聖書を愛する俺だけど、釈迦の教えに救われたよ☆2
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平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。 スレたて乙、論文ネーム付け、このスレ1000来るまでもなく完了できるぞw ―山へ逃げよ―(マルコ)― イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず―(ルカ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗―(仏) □悪魔宗教が世を支配しないように信仰のあり方を教える ―世界の終極に達しないで苦しみを消滅する、と説くのではない〜世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となるであろう〜かれは、悪を静 めて、世界の終極を知り、この世もかの世をも望まない―(神々との対話) ―月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地について自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから解脱する(感興のこと ば) ―その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ〜これらの事が、ことごとく起きるまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。し かしわたしの言葉は滅びることがない〜その日〜だれも知らない〜また子も知らない〜気をつけて、目をさましていなさい―(マルコ) 離欲と何事も思い煩わない努めのみ、信仰ありとされる人間。世への善悪などを捨て去る汚れ無き心。 ―自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない(エペソ) ―どの方向に心でさがし求めても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれ自己がいとしいのである(感興) ―法にしたがって生き、恥を知り〜自分のなすべきことを行う人を、他人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである〜他人を訓戒せ よ、教えさとせ〜悪人と善人とは、死後には異なったところにおもむく。悪人は地獄〜善人は天上―(感興のことば) ―肉体を宿している間は主から離れていることを、よく知っている〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである〜人々に説き勧 める―(コリント)―主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい―(エペソ) からし種一粒ほどの信仰の無い者、何ももの信ずることなく信仰を捨て去った者が、誰でも自己がいとしいと理解し、他人に愛されるよう、自分のなすべきことを行う。 信じることを洗脳された者が、善悪を言い聞かされるならば、悪を憎む。宗教により対立したり戦争をすることもある。何も信じないが、それぞれ人間でいたいと生まれたこ とを何よりも尊重する人々は、争って殺しあうことも無い。 いいこと言ってんだけど もうちょっと文章を読みやすくしてほしい ■神とは この世の者ではない人々のみ。神の右の地上のものに心を一切引かれない人格。光り輝く神々(仏) ■人格で救われることは一切無い 月も照らさず、太陽も輝かない所でしか信仰はできない。人類はいつまでもその状態は続く。 しかし、世間もなく、人間の欲求を捨てた所で喜ぶなら、地上で最も近い。 ○世の欲得にあくせく思い煩わず、自分を偉い者と自任しない、まだ汚れの無い幼な子 ○今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちよく起き上がった(ブッダのことば) 「よい天気ですね」と挨拶できるような、世のことにあくせくせず、何事も思い煩わない心の状態が、神と永遠にあるものにつながっている。 「聖霊に満ち荒野」「森に住み心静まり清浄な行者」大自然を清々しいと感じながら、パワースポットと思う人々。つくられざるものを喜び、人間の手で作られた一切のものに 執着しない。何事も思い煩わない心の安らぎは、悪しき者・妄執を乗り越えたその人自身なのである。 ■人間とは 地上で罪をゆるす権威―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである(ルカ) ― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。かれは道から外れることは存在しない(神々との対話) ― この平安の境地に達して〜諸々のひとの家で貪らない。他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし、生けるものは、幸福であ れ、安穏であれ、安楽であれ〜母が己が独り子を命を懸けても護るように〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇高な 境地であると呼ぶ(ブッダのことば) 妄執に導かれた人間が勝手に信仰を作ってはいけない。 ◎◎◎一切のものが、悩み苦しみ思い煩いも無く喜びに満ちる境地、在る神と山を移すほどの力(神通力)が一つとして在る◎◎◎ 断食と祈り(目の前の人が思い煩わないよう良くなりますよう あわれみの祈り)を反映して、人間になりたいと生まれた人々が、例えば病気の治療に役立つ医者が先生と尊敬 され、患者が世の欲得から離れ安静にして病気の治療に役立とうとするように、天にある状態・地にある状態一つとして益をもたらすよう生み出された。 ■神といっても ―父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は〜真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである(ヤコブ) 肉は無→宇宙→地球→生物→性交→人間 と いうような、人間が無にならないとわからないパワーから、人間として進化した(偶像を抱けない新約の神のみが在る) ―愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制(ガラテヤ)それらの心のただ中にあるもので肉である人間をコントロールするように生まれたのである。 人間は自己が自分だと思っているが、獣と同様に肉であり、【この身は泡沫のごとくと知れ、しばしの間たちまち現れて消え行く霧に過ぎない】もので、それぞれが内的なもので 制するよう生まれた。そして益をもたらす。 ―異邦人が自然のままで〜彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして(ローマ) 皆良心で知っているはず。しかし、良心や正確な判断ができない者もいるから、彼らを救うために信仰対象となられた。洗脳ではなく、皆知っていることのみある。 思慮の書き込み止めるまで、書き込み休止します。 以上。 これだけは言っておく。 ―われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう(真理のことば) ―あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない(ヨハネ) ここで書いたのは、彼らからのメッセージだから。自分からのメッセージではない。 他者信仰といっても、地上のものに心を引かれない者のみ他者に信仰ありとされる。だから、イエスはこの世の者ではない姿で神の義とはどういう者かを人々に教えようとされた。 今、イエスも釈尊も離欲を達成しあわれみを善いと受け入れた弟子たちも、神の右の国にいる。 □人間は自立しないとゆるされることは無い 『聖霊に満ち荒野』『森に住み心静まり清浄な行者』のみ信仰ありと認めて下さる。 それ以外の人間は「からし種一粒も無い」人間である。在家の生活を営みながら、釈尊の修行僧と認められる者は、この世でもこの世以外の者でも認める者はいない。神への信仰も人間が作 った物を信仰したり、必要として喜びながら、神様信仰ありますと言える者はひとりもいない。 □修行完成者・神のわざであわれみの行いをされたイエス これは獣と同様、肉だけの滅びの者から、永遠の命への道につながる心ある人間にするためで、その言葉に反し人間が勝手に宗教をつくると獣の同じ運命となる。 ―ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で(真理のことば)―天に、宝をたくわえなさい。あなたがたのある所には、心もあるからである(マタイ) 修行完成者として一切の生きとし生けるものをあわれむ。修行完成できない者に神のわざであわれみの行いをされたイエス。それで善いところ、天につながる心を養うためである。 このことは真剣になって受け入れねばならず、人間が勝手に変化させてはいけない。人間は心の中で受け入れ、明らかにされたことで光を信じる。しかし、獣どもは別のものを求め、獣の運命 となる。肉を宿とした人間は、神から遠く耐え忍ばねばならないが=一切皆苦、耐え忍んであわれみの行いをされたイエスを善いと受け入れることにより、善いところに生まれる。 そして、地上も獣のような人間の行為で苦難を生み出すことなく、益をもたらすことができる。現世ではこの報いを受け、肉体を捨て去った後では、天に生まれることができる。 ※これは、人間の勝手な解釈からではない。 修行完成者を尊敬せよ、神のわざであわれみの行いをされたイエスを死ぬまで善いと受け入れ、言葉に従うことは善いと受け入れよ。 ※天では人間どもが勝手に論じ合うことにより、怒っていらっしゃる。人間には「はい、はい」として受け入れる努力のみある。肉は獣と同様、信じても御利益を与える神はいない。 肉(人間)は罪人=監獄の囚人の立場である。 それは確かに完成者イエスの出身でもあるエッセネ派に近いと思うけど 家を「仮庵」と認識していればどこに居ても信仰者だよ 言い換えれば人間の身体を持って安住の地を地上に求めていないこと 俺は1人暮らしだから都会だけど自宅が一番落ち着く 森や山に暮らしたいとも思うけどそれは今必要じゃないだろうと思ってる まあたしかに妙峰頂は憧れだけど 嫁とやったあとに書くスレ 今の日本に潜入 じゃまーる あげ進行 村人が出る 消費税 嫁と話せてどんなに楽しいか自分はいかに幸福か 自分の生きるものを探す サイトはあなた氏のデザインのことをしていけば NHKEテレ東京 5:00 こころの時代〜宗教・人生〜「内村鑑三 その面影をたずねて」 □神(人間がつけた名称)はひとりではなかった! 自分はイエスのような愛情深いような唯一の神がいるかもしれないと、思っていた。 □□■イエスは【神の右】と呼ばれる方々のひとりである■□□ 地上のものに一切引かれない人格、それが神であり、修行僧も世捨て人と離欲の行いをした。 ■神と人間は信仰関係は無い (人間は信仰がつくれない) 神は霊で肉と敵対する関係 ―何ものかを信ずることなく、作られざるものを知り(真理のことば)―もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、「抜け出して海に植われ」と言ったとしても、その言葉どおりに なるであろう(ルカ) 釈尊への信仰は世を捨て、家なくして歩み無所有で離欲を目指す修行僧。神への信仰はこの世の者ではない山を移すほどの力あるイエス。 人間が信仰して下さいと言うことは一切できない。 □救い主 『聖霊に満ち荒野』『森に住み心静まり清浄な行者』を信仰し、少しでも喜ぼうとする人々は、人間の宗教に毒される者たちより近い。悪から離れ、何事も思い煩わないことをよしとする者は近い。 ―自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない(エペソ) ―どの方向に心でさがし求めても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれ自己がいとしいのである(感興) 地上の人間として生まれ続ける全ての人間を尊重されている方である。離欲を達成しない限り、地上で生き続ける運命しかない。 真理のことば、あわれみや自制などは、何でもできるできない事は無い神通力の領域に遠くはない。 ―法にしたがって生き、恥を知り〜自分のなすべきことを行う人を、他人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである〜他人を訓戒せよ、教えとせ 〜悪人と善人とは、死後には異なったところにおもむく。悪人は地獄〜善人は天上―(感興のことば) ―肉体を宿している間は主から離れていることを、よく知っている〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである〜人々に説き勧める―(コリント) ―主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい―(エペソ) 人間の救いのため説かれたことなので、それを枉げることは決してしてはならない。宗教の役割は、清浄・聖霊に満ちた心を信仰の頼りとして、そんな信仰を常にできない者に対して、 世の中で他人に愛されるような人間に育てること。 ちりめんしかないなんて、組織ぐるみのいじめだよな。 体系の問題かもしれないけど。あ、松坂屋にいい靴売ってる □父(名称)とは そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地について自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。 愚者たちは煩悩に束縛されていて、暗黒に覆われている。かれらには無が有であるかのごとくに見られている。真理を見る人には何ものも存在しない。人々は自我観念にたより、たま他人という観念 にとらわれている(感興のことば) ―彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである(ローマ) ―その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち〜これらの事が、ことごとく起きるまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しか しわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる。気をつけて、目をさましていなさい(マルコ) ―父には、変化とか回転の影とかいうものはない〜真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである(ヤコブ) □無に等しい ―山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい(コリント) ―あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧に過ぎない(ヤコブ)―この身は泡沫のごとくと知り、陽炎のようなはかない本性のものである(感興のことば) 人間は肉であり、その人間が信じることはできない。清浄・汚れ無き状態では、人間というものは無い。=悩み・迷いがあって信仰をする。無になって初めて知れる存在で、有(肉である人間)は、 信仰できますという者はいない。 ―イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされてはいない(マタイ)世に打ちひしがれて信じた者に対し、「この世の者ではない神の栄光の姿(イエス)」を神の義として信じさせた。 ■信仰無く生まれた人々 ―おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう(ルカ)―「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のも のではない〜もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である(真理のことば) 盲人は見え〜世に打ちひしがれた人につかわされたように、【神の右の者】か、【人間でいたいと生まれた愚かな者】か、徹底される。分別の無い信仰の者ほど嫌われている人々はいない。 地上のものに心を引かれない信仰の者か、からし種一粒ほどの信仰のない者かの二極端。 ―あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦して働き続けた(テサロニケ)そなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない(悪魔との対話) たとえば、(誰も自分のために仕事をしてくれる人々はいない。世の人々に負担をかけまいと働こう)という心は、健康で働ける人間なら、何も信じなくとも持っていなければいけない。 人間は「愛や良識的な判断」があればよい。神様と言えるのは、「地上のものに心を引かれず努め、自己や世の思い煩いを取り除こうと努める者のみ」信じてゆるされる方。 どれ書き込むかWデーター、ディスク一枚丸ごと消えたW ネーム入れしていない一枚があり、再びネーム入れ1100ネーム入れを一日でW くそWWWW 今日は分類しているぞW再開W □善は無に在る 平安・安らぎ・一切のものが悩み苦しみ思い煩わないことを喜びとする境地 物質以前は平安と安らぎに満ちて善以外のものは何も無い 平安の境地・安らぎは虚妄ならざる真理 そして安かれと言われた・人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安 無=絶対善は人間の作ったもの一切を作ってはいない。世と世にあるものは、世にいる人間が作ったものである。 釈尊は家なくして歩みわずかな食物で暮らす生活を守ることで修行僧に瞑想をさせ 真理を希求させた。 神は忍耐をもって耐えておられたが、この世の者ではないイエスの姿を神の義とされ、地上のものに心を引かれた罪人を、からし種一粒ほどの信仰の無い者として救うために信仰対象となり、自然の ままでも良心があればわかる教えを広めようとされた。 ■全知全能の神は無知無明と正反対の、(邪な見解を捨てれば)あなたがたは何でも知ってできない事は何もないという意味である 肉は誰も信仰できず、聖霊に満ち荒野の者のように、森に住み心静まり清浄な行者のように、まだ汚れの無い子供が何一つ人間の信仰に汚されないように、 ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった―(ブッダのことば) 世のこと自己のことに何事も思い煩わないよう日々努めなさい。世の欲得なことにあくせく思い煩い悩み苦しむ悪魔の者たちのように滅びの者どもと一緒にならないで、まだ何も信じないで、 「よい天気ですね」「清々しい朝だ」と健康的な者のように、「世の欲得なことにあくせく思い煩わず衣食があれば足り、何事も思い煩わない者となれ」これは、何か信じた者の努めである。 肉の欲・目の欲・持ち物の誇り・五欲の対象や人々の富への貪欲に執着しあくせく思い煩い悩んで苦しんでも、それは永遠の命ではないと「神の右」の者は言われる。 永遠の命につながる人間はもともと良心に従い生きているものだと言われる。「愛・良識」で通常ならわかるはずのものだと。 □皆知っている 獣と同じ肉だけの人間が永遠に知れないだけ 【盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者はさいわい】神のわざであわれみの行いをされたイエス。 一切の生きとし生けるものをあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない。 皆知っているはずのこと。他人や自分という隔たりも無く、隣人への配慮ある者や立派だと尊敬される人々の行為が、悩み苦しみ思い煩わないようにしてあげようとする心と行為であること。 それは思い上がらない程度に、目の前の人への配慮もある者や、世界の悩み苦しみ思い煩っている人々への配慮もある行為など、その人の立場によっても違ったり、器の大きさによっても違う。 人間はからし種一粒ほどの信仰の無い者となって、世と世にあるものとで暮さねばならないが、悩み苦しみ思い煩わないようにしてあげようという心と行為は永遠の命につながっている。道から外れな ないようにするための信仰対象なだけで、神は朽ちる人間の味方ではない。人間のただ中にあるものとにつながっている。まだ、誰も信仰がない状態なのである。 富や欲得にあくせくせず、生ける者をあわれむようにすることが永遠につながることと教える役割が宗教の役割と明確にされたのだ。御利益などを望んで他者(神を思い)信仰できる者は一切いな い。 ■宗教から人間の論じ合いを封じよ 「神の右」の方々は、人間が勝手に論じ合ってはいけない! 宗教は、当たり前のことを当たり前と受け入れ、この世で迷わない者となり悪から離れ、他者への配慮もある人間となり、 獣のような私利私欲や、人々の富への貪欲、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りへの貪欲にあくせくして仕え、悩み苦しみ思い煩い滅びの者となることから救う役割だと。ひとりでも多くの者が、自分の口 で論じ合わず、受け入れることを望まれているのだ。 この世のことで論じ合うなら、別に世のことで論じ合えばよい。そこは永遠の命への信仰も何もないから、別にいくら論じ合っても問題はない。 思慮にリアクションすると永遠と書き込むでしょうし。 対処はスルー。書き込み休止でいいでしょう。 □最後は神(名称)と呼ばれる方々(神の右の方々=聖書をよく読まなかった自分は神の右という名称は知らなかった) と唯一の神(名称)が滅びと永遠に分ける (自分を批判してもよい、自分は直接聞かされただけ)という存在から話しているだけで、あわれみをよしと受け入れ喜ばない者どもは、本来獣と同様、 滅びる者だと理解しすればよいだけ。邪魔する者どもは、死んだら終わりの者となれず、永遠の地獄。 しかし、真実を伝えねばならない牧師や神父が熱心に伝えねばならず、反駁仏教となった日本にある仏教(永遠と共にある存在は、人間の姿の獣どもを釣り殺し束縛すると)=最後は永遠の暗黒。 罪なき天 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------からし種一粒ほどの信仰の無い者------------ □何も人間の宗教に汚されず、まだ汚れの無い幼い子(からし種一粒ほどの信仰の無いと線引き) ―父母につかえること、妻子を愛し護ること〜(ブッダのことば) ―自分の妻を自分自身のように愛しなさい〜あなたの父と母とを敬え(エペソ) ―あす自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である(マタイ) ―未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている(神々の対話) □信仰心あり学び修めた賢明な者と【かれ】 ―信仰心あり、学び修めた懸命な人は〜食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ。心に喜んで、撒き散らし、「与えよ」「与えよ」と語る。かれは、天が雨を降らすごとくに、その轟を発するのである。 その豊かな功徳の流れは、施しを与える人に、降り注ぐ〜貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ(神々との対話) ―あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し〜正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは〜あなたがたによく言っ ておく、わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』(マタイ) 仏教の『かれ』とはイエス・キリストのことで、『わたしの兄弟』とは地上のものに心を引かれる喜ぶことができない(=貧しい人々・世に打ちひしがれた人々)のことで、『主よ、いつ、わたしたち は』とは、飲食豊かな私たちのことである。 ■皆知っているはず(何も信じなくとも自然のままで) 人間になりたいと願い生まれる者に仕えたのは父母である。天からは、「男女別なく汚い所を恥、知性ある良識的な人間」となり、相手を欲情の対象物のように扱うことなく、「自分を愛するように、隣 人を愛し」結びついた者となるが、子は将来、人々から富だけ欲して略奪しようとせず、負担をかけまいと働いたり、幸福・安穏・安楽な暮らしに仕え(悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげようと思う 者=医者や看護師、一切の国民の幸福と安穏・安楽な暮らしに仕えねばならないはずの政治家・・・などが人々に立派だとされねばならない)、しかし、過労など目的として生まれることはなく、人間に なりたいと生まれた目的で生まれ、地に自然災害など苦しみもあることを知って(=一切皆苦・肉を宿とし主から離れ苦しみもだえている)、耐えることを問題なしに生まれた。 神の右ではなく「人間になりたいという目的・罪人=全世界の人間の命を尊重されている方」で、誰も(神様・死者供養崇拝・宗教・信仰・御利益ある物を作る)信仰ありとして救われる者はいないが、 【愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制】の永遠の命の律法を確実にするために信仰対象となられた。 修行完成者としてしかわからない一切の生ける者のあわれみ、イエスは神のわざであわれみの行いを善いと受けいることで罪人を救い、他者への信仰は地上のものに心を一切引かれない霊の者となら ないと信仰ありとされないが、人間となりたいという地の者が獣どもの滅びの者に毒されず永遠の命を得るため、救いの信仰対象となられた。あわれみのわざを善いと受け入れ信仰対象と喜ばない者 は、肉だけの獣です。何も信じない人間の活動だけで死ぬ者は、妨害者とならず地獄行きともならない、邪魔する宗教者は「大きなひきうすを首にかれられて海の深みに沈めれてた方が、その人の益に なる」ほどの永遠の苦しみを受ける(これは天に在るものの掟で人間になわからない) 地獄の論文分類活動終了。 メソジスト教会、浄土教、山伏、神仏習合を見やすくなったぞwwww 仏教系気功の人の録画したの、取りに行く時間がないなあw 気功は、おもしれえからなあw 気功は雰囲気はヨガに似ているな。身体に微妙な粒子風な流れを感じる。 仏を忘れないためじゃね? 気が弛むのを防ぐためとかさ >仏像って何のためにあるんだろ? 2つぐらいの意味のパターンがあるらしい。 1、悟り修行の為。日本以外の仏像も含む。 2、日本的密教、修験道念仏文化風意味、ご利益と死後の浄土の導き手 仏像もいろいろあるよね 芸術として美しい仏像は良いなって思う イスラム神秘主義、ルーミー等の文章をワードに入れて保存作業しているだけでw アッラーのパワーがくるw http://levha.net/mathnawi/book3/index.html ルーミー >神を求める者の祈りと、求める者への神の答えは本質において<同一>である >ジャラールッディーン・ムハンマド・バルヒー・ルーミー これ面白い 論文分類終了したんで、久しぶりに教会へ礼拝に行く。 神の霊の力が満ちているなw 寺に知り合いがいるんで、用事を伝えに行こうとするだけで「イヤイヤ」の神の霊のプレッシャーがw 神の霊ってなんなんだろうな たしかに教会には独特の雰囲気を感じるけど あれが神の霊なのかな ユダヤ人は誤解されることが多いけど 昔からの教えをしっかり守ってて偉いな 特に健康に関しては右に出るものがないほど意識高い 各分野でナンバーワンを決めるとすれば 食べ物と頭脳の事ならユダヤ人 肉体の事ならヨガ 精神の事なら禅 って感じかなぁ俺のイメージ 同じ根を持つものでもそれぞれに専門性がある 57 :神も仏も名無しさん:2014/10/26(日) 16:22:24.37 ID:ySWbMRqZ 神の霊ってなんなんだろうな たしかに教会には独特の雰囲気を感じるけど あれが神の霊なのかな たぶん。 テンション上がると、骨が溶けそうなくらいの快楽が・・・・。 59 :神も仏も名無しさん:2014/10/26(日) 17:48:20.52 ID:WlGi60N+ ユダヤ教について調べてみよっと 同志社大、一神教研究に資料が多いぞ、論文データー集めの成果だw http://www.cismor.jp/jp/series/jismor/ >>64 >古代イスラエルにおける一神教と神の再定義 このスレとマッチした内容で面白いな >中国のユダヤ教をたどる これもちょっと読んでみた ユダヤ人って強いな 大学論文を探せば、自宅図書館、いい時代ですな。 俺は、こっちの知識が不足しているんで・・。こっちに夢中。 http://wesley-methodism.com/gakkai3.html 中田カスはついに 暗黒面のイスラム教徒に堕落するのか? この題名に書かれている通り、救われたのは キリストも、釈迦もその中身が同一の存在から出ているからだと思いますよ。 同一の存在とは? 聖書で言うところの「光あれ」の光のことかね 光あれと、光も創ったし、宇宙空間もダークマターもつくった存在。 モーゼに語りかけた存在、ノアの大洪水も起こした存在。 真理、法と秩序を創った存在。 自然界に存在する真理や法則もつくった存在。 主が、すべてを創ったから、人間がどう言おうが、主の真理の通りに、地球が回り。 春夏秋冬とかがやってきて、植物・動物や人が生まれ、そして老いて死ぬ、その真理も創った存在。 植物の体、人の臓器も体も、受精して、細胞分裂し肉体を創り、そのルールを創り動物も創った存在。 霊的な命や魂もつくり、肉体にその魂・命・こころを吹き込む真理を創った存在。 その魂が住む世界も創った存在、そして心も。 主ってそういう立場の存在だと思います。 そうです父です、そして人間として生きるときにも、すべて男としてだそうです。 釈迦やキリスト、実はそのほかにも、主は人間界に降りてきたのですけど。 男にしか生まれてこないことを伝えていました。 父という言葉を見て、それを思い出しました。 ゼウスも主の化身です。アッラーもです。 伝えている内容は、仏教、聖書ももコーランも、同一の存在から出てきたものなんです。 マジすか、僕は勉強不足でして>>79 の言葉にすごく感銘するものがありました。 人間の社会も、その自然界の法則にしたがわなくちゃいけないと、言っていた方がいて。 今の、男が女に、女にひげが生え男にという、遺伝子がおかしい状態になっていると、伝えて下さった方が 言ってました。 男女に平等はないとおっしゃっていました。差別ということではないですけど。 そして身分制度を崩した結果が、子が親を馬鹿にし、子が先生を馬鹿にし、今のような道徳やモラルや 礼儀がなくなった、常識外れになった社会になったことを伝えていました。 主の化身の一人が儒教を伝えた孔子でもあります。 ほとんど、今の世界は、そのよかった世界が崩れてしまっているという状態です。 スレチでごめんね、でも、聖書も釈迦も同一の存在が伝えてきたのだから。 いちいち、争う理由もないんんだよね。コーランもね。 コーランではマホメッドはメッカを征服したときに、 征服された民は普通に奴隷になるはずなのに。奴隷扱いせずだったが・・・。 イスラム国は・・・・・。 ハンナ・アーレントの提唱した「悪の凡庸さ」 悪意はなくても、職務内部での効率や合理性のみを追求してその結果を想像しない場合 悪意がなくても、途方もない悲劇を結果することがある アーレントが浮かび上がらせる【悪】とは、悪意の種の集積されない、 空気のような個々の人間が動物化する経緯だと思う 三週間連続で、礼拝に行ったな・・・・。過疎っているんで、あげておく。 俺は礼拝行ってないな 論争も無いが何も無いスレだな 一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。 □神とは この世の者ではないと神に信仰ありとされない 私たちは平安の境地・安らぎに満ちた国で、一切のものが何事も思い煩うことなく、悩み苦しみもなく神通力の領域・山を移すほどの力と一つで喜びに満ちていた。 神を信じても、この神しかない。多くの神々といっても人の子=霊の人格だけである。神は在る(所在)だけである、地上のものに心を一切引かれずに。 ―この神の子が、むかし人間であったときには、貧しい人、哀れな人、みじめな人であったのに(悪魔との対話) ―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである(ルカ) □しかし、からし種一粒ほどの信仰の無い人間の状態に至っても、一切の「人間でいたいと生まれた人間を尊重されている」 他者=この世の者ではない=神=人の子であっても、御利益や人間のように愛情深い存在ではない。一切皆苦・苦しみ悶えた地であるのみだ。地上のものに心を引か れないよう心がけ、何事も思い煩わないよう努めないと、信仰をゆるすことをなさらない。 山へ逃げよ(マルコ)イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず(ルカ)一日の苦労は、その日一日(マタイ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗(仏) そういった心のみが、善い国に近い。世と世にあるものを必要とし喜びながら、「神様」という者は、神の怒りの者である。 かれらは希望し、称讃し〜献供する〜供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない いっさい誓ってはならない―(マタイ)― 一切の戒律や誓いをも捨て、世間の罪過あり或いは罪過なきこの宗教的行為をも捨て(ブッダのことば) 葬儀などやるな―(ブッダ最後の旅)―死人を葬ることは、死人に任せておくがよい(マタイ) 多くの呪文をやたらにつぶやいていても〜内心は汚物に汚れ―(悪魔との対話)見えのために長い祈りをする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう(ルカ) 献供をささげる〜梵天の召し上がる食物ではないのです―(悪魔との対話)―偶像は何かほんとうにあるものなのか〜人々の供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者 に供えるのである(コリント) 悪魔は、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる〜尊師は〜悪しき者よ(ブッダのことば) この世またはかの世におけるいかなるかたちでも〜これらはすべて悪魔ナムチの褒め称えるところである(神々との対話) いまから七日の後に、あなたの頭は七つに裂けてしまえ。偽り(詐偽)をもうけたそのバラモンは、呪詛の作法をして、恐ろしいことを告げた(ブッダのことば) すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです(マルコ)功徳を得ようとして神をまつり犠牲をささげ〜慈しみの心の功徳の十六分の一にも及ばない(感興) 無益な語句よりなる詩を百もとなえるよりも〜有益なことばを一つ聞く(感興のことば) 人間が勝手にする宗教的行為。心と知恵の無い人々を釣り殺し束縛するものと言われるが(明らかに知恵の無い者を放置すると、世はもっと悪くなる) ―法にしたがって生き、恥を知り〜自分のなすべきことを行う人を、他人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである〜他人を訓戒せ よ、教えさとせ〜悪人と善人とは、死後には異なったところにおもむく。悪人は地獄〜善人は天上―(感興のことば) ―肉体を宿している間は主から離れていることを、よく知っている〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである〜人々に説き勧 める―(コリント)―主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい―(エペソ) 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者に罪過なく道から外れることはない、究極の理想に通じた人がこの平安の境地に達して、一切の生きとし生けるものは幸福であれ 安穏であれ安楽であれ、慈しみの心づかいがこの世では崇高、イエスが地上で罪をゆるす権威で世に打ちひしがれた人々をいやされたように、 ―御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない(ガラテヤ) 善い国の者が人間でいたい全ての人間を尊重されているように、そういった律法を確立するために宗教はある。ただし、神など他者信仰は、地上のものに心を引かれない人間の 状態でないことを義としているので、耐え忍んで善を心得て、現世利益がなくとも、誰も文句は言えない。 ■肉の欲、目の欲、持ち物の誇りを捨てようとせず神を信じる者は、神は善い方がわからず、神の怒り 〔神いわく〕「〜罪汚れなくして、常に浄らかさを求めている人には、毛先ほどの悪でも、雲ほどに大きく見えるのである。」「わたしは、そなたに依存して生きているの ではない。またそなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない。」(悪魔との対話) 地上のものに心を引かれず、「神の右」の国で神の栄光と共にいる神=人の子 世の中で必要な物を得て暮らし、五欲(味わい・・・)など少しでも享受しようとする者 や、それらから離れようとしない者が、神様に信仰ありますと言うなら、信じないで暮らしている者より、かえって神に対する罪は大きい。 □健康な心が清浄な神に近い 聖霊満ち荒野・森に住み心静まりの者のように、―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった(ブッダのことば) ―世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。それ故に、一切の生きとし生けるものどもを憐れみながら(悪魔との対話) ―人をさばくな〜罪に定めるな〜ゆるしてやれ〜与えよ(ルカ) 清浄な状態から、この世に生まれてきても、害いを見ない。人を罪に定めず、ゆるしてやれるような心の状態であり、他人を悪者とみなす宗教は、神と善い状態から全く離れ ている。 ―他人の過失を見るなかれ〜ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ(真理のことば) ―兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか(ルカ) 真理の言葉に従い、自己管理をしに人間の状態になったのである。 ■世で暮らしながら自分を正しい者と自任できる者はいない 【全世界は悪しき者の配下・妄執という一つのものに一切のものが従属した】 ―「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない〜もしも愚者がみずから愚で考えれば、すなわち賢者であ る(真理のことば) ―自分を義人だと自任して〜「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者〜『神様、罪人のわたしをおゆるしください』〜おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分 を低くする者は高くされるであろう」(ルカ) □平和の構造 世に打ちひしがれた人・貧しい人は、信仰が容易く神の栄光=この世の者ではないイエスの姿を信じて、世に寛容で何事も思い煩わないようにして救われる。 その他の人々は―全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている(ヨハネの第一)―世間は妄執によって導かれる〜妄執という一つのものに、一切のものが従属した(神々 との対話) 誰も自分の命を憎むために生まれたのでなく、「人間になりたいと生まれた者の尊重」はあっても、宗教・信仰がありますなどと言える人は誰もいない。 人間になりたいと生まれた愚かさはあっても、宗教・信仰によって誰も、善い者・正しい者と自任できる者はいない。法に背き、正しい者は正しくない者と争い、人間になり たいと生まれた者を尊重してあげ、 ―富を得ると、自分を楽しませ、喜ばせ〜父母・妻子・・・を楽しませ、喜ばせ(神々との対話)のような人々、 神の理想世界は別にあり、この世は重い荷を背負い、苦しみ悶えた地であるが、からし種一粒ほどの信仰も無い者となって愚かに妄執に従い働き、愚かに楽しんでいる人々に も平和はある。悪しき者の配下でありながら、自分を善人・正しい者だと自任して、世を制しようとする人々に争いは起きる。 最近、教会へ行く回数が寺より多い。 過疎っているんであげておくぞ。 世界支配の構造の中に、 キリスト教が意味があるように、 仏教も意味があるのかな。 サンクスリット語って何のためにあるの? 寺と教会って裏でつながってるの?全部CIA? こころの時代〜宗教・人生〜 シリーズ道をひらく〜内村鑑三のことば〜2▽現世と後世 2014年11月16日(日) 5時00分〜6時00分 の放送内容 思想家でキリスト教伝道者の内村鑑三。 その思想と信仰を探るシリーズ第2回【初回放送2013年5月19日】 このシリーズは、毎月第3日曜日、来年3月までアンコール放送 番組内容 30代までの内村鑑三は、さまざまな職を志すがいずれも思うような実を結ばず自問自答の日々を送る。 アメリカからの帰国後、希望を抱いて臨んだ教育の仕事も、 教育勅語への拝礼をためらった「不敬事件」によって挫折。 その後は職に恵まれず、困窮の日々を送ることとなる。 「いったいに自分に与えられた天職とは何なのか」、自身を無用者とまで思い詰めた内村が、 切実な問いをもって語りかけた講演、そこに示された希望への道とは。 今日も礼拝に行ってしまったw 内村の番組は、「コンフォート」の意味を慰めよりも、「力づける」という意味に訳する というのは納得が出来て良かったなあ。 キリスト教は信仰のセンスに二つの流れがあるらしいと思えてきた・・・。 一つは、1、聖なる感覚の強化の生活。 もう一つは、2、血迷った感覚が落ち着くので良しとする信仰。 1、はカトリック、聖公会、メソジスト、ホーリネス、聖霊派。 2、ルター派、長老派、初期パブテスト教団。 そう、その二種類は別の宗教と思えるぐらいだな 救われ方が違うんだよね カラダが悲鳴を上げてるのに薬を飲んでごまかしてる派の人ばかり見る 105の内容で、自己陶酔的自己防衛的に信仰の活動する牧師が自己の心を直視できずに破たんしている というのは、おもしろかった。 2ちゃん、禅、仏教の書き込みする連中もこういう輩が多いからなあw 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。 瞑想するか 神は善い方でしかない。地上のものに心一切引かれない「右の方々」しかいない。私たちは神のまま偶像を抱くことなく、何も信じず生まれてきた。 山へ逃げよ(マルコ)イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず(ルカ)一日の苦労は、その日一日(マタイ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗(仏) ―あなたがたのいのちは、どんなものであるか〜しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない―(ヤコブ) ―身体は泡沫のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ―(感興) 遠ざかり離れる心の状態(安らぎ)を喜べば、清浄な状態に近くなる。神といっても消え行く霧にすぎない人間が、その状態で何か信仰できますなど無いのである。苦しみ悶えた地の者から、 離欲の状態でもよしとできるなら、神には喜ばれる。まだ汚れの無い生まれたままの状態では神に喜ばれる状態に近かったのである。 □善いことを行い、自己の心を浄めること ―すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが仏の教えである。わかち与える人には功徳が増大する(感興のことば) □イエスは一切の者が悩み苦しみ思い煩い無いことを何よりもよしとする境地を現した ―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである(ルカ) ― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。かれに道から外れることは存在しない(神々との対話) 外的(消え行く霧に過ぎない人間)が誰も神様と言えない。内的(神と永遠の命)のある者では、一切の生きとし生けるものの幸福・安穏・安楽、あわれむ心でつながっている。 ―愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない(ガラテヤ) ■世界の終りまで 律法は変化がない ―意識もそなえ心もあるこの一尋の身体に即して〜世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあり得ない。それ故に、世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人は、 世界の終極に至る人となるであろう〜この世もかの世をも望まない(神々との対話) ―大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう〜よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起きるまでは、この時代は滅びることがない。 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない〜夜には出て行ってオリブという山で夜を過ごしておられた(ルカ) ―日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ(マルコ)月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無き ものからも、一切の苦しみから全く解脱する(感興のことば) 神にとって本当はその境地を達成しなければいけない。しかし、人間の状態でその境地に基づく行動が、あなたのあるべき姿であろうものなので信仰対象となられた。行動によって、 神様しましたと言える者はひとりもいない。信仰深ければ完全しかゆるさない。離欲を常とし喜ばねばならない、修行僧のようにだ。 人間になりたいと生まれたからといって欲しいままに決してならず、自制心あり、他者への配慮もある「良識的な」人間。神が愛ではない、心も無常である。天の者は「地の者は 愛」と教える。 最近、神の啓示らしいんだが・・・ 伝統教会の教義主義から逸脱してきたなあ・・・w なんとういうか、イスラム・ユダヤ教に見られる「神の理性、正義」視点が厭になってきてねw むろん、そういうのが伝統教義キリスト教会にもあって・・・。 で、閃いたのが、イエズス会寄りなんだが。 「イエス・キリストの人生と生涯」を通じて霊的な導きという想定すると、パーフェクトにハマった。 何というか、仏教に比べて、これを想定しないと、人生の方向性が明白じゃないんだよな。 既存伝統教会の教義体系じゃ、仏教の明白な人生の方向性を超えれないんだよな。 例えば、既存伝統教会の教義体系とは「信仰する」「キリストの十字架の贖いを信じる」とかいう教義ね。 面白いスレ見つけたよ 仏教の世界観はなぜキリスト教のように認知されないのか? http://hello.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1416579509/ 書き込むときは名前欄に「名無し募集中。。。」必須 イエズス会寄りというニュアンスはよくわからないが 「霊操」あたりでインスピレーションを受けるということか カトリックは幅が広いから「なんでも」ある それこそペンテコスタルな雰囲気でダイレクトに聖霊にぶち当たる系統もあるし 自分の奥を深く掘り下げていく神秘主義系統もある こころの時代〜宗教・人生〜「無常の風が吹いている〜私が死について語るなら〜」 2014年11月23日(日) 5時00分〜6時00分 の放送内容 「生老病死」の長い時間を、現代人はどのように生きたらよいのか。 伝統的な日本人の死生観や無常観の中に探っていく。 番組内容 日本人の心に宿ってきた仏教的無常観、そして、ねはん願望。 いつか必ずやってくる死を、人間はどのように受け入れていけばよいのか。 3年前の東日本大震災の経験、800年前に書かれた「方丈記」の世界、西行、大伴家持、 さらに宮沢賢治や柳田国男など、日本人の伝統的な死生観をひもときながら、 現代人にとっての「生老病死」のあり方について、山折哲雄さんに語っていただく。 >イエズス会寄りというニュアンスはよくわからないが 「霊操」あたりでインスピレーションを受けるということか イエズス会のイエズスは日本語でイエスだから、イエスの生涯をイメージするんだろうと。 イエズス会は長時間祈らない、長時間歌わない、苦行しない。 社会奉仕するらしい。マザーテレサはちなみにイエズス会出身。 今日も礼拝行ってしまった・・・・。 キリスト教研究満足したから・・・・ そろそろ神秘主義嫌いの禅に帰ろうかな・・・・。 イエズス会の成金根性とテレサの慎ましさの差が大きい 極端は、いけない マザーテレサはイエズス会ではなかったと思う イエズス会は男子の修道会だから >マザーテレサはイエズス会ではなかったと思う イエズス会は男子の修道会だから 残念ながら、febcのイエズス会の人がマザーテレサの活動の番組で、イエズス会出身といっておりました。 まあそれはさておき、近年のイエズス会が社会奉仕に熱心なのは間違いないね また大学や高校など教育機関を通じてイエズス会が日本宣教の中心的役割を果たしてきたということもいえる マザーテレサがイエズス会出身ってイエズス会は女子の修道会だからありえないよ。 「イエズス会出身」の意味が判然としないけど。女子の会員はいない。 マザーテレサが入会した修道会はロレート修道会という女子修道会だよ。 イエズス会の法流じゃねえのか。女は霊操ダメなはずもないし、修道院男女同居はありえんだろう。 しかし、キリスト教マスター気味だなwテンパってきたなあw これ以上関与すると聖職者にならなあかんようになるw カトリックは避けてた、ミサは一度だけ。 プロテスタント教会の方が食らうパワーが弱いんで・・・・。 最近、テンパってきてwプロテスタント教会で食らうパワーがマックスにw カトリック教会へ行かなかった理由はミサに初参加後、家で意識が飛びそうになり、光の神秘現象がw 神秘主義嫌い王道の敬虔な禅仏教徒をやめる気がないので…その後、カトリックに関与せず。 あの光の神秘現象はw 神秘主義嫌い王道の敬虔な禅仏教徒の俺にはノーサンキューだw あの光の現象の形態が新約聖書で書かれて箇所を知った時はゾッとしたw 俺は神の化身なんかやだぞーーーwww http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%B4%97%E7%A4%BC フランシスコザビエルのミイラが10年に一度一般公開されてるとか キリストパワーがマックス化しちょるんで・・・・・・。 禅に戻るのが苦労し始めた・・・w ここで書いているのは、人間の解釈ではなく、神の解釈=神は地上のものに心を引かれた人間は、一切神など信仰の無い者。人間でいたい生存状態全てを尊重され、 「愛」や「良識」=心ある人間は何も信じなくともわかる状態にされた。人間の見解で論じ合わなくともよろしい、地上にある人間の宗教は、全て心無い獣どもを 束縛したり、釣り殺したりするものだと。 ―水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって〜翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって〜「われわれのかたちに、われわれにかたどって人をつくり、 これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と〜治めさせよう」〜へびは女に言った、「神のように善悪を知ることを」〜「見よ、人はわれわれのひとり のようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない」(創世記) ■種類の区別のあることを知れ 彼岸と善悪に汚されない状態 ―草や木にも種類の区別のあることを知れ〜小さなものでも、大きなものでも、四足獣にも〜水の中に生まれ水に棲む魚ども〜翼を乗り物として〜種類の区別のある ことを知れ〜人類には〜生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない〜悪魔の征服者〜煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡りお わり〜善悪の両者に汚されません □平安の境地に達して 修行完成者を尊敬せよ ―究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して〜他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない〜一切の生きとし生けるものは、幸福であ れ、安穏であれ、安楽であれ〜生物生類であっても〜大きなものでも、中くらいのものでも〜一切の生きとし生けるものは、幸せであれ〜母が己が独り子を命を懸けて も護るように〜一切の生きとし生けるものどもに対して、無量の慈しみの意を起こすべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ(ブッダのことば) 神と永遠の命につながっているのは、人間の造った全てのものではない。大自然などや人間の活動を捨て、離欲を達成し何事も思い煩ないことで喜ぶ心のみ。 ■心ある人間の活動 ―苛酷なることなく、貪欲なることなく〜万物に対して平等(ブッダのことば)―律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと(マタイ) ―そなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない(悪魔との対話)―あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた(テサロニケ) 悩み苦しみ思い煩い無い喜びから、肉体を宿とした地に来た。その自己のため、他人に負担をかけることは悪い、取り除いてあげることは善いと心の中でわかる状態に された。 ■神は別の所を義とされているが、人間は人間らしく善悪を知っている(心の無い獣以外) ―自分の妻を自分自身のように愛しなさい〜あなたの父と母とを敬え〜あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう〜主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育 てなさい(エペソ)―母または父〜尊敬心をもて(悪魔との対話)―父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと(ブッダのことば) ―信仰心あり、学び修めた懸命な人〜心に喜んで、撒き散らし、「与えよ」「与えよ」と語る〜その豊かな功徳の流れは、施しを与える人に、降り注ぐ〜貧窮なる人々、旅 行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ(神々との対話)―空腹のときに食べさせ、かわいたいたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し〜正しい者たち は答えて言うであろう、「主よ、いつ、わたしたちは(マタイ) ―賢者は、自分の身をよくととのえて、徳行を達成する〜自分の身をよくととのえて、いろいろの幸せを得る〜自分の身をよくととのえて、天の世界に生まれる(感興のこ とば) 一切のものが悩み苦しみ思い煩いの無いことを善いと肉体があっても受け入れ、善悪は知っている。その心と行為のできる者が善いところ、心無い者となって地獄など 悪い所に生まれないために教えがあり、苦しんで信仰頼りとする者が、地上のものに心を一切引かれない状態を義と知るためであり、人間の宗教的行事が悪魔ナムチの 軍隊で、心無い獣どもを釣り殺し束縛するだけのものとわからせるためである。 ―法にしたがって生き、恥を知り〜自分のなすべきことを行う人を、他人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである〜他人を訓戒せ よ、教えさとせ〜悪人と善人とは、死後には異なったところにおもむく。悪人は地獄〜善人は天上―(感興のことば) ―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を待たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである―(ローマ) ―神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである―(テモテ) ―真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである―(ヨハネ) 自然のままでも本来は知っているはずのこと。しかし、地獄行きの者にならないようにと、救おうとされた。 □神・信仰・宗教の隠れた法律 この世の者でない・生きながら彼岸で地上のものに心を一切引かれない者のみ、一切皆苦・失楽の地で、信仰ありの者と自任する者どもをゆるすことをなさらない。 □苛酷なることなく貪欲なることなく万物に対して平等・公平とあわれみ ―自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない―(エペソ) ―どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった―(感興のことば) 皆公平に人間の宗教に毒されることなく、皆人間になりたいと生まれたことを理解できるようにされた。信仰深い者は、無所有でわずかな食物で暮らす生活を守り・肉の欲、目 の欲、持ち物の誇りを一切捨て、この世の者ではないイエスや彼岸に至ろうとする修行僧のみで、 誰もそなたのために働いてくれる人々がいるのではないと理解し、世の人々に負担をかけまいと働かないといけない。自ら働けるのに富だけを欲して人々に負担をかけても 平気な者は、心無い獣と行為で地獄行きなど決してよい報いを受けられる者となれない。神によると働けばよいのではなく、人々の富への貪欲、肉の欲、目の欲、持ち物の誇 りへの貪りにあくせく仕え、悩み苦しみ思い煩っている人々も、地の奴隷として決して善い所に生まれることはできない。一日の苦労はその日一日・未来のことにあくせくし ないを善いと受け入れ、過労を決して善いことと思ってはいけない。 【悪魔】肉の欲・目の欲・持ち物の誇り五欲、美味を貪り、富 それらを善いことのように思う者どもは決して善い所に生まれることはできない。だから悪しき者・悪魔と呼んだ。 □富んでいても ―ことばと心を正しくするようにこころがけ、身に悪事をなさないで、もしも〜富んだ家に住んでいるならば、まことあり、柔和で、よく分かち与え、温かい心でいるならば (神々との対話)―貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。悪い言葉をいっさい。あなたがたの口から出してはいけない(エペソ) 人間に生まれた時点で一切の人が人間になりたいと生まれたことがわかり、心のある者として物や金、快楽や享楽への執着より他者への配慮もある人間となる。善い所は重要 なことで、自然のままでも良心ある人間となり、わかるようにされた。 ―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである(ルカ) ― 一切の生きとし生けるものをあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない。 善い国は一切のものが悩み苦しみ思い煩いの無いことを何よりも喜びとし善いと受け入れている。天国行きの善い者は地上でそれを現せば、「はいそうです」と受け入れて 暮らす。得た自己に惑わされたり富や肉の欲・目の欲・持ち物の誇りなどの貪欲に惑わされて、地獄行きの者にならないようにと救われたのである。 神にとって金や物などより他者への配慮もある人間が善い(善い所につながる)は自然のままでも知っているはずのことで、間違わないようにするため、地獄行きになら ないようにするため。 オナニー休止したから、 アゲテおく・・・・ いまや、キリスト教にほぼ満足したから。 イスラム神秘主義、ヒンズー、イスラム教、ユダヤ教、 日蓮宗、浄土真宗と趣味の範囲が限定されてきたなw http://ci.nii.ac.jp/els/110007328108.pdf?id=ART0009180542& ;type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1417661888&cp= 今日の研究だ。 日蓮宗は激し過ぎですね。 浄土真宗はまったり過ぎな感じがします。キリスト教より相当まったりしてますね。 両者、円寂な禅定のイメージで我流解釈しているところです。 神が直接言われたことだ。 人間の命の尊さ大切さのために、人類をからし種一粒ほどの信仰の無い者とした。目の前の大切な人は二度とその姿で逢えない。 信仰・神は唯一で、地上のものに心を一切引かれずこの世の者ではない者以外、神への信仰=神の義とされない。 ―イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが〜「盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞 かされている―(ルカ) ― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない。彼に道から外れることは存在しない―(神々との対話) 人類はただ中にあるもので知っているはずだ。反する者は地獄行きだと言われたから、教えるのみ。 キリスト教徒が、聖霊に満ち荒野・仏教者が森に住み心静まり清浄な行者と、一切のものが悩み苦しみ思い煩いの無いことを喜び大切にする ことを人に教えないと、誰も最後に神と永遠の命の者とはなれない。 【愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制】の永遠の命の律法を確実にするために信仰対象となられた。 牧師や神父は真剣になって、人々にその律法を確立するようにすること。 仏教は、森に住み心静まり清浄な行者のみを善いと受け入れ、修行完成者の慈悲やあわれみをよいと受け入れること、その他の者どもは人間の造った偶像に より、肉だけの者として動物と同じ滅びの運命になることを、全ての人々に伝えること。 多くの呪文をやたらにつぶやいていても〜内心は汚物に汚れ―(悪魔との対話)見えのために長い祈りをする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう(ルカ) この世またはかの世におけるいかなるかたちでも〜これらはすべて悪魔ナムチの褒め称えるところである(神々との対話) いまから七日の後に、あなたの頭は七つに裂けてしまえ。偽り(詐偽)をもうけたそのバラモンは、呪詛の作法をして、恐ろしいことを告げた(ブッダのことば) すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです(マルコ)功徳を得ようとして神をまつり犠牲をささげ〜慈しみの心の功徳の十六分の一にも及ばない(感興) 形あるものを信じて拝んでも、意味不明な言葉をくどくどと唱えても、かえって汚れが増し、地獄行きの者となることを、全ての人々に知れるようにすること。 悪魔ナムチの軍隊(滅び) か イエス・釈尊・神は別物(善い国) 多くの呪文をやたらにつぶやいていても〜内心は汚物に汚れ―(悪魔との対話)見えのために長い祈りをする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう(ルカ) 献供をささげる〜梵天の召し上がる食物ではないのです―(悪魔との対話)―偶像は何かほんとうにあるものなのか〜人々の供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者 に供えるのである(コリント) この世またはかの世におけるいかなるかたちでも〜これらはすべて悪魔ナムチの褒め称えるところである(神々との対話) 葬儀などやるな―(ブッダ最後の旅)―死人を葬ることは、死人に任せておくがよい(マタイ) いまから七日の後に、あなたの頭は七つに裂けてしまえ。偽り(詐偽)をもうけたそのバラモンは、呪詛の作法をして、恐ろしいことを告げた(ブッダのことば) すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです(マルコ)功徳を得ようとして神をまつり犠牲をささげ〜慈しみの心の功徳の十六分の一にも及ばない(感興) 悪魔は、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる〜尊師は〜悪しき者よ 宗教的行為と行事の功徳を求める恐ろしさ(ブッダのことば) □神はこの世の者ではない 人間の命の尊さ、大切さのため、誰も自分の命を憎むことなく生まれさせた=からし種一粒ほども信仰の無い人間とされた ―わたくしはもはや母胎に入ることはないであろう。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ・・・あなは悪魔の征服者です〜みずから彼岸に渡り終り〜あなたは 善悪の両者に汚されません(ブッダのことば) ―あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない(ヨハネ) ―すなわちすべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは値なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのであ る〜すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが〜信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、 それによって律法を確立するのである(ローマ) ―法にしたがって生き、恥を知り〜自分のなすべきことを行う人を、他人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである〜他人を訓戒せ よ、教えさとせ〜悪人と善人とは、死後には異なったところにおもむく。悪人は地獄〜善人は天上―(感興のことば) ―肉体を宿している間は主から離れていることを、よく知っている〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである〜人々に説き勧 める―(コリント)―主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい―(エペソ) 生まれた状態で人間は全て知っている。邪な見解が皆地獄行きの者となる。その一つが悪魔ナムチの宗教である。 □聖霊に満ち・清浄への信仰は善い所への道 ―山へ逃げよ(マルコ)イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず(ルカ)一日の苦労は、その日一日(マタイ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗(仏) ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった(ブッダのことば)善い所に行く者は、何が清いか清浄か、そのただ中にあるもので知っている。 □一切のものを悩み苦しみ思い煩いなくされる天の父(善い所) ―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである(ルカ) ― 一切の生きとし生けるものをあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない。 人間の状態で世で活動しても、天にあるものを通じて知っている。真理を行う者は光に来る。悪い宗教から人々を守るためでもある。 大日如来は宇宙の本体を仏として捉えたものです。 大日如来は金剛界と胎蔵界から構成されています。 金剛界には無量最上の知恵を宿し、胎蔵界にはそれらを事象として発出する全ての種子を宿しているとされています。 金剛界を善悪を知る木が象徴して、胎蔵界を生命の木が象徴していると考えればよく分かりますね。 今日も教会へ礼拝に出ちまった・・・・・。 キリスト教徒救済のために・・・・。 お役目だったんやろな…・神の・・・・。 ラーマクリシュナ・ばりの能力者の俺の前で、 駄文を垂れ流せる勇気、ほめてつかわそうw 日曜日に書き込み損なったんだが・・・・。 神秘主義世界で、「俺もてるなあ・・w」と思うのは、 高野山真言宗とキリスト教、唯識仏教・・・。 相思相愛過ぎて関与していないのは、三井寺系天台と華厳宗・明恵どんw 明恵どんの本読んでいると相思相愛の快楽が・・・・・w 牧師や神父に伝えてくれ 人間は様々な言い訳をして善い国に生まれることはできなくなる。神は天に存在する。神は地上のものに心を引かれない国のみを義としていらっしゃる=人格ある存在 【盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者はさいわいである】あのあわれみ深い神は、天のみ義としていらっしゃる。 私たちは神にとって苦しみ悶えた地で、からし種一粒ほどの信仰の無い者のはずだったのである。私たちは地上で悪いことがあっても、一切神の責任でもなく、からし種 一粒ほどの信仰の無い者、誰も自分の命を憎むことなく生まれ、それを理解し尊重して「地の者は愛」で愛と何かしたいこともある人間として生まれたこと。 ―生じたもの、有ったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの〜老いと死の集積〜食物の原因から生じたもの、それらは喜ぶに足りない(感興のことば) ―「さわるな、味わうな、触れるな」〜規定に縛られているのか。これらは皆、使えば尽きてしまうもの(コロサイ) そのように神にとって、地上は喜ぶに足りない地で、誰も人間でいたいと生まれたことを尊重され、からし種一粒ほどの無い人間として生まれさせた=神の法律 ―イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが〜「盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている―(ルカ) ― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない。彼に道から外れることは存在しない―(神々との対話) ―山へ逃げよ―(マルコ)― イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず―(ルカ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗―(仏) 【善い国で一切のものを悩み苦しみ思い煩い無くされる神を喜ぶ心と共に、神の義の地上のものに心を引かれない聖霊に満ち荒野・清浄な行者の行いにいつまでも変化は無い】 いくら何か他のものを信じようが、あわれみのわざと、それを善いと受け入れる心の無い者は、最後に滅ぼされる。そして、聖霊に満ち・清浄という地上のものに心を引か れない、神と永遠の命は、神にとって変化はない。 そして、今の私たちの暮らしは、 からし種一粒ほどの信仰の無い者として、眠らされている状態なのである。神にとって「愛や良識」妻子、愛すべき者はその状態で二度と逢えないのである。人間の命の大切 さ尊さ、自分の命を憎むことなく生まれた人間を尊重するであろうと、地上のものをからし種一粒ほどの信仰の無い者として生まれさせた。 大震災前から、神は地に害を加える存在ではない=善い者も悪い者も雨を降らせ 地上に善悪=理想など一切無い方。全ての者の尊重。 皆知っている、地上と肉も無い、悩み苦しみ思い煩い無いものの国をよしとされ、人間の勝手な宗教=悪しき心の無い者の獣どもの宗教として、肉欲が増した者どもを釣り 殺し束縛させ、―どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれ自己がいとしいのであ る(感興のことば)自分の命を憎むことなく生まれた人間を尊重できる者を、人間として尊重される方。 悪しき者・妄執により肉の思いを得たが、妄執・悪しき者を乗り越えた、盲人は見え〜あわれむ修行完成者を善いと受け入れさせることで、地獄行きの道から外れないよう にされたのである。あわれみのわざ=一切のものの悩み苦しみ思い煩いの無いことを善いと受け入れない限り、何か信じても永遠の命は無いのである。神は地上のものに心を 引かれない国でいる。地上のものに心を引かれた地にはおらず、心のただ中にあるもののみで神と永遠の命に通じる人間の状態にされた。動物と同じ肉でも、心はある、他者 への配慮もある人間としてある。宗教は教え諭す仕事の役割。 肉は霧・この身は泡沫のごとし・人間が作った一切の物質が存在しない所 一切悩み苦しみ思い煩いを受けることがない、肉の思いは消えこの身は無い と 自分の命を誰も憎むこと無く生まれた人間(目の前の人はその状態で二度と逢えない)命の大切さ尊さ、その人はその人として尊重(自然のままで理解できる人間) 貪り取ろうとしない・制覇しようとしない・地上のもので悩み苦しみ思い煩おうとしない・一切のものが悩み苦しみ思い煩いのないことの喜びと山を移すほどの力・神通力の者 から、人間の状態を望んだため生まれ、神がよしとする所から離れ、からし種一粒ほどの無い人間となった。 人々を悩み苦しみ思い煩わせないよう働こう、過労は善いことでなく過労死は悪だ、衣食住の無い人々や悩み苦しみ思い煩っている人々を助けることは善いことだ、自分を 制せず、他人の過失を見るばかりのことは悪いことだ、多くの財産を得たら、困っている人々に分け与えてあげよう・・・・・天にあるものその心の中でわかる人間にされ た。 私利私欲の他者への配慮も無い者の悪魔・人の手で作られた形あるものを拝み(偶像礼拝)呪文のような意味不明な言葉をやたらにつぶやいたり発し、くどくどと願い事を祈る。 過ぎ去るものは虚妄と忘れねばならないのに、死者供養をさせ、まるで善いことを行っている錯覚をさせる偽善者。肉は一切消える律法に背く悪霊どもの褒め称える行為。 しかし、清浄な知恵と心のある者(内に宿る)ものは善い所に行く。 ―イエスは聖霊に満ち〜荒野〜何も食べず―(ルカ)―あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない―(ヨハネ) ―今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった―(ローマ) ―イエスは聖霊に満ちて〜荒野〜何も食べず―山へ逃げよ〜夜には出て行ってオリブという山で夜をすごしておられた―(ルカ) 人間の手で作られたものは神とも関係無く、永遠の命でもない。盲人は見え〜一切の生きとし生けるものをあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない。 人の手で作られた世の中でも、悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげよう、得た自己(身体)の欲のため、他人を悩まし苦しみ思い煩わせることは悪いことだ、 悪霊どもの悪魔教に従わないよう、人類に隠れたことを明らかにして信仰させ、欲しいままの肉欲を防ぐため・悪から遠ざけるために、宗教として教えを説いた。 皆知っていなければならないことなのである。 聖霊に満ち荒野・森に住み心静まり清浄な行者=世の欲得から離れ、人の手で作られたもの・形あるものから離れ、清浄な心が善い国につながっていること、 ―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである(ルカ) ― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。かれに道から外れることは存在しない(神々との対話) あわれみのわざ・修行完成者をよしとしないと、いくら他のものを拝んでも、彼らの最後は滅びと決められている。 オナニー君が満足したようだから、 上げておく、クリスマス礼拝出た、牧師なかなかのいい説教してたな。 信仰を持つと失望する悲しみがある時がある、とか。 キリストが再臨した時、解るかとか、聖霊で知るとか。 生活感のある話を織り交ぜながら…超越的に風な話やったな。 その牧師自身が反神 ―イエスは聖霊に満ちて〜荒野を四十日のあいだ〜何も食べず―(ルカ) ―盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわい である―(ルカ) ―あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない(ヨハネ) 地上のものに心を引かれない神は実在する。 ―律法を行う者が、義とされるからである〜律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自 身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し(ローマ) ―人々は山へ逃げよ〜その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かってなく今後もないような患難が起こるからである〜そのとき、だれかがあな たがたに『見よ、ここにキリストがいる』『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな〜日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ〜大いなる力と栄光とをも って、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう〜これらの事が、ことごとく起きるまでは、この時代は滅びることはない。天地は滅びるであろう。しかしわた しの言葉は滅びることがない(マルコ) ―神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこ にある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ) 牧師も自分を信じろと言っているだけのニセ預言者だ。ニセ預言者の牧師に従っても天国に行くことはない。 神につながるのは人の手で作られた一切のものではなく、大自然。―イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない(マタイ) ―御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない―(ガラテヤ) 肉を宿とした間は誰も神にからし種一粒ほどの無い者としないと神は一切ゆるさない。信仰ありとゆるされた者は世に打ちひしがれた人々が、イエスを神の義と信じて、 地上のものに心を引かれず信仰により救われるため。 ―この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう(ヨハネ)―自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない(エペソ) 肉の欲・目の欲・持ち物の誇り一切捨てようとしない者が、愛や慈愛・善意などにより、永遠の命にもつながる人間とされる。信仰だけの不法者が神を信じても、 イエスの再臨を信じても皆最後は天国に入れない。バカ牧師に従うと、皆神の怒りの者となる。最後に地獄行き。神はからし種一粒ほどの信仰の無い者と地上のものに こころを引かれず、貧しい人々と共に信仰ありとされるきちんとした法律をつくられたのだ。必要な物も満ち、自分の身勝手な思いで神を信じ救われようとする者は、 神は「ぬるい」と最後は地獄行きの者とされる。バカ牧師は「甘言」を言って信仰させるが、信者は神に逆らい最後に地獄。貧しく暮らす信仰か必要な物もあり愛や善 意をまだ信仰のない人間として当たり前とするか、どちから。 イエズス会の歴史、本読んで面白かったわw イエズス会は古イスラエル国家のダビデの下(ローマ法王)の様なでの繁栄をみるが。 ローマ法王の様な、王と世俗の権力を望み、それに忠実たらんとしたイエズス会はルイ14世からナポレオンの時代まで 世界各地で弾圧され、解散させられる・・・・。 再興できたのはローマ法王、カトリックの権力を認めない、信仰の自由を法整備された 新大陸の民主主義のアメリカ合衆国だったという・・・・・。 ローマ法王の世俗の権力が失墜されるまで弾圧されるイエズス会。 ダビデの様な王、世俗権力を失うまで弾圧されるという。 このスレにも、世俗の王、権力が欲しそうな空想を抱いている。 163 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj がいますが、彼の運命もいずれは・・・・・。 ソロモンは意図して国を解体してイスラエルを散らしたように思えてならない しかし、昨日のクリスマス礼拝の行った教会の牧師は冴えていたなw 俺の感じた神秘現象を全て含んで居るような内容だった。 知り合いで困った人見つけたら、連れていくだろうな。 永遠の無になりたいのですが、自殺しても永遠の無にはなれませんか? 王のは始まりサウロ王かららしいな。 民衆が王を欲しがるので仕方なく…神は王を選んだ 預言者サムエルを通じて・・・。 で世俗の王の願いの終わりは世俗のユダヤの王を拒否したイエスによって終わったはずなんだが・・・。 ロー マカトリックはローマ法王という世俗の王を支配する王を打ち立てた。 163 :思慮 ◆AIOdk12HhuOjは世俗を支配する王に成りたがっているんだろうなw 空想で夢見ているのでしょう。 168 :神も仏も名無しさん:2014/12/25(木) 13:31:23.20 ID:LeSeQ7nw 永遠の無になりたいのですが、自殺しても永遠の無にはなれませんか? ま、無理だろうなあ、 伝統的な教会の礼拝に行ってみたら。 駄目教会もあるがいいのがあると思うぞ。 キリスト教的には人間の罪悪のまま。 仏教的には迷いのままでしょう。 昨日はクリスマス礼拝のせいで、快楽強くて夜2時前まで眠れなかったwww 俺は敬虔な仏教徒なんだがなあw >イエズス会の歴史、本読んで面白かったわw イエズス会批判に見えて、 イエズス会の会祖のイグナチウス・ロヨラの「霊操」の評価しまくっているんだけど。 イエズス会会憲のローマ法王に忠誠を尽くすに批判的で。 これがなければ、イエズス会は弾圧されなかっただろう・・と。 神は「ぬるい」者を最も憎み地獄行きにされる。 ―イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが〜「盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている―(ルカ) ―イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされてはいない イエス「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。女「〜でも、小犬もその主人 の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。イエス「〜あなたの信仰は見あげたものである〜」。 神が信仰を地上のものに心を引かれない者のみと決めた。この世の者ではないイエスが神への信仰ありの者で、盲人や貧しい人々など最も小さい者が神への信仰ありの者と 伝えるためである。世と世にあるものとを必要とし喜びながら、神に信仰ありとする者どもに、神は天で怒り、敵意を抱いていらっしゃる。 必要な物が満ちた今の世を悪しき者の配下・からし種一粒ほどの信仰の無い者とし、誰も自分の命を憎むことなく生まれたように、生命を尊重し善悪を知る人間とされた。 人間は信仰ができず、苦しみ悶えた地で苦しみを回避できない者、耐えねばならない者とされた。地上の者に心を引かれず、何事も思い煩わないよう神を信じ努めるだけと神 が決めた。 神はいつかという心の無い者を「獲る」人間の宗教でも「釣り殺し束縛する」方である。 そこでイエスを山を移すほどの力、地上で罪をゆるす権威を与え、神の義の国=神への信仰とはどういうことかを示した。 ―イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である〜第二はこれである、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」〜すべの燔祭や犠牲よりも、 はるかに大事なことです〜あなたは神の国から遠くはない(マルコ) いくらバカスチャンやバカ師が騒ごうと、神にとってはこの世の者でない者以外神への信仰はない。人間は人間でいたいというあやまち(罪)と誰でも人間でいたいと生ま れたことへの尊重しかない。 からし種一粒ほどの信仰の無い者=世と世にあるものとを必要とし暮らす人間 神が決めたこと、神の法律である ―法にしたがって生き、恥を知り〜自分のなすべきことを行う人を、他人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである〜他人を訓戒せ よ、教えさとせ〜悪人と善人とは、死後には異なったところにおもむく。悪人は地獄〜善人は天上―(感興のことば) ―肉体を宿している間は主から離れていることを、よく知っている〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである〜人々に説き勧 める―(コリント)―主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい―(エペソ) そこで宗教者に対し、 ―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法を命じる事を行うなら〜彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し 、そのことを彼らの良心と共にあかしをして、その判断が互いに訴え、あるいは弁明し合うのである―(ローマ) 信仰はなく他人を訓戒せよ、教えさとすだけが宗教の役割だと命じたのである。誰も神により信仰無く生まれたように、この世の者ではない以外に信仰できる者はいない。 この世は善悪を知る人間のみなのである。 サタンの誘惑。 思慮は、サタンに町を見せられ、私(思慮の虚栄心)を崇めよ。 されば、この街をお前にくれてやろう。 思慮は喜んでサタンの後を従った。 天の父に従わない宗教は地獄行き 私は宗教への深い知識は無かった。神とか宗教とかいっても愛とか慈悲とか、そういったことだろう・・・宗教をバカにして笑っていた。昔よりよい時代になって今は幸せだ。 聖書から引用しよう。―わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない〜熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが(ヨハネの黙示録) 「ぬるい」とか「神の右とか左とか」とい言葉には、神が直接話さなければ無知であった。なんらかの関係で、決して死を味わうことのない世界、神通力・山を移す ほどの国を知ったが、神と呼ばれる存在が人格的に存在しいるなどとは、いるかもしれない、疑う、または人類に対して愛情深いような善い存在かもしれない、もしいれ ばそのような存在であろうと。 しかし、ある時神が直接話されて、人間は「何かしたいこともある」と願い出た者であること、「全世界どのような人間も尊重している」ということ、それが神への信仰で すか?に対し神は「右か左か」悪いことをしていないので「右だろう」・・・神は「地上のものに心を引かれない者のみ神への信仰だ」と怒られた。 そして「肉の欲、目の欲、持ち物の誇り」など世と世にあるものとを一切否定され、丁度その頃、キリスト教など興味がなかったが、アーミッシュという組織が話題となったこと、 大震災前で、生きている人類全てに天罰など危害を加えないということ、神への信仰は「地上のものに心を一切引かれない者のみだ!」と神自身が常々言われ、誰も信仰無く生ま れても「愛や良識=(御言葉は神にとって良識である)」に従えば人間らしいと認められること。神の義の国のみを信仰し生きる者を、「心無い者を獲る」、人間がつくった宗教 全てを、「心無い悪い者どもを釣り殺し束縛する」最後は「肉の欲・目の欲・持ち物の誇りにあくせくし悩み苦しみ思い煩っている者」のように滅びの者であると。 そして「聖霊に満ち荒野」の者のように、世と世にあるものとを離れ、大自然で世と世にあるものとから離れ、何事も思い煩わない者のみ永遠の命につながる、神に喜ばれる行為 であること。(新約聖書では、わからなかったが) 神が語る絶対は、世と世にあるものにいる限り、あなたがたに信仰は無い、「地の者は愛」で、神は人間的に善い神で愛情深 い存在ではないこと、人間の欲得な行いより「愛や良識」は「心ある人間」なら当たり前のことと知っているはずのこと、人々の金や肉の欲、目の欲、持ち物の誇りに仕えること より、全ての人間を尊重してあげる人間は人として当たり前のことであること。神への信仰ありでなく罪を犯した肉を宿とした人間であるので、地の全ての苦難に対しても、この 世のことだと認め、神への信仰はただ世と世のことから一切離れ、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りから一切離れ、何事も思い煩わない者となること。 そして、その神への信仰から離れ、からし種一粒ほどのない愚かな人間と認め、 ―あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力し働き続けた(テサロニケ)―そなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない ―(悪魔との対話)― 一日の苦労は、その日一日だけで十分である(マタイ)未来のことにあくせくすることもなく―(神々との対話) ―公平とあわれみと忠実とを見のがしている(マタイ)―苛酷なることなく、貪欲なることなく〜万物に対して平等である(ブッダのことば) ―貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ〜ことばと心を正しくするようにこころがけ、身に悪事をなさないで〜まことあり、柔和で、よく分かち与え、 温かい心であるならば―(神々との対話) ―空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し〜『主よ、いつ、わたしたちは(マタイ)―貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正 当な働きをしなさい。悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない(エペソ) そういった心と行いは命ある人間として当たり前ということ、信仰は地上のものに心を引かれない完全な者だけであり、世の世にあるものとを喜んで暮らす者は、人間か獣のように滅び る者か別れるだけで、まだ神への信仰には至らず、他者への配慮あるもある人間は信じなくとも滅びではないが、滅びの人間が否定しても、そのことには何も変化がないということ。 滅びない者になるよう、救うために現れたということ。 神への信仰は地上のものに心を引かれない、現代の暮らしで、神にとって心ある人間か滅びかに変化は無い。このことを攻撃する者は、滅びか地獄かに分けられるのみ。 思慮 ◆AIOdk12HhuOj の長文の基本は、彼の虚栄心。サタンからのプレゼントを御喜びだ >>173 「敬虔な仏教徒」ってのは、 どのあたりで判断して言ってるのかなあ。 神が直接 神の律法を語られたから。別に誰にも自分のことを知られたくないし、神が言うから仕方なし教えるだけ。ひとりとして反論の無い者としなさい。 神は神を信じさせて、「地上のものに心を引かれない者」をよしとせず「世と世にあるものから離れて、何事も思い煩わない者」を神への信仰としない者どもを最後に 地獄行きとされる。愚かな人間の宗教は最後は滅び。 神に求める者など信仰に求める者たちは全て、『地上のものに心を引かれず、何事も思い煩わないようにする者』 地上で自然災害など全てを失っても、その他苦しみ思い煩い信仰に求めても、「世と世にあるものから離れて、衣食があれば足りるような暮らしをよしとし、何事も思 い煩わない者以外 私はよしとしない」とそのように告げられた。神は天で、世と世にあるものを離れず、信仰深いと自任している者どもに怒り、敵意を抱いていらっ しゃる。神に喜ばれることと言えば、大自然で世の欲得から離れ楽しむことだけだ。 「愛や良識」「目的」「何かしたいこともある人間」であり、「全ての人間を尊重」され、何一つ信仰も無い人間・・・それが神への信仰ですか?との問いに対してだ。 「他者への配慮もある人間」働いて自分の目的を達成すればよいでも「人々の富への貪欲、肉の欲、目の欲、持ち物などの貪欲にあくせく仕え、思い煩い悩み苦しんで いる者どもは地の奴隷として、滅びる」 だからイエスは、盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている、わたしにつまずかない者はさいわい として、 この世の者ではない神の義の者の姿で、―あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい〜あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい、主は近い。何事も思い煩って ならない(ピリピ) 最も小さい者を私の兄弟とされた。 ■その他は信仰のないただ愚かな人間 ―自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して〜「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者〜(より)『神様、罪人のわたしをおゆるしください』 〜おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう(ルカ) 地上の者に心を引かれない者は、山を移すほどの力・神通力あり、全世界は悪しき者の配下・妄執という一つのものに一切のものが従属したということ知っている。 それは神の法律で、自然災害などで多くを失っても、貧しい地域でも、信仰に求めるものが、「地上のものに心を引かれず何事も思い煩わない 神の右」の者が善人と されるためで、世と世にあるものを必要とし喜び暮らす者一切が、皆同じからし種一粒ほどの信仰の無い愚かな者とし、貧しい人々や悩み苦しんでいる人に配慮があって も、人間として当たり前とするためである。 ■人間は神に言い逆らう存在でも ―物を言い、また目が見えるようにされた〜人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない〜人の子に 対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない(マタイ) 神は地上のものに心を引かれない何事も思い煩わない国のみをよしとされている。しかし、「地の者は愛」と言って、全世界は悪しき者の配下ではあり、愚かで何かした いこともある人間の状態であるが、心の内に善いものを宿し、他者の悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげようとするあわれみを決して悪いこととしないこと、それらを 取り除いてあげようとすることは善いと知っている「良識ある人間」が獣のような者ではなく天に通じる人間らしい者と造られた。それは、自然のままでも人間ならある ものだと。 聖霊に満ち荒野・森に住み心静まり清浄な行者と無所有が、この世で善い国に近く、常に大自然などを楽しんで欲得な行いから離れることができない人間でも、 修行完成者の慈しみ・あわれみ・愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制をよしと受け入れるなら、人間らしいと尊重される。 信じていつか善い国・自己愛のために人間の宗教的行為を行っても、心無い者どもを獲るか釣り殺し束縛するだけ。宗教の役割は、富や人間の欲得、得た自己のこと より、他者への配慮もある心ある人間をつくること。世と世のものから離れ、大自然などで喜んでいる者は、善い清浄な国につながっているということ。 思慮 ◆AIOdk12HhuOj の長文の基本は、彼の虚栄心。サタンからのプレゼントだが、 案外ものみの塔仕込みかもなw 鉄仮面の長文レスはw 183 :遠山金:2014/12/27(土) 17:58:04.23 ID:6QfVBU02 >>173 「敬虔な仏教徒」ってのは、 どのあたりで判断して言ってるのかなあ。 ま、キリスト教への信仰心が薄いのでw キリスト教徒そのものが神の怒り、 私は神から直接言われたことを語るだけだ。地獄行きの牧師や神父は多いと感じる。 神の御加護をといって戦争 の者どもも、神を信じよしとした時点で「聖霊に満ち荒野の者のように、何事も思い煩ってはいけない」 神は、クリスチャンや聖書ではわかりにくかったが、 山へ逃げよ(マルコ)イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず(ルカ)一日の苦労は、その日一日(マタイ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗(仏) 神は世と世にあるものとを一切否定され、『山へ逃げよ』 大自然を喜んだり、衣食があれば足り何事も思い煩わない者のみ、地上のものに心を引かれず何事も思い煩わない者以外 信仰ありと認めない方。 キリスト教徒のバカ師・珍父が神に逆らい、最後に地獄行きの者とされると人々にもわからせるためでもある。それは神の強い意志でもある。 >別に誰にも自分のことを知られたくないし、神が言うから仕方なし教えるだけ。 つまり、「神」とやらのスピーカーに過ぎない訳だね?(笑) (^。^)マトモな人は、外部スピーカーに反論とかしませんが、ご存知ですか?(笑) 神の御加護をといって戦争する者どもも地獄行き ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった(ブッダのことば)善い所に行く者は、何が清いか清浄か、そのただ中にあるもので知っている。 神を信仰しようとした時点で、「お前たちは、世と世にあるものから離れ、何事も思い煩わない者とならねばいけない」 神は男と女という性差は無く、幼い子のように、大自然を 楽しむ者のように、世と世の欲得なことから離れ、ただ何事も思い煩わない者のみ、私に信仰ありとすると。衣食があれば足りるような者と大自然を喜ぶような者、世の欲得なことか ら離れ、何事も思い煩わない幼い子は一切戦争はしない、お前は女だから・男だからといったものも無く、神にとって不浄な所の違いだけで、ただ隣人への愛・慈しみのこころづかい により、人間らしい者となっている。 神の国はいつ頃・・・ただ中にあるに逆らい、終りの日などいつかという者を獲り、人間のつくった宗教で、心無い獣どもを釣り殺し宗教的行為で束縛する。最後は滅びの者となる。 神はあるがまま、そのままの方であり、自分の命をこともなく生まれた人間一切を尊重される方であり、神の右(地上のものに心を一切引かれない国を信仰)とされ、全世界をか らし種一粒ほどの信仰の無い者とされ、 地上のものに心を引かれない国のみ神への信仰と義とされる神 とからし種一粒ほどの無い一切の肉を宿とした人間の尊重 ―物を言い、また目が見えるようにされた〜人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない〜人の子に 対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない(マタイ) 聖霊に満ち荒野の者のように、衣食があれば足り、世と世にあるものから離れ、何事も思い煩わない者のみ神への信仰で、それができないからといって汚す言葉も、人にはゆるされ る。人々の悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげることは善い、得た自己(身体)のため、富や肉の欲、目の欲、持ち物の誇りの貪欲のため、人々を悩み苦しみ思い煩させて平気だ と言う人々や、私は信仰ある者だと勝手に自任しても、肉を宿とした人間だけで、衣食があれば足り何事も思い煩わないよう努めない者は、最後に地獄行きとする。 ―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法を命じる事を行うなら〜彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し 、 そのことを彼らの良心と共にあかしをして、その判断が互いに訴え、あるいは弁明し合うのである―(ローマ) 地のこと富に仕えること、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りよりも、他者への配慮もある人間は自然のままでも知っているはずだと。それを地獄行きの者にならないよう確実 にするだけで、いくら自己愛のためや正義心のためなど、人間の身勝手な信仰で善い国には決して入れず、あわれみや慈悲などで善い国に生まれるようにされる。 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、 うるさいシンバルと同じです。 ってやつだわな 異言ってのは「これまで誰も聞いたことの無い言葉」 人から聞いて悟るようなものではない真理ということだよ 言葉ってのは通じてこそ意味が有るんだよ。 自分にもわからない言葉ってそもそも意味がないんだよ。 オレのいびきといい勝負だね。 第一コリント14章13節 こういうわけですから、異言を語る者は、 それを解き明かすことができるように祈りなさい。 チェコで歴史遺産に落書きをした恥さらし! 最高刑が懲役3年ということだから、それにしてもらえばよかったのに。 もう、日本に帰ってこなくていいです。 人間の行動には動機がある ◎臨死体験者のように、その世界を知ると人生観が変わる ◎神は愛情深い存在か、宗教は悪いことをするな善いことを行う説教だけだと思ってしまった・・・・・他者への信仰=人格神は実際存在し(神の右か左により分けられる) 全人類の誰も尊重される存在で、「その世界から離れて悪しき者・妄執に至ったのはなぜか」という疑問に対し、「愛や御言葉・良識」と答えられた。人間は「目的、 何かしたいこともある人間として生まれたのだと。」 それが神への信仰ですか?神は非常に激怒され、「地上のものに心を引かれない者のみ神への信仰である」 2chのレスの後、フェラーリの事故・海に溺れた子供・今回の男と女かなど新聞紙面を見て驚いたが、それは偶然か、神が近々起こることを預言して言われたかわから ない。でも神は大震災の前でも人類に危害を加えないと宣言されたし、ある程度は人類の未来に起きることを知ることができた方かもしれないし、 何よりも人類の基本的な行動は■□■ 人類よりもよく知っておられた ■□■ ということと、地上のものに心を一切引かれない神の責苦より、人間の批判は辛く ないし、『宗教はただ善い行い・悪い行い』だけの私に、地上のものに心を引かれない者が神への信仰・人間は(何も信仰の無い)者とせず生まれたように、「愛・ や良識」で人間らしいと尊重されている。 神に仕えているのである。 釈尊とイエスと地上のものに心を引かれない信仰・この世の者ではない信仰の達成と、神とからし種一粒ほどの無い者と修行完成者と ―御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない(ガラテヤ) 何も信仰なく他者への配慮もある人間と自制をよしとする心は、神と肉もある人間の状態で一つである。完全な神と肉を宿とし愚かな者となった人間が、この世は苦しみ である、それを楽にしてくれる宗教・信仰は一切無い、人間が信仰対象物をつくり拝ませても、様々な宗教的行為をさせても、それは無意味であり、世と世のことから離れ、 何事も思い煩わない者となるような者のみ救いがある、聖霊に満ち荒野の者のように、森に住み心静まり清浄な行者のように、世と世の欲得などにあくせく思い煩うことな い幼い子のように、自然災害などで多くを失っても、神が創造された大自然の静かな所は神の義につながり、そこで何事も思い煩わない者は、神の義に近い。 イエスは物欲に満ちた豊かな時代に現れたのではなく、世に打ちひしがれた人・貧しい人々につかわされ、現代のように、衣食住を十分満たし、神を信じれば神の敵意・憎 しみの者ではなく、神に近い者に現れたということ(=私の兄弟) その他の者はからし種一粒ほどの信仰の無い者と教えさとそうとしたこと、その人間がからからし種一 粒ほどの人間(ほぼ多くの日本人など)、『負担をかけまいとして働こう・衣食住の無い人々に衣食住を』といって、他者への配慮もある人間・得た自己のため他人を悩ま し苦しめることは平気とできないように造られらこと。 コピペしてるのかもしれないが、 なんか読みにくいよ。 ■神は地上のものに心を引かれない重いを負わない国のみ義とし、人類をからし種ひとつぶほどの信仰の無い者としてゆるされた方なのに 「お前たちは世と世にあるものとを必要とし喜びながら信じられる者と思っている」神がいる、いないか論じ合っても、神様を信じて下さいと他人に願っても、「衣食があ れば足り、何事も思い煩わない者とならない限り、お前たちは私の怒り・敵意の者だ!」「世にあることも一切思い煩わないで、楽しみとゆるされたのは、聖霊に満ち荒野 の者のように、神が創造された大自然のみ!」・・・だからイエスは神の義=この世の者ではない、盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている 神がいるとかいないとか、神の御加護を・・(戦争)とか、今回のように神は女だと訴える者など■神は、神が、神なら・・・■一切ゆるさない方で、神と言った限り、 世と世のことから離れて何事も思い煩わない者しかゆるさない=ただ大自然の静かな所を楽しむ者のように、一切の戦争・争い・暴動・デモ・・・など無い。 造られた者、まだ他の人たちと同じように愚かなからし種一粒ほどの信仰の無い者とみとめ、誰も人間でいたいと生まれたことを尊重し、悪しき富への貪欲、肉の欲・目 の欲・持ち物の誇りにあくせくし思い煩い悩み苦しみ=生まれた人間より地の物質的思い・得た自己より、他者への配慮もある人間に育てること、来るべき世にするため、 困難があっても加護される宗教・信仰はなく、衣食があれば足り何事も思い煩わない信仰か、お前たちが悪いという罪な地があるのみだ! 神にとっては一切がそのままであり、何も論じ合うことなく、神の右かからし種一粒ほどのない人類の救いがあるのみ。信じるだけで、神の怒りの者となってはいけない。 ちょっと日本語勉強してから出直したほうがいいのでは? 愛深きゆえに愛を拒み死んだ男 南斗鳳凰拳のサウザー □唯一の神 ―究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜母が己が独り子を命を賭けても護るように、 〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ(ブッダのことば) 人間の状態は悪しき者の配下・妄執という一つのものに従属したということを知っている。イエスの弟子たちは知っている、神が何かを。 神の御加護をという者どもに天にいる存在が怒っているように、神は人間が一切信じられない存在であること。神は地上のものに心を一切引かれないイエス・釈尊の うにならないと、信仰ありと絶対に認めない存在であること。神々と呼ばれる人格は、地上のものに心を引かれない国の唯一の神に在る者のみよしとされ、神の御加 護をという者どもを堕落としてゆるさない存在であること。 あなたが唯一の神に従って、地上のものに心を引かれず、何事も思い煩わない者とならないと、信仰ありとされない。また、何一つ信じなくとも、悪から離れ、 何事も思い煩わない者は、自己愛のため信じる者より善い者なのである。 □堕落してない信者・信仰 ―山へ逃げよ―(マルコ)― イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず―(ルカ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗―(仏) ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった(ブッダのことば) というような大自然などを楽しんで何事も思い煩わない者であ るとか、部屋の中でも何事も思い煩わないよう熱心に努め、衣食があれば足りるような暮らしを努め満足する者。 ■人間の手で作られたものを拝んだり、その他人間の宗教的行為は、心も無い悪しき者を釣り殺し束縛するのだと。 ■いつか善い所という者は、愚かな者どもで獲る=宗教で束縛する。 この世の苦難に耐え忍ばねばならない運命として生まれた人間が、信仰ありと喜ばれることは、衣食があり足り何事も思い煩わない者となるか、世と世にあるものから 離れ、大自然などで喜び足りる者。信仰できましたという者はひとりもいないのである(それ以外では)天ではそれを徹底されているのだ、神が決めた法律なのである。 □愛など他者への配慮もある人間であっても人間として当たり前 (冷酷・残忍・無慈悲・・・地の肉もある状態=得た自己 地のこと 富や肉の欲、目の欲、持ち物の誇りにあくせく仕え思い煩ったり、他人への配慮も無い人間は獣と 同様) ―たといわたしが、人々の言葉は御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ〜山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい(コリント) 聖霊に満ち荒野の者だけ神に喜ばれる、世と世にあるものを必要とし暮らしながら、「神様、私は他の人より信仰があります」という者は一切いない。 「神」など少しでも何か信仰しようとする者は「よい天気ですね」と世と世にあるものから離れ、何事も思い煩わないで快く挨拶できる者で、争いや戦争・人殺し・略奪 は一切ない。「いるとかいないとか言って争うこと」も一切無い。「人の手で作られたものを拝め」「人間の宗教的行為をせよ」ということも一切無い。 信仰あり清々しい心でいつも喜んでいなくても、世で苦しみに耐え、他者への配慮もある人間でいても、瀕死の人を助けても、妻子を愛し護っても、人間として当たり前 であると。人類を不完全な地でからし種一粒ほどの信仰の無い者として生まれさせ、誰も人間でいたいと生まれたことを理解し、尊重すること=神にとって人間の状態で 当たり前=それで神様信仰ありますという者はひとりもいないのである。 □妄執外・悪しき者の配下外=無量の慈しみ そして他者(神と呼ばれる人格)=地上のものに心を一切引かれぬ者のみ信仰あり。 ―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を待たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである―(ローマ) ―法にしたがって生き、恥を知り〜自分のなすべきことを行う人を、他人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである〜他人を訓戒せ よ、教えさとせ〜悪人と善人とは、死後には異なったところにおもむく。悪人は地獄〜善人は天上―(感興のことば) 神とか他者信仰など無く、『からし種一粒ほどの信仰無く』まだ汚れの無い幼な子として何一つ信じず生まれた。もちろん人間の宗教に毒されることもなく。 何も信じなくともむしろ健康的な心を知り、悪しき者・妄執を乗り越えた境地を肉の内に宿し、何も信じなくとも自然のままでわかるだろうという人間の状態にされた。 ■仏教で悪魔ナムチと呼ばれる軍隊 かたちあるものを拝ませ、呪文のように意味不明な言葉をくどくどと唱え、死者の供養を善いことのように行う悪魔教。心無い者どもの人間教を悪霊どもが褒め称える。 そういったものを批判し「神の御加護」と神を信じても、神にとっては他の人たちのような者として全く同じ。全て人間の思いや自己愛から生まれた宗教は、心無い獣の ような人間を釣り殺し束縛するものだと。むしろ健康的な者を不健康な者から護るためにあるとして寛容な方である。 □心があれば世に打ちひしがれた人々〜貧しい人々 この世の者ではない姿(イエス)・生きながら彼岸(世を捨て無所有で家なくして歩みわずかな食物で暮らす) 悪しき者・妄執を乗り越えた姿のみが信仰ありの者と認める こと、地上のものに心を引かれない、何事も思い煩わないいやしが善い者・神への信仰として在る。 ―山へ逃げよ―(マルコ)― イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず―(ルカ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗―(仏) 何事も思い煩わないそういった心が信仰ありの者と 認めて、 □宗教者に命令 ―法にしたがって生き、恥を知り〜自分のなすべきことを行う人を、他人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである〜他人を訓戒せ よ、教えさとせ〜悪人と善人とは、死後には異なったところにおもむく。悪人は地獄〜善人は天上―(感興のことば) ―肉体を宿している間は主から離れていることを、よく知っている〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである〜人々に説き勧 める―(コリント)―主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい―(エペソ) 信仰・宗教が無いから「この世の者」であり、ただ誰も自分の命を憎むことなく生まれたように「人間になりたいと生まれた」ことを認め、尊重してあげ、知っているはずの ことを教えることが、人間を救う宗教の役割だと教え、世を救おうとされた。神が悪を憎むことにつながる善悪を押し付けることは一切ない。 ―どの方向に心でさがし求めても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれ自己がいとしいのである(感興) 自己がいとしいとして生まれた人間を、悪しき宗教や冷酷・残忍・無慈悲、物や金を優先して人間を人間と思わない者から護るため。 本来あるべき人間の姿を護るため。きたるべき世のため。 □神など何か信じようとする者は、肉体外を善としているから、何か信じようとする者は滅びを信じる者とされる。 単純信者の最後は滅びと決められている。決して善い国には入れない。 □悪から離れ、他者への配慮もある行動をしても自然のままとし、苦難や困難なことがあっても(世の中にあることだから)といって耐え、明日にことにも臆病にならず、他の 人に困難なことがあっても、信仰で願い求めるような(他人に何かせよというような)祈りや宗教的行為をせず、助けたりできる者は自分で行う者。 たとえで言うと、家族に病気の者がいても、医者しか治せず、患者を医者に連れていく・・・何も信じないで行う者は見事な信仰な者である。 そういった人々を人間がつくった悪魔教から救うためでもあり、 ―すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるの である。神はこのキリストを立てて〜すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、 神みずから義となり、さらにイエスを信じる者を義とされるのである〜人が義とされるのは、律法の行いのよるのではなく、信仰によるのである〜信仰ゆえに、わたしたちは律 法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである(ローマ) 神はバカテスタント・バカリック・バカスチャンでも、滅びの反駁仏教者でもない。 神よ、神様・・・などと騒いだり、何か信仰しようとしているが、地上のものに心を引かれずこの世の者ではないイエスの姿、生きながら彼岸を目指す釈尊と修行僧のみ。 地上のものに心を引かれない国を義として、信仰深い者に対し怒っている。からし種一粒ほどの信仰の無い・何ものも信じることなく(仏教)で、人の世で何も信じない 者となり、その怒りはおさまる、神のよき理解者となるためで、何もなくとも、思い煩いの無い者とならねばならない。聖霊に満ち荒野の者のように、森に住み心静まり の者のように、できれば大自然などを楽しんで思い煩わない者とならねばならない。 ―御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない(ガラテヤ) ― 一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜慈しみのこころづかいがこの世では崇高・一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成 者ブッダに罪過は存在しない― ―学ぶことに生きがいを認め、奉仕を楽しむために、戒律をまもって生き、ブラフマンを奉じた生活を送っている人々がいる。これは一つの極端説であると説かれる〜 この二つの極端説を知って、そこにとどこおっていなかった賢者たちは、それで思い上がることはない(感興のことば) ―自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく(ローマ) 信者=悩み・迷い・自己愛からくるもの、或は人間がつくった悪魔教の勧めから救うためでもあり、 この世で崇高な者にならねばならないことはなく、思い上がらない程度の他者への配慮もある人間で自然のままで行えるようなことでよく、もし、海で溺れた子供を命 を懸けて救ったなら、世間の人々が勇敢だと褒め称えるように、何も信じなくとも素晴らしい者はいる。 本来なら、何も信じなくとも人として心のただ中にあるものをわからせるためであり、自然のままでも知っているはずのことのみが人間にはある、その律法の確立の ため。 □神に対する論じ合いは全く必要ない! 何一つ信じず生まれ、誰も自分の命を憎むことなく生まれ、それぞれ自分を大切に思う人間を尊重してあげる。そういった人々の集団・国家により神の平和が築かれる。 「愛・良識ある人間」 信じる者ほど迷っているのだ。信じる者ほど悩みがある。自己愛により、御利益を望んで人間の宗教に頼ろうとする者たちもいる。 決して死を味わうことのない世界ありから、全世界は悪しき者の配下・妄執という一つのものに一切のものが従属した=人間の思いを得た がどういうことだ? 人間は釈尊と修行僧のように妄執を断じねばならないものか?また、映画やドラマ・報道・・・での人々の神への思いから神への偶像。 解脱で釈尊の教え、あなたがたは何でもできる山を移すほどの力・・・・・・・で釈尊やイエスに興味を抱いたが、人々の神への思いを見て、神に対する 偶像を抱いてしまった。「神は私を救って下さった、神の御加護を、神よ、神は、神が・・・・・」彼らにより迷っていたのである。 □しかし、何も論じ合うことなく「愛や良識ある人間」として生まれたままだと では、それが神への信仰ですか?「お前は右か左か?」(私は、悪いことをしないから)「右」と答えた。そして神は怒り、「地上のものに心を引かれない者のみ私への 信仰だと」「(神に喜ばれることは)、大自然など静かな所を楽しみとし何事も思い煩わない者のみ。」そして、神はひとりだけで人類の支配者で善い神という存在では なく、「地上のものに心を一切引かれない者の国」だけを義とされ、生きながら彼岸の釈尊・この世の者ではないイエスの姿で、神への信仰はこのような姿なのだとわか らせ、世に打ちひしがれた人々・貧しい人々、いい加減につくられた人間の宗教に対し、善い者の信仰とはどういうことかと教えたり正そうとされた。 ■人の手で作られたものを必要とし喜ぶ者 他の人々と同じ立場で、神にとっては「人間になりたいと生まれた愚かな存在」だけで、神は「全ての人々を尊重している」神がよしとされることは、ただ「地上のもの に心を引かれない者」のみで、神がといって人類に対する善悪・理想はない。苦しみ悶えることに耐えねばならない愚かな人間がいる。行いにより誰も義とされない教えは そのためだ。善を言い、悪を憎むことなどひとつもない。それぞれの人が、自分(得た自己)を管理するのが、人間の努めなのだ。この世で悪いことがあっても、天を信じ てひとつも文句が言えない。 ■救い主 そのように人間が勝手にする宗教・信仰などひとつもないのだ。悪霊どものおもちゃにされる良識ない者たちの宗教的束縛や、わからぬ者を獲ること。そういった宗教者が 人間に役立つように、誰も働いてくれる人々が無いと心得、互いに人々の役に立つよう働こう、過労させることは悪い、少々のあやまちはゆるしてあげよう、公平とあわれ みにより分かち与えてあげよう、人を傷つけるような悪い言葉を語ってはいけない・・・人のために役立つような人材に育てるよう、良識の無い者に対して仕事をさせる。 これが宗教者に対してなさったことなのだ。 物質界を悪にしたのは、物や金、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りなどより人間を優先することを当然の善とするためで、何も持っていなくとも思い煩うことなく見識が真直ぐ なら、むしろ善い者とするためである。 世の暗黒に覆われたまま迷っていると、人間の宗教に束縛される。大自然を楽しむような清々しい心をよしとし、また、神に信仰があっても、世の善悪から離れ、そうい ったことを常としなければいけないので、誰も神をして争うことはない。人と論じ合うことなく、迷っている人々を指導してあげることも、神がされたように善いことな のである。 『天地は滅びるであろう、わたしの言葉は決して滅びることはない』今現実の世の中を歩むため、誰も神様と言えないように神がされたのだから。 聖書を読むことは良いことです。 お釈迦さまの教えも素晴らしいものだと聞いておりますが、 わたしは聖書をお勧め致します。 聖書には悲しい歴史から 救いの日まで書かれています。 聖書の言葉でわたしは数えきれないほど救われてきました。 谷底に落とされたときも、 生きる目標を失ったときも、 聖書はわたしに語りかけてくれました。 聖書はいつもわたしのそばにいて、待っています。 聖書は、知識を増やすためのものでもなく、悟りを得るためのものでもなく、読む人の人生と歩んでくれるものです。 わたしはそんなふうに思っています。 聖書には不思議な物語がたくさん書かれていますね。 神さまが世界を創造してくださった不思議な物語。 科学とはまるで別世界のような天地創造の物語。 光よあれ!水よあれ!生き物たちよあれ! 神さまのお言葉で、魔法のように世界が生まれてくるのです。 不思議ですね。 でも、きっと意味があるのでしょうね。 わたしも、神さまみたいに 光よあれ!希望よあれ!いのちよあれ! って心の中で言ってみたりしています。 聖書に健康法が書いてあるんですか?知りませんでした。 それはレビ記でしょうか? 体に良い食べ物のことですか? 新約聖書のイエスさまやお弟子さまたちのように、いつもたくさん歩くと健康に良いということでしょうか? 聖書って、いろんなことが書いてあるのですね。 健康法というと深呼吸が良いです。 聖書には神さまが塵に神さまの息を吹き込んでくださって、人間が生まれたと書いてあります。 息や呼吸には人間の命の源があるということでしょうね。 空気の流れや風は、水と同じく自然の世界に命を与えますし。 健康と命はとても大切ですよね。 神さまがくださった大切な命を、どのようにわたしたちが使っていけば良いのか、健康はそのことを考えさせてくれますね。 どうして人は争い、悲しいことをくり返すのでしょうか。 聖書には戦争の歴史がたくさん書かれています。 その歴史は悲しい過去の歴史です。 でも人は悲しい歴史を積み重ねながら、少しずつ学んでいきます。 だから希望はあると思います。 いつの日か平和も来ると思います。 壊された日々も、もとどおりに戻る日は来ると思います。 聖書はそういうことをわたしたちに伝えたいのではないでしょうか。 モーセがミデヤンの地で身につけたのは健康な生き方 それを元にしたのが律法 祭司は今で言う医者、供え物は医療費 最も重要な正義、 あわれみ、誠実をないがしろにする律法学者をキリストは「偽善」と言った 供え物として「はっか、いのんど、クミン」を挙げたのは医療を強調するため 聖書はとても厚いので読むのは大変です。 全部読めても良いのですけど、全部読めなくても良いと思います。 全部読めたかということよりも、何がその人の心に残ったのかということのほうが大切ではないかと思います。 全部読んでも何も心に残らなかったら少し悲しいですから。 読んで何も心に残らなかったときでも、後から心に浮かびあがることもあります。 ああ、あの物語は、あの言葉はこういうことだったのかな?と思うこともわたしはあります。 ルカ福音書を書いたと言われているルカは、お医者さまだったというお話しを聞いたことがあります。 聖書には病気についてもたくさん書いてありますし、モーセも人々の健康のためにいろいろなことを学んだのでしょうか。 イエスさまも人々の病気をたくさん癒したと書いてありますし、聖書と健康はとても深いつながりがあるのだと思います。 聖書の終わりにはヨハネ黙示録があります。 世の終わりにたくさんの大変なことが起きて、世界が混乱していく様子が書かれています。 この世界がヨハネ黙示録のような終わり方になってほしくはないのですが、きっとそうなってしまうのでしょう。 そしてヨハネ黙示録には、最後に新しいエルサレムが天から地上に下りてくる様子が書かれています。 まるでSF映画に出てくる巨大宇宙船のようなスケールで書かれていますが、2千年前に書かれた黙示録がSF映画なみというのも不思議ですね。 聖書には人の想像力を超えた何かがきっとあるのでしょう。 でもその何かが何なのかが分からないので、何かのまま。 世界の終わりがいつ来るのか分かりませんが、悔いの少ない人生を生きたいものですね。 世の無益な争いや、世の悲しい争い、虚しい争いから、多くの人が離れることができますように。 この世で力を誇示しても、いつかは老いて力を失い、神さまに命を返さなくてはなりません。 わたしはまだまだ聖書を読んでも分からないこと、見落としていることがたくさんありますけど、 これからも聖書を読んで、人の歴史や神さまのお導きを知りたいと思っています。 水を清める木なども荒野生活で得た自然科学の知恵 海が割れることやウズラやマナの降るのを知っていたのは気象学の知恵 エジプトの数々の大災害を予言したのもそれに関連する知恵 すべて健康的な脳を働かせていなければ出来なかった業 健康と病気、医学と奇跡。 聖書は様々なテーマで読むこともできますね。 いろんな洞察があるのでしょう。 科学と聖書の関わりも興味深いテーマですね。 それは水と油の関係なのか、それとも水と油の関係だから素晴らしい関係なのか、 いろいろな方向から考えて見ても、様々な発見があるでしょう。 科学は人間の智慧の結晶ですし、聖書は神さまの智慧の結晶でしょうから、 この二つの智慧が重なるとき、また素敵な出会いと展開が開けるような期待がわたしにはあるのです。 聖書をどのように読むか、それは人それぞれで良いと思います。 いろんな人が読むことで、わたしたちは聖書についていろいろと学ばせてもらえるのですから。 旧約聖書の時代の人々は自然科学にとても詳しかったのですね。 先人の智慧には驚くものがありますね。 エジプトのピラミッドなどはとても高度な技術が使われていて、失われた先人の智慧で作られたそうですね。 先人の智慧がもっと伝わっていれば、わたしたちのこの時代も大きく変わっていたと思います。 どこで伝わらなくなってしまったのでしょうか。 聖書もわたしたちが後世に伝える努力をしないと、失われた智慧になってしまうでしょう。 正月インフルのせいで、教会疎遠だなw すっかりばりばりの大乗仏教徒だぜw インフル写しちゃ悪いから教会礼拝行かねえw 先月の連チャン礼拝参加は去年で終わりなのかもなw? 最近、ほぼ、聖書を読まないな。 キリスト至近距離でパワー食らうんで満足してしまったw 最近のブームはやはり、いつものヒンズー、イスラム、ユダヤ、神道に、 教義的キリスト教(イエズス会以外の・・・・) 俺は古代エジプトの宗教やらジャイナ教やらいろいろと。 正月は4つぐらい神社行ってきた。 ついでにさっき歩いてたら「南無大師遍照金剛」と書かれた像を見かけた。 >「南無大師遍照金剛」と書かれた像を見かけた。 空海のことやな、空海の実像から離れた空海伝説信仰は現在日本人が思うよりも絶大だからなあ。 平家物語あたり時代の高野山の空海信仰は日本ほとんど宗派&神仏習合仏教に、あちらこちらと、 空海は八幡神の化身やら聖徳太子が前世、極楽浄土の阿弥陀仏の化身とか。 現在空海信仰者の想像つかない世界だ。 マジで明治以前の高野山は日本ほとんどの宗派のチャンポン状態だからなあw。 神社は神仏習合的に礼拝しちまうなあ・・・・。 ま、南北朝以降、現在壇上伽藍の高野山は俺に対して、最初冷たかったw オールド期の高野山は俺にホットだったかw 最近は、北朝以降、現在壇上伽藍の高野山とラブリーな関係だなw キリスト教並みにラブな重力が濃いなあw あと、この時期に関与する唯識仏教にもモテモテだわw 相変わらずクールに近いのは宿坊に飛び入りお勤めする宿坊の現在滅びた阿弥陀仏系真言教学の寺の禅定、 回数早朝お勤めいく割にホットでない。クールな扱いに近いw 修行禅定の俺の腕前は、その寺の流派では低レベルちゅうことやなw 近頃の俺は特定の教派宗派と付き合うことは無く もっぱら1人で求道の日々だなぁ 1人は気楽でいい 俺はド本命、ヤンキー仏教噂宗派w あと、キリストの教会。 日本キリスト教団。 バプテスト系教会。 高野山飛び入り宿坊。 京都大覚寺系列の寺。 曹洞宗宗門寄りの寺。 複数過ぎるwwww 奈良興福寺のdvd見てたら、きもちよかーでw ほんと、キング待遇だな俺w 今日はヒンズー研究にするかもw お互い自由にやってるってことで、何より ヒンズーで面白いことあったら教えて 俺は旧約聖書とジャイナ教をちょいちょいと お坊さんバラエティって番組で神主が出てる 坊さんの修行のこととかやってて面白そう >お坊さんバラエティって番組で神主が出てる 坊さんの修行のこととかやってて面白そう 修行で悟りに至るのは、少数の天台宗坊主の一部。 臨済宗、曹洞宗坊主の少数の一部という気がしてきたなあw番組見てて・・・。 真言はどこまで悟りを伝授されているんだろう?と思うような・・・。 >ヒンズーで面白いことあったら教えて シヴァナンダは大乗利他行風感覚があっておもしろい。 ラーマクリシュナは教説は納得できる面がある。けどヒンズーによる諸宗教統合趣味はついていけん。 キリスト教神学研究にはまりつつあるここ最近。 教会によっては反吐が出るような教会もあるだろうからな・・・。 アメリカ新興系教会はきついだろうな。 ヒンズー聖者、怪しいのも含めて関心が高まってきたなw 牧師にガッカリさせられることが多いから教会には行かないことにしてる 彼らはなぜ悟らないのか 聖書を愛する俺だけど、千葉県本光寺には笑えたよ。 もう古いネタだけどね。 CMによれば「饅頭食って飴なめたら、楽しくなっちゃった」そうだ。 教会でも饅頭はよくいただく。そうか教会には飴が足りなかったか…。 アーメンよりも飴が重要って話。 【前代未聞】衝撃的なお寺のCM: 千葉県市川市 本光寺 https://www.youtube.com/watch?v=J6wp2Gr0XKI おまけ はじめて公式サイト訪れてみた。CMとは違って真面目だね。 千葉県市川市 安心真心の寺『供養と祈願の本光寺』 公式サイト http://www.honkouji.com/ http://www.srf-tokyo.org/message.php ラーマクリシュナでないヒンズーから見るイエス・キリスト。 うーん、俺は純粋にキリストを解釈する趣味だな。 252へ、冴えた牧師を見つけた。結構いけている。こっちは手の内出さずに観察してきた・・・。 ヒンズーとキリスト教神学の限界の研究はおもしろいなあ。 散歩がてらイスラム教のモスクの前に置いてあるトラクトもらってきた しかし歩くと気分良いな >>250-252 傷ついてる人多いよな 精神病になって病院に行っても医者は対応に困るし 宗教関係のトラブルは泣き寝入りしか無いけど 「父よ。彼らをお 赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:33?34) そういう人のための休む場所があるといいんだけどな まず宗教を超えた教えのできる指導者が必要だ >>260 の言うとおり 言葉にすれば「ただ休めばいいだけ」なんだけど それを実践できる人にはなかなか出会えないと言うのが現実 誰でも「何かしなければ」という思いに駆られるから 洗脳を解くのは難しいな さて今日も瞑想しますか ところでみんな聖書の訳はどれを読んでる? あまり深い意味は無いけど今使ってる新改訳辞めようかと思って キリスト様もお釈迦様も嫉妬深いから、おまいら程ほどにな☆ どっちも友達だからどっちも仲良くするに決まってるだろ ゆうべちょっと口語訳読んでみたけど しっくりこなかった おはよう。 聖書か。 俺、変態聖霊マニアだから。 聖書が10冊ぐらいあるなw キリスト教各教派の聖霊の感触を聖書の匂いを嗅いで味わうww 神秘主義の世界て、仏教も含めて超越した霊的な香りがある。 同じ教派なら同じような匂いが・・・・・w からし種一粒ほどの信仰もない=信仰・宗教はない 自分の命を憎め・身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人→自分自身を憎んだ者は、いまだかってひとりもいない ―どの方向に心でさがし求めても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれ自己がいとしいのである(感興のことば) 肉を宿とした人間は、誰も神に信仰ありとされる者はいない。人間の命の尊さ、大切さ、自分を愛する人間を互いに理解し、助け合うためである。誰も人間の信仰・宗教 に毒されず生まれたが、その身がなくなれば目の前の人は二度と逢えない、誰もが大切な命だとわからせるため=神の意思。 神の国はただ中にあり、天地も滅びる。私たちは人間として心の内のみに永遠に通じるものを宿し眠らされている。(神はいつか信仰する私だけと願う者を獲る) ※人間の手で作られたものを必要とし喜びながら暮らす人間は、他の者たちと同じ。 神の「カ」信仰の「シ」宗教の「シ」でもあれば、全員獲られているわけであるが、 地上のものに心を引かれない山を移すほどのこの姿だ、生きながら彼岸・神通力の領域に達した釈尊 信じる者は神に対する罪しかなく、世捨て人を妄執を乗り越えた清浄な境地に近いと明確にした釈尊に従う信者でもなく、 ―「わたしには子がある。わたしには財がある」〜しかしすでに自己が自分のものではない〜もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である(真理のことば) あなたたちは他の人と同じように愚かな人間であると神の言葉を教えねばならない。神への信仰は、ただ衣食があれば足り暮らし、世と世にあるものから離れることをよしと し、何事も思い煩わないよう熱心に努める者のみ=神は地上のものに心を一切引かれない霊の国で喜んで暮らしている、神への信仰あり・神に喜ばれる行為はそこのみ。 そこで、私たちは肉を宿とし、苦しみ悶えた地・一切皆苦のこの世で、人間の宗教・信仰に毒されることなく、まだ汚れの無い幼い子のように、何も信仰の無い者(罪人のわ たしをおゆるしくださいと願い)と神の意思を理解しないといけない。 こうして論じ合いを一切喜ばない神を受け入れ(愛や良識ある人間が何も信じず自分の目的に生きていることのほうが、論じ合う者よりよいとする神) ―法にしたがって生き、恥を知り〜自分のなすべきことを行う人を、他人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである〜他人を訓戒せ よ、教えさとせ〜悪人と善人とは、死後には異なったところにおもむく。悪人は地獄〜善人は天上―(感興のことば) ―肉体を宿している間は主から離れていることを、よく知っている〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである〜人々に説き勧 める―(コリント)―主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい―(エペソ) 神は神、人間は人間として別の国・世界を思う存在。地上のものに心を引かれない国の者なら、自ら養うこともなく悩み苦しみ思い煩い無く、喜んで暮らしているのだが、 ―わたしの願いと言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい(ピリピ) しかし、神は人間でいたいと生まれた全ての者を尊重されている方でもある。宗教・信仰はそういった人間に仕えるためにあるとして宗教者になされた。 神は別世界を義としているから、人間には関係ない、が、地上で肉のまま、ほしいがまま、自分だけ・・・だと地に益をもたらすことができないからだ。 ―丈夫(健康)な人には医者はいらない。いるのは病人である(マルコ)というほど、人間には不自然な宗教・宗教行事・行為はない。 衣食があれば足り、世と世にあるものから離れて、何事も思い煩うことなく足り、喜ぼうとして努める者 一切の形成されたものは無常である(諸行無常)一切の形成されたものは苦しみである(一切皆苦)一切の事物は我ならざるものである(諸法非我)と明らかな知慧をもって 観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である(真理のことば) 対人格である神とは、この方である。神にとってパソコン坊主はいない。神の敵意・怒りの者どもである。 そしてあなたがたは「土に帰る」人間でいたいと生まれたあなたは死ねば終りである。愛着するべき目の前の人も、死ねばその人に逢えない、かけがえのない命である。 車を運転するドライバーも人の命を奪わないよう気をつけ、医者も命を救うために必死になり、家族も命を救われるよう医者に願う。 ―眼のある人は、不平等のようなことがらにも勇敢に打ち克つ、たとい何かが存在していても。賢者は、この命あるものどもの世界において、悪いことがらを全く避けるべきで ある(感興のことば)―互いに不平を言い合ってはならない(ヤコブ) 信じて、善い者のようにして自然災害などで愛すべき人を失った人も、かわいい彼女と一緒で、物質的に豊かに暮らし楽しんでいる人も、信じて貧しく、姿が醜く、人間でいたい と生まれたどころか、苛酷を味わうことの多い人も、休日には(節度あり)自分のしたいことをしよう、宗教などバカのすることだという人も、信じて自分の御利益のために、必 死になって信仰しようとする人も・・・・・神は全て『からし種一粒ほどの信仰の無い者』として尊重しておられる。 人間になりたいという愚かな人間の目的か、人間の宗教に釣り殺され束縛されている者か、信仰深いと装いながら、衣食があれば足り、何事も思い煩わないようにせず、聖霊 に満ち荒野の者のように、大自然などを喜び「よい天気ですね」と健康的な心を世に示さない神の怒りの者か・・・ この世で何も信じない者のようにしていれば、神の意図のように不平等など誰も思わないし、人間の命を救う行為が勇敢、あるいは尊敬されるべき人の行為(医者が先生と呼ばれ ように)と人間がわかり、肉の主人に仕えることが、人間の益となり、また、人間の命の大切さ・尊さもわかるであろう・・・自己愛からの信仰を捨て、この世は耐えねばならない 苦しみとわかり、自然のままで他者への配慮もある人間を良識ある人間とされた神。 人間の宗教の「シ」神の「カ」でもあるなら、全ての者を恥じさせないようにし、大自然を楽しむ者のように、まだ汚れの無い幼い子のように、「よい天気ですね」と何事も 思い煩わず挨拶できる者のように、世の欲得なことへの思い煩いから離れて、ただ健康的な心でありなさい(いる、いないは健康的な心だけで、論じ合うこともしてはならない) そして世で必要な物と暮らす多くの人々にとって 何一つ信じなくとも、幼い子や大自然などを楽しんで何事も思い煩わない者、足りて悪から離れ他者への配慮もある人間で、世に負担をかけまいと働こう・過労はしない・義援 など自然災害などで多くを失った人々に衣食住があるようにする手助けや、困難を取り除いてあげようとする行為を善いこととする、必要以上の蓄財をよしとせず、世間や他者 への配慮もある人間をよしとする、贅沢の希求をよしとせず、人々の住む地球環境に配慮した生活、子供の頃から暴力・悪い言葉を言わない子に育て、他者への配慮もある人間 をよしと育てる・・・・・ 人間の世は、神という権威により善悪を押し付けない。ただ、人間となりたいと生まれ、生まれたまま誰も自分の命を憎んで生まれなかったし、母が己が独り子を命を懸けて護 ように、隣人の生命を大切だとわかるようにされ、国家は人間を第一に考えるようつくられた。 本当は葬儀も死者に通じることはない。人の手で作られたものを拝み、くどくどと祈り内心は汚物に汚れる行為もない。ただ、善い国にあるもの一切のものが悩み苦しみ思い煩 うことなく、この世の欲得もなく、この世で他者への配慮もある形となりあわれみ・慈悲・自制となり現れることだけがある。従えば、地上でも何でもできるものと共に在る。 嘘偽りは嘘と認識させ、人々を騙すことなく、人間でいたいと全ての人間に仕えるために宗教はあると、宗教者に命じたのである。 どのような宗教でも困難苦しみから逃れることはできず、御利益もなく、死者に通じることは一切なく、正義や正しいと言えるものもなく、ただ、人間でいたいと生まれた 者に仕えることのみある。私たちはこの世を去らないと、神の義=悩み苦しみ思い煩いを取り除くことはできないからだ。 どこの教派かは言わないけど俺が知ってる牧師の言葉貼っておく 「什一献金払ってるか?」 「出来ないことでもやれ」 「神に従うということは牧師に従うということだ」 「牧師に逆らうな」 (病人の癒しについて)「それは教会の仕事じゃない」 「障害者でも働ける場所を作らなければいけない」 「一生トラウマを抱えたままで教会に仕えるというのも献身だ」 「毎週(または毎日)教会に来い」 >>278 牧師らしい牧師じゃありませんか。 牧師って、こうでなけりゃ。 神に従うということ 地上のものに心を一切引かれない、肉体外を義としている。「世ははじめから罪」と神。 ―わたしの願いと言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい(ピリピ) 人間として生まれた時点で、そのようになってはいけない。誰も自分の命を憎むことなく生まれたように、人間はその生命を何よりも大事に思わねばならない。 救急救命士であれ、ドライバーであれ、遭難者であれ・・・人間の生命を第一にする努力・注意を怠っては決してならない。 全ての人間でいたいと生まれた者を、からし種一粒ほどの信仰の無い者として尊重されている。信じて自然災害などで家族全てを失った人も、信じて貧しく・醜く、また病に 苦しんでいる人も、何も信じず平和に暮らし、自分だけの私利私欲の貪欲に日々暮らすことなく、他者への配慮もあり、美しい女性と結婚して食うに困らない人も、努力して自 分の目的を達成できた人も、信じて人より努力しても自分の目的が達成できない人も、他人から苦しめられた人も、他人に尽くす人も・・・・・すべてからし種一粒ほどの信仰 の無い者として尊重されている。 神にとって、衣食があれば足り世と世にあるものから離れて、何事も思い煩わないよう日々努めない者、楽しみとしてゆるされる大自然を罪なき国につながると理解して喜ぶ者以 外、全員、からし種一粒ほどの信仰の無い者と認めることが一番大事なことであると。神は善悪の押し付けを一切しない方。 ―「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者〜わたしは一週に二度断食をしており、全収入の十分の一をささげています」より『神様、罪人のわたしをおゆるしください』 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう(ルカ) 人の手で作られたものを必要とし喜びながら、神は信仰ありなどと思う者を一切ゆるさない方。世ははじめから罪であり、人間でいたいという愚かな者であり、他の人たちと一 切変わらない。人間の信仰に毒されず生まれたように、誰も信仰の無い者なのである。 信仰ありと認められるのはイエスの姿か生きながら彼岸の釈尊のみ(神の義)・・・こうして神みずから義と信仰しようとする者に認めさせるため。 【あなたがたはこの世の者でなかったら、養わねばならない身体もなく、一切のものが悩み苦しみ思い煩うことなく、神と一緒に喜んでいた】 ―学び修めた賢明な人〜食乞う人々に食物を与えて〜貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々に施しとして与えよ―(神々との対話)―空腹のときに食べさせ〜旅人であっ たときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気であったときに見舞い―(マタイ) ―貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない―(エペソ) ―自分を楽しませ〜父母・妻子〜貧窮なる人々〜愚劣な人が富を得ると、自ら用いることなく、他人にも与えない〜健康な人・智慧のある人は、富を得たなら、 自ら用い、なすべきことをなす〜天の場所におもむく―(仏) ―ことばと心とを正しくするようにこころがけ、身に悪事をなさないで、まことあり、柔和で、よく分かち与え、温かい心でいるならば―(神々との対話) 物を喜ぶこと=悪しき者の配下=罪=物質界の地 ほしいままの肉欲を善とせず自制は善いこと 金だけ、物だけ、得た自己(身体)だけのためではなく、分かち与えたり、他者への配慮もある人間、悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげようとするあわれみが永遠 の命に通じる善い行いと人々にわからせるのが宗教の役割。あわれみの行いにより神にまでは至らず、ただの人間であり、私利私欲のみに生きる者どもは獣と同じ運命 の者となる・・ため、悪い宗教は滅びに至るが、人間は善い所に行けるのである。しかし、まだ神様と言える人は誰もいない=皆知らねばならない知識。 自然災害の時、衣食住の無い人々に衣食住をといって分かち与えたり、働いたり・・・何も信じずとも人間らいし者も多い。獣のような人間を健康的な人間にする ため。 これ見てた 午前5時00分〜午前6時00分 こころの時代〜宗教・人生〜 アンコール「仏の世界を生きる」 村上光照さんのスタンス俺的にグッド! >>278 こういう教祖様に対しては逃げの一手だよ 自分が何をしているかわからないから マタイ23章を朗読する時はどんな気持ちだろうか どの程度の影響力があるかにもよるがその教えは人を黄泉へ落とす ここで教派は言わなくていいから、 被害者が増えないようにどこかに書き込んでおいて 神は善い者を権威も栄華もなく、働かないようにされた 神は天(地上のものに心を引かれない者)以外信仰ありと一切されない方であるが、世に打ちひしがれた人など信仰に求める時、働けなくとも、人間的な幸せが得られなく とも、それらから離れれば善い者とされた。断食と祈り、病に苦しむ者がよくなりますように(地上のものに心を引かれない と 悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげよ う)という祈りによって、山を移すほどの力(天の父)に最も近づく知識を教えた。 身体の病に苦しむ者も安静にすればむしろ偉く、悪しき者の配下の人間の医者も、誠実に治してあげよう=先生と尊敬 私の兄弟である最も小さい者=善い者に近く・いと高き者に近く、働いて(悪しき者の配下)衣食住の無い人々に衣食住をと施したり、身体の困難や苦難を取り除いてあ げ(あわれみ)、いつ行ったか?という人も、善い国から遠いのだが、自然体とすることで、神の良識に従う者である。 自分(悪しき者)も大事だが、他の人の困難や苦難・悩みも取り除いてあげることは善いという心と行為は、神様信仰できましたまでに至らず、神にとって人間として当た り前の行為。 ■栄華と権威 働く=必要な物は御存じである 神は地上のものに心を引かれない霊の体を善・地上全ての人間を悪しき者の配下とし「からし種一粒ほどの信仰の無い者」と造られた。地上は神にとって罪であり、人間は 罪に定めなくてもよく、信じる者を地上で罪をゆるす権威でいやされたが、―「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マルコ) 人間にされたが、人間に生まれたと同時にからし種一粒ほどの無い、信仰なくこの世で困難・苦難があっても耐えねばならない者にされた。 欲しい・私は何かになりたい・栄華を手に入れたい・偉い者となりたい・働けるようにもされ、善も悪も行えるが善悪を知れる人間にされた=悪しき者の配下でなかったら、 皆裸で餓えるしかない=人間を悪い者にして、働けるようにされたのだ。企業の活動も、実に神であり、医者になり偉くなりたいと努力することも、神である。法律をつく ることも神で、残酷無慈悲な行為をした者を死刑にできるのも神。 そしてただ中にあるもので、他者への配慮もあり働き、過労は悪い、格差是正など労苦し施す者の尊重・富だけを欲する者の否定、贅沢のみを希求せず地球環境のことを考 える人間(富に仕えず・物の貪り贅沢の希求を正しいとせず、人間第一)も何でもできる神に通じる心から生み出されたもの。 だから全て神(善い者・悪い者関係なく全て神)=信仰など何も無いが神 ―山へ逃げよ―(マルコ)― イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず―(ルカ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗―(仏) ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった(ブッダのことば) 全て神だが信仰したい=清浄・聖霊に満ちた心が善いものに近いとされた。世と世にあるものから離れて、何事も思い煩わない者のみ、善い神に近い。 □宗教の役割 富や物・得た自己(身体のわがまま)を善いことのように思わず、他者への配慮もある人間に育てること。宗教者が嘘偽りをせず、人に好かれるような善い人間に育てる こと、働くこと。 癒しが教会の仕事じゃないなら何の意味も無いな カルトじゃないか完全に その手のカルトは叩かれると益々喜ぶから 目についても触れないのが一番だよ 可哀想なのは身内がそういうカルトに毒されてる場合 確かに身内がカルトなら心穏やかではいられないわな 「君におつき合いして、轉落するのは御免こうむる、君の方が頂上にやってくるといい」 という言葉もなるほどなと納得がいく 悪も無く、地上のものに心を引かれることもなく、働くことも無い つくられざる状態から 何も信じることなく生まれ、全世界は悪しき者の配下・全世界は妄執という一つのものに従属し 人間となった。悪しき者に従い人間とならねば、必要な物すら得られない 人間。 ―いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。人をさばくな〜人を罪に 定めるな〜ゆるしてやれ〜善人は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るのである。わたしを主よ、 主よ、と呼びながら、なぜわたしの言葉を行わないのか(ルカ) ―世の中のどこにも、わたしは害いを見ない(悪魔との対話) 【神は世の中の害いを見ることを喜ばれない方である】あなたがたは心からあふれ出ることを、言ってはならない。 何も信じないで生きています というのが神に従う健全な人間なのである。 ■悩み・迷い・不正な御利益、あるいはいつか自分だけ・明日の事の思い煩い・・・などがあって信仰・宗教をしようとする 神は完全であり、人間は善悪を良識と知っている、地上のものに心を一切引かれない者のみ神の善で、人間を悪しき者の配下とされた。働けずとも衣食があれば足り、何事 も思い煩わないなら神に近く、良識的に働いて暮らそうとか、大震災の時でも政府・多くの人々が、 ―空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ〜正しい者たちは『主よ、いつ、わたしたちは(マタイ) 栄華と権威を得ようと働き、自分だけではなく、困っている人々を放置せず助けてあげようという人間・・・人間そのものを神がされた。 信じて努力しても貧しい人・何も信じずとも豊かで喜んでいる人・信じて家族を失い独りになった人・・・世界では様々な状態の人がいるが、神には「からし種一粒ほどの 信仰の無い」地のことで、何も問題ない、罪に定めないし、さばかないし、こうあらねばと思わずゆるしてやれる者なら、足りて、悩み、迷うことなければ、神の思いに近 い。 信じる者、「神のカ」「信仰のシ」「宗教のシ」でもある人のほうが、神にとって心配な人間なのである。 □神の義を明確・私から離れたからし種一粒ほどの信仰の無い者だ 信仰はこの世の者ではないイエスの姿・生きながら彼岸の強い者・勝れた者だけで、貧しく・世に打ちひしがれた人が何事も思い煩わないでいるなら勝れた者に近く、 地があるのは、からし種一粒ほどの信仰の無い者として自立しなければならないが、人間でいたいと生まれた全ての人間のため、また尊重される神である。 富や物やその他人間の欲得な行いを貪るがまま(悪しき者・妄執)より、自分の命を憎むことなく生まれた人間を尊重してあげることが宗教の役割だと教えたのである。 ―貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない―(エペソ) ―神と富とに兼ね仕えることはできない〜一日の苦労は、その日一日だけで十分である(マタイ) ―律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている(マタイ) 格差是正を大事にすること、また過労や富(金)に仕えることは悪いこと、自分の思いのために悪い言葉を言うのは悪いこと、人々を公平にすることは善いこと、 と良識ある人間の心の中で働き、そういった人間でいたいと生まれた人間に仕えることが、宗教の役割だとされたのである。 522 名前:Mr.名無しさん[] 投稿日:2015/01/25(日) 22:03:32.81 日本の仏教で今一番正しいのは曹洞宗だろうな 積み上げてきた知恵の大きさなら真言宗に敵うものはないけど カルト教義集 「油注がれた主の僕である牧師に逆らってはならない」 「例えどんなことがあっても牧師を非難してはならない」 「牧師は聖書に詳しいので地上最高の権力を持つべき」 「信者はみな牧師を崇拝・礼賛し全面服従すべきである」 「日本の教会やクリスチャンは暗くて硬い」 「既存の教団教派は形骸化した死んだ礼拝をささげている」 「日本の既存の教会には生きた信仰がなく命がない」 「礼拝時に顔が暗いのは悪でありストーンフェイスという」 「カトリックはカルト、マリアはサタンである」 「カトリックは絶対悪、プロテスタントは絶対善である」 「神父の権威は否定されるべきだが、牧師の権威は絶対である」 「カトリック教会の権威は否定するが、牧師の権威は絶対である」 「牧師により不当な扱いを受けた場合、信者は全て受容すべきである」 「神のしもべである牧師に逆らった者は呪いを受けなければならない」 「牧師が不祥事や犯罪を起こした場合、それを非難するのは悪である」 「牧師は支配階級であるから、奴隷階級である信者は黙っていろ」 「教会を出て行くのはその者が古い生き方をやめていないからだ」 「新生した者ならば教会で嫌な目に遭ったり脱退するようなことはない」 「バプテスマ(洗礼・浸礼)を受けた教会を脱退すると呪われる」 「信者が教会を出て行くのは牧師や教会の責任ではなく信者が悪いのだ」 「牧師は信者に対する全面的な所有権と支配権を持つ」 「牧師は脱退を希望する信者に暴言を浴びせる権利を有する」 「教会員には教会を脱退すべき信教の自由も身体の自由もない」 「牧師は信者の脱退を規制する権限を持ちこの権威は絶対である」 「聖書は一字一句誤りのない神の言葉」 「全世界は六千年前に七日間で創造された」 「日本の学校教育は進化論を教えているので拒絶するべきである」 「日本の義務教育から離脱することを出エジプトという」 「献金の多い者は祝福されるが少ない者は呪われる」 「ペテロが献金額のことで老夫婦を呪殺したのは正しい」 「什一献金をしない者は神のものを盗んでいる」 「什一献金をしない者は呪われた極悪人である」 「一度ついた教会での奉仕は何があってもやめてはならない」 「献金が少なかったり奉仕をやめる者は信仰の落伍者である」 「健康や職業生活・家庭経済が破綻しても奉仕すべきである」 「不眠不休で奉仕をしても健康が損なわれることはない」 カルトと言わないまでも、悟りの無い、解脱を目指してもいない指導者は、 総じて偽りの指導者だと言って良いだろう、このスレとしては。 曹洞宗の人と話してみたいな。 俺は一応、曹洞宗禅もかじったから、何でも聞いてくれ 回答来週持ち越しやろうけど。 曹洞宗から見てキリスト教の教会や指導者はどうなの? いまのカトリックは、第2バチカンの【包括主義】からさらに進んで、ヨハネパウロ23の時に【多元主義】を打ち出して、居心地がいい。 ヨガをやったり、ヴィパサナ瞑想やったり、その話をしてもおとがめなし。 そもそも神父じたいが、ヨガをやったり座禅指導する時代だしね。 元旦も、みんな(教会員)で近くの神社にも初詣いったし。 もちろんカトリックの中にも、プロテスタンテや他宗教を悪魔扱いする人もいるけど。(ラテン語ミサに戻せ、という運動している人もいる) まあ、自分は、プロテスタントのリバイバル派からカトリックに転籍してよかった。 十一献金も強要されないし、読む本も制限されたりしないし。 ふだんは(毎日)座禅をするし、 日曜は月二回くらい日曜ミサに行ってる。 元気ないときは、たまにペンテコステの集会行って、大声だして歌ってくるよ、充実。 >>307 いい教会だな 俺はもっぱら自宅で禅&聖書解読かな 聖書もそうだけど 仏教用語の解釈も複雑なものがあって困るな >>284 見てたら「わかりやすく教えてくれる人だなぁ」と思った □人間の心があれば、何よりも善いと受け入れる=神が説く人間 ― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない。彼に道から外れることは存在しない―(神々との対話) ―学び修めた賢明な人は〜食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ〜貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ―(仏) ―空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い―(イエス) 自然のままでも人なら、貧しい人々・困っている人・苦しんでいる人への配慮はある。それが人間である。私利私欲やその他、宗教のことを行っても、心も無い人間 で、人間の宗教に獣のような者を束縛させる。 ― この平安の境地に達して、一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ、慈しみのこころづかいがこの世では崇高(ブッダのことば) ―すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが仏の教えである。わかち与える人には功徳が増大する(感興のことば) 修行完成者の心が、この世では崇高として、人間の道を教えようとされた。人間の調教師である。 ■神の沈黙と不在 人間的に善い、あわれみ深い神ではなく、地上のものに心を引かれない山を移すほどの力・神通力の領域と一つとなって、そこを義としている。 盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている、わたしにつまずかない者は幸いであるとするように(一切のものが悩み苦しみ思い煩いないようにされる)人間になりたい と願い叶えられた者の心の内に宿り、生ける者をあわれむ人間にされた。 ―山へ逃げよ―(マルコ)― イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず―(ルカ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗―(仏) その修行者・聖霊に満ち荒野の者をよしとさせるのは、善悪を知れる者が、さらに信仰の希求=心を清めることはどういうことか、わからせるためで、 皆、その身(その身は泡沫のごとし、かげろうのようなはかない本性・しばしの間たちまち現れて消え行く霧にすぎない)人間が、人間の宗教に毒されず、清めるため である。健康な人間が知れるとおり、その身が無くなれば、その身の悩みも苦しみも思い煩いも無く、意識活動も無く、この世の悩み苦しみ思い煩いも無く、 皆、山を移すほどの力・神通力の領域に達する。いつか、そのことを思う者も、宗教的に獲る。一切の苦しみ逃れた国を思い獲る=釣る。 神は獲ると説明された。 人間とは 地上のものに心を一切引かれない国の者から ―「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとお りになるであろう(マルコ) 天で、だれでも人間になりたいと願えば、生まれるのである。 ―この世では自己こそ自分の主である〜賢者は自分の身をよくととのえて、名声を得る、名誉を得る、いろいろの幸せを得る、天の世界に生まれる、親族のあいだにあって輝 く、悩みのうちにあって悩まない、悪い生存領域を捨て去る、ニルヴァーナの近くにある。悪い行いをした人々は地獄におもむき、善いことをした人々は善いところ(=天) に生まれるであろう(感興のことば) 家なくして歩み、わずかな食物で暮らす生活を守り、無所有で、「安らぎは虚妄ならざる真理」を希求し続ける。その者は、この世で既に安らぎ。 ―誠実をつくして名声を得、何ものかを与えて交友を結ぶ。在家の生活を営む人に〜もしもこの世に、誠実、自制、分かち与え、耐え忍びよりもさらに勝れたものがある ならば、さあ〜問え(ブッダのことば) 住むところあり、人の手で作られたものを必要とする者は、真理である安らぎを求めるのではなく、重い荷に耐え、善い行い・悪い行いを知って生きねばならない。 「ぬるい」といって神に嫌われる。どちらかを選んで徹底しなければいけない。 今朝座禅してたらなんか変な感覚があった 全身がしびれるようで不快感は無く 何なんだろね。 でも確かに座禅は自分の体の変化に敏感にはなるよね。 ー見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、 また識別されたことは識別されただけのものである〜思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である〜そこでは、すで に有ったものが存在せず〜太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている〜聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、 かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから解脱する(感興のことば) 神は悪しき者・妄執の配下で、重い荷に耐え働き、人間に必要な物を得させようとするが、 全ては罪人(=肉を宿とした限り、誰も神様信仰ありますと言えないが)であるが、 修行完成者、一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ、慈しみのこころづかいがこの世では崇高・一切の生きとし生けるものをあわれむ修行完成 者ブッダに罪過は存在しないに、人間同士接しなければいけない世間で逆らって善とすることは、どんな人間でもゆるさない。 自己の沈黙は、神通力・山を移すほどの力 ―山を移すほどの強い信仰があっても、もし、愛がなければ、わたしは無に等しい(コリント) 無になれば、山を移すほどの力・神通力の領域であるが、神も中途半端な信仰をゆるさず、地上のものに心を一切引かれない者のみ信仰ありとする方=この世の者ではな いイエス・生きながら彼岸の釈尊は神の心に叶った者・信仰ありの者。 からし種一粒ほどの信仰の無い者となり、全ての者が悩み苦しみ思い煩わない国から、幸福と安穏・安楽をよしとして生まれたが=自分を愛しいとして生まれたが、神もか らし種一粒ほどの無い信仰の者として、全ての人間を尊重されている。―この世では自己こそ自分の主である。どうして他人が自分の主であろうか。賢者は自分の身をよく ととのえて、徳行(施し)を達成する、目的を達成する・・・(感興のことば) その中で病気の者が欲得から離れて安静にするように、自然災害で多くを失っても耐え立派と思われるように、海に溺れている子供を自分のこと(臆病)を忘れて助け、勇敢 な人と褒め称えられるように ―山へ逃げよ―(マルコ)― イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず―(ルカ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗―(仏) と自己の沈黙 ―あなたがたのいのちは、どんなものであるか、あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない(ヤコブ) ―この身は泡沫のようなものであると知り、陽炎のようなはかない本性であると、さとったならば(感興のことば) ―今からは妻のある者はないもののように〜喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。 なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである(コリント)―過ぎ去るものは虚妄なるもであるから。安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る (ブッダのことば)―世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ(感興のことば) 世と自己とから遠ざかり離れた境地は、神通力・山を移すほどの力に近いから。静けさを目指しての瞑想。逆に、飲んだり食ったり寝たりしているとメタボリック=体に害。 貪りがまるで善いことのように世が行動すると、地球環境破壊など起きる。自制をよしとさせるのは、山を移すほどの力から、遠くないようにするため。 全てのものは天に在るものを受け入れようとすれば善い影響・逆らって正しいとするなら、悪い影響がある。 302 :神も仏も名無しさん:2015/01/27(火) 12:19:32.86 ID:pvUfY4ax 曹洞宗から見てキリスト教の教会や指導者はどうなの? 原理主義者は全面否定、嫌がるらしい2ちゃん故人坊主せったんは、そのタイプやったな。 曹洞宗内部には交流余裕派がいる。聖フランチェスコは評価が高い。 プロテスタント神学者、カール・バルトは禅仏教学者からも評価され、バルト側も仏教は評価高い。 カール・バルトはナチス・ドイツに喧嘩売っていて、ナチスになびく教会、聖職者を批判しつつ神学を構築したらしい・・・。 仏教的感覚的に見て、バルト神学はおもしろい点がある。自己放棄の方向性。 自己放棄及びキリストの精神から遠い牧師は、俺の近所でも多いな。 元牧師、前に書いた牧師の2名ぐらいだな。バルト神学の言わんが処で合格点がでるのは。 ま、ここにもオナニー長文で自己顕示欲の塊の御仁がいるようだがw >いまのカトリックは、第2バチカンの【包括主義】からさらに進んで、ヨハネパウロ23の時に【多元主義】を打ち出して、居心地がいい。 おれも第バチカンの遺産によるタイプだな。 禅の師匠と俺が勝手に思っている坊主が、聖フランチェスコ、ザビエル象を寺に置くという・・・ その縁で・・・ キリスト教に縁が濃くなった。 高校修学旅行時の長崎の浦上天主堂で、意味不明な霊的感触があったから。(当時は気のせい扱い、密教系も) 密教と同じく、将来の縁をアピールを俺に仕掛けてきたのかもな 私が長文なのは宗教=地獄行きと 神に直接言われ、たったひとりでも神を理解させ救えば、地獄行きとならないとされたからだ。 全ての宗教は神に反し、地獄行きなのである。そして私たちは人間の宗教に毒されず、『人間になりたいと生まれてきた』、この幼い子のみ神への信者であったのだ。 そして、私たちは神により、完全な者とされず眠らされている状態なのである。 ―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである〜そのことを彼らの良心も共にあか しをして(ローマ)―イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされてはいない〜「女よ、あなたの信仰は見あげたものである(マタイ) ―見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない(創世記) 私はブッダとイエスの共通点から、神が直接【地上のものに心を一切引かれない者】のみ、神(私への信仰)だと言われ、良心=愛や良識により人間として認める、人間の宗教 は心無い者を釣り殺す、いつかという者も獲ると、全ての人間の尊重以外を思う者を釣り殺したり、捕ると。他者への配慮もある人間が人間として尊重すると。 ―法にしたがって生き、恥を知り〜自分のなすべきことを行う人を、他人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである〜他人を訓戒せ よ、教えさとせ〜悪人と善人とは、死後には異なったところにおもむく。悪人は地獄〜善人は天上―(感興のことば) ―肉体を宿している間は主から離れていることを、よく知っている〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである〜人々に説き勧 める―(コリント)―主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい―(エペソ) ―天から賜るそのすみかを、上に着ようと望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている〜この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている〜それを脱ごう と願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである〜肉体を宿としている間は、主から離れていることを、 よく知っている〜肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに応 じて、それぞれ報いを受けねばならないからである(コリント) 右(地上のものに心を引かれない霊か私の兄弟と呼ばれる最も小さい者)も左(神による人間)かわからなかった頃、神が直接現れた。説かれたことである。 たとえば禅にせよ、釈尊や修行僧のように、徹底して家なくして歩み、無所有でわずかな食物で暮らす生活を守り、独りで生きるなら、右の者である。多くの人間は自己愛から離 れ、苦しみに耐え、妻子を愛し護ること、苦しみに耐え働き、衣食住の無い人々に衣食住をといって施し、他者への配慮もある人間となって、人々から好ましいと見なされねばな らない。 神はいる。地獄もある。仏教と思い込んで滅びる者もいる。また、神により、まだ汚れの無い子供が人間の宗教に毒されず生まれ、隣人の愛(たとえば瀕死の人を助ける)の者の ように、他者への配慮もある人間となって、修行完成者のように、一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・一切の生きとし生ける者の幸福と安穏・安楽な暮らしを決して 悪いと思わず、善いことと受け入れようとして、善いところ=天に生まれる者もいる。 ―悪い行いをした人々は地獄におもむき、善いことをした人々は善いところ(=天)に生まれるであろう。しかし、他の人々は〜汚れを去り、安らぎ入るであろう(感興のこと ば) 信じながらパソコンや音楽鑑賞など五欲・肉の欲、目の欲、持ち物の誇りある者どもは地獄行きとなるが(神の言)、愚かな人間であることを認めて、他者への配慮もある人 間=あわれみや慈悲をよしと教えるなら、あなたを地獄行きとしない。そして、あなたも他者への配慮もある者とならねばならない。 ―神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって〜奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え〜慈善をする者は快く慈善をすべきである(ローマ) 世間で修行完成者=慈悲・あわれみを無にして教える者(偽仏教)は多い。教会でも、あわれみ・慈悲を無にして自己愛のみの信仰をよしとする者もいるかもしれない。 しかし、地獄の者は地獄、天国行きの者は天国があり、天国行きのために教える努めも、神により善い所に行く者とされるのであり、怠ってはいけない。 いきなり全部やらなくても 今出来ることをやって備えていけばいいんだと俺は思うけどね とりあえず自宅で禅 アジタよ。世間は無明によって覆われる。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲心が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である(ブッダのことば) ―あなたが施してくださないならば、いまから七日の後に、あなたの頭は七つに裂けてしまえ。詐(いつわり)をもうけたそのバラモンは、呪詛の作法をして、恐ろしいことを 告げた(ブッダのことば) ―多くの呪文をやたらにつぶやいていても〜内心は汚物に汚れ〜王族でも〜庶民でも〜下水掃除人でも〜精励してつとめ、熱心であり、つねにしっかりと行動する人は、最高 の清らかさに達する(悪魔との対話) 宗教的行為・行事・人の手でつくられた形あるものを拝む悪魔ナムチでは、人の世で清らかになることはない。 ―そなたのために仕事をしてくれる人がいるのではない(悪魔との対話)―あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦して努力し働き続けた(テサロニケ) 瞑想など離欲と足るが、神に喜ばれる行為だが、世間で必要な物を得る場合、からし種一粒ほどの信仰の無い者となって、世の人々の配慮ある者となって、人々から貪り取ろ うとせず、働くことも、人間として清らかな道である。信者から妙な信仰をさせ、金を得るのが平気な者は、神仏に逆らい、地獄行きの者。 神=地上のものに心を引かれない者=(もし、この世の者でないを目指すなら完全信仰) 個人が、欲しいという欲求に囚われず、瞑想など離欲の時があってもよしとするなら、別にそれで喜ばれる者に近い。 不満なく、足りて悪から離れ、他者への配慮もありそれを否定せず、人間の宗教など頼らす、何も問題ないとするなら、悩みもない人間に近い。からし種一粒ほどの信仰なく生 まれた人間に近い。 宗教を志す者が、労苦して自ら養ったり、妻子を養わなければならない地で、妙な御利益・信仰・宗教的行為をさせ、布施や献金により盗むなら、神はゆるさない。 その人々・人類のために、あわれみ・慈悲・寛容・自制など教えて、人々を指導することしか認めない。人間の勝手な宗教は、心無い人間を釣り殺し束縛することで、逆に 良識ある人々を守るため、宗教的行為・行事により束縛させる(宗教を攻撃しない神) 真実の信仰対象は聖霊に満ち荒野・森に住み心静まり・まだ世の欲得に悩み苦しみ思い煩わない幼い子・「よい天気ですね」と挨拶できるような、何事も思い煩わない人の心 の中、快楽・享楽を貪らず、大自然を楽しみ喜ぶような者の心の中であり、足り悩まず「よい天気ですね」と挨拶できるような者を否定してはいけない。 新約聖書に日曜礼拝せよと書いてあるか?もし、新約聖書に日曜礼拝と書いてあるなら、神は、 ―イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされてはいない(マタイ)―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなく ても、彼らにとっては自分自身が律法なのである(ローマ) ―丈夫な人は医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである(マルコ) 神が言われたことである。陳腐・バカ師に従うクリスチャンとされた信者よ。その言葉を取り除いて教える者どもに従ってはいけない。 ―この幼い子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け 入れるのである〜わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められた方が、その人の益となる(マタイ) □神への信仰(宗教・信仰)と地獄行き 神により、人間の宗教・信仰に毒されず生まれてきたが、 ―公平とあわれみと忠実とを見のがしている(マタイ)―苛酷なることなく、貪欲なることなく〜万物に対して平等である(ブッダのことば) 人間は公平・平等に自分の命を憎むことなく生まれ、信仰対象物に何らかの御利益なく、宗教的行為・行事もなく、修行完成者の慈しみ・あわれみ、 ―御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない(ガラテヤ) をよしとするよう生まれてきた。 ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった(ブッダのことば) 人間としての最高の信仰が、快楽・欲楽から離れた、健康的な精神で 人間は獣と違い、他者への配慮もある者となり、清々しい心が聖なる所につながるとつくられた。 労苦により自分や家族を養おうとする者から、宗教的行為により益を得ても平気な者どもを神は不法を行う者として、決して最後に滅ぼす。 山へ逃げよ(マルコ)イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず(ルカ)一日の苦労は、その日一日(マタイ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗(仏) 信仰対象物・偶像礼拝・宗教的行為・行事を、滅びの宗教、悪しき者と心得、神が創造された大自然など世と世のものから離れ、何事も思い煩わないことが神と永遠の命に つながると理解させ、 ―貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない―(エペソ) ―自分を楽しませ〜父母・妻子〜貧窮なる人々〜愚劣な人が富を得ると、自ら用いることなく、他人にも与えない〜健康な人・智慧のある人は、富を得たなら、 自ら用い、なすべきことをなす〜天の場所におもむく―(仏) ―ことばと心とを正しくするようにこころがけ、身に悪事をなさないで、まことあり、柔和で、よく分かち与え、温かい心でいるならば―(神々との対話) あわれみの行いなど善いと受け入れるよう教えるなら、神は滅ぼさない。人間は一切のものが悩み苦しみ思い煩い無いことを、朽ちない国で善いと受け入れねばならない からである。 かつては教会に身を置いていた俺だけど 俺が聖書から読み取った内容を話しても教会の人たちは理解を示さなかった あとになってからその教えが仏教そのものだということに気づいた このスレ的にはマイスター・エックハルトの評価は どうですのん? スレ住人からの評価は高いと思うよ 俺はかなり好き 異端視されてまで教えを説く姿勢は良くも悪くもドミニコ会士としての精神だったんだろうし その熱狂はパウロに通じるものがあるな 前スレでも名前出てたよね その悟りの深さはキリスト教史では類を見ないほどだと思う イエズス会の開祖ロヨラの宗教の姿勢は ここにあるオナニー長文閣下と異なり、沈黙と少ない言葉を重んじたらしい。 優れた禅僧も、そういう感じだな。 日本仏教の歴史をざっと、みると・・・。 初期の頃から、悟りよりも呪術的救済、山岳仏教、浄土教仏教などの「救いの仏教」の傾向が強いんだな。 本気で「悟りの仏教」を追求したのは、日本人では空海が最初みたいだし・・・。鑑真さんは中国で天台系の悟りの意識はあったみたいらしい・・・・。 空海も死後伝説化され「救いの仏教」の主扱いで。 鎌倉期で禅が「悟りの仏教」の本格導入。 神仏習合系だと。日蓮が敵視する、真言律宗の叡尊か・・・。 浄土教だと、三昧発得した。法然、一遍あたりは悟りがありそう。 江戸期で宗派越え意識のあった、キリスト教嫌いの鈴木正三、そして白隠。 この二人が、念仏、題目での悟り解釈を導入して、 この二人の「悟りの仏教」の解釈の影響余波なのか 明治期に浄土宗から、浄土系聖者、山崎弁栄が出てくる・・・。 日本仏教は主流が「悟りの仏教」よりも葬式仏教を中心に置く「救いの仏教」の傾向が主流だった。 「悟りの仏教」の聖者及び、禅仏教の追求姿勢にも関わらず・・。 道元禅の宗門曹洞宗の主流はほぼ、「悟りの仏教」の放棄で、「救いの仏教」にシフトしてしまっている・・。 2ちゃん坊主、せったんは猛烈に批判してたけどな、宗門主流派を・・・。 あと、俺と相思相愛の仏教聖者、明恵さんを忘れていたw エックハルト好きだよ 今こそエックハルトを見直すべきだと思う 神がいるかもしれない 決して死を味わうことのない国=解脱=何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち(善悪をなすに)よしなく、欲楽を捨て去っ た人〜人のいない林は楽しい(真理のことば) 生死の無い世界があることを知ってから、釈尊やイエスはその世界からの言葉を説いているのだ・・・ しかし、キリスト教徒から、イエスという人格(偶像)を抱いてしまった。神の沈黙と不在・・・マザーテレサも神の沈黙と不在を抱いた人だという。 しかし神は ―究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜母が己が独り子を命を賭けても護るよ うに〜上に、下み、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。諸々の邪まな見解にとらわれず〜見るはた らきを具えて(ブッダのことば) 『何かしたいこともある人間・目的』『愛・良識』『全ての人間を尊重されている』 不死の境地があるばかりではなく、人格なる神(名称)も存在して、あるがまま、人間の 状態は、人間でいたいと生まれた者で、全ての人間を尊重されている。「愛や良識」でわかる者。 神通力・山を移すほどの力の境地があるのに、妄執・悪しき者で人間の心に戻ったということを知っている。妄執を断じることが神への信仰ではないか?など、「人間でいた い目的・愛・良識」など言う神に対して疑惑を抱いた。神ではなく、悪魔だなどとも思った。 「お前は右か左か?」悪いことをしていないから「右」と単純に答えた。 ―山へ逃げよ―(マルコ)― イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず―(ルカ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗―(仏) 清い聖霊に満ちた心で、地上のものに心を一切引 かれない者のみ、神への信仰で、神ひとりではなく、天使のような者たちもいることを示された。人の手で作られたものを必要とし喜びながら、「神様信仰あり」とする者 に「敵意・怒り・憎しみ」を抱いている存在。 この世は人間でいたいという全ての人間であり、尊重され、信仰ありは霊の者しかない。 ―山を移すほどの強い信仰があっても、もし、愛がなければ、わたしは無に等しい(コリント)無にならないお前たち人間は、からし種一粒ほどの信仰の無い者だ! 自然のふるまいが永遠の命 欲得にあくせくしないで足る=人間の欲得なことにあくせくして思い煩い苦しむことを厭う、 ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった(ブッダのことば)休日は快楽・享楽など刺激などを究極しないで、自然などを喜んで、心 を休めよう。 ―あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力し働き続けた(テサロニケ)―そなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない ―(悪魔との対話)― 一日の苦労は、その日一日だけで十分である(マタイ)未来のことにあくせくすることもなく―(神々との対話) ―公平とあわれみと忠実とを見のがしている(マタイ)―苛酷なることなく、貪欲なることなく〜万物に対して平等である(ブッダのことば) 他人に迷惑とならないよう働こう、神によっても「過労や過労死」はいけない(神=悪魔の子・地の奴隷は過労)、富だけ・自分は偉いとする地位だけは悪く、貧しい人々へ の配慮、良識ある人々が思う格差是正、被災者をあわれんで衣食住のない人々に衣食住をといって働いたり施すことは「良識ある人間」として当たり前のこと。 人間でいたいと生まれ続ける地を愛され、悪しき者の宗教(信仰)を悔い改めさせ、人間に役に立つことを教えなさいと、修行完成者やイエスを信仰対象にするようされた。 金や物への貪り、得た自己のため他人を傷つけても平気は悪、他者への配慮もある人間が善は、人間でいたいと生まれる所、地では当たり前のこと。 悟りという言葉ですら 自分の命を憎み、彼岸に達すれば悟り ―あなたがたのいのちは、どんなものであるか、あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない(ヤコブ) ―この身は泡沫のようなものであると知り、陽炎のようなはかない本性であると、さとったならば(感興のことば) 甘言・ぬるい信仰は、甘ちゃん(神はぬるい信仰としてゆるさず) 家なくして歩み、わずかな食物で暮らす生活を守り、衣食があれば足りる暮らしを信仰して喜び、悪から離れ、何事も思い煩わない者となれ。 安らぎは虚妄ならざる真理として、安らぎを得るため、日々努力して一心に努めなさい(神を信仰深いとして自任したい者) しかし、個人的に安らぐことは世の中の苦しみから逃れていると知り、何もしないで足りていることに満足することがあっても、そのことはその人にとって苦しみから逃れてい ることなのである=悪いことでもなく、善いことを行ったと誰かに認められることもしないでいること。 この世の者ではない山を移すほどの力・神通力の領域に至らないと、聖者・宗教的に先生と尊敬できる者はいない ―従属することのない人はたじろがない。しかし従属することのある人は、この状態からあの状態へと執着していて(ブッダのことば) ―他人に従属することは苦しみである。自分が思うがままになし得る主であることはすべて楽しみである(感興のことば) 人間が人間に盲目的に従うことは、悪しき者・妄執に従うことで、大変危険なことでもある。神が言う獣とは、猛獣(盲従)のことでもある。心無い者どもが悪しき宗教に毒さ れ、盲目的に従わされる場合もある。 ―丈夫(健康)な人は医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである(マルコ) イエスの主とは、神の言葉を受け入れられるようにすることで、からし種一粒ほどの信仰の無い者となったが、―母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生 きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし(ブッダのことば)そういったことが善いと受け入れられる者となれば、いけにえは必要なく、いつかわか るようにすることが宗教の役割だと教えるため。肉を宿としながら、そんなに遠くは無い者とすることが、多くの人々にとっての宗教の役割。 肉体に関して聞きたいんだけど 筋トレとかやってる?他におすすめの運動ある? 断食やる人はどれぐらいのペースでやってる? 断食は2週間くらいやると普通に神とか出てくる。 水を飲んでても出てきたということは、水は許容なのだろう。 周囲の目を気にすると異常な行動をし始めかねないので、 まぁ、何事もなかったかのようにふるまうがよろし。 水も飲まないのは3日が限界だったな 水飲めば調子良ければ40日いける それ以上もやってみたいけど生活がもっと安定してからだな 別に断食隠さないけどな 「あー今◯日目だよ」って普通に言う 筋トレにせよ断食にせよ決まった時にやるとかそういうことは無いな 生活リズムというものを基本的に作ってない 禅僧ならそういうのにも厳しくするのかもしれないけど サウナと水浴は季節問わずよくやってる これは手軽で良いからみんなやるべきだ 神の99匹の羊は、 ―究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜母が己が独り子を命を賭けても護るように〜上に、下 に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。諸々の邪まな見解にとらわれず〜見るはらきを具えて(ブッダのことば) 誰もからし種一粒ほどの信仰の無い者として生まれたが、自分の命を憎むことなく生まれた人間=全ての人間と、それを尊重する全ての霊=唯一の神と一つ ―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである(ルカ)悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげよう=神と永遠の命 ― 一切の生きとし生けるものをあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない(神々との対話) あなたは悪魔の征服者〜煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡り終わり〜あなたは善悪の両者に汚されません―(ブッダのことば) へびは女に言った〜「神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです〜見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命 の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない(創世記) ―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである〜そのことを彼らの良心も共にあか しをして(ローマ)―イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされてはいない〜「女よ、あなたの信仰は見あげたものである(マタイ) >>348 彼岸の悟りはもう死ぬとわかると継続して嫌な思いもしないし後の責任も持たなくていいから って心境に過ぎない ■朽ちる肉体外=誰でも悩み苦しみ思い煩い無いを知っている 山へ逃げよ(マルコ)イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず(ルカ)一日の苦労は、その日一日(マタイ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗(神々との対話) ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった(ブッダのことば) 何も信じなくとも、宗教・信仰に求めることなく「足り」人間の活動にあくせくしなくとも、何事も思い煩わないでいる時があっても、疑い・不満を抱いて信仰に求めることなく・何 も問題ないとする人。肉を宿としてからし種一粒ほどの信仰の無い人間であるが、そのため、他人の意見や一切信何かを信じなくとも、大自然など楽しんで、世と世にあるものから離 れて楽しむひと時があれば、人間の宗教に毒されて滅ぶ者よりも、世にあるものから離れて清浄になった神と永遠の命の者に近い。 ―かれらは希望し、称賛し、熱望して、献供する〜供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない(ブッダのことば) ―自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう(ヨハネ) 神の御加護をといって戦争する者どもが、神の怒りと地獄など悪い報いを死後受けるように(人間が人として人道的戦いをするなら問題ない)、神の御加護は、一切無い。死んだ者へ の供養ですら、現金を受け取り供養できますとうい者どもは、詐欺師なのである(=心ない獣どもを釣り殺し束縛するだけ) □神も彼岸(決して死を味わうことのない神の義のイエス=神とひとつ)悟りの境地はひとつで、そのままの人類なのである そのままの人類が法で、神にとって不法者は、正直でない者。 まだ汚れの無い子として生まれたが、神にとっても、願い求めても、どのような宗教的行為・行事をしても、信仰しても、地上のものに心を一切引かれない者のみしか救わない。海で 溺れた子供を命を賭けて救っても、その時私のためを思い信仰しなくとも、その者は肉が無くなれば、悩み苦しみ思い煩わないことを知っているし、臆病で薬が必要な者であっても、 天という善い国を思い、自己愛に囚われず、善い行いをすれば老いや死に囚われず思い煩わず生きることができるという人もいるだろう。 「神の御加護」など宗教・信仰で御利益があることはなく、 わたしにつまずかない者は、さいわいである(=地上で罪をゆるす権威) 99匹の羊が知っている、生ける者は不幸・苛酷・苦しみ(安穏・安楽と逆の暮らし)を望んで生まれたの でなく、私利私欲のみで、他者への配慮も無いことは当然として生まれたのではなく、悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげることは善いとして生まれたのである。 断食などは神への信仰はない(=宗教・信仰は無い)を現すためで、全世界で餓え死ぬ者がいても、その者が「神様なぜ」という者はおらず、飲食豊かで何も信じなくとも、貪りから 離れて、何も問題ないとその人が納得する時があれば、それで、それだけ信仰がある。禅僧は、わずかな食物で暮らす生活・無所有・世捨て、安らぎの希求で、人間の労苦で得る物が 必要なら、労働しないといけない(=世捨て人は誰もいない) ■何も信仰の無い者と生まれ、人間としていたいと生まれた全類を尊重された人間(=神) ―自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない―(エペソ) ―どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれ自己がいとしいのである―(感興のことば) 健康な人間となり、自分をいとしいと思い、老いも死も自然のまま受け入れ、自分を愛するように他人のことをも思えるような人間なら、宗教は全く必要ない。 99人の多くの人々は、自然のままで良心があり、人権や人道支援など、他者への配慮もある人間となる。 宗教の役割は、神にとって不健康な者をどうするかであり、心無い人間を人間の宗教的行為により釣り殺したり、いつかその身が無くなる日を思い獲ったりするのであるが、 宗教の役割は、他者への配慮もなく自制心なく、不健康な人間を悔い改めさせ、皆知っているように、他者への配慮もある人間に育てることが、本来の目的である。 ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった(ブッダのことば)聖霊に満ち荒野(森に住み心静まり清浄な行者)のように、心を清めること をよしとして、あの世もこの世をも望まず、健康的な心が一番大事なことなのであり、第二が、世の中で他者への配慮もある人間になることなのである。 予言 「サタンの秘密」 サタンは、ユダヤ人と「フリーメーソン」を あやつり、中東で世界大戦をひきおこす!! イスラム教徒は、核兵器で虐殺されるだろう・・ サタンは、フリーメーソンと政治家をあやつり、 「世界規模の食糧危機」をひきおこすだろう・・ 「TPP」は、サタンのワナ!! サタンは、ヨーロッパに出現し、民衆に、食料をくばるだろう・・ サタンは、「世界統一」「分かち合い」をとなえ、 カルト宗教「世界統一宗教」をひろめるだろう・・ サタン(マイトレーヤ)は、「悪魔の軍団」を組織し、 キリスト教徒、仏教徒に、襲いかかってくるだろう・・ カルト教の教祖・「マイトレーヤ」に気をつけてください!! 【99匹】 ―〔人の子は、滅びる者を救うためにきたのである〕〜ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を探しに出かけな いであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい。迷わないでいる99匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅び ることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない〜あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう〜 もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名に よって集まっている所には、わたしもその中にいるのである(マタイ) ―イエスはさまざまの病苦と〜「〜盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである(ルカ) ◇イスラエルよ聞け 第一 第二の戒め 神といっても地上のものに心を引かれず、悩み苦しみ思い煩い無いことを喜ばねばならない、他は信仰の無い罪人である ◇神は何でも叶えて下さる ―「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであ ろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。〔〜祈りと断食によらなければ、追い出すことはできない〕 神と断食・身体を得た(人間)であるが、みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように・・・ 父とひとつのあわれみのわざ、悩み苦しみ思い煩わないよう祈り求める心は、地上でも何でもできる父と共に在る。悪しき者の配下の世(=富・肉の欲、目の欲、持ち物の誇り) から離れ、悩み苦しみ思い煩わないよう祈る(みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように)祈り求めれば、その人々は、既に天に近く、神に近い。 ―信仰の薄い者たちよ〜何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているのである(マタイ) たとえばメタボリックと逆の、幼い子の者のように、身体の病を少しでも治療しようとする者が、世と自己とに思い煩わず安静にし、人間の欲得の貪りから離れ役立とうとするよ うに、富・肉の欲、目の欲、持ち物の誇り(悪しき者)より、生ける者の幸福と安穏・安楽な暮らし、悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげようとする心を大切にして行動するな ら、何でもできる神と共にあり滅びない。富に仕え大借金、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りを貪らせ、地球環境破壊を生み出すように、 【偶像礼拝により祈り求めても何も叶わない】【神様がわたしを助けて下さるという神はいない】 「神の御加護をといって戦争する者が神の怒りと地獄(人間として人道的な戦いは人間として問題ない)に行く」ように、 幼い子のように素直であるがまま、健康的な人々は、この 世で何でもできる天に在る父と共にいる。 地上のものに心を引かれない霊→そんな信仰ができない→からし種一粒ほどの信仰の無い者→苦しみ悶えることがある地を知り→御利益的宗教・信仰的行為で回避できないことを 認め、 金や物、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りにあくせくし思い煩うことの無い、まだ汚れの無い子供、聖霊に満ち荒野・森に住み心静まりを汚れの無い者と認め、 裸であることがゆるされず、益を得ようと世で働かねばならない者であり、食べる物をひとつとっても、他人の労苦を平気とせず、何ものかを与えて(労)世間の者と接する。 ※わずかなことであっても私利私欲、得た自己を偉い者とみなし、他人に命令するだけの者であってはならない。 また、善い国の者のように、衣食住の無い人々に衣食住を・・・皆、人間でいたいと生まれたと知っているように、他者への配慮もある人間とならねばいけない。 【健康な人は医者はいらない】自制心あり他者への配慮もある人間は99人の羊である。神にオカルト的信仰はなく、 ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった・・・思い煩い少なく、人間の作った信仰的行事に頼らず、健康的な心が重要な心なの である。そのひとりとなれば喜ばれる。 そう言えば、『ノア 約束の舟』借りてきたよ 映画館でも観たけど これは面白い、オススメ 本来神は無宗教 「良識として知ってるのが人間」 天にあるもの地にあるもの一つ 中道 物質界=信仰の無い罪 ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった(ブッダのことば) 神は大自然をつくり、人間の活動そのものの益は良識ある人間が生み 出すものとされた。 神が善い者と教える、天にあるもの、地上のものに心を引かれず聖霊に満ち荒野の者、森に住み心静まり清浄な行者=地上のものに心を引かれぬ清浄な者や、まだ世の欲得に 汚され思い煩わないで生まれた幼い子 ■神を汚す言葉もゆるされる 重荷を負い、人間でいたいと生まれた人間 わたしにつまずかない者は幸い・・・― 一切の生きとし生けるものをあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない(神々との対話)あわれみはきたるべき世。肉は神に敵 対し、誰もからし種一粒ほどの信仰の無い者となったが、全世界、人間でいたいと生まれた者をあわれむ者を否定する者を決してゆるされず、善いと受け入れる者を神は人間 として喜ばれる。 ★◇☆感動する映画 一神教(キリスト教=この世の者ではない唯一の神と無信仰ゆえにつながる神に在る者) 金などの執着のために、他人を害し、自ら栄華と権威を恣にした肉の賢者(神による滅びと地獄) お金がなければ必要な物も手に入れることができない、権威や栄華を得た者が 一番偉い、例えば大富豪の社長の子供が、わがままで社員に対して恣の肉欲を言いつけたとしよう、彼は自分の家族のために耐えた、しかし、世間はあまりにも社長の子供が無謀 なために批判した、しかし、そういったこともなく、大富豪が豊かで、世の人々のために働く人々が奴隷で、知恵ある者が金だけを目的として、世の人々の悩み苦しみ思い煩いな く安穏・安楽な暮らしを無視し、富だけを欲する行為をしたとしよう。自分の命を賭けても、その犯罪者(私利私欲のために、人々の幸福・安穏・安楽を奪っても平気)な者を憎 み、世の悪と戦った→英雄と映画で感動させた。 神と信仰・宗教は、自分の欲得(加護という御利益を含めて)、何も信仰なく生まれた(信仰の「シ」でもあれば、肉体を宿としながら、聖霊に満ち荒野・森に住み清浄な行者・ま だ人間の信者に毒されず生まれた、世と世にあるものの欲得に思い煩わず生まれた子)と、金や物やその他諸々の欲得、得た自己より、他者への配慮もある者にある。 ―公平とあわれみと忠実とを見のがしている(マタイ)―苛酷なることなく、貪欲なることなく〜万物に対して平等である(ブッダのことば) 他人に負担をかけまいと働こう、金だけ物だけとしてあくせく仕えることなく、過労や貧しい人々への配慮・分かち与える心、目の前の人を愛したり、他者への配慮もある 心、他人のあやまちを憎んで責め立て憎んで怒らず、自分のしたこととしなかったこととだけを見る心のただ中に、神に通じる心と、永遠の命につながる心はある。 神はシンプル・獣と同様に滅びない者への長文を望み、無宗教の良識ある健康な人をも人間だと認め、私利私欲、オカルト宗教者を滅びの者とする ―山へ逃げよ―(マルコ)― イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず―(ルカ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗―(仏)この世で最高の信仰とされ、 ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった(ブッダのことば)清々しい朝だとか、貪り求めず何事も思い煩わず喜ぶ健康な心をよし とされ、人間の宗教は獣どもを釣り殺し、いつかという者を獲り、不健康な心ない獣を、人間の宗教で束縛する、そのことを認める存在。 ―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである(ルカ) ― 一切の生きとし生けるものをあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない(神々との対話) 地上のものに心を引かれず、一切のものが悩み苦しみ思い煩うことなく、安穏で安楽で幸せな心と共に在るのが神ではあるが、人間には、完全な神への信仰を汚す言葉はゆるされ る、しかし、格差是正や貧しく苦しんでいる者への配慮、あわれみの心を非難する者を、一切の者を悩み苦しみ思い煩いなくされる唯一の神が、あなたを永遠にゆるさない。 神は「はいそうです」と受け入れる者にシンプル。人間の姿をしながらわからない獣どもが獣として滅びないようにと長文を望み、良識ある者を永遠の命に、否定して他を信 じる者どもを束縛し最後に滅ぼし、私利私欲にあくせくし他者への配慮もない人々をも滅ぼす。滅びの者どもの教えに従ってはいけない、最後に滅びの者となる。 【99匹】 ―〔人の子は、滅びる者を救うためにきたのである〕〜ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を探しに出かけな いであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい。迷わないでいる99匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅び ることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない〜あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう〜 もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名に よって集まっている所には、わたしもその中にいるのである(マタイ) 【この聖書は、わたしについてあかしをするのである】 ―あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするのである(ヨハネ) ―見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない(創世記) 旧約は肉で、永遠の命ではない。大変シンプルな神は、獣どもを従わせるために、長文を望んでいる。自分の感動や心の中で思ったこと、自分が信じたものを正しいと人に伝える ことは、人間の姿をしているが、動物のような頭の者と同じ。 □人間は何一つ信じることなく人間でいたいと生まれた(神はからし種一粒ほどの無い者として全ての人類を尊重されている) ―慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか〜一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠の命が与えられ〜「神の御名は、あなたがたのゆえ に、異邦人の間で汚されている(ローマ)―神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます(ヨハネの第一) 隣人の愛のたとえとして、瀕死の人を助けたり〔映画であっても、命を賭けても人命を救う・・感動すれば永遠があり、非難すれば滅び〕 ―神の国はいつ来るのか〜「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中に あるのだ(ルカ) 修行完成者の慈しみ・あわれみ 神は朽ちる肉(人間・地)を相手にしない。何一つ人間の信仰に毒されず、まだ汚れの無い子として生まれたように、慈悲・あわれみ・謙遜・ 耐え忍び・自制・愛など、ただ中にあるものしかつながってはいない。神の御名は、信じる者のために、異邦人の間で汚されている。 イスラエルよ聞け【地上のものに心を引かれぬ、この世の者ではないイエスの姿が神への信仰】誰もからし種一粒ほどの信仰なく、信じれば人間は罪しかない。 神の御名は、「主よ、主よ」と言っている異邦人のあなたがたクリスチャンに汚されている。 □羊(良識ある人間)人間の信仰・宗教に毒され滅びの者となる 救い ―山へ逃げよ―(マルコ)― イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず―(ルカ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗―(仏)この世で最高の信仰とされ、 ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった(ブッダのことば) 神と永遠の命につながっているのは、創から終りまで、地上のものに心を引かれぬ者で、清々しい朝だという健康的な心の状態がつながっているということ。人間の手で作られた 偶像を拝んで、呪文のようにくどくどと祈る者は、内心は汚物に汚されていき、誰でも健康的だと思う清浄な心の者は、清浄な者とならねば信仰できない神を汚さない。 肉を宿とし、人間の手で作られたものを必要とし暮らし喜びながら「私は神様に信仰あります」という者は罪しかなく、「敵意・怒り・憎しみを抱いている(=神)」 【盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている、わたしにつまずかない者はさいわいに反し、つまずいた者、神の御名を汚した者 衣食があれば足り何事も思い煩わない者は 別】 誰でも認めねばならない健康的な心を主として、慈悲やあわれみ・愛などを教える。宗教の役割は、他者への配慮もある人間にすること。人間の信仰・宗教は滅びである。 ―御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない(ガラテヤ) 釈迦の教えの最高峰は法華経だからな。 それ以外はカス。 カスでもそれなり役には立つが・・・。 法華経は確かに面白い あえて聖書と比べるなら、黙示録に近いものがある でも今多くの人たちが求めているのは般若心経だと思う ラーマクリシュナを読んで、バクティー・ヨーガに関して発見があったな。 バクティー・ヨーガとは信仰による修行らしい。 俺は、直接禅定もしくは聖霊降臨のスペック・ホルダーwなんで、この視点がなかったなw それ故に基督教も、イエズス会解釈の傾向だったからな。 日本仏教の平安中期以降の浄土教、山伏も含めて主流がバクティー・ヨーガらしい・・。 禅の曹洞宗宗門主流派すらバクティー・ヨーガに傾斜している。故に、曹洞宗宗門主流派のシステムが読解不能だったなw 日蓮なんかも典型的な日本仏教の平安中期以降の浄土教、山伏のバクティーヨーガの典型だからな。 というほどに、日本仏教の主流は本来の仏教、インド中国仏教よりも別物ということ。 故に、日蓮は本来の仏教、インド中国仏教志向の人に不人気な訳。 敷島イズム君は典型的な日本土着仏教を信仰するバクティーヨーガな人な訳。 日蓮の文章は土着日本仏教の「三宝絵詞」の引用が相当多い。 バクティーヨーガ主流の日本仏教の傾向だが。 これで一つ上にレベル上がると、ヒンズー、ラーマクリシュナの神のみ、仏のみの禅定志向になるのだろう。 ま、それでも日常生活の回帰した、禅及び印度中国仏教のレベルには至らないけどね。 >バクティ・ヨーガは、真の、純粋な主の探求です。愛に始まり、愛で続き、愛に終わる探求です。 >愛!誰のための? 至高の主、イシュワラのための。どんなに偉大であろうと、他のものへの愛はバクティではありません。 >バクタはブラフマンの相対的な面、即ち最高の支配者イシュワラを選ぶのです。 なるほど人格神か・・・ バクティーて、日本語訳で信愛と訳していたな。 日本土着仏教は仏という人格仏傾向が高い。 日蓮、山伏、浄土教は特に。 本来密教も人格仏ポイけど、シンボルだからね。音声の響きや物質構成要素の禅定があるし。 天台も、、空、仮、中道の禅定だし、 日蓮的な人格仏シフトでない。 しかし、長文オナニー閣下も含め、アメリカ系一部の教会の聖書解釈は無理があるなあ・・と最近。 恐らく正統な聖書解釈は、新約福音書を中心にイエス・キリストの「イムマヌエル」「神は共に居るという」 という霊感による聖書解釈に基づくべきだが。 むろん、そこにはキリストの十字架の苦しみの体験を共に知り味わうという意味をもを含む。 自分が苦しい目に遭う時、キリストも共に苦しまれている・・・という慰めと喜び・・・・。 ま、仏教禅定主義からするとアナログ苦労過ぎるけど・・・。 人間全員が仏教禅定主義で解決できない訳で・・・。 仏教禅定主義で解決する方向性が見えない=人間の罪(キリスト教の) と仏教禅定主義スタンスから勝手なキリスト教の人間罪悪論を想定してしまうなあ…仏教禅定畑だと・・・・。 上記の問題ありの聖書解釈者は 1、聖書の全文が理性的頭脳的に解釈できうる 2、自分の都合の良い、神は自分の思惑の為に何でもできる存在(自分の正しい聖書解釈の正しく行えばとか・・) 法に逆らう"修羅の道”を平気で教えているからな そして仲間たちのうちの一人が回心を唱えると “不信仰”、“脱落者”のレッテルを貼って一斉に裁く そうして一人の神の子を十字架にかける 知識人ってのが、テレビなんかで知ったかしてるのって 笑っちゃうよね。 敷島イズムを信仰失うそうな程に知識動員され追いつめられるという可能性は考えていないようだな・・・W 一歩踏み出す勇気 「賢さ」という枠から はみ出して 飼い殺しの状態から 抜け出す勇気 リスクを背負う勇気 全てだ 全て今の自分に 必要なものだ 空海は日本仏教全体の密教化を目指したらしいけど それは現代のキリスト教やイスラム教にも当てはまるものなのかな? 〔神と釈迦と永遠の命と善は一つである、世捨て人は永遠の善=森に住み心静まり〕 ―言語表現だけのものとして、〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである(神々との対話) ―見られたことは見られただけのものであると知り〜考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り(感興のことば) 離欲を達成したなら、教えを捨て去らねばならないほど、言語表現できる教えはない。宗教はない、信仰はない。人のことをもわからぬ獣が神と永遠の命のことを語ってもわからな いと知っておられる。だから人間の宗教・信仰で「釣り殺し束縛する」いつかで「獲る」 宗教は肉の者が良識ある人々を損なわないようにするためにもあり、神にとって宗教はな い。 ■信仰だけで神に義とされる ―人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰であることを認めて〜律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである (ガラテヤ) 神は言われた、地上のものに心を引かれず、(妄執・悪しき者を乗り越えたイエス)私たちも地の行いにより神に一切、「神様しました」と言える者はおらず、その国の者とならな いと一切の信仰はない者だと言われた。あなたがたは、ただ衣食があれば足り、ただ信仰のみに熱心に生きることができるか? ■神の御名はあなたがたのゆえに(神様と護られる御利益・肉でありながら自分は信仰できる者)により汚されている ―党派心(神は宗教はないが、一切の者が悩み苦しみ思い煩い無いをよしとし、人間でいたいと生まれた人間で、他者への配慮もある人間〔地の者は愛〕で知っている)をいだき、 真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りが食われられる。悪を行うすべての人に〜善を行うすべての人には〜律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法を持たない 異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである(ローマ) イスラエルよ聞け=地上のものに心を引かれぬイエス=あなたがたが山を移すほどの力とならねば神に信仰ありとされない だから、からし種一粒ほどの信仰はない(=真実・神の義) 自分を愛するように隣人を愛せ(瀕死の人を助けるたとえ)=世の活動の中で何も信仰の無い者と耐え、世で自分を愛し生きる者を尊重し、(偶像礼拝的な行為は無いが)将来有能な 知的な識者=科学者が否定できぬ益の者が在ると認めるであろう、私利私欲・快楽・贅沢の希求よりも、誰もが人間でいたいと生まれたことを認めて、悩み苦しみ思い煩わないような 快適な暮らし、明日の事を思い煩わないような安心できる社会、苛酷なることなく貪欲なることなく万物に対して平等な、物や金への貪り、自分は偉い者と他人を支配するよりも貧窮 なる人々に分かち与えたり・・・物や快感の希求よりも悩み苦しみ思い煩わないような世の中を善いと認めることが、人類にかえって益になることを知れ!肉を宿とした人間は、誰も 神や妙な信仰・宗教は無いが、自分の子を愛し妻などを愛するように、宗教御利益なく耐え忍んで、信仰ありと自任できる者もおらず、人間でいたいと生まれた者を何よりも大切にす る地と自然のままで創られたのだ。 考え(言い訳=滅び)なくとも素直な心でおれ、神はそのままの方 神よ、望むなら雨を降らせよ(ブッダのことば)悪魔の征服者・煩悩の可能力を断ち、善悪の両者に汚されず彼岸に渡り終わる者。 ―足ることを知り、わずかな食物で暮らし、雑務少なく〜諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない。他の識者の非難を受けるような下劣な 行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生け るものどもに対して無量の慈しみの意を起こすべし〜この世では、この状態を崇高な境地である(ブッダのことば) 人間が無能・無知(無知無明)により、獣(動物)と同様滅びの者となろうとも、人間の宗教に毒され悪魔教に毒されず。永遠の命と善と信仰なく肉でもある人間が、聡明で誰 も人間でいたいと生まれたことを認めて、 ―丈夫(健康)な人は医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである(マルコ) たとえ無所有でも食物でもわずかしか得られなくとも、かえって素晴らしい神に近く、それを維持すれば神に信仰あり喜ばれる〔全ての信仰と宗教=党派など無い〕 だが、神により何も信仰なく生まれたように、全世界誰も自分の命を憎むことなく生まれて自分を大切だと思う地(自分の命を適度に大切に思う者は良識ある者であり、宗教 などにより過剰・自己愛・妙は獣)、他者への配慮もある人間(自分を愛するように隣人を愛する・世の人の困難・苦難・思い煩いと取り除くことはよい)は、心の内に神と永 遠の命を宿した者で、人間のつくった偶像を拝み、滅びの者となることから救ってやらねばならない。 391 :神も仏も名無しさん:2015/02/22(日) 10:10:52.45 ID:QnKvgmeD 空海は日本仏教全体の密教化を目指したらしいけど それは現代のキリスト教やイスラム教にも当てはまるものなのかな? 本来の空海あたりの本格仏教は、自己のみならず、他者及び空間の禅定による把握と他者救済がありますが。 キリスト教、イスラム教は空間の禅定の把握感覚はありません。 むろん、日蓮、法然、親鸞もこれに関してはありません。 ■肉の思いと汚れ 党派心・分派・分裂 清浄な天の者たちが忌み嫌う行為 ―離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも〜捨て去らねばならぬ(悪魔との対話) 神=宗教・信仰(妄執を乗り越えない者に宗教・信仰はない)=この世の者ではないイエス・生きながら彼岸の釈迦 ―山へ逃げよ―(マルコ)― イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず―(ルカ) ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗―(仏) 創から終りまで、人間の状態では、聖霊に満ち荒野・森に住み心静まり清浄な行者のみが、宗教・信仰・永遠の命・神につながっている。その他の人間の宗教は、全て滅びと 決められている。 今、私たちは―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった(ブッダのことば)心のただ中にあるものが、善い国につながっている。 部屋の中で、何もしなくとも足り、思い煩わない心は、その時、善い国につながっている。イエスが世に打ちひしがれた人をいやしたように、この世も天にあるとおり、思い 煩い、困難・苦難がなくなりますよう祈る心は、善い国につながっている。 ■何が一番正しいのか、誰が一番正しいのか、この宗教こそ一番=肉欲が強い者=獣と同様滅び この世の者ではないイエスの姿が正しい・生きながら彼岸に達した神通力の領域に達した釈迦が正しい・家なくして歩み、わずかな食物で暮らす生活を守り、離欲を達成する修行 僧は正しい=悪しき者・妄執を乗り越え、山を移すほどの力・神通力の領域に達した者は、地上のものに心一切引かれず信仰あり正しい。 法を破って地獄に行く者どもが、自分たちの宗教・信仰が優れていると言うだけ。地獄に行かないように、全世界の肉を宿とした人間を悪しき者の配下・妄執というひとつの ものに一切のものを従属され、神を信じても罪しかなく、からし種一粒ほどの信仰のない、まだ汚れのない子供が人間の信仰・宗教に毒され、滅びないように、何一つ信仰の無 い者と生まれさせた。 100匹の羊とは、全世界の良識ある人間のことで、一匹の羊とは、人間の信仰・宗教に毒され、滅びに至る者も含まれる。 ―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである(ローマ) 人間の信仰・宗教に毒されず、自然のままでも人間の内に永遠につながる良心があるようにされ、良識的に生きるであろうと創った。 □宗教・信仰などないが 神への信仰はこの世の者ではないと明らかにして 誰も仏でも神でも修行僧でもないのだ。家なくして歩み、わずかな食物で暮らす生活を守り、離欲を達成しようとしないで僧と名乗る者は、ただの盗人で、彼らに悪いと思う心が ないから、悪の報いを受けさせるのが神。 ―法にしたがって生き、恥を知り〜自分のなすべきことを行う人を、他人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである〜他人を訓戒せ よ、教えさとせ〜悪人と善人とは、死後には異なったところにおもむく。悪人は地獄〜善人は天上―(感興のことば) ―肉体を宿している間は主から離れていることを、よく知っている〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである〜人々に説き勧 める―(コリント)―主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい―(エペソ) 妄執を断じた釈迦、世捨て人の修行僧、この世の者ではない国を義とする神の名イエス をよしと受け入れ、人間になりたいと生まれた者に仕えることのみ宗教の役割とされ た。人間には妙なことなど一切無く、神の御加護をということも無く、人間でいたい者全てを尊重するよう訓戒するしかない。自制を含めて、他者への配慮もある人間に育て ることが宗教の役割。 妙なことを言って地獄に行く者となるから、わからないだけなのである。 断食をしていると、いろんな事に興味が失せるな 植物になったとは言わないけど、 貝とか亀ぐらいにはなった気分 断食について調べると「西式甲田健康法」「甲田療法」というのを何度も目にするんだが 甲田氏は「甲田療法は病気の根源が結局誤った想念である事を正しく理解し、それを浄化するように努力することです」 「健康になることと宗教はひとつやな。宗医一体。」と言っているな。 やはり宗教というのは医学をはじめとし、全てのことに答えを出さなければ成り立たないよな ヨセフにせよモーセにせよ卑弥呼にせよ、民に健康を与えたから民がそれを信じたわけで 飽食時代の日本に必要な教えは、断食や精進料理だろうな それにしても、党派心ってのはイヤだねぇ・・・ヤレヤレ □創造主 人間に必要なもののために、全世界は悪しき者の配下・妄執という一つのものに一切のもの従属させた 人間の姿で信仰ありとできる者はイエス=神のわざ 釈迦=神通力、釈迦に従おうとして無所有でわずかな食物で暮らす生活を守り、離欲を達成しようとする修行僧しかない。 【衣食住にせよ、人の手でつくられた物を必要とする人間にとって、誰も他人より優れた信仰ができますという者はおらず、妙な宗教支配を試みて人々を支配しようとする者は おらず、誰も公平・平等にからし種一粒ほどの信仰の無い者となって、この世の苦難に耐え、妙な御利益・加護など一切無く、善悪を知り、現実あるがままの地を生きさせるた めである】 ―世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲心が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である(ブッダのことば) 人間の手で作られた物を必要とし暮らす限り、宗教・信仰できる者は誰もおらず、良識に従って益をもたらすとされた方で、党派心・分派・分裂をもたらすような信仰・宗教 はない。 □信仰ありとされる者 「衣食があれば足り、神のわざ・山を移すような力あるわざの者を信じて、ただ、信仰のみに生きる者」「世と世にあるとを喜ばず、地上のものに心を引かれてはいけない」 現実あるがままを耐え、生き抜こうとせず、信仰に頼ろうとする者の道は非常に厳しいのだ。こういった言葉を軽んじて信仰しようとする者に、天では怒り憎んでいる。 だから、まだ汚れの無い子供が何一つ人間の信仰・宗教に毒されず生まれたように、からし種一粒ほどの信仰も、あなたがた(通常の人間)にはない。 修行僧が家なくして歩み、わずかな食物で暮らす生活を守り、離欲を達成し妄執を乗り越えようとしたように、信仰の道はあり、 ―この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか?賢者は、自分をよくととのえて、いろいろの幸せを得る(感興のことば) 世を捨て安らぎの希求か修行完成者の言葉をよしと受け入れられる状態になり、世間でいろいろの幸せを得る道か、そういった選択は自由である。 ■しかし、世間で必要な物を得ながら、「私は信仰深い者・ある者」と偽り、人々に妙なことを言い、洗脳し支配することはゆるされない。不思議・妙・御利益を取り除 いた方なのだ。 神など何か信じた者は、地上のものに心を引かれず、衣食があれば足り、何事も思い煩わないようにする道しかない。神は不法をゆるさない方あである。 ■空海も法然・親鸞・日蓮も・・・その他宗教者全員がおれおれ詐欺 心軽やかに長寿(仏)―「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそ こに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう〜祈りと断食とによらなければ、追い出すことができない(マタイ) あなたがたは善い者であれば、山を移すほどの力があり、全ての者は罪を犯したため、神の栄光が受けられなくなっており、肉を宿とし、重い荷に耐えねば(生きること) になった=霊の知識を教えた。盲人で口のきけない人をいやされたように、みこころが天にあるとおり地にもありますよう、愛とあわれみの祈りと、肉欲を制すれば何でも できる神の霊と共に在る。 霊は自然災害で多くを失っても耐え立派だとか、病気の人が人間の欲得な行いから離れ安静にして病気の治療に役立とうとするように、身体の悩み苦しみ思い煩いを治し 先生と尊敬される医者とか、人間に益をもたらすよう現れるが、 ―御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない(ガラテヤ)をもたらすためであり、妙をおもちゃにする ことは、神によってゆるされない。地上で罪をゆるす権威とイスラエルの失われた子羊のため。 成長するのに必要だという以外に、断食は私たちに生きているという実感を 与えてくれる。私たちが生かされている源、すなわち水と空気の存在を実感と してとらえることができる。 水のうまさ・味── ふだん私たちは味覚がまひしているために、本当に体 によい水の味がわからないのである。断食後、私は水道の水がどうもまずくて 飲めないので困る。清水か霊泉、ミネラルウォーター、太陽石の水などにして 飲まなければ、とても飲めないのである。 光の存在── これもふだんは感じない。ところが1週間も断食している と、光のありがたさが五感のさえとともに、体全体でわかるようになる。その 意味で断食中は、全身の日光浴を思う存分することである。 空気の味── これも食べていてはほとんど感じることができない。ところ が断食によって嗅覚がさえてくると、混雑した道路とか、光化学スモッグで汚 れたところにいると、空気の味の悪さから、頭痛が起こってくる。 予言 「ユダヤの秘密結社が、国連ビルを 爆破するだろう・・・ 真犯人は、「マイトレーヤ」と「ユダヤ人」とフリーメーソン!!」 ユダヤ人が、中東で第3次世界大戦をおこそうとするだろう・・ 「マイトレーヤ」と名乗るユダヤのカルト教の教祖が 現れるだろう・・ カルト教の教祖マイトレーヤ 「友よ、友よ、友よ、友よ!! 国連ビルで平和のためのサミットをひらこうではないか!!」 国連ビルに平和主義者や王たちが集められる!! 国連ビルにしかけられた「原子爆弾」が、爆発し 都市は廃墟になるだろう・・・ 「マイトレーヤ」と「ユダヤ人」と「フリーメーソン」人たちは、 高らかに笑う!! 中東で世界大戦がひきおこされる・・ユダヤの計画によって・・ 世界は、地獄の「核戦争」につきすすむだろう・・・ わたしは・・この予言に命をかける!! ミカエル これから宗教はどうなっていくんだろうな 変わっていく気もするし、相変わらずな気もするし・・・ キリスト教の密教化はまだまだ遠い先の話だな 悟りのある者が神父・牧師にならないと >>406 水・光・空気についてここにも書いてあるな http://nmitsuda.jp/body/body-0340.html ↓ 週に1度は断食をしながら敬虔な感謝の祈りを神にささげること。そして、普段の 生活に「3人の天使」を迎え入れること。そうすれば、悪魔(毒素)を退け、病気 知らずの健康体で過ごせるようになる、とエッセネ派の福音書には書かれています、 その3人の天使とは・・・ 1人目の天使 「空気の天使」 森や野の新鮮な空気の中で過ごし、深く呼吸をすること。時には衣類を脱ぎ捨て、 全身を外気にさらすこと。 (略) 2人目の天使 「水の天使」 水浴、入浴、水を飲むこと。洗腸をすること。 (略) 3人目の天使 「陽光の天使」 日光浴。太陽光線にあたること これも貼っておく エッセネ派の平和福音書 http://vooot.net/evangel.html 二人の主人、放蕩息子についてハッキリと解き明かしてるのも注目だな 気功とかヨガとか興味あるんだけど なかなか一人では出来ないな 読書でもしようと思ったんだけど、聖書外典がどこか行っちゃって困ってる マグダラのマリアによる福音書買いたいけど高いな マリアの福音書ちょっとだけネット上にあるけど短かった フィリポの福音書読みたい あれ?書き込めたぞ? 最近書き込めないことが多いから困ってた 最近気になったことがあるんだけど 「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」 って聖書に書いてあるけど これってもしかして即身仏(修行者が瞑想を続けて絶命)かな? あと気になってるのがこの辺 「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。」 凝乳(醍醐)と蜂蜜は仏教でも馴染み深い食べ物だと思うけど スジャータの乳粥を思わせるし 生まれ変わるために必要な禅的食養生のことを言ってるんだろうなぁと思う 予言 巨大地震に気をつけましょう・・・ もうすぐ旧約の神がイスラエルで巨大地震を ひきおこすだろう・・・ 凶悪な殺人鬼が、善良な人間を殺すだろう・・ 警察は、未成年を保護し、だれもさばくことができない・・ 殺人鬼たちは、次から次に現れる 街は暴力が支配し、人の心は荒廃するだろう・・・ 政治家たちは、選挙で勝つことしか考えず、 だれものぞまない邪悪な者が、権力の座につくだろう・・ 学校は、荒廃し校内暴力の時代がまたやってくるだろう・・ だれも悪を裁こうとしないだろう・・ 科学は・・・発展し、男同士で子供をつくるだろう・・ 女同士で子供をつくるだろう・・ 生物学者は、肉食動物と人間をかけあわせた生物をつくりだすだろう・・ キリスト教徒は・・悪魔に虐殺されるだろう・・・ だれも悪を裁こうとしない・・・ 人間は、堕落しつづける・・・ 2030年から2040年のあいだに 旧約の神が堕落しきった全人類を裁くだろう・・・ 悪魔どもが現れたら・・神の裁きはちかいと思え・・・ ミカエル 予言はともかく 惑わされないで目を覚ましていればいい ブッダの教えが無理ゲーすぎる http://world-fusigi.net/archives/7724415.html >仏陀の教えに近いと言えるのは、個人的には禅宗 >古代仏教は分析的で理性的且つ心理学的な魂の探究と言ってもいい >ただただ理性的な心の分析、修行のための身体の調整という分析作業に >教祖というのはいなかった 最近なんか知らないけどエホ証スレが活発だな 正直あまり関わりたくない お互い自由にやってるってことで、何より ヒンズーで面白いことあったら教えて 俺は旧約聖書とジャイナ教をちょいちょいと インド人って修行に関しては自由にやってるイメージがある 面白いって言うから覗いてみたが、 いやあ、面白いね。 久しぶりに腹から笑った! アニメ「かぐや姫」をお迎えに来たのがお釈迦様とは! >>435 そのアニメは見てないが、ちょうど最近こんな話をしていたところだ 337 名前:Mr.名無しさん[] 投稿日:2015/03/07(土) 10:17:37.42 >>322 昔ばなしはほとんどが例え話しなんだよ 現実とリンクさせる経験させないと話しを理解出来ないと思うわ 360 名前:Mr.名無しさん[] 投稿日:2015/03/07(土) 10:20:14.06 日本神話や桃太郎、浦島太郎、竹取物語は完全に暗号だよな 391 名前:Mr.名無しさん[] 投稿日:2015/03/07(土) 10:24:02.88 >>360 日本神話の造化三神のあたりは概念の話だからな この辺りは宗教学者がマジメに研究してるわ 元の話と変わってたりするから、あんまりあてにはならないけどな。 聖書の内容もそのようなもんだろう。 そうだな それがどんな予言だったとしても、気にしすぎればかえって良くない 一番重要な教えはシンプルかつ明瞭で それをどう伝えるかという方便が無数に在るだけなんだよな 万人に伝わる教えなんて存在しなくて、何かを強く言えばどこかで反発がある だから属する事に嫌気が差してこんなスレにいるんだけどなw 造化三神って気持ち悪いおっさん三人だな。 こんな神を祀ってる神社もあるのか。 今日も平和だったな ところでみんなヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想についてどう解釈してる? 人によって「先にサマタ」とか「まずはヴィパッサナーだけやる」とか言うけど どうなんかなぁ? 激動!世紀の大事件 オウム真理教と闘った家族の全記録〜地下鉄サリン事件20年〜 2015年3月20日(金) 21時00分〜22時52分 の放送内容 オウム真理教と闘った家族の27年。突然わが家にオウムが!麻原の嘘を暴け…命懸けの息子奪還 ▽わが子が殺人犯に…死刑囚の母、涙の懺悔▽教祖の殺人教義テープ 番組内容 誰よりも早く“オウム真理教の狂気"に気付き、誰よりも長く“麻原彰晃と闘ってきた"男がいる。 オウム信者の親たちが結成した、「家族の会(当時・被害者の会)」の会長を今も務める永岡弘行氏だ。 地下鉄サリン事件から20年を迎える2015年3月20日、 わが子を救うべくオウムと壮絶な闘いを繰り広げた「家族の9900日」を、 実際の映像や独自に入手したオウム真理教内部の音声記録を織り交ぜながら、ドキュメンタリードラマ形式で描く。 番組では、教団内部で録音された1000本を超える極秘テープを独自入手。 「修行が進む謎の液体」「洗脳指示」など、これまで公開されることのなかった教団の音声記録を元に、オウムの変貌をひもとく。 また、麻原の故郷・熊本で、幼い日を知る盲学校の同窓生と元同僚が麻原の「カネ」「権力」への異常な執着について証言。 極貧、愛情の欠如…社会への復讐(ふくしゅう)に走った麻原の“心の闇"が明かされる。 久々にテレビのある実家に来たので、録り溜めた「こころの時代〜宗教・人生〜」を見てる。 この番組は偏りがなくて、宗教の「良い側面」を見せてくれるのがいいな。 宗教嫌いの色眼鏡かけていなければ、この番組は面白い。 http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/20131006/1381078224 >氏は言われる。宗教は人を導くものであり、『人を制限するものであるのではない』 これ重要だよな。 聖書を愛する自称仏教徒の俺だけど、イスラム教に関して感心したのが、 「『もっとも大事にしなければならないのは、妻であり、子どもであり、その教育はあなたの義務である』 イスラム教の根源の言葉です。こういう言葉がコーランにはあるんですよ。」 このような現実的な教えがもっと理解されるといいな。 >>444 この番組は録画してなかった。 関わった人たちは心の傷が癒えるといいな。 イースターまで教会に行かないつもりだ。 久しぶりに書き込んだ。 最近は日本仏教多くは、外部に仏、開祖が救ってくれる仏教になったのが多いぞ研究にはまっているなあw イースターっていつだ?って思って調べたら4月5日か ユダヤ教の過越の祭りに由来があるんだな 日本の仏教の問題は肝心の坊さんが葬式しかしないと言うことだ。 はっきり言って今の坊さんはみんな腐り切ってる。 キリスト経の牧師も似たようなものかもしれないが。 仏教嫌いのクリスチャンは確かにそういう面を見て仏教を嫌っているな しかしそこで「人のふり見て我がふり直せ」とならないのが宗教の面白いところで 日本の仏教では、僧侶になるとき 葬式の練習を一番重視している。 葬式できないと飯食っていけないからな。 ほとんど葬儀屋だ。 葬儀屋仏教のルーツは平清盛時代かららしい。 高野山、空海に対して法要、供養を行えば救われる形式の・・・・。 あと阿弥陀信仰ね・・・。阿弥陀仏を供養すれば救われる形式。 どちらも外部に救いの力を持つ空海や仏を想定している傾向がある。 現在曹洞宗宗門主流派のシステムなんかは、禅宗にも関わらず、 作法法要の形式で外部の釈迦如来、達磨以降道元までの修行者からの救いを想定シフトになってしまっている。 むろん、現在曹洞宗宗門主流派は一部学者の説によれば。 葬式仏教のスタイルを構築したとも言われている。 近所の現在曹洞宗宗門主流派の法要に昨日参加したぞ。 般若心境を読みながら外部の仏、他力徹底に無分別徹底の禅定システム味わい楽しんでいたなw 俺は最初、曹洞宗禅に関して。 非葬儀仏教趣向の沢木興道の禅のイメージを持っていたから。 現在曹洞宗宗門主流派の作法法要趣味が理解できなかったなw それは俺も理解に苦しむことがある。 精神を受け継ぐための手段として作法を強調してきたんだろうけど。 その点、茶道や華道や盆栽あたりは庶民にも馴染みやすくていい。 最近、平清盛と織田信長について調べてた。 俺はあの2人が好きだなぁ。実に人間らしい。 >>443 ググって、なぜヴィパッサナー必要なのか知るといいよ イースターって最近クリスチャン以外でも言うようになったよね >>426 NHK Eテレ 100分de名著 「ブッダ最期のことば」毎週水曜22:00〜 大乗非仏説、般若心経は釈迦の教えと違う等、 今では多くの仏教学者の学術的な定説 佐々木先生からブッダの教えを学ぼう イースターはディズニーランドで拡散したのかもなw 臨済宗禅の脳ダウンロードは余裕だが。 現在曹洞宗宗門主流派の洗脳が効いて、本来道元禅の感触が・・・・イージーに思い出せんww ブッダの教えなんて、レベルが低い! やっぱ、キリスト教だよ。 レベルで言っちゃ、キリスト教の方が低いよ。 レベルが高い場合、罪人は救えないw お勉強しなおしなさいw 教えの話をしてるんだよ。 なんか別のこと考えてない? 南無三様 ブッダの教えは、念仏、題目、祈祷護摩ではないですよ 無我ですよ、これ信仰さえ超えていた優れた教えです 人は観念的思考に囚われていて、かつ苦悩するのです 心、内面に着手した智恵の教えです そう、貴方も宗教で自我(エゴ)を強化させてることに 気づいてないのです、優越したと思って書いたのですよね >>459 ホント、そうだね。 ラジオで「イースター、イースター」って騒いでいるから驚いたよ。 カラフルに塗られたゆで卵がカワイイ〜だって。 恵方巻きよりはかわいいだろう。外見は女性受けするかな。 ま、死後に仏教で葬式あげても、極楽ではなく、「天国」に行ったという ご時世ですからなあwニュース報道では極楽でなく天国w 極楽なんて銭湯の名前しか聞かないな それはお浄土の浄土系ですよ けど語源が仏教語は沢山ありますよ、「ありがとう」もね >>465 仏教の話をしてるんだよ。 原始仏教だけに限定してるわけじゃないよ。 南無三様は、神が人となられたイエスが理解できないので、 レベルが高い云々とおっしゃられているんだよw じゃ、オマイは何と理解してるのだ? オマイの理解を知りたいものだ。 こころの時代 シリーズ 禅僧ティク・ナット・ハン 第一回「怒りの炎を抱きしめる」 2015年4月5日(日) 5時00分〜6時00分 の放送内容 世界的影響力のある禅僧ティク・ナット・ハンの教えに耳を澄ます2回シリーズ。 第1回は、紛争や対立、差別などの「怒り」をどう変容させたらいいのか、人生からひもとく。 番組内容 真髄は、ブッダの教えに基づく「マインドフルネス(今ここに存在する自分に気づく)」。 さらに、自と他の区別をなくすことで、怒りを静め、社会を変えることができると説く。 その原点は、ベトナム戦争にある。 教えを受けた高僧の焼身や弟子の殺害に苦悩し、暴力で対抗することなく慈悲の境地に至る。 そして、キング牧師と共鳴、国際社会を変革していく。 88年の波乱に富んだ人生をたどりながら、その教えに迫る。 見たよ、 ティグナット・ハンの禅は日本の禅よりも、南方仏教テイストが入り、中国の天台宗ぽいな。 マインドフルネスは法華経と南方仏教の融合に禅という感じがあるな。 日本の禅は、頓悟禅、即悟る禅だが、 ティグナット・ハンの禅は天台要素、南方仏教要素を取り入れて漸悟禅、少しづつ悟る禅だな。 南無三クンはイエスが人間の苦しみを受ける為に人間のレベルの苦しみを受ける為に生まれたという理解が無いのさ、 だからレベルが高いとか言える、ま、罪人の人間の苦しみは何も解っちゃいないのさ。 仏教は緻密な分析で構築しているんで、キリスト教のミラクルによる誘導はないだろうな。 今日はイースター礼拝行ってくる、昼から。 ティク・ナット・ハンみたいな立派な僧を見ると、俺もいつかこんなサンガを作りたいなぁと夢が膨らむ 今は一人を好む俺だけど(笑) イースター礼拝から戻り・・・・。牧師の人間的器量と、今日の礼拝に行く教会の礼拝に来る人がユニークな人が多く・・・・。 ま、暗闇の中の唯一の希望の光・・というのがキリスト教の中心テーマだな。 ティク・ナット・ハンのマインドフルネスは静寂を重んじる感触が、 中国天台にシフトしているなあ・・と思う。 天台は、寂光土の禅定感覚だな。日本禅は静寂を強調しないからなあ。 堕落しちょる、曹洞宗宗門主流派の解釈をティク・ナット・ハンのマインドフルネスの静寂を 活用すると上手く使いこなせそうw明日寺に行って試してみようw http://m2.upup.be/j3GS6yJ1hv 野口英世と大隈重信 http://l2.upup.be/CfE8fOSdgr 野口英世と東郷平八郎 http://m2.upup.be/qH7YjpjAGW 日本人最初のカラー写真、野口英世(大正3年アメリカで撮影) 野口英世 学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。 仏とは聖書的には天使の偶像なのだろう この世の全て自分の中の余分な全てを捨てて完全な者に成った姿であり それを目指す様な教え宗教が仏教なんだろうが イエスを通らなければその先に有るものは示されないだろう だから仏教はこの世の事しか見えて居らず、この世を捨てた後に 見えてくるのが「無」なのである 人がムに成ると書いて仏‥わはは >この世の全て自分の中の余分な全てを捨てて完全な者に成った姿であり それを目指す様な教え宗教が仏教なんだろうが それは君の空想、基本は「ありのままに見る」を得るというのが共通項、その為の心理分析を緻密に行う。 >イエスを通らなければその先に有るものは示されないだろう イエスは仏教のような人間の「緻密な心理分析」とありのままにみるを期待していない。 人間の罪人性の暗闇の中からイエスの光、希望を与えるだけだよ。 レベルが上がって聖霊による英知による聖書による教育でレベルがあがるのみ。 >だから仏教はこの世の事しか見えて居らず、この世を捨てた後に 見えてくるのが「無」なのである それも空想。物事の道理と心理分析が仏教の特徴。 ちなみに偏見と思い込みがある場合、物事はありのままに見るという状態だろうか? これが仏教の基本の問題提起である、 仏教の観行瞑想が認知療法として、臨床心理学、医療が認めてるね 欧米が認めて、日本に輸入された その名は、マインドフルネス認知療法 宗教の修行法が医療現場で使われるって、初ではないかな 面白いのは、ルーツが仏教瞑想だから、カルトとかオカルトとか 怪しむ人いて、オウムの影響だよな、オウムは秘法ヨーガで、 この四念処の観行はやってなかったよな 偽クリスチャンの南無三は、ほっておいてw イースター礼拝自体の教会の恵みは、ボチボチだったんだが、 家に戻った後、図書館で借りた、聖フランチェスコの本を読んでいて・・・。 聖霊まったり飛びまくりでw寺に行けなかった昨日・・・・。今日も聖フランチェスコの本読んでいるけど・・。 聖フランチェスコの究極の戦略は・・・・・。 「愚直」という戦略なんだろうと・・・ ま、これも南無三クンの関心ない世界でして・・・・。 「愚直」の戦略は本格修行系仏教には無かった、愚直な振る舞い(臨済宗禅は得意w、曹洞宗だと良寛さんかw)があっても 「仏智」に基づいた策略がある。 特に、禅、南方仏教、中国唯識は「精密な物事の把握」があるので現実把握という緻密な「仏智」に基づいている。 聖フランチェスコ風愚直ポイ「仏智」は天台、華厳、真言あたりに感じるなあ・・・。 仏教で「愚直」そのまま一本を感じるのは。浄土真宗、浄土宗、日蓮宗あたりだろうなあ・・・・。 「ぶっちゃけ寺」の3時間スペシャルみたぞw聖霊まったり飛びまくり感覚を捨ててw しかし、やはりティグ・ナットハンの仏教次元からするとどの宗派も土着劣化を感じるなあ、特に曹洞宗は、ひどいなw 面白かったのは長谷寺の豊山派の朝、天神を礼拝するが面白かった。 日本の土着神仏習合信仰に関心があるからなあw >仏教の観行瞑想が認知療法として、臨床心理学、医療が認めてるね 欧米が認めて、日本に輸入された その名は、マインドフルネス認知療法 宗教の修行法が医療現場で使われるって、初ではないかな 日本だと高野山大学の南方仏教の教授頑張っているらしい。 天台の小止観なんか、医療に使えそうなんだけどな。 天台宗の坊主の多くは瞑想に関しては相当劣化しているからな。 「ぶっちゃけ寺」はリアルタイムで大体見れたけど録画失敗してて残念 この番組は宗派を超えて仏教の世界を学べるのでありがたい 神仏習合ネタはこのスレでも関心ある話題だな 近々、曹洞宗の豊川稲荷で金運上昇でも願ってくるか 前回行ったのは去年だがあそこは建物が立派なんだ 「ぶっちゃけ寺」はほとんど浄土教に土着した日本土着仏教とみていいな。 開祖の仏教は崩壊に近いかもな。 見た感じ、残ってそうなのは高野山真言宗あたりかな。 元が緩い日蓮宗、浄土真宗、浄土宗は問題なさそうだけどな、開祖の仏教と比べて。 曹洞宗の禅問答を不満そうな気配で見守る臨済宗僧侶を感じたな。 「何をノー天気にやってくれているんだ的気配がw」 曹洞宗坊主は只管打坐、坐禅一本だけで、禅問答の能力はないんだからなあw 儀式として使っているからな、永平寺にしても。 >曹洞宗の豊川稲荷 秋葉寺と同じ、曹洞宗2大神仏習合寺だな、ちょっとマニア的に禅定を研究してみたい気分があるw 物事をありのまま見るといいますか、聖書的にはマタイ伝の垂訓などで 目の中の塵(または梁またはおがくず)を取りのけば、ハッキリと 見える様に成ると教えています。相手を何タラ言う前に、まず自らの 目から取りのけよと言いますが。これについては本当に個人的に 真実探求の当初、多感期の青年期当初から思う事でも有るのですが 子供とか青年期の時の方がハッキリと物事を見れている状態じゃないかと。 大人になるほど、固定観念や現実的な事物に対する事情や情念が支配したりして 大人の都合も出来る嫌い、物事が見えづらく成ってくるのかと、実感をしており また青年期当初の様なハッキリとしたものの見え方に戻ったのも ここ数年前で一度くらい実感しているので有ります、まあ微妙な問題でも有ります 青年期の中でも感覚が変わってきたので有ります、昨今有った自分の課題で乗り越えたのは、 見失われた自分自身を取り戻した事、性欲の支配から完全に抜け出し1ヶ月以上オナニーしなくても 大丈夫と成った事、さらには弱体化した自分を強化し直せた様な‥と 有ると思う訳ですが皆さんはどう思いますか〜 >>491 健康だった頃の自分の魂を取り戻せて良かったな その調子で精進すればいいと思う 俺はもう少し納得いくまで強くなったらお遍路で自分を試したい ちりと梁は大工の息子らしい譬えだよな 目が良ければあらゆる事から学べるし、人にわかりやすく伝えることが出来るんだな 問答と言えばチベットの問答を思い浮かべるが、あれはスポーツのようで面白いな あの形式で日本語でもやってほしい >物事をありのまま見るといいますか、聖書的にはマタイ伝の垂訓などで 目の中の塵(または梁またはおがくず)を取りのけば、ハッキリと 見える様に成ると教えています。 キリスト教の場合、緻密な分析というよりも、 罪人としてある人間側の問題、感情、思考、の提起という意味合いの方が強く感じるなあ。 神の側を中心に置くべき、人間側自己中心を放棄せよ。という意味なんだろうお・・・。 むろん仏教的読みはできるんだけど・・・。 チベットの問答か・・・・。高野山の儀式問答に近いんだろうなあ・・。体を動かすかは詳しくしらんけどw 高野山壇上伽藍の明神、鎮守の神のお堂でやるらしいっす。それに似たのを。 聖フランチェスコの本読んで嵌ったから、今日は教会に出かけようw 聖フランチェスコは意識が飛び脱魂していたらしい・・。 俺は、この方向の強烈なエネルギー食らったことがあるけど。 敬虔な禅仏教徒なんで、深入りしなかった・・。 聖フランチェスコの意識が飛び脱魂の向こう側に関心があって・・。 俺が意識が飛び脱魂してたら・・・・。そこは、というつもりで読んでいて、聖霊に満ち溺れていた訳でwww パウロの大きな疑問は「根本教理がイエスと正反対」につきますがそれだけではありません。 血脈 : 母方のベニヤミンだけ言って父方のエドム人を隠してる。手紙の中でヘロデ王家の貴族ばかりに挨拶。 http://ventana.net/images/sauls_family_tree.jpg 過去 :キリストの弟子たちを大勢殺し殺させた。 イエスに会っていないし、見てもいない。 出身地 :タルソ ヘブライ語でタルソの数字は666。 名前 :パウロの名はアポロニウスの略。アポロニウスは黙示録に出てくる地獄の使いアポリオンのラテン形 クレメンス書簡:エルサレム神殿で口論の末ヤコブを階段から投げ落として両足骨折させた 。 死海写本 :発見されたヤコブの書簡に「義の教師」に対して「偽りの教師」が登場。それはパウロに該当すると学者間で言われている。 不吉な数字13 : 13は聖書ゲマトリアで反逆の数、獣の数、サタンの数。 パウロの父方先祖エドム人は13部族。パウロは13人目の使徒を自称。 パウロの書簡は全部で13。 黙示録の13:13に偽預言者が出てくる。 イエスと初代教父の証言 : イエスは創世記49:27の「ベニヤミンはかみ 裂く 狼」の預言を偽預言者に当てはめた。ヒッポリトスなど初代教父たちはパウロがこの預言の成就であると記録。 黙示録の預言を成就 : アジアとエペソでの宣教の大失敗により黙示録2:2の預言を自ら成就。 神からサタンを与えられる : 古代の同族同名のサウル王と同じく、パウロは「神からサタンの使いを与えられている」と告白。 エビオン派(イエスの直弟子たち)の証言: エピファニウス(5世紀)が記録したエビオン派の文書によれば、パウロは「反キリスト」、「敵」、「嘘吐き」で、「 大祭司の娘と結婚したいがためにユダヤ教に改宗したギリシャ人、 娘に断られて腹を立て、律法を敵視するようになった」 。 自分で偽りを認めている。ローマ人への手紙3:7「神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、 神の栄光となる」 パウロはティアナのアポロニウスと同一人物。 http://almondy.suntuubi.com/datafiles/userfiles/File/Apollonius_vs_Paul.pdf パウロも498の君も神の事が全部理解不能だという覚悟はキリストにあったと思うぞ。 聖フランチェスコ自体も、悪魔の誘惑に苦悩し罪人性を嘆いたのだから。 聖フランチェスコの理想とする完全な修道会の完成すらできない。 神のサイドでは完全な人間はいないという前提で神の救済を計画されたんだろう。恐らく。 オマイごときに見透かされるとは、 神もたいしたことないな。 自分から出る想いを完全に支配できないから、 自分の偽りは認めて日々精進しなければ悟りは完成しないわけで。 道元さんを見習うべきだ。 ティク・ナット・ハン 呼吸の働きが軽やかで、自然で、静かで、穏やかであることを感じてください。 歩いている時も、庭仕事をしている時も、パソコンを使っている時も、 一日中どんな時でも、この安らかな命の根源にもどることができるのです。 のセンスでやってみた。ちょい順調だった。 さらに俺流に精神作用停止のイメージで生活してみるかw むろん、これは禅とは無関係だなw http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/bookreview02205.htm ティック・ニャット・ハン「イエスはブッダのように菩提樹の下で瞑想した」 うーーん、聖フランチェスコの視点でイエスを見るから。 これは・・・・ラーマクリシュナはこの立ち位置なんだよね。 イエスキリストは、俺的には奇跡の力で聖霊を与え、愚か者や弱者の救済者のイメージがあって・・・ ブッダの立ち位置は緻密な分析で合理的戦略で人間の心を変えるというイメージだな。 聖フランチェスコの苦しみの中の至福という厳しい趣味は ブッダの禅定で楽をする味を占めてしまった俺には厳しいなあ・・・・。 「あいだにあるもの」の本質を見ることで、われわれ自身と他者とのあいだの障壁が消えていきます。そして平和、愛、理解が可能となるのです。 理解があるところに慈しみは生まれるのです。 (『生けるブッダ、生けるキリスト』) 聖フランチェスコの方法は、自らを世で一番貧しい者として低い位置に立つ。 新約聖書のイエス、マリアとヨセフ、共に世に卑しめられていた位置にあり。 故に馬小屋で生まれ。最後は馬頭卑しめられて十字架に付けられる訳で・・・。 仏教に一番近いのは法華経の常不軽菩薩、釈迦の前世と言われる・・。 むろん、聖書において、ティク・ナット・ハンが上記の文章を出して聖書を仏教的に読める箇所はある。 ヨハネの福音書17章、俺も好きだが、俺も最初は仏教読みで17章読んだ記憶がある。 http://tenryo.net/John17.htm ヨハネの福音書17章5 そこで今、父よ、あなたが御自身の御前にわたしの栄光を、すなわち世が存在する前にわたしがあなたのもとで持っていたあの栄光を、現してください。 ヨハネの福音書17章 21 それは、皆が一つになるためです。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、あなたがわたしを遣わされたことを、世は信じるようになります。 ヨハネの福音書17章 22 あなたがわたしに与えてくださっている栄光を、わたしもまた彼らに与えまし た。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 ヨハネの福音書17章23 わたしは彼らの内におり、あなたがわたしの内にいてくださるのは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたのであり、わたしを愛されたように彼らを愛されたことを、世が知るようになるためです。 モーセの断食は瞑想というよりずっと石版彫ってるイメージ 今日は教会の庭の草取りを手伝った。 祈りにより、主の霊の力を借りる感覚を学んだ日であった。 とうとうさ、都内の大病院が仏教瞑想を取り入れるって、 効果が認められ、認知される時代になったんだね 安倍首相だって座禅するからね、サマタとヴィパッサナは違うけど http://world-meeting.co.jp/mindfulness/ 聖路加国際病院、ティク・ナット・ハンの教えに学ぶ マインドフルネス研修会 聖ルカか、なるほどー 田舎暮らしもじわじわ流行りつつあるし、 今の若い人たちは欲が少ないと言われてるし、 ファスティングやってる人も増えてきたし、 瞑想ブーム確実に来るだろうな そう、聖路加国際病院はキリスト教系 そこに仏教瞑想が取り入れられる こころの時代 禅僧ティク・ナット・ハン 第二回「ひとりひとりがブッダとなる」 見るか みたぞ、 ティク・ナット・ハン は中国天台の密教寄りシフト前の天台小止観を禅化したみたいな路線だな。 日本天台は浄土教&神仏習合化密教だから、瞑想が詳しい天台僧は少数だ。 「ひとりひとりがブッダとなる」 の意味合いも、中国天台解釈の法華経の香りがするね。 中国天台をわかりやすく、実践化した雰囲気がある。 法華経にある常不軽菩薩と聖フランチェスコとの類似点があるように、 ティク・ナット・ハンはキング牧師との類似点を見たんだろうなあ・・・。 >>500 >自分から出る想いを完全に支配できないから、 自分から出る想いを支配はできないけど、心の中の平静なる心に重きをおいて、 出る想いに振り回されないで、明鏡止水の平静なる心を維持継続することが大切 です。 >自分の偽りは認めて日々精進しなければ悟りは完成しないわけで。 自分の偽りにに気づくことは、分る領域と分らないで見えてこない場合 があります。 まだ見えない偽物の自分に気づく方法として、利自即利他の精神を持つ と決意して、見返りを求めない他の人に役立つ活動と他の人が幸せになり ますようにという祈りを実践することで、見えなかったニセモノの自分が あぶり出されてまいりますので、そこで、心の内の課題としてクリアを するかを考えて行く中に、解決のヒントがおりて智慧となり解決してゆく なかにニセモノの自分が段々と小さくなり数も少なくなって、心の波立ち の消込ができるようになれば、明鏡止水の心境となることができます。 そして、明鏡止水の維持継続に目を向けることであります。 自分のみの救済や自分のみの高い評価を集める我執のニセモノの自分を無私の 利自即利他の精神が相殺してプラスαとなったとき、悟りは開くことになって まいります。 >>515 (続) >道元さんを見習うべきだ。 道元禅師は、ご生前において阿羅漢向の段階で実は悟りを開く前に他界してい ますので、悟りを求める修行者は道元禅師の教えは、参考に留めるべきである と思います。 訓詁学として学ぶことはやぶさかではないと思います。 ためしてガッテンという番組で3年前に瞑想が取り上げられてたんだな 不眠ストレス緊張撃退 1日15分!脳の簡単トレ http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20120111.html 多くの精神科医は、囚われを無くすために診断名をつけたがらないよな 一方で患者は、社会生活の中で診断名を求められる場面に直面する 瞑想の妨げになることが今の時代は多すぎるな うつ病、自閉症、PTSDの自覚がある人はすぐにでも瞑想が効果を発揮するし、 発達障害、アダルトチルドレン、統合失調症の場合でも実は瞑想が特効薬になる かつて俺は教会に通っていた頃、心の病がいつまでも癒されない人を見ていたから、 ずっと傷ましい気持ちだったな 自己流でヴィパッサナーを習得していた俺は運が良かったと言うべきか >518 :神も仏も名無しさん:2015/04/13(月) 18:58:29.03 ID:aabOyA8S かつて俺は教会に通っていた頃、心の病がいつまでも癒されない人を見ていたから 多くは、そういうケースだな。 俺はうつ病のクリスチャンを聖霊の癒しがある場面があると希望を持たせて、 治療進行に導いた事がある。当人と俺の信頼関係も多少あったんだろうな。 キリスト教は奇跡を当てにするんで、難しいな。 瞑想は有効だな、おれも我流天台小止観をやりこなし、一時チベット密教禅定でやりこなしていたけど・・・。 今は禅にチェンジしているけどな。 >明鏡止水の心境となることができます。 そして、明鏡止水の維持継続に目を向けることであります。 なんだ、この程度で道元云々と言っていたのかw 855 :元了無限:2015/04/13(月) 09:50:21.42 ID:6mtHNUvP「欲の統御」 生体の欲を消すことはできませんが、心の内に湧き起こる煩悩の炎を消すことは可能です。 煩悩の炎は、肉の目で見ることはできません。 悟りを開くと、霊視として他の方の煩悩の炎が観えるときがあります。 煩悩の炎を解かりやすく説明するならば、不動明王像の光背が赤い炎となって 造形されていますが、だいたいあのような炎の姿として観えてまいります。 なるほど、議論不要スルー推奨のタイプだな、宇宙人とは会話不可ということで。 灌仏会に際しての教皇庁諸宗教対話評議会からのメッセージ 「核兵器のない世界に向けて協力する仏教徒とキリスト教徒」 (2015年4月8日、バチカン)が発表されていたよ。 www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/pontifical/interlocution/vesakh15.htm >>520 >なんだ、この程度で道元云々と言っていたのかw では、あなた様は悟りは開いていないのですか? あなた様は道元禅師の何を知っておられますか? 宇宙人大先生、あなたのオナニー知識には関心ありません。 さようなら。 今日は肉体労働、昼休みに時間があったので天台宗寺院へ、久しぶりに、 天台三昧に入り、その余韻で肉体労働で励むが、限度が出て、 ギア・セカンドwスーパーサイヤ人気分で魔王禅モードでwww 天台はティク・ナット・ハン的静寂主義なんで肉体労働に戦闘力がないらしい。 スーパーサイヤ人ゴッドのレベルは、チベット密教、肉体疲労は感じないwマジでw 魔王禅は精神力が無敵www 真言密教は本格レベルは、精神力が強靭そうだ。 道元禅はノンビリが基礎なんで、強靭な精神のイメージが無い。 昨日とうって変わって、教会礼拝2件行ってきたぞ・・・。 神の代理で一つ仕事したな・・・。 >>525 チベット密教の修行ってわかりやすく説明できる? 何事にも疲労しなくなるのが理想だよな 凡夫からすれば修行と言えば苦行のイメージがある たしかに断食1つとっても、毎日三食食べてた人なら最初は苦しむ 苦しんでる意識を滅却すれば、無意識のまま体が適応する 修行することで「当たり前」と思っていた基準が変わるんだよな 誤った見解は捨てていかないとな >>527 師匠無しだから説明無理だな、一度リンポチェに会う機会があったんだけど、三昧の感覚の質問と確認したかったんだけど・・・。 時間取れず、その後機会無し、優れた師匠縁で俺の禅定は完成するものだからな。 魔王禅は一流の師匠縁ができた、強靭な精神力があれば・・・。 チベット二ンマ派流の肉体労働無敵禅定の完璧な完成したいんだけど・・・w 魔王禅の完成でま、俺の人生が良しとしようwwというところで。 農作業無敵だったよw外見上息切らして苦しそうに見えただろうけれども、 自分の内面精神、肉体は無限の戦闘力だったなwマントラと仏尊の観想をぶちかましながら農作業ww 勝手に運用しているから、副作用起きそうだから、最近使用した事がないなw 取り敢えずw我流禅定安定するまで、アタマオカシクなりそうな精神エネルギー暴走の恐怖体験2度あったなw 俺の顕教の瞑想の腕前と魔王禅師匠の寺へ逃亡して暴走抑えたりとwww 取り敢えずw我流禅定安定のきっかけは、無名の仏教修行聖者が夢に出てきたんで定まったな(チベット密教ぽい展開だなw)w 魔王禅師匠の身内w 本で読んだけど、チベット聖者はチベット高原を高速歩行できるらしいす。 俺、農作業体験で、その気分は解ったなあ・・・・・w リンポチェに初めて会った時、 俺が自前我流で鍛えた禅定と同じような空気感がリンポチェから出てたなw 宗教スペックホルダーの特権で解ったよww 匂いで光の感触がわかるんだ・・・・。 体調不良の悩みの質問するだけで、禅定の質問に入る前に時間切れでww 体調不良の解消手段が無かったからなw こないだのぶっちゃけ寺はキリスト教の人達が出てたな 米財界で禅が主流に?教育、ビジネス、社会を変える 「マインドフルネス革命」の兆し ▶脳スキャンで瞑想のメカニズムの解明進む ▶企業、軍、学校でも、「国を挙げて」瞑想 http://blogos.com/article/94073/ ぶっちゃけ寺のキリスト教のやつ見たぞ、 修行得意のイエズス会だけが目立っていたな。 十代後半から二十代までキリストは仏教の修行をしていた tamasic Syllabification: ta·mas·ic Pronunciation: /təˈmasik/ http://www.oxforddictionaries.com/definition/english/tamasic (In Ayurveda) denoting a class of foods that are dry, old, foul, or unpalatable, and are thought to promote pessimism, ignorance, laziness, criminal tendencies, and doubt. Compare rajasic, sattvic. ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー <翻訳> オックスフォード大辞典より タマシックとは? アーユルヴェーダで食品の分類をあらわす語句 乾燥した、古い、汚い、あるいは口に合わないもの。 悲観、無知、怠惰、犯罪的傾向を促進する食品 ーーーーーーーーーーーーーー タマシックフード 肉、魚、アルコール全般、加工食品(加工肉、パスタ、スナック菓子等) 発酵食品、乳製品等 ※肉、魚はそれらを殺した直後に食べるわけではなく 一般的に腐敗させてから(=熟成)食べることはあまり知られていない。 肉や魚は、ラジャシック(刺激物)であり、タマシックでもある。 発酵食品が禁じられてるってのが面白いよな もう一つ意外なのがアーユルヴェーダではローフード(生食)も推奨されてないんだよな けど果物とハチミツは非加熱とか、ちょっとややこしいな そう言えばこのスレまだクリシュナムルティの話題出てなかったよね 貼っとく J.クリシュナムルティ 宗教とは何か 宗教とは何か、知っていますか。 それは詠唱の中にはありません。 礼拝や他のどんな儀式を執り行うところにもありません。 ブリキの神さまや石像の崇拝の中にもありません。 寺院や教会の中にもありません。 バイブルやギーターを読むところにもありません。 尊い御名を反復したり、人間の考案した何か他の迷信に倣うところにもありません。 これらは何ひとつ、宗教ではないのです。 宗教とは善の感情、河のように生きていて永久に動いている愛なのです。 その状態で、君はもはやまったく探求のない瞬間が来ることに気づくでしょう。 そして、この探求の終わりこそが、まったく違う何かの始まりです。 神や真理や完全な善の感情の探求一善や謙虚さの涵養ではなく、 心の考案したものや企みを超える何かを探し出すこと、それは、 その何かへの感情を持ち、それに生き、それであるということですがそれこそが真の宗教です。 しかし、それは、自分で掘った水溜りを離れ、生の河に出ていくときにだけ、できるでしょう。 そのとき、生は驚くような仕方で君の世話をしてくれます。 なぜなら、そのときには、君の方で世話することはないからです。 君は生そのものの一部ですから、生は君を至る所に運びます。 そのときこそには、安全や人々が言ったり言わなかったりすることの問題はなく、それが生の美しさです。 19:00 お坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺 3時間スペシャル 今日は空海特集とか一休さんの話とかあるらしく みんなの好きそうな内容っぽいぞ 曹洞宗の寺って貧乏寺が多いみたいだね。 寺作りすぎ。 それに、 真宗じゃ死んだらすぐに極楽行きでめでたしめでたしなんだが、 曹洞宗ではいつまでたっても迷ってるから、 追善供養が終わらない。 困ったものだ。 仏教で最強はやっぱ真宗だね。 で、その上を行くカトリックって。 https://youtu.be/d3b1bl91HRc 話が難しすぎた? ぶっちゃけ、カトリックが最強ってこと。 >>539 乳製品ってサットヴァ(純粋な質をもつ食べ物)じゃないの? 市販の牛乳はどうかとか、日本人に合わないんじゃないかとか、そういう話はあるけど これがイスラム教 「見知らぬ男に触れられるくらいなら・・・」 溺れる娘の救助を妨害した父親 「見知らぬ男に触られるくらいなら、娘を死なせてあげてくれ」。 アラブ首長国連邦(UAE)のドバイで、海で溺れた女性の父親が「娘の名誉を守るため」に救助活動を妨害したとして、逮捕された 数年前、ドバイのビーチに家族と遊びに来ていた女性(20)が突然、海で溺れる事故が起きた。 救助隊員の男性が助けに向かおうとしたところ、女性の父親が「見知らぬ男に触れられるくらいなら、娘を死なせてあげてくれ」と立ちはだかった。 不幸なことに、女性はそのまま溺れて亡くなった。 十戒はあくまでも仏教で言う十善戒と同じ位置づけ キリストの教えは2つ 1、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」 これは「自灯明法灯明」と同じ 2、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」 前述の1と併せて「自覚・覚他・覚行円満」と同じ 釈迦の悟りとイエスの悟りについて もちろん共通の物であると言うのは今更だが・・・ それぞれアプローチが違うように思うな 釈迦は物理学や自然科学の観点から「空」や「縁起」を説いた 現代においては「超弦理論」と呼ばれる イエスは脳科学や生理学の観点から「祈り」と「断食」を説いた 彼は医者として、自然治癒力を引き出す方法を編み出したんじゃないかと思う その点でキリスト教徒から見れば仏教徒は虚無的に見えるのかもしれないが 実情は祈りにおいても修行を欠かさない仏教徒の方が勝っているということ >>553 それはイスラム教というよりアラブの陋習じゃないのかい >>554 その二つの教え&十の戒め以外にも未だ共通点は在るはずだと思うんですが…… あとは儒教とか道教&老荘とかイスラム教とか、その辺りにも「何か」が通じていそうだと 思うので、良かったら是非その辺りについても御願い致します。 >>560 イエスが「神の国は」「天の御国は」と言って話す時、それらは涅槃のことで、 実際に深い瞑想に入る時の体験を話してる たとえ話は全て思考の抽象度を上げるためのトレーニングみたいな感じだな >>541 読み返してみた 釈迦が「この肉体はガンジス川の泡のようなものだ」って言ったの思い出した その通りだなって スレタイがやっとsageを覚えたよを連想させるよな 最近はアマテラスやアマテラスの所の特に“ヤタガラス”や“天狗”のあるいは別の“孔子やその残党”(孔子は相手にはごちゃごちゃおしつけるくせに 自分は不動と組んで何度も裏切り泥棒などをやってるようなゴミでした) の悪行言動をきっかけにして釈迦のもと10代弟子の一人マハーカッシャパなどと組み そこへ不動、キリスト、ユダヤ教、釈迦、フリーメーソンらやそれらの残党が便乗して悪事を数々やってることが多い! こいつらがイスラム教にまで隠れ潜んで悪さをやってる事もあります。 それをどかそう潰そうとすると様々な仕掛けで邪魔してくることもあるので 上のただしい神仏グループに頼むなりなんなりして注意してかかることでしょう。 とことん入れ替え弁償にして抹消しきらなければいけません。 何を勘違いしたか、かまってほしいから、助けてほしいからと悪さをしてくる物がいますが(それもウソくさいが)それならとっとと心のそこから 改宗すればいい。そんな悪さをしてくるようならそこから上の神仏によりひどい目にあい抹消されるでしょう。 だから唱えてはいけません!となえるとひどい目にヤタガラスなどからあうどころか正しい神からも一緒に罰を受けます。 それにかしずかいてる霊媒師などもついていってはいけません。どちらも最悪一緒に最も苦しむ方法で抹消されるでしょう。 四八方の宗派、バラバラの霊媒師達が裏でさんざん言ってる他様々な所から入ってきた情報を載せます。 桐山靖雄(阿含宗)は最も悪い奴です。長いこと人類や他の神を騙してきたのがばれて上神仏界で抹消されています。 今後、こいつを唱えると一緒に罪に問われ悲惨な目に会います。ひどく醜い嫉妬と餓鬼道こりかたまったやつです。 スサノオノ(転生体は阿含宗の桐山)は不動(シヴァ)とグルになり、ハープ(フリーメソン、イルミナティーの一派)を 操って、東大震災を起こしています。で表面からは鎮魂除災の護摩木をかかせ自分の所へ勧誘しようとしました。 先程も述べてますが、仏教の方法、この場合阿含経でしたがそれは単なる1つの方法の話です。使う奴が誤れば このようにとんでもないことになってしまいます。まるで原子爆弾のスイッチをその辺の野ざるに持たせるとこうなる といういい例です。 また最近御嶽山が噴火しましたが、この件も含めて長年の悪行がばれていよいよ毒殺他されそうになった不動が最後の 悪あがきをしたと言われています。不動をお参りしていた者によく「家のは赤不動だから大丈夫、白不動だから大丈夫・・」 などと言うのがいますが、それは赤、青、黄、白といろいろあるでしょう。しかし全て百面相でごまかしただけの黒不動です。 騙されてはいけません。 ここへ、釈迦、アマテラス、ヤタガラス、そしてキリストなども便乗して地震を起こしていました。 阿含宗の会員やってた人で中学浪人したものもいれば、大金持ちから借金地獄にされたもの、有名大学いって将来約束された 人生歩んでる所から、交通事故にあわされろくでもない人生にされたもの、また不正に殺されたものも何人も見ています。 最近、阿含宗の残党が何を勘違いしたか、かまってほしいのか助けてほしいのか邪魔、悪さをしてくることが多いが、 それならさっさと心のそこから改宗すればいい。余計な悪さをしてくるなら、真っ先に上神仏から処罰をうけ、最悪 最も苦しむ方法で抹消されるでしょう。 そっか大変だね。がんばってね。 最近、修行の成果あって、1日17時間ぐらい働いてても平気っぽい。 四八方の宗派、バラバラの霊媒師達が裏でさんざん言ってる他様々な所から入ってきた情報を載せます。 最近は大黒天が悪事をやってることが多くお参りしては絶対行けません。 大黒天は正しい神仏の団体KSAを裏切り、もっとも苦しむ方法で抹消されつつあります。 お参りしていると一緒にひどい罰を受け最悪消されるでしょう。今やでかいうんこのようなものです。 明日のこころの時代面白そうじゃない? "ブッダ最後の旅"に学ぶ 第1回「旅のはじまり」 >>565 ヨンデナカッタ、すまん。 きつい労働で無神論ライフや、すっかり。 ソルジャー趣味のイカレタ仏教流派に脳はほぼ洗脳状態だな、最近は、 イカレタ環境でトレーニングの病的っ趣味が板に付きつつあるwまったくw 俺の好きなソルジャー趣味のイカレタ仏教流派は、やっぱり、仏教平均からすると異例だなあ・・・。 明日のこころの時代面白そうじゃない? "ブッダ最後の旅"に学ぶ 第1回「旅のはじまり」 とか、世界に比べると・・・・。 イカレタソルジャー趣味のイカレタ仏教流派の向いた労働が明日待っている・・・・・w [拡散希望!] 参考になりそうなURL送っておきます 電磁波による拷問と性犯罪 http://denjiha.main.jp/higai/archives/category/%E6%9C%AA%E5%88%86%E9%A1%9E 公共問題市民調査委員会 http://masaru-kunimoto.com/ この方たちは集団訴訟の会を立ち上げてマスコミに記事にしてもらう事を目的に集団訴訟を被害者でしようという試みを持っている方達です 訴訟は50人集めてしようという事なのですが50人で訴訟をすると記事に書けるそうです 記事には原発問題を取り上げてテク犯被害を受ける様になった大沼安史さんらが取り上げて下さるそうです 大沼安史さんがテク犯に遭っているという記事 http://ameblo.jp/hilooooooooooooo/entry-11526674165.html 大沼安史の個人新聞 http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/4/index.html この方たちは電話相談等も受け付けている様で電話番号を載せている方達は電話かけ放題の契約をしていますのでこちらから電話して本人にかけ直してくれと頼むとかけ直してくれます 音声送信被害等を受けている「電磁波による拷問と性犯罪」の記事の水上さんは年金暮らしなので時間には余裕があるそうで被害内容の話等を聞いてくださると思います もう一人の電磁波犯罪には遭っていない国本さんという方は電磁波犯罪をしっかり理解されている方で年金暮らしの方なので長電話も大丈夫です 大沼さんはこちらのページからメールを受け付けておられる様です http://onuma.cocolog-nifty.com/about.html 電話をかけたい場合は人によってはメールで電話番号を訊くと教えてくれると思います この文章を見られた方は全文コピーをしてできるだけ多くの知り合いの被害者の方等にメールを送るなり被害者ブログに書き込むなりしていただければ大変有難いです もし大勢の方に送る事が出来なければまだこの文章に触れていない知り合いの被害者に少しでも全文コピーで送っていただけるとその方が次の何人かの方に繋いで頂ける場合があり結果として大勢の方に見て頂く事が出来るはずです ご協力よろしくお願い致します 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:f70dfdc711a7c6ae6accccb939f27fbf) キツイ労働ってどんな感じ? 俺は労働時間を増やせば増やすほど、空き時間は口癖のように「ヒマ」って言ってる。 修行して時間の感覚が変わったね。 >>574 サラッとだけど読んだよ。 謙虚さを要求する、ってのわかるなぁ。 俺もまだ迷ってた時期は、とにかく祈りの時間が欲しくて、 一分一秒でも労働してる場合じゃないって思った。 禅定決まると、労働してても、と言うかするほど平安だし、睡眠時間も減る。 これを昔の人はインマヌエルと言ったんだろうなあ。 >>580 ま、普通の人間よりも少しだけハンディキャップあるから、きつくなるんだろうなあ・・。 イカレタソルジャー趣味のイカレタ仏教流派の糞坊主が生み出した発想に服従する労働生活になっちまったw。 ま、聖書で言えば、エジプトからモーセに救われた民が砂漠で神の導き、昼は雲、夜は炎で行先を導かれる。 民が不平不満で「エジプトの暮らしが良かった」と人間側の戯言、妄言を言ったとたん、地下に落とされたり、毒蛇襲われる。 神の導き行先に従い。苦難を覚悟して受け入れて進むしか道が無い、ていう・・。 またはキリストの十字架への苦難の道への覚悟と苦難の道か・・・。 ま、人間側の思考解釈をした途端、奈落の底に落ちるみたいな・・・・w >禅定決まると、労働してても、と言うかするほど平安だし、 労働中は、ま禅定決めまくっているんで、どうということがないが。 休憩時間と仕事終わりに労働がきついのだと・・・。 その分だけ、普通の人間よりも少しだけハンディキャップあるかららしい。 より、イカレタソルジャー趣味のイカレタ仏教流派の糞坊主が生み出した発想に服従する生活が深まってしまったわけだw キリスト教の聖霊感覚を味わえる程余裕が無いw禅定鋼鉄で防御生活しているせいらしいww きつい労働作戦中で、最初の多いハンディキャップを減らしたほうだが・・・。 師匠無しの危険なチベット密教に手を出せば、それなりに疲労蓄積はより減る可能性が高いが、 師匠無しだと副作用が怖ええ。 >>582 エジプトから導かれてるみたいな感覚わかるなー。 時には少し堕落するけど、疲労が溜まって反省して、また精進する… みたいなことの繰り返しだなぁ。 人生長いから勉強だな。 >>584 元より俺は師匠無しだから、学べる事はどこからでも学ぼうと思ってる。 同志と言って良いかわからんけど、似たような人がいるのはありがたいな。 >>585 密教て、ほんとに師匠無しで手を出すと、マジやばいw 脳の活性化暴走する、真言密教で1回、チベット密教で2回、危険な脳暴走したことがある。 3回ほど、例のイカレタソルジャー趣味のイカレタ仏教流派の糞坊主が生み出した寺に逃げ込んで暴走止めたことがある。 「チベット死者の書」を読むだけで、危険な脳暴走したからなあw 怖くて、近所の図書館に隠しておいた記憶がある、昔w 今は暴走しない、最悪の精神状態時の用心棒として頼る、でも通常時は頼らない。 チベット密教は瞑想の土壌のない西欧人が関与すると、精神病になるとか、書いてあった。 こういう怖さが未だにあるな。 困った時の用心棒、、チベット密教頼りは今でもいするが、基本関与しない方針にしている。 あの時の脳の活性化暴走の感覚がマジで怖いww >LSDは「幻覚剤」と日本語でカテゴライズされます。 >感覚が増幅されるクスリです。 >たとえば、うれしい・悲しい・楽しい・寂しい、すべてが増幅されます。 >シャブみたいに「うれしい」や「気持ちいい」だけが増幅されるのではなく、 >悲しいや寂しいも増幅されて「バッドな状態」になる危険性があります。 >ババ・ラム・ダスという研究者が、チベットの高僧に大量のLSDを服用させたことがあります。 >宗教家がLSD体験どのように解釈するかに興味があっての実験です。 >しかし、その高僧は顔色ひとつ変えませんでした。 >彼の精神状態は常に大量のLSDと同様なのだ、と結論づけられました。 http://www.magarisugi.net/psychedeilcs/lsd/post-3295/ まさにこういう事なんだろうなぁ 実は、チベット密教の禅定感覚は、サイケ系な感じがある、 むろん、俺は薬物不使用だけどな。 密教自体が、南方仏教概念を改変した雰囲気がある、 大乗仏教の「一切空」よりも、一切の物質の根源要素を設定している。 真言密教では「六大」といい。チベット密教だと「ルン」というらしい。 南方仏教は、聖者の最初のランクで生まれる、生滅智がある。物事が一瞬に滅して現るのを観察する智慧とかいうらしい。 ヒッピーやらニューエイジなんかはまさに薬物頼りってイメージあるよね。 薬物不使用の俺は瞑想でいろいろやってるけど、 そんな俺でさえある牧師にニューエイジ扱い受けたからね。 「はぁ?笑」とか思ったけどまあ、そんなもんだろうなぁ、と。 >そんな俺でさえある牧師にニューエイジ扱い受けたからね。 付き合いのある牧師に全部しゃべったら俺も、その扱いだろうなw 付き合いのある牧師の前では神から伝えろ、と降りてくる言葉をしゃべらされているモードで付き合いしているなあ。 しかもキリスト教の預言、神秘主義側面を隠してw チベット密教の覚者趣味だなあwも、覚者を隠趣し凡人のふり趣味があるらしいが・・・w 俺の好んでいる、例のイカレタソルジャー趣味のイカレタ仏教流派もそういう趣味がある。 付き合いのある牧師の態度は。例のイカレタソルジャー趣味のイカレタ仏教流派的応対かもなw キリスト教の範疇ですら、全部説明せず、 例のイカレタソルジャー趣味のイカレタ仏教流派趣味丸出しの 「わかるかなあ?」と相手を試すような態度だなw むろん、付き合いのある牧師への対話は、当然キリスト教範疇。 ま、出来が悪いので、キリスト教の神に命令されて喜んで牧師に教育する機会を与えているんだろうなあw むろん、普通の対話風なんで、向こうも教育を受けているとは思っちゃいないだろうけどなw ↑こいつチベットがどうとか吹いてるが実際はチベットとはなんの関係もない。 実際には女と酒に溺れたインチキ和尚に洗脳されたただのカス。 ま、ちょい、鬱気味やなw 今週、南方仏教、唯識、道元禅、ハードワーク中で2日前にマスターしたぞw 593の妄想相手は、道元禅の師匠と思い込んでいるようだが、 道元禅の仕事上の実戦配備は、二日前だったなw。 例のイカレタソルジャー趣味のイカレタ仏教流派とチベット密教ぐらいしか実用配備できていなかったんだが・・・。 仕事のハードワーク中に出来上がるとは・・・w その後、脳が疲れ知らずの危険な暴走モードに入り、不眠にwww 次の日は会社を休んだわw 真言、華厳、天台は、仕事上の実戦配備はまだ未完成だなw なるほどね 精神病気質は宗教家には付き物だろうし 釈迦なんてその典型すぎるしな チベット密教うんぬん以前に元からが情動が大きいんだろうね けW くだらぬ奴に回答しちまったW 仕事に応用する奴は精神病らしいやW 仕事に有能な奴は精神病気質扱いらしいやW ニート様のおっしゃると事はたいしたもんだなW いや、そんなふうに捉えられるとは… 俺もそういう類だよって言いたいだけだよ 気を悪くしたならすまん 593と勘違いしちまったW 俺も人気が出ているからなW。 許せ。 >精神病気質は宗教家には付き物だろうし 釈迦なんてその典型すぎるしな ていう持論を極論風に、やり倒す人物もいたからなあW 2CHでは有名人の名無しがいるからな。 問題無い 迷いがあるから悟りがある 病まない宗教家なんていないって言いたい なるほどな、 例のイカレタソルジャー趣味のイカレタ仏教流派と鬱気質とは密接な関係があるな、確かに。 593が2CHでネタにしたがる道元禅の僧侶も名文を書き込んでいたが、 凄いなあと思う反面、鬱気質の回答になっていなかったから、道元禅は修行の選択肢に入らなかったからな。 せったんmyoejoe は、相当な 道元禅原理主義者だったのが玉に傷。道元禅以外は邪宗教ていう勢いだったな。 生きていたら成敗したやったのにW 面白い人だね。 これは同意。 >181 :せったんmyoejoe:2006/04/09(日) 14:44:51 ID:jcPHJl7o >自縄自縛の縄をほどく、これ座禅です、頼まれもしないのに自分で自分をがんじがらめにしている、そいつをほどく、ほどけば仏。 >182 :せったんmyoejoe:2006/04/09(日) 14:47:27 ID:jcPHJl7o >ではどうしたらよいか、まったく手付かずの座禅です、めっちゃくちゃなんでもありありで坐って下さい、こっちが意見思想を運転して仏らしいなにものかに行き逢うんじゃないです、 ある日、仕事の後で友達と遊び回って、徹夜になってどうしても眠れなかった時に、 「そうだ、坐禅、組もう」って「そうだ京都行こう」みたいなノリでやってたら ミッション系幼稚園出身無宗教の友達に「只管打坐ってやつ?」って言われたな 確かに座ると疲れが取れる その友達にはキリスト教の愚痴をこぼした事がある;^_^A でもやっぱ睡眠も大事なんだろうな。 普段睡眠3時間とかで、仕事中は禅定決めてるから元気だけど、 一度寝ると体が疲れを取ろうとしてるんだろうか、起きた時に全身が痛いのがよくわかる。 寝起き30分はギアが一速に入ってるかのように動きが小さくなる。 昨日から3連休入ったけど、昨日は足つったし、 今朝目覚めたらダルすぎて起きるのイヤだったわ(笑) >寝起き30分はギアが一速に入ってるかのように動きが小さくなる。 ノーマル無修正なら、俺は、4時間ぐらい、その調子だな。しつこいから、 例のイカレタソルジャー趣味のイカレタ仏教流派が好きなのだろうなあw 朝はロッケンロールな例のイカレタソルジャー趣味のイカレタ仏教流派瞑想をぶち込むなあw >182 :せったんmyoejoe:2006/04/09(日) 14:47:27 ID:jcPHJl7o >ではどうしたらよいか、まったく手付かずの座禅です、めっちゃくちゃなんでもありありで坐って下さい、こっちが意見思想を運転して仏らしいなにものかに行き逢うんじゃないです、 ほぼ、ハードワーク中の道元禅マスターと同じ内容だな。 >チベット密教うんぬん以前に元からが情動が大きいんだろうね 密教系は、向こうの計画があったていう感じかもな、俺は選択しなかった傾向にあるんだけどな。 無宗教趣味が濃いからなあ。 チベット密教は、感触が印象派音楽、印象派絵画に近く、好みが以前からあった。 真言密教の方が、はるかにファースト・コンタクトをあちらから仕掛けていたんだが、こちらは気づかず、 本格的コンタクトが来た時には、天台系密教の方が好みが濃かったからな。真言密教の選択をしなかった、むろん師匠縁もないんだが・・・。 アニソンだと、チベット密教の感触はwww http://youtu.be/m5GJLakkuL4 機動戦士ガンダムUC ep 6 主題歌『RE:I AM by Aimer』GUITAR inst COVER 今朝のこころの時代は枡野俊明だったな。 寝ててあんま見れなかった。 あの人の本は何冊か読んだ。 人間関係とかで心が病んでる人にはオススメできる。 おはようどす。 曹洞宗系か。研究して本を読む必要性を感じるなあ、最近。 http://www.geocities.jp/sorachibuto_gcc/bokusi/reisei_no_sinngaku.pdf おもしろい部分を出してみると。 。17、18世紀の「静思の時」の取り組み。 ◆その四つの決断と訓練とは以下のことである。 @生活を整理し直すという決断・・・・・・・・・・シンプルであること(Simplicity)の訓練 A静まるという決断・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 沈黙すること(Silence)の訓練 B静謐(せいひつ)さを培うという決断・・・・・・・・・ひとりになること(Solitude)の訓練 C主に信頼し尽くすという決断・・・・・・・・・・・・ 明け渡すこと(Surrender)の訓練 ◆シンプルライフとは何か。以下のように、いろいろな意味合いがある。 @質素で、贅沢をしない生活をすること A無駄のない生活をすること B一本しっかりとした筋の通った生活をおくること C何が最も大切なのかを知って、そのことに集中して生きること D満ち足りた心をもっていること 神の前に沈黙すること(静まること) ◆全能の主との親しい交わりは訓練を必要とする。その第一は生活をシンプルにすることで あった。次に必要な訓練は、沈黙して神の語りかけを聞くことである。もちろん、祈りは神 との対話であるゆえに、こちらから語りかけ、願ってよい。けれども、こちらの願いに対し て神が何とお答えになるか、神が自分に何をお求めになるか、心の耳を澄ましてよく聞き取 る必要がある。そうでなければ、祈りはこちらからの一方通行の語りかけとなり、結局は自 己中心な祈りとなってしまう。 ◆詩篇62 篇1 節「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」 62:1 Truly my soul silently waits for God ◆静まりの時をじっくり持たないでは、神とより深く、またより親しく交わることは決して できない。この静まりの時は最も稀な経験と言える「完全沈黙の時」も含まれる。 詩篇46 篇10 節 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」 46:10 最も稀な経験と言える「完全沈黙の時」 涅槃(ニッバーナ)? 紀元前の日本には、イスラエルから古代アメリカに移住しマヤ文明などを築いていた民がアメリカから渡来して移住しました。 その後、紀元前に秦からユダヤ教徒の徐福たちが集団で西日本に渡来してました。 邪馬台国の文字は、当時の中国人が付けた文字で発音でいえば「ヤマト国」です。 「ヤ」はヘブル語の「ヤハウェ(エホバ)」の短縮形で、「ゥマット」は人民の意味があります。 したがって「ヤマト」とは「ヤハウェの民」です。 その後、紀元後の3世紀末、朝鮮半島を経由して、原始キリスト教徒集団が渡来しました。 初代天皇陛下は、原始キリスト教徒集団の長です。 釈迦はイスラエル人の預言者です。 イエス・キリストは、仏教の観音菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩であり、神道の高御産巣日神、豊受大神、天照大神です。 あなたの知らない物証と驚きの極秘情報があります。 日本人のルーツと神道、仏教の真実 http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1025769358.html 天照大神の正体 http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1058533143.html 完全沈黙の経験は一回だけある でも二回目出来るかどうか自信無いな 変な話で、俺はキリスト教者でもなくてキリスト教の関係者なる気がひとかけらもない人間なんだけど。 困っててる原因が大体がキリスト教者の勝手な勘違いだからここで相談していい? かなりファンタジーな悩みなんだけど・・・・・・ すまん忘れて、誰かが答え持ってたらおかし話だった。 77 :ハジ :2016/12/10(土) 12:29:11.22 ID:ubXF1lWh >>76 いや、支店長レベル低すぎww とても、この、わたくしの話にはついてこれまへん ぜったいに! http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1481319029/ 終油 人の目的 霊操 トレント ヴルガタ新約聖書とラゲ訳 ラテン語の祈り 公教会祈祷文 公教要理 クレド 主祷文 主の祈り ミサ式次第 ミサの流れ 教会暦(典礼暦)について 詩篇の祈り http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1470630478/554-570n 聖句 賛歌 詩篇 イザヤ コラム http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1470630478/571-579n 聖句 教勢 対照表 時課 契約 年代比定 讃美歌 年代の基準 成り立ち トマス福 Q文書 聖書 検索 正典 新約聖書の成立順 構成 初期の歴史 新約 外典 使徒教父 ナグ・ハマディ グノーシス http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1470630478/523n カテキズム 要理 けれど ミサ ハレルヤ ホサナ ウルガタ 祈祷文 終油 人生の目的 信仰問答 信条 教団式文 権威の置き方 救済論 セカンドチャンス 聖句 日本基督教団の主の祈りでネット家庭礼拝の一例 月曜日から金曜日までのネット家庭礼拝 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1470630478/524n キリスト教の教勢について(15年前ですが) 平成13年頃のキリスト教各派の信徒数 カトリック 約44万人 日本基督教団 約13万人 聖公会 約6万人 正教 約1万5千人 当時の日本の総人口1億3千万人 ( 比率1%は130万人、 上記の4派の合計64万5千人、比率0.5%) 別件: アイヌの人口について 北海道の日本人、約550万人 北海道のアイヌ、 約1万2千人 (アイヌ語で日常会話の人口ほぼ80歳以上の老人のみ) アメリカ同時多発テロ事件も 福島第一原子力発電所事故も アメリカ国防総省(ユダヤ教徒・キリスト教徒)が真犯人 すまん、読み込みエラーで何ヶ月分か全くスレ読めなかった http://exchristian.blog80.fc2.com/blog-entry-95.html 洗脳から解けて信仰を捨ててみれば何のことはありません。 結局、私は教会で「罪の意識」を植え付けられていただけなのです。 余談だが、氷川神社はおまいりしてはいけない。 四八方の宗派、バラバラの霊媒師達が裏でさんざん言ってる他様々な所から入ってきた情報を載せます。 桐山靖雄(阿含宗)(スサノオノ)は最も悪い奴です。長いこと人類や他の神を騙してきたのがばれて上神仏界で抹消されています。 今後、こいつを唱えると一緒に罪に問われ悲惨な目に会います。ひどく醜い嫉妬と餓鬼道こりかたまったやつです。 スサノオノ(転生体は阿含宗の桐山)は不動(シヴァ)とグルになり、ハープ(フリーメソン、イルミナティーの一派)を 操って、東大震災を起こしています。で表面からは鎮魂除災の護摩木をかかせ自分の所へ勧誘しようとしました。 先程も述べてますが、仏教の方法、この場合阿含経でしたがそれは単なる1つの方法の話です。使う奴が誤れば このようにとんでもないことになってしまいます。まるで原子爆弾のスイッチをその辺の野ざるに持たせるとこうなる といういい例です。 また最近御嶽山が噴火しましたが、この件も含めて長年の悪行がばれていよいよ毒殺他されそうになった不動が最後の 悪あがきをしたと言われています。不動をお参りしていた者によく「家のは赤不動だから大丈夫、白不動だから大丈夫・・」 などと言うのがいますが、それは赤、青、黄、白といろいろあるでしょう。しかし全て百面相でごまかしただけの黒不動です。 騙されてはいけません。 ここへ、釈迦、アマテラス、ヤタガラス、そしてキリストなども便乗して地震を起こしていました。 在日の新ビジネス ワンステップスクール伊藤学校 校長 廣岡政幸 > ご自身が在日韓国人であることを隠すことなくはっきりと明言されました > 嘘だと思われるのでしたら廣岡政幸さんにお会いする機会があったときに伺ってみると良いです 815 :名無し専門学校:2017/04/23(日) 15:41:19.44 ネットの廣岡信者の主張を見ると、確かに無職/ニート/ひきこもり(ネトウヨ) に対する、強い憎しみがあるみたい。言葉では更正を願ってるようだけど、 子供を入れたらいじめで殺されそう。 > 773 :名無し専門学校:2017/04/09(日) 12:54:01.39 > > 602 :名無し専門学校:2017/02/04(土) 05:45:15.08 > > ネトウヨ=無職・ニート・ひきこもり=社会悪 > > だから俺達は悪くない > > みたいな論理破綻した在日論はよくネットで見かけるけど・・・ > > その在日の妄想を正当化するための広告塔として > 祭り上げられたピエロが廣岡政幸 仏教とキリスト教は成立した時期が同じぐらいだから どちらがどちらに影響を与えたというのを 証明するのわ困難だけど藻(⌒▽⌒) 仏教より古いバラモン教を成立に影響を 与えたアーリア人の宗教が キリスト教より古いユダヤ教やユダヤ人に 影響を与えた可能性わあるでしょぅ(⌒▽⌒) マニ教みたいな例も(^ν^)あるしネ あ(^ν^) 仏教より古いバラモン教の成立に影響を (^ν^)デシタ 万教同根という言葉もあるように 時代によって宗教は全く形を変えるけど 最初に目指したものは同じだったんだよ その最初が何なのかを理解しないと形だけ真似するだけのものになる 宗教とは言語を伝える伝言ゲームじゃなくて 最初に言った言葉の意味を探るゲーム ってか広まった地域は違えど 世界は交流あったわけだから 似通うほうが普通だよね 余談だが、先日、「ハロー張りねずみ」でオカルトを扱ったものをやっていて霊媒師がまだ不動明王 を中心にとなえていたが、不動は悪いほうへいってしまいもう消滅させられたという情報を得ている。 これからは降三世明王を中心に唱えるべきだ。 大日如来はパワーがほしいときあるいは怒りがほしいとき不動(シヴァ)と合体しては絶対ならない。 ハトフル、マリア他も同じ。みんないいように記憶をすりかえられたり、術中にはまって ほれぼれピーに不正にさせられたりしている。だから取り返すものがいつまでもとりかえせない。 不動は人間側も唱えてはいけないし何万年分の入れ替え弁償とって早く元から消滅完全に させなければならない。 サウジアラビアがいってるKSAではなくて月読、ガブリエル、アルテミス、降三世明王、如意輪観音などで 形成されたKSAの神仏をこれからは拝まなきゃいけません。 YES!WE! S H ☆ K A !!! yeeeeeah!!!!!! Hoooo!!! everybody say! SEPPOU!! そこは everybody say! 法!! でいいだろ >>662 >>657 のこと言ってんのか? SEPPOU じゃ語呂が悪いから HO にかけて 法 でいいだろって言ってるんだよ ■■■■■■■■■■■■■■■ ■■ ■■ 頭悪いんだから素直に注卒でええやろ!滑稽な偽学位で騙さんても! iiiiiii iiiiiii iiii __ __ iii 数々の不祥事、 パワハラや強姦紛いの宗教を騙った暴力! ii / \ ii | | 金銭トラブルに嘘の総会、反抗する者には83で恫喝! | | 虚偽宣伝、自意識過剰な虚栄心! | \ / | やり直し出来るなんて真っ赤な嘘、何人の人を神から遠ざけましたか? / _ _ _ _ \ | | 神学的知識も自慢するが間違いだらけとある牧師が笑ってました! | | | | | | 教会員を追い出し自殺に追いやって惚けてる! \ / | __/ ● ● \__ | | ______ | | \ / | | \ / | 周囲の牧師と異常な競争心を燃やす♪ | \/ | 下らない自己顕示欲が幼稚♪ \_______________/ それも年下の牧師に嫉妬ばかり♪ 若い牧師から嫌われている♪ 牧師金ちゃん、まだしゃぶって末世!目的は自分の名を挙げ上座に座ることや♪ 今も元◎X△を強調しそれをひけらかせては周囲を恫喝! 教会を離れた信徒の悪口に陰口、自己正当化を謀る様々な愚行! 日本の教会の未来はまるで自分の肩にかかってるかのようにかっこ良く語るが、とても尊敬できるような人ではない! 🔥 大川隆法著 伝道の法 🔥 第一章 心の時代を生きる ーーー人生を黄金に変える「心の力」 1 「心とは何か」が分からなくなっている現代社会 「心とは脳の一部である」とする現代の「常識」 本章では、「心の時代を生きる」という一般向けの題をつけてみました。仏法真理に初めて接する方には、「心の話」をしたほうが分かりやすいだろうと考えるからです。 やはり、宗教の使命として、第一段階はこのあたりであって、「心の話」を通じさせるところから始めないといけないでしょう。「難しい話はいろいろあろうけれども、そこまでは行けない」という人が多いのではないかと思います。 ただ、テレビドラマなどを観ていると、「心とは脳の一部なのだ」ということを平気で言っているので、それが常識になりつつあるのかもしれません。 こうなると、医学も、よいのか悪いのか分からない感じがします。人間を診ているうちに、パソコンをいじっているように見えてくるのでしょうか。まるで、そうしながら、「この部分が心だ」などと言っているようなのです。 確かに、脳が壊れたら機能が失われるので、そのようにも見えるのかもしれませんが、これは、「人間機械説」でしょう。ところが、こうしたことがけっこうまかり通っています。 また、分解的、分析的な見方をすると、電極をつけたり、電気ショックを与えたりして、「ここを押すと何が出てくるか」を調べ、「この場合は、こうなる」というようなことを言うわけです。 go to https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1491269651/114 誰でもできる在宅ワーク儲かる方法 少しでも多くの方の役に立ちたいです 検索してみよう『ネットで稼ぐ方法 モニアレフヌノ』 U6F おんあぼきゃべいろしゃのうまかぼたらまにはんどまじんどらはらばりたやうん のうぼうあきゃしゃぎゃらばやおんありきゃまりぼりそわか キリスト教とはイエスの真意をあれこれ考えてみる面白さがある でもキリスト教信者は、これを放棄しているように見えるね つまり、イエスを理解しているようには思えない 時々、イエスは、ずばりいうているのにもかかわらず、だ たとえばだが、イエスはなぜすべての病人を治してやらなかったのだろう?っていうものだ 能力がなかった、という見方もできるが、 「病気を治すことが、その人にとってベストな選択ではないからあえてそうしなかった」と解釈することができる そうすると、べストな選択とは何か?ということになる それは、心の成長ではないだろうか、とかね 愛というものの深さを教えてると考えられる 薄っぺらく信じるか、愛を教えてくれる書物とみるかの違いになる 大事なのは「人々の健康を守る力もない律法学者が本当にモーセの教えを継いでいるのか」 そこに気づかせることだったんだと思うよ ___ ,:::::':::::::::::::::::::::':::::, /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ /::::::::|゙ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ゙̄|:::::::ヽ . |:::::::::| \__, ⌒ |:::::::::| |::::::::::| メニュ t'ニメ |::::::::::| ~~~~Y { (::9} {(::9 } Y~~~~ (cっニツ ト--ャ ゛ニcっ) < ねぇねぇ オカムラ〜 `ー .._`二´_..一´ /、|:.:`:´:.:|,ヽ 金ちゃんって、若いとき女性下着の窃盗で逮捕されてるよね! 立派になったねえ! オレが最強牧師の金ちゃんや! |┃ __ |┃ ガラッ イ´ `ヽ 文句あるか? |┃ 三 / /  ̄ ̄ ̄ \ ハァハァ… |┃ /_/ ∞ \_ S,憎しニダ!! |┃ [___パンティー __] 十八番はウエストモンスター珍教理問答ニダ!! |┃ 三 | ///(__人__)/// |学歴ロンダリングニダ!!学位は偽物、日本の大学に入れないニダ!! |┃ ハァ… \ ` ⌒´ ,/ウリ学歴を賛美するニダ!!横文字博士号を舐めるなよ、英語は話せません! |┃ /ゝ "` ィ `ヽ.姦国の要人と知り合いニダ!! |┃ 三 / ウエストモンスター\ナマポを騙して取得ニダ!! ,⊆ニ´⌒ ̄ ̄" y 調教理悶絶 r、 ヽ日本侵略 ゙⊂二、,ノ──-‐'´| ゚ 異端 ゚ .| l" | 逆らう者は893を使って口封じニダ!1 |┠ ' | ■■ l/'⌒ヾ |┃三 | ■■ |ヾ___ソ |┃ / \ ■■/← l←生霊の盾(○ール入り)?? ? ? ? ? ? 禁ちゃん オナパルド金ちゃん 【 性犯罪者の特徴と傾向 】 / ̄ ̄ ̄ ̄\ (____人 ) ・リアルで女性に全く相手にされない為、 (-◎-◎一 ヽミ| キモい二次絵に走り、AAもそういう物を異常に好む。 ( (_ _) 9) ( ε (∴ |_ ・DT臭 漂うイカ臭い「モテないアピール」は ___∩____ヽ______/ヽ___). もはや憐憫を通り越して冷めた笑いしか誘わない。 ` ̄(ヨ_|__(( ((__) ヽ.. . それに気付かないのは本人自身だけで、 / 二次萌え | |_[]. . 今日も5ちゃんスレにキモAAの連投に励む。 (___________| |[] | (三□三三三(___)_/ ・ロリペド等と呼ばれる性犯罪者予備軍も、この部類。 ヽ::::::::::::::::::::/(_)\ ヽ::::ヽ:::::::|. ソフマップ | ・「萌え」などといった俗語をこよなく愛し、下半身でしか物事を思考・判断できない狂人。 ヽ;;;;ヽ;;;;|________|. (|_(|___). ・更に、自らがウザがられてる事を承知の上で、ウザがられる行為を執拗に繰り返し、 ひたすら構って貰おうとする 救いの無い真性基地害&ド変態である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる