と)
`し-J' 先日、東京に新しい大仏ができることを「ひるおび」で見たが、釈迦はもう一説にはブッダではなくなってる。
邪神にとられたものを正常にもどそうとしている者の邪魔ををしてダメになるようにしてくる。
もしそのものが本当にまずいほうへいってしまうならそうならないよう薬師如来にお願いしてると告げてもだ。
結局個人的ないやしいライバル意識(嫉妬)でじゃましている。釈迦からもってこれるのは阿含教の7科37道品
と三福道だけだ。(しかも、それも改良加えないと部分的にいる部分がいるときダメにされてしまう、これは釈迦自身
なやんでいた。)また、阿含宗の桐山(スサノオノミコト)やヤーウェともそうだったが、邪神の不動などに自分のところへ引き寄せるために嫉妬から
釈迦とこじれるように仕組まれている。
だから、釈迦は心の支えにはならない。
大仏を拝むなら大日如来(宇宙)として心の支えに拝むといい、釈迦抜きで。しかし宇宙と言えども、
邪神不動明王などには(もう不動は悪いほうへ行ってしまった、というよりは何万年と神仏や人類を
だましてきたことが発覚している)だまされてることがあった。ちゃんとやった善行をなかったことに思わされてたりした。
だから拝むほうも現在宇宙が正常かどうか確かめてから心の支えにおがまなければならない。
宗教を拝むならここもたまにはだまされてることもまだまだあるが、ガブリエル、アポロン、月夜、降三世明王、
如意輪観音、アルテミス、元エロヒム他たくさんの神仏で構成されてる
KSAと呼ばれてる団体をおがむのが現在一番安心させられる。もっと成長し邪神にだまされない団体へと成長するだろう。
KSAは過激派などで同じ名前のものがあるが、それとは別のものです。宗教団体などは一切つくってありません。
各々が個人的におまいりすればいいと思います。 ほしゅ〜
∧..∧
(´・(ェ)・`)ェ〜っ…くま
cく_>ycく__)
(___,,_,,___,,_) ∬
彡※※※※ミ 旦
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
\ ドッ!! / \
ワハハ! /
\ /
\ ∞
l|||||||||||||| ∩,,∩ ∩,,∩ ∩,,∩ ミ∩ハ∩彡
(, )(,, ) ,,)( )( ) こんにちは諸くま君。
くま今日から歯医者に通いはじめたのである。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
身体の苦しみのあるときは修行のチャンスであり、修行の成果を確かめるチャンスなのである。
肉体や心の痛みは、危険信号であり、生存維持のために不可欠なのである。
意識を内側(心?)にむける感覚と言うのがあって、それがこれだと実感できるのは、それこそ自転車に乗れるようになるみたいな感じなのである。
その意識を内側に向ける感覚をつかめると、痛みを痛みとして受け止めつつ、それを「苦」に繋げないことが、くまも、たまにできるようになったのである。
他人事のように受け止めるなである。
映画ランボーで、ランボーの上官が、「ランボーを鍛えたのは自分であり、彼は痛みを無視する訓練を積んでるのである。」みたいな台詞があったのであるが、ある程度までなら、それはだれでも簡単にできるような気がするであります。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています