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天理教ってどうなの? [転載禁止]©2ch.net
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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2015/02/27(金) 15:41:42.35ID:eGRBmT9F
カルトなんか?
0228おてんば私立学院総長 ◆Sh04QfwaGE
垢版 |
2018/11/19(月) 07:24:12.35ID:EumyTOxi
・・・それにしても、「こかん」様って早くに出直したところを見ると、大した徳が無かったことになるようだね?
天理教的には。

いくら教団論理でもって、これを例外とするにしても、相当な無理があるわけだから惨めなものだ。
0234神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/12/03(月) 18:35:26.26ID:gO5LOQyt
一般信者の家庭でも子供たちが信仰していないので親の代で終わり
親が死んだら子供は教会から離れるので信者が減るばかり・・・・・
0235神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/12/03(月) 20:16:05.84ID:9J9bPddo
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朝鮮部落
ttp://56285.blog.jp/archives/51449049.html?p=2
たった一言「盗作学会」で検索すれば・・・

さぁあなたも、革命人間の世界へ!!!

号外秘密便
「本日永遠の師匠の死刑が執行されました。
埋葬場所は足りています。」

創○班って警察にテロリスト認定されてんの?w

カルト激減。佐々岡典雅って誰だ?
0236神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/12/04(火) 19:58:16.10ID:Ir5XDZ4K
だから立地的に有利な教会だけでも、なんらかの事業をやって収入を得るべきという提案がなされているわけ。
お供えに頼っていてはもうやっていけない。
(詰所は外国人観光客向け、山手線の駅近くの教会は会員制の、それぞれ安価な宿泊施設にしたらどうか?という提案)
0238神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/12/06(木) 19:13:12.31ID:qHRv5UVO
>保育園や老人ホーム経営してる教会はあるね

宗教専業でやろうなんてあほくさい考えせんのは称賛に値するわ。
福祉施設でも安宿でも立地条件にあった事業を各教会は考えるべきやね。
身動き取れんようになってからでは遅いんやで。
0239神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/12/06(木) 19:56:25.95ID:fj2bqdGG
明日は平成最後の12月7日
0240神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/12/06(木) 20:00:27.05ID:2f8w8Iin
今日は平成最後の12月6日
0241神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/12/07(金) 01:17:32.22ID:400UmcIl
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さぁあなたも、革命人間の世界へ!!!

号外秘密便
「本日永遠の師匠の死刑が執行されました。
埋葬場所は足りています。」

創○班って警察にテロリスト認定されてんの?w

カルト激減。佐々岡典雅って誰だ?
0242神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/12/11(火) 12:46:25.24ID:eh++unZQ
しかし天理教は見事に終わってるな、清々しいまでの廃れっぷりだわ・・・・・・
0243基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 20:39:06.31ID:W/QjebaE
山名系教理の発祥は、静岡県袋井、「行った処が袋井や」の逸話があります。
ここに、きちんとした教理研究スレを立てます。

テーマは、神の本質です。それは、ある意味「甘露」の問題です。

おやさまは、「あると言えばある、無いと言えば無い。あると信じて願うまことに見えてくる利益が神の姿や」との意、語ったと伝えられている。
つまり、「利益」「りやく」が神なのである。
これを、「天理教団」では、「天理教はご利益信仰ではない」と、全く逆を信者に教えている。
山名系教理・教学の神不在の自白ともいうべき「天理教団」の態度、ごりやく信心の否定こそ、大きな理の間違いです。

ご利益を否定するということは、つまり「神の存在の否定」そのものになる事、天理の基本に照らせば明らかです。


天理教信者に対して「天理教団」が手続きして、神がお渡しくださるおさづけ、まさに「ご利益」のためのものであり、別席制度そのものが、ご利益信心の道そのもの。

ご利益信心こそ、「王道」であること。それは、おやさまが語った「見えてくる利益が神の姿や」「見えてくる利益がが神や」そのものである。

「甘露」とは、ご利益のご利益たるもの。
それが神からのさづけものだから、「甘露台」をご神体として、拝している事を、深く研究しよう。
0244基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 20:42:26.08ID:W/QjebaE
神様が、甘露台を立てるのは「にほん」のはじめです。
そして、それは、「たかやまのとふじん」(強欲尽くしている者)には、神の立腹です。
だが、「にほん」の者には、ご利益です。

そういう意味において、おやさまの教えは、人間完成の道ではなく、たにそこせり上げの道。
それは、ご利益によって、谷底の者を、幸福にする道ということで、甘露を受ける台にて、その幸福を谷底が、与えて頂くことになる。

これがおやさまの教えです。
原典、おふでさき二号がきちんと知らしているのです。
0245基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 20:47:19.44ID:W/QjebaE
【批判殺到】河野外相が記者の質問を連続無視!
質問中に頭をかいたり、水を飲んで放置 北方領土問題で

12月11日の会見で河野外相が記者からの質問を相次いで無視したとして批判を浴びています。

問題視されているのは北方領土問題に関する記者の質問を全て無視している場面で、
河野外相は頭をかいたり、水を飲んだりして記者の質問に答えませんでした。
記者が質問したのは、先日にロシアのラブロフ外相が「北方領土はロシアの領土となったことを日本が認めない以上、
交渉は進められない」などと強い発言をした件です。
記者会見の最後まで日本としての姿勢や意見は無く、都合の悪い話には「ノーコメント」という返答すらありませんでした。

この様子に中継を見ていた人たちからは「あまりにも不誠実」「無視のやり方が幼稚」「大臣の責務を放棄している」などと批判の声が殺到。
各種メディアも取り上げたことで大炎上しています。
ただ、批判を受けた後も河野外相は具体的なコメントを発表しておらず、ロシア側の言い分を日本政府が黙認しているような状態になっているところです。

北方領土問題でロシア側が日本をけん制する発言をしていることについて、河野外務大臣は、11日の記者会見で見解を問われましたが、
記者の質問を繰り返し無視する一幕がありました。
河野大臣には、交渉に向けた環境を整えるねらいがあるとみられますが、
質問そのものに応じない姿勢には批判が出ることも予想されます。
0246基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 20:52:01.68ID:W/QjebaE
「八つのほこり」

 表記について、詳細以下の通り(天理教HPより転載)

「をしい」 心の働き、身の働きを惜しみ、税金や納めるべき物を出し惜しむ。また、
        世のため、人のための相応の務めを欠き、あるいは、借りた物を返すのを
        惜しんだり、嫌なことを人にさせて自分は楽をしたいという心。

「ほしい」 努力を怠り、十分な働きもしないで金銭を欲しがり、分不相応に良い物を
        着たい、食べたい、また、何によらず、あるがうえにも欲しいという心。

「にくい」 人の助言や忠告をかえって悪く取って、その人を憎む。また、嫁姑など
        身内同士の憎み合い。さらには、人の陰口を言ってそしり、笑い、あるいは
        罪を憎まず人を憎むという心。

「かわい」 自分さえ良ければ人はどうでもよい。わが子への愛に引かされて食べ物、
        着物の好き嫌いを言わせ、仕込むべきことも仕込まず、間違ったことも
        注意しないで、気ままにさせておくという心。また、自分のために人を
        悪く言うのもほこり。



「うらみ」 体面を傷つけた、望みを妨げた、どう言ったと自分の不徳を思わず、人を
        恨み、根に持つような心。

「はらだち」 人が悪いことを言った、意に反することをしたと腹を立てる。理を立てず、
        我を通し、相手の言い分に耳を貸そうとしないで腹を立てるような心。

「よく」 人より多く身につけたい、取れるだけ取りたいという心。数量をごまかし、
        人を欺して利をかすめ、あるいは盗み、取り込むなど、何によらず人の物を
        ただわが身につけるのは強欲。また、色情に溺れるのは色欲。

「こうまん」 力もないのに自惚れ、威張り、富や地位をかさに着て人を見下し、踏みつけに
        する。また、頭の良いのを鼻にかけて人を侮り、人の欠点を探す、あるいは
        知らないことを知ったふりをするような心。
0247基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 20:56:07.58ID:W/QjebaE
 教会長とか、一般信者の中に一人いるかいないかの「少しお利口さん」な人が漏れに対して
 天理教の教えを説く時に必ず口走るものであるが、自分達が上記の「八つのほこり」を身に
 まとって、二足歩行しているということに、何故、気付かないんだろうか?

根と言うものは地中にあります。
根を掘ると言うのは、埋もれている暗い地中の話題です。
つまり、隠してあったり、隠れていたりもあるでしょう。
根を掘る模様。
そこに基本の位置はあります。

> 「陽気な心」や「前向きな心」
それが、根のあるものであるためには、地場と言う理、おやさまの神名。二つ目標。
そういう、教えの根源を知らねばなりません。
0248基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 21:06:28.86ID:W/QjebaE
荒木棟梁というお言葉は、山本利三郎さんの入信時に、おやさまが仰せになりました。

国の掛け橋 逸話篇33
河内国柏原村の山本利三郎は、明治三年秋二十一才の時、村相撲を取って胸を打ち、三年間病の床に臥していた。
医者にも見せ、あちらこちらで拝んでももらったが、少しもよくならない。それどころか、命旦夕に迫って来た。
明治六年夏のことである。
その時、同じ柏原村の「トウ」という木挽屋へ、大和の布留から働きに来ていた熊さんという木挽きが、にをいをかけてくれた。
それで、父の利八が代参で、早速おぢばへ帰ると、教祖から、
 「この屋敷は、人間はじめ出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも救からんことはない。
早速に息子を連れておいで。おまえの来るのを、今日か明日かと待っていたのやで。」
と、結構なお言葉を頂いた。
もどって来て、これを伝えると、利三郎は、「大和の神様へお詣りしたい。」と言い出した。
家族の者は、「とても、大和へ着くまで持たぬだろう。」と止めたが、利三郎は、「それでもよいから、その神様の側へ行きたい。」と、せがんだ。
あまりの切望に、戸板を用意して、夜になってから、ひそかに門を出た。
けれども、途中、竜田川の大橋まで来た時、利三郎の息が絶えてしまったので、一旦は引き返した。
しかし、家に着くと、不思議と息を吹き返して、「死んでもよいから。」と言うので、水盃の上、夜遅く、提灯をつけて、又戸板をかついで大和へと向かった。
その夜は、暗い夜だった。
 一行は、翌日の夕方遅く、ようやくおぢばへ着いた。
既にお屋敷の門も閉まっていたので、付近の家で泊めてもらい、翌朝、死に瀕している利三郎を、教祖の御前へ運んだ。
すると、教祖は、
 「案じる事はない。この屋敷に生涯伏せ込むなら、必ず救かるのや。」
と、仰せ下され、つづいて、
 「国の掛け橋、丸太橋、橋がなければ渡られん。差し上げるか、差し上げんか。荒木棟梁 々々々々」
と、お言葉を下された。
0249基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 21:10:08.43ID:W/QjebaE
> 「あると言えばある、無いと言えば無い。あると信じて願うまことに見えてくる利益が神の姿や」
「願うという事、願うまことという事」それが、おやさまの教えられた究極の一点である。

一方、おやさまは、神が人に与えたいというものについて、多くを語られている。

人間への神からのさづけものについて語られている話題の、中心であり、その、最も基本的なものが「甘露」である。

「あしきを払うてたすけ急き込む、いちれつすます甘露台」が、先に教えられたおつとめの中の一説であり、
それは「後に、一列すまして甘露台」と、変更されているとされる。

おつとめの手振りで、頂きますというスタイルで手を出しているのは、「天理王命」と唱えてであるが、頂くものの、最核心のものは、甘露。
だから、甘露台を囲んで勤めるのであり、そして、神から渡したいものがあるということと、
人間の願うまことで頂く利益と、その二つがおやさまの教えられた神、そのものである。
0250基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 21:13:45.27ID:W/QjebaE
静岡の袋井にて発祥した山名系の天理教思想は、甘露台世界というものは、
おつとめが完成して後のもので、甘露は、それから降るのだという。
つまり、人間完成の道の後に、神は寒露を与えるという。

これは、宗教学者が哲学的を模倣してこしらえたでっち上げであり、仮に、人間が完成したら褒美として神が授けるというものならば、
おやさまの言われた、「あると信じて願うまことに見えてくる利益が神のすがた」という教えは、意味の無いものとなる。
願う人間の中には、汚れた心の人間も居るだろうし未完成に決まっている。

その未完成の人間の願いに対して、姿を現してこそ真実の神である。
おやさまは、そこをきちんと語られているのだ。

>しやハせを よきようにとてじうぶんに 身についてくる これをたのしめ 二号42

このお筆先は、二号の39から47までのつながりの中に語られています。
話題は゛甘露台」の話題です。

めつらしいこのよはじめのかんろたいこれがにほんのおさまりとむなる 二号39

甘露台そのものが、人に対して、幸わせ、よき事、
十分なことを与えるものであるということは、この一連のおうたで、理解できます。
0251基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 21:18:15.83ID:W/QjebaE
日本が先進国がら転落するのは、少子化が原因ではなくて、少子化にならざるを得ない格差社会化だから。
正社員から非正規労働にシフトさせ賃金を減らし続けているのだから、国民が「消費」できなくなって(当然、
結婚もできなくなって)国の経済力が落ちるのは当然の流れ。

竹中平蔵が音頭を取った「新自由主義・構造改革」が原因なのは明白で、
構造改革の本音は、日本の一般国民の生活レベルを、都市部以外の中国や東南アジア、南アジア諸国と同程度にまで「落とす事」が狙い。
そのため、日本国内に落ちるべきカネが「外国への投資」という形で、どんどん海外に流れていった結果、日本が貧しくなっていっただけの話。、
日本の国民が貧しくなって中国や東南アジア諸国と同程度の経済力になってしまえば(日本から見れば中国や東南アジアが発展して豊かになったと見える)、
なし崩し的に、アジア全体がヒト、モノ、カネが完全な自由な経済圏が出来上がる事になる。
そうなれば、日本の規制なども有名無実になり、グローバリストは好き勝手ができるようになる。

単に、少子・高齢社会だけなら、高齢者を積極活用する社会に作り替えればよいだけで、そんなに難しい事ではない。
医療、介護、子育て、農業。社会インフラの維持など「外国人労働者を入れたくて、入れたくてウズウズしている分野」などは格好の高齢者の活用場だ。
高齢者を活用したくないから、人手不足だと大騒ぎしているだけ。

経団連も、高齢者の活用には見向きもせず、外国人労働者を入れろの一点張り、
ネットでも誰の支持なのか、高齢者叩きが活発で、「世代間の分断」が意図的に図られている。
今の若者が貧しいのは、高齢者が悪いのではなくて、自分の兄世代が「竹中平蔵の構造改革路線」を支持した結果、という事を意識すべき。
これで「外国人労働者を入れたら、本当に後戻りできなくなってしまう」よ。
0252基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 21:26:53.77ID:W/QjebaE
めつらしいこのよはじめのかんろたい これがにほんのおさまりとむなる 二号39
高山に火と水とがみへてある たれがめへにもこれがみへんか  二号40
たんたんといかなはなしもといてある たしかな事がみえてあるから 二号41
しやハせをよきようにとてじうぶんに 身についてくるこれをたのしめ 二号42
なにもかもごふよくつくしそのゆへハ 神のりいふくみへてくるぞや 二号43
たんたんと十五日よりみえかける 善とあくとハみなあらハれる  二号44
このはなしとこの事ともゆハんてな みへてきたればみなとくしんせ 二号45
高山のにほんのものととふぢんと わけるもよふもこれもはしらや 二号46
とふじんとにほんのものとハけるのハ 火と水とをいれてハけるで 二号47

さて、これの一連のお筆先の意味している神意とは、何なのでしょうか、?
幸福を与えるという意味なのですか。
疑問です。

神様が、甘露台を立てるのは「にほん」のはじめです。
そして、それは、「たかやまのとふじん」(強欲尽くしている者)には、神の立腹です。
だが、「にほん」の者には、ご利益です。

そういう意味において、おやさまの教えは、人間完成の道ではなく、たにそこせり上げの道。
それは、ご利益によって、谷底の者を、幸福にする道ということで、甘露を受ける台にて、その幸福を谷底が、与えて頂くことになる。

これがおやさまの教えです。
原典、お筆先二号がきちんと知らしているのです。
0253基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 21:31:36.70ID:W/QjebaE
病気を神に願って助けてもらうというのは、普通の信心ですが、神に助けてもらうからと、薬を川に流して捨てさせてしまう。
それは、カルト。
医者にも診てもらいながら、神に祈るというのなら、普通の宗教です。

つまり、「甘露台」という台を立てて、甘露を受け取るようにと、それを具体的に実行すると、カルトのなすわざになるわけですね。

そうそう、昭和の戦前の天理教は、神に助けてもらうと、「助けて」と文字を書いていました。
ある時期から、山名系教理の展開された時期ですが、「救け」と、文字に書くようになりました。
これも、カルトですが、おやさまの示されたのは「助け」であり「救け」ではないと、基本的にはそうりかいされます。
神殿に穴あきの建物を建てたり、薬を川に捨てさせたりというカルトは、おやさま的ですが、神様のたすけについて、「救け」と文字をふるようなカルトは、どうでしょうか。

「世界一列をたすけたい」と言う神意は、普通の神信心ですが、そのためには、家屋敷もろとも、みきの身体を貰い受けるという、具体的行為を着手すると、カルトになります。

現在説かれている、「人間が完成したときに甘露がふる」と言うのは、教えとしても史実としても、嘘だということになっています。
「人間が完成したときに甘露が降る」というのは、カルトでは有りませんが、人間の完成の前から、建物に穴を開けて用意している姿は、カルトそのものです。

「神が与えたい」と、それを信じるから、「下さい」と手を出す。
甘露台というのは、あたえを頂く台ですから、神が与えてくれると信じていないとして、台を作りましょうと言うのでは、詐欺のようなものです。

>>1
> おやさまは、「あると言えばある、無いと言えば無い。
あると信じて願うまことに見えてくる利益が神の姿や」との意、
語ったと伝えられている。
そこで、あると信じたときに、ご利益があること。
それは、天からの与えがあるということですから、神はあるということ。

神の実体そのものは、「ご利益」なのだ。
これが、甘露台信仰の本質ということに、なります。
0254基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 21:52:41.63ID:W/QjebaE
そうなのです。
泥鰌が人間の種になると言う発想が、おやさまの「甘露」と言う教えの発想なのです。

甘露については、以下のような資料があります。
天理教祖中山みきの口伝等紹介。

 『今度屋敷へ生れる時は、名を玉姫と云い、乳や乳母で育てるのではない。甘露で育てる』と仰せになり、
又『十八歳迄は人並に成人するが、十八歳から先は、なんぼ年をとっても、いつも十八の姿や』と仰せになった。
 それから御帰幽になった時『満三十年経ったら産れて来る』との御言葉があった。
 明治十四年三月、兄秀司殿の御死去の際には、『小寒は先へ死んだが、今度の世ではやっぱり妹として生れさす』との御言葉であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「乳や乳母で育てるのではない。甘露で育てる」
この直接的な啓示。甘露と言うものは、そういう具体的なものだということになります。
0255基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 21:59:00.56ID:W/QjebaE
>「十八歳迄は人並に成人するが、十八歳から先は、なんぼ年をとっても、いつも十八の姿や」
これは、甘露で育てるわけですから、当然の事です。。

増野鼓雪先生が、厳密な理としての表現よりも、
文学的な表現であると言うことに留意しても、
十八の姿でずっといられると言うのが、理としての甘露の持つ意味をきちんと示しています。

「乳や乳母で育てるのではない」という言葉ですが、これは、「生母の乳」や「乳母の乳」で育てるのではないと、理解されます。
「いわゆる母乳」で育てるのではないと言う事です。

当然のことで、十八になっても十八の姿のままであるとするならば、
その女性は授乳と言う行為そのものとどういう関係になるのか。
そこで、「甘露」という言葉の意味が、良く見えてきます。
実に、甘い、露の事です。

神の与えと言うものは、人間の都合に合致した「甘い露」である。
それが基本です。
「十八の姿でおいてやるかわりに、こういう労苦を背負いなさい」では、十八の精神でいられないし、労苦と言うものが、老いを生みます。

つまり、おやさまの教えはもともと、人間に「甘い露」を与えたいと言う前提で、「たすけたい」である。
それが、深く実感されないと、甘露の神意は見えてこないと言うことになります。
0256基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 22:39:06.85ID:W/QjebaE
【よう苦労して来た】逸話篇114

 泉田籐吉は、ある時、十三峠で、三人の追剥に出会うた。
その時、頭にひらめいたのは、かねてからお仕込み頂いているかしもの・かりものの理であった。
それで、言われるままに、羽織も着物も皆脱いで、財布までその上に載せて、
大地に正座して、「どうぞ、お持ちかえり下さい。」と言って、頭を上げると、三人の追剥は、影も形もない。
 余りの素直さに、薄気味悪くなって、一物も取らずに行き過ぎてしもうたのであった。
そこで、泉田は、又、着物を着て、おぢばへ到着し、教祖にお目通りすると、教祖は、

「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す。受け取れ。」
と、仰せになって、結構なさづけの理をお渡し下された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
追いはぎですから、
> 「心根の腐った出来が悪い人」
> 「畜生以下の人間」
と、みなされても仕方が無いと思うのですが、おやさまは違う。

「うちうち折り合った」との理をお諭しになっている。

つまり、一列兄弟という当たり前の世界においては、そういう人に対して、礼節を尽くしてものを与えるという事を望まれている。
0257基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 22:43:44.83ID:W/QjebaE
「ほしい人に貰ってもらえばなお結構」という、逸話も有ります。
普通のものの考え方と、ちょっと違うのは、「ほしい人」と言われたのは、この場合、追いはぎではなく、泥棒さんでした。

そしたら、欲しい人というものにみんなあげてしまうことが、おやさまのお望みという事になります。

そこで、立場を変えてみれば、欲しくても手に入らないものがある事に気がつきます。
つまり、あげたくてもあげれないものがあるとわかります。

たとえばそれは、おたすけの名人泉田先生の効能ある「おさづけの理」。
それは、欲しくても貰えるものではない。
そういうものがあります。
「命」、命を貰って延命すると望んでも、それは貰えません。
「健康」、その人の健康を自分に欲しいと願っても、手に入れられません。
「若さ」、「美しさ」、「才能」、・・
欲しいから、欲しい人が何でも貰ってよいとしても、貰うに貰えないものがあるということです。

おたすけにんなら、人さん助けさせていただく理。
欲しいと望んでも、盗むことも出来ない。

天よりの与えとは、実は、人に分けてあげたくても、どうぞと差し上げるわけにいかない。
この、本質的な違いです。
0258基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 22:47:23.24ID:W/QjebaE
良いのか、悪いのか、判りませんが・・(笑)
お筆先三号には、このような理が知らされてあります。
 このよふは にぎわしくらしいるけれど
 もとを知りたるものハないので     三号92

普通の天理教徒さんが言われていますところの、
> 金で買えるものとかは、与えてしまえるもの。
それは、賑わしい暮らしそのものの、アイテムと見てよいでしょう。
衣服も家も、自動車も、幸福な生活のアイテムは、おいはぎや、泥棒から見たら、手に入れたいもの。
自分が幸福になるためには、賑わしさ、つまり繁栄こそ必要なわけで、
「物質文明」と呼ばれるその物質は、実は、欲しい人には貰ってもらえるもの。差し上げられるものなのです。

でも、
 このよふは にぎわしくらしいるけれど
 もとを知りたるものハないので     三号92
と、教えられた、理の世界がそこにあると言うこと、それが、「甘露」について知るためには、一番に大切なことでしょう。
 「元を知り足るものは無い」ので、・・立教も、甘露もすべては、それが原因なのです。

 このよふは にぎわしくらしいるけれど
 もとを知りたるものハないので     三号92

 このもとをくハしくきいたことならば
 やまいのおこる事は ないのに     三号93

甘露が、寿命薬とか、食事なしで済むとか、色々に言われます。
病まない、死なない、弱らない。そのシンボルが、「甘露」です。

賑わしい暮らしをしていても、病は起きる。
この元を知ったら、病は、起きない。

こういう風に、読めてしまう、お筆先でした。
0259基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 22:51:06.75ID:W/QjebaE
おやさまご存命の時代に、おやさまの所にたすけを求めて大勢の人が来ています。
それは、ご利益を求めてでありました。

山名系教理で説くところの「人間完成の道」を求めてのものではなかった。
人間が、成人したら、人間が完成したら、たすけてやろうと言うおやさまではありませんでした。

おやさまは、「ほこりを払うよう」にと、言われています。
 
 この元を詳しく知りた事ならば 病の起こる事は無いのに 三号94
何もかも知らずに暮らすこの子供 神の目にはいぢらしき事 三号95

神の目には、いじらしいのであって、「この未熟者め」ではないということ、「甘露」という教理の大前提になっていて、
それが判らぬと、神様がわからないという事になってしまうことでしょう。
元を知ったらと言う、その元とは、おやさま・天理王命さまの元の事。
その場合には、元の理を知るという言葉にて、私たちは語りがちですが、
親の心を「神の利益」として知る事が、神様を見るということになるのですから、知識として元を知るのではなく、
「ご守護・不思議」として神を知ることが、「願う心のまことに見えてくる利益としての神信心」になることなのです。
0260基本。
垢版 |
2018/12/12(水) 22:54:28.60ID:W/QjebaE
それがおやさまのお心だから、おいはぎさんにも、泥棒さんにも、貰ってもらえばなお結構と、教えられています。
そうですよね。。

この元の基本は、一列兄弟の「をや」がいる。です。
そして、おやは「ご利益」を下さる。

これが神様なのです。
おやから、頂くと言う事に熱心である方が、お筆先の教えにそっていると、それが人間であると言う基本です。

>おやさまの示されたのは「助け」であり「救け」ではないと、基本的にはそうりかいされます。
どちらでそう理解されているのかお教えいただきたい
具体的な著作物等、参照

お筆先の三号に、
「この話、悟りばかりであるほどに これ悟りたら証拠ためしや」とあります。

この話というのは、おやさまの教えのことですが、直接的には、前のお筆先に知らされてあります。

「柱さい しいかりいれた事ならば この世確かにおさまりがつく」 三号13
「この話 悟りばかりであるほどに これ悟りたら証拠ためしや」  三号14

つまり、「この世を治めるこの話とは、悟りばかりの話であるという事ですから、悟るのは「人間」です。
人間が悟り、証拠ためしをする。 
それに対して「たすける」のが神であるという事は、「この世を治める・たすけ」とは、人間が悟って行うことに対してという範囲で理解するなら、
「助力」と言うことですから、「助け」です。
「救済」という「救け」というのは、人間が成し遂げるべきことであり、それに対しての「神の助け」です。

親神様のこの世の救済は、神様の仕事ですから、神様自身の問題。
それはなにも、親神様が親神様に、話しをする必要も無いものです。

親神様が人間に「この話」をするのは、人間に対してのお話ですから、容器暮らしをする人間への、神からの助け、という事になります。
0261基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 01:07:08.30ID:4cjCf34b
「このたびは たすけ一条教えるも これも無い事はじめかけるで」 三号17
たすけるのは親神様です。。
それだけを見つめますと「救済」と言う意味に感じ取れます。
「救済」→「救け済み」。つまり、済んでしまったとか、済ませてしまうという意味を含んでいます。

「泥海の中より守護を教えかけ それがだんだん盛んにるぞや」  三号16
「このたびは たすけ一条教えるも これも無い事はじめかけるで」 三号17

親神様が人間にたすけ一条を教えると言う行為は、「救済」でしょうか。
元にさかのぼって、親神様が泥海の中から教えかけたのは、「だんだん盛んになった」というのは、「救済」でしょうか。

元始まりにて、教えかけたのは「助け」であり、「救済」ではない。
これは、理解できると思います。
「神の助力で」「だんだん盛んになった人間」と言う意味です。

すると、
「このたびは たすけ一条教えるも これも無い事はじめかけるで」 三号17
と、「も」「も」と、なっていて、
「このたびは たすけ一条教えるガ」ではない。
「これハ 無い事はじめかけるで」ではない。

泥海からの元始まりと、天理教の立教の元始まりも、
同じ「元の理」ですから、

つまり、「救済」という意味での「救け」ではなく、「助け」と、私は理解する。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
0262基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 01:17:25.86ID:4cjCf34b
りやく=神、でなく、りやく=神の存在を納得させるもの、神の一面
という理解でよろしいでしょうか

おやさまは、「神は理である」と教えられています。
これは、教理の基本です。

そして、おやさまは「りやく」と語られているわけです。
聞いた、神官守屋は「利益」と聞いた。
そして、高弟たちは「利益」と伝承した。

おやさまは「ごりやく」と語られていないから、「りやく」という言葉だったとして伝承されています。
「ごりやく」ならば、「ご利益」と感じをあてられます。

「理は神である」
そしたら「りやく」が神の姿というのですから、「理やく」と文字をあてた方が、理が通ります。
0263基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 01:20:37.48ID:4cjCf34b
元の理には、「上から突くにより、つき様」とか、こう言うおやさまの語呂の用い方が、なされています。

すると、「ごりやく」ではなく、「りやく」なのですから、
「理・やく」、「理役」と、このように、漢字を当てる事も出来ます。

それは、親神様はお一人であるのに、十の柱に、「道具の役」として、分けて教えられた「こふき話」にならえば、
「神様のご守護の理・神様の役」が、「理役」、つまり「りやくだと、そういう基本に到達します。

すると、
> りやく=神、でなく、りやく=神の存在を納得させるもの、神の一面
と、言う理解も、それに当てはまりますが、
このりやくは、何の神様の何のご守護と、そういう「理」の役割、機能を見ることで、神が見えるのだと、そういう意味に、なります。

曖昧な物ではなく、十全の守護の理の何々と、理を役割として分けて、「りやく」が見える。
そしたら、「神様」の姿として、納得できるわけです。

「ご利益」とは「神の理の益」とは、「何々の守護の理の益」と、わかることで、髪の姿が見えるという事に、基本的には理解します。
0264基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 01:23:27.49ID:4cjCf34b
原典に参照しますと、お筆先二号に、「よろづたすけの模様」について、
きちんと親神様は、理を知らされています。

「世界中 どこが悪しきや 痛みしょ 神の道教せ 手引き知らすに」 二号22

「この世に 病と言うて 無いほどに 身の内障り 皆思案せよ」   二号23

病魔というのは、神からの「みちおせ」「てびき」「しらす」に。
それを、
あると信じて、願うまことに、見えてくる「りやく」が神のすがた。
こういう、基本を示しているお筆先です。

直近の実例ですが、ある方が末期のがんの方に、病の理をおさとしした。
それで、持ち返した。
それから、熱心に信心をしていたら、再度悪くなった。
そこで、質問させて頂いたのは、
「おやさまは「ひとことまでで皆たすけるで」と、教えられています。
最初の、「身の障り」について、何をお諭ししたのですか」
「○○の理の病であったので、○○すると心定めでした。」
「それから跡に、信仰的によさそうな事、させたでしょう」
「そうでした」
「それは、だめです。おやさまは、一言までて皆たすけるでと、教えです。」
「そうでした」
「最初の、身の知らせ、一言、ひとつの事だけです。」
・・・
神様の殻の、身の知らせ、たった一つの事だけで、その理でお助けする。
そしたら、神の理が、助ける側も助かる側も、きちんと分かる。

ごちゃごちゃと、よさそうなことを色々させると、肝心の神の「理」の役割が燃えなくなります。
0265基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 01:28:25.41ID:4cjCf34b
> 昭和33年に初版の、深谷忠政著「教理研究 元の理」が発行されている。
元の理は、かみの「りやく」=姿を知るための基本ですが、
それが、教団教義では歪んで解かれています。
その事は、関連スレとして、2ちゃんに述べてありますが、関連を、一部引用します。
深谷忠政著「教理研究」元の理 その批判。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1262855061/1-100

> そのはしがきには、このように記されている。
頁1、「天理教教典が出た時、"第三章元の理が無ければ、
未信者にそのまま読んで貰っても、まとまっていて大変匂いがけに都合が良いのですが、
あれがある為に、一般の人にそのまま教典をお渡しするわけにいかなくなる"という声を何度か聞いたことがあった。」
「現在でも同様の思いをしておられる方が多いのではないかと思う。」
「元の理は新しい別席のお話台本にも出てくるし、これを表に出す以上、
何等か解明の手がかりがあたえられなければならぬと考えたものの、それは極めて困難なことであることを自覚せぬわけではない。」
・・・・・・・・・・・・・・
教団インテリは、病と理との基本を諭さないで、「つとめの人衆」の魂の因縁論を語ることで、ごまかしたということですが、
第三章元の理が、布教の基本、よろづ助けの模様であるのです。

元の理。
それは、甘露は、絶えずに降りているという、おやさまのお優しさへの、安心です。
0266基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 01:32:13.89ID:4cjCf34b
やまと言葉と言うものは、もともとは「やまとの国」の言葉。
つまり、関西弁です。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大和言葉(やまとことば)あるいは和語(わご)は日本語の語種(単語の出自)の一つであり、漢語・外来語に対して元々日本で使われてきた固有語のことである。
「やまとことば」は「倭詞」や「和詞」と表記することもあり、「やまとことのは」ともいう。漢字の訓読みは漢字の意味に対応する大和言葉である。

お筆先は「和歌」です。「和語」(やまとことば)で書かれています。

「甘露」についての教理の誤解というものについては、「信仰の信仰に応じて見えてくる」と言う事と、
「神様からの与え」というものの、相違点について、誤解があるということです。
0267基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 01:36:43.44ID:4cjCf34b
其の頃御教祖は、信仰の進んだ者には、扇の伺いと云うのを御許しになって居りました。
扇の伺いとはどういうのであるかと申しますると、教祖から頂いた扇をもって伺うたら、神様の御心が分ったのであります。
御神楽歌に
「こゝ迄信心してからは一つのこうを見にゃならぬ、十ど此の度見えました扇の伺い是不思議」とあるは この扇の伺いの事であります。
聞く所に依りますと扇の伺いを貰われた或方が、天気の好い日に足駄(※2)をはいて、雨傘を持ってお地場へ来られる。すると近村の人々が大変笑ったが、
帰られる時には丁度雨が降って来て、雨傘と足駄が間に合うようになる。それを見て近村の人は不思議がったと云う話が、今でも残って居るのであります。
 此の点から考えますると、信仰とは病気を助けて貰うとか、安心を得るとか云うのが最終の目的ではなく、神意の悟得(※3)が其の目的でなければならん様になって来ます。
即ち安心や病気の助かるのは、此の神意の悟得が出来たら、なんでもなく出来る筈であります。此の点に於て、本教の信仰の目的は明らかなものだと云えるのであります。

「信仰の進んだ者」には「扇の伺い」を与えられたというのは、大きな誤解であったと、理解しなければならない。
それが、今日的な過大だと思います。
 御本席も始め此の扇の伺いを教祖から頂かれたのであります。そしてその扇の伺いを使われた事で今日まで語り伝えられて居るのは、
勤場所を建築される時、教祖が御本席に蔵へ這入(はい)って伺えと仰せになった。
其の時御本席が蔵の中で扇で伺われると、我知らず蔵の中をかけ廻られた。そして其の事を御教祖に申し上げられたら、
教祖は、それは蔵を取り払えと云う事やと仰せになった。
それで蔵を取り払うて勤場所を建てられたと云うのであって、これが御本席の扇の伺いを立てられた始めであるようであります。
0268基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 01:39:57.41ID:4cjCf34b
> 其の頃御教祖は、信仰の進んだ者には、扇の伺いと云うのを御許しになって居りました。
この、↑増野鼓雪先生の解説は、すべてが天理の事実と一致するとはならないわけです。
三十年も苦労したという結果に渡しているのではない、元冶元年ころ入信したての人に渡してしまわれているのですから、
「渡す時期というものは、本人が求めたら」という事での時期も有るということです。
渡し方にもさまざまあり、おさづけの例で言えば、「小児」に渡した史実もある。
「信仰の進んだものには」という解説は、とても危険な解説だったということに、やがて、なります。
0269基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 01:43:13.14ID:4cjCf34b
本席様は、扇の伺いを「教祖の御命で」伺っています。
本席様は、扇の伺いの結果について、「教祖に」伺っています。

扇のさづけを頂かれていても、それを自分で解釈したり、自分勝手に用いているのではない。
その、「元の理」。「をやという理」に効能という理が有るということです。

「扇」を持つと言うことは、普通の天理教徒さんの立場で言えば、おさづけの理を頂くということだと、あなたが言われていますよね。
そしたら、おさづけというものは何に使うかといえば、病助けですから、「たすけ一条」の道具ですから、おたすけに用いるもの。

おやさまのお言葉ですが、二つの内容を含んでいますよね。
ひとつは、これです。
「世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。」
もうひとつは、これです。
「道は、辛抱と苦労やで。」

「世界の事は何も心にかけない」「世界の事は何も知らない」なんて、とても簡単なことですよね。
政治のことも経済のことも、何も心にかけなくていいのですから、まさに、ノー天気そのもの。

それに対して、「道は苦労と辛抱やで」これはどういう意味かといえば、重荷だという感じです。
さて、この、二つは、どのように二つ一つなのかという問題です。

じつに、この二つは、一つなのです。
0270基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 01:47:09.13ID:4cjCf34b
> おやさまのお言葉には、
> 「あんたは、これからおたすけを一条に勤めるのやで。
世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。道は、辛抱と苦労やで。」
> と、お聞かせ下された。
つまり、「たすけ一条」をつとめる道としては、「苦労と辛抱」で、難儀不自由したり、
人から悪く言われたりして、「成人」していくということですよ。
そして、「世界の事は何も知らなくても、心にかけなくても、皆世界の胸の内が映るようになっていく、そういうことが、その成人の過程が、
道を通るものの、当然の苦労です。

おたすけの効能の理を頂いてしまった者の、「成人してからの」道の、苦労ということ、辛抱ということではないかと、
うすうす感づかれているのでしょう。

「あんたは、これからおたすけを一条に勤めるのやで。」
おやさまから、お助け人として、成人免許を与えられたという、そういうお言葉です。

そして、
「世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい」
だって、この人には、それだけの「理」が許されている。

そしたら、「道は、辛抱と苦労やで。」
とは、成人を目指すものではないと、冷静に思案したら、わかる事です。
0271基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 01:50:53.56ID:4cjCf34b
依頼人がいれば、「頼まれて扇を使う」のは、神様の道具として、当然の事です。

そこで、「世界のことに無知で、何にも心にかけない」とは、「あほう」という言葉が、自然に付きまとうでしょう。
人間が成人すると言うことは、あほうになるという事だと、そんな表現がされたりしました。

でも<< 
まじめで正直であるとか、世間に無知であるとか言う、
それが「天理に精通した」姿として、語られる場合には、「皆世界の胸のうち」を、映る、大前提としている。
そんな風に、思案するのが、基本です。
0272基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 01:54:22.31ID:4cjCf34b
「夜昼の理」。
こんな風に、おさしづでは示されていますが、おやさまは、「夜に」道を始められました。
そして、「昼に」扉を開かれました。
これが、基本としての、「夜・昼」の理です。

九つ、九、この世とは「苦の世」。
夜の理と言われるのは、立教前の世界のことです。
「裏守護」の時代とも言われるものです。
それに対して、「立教」とは、「神が表に現れた」、つまり、「昼に」なったと言うことです。

そこで、今が夜と考えるのか、昼と考えるのか、
夜というのは、「おやさま」不在、昼と言うのは、「おやさま存命」。
この違いを、基本として、思案します。

天理教教典第三章、「元の理」には、「この間、九億九万年は水中の住居、六千年は知恵の仕込み、
三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる 。」と、あります。
「六千年は知恵の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込み」と、ありますから、立教直前は、「文字を」、その前は「知恵」を仕込んでおられたわけです。
すると、これは、「仕込み」の最中ですから、「心の成人」が至らないと言うも何も、
まだ、「知恵」から「文字」を、教えていた最中ですから、
「何も知らぬが無理でないぞや」
なのです。
0273基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 01:58:06.14ID:4cjCf34b
認識の差と申しましょうか、何党が政権政党になっても、「権力」であると言うことは、治まらない。
それが天理に知らされているところです。
「権力」というものは「高山」であり、高山の中にも真実真心の者がいると言うことはありますが、権力の周りには「利権」というものが付きまとう。
政治とは、本来は、「祭りごと」であり、豊年を祝って祭る、祭りごとでなければならない。

ところが、「飢饉の為に備えましょう」と、そうして、「宮」は民の為に貸し付けて、それが、高山になっていった。
この意味をきちんと理解しなければならない。

豊年であると言うことは、「昼」である。
だが、夜に備えて、権力と言うものは発生し、発展してきた。

おやさまが、突然に「甘露」を降らそうというのは、そういう高山の利権構築に対する、天理を示したものと言うことです。

宗教も政治も、何をもって権力を構造として完成してきたか。
例えば「学問」と言うものは、権力は独占してきた。
例えば「情報」というものを、権力は独占してきた。
「教養、知性、博識」とは、権力を独占し続けるためのアイテムであり、それらが谷底に幸福をもたらすのは、極めて例外だったと言うこと。

その権力がどうにもならぬもの。
それが、おやさまの支配くださる「火水風」の守護。

「火水風の守護」。
こんなもので、世界を普請すると言う中山みき。
おやさまは、甘露を下さる、人間の親神様天理王命様です。
0274基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 02:02:08.13ID:4cjCf34b
例えば、私も債務奴隷であり、世界中のほとんどの人が債務奴隷になっているけれど、
身体的には拘束されていないし、福祉があって保護はある。

この構造を変えない限り「陽気くらい」にはならない。

仮に、とか、もしというと、少し奇異に感じられるかもしれませんが、
甘露台が素直に信じられる心になるとすると、それは、世界がろくぢになると言う事に直結している。
そういう論理を、普通の天理教徒さん、お分かり頂けますか。

神様は「高山に火と水が見えてある」。
そして、谷底には「甘露」「甘露台」なのだ。
こういう天理の基本がきちんとわからないと、甘露台は「成人した魂の人のための台」なのだという、
「利権構造」が、宗教高山が、切り無く生まれてきてしまう。

それでは、甘露を降らすわけには行かないと、そういう、事情について、考察してみてください。
0275基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 02:05:16.36ID:4cjCf34b
争いの原因というのは、貧困です。
「高山」というものは、人の生命財産を保護し保障する権力が、政治制度として「高山保護・育成」につとめている。
それは、貧民から救済するという、
たとえば、生活保護とか、江戸時代の「飢饉米」とか、
それは、「貧困」が前提で居て、その貧困を逃れようという不安が、権力者に統治をゆだねるという結果を生んでいる。

だが、甘露が降れば、それを受け取る「甘露台」があれば、貧困の恐怖も、「労病死」そのものが無くなる。
ここがあって、そして「高山には火水」。
甘露台というのは、そういう意味の台であり、高山の火と水が見えていないと、甘露台の意味も見えなくなると、そう思います。
0276基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 02:09:34.17ID:4cjCf34b
天理教の年表には、立教5年、6年頃の事として、次のような記述があります。
「ついに村人、役友達、親族不付き合いとなる。」

これは、「夜」と言う状態であり、「昼」とは言えないシーンです。

「夜昼の理」の事です。

「夜昼の理」。
こんな風に、おさしづでは示されていますが、おやさまは、「夜に」道を始められました。
そして、「昼に」扉を開かれました。
これが、基本としての、「夜・昼」の理です。

九つ、九、この世とは「苦の世」。
夜の理と言われるのは、立教前の世界のことです。
「裏守護」の時代とも言われるものです。
それに対して、「立教」とは、「神が表に現れた」、つまり、「昼に」なったと言うことです。

「昼」になったはず、「立教」なのに、五日の理では暗転した「闇夜」。
その原因のことです。
それは「甘露」を受ける上では、とても大切な意味を持つと基本は思案します。

「22の2の五つ」という教理があります。
ろくぢでないと「理い吹く」ではなく「立腹」となる。
「理い吹く」は「昼」。
「立腹」は神の立腹ですから、「夜」と、舞台は変ります。
そこが、分岐点です
0277基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 02:13:11.27ID:4cjCf34b
「22の2」とは、男女二人、が三組で、222です。
おつとめのてをどりの、お立ちの方の数理です。
おさしづに、「ほんの三日や千日や」とありますが、三年千日の苦労をすれば結構になると言う天理の基本があります。
すると、1838年12月12日に立教したのですから、1841年には、結構になっていなければならない。
1841年とは、天理教年表では、「おびやためし」の年です。
ところが、夫善兵衛は、自分の眼病は助けられた。妻の病気も治った。
特に長男秀司の足痛も助けられたというのに、おまけに、おびやためしで、流産の産後も助けていただいたのに、
「貧に落ちる」を拒んだ。

もし仮に、すっと、仰せのようにしていたら、簡単に、道は「昼」だったと、そういう事かも知れない。
> 「・・ついに村人、役友達、親族不付き合いとなる。」
の原因は、「貧乏を命じた親神」にあるのではなく、病を助けられても、神に約束しても、実行しない「夫善兵衛」にあったと、
そういうことになります。
それは、「高山因縁」が切れていなかったと言うこと。
「高山因縁」を切りたくなかったという、執着にあった。

夜ではない、昼なのだ。
とは、「貧乏神ではない、豊年神なのだ」と、存命のおやさまを信頼することです。

『不自由なきようにしてやろう 神の心にもたれつけ』
と言うのが、「昼」である基本になります。
0278基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 02:17:28.74ID:4cjCf34b
神様は、勤め場所の普請の開始の前に、扇を授けています。
「正月こえのさづけ」と、ありまして、肥えのさづけは、一番最初に授けておられる。
つまり、最初に「路銀」を渡すと言う、天理の順序。
それは、おやさまの場合にもそうでした。
しかし、それで昼で通れるのに、「夜」にしてしまった、私たちの先輩がいます。
初代といわれる、方々です。

善兵衛さまは、最初に三年の苦労すら通らないで、おやさまの霊力で信仰体を作ろうとした。
それで、昼を夜としてしまったのは、2ちゃん「天理」スレに、黒の基本さんが投稿した話題に、そうした事実が書かれていますが、
初代のほとんどは、苦労三年で、「三年千日」で、大教会初代になっています。
それならば、その五十年後には、戦争協力という「暗転」。
大切なおつとめも、原典も、神の理に背いてしまう情けなさです。

そこに、甘露を頂くという信仰は、素朴で素直であるべきだという、基本が見えます。
神の心に、もたれ付けないという事、それでは、「夜」。残念なことです。
0279基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 02:26:55.08ID:4cjCf34b
こじまつな態度というものは、言うならばいちいちにうるさいという事です。
当局は、いちいちにうるさかったとか、官憲のような態度が、こじまつという態度で、反対側で言うと、「鷹揚」と言いますか、のんびりという態度。
「夜」と「昼」と言うものは、理において、「夜」は節約型。
人間の体の場合ですが、「夜」はこじまつに、してあるわけで、「昼」は消費型。
「昼」「日る」「費る」。
つまり、燃えるということはなくなるわけですから、こじまつの反対側には「浪費」がある。

浪費は、エコではないので、「倹約・節約」の方が理にかなっているとして、こじまつそのものは、「夜」の理に人を導くという、そういう事になりますむ。

つまり、天理教会は「こじまつ型」に固執していて、「浪費型・ゆさん型」ではない。
それが、高山に癒着したことと、因果関係上にあるのではないかというこだわりです。

「甘露」という言葉には、こじまつは、ふさわしくない。
皆が、甘い露を頂くというときに、「こじまつ」にされたら、そりゃ、ぶち壊しというようなものです。
気分が悪くなる。

あんたは成人段階が、もう一段足らんから、「甘露」は跡ですというような、状態が「夜」。
それでは、「甘露」の「甘さ」が無さ過ぎる。

甘い採点、甘い判定、甘い生活。
それと、まるで相容れないものが「こじまつ」。
そしてそれは、私たちの中に体質としてあるもの・・。
天理教会が、信仰に対して、厳しい生活をよしとしているのは、
「夜」の道しか頭に無いからだと、そんな気さえします。
0280基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 02:31:07.07ID:4cjCf34b
> 「信仰」「教育」「訓練」「伏せ込み」「忍耐」「執着心を取り去る」「仕込み」等々の<美名>が付けば

それは、まさしく、こころを暗くしてしまう。「こじまつ」そのものと、言えましょう。

さて、秀司先生は、どうして小始末をしたのか、その点から、この「小始末信仰」の本質を自覚したいと思います。

5月21日(陰暦4月9日)、奈良警察署から秀司宛てに召喚状がきた。秀司は、40日間留め置かれた上、
罰金に処せられ、帰ってきたのは、6月29日(陰暦5月19日)であった。
その理由は、杉本村の宮地某が、ひそかに七草の薬を作り、これを、秀司からもらったものであると、警察署へ誣告した為である。
この頃から、秀司は、「人さえこなければ、こんなことはない」と云って、道人のやってくるのを拒み始めていた形跡が有る。
 この時の教祖のお言葉が次のように伝えられている。
「監獄へ曳かれるというのも、誰がしたと思うなよ。神の事聞かんから、神が連れていぬのやで。神が止めているから、出られんのや。
神の云う通り、早くつとめに掛かるなら、直ぐに連れて帰るほどに、つとめをせよ」(諸井政一手記「改定正文遺韻」)。

 この頃の秀司の言葉として「皆が寄って来てくれるは誠に忝(かたじけな)いけれども、このように色々心配しても、どうしても警察の権利で苦しめられるから、
もうこれからは小始末(こじまつ)するほどに、皆もなるだけ来んようにしてくれるよう」(「改定正文遺韻」)とある。

これに対し、おやさまは、「こじまつするとこじまつになるぞ」(諸井政一手記「改定正文遺韻」)と仰せられた、と伝えられている。
これに対し、教祖は、「小始末すると小始末になるぞ」(諸井政一手記「改定正文遺韻」)と仰せられたとも伝えられている。

つまり、おやさまの論理と秀司の論理には、「夜」と「昼」の認識の違いがあったと、見て取れます。
0281基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 02:35:30.67ID:4cjCf34b
おやさまの言う事によれば、こうなります。↓
[神の言う事を聞かない]→[神が秀司を監獄に入れさせた]

秀司の言う事によれば、こうなります。
[皆が来るから]→[警察が権利を行使する]

いったい本当は、どちらがどうなのでしょう。
もしおやさまの言うとおりだとすると、官憲はおやさまの手先という見方すら出来てしまうわけです。

「神の言う事聞かぬから、犯罪者として始末させた」親神さま。
それは、神様の小始末なのか否か、

みな他人事だから、秀司先生の発言を、神を信じられない愚か者と、軽蔑できたりするのですが、
本音、官憲は、お上は、「お上の意思」で取り締まっていると、秀司さんは考えた。
そして、おやさまは、「神の意思」で取り締まらせたと言う。

これ、神様を信じると言うのは、口で言うはたやすいけれど、目の前が真っ暗なのに、「昼」だと言われたようなもの。
その時、「小始末」(こじまつ)に入ってしまう、
つまり、「神への不信」が、小始末を生む。
それを、見て取れてしまうと言うことです。
0282基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 02:39:08.54ID:4cjCf34b
【講の結成】(1878年)(明治11年)(教祖81才)
 1878年(明治11年)4月頃、秀司を講元として「真明講」が結ばれる。
世話人は、仲田儀三郎、辻忠作、松尾市兵衛、中尾休治郎ら。この頃から金米糖を御供えとして渡す。

 この頃、教祖の行為は村にとって迷惑だから、「天理さんを止めてもらいたい」と中山家に申し入れが為されている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こんな風に、れんだいこさんは、まとめています。
上↑「この頃から金米糖を御供えとして渡す。」は、「御供え」では無く、「御供・ごく」です。

秀司は、「明日・あすにち」を、一日は一年と判断し、一年後には、信者組織を「講」としてかたちづけ、自分は「本部」の役割をうけもって、「御供」を渡す役割に位置づけたと言うことです。

「あすにちからわ をふくハんのみち」という、「予言」を形にしてみせた。
それは、「信じていない人間のナス行為」とみなした方が、的を射ているでしょう。

「夜」だとしか認識できないから、「真明講」と言う、明かりを、付けて見せた。

宗教家のやりがちな、予言の実現加工ですが、
そういう、作為的な「信仰行為の美化」をする時に、

>「信仰」「教育」「訓練」「伏せ込み」「忍耐」「執着心を取り去る」「仕込み」等々の<美名>が付けば
> それは、まさしく、こころを暗くしてしまう。「こじまつ」そのものと、言えましょう。
という、暗い精神文化を、育ててしまう。

おやさまのお言葉を信じるのなら、素直に信じる事。
信じないけれど、信じられないけれど、何とか信じた形を作ろうとする。
それは、「美名と嘘」のブレンド。

「一日を一年」と読んだのは、「理」を利用した態度。
しかし、おやさまを疑ってしまいつつ、お言葉を行おうとする。
その不自然さが、「小始末」。
大きな始末が出来ない、人間心のあざなさというものでしょう。
0283基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 02:44:28.52ID:4cjCf34b
親神の言う事がうそなら、それは親神ではない。
インチキ神。

それにしても、国家権力相手に、「神」と「上」の力比べだと、大口叩いては、拘引され留置される実母さんのおかげで、誣告され自分までも、拘留された。
そういう境遇。
権力の支配の対象に自分までも含まれていると知った秀司には、組織の合法化以外頭に無くなった。
秀司の「応法」の道とは、その悪しきは、講社を組織化するまではともかく、本部に「真明講」をおいて、上下関係として組織化した事にあります。

理の親信仰の原型は、秀司が作ってしまっていた。
「こじまつにする」という宣言を発したことそのものが、「一列」ではない、高慢因縁の発露そのものであった。

そういう秀司が組織した講は、同じ因縁の支配欲によって、一度は隆盛となっても、元の形もあとかたなく、霧散してしまったと、言うべき運命をたどるのでした。

秀司が信じられなかったもの。
それは「神」のお働き。
お筆先の予言は、嘘なのでしょうか。
確かめておかねばなりません。
0284基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 02:50:11.19ID:4cjCf34b
実は、今まで気が付かないでいたのですが、それは、
お筆先三号の1、の文字表記の事でした。

お筆先十三号も第一首の一のおうたは、

「4月28日九どきより 
 一けふまでわなにかしんぱいしたなれど
 あすにちからわ をふくハんのみち    」 十三号1

と、こうあります。

今まで気が付きもしなかった「一けふ」という表記に、「アッ」と、「けふ」では無く「一けふ」だと、
と、言う事は、・・・

お筆先十三号も第一首の一のおうたは、
明治10年の陰暦4月28日、それは、陽暦では1877年6月9日執筆です。「けふまで」と、執筆されていません。「一けふまで」と、執筆されています。
「けふまでとは立教からの38年と数月」。
それを一単位としますと、「一けふ」と一かたまりにて単位と出来ます。
それなら、「一けふ」「二けふ」と数えられます。

「一けふ」「二けふ」と数えますと、このお筆先の執筆されました明治10年陰暦4月28日までの「一けふ」から、次の「二けふ」までは、38年と数月後のこと、
もともとは日数ですから、日数で言いますと、39日。
それが「一けふ」済むと「二けふ」。に相当しますから、
お筆先第十三号執筆の立教40年(1877年6月9日)から、39日後は、立教79年になりますから、「あすにちから」とは、立教79年目からと悟れます。
その年、悟りとして「二けふ」に該当する年。立教79年。
官憲によって、ゆがめられていた「朝夕のおつとめ」は、復元されました。
「みかぐら歌」本が、公刊されました。

一けふまでわなにかしんぱいしたなれど
 あすにちからわ をふくハんのみち    十三号1

これは、お筆先の予言の通りに、実現しています。
0285基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 02:55:53.59ID:4cjCf34b
基本的な数理を、整理してみます。
4月28日九どき
この数字ですが、
3625 は、(3×6)+(2×5) で、28年の基本数理で実数で数えました。

その実例にならいますと、
(4×2)+(8×9) 80年の基本数理が、一つ考えられます。
1877年6月〜 1年目
1956年6月〜 80年目  稿本天理教教祖伝 公刊。

おやさまのお歳で申しますと、明治10年は八十才です。
お誕生日は、4月18日です。このお筆先は 4月28日です。
正月26日はおやさま、2月26日は御本席様にゆかりがあります。
そこで、18→28という理は、一段二段ですから、
ご誕生から80日が明治10年で、このお筆先。
その80日に、稿本天理教教祖伝 公刊。
二代真柱様が、お筆先の数理をご承知のことと、拝察します。

二段目に入っていると言う、お知らせと感じます。
0286基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 03:40:42.25ID:4cjCf34b
元を本部から数えると言う基本もあります。

本部からの4年は、「教祖存命についてのおさしづ」
この時、それがちゃんと理解され、実行されていたら、「昼」であった。
だが、高慢因縁に、「教祖存命」、それを教団幹部自ら否定してゆく「夜」。

本部からの32年は、
本部1年目は1888年4月〜
本部4・28の32年目は1919年4月〜  財団法人天理教会本部となる

本部からの41年は、本部1年目は1888年4月〜
そして、4・28・9の41年目は1928年4月〜 昭和3年おふでさき公刊・おふでさき講習会。

222の五は、2月22日で、立教五つの理。
又、(2×22)+5の理 で、49年の実数が基本の数理でした。 

その実例にならいますと、4+28=32
1877年6月〜 1年目
1908年6月〜 32年目   天理教一派独立認可  

おやさまは、人間の親だから、絶対に「上」よりも、偉いと、
なぜ、そう思えなかったのか。

ここに、初代たちの信仰の限界が見えてきます。
それは「甘露」ににっこりと、笑顔にて、楽しめない、わが身思案の限界と言うものです。
0287基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 03:44:13.18ID:4cjCf34b
説き流しの時代には、そばの人々は、神様の言葉を聞き取りもしなかった。聞いても忘れてしまった。
当然ながら、大きな意味での「昼」には、ならなかった。
そして、実の箱時代の中の、2である、「おふでさき執筆時代」になって、
「九が無くなる刻限」を迎えた、それがお筆先13号執筆の「刻限」だったということで、
「四月二十八日」という、月日で、四の数理は「四つよんなか」「ようき棟梁」・・
八の数理は「八方に開く」「山の中」「屋敷は神の・・」・・。

そこで、おやさまの年齢八十歳の誕生日は「四月十八日」でこれが、一段。
二段目にあたる「四月二十八日」という、月日にて、「よんなか」・40年の一区切りの刻限を、お知らせ下された。

この、四・28の数理は、4+28は、32年で、お筆先執筆開始の数理でした。

改訂版天理教辞典の「夜昼の理」には、次のお言葉が引用されて、解説があります。
「二十六日は夜に出て昼に治まりた理。」29/2/9。
・・・・・・・・・
解説では、夜に出てとは「立教」の事で、昼におさまりたとは「扉を開いた」事だと言います。

おやさまのご誕生は、6月2日五つ時、つまり、222 2の五つ。
昼の理にて思案すれば、おやさまのご誕生そのものが、すでに「昼」であったと、明白です。

おやさまは、ここまでも数理に厳然として、お生まれになられた。
そして、数理に厳然として、お筆先を知らされた。

子供可愛い一条のおやさまの「陽気」に、「昼の理」は満ち溢れていると言うことです。
0288基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 03:59:52.37ID:4cjCf34b
夜昼の理については、「昼」の理がわかることが大切と、認識するのが基本です。
おさしづには、

明治二十三年八月十二日 午後八時
本席御身上願
さあ/\尋ね返やす。又さしづせにゃなろうまい、幾重さしづせにゃなろうまい。分からんか/\。さあ/\身の障り/\、歌のように聞くようではしょうも無い。
どのくらい刻限聞かしてある/\。その場だけ/\理は無いと思う。なか/\いつにこうであって、思て居る者もある。
歌のように思て居ては、ばったりより仕方が無いで。
さあ/\尋ね出る。どんな事聞かしても分からん。
前々一寸さしづ、さあ夜と昼と、夜昼、夜は判っきり分からん。
夜という柔らかい事、さしづ何をすれど、昼その理さえ分かれば、思うようになる。どんな事でも自由自在。
千に一つ悟りくれにゃならん、万に一つ悟りくれにゃならん。小人三才、一寸些かな事である。尋ね尚分からん、よう聞き分けにゃ分からん。
同時
さあ/\身の障り/\、尋ねる話、その場に書き取りその場だけ、生涯のもの。
聞く時後の心どうもならん。
その場の結構は分かるけれども、後の結構は分からん。
身の障り/\、幾日でも、どんなに休んでも、そのまゝ三才子供、放って置く事も放って置けよまい。

さしづ何をすれど、昼その理さえ分かれば、思うようになる。どんな事でも自由自在。
千に一つ悟りくれにゃならん、万に一つ悟りくれにゃならん。

おやさまが、この世にお生まれになって、それは昼の理。
この原点を、しっかりと思案したいと思うは基本です。
0289基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 04:06:06.09ID:4cjCf34b
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、及び国家神道の信徒諸君、一神教は都合の悪い事実を隠し、歴史を捏造する悪い癖がある。

(注.薩長開宗の「国家神道」はその開宗目的からしてもキリスト教らと全く同質の「和製一神教」です)

宗教を支配・統治に利用するという為には、一神教は利用しやすい。
因縁的に言うなら、モーゼのマジック、エジプトの神官のテクニックそのものが人心を惑わすものでありました。
過ぎ越し祭りの、起源そのものの手法、そこには「つくり策」という、おやさまのお嫌いなものが、混じりこんでいます。

おやさまが、日清戦争・日露戦争の予言を書かれたのは、お筆先第四号でした。
777 74の数理にて、何年後の数理を示されていますが、そのことは、情報操作という「五月五日」の出来事に深くかかわっているわけです。

「夜」「昼」の理が、わからなくなってしまう。
そこには、高山の情報操作があり、軍国主義の背景があるということです。

 このひがらいつの事やとをもている
 五月五日にたしかでてくる      第四号3

 それよりもをかけはぢまるこれをみよ
 よるひるしれんよふになるぞや    第四号4
0290基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 05:07:36.81ID:4cjCf34b
>「明治二十七年七月二十六日 朝」
> 日清間事件に付朝鮮国へ人夫五百人本部より出す願
> ここにも、『事情はふでさきに写してある。今の間にも見えると伝えて、どうでも是非々々残念を現われにゃならん。』と、
日清戦争の事情は、おふでさきの予言の実現である事が知らされています。
> 『幾日日柄月柄楽しう理了い次第と言うてある。』
> 『五月五日より始まると言うて、今見えるというも何年以来に伝えてある。』
> ここに示されているのは、おふでさきに五月五日と知らされたものは、今の事情なのだよという、明確な内容です。
>

先ず、おふでさき六号に知らされた「五分五分として成人した」、これが、明治27年の事情を、あらかじめ知らしていたことは、お分かり頂けたと思います。
> 『幾日日柄月柄楽しう理了い次第と言うてある。』
これは、おふでさき十号のおうたを直接的に示しています。
 このひがらいつころなるとゆうならば
 たあのしゆりをしまいしだいに   十号16
そして、「ひがら」とは、おふでさき四号にしらされてありました。
 このひがらいつの事やとをもている
 五月五日にたしかでてくる     四号3

> 『五月五日より始まると言うて、今見えるというも何年以来に伝えてある。』
この、五月五日よりというものが、おふでさき四号3、に知らされたものであり、それが、日清間の事情であると言う事をしめしたものです。
0291基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 05:12:33.01ID:4cjCf34b
第四号、七十七歳老女 明治7年4月。 (←扉に記載)

1年目 1874年4月〜  
お筆先四号 77歳 7号 7年  4月 予言

4年目 
1877 西南戦争 
[(2月から)9月24日 西郷軍敗戦]

4+7=11年目 
1884 秩父事件 
[(10月31日)から11月9日にかけて、農民武装放棄鎮圧]

7+7+7=21年目 
1894 日清戦争
[(7月)から1895年(4月)、日本勝利]

7+7+7+4+7=32年目
1904 日露戦争[(2月6日)から (明治38年9月5日)日本勝利]

4×7=28年目 
1901年 日本初の社会主義政党。治安警察法によって禁止された。


7+7+4=18年目
1891年 足尾公害事件 第2回議会(1891年11月26日開会)田中正造議会闘争。
0292基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 05:15:26.41ID:4cjCf34b
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 ノ−┬⊃ ̄ ̄.\/  ̄ ̄  <二 イ:;|;:;:;:;'、:;! ̄ ̄|:;:/;:;:;:;   【2018】

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  i::::::::::::::〆 /⌒ ::::/       /::::::/ .,,=≡, ,,≡=, l::::::|
   (ili -・=V  =・- V)     i::::::l゛ .,-・= ,!. =・- l:τ
   ゚li "  (・_・)ヽ l*     |:::::|  :⌒ /.. iヽ ⌒u|:i
   )人   ⇒ ( 人(      (i::i″   ,ィ__)   i/
   _ __:ヽ、__  __,イ__        ヽ  U / ::::/:::〈  |
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 |:;:;:;:\;:;:|| | <  __)ゝ__人: : : : : : : :▽// _つ 【2022】
0293基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 05:21:40.34ID:4cjCf34b
おやさまは、「この夜」を「昼」に、陽気なものに立て替えるために、「昼の理」の数理、刻限に誕生され、立教された。
それは、お釈迦様の悟り、イエス様の愛として、それまでにも教えてきたものであったが、
宗教組織は、政治権力そのものとなり人を支配する「高山・谷底」の統治術を駆使する側にまわり、
お釈迦様やイエス様の教えすら、統治のマジックに利用されている。

日本の「天皇」を一神教にみたてた、政治制度も、その例に他なく、日清、日露へと国民は誘導され、
それが「夜」なのだということは、第二次大戦の敗戦まで、国民は自覚できなかった。
現在も、「おかけ゜」信仰は、続いていて、お払いさんが降ると言う、「夜」の理は、はびこっている。

忘れてはならないのは、おやさまは、この世に「昼」の理をお知らせに来たということです。
0294基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 05:33:36.78ID:4cjCf34b
> 明治二十三年八月十二日 午後八時
> 本席御身上願

『さあ/\身の障り/\、歌のように聞くようではしょうも無い。』
『どのくらい刻限聞かしてある/\。』

この世界は理責めの世界。
お筆先に刻限を知らされていても、「すばらしいお歌だ」と、歌のように聴いていて、理として聞かない。
それでは、「理・神」がわからない。

『その場だけ/\理は無いと思う。』
お筆先のお歌なんか、その時のその場だけのものだと思って、「理責めの世界の理」なんか、無いと思っている。

まさに、教団信仰者の実態をずばりと、突いています。
山名系天理教学、天理神学は、一神教の悪因縁である「詐術」「装飾術」に長けていて、最悪であり、まるで、お筆先の理を、重い刻限という理の思案が無かった。
現在までも続いている「理の親信仰」は、その宗教家の悪因縁そのものということです。
0295基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 05:39:26.84ID:4cjCf34b
> 明治二十三年八月十二日 午後八時 > 本席御身上願
『なか/\いつにこうであって、思て居る者もある。』

なかなかと言うのは、ひながた時代では「秀司先生・小寒様」を示します。

中には、と訳しますと、ひながたでは「何時にこうであって」と思っているものがいる。
そういう意味になります。

『なか/\いつにこうであって、思て居る者もある。』
でも、中にはという中にも、「なかなか」の者という深い意味があります。
そういう刻限・数理の思案をしてきた者が、いたということ、示されているわけです。
それは、二代真柱様のように、「なかなか」いない限られた人たちであったと受け取るのが、基本です。

『歌のように思て居ては、ばったりより仕方が無いで。』
理を理としてわからない、悟らないでは、ばったりより仕方ない。
道は途絶えてしまう。

『さあ/\尋ね出る。どんな事聞かしても分からん。』

『前々一寸さしづ、さあ夜と昼と、夜昼、夜は判っきり分からん。』
0296基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 05:44:56.91ID:4cjCf34b
> 『さあ/\尋ね出る。どんな事聞かしても分からん。』
> 『前々一寸さしづ、さあ夜と昼と、夜昼、夜は判っきり分からん。』

お言葉に「赤衣は赤衣につれられ、黒衣は黒衣につれられ」とあります。
おやさまの教えというのは、赤衣。
しかし、それに黒い衣装を着せろと命じたのは「高山」です。
法律に応じる道として応法の道は、実は本席の時代。
つまり、「黒衣に連れられ」と言うのは、天理教会の細道の時代。
これも、別の予言があることは、2ちゃん天理スレに投稿してあります。

この時代は「神が世上の道理を通す、通させる」と、通させた時代。

その認識で、受け止めなくてはなりません。
「なかなか」の者、「なかなか」の人にしか、お筆先の理は、「理」として、認識されていなかった。
信仰者として、心の闇路にさ迷っていた。
それは、「昼のくらがり」、最悪でした。

『夜という柔らかい事、さしづ何をすれど、昼その理さえ分かれば、思うようになる。どんな事でも自由自在。』

『千に一つ悟りくれにゃならん、万に一つ悟りくれにゃならん。』

まさに、千にひとつも万に一つも、お筆先の刻限の数理は、悟られること無く、天理教団の暗黒の時代へと、戦争協力へと、突き進みました。
「世上の道理を、通りたがる」それは、「昼の理」がわからないからです。

万に一つでよい、千にひとつでよいから、お歌の理を、重く受け止めて、「昼」に生きること。

大切な基本です。
0297基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 06:42:46.95ID:4cjCf34b
「刻限」という用語については、ご存知だと思います。
「今なんどきだ」と、質問するという事は、「時刻」を訊ねているわけです。
刻限というのは、時間という意味であり、それは「月日」というもののもつ本質的な要素です。
人間の成長にも時間が必要で、「月日」の守護がないと、育ちません。
そこで、つまり、時間という意味ではあるけれど、刻限には格別な真意というものが託されてあるわけです。
一つの例としまして、原典の公刊という問題があります。

明治二十二年一月十五日(陰暦十二月十四日)午後六時三十分
[本席御障りに付願]
さあ/\/\身の障り、さあ/\どういう事を知らす/\。
さあ/\身上々々善悪を分ける。身の知らせ、身上の処、善悪の知らせ。
さあ/\長くやない、僅かの間。
先ず/\十日半月の間。
席はすっきり外へ出せんで。
さあ/\あちらへ歩き、こちらへ歩きするのを、一寸の処知らさん事には。
皆んなの中へ知らし置く。今日から十日半月しっかりと用心。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このように明確な数字が示されたおさしづがあります。
このおさしづは、明治22年で、一日とは一年ですから、
「先ず」という意味で、
明治22年とは、1889年です。
この時から、「先の」、十日と半月席は表に出すな、ですから、合計三十五日、
つまり35年間は、「席は出すな」ですから、
1889年の翌年から35年の隠蔽、つまり、1990年から1925年までの間は「席」については公にしなかった。
1926年 昭和元年 おさしづ公刊
このように、きちんとおさしづは歴史に実現していて、それはつまり、神のさしづは、歴史に実現していたという事です。

この例は、おさしづを予言として「時刻を示す」という意味で教団の歴史は生きているという事を、意味しています。
0298基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 06:45:05.24ID:4cjCf34b
> 基本の過去の投稿までは、たぶんご存じないと思いますので、この事について基本を申し上げます。
> 親神様は、予言をされています。 > 明治二十二年陰暦十月十日の事です。

それは、次のおさしづです。

明治二十二年十一月二日(陰暦十月十日)午後九時 [本席身上障り願]
さあ/\/\、一寸知らし置くで/\。さあ/\どういう事を知らし置く/\。
すっきり道理上を知らし置く。さあ/\道理上々々々、これから道理上、暫く道理上通らんならん。
難しい。よう聞き分け置かんならん。
これまでというものは、細い道を通して来てあるで。細い道を連れて通りた。
どうもならんから、世界一つの理によって、一寸世界往還道を付け掛けたで。
そこで皆々心許す。往還道通すと、どんと油断してどうもならん。
長い間、道理上の道を通れとは言わん。何年々々の切りを切りて置こう。
さあ/\一二三々々々の切りを切りて置こう。一二三の印を打って置く。
一二三の印の間、世界の道理上で通る。道理上ばかりで通す。
ようこれを聞いて置かねばならんで。
さあ/\多くの人が出て来る。
一時どうもならんと言うて出て来る。
諭す処、暫く世界の道理上の理で通らにゃならん。
一二三の印を打ったら、神一条の道、人間の道理上を以て世界という。
人間から世界の道理上を通らんならんようにするから、どうでもこうでも、道理上の道を通らんならんように成る。
皆心で拵えてあるのや。
さあ今の道、世界の往還道やで。
そこで何でも彼でも、どうもならんと言うたら、道理上の道からどんな理が発しるやら分からん。
油断しては踏み被ぶるで/\。
そこで世界の道理上から、道理上の道を拵えるから、道理上を通らんならん。
どうでも心で拵えてあるのやと思えば、どうも仕様が無い。
そこでどうもならんから、一二三と印打つ。だん/\難しいなる。
早く知らそうと思えども、昼はさわ/\して騒がして諭する事が出けん。
どうもならん。そこで刻限で知らす。
どうでもこうでも、言わにゃならん、聞かにゃならん、聞かさにゃならん。三つ理を。
そこでちいとこれだけの事を、知らし置くという。
0299基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 06:48:08.05ID:4cjCf34b
つまり、明治22年11月2日の午後九時と言うのは、
五つ時とは午後七時から午後九時までですから、つまり、
22 2(1+1) 2 の五つ時。
2222の五つに、
それは、陰暦の十月十日に、知らされた「重大な」お知らせでした。

史実としては、復元。三十年、三十年の予言で、教えの復元の予言は実現しています。
でも、それは、人類の「宗教」の因縁として自覚されるべきだと思います。
0300基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 06:51:42.55ID:4cjCf34b
「聖書には、先ず始めに言葉ありき」と教えられています。
デジタル大辞泉の解説によれば、
始(はじ)めに言葉ありき
《新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章から》創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった。
言葉はすなわち神であり、この世界の根源として神が存在するという意。
・・・・・・・・・・・・・

この事の意味ですが、「言葉≡ロゴス」なのですが、ロゴスはミュトスと対比される言葉、対句というようなもののようです。

『ミュトスに対して、ロゴスはある。
「空想」に対して「理性」があり、「物語る言葉」に対して「論証する言葉」があるのである。』
・・・・・・・・・・・
つまり、聖書冒頭の「先ず始めに神ありき」と言う言葉は、「先ず始めにロゴスありき」という言葉であり、
「理」があるという、意味になる。

ヨハネ伝の聖書の文言そのものが「先ず理ありき」と約されても、
意味として正しく、そして、イエス様は、天にては、父なる神の右手に、
いぬいの方向に位置していると言うことも、イエス様そのものから、語られている。
まさに、先ず始めに「ロゴス」あり。となる。

「神は理である、理は神である。」
「あると信じて願う誠に、見えてくる利益が神の姿である。」

それは「理」を信じると言うことであり、「理」が見えない世界とは、まさに、心の闇の世界。
おやさまが存命でおられるということは、「理」が理として、常にそこにあると言う意味をなす。
0301基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 06:54:13.49ID:4cjCf34b
> 《新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章から》
> 創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった。
> 言葉はすなわち神であり、この世界の根源として神が存在する

> 聖書冒頭の「先ず始めに神ありき」と言う言葉は、「先ず始めにロゴスありき」という言葉であり、
「理」があるという、意味になる。
これは、「先ず始めに言葉ありき」の、間違いでした。

先ず始めに言葉がある。
その言葉とは「ロゴス」であり、それは、物語ではなく「理」であること、
お筆先が、まさに、「この世は理で責めたる世界」だと、示している通り。

即ち、原典とは、「理」であって、物語ではない。

聖書と言う「こふき」を有しながら、大工のイエス様の教えを、宗教高山と政治高山の横暴で、泥海にしてしまった、
しかし、「土壌」は、あるのです。
「どぢょ」は、土台となるべき「序」は語られていて、「こふき」として、あるのです。
謙虚に、大工のイエス様の教えに耳を傾けないとすれば、それは、こちらが宗教高慢だということです。

三十一歳で「宮清め」したイエス様の、実行力こそ、天理青年の手本だと、そういう見方も、正しいと思います。
0302基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 06:57:26.90ID:4cjCf34b
「歌のように思っている」
「賛美する、賛美歌」

同じなのです。
山名系天理教学は、「いままでも神学こふき」と、お筆先にありますように、イエスの言葉を口記した書物を、「聖書」と美化するのも宗教高慢であるように、
「天国へのの道」とか「人間完成の道」と言うのは、みな、「ミュトス」であって、「ロゴス」でない。

何かを犠牲としてその代償に幸福を得ようという思案こそ、大工のイエス様が、お掃除したかったもの。
人は、陽気ゆさんをする為に、この世に生まれてきたのです。
陽気に暮らすには、「歌」よりも、先ずはじめに「理」「言葉」。

私たちには、お筆先があります。
原典があります。
真に、申し訳の無いことです。
0303基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 07:08:27.06ID:4cjCf34b
日清戦争 お筆先四号の予言 7+7+7 で結果  見えた姿・戦勝
日露戦争 お筆先四号の予言 4+4×7 で結果  見えた姿・戦勝
太平洋戦争 お筆先四号の予言 (4+7+7)×4  見えた姿・敗戦

このように、勝って「昼みたいに」負けて「夜みたいに」と、
 
『夜昼知れぬ用になるぞや』

日本の敗戦は、お筆先四号の数理の世界でした。

「7」の神様の嫌いな埃は「欲」。
「4」の神様の嫌いな埃は「腹立ち」

七の組み合わせとは「欲」の原因。
四の組み合わせとは「はらだち」の原因。

日清戦争は、侵略という「欲」のトリプル。
日露戦争は、ロシアへの腹立ちのダブルに、「利権の欲」かけあわせ。

太平洋戦争は、(4+7+7)×4
腹立ちと欲と欲を合わせておいて、そこに腹立ちが、掛け合わされた。


ちなみに「西南戦争」は、腹立ち、士族の怒りが原因と、数理は、きちんとしています。

「歌のように思っていてはならない」のです。
0304基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 10:37:17.54ID:4cjCf34b
おやさまは、権力の情報操作に対して、このように思想を示しています。

「人間の身体にたとえて云えば、あげ下しと同じようなもの。あげ下しも、念がいったら、肉が下るようになるほどに、神が心配」

国民の不満を煽り立てて「4」の理の「埃」。「腹立ち」。
国民の欲をかき立てて「7」の理の「埃」。「欲」。

それが、「お払いさんがふる」と言う、宗教的マジックで薩長は明治維新を成功させた。
「欲にきり無い泥水」という、「高山」の理の間違いは、「富国強兵」に国民を、
そして、「帝国主義の天皇制」を構築します。

同様の欲があるから、天理教内高山は、戦争協力に走った。
これをとことんさんげしないと、心の闇は、晴れないということです。

 はらだちとは、「理をたてないで、われを立てて、腹を立てる」のです。
 よくとは、「散財のない」姿。

甘露を、頂いて、それを神の理とも思わず、自分の権勢に、支配に用い、人に腹を立てて、
欲に切り無くなれば、戦争を起こしてしまう。
天理教団こそ、肉がくだらないように、いんちきな教理は説かないような、理のある姿に、立ち返るべきなのです。
つまり、情報操作も念を入れると、国民の生命にかかわるという思想です。
0305基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 10:41:28.90ID:4cjCf34b
予言と言いますと、何時に何が起きるという予言だと、そう認識されています。
しかし、何がおきるかは、実は人間が決める。
その、心の理の結果として、結末が待っているわけです。

「五月五日に」と言う理は、「五つ理を吹く」です。
そして「五分五分」です。

まいた種が生え来る。それが「五つ理を吹く」の五日の理です。
その、理の吹く旬に、神の残念を見ると言うのは、それは「埃」を積み上げたと言うことに相違ないわけです。
そんなことしてると、いつか、神の残念を見るよと、言うのは、「いつか」・・「五日」。
そして、それは、五分五分。
天理教信者であれ、なかれ、みな五分五分。
理には隔ては無い。

そして、五の理の神様は、くもよみさま。
情報とは「五の理」。
それを、捜査して、人の心を惑わすと言う悪は、「高山」の悪そのものです。

おやさまの、おふでさき四号の予言は、人間が、「四の理」と「七の理」を、誠として通らせて頂いたのか、
それとも、埃として通ってしまったのかと言う、結末になるのであり、
それは「夜」か「昼」かは、心次第の道と言うことです。
それには、隔て心の無い世界、情報操作に惑わされない世界が、実現されなければならない。

一列兄弟とは、実に、重い教えです。
0306基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 10:44:12.16ID:4cjCf34b
江戸時代の中ごろから、領主のきびしい年貢の取り立てや引き上げに対して、
農民が集団で反抗する百姓一揆が全国で増えてきました。
郡上郡でも、宝暦郡上一揆 ほうれきぐじょういっき と呼ばれる一揆が起こりました。
1754(宝暦4)年、郡上藩主金森頼錦
かなもりよりかね
は、藩の財政難を解消するために、年貢の取り方を、それまでの定免取り
じょうめんどり
から検見取り
けみどり
に変えようとしました。農民たちは、これに反対して、団結して一揆を起こしをしました。
藩では、きびしい弾圧をして、検見取りを行おうとしましたが、
農民たちも、激しく抵抗し、4年もの長い間一揆を続けました。
この一揆は、藩主から農民まで、一揆にかかわる人すべてが処分を受けるという、類のない大事件でした。
そして、百姓一揆が原因で、幕府の首脳部まで処分を受けたのは、江戸時代を通じてこの事件だけでした。


……郡上藩の百姓が、130人も牢屋
ろうや
につながれ、男たちはちりぢりになって一人もいなくなりました。江戸でも40人余りが閉じこめられ、村に残された家族も難儀
なんぎ
しています。
郡上藩は、山に囲まれ、土地がやせている上に、寒さやけものの害が多く、毎年不作で困りきっています。
わたくしどもは、なんでもかんでも検見取りに反対する気はありませんが、
こんなに年貢が重くなってはどうにもなりません。わたくしどもの願いをお聞きくだされば、検見取りのこともお受けいたします。
まず、牢屋につながれている百姓たち、へやに閉じこめられている百姓たちをときはなしてください。
その上で、わたくしどもの訴えごとをお取り調べください。
0307基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 10:48:29.11ID:4cjCf34b
「高山」の「真の柱」はとふじんである。
このお言葉の意味するところは、人間社会の「幸福けにとって、銃ぬ゛異な意味を持っています。
根本的には「支配者層は、何もわかっていない」という事を意味しています。

「とふじん」=「からの人」=何もわかってない人。

何もわかっていない「高山」は、思想として「宗教」を心の支えにしている。
と、言いますか、行動原理を「宗教」においていて、自分がモーゼであろうとし、マホメットであろうとし、キリストであろうとする。

そこで、例えば「天国と地獄の紋の鍵を持つ人」。キリスト社会で言えば「法王」のような、
「神のおそばに仕える人」・聖人ペテロの後継者がいて、「神の剣を行使する人」聖人パウロの後継者が、存在することになる。
「支配層」は、神の代理人として、権威を有しているという、それが、「とふじん」社会の実態ということです。

この時、神の子イエスも「偶像」であり、「救済」という幻想を大衆に与え続けるという意味で、幻覚剤・アヘンのような役割を果たしています。
それば、「宗教」はアヘンだという意味となります。

宗教儀式は、「五輪」のように、それを見ていれば「一列」の平和と幸福のシンボルなのですが、
「マスゲーム」のようなものだと、さめて見詰めれば、この世に幸福を与えるという、とふじん的おもいあがりの、
「支配層」の、地上楽園演出の道具だということは、見えてしまいます。
それゆえに、マスコミは賛美し、スポーツは実は管理されているという、現象を生んでいます。
0308基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 10:52:30.56ID:4cjCf34b
陰暦の正月二十六日。二月二十六日。三月二十六日。
この、一、二、三について、確かめておきます。

陰暦の正月二十六日、扉が開かれました。
さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。
よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、
子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。
しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。
扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。
さあ、これまで子供にやりたいものもあった。
なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。


明治二十年三月二十日(陰暦二月二十六日)午後一時三十分
刻限御話
一寸正月二十六日、これまで話てある。
さあ/\事を始め。
二月二十六日というは、今初めやで。多く始まり、追々。
さあ/\今一時世界も分からず、世界も不思議や。
それ/\の道一寸付け掛けた。
0309基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 10:55:07.49ID:4cjCf34b
「高山」の「真の柱」はとふじんである。
このお言葉の意味するところは、人間社会の「幸福けにとって、銃ぬ゛異な意味を持っています。
根本的には「支配者層は、何もわかっていない」という事を意味しています。

「とふじん」=「からの人」=何もわかってない人。

何もわかっていない「高山」は、思想として「宗教」を心の支えにしている。
と、言いますか、行動原理を「宗教」においていて、自分がモーゼであろうとし、マホメットであろうとし、キリストであろうとする。

そこで、例えば「天国と地獄の紋の鍵を持つ人」。
キリスト社会で言えば「法王」のような、「神のおそばに仕える人」・聖人ペテロの後継者がいて、
「神の剣を行使する人」聖人パウロの後継者が、存在することになる。
「支配層」は、神の代理人として、権威を有しているという、それが、「とふじん」社会の実態ということです。

この時、神の子イエスも「偶像」であり、
「救済」という幻想を大衆に与え続けるという意味で、幻覚剤・アヘンのような役割を果たしています。
それば、「宗教」はアヘンだという意味となります。

宗教儀式は、「五輪」のように、それを見ていれば「一列」の平和と幸福のシンボルなのですが、
「マスゲーム」のようなものだと、さめて見詰めれば、この世に幸福を与えるという、
とふじん的おもいあがりの、「支配層」の、地上楽園演出の道具だということは、見えてしまいます。
それゆえに、マスコミは賛美し、スポーツは実は管理されているという、現象を生んでいます。
0310基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 10:58:12.21ID:4cjCf34b
陰暦の正月二十六日。二月二十六日。三月二十六日。
この、一、二、三について、確かめておきます。

陰暦の正月二十六日、扉が開かれました。
さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。
よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、
子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。
しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。扉開いてろっくの地にしようか、
扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。
さあ、これまで子供にやりたいものもあった。
なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。


明治二十年三月二十日(陰暦二月二十六日)午後一時三十分
刻限御話
一寸正月二十六日、これまで話てある。
さあ/\事を始め。
二月二十六日というは、今初めやで。多く始まり、追々。
さあ/\今一時世界も分からず、世界も不思議や。
それ/\の道一寸付け掛けた。
0311基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 11:01:31.95ID:4cjCf34b
明治二十年三月二十日(陰暦二月二十六日)午前四時
真之亮代理伺
幾重の話聞く。大工というて知ったは神一条、仕事場は神一条、北は鍛冶屋南は大工で、神一条。
さあ/\尋ねる処事情知らす。
又々心で知らし置く。
どうでも皆その日来るなら、働きも十貫目渡るもあり、二十貫目渡す者も皆心次第。
これ心尽せし程、目札を付けて渡す。さあ/\付けるとも。刻限事情を知らす。
大勢ではざわ付く。誰が筆執れは言わん。
さあ/\一人ではよいのやで。大層せいとは言わん。神のさしづ言わん。
・・・・・・・・・・・
この、一、二、三のうちの、二の段階については、どのようなものであったかというと、全く、神意に沿えていないものでした。

おやさまは、世界一列をたすける為に道を開始された。(一月二十六日)
そして、大工と鍛冶屋の・本席と真柱の、おさしづに基づいての、
世界たすけの道は、おやさまの神名すら説けないと言う、まさに、理に反したものでした。

謀反同様の、教団幹部の間違いについて、二月二十六日に、
親神様は、次のように、おさしづされています。

 手遅れ/\。だめの諭と言うたる道は、先になりても立つ。

明治四十年四月八日(陰暦二月二十六日)午前六時 のお言葉です。
0312基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 11:13:37.82ID:4cjCf34b
明治四十年四月八日(陰暦二月二十六日)午前六時
未だ御身上すっきり致しませんが、何か運ぶべき事ありますか、と申し上げ

手遅れ/\。だめの諭と言うたる道は、先になりても立つ。
内々や。
何時どういう事出来るとも分からん。
人間というは死すると言う。生まれ更わり。
何年居たとて同じ事/\。
もうこれ暫くの処、どういう事も幾年間なる。何年したらどうなる。皆力を付けてある/\。
皆々よく差し入ってくれ/\。
そうして内々の処、こうして三軒棟を並べてある。
一軒の方/\立ってない/\。立たんとすれば楽しみも無い。これも第一長らえての道、余程大望な事である。
治まり無いと言えば、有るも無きも同じ事。

押して、三軒棟あって一軒立ってないという処、此辺如何の事でありますかと願

西に余分々々、余分は一人あるわい。一人こちらへ/\。
それが気に合わんとすれば、今限りやで/\。
ウヽヽヽヽ。
もう立て合いの日の立て合い/\、日の立て合いは正月二十六日、二月二十六日、これ日の立て合いや。
さあ/\何かの事も自由と言うてある。自由。

理の親信仰というものがはびこって、おやさまの元の理をないがしろにした天理教の幹部たち。
おやさまは、厳しく、理を責めておられます。
0313基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 11:58:10.34ID:4cjCf34b
おやさまの、「昇天(死)」の日は二十六日であるという事は、存命中から、知られている事でした。
そして、明治二十年の正月二十六日でした。
おやさまは、予言どおりに、その「二十六日」と言う日に、お体つめたくなりました。
それは、本席と真柱の神一条の開始の二十六日、二月の二十六日への一段という「だんだんの道」を、到来させるものでした。

しかし、本席おさしづの時代は、応法の道であり、その応法の道は、人間の自分勝手な道そのものとして、
世界一列をたすけたいという道ではなく、天理教団の内内さえ順調ならよいという「教団組織エゴ」の横暴がはびこり、おやさまの教えそのものを歪曲化し、
政治権力と迎合しての「とふぢん」のままにする「から」に、陥っていたという事です。

親神様は、教団幹部の願いが「わが身の内内の幸福」にしか無いと、見抜かれていて、第二段に相当する「二月の二十六日」に、
「組み換え」を宣言されています。

明治二十年三月二十日(陰暦二月二十六日)夜十時
刻限御話
それ/\聞いて一寸問い、組替え楽し道なるや。
こうなる願の道、言う事ももうとっと楽しむ内々、刻限成る成らん、道何をして居るやら、こういうような事も言い。
聞き分け、よう聞き分け。
刻限延ばし、さあ/\思案。
五十年目に、目で見て改心。

日送りして言い、話して置く。
0314基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 12:01:06.84ID:4cjCf34b
本席が死を迎える三日前の、出来事として、「組み替え」の予言、「刻限のばし」の宣言、「五十年目に改心」の予言。
そういう、重大な内容である、「おさしづ」が、出されています。

まさに、そのとおりの人間であり、天理教団は「五十年後」どんな姿を見せられたでしょうか。
明治21年 1888年 天理教教会本部の開始
      1937年 応法の道 五十年目。

 1937(昭和12).7.7日、日中戦争(支那事変)勃発。

 「みかぐらうた」は、よろづよ、三下り目、五下り目が削除された。
おふでさき、おさしずも各教会から回収され、天理教教典のみを教義として時勢に協力した。

戦争協力の道にまいしんする事となったのは、神様から見ての残念そのものだと思います。
0315基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 12:05:16.98ID:4cjCf34b
「満足の理が世界。」
これが意味しているところは、極めて大切です。

明治二十八年十月七日 夜十時
さあ/\これ/\、今夜という今夜はすっきりしたさしづ、どんな事もさしづ通り用いらねばならん。
どういうさしづするなら、日々忙しい急がしいというは、どういう処から忙しなる。
皆んな出て来る。
満足を与える。
満足の理が世界。
今まで結構は分かりてあれども、この理が分からん。

おつとめの完成によって、甘露が降ると言う思案は、「応法」のようなもので、「結構」の理を教えてはいますが、
「満足を与える理」は、それでは分かっていない事になります。

天理教会が公認されて「結構な道」になったと、「結構な理」は分かったとして、
「満足を与える理」のための、天理教会なのだから、
天理を求めて来る世界からの人々に、「天理」を伝えるということ、「満足」させるという事を、第一にしなければならなかったという事です。
0316基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 12:08:05.83ID:4cjCf34b
> 間違っていると、親に教えてあげないと、子供が悪いという事になります。
それは、こういうおさしづがあるからです。

増野正兵衛及び春野たか身上の願
明治三十四年四月三日(陰暦二月十五日)
・・・ 年取れた者諭したる。こらどうでも成る。
なれど、伯父甥という。親兄弟も同じ事、深い中。
すれば遠く所からいんねん以て寄せる。
たゞめんめん若き/\だけ話し諭して、これまでと十分立て替えやろ。

めん/\芯という同じ心以て子を親が始末して、
又子が親を始末するが道理である。

繋いでしてあるが、めん/\親子同様、何処へもするのやない、彼処へもするのやない。
めん/\皆身に付く。
たんのうして年取れたる者どうでもなる。
この理分からん。年取れたる中、言葉優しくたんのうさすが台。
又日々暮し方何も分からせん/\

めん/\聞き取って又宅分けにゃならん/\。
何よの事十分々々してやるがよい。大層言わず/\、めん/\同じ事や/\というは、神が守護すれば神が話する。
神の話する事にどうやろかこうやろかではならん。
しっかり同じ子供に同じ暮らし方する程にと、めんめんも楽になる。

めん/\言わず語らず働きて居る。

同じ一つ心煩い/\、その心定めて、どうやこうやと、しっかり楽しみ付けてやるがよい。
0317基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 12:12:17.02ID:4cjCf34b
第3号 108
いまゝでハしよこためしとゆへあれど
かんろふだいもなんの事やら

このお筆先が、意味しているものを理解してみよう。
「先ず、いままでハ」の「ハ」、それから「ゆへあれど」と記されているから、
この三号108執筆以前には、と言う意味に理解される。
@「おふでさき執筆以前」A「おふでさき執筆中」B「おふでさき執筆以後」の、
一、二、三の「三段一つ」において、この状態があったという事であるから、
「しょこためし」とは、今までには言われていた。
それは、@、A、Bの全ての段階で言われていたという事である。

そして、しょこためしという事が言われていたが、「かんろふたいもなんのことやら」であったという事は、
甘露台とは、「しょこためし」の一つと言う意味に理解される。
「ためし」について、お筆先にはどのようになっているのか、ですが、

このよふのたしかためしかかけてある
これにまちがいないとをもゑよ
第3号 22
いまゝでハしよこためしとゆへあれど
かんろふだいもなんの事やら
第3号 108
いまゝでもためしとゆうてといたれど
もふこのたびハためしをさめや
第3号 134

以上の3首が、全て「三号」の中に記されていると分かります。

甘露台と言うのは、「証拠ためし」の一種類であって、「証拠ためしの試しおさめ」なのであると言う、
原典からの視点が、きちんと見えてきます。

「なんの事やら」では、「理の間違い」状態。
きちんと、その理と訳を、意味を、知る事が「理で責められている」わけです。
0318基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 12:15:10.37ID:4cjCf34b
悟りが無いのが、神様の残念であると言う、基本があります。
甘露台と言うものは、@お筆先執筆以前、Aお筆先執筆中、Bお筆先執筆以後と、
それぞれの段階で教えられていたが、それぞれの段階で、「なんの事やら」であった。
まさに、悟りが無いのが、神の残念です。

「ためし」というものは、「おびやためし」が基本です。
お筆先には、「上」に対するものとして「甘露台」のためしが、位置づけられています。

にち/\に神の心のせきこみを
そばなるものハなんとをもてる
101
上たるをこわいとをもていすみいる
神のせきこみこわみないぞや
102
むねあしくこれをやまいとをもうなよ
神のせきこみつかゑたるゆへ
103
たん/\と神の心とゆうものわ
ふしぎあらハしたすけせきこむ
104
このふしきなんの事やとをもている
ほこりはろふてそふぢしたてる
105
あとなるにはやくはしらをいれたなら
これでこのよのさだめつくなり
106
このはなしはやくみへたる事ならば
いかなものでもみなとくしんせ
107
いまゝでハしよこためしとゆへあれど
かんろふだいもなんの事やら
108

「上」をこわいと思う事にたいして、「甘露」という位置があると言うこと、基本として、心得るべき事です。
0319基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 12:18:12.13ID:4cjCf34b
「かんろたい」甘露台については、お筆先2号にて、その本質が語られています。

第2号 39
めつらしいこのよはじめのかんろたい
これがにほんのをさまりとなる

Mezurashii kono yo hajime no Kanrodai
Kore ga nihon no osamari to naru

Marvelous is the Kanrodai of this world's beginning. It will be the cause of peace in Nihon.
この世人間創造の理を現した珍しいかんろだいが建てられて、かんろだいのつとめが行われるようになったならば、
その霊徳により親神の真意がにほんに広まり、つづいて世界に行きわたって、一列人間は勇んで陽気ぐらしをするようになる。
・・・・・・・・・・・・・・
英文のお筆先と、日本文の解説には大きな隔たりがあります。

英文のお筆先は、「にほんのおさまり」を「peace in Nihon」と訳しています。
日本文の解説では「親神の真意がにほんに広まり、つづいて世界に行きわたって、
一列人間は勇んで陽気ぐらしをするようになる。」と、違訳になっています。
現在までの、教団教理の「あやふや」が、きちんと見て取れます。
0320基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 12:21:42.09ID:4cjCf34b
> お筆先には、「上」に対するものとして「甘露台」のためしが、位置づけられています。
そして、「にほんのおさまり」とは、「平和」という事を意味していると言う、それが英文訳にきちんと示されていると言う事です。

第2号 39
めつらしいこのよはじめのかんろたい
これがにほんのをさまりとなる

英文訳では「平和」は、「It will be the cause of peace in Nihon.」であり、未来形の表現になっている。
それでは「めつらしいこのよはじめのかんろたい」は、時間的にはどうかといえば、
「this world's beginning.」と、表現されていて、過去のものではなく、開始されている今の事として、訳されている。
つまり、「将来に立つであろう甘露台」というような、山名系教義や教団指導者の教理は、まるで陳腐なものだと理解されます。

「甘露台」とは、それが開始されたという事そのものが、日本の治まりになると言う、そういう性質を持つものだという事です。
0321基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 13:00:04.08ID:4cjCf34b
泥海世界にあって、人間の種にされたという「どぢょ」とは、
実体はどのような生物でしょうか。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ドジョウ科
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A6%E7%A7%91
分類
界 : 動物界 Animalia
門 : 脊索動物門 Chordata
亜門 : 脊椎動物亜門 Vertebrata
綱 : 条鰭綱 Actinopterygii
上目 : 骨鰾上目 Ostariophysi
目 : コイ目 Cypriniformes
科 : ドジョウ科 Cobitidae

ドジョウ科(ドジョウか)は、コイ目に属する科。
腹部は平らな形状を有し、底生である。およそ160種を数える。
ほとんどが雑食性の清掃動物(腐食動物)であり、通常何でも食べる。
主な食物は水棲の甲殻類、昆虫やその他の小型の無脊椎動物、およびデトリタスである。
一部の種は水質の良くない場所にも生息し、イトミミズなどを捕食する。
種によっては、空気を飲み込む事によって大気中の酸素を呼吸することができ、劣悪な環境に適応しうる。
一部の種は渓流など急流に生息する。

腐食性を持ちたいていの淡水の生態系に適応する能力があるため、本来存在していなかった地域にも移入し、
在来種を脅かす外来種として問題となっていることがある。
0322基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 13:03:11.63ID:4cjCf34b
↑ 底辺に位置している。

神話の世界として組み合わせると、「龍」←「鯉」←「どちょ」。
つまり、滝登りをすれば、鯉は龍になる。
その鯉の、最底辺の存在がどぢょです。
川底を綺麗に掃除してくれている、それが、どちょ。
侮るべきではないと思います。
「聖人」とは、底辺にいて、あたりを清めていて、どんな環境にも対応する。
まさに、「どちょ」とは、「聖人」、「セイント」。
そういう、意味があります。

お筆先には、人間をはじめかけるに神は、「どぢょ」を食して、その心根を味わい、種としたとあります。
どぢょとは、淡水性の「底生」のコイ科のうおです。
川底を綺麗に掃除する。如何なる環境にも対応する。
そして、滝登りをすれば、龍にもなれる「鯉」は、「節句」には「鯉のぼり」を立てて祝ってもらえるが、
谷底のどぢょには、何の祝福もない。
汚れにも、急流にも生息し、生活する姿は、まさに「聖人」のごとき、暮らしぶりです。


その、谷底に暮らす、「心清らか」な人たちを、「平和」のために、
甘露台の開始に用いると言う、そこに、「世界ろくぢ」のおやさまの理が貫かれています。

「どちょ」であり「鯉」であっても、「霊能・不思議」がなければ、「龍」にはなれない。
そこに、「どちよ」の清らかな心と暮らしぶりを見て、そして、
それを「平和」の為の戦士として活用すると言う「聖人」思想は、「聖人星矢」の原風景ですが、
谷底にいる「ブロンズ」に「小宇宙・コスモ」があるという発想の、もっと以前に、
おやさまは、「どぢょ」に「人間の魂」を見ていたと言う事です。
0323基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 13:07:40.93ID:4cjCf34b
甘露台については、神様は早くからお話しをされていたと思われます。
「大工が来る」と予言があって、そして伊降伊蔵さんが来た時には、八方の神が手を打って喜ばれました。
それは「神殿普請」の大工として利用したのは、人間の事情であり、おやさまは「甘露台」の模型を作成させています。
寒露台世界の普請に取り掛かる事のための大工であった事は間違いないのですから、「大工が来る」という事が予言されていて、
甘露台も予言されていたと理解されます。

その、甘露が降ると言う事と、「大社高山取払い」という事が、
一対の事情であるという事は、お筆先三号のお歌にも、一貫して見られます。
0324基本。
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2018/12/13(木) 13:28:54.05ID:4cjCf34b
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E9%9C%B2
甘露(かんろ)とは
中華世界古代の伝承で、天地陰陽の気が調和すると天から降る甘い液体。後世、王者が高徳であると、これに応じて天から降るともされた。

インド神話の伝承で不死の霊薬とされたアムリタを、漢訳仏典では中国の伝承の甘露と同一視し、甘露、あるいは醍醐と訳す。

つまり、天(の王)が、やまず死なず弱らずの「甘露」を降らせるという思想は、中国の陰陽五行思想に、あった。
その、台を地に(人が)の立てると言う思想は中山みきの思想の特質だと言う事です。

> 中華世界古代の伝承で、天地陰陽の気が調和すると天から降る甘い液体。
> 後世、王者が高徳であると、これに応じて天から降るともされた。
為政者に道を説いた孔子様が「陰陽五行」の理を説かれた。
それが「易経」。
高山に、王の徳に対して降るとされる「甘露」が、民の徳に対して天から降ると説いた中山みきは、陰陽五行の理についても、裏守護の中で、説いています。
「木火土金水」の五行を、五十音に当てはめて説いた教理本が、戦前にはありました。
五十音表と、陰陽五行の理を説いたのは、中山みきの「言語」思想の根幹にあるものを、感じさせるものです。
それは、弘法太師が、「真言」として、日本語を『理の音』と、五十音表に整理した「真言思想」を、
五行の理にてさらに理を明かすという手法であり、月日が教え来たる「陰陽五行」の重大性も、忘れては、天よりの甘露という思想は、理解できるものではありません。

どんなことも皆、口で言わせるというおやさまの思想は、その音としての、言葉そのものに「理」があるという、実を知らすことで、天理を知らそうというものであり、
「かなの教え」の、かなそのものに、「音」に「文字」に、「真」があるという、恐るべきオカルトを、示していたということです。
0325基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 13:33:19.65ID:4cjCf34b
『五臓六腑(ごぞうろっぷ)とは、伝統中国医学において人間の内臓全体を言い表すときに用いられたことば。
「五臓」とは、肝・心・脾・肺・腎を指す。』

貸し物借り物の教理として 当時の市販教理本には、こうあります。
『 腎は白、心は赤、脾は黒、肝は青、肺は黄色 』

この、「色」の部分は、もう少し考察の必要がありますが、色彩的にではなく記号的に見るのが基本です。

声の問題ですが、当時の市販教理本には、こうあります。

『五音の理』
『水声は、腎の蔵より発し、言語静かにして、余程長く伸びやかなるを腎声という。』
0326基本。
垢版 |
2018/12/13(木) 13:36:16.32ID:4cjCf34b
静岡県には、観光施設として「天理教山名大教会」が登録されてあります。
諸井国三郎が、その山名大教会の創設者である。
「国」と名が付いていて、「三」と付いている。
「国から」、諸井国三郎から開始された「国から」という道の、
「一二三」の「三」の天理の基本について、語る場を、静チャンネルに用意させて頂く。

諸井国三郎埼玉県幡羅郡東方村にて身上障り、おぢばへ登参の上願
明治二十年七月十四日(陰暦五月二十四日)
この時のおさしづに、
『皆神の自由、先々一つの講、国から/\国から来なくては渡られん。
さあ、それからそれ、一方の手続き、だん/\と話伝えも出来るであろう。』
と、神のお言葉があります。
「国からの国三郎」。と、呼ぶべきお方です。

諸井国三郎埼玉県幡羅郡東方村にて身上障り、おぢばへ登参の上願
明治二十年七月十四日(陰暦五月二十四日)
身の障り、何よの事も聞かしてある。しいかり思案。
いかなる道、どういう道、こうしたら早かろうか。あゝもしたら、早く開けたろう。さあ/\めん/\の思うであろう。
いかなる心、真実運ぶ処、身の内障り、どういう事か。
国々先々、いかなる事、身の内自由現われてある。
皆神の自由、先々一つの講、国から/\国から来なくては渡られん。
さあ、それからそれ、一方の手続き、だん/\と話伝えも出来るであろう。
どうせこうせ、言うでない。
国の処も第一、国から/\、だん/\の筋道。
目の前の楽しみ、その楽しみは短い。先の楽しみ、細い道のようなれども、先の長い楽しみ。
後で見れば、短い。先は長い楽しみの道。
よう思やんして、真実の楽しみ。あちらで抑え、こちらで抑え、通り難くい道も通る。
外々の道筋、心真実、一つ国々長い道中運び来た故、これからたすけの証拠、神の道、一つのさづけを渡す。
しいかりと受け取ってくれ。あしきはらひたすけたまへ天理王命、
三遍唱え、三遍づつ三度、三三九遍の唱え、このさづけを渡す。しいかりと受け取りて置くがよい。
又々の道もある。
心真実一つ先の楽しみがあるで。
0327神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/12/13(木) 13:39:41.02ID:r4kQk3rI
【創価学会は朝鮮族支配のカルトです】

オウムに人材と資金提供していたようです。
犯罪教団のお手本であり創価学会は、現世利益を看板にしてし、おびただしい数の出版物を半強制的に買わせる異常に気持ち悪い卑劣鬼畜外道ドブネズミです。

創価学会は、批判者や脱会者に対し、脅迫、尾行、見張り、嫌がらせ、怪電話、怪文書、暴行、傷害、盗聴等々、あらゆる犯罪的手段を用いて攻撃します。

創価学会を私物化した池田大作の野望は、日本の国家機構を乗っ取り、絶対支配者となる ということです。
同時に、創価学会は、司法界、官僚、警察、マスコミ界等へ、池田大作私兵を送り込む作業を長年にわたり組織的に続けています。

創価学会の会員は何かにつけ込まれ、無理矢理入信されられた方がほとんどです。
つまり、被害者なわけで救い出すチャンスはあると思います。
皆様とともに、どうしたら彼らを救い出すことができるかどうかを話し合ってみたいと思います。

池田大作を信じ、崇拝したところで、幸せが訪れるでしょうか?
創価学会は撲滅するべきです b

その他の入ってはいけない宗教
アレフ、統一教会、顕正会、エボバの証人、法の華

創価学会被害者の会 浪速建設 岸本晃(キシモトアキラ)
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