【聖書と信仰】信者も未信者も 【神学と哲学
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バリバリの信者もなんとなく信者も迷っている信者も境界人も離脱者も敵対者も、
基礎的な聖書理解、信仰維持、神学認識、哲学的批評を軸に丁寧に議論を積み上げて、良スレにしましょう。
※嵐誹謗中傷的愉快犯は綺麗なスルーで対応してください。 多くの教会で、カトリックの教会では特に、あまり知識のない初心者には皆さん親切にしてくださいますが、彼らよりも知識のレベルが高いと分かったとたんに、警戒心だけでなく、多くの場合敵意を持った目で見られるようになります。
どこの教会でも、驚くべきことに、ほとんどの信者は (更に牧師や司祭までもが)、自分が何を信じているのかよく分かっていないし、福音に対する明確な確信も持っていないのです。
そして、その (核心的な) 弱点を見透かされることほど、彼らにとって嫌で怖ろしいことはないからです。
本物の信仰者は、ただ主への感謝と賛美に生きるもので、教会と主の小羊たちを愛することはあっても、仲間の足を引っ張ってみたり、蹴落として自分が優位に立とうなどと考えることはありません。
「信仰」 もそうですが、「謙遜」 も、主が与えてくださるものであって、自分の努力で作り出す美徳ではないのです。 ろんさん は、Iテサ 1:10 につまずいたのですね。
それは、とても重要なポイントに直面したということなのです。
たいていのキリスト教信者は、こういう聖書の証言を真面目に考えるのをスキップして、洗礼を受けてしまった人々です。
そういう先輩に、福音や救いをどう考えたら良いのかと質問しても、まともな返事を期待することは出来ません。
キリストの受肉を、死と復活を、そして昇天と将来の再臨を、人間の知恵で理解しようとするのが間違っているのです。
それは信仰の事柄であって、救いは 「初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(ロマ 1:17)
そして、その信仰は、賜物として与えられるものであって、決して人間が自分で作り出すものではありません。
お読みになったかも知れませんが、先日別スレに私が書き込んだ 【信仰とは】 へのリンクを紹介しておきます。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1478019542/288-293 11月26日 年間第34土曜日 (ルカ21,34-36)
「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、
あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、
いつも目を覚まして祈りなさい。」ルカ21,35-36
誰かを愛するとは、その人を高めるように善を行うことですが、この人のために希望を持つということでもあります。
ですから、何の希望も持たずに、絶望して生きている人は、誰も愛していない、また、希望を見出さないかぎり、
誰も愛することが出来ないと言えると思います。
イエス・キリストが再臨されたら、神の国と同時に私たち一人ひとりを完成してくださり、
私たちが永遠に父である神の愛に生きるようになるという希望を新たにして、私たちは私たちの愛、神に対する愛、
また、隣人と自分自身に対する愛が、強められますように祈りましょう。
*
すべてを治められる父よ、
み旨にしたがって生きる人に、
あなたは神の国の喜びを備えてくださいます。
あなたからいただくすべてのものが、
救いのみわざの完成に役立つものとなりますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ
「キリストの光を全ての人々に」
http://www.nowaksvd.net/ 老クリも馬鹿ではあるまい。
これが、お前がいつもやってることだよ。 >>604
>私が 2ch で、特にカトリックと名のつくスレで、どれほど暴言を浴びせられているかは、
>きっとご存じだと思います。
>私は、主が私に与えてくださった救いと、福音への信仰を、大いに誇りに思っています。
お前はまだわかってない。
自分の神学の勉強の仕方だけは「本物」。他の人とは違って自分は。
いつも人が悪い。自分は正しい。自分が裁く。他者が至らない。
自分を「よそ者」と考えるカトリック信徒が悪い。
お前の独善こそが「まむし族の老クリ」「うす汚い者」と言われる所以。 何個でも神父様の投稿を、お前がやってるスレッドに貼り付けてやってもいいんだよ?
ネタはいくらでもある。 古人曰く
ち え は い つ わ り の は じ ま り
>>606 >>606 天 竺 か ら ふ ん ど し
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 11月29日 待降節第1火曜日 (ルカ10,21-24)
「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、
あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、
幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」
(ルカ10,21)
神についての知識を得るためには、聖書や他の本を読んだり、
神学を勉強したりすることで十分でしょうが、神を知るために、つまり神の愛と命にあずかるためには、
人間になった神の子、しかも十字架に付けられて殺された神の子を信じ、
神の子を自分の人生に受け入れなければならないのです。
私たちは、使徒たちと同じように、イエス・キリストを信頼して、イエスの呼びかけに応えて、
イエスに従い、与えられた使命を果たすことによって、神と人間との間の唯一の仲介者である
イエス・キリストと一層深く結ばれますように祈りましょう。
*
いつくしみ深い神よ、
苦しみにある人々を力づけてください。
やがて来られる救い主への希望に支えられて、
罪のいざないに打ち勝つことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ
「キリストの光を全ての人々に」http://www.nowaksvd.net/ とうとう、老クリスチャンは自らの本性を、みんなの前に現し始めましたね。
そして、その歪んだ信仰が徐々に明らかになってきました。
>>605
>知識のレベルが高いと分かったとたんに、警戒心だけでなく、
>多くの場合敵意を持った目で見られるようになります。
皆さんは、老クリスチャンのレベルが高いと思うのではなく、あなたの中の
二心や歪み、間違った方向の信仰を感じるからでしょう。
私はあなたのレベルが高いと思ったことはありません。
くだらない方向、間違った方向に、枝葉を伸ばしたな、と思います。
>どこの教会でも、驚くべきことに、ほとんどの信者は (更に牧師や司祭までもが)、
>自分が何を信じているのかよく分かっていないし、
>福音に対する明確な確信も持っていないのです。
歪んだ実であるあなたが見ると「驚くべきことに」そのように思えてしまうのです。
信仰観を誤っているからです。
>そして、その (核心的な) 弱点を見透かされることほど、
>彼らにとって嫌で怖ろしいことはないからです。
あなたの欺瞞がここ2ちゃんねるでは見透かされていますね。初め、目が曇って
見えなかった○○さんも、見えるようになって、あなたの本性を見抜いたことでしょう。
「牧師ごっこ」「二心のユダ」「うす汚い者」「まむし族」・・リアルでは
だれも言ってくれず、自分が神となって「独善」を増長させたのです。
兄弟的勧告に耳を傾け、回心しましょう。あなたが迷った一匹の羊なんです。 あなたたちの中からも、弟子たちを引きつけようとして、有害なことを教える
人が立つでしょう。警戒しなさい。(使20:30) 老クリスチャンさん。おつかれさまです。
おっしゃられる通り先生呼びを控えます。 信仰問答の項目
聖伝のひとつとしての聖書を解釈するのは誰か
使徒信条かニカイア・コンスタンチノポリス信条の説明
秘跡サクラメントか機密ミステリオンの説明
十誡の説明
主の祈りの説明 殉教者や聖人に関するキーワード
中南米サンタ・テクラ 獣と戦う刑 教会洗礼ではなく自己洗礼 外典パウロ行伝
聖イグナティオス 獣と戦う刑 使徒教父文書
聖ポリュカルポス 生きたまま焼かれる刑 骨を拾う信者 聖遺骨崇敬の始まり
黙示録の体の光が照らす記事と迫害で生きたままかがり火にされる殉教の関係 >>618
カトリック教会のカテキズムを例に
> 聖伝のひとつとしての聖書を解釈するのは誰かの説明
第1編 信仰宣言
第1部「わたしは信じます」「わたしたちは信じます」
第2章 人間を訪れる神
第2項 神の啓示の伝達
2 聖伝と聖書との関係
第3項 聖書
> 使徒信条かニカイア・コンスタンチノポリス信条の説明
第1編 信仰宣言
第2部 キリスト教の信仰宣言
第1章 わたしは父である神を信じます
第2章 神のひとり子 イエス・キリストを信じます
第3章 聖霊を信じます
> 秘跡サクラメントか機密ミステリオンの説明
第2編 キリスト教の神秘を祝う
第2部 教会の七つの秘跡
第1章 キリスト教入信の秘跡
第1項 洗礼の秘跡
第2項 堅信の秘跡
第3項 エウカリスチアの秘跡
6 過越の会食
第2章 いやしの秘跡
第4項 ゆるしと和解の秘跡
第5項 病者の塗油の秘跡
第3章 交わりをはぐくむための秘跡
第6項 叙階の秘跡
第7項 結婚の秘跡 >>620
> 十誡の説明
第3編 キリストと一致して生きる
第2部 神の十戒
第1章 「心を尽くし、精神を尽くし、
思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」
第1項 第一のおきて
2 「ただ主に仕えよ」
第2項 第二のおきて
1 主のみ名は聖である
第3項 第三のおきて
2 主日
第2章 「隣人を自分のように愛しなさい」
第4項 第四のおきて
3 家族の成員の義務
第5項 第五のおきて
1 人間のいのちの尊重
第6項 第六のおきて
3 夫婦愛
第7項 第七のおきて
2 人間とその財貨の尊重
第8項 第八のおきて
4 真実の尊重
第9項 第九のおきて
2 清さを得るための戦い
第10項 第十のおきて
1 欲望の乱れ
3 心の貧しさ
> 主の祈りの説明
第4編 キリスト教の祈り
第2部 主の祈り:「わたしたちの父よ」
第2項「天におられるわたしたちの父よ」
3「わたしたちの」父
第3項 七つの願い
2「み国が来ますように」
7「悪からお救いください」 「カトリック教会のカテキズム」 というものを、目次に出てくる各項目に関する 「FAQ (問題と解答集)」 のように考えないで欲しいと思います。
これは歴史の教会が絶えず続けてきた 「(教会に) ゆだねられた信仰の遺産を守る」 という課題への、現代における (一つの) 試みとして理解すべきものです。
つまり、− − もし教会の時が続くなら − − 100年後にも200年後にも、教会はその置かれた時代の中で常に新しく繰り返して行くであろう、それぞれの時点における試みなのです。
冒頭にある使徒憲章は、次のように述べています。
「(これは) 聖書、使徒伝承、教会教導権によって述べられ、あるいは、これらに照らして明確にされた教会の信仰とカトリック教理の解説です。」
律法主義者のための律法集のようにではなく、使徒たちから伝えられた福音、教会がそれを土台として歩んで来た福音を聞き取るために、これが用いられますように。(Iコリ 3:10-13, 15:1 参照) 2007年(主日A年) 12月9日 待降節第2主日
イザ 11:1〜10 ロマ 15:4〜9 マタ 3:1〜12
イザヤ書における預言者の召命の記事 (イザ 6章) に続く大きな出来事は、アラム・エフライム戦争における王アハズとの会見でありました。
イザヤはアハズ王に対して、落ち着いて神の助けを待つことを勧めました(イザ 7章)。
しかしアハズ王は聞き入れませんでした。
恐らくアッシリア王に救援を求めるアハズ王からの使者が、すでにその途上にあったのでしょう。
アッシリア王はその願いを聞き入れて、ダマスコに攻め上ってこれを滅ぼし、北王国もその領土の大部分を失いました(王下 16:7-9)。
この事件は預言者イザヤの中に大いなる変化を引き起こしました。
地上の王に失望したイザヤは、終末的なメシア待望を預言するようになります。
その頃の預言の一つが今朝のテキストです。
教会は降誕節に、御子イエスの誕生によってこのイザヤの預言が実現したことを記念します。
それは壮大な救済史のドラマであって、さらに終末における完成を目指しているというのが、福音の終末的使信なのです。
主の降誕の夜半のミサで、同じイザヤの終末的なメシア待望預言 (イザ 9:1-6) が朗読されるのも、教会が今なお “終わりの時に向かって急ぐ”(ハバ 2:3) 救済史の中を歩み続けていることを、覚えるためです。
「その日が来れば ・・・・・ 」(イザ v.10)。
そうです。
「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ロマ 8:25)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 老クリスチャンさん。おつかれさまです。
今まで律法主義的に解釈していた事に気づかされました。
少し落ち着いてカテキズム等を読んでいきたいです。 11月30日 聖アンデレ使徒 (マタ4,18-22)
「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。
二人はすぐに網を捨てて従った。」
マタ4,19-20
父である神は、すべての人々を愛の絆で結び、一つに集めたいと求めておられ、そのために
常にご自分で働き、また人々の協力をも求めておられるのです。
ますます多くの人々が、今日記念する聖アンドレのように、すべてを捨てて、
福音宣教のために全生涯をささげるように招かれなくても、生きている場で、いつも
イエスの教えを守り、聖霊の導きに従って、神の愛を証しすることによって、
イエスと共に神の望みに応えて人々を集めることができますように祈りましょう。
*
すべてを治められる神よ、
みことばを宣教し、教会を導くために、
あなたは聖アンデレを選び、使徒とされました。
聖人の殉教を記念して祈るわたしたちに、
あなたの国のあかしとなる恵みをお与えください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
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「キリストの光を全ての人々に」
http://www.nowaksvd.net/ 12月1日 待降節第1木曜日 (マタ7,21.24-27)
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」マタ7,21
待降節は、自分の人生を見つめるための良い機会です。私の人生の基礎的な価値観は何でしょうか。
私の富、私の最も大事な宝とは、何でしょうか。私は何を求めて、何を希望しているのでしょうか。
私の人生は、どんな方向に向かっているのでしょうか。
このように生きていることによって私はどんな人になっているのでしょうか。
私たちは、自分の現実をありのままに見つめることができますように。そして必要に応じて、
まだ遅くないうちに、変えるべきところは変えることができますように祈りましょう。
*
救いの源である神よ、
力を奮い起こして助けに来てください。
救いの日が、わたしたちの罪のために遅れることなく、
あなたのいつくしみによって早められますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
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http://www.nowaksvd.net/ 12月2日 待降節第1金曜日 (マタ9,27-31)
「イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、『わたしにできると信じるのか』
と言われた。二人は、『はい、主よ』と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、
『あなたがたの信じているとおりになるように』と言われると、二人は目が見えるようになった。」
マタ9,28-30
イエスを信じると言っている人々の中で、皆が本当にイエスを信じているとは限りません。
私たちが信じているかどうかということが分かるためには、語っている言葉ではなく、
私たちの生き方や、この生き方が結ぶ実を見る必要があるのです。
私たちは心を開いて、イエスご自身とその働きを受け入れることによって、
イエスが歩んだ道を歩み、
イエスご自身が生きていたのと同じように生きることができますように祈りましょう。
*
神よ、
力を奮い起こして来てください。
犯した罪のため、苦しみあえぐわたしたちを救い、
解放の恵みをお与えください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
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http://www.nowaksvd.net/ そしてアドニーが固有名称でないのは道を通るのは各々の主体だからです。
>>628 父母を敬え、長生きするであろう。
十戒の教えですが本当に今日は幸運でした。
木曜日と言うのは最後の晩餐のパンとワインの日(聖餐の日)なんですが
夕食にハンバーグとワインが出ました。
東方教会の正教に通ってた時に乳製品でバターを食べてはいけない時期に
父親がバターたっぷりの食パンを私に食べさせた時と違い
西方教会カトリックの立場にある老クリスチャンさんを敬うように
父母に珍しく文句を言わなかった今日はこのようなご馳走の日なのです。
またイタリア料理の調理師を目指した女性の方とも話が弾み
西方教会のプロテスタントの女性信者の方とも話が出来て好調な日でした。
西方教会であるカトリック教会の教えを誤解していたのに
目上の人や自分を生んでくれた父母を敬うと神様はご褒美をくれるのだと
神様は本当に憐れみ深い方だと思う次第です。
ご利益で語るのは、異教的かもしれませんが
因果応報で片付けられるものではないと感慨にふけりました。 「あなたの父母を敬え。 あなたの神、主が命じられたとおりに。
そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」(申 5:16)
これは、父母と自分が共通の幸せ (神からの恵み) を受けている、という感謝が生まれたとき、本当にアーメンと言える聖句です。
「ご利益」 と片付けてしまわないで、それが神への感謝であれば、素晴らしいことですよ。
前途多難でしょうが、いつか親子そろってイエス・キリストの救いをいただく日が来ますように。 2001年(主日A年) 12月9日 待降節第2主日
イザ 11:1〜10 ロマ 15:4〜9 マタ 3:1〜12
使徒たちによって伝えられた主イエス・キリストについての宣教 (ケリュグマ) は、洗礼者ヨハネの出現の物語りから始まっています(使 1:21-22, 10:36-37)。
私たちはそのことによって、主イエス・キリストの受難と復活に至る受肉とその生涯を、神の救済史の中で理解することが出来るのです。
洗礼者ヨハネの出現は、イザヤ書 40:3 の預言に従ったものでした。
彼の風貌は 王下 1:8 に描かれているエリヤと同じものでした。
それは マラキ書 3:23 の預言に従っていました。
彼は 「主に先立って行き、その道を整え」(ルカ 1:76) るために遣わされました。
彼の授けた洗礼は、「差し迫った神の怒りを免れる」(マタ v.7) ためのものでした。
彼の後から来る主イエス・キリストが 「来たるべき怒りから私たちを救ってくださる」(Iテサ 1:10) ことを予告し、この方を救い主として受け入れるように準備することが、ヨハネに与えられた仕事でした。
彼は 「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタ v.8) と教えました。
このように宣教 (ケリュグマ) は、それを聞くだけではなくて、キリストを信じて救われることを目指しています。
その宣教の初めのところに洗礼者ヨハネは立っているのです。
そのようにして彼は、神の国の王として再臨される終末のキリストを指し示しています。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 12月4日 待降節第2主日A年 (マタ3,1-12)
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
マタ3,2
人間は個人として、また、人類全体として、平和とか幸せとかを求めて、そのために
一生懸命に努力しています。けれども、なかなかそれを実現することができないのが、
私たちの現状ではないでしょうか。その現状の要因はいろいろあるでしょうが、
その内の一つは、人間の傲慢ではないかと思います。
それだけ失敗の繰り返しの長い歴史があっても、人間はなかなか自分の限界を認めようとしませんし、
賢くならないのです。この限界とは、人間が自分の力だけでは、心の中で求めている平和や幸福を
得ることができないがゆえに、すべての人々を愛し、
すべての人のために永遠に続く平和と幸福を求める父である神、創造主であり、
全能者である神の助けを必要としているということなのです。
自分の限界を認識した上に、神の助けの必要性を認めて、この助けを願い求め、
それを受け入れるために心を開くことこそ、一人ひとりにとって、また、人類全体にとって、
最も必要な回心であり真の知恵なのです。
父である神は、私たちが願う前から私たちに必要なものをご存じ(マタ 6,5-8)ですので、
もうすでにイエス・キリストを通して、真の平和と幸福のために必要なものをすべて準備してくださいました。
ですから今、イエス・キリストを信じることによって、つまり、イエスの言葉を受け入れ、
イエスの模範に倣って生きることによって、私たちは永遠に続く平和と幸福に向かって
歩むことができると同時に、その実現に協力し貢献することもできるのです。
*
恵み豊かな神よ、
御子を迎えに急ぐわたしたちが、
あなたの力に強められて罪の妨げに打ち勝ち、
キリストに結ばれることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ
「キリストの光を全ての人々に」http://www.nowaksvd.net/ 老クリスチャンさん。激励ありがとうございます。神に感謝します。 別の方のブログからのコピーが、先日から貼り付けられています。
こういうことは、大いに歓迎です。
私の過去の 「聖書の学び」 からの紹介と合わせて、ぜひ比較しながら読んでみてください。
皆さんがご自分の判断で、両者を批評的な目で読み比べてくだされば、きっと有益だと思います。 2010年(主日A年) 12月5日 待降節第2主日
イザ 11:1〜10 ロマ 15:4〜9 マタ 3:1〜12
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 “我々の父はアブラハムだ” などと思ってもみるな。
言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる。」(マタ vv.7-9)
新約聖書における “神の怒り” は、“御国” “栄光” “命” などと同様に、終末的な概念です。
イエス・キリストの到来によって、この終末の時が開始されたので (マタ 12:28、マコ 1:15 参照)、聖書を学ぶ人は信仰の目を通してこれを見ることを迫られるのです。
世間では不幸や災難が重なると、神々の怒りによる災いから逃れるために、いわゆる “お祓い” をする慣習がありますが、終末的な神の怒りは “免れることが不可能である” と、洗礼者ヨハネは説教しました。
ですから私たちは新約聖書を、“叱られないようによい子になりましょう” というレベルで理解してはなりません。
「正しい者はいない。 一人もいない」(ロマ 3:10)、私たちは皆 「生まれながら神の怒りを受けるべき者」(エフェ 2:3) であることを、待降節第2主日の福音朗読は宣言します。
やがて来られる方であるキリストは、「生者と死者を裁く」(信条) 審判者であり(マタ 25:31以下、IIテモ4:1,8 参照)、私たちは皆、その裁きの座の前に立つのです(ロマ 14:10、Iペト 4:5)。
「悔い改めにふさわしい実を結べ」 とは、外ならぬ御子イエスの “十字架の死と勝利の復活” に結ばれて、罪の赦しを受けること以外ではあり得ません(ロマ 6:3-11、使 10:43、エフェ 1:7)。
私たちは洗礼者の説教を聞きながら、キリストの十字架こそがまさに神の怒りそのものであったことを、深く黙想しましょう(マコ 15:34、Iペト 2:22-25 参照)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 12月3日 日本宣教の保護者聖フランシスコ・ザビエル司祭 (マコ16,15-20)
「それから、イエスは言われた。
『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。』」
マコ16,15
二千年の間、どんな時代にも聖フランシスコ・ザビエルと同じようにイエスの言葉に従って、
福音を宣べ伝えていた人々がいましたので、キリストの教会が全世界に広まって、私たちも神の愛についての
良い知らせを聞いて、それを受け、父である神の愛と命にあずかるようになったのです。
今までの教会の宣教活動を神に感謝しながら、これからの時代にも、聖フランシスコ・ザビエル
のような多くの熱心な宣教師が生まれ、神が教会を通して働き続け、全人類のための救いの計画を
実現していきますように祈りましょう。
*
いつくしみ深い父よ、
あなたは、聖フランシスコーザビエルの宣教を通して、
アジアの民をみもとに集めてくださいました。
わたしたちも、聖人と同じ熱意に燃えて信仰を伝え、
救いの喜びを多くの人と分かち合うことがでぎますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ
「キリストの光を全ての人々に」http://www.nowaksvd.net/ >>637 >いつくしみ深い父よ、・ ・ ・
>わたしたちも、聖人と同じ熱意に燃えて信仰を伝え、
>救いの喜びを多くの人と分かち合うことができますように。
この祈りに、だれも異論を唱える人はいないでしょう。
しかし、私はカトリック信徒であるあなた方一人一人にお尋ねしたい。
あなたは (教会を通して) 受けた福音を、人々に確信をもって説明することが出来ますか ?
あなたはカトリック教会から与えられた 「教会の信仰」 を、自分自身の信仰として、確信をもって人々に伝えることが出来ますか ?
自分では理解することも信じることもスキップして、ただ形式的にかけ声だけの祈りを唱えているのではありませんか ?
私は皆さんに、「聖書の学び」 の紹介を通して、本気で真面目な悔い改めを呼びかけているのです。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。」(マタ 3:8) >>638
>あなたは (教会を通して) 受けた福音を、人々に確信をもって説明することが出来ますか ?
できますよ。ただ、日本人への宣教はとても難しいわけです。
あなたのように、ビールケースをひっくり返して、そこに立って声を半オクターブ上げ
鼻に詰まった声で御言葉を語れば、ほいほいと日本人が信者になるということは
ありません。
老クリスチャンのようにではなく、この掲示板のカトリック信徒のように「自然体」で
語ること、日本の社会で「浮きそうでないこと」、事実、カトリック信徒はそうなのですが
それが伝わった方がいいのです。
鈍くさいプロテスタントの風をわざわざカトリック信徒に求める必要はありません。
あなたは独善的なんですよ。 >>638
> >>637 >いつくしみ深い父よ、・ ・ ・
> >わたしたちも、聖人と同じ熱意に燃えて信仰を伝え、
> >救いの喜びを多くの人と分かち合うことができますように。
>
> この祈りに、だれも異論を唱える人はいないでしょう。
異論ありです。
父なる神はいつくしみ深い神ではないです。
私は、救いの喜びとはなんのことか全くわかりません。
生まれながらのカトリック信徒として私が知った福音は、
日本語でいう福音の意味とは違い、悪い知らせです。
キリスト教に関係ない日本人なら、ひとりでもこの福音を知らないほうがよい。
実際、カトリック教会のカテキズムや教会憲章にには、
知らなかった人には救いがあり、
私のように、福音を知って受け入れないもの、拒むものは、救われることはできないだろう、
というようなことが書かれています。
侵略宗教カトリックは日本には不要。 プロテスタント日本人とカトリック日本人と正教日本人と
一般日本人とは
信じがたいほどに温度差がある。
共産党員と在日朝鮮人(創価学会にも居る)は
プロテスタントにもカトリックにもいるのに
何で両派は日本人同士で、こんなに仲が悪いのだろうかと思うほどです。
カトリックを弁護して言うのではありませんが
維新後に殉教者をあれほど出したのに同情してもらえない非常さがあります。
たしかに戦国時代のキリシタンは悪事を働いていたのは知っています。
九州の道筋にある石地蔵や法華経寺に
糞尿をかけて偶像崇拝を馬鹿にした例を私は知っています。
確かに大正時代のクリスチャンがスペインの文献を見て
イエズス会が奴隷貿易をし日本女性を小間使いや慰安婦にしていた事実は
2chのカキコで知りました。
しかし禁教が解かれた後のフランス・カトリックに復帰した隠れキリシタンが
戦国時代のキリシタンのような偶像崇拝を馬鹿にする行為は知っている限りでは
してませんでした。
フランス政府も市民革命後の政府なので
イエズス会のしたような事はしませんでした。
江戸幕府に武器供与(最新ライフルであるシャスポー銃3千丁を贈呈)をし
近代歩兵訓練(伝習隊の訓練)をしたのは知っていますが
侵略とは思えません。
プロテスタント国のイギリスの薩英戦争の方が
よっぽど侵略ではないでしょうか。
でも、その一方で正教のロシアの侵略、対馬占拠で要塞つくりに
イギリスが交渉で排除したのはドウでしょうか。
黒舟来航をし開国させたアメリカはプロテスタント宣教に徹していました。
ものすごく不思議です。 プロテスタントの日本人信徒が、また
カトリックの日本人信徒が
日本人女性を集団レイプしましたか。
風俗嬢を海外に売り飛ばしましたか。
お寺や仏像に糞尿をかけて回りましたか。
奴隷貿易のような事をしましたか。 江戸幕府は長州征伐のとき
フランスのナポレオン三世が無料供与した
最新ライフルを使いませんでした。
フランス兵は加わっていません。
これでは侵略といちゃもんはつけられません。
では長州にオランダ兵は加わっていません。
オランダ製のライフルは使用されましたが
オランダは侵略国ですか。
フランスはカトリック国です。カトリックは侵略した事になりますか。
オランダはプロテスタント国です。プロテスタントは侵略した事になりますか。
どうでしょうか。
たかが約1億3千万の日本人のうち
0・3%の約44万人の日本人カトリック信徒が
日本を侵略しているとは思えません。 聖書でいう「のろい」は
ギリシア語でアナテマといい
正教会では破門の意味である。
聖書でいう福音は
中国語で「幸福の音信」の事であり
ギリシア語でエヴァンゲリオンといい
エウ+アンゲリエ(よい+しらせ)で
アンゲリ(み使い[天使]、知らせる人)は
エンゲルで
エンジェルの事である。 帝政ロシアでのポグロムは
ユダヤ人虐殺と
間違えてカキコしたことがあるが
訂正します。
ポグロムはユダヤ人の家財を略奪する事件で
直接虐殺したわけではないと言う事です。 フランス南部のラングドック地方の
ベジエ市での虐殺
(市民でカトリック信者は天国に行き、
異端は地獄いきだから
皆殺しOK)を許可したのは
ベジエにカトリックを布教したドミニコ会ではなく
シトー会といわれてます。 ヘレニズム時代の
コイネギリシア語(聖書ギリシア語)でいうと。
主: キュリオス
創り主: クティサス
救い主: ソーテール
全能者: パントクラトール
油注がれた者: クリストス(キリスト)
となります。 良スレにするはずが >>641-647 あらしカキコになり、すみませんでした。 【聖書と信仰】信者も未信者も【神学と哲学】
バリバリの信者も
なんとなく信者も
迷っている信者も
境界人も離脱者も敵対者も、
基礎的な聖書理解、信仰維持、神学認識、哲学的批評を軸に
丁寧に議論を積み上げて、良スレにしましょう。
※嵐 誹謗中傷的 愉快犯は 綺麗なスルーで対応してください。 【福音の学び @】
キリストを伝える使命を受けた者 (教導職と信徒のすべて) は、先ず、「キリストを知ることのすばらしさ」 を求めなければなりません。
「キリストを得、キリストの内にいる者」 となるため、「すべてを塵あくたと見なし」、
「キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達し」(フィリ 3:8-11) なければなりません。
キリストの愛に燃える知識から、キリストを告げ知らせ、「福音を告げ」(Iコリ 9:16)、他の人々をキリスト・イエスへの信仰に導きたいという願望が生じるのです。
同時に、この信仰をますますよく知る必要を感じます。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています