いまから6時間以内に悟りをひらきたい [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
ひらけたらピザ頼む。
ダメだったら、断食する。
だから誰か、知ってる人おしえてくれタノム。 実感=確信=信念 とか、言葉で表現しようとすとる、かけ離れたものになる気がするであります。
敢えて、表現すれば、安心かな。
(´・(ェ)・`)/ ∧_∧
_ (´・(ェ)・`)__
|≡(∪_∪≡|
`T ̄∪∪ ̄T
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
くま、色々なことで行き詰まり苦しかった時に、瞑想に取り組み、乗り越えてこれたので、その事を出来るだけ伝えられたらいいなと思ってるであります。
で、その苦しいことをある程度和らげることができさえすれば、瞑想に取り組んだ目的は達成されたと言えるのでありますが、
それだけでなく実利的な効果もあるのであります。
それは、「ありのまま」を観察する訓練によるのではないかとおもうのであります。
自分の思考感情、心を否定も抑圧もせずありのままに観察する訓練であります。
それをほじくりかえしてきて睨み付けるように観察すると言うのではなく、たんたんくまくまと気付いてれば良いだけなのであります。簡単なのであります。
そのことにより、なんでもかんでも状況を受け入れるというのではなく、ありのままの状況を受けとめて、それに対する反応としての感情を理性的コントロールし、状況を改善して行くことができやすくなるのであります。
籾殻脳の上大雑把な資質のくま故解りづらい説明しかできぬのでありますが、いわゆる「引寄せ」みたいな効果があるのであります。 悟りたいという思いに従って行動するとすべて失敗する。
思いに依よらない行動をし生活していることが大事である。
求めても得られない。
機が熟せば、自分以外(天、神、仏、自然、超自然、、、何でもよいが) から与えられる。 ∧_∧
⊂.(・(ェ)・)
ヽ ⊂ )
(⌒) |どどどどど・・・・・ 三 `J
新年あけおめことよろであります。
最近なかなか、すわることができてないくまであります。
お勤めをしてると、心が荒れることも多いのであります。
そう言うときこそ瞑想に取り組むべきなのでありますが、・・・・できてないのであります。
その代わりにやっているのが、歩くとき丹田に意識を集中すると同時に一歩一歩を意識し続けることであります。
心の在処を常に意識し続ける感じであります。
経行(きんひん)とか歩く瞑想とかほど厳密なものでなく、一歩一歩に意識をのせておくだけなのでありますが、
くまには、荒れた心を癒す効果が感じられるであります。
ちょぴっと、こつがあるのであります。
一歩一歩に意識を乗せておこうとすると、つい数えてしまったり、数と足の運びが合わなくたって、その事に気が散ってしまい、続かなかったりするのであります。
そこで、くまが考案したのが、意識を主に置いておくのは丹田、その上で丹田の意識から一歩一歩を眺めてる感じと言うか、・・うまく説明できないのでありますが、まぁ、そんな感じたのであります。
何ともまとまりのないことになってしまいましたが、
本年も張り切って参りましょう! (・(ェ)・)っ
(っ ,r どどどどど・・・・
i_ノ┘
∧_∧
⊂.(・(ェ)・)
ヽ ⊂ )
(⌒) |どどどどど・・・・・ 三 `J
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
心ってなんでありましょうか?
いろんな観念が浮かんだり消えたりする場所のことでありましょうか?
観念って何でありましょうか?
その浮かんだり消えたりする思いのことでありましょうか?
思いは、くまがそう思えば、そうなのであります。
そう思わなければ、そうでないのであります。
その思いを思い描いてるのがくまでありましょう。
くまが主体として存在して思い描いてると言うことに疑問を持つのは難しいであります。
いろんな観念、記憶の断片が消え去り、何も思いが浮かばない時も、その浮かばない状態を観ているくまがいることに気付いた瞬間にくまが存在してるのであります。
ただ、何も思いが浮かばない状態に接近して行くことは、ちょぴっと練習すればできるようになるのであります。
「止」=集中の練習であります。
思いがある心の通常運転中に、集中により、何も思いが浮かばない状態を、ポツンポツンと作って行くのであります。
いろんな色紙の壁にに針でポツンポツンと穴をあけてくと、色紙の壁の向こうに、「何もない」だけがある背景がひろがってるらしいことが感じられる=思われるようになるのであります。
どんな色紙でも貼れる、キャンパス、スクリーンのようなもの、それが意識でありましょう。
そのスクリーンにはどんなくまの思いでも貼れるでありますし、消すこともできるのであります。
で、そのスクリーンは、くまの思いがあるときでもないときでもあるべきものと感じられるのであるとすれば、それ=スクリーン=意識は、「くまの」ではないのでありましょう。 .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
くまいつも、何気なく実感するしかないみたいな書き方をしてるでありますが、
実感すると言うのも、そのような観念を思い描いていると言うことでありますから、
独りよがりになっていないか、とことん見極めねはなりますまいね! 心が荒れた時、凍てついたとき、それに巻き込まれる。
巻き込まれて荒れた心のくま、凍てついた心のくま、それに苦しむくまがいる。
で、普通の反応として、荒れた凍てついた心に蓋をして隠そうとする。抵抗し否定し抑制し消し去ろうとする。
けど、抵抗する程に闇は深まる。
で、抵抗をやめて、その闇に気付いてあげる。そう他人事のように気付いてあげるのである。
全てに気付いてあげるのである。
くまの心の闇にも、それに抵抗しようとしていることにも、全てに気付いてあげるのである。
心のうつろい行く変化全てに、ありのまま気付いてあげるのである。
そう、うつろい行くのである。そして闇ははれるのである。
こんなのが、くまのやってる「観」であり、うまく行くときと行かないときがあっても、これで随分と楽になったので、おすすめである。
─-─┬──┬────
_| []__[]__ ||
| ○ ○ ||
| |_______.||
 ̄|「. ||
||... ∧〃∧||
||...(-(ェ)-`||
 ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(つ@と ||
-------------( (┏||
.... し'し||||
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
こんにちは。
明日はまだ来てないし、昨日は戻って来ないのである。
だから今しかない・・・と言うわけではないのである。
今の中に明日も昨日もあるのである。
今の中に現象も時間も一つのものとして全てあるのである。
道元さんの正法眼藏の有時の巻を読んでみたのであるが、超難しいのである。 有時(うじ)の巻きに解説されてる時間論は、唯識とか非二元(ノンデュアリティ)、無我と同じで、考えて理解することではなく、本当にそうか気付けて実感できなきゃ無意味なのでありましょう。
なんせ、これらの解説によると、本当は、自他の別も主客も時間すらもないっていうのでありますから、なかなかどうして、困難な道であります。
けど、本当にそうなら、「苦」を感じる主体なく、究極の「苦」である「死」からも解放されるのでありますよね。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_) ─-─┬──┬────
_| []__[]__ ||
| ○ ○ ||
| |_______.||
 ̄|「. ||
||... ∧〃∧||
||...(-(ェ)-`||
 ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(つ@と ||
-------------( (┏||
.... し'し||||
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
集中と観察の瞑想がちょぴっとできるようになると、その時していること、例えば歩いている時であれば、足を動かしていることに意識をとどめおくことが容易にできるようになるのである。
その事により、雑念妄想が漂うこと少なくなるのである。
自分に気付いていることがだんだん当たり前に普通にできるようになってくるのである。
安楽の道をとことこと歩くくまである。 ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
電車がおくれてるのである。
くまは、呼吸に集中することから、始めたのである。
集中力を鍛えるのが「止」の行である。
雑念が浮遊する心を制御する練習である。
で、この集中の練習をする過程で、同時に、観察の練習も始まっているのである。
集中しようとしても、次々に雑念が浮かんでくるようす、集中することによって、それが消えて行くようすなどに気付くことができるのである。
「止」である程度心の制御ができるようになってきたら、高まった集中力をもって、心の観察を「観」の行として取り組むのである。
この、観察は、心だけでなく、身体も対象なのである。
心に思いや感情が生じたり消えたりするときに、身体にどんな反応が起こるがも観察するのである。
最初に呼吸に集中する練習を積むことにより、微妙な呼吸の変化にも気付けるようにするのである。
不快な感情があるとき、身体が道反応するかを観察するのである。
で、それをじっと観察することにより、どんな効果があるかは、自分で繰り返し試してみるしかないのである。
勿論これは、いつでもどこでもできるのである。 ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
帰りの電車である。
ずぅ〜っと乗ってたわけではないのである。
で、不快な感情に苦しむとき、いわゆるストレスが高まったとき。
対処法として、観の行がスッゴク有効なのである。
その不快な感情をありのままに観察するのであるが、その溶解して行く様は、ちょぴっと練習すれば誰でも実感できると思うのである。
ただ、不快な感情をありのままに観察することと、その感情に巻き込まれていることの区別が、実践し、実感するまではわかりづらいのである。
で、心の反応である感情と同時に起こる身体の反応の方をメインに観察してみるのである。
で、身体の反応に気付き、じぃ〜っと観察することにより、身体の反応も不快な感情も消え失せる実感を得られればしめたものなのである。 ∧_∧
(´・(ェ)・)
(っ=川と)←野菜たっぷりタンメン
 ̄ ̄ヽ二フ ̄ ̄ ̄ ̄\
心が荒んだ時は、お散歩が一番速効性があるであります。
>>324 .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
心に浮かぶ雑念の内容は、思考であったり感情であったりイメージであったり、記憶のオモチャ箱からでたらめにでてくる。
呼吸に集中する訓練をして、雑念の少ない状態を維持できるようになってくると、
心に浮かび上がってくる思考やそれに伴う感情を生じた瞬間に捉えることができるようになる。
そして、また呼吸への集中に戻ると、瞬間にその雑念は消え去ることも実感できる。
思考は自分の思考であり、感情は自分の感情であり、イメージも自分のイメージと実感されるが、それらは夢幻のように消え去るものとも実感される。
と同時に、それら雑念の内容を映し出すスクリーンのような意識の存在に気付く。
内容(=雑念)の映ってないスクリーン(=意識)である。
その何も映ってないスクリーンを見ている自分はいるのであるが、少なくても一つのスクリーン=一つの意識と言うのはありそうな気がしている。
であるから、修行中の身としては、自他の別なしとは、自分の観念記憶は夢幻のように消え去るものであるり、それを映し出す意識は一つのものとしてある。
一つのスクリーンを見ている自分=主観も、写し出している意識=客観も一つのものである。
という程度にとらえている。 くまさん、久しぶりになってしまいました。
あけましておめでとうございます。
今年もヨロシクどうぞでございます。
最近はまったく座れていません。
心も荒んでいます。
いつもモヤモヤに覆われている感覚です。
昼は眠たくて夜は寝れない悪循環、ストレスが多くて自分が嫌いになっています。
くまさんの投稿を見てすこし安心したり考えたりしています。
とりあえず今から久しぶりに座ってみようかな。そのままモヤモヤを観察、そして身体を観察。
今日はちょっと暖かいし。 >>335
おはようであります。
>心も荒んでいます。
いつもモヤモヤに覆われている感覚です。 昼は眠たくて夜は寝れない悪循環、ストレスが多くて自分が嫌いになっています。
そういうとき、いきなり心の観察は、難しいでありましょう。
そもさも、その心を直視しようと言う気が起きないでありましょう。
1、まず、呼吸に集中してみようと決意する。
2、呼吸に集中していても、モヤモヤや、自分が嫌いだと言う思い雑念がわいてくる。
3、3に気づいたら、呼吸への集中に戻る。
←ここまでの練習を繰り返してみるだけで、雑念=思い=観念、が消え去る実感を得ることができるでありましょう。
心の制御とかいうと大袈裟ですごくたいへんな技のようですが、簡単なのであります。
これが身に付くと、せっかく楽になったのに、心の観察などして、苦しみたくないと想うでありましょうが、
既に、思いは儚く消え去る実感を得ているので、心の深層に立ち向かって行けるようになるのであります。
心の苦しみから逃げたり、ごまかしたりしても、 解放されるどころか、雪ダルマのように大きくなってゆくでありましょう。
心のありのままに気付き、気付くだけで溶解するその実感を得るための技として「止観」は使えると想うであります。
くまの心も荒んでいるであります。
そのことに今も気付いてるであります。
ありのまま、カエルのパパであります。
(´・(ェ)・`)/ そうですね!気がついているだけで全然違います!
自分の纏っている重い鎧を1つずつ脱いでいこうと思います。自分で気づいていくこと。
瞑想もそんな自己観察の役に立つ! 僕の脳内はほんとに散らかっています。
ほんとに、モヤモヤ、を観察する君はとてもなれません。
放っておいて、呼吸に集中していいんですね!
やってみます! インディージョーンズって映画で、宝の在りかにたどり着く為には、奈落に落ちる中空を渡って行く道しかない、といシーンがあったであります。
苦しみから解放されるためには、逃げてはダメなのであります。だからといって苦しみを受け入れよとか、苦しみに巻き込まれて苦しめというのではないのであります。
苦しい心、気付いてるあげるだけでよいのであります。
どうでしょう?そのまま放っておいて、集中にもどれませんか?
___
_l≡_、_ |_
(*´・(ェ)・`)
<__ヽyゝヽy━・
/_l:__|
lL lL もう一つ思い出したであります。
以前テレビで、ティクナットハーン(ノーベル平和賞を受賞したベトナムの禅僧)が、戦時の平和活動時に、伴に活動していた友の理不尽な死に際し、怒りの苦しみを克服するために徹底した歩く瞑想を行い、怒りを克服したと言う話を聞いたであります。
感情の苦しみに大小はないでありましょう。
克服できない苦しみもないでありましょう。
‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖ (⌒;,ノ;
∧_∧ :(' ;ソ.
.( ・(ェ)・) ΩΩ)
( つ旦O 〔 ̄ ̄〕
と_)_) |_━_|
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
そう言えば、お正月に買ったお餅があったのである。
これから焼いて食すのである。
2年ぶりである。
小さなくまの幸せである。 .∧_∧
(-(ェ)-)
(つと)
と_)_)
これからちょぴっと座るであります。
今生最後の一呼吸のつもりで集中・・・・って、いつも想うのでありますが・・・・ どうすれば綺麗な心をもてるかな?ほんと自分本位な思考しか出来なくて。そういう自分本位な思考を自分本位な思考と気づいていけばいいのかな?
人とまともに会話できない。 >どうすれば綺麗な心をもてるかな?
それは、でありますね、綺麗な心をすでに持っているように、話せばよいのであります。振る舞えばよいのであります。
その上で、本当はどう思っているのか、偽善と思ってるのが、カッコ悪いとおもってるのか、本心にいつも気づいてればよいのであります。
その内、本物の綺麗な心になってるかもであります。
‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖ .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
例えば、であります。
くまは、もう長いこと、どんな小さなことでも、誰かに何かをしてもらったら必ず声に出して「ありがとう」っていうのであります。
コンビニのレジでも、牛丼やのカウンターでも、交通整理のお巡りさんやガードマンでも、何かしてもらったときは必ずありがとうっていうのである。
もう完全に習慣になってるのである。
それだけでも、そのぶんだけ、綺麗な心になるような気がする単純なくまなのである。 >>343
>どうすれば綺麗な心をもてるかな?
→と、思っている。
>自分本位な思考しか出来な
→いと、思っている。
>人とまともに会話できない。
→と、思っている。
↑ありのままに観察できてるのであります。
先に、「止観」の「止」からはじめて、そのような諸々の観念が消えて行く実感る得る練習をした方が、心の観察に取り組み安いかもしれないでありますし、くまはそのような順番を踏んだのであります。
けど、普段深層心理に隠れている、見ないようにしていることごとが、何かの機会に噴出してきたときに、苦しいでありましょうが、思いきって観察してみるのも良いかもであります。
観察してやるぞぉ〜って構えて観察しようとしても、そのような時は観察対象として諸々の負の観念が真に迫って浮かんでこないので、あります。
何かで、苦しんでるとき、思い悩んでるときこそが、観察のチャンスなのであります。
自分の心を自分の心が観察するのであります。その観念に巻き込まれて、そのことを考えるのではないのであります。あくまでも、観察するのであります。
抑圧したり否定したりしちゃだめなのであります。
苦しければ苦しいと、ありのままに観察するのであります。
無理しないようにね! .∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)←スジャータ入りコヒ-
と_)_)
時間のことである。
道元さんが『正法眼蔵』、有時の巻で時間のことを書いてるのである。
超難しくてちんぷんかんぷんなのである。
解説等を読んだりしてみて、ちょぴっとわかった気になったりしたことを、難しい内容の解説として書く能力は籾殻脳にはないのである。
それを又、偉そうに処世訓みないなこととして書くのも気恥ずかしいのである。
けど、まぁ、くまの一人言として書きつづけてるので、その流れの話なのである。
過去や未来に思いを馳せることは、反省し前向きに物事に取り組む動機ともなろうが、
悔恨の思いに捕らわれ、不安におののき、「苦」の原因ともなるのである。
だから、今だけと言う話ではないのである。
過去は既になく、未来もまだない。
あるのは今だけ。
何か働きかけることができるのは常に今だけ・・・だから今だけと言うことでもないのである。
そもそも、時間とは、始まりと終わりがあることを前提としてるのである。
永遠を前提とすれば、時間はないのである。
ないけどあるのである。
今の中に過去も未来も全部あるのである。
ないの中に全部あるのである。 何年も前にパパくまが死んだ時、
何度となく車窓から見ていた平城京にはじめており立ち、歩いてみたのである。
その時、話しかけてくれた人に案内していただき、ゆったりとした時間を過ごしたのである。
Wikipediaによりますと、
138億年前にビックバン
46億年前太陽系誕生、35億年前生物活動の化石証拠、約1000万年前にヒト亜科がヒト族とゴリラ族に分岐、19万年前 - ホモ・サピエンス(現在のヒト)の出現。
で、くまがおりった平城京はわずか1300年前の都でありました。
/\
/ >
/ /
..∧_∧ >、 /
(´・(ェ</`イ|
( つ 示
(_へ_) /‖\
くまは本当は望遠鏡は所持してないのであり、旅するお金も時間もないのであるが、
都会の星の少ない夜空を眺めれば、そこに138億年の幻想を旅することができるのである。
その夢幻の中でくまは生あることの奇跡を堪能するのである。
永遠の幻想である。
くまはいずれ煙となり、灰となり、仮に一時的にその一部が墓場に行くとしても、永遠のただ一つの意識あるいは宇宙に戻るのである。 もう意味わかんねよ!
なんだこのいつまでもスッキリしない感じ。もう10年以上は進んでないぞ!
おれはどれだけ馬鹿なんだよ! 幾千幾万の過去世の心の修行にもよりますが、以下の課題をクリアすれば、
覚者となる方が出てくると思います。
◯悟りを開く方法 「男女20歳以上を対象」
精神統一は、腹式呼吸から始めること。「椅子も可」
@改心の涙の清い心
心の波立ちの原因を探り、六大煩悩の囚われを見つけること。
A明鏡止水の心境
心の波立ちが少なくなり、透明な心持ちに一つとなり、ついに心の波立ちは
無くなり、鏡のように観えてくる心境のことです。
Bギブ&ギブの精神的心境
明鏡止水の心境は、煩悩から離れた無心の心境でありますから、ギブ&ギブの
精神的心境として昇華する前提があって、無私無償の心で、他の人の幸せを祈
ることができるようになります。
C覚者の登竜門に参入「菩薩・天使」のピカピカの一年生
慈悲の光が頭上からおり、心は光の参入となり、慈悲の光を利自即利他へと
手向ける光の器となることが、覚者となる心境であります。
一京無限 自分を忘ずる。自分はない。自縛の縄をほどく。自ら分けるで自分。
どういう意味だ? 自分が知りたいのは悟りではなく。自分はない、自分とは?かもしれない。 >>349
わからん!
>>350
もう意味わかんねよ!
←わからん、のがくまの書いてることであるなら、それはくまの能力の問題か、あるいは、ちょぴっと楽になった体験談だけ書こうとしたのに、くま自身未だよくわかってないこと書いてるからであります。
>なんだこのいつまでもスッキリしない感じ。もう10年以上は進んでないぞ!
←これは、くまも同じであります。
>ちょっとおれおかしい!
←その苦しさを、ごまかしたりねじ伏せたりせずに、立ち向かおうとするのは、困難かもだけど、その困難に立ち向かわざるを得なくなった時に、くまが実践したのが、書いてきた「止観」とかビバッサナ-とか言われる方法です。
>>354
>自分を忘ずる。自分はない。自縛の縄をほどく。自ら分けるで自分。
どういう意味だ?
←意味など知っても意味ないでありましょう。嵐を鎮めた後趣味的に、あるいは人に知らせるために、意味を調べてみたら良いでありましょう。
自分のありのままの心を集中して観察するだけでよいでありましょう。
観察とは、嵐に巻き込まれるのではなく、嵐があることに気づいていることであります。
これも、嵐の直中にいるときは無理でありましょうが、大丈夫、嵐は去ります!
去った後、今の嵐を忘れずに、立ち向かう覚悟を決めたら良いでありましょう。
>>355
くまが知りたいのも、自分とは?であります。
頑張りましょう!
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_) 356.
自分とは。
それは対象の問題である。
宗教は対象の問題ではない。
だからして自分が存在しない世界の問題である。わかるかな。無理や。 でおー、語る。
「余談だが、聖胎長養なんていう禅用語に全く関心を示さなかった俺様wだがw
俺的修行は12月から、今年の遅くても6月ぐらいを終了の目安にしているんだが、
、こういう用語に該当するんだろうなあ・・・と修行の日々で思えてきたなw」 くまさん
いや、特にくまさんの書いてあることって、ことじゃないんだ。色んな人の書いてあることが全部わかんない。
けど肝は「自分がない・自分を持ってくるな」ってとこなんだなって思った。
昨日は2回座禅してみたらスッキリ寝れたよ。ありがとう。 >>357
自分と対象に分れるところから分裂、解釈、そして損得勘定がはじまる。
日常は「自分の心を満たすためのことばかり」になる。
だから自分が存在しない、分裂しない、自分を忘れていること。
それが大事ってことかな?
それを実際にどうするのか。 361.
自分が存在しないと、悩みとか煩悩とかが発生しないことになる。
実際には心理学になるか論理学になるか、の問題である。 >肝は「自分がない・自分を持ってくるな」ってとこなんだなって思った。
←自分がないとは、苦しむ自分が無いと言うことでありすから、苦からの解放と言えましょう。
それを仮に知的に理解し得たとしても、苦しむ自分がいるのであれば、あまり役にたたない知識でありましょう。
喜んだり悲しんだり、不安になったり、痛かったり気持ちよかったりする自分がないって言う話であります。
そんなこと、読んだり聞いたりしても、実感できるわけないと、くまは思うのであります。
ただ、「止観」に取り組んで、かなり楽になり、その効果を実感してしまったので、この延長線上に何らかの意識の変容があるのかなと思ってるのであります。
で、ありますから、まず取り組むべきは、1)集中力を鍛えること。その過程で観念妄想は容易く消せる実感を得ること。
2)思いは消せる。思わなければない!と言う当たり前の実感を得ていれば、
見たくないようなありのままの自分の観察に取り組めるでありましょう。
理想の自分を妄想するのではなく、ありのままの自分に気づいていればよいのであります。
で、(1)だけでも、楽にれるのであります。
ただ、読んだり聞いたりしても、楽にはならないのであります。
やってみて、実感することが、胆であるとくまは思うのであります。
(´・(ェ)・`)/ 頭では理解しているから実感、実際そうなりたい、ということであります😑 例えば「無我」であります。
例えば ただ一つの意識であります。
例えば「不二一元」であります。
例えば「唯識」であります。
ふむふむそうなのかなと思えても、それだけなのであります。
例えば、無我でありただ一つの意識しかなく、不二一元で、唯識の通りであったなら、自他の別なく、主体なく客体なく、時間もなく、
「苦」なし、でありましょう。
その事を「理解する」と言う表現も違うでありましょう。
ただ、瞑想により、雑念を少なくし、無思考に近い状況になることは容易であり、そのことにより、観念の儚さを実感する。
くまの場合、思考や感情の主体として「自我」を最も強く意識するので、
観念、思考、感情が儚く消える実感は、自我の儚さ、と実感されている。
儚くはあっても、自我はある。
何かある毎に苦しむ自我はある。
ここまででも、充分楽にはなってるのであります。
止観の効果を実感してるのであります。
何かもう一歩で、「意識の変容」が起こりそうな気もするので、あります。
がんばるであります。
:::(;;: ∧_∧ '';:;;;):
: ;:::;;⊂(・(ェ)・) ;:;;))
:;;:,,,. ヽ⊂ ) ;:;;)))
(;:;;; (⌒) |どどどどど・・
三 `J まぁ一歩一歩やってくしかないですもんね。
瞑想でも仕事でも音楽でも、自分を忘れるくらいやれればいいんですけどね。
http://www17.plala.or.jp/tozanji/index.html
最近読んでます。
雪担和尚という方のサイト、面白くておすすめです。 まぁですから、実際にそうなりたい、と言っているだけであります😑 368.
それを心理学をやっている場合であることになる。 >>372
くまは、こうしたら楽になれますよぉ〜って体験談を主に書きたいのであります。
この道を歩いてきたら、こんな景色が見えてきましたよぉ〜って話がしたいのであります。
本当は、その背景に高邁な学問や宗教があった方が良いのでありましょうが、
信仰してるのではないのであります。
「苦」を克服する実践をしてるのであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)←スジャータ入コヒ
と_)_)
さてと、
洗濯と掃除をしなくちゃであります。
その前に、朝食の準備であります。
怠け心に打ち勝たねばであります!
本日も張り切って参りましょう! 373.
それは生活の問題である。
宗教は生活の問題ではないよ。 >>374
その通りであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_) > ひらけたらピザ頼む。
>
> ダメだったら、断食する。
>
> だから誰か、知ってる人おしえてくれタノム。 1)一切皆苦、無常、無我。>>9だ、そうであります。
2)で、独力で何とかしましょうってのが、ビパッサナ-とか止観とか禅であります。
3)ひらけるかどうかは、ひらいてないので、くまにはわかりませぬが、散乱する思いをしずめ、制御するテクニックを身に付けるのはそんなに難しくないでありますよ。
‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖ おはよう、諸くま君。
くまの心の中は、引続き嵐である。
以前は、嵐に翻弄され、コロコロとのたうち回った。
それが苦しくて、逃げたくて、瞑想に取り組んだ。
集中する訓練。
嵐が消える実感。
けど、日常に戻ればまた嵐の中。
でも、嵐=観念は幻想であると本当に実感できれば、ありのままの心の観察をすることができるようになる。
↑今のくまはここまでで、もたもたのそのそしてるのである。ここまでは、簡単なのである。
で、ありのままの観察を続けていると、嵐が霧になり、瞬間霧の向こうが見通せそうな時もあるのである。
ずんずんずんずん歩むのである。
∧_∧
( ・(ェ)・)
⊂ ノつ
人 Y
し (_) ─-─┬──┬────
_| []__[]__ ||
| ○ ○ ||
| |_______.||
 ̄|「. ||
||... ∧〃∧||
||...(-(ェ)-`||
 ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(つ@と ||
-------------( (┏||
.... し'し||||
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
できるだけいつも意識的にあろうとしてるのである。
例によって出来るだけであるが。
最近は、簡単にできるようになってきた気がしてるのである。
ちょぴっとづつでも毎日続けてると上達できるのである。
こつは、気負わないことである。
ただ意識的にあろうとすればよいのである。
一所懸命であろうとなどしなくてよいのである。
気づいていればよいのである。
自分の感覚、思考、感情に気付いていようと、1日に何回か思うだけでも良いのである。
それでとうなるかと言うと、どのような思いも消えちゃうことを知れるのである。
消えちゃうと、ほとんどの場合忘れちゃうのである。
忘れちゃうのはくまだけでありましょうか? >>379
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
けど、忘れちゃうのが目的ではないのであります。
気付いていることが大切なのであります。
変なはなしでありますが、自我の勝手にさせないのであります。
うん。書いてて今思い付いたであります。
自我は勝手に記憶のおもちゃ箱から、沸き上がってきては消えてしまうようなものであるかも知れぬでありますね。 ところでくまさんてどこに住んでるの??
おらぁ大阪だでよ。 ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
どこかの古いおもちゃ屋さんの店先で、笛を吹き、テケテケと太鼓を打ちならし、はげしく首をふるくまを見かけたら、それがくまでありましょう。
そこがくまの住処でありましょう。 おはようございます。
アハハ、じゃぁ、会ったことあるかもねー^_^
今日も1日のはじまりはじまり〜 >>383
∧_∧
_(・(ェ)・)
|≡(つ△と)≡|
`┳(_)(_).┳′
…・┴………………………┴…
大阪のおもちゃ箱に3年間いたこともあるであります。 一昨日、気づいたんですよ。
自分はダメって思い続けてる、て。
それに依存してる、て。
いやースッキリだ。 >>386
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
スッキリだー!って、実感が大切であります。
そのスッキリは、気のせいでも、たまたまでもなく、意識的にあることにより、ありのままの本心にに気づいたからだと思うのであります。
一つ一つスッキリさせていくうちに、そのうちまとめてスッキリになってゆくでありましょう。 そうですね〜まぁそうなればそうなったでラッキーかな〜 お昼休みはスワイショ-
∧_∧
( ・(ェ)・)
. (.つノつ
人 Y
し (_)
心地よいのであります。
歩くときに、すわいしょる時、ぼぉ〜っと体内の気配にのみ気付いてるだけなのであります。
おすすめであります。 くまのスワイショ- のやり方
∧_∧
( ・(ェ)・)
. (.つノつ
人 Y
し (_)
1)掌を前に向けて。
ぼ〜ぃぽ〜ぃと、くまの気を宇宙に還すのである。
回りに自然があった方が気分が出るのであるが、部屋の中でも同じなのである。
2)掌を後ろに向けて
よぉ〜いしょ、こらしょと、地面から宇宙の気を吸い上げ、脳天から宇宙の気を体内にかきこむのである。
よぉ〜いしょこらしょとか、かきこむとか言っても、
語感に意味はないのである。
宇宙の気はくまの気なのである。
ぐるぐると回ってるイメージでやると爽快なのである。
時間がないときには、1)だけで、2)も同時にイメージしちゃってもよいのであるが、最初は、1)で濁った気を捨て、2)で清浄な気を取り込むとイメージした方がやりやすいのである。
本当は清浄も汚濁もないのである。 スワイショ- 日和であります。
∧_∧
( ・(ェ)・)
. (.つノつ
人 Y
し (_)
∧_∧
(・(ェ)・)
⊂ ⊂ノ
人 Y
し (_)
体内の気配に意識をのせるのであります。 .∧_∧
(-(ェ)-)
(つと)
と_)_)
さてと、なにも思わない練習をするのである。
あるのは身体感覚と、それに気づいていようとするくまの意思と気付いているくまの意識である。 スワイショウ、はじめて聴きました。瞑想と同じで、効果を感じられればすごく楽しそうですね〜 精神と肉体、肉体はものであり、そこに命、心、精神がやどり、くまがいて、ピザさんがいるのでありましょう。
実体はあるのか、ないのか、4千年前のギリシャ人は唯一の実体は神であるとしたのであります。
25百年前のインド人は、実体があるかないかは、不明としたのであります。
その上で、人にとっての重要課題は死すべくして生きる上での苦の克服であるとしたのであります。
その後、2500年前インド人が語らなかったことを、りゅうじゅとか言う中国の天才が観念的説明に成功してしまったのであります。
しかも、観念的理解では何も変わらないと言うことまで説明してしまったのであります。
実感を得るしかないのであります。
その実感を得るための方法が止観であり気功なのであります。
止観は心をありのままに観察、気功は肉体の気配をありのままに感じとる方法だと、くまは思うであります。
(´・(ェ)・)ゞ 呼吸に集中する練習は、思考、感情を抑圧する練習ではないのであるが。
思考、感情が記憶から浮かび上がることに意識的に気付く練習なのである。
気づいてないと、巻き込まれるのである。
思考、感情に気付いて、呼吸への集中に戻れること、もどると思考、感情が消えてることを実感する練習なのである。
眠ってる時にみる夢は意識的に覚えていようとしなければ忘れてしまうのと同じなのである。
厳密さを求めなければ、すごく簡単なのである。
こんな簡単なことをちょぴっとづつ続けていたら、思考、感情を日常的にもコントロールしやすくなるのである。
これをもっと真剣にやれば、もっとすごいことになるかもしれないと思うのであるが、ちょぴっと楽になっちゃうと、生来怠け者のくまは、そこでとどまってしまうのである。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_) .∧_∧
(-(ェ)-)
(つと)
と_)_)
たんたんと意識的にあろうしつつ、とことんとん集中力を高めることを決意し、座るのである。
意識的にあろうとするとは、感覚、思考、感情、に気づいていると言うことである。
集中力を高めるのは、その気付きを逃さないためである。
そのことで、ありのままの自分の心を観察するのである。
では、やってみよう! でおーはガチで精神病だろ。
数ヶ月前から構想を練っていたとか、地獄の修行とか、定期的な書き込みとか、俺様呼称とか異常だろ。
入退院を繰り返しているのかもな。
偏執病か?
あと、異常性癖者かもな。
オナニーとかマゾとか調教とかシコシコとか、偏執的な性癖を窺わせるな。
まぁ、精神を病んでなければ、施設に入所している知的障害者かも知れないな。 なるほど。
入院を繰り返してるから、定期的に書き込めない時期があったのか。
そう考えると、でおーも哀れに思えてくるから不思議だ。 ‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
くま、アファメーションはずめたのである。
・自分は常に冷静で不動の心を持っている。
・私は何事にも直ぐにとりかかることで自信がより強くなっていく。
・私は何事にも前向きに取り組み、満足してる。
・私は毎日、あらゆる点でよくなっている。
・私は必要なものを、すべて持っている。
・私は自分をうまく表現できる。
・私は毎日、豊かになっている。
・私の人生は花開いている。
・私は健康で楽しい。
・私は人生を思うように生きられる。
はやく全部暗記しなくちゃ!
なのである。 友人、知人に自分を「悟りを開かれた尊い方じゃ」と言わせられたら仏陀の
仲間入り。 ∧_∧
_ (´・(ェ)・`)__
|≡(∪_∪≡|
`T ̄∪∪ ̄T
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
自分の手、自分の指、自分の携帯、自分の思考、自分の意思、自分の感情。
手、指、携帯、思考、感情。
身体、物、観念。
物、観念。
物=無常→苦
「自分の」=観念
「自分の」の部分がなければ「苦」はないのでありますね。
やっぱり「無我」が良さそうであります。 .∧_∧
(-(ェ)-)
(つ旦と)
と_)_)
自我に実体がなく観念に過ぎないとしても、容易く自我の存在を否定できないことであります。
難問であります。
くまったこまったくまである。
世界平和みなの心の平安! とりあえずアドレスを貼るのみで、当スレからは立ち去りますが、
もし興味ある方は読まれて下さい。
『救済的真理の伝達・証明』
《神・転生の存在の科学的証明》
http://message21.web.fc2.com/index.htm
‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
ハラペコリンである。
ドンキで割引弁当購入して帰巣して、食したら、瞑想の安楽を堪能するのである。 まったく放置して申し訳ない。
凹んでしまうと全部嫌んなってしまう、まだまだな自分であります。
あーホント、ちゃんとしよ。。。 自分の体でさえ、自分の思い通りにならない。
足が痛い、痛くなくなれ!
でも足は痛く無くならない。足は自分とは勝手に痛い。
足は自分ではない?でも自分でもある。
自分もそう、自分も自分の思い通りにならない。
単純な細胞がたくさん集まり複雑な自我(心)が芽生えた(仮構築)、生存に適するため。
細胞は劣化し、やがて消滅する。
しかし、生存したい業識が、存在したい業識が、そもそもの発生(ビックバン?)した業識が刹那刹那に消滅を繰り返す。 >>405
凹んでしまって全部嫌んなってしまった時、その「苦」を観察するチャンスであります。 観察する者が観察される者。
観察者は干渉者。
目が目を観ることが出来ない様に、ありのままの自分を観察する事は出来ない。
観察する事は干渉する事だから。 >>410
確かに、>観察する事は干渉する事
かもでありますね。厳密には、干渉による影響を受けた結果を見てるのかもでありますね。
けど、できるだけ、ありのままを見ようとすればよいのであります。
くまのやってる心の観察とは、記憶のおもちゃ箱から心に浮かんでくる思考、感情に気づいていることであります。
否定も抑圧も評価もせず、ただ気づいていることであります。
それは記憶にとどめようとしなければ、夢幻のように消えて行くでありましょう。
で、そのように、思考、感情等に気づき、それらが幻想のように消えて行く様を実感することこそが目的なのであります。
>目が目を観ることが出来な
・・・くても、
>ありのままの自分
・・・の思考、感情を観察することはできるでありましょう。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_) 『マハムドラ-の詩』
マハムドラ-はすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの詩を与うべし
「空」は何ものも頼まず
マハムドラ-は何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきをうち壊し
解脱を手の内にするなり
もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり
空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん
空間に象と影の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし
『存在の詩』より
つづく(´・(ェ)・`)つ 『マハムドラ-の詩』つづき
長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず
「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表され得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり
からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝のからだを休ませよ
マハムドラ-は何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん
『存在の詩』より
次回につづく(´・(ェ)・`)つ 『マハムドラ-の詩』つづき
真言、波羅蜜多、の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに
いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり
切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラ-に於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラ-に於いて
人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり
解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり
ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行いへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし
『存在の詩』より
つづく(´・(ェ)・`)つ ぼくが座禅するとき、すぐに退屈になって眠くなるのは、何か身心脱落だとか、そんなのが起きることを待っているからだ、、と分かったよ。
何かを待つのって、退屈だからね。
そんな自分に気づいたら、集中できるようになったかな 存在の詩、はじめてお目にかかりました。解脱した人の言葉って感じですね。 >>415
‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
そうなのであります!
何かを待ったり、期待したりしない方が、瞑想ぽくなりやすいのであります!
無思考になろうと、じたばたすることそのことが、思考であり、邪魔をするのであります。
ただ、思考がわいてきたことに、気付いていればそれで良いのであります。
それが、夢のようにわいたり消えたりすることに気付いていればよいのであります。 『マハムドラ-の詩』つづき
二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏む者、ブッダフッドに至らん
はかなきかなこの世
幻や夢のごと、それは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
まもなく汝はマハムドラ-にたどり着き
無達成なるものを達成せん
木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん
心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見出だすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし
与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラ-はすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに−
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマへと溶解し
自己意志と高慢は無の中に消滅せん
『存在の詩』より
つづく (´・(ェ)・`)つ 『マハムドラ-の詩』つづき
至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり
はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてガンがーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ−
『マハムドラ-の詩』おわり
『存在の詩』より
‖ ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((・へ・(-(ェ)-)/‖ ∧
ヽ ( つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖
おはよう諸くま君。
なんちゃって不動心くまである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています