【聖書と信仰】信者も未信者も 【神学と哲学
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バリバリの信者もなんとなく信者も迷っている信者も境界人も離脱者も敵対者も、 基礎的な聖書理解、信仰維持、神学認識、哲学的批評を軸に丁寧に議論を積み上げて、良スレにしましょう。 ※嵐誹謗中傷的愉快犯は綺麗なスルーで対応してください。 基礎的なドラえもん理解、妄想維持、のび太学認識、僕って頭いいんだお!的批評 このスレに「仁義なきキリスト教史」を推薦しておく。 このスレは、どらえもん理論を言うのは許されないスレですね 好きな人が死んだ時に その人が生き返ってほしい、と願う事は罪なのでしょうか キリストユダヤ回教的には罪 ホムンクルスは魔法使い即ち外道の術であり 神を試してはならんとも言われます 仏教的には愛別離苦への執着であり駄目 科学的にも非効率、と罵られます しかし、その心を持たない人間は むしろ非人間的であるのではないか、と考えると 反魂を願う事は善か悪か 願わねば非道であり 願えば理に適わず罪を背負う、と言う事になり どう転んでも罪、と言う事になってしまわないだろうか というあたりのお話はどうでしょうか >>7 願うことは罪ではないと思います。 生き返らせてください と神様に祈って見てください。 それで願いを聞いていただくことができなければ、それはみこころにかなっては いなかったということでしょう。 願い、祈って行く中で神様から他のお答えをいただくことになるかもしれません。 いづれにせよ、神に祈ることは大切なことです。 あなたの願いは叶えられないかもしれませんが、神様は必ず答えをくださいます。 クリスチャンいや、キリスト教は、人間(の知性)を信用しません(アンチヒューマニズム)。ですから、学識や科学技術に対しても究極的な信頼を寄せません。 また、人生は苦しいものであると考えています。キリスト教は人間を苦しみから解放すること(イエスキリストの贖によって)を目的とします。 この意味で、キリスト教は「救済宗教」なのです。だから一見「救いや啓示に、「神学」などというものは全く意味がない」と、全てとは言いませんが、多くのクリスチャンは思っているような気がします。 こんにちは。 ところで、神学に於ける「キリスト論」は2つの問いを発します。「過去のイエスを問題にするのか」、それとも「今ここに現臨するイエスを問題にするのか」、という問いです。 しかし両者は必ずしも相互排他的である必要はなく、今日宣教されているイエスは、あの当時にパレスチナで生き、ピラトのもとで十字架につけられたお方にほかならないのだし、またその逆のことも同じく言えるのだから。 けれども、私たちが、「イエスは誰であるか」について、また「イエスは私たちにとって何を意味するか」についての現在の宣教を、 その時起こったことから理解しようとするのか、それとも逆に、その当時に起こった事柄については第二義的に語り、今日ここに宣教がそのことについて語る事柄の光においてのみ語ろうとするかによって、根本的な差異が生じてきます。 結局、キリスト論は、イエス御自身から着手すべきなのか、それとも教会のケリュグマ[宣教内容]から着手しなければならないのか、ということが問題になってくるでしょう。 あるいは、1世紀のイエスという男の生涯を基調にして議論を組み立てるキリスト論があります。 イエスがどのような人物であったかについて、「実証的」に確定する「史的イエスの研究」は、実は19世紀末にイエスという男がいたともいなかったともいえないという袋小路に陥ってしまったというのが一昔前までの定説でした。 最近では、米国系の神学では再び史的イエスの探究が始まっています。その影響が日本の神学界に及んでいます。(僕個人としては、なんと、徒労なことか!と思ってしまいます) >>13 保守を兼ねて書き込み 何故徒労と思うのですか? 検証の結果 聖書の正当性を表す史実が見つかるとは考えないのですか? 科学的 論理的に考察には所詮耐えられない のだから疑わず迷わず 疑問を持たず信仰するのがいいと言われるのですか? 上記を仮に正だとすると 神学とは 探求すること 有る意味学問じゃないんですか? 都合の悪そうなところに目を背けるのは神学的なのですか? と 意見を書いておきます それはそうとマージナルさん 実在論のスレにもたまに来てください そして 西洋史やキリスト教知識が学者並みの知識を有する多元主義者さん(今はこぶちゃ美味しいさん) と神学論争を戦わせてください イエスは言われた。”人間に食べられる獅子は幸いである。そうすれば獅子は 人間になる。しかし、獅子に喰われる人間は禍いである。そうすれば、人間は 獅子になる”。 トマス福音書7からの引用だが、これは非常に深い。 キルケゴールからはじまりハイデガーに至る実存主義と、神学との対話により得られたものは一体なんだったのでしょう。 神学者ブルトマンはハイデガーの「本来的実存」と「非本来的実存」を用いながら、聖書を解釈しています。 つまり、不信仰で贖われていない実存は非本来的実存で、その様な個人は道徳的行為や物質的富裕によって実存を確保しようとし、自力の自己充足によって自己正当化を試みます。 このような実存のあり方は聖書的には「罪」です。 一方、聖書の提示するもう一つの実存、「本来的実存」 は、 自分で作り出したあらゆる安全を放棄し、自己充足の幻想を諦め、神に信頼するというあり方です。 しかし、キリスト者とて当然ヒューマンな世俗に関わりながら生きているのだから、完全な「本来的実存」は無理です。そのためにキリスト者の実存は常に二重化されています。 「義といのち(霊)」に生きる=「本来的実存」と 「罪とこの世(肉)」に生きる=「非本来的実存」との二重化です。 これは、パウロのローマ書7章に於ける内在する罪の問題としてはっきりと指摘されています。 霊と肉という枠組みは、グノーシス主義にも顕著です。 霊はpneuma、肉はsarks、もう一つ魂はpsycheです。 霊は完全な善の、肉は完全な悪の、魂は善悪混在の領域です。 救済の手立ては「霊知」を得ることにより与えられます。 むしろ、(キリスト教の異端としての)グノーシス主義の方が、現代日本人には理解しやすいのかも 知れません。なぜなら、端的にグノーシスは「悪の問題」をクリアしているからです。 グノーシスの側から見た場合、三つの敵がいます。 初期ユダヤ教と初期キリスト教、そしてヘレニズム期のギリシア哲学(特にストア派)です。 世界観の規模からいって、グノーシスはこれら全てを包摂してしまいます。 マージナルさんコンバンワ たまには実在論スレにも来て 多元論者さんと神学論を戦わせてくださいよ! 戦わせる闘わせるといっても、実は立場はものすごく近いのですw 排他主義と包摂主義ではやはり限界があり、目下の暫定案は多元主義的な傾向が 僕の中にはあります。正直。 「シンクレティズム」こそ宗教ハイブリッドな日本が得意とするもので、 例えば、神仏習合に於ける本地垂迹説が典型でしょう。 あるいは、沖縄の土着の信仰とキリスト教はものすごく親和的であったり。。 >>23 そうですか、やはり学び続けるとそう言う見方になって来ますよね まあ そうなれば 今度は神学者の立場で神学をないがしろに考えている ヨハネさん(多分 シモンさんも同じ考えだと思われる)を 学問的高みに引きずりあげる議論を巻き起こしてくださいね >>24 これには非常に厄介な問題がありまして、神学を学べば学ぶほど 「己の信仰」に亀裂がはいってしまうのですよ。 リベラル神学、高等批評の十字砲火によって聖書が解体されてゆく。。 神学は、(全ての者はいいませんが)信仰生活になんの足しにもならないのです。 僕は、一応クリスチャンですが、同時に自称marjimal man=境界人ですから、 平気ですけどw >>25 そうなんですよね よくわかります 貴方の様な信仰者が学問的視点で宗教に向かうと疑念が生まれ信仰が揺らぐのは想像できます それを克服し教祖並みの宗教の良いところも矛盾する部分も理解した人が 実在論の新説(高度な屁理屈でも可)を編み出す様な気がするんです がんばってください!! / ̄ ̄\ / ―― ヽ / _/ ー^ー ハ 正月に飲むお屠蘇ってあるやろ? / (/ ノ⌒=⌒ヘ) /⌒ヽ| ((・)ハ(・)ヽ 屠って蘇るって書くんだが…それを正月に祝う… \ (⊂Yつ) | ヽ (_人_)ノ 磔刑に処されて三日後に復活したのは誰だ? | ヽノ ノヽ ノ ヽ_ノ | イエス・キリストさんぢゃ!! これが日本の正月や! / ̄ ̄\ / ―― ヽ / _/ ー^ー ハ 聖徳太子って習ったやろ?蘇我馬子、厩戸皇子とか。 / (/ ノ⌒=⌒ヘ) /⌒ヽ| ((・)ハ(・)ヽ 我蘇りし馬屋の子、厩で生まれた人物、 \ (⊂Yつ) | ヽ (_人_)ノ そして聖なる徳の高い太陽神の子…これは誰や? | ヽノ ノヽ ノ ヽ_ノ | イエス・キリストさんぢゃ!! 冠位十二階、十二という数字は聖書ではよく登場する聖なる数ぢゃ! / ̄ ̄\ / ―― ヽ / _/ ー^ー ハ 日本の神話に天照っておるやろ?岩戸隠れの話…。 / (/ ノ⌒=⌒ヘ) /⌒ヽ| ((・)ハ(・)ヽ 岩の洞窟に隠れてまた現れて復活した人は誰や? \ (⊂Yつ) | ヽ (_人_)ノ イエス・キリストさんぢゃ!! | ヽノ ノヽ ノ ヽ_ノ | 天照はイエス・キリストさんのパロディぢゃ! / ̄ ̄\ / ―― ヽ / _/ ー^ー ハ 天照って今では女神だと言われてるだろ? / (/ ノ⌒=⌒ヘ) /⌒ヽ| ((・)ハ(・)ヽ でも実際は男神なんや!女神ぢゃないでぇ。 \ (⊂Yつ) | ヽ (_人_)ノ 裸踊りが気になって岩戸の隙間から覗き見た話ぢゃが、 | ヽノ ノヽ ノ ヽ_ノ | 女の裸に興味があるのは普通は男ぢゃろ? つまり古事記・日本書紀は天照が男神だって暗示しておる。 そして天照はイエス・キリストさんのパロディぢゃ。なら男で当然ぢゃろ。 / ̄ ̄\ / ―― ヽ / _/ ー^ー ハ 神社も聖書の世界観のパロディぢゃ。 / (/ ノ⌒=⌒ヘ) /⌒ヽ| ((・)ハ(・)ヽ 神社に行ってみよ。そこに何がある? \ (⊂Yつ) | ヽ (_人_)ノ 鳥居をくぐって境内をよく観察してみぃ。 | ヽノ ノヽ ノ ヽ_ノ | 何も気づかん者は聖書をよく読んでない証拠ぢゃ。 / ̄ ̄\ / ―― ヽ / _/ ー^ー ハ 祭りで神輿を担いだ事があるか? / (/ ノ⌒=⌒ヘ) /⌒ヽ| ((・)ハ(・)ヽ 祇園祭で山車をよーく見たことがあるか? \ (⊂Yつ) | ヽ (_人_)ノ 日本人なら誰もが聖書の民ぢゃ。 | ヽノ ノヽ ノ ヽ_ノ | 多くの人はそれに気づかんのぢゃ。 『ドストエフスキー(1821〜1881)は、本当にキリスト教作家だったのか?』 『ソビエト大百科辞典 第二版』より要約します。 1847年、ドストエフスキーはペトラシェフスキー・サークル(革命的、空想的社会主義思想の研究をしていた)の会員となっている。 1848年、エヌ・ア・スペシネフの秘密革命結社に入る。 1849年4月23日、逮捕。ペトロパブロフスク要塞監獄に8ヶ月監禁され、 1849年12月22日、ペテルブルグのセミョーノフ広場でペトラシェフスキー会員に対して「死刑の芝居」が行われた。受刑者らは目隠しをされ、第一のグループが射殺のために柱のもとへ連れていかれた。 やっと、その後になって彼らは死刑の中止を宣告された。 1850年〜1854年、オムスクの懲役監獄で禁固刑の刑期をつとめると、ドストエフスキーはセミパラチンスクのシベリア警備大隊に歩兵として配属された。将校まで勤めあげ1859年に退官。 著書『死の家の記録』(1861〜1862)にて、ツァーリ懲役の恐ろしさをただしく書いている。 ※ペトラシェフスキー・サークルの研究対象はフランスの空想的社会主義者フーリエの著作や、ドイツの唯物論哲学者フォイエルバッハの著作などであった。 ※1849年頃ペトラシェフスキー・サークルは急進派(革命を起こすべし)と、穏健派(農奴解放が実現し、国会が開催されるなら、君主制を維持してもよい)とに分かれた。ドストエフスキーは急進派に所属。 続く 続き ドストエフスキーがかなり目立った活動家であったことは1849年4月22日付けの皇帝官房第三課(所謂秘密警察)の オルロフ侍従武官長からサンクトペテルブルグ憲兵中隊のチジューノフ少佐に宛てた命令書の内容からもあきらかです。 <勅命によって、貴官は明朝、未明4時 、マーラヤ・モルスカヤ通り、ヴォズネセンスキー大通り角、 シーリー持家、三階ブレンメルの貸家に住む退職工兵中尉、作家フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーを検挙して、 文章及び書物はすべて封印のうえ、身柄とともに皇帝官房第三課へ届け出てもらいたい。 その際貴官は、ドストエフスキーの文書で隠匿してあるものがないか、徹底的に捜索しなければならない。 ドストエフスキーの家宅には即刻第三課に届けられないほど多数の文書及び書物が発見されないとも限らないので、 その場合は一室乃至二室に取り纏めて当該室を封印したうえ、 時を移さず、ドストエフスキーの身柄を第三課に連行してもらいたい。 たとえドストエフスキーが他人の所有であることを主張する文書や書物がある場合でも、 容赦することなく封印してよろしい。> (レオニード・グロスマン『F・M・ドストエフスキーの生活と作品---伝記、日付と資料』モスクワ、1935年 松浦健三訳『ドストエフスキー全集 別巻』新潮社、1980年、p100〜101) 続き この指示通り、ドストエフスキーは翌23日の午前4時に逮捕、皇帝官房第三課に連行された。ドストエフスキーの裁判は5ヶ月後の9月30日に開始され、 11月16日に終了した。 <判決文 軍法会議により被告ドストエフスキーを有罪と認める。被告は本年3月、モスクワより貴族プレシチェーエフ(被告) が与えた文学者ベリンスキーの違法の 書簡の写しを受取り同書簡を最初は被告ドゥーロフ宅、 次いで被告ペトラシェフスキー宅と、それぞれの集会に おいて読み上げ、さらにコピーを取らす目的で、それを被告モンペリに手渡したかどによる。なおドストエフスキーは、被告スペシネフ宅において行われた、陸軍中尉グリゴーリエフの 扇動的作品「兵士の対話」の朗読会に 出席した事実もゆるがせにできない。 よって軍法会議委員会は被告退職工兵 中尉ドストエフスキーに対して、宗教と主権に悖る文学者ベリンスキーの書簡、及び陸軍中尉グリゴーリエフの謀略をめぐらす作品を、無断で流布せしめたかどにより 軍事法典第一巻第五章 百四十二条、百四十四条、百六十九条、百七十八条に基づき、官位並びに財産私有件を剥奪し、銃殺刑を科す。>(前掲書p111) () 続く <判決文朗読後、担え銃をめいじ、尉官下士官を元の位置に復する。太鼓連打のうちに儀式を進める。 貴族は制服を脱がせ、特に懲役受刑者に対しては頭上で剣を折る。 全被告に白装束を着用させる。(中略) 神父は祝福を与えて退場する。 柱の位地に被告ペトラシェフスキー、 同モンペリ、同グリゴーリエフを連行し、目隠しをする。 同被告らを柱に縛ったのち、15歩の地点に下士官以下15名ずつ三組の兵を進め、銃に装填する。 他の被告らは警護兵の横に整列させる。続いて批准書の判決を言い渡す。 判決文伝達ののち、被告らに防寒服を 着用させる。ペトラシェフスキーは足枷をつけ、判決文朗読の地点より、 指定された憲兵と伝令の護送で出発する。その他の被告は一旦要塞に還し、 特別命令に基づいて移送する。> (前掲書p113) 続く 続き 第2組であるドストエフスキーに対しても、似たような対応がなされたのであろう。 人生には、忘れたくても、忘れることのできない出来事がある。 この出来事について、何度も記憶を反芻すると、それがその人にとっての 「原体験」になる。 銃殺される直前で命を皇帝の恩赦によって救われた というのが「原体験」 であるという作業仮説に基づいてその後のドストエフスキーの人生を読み解くと、なぜ彼が専制政治、 ロシア正教 の熱烈な擁護者になったかがわかる。 ドストエフスキーは、革命運動に関与して死刑になる覚悟はできていた。 それだから、取り調べや裁判でも命乞いをしなかった。 しかし、国家が死刑囚に対する恩赦と いう形で《人間に命を与えるこてができるという現実 》を体験した後、ドストエフスキーは死ぬことが心底恐くな ってしまったのである。 続く 心底恐くなってしまったのである。 皇帝は、ロシア国家が人格的に体現された存在だ。正教もロシア国家の公認イデオロギーである。 ドストエフスキーは自らの中に、ロシア国家が定めた基準から逸脱する「何か」を封じ込めておかないと、再び国家によって捕らえられ、人間関係、命を奪われることになると、ドストエフスキーの心も身体も怯えているのである。 ■ロシア正教と革命唆す声 前述の『ソビエト大百科辞典』は、<ドストエフスキーのその後の全創作と全活動は解放運動からの彼の後退とむすびついている。 ドストエフスキーは革命的民主主義者にたいしてその反動的な「大地主義」の綱領を対置させている。人民を国民生活の基礎と認め、インテリゲツィアの「大地」>との、人民との接近の必要性を 叫びながら、 ドストエフスキーは同時にその理論でスラブ主義の教養のあとを追い、ロシア人民に固有のものでない「忍従」という宗教性の性格をそれに固有のものとし、 その「大地的な」 理想として、当時の人民の生活のもっとも歪められた、おくれた面をおしだしている。革命的民主主義者とは異なりドストエフスキーは、ロシアの偉大な未来を革命と社会主義にではなく闘争の解放とキリスト教的忍従の観念論的な思想にむすびつけ、 続く それがあたかも貧困と隷従から人民を救うかのように説いた。それにもかかわらず、貧困と矛盾に満ちた作家の他ならぬ生活行程は家父長制生活の崩壊と農奴制から資本主義的発展へのロシアの移行の諸条件のもとに発生した大きな社会的諸問題に彼を当面せしめた。 芸術家および思想家としてドストエフスキーはこの発展の激烈な矛盾と 、それによって生み出される社会的な悲劇に眼をとざすことはしなかった。 彼は社会の下層にかくされた精神的な力を感じ、まさにその故にこそ『死の家の記録』において人民出身の人々の強力な形象を創造しえたのであって、 それらの形象は作家自身の反動的なイデオロギーへの生きた反駁となっている。 ロシアの国民的発展の根本的諸問題に つねに眼を向け、資本主義的な西欧と 比較したうえでのその歴史的行程の独自性について思索しながら、 ドストエフスキーはよく、彼が西欧諸国で観察することのできた、資本主義的進歩と ブルジョワ文化の非人間的な側面の深刻な暴露にまでいたっている。> (ソビエト大百科辞典『ゴーゴリ、ドストエフスキー、及びゴーリキー』) <ドストエフスキーの最後の長篇『カラマーゾフの兄弟』(1879〜1880)には 、貴族の家庭カラマーゾフ家の退化の 歴史と人民からはなれたインテリゲンツィアの思想的混迷が描かれている。 下男スメルジャコフのうちにドストエフスキーはブルジョワ的諸関係が支配する世界でのもっとも完全な精神的・ 肉体的退化のいまわしい諸特徴を明確に描き出した。スメルジャコフは自分のシニカルな意識のうちにイワン・カラマーゾフの利己主義的な「哲学」を 反映して、「賢い人間には」すべてが 許されているという確信に到達する。 イワンの形象において作家はふたたび 、あたかも唯物論と無神論が個性からあらゆる道徳的な支えをうばい、個性 を精神的破綻と犯罪に導くかのごとき、超反動的な思想を表現しようとつとめた。 しかし実際にはイワン・カラマーゾフはラスコーリニコフと同じく、個人主義的な、無政府主義的な理解のせまい環の外へはでていない。 ドストエフスキー自身の理想の担い手であるのは、 修道院で育てられたカラマーゾフの末 弟のアリョーシャと彼の精神的指導者 であり社会における正教教会の支配的 役割について夢想しているゾシマ長老 である。 しかし、ゾシマは聖人ではない。ロシア正教の伝承では、聖人は死後、腐らずにミイラになる。しかし、死後、ゾシマからはひどい腐敗臭が漂う。 イワンの、神を信じない「賢い人間」には「すべては許されている」という思想はドストエフスキーの内面世界の一部を表現している。 ドストエフスキーの内面において、革命的な無神論者であるイワンと正教へ全面的に帰依するアリョーシャの二人が特段の矛盾を感じないまま併存しているのである。 イワンの思想を体現したのがカラマーゾフ家の使用人スメルジャコフだ。 スメルジャコフは、「すべては許されている」という思想に基づいて、イワン、アリョーシャらの父で(スメルジャコフの父である可能性も示唆されている)、人格破綻者のフョードル・カラマーゾフを殺害し、カネを奪った。 殺人を犯した事実を告白したスメルジャコフとイワンの間でこんなやりとりがなされた。 <「以前には、これぐらいの金をもってモスクワか、もっと言えば、どこか外国で生活がはじめられたら、などと思ったこともございます。そんな夢を抱いておりました。 それもこれも、《すべては許されている 》と考えたからです(中略)これはあなたが本気で教えてくださったことですよ。ですから、ぼくもそんなふうな考えにたどり着いたんです」 「自分の頭でたどり着いたんだろう?」イワンがにやりと顔をゆがめた。 「あなたの導きによってです」> (ドストエフスキー[ 亀山 郁夫訳 ] 『カラマーゾフの兄弟4』光文社古典新訳文庫 2007年、p344) 明らかにドストエフスキーは自身の心の中で、「すべては許されている!」と叫んでいる。しかし、それを吐露してしまうと今度は修羅場から生きて帰ることが出来ないと、確信していた。 だからこそ、文学作品の中で、「著者の思想の敵対者という偽装 」をしながら、「すべては許されている」という革命思想をイワンやスメルジャコフに語らせたのだ。 33〜42のまとめ 「すべては許されている」(スメルジャコフ) ※作家は危険な思想について語るとき、あたかもそれが自分に敵対する 思想であるかのごとき偽装をすることがある。 (佐藤優『修羅場の極意』中公新書ラクレより) ダニエル書 2:31-36《ダニエルによるネブカデネザルの見た夢の解き明かし》(口語訳) ※《 》はmarginalによります。 以下引用 ...王よ、あなたは一つの大いなる像が、あなたの前に立っているのを見られました。 その像は大きく、非常に光り輝いて、恐ろしい外観をもっていました。 その《像の頭は純金》、《胸と両腕とは銀》、《腹と、ももとは青銅》、 《すねは鉄》、《足の一部は鉄、一部は粘土です》。 あなたが見ておられたとき、《一つの石が人手によらずに切り出されて》、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。 こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。 ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました。 これがその夢です。 今わたしたちはその解き明かしを、王の前に申しあげましょう。 王よ、あなたは諸王の王であって、天の神はあなたに国と力と勢いと栄えとを賜い、 また人の子ら、野の獣、空の鳥はどこにいるものでも、皆これをあなたの手に与えて、ことごとく治めさせられました。 あなたはあの金の頭です。 あなたの後にあなたに劣る一つの国が起ります。また第三に青銅の国が起って、全世界を治めるようになります。 第四の国は鉄のように強いでしょう。 鉄はよくすべての物をこわし砕くからです。鉄がこれらをことごとく打ち砕くように、その国はこわし砕くでしょう。 あなたはその足と足の指を見られましたが、その一部は陶器師の粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします。 しかしあなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、その国には鉄の強さがあるでしょう。...(以下略、引用終了) 続く これは、当時の4つの世界帝国を表していると言われています。 第一の獣獅子=金の頭=バビロン 第二の獣熊=銀の腕と胸=メディア・ペルシャ 第三の獣豹=青銅の腹ともも=ギリシャ 第四の獣=鉄の足=ローマ 鉄の指=復興ローマ 人手によらずに切り出された石=神の国 一〜四までの、広く言えば、《バビロン文明》の後に全地に満ちる《神の国》が訪れる、と。 因みにギリシャのアレキサンダー大王は《豹の如く》あっという間に地中海統一を果たし、メディア・ペルシャ帝国を滅ぼしましたし、 四世紀末にキリスト教がローマの国教となり、ローマ帝国の文化の源流であるバビロン発祥のものもをすべて排斥しました。 これは聖書がヒューマニズムの象徴バビロン(さらに遡ればアダムとエバ)を糾弾していたからです。 そこで科学や演劇などの文化さえも、おおよそ聖書的でない(=ヒューマニズム)とされたものは全て封印したのです。 もし、教会による「文明の抑制」がなかったなら、今より早く、近代文明が起こっていたかもしれません。 人知を越えた神の御業としかいいようがありません。 ところで、話かわって、プロテスタント神学では、教会は「見える教会」と「見えない教会」に分かれています。地上にあるのは「見える教会」です。 しかし、本当の信者と悪魔の使いのような信者との違いはわかりません。世界の終わりに人々が裁かれる「最後の審判」のときに、「見えない教会」のメンバーが明らかになるのです。 神学的には「教会以外に救いなし」という言葉がよく出てきますが、ここでいう「教会」は、人間が認識できない「見えない教会」を指しています。 プロテスタントの視点からは、ローマ教皇をトップにする地上の「見える教会」に救いの根拠はないのです。これはカトリックとプロテスタントの決定的な相違です。 福田恆存は、和魂洋才の限界を自覚的に「文明の利器を輸入して基督教は断る」という日本文明の皮相的態度を見抜いておりました。 さらに遡れば、既に、内村鑑三はより、徹底的でした。 『日本国と基督教』(大正14年8月)より。 「今日の日本文明に何となく不完全にして不徹底なる所の在るは、是が為であると思ひます。 即ち、西洋文明を採用して其の根本の精神なる基督教を信じないからであります。」 さらに、『基督教と西洋文明』(昭和2年11月)より。 「西洋文明に深入りすればする程、基督教を信ずるのが困難になる。...(中略)...徹底的に西洋文明を実行せんと欲して、真面目に基督教を信ずるのは不可能である。」 と。 『内村鑑三』(富岡幸一郎著)より。 「全キリスト教を空無に帰する」(『反キリスト者』)ことで十字架にかけられしキリストを発見するニーチェ。 キリスト教世界にキリストを導入するというキルケゴール。人間の神についての思想ではなく神の人間についての思想によって、キリスト教社会共同体を破壊したカール・バルト。 そして、誰かがキリストは真理の外にあることを証明し、また実際に真理がキリストの外にあったとしても、自分は真理よりもキリストとともにあることを望むと語ったドストエフスキー。 彼らはその思想の根本にいずれも「キリストなる岩」を持っていたと言ってもいい。 続く 続き 『余は如何にして基督信徒となりし乎』(内村鑑三)より キリスト教を正しく評価するにあたり、なによりもたいせつなことは、純粋で単純なキリスト教と、神学教授らによって修飾され教義化されたキリスト教との間に、はっきりとした区別をつけることである。 公正な現代人ならば、キリスト教そのものを悪しざまに言うことはないと信ずる。 手に触れる懐疑的な著作をことごとく読破したのち、私は次のような結論に達した。 ナザレのイエスは、彼の名で呼ばれる人々に対してあれほど激しい攻撃が加えられたにもかかわらず、結局、一指も触れられずに残ったのである。 続く 続き もしキリスト教が今私の信じているようなものであるならば、キリスト教はヒマラヤ山そのもののように確固不動である。 キリスト教を攻撃する者は、自分自身を不利におとしいれるのである。 岩に向かって突撃する愚か者はいない。たしかに、ある人々は、これこそキリスト教と想像するところのものに向かって突撃する。 だが、それは実際はキリスト教ではなくて、その上に建てられた上部構造である。 それは信仰のない信者たちが建てたもので、キリストなる岩は、それ自体では時の磨滅や攪乱に抵抗しえないと考えた彼らが、 神殿、大会堂、教会、教義、三十九個信条などという、燃えやすい構造物をその上にかぶせたのである。 (続く 続き この世の一部の愚人どもは、それらが燃えやすいことを知って、それに火をつけ、その燃え上るのを見て喜び岩そのものも炎のうちに消え失せたと考える。 しかし見よ、岩はそこに立つ。 「移り行く世にも変わらで立ちて」。 (以上引用終了) ※狂気に襲われてのち、ニーチェは人々に宛てた手紙に 「ディオニュソスであると同時に十字架にかけられし者」と著名している。 新改訳の列王記に頻発する「イスラエルの歴代の書にしるされているではないか」 この文法のおかしさをなぜ誰も指摘しないのか不思議です 仕事が忙しく、なかなか、書き込みが出来ませんが、すいません。。。 不定期になります。 最近は、富岡幸一郎氏著『使徒的人間ーカール・バルト』を読み、聖書の語るイエスキリストや使徒たちにたいする認識を新たにしたと言うか、むしろ自分の信仰はあながち間違ってはいなかったと、思っています。 僕の牧師は聖書だけで充分、と言い、世俗的な本を読むことに否定的でしたが(とりわけ神学に関するもの)、 カールバルトの神学は本物です。 例えば 『人間の抽象的思考が二重化を生み出し、カルヴァン的な二重の予定説を帰結してしまった。 アウグスティヌスの時点うですでに二重化(神の選びと棄却)という宿命的な分割が語られてしまっている、 それは聖書の証言からの逸脱である。 その後のトマスアクィナス、宗教改革もまた同様にして。 しかし、聖書の福音は決して然り、そして、否、という二重性を語ってはいない』と。 カールバルトはカルヴァン以来の二重予定を刷新していますよね。 いつか、カールバルトの『教会教義学』に取り組まないとダメですね。 ちなみに今は『ロマ書』 に取り組み中。。。 カールバルト『ローマ書』の始まりかた。 《 キリスト・イエスの僕、召されて使徒となり、神の救いの<音信>のために選び分けられたパウロから ―― この<音信>は、神が、その預言者たちにより聖書の中でその子について論じつつ、古くから宣べ伝えさせたものである。 その子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者たちの中からのかれの復活により、力強く神の子と定められた。 ―― この<音信>は、われわれの主イエス・キリストに関するものである。 われわれは、その名の栄光のために、救いの音信において確証されている神の真実にすべての民を服従させるために、 かれによって恵みと使徒の務めとを受けたのであり、あなたがたもまた、 かれらの中にあって、イエス・キリストによって召された者として存在するのである ―― このパウロから、ローマにいる、すべての神に愛され、聖さへと召された者たちへ。 われわれの父なる神および主イエス・キリストからの恵みと平和とが、あなたがたにあるように。 「キリスト・イエスの僕、召されて使徒となったパウロ」。ここで語り始めようとしている。》 ※<音信>は、Botschaft の訳。Bote またはSendbote(使者)によってもたらされた報知の内容。 Heilsbotschaft(救いの音信)と熟語になっている場合が多い。それはギリシア語のエウアンゲリオンの訳である。 「よい」と「音信」が結合している。アンゲリオンは、アンゲロス(使者または天使)によって伝えられたこと、を意味する。 そこからエウアンゲリオンは福音と訳された。この「よい(福)音信」の後半だけが切り離して用いられたとき「音信」と訳したのらしい。 【宗教】新宗教の信者数 最新ランキング(1〜30位) 幸福の科学、創価学会等 [転載禁止]&#169;2ch.net http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1419639059/ ハイデルベルクとウェストミンスターのカテキズム教本を銀座の某キリスト教書店で購入したものの、読破できるかが心配。 “いのちの書”について… 黙示録/ 03章 05節 「わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない」 黙示録/ 13章 08節 地に住む者で、ほふられた小羊の“いのちの書”に、 その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。 黙示録/ 17章 08節 地に住む者のうち、世の初めから“いのちの書”に名をしるされていない者たちは、 この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう。 黙示録/ 20章 12節 これは“いのちの書”であった。死人はそのしわざに応じ、 この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。 黙示録/ 20章 15節 “いのちの書”に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。 黙示録/ 21章 27節 はいれる者は、小羊の“いのちの書”に名をしるされている者だけである。 >>66 から探る“いのちの書”問題について 黙示録から推察する“いのちの書”↓ ・書かれている名は消える場合があるらしい ・世の初めから名が記されている者と、そうでない者がいるらしい ・そうでない者は獣を拝んだり、獣を驚きあやしむらしい ・在世中の業(カルマ)が追記され、それに応じて裁かれるらしい ・最終的に?名無しは神の国に入れず火の池に投げ込まれるらしい ここで重要なのは、 “世の最初から名無しの奴がいる”って事よ。 で、そいつはなぜか知らんが最初からハブられてるから、 終末のきたる時も、例外なく獣を拝むらしい。 それは特定の人間なのか、悪魔のような普段は目に見えない存在なのか、 名無しの正体はいまいち掴めない。 もし特定の人間にもいるとすれば…脅威じゃのう。 日ごろ接する会社の上司、お隣さん、スーパーの店員、 あるいは有名なタレント、医者、政治家まで… 世の初めからハブられた名無しがいるかもしれないってことじゃろ? で、ここで当然、こういった疑問が起こる↓ ・なぜこの名無しは世の初めからハブられたんだ? ・なぜ神は獣を拝むことになる名無しを世の初めに創られたんだ? ・ここで言う、世の初めっていつの段階だ?光あれの前か? ・この名無しは何者だ?何なの? そして神はこの世を創られた時、 世の初めからハブられた名無しの存在をも“善しとした”のか? だとしたらなぜ火の池に投げ込む必要があったのか。。 後で火の池に投げ込むから今はとりあえず善しとした、ってことなのか? つまり神の意図、神のプログラムというのは、 ・はい、世界創りました〜 ・はい、名無しも創りました〜 ・はい、名無しに脱落した奴数名でた〜 ・はい、最後の審判きました〜 ・はい、名無しは神の国に入れません〜 ・はい、名無し火の池投入〜 つまりキリスト教または聖書的な世界観とは、 世の初めからハブられた名無し(元から名無し軍)と、 後から脱落した落ちこぼれの名無し(名無し予備軍)とが、 最終的に火の池に放り込まれて永久にハブられる、 という世界観だったわけじゃな! 元から名無し軍にしてみれば、二重にハブられるわけじゃ。脅威じゃのう。 つまりキリスト教徒にとって人生とは、 名無しにならないように生き抜く、 まさに命懸けのゲームである! そしてキリスト教徒にとって聖書とは、 どうしたら名無しにならずに済むか、 何をすると名無しになるのか、 それが書かれた攻略本と言えよう! 不定期カキコ。 カールバルト『ローマ書』より。 《 キリストの教会は、それ自身において聖なる言葉も業も物事も知らない。知っているのは、欠如態として聖なる者を指し示す言葉と業と物事だけである。 すべての「キリスト教的な」存在が、救いの音信にかかわっているわけではなく、それは人間的な付加物かも知れず、危険な宗教的残滓であり、嘆かわしい誤解かも知れないであろう。 それは要するに、空洞である代わりに内容、凹である代わりに凸、マイナスである代わりにプラス、欠如と希望の表現である代わりに所有と存在の表現であろうとするからである。》続く カールバルト『ローマ書』続き 《キリスト教的な存在が、右に挙げたようなものであろうとするなら、キリスト=教は、キリスト者=教となり、復活の此岸で、自己の中で揺れ動くこの世の現実との平和協約となり、あるいはたかだかそれとの協調的態度にすぎないものとなるであろう。 だとすれば、それは神の力とはもはや何のかかわりもないであろう。いわゆる福音は、この場合には、他の諸世界=宗教、諸世界=観の間の争いの外に立つのでなく、その争いの非常な雑踏の中に立つことになるであろう。 というのは、この世は、自己を誤解しているキリスト教よりははるかに、宗教的欲求を満足させることに精通しており、 神についてのわれわれの知識に関する、特に神と共に生きるわれわれの生活に関する生き生きとした幻想を造り出すことにもよりよく精通しているからである。》続く カールバルト『ローマ書』続き。 《「福音」を恥じるのには、あらゆることが動機となりうるであろう。しかしパウロが言おうとしているのは知られない神の力である。 「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」である〔コリント第一書二・九参照〕。それゆえにかれは福音を恥としないのである。》 イスラム国の過激主義とバルトの主張は親和的です。 「キリスト教的な存在が、右に挙げたようなものであろうとするなら、キリスト=教は、キリスト者=教となり、復活の此岸で、自己の中で揺れ動く<この世の現実との平和協約となり、あるいはたかだかそれとの協調的態度にすぎないものとなるであろう。>」 キリスト者=教という世俗化した不純物をバルトは徹底的に排除する。 世俗化とは、要するに妥協であると。 こんばんは、かな? こんにちは。はじめまして。 イスラム国についての現状分析 ISISに対して様々な経済制裁や武力による攻勢を仕掛け、木端微塵にしたとしても、彼らの目に見えない教条(世界カリフ帝国の樹立というドグマ)は無くならないどころか、 さらに使命感を助長し、世界各地でのテロルは増え、殉教者の名誉は高まる一方でしょう。 宗教とはそもそも不可避的に排外主義であって、多元主義は妥協です。そして何度でも言いますがアンチヒューマニズム(反人間中心主義)です。 ですから命よりも尊い価値を目指します(彼岸性)。 此岸に最大限の価値を付す生命至上主義からみれば、 イスラム国の行為は蛮行でしょう。僕はなにも、イスラム国を養護しようというのではありません。 しかしかれらの皮相的な行為のみをみて半ば思考停止してしまっては駄目で、かれらの内在的原理を理解しなければなりません。 かれらのキーワードは政教一致である「カリフ制」です。 それだから、カリフ政体の下でのイスラム経済や法学、というものを遠い過去(ムハンマドの時代) まで遡って考えなければなりません。 かれらの法源は独自のものです(イスラム法=シャリーア=法曹法=学者法)。 我々(西側諸国)の法源は「ローマ法」 です。根源的に価値が異なるのです。 その本質は安定性、正義、合目的性です。 因みに、アジアのそれは儒教的徳治主義です。 窃盗罪に対するハッド刑(手首斬り)は有名ですが、それがかれらの常識なのです。 (派によって温度差はありますが) >>71 > >>60 > > marginal くんは、いけめん marginal くんは、いけめんなので、 保守しようとおもう。 ほっしゆ! 西部邁 「なぜ日本人は腹を切るか。モーリス・パンゲは、腹切りの思想がわかったと言うんですね。 それを僕の言葉で解説すると、これ以上生きるほうを選んでいると、たとえば心ならずも僕が黒鉄さんを裏切るとか、やっちゃいけないとつい1年前に言ったことを自分でやってしまうとか、そういうことが起こり得ます。 つまり生きることには、何かしら裏切りとか、堕落とか、汚辱とか――僕はピューリタンじゃないから、それを毛嫌いしているわけではないんですが――そういう本来拒否すべきものが濃厚に伴いますよね、 生き延びようとすると。それがぎりぎりまでくると、神にも仏にも頼らずに、自分の命を抹殺してしまうことで、汚いと自分の思っていることをしないですむというのです。 うろ覚えなんですけど、そのことをこういう言い方をしていた。形而上学――この場合は宗教ですね――に頼らずに自分の生に伴う虚無感、価値あるものは何もありはしないという虚無感を吹き払うために、 死んでみせることを選び、選んだことを一つの文化に仕立てたのは、世界広しといえども、世界史長しといえども、日本人だけである。 そういう日本礼賛なんですが、これはなるほどなと思いました。」 西部邁氏はヒューマニズムを毛嫌いしていますが、しかしここで言う自裁は、最も人間中心主義的な行為です。 唯一の例外は殉死です。 息抜きに、 ブーバーの『我と汝』第一部ノートを。 【根源語:Grundwort】 ■根源語とは対応語Wort paarであり二重性をもち、存在者によって語られる。 @)<我@―汝> ●<汝>が語られるとき、対応語の<我@>がともに語られる。 ●<我@―汝>は全存在をもってのみ語ることが出来る。 A)<我A―それ> ※<それ>は<彼>や<彼女>と等価 ●<それ>が語られるとき、対応語の<我A>がともに語られる。 ●<我A―それ>は決して、全存在をもって語ることが出来ない。 ■ <我>は二重性をもつ。 <我>はそれ自体では存在しない。 <我@―汝>の<我@>と<我A―それ>の<我A>があるだけ。 人間が<我>を語るときは、この双方のいずれかの<我>(<我@>or<我A>)を考えている。 人間が<我>を語るときは、彼の考える<我>(<我@>or<我A>)がそこに存在する。 人間が<汝>(<それ>)を語るときは、<我@>(<我A>)がそこに存在する。 <我@・A>が存在すること=<我@・A>が語ること=<我@―汝>or<我A―それ>を語ること。 根源語を語る人は言葉の中へと入っていき、その中に生きる。 続き。 ■人間の生の二重の世界 @)「経験(Erfahrung)の世界」=目的語(object)をとる他動詞(Transitive verb)の領域=<それ>の世界に拠って立つ。 ex)何かを意識する、何かを知覚する、何かを表象する、何かを意志する、何かを感じる、何かを思惟する。 ※経験=外的経験+内的経験=明白な経験+神秘な経験 ※経験とはまさに人間の中に生ずることでしかない(彼と世界の間に生ずるのではない)。 ※世界は経験に関与しない。世界は経験されはするが、世界の関知することがらではない。 A)「関係(Beziehung)の世界」=「体験(Erleben)の世界」=「出会い(Begegnung)の世界」=<汝>(objectなき世界)との関係 @)人間―自然の交わる生活/非言語形態 A)人間―人間の交わる生活/言語形態 B)人間―精神的存在※の交わる生活/超言語形態(全存在をもってして、根源語を語る) ※精神的存在=聖なる存在=神。神は、自己を、閃光のごとく啓示している。 ※ひとりのひとに対し、”わたし=我”にとっての<あなた=汝>として、向かい合い、根源語(<我―汝>)をわたしが語るならばそのひとは、もののなかの一つのもの(object)ではなく、"存在者"(=時空から成り立つ世界の網に据えられた一点)でもない。 そのひとは、隣をもたず、つながりを断ち切っているのであり、天を満たしている。すべて他の一切のものは<汝>の光の中で生きる。 メロディーは昔から成り立っているのではない。 詩は単語から成り立っているのではない。 彫刻は線から成り立っているのではない。 祈りは、時間の中になく、祈りの中に時間がある。 マスゴミ・売国奴・医療業界が隠そうとする真実-------------------安楽死------------------------------奴隷に勝手に死なれては困る 安楽死旅行企画が大人気|竹田恒泰チャンネル https://www.youtube.com/watch?v=XmP1TRsAe88 武田邦彦:安楽死と大麻、そして売春・・・オランダに学ぶ https://www.youtube.com/watch?v=nWV8YOY39tw 安楽死党 https://www.youtube.com/watch?v=8nU2UaSlGx0 安心して生きるために---------------------------------------安楽死制度------------------------------最後の保険 不定期。 日本の愛国の精神は、よく、他国の愛国の精神とは異なると言われます。つまり、日本の愛国の精神をナショナリズム(nationalism)一般に解消することはできないと。 ナショナリズムを超克する底力が、わが愛国の精神にはある、と言われます。 ここでいう超克とは、藩体制の異国であった琉球王国の末裔である「沖縄人」や、北海道、北方領土、千島列島、樺太の先住民族である「アイヌ人」も、わが愛国の精神の主体となっているという事態を言います。 だから、偏狭な排外主義を唱え日本の国家統合から沖縄、アイヌを除外しようとする人は、いくら口先で愛国を唱えていても、日本の国体を内側から崩そうとする悲喜劇的役割を演じているということになります。 日本の愛国の精神が、日本民族の枠組みを超える根拠も、日本の神話に求められます。 真に正しい歴史を書く、という目標によって編纂されたものに「日本書紀」があります。 本書の編纂振りは、伝説に意義あるものは敢えて取捨せずに「一書に曰く」としてそのままに残されて、よく大和保合の精神を表現していましょう。 また、日本建国の由来の深さを考へるとき「日本書紀」の国常立神より始めることに満足せず、更にもう一歩深めて、天之御中主神より始め、同時に「むすび」「生産」の論理として建国論理を明らかにしたのが「古事記」です。 聖書の「創世記」に書かれた天地創造の記述は、ユダヤ人の枠を超えて、全世界に及んでいます。同様に『古事記』における天地開闢の記述も、「創世記」の性格をもつと言えます。ここに日本の愛国の精神が、日本民族の枠組みを超える根拠があると言えます。 ところで、 天皇について論ずる場合、少し注意が必要です。 「天皇制」という言葉はコミンテルン(共産主義インターナショナル=国際共産党)によってつくられた単語です。 1932年5月にコミンテルンで「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(通称「32年テーゼ」)が採択されました。 日本語では、昭和7(1932)年7月10日付国際共産党日本支部(日本共産党)中央委員会機関紙『赤旗』特別号に発表されました。 この「32年テーゼ」によって「天皇制」という共産党用語が流行するようになったのです。「天皇制」という単語では、日本の国体を説明することはできないでしょう。 なぜなら、制度は廃止することが可能ですが、国体の根幹である皇統を廃止することはできないからです。 共和主義者、共産主義者が「天皇制廃止」というスローガンを掲げることは可能ですが、それはこの人たちからすれば、皇統が「制度」に見えるからに過ぎません。 だから、国体護持を掲げる右翼陣営が「天皇制擁護」などというスローガンを掲げるようなことはあってはならないと思います。 「天皇制」を「天皇制度」と言い換えても、問題の本質は一緒です。天皇は、廃止することができないので、制度ではありません。 それは、ユダヤ・キリスト教の自己理解において、神が制度でないのと同じです。 日本の左翼・保守陣営が、反日や新米という倒錯に陥っているのはなぜでしょうか。 それは、東西冷戦時代の「親米保守」というステレオタイプから、右翼・保守陣営が抜け出すことができていないからではないでしょうか。。 日本の国体が皇統によって担保されていることは明白です。皇統によって、日本人と日本国家を成り立たせるところの「権威」が保たれています。 どんな政治権力者であっても、「権威」まで独占することはできません。これが日本の国体の根本です。 そのために、日本はヘゲモニーを追求する普遍主義(共産主義、新自由主義、コスモポリタニズム)に陥ることがなく、寛容と多元性を担保する国家としてとどまることができているのではないでしょうか。 それでは、なぜ「親米保守」が、一時期、日本で成立することができたのでしょうか。 まず東西冷戦構造の中で、ソ連を中心とする共産主義陣営による脅威が存在しました。日本で共産革命が起き、日本民主主義人民共和国や日本社会主義共和国が成立するような事態になれば、明らかに皇統が断絶する事態に陥っていたでしょう。 そうなった場合、国名に日本という名称がついても、それは日本国家の抜け殻にすぎません。また、公定ナショナリズムという上からの合理的規定によって日本人も太古からの伝統から切り離された別の民族に変容してしまったでしょう。 当時、日本の国体を護持するためには、いかなる対価を払っても共産革命を阻止する必要があったでしょう。このような「日本国体の死活的利益と、アメリカの反共政策がシンクロした」ので、日本で「親米保守」が成立することになったということができます。 しかし、東西冷戦は終わりました。もはや共産革命の脅威は存在しない。そのような状況で、日本の保守が本来の保守、すなわち「親日保守」に転換するのは、当然のことです。 なぜなら本来、保守とは、自国の伝統を踏まえたところで成立する観念であるのだから。国家の数だけ保守の立場もあります。アメリカには「親米保守」、中国には「親中保守」、ロシアでは「親露保守」しか成立しないはずです。 東西冷戦が終結して二十年近く経とうとする今日なお、日本で「親日保守」の確立について議論しなくてはならないということ自体が実に知的怠惰といわざるをえません。 バルトのポイント しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、「イエス・キリスト〈を〉信じる信仰による神の義」であって、すべて信じる人に与えられるものである。 そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 (ローマ3:21-24) 「イエスの信仰」の属格を、「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」と主格的属格として理解する立場をカールバルトはとります。 キリスト者と非キリスト者との空隙を埋め、両者を架橋し、キリスト者をそのあるがままで非キリスト者に完全に開きました。 このような往還の構成によって、絶対的思想や党派的感情や党派的意識や党派的思想や党派的共同性を超えました。 それに対して、「自然神学」とは、「イエス・キリストにおける神の側の真実」だけでなく、天然自然、人間的自然、人間の自由な自己意識の無限性、 人間の感覚や知識を内容とする経験、感情・理性・実存等の人間的契機の直接性、人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観、 等にも信頼し固執して啓示の主観的現実性を目指す信仰・神学・教会の宣教・キリスト教のことです。 つまり、神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己欲求も、という神と人間・神学と人間学の混淆論・共働論・「神人協力説」のことです。 それは「イエスの信仰」の属格を、「イエス・キリストを信じる(人間の)信仰による神の義」と、目的格的属格として理解する立場のことです。残念ながら、新共同訳も新改訳もこの点に無頓着であると言わざるを得ません。 「神と○○」という接続詞によって示される神以外のものは一切認めない「超自然な」立場は アリストテレス〜トマス・アクィナスの系譜はもちろん、プラトン〜アウグスティヌスの系譜をも相対化します。 【日月神示】予言を紐解くスレ★4【黙示録】 [転載禁止]©2ch.net http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1431270803/ 人類をみんなで協力して一緒に救いましょう 叩きや荒らしは禁止です VIP+なのでぬくもりてぃを大切に 雑談交えつつ気軽に解読しよう 「聖書と信仰」というテーマは、キリスト教について、しかもそれを自らクリスチャンであるという立場と責任において語ろうとするとき、十分に正当なテーマだと思います。 しかし、私がそこで救いを受けて歩んでいる「キリスト教」は、決して「書物の宗教」ではありません。 そうではなくて、神がキリストによって語ってくださった「出来事としての福音」による宗教なのです。 従来、ユダヤ教の律法主義と対比させて、キリストへの、あるいはキリストの福音への信仰を強調することは、特にプロテスタントの特徴であり、常識でありました。 ところが実際には、教会の現場での通俗的な理解では、聖書という書物が律法主義的に読まれ解釈されて、あたかも道徳の教科書、あるいは人間の行為の正邪を判定する(過去の裁判の)判例集ででもあるかのように扱われて来ました。 いったい私たちの信仰にとって、「聖書」とはどういうものなのか ? 少し考えてみたいと思います。 信者でもそうでない人でも、たいてい「聖書」とは、キリストの教えが書かれている・・・ような・・・そんな書物であるかのように、漠然と思っているようです。 その延長で、キリスト以前の書である旧約聖書も、キリストの父である神の教えが書かれている・・・・・、そしてそれらの教えを守ることがキリスト教であると考えられているようです。 信者でもそうでない人でも、実際にはほとんど聖書を読んだことがなくて、ただ聖書の中の有名な話のいくつかを断片的に聞きかじって、「あれは禁じられている、これは罪である」などという戒律をそこから引き出したりしているものです。 2ch で、キリスト教スレでいろいろ発言している人たちの実態は、ほぼこのようなものなのではないでしょうか。 でも中には、少し真面目に聖書を学びたいと考えている人もいるかも知れません。 そのような人が、もし先入観なしに実際に聖書を読んでみると、なんとそれは "歴史の中での神の行為、およびその解釈" の書であることが分かって、びっくりするのです。 まず、自己紹介をしておきます。下記が私の ウェブ・サイト です。 http://www.kuwaei2000.com/ 私は、もう数年で人生を終わるであろう、クリスチャン生活60年を超えた老いぼれ信者です。 昨年暮れから病に倒れ、主が私の労苦を解いて(黙14:13)くださるときが来たと覚悟したのですが、思いがけず命拾いしてしまって生き延びています。 そんなわけで昨年の暮れで、私の「聖書の学び」執筆を一応終了しました。 ●Archives● には、過去15年にわたって執筆した、三年一サイクル五回分の「聖書の学び」が収蔵されています。 そして現在は毎週土曜日に、同じ主日の過去五回の「学び」を読み返して、次の日曜日のミサに参加するのが楽しみになりました。 さて、プロテスタントでは「聖書のみ」を、カトリックでは「聖伝と聖書」を "神の啓示伝達の器" であると主張しています。 第二バチカン公会議の公文書の一つ "神の啓示に関する教義憲章" はそれを、「使徒たちから伝えられたこと」と説明しました(第二章)。 そしてこの表現こそは、啓示伝達の器の定義としては、プロテスタントとカトリックが共に承認することの出来るものなのです。 老クリスチャンも残念なことだが、カトリックの霊性、 プロテスタントとカトリックにある霊性研究が鈍いところだな 人間の思考の中で終わりすぎている。 98のリンク先程に、考察されることがなかったキリスト教。 イエス・キリストの方からすれば、 教団、神学、神学校が鈍化劣化するのも十字架の贖いに織り込み済みていうことなのかもな。 今日考察して思った・・・・。 >>95 老クリさんに質問。 神の正体はいったい何ですか。 神の説明や解釈ではなく、神の具体的な正体を教えてください。 ただし、イエス・キリストは除外します。 三位一体とは言え、神とは異なる存在だからです。 今から80年ほど前の有名な講演で、カール・バルトは次のように述べました。 「教会が啓示の中にその基礎を持っているのは、啓示を聞き、また見た人々の証によってである。」 「われわれに出来るのは、ただ啓示の証に基づいて、啓示を与えられ、受け入れ、承認することだけである。この啓示の証が教会を造り、保ち、・・・・・」 使徒たちによって啓示が伝えられ、その使徒たちの証を通して教会はキリストの福音を信じている、という基本的関係を明確に理解することは、今日すべてのキリスト者にとって喫緊の課題なのです。 ヘブ1:1f 「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」 Iヨハ1:1 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。−−」 >>101 その話にはいくつか疑問があります。 @ 聖書には神の正体を語った個所がまったくありません。 実際に神を見たなら、まず真っ先に神の正体を語るはずではないですか。 聖書にそれがまったく見当たらないのは奇妙です。 A 神の言葉を聞いたという話ならたくさんあります。しかし言葉なら 作り話も可能です。神の声だと主張しても真偽不明です。 B ヨハネ1:1は根拠を欠いてます。なぜなら、ヨハネは神を五感で 体験したと言いながら、神については何も語っていないからです。 命の言とありますが、言葉それ自体は単なる記号です。おいしい料理だと 言われても、実際においしいかどうかは食べないとわからないのです。 C ヨハネ1:5に「神は光」とありますが、神が光のはずがありません。 創世記の冒頭では、神が光を造ったことになってます。 光と言われたら、太陽光や蛍光灯の光しかイメージできません。 D 私たちが本当に知りたいのは神そのもの、神の正体なのですが・・・ 我々が遭遇出来る神は三位一体のうちの神皇産霊尊(神魂命、神産巣日神)や高皇産霊神 しかもその一端に触れることができるのみです。 あ、ヨハネさんは正しいと思います。 確かに光ってましたから。 ああ、伝令神ですね。伝令神を通して我々は神自身を知ることができます。 新約も旧約も聖書は言葉で書かれている。 言葉の最大の欠点はウソを語ることもできるという点にある。 実際、聖書には信じ難いことが多々書かれている。 さらにまた、聖書の内容が他の個所と矛盾していることもある。 聖書に書かれているからといって正しいわけではない。 その真偽をいちいち確かめて読む必要がある。 頭から信じるのでは、イワシの頭を信じる愚劣さと変わらない。 聖書は自らの体験と照らして読むことで楽しめる本だと私は思っています。 自身にソースが何もない中で読んだところで真偽もないわけで はじめから疑いの目で読む本が楽しいわけがありません。 聖書は読む時期を選ぶ本だと私は思います。 いつ聖書を読むのかは各人の自由ですが、 聖書には狡猾なウソが仕込まれているのですね。 それに結局、イエスの終末予想と黙示録のハルマゲドンに到る、 きわめて厭世的な書物です。この世を目指すならわかるけど、 キリスト教はあの世を目指しているのです。 聖書は議論するための本ではなく楽しむための本だと思います。 もし聖書が楽しくないなら、まだ読む時期が来ていないのかもしれません。 読む時期を通り越して、すでに三回は通読してますよ。 聖書の全部を否定しているわけではなく、イワシの頭のように、 丸ごと信じるのはよくないと指摘しているだけです 義務により聖書を読み、もし嫌いになってしまうようなことがあるとしたら それはとても悲しいことです。 聖書は自発的に読まれるものであると私は信じています。 義務で読んだのではなくて、真理を探しながら読んだのですね。 ウソかホントか見分けながら読むのはスリル満点であり、 推理小説を読むようなもんでした。 古事記やコーランも読んだが、聖書の方が断然おもしろかった。 雨があがり晴れてきたので外出オチ。 教会の教導職(司教と司祭、あるいは牧師と呼ばれる人々)の主要な、そして第一の任務は、信者に使徒たちの証しである啓示の内容を説き聞かせることです。 先に挙げた "神の啓示に関する教義憲章" は、このような教える任務について述べた中で、次のように言っています。 「もちろん、この教導職は神のことばの上にあるものではなく、これに奉仕するものであって、伝承されたものだけを教えるのである。」 そして、啓示に関しては、「われわれの主イエス・キリストの栄えある再臨までは、もはやいかなる新しい公的啓示も期待すべきではない」と述べています。 さらに、教会憲章の中でも教導職について、「ただし、彼らは信仰の神的遺産に属するような新たな公の啓示を受けることはない」と、念を押して述べています。 原始教会が旧約聖書を自らの正典として受け入れたと言うとき、それは使徒たちがキリストの福音を宣教することの中で起こったのであって、決してキリストによる啓示とは別の、独立したもう一つの啓示として承認したのではありませんでした。 私のウェブ・サイトの中の ●聖書講義(2015年)● → 13.正典としての聖書 を参照。 http://www.kuwaei2000.com/Study/2015/2015.html 意外に盛り上がってきたなあ・・。 老クリスチャンの悲劇はカトリックの修道院の霊性を放棄し過ぎたところだろう。 老クリスチャンの113の書き込みが的を得ているとしたら。 キリスト教は、ディズニーランド、ユニバーサルスタジオジャパン、日本アニメに食われて 滅びるだろうなあ・・・。 ここで、言葉を整理してみます。 まず「啓示」という言葉によって、教会は「使徒たちが伝えたこと」(神の啓示に関する教義憲章)を定義して来ました。 そしてこれを信者に教える場合には、「キリスト教の教理」「教会の教え」などと呼ぶのが普通でした。 そしてこの同じことを、より厳密に神学の対象として論じる場合には、「教義学(Dogmatics)」という名称を用いて来ました。 これらの意味するところは同一であって、その対象と内容は「イエス・キリストの福音」であります。 ところが、神が御子イエス・キリスト(の受肉と受難、復活、昇天)によって語られた福音は、「神からの福音」であって、従って人間のいかなる説明によってもこれを完全に述べ尽くすことは出来ません。 「キリスト教の教理」というものは、ですから、神学に携わる人々や組織体としての教会による、その時代、その時々の状況によって左右される、不完全な叙述の試みにしか過ぎないのです。 「聖書」とは別に、「正しい教会の教え」というものがあって、それを基準にすれば正しく聖書を理解出来ると思っている人は、単なる人間的企てとしての神学を「神のことば」と取り違えてしまっているのです。 私のウェブ・サイトの中の ●小論集● → ★聖書入門★ を参照。 >>115 老クリさんは神の言葉だとして福音書を絶対視してませんか。 神は何語を話したのですか。神に口があり、舌があり、歯があるのですか。 福音書はイエスの死後、何十年もしてからパウロを始めとする、 多くの人々によって編集され、書かれたものです。 福音書を神の言葉などと語るのは、神を冒涜するように思います。 繰り返して質問ですが、神の正体とはいったい何ですか。 神、神と繰り返すだけでは無意味であり、何のことかわかりません。 神の正体が明らかにならなければ、イエスが神の子かどうかもわかりません。 まずは、神の正体を明らかにしてください。 一神教においては神は唯一絶対のもの。 つまり、他の宗教の言う神は、ヤハウェにとっては悪魔となる。 古代バビロニアの神、バール。 パレスチナの神、ダゴン=デーモン。 ローマの神々=デビル。 「教義学(Dogmatics)」というのは、キリスト教神学の一部門でありますが、それは決して個々の神学者の私的な学問ではありません。 そうではなくて、「教義学(Dogmatics)」は常に "教会の責任において" 企てられる、 "教会のための" 神学であります。 その課題は、教会にゆだねられているキリストの福音の宣教であって、それは教会の奉仕(神と隣人への)の一部、教会の典礼(説教と正餐)の一部であると言うことが出来ます。 ですから、「キリスト教の教理」は、決して人間的な思弁に由来するものではありません。 その叙述の試みには常に、旧約聖書と新約聖書によって語られているキリストの福音の規範的な啓示という始源があるのです。(カトリック教会はこれに聖伝を加える) 原始教会が旧約聖書を自らの正典として受け入れたとき、そこにあったのは、救済史は教会を通して地上で続行する、つまりキリストの受肉からその再臨までの教会の時は、救済史の一部であるという認識です。 それ故に第二世紀の教会が新約聖書の正典を、そこには使徒に由来する文書のみを採用するという配慮をもって創ったとき、それは旧約聖書と合わせて一つの正典となったのであって、決して独自に新しい別の正典が誕生したのではありませんでした。 歴史の教会はこの啓示の中にその存在の基礎を持っています。 旧・新約聖書(と聖伝)を通しての救済史の認識は、啓示によって教会に知らされたものだからです。 この啓示の証人が使徒たちであり(ガラ1:11f)、私たち代々のキリスト者は使徒たちの証しを通して啓示を与えられ、啓示を受け入れるのです。 私たちにとって信仰とは、このような使徒たちが証しする啓示に自発的に同意すること(神の啓示に関する教義憲章5)に他なりません。 ですから「キリスト教の教理」は、この啓示の釈義から由来しなければならず、さらにより良い釈義へと向かう企てであり続けるのです。 このような釈義において大切なことは、それが現在と過去の全教会を貫く聖徒の交わりの中でなされる、救済史における神学的奉仕であるという理解です。 もし誰かが、教会の伝統という遺産から逃れて、全く新しい真空の空間で独創的な教理を創作しようと企てるなら、・・・それは「神学」という名に値しない、ただの「余計なこと」(IIテサ3:11)にしか過ぎません。 >>118-119 老クリさんの信仰は「イワシの頭も信心から」レベルなのでしょう いまさら訂正できないのが惨めなり (TT) 老クリさんがやるべきことは、自分のブログの紹介などではなく、 自分の信仰の見直しではないでしょうか。 はっきり言って、老クリさんにはキリスト教妄想が根深く刷り込まれ、 残念ですが真理にはほど遠い状態です。 再度問います。神とは何か。神の正体は何ですか。 神の正体を知らなければ、神の子イエスの正体も明らかになりません。 根拠ないイエス信仰は、イワシの頭を信心するのと一緒です。 「聖書を本格的に勉強したことのない人は、ヘブライ語やギリシア語を習得しなければ、聖書を本当に理解することは出来ないなどと思ったりします。 でも実際に学習してみると、それは聖書の勉強に必要なたくさんの手段のほんの一つでしかないことが分かります。」 http://www.kuwaei2000.com/Document/Essay/Bible-2.html から引用。 たいへん不思議なことに、日本語訳の聖書を「信用出来ない」と思ってみたり、まるで聖書翻訳者とは自分勝手にその内容を改変したり改作するものだと思い込んでいる人が、この 2ch には多いようです。 その原因の一つは、ほんの少しだけ外国語が読める程度になっただけのニセ学者どもが、さも偉そうに、無責任な講釈をたれて人々を不安がらせているという事実があります。 もう一つ考えられる原因は、我が国には外国語コンプレックスを持っている人が以外とたくさんいて、その劣等感の裏返しとして、「翻訳聖書」なんか信用出来ない、真面目に読む気になれないと・・・・・思い込まされている節が伺えます。 上記のリンクをお読みいただければ分かることなのですが、一般の人が中途半端な語学力(大学や大学院程度のレベル)で原典を読むよりは、真面目に日本語訳の聖書を何冊か比較しながら読む方が、はるかに正しい知識が身につくのです。 同じ聖書でも、その翻訳に信頼を置いて読むのと、翻訳を信頼しないで自己流に解釈するのとでは、そこから読み取れる収穫が大きく違って来ます。 老クリさんが命拾いをしたのは、自分のブログを宣伝するためではなく、 命の有難さを知り、命を語るためではないでしょうか。 聖霊体験をした私が断言します。神の正体は命です。 一コリ12:4−11は、聖霊そのものを語っていないので失格です。 聖霊とは命の滴です。 マタイ12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、 この世でも後の世でも赦されることはない。 ここの個所は、命を蔑ろにする者は赦されないと言ってますね。 学問というものは常に進歩し続けるもので、確かにキリスト教の「教義学」や「聖書解釈学」というものもその例外ではありません。 しかしこの学問領域では、部分的には過去との断絶や決定的転換等が何度もあるのは当然としても、むしろ全体としては伝統の中での進歩、伝統の積み上げを通しての進歩ということのほうが、遙かに大きな要素でありました。 ですから、教会の歴史における過去の「キリスト教の教理」の表明の数々を深く学ぶという作業の上に、現代の「教義学」が成り立つのです。 もちろん教会の過去の神学的遺産には、信頼すべき神学もあれば、あまり信頼出来ない神学もあるのは当然です。 しかし、自然科学におけるように、それらは 100% か 0% か、白か黒かというものではない、ということを理解しなければなりません。 上記の理解に資するものとして、近年の好著の一つを特にお勧めしたいと思います。 http://www.kuwaei2000.com/temp/02/VaticanII.html http://www.kuwaei2000.com/temp/02/Doc-VaticanII.html 聖書を読むということが、クリスチャン一人一人にとってとても大切であるという主張には、誰も反対しません。 それでは本当に、心からそう思っているのかというと、実はどうもあやふやなのです。 なぜかというと、大多数のクリスチャンたちが、実際にはほとんど聖書を読んでいないというのが事実だからです。 その原因として、私は次の三つのことを考えています。 (1) 聖書を読む、その読み方の指導を出来るような指導者や先輩信者が、ほとんどいない。 (2) 聖書を読む目的が何なのかということを、誰も教えてくれない。 (3) 牧師や司祭という礼拝やミサで説教をする教会の指導者たちさえもが、実際には聖書をどのように用い、そこから何を聞き取って語るべきかということについて、ほとんど手探り状態である。 特にプロテスタントの教会では、「毎日一章ずつ読みましょう」とか、もっと短い区切りを作って、「せめて毎日一区切りずつ」などという指導が行われ、信者もそんなオマジナイみたいな読み方で自己満足していることが多いのです。 あなたは小説や雑誌を、そんな仕方で読んだりしますか ? おかしいと思いませんか ? 2CHレベルから見れば、老クリさんはもう過去の人ですよ。 老クリさんが教えるのではなく、老クリさんが学ばなければならない。 言ってることがわかりますか。どうか謙虚になさってください。 イエスには珍子がついている マリアには満子がついている 珍子や満子がついている人間が神のはずないでしょう? イエスもマリアも人間ですよwww 【聖書の読み方 -1-】 何よりも第一にお勧めしたいのが、聖書の素読です。 あるがままの聖書を、そのあるがままに通読するということが、何よりも基本です。 当然分からないことが多くあるでしょうが、聖書には別途「正解集」というものは用意されてはいません。 聖書は聖書によって、理解や解釈の鍵を得ていくというのが、正しい読み方なのです。 ほんの1ページだけ読んで、自己流でいっぱしの批評をしているような人は、とうてい見込みナシです。 日本語聖書の翻訳者たちは、一般の信者(私も含めて)とは比べものにならないほどレベルの高い方々であって、その仕事というのは、ただ外国語(ギリシア語やヘブライ語)を日本語や英語に "変換" するような単純なものではありません。 ですから、しっかり聖書の素読に励んでいると、やがて福音の理解と共に、彼らへの尊敬と信頼も生まれてくるものです。 >>128 暇をもてあまして、相手してくれる人がないので、何とか自分をアッピールしようとしていらっしゃるんですか ? どうぞご自分でも聖書の話を書き込んでください。 「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ ・・・・・ 」(ガラ1:1) 「わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する(ほかの)福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」(ガラ1:8) 【聖書の読み方 -2-】 聖書を読むのはそんなにたいへんなことではなく、日常的に新聞や週刊誌を読んでいるレベルの方であれば、一年もあれば全体を通読できます。 ただ、聖書は本質的に信仰の書でありますから、私たちは信仰と祈りを以てこれを読むことが大切です。 しかし、疲れるのに義務としてがんばって読む、などという読み方は、受験参考書ではないのですから御利益はありません。 読む以上は、好きで興味と意欲があって読むのでなければ、意味がないのです。 そして大切なことは、繰り返し旧・新約聖書全体を通読することです。どうぞ、聖書が好きになってください !! 現行の日本語聖書として主なものは、「新共同訳」と「フランシスコ会訳」の二つですが、同じ原典の底本を使っているので、そんなに大きな訳文の違いはありません。 ただ後者には、聖書各巻の初めに簡単な解説と、本文に豊富な訳注がついているので、これから新しく購入する人にはオススメです。 老クリさんはイエスを主、神として祈るんですよね。 そしたら老クリさんのために祈ります。 老クリさんが祈ってる最中、頭の中に、 アーメンである方の珍子がぽっこり出現しますように もう二度と祈れなくなりますように ^^ 【聖書の読み方 -3-】 聖書は、古代の書物です。しかもその古代というのが、ほぼ一千年余もの永い時代にまたがっているので、歴史的・文化的にもいろいろ異なる時代背景を考慮しないと、その元来の意味を正しく読み取ることが出来ません。 このような古代の諸文書を、現代人である私たちに理解出来るようにしてくれるのが、聖書神学者や聖書翻訳者という専門家の仕事なのです。 教会ではしばしば、信徒たちに聖書を学ばせようとして、いろいろな集まりや行事を工夫したり行ったりします。 するとみんなが、聖書の中のあの言葉この言葉を取り上げて、それぞれ自分の感想を述べたりすることが多いようです。 また「証し」などと称して、信徒が聖書から受けた教訓や感激などを、一同に紹介することも、よく行われます。 でも・・・・・それは、神のことばを聞いた、福音の慰めを受けた、救いの確信を得た、というのとは何か違うのではないかと・・・・・、あなたは思ったことはありませんか。 聖書が自ら語っているメッセージを明確に聞き取るためには、翻訳された聖書のテキストを素直に読んで理解することこそが大切なのであって、自己流の解釈や評価、感想や意見などを皆で話し合っても、ほとんど役に立ちません。 聖書は私たちが読んで理解し、そこから神のことばを聞くための器であって、私たちが浅はかな意見や感想を述べ合って、どの程度現代の感覚や価値判断に合致するかを評価する(採点する)ような書物ではないのです。 四八方の宗派、バラバラの霊媒師達が裏でさんざん言ってるし、ダビンチコードの裏解説書にさえもあったように キリストは自分の言動が悪くてそうなった上に磔などなっていません。 影武者おいて昔のドリフのヒゲダンスのように「はいちゃらバ〜イ」とトンズラしています。 それに阪神の地震はキリストが起こしています。後から表面上は自分の所へ勧誘するためだったのです。 昔からこいつはこのようにズル悪行、大量不正殺人を繰り返してきています。その上常にごまかしてきました。 いつぞやキリストの顔の絵を画家が修復失敗して、原始ボノボみたくなってるのが話題を呼びましたが、 あれがむしろ正しかったのですwwもっと言えばフクロウのクソような悪霊です。 ヤーウエもキリストもミカエルも神仏界では長くひどい罪業がばれてもはや抹消対象となっています。 逆にガブリエルは本当に精進しているし、転生体だったジャンヌダルクはキリストと同じく「なかった」などという でっち上げ本が出てますが誤りで、本当にみなのために犠牲を払って火あぶりにまでなっています。 だから、教会は今後キリスト、マリアやミカエルなどでもなくそれらは排除し、ガブリエル神を祈るべきです。 【聖書を読む目的 -1-】 旧・新約聖書は、神の救済の歴史をその民の信仰の告白、あるいは宣教という形で語っている文書であります。 旧約のイスラエルにとっても新約の教会にとっても、その民の礼拝(あるいは祭)の中心主題はいつも、この救済史の叙述(つまり説教や信仰宣言、あるいは別の表現では記念)でありました。 ですから聖書が、自然科学の教科書ではないという当たり前のことが、先ず明確にされなければなりません。 ヘロデ王が学者たちをベツレヘムへと送り出すと、東方で見た星が彼らに先立って進み、幼子イエスのいる場所の上に止まったと、マタ2:8f に書かれています。 これをあくまで実際に起こった奇跡的現象だと信じても、あるいはそんなことは実際には起こり得ないと主張してみても、どちらに転んでも、聖書から 「神のことば」 を正しく聞き取ることには何の関係もないのです。 教会共同体がキリストの名によって集まるところ(マタ18:20)、すなわち礼拝というものの、その中心主題は神の救いの御業です。 この 「救済史における神の御業への信仰告白的宣教」 を聞き取ることこそが、聖書を読む第一の目的であることを理解しましょう。 ユダヤ人の神話が聖書ですね。 聖書が世界のベストセラーであることに、ユダヤ人は鼻を高くしてますよ。 老クリさんは日本人の神話である「古事記」を読みましたか。 老クリさんはもちろん日本人ですよね。ユダヤ人でも韓国人でもなければ、 まず日本人の神話を読んでください。 意外に「古事記」と旧約聖書は似たような印象を受けます。 【聖書を読む目的 -2-】 ですから私たち信者が聖書を学ぶということは、ある特定の歴史(救済史)を通して神が行われた救いの業を、信仰と愛と感謝をもってたどることに他なりません。 私たちにとって、歴史こそが神の啓示の主要な舞台だからです。 この "歴史を通しての神の救いの業" は、旧約聖書においてはイスラエルにより、新約聖書においては新しいイスラエルである教会による解釈に基づいて、記録されています。 それではこの、それぞれの時代の多くの出来事を理解し解釈して来た基準とは、何だったのでしょうか。 聖書を読むことにおける真に重要な第一の目的は、この解釈の基準を見出すことでなければなりません。 私のウェブ・サイトの中の ●聖書講義(2015年)● → 7.神の選び/(選ばれた)神の民 を参照。 http://www.kuwaei2000.com/Study/2015/2015.html 【聖書を読む目的 -3-】 初期のイスラエルは、彼らの父祖アブラハムに対する神の選びと約束(創12:2f)が、(1) 出エジプトとシナイにおける民族の形成、(2) 嗣業の地の取得、(3) ダビデ王国の成立、という三段階において実現したと理解しました。 そしてこの信仰基準を輪郭として、モーセ五書と申命記が編集され、それ以降の旧約の歴史はすべてこの光の下で解釈されたのです。 原始教会は、この救済史における神の御業がイエス・キリストの出来事によって頂点に達し、現実になったと宣教しました。 今や新しいイスラエルである教会は主なるキリストの支配下にあって、最終的な勝利はその再臨において完成するのです。 聖書の中では "神のことば" という用語が多く使われていますが、それは決して歴史の過去および将来におけるこのような "神の行為" から切り離しては理解出来ないものなのです。 なぜなら、聖書が述べている "神のことば" は、天地創造から終末の神の国到来に至る救済史(神の救いの御業の歴史)とは無関係な、独立した抽象的な真理のようなものではないからです。 【聖書を読む目的 -4-】 礼拝における "説教" とは、このような意味での "神のことば" が確かに語られ、会衆がそれを聞き取るときにだけ、真に説教になります。 「あなたは今朝、どのような神のことばを語ることが出来ましたか ?」 「聞くことが出来ましたか ?」 という質問に、喜びをもって答えることが出来るのでなければ、それは説教ではない ! のです。 当然、牧師や司祭はその説教の務めのために、熱心に聖書を読まなければなりません。 また信者自身も、真剣に聖書を読んで備えているのでなければ、「すぐにサタンが来て、蒔かれた御言葉を奪い去る」(マコ4:15)ということが起こります。 たとえ説教者の能力や信仰が足りない・・・・・実際そう思えることが多いのですが・・・・・場合でさえも、よく準備して礼拝に参加している信者は、その日の朗読聖書を通して自ら "神のことば" を聞くことがあるのです。 いずれにしても、聖書を熱心に読み学ぶという熱意と意欲のないところでは、説教者も信者も共に、「見るには見るが認めず、聞くには聞くが理解できない」(マコ4:12)のです。 もしあなたが日本人なら「古事記」を読もう もしあなたが韓国人なら「檀君神話」を読もう もしあなたがユダヤ人なら「旧約聖書」を読もう ところで、新約聖書には三つの読み方がある @ 初心者 〜 罪のないイエスが処刑されるなんて憐れ過ぎる A パウロ 〜 イエス処刑は、神が計画した、原罪を購う生贄儀式だ! B 唯一神 〜 神殺しを企むキリスト教に深く悲しんでいる 【聖書と説教 -1-】 教会の福音宣教の働きは、基本的にはすべての信者に神から与えられた課題であるという主張には、恐らく反対する人はいないでしょう。 しかし牧師にせよ信徒にせよ、正しく 「福音」「救い」「信仰」 を自分のものにしている (理解している、説明出来る) ということがないと、実際にはそれはただの空論になってしまいます。 歴史的にはすでに一世紀末から二世紀にかけて、教会の位階的構成というものが整えられ始めると、教導職(司教と司祭)と信徒の区別が徐々に強調されるようになります。 クレメンスの牧会書簡は、恐らく当時の司教に関して、正しい教理を学び・伝承し・守護することがその使命であると強調しています。 組織としてのキリスト教会は、最初にカトリック教会として成立しました。歴史を学ぶ者は、この事実の重みを決して無視することは出来ません。 その萌芽は極めて早い頃にあり、やがて成長して三世紀の初頭には、堅固な骨組みとして「出来上がって」いました。 【聖書と説教 -2-】 五世紀から六世紀にかけて、ローマ・カトリック教会がゲルマンの世界を支配するようになった頃に、教導職と信徒の区別の意味が、古代教会におけるのとは全く違ったものに変化するということが起こります。 それは 「教導職とは教養ある者、平信徒とは教養なき者」 という理解です。 カトリック教会の優越した文化がゲルマン民族を支配したのです。 そしてゲルマン民族は宗教の橋を渡ってこの教養の国に入り、蛮族であることをやめて行きました。 修道者を含むこの教導職という階層が、あらゆる学問、技術、教養を独占するという社会システムは、やがてルネッサンスと宗教改革を経て近代に至るまで確実に破壊されて行くのですが、建前としては残ります。 正しく 「福音」「救い」「信仰」 を自分のものにしている (理解している、説明出来る) ということとは関係のない、このような教導職と信徒の区別という建前を、あなたは現代の自分の教会でも見ているのではありませんか。 【聖書と説教 -3-】 一般的に牧師や司祭の 「説教」 というものが、ただの 「よいお話し」 であって、聖書が伝える使徒たちの宣教の継続とは何の関係もないというのが、多くの教会の偽らざる現実であります。 かつて原始教会が、どのように福音を理解し、信じ、宣教したかは、まるでそのままでは現代には通用しない古い時代の話だと、思い込んでいる節があるのです。 聖書は、現代人の知恵で解釈することによって、そこから有用な教訓や教えを引き出すために用いるものだと、多くのクリスチャンが本気で考えています。 つまり聖書は神の言葉であるとか、聖書を通して神の言葉を聞くなどという表現は、ただの宗教用語に過ぎなくなっているのです。 どうしてそんなことになってしまったのでしょう。 私のウェブ・サイト http://www.kuwaei2000.com/ で、その分析をしています。ご参照ください。 ●聖書講義(2015年)● → 2.19世紀の名残/教導職と信徒のキリスト教理解 【聖書と説教 -4-】 一般に人々は、牧師や司祭と呼ばれる人は皆、聖書の専門家であるとか神学者であると思っているものです。 しかし実は皆さん実態をご存じないのであって、ほとんどの司教や司祭も、また牧師たちも、神学者ではない ・・・ 神学者になるということは、そんな片手間で簡単に出来るものではないのです。 しかもその上に、大部分の教会指導者たちは、そのような本格的な神学の成果を神学書によって学び、自分の説教に取り入れる能力にさえ欠けているのが現実です。 冷静に考えれば分かることですが、日本のキリスト教人口は極端に少ないのですから、確率から言っても、そんなに有能な人材が滅多にいないのは当然です。 その意味で、牧師や司祭と一般信者との間に、教養や知識、能力に優劣の差があるなどと考えるのは、全く間違っています。 彼らは、UFO に乗ってどこかから来たのではなくて、現実のこの日本の貧弱な教会が産み出した人々なのですから、せいぜい信者全体の平均レベル、下手をすると平均以下の人物だと考えた方がよいのです。 【聖書と説教 -5-】 ここからは、しばらく私自身の体験に基づいてお話しをしてみます。 先ず、私はこれまで神学を学ぶに当たってはいつも、学界で主流であるような学説に絞って、自分の学びを進めて来ました。 つまり背伸びをして一人前の神学者ぶるのではなくて、あくまでも神学の成果の利用者に徹して来たのです。 すでに神学校の学部時代に、いろいろな神学書を少しずつ読んでいましたが、やがて大学院で学ぶ頃には、自分の能力と将来の説教者としての仕事のことを思って、比較的楽に読めるような中程度のレベルの神学書を買うようになって行きます。 その頃に私は、もう一つの実際的な問題に関心を持つようになって来ました。 それは、将来自分が一つの教会を任されるようになったとき、主日ごとに説教に使う聖書のテキストはどのようにして選んだらよいのかということです。 神学校で学ぶことというのは、実はほんの序の口、いわば入門的なことだけであって、実際に教会に遣わされてからが本当の勝負だからです。 【聖書と説教 -6-】 牧師でも司祭でも、実際に教会を担任するようになると、べらぼうな程に忙しい日々の連続で、まともに書斎で勉強する暇などないような生活が始まります。 それで神学校在学中に、何人かの教授や先輩から、初めの頃は 「連続講解説教」 をするのがよいと助言されました。 つまり一年二年するうちに、少なくとも注解書を一冊勉強することが出来るから、というのです。 また別の教授からは、せめて一年に一冊は神学書を、頑張って学ぶように努力しなさいと励まされました。 つまりそれは本人の努力次第の、実に厳しい世界であって、実際には大部分の牧師や司祭は、神学を学ぶことからは離れてしまうのが現実の姿なのです。 そのようにして、本格的な神学の成果を神学書によって学んで自分の説教に取り入れるなどという能力を持つに至らずに、たいていはその生涯を閉じて行きます。 ●本日の追加書き込み● 2ch での論客たちの正体を見分ける方法 「キリスト」 や 「聖書」 に関する書き込みは、どこの掲示板でもたくさんの論客たちで賑わっています。 しかし、ほとんど 「信仰」 とは関係のない、いわば得手勝手な理屈や主張のキャッチボールが行われているだけです。 一人のキリスト者としての信仰に関心を持つ人、ましてや 「教会の信仰」 というものを自分自身の問題として考える人はいません。 また多くの牧師たちも含めて、聖書の話(説教や解説など)をする人たちのほとんどが、ほとんど自己流の主張や解釈をしているだけで、正しい意味で 「神学的に聖書を釈義する」 ということを知りません。 神学は学問ですが、決して 学問 = 神学 ではありません。 ですから同様に 聖書学 ≠ 聖書神学であり、古代オリエント考古学 ≠ 聖書考古学 であるということが理解出来ていないと、結局 「神学的に聖書を釈義する」 ことから離れてしまうことになります。 【聖書と説教 -7-】 牧師や司祭の無能を非難するのは簡単なことです。 しかし信徒は、それが "無い物ねだり" にしか過ぎないことを理解すべきなのです。 なぜなら彼らは、現在の貧弱なレベルの教会が生み出したのであって、鳶(とんび)が鷹(たか)を生んだりはしないからです。 教会の福音宣教の働きは、基本的にはすべての信者に神から与えられた課題であるということを、もう一度考えましょう。 牧師にせよ信徒にせよ、正しく 「福音」「救い」「信仰」 を自分のものにする (理解し、説明出来る) ということは、神の御前での責任と使命なのですから。 「教導職とは教養ある者、平信徒とは教養なき者」 などという建前に逃避するのは止めましょう。 そうではなくて、信徒たち自身が各自の能力に応じて神学を学び、聖書を学んで、教会を造り上げる 「生きた石」(Iベト2:5)として用いられることこそが、現代の教会の喫緊の課題なのです。 148. 神学とは神話の研究である。 キリスト経神学も、その例外ではない。 聖書は、その神話の記載である。 福音とは神話の一形態である。 救いとは神話の内容である。 信仰とは、その神話を信じることである。 だからして、信仰とは、その奴隷となることになる。 その奴隷状態を歓迎している者とは誰か。 それが神か。否である。 それは詐欺師であることになる。 イエスは麻原なみの詐欺師であることになる。 【聖書と説教 -8-】 私はかなり早い時期から、教会暦とそれによる聖書日課に注目して、いろいろと参考資料を探し出して研究していました。 そして実際に、自分の説教にこの聖書日課表によるテキストを用い始めました。 私が利用したのは、1955年版のドイツ語の聖書の末尾にある日課表で、古くからの伝統的なペリコーペ(日課表)と、新しく作られたペリコーペが、並べて掲載されていました。 教会暦についても、・・・ 当時も現在も同じですが ・・・ 満足出来るような解説書がほとんどなくて、全くの手探り状態であったことを覚えています。 そうこうしているうちに全く偶然に、既に 1957年に翻訳発売されていた A.Nygren の 「神の福音」 という本に出会い、私はそれを入手して読んだのでした。 ニグレンはあの有名な 「アガペーとエロース」 の著者で、スエーデンのルター派の神学者だった人です。 【聖書と説教 -9-】 この 「神の福音」 という小著は、ニグレンがルンド教区の監督となったときにその教区民に宛てた牧会書簡で、その第四章で "説教における福音" という主題を取り上げています。 私が非常に多くの感銘を受けた章なので、その中からいくつかの文章を引用してみたいと思います。 「われわれの神に対する奉仕が本質的には説教という形をとるのは偶然ではありません。 言葉の説教なくして礼拝はあり得ません。」 「礼拝の意義は、神からの使信をもたらすことでありますから、説教の根底に聖句の特定の箇所がなければなりません。」 「説教者は、自分の言葉や自分の思想を提供するのではなく、他のお方の使者として臨まなければなりません。」 「彼の宣べ伝えんとする言は "わたしはかく言う、かく考える"、"これはかくかくの権威者の考えである" ・・・・・ というものであってはなりません。」 「説教がかたく聖書のテキストに基礎をおく場合、宣べ伝えられんとする使信は神の使信であるということを意味しております。」 151. 神の使信か。 それを判別する規準が聖書か。 聖書は過去の事例集である。 人間は神に服従するのか。否である。 自分の外側に神を設定することは誤りであることになる。 なんでか。 神は実体ではないからである。 【聖書と説教 -10-】 ニグレンは、説教の準備としての聖書釈義の重要性を述べた後に、しかし説教は単なるテキストの講解に終わってはならないと警告して、次のように述べるのです。 「かくして説教の基礎となるテキストは、その真の福音的性質、すなわち使信の性質を留めるように取り扱われるべきです。」 「この目的のために貴い助けとなるものは、教会暦の前後関係のうちにあるこれらのテキストの配列であります。」 「事実、聖書から選ばれたテキストを順序をたてて配列している教会暦は、使信としての福音の性質を非常によく証ししております。」 私はそれまでの、自分の手探り状態でのペリコーペ利用のおかげで、古くからルター派の教会が使用して来た教会暦と聖書日課に関するニグレンの説明を、直ちに理解することが出来ました。 このニグレンの著書を読んだ読者の中で、いったいどれだけの人がペリコーペというものの大きな意義を理解したでしょうか。 何年も聖書日課に実際に取り組む経験をして来た人でなければ、それを真に理解することは出来ないだろうと、私は思いました。 【聖書と説教 -11-】 最後に、ニグレンの決定的な言葉 ・・・・・ 「自分が勝手に選んだテキストによって説教する人は、何の苦もなく、毎日曜その好みに従って説教するようになります。」 「教会暦の順序に現れたテキストの選択によって説教する人は −− そして本当にそのテキストによって説教する人は、キリストに関する福音を説教します。」 教会暦にも、それに従って作られた聖書日課にも、十分に価値ある伝統という教会の遺産がある !! ということを、私は理解しました。 「ただ問題となるのは、この価値の最も深い根底が理解されているかどうかということです。」 その通り ! 従来の日本の国の教会では、ほとんど教会暦というものに無知であり、それに関する本格的な神学書というものも存在していませんでした。 【教会の聖暦と聖書日課 -1-】 ニグレンの著書によると、彼の母国スエーデンの教会の礼拝式文には、その冒頭に次のように書かれているというのです。 「教会の聖暦において、教会員はキリストにおける神の贖罪の行為を循環して経験するのである。 このキリスト教暦を作るのに、各時代が貢献して来た。 それは多くの時代の働きによってなされた尊い芸術品である。」 私はまだ "なんとなく" 程度とはいえ、その価値の大きさに気づき始めていた教会暦と聖書日課を、これからも自分の説教テキストとして用い続ける決意を固めたのでした。 こういう作業は、たとえ暗中模索であっても、実際にある程度の年数実行し続けてみると、初めてその価値の一端に触れることが出来るものです。 当時の日本で、教団として教会暦を採用しているルーテル教会で、実際に語られた説教に基づく 「教会暦による説教集」 のようなものが出版されていて、私は藁をもつかむ気持ちで読んでみましたが、参考になりませんでした。 確かに日課表に従った聖書テキストで説教が作られている。 しかしそこには、教会暦の流れというものへの認識も関心も、ほとんど全く見られなかったからです。 聖書について、理解出来ないところがあるなら、 尋ねなさい。答えはあなたの思考に、あなたの感情に、目に見る風景に、聞こえる音に、触れた時の感覚にある。 聖書が語る人と神様の間の決定的な問題、 それは人は罪を犯してしまい、罪のための魂の再生なしには 神様に決して近づくことはできない。 >>157 しかし、何故に神は、人に罪を犯させる自由を与えたのでしょうか。 神を冷静に汚れなく見ると、あまりにも自分勝手である。 天国に入り神の前に立つには十字架の道以外にないんだよ。 これは突き詰めれば原罪ゆえということになる。 自分の十字架を負ってついて来ない者は私(イエスキリスト)にふさわしくない。 私達にはそう信じる自由がある! 原罪について、始まりは全てが「愛」であった。しかし人は知恵の実を食べて、「愛」の相対である「不安」を身につけた。 不安は疑いをもたらした。人の原罪とは、疑ったことだ。 人が疑ったのは、自らが「愛」であることである。 161. それは仮説である。 何で、その仮説を設定する必要があるのか。 それは、その問題を解いて救われるためである。 よってして、その解答とは何か。そこが問題である。 >>158 >>161 神の御業に対して、「なぜだ ?」「そのやり方はおかしい」「神は自分勝手だ」 さらには 「間違っている」 などという発想は、どこかへんだとおもいませんか。 (1) 神さまから返事が返ってくるわけはないでしょう。 (2) あなたは被造物であって、神さまと対等にわたりあえるような別の神ではない。 (3) 人間が勝手な仮説を立てて説明してみても、神さまはあなたの採点によって評価されるような方ではない。 たとえば旧約聖書の1〜11章の物語りは、文学形式としては 「原因譚」 として記述されていますが、これはイスラエルの信仰と神理解の表明であって、「特配員の報告」 のように読んではならないものなのです。 しかし現実に、ファンダメンタルな教派の人々は、本気でそのように信じています。 私とは違う立場です。 【教会の聖暦と聖書日課 -2-】 皆さん経験しておられるように、日本の諸教派の教会でもそれぞれいろんな 「聖書日課表」 があって、日曜学校での説教のテキスト用であったり、信者個人の日々の学びのために使われています。 「礼拝と音楽」 という季刊誌にもこれに類するものが解説付きで掲載されていて、日基教団の一部の教会の礼拝で利用されているようですが、あくまでも一委員会の私案のようなもので、公式なものではありません。 つまりそれらはみな、それぞれの作成を依頼された委員たちによる、いわば思いつきに近い 「聖書日課表」 なのです。 並べられた聖書テキストの選択や配列も、無作為によるシャッフルに近いと言っても、あながち間違っていないようなのです。 スエーデンの教会の礼拝式文で、 「このキリスト教暦を作るのに、各時代が貢献して来た」 と述べているような、歴史的伝統的 「教会暦と聖書日課」 への深い尊敬と理解など、誰も知らないし教えてもくれない !! しかし私が実際に、古くからの教会の伝統的なペリコーペ(日課表)を長期間使用して、暗中模索を通して初めてその一端に触れた教会暦というものの価値は、非常に大きなものでした。 【教会の聖暦と聖書日課 -3-】 日本のカトリック教会で使われている祭壇用のミサ典礼書の中から、 「ローマ・ミサ典礼書の総則と典礼暦年の一般原則」 という文書だけが別冊で刊行されたのは、1980年のことだったと思います。 その中に書かれている 「典礼暦年」 に関するたった10ページ程の解説は、あまりにもあっさりしていて拍子抜けするような、しかし何かほっとするような明確さをもって、基本線を述べていました。 これまで 「教会暦」 と呼んでいた名称が、そこでは 「典礼暦」 となっていました。 つまりそれは、教会の伝統によれば基本的に、礼拝の暦すなわち説教および聖餐に関する暦であることを、私は知ったのでした。 "クリスマスだからクリスマスに関係した説教をする" のではなくて、"主の降誕の説教をするから教会はクリスマスになる" のです。 「聖なる教会は、一年を通して、一定の日に、キリストの救いのわざを想起して、これを祝う。 ・・・・・ 教会は一年を周期としてキリストの神秘全体を展開し、・・・・・ 」(第一章) 2000年(主日B年) 11月19日 年間第33主日 マコ 13:24〜32 v.26 「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」 終末の日は、人の子なるイエス・キリストが天から降って来られる日です。 この世の歴史には必ず終わりがあるのだということを、すべての教会は典礼暦のこの期節に学ぶのです。 多くの人々が終末やキリストの再臨についての聖書のメッセージを否定したり、理解不能な事柄として無視しようとして来た20世紀の教会の中で、典礼暦と主日のための聖書の朗読配分は、終末の日の到来のメッセージを人々に伝える役割を果たし続けて来ました。 第二バチカン公会議後に刷新された新しい典礼暦では、年間の主日の数え方は、王であるキリストの祭日の前の主日が第33主日となるように後ろから数えるので、四旬節から復活節にかけて年間が中断されている間に、毎年その幾つかが省略されることになります。 これは典礼暦の終わり頃の主日でどの年にも終末の日の到来についての聖書のメッセージを聞くという、古くからの教会の伝統が受け継がれているからです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 【教会の聖暦と聖書日課 -4-】 私が経験してきたところでは、一般にプロテスタントの教会で、日曜日(主日とも呼ぶ)というものをどう理解するのかに関しては、非常に主観的な議論しかなされて来なかったように見えます。 なぜ日曜日なのか、旧約聖書の安息日とキリスト教の日曜日の関係は ・・・ などに、はっきりした答えを誰も与えてくれないというのが、実状なのです。 セブンスデー・アドベンチスト教会 という教派では、日曜日ではなくて土曜日に礼拝を守っています。 伝統的なキリスト教にとっては異質ではありますが、だからといって 「それは間違っている」 という、納得がいくような反論を私は聞いたことがありません。 日曜日の守り方についても、通常は午前中に礼拝があって、これへの出席を守ればよいということなのか、それともこの日は聖日なのだから、まる一日を神奉仕に捧げなければいけないのか、教派やまた牧師ごとに説明がバラバラなのです。 何を根拠にして考えたらいいのか、それがはっきりしないから、みんなバラバラな主張をしているというのがプロテスタント教会の実態であると言ってよいでしょう。 四八方の宗派、バラバラの霊媒師達が裏でさんざん言ってるし、ダビンチコードの裏解説書にさえもあったように キリストは自分の言動が悪くてそうなった上に磔などなっていません。 影武者おいて昔のドリフのヒゲダンスのように「はいちゃらバ〜イ」とトンズラしています。 それに阪神の地震はキリストが起こしています。後から表面上は自分の所へ勧誘するためだったのです。 昔からこいつは他、人にひどく苦労、働かせておいて自分のやった手柄にしたりなどと、このようにズル悪行 大量不正殺人を繰り返してきています。その上常にごまかしてきました、親の七光りで。 そしてロリコンでもあり、幼児にいたずらもした説もあります。 いつぞやキリストの顔の絵を画家が修復失敗して、原始ボノボみたくなってるのが話題を呼びましたが、 あれがむしろ正しかったのですwwもっと言えばフクロウのクソような悪霊です。 ヤーウエもキリストもミカエルも神仏界では長くひどい罪業がばれてもはや抹消対象となっています。 逆にガブリエルは本当に精進しているし、転生体だったジャンヌダルクはキリストと同じく「なかった」などという でっち上げ本が出てますが誤りで、本当にみなのために犠牲を払って火あぶりにまでなっています。 だから、教会は今後キリスト、マリアやミカエルなどでもなくそれらは排除し、 それも偽者ではなく(ジュブナイルでもない)本物のガブリエル神を祈るべきです。 さらには、ガブリエルの転生体はもっとも崇め祈るべきです。 キリストが憑依してたやつがいたが、案の定ずるばかりやり他のひどく邪魔をして全てばれて最後はエイズになっています。 そんな奴を祈っていてはいけません。 始まりと終わりの箇所におけるイエスは明らかに人間ではありません。 その他は所々で人間ではなくスピリットとして表現されています。誤解なきよう。 【教会の聖暦と聖書日課 -5-】 このようなプロテスタント教会における "あいまいさ" は、その他にもかなりいろいろな点で指摘出来ます。 礼拝とはいったい何なのか ? 説教とは ? 賛美とは ? 祈りとは ? そして献金とは何なのか ? このような問題は、信者の集まりにせよ、牧師たちの集まりにせよ、そこでみんなで考えれば答えが出てくるという性質のものではありません。 たとえ専門の神学者たちであっても、 「私はこう考える」 「このように考えることが出来る」 と言い得るのみです。 ただそれぞれの教派では、 「このように理解して来た」 「このように行って来た」 と言って、その伝統に従うということは可能です。 いずれにせよ現状では、しばしばあまりにも得手勝手な解釈や主張が行われて、(健全な意味で)「教会を造り上げる」(Iコリ14:4,5,12,26、エフェ4:12)のに役立つよりも、道を誤ることのほうが多いように見受けられます。 そのような迷路から脱出する光を私に与えてくれたのが、カトリック教会の典礼暦と典礼理解でありました。 2015年11月29日(待降節第1主日)からの変更箇所と、ミサ総則 「暫定版」(2004年) ダウンロード http://www.kuwaei2000.com/temp/09/2015sosoku.html 【教会の聖暦と聖書日課 -6-】 「ローマ・ミサ典礼書の総則と典礼暦年の一般原則」 は、キリスト者と教会にとって 【教会の聖暦と聖書日課 -6-】 「ローマ・ミサ典礼書の総則と典礼暦年の一般原則」 は、キリスト者と教会にとって "一年の毎日が典礼日" という理解を、その説明の基礎にしています。 そしてこれを 「主日」「祭日、祝日、記念日」「週日」 の三種類に分けて説明しています。 主日 : ○ 毎週の初めの日は、主の日、または主日と呼ばれるが、その日に教会は、キリストの復活の当日にまでさかのぼる使徒伝承により、過越の神秘を祝う。 このため主日は、根源の祝日としなければならない。 ○ 主日の祭儀は、独特の重要性をもち、祭日と主の祝日だけがこれに優先する。 祭日、祝日、記念日 : ・・・・・ 最大の祭日である復活と降誕の祭儀は、八日間続けて行われる。 この二つの八日間の祭儀は、それぞれの規定に従って行われる。 ・・・・・ 週日 : 主日のあとの一週間の日々は、週日と呼ばれる。 これらすべては、教会の長い歴史を通して受け継がれ育てられてきた慣習や伝統を継承する説明であって、いわゆるバチカン(司教座)が、新しく勝手に決めた、というような性質のものではありません。 【教会の聖暦と聖書日課 -7-】 典礼暦の説明が、一年間を暦の順番に解説するのではなくて、復活祭が先でその後に四旬節が、クリスマスが先でその後に待降節が説明されているのは、重要なことです。 なぜなら典礼暦は、そのような典礼の頂点に向かって、その一年が構成されているからです。 ニグレンの著書で読んだ、「このキリスト教暦を作るのに、各時代が貢献して来た。 それは多くの時代の働きによってなされた尊い芸術品である」 という記述が、そこには息吹いているのです。 たいへん残念なことに現実には、ルーテル教会の牧師たちも、カトリック教会の司祭たちも、ほとんどがこのような典礼暦の意味を知っていない !! のです。 私はこれまで、典礼暦に沿った主日の説教というものを、ミサにおいても、雑誌や機関誌に掲載されたものででも、ほとんど全く聞いたことがありませんでした。 しかし少なくともカトリック教会には、このような 「公式な解説」 というものが存在しているということに、私は限りない主の恵みと導きを覚えて感謝しています。 「主は、現代の教会を、決して見捨ててはおられない !!」 と。 173. 主は、現代の教会を、決して見捨ててはおられない、か。 教会なんてものは、どうでも良いものである。 教会ではなくして、自己個人が救われるか否かの問題である。 宗教は個人の問題である。 教会は社会の問題であり集団の問題であるから。それは宗教問題ではなく、社会の問題であり、人生論の問題である。 【教会の聖暦と聖書日課 -8-】 世間で一般に、たいへん大雑把に復活祭と呼んでいるものを、カトリック教会は 「過越の三日間」 として守ります。 過越の三日間 : ○ キリストは人間に贖いをもたらし、神に完全な栄光を帰するわざを、とりわけその過越の神秘によって成就され、ご自分の死をもってわたしたちの死を打ち砕き、復活をもってわたしたちに命をお与えになった。 ○ このため、主の受難と復活からなる過越の聖なる三日間は、全典礼暦年の頂点として輝きを放っている。 したがって、一週間の中で主日が占めている最高位を、復活の祭日は典礼暦年の中で占めているわけである。 ○ 主の受難と復活とからなる過越の三日間は、主の晩餐の夕べのミサに始まり、その中心を復活徹夜際におき、復活の主日の 「晩の祈り」 で閉じる。 我が国の現代のカトリック教会では、今や 「復活徹夜際」 とは名ばかりで、信者の利便のためにこれを前日の晩に済ませてしまうのが一般的になっているようです。 【教会の聖暦と聖書日課 -9-】 復活節 : ○ 復活の主日から聖霊降臨の主日に至るまでの50日間は、一つの祝日として、また、より適切には 「大いなる主日」 として、歓喜に満ちて祝われる。 「アレルヤ」 がとくに歌われるのは、この季節である。 ○ 復活節の最初の八日間は、「主の復活の八日間」 と呼ばれ、主の祭日のように祝われる。 ○ 復活後40日目には、主の昇天を祝う。 普通の信者だけではなくて、牧師たちや司祭たちの多くも、「復活祭」 と 「復活節」 という呼称の使い方があやふやであるばかりでなく、その祝いの意味を正しく捉えているのかどうか、心細いというのが実感です。 G.Aulen が Christus Victor で解析して結論づけたたように、教会は古くからそれを、「キリストの罪と死と悪魔への勝利」 の祭典として祝って来たのです。 しかし近代人が、「罪と死と悪魔」 という表象を非科学的な、古い時代の低レベルの思考であるとして退けたことの後遺症に、現代の教会は今も影響されて、復活祭の使信であるキリストの 「勝利の福音」 が見えにくくなっています。 【教会の聖暦と聖書日課 -10-】 四旬節 : ○ 四旬節は、復活の祭儀を準備するために設けられている。 四旬節の典礼によって、洗礼志願者はキリスト教入信の諸段階を通して、また、信者はすでに受けた洗礼の記念と償いのわざを通して、過越の神秘の祭儀に備えるのである。 ○ 四旬節は、灰の水曜日に始まり、主の晩餐の夕べのミサの前まで続く。 ○ 四旬節の初めから復活徹夜際まで 「アレルヤ」 は唱えない。 ○ 四旬節の主日は、四旬節第一、第二、第三、第四、第五と呼ぶ。 聖週間の始まる第六の主日は、「受難の主日(枝の主日)」 という。 この、過越の神秘の祭儀、復活の祭儀に備えるということは、決して何かの発表会の本番に向かってリハーサルを繰り返すというような、行事の準備という意味で捉えてはなりません。 そうではなくて、四旬節には四旬節独自の役割があることを理解する必要があります。 それは、旧新約聖書を貫いて語られている救済史の証言を、私たちの救い主キリストの受難と復活・昇天、さらには再臨を頂点とする 「福音」 として聞き、学び、理解するということです。 【教会の聖暦と聖書日課 -11-】 降誕節 : ○ 例年の過越の神秘の祭儀に次いで教会が行ってきた最古の祭儀は、主の降誕の記念と、主の初期の公現の追憶である。 これは、降誕節中に行われる。 ○ 降誕節は、主の降誕の 「前晩の祈り」 に始まり、主の公現後、すなわち、1月6日の直後の主日まで続く。 ○ 主の降誕は固有の八日間をもち、八日間中の主日、またはこの主日がないときには12月30日は、聖家族の祝日。 降誕の八日目に当たる1月1日は、神の母聖マリアの祭日。 この日には、イエスの聖なる名前の命名をも合わせて記念する。 ○ 主の公現は1月6日に祝う。(日本では、1月2日から8日の間に来る主日に移される) ○ 1月6日の直後に来る主日は、主の洗礼の祝日となる。 我が国では、カトリック教会の現場においてさえ、このような降誕節の定義がほとんど理解されておらず、たいてい12月25日あるいはその直後の主日のミサが終わると、信徒たち有志の奉仕によってクリスマスの飾りが片付けられてしまいます。 世間ではさらに早く、12月24日のクリスマスイヴが終わると、クリスマスの飾りをしていた家でさえそれを翌朝には片付けて、門松を飾ります。 12月25日は、売れ残ったクリスマスケーキの大安売りが行われる日なのです。 キリストでなくともキリスト教の信者でさえ一家4人でしたが、ずるインチキ極まりない方法をしてたのを知っています。 例えば、自分達の出世他がそれまでの罪業と徳のなさからうまくいかないのを逆恨みしてキリスト教の中の黒魔術を使い、 うまく言ってると言うよりは普通でしたが、他の親戚をねらいました。 本家はほぼ全員死亡、分家も妻が死亡、夫がおかしくなりました。で、裏からそれだけの悪行をしておいて、表面からは その分家の子供達に「おかしくなった夫親のめんどうみてやったんだから、家にひざまずけ!でかい態度はとらせん!」 という態度言動をし、「金よこせ!」と金銭も多大に奪っていっています。 結局、キリスト教は「ゴッドファーザー」のあのシーンと同じで、教会で「あなたは、何々を誓いますか?」「誓いま〜す」 と表面上やっときゃ、裏でどんな悪行しようがなんでもいい、「神にあったときに罪を告発し、あやまっときゃそれでいい」 というのがひどく横行しています。こうゆう人間が異常に多い。 現実では、今はもうだめだが、まだまともだった頃のヤーウエさえ「それでは遅すぎる!」となげき言っていたことがありました。 キリストはこれらを信者にやらせたまま長く放置してきたのは、自分が人類に悪行ずるインチキを繰り返してきたのを うやむやにしたいからでした。 だから、キリスト教信者はいざとなったら罪を告発してごまかすのではなく、下から目線であやまったら、埋め合わせをよくし 習慣をかえ、改宗せよと言う。 これからだんだんクリスマスだが、直ぐに変えれなきゃイエスが処刑になったことを祝う会としよう。 あるいは、かわりに(イスラムの偽者亜流ジュブナエルではない)本物のガブリエルを祝うとしよう。 初詣は月読神の神社を突き止めてお参りするとしよう、まちがっても成Oなどに行かないようにしよう。 警察は無料です 信教の自由 故郷納税の支払い先地域の自由 好きは 創価、エホバ、モルモン、北海道 【教会の聖暦と聖書日課 -12-】 待降節 : ○ 待降節は二重の特質を持つ。 それはまず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。 ○ 待降節は、11月30日、もしくは、それに近い主日の 「前晩の祈り」 に始まり、主の降誕の 「前晩の祈り」 の前に終了する。 年 間 : ○ 固有の特質を備えた諸節を除く、残る期間を、「年間」 という名で呼びます。 この期間とりわけ主日には、キリストの神秘全体を追憶します。 なく、ただ 以上が、カトリック教会の 「典礼暦年に関する一般原則」 から抜粋した主要点です。 たいへんあっさりした解説であって、いわば最低限の基本線だけを記述しているものなのです。 ですから、この典礼暦を生かすも殺すも、それは事実上、現場の司教と司祭の裁量に任されていることになります。 典礼暦は毎年、待降節第一主日から新しい一年が始まります。 【教会の聖暦と聖書日課 -13-】 第二バチカン公会議で最初に公布された(1963年12月)文書は、典礼憲章でした。 「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉である。」(10) 「母なる教会は、すべての信者が、十全に、意識的かつ行動的に典礼祭儀に参加するよう導かれることを切に望んでいる。」(14) この意図を実際に活かすために、カトリック教会は新しい 「ミサで用いる聖書朗読配分」 を作成して、1969年11月の待降節第一主日から使い始めました。 それは多くの人の協力によって繰り返し検討され、磨き上げられた共同作業の実りであると報告されている見事な聖書日課表であって、その後世界中のルター派や聖公会の教会によっても、部分的な修正がなされただけで採用されるようになりました。 カトリック教会ではこれを正式には 「ミサの朗読配分」 と呼んでいます。 キリスト者にとっては聖書を読み学ぶということは、ミサ典礼(礼拝)に有効に参加するという目的から切り離すことの出来ない行為なのです。 なぜなら、「ミサの祭儀は、全教会にとっても、地方教会にとっても、また信者一人ひとりにとっても、キリスト者の生活全体の中心である」(ミサ総則 1) からです。 信者ではない一般の人が、学問として、教養として、聖書を読んだり研究したりするのとは、その目的が根本的に違うということを ・・・ 善悪の問題としてではなくて ・・・ よく承知しておきましょう。 【教会の聖暦と聖書日課 -14-】 新しい 「主日のミサの朗読配分」で、待降節の福音朗読は次のようになっています。 第一主日 : 時の終わりにおける主の来臨。 第二と第三主日 : 洗礼者ヨハネ。 第四主日 : 主の降誕の直前の準備となった出来事。 教会の古くからの伝統的日課では、以前は待降節第一主日の福音は マタ21:1-9 が永らく使われていました。 誰もが知っているように、これは福音書の物語りの順序から言えば、受難の主日(枝の主日)に属する箇所です。 歴史の教会は福音書のこの箇所で、キリスト者は福音の終末的使信の 「今」 という性格に直面するのだという、ひときわ神学的な理解を主張して来たのです。 神の民は今や、神の国の王であるメシアの到来を、歓呼して迎えるのです。 「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」 「夜は更け、日は近づいた。」(ロマ13:11f) 典礼暦を終始一貫している福音の終末的使信を、新しい朗読配分では福音書テキストの選択に手を加えたとはいえ、いささかも減ずることはありませんでした。 ここ数ヶ月、私が 2ちゃんねる掲示板 に書き込んだいろいろな文章をテーマ別にまとめ直してみました。 軽い読み物として、楽しんでいただければ幸いです。 http://www.kuwaei2000.com/2ch.html 【教会の聖暦と聖書日課 -15-】 待降節第二と第三主日の福音朗読は、洗礼者ヨハネに関連しています。 「預言者イザヤの書にこう書いてある ・・・・・ そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(マコ1:2,4) 預言は成就して、メシアの前に道を備える使者が現れました(マラ3:1、イザ40:3)。 「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 ・・・・・ 斧は既に木の根元に置かれている。」(マタ3:7,9) 来るべき終末の裁きは、「我々の父はアブラハムだ」(マタ1:9)、つまり私は一人前のクリスチャンだというような、ただの肩書きや資格によって免除されたりはしない。 「死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタ11:5f) ここでは、「今おられ、かつておられ、やがて来られる」(黙1:8) キリストの、終末的未来の展望が取り上げられています。 洗礼者ヨハネに関する福音のテキストは、実は来るべきメシアとしてのイエスに対する証言に他なりません。 洗礼者ヨハネは、自分よりも優れた方、彼の後から来られる方を指し示しているのです。 186. 洗礼とは何か。 それは神道の、清め、祓いと同じものである。 それは儀礼である。 それは宗教ではない。それは生活習慣病の一種である。 【教会の聖暦と聖書日課 -16-】 教会の中にある者たちの大部分が、キリストの福音の終末的意義を見失うことは、現代だけでなく過去においても多かったのです。 典礼暦による 「主日のミサの朗読配分 」 は、あたかもそのような風潮に反抗するように、終始一貫して福音の終末的使信によって教会の典礼を支配して来ました。 キリストの神秘の種々の面を取り立てて祝わない週間が、一年に33ないし34週残り、この期間を 「年間」 という名で呼びます。 この年間の最後の主日が 「王であるキリストの祭日」 で、その前の週が第33主日となるように数えるために、聖霊降臨後に来る年間主日が省略される年があります。 その理由は、「年間最後の二つの主日に終末に関する朗読配分を確保するため」 と説明されています。 このように、典礼暦の最後の三主日の朗読配分は、終末と神の国の到来を主題としています。 教会がキリストの福音によって歩んでいるとは、どういうことであるかを思い起こすことは、この期節の恵みなのです。 「主イエス・キリストを身にまといなさい」(ロマ13:14) とは、このような終末的理解に基づく福音の使信なのです。 再び、使徒行伝を読み返してます。 【使徒行伝殺人事件】について考えてみたいと思います。 使徒による第一の殺人…アナニヤ と 使徒による第二の殺人…サッピラ です。 5:11教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた。 これについて、皆さんはどう解釈されておられます? 189. 殺人は世俗的事件である。 それは宗教とは関係がない。 それは世俗倫理の問題である。 それは法律の問題である。 それを宗教とは分離して考察すべきである。 だが混同して考えるバカが多い。 復活節の福音 : ヨハネによる福音書の13章から17章は、イエスの決別の説教になっています。 教会は早い頃から、ここで語っているのがこれから受難しようとしているイエスではなくて、すでに受難して復活したイエスであるということを洞察していました。 そのことは伝統的ペリコーペで、復活節第四・五・六主日および聖霊降臨の主日のミサにおいて朗読される福音書のテキストが、すべてこの範囲の中から選ばれて来たことによって知られます。 カトリック教会の新しい 「主日のミサの朗読配分」でも、それが第五・六主日、およびB・C年の聖霊降臨の主日で踏襲されました。 聖霊降臨祭の位置づけ : 聖霊降臨の主日は、本来は復活節の後祭(締めくくりの祭日)であって、その翌日からは 「年間」 が始まります。 その翌主日を三位一体の祭日として祝うので、かつてはそれ以降の期間を 「三位一体節」 を呼んでいましたが、新しい典礼暦では降誕節後の期間と合わせて 「年間」 としました。 聖霊降臨祭をその重大さの故に、プロテスタントの側には、三位一体祭と合わせて独立の祭にしようとする傾向が現在もあります。 しかしそうすることによって聖霊降臨の祭が、四旬節および復活節との結びつきから切り離されることを、新しい典礼暦は望まなかったようです。 【主の祈り -1-】 主の祈り 天におられるわたしたちの父よ、 み名が聖とされますように。 み国が来ますように。 みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。 わたしたちを誘惑におちいらせず、 悪からお救いください。 副文 ( ・・・・・ わたしたちの希望、 救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。) 国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。 これは、現在日本のカトリック教会のミサで使用されている 「主の祈り」 の概要です。 【主の祈り -2-】 「主の祈り」 は、福音書ではマタイとルカに書かれていますが、ルカの方が簡素で、マタイにあるものの方が教会で使われているものに近い形です。 また、用語上の違いとして目に付くのは、下記の部分です。 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタ6:12) 「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」(ルカ11:4) 教会で祈るときの日本語の主の祈りでは、昔も今も、「負い目」 を使わずに、「罪」 に統一しています。 プロテスタントの教会で一般に使用されている文語の主の祈りでも、またカトリックと聖公会で現在使用されている口語の主の祈りでも、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」 「わたしたちも人をゆるします」 となっています。 プロテスタントの一部の教会では、日本キリスト教協議会(NCC)統一訳の主の祈りが使われていますが、そこではマタイ福音書に合わせて、「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから」 となっています。 聖書は人類の宝とも言いうる貴重な古典であり、現在「新共同訳」「新 世界訳」などが刊行されている。然しながら上述の理由により聖書を完 全に理解するためには、紀元前4世紀頃の歴史の勉強のみならず考古学 の勉強が必須不可欠のものとなる。極めて困難な作業と言わざるを得な い。 聖書を母体としてキリスト教が醸成され西洋文明の精神的な支柱として 定着しているが、宗教は世俗的な国家権力の介入を許す事の出来ない程 、余りにも個人的であり、神聖であり、且つ至純なものであるが故に、 今日では「政教分離の原則」が近代憲法の大原則とされている。 上述の理由については、下記URL「提言11」を参照されたし。 http://homepage1.bb-west.ne.jp/leimb/smaho/ 聖書は、古代の書物です。 しかもその古代というのが、ほぼ一千年余もの永い時代にまたがっているので、歴史的・文化的にもいろいろ異なる時代背景を考慮しないと、その元来の意味を正しく読み取ることが出来ません。 このような古代の諸文書を、現代人である私たちに理解出来るようにしてくれるのが、聖書神学者や聖書翻訳者という専門家の仕事なのです。 日本語聖書の翻訳者たちは、一般の信者(私も含めて)とは比べものにならないほどレベルの高い方々であって、その仕事というのは、ただ外国語(ギリシア語やヘブライ語)を日本語や英語に "変換" するような単純なものではありません。 ですから、しっかり聖書の素読に励んでいると、やがて福音の理解と共に、彼らへの尊敬と信頼も生まれてくるものです。 聖書が自ら語っているメッセージを明確に聞き取るためには、翻訳された聖書のテキストを素直に読んで理解することこそが大切なのであって、自己流の解釈や評価、感想や意見などを皆で話し合っても、ほとんど役に立ちません。 聖書は私たちが読んで理解し、そこから "神のことば" を聞くための器であって、私たちが浅はかな意見や感想を述べ合って、どの程度現代の感覚や価値判断に合致するかを評価する(採点する)ような書物ではないのです。 http://www.kuwaei2000.com/2ch.html 主に罪の赦しを願うのは、免罪符を述べているのですか? ルターは、免罪符を戒めました。 2003年(主日C年) 12月7日 待降節第2主日 フィリ 1:4〜11 教会はキリストの福音を信じて洗礼の秘跡によって救われた人々の群れであって、この福音の希望(ロマ8:24、コロ1:23)の中で共にミサをささげています。 「あなたがたの中で善い業を始められた」(v.6) と述べられている内容をより具体的に説明すれば、次のようになります。 「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(コロ1:21-22) 使徒パウロはフィリピの教会の信徒に向けて、 「キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(v.6) と語りました。 それはより明確な表現に置き換えると次のようになります。 「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(IIコリ4:14) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 【主の祈り -3-】 教会では早くから、主の祈りの最後に、「国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。アーメン。」 を付けて祈っていたようです。 ギリシア語写本の中には、マタイ福音書の主の祈りにこの部分の付いたものが存在しますが、それは恐らく四・五世紀頃に後から挿入されたもので、信頼出来る本来の写本とは考えられていません。 (現行の我が国の聖書では、新改訳聖書だけが、括弧付きでこの部分を訳出しています。) 「国」 とは、言うまでもな 「神の国」 のことです。 「力と栄光」 という言葉は、マコ8:38-9:1, 13:26 などの関連で理解するのが適切でしょう。 このように 「神の国」 は、 【主の祈り -3-】 教会では早くから、主の祈りの最後に、「国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。アーメン。」 を付けて祈っていたようです。 ギリシア語写本の中には、マタイ福音書の主の祈りにこの部分の付いたものが存在しますが、それは恐らく四・五世紀頃に後から挿入されたもので、信頼出来る本来の写本とは考えられていません。 (現行の我が国の聖書では、新改訳聖書だけが、括弧付きでこの部分を訳出しています。) 「国」 とは、言うまでもな 「神の国」 のことです。 「力と栄光」 という言葉は、マコ8:38-9:1, 13:26 などの関連で理解するのが適切でしょう。 このように 「神の国」 は、 "来ますように" という教会の祈りの対象であります。 決して、人間が地上に建設する理想の社会のようなものではありません。 199. 神の国はどこにあるか。 それは精神の問題である。精神国家である。 そこでは神の奴隷が実現することになる。それを喜ぶのは変態心理であることになる。 精神病の問題となる。 【主の祈り -4-】 我が国におけるプロテスタント諸派の多くの教会では、「主の祈り」 の使い方に特段の定めがないようです。 礼拝の中で、説教の前後のどこかで祈る教会が多いようですが、礼拝以外でもいろいろな信者の集まりで、開会や閉会の際に一同で唱えたりするのが普通です。 ある意味で、どのような機会にもそれを禁じる理由はありませんが、未信者や求道者にも − − 意味を説明せずに − − 初めから一緒に唱えさせることによって、一般的に教会全体がこの祈りの本来の意味に無関心になってしまっている傾向が見られます。 歴史的には四・五世紀頃から、 「主の祈り」 はミサにおける交わりの儀(会食)の前に祈られるようになりました。 その動機は、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」 にあって、この会食によって一つになる民が神の国の会食を先取りすることへの願いと理解されたからです。 当時の教父たちによる 「主の祈り」 の解説の大部分は、洗礼志願者と新来者に向けられたものであったという理由がそこにあります。 【主の祈り -5-】 カトリック儀式書 「成人のキリスト教入信式」 では、求道者のための入信の第一段階を、「入門式」 で始めるようになっています。 この 「入門式」 の中で、次のように述べて 「主の祈りの授与」 が行われます。 「この祈りは古代から、神の子どもとされた人々の祈りであって、将来、感謝の祭儀(ミサ)で信者とともに唱えるものである。」 つまり 「主の祈り」 は、人が入信の秘跡である洗礼と堅信によって信者の共同体に受け入れられたとき、初めて本当に意味を持つようになる祈りなのです。 ちなみに、入信の第二段階である 「洗礼志願式」 では、「信条の授与」 が行われます。 このように、「主の祈り」 も 「信条」 も、基本的にはミサ(礼拝)と結びつけて理解するべきものであることが分かります。 決して、他の場所や機会に祈ったり唱えたりしてはいけない、という意味ではありませんが。 【主の祈り -6-】 「地上の典礼において、われわれは天上の典礼を前もって味わってこれに参加している。」(典礼憲章 8) 「わたしたちの救い主は、引き渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、御からだと御血による聖体の犠牲を制定されました。 それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、ご自分の死と復活の記念祭儀を託すためでした。 すなわち、これは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずな、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、未来の栄光の保証がわたしたちに与えられる過越のうたげです。」(カテキズム 1323、典礼憲章 47、ミサ総則 前文 2) ミサの後半部分である感謝の典礼の中で、「主の祈り」 は奉献文(感謝の祈り)と聖体拝領(コムニオ)との間に置かれて、聖体拝領によって先取りされる神の国の会食への招きとなります。(カテキズム 2770) カトリック教会の典礼書では、ここで 「 ・・・・・ わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。 国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。アーメン。」 という副文が加えられています。 「主の祈り」 の終末的性格が、このようなミサの中での配置によっても古くから明確にされていたことを、私たちは再認識しようではありませんか。 ここ数ヶ月、私が 2ちゃんねる掲示板 に書き込んだいろいろな文章をテーマ別にまとめ直してみました。 軽い読み物として、楽しんでいただければ幸いです。 http://www.kuwaei2000.com/2ch.html 2000年(主日C年) 12月17日 待降節第3主日 フィリ 4:4〜7 来たり給うキリストを迎えるという期待の中で福音を聞き、その期待の中で主日のミサをささげて歩んで行くということが、教会の本質的な要素であることを、いささかの割り引きもなしに現代にまで伝えてくれる役割を、典礼暦は果たし続けて来ました。 待降節はその典礼暦の冒頭に置かれている期節なのです。 私たちは新約聖書を生み出した初代教会の信仰と同じ信仰に生きています。 現代の教会は初代教会が受けたのと同じ罪の赦し、同じ救い、同じ約束に与かっています。 20世紀のキリスト教は、福音や信仰や救いに 「多様性」 を認めるという方向の妥協によって、自ら崩壊の道を歩んで来ました。 新約聖書を生み出した初代教会とは別なキリスト教が可能であり、別な福音、別な救いがあるかのような錯覚によって、一般の信者たちは大いに迷わされて来たと言わねばなりません。 しかし1世紀も5世紀も16世紀も、そして21世紀も、キリストの祭壇は一つ、ミサは一つ、キリストの救いも一つなのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2003年(主日C年) 12月14日 待降節第3主日 フィリ 4:4〜7 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(v.4) キリスト者の喜び、信仰の喜びは、終末の主から来ます。 世の人は多くのことで思い煩い、多くの日常の事柄で苦労して生きています。 しかし信仰のため、教会のために悲しんで来た代々のキリスト者たちは、終末の主によって慰められるのです。 その日には再臨のキリストは 「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙21:4) のです。 「主はすぐ近くにおられます」(v.5) とは、ここではその来臨の日が近いという意味で語られているのであって、救済史の完成の日への期待を表明しています。 使徒パウロがこの手紙で 「思い煩うのはやめなさい」(v.6) と書いたとき、恐らくその心の中には マタ6:25以下の主の言葉 「思い悩むな」 があったことでしょう。 そして、その主の教えは 「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい」 で結ばれていました。 地上の労苦と困難の中を歩むキリスト者の心の平和とは、神の国で実現する平和の先取りなのです。 「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(vv.6-7) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2012年(主日C年) 12月16日 待降節第3主日 ゼファ 3:14〜17 「イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。」(v.15) 2012年(主日C年) 12月16日 待降節第3主日 ゼファ 3:14〜17 「イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。」(v.15) "災いを恐れることはない" とは、決して終末の裁きが "無期延期になった" ということではありません。 そうではなくて、「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ4:25)キリストが、今や 「王の王、主の主」(黙17:14, 19:16)になられたということなのです。 キリストが死に勝利されたということが、私たち人間が肉体の死を回避出来るようになったことを意味しないように、私たちが終末の裁きを素通りして逃れることが出来るかのように、救いを考えるのは間違っています(マタ12:36-37、Iペト4:5)。 そうではなくて、「そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き、おののきつつも心は晴れやかになる」(イザ60:5)ということが起こるのです。 「しかし、わたしたちの本国は天にあり、そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わた したちは待っています。」(フィリ3:20) 「アーメン、主イエスよ、来てください。」(黙22:20) ハレルヤ。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>209 >「しかし、わたしたちの本国は天にあり、そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わた > したちは待っています。」(フィリ3:20) この聖句はキリスト教が不偏の真理であり、かつ世界平和をめざしている ことを表すものとして最も価値あるものと思います。あの時代にこれだけ進んだ考えを持たせ 行動させたとは、驚きです。 >>211 パスカルはパンセに「哲学することは哲学をバカにすることである」 と書いている。世の中には考えても答えの出ないものがあるという ことを認識している者が真の哲学の学徒であるということ。 210. どこが真理なのか。 どこが世界平和なのか。 バカ丸出しであある。 あちらこちらの宗派、会社の違う霊媒師、占い師にあたっていたら共通した結果が出てきたので伝えます。 みなさんが従来から信じ込まされてきた不動明王(シヴァ)、釈迦、(マハーカッシャパ、アーナンダ)キリスト、ジュブナイル(ガブリエルの亜流)、ヤーウェ、 ヴィシュヌ、スサノオノ、アマテラス、それについてた(ふりをしていた)ヤタガラス(実はゾロアスター教とも)、孔子、ヘルメス 不動の片割れ御霊のイルミナティー(フリーメーソン)などらは拝んではいけません。 他それらにつらなった弁才天、吉祥天(ラクシュミ)、大黒天、帝釈天、毘沙門天、孔雀明王、千手観音、準低観音、弥勒菩薩 西洋の代表的な4天使の内の3天使ミカエル、ラファエル、ウリエル、他ではマリア、ハトフル、オーディーン、空海、ゼウス 日蓮ももはやダメです。 よってこの述べた連中を中心に拝んでる霊媒師、占い師またはこれらの連中とも八方美人 やってる霊媒師、占い師について行ってはいけないし、占いやってもいけません。これからは、ろくなことになりません! 宿坊施設もコースで「はい、ここで不動明王真言唱えて」あるいは「釈迦真言唱えて」とやらせてるところには、やめさせるように要求することです。 この場合においては八方美人は厳禁です。なぜならやるうちに術中にはまり何がどうだか、わからなくなって しまうからです。 これらによってアカシックレコードや閻魔の鏡などもずいぶん得て勝手ウソ800が落書きされていましたが 現在は修復されてきています。 だから、「セイントお兄さん」なども作者自身が騙されたままインスピレーションを受け漫画を書きさらに 一般読者を惑わせてるようですが、さっさとやめるか書き直さなければいけません。 逆に、西洋(シリウス)ならアポロン神、ガブリエル大天使(神)(*亜流のジュブナイルではない)、アルテミス神、 アフロディーテ女神、ダナ神、女神アバンダンティア、エロヒム(ヤーウエが言ってるこいつと一緒にやってた部下達の偽エロヒムではない) 東洋なら(プレテリウス)なら如意輪観音、降三世明王、月読神などの神仏のグループは今後も 拝んでよいそうです。 ただこれらの神仏の方々でさえも、やっつける相手が先ほど述べた連中なので様々苦戦、惑わされることも時には あり得ます。また偽者を遣わしてくることもあります。 それで、後者の述べてるこの西洋、東洋の方々は出身宗派は違えど同じ1つのグループなので現在この神仏は 正常なのか我々からも周りから見てもらい具合が何ら悪かったら治っていただき拝んで行くようにしてかなければ ならないとの事です。 最近はアマテラスやアマテラスの所の特に“ヤタガラス”や“天狗”のあるいは別の“孔子やその残党”(孔子は相手にはごちゃごちゃおしつけるくせに 自分は不動と組んで何度も裏切り泥棒などをやってるようなゴミでした) の悪行言動をきっかけにして釈迦のもと10代弟子の一人マハーカッシャパなどと組み そこへ不動、キリスト、ユダヤ教、釈迦、フリーメーソンらやそれらの残党が便乗して悪事を数々やってることが多い! こいつらがイスラム教にまで隠れ潜んで悪さをやってる事もあります。 それをどかそう潰そうとすると様々な仕掛けで邪魔してくることもあるので 上のただしい神仏グループに頼むなりなんなりして注意してかかることでしょう。 とことん入れ替え弁償にして抹消しきらなければいけません。 だから唱えてはいけません!となえるとひどい目にヤタガラスなどからあうどころか正しい神からも一緒に罰を受けます。 それにかしずかいてる霊媒師などもついていってはいけません。 うまくいかないことなどがあってこいつらをつい唱えたくなったら、騙されずそこを変わりに降三世明王や大元帥明王などを唱えて 「ヤタガラスらはよくも何万年と我々を騙す他しやがったなっ!!取られたものは取り返し、植えつけられたものは植えつけ返すっ!!」 という入れ替え弁償を強く念じて、さらに「ヤタガラスらは毒殺でも何でもされて全次元から完全抹消されよっ!!」と念じ唱えてください。 降三世明王の真言ーノウマク シッチリアジビギャナン サラバタタギャタナン アンビラジビラジマカシャギャラバジリ サタサタサラテーサラテー タライタライ ビダマニサンバンジャニ タラマチ シッタギリヤタランソワカ オンソンバニソンバウンバザラウンパッタ 大元帥明王の真言ータリツ タボリツ パラボリツ シャヤンメイ シャヤンメイ タララサンタン ラエンビソワカ 日本基督教団の信濃町教会にいた 目時英子とか荒井英子とかいう東北の朝鮮人部落出身の山出し女牧師 こんな下賤で品性陋劣なゲス老婆が、牧師だなどと厚顔無恥に名のっている 教会へなど断じて行ってはいけません。 根性がねじ歪み、ひねくれ果てた貧賎な田舎者の分際で、身の程知らずの無礼千万な 大口を叩き、おのれより遙かに優れた人々を平気で侮辱して恥じないクズ、下の下。 そんな蛆虫にも劣る存在の此の老女に「牧師」を騙らせておくが如き下等な集会は、ゆめゆめ避ける可きでしょう! かかるゲスな牧師がいるから、我が国ではキリスト教徒は決して増えないのです。 2000年(主日C年) 12月24日 待降節第4主日 ルカ 1:39〜45 神の子イエス・キリストが人間の姿でこの世に誕生される(受肉)ために、父なる神はマリアという一人の少女をお用いになりました。 それでこのマリアは、後に教会で "神の母" という特別な呼び名で人々に愛されあがめられるようになりました。 教会は、その希望である再臨のキリストが、かつてこのようにしてこの世に受肉されて十字架への道を歩まれた神の子イエス・キリストその方であることを、典礼暦のこの期節にミサを通して思い起こします。 第二バチカン公会議後の新しい3年周期の聖書朗読配分が、待降節第4主日の福音書として受胎告知あるいはマリアのエリサベト訪問の箇所を用いるようにしたことは、典礼暦における待降節と降誕節との結 びつきの意味をより明確にしたと思います。 21世紀に入って行くこれからの教会は、これまでの美しくて童話的な、単に過去の伝説を祝うだけのクリスマスではなくて、再臨や神の国の期待と結びついた受肉の出来事への大いなる賛美のクリスマスを作り上げて行きたいものです。 この期節のミサを通して私たちは、"受肉と苦難を経て復活された主イエス・キリストの栄光に、将来与かることが出来るように"(本日の各年共通用集会祈願)、と祈るのです。 221. 神の子イエスはなんで人間として来たのか。 達磨はなんで中国に来たのか。 それは神の、仏の真理を伝えるためであるか。 否である。なんでか。 人間のやることは真理ではない。 2000年(主日C年) 12月24日 待降節第4主日 ヘブ 10:5〜10 「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。」(v.10) 私たちのミサの中の感謝の典礼は、イエス・キリストの十字架のいけにえの秘跡的再現であると教えられています。 すべて洗礼の秘跡を受けた信者は、この奉献に一つに結ばれて自らを捧げ(献金はその象徴でもあります)、司祭の手を通して御聖体を拝領します。 実に神の子イエス・キリストは、すべての人の救いのために御自身を 「ただ一度」(v.10) 「唯一のいけにえ」(10:12) として献げるために、この世に受肉されたのでした。 すべて洗礼の秘跡を受けた信者は、この十字架のいけにえによって聖なる者とされています。 主日のミサで行われる奉献はこのいけにえの再現であって、私たち 2000年(主日C年) 12月24日 待降節第4主日 ヘブ 10:5〜10 「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。」(v.10) 私たちのミサの中の感謝の典礼は、イエス・キリストの十字架のいけにえの秘跡的再現であると教えられています。 すべて洗礼の秘跡を受けた信者は、この奉献に一つに結ばれて自らを捧げ(献金はその象徴でもあります)、司祭の手を通して御聖体を拝領します。 実に神の子イエス・キリストは、すべての人の救いのために御自身を 「ただ一度」(v.10) 「唯一のいけにえ」(10:12) として献げるために、この世に受肉されたのでした。 すべて洗礼の秘跡を受けた信者は、この十字架のいけにえによって聖なる者とされています。 主日のミサで行われる奉献はこのいけにえの再現であって、私たち "聖なる者とされた会衆" はこれに与かる権利と義務を持っているのです(ミサ典礼書の総則 3)。 2003年(主日C年) 12月21日 待降節第4主日 ヘブ 10:5〜10 「第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。」(vv.9-10) 私たちの救い主イエス・キリストが、時満ちて 「御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために」(9:26) 人となって誕生された出来事を、教会は今年も記念します。 待降節第4主日の朗読配分は、この過去のただ一度起こった歴史上の出来事に私たちの目を向けさせます。 主イエス・キリストの死と復活が歴史上の出来事であるように、神の子が人となって誕生されたことも歴史の中の出来事であります。 実に、私たちキリスト者の救いは、神の救済史を通して実現する 2003年(主日C年) 12月21日 待降節第4主日 ヘブ 10:5〜10 「第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。」(vv.9-10) 私たちの救い主イエス・キリストが、時満ちて 「御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために」(9:26) 人となって誕生された出来事を、教会は今年も記念します。 待降節第4主日の朗読配分は、この過去のただ一度起こった歴史上の出来事に私たちの目を向けさせます。 主イエス・キリストの死と復活が歴史上の出来事であるように、神の子が人となって誕生されたことも歴史の中の出来事であります。 実に、私たちキリスト者の救いは、神の救済史を通して実現する "秘められた計画(ロマ16:25)" に関わるものでありますから、 キリストの第一の来臨を追憶する待降節は、終末におけるキリストの第二の来臨への待望と固く結びついています(典礼暦年と典礼暦に関する一般原則39)。 教会が忍耐して待ち望んでいる(ロマ8:25) 「生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イ エス」(IIテモ 4:1) は、「御自身の血によって、ただ一度(天の)聖所に入って(私たちのために)永遠の贖いを成し遂げられた」(9:12) 救い主であります。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2003年(主日C年) 12月21日 待降節第4主日 ミカ 5:1〜4a 預言者ミカはイザヤと同時代の人でありますが、その主張する立場は非常に対照的でありました。 イザヤがエルサレム神殿とそこに臨在されるヤーウェに固く信頼することを語ったのに対して、地方の小村出身のミカはエルサレム神殿の祭儀からの決別を主張しました。 出エジプト以来の砂漠の神ヤーウェの正義と慈しみへの信仰を語ったのです。 政治史における狂乱怒濤の時代であったアハズ、ヒゼキヤの治世、北王国の滅亡と迫り来るエルサレムの危機のただ中で、ミカは将来のメシア出現の地はベツレヘムであると預言しました。 主日A年の朗読配分にはイザヤ書が、主日C年の朗読配分にはこのミカ書のテキストが選ばれていて、そこに共通していることは、見解の相違を超えてただ一つ、救済史を導かれるイスラエルの神ヤーウェへのひたすらな期待であります。 主日B年には サム下7章が朗読されますが、これと共通しているのはダビデの子孫からのメシア出現の期待です。 私たちの理解をはるかに超えた神の救済史のスケールの大きさに、圧倒される思いがするではありませんか。 「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」(ロマ1:3-4) 「 2003年(主日C年) 12月21日 待降節第4主日 ミカ 5:1〜4a 預言者ミカはイザヤと同時代の人でありますが、その主張する立場は非常に対照的でありました。 イザヤがエルサレム神殿とそこに臨在されるヤーウェに固く信頼することを語ったのに対して、地方の小村出身のミカはエルサレム神殿の祭儀からの決別を主張しました。 出エジプト以来の砂漠の神ヤーウェの正義と慈しみへの信仰を語ったのです。 政治史における狂乱怒濤の時代であったアハズ、ヒゼキヤの治世、北王国の滅亡と迫り来るエルサレムの危機のただ中で、ミカは将来のメシア出現の地はベツレヘムであると預言しました。 主日A年の朗読配分にはイザヤ書が、主日C年の朗読配分にはこのミカ書のテキストが選ばれていて、そこに共通していることは、見解の相違を超えてただ一つ、救済史を導かれるイスラエルの神ヤーウェへのひたすらな期待であります。 主日B年には サム下7章が朗読されますが、これと共通しているのはダビデの子孫からのメシア出現の期待です。 私たちの理解をはるかに超えた神の救済史のスケールの大きさに、圧倒される思いがするではありませんか。 「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」(ロマ1:3-4) 「"然り、わたしはすぐに来る。" アーメン、主イエスよ、来てください。」(黙22:20) アーメン、 ハレルヤ。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2006年(主日C年) 12月24日 待降節第4主日 ルカ 1:39〜45 「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(vv.44-45) 私たちの教会は、キリストの血によって贖われ、罪を赦された共同体であって、 「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(エフェ4:15)。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じる教会は、なんと幸いでしょう。 それは、神の力によって、世界において可見的に成長する(教会憲章 3)のであり、十字架上に眠るキリストの脇腹から(典礼憲章 5)、脇腹から流れ出た血と水によって(教会憲章 3)生まれたのです。 教会は、キリストの第二の来臨を待望しています。 キリストは 「聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるために」(エフェ5:27)来られます。 教会は神の国の完成を渇望し、栄光のうちに自分の王と結ばれることを全力をもって望み求めているのです(教会憲章5)。 キリストは、間もなく誕生する方としてマリアの胎内におられました。 そのように、「二度目には、罪を負うためではなくて、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(ヘブ9:28)。 私たちキリスト者は、この 「公に言い表した希望」(ヘブ10:23)を、主の降誕直前の主日に再確認するようにと招かれています。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2009年(主日C年) 12月20日 待降節第4主日 ミカ 5:1〜4a ヘブ 10:5〜10 ルカ 1:39〜45 「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。」(v.10) 教会ではクリスマスと新年を祝うと、信者個人にせよ教会にせよ、新しい年の抱負や課題を考えようとします。 今の時代に対して、あるいは我が国の政治や社会に対して、教会は何をしなければならないのかというようなことが問われるのです。 しかし現代のキリスト者の最大の弱点は、キリストの御業の決定的な一回性に対する信仰が曖昧になっていることです。 信仰生活あるいは宗教活動と呼ばれるものが、キリスト者個人としての私的なものであれ、あるいは教会としての公的なものであれ、その基礎がキリストの "ただ一度" 成し遂げられた決定的な贖いの御業の上に置かれていなければ、 一切は損失である(フィリ3:7-8)という認識が、見失われているのです。 「ただ一度」(7:27, 9:12, 10:10)とは、キリストの成し遂げられた贖いの御業が、すべての人間およびすべての時代の救いにとって、決定的に "一回的"、それ故 "一回限り" ということです。 ミサの中で私たちに出会ってくださるイエスは、神の右の座に着いておられる天上のキリストです。 この方はかつて十字架につけられ、死者の中から復活された方であり、やがて再び来られるのです。 そのような方として、キリストはその成し遂げられた罪の赦しを現在提供し、救われた人々が受け継ぐ御国を保証してくださいます。 「なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。」(10:14) 主の降誕の夜半のミサは、そのような "聖なる者とされた人たち" にとっての "聖夜のミサ" なのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2000年(主日C年) 12月25日 主の降誕 ヨハ 1:1〜18 私たちの救い主イエス・キリストは、"父の独り子である神"(v.14)です。 この方が肉となって、私たち人間の世界に宿られました。 私たちと同じ人間の姿になって降り、私たちの罪を取り去るために十字架への道を歩まれました。 主の降誕を祝い、今年もこの出来事が私たちすべての人間の上にもたらした大いなる課題を思いましょう。 父なる神はこの独り子イエス・キリストの、地上の生涯と十字架上での死と死人の中からの復活というすべての出来事によって、この世に御自身を示されました。 "あなたは救い主イエス・キリストを受け入れ、信じますか ? " という問いかけへの応答という課題が、それ以来今日に至るまでこの世のすべての人々に対して与えられて来ています。 「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(v.12) 洗礼の秘跡を受けてミサをささげているすべてのキリスト者も、この大いなる課題に改めて応答することを求められています。 人間を照らす光である命が、救い主イエス・キリストの内にある(vv.4-5)ことを理解しましょう。 「いまだかつて、神を見た者はいない。」(v.18) しかし洗礼の秘跡によって神の子となった私たちは、父の独り子である救い主イエス・キリストを理解することが出来るのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2000年(主日C年) 12月25日 主の降誕 イザ 52:7〜10 ヘブ 1:1〜6 ヨハ 1:1〜18 私たち教会は今年も主の降誕を祝っています。 それが赤ん坊のイエスの誕生を連想するだけではなくて、私たちをその死に与からせてくださった十字架のキリスト、更にその復活にも与からせてくださる(ロマ6:4)再臨のキリストを思うときでありますように。 世俗の人々であれキリスト者であれ、日本中の人々が賑やかに主の降誕を祝い終わると、もうその赤ん坊のイエスがその後どうなって行ったかには関心を持つことなく、 続くお正月の祝いの中へとクリスマスの記憶が飲み込まれて消え去って行く ・・・・・ というパターンが、我が国では完全に定着しています。 しかし私たち教会はそうであってはならないのです。 降誕節中に次々と私たちが迎える祝日祭日のミサの重要性を、21世紀の教会は再認識すべきです。 聖家族の祝日(主日)、神の母聖マリアの祭日、主の公現の祭日(主日)、主の洗礼の祝日(主日)は、それぞれ固有のメッセージをもって私たちの降誕節を今年も豊かなものにしてくれるに違いありません。 天に栄光 ! 地に平和 ! ハレルヤ ! ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2009年(主日C年) 12月25日 主の降誕/日中のミサ ヨハ 1:1〜18 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(v.14) クリスマスは御子キリストの降誕を祝う教会の祭りですが、それはただの昔話のための記念日というようなものではありません。 降誕の物語りを 2009年(主日C年) 12月25日 主の降誕/日中のミサ ヨハ 1:1〜18 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(v.14) クリスマスは御子キリストの降誕を祝う教会の祭りですが、それはただの昔話のための記念日というようなものではありません。 降誕の物語りを "福音として" 聞き、信じて受け入れた人にとっては、「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(エフェ1:7)という、現在の救いの根拠であります。 確かに 「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」(コロ1:13) ですから、「初めに言があった」(v.1)という、この "初めに"(エン アルケー)は、自然科学における時間の初めを意味しているのではなくて、私たちが神の御業を理解する出発点を指しています。 それは、マコ1:1の "初め" にも、創1:1の "初めに"(ベレーシース)にも当てはまることです。 私たちキリスト者にとって父・子・聖霊なる神は、先ず人間の歴史というものがあって、その歴史に "ときどき" 介入するだけの神ではないということです。 御子の受肉は、私たちキリスト者と教会にとっての、現在の救いと将来の神の国の約束を理解する、唯一の出発点なのです。 「万物は言によって成った。 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(v.3)とは、そういう意味です。 「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の(国の)栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ロマ5:2) クリスマスの福音は、人間の悲惨や困窮という緊急事態に際して、"ときどき" 恵み深い助けを提供する "優しいイエスさま" の話、などではないのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2009年(主日C年) 12月25日 主の降誕/日中のミサ ヘブ 1:1〜6 「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(v.2) 私たちが福音を聞いている 2009年(主日C年) 12月25日 主の降誕/日中のミサ ヘブ 1:1〜6 「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(v.2) 私たちが福音を聞いている "今" という時は、この "終わりの時代" の "今" なのです。 福音が正しく説教されるとき、そこにはキリストがその救いをもって臨んでくださいます。 この方は "ただ一度" 永遠の贖いを成し遂げて(9:12)、神の右の座に着いておられる救い主です(v.3)。 私たちが御子の降誕を祝うとき、この御子がすでに成し遂げられた罪の赦しを信じ、そしてまた、なお実現せず将来栄光のうちに現れる 「天に蓄えられている希望」(コロ1:5)に向かって目を開くという、"今" の終末的性格が強調されなければなりません。 かつてスエーデンのルーテル教会監督であった A.Nygren はその牧会書簡の中で、「この "今" に対する終末論的強調があまりにも長い間教会の説教において極めて微弱でありました」 と述べました。 それから既に60年ほどになりますが、教会の状況は少しも変わっていないように見えます。 司祭の説教においてだけでなく、信徒各自が自ら聖書を学ぶ場合にも、聖書のテキストはその福音の終末的な使信の "今" という性質を大切にして取り扱われなければなりません。 残念なことに、聖書の解説を装って、今の時代の悲惨や困窮に対して介入してくれる、"この終わりの時代" には何の関係もない "都合の良い神さまの話" を語る人が多いのです。 そのような輩は "キリストの十字架に敵対して歩んでいる" "この世のことしか考えていない"(フィリ3:18-19)人たちです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2003年(主日C年) 12月28日 聖家族 Iヨハ 3:1-2,21-24 聖家族の祝日の集会祈願は、「恵み豊かな父よ、あなたは、聖家族を模範として与えてくださいました」 という言葉で始まっています。 恐らくこの 「模範」 という表現から、通常は聖家族をキリスト者の家庭の手本として理解することが行われて来たのではないでしょうか。 これに類似する聖書解釈は、他の多くの個所についても従来行われて来ているものです。 しかしこの日の集会祈願は、それに続けて直ちに目を将来の神の国に向け、「あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように」 と祈ります。 聖家族の模範は、将来の神の国の家族を指し示す教会の希望の姿として、この集会祈願では理解されているのです。 「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。 しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。 なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(v.2) 私たちキリスト者が 「神の子」 であるのは、約束の形で言われているのであって、それは復活の日に初めて完成するのです(ロマ8:23参照)。 私たちは人でありますが、その日には 「御子に似た者」 「キリストの兄弟」(ロマ8:29、ヘブ2:11-12参照) となるのです。 教会はキリストの祭壇を囲んでミサをささげている(互いに愛し合う)共同体であり、神の国の家族となるように聖霊がこれを一つに結んでくださいます。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2012年(主日C年) 12月30日 聖家族 Iヨハ 3:1-2,21-24 「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(v.23) 私たちキリスト者にとって、「互いに愛し合う」 という一致と結束は、"キリストの祭壇を囲んでのこと" であります。 初代教会と教父たちの伝承は "キリストが祭壇である" と宣言していると、ピエール・ジュネルは書きました(ミサきのうきょうp.78-79)。 キリストの祭壇を囲んで共にミサをささげている教会は、キリストの福音を共有している共同体なのです。 ミサにおいては、キリスト御自身が御言葉を語り、信じる者に罪の赦しと永遠の命を与えてくださいます。 ところが私たちの経験から言うと、毎主日のミサはそれほど明確には "キリストの福音を共有している" という実感に乏しく、聖書朗読台が "神のことばの食卓の富を豊かに与える" 役割を本当に果たしているか、疑問に感じることの方が多いのです。 しかし、私たちはこの現状を否定したり、それに目をつむる必要はありません。 なぜなら、そのような混沌と闇(創1:2)のただ中でこそ、神の御業は人間のあらゆる不信仰や罪の現実にもかかわらず、「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る」(I コリ15:57)日に向かって、進められているからです(黙6:2, 19:11-16, 22:12-13)。 どんなに不完全であっても、"それでもここに教会がある、それでもここにミサがある" ことは、神の豊かな慈愛と寛容と忍耐(ロマ2:4)によることなのです。 私たちは、"目に見えるものによらず、信仰によって歩む"(IIコリ5:7)ことを学ぼうではありませんか。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2004年(主日C年) 1月1日 神の母聖マリア ガラ 4:4〜7 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」(v.4) 御子の誕生の出来事は、神の救済史の時が満ちて起こりました。 それは歴史の上の現実であって、それに続く教会の時へと進み、やがて完成する約束の神の国への待望の出発点であります。 主イエスのガリラヤにおける宣教は、「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1:15) という呼びかけで始められました。 主の復活の後に誕生した教会への使徒の呼びかけは、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(IIコリ6:2) でありました。 使徒パウロはローマの教会に宛てて書いた手紙の中で、次のように述べています。 「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。 あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。 今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」(ロマ13:11) 私たちの救い主イエスは、一人の女マリアを通して 「肉となって来られ」(I ヨハ4:2) ました。 それは肉の人である私たちを罪の支配から贖い出して、神の子としてくださるためでした。 今や洗礼の秘蹟によって救われたキリスト者は、罪の奴隷ではなくて、神の国の相続人でありますから、神の国の王であるキリストが再臨されるのを、頭を上げて待ち望んでいます。 そのような会衆の中に、使徒たちおよび聖マリアも共にいる ・・・・・ 、それが私たちの教会共同体です。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 1月1日 神の母聖マリア 民 6:22〜27 ガラ 4:4〜7 ルカ 2:16〜21 「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」(ルカ 2:16) イエスの誕生において、神から与えられたしるしを "確かに見た" ということが、ルカ2章の主題であります。 「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」 は、"しるし" でありました(2:12)。 神が復活させて 「主とし、またメシアとなさった」(使2:36)イエスが、確かに誕生された "しるし" を、福音書は証言しているのです(2:11)。 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラ 4:4-5) 聖書の使信の主題は御子イエスであって、マリアではありません。 処女マリアの見事な従順と決断ではなくて、キリストのへりくだり(フィリ2:6-11参照)であります。 マリアは "神の子の母になる最高の役割と尊厳を授けられた"(教会憲章53)幸いな者でありました(ルカ1:48)。 しかし、このことは、"唯一の仲介者であるキリストの尊厳と効力から何ものをも取り去らず、また何ものをも付加しないという意味に解釈されなければならない"(教会憲章62)のです。 "教会はこのような従属的なマリアの役割をためらわず宣言し、絶えずこれを経験し、なおこの母の保護に支えられて、仲介者・救い主にいっそう親密に一致するよう、これを信者の心に勧める。"(同)。 信者一人一人が自ら聖書に親しむことによって、公会議の諸教父たちが伝える福音を正しく理解出来るようになることが、切に求めれます。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 宗教は奴隷学で世界規模でカルト力学社会 数千年にわたり人を騙し煽動し殺し合わせて積み上げた支配手法である 教典や経典はほとんどが支配のための口実と孤独と貧窮の中で生まれた妄想である 戒律は自虐的に行動を制限する内容ばかりで世間ではストレス殺しになるため 寺院や修道院に引きこもって守れたと思い込むことになる 悟りも1種の感覚麻痺であり 宗教話で飾り立てないようにならないと便乗カルトの暗躍に使われるばかりである 2010年(主日C年) 1月1日 神の母聖マリア 民 6:22〜27 ガラ 4:4〜7 ルカ 2:16〜21 「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」(ルカ 2:17-18) イエスの誕生の物語りは、伝記的な目的で書かれてはいません。 私たちは聖書から、イエスの家庭の様子や、その生い立ちについての話を聞くことは出来ないのです。 そこでは、イエスは本当に生まれたということ(Iヨハ 4:2-3、IIヨハ 7)と、それが聖霊によるということ(1:35、マタ 1:18)だけが強調されています。 初代教会の "洗礼式の信仰宣言" には、おそらくかなり早い時期に "おとめマリアから生まれ" という条項が入れられました。 キリストが聖霊によって誕生されたように、人は洗礼において水と霊とによって新たに生まれるのです(ヨハ1:12-13, 3:3-6)。 ルカ福音書では、"天使のお告げ" が表舞台に登場しますが(1:11-20, 1:26-38, 2:8-15)、実際には聖霊が御子の誕生に関わるすべてのことを導いておられるのであって、それによって新しい "贖いの時"(IIコリ 6:2)が開始されました。 そしてそれらのすべては、霊によって判断しなければ理解することが出来ません(Iコリ2:9-16)。 ですから人々は不思議に思い、マリアは心に納めて思い巡らしていました。 「彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。」(民 6:27) 祝福するのは神であって、祭司自身ではないという事実が、感謝をもって受け入れられるところに、「まことの礼拝」(ヨハ4:23)があります。 聖母マリアも、「救い主の業に全く独自な方法で協力した」(典礼憲章61)のであって、私たちの救いはマリアからではなくて、父・子・聖霊なる神から与えられます。 そのような従属的なマリアの役割に支えられて、共にミサをささげる会衆が、仲介者・救い主イエスにいっそう親密に一致することが出来ますように。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 1月1日 神の母聖マリア ルカ 2:16〜21 「八日たって、割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」(v.21) 2013年(主日C年) 1月1日 神の母聖マリア ルカ 2:16〜21 「八日たって、割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」(v.21) "聖書を学ぶ" ということを、だれかから "要するに聖書はこう言っているのです" という話を聞いて、そこで語られている "神のことば" を "分かりやすい簡単な思考パターン" に置き換えること、だと思っている人が多いようです。 自分で聖書を読むという苦労をしなくても、分かったような気分にさせてくれるのが良い教師、良い参考書だという訳です。 そういう人たちにとっては、聖書に出てくる "律法" などというものは、古い時代のユダヤ人の慣習であって、現代の私たちにとっては "過ぎ去ったもの" として無視されます。 現代には現代のトレンドがあるように、幼子が生まれて八日目に割礼を受けてイエスと名付けられたというのも、当時の慣習によることであったと片付けられてしまうのです。 しかし、救済史は神の支配の歴史であって、イエスの誕生を救済史の出来事として理解することが、私たちキリスト者にとっては、"神のことば" を聞く出発点になります。 間違って別の電車に乗ると、違うところに連れて行かれてしまうのと同じです。 マリアとヨセフも、幼子イエスも、救済史の中の登場人物でありました。 救済史の主役は神であって、人間ではありません。 救済史の目標は 「天の故郷」(ヘブ11:16)、「新しい天と新しい地」(黙21:1)であります。 「恵み豊かな神よ、すべてはあなたによって始まり、あなたのうちに完成します。 聖母の中に始められた救いのわざを祝うわたしたちが、その完成の喜びにもあずかることができますように。」(今朝の奉納祈願) 「おとめマリアを御子の母、教会の母として仰ぐわたしたちが、永遠のいのちを受けることができますように。」(今朝の拝領祈願) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 宗教は奴隷学でカルト力学社会 来年も生き飽きた糞鶏みたいなのがバレないやり方で人を殺傷して ドヤ顔でスレを立てるだろう 2013年(主日C年) 1月6日 主の公現 マタ 2:1〜12 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(v.10) 主の公現の祭日は伝統的に、神が星の導きによって救い主の誕生を諸国の民に示されたことを記念する日であります。 しばしばこの諸国の民という呼称は、キリスト教的西欧から見て外の世界、すなわち未開な外国の民を連想させて来ましたが、むしろこの物語りを産み出した初期の教会が、この 2013年(主日C年) 1月6日 主の公現 マタ 2:1〜12 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(v.10) 主の公現の祭日は伝統的に、神が星の導きによって救い主の誕生を諸国の民に示されたことを記念する日であります。 しばしばこの諸国の民という呼称は、キリスト教的西欧から見て外の世界、すなわち未開な外国の民を連想させて来ましたが、 むしろこの物語りを産み出した初期の教会が、この "喜び" を自らの救いの喜びとして理解していたという、教会の伝統にこそ私たちは目を向けたいと思います。 今朝の奉納祈願は 「教会の供えものを顧みてください」 であり、拝領祈願は 「いつもあなたの光でわたしたちを導いて ください」 であります。 私たちは自らをこの学者たちに置き換えて、今日、喜ぶのです。 言うまでもなく現代の私たちにとってこの "星" は、啓示の源泉である "聖伝と聖書" に他なりません。 学者たちがその星の導きによって 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」 (v.11)とある通り、教会は "ともにささげるミサ" によって 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」(IIコリ13:13)を体験するのです。 ただしこのキリストはもはや幼子ではなくて、「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められ」(ロマ1:4)、「人々の罪を清められた後、天の高いところにおられる大いなる方の右の座にお着きになった」(ヘブ1:3)方であり、 そこから救い主として再び来られるのを(フィリ3:20)私たちが待ち望んでいる(Iテサ1:10)キリストです。 「この御子において、その血によって贖われ、罪を赦された」(エフェ1:7)私たちキリスト者にとって、"聖書を学ぶ" ということは、 使徒たちの宣教した福音によって神の啓示を聞き、「神の栄光にあずかる希望」(ロマ5:2)に 「しっかりと立つ」(フィリ1:27、Iテサ3:8/フランシスコ会訳)ためです。 正しい "聖書の学び" は、決して "ためになるお話し" や "創作的説教" で置き換えられてはならないものなのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 1月3日 主の公現 マタ 2:1〜12 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。 彼らはひれ伏して拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(vv.10-11) 福音書記者マタイが、当時伝えられていた話の数々を、独自の立場から脚色して編集した意図は、恐らく彼が司牧している共同体の信仰のためでありました。 その信仰とは、御子の誕生によって新しい時代、すなわち "終わりの時"(使2:17)が始まったということです。 この "終わりの時が始まった" ということを示すような兆候に、ヘロデ王は不安を抱きました。 ヘロデ王は当時の世の権力者の一人でした。 それと対照的なのが、東方から来た学者たちです。 学者(マゴス)という呼び名は、人々から偉大な者と見られていて、良い意味の場合は "学者" ですが、悪い意味のときには "魔術師"(使8:9-11, 13:6他)と訳されます。 人々から尊敬される "権威ある学者たち" が、新しい時代の開始に 「喜びにあふれ」、幼子を礼拝しました。 私たちの時代にも、世の中を良い方向に導いてくれる偉大な学者たちがいますが、同時に怪しげな理論で大衆を迷わせるような学者もいます。 いつの時代にも、両方の種類の "学者・知識人" が存在していて、それぞれが世の中に影響を与えているのです。 キリスト教界とて、例外ではありません。 預言者たちが待ち望んでいた "新しい終末の時代"(Iペト1:10-12) が、今や始まったということを説明するために、マタイは旧約聖書からの引用を用いました(1:22, 2:5,15,17,23)。 しかし私たちにとって、学者たちの礼拝の物語りは、むしろ "異邦人がユダヤ人と共に神の国に集められる将来" への期待を語る預言そのものでもあります。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2004年(主日C年) 1月11日 主の洗礼 テト 2:11-14, 3:4-7 「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。」(v.14) 良い行いに熱心な民とは、「イエス・キリストの栄光の現れを待ち望む」(v.13) 民のことです。 私たちの本国は天(神の国)にあります(フィリ 3:20)。 キリストは私たちを 「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼ まない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(Iペト 1:4) イエス・キリストを信じて洗礼を受ける 「恵みの時、救いの日」(IIコリ 6:2) が、今なお現代の教会に与えられています。 「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」(v.5) 洗礼の秘蹟は、私たちの地上の旅路だけではなくて、神の国への復活と永遠の命に関わる救いを与えるのです。 私たちがミサをささげるとき、祭壇でお会いする主は、私たちに聖霊と火による洗礼を授けてくださったイエスであり、教会はこの方が栄光のうちに再び来られるのを、待望しているのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2004年(主日C年) 1月11日 主の洗礼 ルカ 3:15〜22 洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、主イエス・キリストの公生涯が始まりました。 伝説のイエスではなくて、「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ4:25) 歴史上のイエスが、ここにはおられます。 降誕節は全世界が救い主を迎えたことを記念するときであると、教会は理解して来ました。 主の洗礼の祝日は、私たち信じる者に聖霊と火で洗礼をお授けになる方の出現を宣言するものです。 「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。 すると、 2004年(主日C年) 1月11日 主の洗礼 ルカ 3:15〜22 洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、主イエス・キリストの公生涯が始まりました。 伝説のイエスではなくて、「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ4:25) 歴史上のイエスが、ここにはおられます。 降誕節は全世界が救い主を迎えたことを記念するときであると、教会は理解して来ました。 主の洗礼の祝日は、私たち信じる者に聖霊と火で洗礼をお授けになる方の出現を宣言するものです。 「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。 すると、"あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者" という声が、天から聞こえた。」(vv.21-22) 天からの声は、詩 2:7 と イザ 42:1 を想起させるものであります。 この祝日は3世紀に東方教会で始まりましたが、西方教会では永く忘れられていたものを、第二バチカン公会議が典礼暦の中に再び取り入れたものです。 それで、この主の洗礼の祝日まで私たちの降誕節は続いて、その翌日から年間に入ることになりました。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より これっきゃ やることがないんだね 年老いた者の慰め信仰か 2010年(主日C年) 1月10日 主の洗礼 テト 2:11〜3:7 「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。」(v.5) 恐らく vv.4-7は、 v.8の 「この言葉は真実です」 を伴って、原始教会における洗礼式の式文として用いられていたものを、パウロがここに引用したのであろうと推測されます。 18世紀に登場した啓蒙主義以来、キリスト教とはイエスの 2010年(主日C年) 1月10日 主の洗礼 テト 2:11〜3:7 「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。」(v.5) 恐らく vv.4-7は、 v.8の 「この言葉は真実です」 を伴って、原始教会における洗礼式の式文として用いられていたものを、パウロがここに引用したのであろうと推測されます。 18世紀に登場した啓蒙主義以来、キリスト教とはイエスの "教え” に従うことであるという考え方が、世界に広がりました。 イエス主義、あるいはキリスト主義のようなものが、"イエス・キリストへの信仰" に取って代わるようになりました。 しかし、イエスがヨハネからお受けになった "洗礼"、またイエスが御自分の死を指して言われた "洗礼" という言葉は、単なる比喩ではありませんでした。 マコ 10:38の 「わたしが受ける洗礼」 も、ルカ 12:50の 「受けねばならない洗礼」 も、それはキリストの贖いの死を指していました。 全世界の罪を償ういけにえとして(Iヨハ 2:2)、ゴルゴタで十字架につけられたイエスの死に、すべてのキリスト者は洗礼の秘跡によって結ばれました。 「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ 6:4) こうして私たちは、"永遠の命を受け継ぐ希望"(3:7)を与えられました。 ですから教会は、「祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」(2:13) 教会は、"キリストの教え" という論理的に構成可能な一つの主義をかかげて歩んでいる教団ではありません。 そうではなくて、「望んでいる事柄を確信し」(ヘブ 11:1)、 「目に見えないものを望んで」(ロマ 8:25)、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」(IIコリ 5:7) 神の国の相続人なのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 1月10日 主の洗礼 ルカ 3:15〜22 「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(v.16) 差し迫った神の怒りの火(3:7)に直面するイスラエルの民衆と共に、イエスもヨハネから洗礼をお受けになりました。 この方は、裁きの火(マラ3:2)、裁きの霊と焼き尽くす霊をもって(イザ 4:4)、御自分の民を贖う "僕なるメシア" として(イザ 42:1-4, 52:13−53:12参照)、この日、聖霊によって油を注がれました(使 4:27, 10:38)。 罪のない神の子が、なぜ "罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼"(3:3)をお受けになったのでしょうか。 それは御自身が私たちに代わって、悔い改めの洗礼を受けることによって、全世界の罪を償ういけにえとなるためでした。 ですからそれは最後に、十字架の洗礼(12:50)に至るものであったのです。 「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」(イザ 53:6) 私たちキリスト者にとってかつての洗礼の日が、"聖霊によって新しく生まれた"(テト3:5)日であるように、キリストはこの日の洗礼によって、父の愛する子、"僕なるメシア" として、いわば秘跡的に誕生されたのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 1月10日 主の洗礼 イザ 40:1〜11 第二イザヤと呼ばれるイザヤ書40〜55章に集められた預言集のうち、その初期の預言が語られ始めたのは、長い捕囚の期間が今や終わろうとしている頃でありました。 ペルシアの王キュロスのバビロン征服(B.C.539)を目前にして、イスラエルの民は捕囚を解かれてユダヤに帰還する日を、息詰まる緊張をもって待望していました(歴下 36:17〜エズ 1:4 参照)。 慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。」(v.1) 捕囚期以前の預言者が、主として歴史の審判を告知したのに対して、彼は歴史の救済を預言しました。 「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」 からです。 しかし私たちの理解が、今朝の朗読テキストだけに止まるなら、これが主の洗礼の祝日の朗読配分に割り当てられている理由を知ることは出来ません。 第二イザヤにとって捕囚の民の解放は、地の果てのすべての人々に主の救いが輝き出る(45:22)歴史の転換を意味しました。 「天よ、露を滴らせよ。 雲よ、正義を注げ。 地が開いて、救いが実を結ぶように。」(45:8, 典礼聖歌 301) そして、彼が最後に到達したのが "僕の歌"(42:1-4, 49:1-6, 50:4-9 52:13〜53:12) でありました。 「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(53:5, Iペト 2:24) 私たちの主はこの日、御自身の洗礼によって、"主の僕なるメシア" としての歩みを始められました。 そして、ゴルゴタの十字架の死によって、"ただ一度"、永遠の贖いを成し遂げてくださったのです。(ヘブ 9:12) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 1月13日 主の洗礼 ルカ 3:15-16,21-22 「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(v.16) 洗礼者ヨハネはしばしば、単に主役であるイエスの登場を準備する前座に過ぎないように考えられて来ました。 例えばヨハネ福音書の中には、そのような理解を示唆する記述があります(1:8, 3:30)。 しかし新約聖書全体を見渡すと、洗礼者ヨハネはイエス・キリストの福音自体の一部をなしているのが分かります(マコ 1:1、使 1:21-22)。 救い主イエス・キリストによる "聖霊と火の洗礼" に対して受洗者を準備し、来るべき怒りの裁きから守る "水の洗礼" を、彼は宣べ伝えました。 原始教会はこの洗礼を、それに新しい内容を加味はしたが、ヨハネから受け継ぎました。 イエスが祭司長や律法学者に、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」(ルカ 20:4) と尋ねられたとき、これを福音の出来事の一部と認めておられたのは明らかです。 福音書はこの場面では、なぜ罪のないイエスが悔い改めの洗礼を受けに来られたのかには答えず、ただイエスの上に聖霊が降って、これを "主の僕なるメシア" として即位させたことだけを証言してます。 私たちが受けた洗礼は、「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」(ルカ 3:3)であったことを、もう一度しっかりと学び直そうではありませんか。 主イエス・キリストの福音にとって、ヨハネの水による洗礼は、その必須の一部分でありました。 現代の教会にとっても、"自分の、自分たちの時代の、そして自分たちの世界の罪を本当に認める悔い改め" が、「自らその身にわたしたちの罪を担ってくださった」(Iペト2:24)主の洗礼から真の慰めを受けるためには必須なのです。 「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。 それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」(ルカ 12:50) 「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザ 53:5、Iペト 2:24) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2001年(主日C年) 1月14日 年間第2主日 ヨハ 2:1〜11 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。」(v.11) ヨハネ福音書で 「しるし」 という言葉は、イエス・キリストの受肉と受難と復活による救いの御業を指し示す意味で用いられていて、"福音との結びつきを前提とする" 独特な用語です。 その 「最初のしるし」(v.11) として、このカナの婚礼の物語りは今朝の典礼で朗読されました。 その婚礼で、ぶどう酒が足りなくなってしまいました。 母はイエスに告げ、召し使いたちに指図をしました。 それ以上でもそれ以下でもありませんでした。 それがこの物語りのあるがままの姿です。 イエスの言葉にしたがって召し使いたちはかめに水を満たし、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きました。 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をして、それがたいへん上等であったので、花婿に栄誉を帰したと記されています。 この奇跡そのものが "福音" であるのではなくて、それがキリストの救いの福音を指し示す 「しるし」 であったというのが、ヨハネ福音書の説明です。 そのような説明は、この物語りに登場してきた弟子たちやその他の人々が、キリストの復活後に誕生した教会の群の中にいて、共にミサをささげていたであろう共同体の存在を考えるとき、非常に説得力のあるものとなります。 召し使いたちも、宴会の世話役も、この出来事の中でそれぞれの役割を果たしています。 しかし奇跡を起こしたのは彼らではありませんでした。 そのようにキリストの救いの御業も、人の業ではありません。 キリストの福音をそのようなものとして指し示す 「しるし」 が、このカナの婚宴での出来事でありました。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2004年(主日C年) 1月18日 年間第2主日 Iコリ 12:4〜11 賜物という言葉は一般に、人の能力や知識、経験、財産、地位等のことと理解されています。 多くの人々の貢献と援助によって、教会も、その諸活動も支えられているというのが、通常の考え方であります。 しかし聖書は 「霊的な賜物」(v.1) のことを特別に取り上げているのです。 「一人一人に "霊" の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」(v.7) もし現代のキリスト教会が使徒たちの教会と同一のものであり、現代の教会が宣べ伝えている福音が使徒たちの語った福音と同じものであるということが事実であるとすれば、・・・・・ 更に私たちが信じ告白している救い主イエス・キリストが使徒たちを宣教に遣わされたイエス・キリストと同じ方であるとすれば、それは 「霊的な賜物」 「霊の働き」 が歴史の教会を通して常に存在していたからに他なりません。 天の神殿、天のエルサレムを実現されるキリストへの信仰、キリストの福音の喜びが、21世紀の教会に豊かに満ちるために、「霊的な賜物」 「霊の働き」 を熱心に祈り求めましょう。 私たちキリスト者は 「神の子」 「救い主」 であるイエスを信じているのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 1月14日 年間第2主日 イザ 62:1〜5 先週に続いて、エルサレム神殿再建工事の時期の、高揚した預言の言葉に注目しましょう。 預言者の関心は一貫して、ヤーウェがイスラエルを贖って再び聖なる民として再建される(v.5)ということでありました。 「若者がおとめを娶るように、あなたを再建される方があなたを娶り、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。」(v.5) イエス・キリストの救いが、教会という "聖なる民の共同体" の贖いであって(使 20:28)、これに永遠の命を得させるためであるように(ヨハ 3:16)、イザヤの預言もその焦点は神の救済史の新たな展開に置かれていました。 20世紀後半の我が国のキリスト教は、キリスト教文化圏の拡張を教会の使命であるかのように誤解して来ました。 そこには優れたキリスト教的文化や価値観を大衆に啓蒙するという思い上がりと、教育や医療や福祉等の面で社会に貢献するのだという優越感があって、原点である "キリストの福音によって教会を造り上げる"(使 20:32) という自らの課題を忘れていたのでした。 各種の宣教活動と称するものが、ただの文化講演会や平和運動等にしか過ぎず、それに誘われて入信してみると、教会には "キリストの福音" も "聖なる民の共同体" も存在しない ・・・・・ 実感出来ない、という体験を私たちは味わって来ました。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 信仰があれば病気の癒しは可能なのだろう。 出来てこそのキリスト者。インクライストなのだから。 でも、実際には目の悪い人、足を引きずる人、腰の痛い人が 多い。 では、信仰が無いのか。この疑いこそが悪魔の仕業なのだろう。 2010年(主日C年) 1月17日 年間第2主日 ヨハ 2:1〜11 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。 それで、弟子たちはイエスを信じた。」(v.11) この "カナでの婚礼" の物語りは、一見すると淡々と語られていて、聖書には無知な人でもこの物語りだけなら "よく分かる" ように見えます。 ただし、v.11 を除いて ・・・・・ です。 ヨハネ福音書では、イエスの公生涯およびその死と復活が意味するものを指し示す、そのようなイエスの行為を、"しるし" と呼んでいます(2:18, 6:26, 11:47)。 ですから、お目出度い婚礼の最中に 「ぶどう酒が足りなくなった」(v.3) という事態に、花婿に恥をかかせないようにイエスが助け船を出した話だと、安易に考えるべきではないのです。 「わたしの時はまだ来ていません」(v.4) というイエスの返答から、"しるし" が主の死と復活を通して栄光を受ける"時"(12:23,27, 17:1) を指し示すものだという、ヨハネ福音書の理解を読み取ることが出来ます。 "石の水がめ"(v.6) が象徴するユダヤ人の律法主義が、イエスの登場によって福音に 「変わった」(v.9) と、この物語りは語っているのです。 神の国の婚宴(マタ22:1-14, 25:1-13) に喜びをもたらすぶどう酒は、「御国の福音」(マタ9:35) にふさわしい象徴であります。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 皆さんは、どう判断しますか ? 自分の信仰の立場からの、主張やご意見をどうぞ。 【世界キリスト教情報 (2016. 1.18) から】 世界聖公会38管区の首座主教会議が1月11日、カンタベリー大聖堂で、6日間の日程で開始した。 この会議は1月14日、同性愛容認の問題を巡って、米聖公会に対し、共同体の将来について反省することを求め、3年間加盟停止を決定した。 それに対して、米聖公会内部からは、「もはや立ち帰ることはないし、罪でもないことを悔い改めることは出来ない」 との意見が出ているとのこと。 もう一つ、似た問題について。 福音書に登場する離婚に関する議論で、質問者はそれが 「律法に適っているか」 と尋ねました(マコ 10:1-12)。 正しいか正しくないかという、一般論を問題にしたのではありませんでした。 質問の意図は、イエスを試して訴える口実を得るためだったのかも知れませんし、そのうえ当時の世間の常識のようなものを、マタイ福音書は弟子たちの発言として語らせています。 「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです。」(マタ 19:10) 聖公会が何を言おうが、カトリックの教皇がどう発言しようが、それらの教会の、それも熱心な信者でなければ、「俺には関係ない !!」 で済む話なのです。 でも、人間一人一人は弱いものなので、つい気にしてしまったり、確信がないので何となく不安になったりするんですね。 皆さん、ご意見をどうぞ。 2010年(主日C年) 1月24日 年間第3主日 ルカ 4:14〜21 「イエスは "霊" の力に満ちてガリラヤに帰られた。 ・・・・・ イエスは諸会堂で教え、・・・・・」(vv.14-15) 「"この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した" と話し始められた。」(v.21) マコ 1:15 が伝えている通り、イエスの宣教は "時が満ちて、約束された救いが到来した" という告知をその内容としていました。 ルカ福音書は、イエスがナザレの会堂で イザ 61:1-2 を朗読されたとき、明らかにこれを御自分に当てはめて、"神は貧しい人に福音を告げ知らせるために、わたしに油を注がれた" と語られたことを伝えています。 人々を救いへと招く神からの福音が、まさに語られ、聴かれたのです。 イエスと弟子たちによる宣教は、それに伴う奇跡と共に、神の国が近づいたことの "しるし" でありました(マタ 10:7-8、ルカ 10:9)。 イエスはこれを預言されていたメシア時代の到来の "しるし" であると説明されました(マタ 11:5、ルカ 7:22)。 ですから、新約聖書の理解によれば、教会の宣教それ自体が "約束された救いの時が到来した" ことの "しるし" であり、教会はこの宣教によって、天からの "真のしるし" を全世界に告げ知らせ続けるのです。 このことから、教会の宣教の "終末的な性格" が明らかになります。 私たちのミサで、"ことばの典礼" は必ず信仰宣言で締めくくられ、一同は "主は、生者と死者を裁くために、栄光のうちに再び来られます" と唱和します。 "感謝の典礼" では、記念唱で 「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」 と歌い、主の祈りの副文で 「わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」 と唱えます。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 1月27日 年間第3主日 ネヘ 8:2〜10 「民は皆、その律法の書に耳を傾けた。」(v.3) 説教とは何でしょうか。 典礼憲章(52)はこれを定義して、「典礼の暦に従って、聖書に基づいて、信仰の秘義とキリスト教生活の諸原則を説明する説教 ・・・・・」 と述べています。 祭司エズラの律法朗読に伴って行われたレビ人の説教が、どのような性格のものであったかをネヘミヤ記は伝えています。 「彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。」(v.8) 律法の書 (旧約聖書) はヘブライ語で書かれており、それは既に死語になっていて、当時のユダヤ人の日常語はアラム語でありましたから、その律法の書を理解出来るように翻訳し、説明するのが説教の役目でありました。 聖書に何かを付け加えたり、聖書からヒントを得て "役に立つお話し" を創作するなどというものでは、決してありませんでした。 主日のミサで、確かに説教は大切なものですが、その目的は何よりも、私たちが当日の聖書朗読を理解するのを助けることでなければなりません。 私たちが正しく聖書の言葉を耳にする (聴き取る) とき、神のことばが出来事になるということが起こるのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 【信仰の話 -1-】 キリスト教のお話しをします。 キリスト教を伝えようとしたり、あるいはキリスト教を学ぼうとするとき、私はそれを次のように言い換えてみたいと思います。 私たちが伝えなければならない、あるいは学ばなければならないのは 「キリストの福音」 である、と。 この 「キリストの福音」 とは、根本的には、個人の神学や哲学である以前に、先ず 「教会の宣教」 の内容であって、教会はその誕生の時から今日に至るまで、「福音の宣教」 をその使命として歩んで来ました。 それは、聖書を通して私たちに届けられた 「神からの知らせ」、「イエス・キリストによる救いの知らせ」 であります。 「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(IIコリ 5:19) 「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロ 1:19-20) 【信仰の話 -2-】 ここで 「和解」、「平和」 の主体は神であって、その対象とされているのが 「世」、「人々」、「万物」 であることに注目しましょう。 キリストの福音とは、「神」 と 「世、人々、そして万物」 の間の 「和解、平和」 の知らせなのです。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16) 以上から明らかなように、「キリストの福音」 は救済史 (神による救いの歴史) の目標であり完成であって、それは終末の神の国到来によって完結するのです。 「わたしたちの本国は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主としてこられるのを、わたしたちとちは待っています。」(フィリ 3:20) 「死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。 アーメン。」(信条) >>272 >お尋ねします。原罪とは何でしょうか。 「原罪」 という言葉は、聖書にはありません。 私の専門である聖書神学の世界でも、この言葉が使われることはないようです。 アウグスティヌスあたりから始まった教説のようで、ロマ 5:12以下 の解釈が典拠と聞いています。 「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(Iコリ 15:22) このような聖書の説明について、私は神学校で、「これは信仰的神学的意味であって、科学的あるいは歴史的な意味の問題ではない」 という講義を聴きました。 私は 「原罪」 についての神学的論議には関わったこともなく、自分ではそのような用語を使ったこともありません。 なお、「カトリック教会のカテキズム 396〜409」 には、カテケージスに用いる場合の公式な教えがありますが、これも信仰的、神話的表現による解説であって、科学的あるいは歴史的な意味での説明ではありません。 【信仰の話 -3-】 「キリストの福音」 は、その本来の性格から、この世の一つの真理や道徳、社会規範や世界政治の目標とは、区別されなければなりません。 教会は昔も今も、多くの善き業や奉仕をこの世に対して行って来ました。 また教会は、この世の平和のために、あるいはこの世の改善と進歩のためにも、多くの貢献を果たして来ました。 しかしそれらは、教会の第一の使命である 「福音の宣教」 に付随する行為であって、決してそれらがそのまま 「福音」 ではないのです。 「あなたの神である主を愛しなさい」 が第一であって、それを抜きにして 「隣人を自分のように愛しなさい」 が福音なのではありません。 あくまでも、それは第二の掟なのです(マコ 12:29-31)。 【信仰の話 -4-】 この 「福音の宣教」 は、本質的に、神から 「教会にゆだねられた」 ものであることを理解する必要があります。 私たち一人一人が福音を信じ、福音に生きるのは、教会という交わりに於いてであることを、使徒信条は 「聖徒の交わりを信じます」 という言葉で宣言して来ました。 初代教会は 「交わり」 という言葉で、彼らのミサ (礼拝) を表現しました。 「わたしたちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(Iヨハ 1:3) 「ミサの祭儀は、・・・・・ 全教会にとっても、地方教会にとっても、また信者一人ひとりにとっても、キリスト者の生活全体の中心である。 ・・・・・ そして、他の聖なる行為とキリスト者の生活のすべての行いはミサに結ばれ、ミサから流れ出、ミサに向かって秩序づけられている。」(ミサ総則 1) 【信仰の話 -5-】 私たちが (個人として) 福音を学んだり、福音を宣教するとき、それは実際には教会の奉仕に参加しているのです。 たとえそれが個人の行為のように見える時にも、それは神から教会にゆだねられた責任に於いて、教会の奉仕の一部としてなされているのです。 もしそうでないなら、これを 「福音の学び、福音の宣教」 と呼ぶことは、用語上矛盾していることになります。 なぜなら 「キリストの福音」 は 「教会にゆだねられた宣教の内容」 であって、教会を離れては意味をなさないからです。 教会から切り離された個人が行う聖書の研究も、また聖書から得た真理や価値観を実行することも、それらは学問や倫理ではあっても、福音の学びや宣教とは根本的に別のものなのです。 私たちは、聖書の証言を通して福音を学ぶのですが、それを 「聖徒の交わり」 の中で行います。 それは、単に現在だけではなくて、過去の全キリスト教会の歩みと思索と認識との関連における 「聖徒の交わり」 です。 【信仰の話 -6-】 私は神学校を卒業してから既に50年になりますから、自分の同窓の友だけでなく、その他にも多くの牧師や信者たちを見て来ました。 熱心にキリスト教関連の勉強をしたり、聖書を研究する人たちにも出会いました。 その中には、健全な信仰者もいれば、はっきり言って怪しげな自称キリスト教知識人も可成り混在していました。 過去の教会の歴史を尊重するという姿勢に欠けた、自己流の独善的な福音理解を、自慢げに語る知識人のことです。 ギリシア語やヘブライ語が読めるというので、さも自分は一人前の聖書学者にでもなったように錯覚している、自称知識人です。 聖書を翻訳によらずに、原典で読んで、自分の現代感覚で解釈してしまうことは、最も愚かな行為です。 聖書神学には、永い釈義の歴史があって、現代の聖書翻訳は、その膨大な知識の富を深く学ぶことによって行われているのです。 ところがそのような素養のない自称知識人が、辞書を頼りに原典を自己流に読んで、いかにも得意げに 「この箇所の日本語は誤訳だ」 などと言ったりしているのです。 【信仰の話 -7-】 私たちがそれぞれの能力や時間の制約の中にあっても、自分なりに 「キリストの福音」 を学ぼうとするなら、いくらでも日本語で良い助けを見出すことが出来ます。 先ず、日本語の聖書を、その翻訳への十分な敬意を払って読むことです。 現行の日本語聖書として主なものは 「新共同訳」 と 「フランシスコ会訳」 の二つですが、そんなに大きな訳文の違いはありません。 ただ後者には、聖書各巻の初めに簡単な解説がついているので、これから新しく購入する人にはオススメです。 聖書の注解書は、もちろん大切なのですが、自分の能力に見合う良書に出会うのは簡単ではありません。 これは、いちばん当たり外れの多い、学習者泣かせの分野だと思います。 第三に、歴史的な (プロテスタントの) 信仰問答や信仰告白と呼ばれる多くの書物が、ほとんどすべて日本語になっています。 是非、(一冊だけでなく) 何種類かを読んで、出来るだけ柔軟な思考を養うようにしましょう。 カトリックの場合は、やはり 「カトリック教会のカテキズム」 をお勧めしたいと思います。 【信仰の話 -8-】 聖書の証言である 「キリストの福音」 を宣教するために、歴史の教会は様々な仕方で努力して来ました。 そしてそれらは常に、その時代、教会の置かれた状況に応じての、一つの 「試み」 でありました。 「キリストの福音」 は、それ自身に於いて無限であり、無尽蔵であって、神学のどのような試みによっても完全に説明し尽くすことが出来ないからです。 教会は、そのような過去の先人たちによる、多くの 「試み」 の果実という遺産を持っています。 しかし私たちがそのような果実のどれか一つに、時代を超えて不変不動に固執することはふさわしくありません。 私たちはそれらの遺産を、十分な敬意を抱いて学びつつ、しかも常に新しく現代における 「試み」 に向かいます。 その場合にもその 「試み」 は、旧・新約聖書の厳密な釈義に由来しなければならないことは当然です。 なぜなら、もし聖書の釈義を軽んじるような 「現代の新しい福音解釈」 などというものが語られるなら、それはただの人間的な思弁に過ぎず、教会の 「宣教の奉仕」 にはふさわしくないからです。 2001年(主日C年) 1月28日 年間第4主日 ルカ 4:21〜30 「そこでイエスは、"この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した" と話し始められた。 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて ・・・・・ 。」(vv.21-22) イエス・キリストの福音は、キリストの贖罪の愛の福音であります。 それはイエス・キリストを町の外へ追い出し、山の崖から突き落とそうとし、最終的には十字架にかけた罪人のところに訪れました。 vv.28-29は、イエスを十字架につけろと叫び、ついにピラトによる処刑をかち取ったユダヤ人たちを象徴する句であると考えられています。 キリストの福音は、そのような罪人たちのただ中に訪れてくださることを、思いましょう。 過去の西欧の歴史において、罪深いユダヤ人はキリストを十字架に追いやった民族であり、それに対してユダヤ人以外の一般のキリスト教徒たちはそのような罪とは縁のない人種であるというような浅はかな理解が、人々の心を支配していました。 イエス・キリストはすべての人の罪のために御自身を献げてくださったのであり、ミサをささげる私たちは、キリストの十字架は他ならぬ私たち自身の罪のためであったことを知っています。 ですから、そのような罪深い私たちのところにイエス・キリストの福音は今朝も訪れて来てくださっていることを、私たちは感謝しましょう。 ナザレの会堂で憤慨し、総立ちになってイエスを追い出した会衆の姿は、実に救いに与かる前の私たち自身の姿にほかならないからです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2004年(主日C年) 2月1日 年間第4主日 Iコリ 12:31〜13:13 神の国を受け継ぐキリストの体としての教会について述べた後、使徒パウロはコリントの教会の人々に、賜物としての愛を祈り求めなさいと勧めました。 使徒パウロがここで言っているのは、キリストの体である教会を造り上げて行く愛のことです。 ヨハネ福音書が 「互いに愛し合いなさい」 と言うとき、それは共にミサをささげる共同体としての教会の一致と団結のことを指しているのと同じです。 ですからそれは、洗礼によって私たちをキリストの体とならせてくださった十字架の福音への愛であり、神の国の希望と固く結びついています。 そしてこの愛は、霊的な賜物としての愛であって、信じる人々に上から与えられるものなのです。 「愛は決して滅びない」(v.8) のは、それがキリストの愛に起源しているからです。 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(Iヨハ4:10-11) 私たちは "ありがたい良いお話" ではなくて、"神の秘められた計画"(I コリ2:1) としてのキリストの福音を聞き取るように、今朝もここに招かれていることを感謝しましょう。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 来年 2017年は、宗教改革 500周年を迎えます。 ルーテル教会とローマ・カトリック教会とは、この年を共同で記念しようとしています。 かつての宗教改革を、共同でエキュメニカルな視点から想起することは、重要ではありますが、また困難なことでもあります。 ですから、両教会に属している信者だけでなく、その他の教派の信者も共に、この問題に関心を持ってほしいと思います。 現在皆さんは、両教会のこのようなエキュメニカルな努力について、どの程度ご存じでしょうか。 ご意見をお聞かせください。 昨年の2月に、「争いから交わりへ」 という書籍の日本語訳が、教文館から出版されました。 これは、「一致に関するルーテル = ローマ・カトリック委員会」 が、2013年に発表した共同文書です。 これは決して法的拘束力を伴う協定のようなものではなくて、両教会間で永く続けられて来た神学的な対話の実りであります。 もうお読みになった方も多いと思いますが、もし未だでしたら、是非一人でも多くの方に読んでいただきたいと思います。 どのような文書でも、それを理解し咀嚼するにはある程度の素養が必要です。 カトリック信者であるなら、少なくとも 「カトリック教会のカテキズム」 には明るいことが期待されます。 プロテスタントの方でしたら、宗教改革以来のいろいろな 「信仰告白」 や 「信仰問答」 のどれかに通じているぐらいの予備知識が、望ましいと思います。 >>283 今、読んでます。 昨年、委員会の中の鈴木牧師の熱い講演を聞き 来たる2017年を楽しみにしています。 単なる歩み寄りではないのが意外ですね。 2004年(主日C年) 2月8日 年間第5主日 イザ 6:1〜8 ルカ 5:1〜11 シモン・ペトロが使徒たち一同の中で第一の者として、福音の世界宣教のために召されたということを伝えようと、ルカはここで意図しているように思われます。 その伝承の中で恐らく v.8 は、私たちが注目すべき最も重要な部分であります。 「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、"主よ、わたしから離れてください。 わたしは罪深い者なのです" と言った。」(v.8) 最初 "先生" と呼んでいたイエスが、ここでは "主よ" と呼ばれています。 彼はこのとき "ナザレのイエス" ではなくて "神の子イエス・キリスト" に出会ったのだというペトロの感激的体験を、ルカ福音書は大切に考えました。 神顕現に伴うペトロの畏れが見事に描写されています。 聖なる神との出会いにおける人間の畏怖は、あらゆる宗教に共通する要素であると、かつて R.オットー は論じました (「聖なるもの」/岩波文庫)。 イエスがシモンに言われた 「恐れることはない ( = 恐れるな ! )」(v.10) は、この神顕現における定型句として聖書の各所で語られています (創 15:1、イザ 41:10、ルカ 1:30, 2:10、マタ 28:5他)。 しかし、私たちが今朝の福音書朗読で更に注目しなければならないもう一つの重要な事柄は、"罪の告白" がそこで同時に起こっているという事実です。 そしてこの関連で、私たちは旧約の朗読であるイザヤ書のテキストにも目を向けます。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 2月4日 年間第5主日 Iコリ 15:1〜11 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたもの (使徒的伝承) です。 すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、・・・・・ 」(vv.3-4) この "最も大切な" 福音を、現代の教会は再発見しなければなりません。 それは使徒たちが伝えたもので、その使徒的伝承を今も支えておられるのは、天上のキリスト御自身だからです(マタ 28:20)。 過去半世紀間の神学校も、一般大学と同じように、間違った平等主義、アンチ・エリート主義の風潮や反体制主義的な気風に強く影響されて、教会が受け継いで来た使徒的・伝統的使信を過剰に軽視して来ました。 そのため、カトリックの司祭も、プロテスタントの牧師も、本格的な聖書の学びからはなはだしく遠ざかってしまったというのが実状です。 聖書は、"そこから神のことばを聞く" ものではなくて、そこから "自分たちの主張に都合の良い材料を得る" 資料集と考えられて来ました。 聖書の本来のメッセージ、使徒たちの宣教した福音などについて何の基礎知識もない司祭や牧師が、現代的感覚とか貧しい人々の側に立つなどと称して喋りまくり、ジャーナリズムやインターネット上での実りのない議論を繰り広げて来たのです。 今朝の朗読配分を通して私たちに、「最も大切なこと」 と語りかけてくださっているのは、天上のキリストであり、この方がまた祭壇でパンと杯のうちに臨在されることを、私たちは恐れをもって感謝しようではありませんか。 罪の赦しは、人間の行いによってではなく、ただキリストの恵みにより、信仰によって教会に与えられているのですから ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 2月10日 年間第5主日 ルカ 5:1〜11 「イエスは、 ・・・・・ 腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、・・・・・ 」(vv.3-4) 神の言葉を聞こうとして押し寄せて来る群衆がおり (v.1)、神の国の福音を告げ知らせる (4:43) イエスがおられるという場面がこのテキストの前半であり、それに続いて漁師の仕事における現実的な課題への取り組みが後半では語られているように見えます。 突発的な豊漁も、商品の過剰在庫による資金繰りの困難も、町の一零細企業にとっては死活問題であることを、私たちはよ知っています。 「舟は沈みそうになった。」(v.7) しかし、教会はそのような現実的な課題に対して、どんな助けを与えてくれるのだろうか。 この "聖書の学び" は、そのような期待に応えることは出来ません。 なぜならその第一の関心事は "神のことば" であって、それに対する人間の唯一の答えは、「主よ、 ・・・・・ わたしは罪深い者なのです」(v.8) だけだからです。 しかし、そのように教会で聖書が読まれ、また語られることのいかに少ないことでしょう。 教会であまりにも日常的に使われる "キリストを証しする" "福音を宣べ伝える" という言葉が、ただの空虚な掛け声でしかないことを知りつつ、不真面目に "信者ぶっている" 人たちのなんと多いことでしょうか。 イエスの語られる "神の国の福音" を、群衆と共に、また使徒たちと共に、聞き、理解し、受け入れ、信じる者だけが、ペトロと共に "罪を告白し" "罪の赦しを体験して" イエスに従う (v.11)、 すなわちキリスト者としての人生の旅を始めることになるのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>284 >今、読んでます。 その後、いかがですか ? 是非、感想やご意見をお聞かせください。 現代のカトリック教会について何かを語ろうとするなら、第二バチカン公会議についての理解が必須であることは、自明の事実です。 この公会議を貫く特徴の一つに、エキュメニズムがあります。 ご存じない方が多いと思いますので、少し情報を提供させていただきます。 【第二バチカン公会議とエキュメニズム -1-】 教皇ヨハネ23世 (1958選出) の意向で招集されることとなったのが、第二バチカン公会議 (1962〜65年) です。 教皇は公会議開催の意向を告げた 1959.1.25 の演説で、キリスト教諸教会の別れている兄弟姉妹たちが、同じ恵みと兄弟愛の食卓に着く日を待ち望むことを表明しました。 このように第二バチカン公会議は、その開催の最初から、多くの公文書の採択に至るまで一貫して、エキュメニカルな性格を持つものとなったのでした。 各会期の会議を通じて、他のキリスト教諸教派の代表をオブザーバーとして招いたことも、そのことの証しでありました。 そしてそれらの公文書を通して、他の教派に属するキリスト者に対するこれまでのカトリック教会の態度を改め、エキュメニズムを推進すること、またキリスト教以外の諸宗教の価値を認めて対話を促進すること、 人間の基本的な人権としての信教の自由を認めることなどが表明されました。 【第二バチカン公会議とエキュメニズム -2-】 ヨハネ23世死去の後を継いだ教皇パウロ6世は、第二バチカン公会議の第二会期 (1963) に行われた開会演説で、神と 「東方の兄弟たち」 に赦しを求めました。 教皇のこの姿勢は公会議自体の中で、そしてとりわけ 「エキュメニズムに関する教令」 と 「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」 の中で、表明されました。 前者では 「東方諸教会に関する特別の考察」 と 「西欧における分かれた諸教会と諸教会共同体について」 の二つが取り上げられています。 後者に於いては、「キリスト教以外の諸宗教」、「イスラーム」、「ユダヤ教」 という三つの項目を取り上げています。 【第二バチカン公会議とエキュメニズム -3-】 「エキュメニズムに関する教令」 から、その一部をご紹介します。 すべてのキリスト者間の一致を回復するよう促進することは、聖なる第二バチカン公会議の主要課題の一つである。 主キリストが設立した教会は単一・唯一のものである。(1) 神のこの単一・唯一の教会の中に、すでに初期のころから、ある分裂が起こった。 使徒はそれを断罪すべきものとして激しく非難している(Iコリ 1:11以下)。 さらに後代になって、もっと広範囲にわたって不一致が起こり、かなり広範な諸共同体がカトリック教会の完全な交わりから分かれたが、時には、双方の人々に等しく過失がなかったわけではなかった。(3) しかし、そのような諸共同体の中に生まれ、キリストの信仰に育てられた人々に、現在、分離の罪を責めることはできない。 カトリック教会は、兄弟に対する尊敬と愛を込めて彼らを抱擁する。(3) したがってわれわれは謙虚な祈りをもって、自分たちに負い目のある人をゆるしているように、神と、別れた兄弟とにゆるしを求める。(7) 【第二バチカン公会議とエキュメニズム -4-】 「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」 からも、その一部をご紹介します。 人類が日増しに強く結びつき異なる国民間の交流が深まりつつある現代にあって、教会は、自らとキリスト教以外の諸宗教との関係がどのようなものかについてより注意深く考察するものである。(1) ・・・・・ ユダヤ人に向けられる憎悪や迫害や反ユダヤ主義的表現についても、だれによってなされるものであれ、これを糾弾するものである。(4) ところで、人は皆神の像として造られているがゆえに、もしもだれかに対して兄弟のように振る舞うことを拒否するのであれば、すべての人の父である神に祈り求めることはできない。 人間と父である神との関係は兄弟である人間どうしの関係と密に結びついているので、聖書で 「愛することのない者は神を知らない」(Iヨハ 4:8) といわれているほどである。(5) したがって、教会は、人種や肌の色や階級や宗教を理由とするどんな人間差別も虐待も、キリストの精神とは合わないものとして拒絶する。 【第二バチカン公会議とエキュメニズム -5-】 第二バチカン公会議から30年以上も経って、2000.3.12 教皇ヨハネ・パウロ2世は、四旬節の 「赦しの日」 の説教の中で、同じように罪責を認め、赦しを求める祈りを捧げました。 このことは、以上のようなカトリック教会のエキュメニズムの流れを十分学んだ上で、理解されなければなりません。 彼は、カトリック教会の苦痛に満ちた記憶について、かつての教皇パウロ6世と公会議の教父たちによる悔悟の念を繰り返しただけではなくて、実際にそれを行動に表した最初の教皇でありました。 彼は、それに先立つ回勅 「キリスト者の一致」(1995.5.25) の中でも、カトリック教会が抱いている確信に触れた上で、次のように語りました。 「この確信は、他の多くのキリスト者たちには何か納得しがたいことであり、過去のいくつかの苦しい思い出もこの人々の心に刻まれています。」 そしてさらに、「こうしたことの原因になっている限りでは、先のパウロ6世とともに、わたしもゆるしを願っています」 と付け加えたのでした。 2004年(主日C年) 2月29日 四旬節第1主日 ルカ 4:1〜13 主が荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたのは、その受洗に際しての天からの声と関係があると思われます。 天からの声はイエスを 2004年(主日C年) 2月29日 四旬節第1主日 ルカ 4:1〜13 主が荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたのは、その受洗に際しての天からの声と関係があると思われます。 天からの声はイエスを "神の子" と "苦難の僕" という二つの表象で宣言しました(ルカ 3:22)。 主イエスにとって "苦難の僕(イザ 53章 参照)" と切り離された神の子理解を明確に拒否することは、この荒れ野の誘惑からゲッセマネの祈りに至る生涯の戦いでありました。 「神の子なら」(v.3,v.9) という悪魔の言葉は、イエスがその力を社会的経済的改革のために用いて、この世の支配者となるようにとの誘惑でありま した。 かの有名なハルナックが彼の19世紀末の講演で、「福音から具体的な社会綱領を引き出そうと敢えてする人々が絶えない」 と嘆いたように (キリスト教の本質/山谷省吾訳)、イエスを社会的改革者として解釈しようとする人が現代にも多いのです。 しかし、今朝ともにミサをささげている私たちは、次のことを承認せねばなりません。 聖書が語るイエスは "苦難の僕" としての神の子、「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ 4:25) 救い主であるということです。 主イエスが申命記からの引用を用いて、「 ・・・・・ と書いてある」 と悪魔にお答えになったように、私たちは新約聖書を引用して、「 ・・・・・ と書いてある」 と救い主イエス・キリストを告白することを学びましょう。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 2月25日 四旬節第1主日 ロマ 10:8〜13 ルカ 4:1〜13 「"御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。" これは、わたしたち(使徒)が宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」(v.8) キリスト教は "神のことばへの信仰" の宗教です。 しかし残念なことに、多くの人々が "神のことば" とは何かを正しく理解していません。 神のことばとは、使徒たちが宣教したキリストの福音、十字架と復活の福音のことであって、私たちキリスト者は 「恵みにより、信仰によって救われました。 このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェ 2:8)。 信仰とは、人間の善行や功績によってこの世を理想の神の国に作り替えることでも、また回心や償いによってイエスの贖罪の死が不必要な程に人間が善良になれると思い上がることでもありません。 そうではなくて、「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを」(エフェ 1:6)、「心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」(v.10) ことなのです。 この、使徒たちが宣教したキリストの福音、十字架と復活の福音を聞くために聖書に親しむことは、すべてのキリスト者にとっての 「生活のよりどころ」 なのであり、 もし福音に無知なままで人生を終わるなら、「あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」 と、使徒パウロは言いました(Iコリ 15:1-2)。 人間が考え出す理想の国や社会を目指すための論理に、聖書を利用しようとする考え方は、まさにイエスを誘惑しようとした悪魔のやり方であることを知らなければなりません。 使徒たちが宣教し、代々の教会が受け継いで来た "十字架と復活の福音" の外には、別の福音は存在しないのです。 聖書を学ぶことは、その素材を再調理して新しい現代風な福音という料理を創作することでは、決してありません。 イエスと悪魔がどこで違っていたのかを理解することは、とても大切です。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 2月17日 四旬節第1主日 ルカ 4:1〜13 「イエスは ・・・・・ 荒れ野の中を 2013年(主日C年) 2月17日 四旬節第1主日 ルカ 4:1〜13 「イエスは ・・・・・ 荒れ野の中を "霊" によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」(vv.1-2) この悪魔とは、私たち人間にとって他所者ではなく、むしろ身近な存在、「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」(エフ ェ2:2) であります。 この悪魔の支配によって、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ 3:23) という "この世" に、キリストは来られました(5:32、Iテモ 1:15)。 ですから聖書を真面目に読む人は、この悪魔の要求の中に自分自身の姿を発見して驚きます。 私たちは通常、聖書がひたすら語っている "神の子イエス・キリストの十字架の死と復活" という歴史上の出来事を、神からの啓示として受け入れ理解することに疎く、 そうではなくて "自分が理解し、納得出来るような" 奇跡を見せてくれと、要求します(4:23、マコ 15:32)。 「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します。」(Iコリ 1:22) 自分が考えている神や救いと、もし聖書の内容が一致していたら信じようと言うのが、まさに悪魔のそそのかしでありました。 なんと的を射た、見事な誘惑でしよう。 使徒パウロはそのような悪魔の誘惑に敢えて抗して、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えているのです」 と叫んでいます(Iコリ 1:23-25)。 イエス・キリストの受肉と死と復活が啓示であって、それ以外にはしるしは与えられない(11:29、マタ 12:39-40) と語られたイエスの言葉を、福音書は伝えています。 「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。 わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。 そのお受けになった傷によって、あなたがたは いやされました。」(Iペト 2:24) ですから、福音書の受難物語りは "感動的な悲劇のドキュメンタリー" としてではなくて、神の救いの御業とそれに対抗する私たちの罪の対決があらわにされた "福音の証言" として、読まれなければなりません。 その受難物語りの縮図が、この荒れ野の誘惑の伝承であると言うことが出来ます。 まだ書き始めたばかりですが、今年の 「聖書講義」 の序論の部分を upload しました。 http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 主がもうしばらく私に命を与えてくださるなら、この続きを書かせていただけるものと期待しています。 2001年(主日C年) 3月11日 四旬節第2主日 創 15:5〜18 フィリ 3:17〜4:1 ルカ 9:28〜36 旧約聖書によれば神はアブラハムに多くの子孫を約束し、これに 「エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」(創 v.18) と語られたパレスチナの地を与えるという契約を結ばれました。 これが "古きイスラエルの民" であって、現代のイスラエル共和国はこの古きイスラエルの再建なのです。 いわゆる中東紛争と称されるものがこの古きイスラエルの再建のための歴史の一局面であって、一方においてユダヤ人たちの信仰の中に今なおこのアブラハム契約が生きていることを理解する必要があるように思えます。 他方において教会は、イエス・キリストの血による新しい契約によって "神の国を受け継ぐ新しいイスラエル" となりました。 神が古きイスラエルと結ばれたアブラハム契約は、教会を神の国の相続者とするイエス・キリストの新しい契約によって更新されたのです。 これがパウロの語る "秘められた計画" です。(エフェ 1:9, 3:3-6、コロ 1:27 参照) ですから教会は、アブラハム契約で神が将来のイスラエルに約束されたものの正当な相続者なのです。(エフェ 1:11 参照) 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリ vv.20-21) 私たちの信仰は、このような来たり給う再臨のキリストへの待望と、すべての救われたキリスト者のからだの復活の希望に輝いています。 受難と復活のイエス・キリストは、そのような救い主なのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 3月4日 四旬節第2主日 ルカ 9:28〜36 復活されたイエスが、エマオに向かう二人の弟子に語られた次の言葉を、ルカ福音書は伝えています。 「"ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。" そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」(24:25-27) この復活の主による説明と導きによって、使徒たちはあの山の上でのイエスの変容の出来事の意味を、始めて正しく理解しました。 主の十字架と復活が救済史の出来事であって、「聖書に書いてあるとおり」(Iコリ 15:3) だったということ、それによって主は栄光に入られるということを指し示す 「キリストの威光を目撃した」(IIペト 1:16) ということを、初代教会は使徒たちから聞いたのでした。 全能の神の御前で、人間が全く無力であることを知る "恐れ" という感覚を、使徒たちはここでも体験しました。 主イエスを "人道的博愛主義者" のように理解する人々が、使徒たちが宣教した福音とは別な方向に教会を迷わせるという事態は、決して歴史的に新しいことではなくて、昔から繰り返されて来たことであります。 2世紀前半に活動したマルキオンは、旧約聖書の神を "恐ろしい神" "裁く神"、新約聖書のイエスを "優しい神" "愛の神" であると説明し、 旧約聖書の神を排撃して "ルカ福音書とパウロの10個の手紙" だけからなる書物を作って、自分の教会の正典としました。 カトリック教会は、以後数世紀にわたってその悪影響と戦わねばなりませんでした。 主の十字架と復活は救済史の出来事であって、それは父なる神の愛から出たことであります(ヨハ 3:16、Iヨハ 4:10)。 父なる神は御子の血によって私たち教会を贖ってくださいました(使 20:28)。 このキリストの福音の証言として、使徒たちはイエスの変容の出来事を語っているのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 2月28日 四旬節第2主日 フィリ 3:17〜4:1 洗礼によって誕生したキリスト者は、信仰によって義とされた者(ロマ 3:28, 5:1)、聖なる者たち(フィリ 1:1)、新しく創造された者(IIコリ 5:17)です。 それは神の御業であって、人間が "そのようなふりをする" ことではありません。 残念ながら私たちも、現代の教会におけるそのような偽善をたくさん見て来ました。 vv.18-19 が言及しているのは、そのような偽善的行為のことです。 神が洗礼を通して与えてくださる 「義と聖と贖い」(Iコリ 1:30) は、終末論的に理解すべき概念で、私たちは今はそれを信仰によって、いわば先取りとして、"前もってこれを味わい、これに与っている"(典礼憲章8) のです。 教会はキリストの第一の来臨と第二の来臨の間に歩んでいるので、"この今の世" と "来るべき世" の双方に与っています。 "信仰によって義とされた" 私たちは、今なお 「この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」(IIコリ 5:2)。 私たちの義は、"既に" であると同時に "待ち望んでいる"(ガラ 5:5) ものなのです。 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 キリストは、 ・・・・・ わたしたちの卑しい体 (存在そのもの) を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(vv.20-21) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 天の父は母であるなんて言ったら 狂っちゃうかもしれへんよ 現行のイスラエル政府 目に見えるイスラエル共和国については慎重に扱うべきかと。。。 みんな悩みはある。宗教で悪い現実が変わるわ けがない。宗教入って幸せになりました?ま あ、多少はそういう人もいるだろうが、ほとん どは入るだけ、かかわるだけ、金と時間と労力 の無駄。本来、宗教みたいに団体化する必要な いんだよね。人生生き抜く知恵なんて、しっか りした年長者にアドバイス受けるとか、自分で 調べたり試行錯誤すればいいのに。 先祖供養だの葬式だの、法外な金を巻き上げる のは一般人の敵だ。世の中には、霊感が強い人 がいる。そういう人は、世間から精神病といわ れている人も多い。霊がたむろするということ は、葬式しても、経をあげても意味がないとい うこと。宗教はそんな意味無いことで金を貪 り、本当に霊的に敏感な人に霊障というしわよ せがくる。 世の中の宗教なんて、どれもクソ。なんでも、 キリストも、仏陀も、宗教組織を作れとは言っ ていないらしいな。それが答えだよ。 昔、歴史の授業で習ったな。どこぞの宗教にはその昔、僧兵(?)なる連中がいたそうだな。いまでいうテロリストだね。現代のオウムと変わらない。そのオウムも、百年二百年続けば、伝統宗教になるんだろうな。あほらしぃー 皆さん、宗教を脱しましょうや。 2001年(主日C年) 3月18日 四旬節第3主日 出 3:1〜15 モーセはイスラエルの人々をエジプトから導き出して、これを大いなる神の民とするために遣わされた人でありました。 今朝私たちは、このモーセにではなくて、このモーセを遣わされたイスラエルの神ヤーウェに目を向けたいと思います。 この神ヤーウェは御自分のことを、「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」(v.15) として自己紹介しておられます。 イスラエルの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対してなされた約束を実現される神こそが、モーセを遣わされた神ヤーウェでありました。 モーセは尋ねます。 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。 彼らに、"あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです" と言えば、彼らは、"その名は一体何か" と問うにちがいありません。 彼らになんと答えるべきでしょうか。」(v.13) 神ヤーウェはモーセに答えられます。 「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(v.14) そしてそれに v.15 が続きます。 ここで二つのことに注目しましょう。 その第一は、神ヤーウエは出エジプトにおいて初めて登場した新しい神ではなくて、イスラエルの先祖アブラハム、イサク、ヤコブと共に歩まれた神であったということです。 その二は、神ヤーウェはイスラエルという神の民を "存在させる" 神だということです。 イスラエルが地上の他の民と区別された聖なる民であるのは、「わたしはある」 と語られる神ヤーウェによることなのです。 神の民イスラエルとは、神ヤーウエから独立しては "存在し得ない" ものなのだということを、モーセは語るように命じられたのでした。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より らっきーデタラメ放送局★第112回『世界は八百長!世界の戦争シナリオ集!』 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=LUR7dA6IHlc 宗教の開祖は優れた霊能力者だと思われます。 それに匹敵する人が後継者になり、時代に合わ せた救いを示せれば良いのだが、今の宗教はど れも、開祖はすごい、教祖はすごい、開祖、教 祖万歳!の、宣伝団体。無能者がわざわざ入信 して修行なんかしてんじゃねぇよ。時間と金の 無駄だろ?教義、聖典の内容は教祖の時代のまま。進歩なし。今の時代には会わない。て言う か、開祖がいて、無能な弟子が宗教化した時点 で悪だよ。宗教崇拝は悪魔崇拝。 宗教は悪魔。信者は甘言にそそのかされて、新たな信者集め金集め豪華絢爛な施設建設維持に夢中。そして、神の仕事を補佐したと錯覚して自己満足。貴重な金、一家団欒の時間、労力をむしりとられていることに気づかない愚か者。 2010年(主日C年) 3月7日 四旬節第3主日 ルカ 13:1〜9 「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(v.3, v.5) ローマ皇帝によって任命された総督ピラトの権力に対して、これに反抗する反体制的な、今日で言うテロリスト集団を掃討するための、小規模な軍事行動が頻発していた当時の状況から何を読み取るかは、人によってまちまちです。 しかし、イエスには明確な独自の判断基準があったことを、福音書は伝えています。 それは、「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい」(マコ 1:15)です。 イエス御自身の、そして原始教会の宣教の核心である "神の国到来の危機" を、多くの現代人は単なる聖書の中の昔話だと思っています。 しかしそう考えることによって、実際には聖書が、"現代人には理解困難な書物" になっているのです。 "復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き"(使徒信条)、やがて "生者と死者を裁くために、栄光のうちに再び来られる"(ニケア・コンスタンチノープル信条) イエスの叱責の声が、聞こえるではありませんか。 「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」(マコ 12:24) 「もう三年もの間 ・・・・・」(v.7)、つまり十分に永く、これまで神は忍耐してくださって来ました。 「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らな いで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」(ロマ 2:3-4) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より あれ、トリップわすれてしまいましたw 老クリスチャン氏、書き込み、とても勉強になります。ありがたいです。 非常に放置していたわけですが、不定期ながら思うところを書き込みしたいと思いますです。 ※ちょっぴり復習ノート ■デカルト『方法序説』における「理性」の本来の含意 我々日本人が想定するような「理性」は本来的に自然主義的なものにとどまり人間的で相対的なものにとどまるのに対し、 デカルトのいう「理性」とはそもそも人間の ものではなくして「神によって与えられたもの」、いわば神の理性の出張所ないし派出所のようなもので、したがってそれをうまく働かせれば普遍的で客観的な世界の存在構 造を知ることができる、ということを含意する。 これは前提として西洋の超自然的思考と日本の自然的思考の根本的相違による。 カントの「理性」もヘーゲルの「精神」も、より複雑でダイナミックな事情はあるが、似たようなものである。 ※我々日本人にとって形而上/形而下というプラトニズム(ニーチェ)的思考は極めて特殊である。 ■存在(オン)について ※プラトン「存在(ウーシア)をめぐる巨人の戦い(ギガントマキア)」 ※アリストテレス「事実、かつても今もまたこれからも絶えることなく哲学がそこへ向かう途上にありながらいつも繰り返しそこへ通じる道を見いだせないでいるもの、 それは〈存在者である限りでの存在者とは何か〉という問いであり、つまるところ〈存在(ウーシア)とは何か〉という問いである」 「科学(ファッハヴィッセンシャフト」とは「個別学」であり、世界(存在するもの)全体からある特定の領域(物理現象や経済現象や社会現象 etc 。)を切り取って研究 する学問。 しかし、哲学は「世界(存在するもの)全体を分節化される前の状態で扱おうとするもの」 ※ライプニッツ「なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか」 ※ウィトゲンシュタイン「神秘的なのは、世界がいかにあるか(個別学の領域)ではなく、世界があるということ(哲学あるいは神学の領域?)である」 ※ハイデガー「なぜ存在者が存在するのであって、むしろなにもないのではないのか」 ■「存在とはなにか」→「有るとはなにか」→〈成る〉理論から〈造る〉理論(丸山眞男『日本政治思想史研究』東京大学出版局) 江戸幕府創設時の支配イデオロギーに利用された朱子学は「天と人が、自然法則と人性とがそのまま連続している」ものだ。 (以下引用)「自然と人間の窮極的根源たる太極より陰陽二気を生じ、その変合より水火木金土の五行が順次に発生しそこに四季の循環が行われる。 また陰陽二気は男女としなかんずく て交感し万物を化生するが、その中人はもっとも優れた気を享けたため、その霊万物に優れ就中聖人は全く天地自然と合一している。 故に人間道徳はかうした聖人の境地を 修得するところに存する。」(引用終了) ※朱子学の〈天と人の連続〉これは丸山にとって〈成る〉理論(ゲマインシャフト的なもの) 対して元禄年間の荻生徂徠の徂徠学は〈天と人の断絶〉 儒家の徳 vs 法家の法 荻生徂徠は人間によって(人為的に)「造られた」法秩序(ゲゼルシャフト的なもの)こそが第一義であると考えた。これは丸山にとって〈造る〉理論 →「このように、聖人概念(超自然的概念)を専ら先王という歴史的実在(自然的概念)に限定」(丸山) ※ゲマインシャフト:戦国大名の郷党的な統治・・・朱子学・・・〈成る〉理論 ※ゲゼルシャフト:江戸幕府の武士による官僚制・・・徂徠学・・・〈造る〉理論 人間にとって「神学」に関する知識は信仰にとって何の役にも立たないことははっきりしているにもかかわらず、人間は「神学」への止み難い誘惑にかられます。 この背景にあるのは、端的に人間に於ける理性(懐疑)と信仰のジレンマでしょう。いかに自分の思考を停止させ神様への信仰にゆだねることができるかの意志による決断ができるのか、やはりできないのか、という深遠な相克。 人間である以上、理性からは逃れられないのは、特に近代以降に生きる我々は自意識を過剰に発達させ、さらに科学のめまぐるしい進歩によって未知なる神の領域が次々と暴かれ人間的合理にとってかわられてくのを目の当たりにしている状況にあって、ほんど必然といってよいでしょう。 とりわけ物理学の領域において相対性理論や量子力学の様々な仮説が検証されていくにつれ、学者は歓喜し、バベルの塔を着実に積み上げている、そんな先端部分に翻弄されて 現代はまさに無神論の時代。 しかし、カントが「純粋理性批判」に於いて理性の限界を認め、またたとえば量子力学方面では不確定性原理というかたちで限界に突き当たり、また数学方面では不完全性定理という轍にはまり、さすれば、有神論の入りこむ余地はないわけではないのだと思います。 ウィトゲンシュタイン「神秘的なのは世界がいかにあるかではなく世界があるということである」 今年の 「聖書講義」 に、4〜6 を追加しました。 http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 健全な、歴史的批評的研究に基礎をおいた 「聖書神学」 が、過去半世紀以上にもわたって、教会の現場ではほとんど無視あるいは無理解のまま放置されて来ました。 そのことへの反省と、聖書神学という分野への皆様の開眼のために、この講義がいささかでも助けとなることを願っています。 知って帰るのだ! 全宇宙を内蔵する《あなた》へ! ハイジャックされた地球を99%の人が知らない(上) サタン-ムーンマトリックスによって真実情報のすべては切断される | デーヴィッド?アイク http://www.amazon.co.jp/dp/4864712085/ ネットや書籍で話題の医師、内海聡も激賞! 「もう時間はない。本書を知らねば子供を守れない。地球も人類も生き残れない! 」 世界はこんなにも狂っていると感じた時に読むべき本。 数百万人が見た! 映画「スライブ」登場で超話題のデーヴィッド・アイクの最新刊! 日々経験している「五感の世界」の本質は、「個体」でも「物理的な」ものでもなく、振動、電気、 デジタル・ホログラフィーによる情報場=「宇宙インターネット」にすぎない。それを私たちが解読して「物理的な世界」と見ている。 本書では、いかにして悪意に満ちた力が、この宇宙情報源に「不正侵入」したかが明らかにされる。これこそ、 世界最高水準の濃厚なる最深鋭地球陰謀情報大公開だ! ◇爬虫類人(レプティリアン)が支配する月は「巨大な宇宙船」であり、その背後に「黒い太陽」土星。銀河中心から発信される 太陽経由の《真実の振動》情報が歪曲(ハッキング)され地球へ。意図的に用意された無知と抑圧の時代が、今。 ◇地球上でのレプティリアンのエージェントが、地球人と爬虫類人とのハイブリッド。各国王室・大富豪・大政治家・、 秘密結社イルミナティなどの最高位メンバーなど。その生存エネルギー源が、恐怖・憎悪の波動さらには人肉・人血・幼児姦。 ◇私たちの本来は意識(コンシャスネス)。レプティアンの精神(マインド)が植え付けられた人類は低振動のエネルギーを供給する家畜。 ◇宇宙はインターネット。この世界はホログラムにすぎない。私たちが宇宙インターネットとの交信を意図的に切断/制限されている ◇残忍な爬虫類の気質を色濃く受け継いでいるイルミナティ血族こが、各地に古代文明を築き、その支配を世界に広げる。 キリスト教・イスラム教など世界宗教、自由の女神、民主的な政党政治のからくりも、世界金融センターのザ・シティ... すべては古代シュメールを起源とする土星崇拝が形を変えたもの。 今こそ声を上げ、不服従のダンスを踊るのだ! ハイジャックされた地球を99%の人が知らない(下) すべての方面から推進される《血族》による支配と淘汰のアジェンダ | デーヴィッド・アイク http://www.amazon.co.jp/dp/4864712166 船瀬俊介激賞! 「この惑星の超巨悪に怒りが湧き恐怖で震えた。笑顔で覚醒するための最高文献だ! 」 《土星‐月マトリックス》という知覚の壁を破って、人間の集団的隷属状態を終わらせるには、本来の自分の姿に目覚めなければならない。 すべては、まさにすべては、そこから始まる。思い出すのだ、あなたは何者なのか、今どこにいるのか、どこから来たのかを。思い出せ。 この理不尽な地球陰謀を消せるのは、あなたしかいない! ◎ 「ロスチャイルド・シオニズム」――パレスティナで繰り広げられている組織的な民族抹殺計画、〈9・11〉、 福島の原発「事故」、ハリウッドやインターネットの支配、世界各地で繰り広げられる紛争、戦争、革命。 それもこれも最短100年単位の超長期計画によって展開している。 ◎ 地球人口を数十億単位で間引きし、レプティリアンの支配しやすい規模に持ち込もうという「人類大淘汰計画」。 ◎ 残忍な金融支配。ロスチャイルド家を始めとする血族が、そのネットワークを駆使しながら、 現実には存在しないマネーを高利で貸し付け、国家をも支配下に入れていく「信用経済」。 ◎ 人類に対する大規模マインドコントロール ◎ 〈世界の目覚め〉で踊る〈不服従のダンス〉。かつて退いた人類の味方や異次元での反レプティリアン同盟が、 広大な宇宙の各所で戦いを繰り広げている。 ◎ 〈真実の振動〉に●精神●(マインド)を開いて〈無限の●意識●(コンシャスネス)〉とひとつになることで道は拓かれる。 私たちが、自分が誰なのかを思い出すだけで、悪夢は終わる! 神の支持の下に、世界を支配するローマ皇帝の「権威」に対し、富裕貴族=戦争屋=銀行家達は、どうしても別の「権威」を作り出さなくてはならなかった。 「皇帝より自分達が世界を支配する方が正しい」という宗教的理由が必要であった。 貴族達は、ローマ・カトリック教会が封印し隠していた古文書を探し回り、ついに古代シュメール語版聖書を発見する。 ローマ・カトリック教会の用いる聖書よりはるかに古い、8000年前の最古の聖書であった。 しかも、この最も信頼出来る最古の聖書には、カトリック教会の主張するキリストの教えとは全く別の事が記載されていた。 神は天(宇宙?)から金塊等の貴金属の採取のために地球に訪れ、人類に貴金属の蓄積を命令した。 神は人間を家畜として育て、人間の肉を食べ、血液を飲み、食事とした。 神は、「一部の選ばれた人間達」に貴金属採取を任せ、地球を去った。 「選ばれた人間達は」貴金属採取のために、神の命令の下、全人類を奴隷とする権利がある。この奴隷を使い金塊を蓄積し終わった時、 不要になった奴隷の全人類を戦争で絶滅させ、神の来訪を待つ。人類の絶滅と金塊の蓄積を確認した神は、地球を再び来訪し、地上に「神の国」が実現する。 神に「選ばれた人間達」は、他の人間達を支配する権利を確認するために、「神を真似し、神と同一の行動」を取る。 神と同様、選ばれた人間達は人間を殺害し、その肉を食べ、血液を飲む儀式を定期的に行う義務がある。 こう記載された最古のシュメール語版聖書は、金塊の蓄積=銀行業と人類の絶滅=戦争を業とする富裕貴族達を狂喜させた。 http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-1917.html 「経済の真相/生活を壊されてはいけない」船瀬俊介の船瀬塾 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=s1Pl2O4tcG8& ;index=17&list=PLSKgmcUBqSee0kPvlj9wWYPhp61fvgLQL アルシオン・プレヤデス10 ? 明らかにされていない陰謀と殺人、王室の衰退、地球?星の正義に直面するエリート - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=3aio3BRN-gU アルシオン・プレヤデス36:世界的な経済危機への警戒、破綻、NWO、失業、銀行口座凍結、宇宙からの知らせ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=aiU5cUDq4dY& ;list=PLHD5_CI-AXiOZOeMkeBE5u-AZLGaoS8y3&index=60 アルシオン・プレヤデス35:ジカ熱、インターネット閉鎖、戒厳令、テロリスト、ジェダイ教、悪魔崇拝 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ljAUcJstWyY アルシオン・プレヤデス34?3:FEMAのギロチン、著名人の複製?クローン、アクエンアテン?オバマ、ビヨンセ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=nWnzDrPCXbA アルシオン・プレヤデス34?2 人間のクローン、進歩したロボットや人工物、ポストヒューマン、不死 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=SC1Hc-hOxvU アルシオン・プレヤデス34?1:ロボット人間、サイボーグ?スーパー兵士、古代の巨人ネフェリム - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Dk3GALmznAc アルシオン・プレヤデス33?3 世界のコントロール NWO、ビッグブラザー、人工知能、ロボット - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=AyRGXoPTJ_k アルシオン・プレヤデス33?2:ISの脅威、バイオテクノロジー、ロボット工学、ナノテクノロジー、DNAの修正 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=fU-t6LIvAcU アルシオン・プレヤデス33?1 社会の混乱、テロ、EUの分裂、シェンゲン、マイクロチップの埋め込み、RFID - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=p8aQ42giSyg アルシオン・プレヤデス32:パリのテロ、ISの脅威、イルミナティの偽旗、NWO - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ep8HvLCA3_o 「これが死のマイクロチップだ 」マイナンバー制度の次は国民にマイクロチップが埋め込まれる https://www.youtube.com/watch?v=y0sLCn-TM9A& ;index=24&list=PLSKgmcUBqSee0kPvlj9wWYPhp61fvgLQL Freemason Semi-Truck Hauling FEMA Coffins in Wisconsin, Sept. 2012 https://www.youtube.com/watch?v=jSMhJBDn9mo 2004年(主日C年) 3月21日 四旬節第4主日 ルカ 15:11〜32 四旬節の典礼は、洗礼志願者のためにも、また信者のためにも、過越の祭儀への備えをさせることを目指しています。 特に信者にとってはすでに受けた洗礼の恵みを深く思い、再確認する期節であるということが出来ます。 「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(v.24) 洗礼の秘跡は、罪人を死から生命へと生き返らせる神の恵みであります。 ルカ福音書の中の放蕩息子の譬え話は、この神の恵みの業を見事に描き出しています。 使徒パウロはより論理的説得的にこれを解説して、次のように語りました。 「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 ・・・・・ 生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、・・・・・ あなたがたの救われたのは恵みによるのです ・・・・・ 。」(エフェ 2:1-5) 死んでいない者が、どうして生き返るでしょうか。 罪人であるという自覚のない者が、どうして悔い改めて救われるでしょうか。 「息子は言った。"お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。"」(v.21) 罪とは神に対するものであることを、十分に理解する必要があります。 「天」 とは神のことですが、この譬え話では 「お父さん」 もまた、地上で神の代理者の立場に立つ者として描かれているのです。 現代人はすでに久しく "人道上の罪(犯罪)" について語ることには雄弁となり、"神に対する罪(反逆)" ということを実感することからは縁遠い歩みをして来ました。 それに対して聖書と教会は、神に対する罪の悔い改めと、救い主イエス・キリストへの信仰 (洗礼による救い) を、一貫して語って来たのだし、今も将来も語り続けて行きます。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「これが死のマイクロチップだ 」マイナンバー制度の次は国民にマイクロチップが埋め込まれる https://www.youtube.com/watch?v=y0sLCn-TM9A& ;index=24&list=PLSKgmcUBqSee0kPvlj9wWYPhp61fvgLQL アルシオン・プレヤデス36:世界的な経済危機への警戒、破綻、NWO、失業、銀行口座凍結、宇宙からの知らせ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=aiU5cUDq4dY& ;list=PLHD5_CI-AXiOZOeMkeBE5u-AZLGaoS8y3&index=60 アルシオン・プレヤデス35:ジカ熱、インターネット閉鎖、戒厳令、テロリスト、ジェダイ教、悪魔崇拝 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ljAUcJstWyY アルシオン・プレヤデス34?3:FEMAのギロチン、著名人の複製?クローン、アクエンアテン?オバマ、ビヨンセ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=nWnzDrPCXbA アルシオン・プレヤデス34?2 人間のクローン、進歩したロボットや人工物、ポストヒューマン、不死 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=SC1Hc-hOxvU アルシオン・プレヤデス34?1:ロボット人間、サイボーグ?スーパー兵士、古代の巨人ネフェリム - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Dk3GALmznAc アルシオン・プレヤデス33?3 世界のコントロール NWO、ビッグブラザー、人工知能、ロボット - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=AyRGXoPTJ_k アルシオン・プレヤデス33?2:ISの脅威、バイオテクノロジー、ロボット工学、ナノテクノロジー、DNAの修正 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=fU-t6LIvAcU アルシオン・プレヤデス33?1 社会の混乱、テロ、EUの分裂、シェンゲン、マイクロチップの埋め込み、RFID - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=p8aQ42giSyg アルシオン・プレヤデス32:パリのテロ、ISの脅威、イルミナティの偽旗、NWO - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ep8HvLCA3_o アルシオン・プレヤデス31?1 恐怖の隠れみの、シリア。エリートの陰謀に対するロシア - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=7_S4os237zA http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/eco/1456908744/ 飛鳥昭雄DVD「アポロ計画の真相と月面エイリアン」(No.55)NEOASKASTREAM 最終話 配信中 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=4T2dky0JMLo 2010年(主日C年) 3月14日 四旬節第4主日 IIコリ 5:17〜21 vv.18-19 「これらはすべて神から出ることであって、・・・・・ 神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、・・・・・ 」 これが、使徒パウロが説いて止まなかった 「和解の言葉」(v.19)、すなわち福音です。 彼は ロマ 1:16 に、「わたしは福音を恥としない。 福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」 と、高らかに宣言しています。 私たちは洗礼の秘蹟によって、このキリストの死に結ばれて罪に対して死に、新しい命に生きる者となった(ロマ 6:3-11) のですから、「新しく創造された者なのです」(v.17)。 "私は何年も神様に仕え、カトリックの教えに背いたことは一度もありません" ということではなくて、「大切なのは、新しく創造されること」(ガラ 5:15) なのです。 「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、(キリストの贖いの業への) 信仰による」(ロマ 3:28) ということが、大いに強調されなければなりません。 その対象が "キリストの贖いの業" ではないような、ただの盲目的な信心や敬虔が、しばしば福音に覆いを掛けている (IIコリ 4:3-4) からです。 四旬節は、私たちすべての信者がイエス・キリストの受難と死によって成し遂げられた "永遠の贖い"(ヘブ 9:12) に目を向け、 「主イエスを復活させた神が、(終わりの日に) イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる」(IIコリ 4:14) ことを学ぶ、大切な期節です。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 1. 1945年、エジプトのナグ・ハマディで50冊以上の初期キリスト教の文書が発見された。 これは1600年程前にローマ・カトリック教会バチカンが異端、禁書とし封印した文書だった。 バチカンは度重なる宗教会議で「キリスト教の発祥、出生を示す」重要文書を封印し、人目に触れないようにしてきた。 明るみに出ては困る「秘密」がキリスト教にはあった。 2. ナグ・ハマディ文書の中には、バチカンが長年「存在しない」と主張してきた聖母「マリアによる福音書」が入っていた。 バチカンはキリストではないマリアを特別に信仰する事は異端であると弾圧してきたが、余りに信者が多かったため431年に公認せざるを得なかった。 しかし「マリアによる福音書」は封印され「存在しない」とされてきた。 実際には欧州180ヶ所以上に「黒い」マリア像を信仰する教会があり、なぜ聖母マリアが「黒い」のかが問題とされ、 長年バチカンは何一つまともに返答出来ないできた。 バチカンにとってマリアが黒人でありキリストが有色人種の出自である事が露見する事は、 白人中心の人種差別による社会秩序を「破壊」する恐れがあったためだった。 http://satehate.exblog.jp/15166812/ (第七十三世 竹内宿禰。正統「竹内文書」継承者) 「正統竹内文書・第七十三世武内宿禰・竹内睦泰と行く全国秘伝口授ツアー」 https://www.youtube.com/watch?v=9uycqoY3WbE 40分頃 2001年(主日C年) 4月1日 四旬節第5主日 ヨハ 8:1〜11 この有名な姦通の女の物語りから、私たちは神の裁きと救いという二つの事柄を教えられます。 この二つの事柄の重みがいずれも十分に認識されることの大切さに注目したいと思います。 なぜならイエス・キリストは "裁き主" であると同時に "救い主" である方だからです。 この姦通の女を捕えて連れて来た律法学者たちやファリサイ派の人々は、律法の規定に従ってこの女を裁くことを提案しました。 イエスを取り囲んでいた民衆も、それは当然のことだと考えたに違いありません。 しかしイエスは違っていました。 イエスは先ず彼らの提案に同意出来ないことを、態度で示されました。 イエスは黙って指で地面に何か書き始められました。 彼らに十分にしつこく問い続けさせてから、最後にイエスは口を開きました。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(v.7) このイエスの言葉は、姦通の女を囲んでいたすべての人たちへの強烈な裁きの言葉となりました。 人々は一人また一人と立ち去り、そして女は裁かれずに残ったのでした。 主イエス・キリストがその受難と復活によって成就された救いの業は、終末の裁きからの救いです。 復活によって 「生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた」(使 10:42) イエスは、同時に 「来たるべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエス」(Iテサ 1:10) なのです。 終末の日にすべての人々への裁きが確かに来るように、その裁きからのイエス・キリストによる救いも確かに終末の日に実現するのです。 姦通の女の物語りは、この将来の裁きと救いを私たちに考えさせてくれます。 姦通の女の立場も、律法学者たちやファリサイ派の人々の立場、またそこに集まっていた民衆の立場も、すべてが終末の裁きの日をやがて迎える私たちの立場に通じているからです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「ISISによるヨナの墓の破壊」 『この書は、異邦人を主人公としているルツ記と同じように、イスラエルの民の選民思想・特権意識を否定しており、 当時のユダヤ人には驚くべき内容であった。この点において旧約聖書文書の中で異彩を放っている』 彼らの正体は当初予想されていたETではなく、今から大よそ750年先に生きる、未来の人類の代表者たちでした。 ウイングメーカーとは、時空を超えたタイムトラベラーであり、歴史を通じて人類と相互作用し、科学、芸術、哲学の種をもたらす「文化の伝播者」であると自らを描写しています。 彼らは地球の遠い未来を想定して、地球上の様々な場所に7つのタイムカプセル遺跡を遺しました。ニューメキシコの遺跡は、7つの遺跡の最初に発見された遺跡だったのです。 先進文明種族 ウイングメーカー Wingmaker★6 http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/occult/1454409855/ 2007年(主日C年) 3月25日 四旬節第5主日 ヨハ 8:1〜11 「イエスは言われた。 "わたしもあなたを罪に定めない。 行きなさい。 これからは、もう罪を犯してはならない。"」(v.11) キリスト教は、ユダヤ教と共に、倫理的な宗教であると言われています。 それは聖書が、神に仕えることと隣人に仕えることを結びつけているからです(マコ 12:28-34 参照)。 ですから、何が罪であり、何が罪からの救いなのかを、聖書によって理解することが大切です。 しかし、キリスト教の歴史を振り返ってみると、実際にはしばしば、聖書とは無関係な "別の福音" や、聖書の本来の意図から切り離された律法主義的 "倫理" が、教会によって主張されて来ました。 この物語りでのイエスの言葉の趣旨は、"わたしは今ここであなたを裁かない"、"永遠の命を得て、終わりの日に復活させていただけるように、福音を信じなさい" ということであって、 決して世俗的な意味での "道徳的な" 人間になりなさいという教えではありません。 「もう罪を犯してはならない」(v.11) という言葉は、「福音の希望から離れてはなりません」(コロ 1:23) という意味で用いられているのです(Iヨハ 3:4-10参照)。 この言葉だけを独立させて、その聖書的用語法から引き離すことは正しくありません。 同じヨハネ福音書 5:14 のイエスの言葉 「もう、罪を犯してはいけない。 さもないと、もっと悪いことが起こるかも知れない」 も、明らかに終わりの日の裁きに備える信仰の大切さを指していることを知りましょう。 今日に至るまで歴史の教会は、いわゆるキリスト教的道徳観によって、外の世界の人間を裁く傾向がありました。 しかし聖書は、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」 と述べています(ヨハ 3:17)。 教会が宣教しているキリストの福音に対する現在の信仰の有無が、その人にとっての終わりの日の裁きとなるのです(9:39, 12:48)。 「信じない者は既に裁かれている」 と書かれているのは、そういう意味です(3:18)。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 救いがあるということは、誰かを苦しめてるということになりませんか? たとえば誰かを生活保護から普通に働けるように救うとするならば 誰かを生活保護のままにしたい方を苦しめる、ということになりますよね 救いがあるってことは裁きがあるってことなのかもしれませんねぇ 私はアスタ銀河司令部の代表のグラマハです。何年も前から、あなた方は我々を上空に浮かぶ光として目撃してきました。 我々は、あなた方地球人類に、これまでも行ってきた通り、平和的に賢明に、あなた方にメッセージを伝えます。 我々は地球と人類の運命の行方について警告します。 なぜなら、今後、あなた方が直面する地球の大災害は地球だけでなく周辺の惑星をも危険にさらすことになるからです。 そのような大災害を起こさないためにも、あなた方はお互いに、どのようにしたらそれを防げるのかを話し合う必要があります。 地球はみずがめ座の新しい時代に突入します。その時、人類に覚醒してほしいのです。 新しいみずがめ座の時代は、人類が大きな進化を遂げる平和な素晴らしい時代となるのです。 しかし、あなた方の支配者が邪悪な存在によって操られていることに気が付かなければ、そのような時代は到来しません。 落ち着いてじっと耳を傾けてください。このような機会は二度とないでしょう。 全ての兵器は廃棄すべきであり、戦争がなくならなければなりません。 それができれば、人類は最高次元にまで進化が可能です。 人類が努力して共に平和で友好的に暮らせるように、学びの猶予期間は長くありません。 世界中の小さな団体は、そのことを理解しており、世界中の人々が新しい時代を迎え入れられるようにと世界中に光を送っています。 彼らが伝えることを信じるも拒絶するもあなた方の自由です。しかし平和に暮らせる人たちのみが高次元へと霊的進化を遂げられるのです。 多くの偽者預言者や指導者が地球上で活動しているようですが、それらには十分気を付けてください。 彼らはあなた方のエネルギーを搾取しているのです。 エネルギーとはお金であり、邪悪な存在にお金を手渡し利用させているのです。その見返りに何の価値もないクズを受け取っているのです。 あなた方のうちなる神がそれらからあなた方を守るでしょう。 あなた方のうちなる神からの声に耳を傾け、何が真実で何が嘘か、何が混乱を招くものかを判断してください。 あなた方のうちなる声に耳を傾けられるようになることで霊的進化を遂げることができます。 あなた方がずいぶん前から上空に浮かぶ我々の姿(光)を目撃してきたように、我々もあなた方を何年間も観察してきました。 我々はあなた方のすぐ近くにいるということを知っていますね。 そして科学者が認めている以上に多くの宇宙種族があなた方の周辺にいるのです。我々はあなた方のことが非常に心配です。 あなた方が光の方向へ進めるように援助します。怖がることはありません。あなた自身を知ってください。 そして地球上で皆が調和して平和に暮らしてください。私はアスタ銀河司令部の代表のグラマハです。 私のメッセージに耳を糧向けてくれてありがとう。では、あなた方の世界(次元)から立ち去ることにします。 宗教とかよくわからないんだけど、ちょっと疑問に思ったから教えて。 イエスをつくったのは神様だから、神様が1番ということでしょ? その神様が最初に生き物をつくったりしたという、そういうのを信じてるのがキリスト教ってこと? 日本の神社とかの神様も、キリスト教で信じられてる神様がつくったってことになるの? . † ルカによる福音書11.43-46 わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。 わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」 すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」 しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、 自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。 原発は日本を不幸にするだけです。悪魔の誘惑を断ち切りなさい。悔い改めなさい。 † マタイによる福音書23.13 しかし、忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。 あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。 自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。 . 引き続き、今年の 「聖書講義」 に、7〜9 を追加しました。 http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 新約聖書は、一世紀のユダヤ教から発してカトリック教会として成立するに至った、新しい宗教活動の聖典であります。 この聖典は、教会の主であり救い主であるイエスの物語りを、伝記としてではなく、福音の宣教として語っています。 この 「宣教」 を理解せずに、自分の現代的感覚で聖書を読み、感覚的にぴったり合う若干の章句を選び出して、これこそ新約聖書の語っている真理なのだと主張することは、必ずしも 「福音を説く」 ことにはならないのです。 【 バプテスト教会の見解 】 1.聖書の権威 最初に、聖書の権威を取り上げましょう。 この意味は『聖書のみが信仰と行動とのための唯一の権威である』ということです。 この点において他の教会と異なる特徴があります。例えば 『ルーテル(ルターが始めた教派)の牧師』は 按手礼のために 『アウグスバーグ告白』にサインしなければなりません。 ウエスレーによって始められて『メソジスト教派』は『メソジスト規律』を重んじています。また 『長老教派はカルビン』からの歴史で『ウエストミンスター信仰告白』を標準として重んじています。 英国の国教会である『聖公会』は『39ヶ条の信仰条件』を権威として重んじています。これらに対して 『バプテスト』は『聖書のみに信仰と行動とのための権威』を認めています。 -------------------------------------------------------------------------------- 権威の置き方については主に三つの立場が挙げられます。その一つは伝統です 『ローマ・カトリック教会』では 『選択された伝統』が聖書と等しい権威として認められています。また もう一つの立場は 『一般的に自由主義』の立場です。聖書は不充分だと言っています。聖書に 『理性と経験』を加えなければなりません。第三の立場は 『聖書が唯一の信仰と行動とのための権威』であるというものです。 この立場は聖書自体の主張に近いと思います。 聖書は権威ある神のことばです。聖書は人々を救いに導くものです。 地方教会の信仰と行動のための基準でもあります。 バプテスト教会はすべての教えと生活の行動のために聖書に権威を置き土台にしています。 四八方の宗派、バラバラの霊媒師達が裏でさんざん言ってるし、ダビンチコードの裏解説書にさえもあったように キリストは自分の言動が悪くてそうなった上に磔などなっていません。 影武者おいて昔のドリフのヒゲダンスのように「はいちゃらバ〜イ」とトンズラしています。 それに阪神の地震はキリストが起こしています。後から表面上は自分の所へ勧誘するためだったのです。 昔からこいつは他、人にひどく苦労、働かせておいて自分のやった手柄にしたりなどと、このようにズル悪行 大量不正殺人を繰り返してきています。その上常にごまかしてきました、親の七光りで。 そしてロリコンでもあり、幼児にいたずらもした説もあります。 いつぞやキリストの顔の絵を画家が修復失敗して、原始ボノボみたくなってるのが話題を呼びましたが、 あれがむしろ正しかったのですwwもっと言えばフクロウのクソような悪霊です。 ヤーウエもキリストもミカエルもマリアも神仏界では長くひどい罪業がばれてもはや抹消対象となっています。 キリスト教の人達は助けを求めるため悪さをしてると主張した輩がいましたが(これもうそくさい)、それなら 悪さなんかせずさっさと心のそこから改宗すればいいのです。悪さなんかしてるなら上に上げたこいつらと同様 ひどく処罰を受けるし、入れ替え弁償何倍にも取られる、で最悪上の神仏から最も苦しむ方法で抹消されるでしょう。 2001年(主日C年) 4月8日 受難の主日 イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 ルカ 23:1〜49 私たちの主イエス・キリストの受難を "神の僕の従順" という理解の仕方で考えることは、聖書が証言しており、また教会が伝統的にしてきたことです。 この考え方を非常に明瞭な言葉で伝えているのが、この フィリ vv.7-8 です。 この従順は、先ず父なる神への従順であることに注目しましょう。 私たちの主イエス・キリストの従順は、彼を裁いたユダヤの最高法院や総督ピラトへの従順ではありませんでした。 もちろん 「十字架のつけろ」 と叫び続けた人々への従順でもありませんでした。 そうではなくて、私たちの罪への父なる神の "懲らしめ"(イザ53:5) への従順を、「十字架の死に至るまで」(フィリ v.8) ささげられたのでした。 神の身分でありながら、キリストは 「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリ v.7) 主イエスは 「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:25) これがイエスの従順の意味です。 「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」(イザ v.6) イザヤ書の語る "主の僕" の従順を、主イエスは御自分の使命とされました。 神の民である新しいイスラエルの贖いのために、父なる神への従順を学ばれました(ヘブ 5:8)。 「主なる神が助けてくださる」(イザ v.7) ということへの徹底した僕の 「信仰による従順」(ロマ 1:5) を、私たちに代わって 「人間の姿で現れ」(フィリ 2:7) て、父なる神にささげられました。 このようにしてあらゆる名にまさる (救い主としての) 名を父から与えられて(フィリ 2:9)、私たちの主となってくださったイエス・キリストの受難と復活を、今年も教会は記念してこの期節を歩みます。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「主は、 ・・・・・ ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、 ・・・・・ 」(ニケア・コンスタンチノープル信条) 2010年(主日C年) 3月28日 受難の主日 ルカ 23:1〜49 「そのとき、イエスは言われた。"父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。"」(v.34) 私たちが知っている過去のキリスト教では、人々はこのイエスの言葉に、神の大いなる寛容とその愛の広さへの感嘆を語るのが常でした。 しかしそれは、ロマ 2:4 におけるような意味ではなくて、むしろヒューマニスティックなキリスト教の愛の精神を教える模範としてでありました。 実際、多くの信者が、"ここで何が起こったのか" を、必ずしも使徒たちが伝えたようには理解していないからです。 使徒たちが宣べ伝えた福音において、"神の子の受難と死" は、常にその核心部分でありました。 私たちキリスト者は、御子イエスの死によって神と和解させていただいたのであり(ロマ 5:8-11、IIコリ 5:18-19)、「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから」(ヘブ 4:14)、 この "神の子への信仰" をしっかり保とうと勧められています。 私たちが将来復活して神の国を受け継ぐ希望の根拠は、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ロマ 8:32) ということです。 受難の出来事において、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブ 5:8) その従順のゆえに御子は、「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。 わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」(Iペト 2:24) カトリック教会ではどこでも、四旬節には回心式が行われます。回心が各自の犯した罪の悔い改めを含むのは当然ですが、何よりも忘れてはならない第一のことは、私たちのために死んで復活された神の子イエスに立ち帰ることです(Iペト 2:24-25)。 私たちはこの期節に再び、「見よ、この人だ」(ヨハ 19:5/口語訳)と呼びかけられているのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>365 結局、具体的にどういうことを心がけて生きていればいいんですか。 今日は、主の受難の聖金曜日です。 いよいよ明後日は復活祭。 特に、典礼暦の頂点を飾るこのときに、皆様の心が福音の光で照らされますように(IIコリ 4:6)。 2004年(主日C年) 4月11日 復活の主日 ヨハ 20:1〜9 事件からすでに半世紀以上を経て、ヨハネ福音書は教会の信仰の基礎であり出発点であるイエスの復活についての説明を、このように語りました。 「 ・・・・・ 見て、信じた。 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(ヨハ vv.8-9) 教会の信仰は、神がイエス・キリストによって実現された救いの御業への信仰であって、神に対するものです。 それは人間の知識や理解から生まれた哲学や思想ではなくて、むしろそれらを超えたものであることを使徒たちは証言しました。 実に 「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(Iコリ 2:9) というのが、キリストの十字架と復活についての使徒たちの認識でありました。 使徒たちの宣教によって生まれ、育ち、拡大して行った初代教会は、人間の知恵や理解力を遙かに超える神の力強い救いの御業の実現に、あえて信頼し、あえてこれを承認することを、使徒たちから学びました。 「聖霊によらなければ、だれも "イエスは主である" とは言えない」(Iコリ 12:3) ということ、 「人の知恵によってではなく、神の力によって信じるように」(Iコリ 2:5) なったという初代教会の体験が、ヨハネ福音書のこのような説明を生み出したと言うことが出来ます。 その日の朝、墓は空でありました。 使徒たちの宣教によって救いに入れられた私たちキリスト者は、今朝再びその知らせを聞いて、喜びと希望に満たされます。 イエス・キリストはその贖いの業を終えて死者の中から復活されました。 今やキリストは父なる神の右の座に着き、生きている者と死んだ者を裁くために現れる栄光の日を待っておられます。 「わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。 国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。」(主の祈り 副文) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 4月4日 復活の主日 使 10:37〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9 「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。 そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(コロ v.1) 洗礼の秘蹟によって私たちキリスト者が、「キリストと共に葬られ、 ・・・・・ キリストと共に復活させられた」(コロ 2:12) ということから離れては、教会が祝う復活節を正しく理解することは決して出来ません。 残念なことに、いろいろなところで私たちが目にし耳にする "復活のメッセージ" の多くは、まるで他人事のように、別世界で起こった "感激的な出来事" のようにイエスの復活に言及しているだけで、 私たち自身の復活の信仰に関してはほとんど沈黙しているのが実状です。 私たちはかつて 「世を支配する諸霊」(コロ 2:20)、「すなわち、不従順な者たちの中に今も働く霊」(エフェ 2:2) である悪魔の支配下に生きていました。 聖書はその頃の私たちを、「生まれながら神の怒りを受けるべき者」(エフェ 2:3)、「神に敵対して」(コロ 1:21, ロマ 5:10) いた者と呼んでいます。 しかるにキリストは 「御自分の死をもって私たちの死を打ち砕き」 と説明されているとおり(復活の叙唱 1)、「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」(コロ 1:13) 実にキリストの復活は、罪と死への勝利(Iコリ 15:54-56)、悪魔の支配に対する勝利であります(Iヨハ 3:8)。 この勝利を祝うことは、「キリストと共に復活させられた」(コロ v.1) 私たちにとっての、まことに大切な尊い務めです(復活の叙唱 1)。 キリストが 「生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた」(コロ v.42)という宣教は、"あなたにどのような慰めを与えますか" という問いを設定して、かの有名なハイデルベルク信仰問答は次のように教えました。 "それは、かつて私のために神の裁きに対して御自身を献げ、私からすべての呪詛を取り除き給うたあの裁き主が、天から来たり給うのを、私があらゆる苦難と迫害の中にあっても、首を挙げて待ち望む、ということです。" ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2004年(主日C年) 4月18日 復活節第2主日 ヨハ 20:19〜31 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(v.21) 私たちキリスト者が歩んでいる 現代という時代は、"イエスの生涯" から "教会の時代" へという決定的な移行をその出発点としていることに注目しましょう。 この教会の時代は、使徒たちの宣教を土台として建てられており(エフェ2:20)、復活のイエスは教会の宣教を通してその御業を継続しておられます。 キリスト教とは何かという質問に対して、多くの人々がそれはナザレのイエスが信じ、教え、実行した宗 教であると考えて来ました。 そこではイエスの宗教の再現、あるいはその現代における模倣のようなものが漠然と考えられており、聖書の中の四つの福音書がすべて復活のイエスによる使徒たちの派遣命令で締めくくられていることが見落とされて来ました。 しかし私たちは今朝、非常に重要な聖書の証言を聞かされているのです。 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(v.31) キリスト教は、使徒たちの宣教から始まりました。 イエスの生涯と死と復活は神の偉大な御業であって、人はそれによって贖いと罪の赦しを受けることが出来るという福音を、使徒たちは復活の主に委ねられたことを理解しました。 彼らの福音はイエス・キリストについての福音、救いの福音であって、決してナザレのイエスの宗教の再現ではありませんでした。 そしてその宣教は、「すぐにも起こるはずの」(黙 1:1) 神の国の宣教です。 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(v.27) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 4月7日 復活節第2主日 使 5:12〜16 黙 1:9〜19 ヨハ 20:19〜31 「わたしは、神の言葉とイエスの証しの故に、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、 ・・・・・ 」(黙 v.9) 使徒ではなくて、それに続く時代の教会の指導者の一人であった人が、迫害の時代に自分の教会から追放されてパトモスという島にいました。 彼はそこで主の日に天上の典礼の幻を見て、それをアジア州にある七つの教会へ書き送りました。 彼は自分の出身地の諸教会に、主日のミサが十字架のいけにえの秘跡的再現であること、それがキリストの行為であり、同時に私たち祭司の民の奉仕であることを証ししました(1:6, 5:6-14)。 これがヨハネの黙示録と呼ばれる文書の由来です。 「このような偉大なわざを成就するために、キリストは常に自分の教会と共に、特に典礼行為に現存している。 キリストはミサの犠牲のうちに現存している」(典礼憲章 7)と、現代の教会が証しするのも、同じ使徒たちの宣教に起源を持つ教えであって、復活の主から直接福音を委ねられた使徒たちの宣教に基礎をおいているのです。 使徒たちの宣教がなければ、使徒後の教父たちによる福音の伝承も、そして聖書も存在しなかったであろうし、もしそうであれば、現代の教会の宣教も空しい作り話になってしまいます。 もしキリストの受難と死、復活と昇天がなかったら、使徒たちの宣教も空しい幻想であったことになります。 しかし使徒たちは、「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」 と大胆に宣教しました(使 1:8, 2:32, 3:15)。 この復活のイエスが、黙示録の著者を、そしてその後の時代の教会の証し人たちを "使徒たちの宣教の継続" へと導かれたのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ○●○宇宙人コブラレジスタンス・プレアデス+宇宙連邦 国際情勢分析 世界平和瞑想 嘘終末論○●○ [無断転載禁止](c)2ch.net http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1459599106/ こんにちは。 >>372 ところで「信仰の類比analogia fidei」を分かりやすく説明できますか? ぜひ教えてほしいです。 いまいちしっくりこないので。 いま、カールバルトと格闘中なんです。 復活節第3主日 集会祈願 「すべてを導かれる神よ、教会は新しい民を迎えて若返り、喜びに満たされています。 あなたの子どもとなる恵みを受けたわたしたちが、感謝のうちに救いの完成を待ち望むことができますように。 聖霊の交わりの中で、あなたと共に世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。」 2007年(主日C年) 4月22日 復活節第3主日 使 5:27〜41 黙 5:11〜14 ヨハ 21:1〜19 「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。 わたしたちはこの事実の証人であり、・・・・・」(使 vv.31-32) 使徒たちは、キリストの福音の証人であります。 使徒たちはその福音を、「神はイエスを復活させ」(使 v.30) 「イエスは神の右に上げられ」(使 v.31) 「生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた」 (使 10:42) 「この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」(使10:43) 「二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださる」(ヘブ 9:28) と宣教しました。 使徒たちを通して伝えられた聖伝と聖書によって、現代の教会に対しても同じ福音の宣教が続けられるために、天上のキリストは私たちのミサのただ中に今朝も来てくださっています。 なぜなら、使徒たちが伝える 「信仰と希望とは神にかかっている」(Iペト 1:21) からであり、共にミサをささげる会衆は 「人間に従うよりも、神に従わなくては」(使 v.29) ならないからです。 使徒たちが会衆に 「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを」(使 20:21) 証しするとき、そこには復活されたキリストも共におられます(マタ 28:20)。 黙示録の著者である "僕ヨハネ(黙 1:1)" は、天上の典礼で 「玉座に座っておられる方と小羊と」(黙 v.13) に天使たちが賛美をささげているのを見ました。 それは地上の教会が待ち望んでいる救いの完成 (今朝の集会祈願) の姿であり、その待望の福音は使徒たちに起源し、従って使徒ペトロに遡るものなのです。 決して黙示録だけのものでも、使徒パウロだけのもの(フィリ 3:20-21) でもありません。 共にミサをささげる私たちは、心を合わせて祈ります。 「過越の神秘によって新たにされた人々が、不滅のからだに復活し、あなたの栄光をたたえることが出来ますように」(今朝の拝領祈願)。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>377 普通、analogia fidei とは、「信仰に応じて」(ロマ 12:6) というパウロの言葉をもとに、宗教改革者たちによって主張されて来た聖書解釈原理のことを言います。 その、建前としての典型的表現を、ウェストミンスター信仰告白 1:9 に見ることが出来ます。 しかし、近代聖書学以前には、それはいわば教義学的定義として、かなり機械的な意味で理解されていました。 それに対して、聖書の歴史的批評的研究がなされるようになって、現代の聖書神学においては、もっと柔軟に釈義の問題としてこれを考えるようになりました。 現代の聖書神学の世界でも、analogia fidei は当然の前提でありつつ、しかもそれを昔のように機械的な原理としてではなく、神学的釈義における原則として捉えているのです。 http://www.kuwaei2000.com/ → ●小論集● → ★聖書入門 ★ を参照。 私は教義学の専門家ではありませんので、バルトの言う 「市民共同体における教会の行動や決断のための類比」 という思考方法については、十分消化するに至っていません。 そんなことを言えるほど、現場の教会は十分に信仰深いだろうか、福音を正しく理解しているだろうかという疑問符のほうが、私の心の中では先行してしまうからです。 2010年(主日C年) 4月18日 復活節第3主日 ヨハ 21:1〜19 私たちは今朝、初代教会における魚のシンボリズムについて、少し学んでみましょう。 カタコンベのフレスコ画に、パンと魚が感謝の祭儀の象徴として、たくさん描かれていることは有名です。 そして当時、魚のしるしは、キリスト者たちの集会所や彼らの墓地を示すいわば暗号としてよく用いられました。 現代のカトリック信者は、ミサの象徴がパンとぶどう酒ではないことを、不思議に思うかもしれません。 しかし聖書によれば、イエスが実際にパンと魚で群衆を養われた記録があり(マコ 6:34-44, 8:1-9)、このため初期の伝承において魚は重要な位置を占めたようです。 イエスの復活の物語りが教会で語られ、とくに洗礼志願者たちに教えられたとき、それらはただの事実の報告としてではなくて、教育的な意図によって再構成されて語られたに違いありません。 このヨハネ福音書のテキストも、恐らく、イエスが弟子たちを 「人間をとる漁師にしよう」(マコ 1:17) と言われたガリラヤに起源する伝承に由来し、ルカ 5:1-11 とも何らかの関係がありそうです。 「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。 その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(v.9) ここには、イエスの復活の事実の迫真性とその活き活きとした力を体験している原始教会の姿があります。 私たちの典礼書で、拝領前の信仰告白が唱えられるとき、この v.9 の感激が今もよみがえってきます。 このミサで、主の宣教命令によって救われて全世界から集められた多くの (vv.6,11) 信者たちが、一つになります。 ミサで何が起こっているのかを、原始教会の信者たちはみな知っていました(v.12)。 昔から主日やいろいろな祝祭日には、ミサに集う信者たちがいつも特別に着飾って来るキリスト教の慣習の起源を、私たちは v.7 に見出します。 それは世間的な意味での儀礼や、あるいは自分たちが楽しむためのものとは違う、"宗教的行為" と考えるべきでしょう。 ミサは、私たちが "主にお会いする" 特別な時であり、その意味で "キリスト者の生活全体の中心"(ミサ典礼書の総則 1) であるからです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より キリスト教は実は砂上の楼閣かもしれない https://ja.wikipedia.org/wiki/ エッセネ派 キリスト教徒が必死に否定するヨハネ、イエスキリスト=エッセネ派説というものがあります 有名な死海文書を残したグループ(これがエッセネ派であることすら否定されようとしている)で当時のイスラエル宗派の大勢力のひとつでした 新約聖書にその大宗派が一切登場しない(本人がエッセネ派だったため)のは有名な話ですが ではなぜイエスやヨハネがエッセネ派であったらまずいのでしょう? その理由も死海文書にあります 死海文書を残したグループは現在聖典として認められていない「エノク書」という予言書を信仰していました そのエノク書には円盤状の地球や星や星雲をおさめる箱などオカルティックな内容満載であるため そのエノク書を重視していたエッセネ派オカルト集団にイエスが属することは非常にまずいわけです しかし初期のキリスト教ではエノク書にしかでてこない天使の引用が見られたり確実に知られていました エッセネ派(死海文書グループ)=キリスト教 これが証明されればキリスト教徒は全員ユダヤ教に改宗しちゃいます 2001年(主日C年) 5月6日 復活節第4主日 使 13:14,43〜52 黙 7:9〜17 ヨハ 10:27〜30 イエス・キリストによる救いの福音は、先ず第一にユダヤ人 (古きイスラエル) への福音であったことを忘れてはなりません(使 13:26,46)。 現代のイスラエル共和国はこの古きイスラエルの再建であるということへの理解を、私たちキリスト者は深めるべきだと思います。 「神は御自分の民を退けられたのであろうか。 決してそうではない」(ロマ 11:1)、「神の賜物と招きとは取り消されないもの」(ロマ 11:29) という聖書の言葉に心を向けましょう。 なぜなら使徒パウロが ロマ 9:4-5 で語っている叫びを聞くとき、初めて私たちは今朝の使徒言行録の "異邦人たちの喜び"(使 v.48) を正しく解釈することが出来ると思うからです。 それまでは 「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた」(エフェ 2:12) 異邦人が、 「福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをユダヤ人と一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる」(エフェ 3:6) ということが始まったのでした。 使 v.47 は イザ 49:6 の引用で、これはイザヤ書の "僕の歌" の第二番の結尾の言葉です。 紀元前6世紀の、バビロン捕囚からのイスラエルの帰還と再建の預言である "僕の歌" の中に、既に神の救いがイスラエルから異邦人の世界に広がって行くことが約束されていました。 この約束が歴史上の出来事となって展開して行った報告を、私たちは今朝聞いているのです。 当時のアンティオキア在住のユダヤ人たちが、たまたま誤った判断をしてしまって、キリストの福音の宣教者パウロとバルナバを迫害したために、いわば偶然の成り行きとして異邦人の世界にキリスト教が広まることになった ・・・・・ と考えてはなりません。 神は人間の罪や過ちや不信仰をさえ用いて、御自分の救いの計画を実現して行かれるのです。 「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」(エフェ 2:5) とある通りです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 4月25日 復活節第4主日 使 13:43〜52 黙 7:9〜17 ヨハ 10:27〜30 「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。 わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」(ヨハ v.27) 私たちが "信仰" について語るとき、それが "キリストの福音を聞き分ける" ことと切り離し得ない概念であることを、明確にする必要があります。 歴史の教会が決してそのように意図していなかったとしても、実際には多くの人々が幼児洗礼によってキリスト教徒となることによって、 通俗的にはそれが "福音を聞くこと" としてではなくて、単に "教会への所属" を意味することであるかのように、安易に理解されて来たと言ってよいでしょう。 そこでは、信者が福音に無理解である責任は、教導職による教育指導の足りなさに帰せられて、しかもそのような教会の現状に誰も彼もがすっかり馴染んでしまっている、と言うことが出来ます。 とても ヨハ v.27 のような言葉を、復活のキリストが聖書を通して私たちに語っておられる "現在の神のことば" として聞く、などということは恐ろしくて出来ない。 だから、聖書を自分で読むことは避けて、司祭の "お話し" だけをありがたく聞いている、ということでしょうか。 しかしこの ヨハ v.27 で、復活のキリストは明らかに 出 20:18-21 を念頭に置いて、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(IIコリ 5:17) と私たちに語っておられるのです。 "キリストの声を聞き分ける" とは、"キリストの福音を聞き分ける" ことです。 その福音とは、"既に ・・・・・ ただ一度 ・・・・・ 永遠に ・・・・・ 成し遂げられた"(ヘブ 9:11-12) 贖いの福音であって、「神はキリストによって世を御自分と和解させ」(IIコリ 5:19) てくださったという知らせです。 "キリストの羊" とは、罪と死と悪魔に勝利された "キリストの勝利の行進に連なる"(IIコリ 2:14) 者たちのことであって、 もしこの福音を聞き分けることが出来ない人がいるなら、その人は "キリストの羊ではない"(ヨハ 10:26) 可能性が大きいと言わざるを得ません。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より [拡散希望!] 参考になりそうなURL送っておきます 電磁波による拷問と性犯罪 http://denjiha.main.jp/higai/archives/category/%E6%9C%AA%E5%88%86%E9%A1%9E 公共問題市民調査委員会 http://masaru-kunimoto.com/ この方たちは集団訴訟の会を立ち上げてマスコミに記事にしてもらう事を目的に集団訴訟を被害者でしようという試みを持っている方達です 訴訟は50人集めてしようという事なのですが50人で訴訟をすると記事に書けるそうです 記事には原発問題を取り上げてテク犯被害を受ける様になった大沼安史さんらが取り上げて下さるそうです 大沼安史さんがテク犯に遭っているという記事 http://ameblo.jp/hilooooooooooooo/entry-11526674165.html 大沼安史の個人新聞 http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/4/index.html この方たちは電話相談等も受け付けている様で電話番号を載せている方達は電話かけ放題の契約をしていますのでこちらから電話して本人にかけ直してくれと頼むとかけ直してくれます 音声送信被害等を受けている「電磁波による拷問と性犯罪」の記事の水上さんは年金暮らしなので時間には余裕があるそうで被害内容の話等を聞いてくださると思います もう一人の電磁波犯罪には遭っていない国本さんという方は電磁波犯罪をしっかり理解されている方で年金暮らしの方なので長電話も大丈夫です 大沼さんはこちらのページからメールを受け付けておられる様です http://onuma.cocolog-nifty.com/about.html 電話をかけたい場合は人によってはメールで電話番号を訊くと教えてくれると思います この文章を見られた方は全文コピーをしてできるだけ多くの知り合いの被害者の方等にメールを送るなり被害者ブログに書き込むなりしていただければ大変有難いです もし大勢の方に送る事が出来なければまだこの文章に触れていない知り合いの被害者に少しでも全文コピーで送っていただけるとその方が次の何人かの方に繋いで頂ける場合があり結果として大勢の方に見て頂く事が出来るはずです ご協力よろしくお願い致します 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:f70dfdc711a7c6ae6accccb939f27fbf) 2004年(主日C年) 5月9日 復活節第5主日 使 14:21〜27 黙 21:1〜5 ヨハ 13:31〜35 私たちの救い主イエス・キリストは、私たちの罪のために死に渡され、復活して父なる神の栄光に入られました。 教会はこのイエス・キリストの死にあずかる洗礼によって救いに入れられた者たちの群ですから、またキリストの復活の命にもあずかっており、私たちは将来の神の国を受け継ぐ約束に生きています。 この教会が、今朝再び、聖書を通して語りかける天上のキリストのことばを聞いています。 「あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ v.34) 近代の聖書解釈は通常、ヒューマニズムによって支配されて来たために、これを道徳的な教えとして読むことに慣れて来ました。 「互いに愛し合いなさい」 とは美しい道徳ではあっても、人々にとって最早 「新しい掟」 ではない。 かつてイエスが弟子たちに教えられたときに、せいぜい画期的であったという程度の意味でしかない ・・・・・ と考えられて来ました。 しかし私たちは今朝、主日のミサの朗読配分の中で、このテキストを通して語られる天上のキリストのことばに耳を傾けます。 それは、すでに私たちがよく知っているヒューマニズムの愛とは違う、「新しい掟」 なのです。 「わたしがあなたがたを愛したように」 とは、単なる手本以上のもの、「その血によって贖われ、罪を赦され」(エフェ 1:7) た者たちへの、天上のキリストの呼びかけです。 私たちは一般人としてではなくて、救われたキリスト者として、今朝キリストのことばを聞いているのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 388. イエスキリストは人間によってころされた。 なんでか。 それは人間にできないことを提唱したからである。 それが愛、か。 否である。 それは神を提唱したからである。 2010年(主日C年) 5月2日 復活節第5主日 使 14:21〜27 黙 21:1〜5a ヨハ 13:31〜35 「あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ v.34) この 「新しい」 という表現の重要性に、先ず注意を喚起したいと思います。 互いに愛し合うという同胞愛そのものは、決して新しいものでもなく(レビ 19:18 参照)、またキリスト教だけの特性というものでもありません。 それはイエス・キリストの死と復活によって実現した贖いと、その御子の再臨との間の、中間の時という特別な状況における掟として 「新しい」 のです。 つまり 「御国を受け継ぐ」(エフェ 1:14) という約束を共有しているからこそ、"揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、福音の希望から離れない"(コロ 1:23) ように、互いに "日々励まし合う"(ヘブ 3:13) 愛であればこそ、これは 「新しい」 のです。 イエス・キリストは罪と死に勝利して、復活されました。 しかし教会は今はまだ、"神の国で顔と顔を合わせて"(Iコリ 13:12) イエスを見るに至っていません。 ただ歴史の教会は、「このような希望によって救われているのです。」(ロマ 8:24) そのような中間の時のための 「新しい掟」 が、 「互いに愛し合いなさい」 であることを、よく理解しましょう。 確かに教会はすでに 「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(IIコリ 5:17) 時代を歩んでいます。 しかし、それと 「新しい天と新しい地」(黙 21:1) を混同してはなりません。 歴史の教会は、今なお神の国に向かって旅しており、「地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを」(ヘブ 11:13) 知っています。 そのような旅する歴史の教会に、その約束と希望のゆえに、「互いに愛し合いなさい」 という 「新しい掟」 が与えられていることを、感謝しようではありませんか。 「わたしたちは揺り動かされることのない御国 (の約束) を受けているのですから。」(ヘブ 12:28) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2004年(主日C年) 5月16日 復活節第6主日 使 15:22〜29 黙 21:10〜23 ヨハ 14:23〜29 教会を導く聖霊の賜物は、キリストが私たちの罪のために死んで復活されたことによって、初めて訪れるようになりました。 十字架の福音と結びつかない霊は、聖霊ではありません。 また聖霊は復活されたキリストが父の許から送ってくださるものであって、キリストの福音を救われた人々に理解させてくださいます。 人間が元来持っている能力や可能性から何かを引き出す "世の霊"(Iコリ 2:12) とは異なり、神の救いの秘められた計画を啓示するのは、「父が御子の名によってお遣わしになる聖霊」(ヨハ v.26) であります。 いつの時代にも、教会が真にキリストの教会であり続けるためには、聖霊の賜物が必要でありました。 ヨハネの手紙 I は、「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」(4:1) と警告しています。 現代世界のキリスト教も、神から出たのではない "世の霊" によって大いに混乱しています。 私たちは歴史の教会の過去の戦いが生んだ遺産に感謝しましょう。 ニケア・コンスタンチノープル信条は、次のように明言しています。 「聖霊は父と子とよりいで、父と子とともに拝みあがめられ、 ・・・・・ 。」 神の国は教会に約束された将来の完成であり目標であります。 救われた人々が終わりの日に神の国を受け継ぐ保証として、神は 「聖霊で証印を押されたのです」(エフェ 1:13)。 この福音を私たちに理解させ、この福音に希望を置く教会を育ててくださるのは、聖霊の御業以外の何ものでもありません。 使徒継承の教会と共に働き、父と子と共に拝みあがめられる聖霊に、賛美。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 5月9日 復活節第6主日 ヨハ 14:23〜29 「イエスはこう答えて言われた。 "わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。"」(v.23) 「わたしの言葉」 とは、神がキリストによって世を御自分と和解させてくださった福音のことなので、単数形(ロゴス)が用いられています。 それは 「十字架の言葉」(Iコリ 1:18)、「和解の言葉」(IIコリ 5:19) と称されるものであって、歴史上の出来事として私たちの間に起こった事柄です(ヨハ 1:14 参照)。 ですから、教会が宣教している "出来事としての言葉(ロゴス)" は、哲学やイエスの教え、あるいはキリスト教思想というようなものではありません。 イエスは、十字架につけられて死に、葬られ、さらに復活して天に昇り、地上から去って行かれました。 初代教会の人々は最初、このイエスがすぐにも再臨されるという期待を抱いていましたが、実際には教会はそれとは違う歴史をたどることになります。 キリストは "弁護者である聖霊"(v.26) を通して、信じる人々と共に住むために戻って来られました(14:18)。 教会が宣教する "勝利の言葉(ロゴス)" として、私たちの間に来てくださったのです。 この事実をヨハネ黙示録は、"神の言葉と呼ばれる白馬の騎手" の象徴を用いて描いています(6:2, 19:13)。 啓蒙主義以来のキリスト教は、聖書の中心的使信であるキリストの再臨への期待を、合理的に理解不能なこととして退け、 同時に "わたしの言葉(ロゴス)" としてのキリストが、教会と共に住んでくださっているという信仰を捨てて、それをイエスの教えやキリスト教思想などというものに置き換えようとしました。 今日 "聖書を学ぶ" とは、私たちがそれらの思想との戦いを決意することでなければなりません。 「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、(悪魔の) 支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェ 6:12) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2004年(主日C年) 5月23日 主の昇天 ルカ 24:46〜53 使徒たちの宣教の中心は、主イエス・キリストの死と復活によって実現した罪の赦しの福音であって、すべて信じて洗礼を受ける人々に救いをもたらします。 「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(vv.46-47) その実現の歴史こそが教会の歴史であり、使徒たちは歴史の教会の宣教の最初の段階の証人でありました。 やがて使徒たちの時代が終わっても、教会の宣教は終わりませんでした。 天上のキリストは聖伝と聖書によって、使徒たちの宣教をその後継者たちに受け継がせ、今日に至るまでこれを導いておられるからです。 福音書は、主イエス・キリストがユダヤ教の聖書解釈である 「昔の人の言い伝え」 を、人間の業であるとして拒否したことを伝えています(マコ 7:1-13)。 それに対して新約聖書は、唯一の正当な伝承として、使徒たちの宣教を保存し伝えました。 それはこの宣教が人間の業ではなくて神の業であり、その背後には天上のキリストが立っておられるからです。 この使徒たちの宣教とは別な、人間が作り出した 「ほかの福音」(ガラ 1:7) を宣べ伝える人々が、いつの時代にもいました。 近代のヒューマニズムは、復活して生きておられ、やがて来られるキリストが使徒たちに委ねられた宣教とは別な、人間の作り出した 「ほかの福音」 を次々と生み出して行くことに、大いに貢献したと言うことが出来ます。 使徒たちが受け、使徒たちが伝えたものに反する 「ほかの福音」 の宣教によって、現代の教会は重く病んでいるのです。 しかし使徒たちの宣教によれば、天にあげられたキリストは 「生きている者と死んだ者を裁くために」(IIテモ 4:1) 再び来られます。 その出現とその御国とを思うことは、主の昇天を記念する今朝のミサの主題であります。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 5月16日 主の昇天 使 1:1〜11 ヘブ 9:24-28, 10:19-23 ルカ 24:46〜53 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使 v.8) この 「あなたがた」 とは、言うまでもなく使徒たちのことです。 使徒たちの宣教には聖霊が共に働いてくださるということが、近代の教会で久しく忘れられて来ました。 今なお多くの司祭と信徒が、使徒たちの宣教に耳を傾けることを知りません。 天を見上げて立っていたガリラヤ人のように、聖書をただの昔話のように考えて過去に憧れてみたり、あるいはそこから現代人に役立つなにがしかのヒントを拾い出すことの出来る教養書として、時折読んでいるだけです。 今日私たちは、聖伝と聖書によって使徒たちの宣教に親しむことが出来ます。 そして、私たちが使徒たちの伝える福音をそこで聞き取ることが出来るかどうかの鍵は、大いに自らの信仰の姿勢に関係しています。 私たちが聖霊を呼び寄せるなどと考えてはなりません。 使徒たちの宣教と共に今も実際に聖霊が働いておられるだろうかと疑う必要もありません。 最も心配しなければならない、しかも私たちに可能な唯一のことは、「聖霊に言い逆らう」(マタ 12:32) ことなのです。 "言い逆らう" とは、上記のような見当外れな聖書の読み方のことでもあります。 カトリック教会は使徒継承によって、"使徒たちの宣教" を今日まで受け継いで来ました。 それが聖伝と聖書です。 私たちがこれを理解して自らの信仰と結びつけ、"約束されたものを手に入れる"(ヘブ 11:13,39) ために、 「神の家を支配する偉大な祭司がおられる」(ヘブ 10:21)、そして聖霊が訪れてくださる(ヨハ 14:26, 15:26) ことを、感謝しようではありませんか。 使徒たちだけが、今も福音の確かな証人なのですから。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2004年(主日C年) 5月30日 聖霊降臨の主日 使 2:1〜11 ロマ 8:8〜17 ヨハ 14:15-16,23-26 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。 キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ロマ v.9) 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(ロマ v.14) 聖霊を受けるためには、洗礼が必要であると、教会は教えて来ました(使 2:38 参照)。 「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して (すなわち洗礼を受けて) 救われる」(ロマ 10:10) という主張は、現代の教会が使徒継承によって受け継いで来た真理であります(教会憲章 14)。 洗礼を受けるには先ず信仰が必要です。 そして信仰はキリストの福音を聞くことによって始まります(ロマ 10:17)。 ですから、現代の教会が聖霊の賜物によって豊かにされるには、何よりもキリストの福音が、使徒たちが伝えた通りに、再び生き生きと宣教される必要があります。 聖伝と聖書によって伝えられて来た福音は、神の霊によって導かれる教会こそが御国を受け継ぐ 「キリストと共同の相続人」(ロマ v.17) であると宣言しています。 現代の教会はすでに久しく使徒たちの宣教とは無縁になり、十字架のキリストの福音は 「ほかの福音」(ガラ 1:7) に場所を譲って、聖霊の支配ではなくて肉の支配が実権を奪ったかのような状態の中にあります。 1530年にプロテスタント側で起草された 「アウグスブルク信仰告白」 は、教会を定義して、「福音が純粋に説教され、キリストのいけにえの奉献が (その語られた) 福音に従って正しく執行される」 と述べたことは、有名な話です。 現代の教会がどんなに悲惨な状態の中にあるとしても、それでもキリストの霊である聖霊が私たちを訪れてくださるのは、ことばの典礼と感謝の典礼を通してであることを、私たちは見失ってはなりません。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 5月27日 聖霊降臨の主日 使 2:1〜11 ロマ 8:8〜17 ヨハ 14:15-16,23-26 使徒言行録は、教会の誕生の起源を五旬祭の日の聖霊降臨の出来事に置いて物語っています。 原始キリスト教は、これを起源としない別の種類の教会を知りませんでした。 歴史の教会は、この唯一の起源から離れては、キリストの教会ではあり得ないと言うほどに、聖霊降臨の出来事の物語りを大切にして、復活節の最後の主日のミサでこれを記念して来ました。 この使徒言行録のテキストの要点は、次の通りです。 この日 「一同」 は一つになって集まっており、 聖霊に満たされて、霊が語らせるままに話し出したということ(使 vv.1,4)、その 「一同」 とは 「使徒たち」 であったということ(使 v.6)、そして彼らは 「神の偉大な業」 すなわちキリストの福音を語ったということです(使 v.11)。 新約聖書において、キリストの福音は "使徒たち" と結びついており、聖霊はその "使徒たちの宣教" と共に働いたことが述べられています。 なぜなら、彼らはキリストの生涯と復活の目撃者であるというだけではなくて、福音の証人また伝承者として、復活の主によって派遣された一団だからでありました(使 1:8)。 聖伝と聖書は、唯一の正当な福音の伝承として、使徒たちが伝えたもの、すなわち 「伝えられた教え」(ロマ 6:17、Iコリ 11:2)、「キリストの言葉」(ロマ 10:17) と呼ばれる伝承を承認します(神の啓示に関する教義憲章 8-9)。 この使徒たちの宣教から離れて現代人が考え出す "新しい福音" と共に、聖霊が働いてくださることを期待するような人々は、聖書を正しく理解していないと言わなければなりません。 聖霊が人間の熱狂や精神的集中などに置き換えて誤って理解されることによって、しばしば教会は使徒たちの伝えた福音とは何の関係もない歩みに陥りました。 教会は使徒という土台の上に建てられているのであって、歴史の教会がさらに別の新しい使徒を生み出すことはもはやないのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2001年(主日C年) 6月10日 三位一体の主日 箴 8:22〜31 ロマ 5:1〜5 ヨハ 16:12〜15 聖霊降臨後の最初の主日は、三位一体の主日です。 灰の水曜日以来中断されていた年間が再び始まりました。 「唯一の神を礼拝するわたしたちが、三位の栄光をたたえることができますように」 と、今朝の集会祈願で祈りました。 三位一体の教理は、キリスト教会が4世紀に開いた二つの教会会議を経て完成し守り抜くことの出来た、教会の信仰の本質に関わる大切な遺産なのです。 現代の私たちは、"ニケア・コンスタンチノープル信条" という形でこの教会の信仰の遺産を持っています。 そして今朝の朗読聖書も、この "ニケア・コンスタンチノープル信条" と深く関わっている聖書の箇所が選ばれています。 このような信条との関わりを心に留めて、今朝の聖書の学びを進めてみましょう。 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ロマ vv.1-2) 私たちの信仰にとって、主イエス・キリストは大切な方です。 「このキリストのお陰で」 とは、私たちの信仰の大切な要素、これなくしては信仰が成り立たないような事柄です。 私たちは主イエス・キリストによって救われ、神の国の希望に生きる民となりました。 この 「希望はわたしたちを欺くことがありません。 わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ v.5) このキリストについて、"ニケア・コンスタンチノープル信条" は次のように宣言しています。 「神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神。」 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 5月30日 三位一体の主日 箴 8:22〜31 ロマ 5:1〜5 ヨハ 16:12〜15 「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。 ・・・・・ その方はわたしに栄光を与える。 わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」(ヨハ vv.13-14) イエスの地上の生涯の間、弟子たちが救い主としてのイエスをほとんど理解していなかったことを、福音書は伝えています。 イエスの受難と復活の後に初めて、弟子たちは罪と死に勝利された贖い主キリストを理解したのです。 復活のイエスの霊が、彼らに福音の真理をことごとく悟らせてくださるのを、彼らは体験しました。 歴史のイエスがかつて彼らに話された数々のことが思い起こされ、その意味が分かって来ました(ヨハ 14:26)。 この事実を前提にして、私たちは聖書を学ぶことが大切です。 「聖書の預言は、 ・・・・・ 人々 (使徒たち) が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(IIペト 1:21) 私たちはこの目で 「キリストを見たことがないのに愛し、今は見なくても信じており」(Iペト 1:8) と言われているのと同様に、また聖霊を見ることも出来ません(ヨハ 3:8)。 しかし、聖霊の働きなしに聖書を理解し、そこから福音を聞き取るということは全く不可能なのです。 ほぼ3世紀半ば頃には組織として確立したカトリック教会が、その後聖伝と聖書を今日に至るまで、使徒継承によって守って来たことの決定的重要性を、私たちは再認識しなければなりません。 「すべてのものが造られる前に生まれた方」、「万物は御子において造られた」 と言われている方、神はこの 「御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し」てくださったという福音(コロ 1:19-23) を理解させてくださるのは、 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」(IIコリ 13:13) であることを、全世界のキリスト者と共に、今朝、私たちは感謝しようではありませんか。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より いろんなサイトや語りはあれど >>400 と同時に紛争と虐殺について書いたり語るというは見聞きしたことが一度もない 聖書を文字面でしか読めない人のことを、律法主義者と呼びます。 福音を、救いをもたらす神の力 (ロマ 1:16) として聞く人は、信仰によって生きるのです (ガラ 2:20)。 「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたち (使徒) があなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい(ガラ 1:8)。 2001年(主日C年) 6月17日 キリストの聖体 創 14:18〜20 Iコリ 11:23〜26 ルカ 9:11〜17 イエスは集まった群衆を迎えて 「神の国について語り」(ルカ v.11)、それに続いて彼らに食べ物をお与えになりました。 ルカ福音書はこの物語りを、ミサを意識して描いています。 ミサの第一の部分である "ことばの典礼" では、いつもキリストの福音、神の国の福音が語られていました。 "ことばの典礼" とはそういうものなのだといういわば当然のことが、20紀のキリスト教ではしばしば忘れられて来たことを、私たちは反省しなければなりません。 ルカ福音書はここで、復活されたイエスが弟子たちに現れて 「四十日にわたって ・・・・・ 神の国について話された」(使 1:3)、その神の国の福音のことを言及しているのです。 それは著者ルカが当時の教会のミサのことを考えてこの物語りを描いたからでした。 このような、福音書成立の背景というものを理解することは大切なことです。 「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」(ルカ v.16) ここに 「賛美の祈り」 とあるのは、当時のユダヤ人がいつも食卓でささげていた "ベラーカー" という祈りのことです。 私たちが現在使用しているミサ式次第では、この "ベラーカー" に準じて 「パンを供える祈り」 と 「カリスを供える祈り」 の二つが作られています。 司祭 : 神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるパン(ぶどう酒)はあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです。 会衆 : 神よ、あなたは万物の造り主。 そして当時の教会で助祭たちが手分けして会衆に御聖体を配って回った様子が、この物語りから想像されるのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 6月6日 キリストの聖体 創 14:18〜20 Iコリ 11:23〜26 ルカ 9:11b〜17 イエスが群衆に食べ物を与えられたこの奇跡物語りは、すべての福音書において一つの神学的な主題、すなわち感謝の典礼と結びつけて語られています。 それは天におけるメシア時代の饗宴の先取りであり(典礼憲章 8)、贖われた民を終わりの日に復活させる(ヨハ 6:54) 「感謝のいけにえ」(ミサ典礼書の総則前文 2) の奉献であります。 創世記の物語り中で、特にその前後と関係のない独立した断片として、このメルキゼデクの祝福がここに挿入されています。 しかし、それが伝承の編集過程でここに置かれた意図を推測すると、一つのメッセージが読み取れます。 アブラハムの時代には、エルサレムはエブス人の町であって、これがイスラエルの手に帰したのはダビデの時代になってからでした(サム下 5:6-10)。 しかし恐らく伝承の編集者にとっては、シオンは大いなる神イスラエルの主の都であって、このサレム (シオン) の王からアブラハムが祝福を受けたという重大な象徴的意味こそが、その挿入の意図でありました(詩 132:13-14, 133:3, 134:3)。 同じように、私たちは今は地上で 「救いの神秘のために、キリストにおいて感謝しながらそのいけにえをささげる民、キリストのからだと血を受けることによって一つに結ばれる民」(総則/前文 5) ですが、 それがやがて将来 "御国を受け継ぐための保証"(エフェ 1:14) であればこそ、確かに "信仰の神秘" なのです。 「アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。」(創 v.20) "信者の霊的いけにえは、司祭の奉仕を通して唯一の仲介者キリストのいけにえと一つに結ばれて完成する。"(総則/前文 4) 私たちを 「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださった」(Iペト 1:4) 私たちの主イエス・キリストの父である神に、感謝しましょう。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>406 何のための書き込み ?????????????? 2013年(主日C年) 6月9日 年間第10主日 ルカ 7:11〜17 「イエスは息子をその母親にお返しになった。」(v.15) ルカ福音書が、明らかにエリヤとエリシャの物語り (王上 17:23、王下 4:36) を念頭にこのイエスの奇跡を記述していることに、私たちは注目しなければなりません。 それは全く神学的な意図で書かれているのであって、私たち信じる者を御自分の復活に与らせてくださるキリスト (ロマ 6:3-11, 8:11、コロ 3:1-4) が、 「来るべき方」(ルカ 7:19) として、確かに来られたという事実を証言しているのです。 キリストの福音の力は、何よりも先ず "死者の復活と来世の命を待ち望む" 希望にあることを(フィリ 3:20-21)、現代のキリスト者は再認識しなければなりません。 なぜなら近代のキリスト教は福音を分かりやすく説明しようとして、福音からその本来のつまずきを取り除いて来たからです。 大切なことは "キリストの福音につまずかない"(ルカ 7:23) ことであって、決して福音固有のつまずきを取り去ることではないのです。 「わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(ヨハ 6:54) 「わたしは復活であり、命である。」(ヨハ 11:25) 「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」(ロマ 8:24) このような福音の理解の線上で、ルカは "死にかかっていた部下の癒し"(ルカ 7:2-10) に連続して、この "やもめの息子を生き返らせた話" を記述したのだと思われます。 復活して天に上げられ、神の右の座に着かれたキリストが今も、使徒たちが伝えた福音の宣教と共におられることを、私たちは信じるようにと招かれているのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 6月9日 年間第10主日 王上 17:17〜24 ガラ 1:11〜19 ルカ 7:11〜17 「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」(ガラ v.12) ここで使徒パウロが問題にしているのは歴史上のイエスではなくて、神の右に上げられたキリストが問題になっているということを、先ず指摘しなければなりません。 しかし同時に注目すべきことは、彼はダマスコ途上の幻 (使 9:1-9) で福音を知らされたのでもないということです。 この一見矛盾する事実は、次のように説明されなければなりません。 パウロは回心後、ダマスコにおいて、すでに当時この地方に広まっていた "使徒の言い伝え" を学びました(使 9:19-25)。 そしてその後エルサレムで(使 9:26-30)、アンティオキアで(使 11:25-26)、さらに使徒の言い伝えを受けたものと思われます。 この福音の伝承の背後に天上のキリストが立っておられるという意味で、パウロはこれを "啓示による" と説明しました。 つまり、それは一人の人間の私的な解釈ではなくて、イエス・キリストの啓示による福音伝承であるということです。 換言すれば、この福音をさらに宣教すること自体にも、天上のキリストが共におられるという理解なのです(Iコリ 11:23, 15:3 参照)。 聖書神学者 O.クルマン はこれを説明して、"使徒たちすべての共通の証言だけが、キリスト教の伝承を形成することが出来、その中に主御自身が働き給う" と書いています。 それ故にパウロは、ケファ (使徒ペトロ) から "使徒の言い伝え" を受けるために、"エルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在した"(ガラ v.18) のだと考えられます。 この、彼が受け、さらに彼が告げ知らせた福音(ガラ 1:8,11-12) によって、パウロは明確に宣言しました。 「わたしたちは、義とされた者の (御国を受け継ぐ) 希望が実現することを、"霊" により、信仰に基づいて切に望んでいるのです。」(ガラ 5:5) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ rニ二二ゝ―‐、 私は私の目の望むまま > /""""""ミヽ ヽハ .肉の望むままに| / ミ| | | 歩まず誘惑を断り |〈ー‐、 r―- ミ| ,ハ ) 自らの十字架を背負い| 赱>//ィ赱ア | ハ ( _____/ l // ,リ ノ) )明日の事を思い煩わず . |(___つ (0) ( (身体の事を思い煩わず ∧ヾニニア ノ) ) )この世に断食して ( ヽ ノ ( ( ( (清く生きられる様 ))))>― ´ /― 、) ) )アーメンラーメン (/|\ // \(( 今年の 「聖書講義」 に、<2016-3> を追加しました。 http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 特にプロテスタントの方々は、かなり抵抗感を持たれると思いますが、 2.カトリック教会の形成 で私が述べている問題提起について、ぜひ皆様の異論・反論を聞かせていただければ幸いです。 2013年(主日C年) 6月16日 年間第11主日 サム下 12:7〜13 ガラ 2:16〜21 ルカ 7:36〜8:3 「(一人の罪深い女が ・・・ )、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(ルカ v.38) 明らかに福音書記者ルカの見事な脚色が、この物語りを生き生きとしたものにしています。 マコ 14:3-9 に語られている "主の埋葬の準備となった香油注ぎ" の話に類似していますが、その主題が "罪の赦し" になっているのです。 神が御子の死によって成し遂げてくださった和解と罪の赦し (ロマ 3:23-25、IIコリ 5:18-21) を、あなたはこの女のように深く信じて、真剣に主を愛しているだろうかという問を、ルカ福音書はここで読者に提示しているのです。 イエスを食事に招いたあるファリサイ派の人は、自分は正しい人間で、この女のように罪深くはないと思っていました(ルカ v.39, 18:9-14 参照)。 "彼女は罪深く心がけが悪いのだ" と見下げる図式が、如実に描かれています。 現代のキリスト教界を覆っているこれに似た "律法主義的批判" が、すでに初代教会にもあったことをこの物語りは示しています。 この世は罪の支配下にあって(エフェ 2:1-3)、神に敵対しており(コロ 1:21)、私たちにはイエス・キリストの贖いによる以外には救われる道がないということを(使 4:12)、教会は説教し続けなければならないし、信者は何度でも繰り返し聞いて行かなければなりません。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 6月16日 年間第11主日 サム下 12:7〜13 ガラ 2:16〜21 ルカ 7:36〜8:3 「これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。」(ガラ v.16) 古来、教会はミサの最初の部分で "あわれみの賛歌 (キリエ)" を歌って来ました。 これは古カトリック教会で典礼書とミサ曲がラテン語で整えられるようになる以前からのものであったために、このキリエだけは今でもギリシア語で歌い継がれています。 このミサ曲によってカトリック教会は、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」(ロマ 3:20) が、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ロマ 10:13) という信仰を明確にして来ました。 カトリック教会の信徒および教導職が、このことに再び目覚めることは、信仰年 (2012.10.11〜2013.11.24) に当たっての重要な課題であると言うことが出来ます。 過去の、プロテスタント教会との不毛の論争の影響で、カトリック教会では "信仰によって救われる" ということを強調することを敢えて避ける傾向があったことは、よく知られています。 第二バチカン公会議によって、カトリック教会が正しい伝統によって刷新されたにもかかわらず、その福音理解の刷新が多くの司教や司祭たちの説教に反映されることのあまりにも少ないことを、嘆かないではいられません。 "良い行いに励みましょう、正しい社会を作りましょう" などと言うだけで、何よりも先ず自らと教会の罪について "イエス・キリストの贖いによる罪の赦しを真剣に求めましょう" と語るのでなければ、それは福音の説教にはならないからです。 主日のミサの朗読配分は、私たちが神のことばを聞くために、主が備えてくださった最高の贈り物です。 私たちは聞いて、理解して、悔い改めて、心から言おうではありませんか。 「わたしは、神の恵みを無にはしません。 もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラ v.21) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>414 宇野さんのファンですか ? どうぞ、御自分の言葉で自分の主張を述べてください。 2004年(主日C年) 6月20日 年間第12主日 ゼカ 12:10〜13:1 ガラ 3:26〜29 ルカ 9:18〜24 「イエスが言われた。 "それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。" ペトロが答えた。 "神からのメシアです。"」(ルカ v.20) 初代教会の信仰宣言は、初めはキリストを言い表す短文定式が用いられたものと考えられます。 例えば、「イエス・キリストは神の子であると信じます」(使 8:37)、 「イエス・キリストは主である」(フィリ 2:11)、 「イエスはメシアである」(Iヨハ 2:22)、 「イエス・キリストは肉となって来られた」(同 4:2) などがありますが、 それらの宣言の前提となっているものは、イエスはメシア (キリスト) であるという信仰であります。 福音書はイエスの生涯の歴史的な物語りの記録として書かれた書物ではなくて、神がキリストによって実現された救いを宣教するために、初代教会によって生み出されたものであります。 ですから私たちの信仰の対象は、教会によって宣教されたキリストとその秘められた計画 (ロマ 16:25、エフェ 1:9) であって、不確かな資料から空想を交えて復元されたイエスの歴史的肖像画ではありません。 イエスがメシア (キリスト) であるという信仰宣言は、決してペトロの個人的な発言としてではなくて、教会の、使徒的な宣教の基本的前提としての位置を、福音書の中で占めているものなのです。 「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったときのように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」(ゼカ v.10) 教会は悔い改める罪人たちの群であり、神がキリストによって赦しと救いを与えてくださるところです。 主イエスの受難の物語りの中で(ヨハ 19:37)、復活された天上のキリストの再臨の希望が語られる中で(黙 1:7)、このテキストが引用されました。 実に教会は、「かつて私たちのために神の裁きに対して御自身を捧げ、私たちからすべての呪いを取り除き給うたあの裁き主が、天から来たり給うのを、私たちはあらゆる苦難と迫害の中にあっても、首を挙げて待ち望んでいる」(ハイデルベルク信仰問答 52) のです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 6月20日 年間第12主日 ゼカ 12:10-11, 13:1 ガラ 3:26〜29 ルカ 9:18〜24 ゼカ vv.10-11 の元来の意味、特に 11:4-17, 13:7-9 との関係については、今日では推測の域を脱することが出来ません。 しかし、それが新約聖書の 黙 1:7 に引用されたときから、教会はキリストの受難と復活の出来事を解釈する一つの示唆を、ここに見出して来ました。 ある聖書学者が指摘する エゼ 36:16-28 との類似性、そして今朝の朗読配分におけるような ゼカ 13:1 との結びつけは、私たちの目を 「信仰の創始者また完成者であるイエス」(ヘブ 12:2) に向けさせてくれます。 私たちキリスト者の救いは、「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエス」(ロマ 8:34) をまっすぐに 「見つめ」(ゼカ v.10) ることから訪れるからです。 おお、聖なる者たちが (神の国に) 凱旋するとき、おお、聖なる者たちが (神の国に) 凱旋するとき、 主よ、私もその数の中に入れてください。 聖なる者たちが (神の国に) 凱旋するとき。 Oh, when the saints go marching in, Oh, when the saints go marching in, Lord, how I want to be in that number ! When the saints go marching in. ハレルヤ、 アーメン。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 今年の 「聖書講義」 <2016-3> に、 4.初期カトリシズム 5.ユーカリスト(聖餐)の起源 を追加しました。 http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html この小論によって皆様が、教会の "生きた体験的な信仰の遺産" への理解を持ってくださることを期待します。 2ch の似非知識人たちが、聖書から機械的に読み取った記述に基づいて、"これが本来の方式だ" "これが正しい聖餐の意味だ" などと新奇な主張をしていることへの、健全な批判力を養うために ・ ・ ・ ・ ・ 2001年(主日C年) 7月1日 年間第13主日 王上 19:16b,19〜21 ガラ 5:1,13〜18 ルカ 9:51〜62 1.ルカ vv.51-56 主イエスが御自分の受難のために、エルサレムへと向かう決意を固められたときの二つの物語りが朗読されました。 ルカ福音書はこれらの物語りを、紀元前9世紀の北イスラエルの預言者であったエリヤとエリシャの思い出と重ね合せて語っています。 イスラエルの神ヤーウェの預言者であったエリヤとその後継者エリシャの物語りは、カナンのバアル礼拝の北イスラエルへの侵入に対するヤーウェ宗教の戦いの物語りです。 イエフ王の革命 (王下 9-10章) によって一旦終結したこの戦いは、当時のイスラエルにおける二つの世界観の戦い、すなわちヤーウェ宗教対バアル宗教の戦いでありました。 エクロンの神バアル・ゼブブの助けを求めようとしたアハズヤ王の使者の一群の前に姿を現したエリヤは、天からの火によって彼らを焼き滅ぼしたと伝えられています(王下 1章)。 エルサレムへ向かうイエスを歓迎しようとしなかったサマリアの人々も、天からの火によって焼き滅ぼされるべきだったのでしょうか。 「イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。」(vv.55-56) 神の裁きの日は将来に待つべきであって、今は主イエスは神の国のための受難に向かってまっしぐらに進んで行かねばなりませんでした。 そして弟子たちに求められていたのは、ひたすらその主に従って行くことでありました。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 6月27日 年間第13主日 王上 19:16b,19-21 ガラ 5:1,13-18 ルカ 9:51〜62 「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」(ルカ v.62) この聖書の言葉から、これまでどれほど多くの人々が感動を受け、私生活や事業のための指針を得て来たことでしょうか。 その人にとって、目標や目的が明確であり、それに向かって進む励ましを得たことを感謝しているのであれば、それは素晴らしいことです。 しかし、キリスト者として聖書に耳を傾けることは、そこから神のことば (福音 ! ) を聞くためであることを、私たちは決して忘れてはなりません。 実際、多くの人々が聖書から、神のことばではなくて、人生の指針や教訓のようなものを読み取って、 ・・・・・ それはしばしば見当外れなものでした ・・・・・ 、しかもそれに固執して "いっぱしの主義や主張" を唱えて来ました。 そのような中には、狂信的なキリスト教原理主義も含まれています。 "キリストに従う"、"キリストに服従する" という主張が、かけ声としては立派に聞こえても、もしその意味内容が不明確であるなら、それは "肉に従って生きる"(ロマ 8:12-13) ことでしかありません。 "自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、従いなさい"(ルカ 9:23) という呼びかけも、"単なる覚悟" だけで、自分の十字架を背負うことの意味が正しく理解されていないなら、キリストにあってはただの "損失"(フィリ 3:7-8) なのです。 "福音理解" が不明確で、"信仰の中身" が曖昧なままで、しかし党派心にかけては人一倍強いというのが俗人の常であることを、ルカ vv.53-54 からも私たちは思い知らされます(ヨハ 4:20 参照)。 エキュメニズムに関する教令 24 にある、「あらゆる軽率と無謀な熱心を避けるよう勧告する」 とは、恐らくそのような意味であろうと思われます。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。 しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。」 (フィリ 3:15) 所の番組で不動を扱ったものがあったが空海も含めてみんなまだ騙されてる。 不動は長いこと人類を騙してきてばれて毒殺抹消対象となった。 みんな騙されておまいりすると一緒に処罰抹消される。 何度も騙される 騙されやすい日本人の例 http://ameblo.jp/jcjk-now/entry-12173354145.html https://twitter.com/NeverBornMaster =具体例=紙幣の不思議2さん、福田元昭さん、ハムレットの水車小屋さんRAPTさん、ネット探偵のBlogさん、donさん… 等々。 陰謀論でくくるのは妥当でないかも知れませんが、彼らは政治を見るセンスが抜群です。 視点が、日本人のレベルじゃない。 =陰謀家のさらに上=苫米地英人さん、カレイドスコープさんは犯罪心理学の技術で政治を観ています。2人はむしろ警察に近い。 =自考力=確かに一番大切なのは自考力です。情報を丸呑みせず、自分の頭で考え直すことが一番大切ですが、戦後70年間の詰込 み教育で、自分で考えない国民性にされました。 自分の頭で考えないのが、日本人の特徴です。 今すぐ自考力なんて無理です。 なのに日本滅亡が(今)迫っている。 日本人が、苦手な政治を観る時に(今)頼りにするなら、陰謀論の6人、犯罪捜査の2人が参考書になるでしょう。 =陰謀論は事実です=例えばロシアの様に、国民も政府も同じ方向を向いている国なら陰謀論なんて不要です。 ところが日本は世界一スパイに汚染された国です。 日本の政治はスパイだらけ=91%が 海外政党。 2016参院選(7/10)は命を決める選挙 http://ameblo.jp/jcjk-now/entry-12175601383.html 2007年(主日C年) 7月8日 年間第14主日 イザ 66:10〜14 ガラ 6:14〜18 ルカ 10:1〜20 初代教会にとって神の国の宣教は、過去の思い出ではなくて、現在ますます全世界に展開しつつある教会の活動でありました。 天上の主は、"世の終わりまで" この宣教活動と "共にいてくださる"(マタ 28:20) という確信を、聖書は私たちに伝えています。 ルカ福音書の七十二人の派遣の記事は、初代教会の宣教がユダヤ人の領域 (マタ 10:5-6) を超えて異邦世界にまで拡がって行ったことを反映しているものと思われます。 宣教の主題は 「神の国はあなたがたに近づいた」(ルカ v.9) であり、さらに 「神の国が近づいたことを知れ」(ルカ v.11) であって、彼らの挨拶 「この家に平和があるように」(ルカ v.5) はキリストの終末的な救いの訪れを意味していました。 現代の通俗的な理解では、平和運動を推し進めることがキリスト教の使命であるように考えられていますが、その場合に人々が言う平和とは、戦争や紛争が存在しないという理想郷を創り出すことであって、キリストの与える救いとは何の関係もないものです。 聖書はそのような通俗的な理解と区別して、「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神」(ヘブ 13:20) を明確にしています。 信じる者が 「この御子において、その血によって贖われ、罪を赦される」(エフェ 1:7) 福音を告げ知らせることが、「この家に平和があるように」 であり、「地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ 2:14) なのです。 しかし20世紀の教会は、代々の教会が使徒継承によって受け継いで来た "キリストの終末的な救いの訪れの宣教" に代えて、"教会の政治的社会的活動" こそが緊急性を持っていると解釈して来ました。 全世界のカトリック教会の今朝のミサで、福音の朗読を通して人々は宣教のことばを聞かされています。 「神の国はあなたがたに近づいた」(ルカ v.9)、「神の国が近づいたことを知れ」(ルカ v.11)と。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 7月4日 年間第14主日 イザ 66:10〜14 ガラ 6:14〜18 ルカ 10:1-12,17-20 1.ルカ 我が国の現在の翻訳聖書では、福音書の中の段落毎に、他の福音書に共通箇所がある場合にはそれが示されています。 今朝の福音書の朗読部分にそれが欠けているのは、これがルカ特殊資料と呼ばれるものだからです。 この部分はおおむね マタ 9:37-38, 10:7-15 と共通していて、ルカは同じ資料を使ってこの物語りを書いたと推測されます。 私たちは、イエスの語録や御業に関する伝承がいくつもの段階を経てその材料として採用された、いわば "出来上がった福音書" を読んでいるのです。 そういう意味での、そのあるがままの聖書から、神が現在の私たちに何を語っておられるのかを聞くという姿勢が、主の羊である私たちには大切なのです。 イエスは御自分が自ら進み行くのに先立って、72人を派遣されました(ルカ v.1)。 彼らの使命は、ルカ 9:2 にもある通り、"その町の病人をいやし、神の国はあなたがたに近づいたと宣べ伝える" ことでありました(ルカ v.9)。 恐らくルカ福音書はここで、キリストの福音が当時の地中海世界にくまなく伝えられて行った使徒たちの宣教を、念頭に置いていたことでしょう。 神の国を宣べ伝えることと、キリストの福音を宣教することは一つでありますから、これを切り離したり、一方を除外して他方のみを語ることは出来ません。 キリストの福音は、私たちを罪と死と悪魔の支配から救う神の力ですから、使徒たちの宣教には病人を悪霊から解放するいやしが伴いました。 しかし、イエスは言われました。 「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。 むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ v.20) "信じる者すべてに救いをもたらす神の力"(ロマ 1:16) である福音が、確かに宣教されているということがなければ、教会のどのような慈善も愛の奉仕も、それだけでは "神の国を宣べ伝えている" ことにはなりません。 "その名が天に書き記されている人々"(ダニ 12:1) の意味を、真剣に考えるようにしましょう。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ・戦争は霊魂の進化に必要な宗教的行事 で検索 。。 国民の生活が第一なんてことは間違ってると私は思います https://www.youtube.com/watch?v=VoSlvgCsbsM 自民党政務調査会長 「国を護るには血を流さなければいけないんです!」 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=FUH4F9hrTUM 「憲法改正させましょう。基本的人権、国民主権、平和主義、この3つをなくさなければならない」 https://youtu.be/h9x2n5CKhn8 クイズだと言ってパヨクが大いに騒いだこの国会での討論で 安倍が憲法を全く知らないことが明らかになった。 安倍総理の憲法への無知・無責任を明らかにした 小西ひろゆき参議院議員の質疑(2013329参議院予算委員会) https://www.youtube.com/watch?v=vmu08w0ZJh4 1988年発表の創価学会の改憲の危険性を描いた漫画。 http://seoul-life.blog.jp/archives/62149212.html 創生「日本」東京研修会 第3回 平成24年5月10日 憲政記念会館 https://www.youtube.com/watch?v=BrxAi30Szpw 自民党 稲田朋美「憲法改正に具体的な考えがない政党と議論は出来ないから争点に出来ない」 国民の意見は完全に無視 http://hitomi.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1467463109/ 2001年(主日C年) 7月15日 年間第15主日 申 30:10〜14 コロ 1:15〜20 ルカ 10:25〜37 今朝朗読されたルカ福音書の物語りは、マルコ福音書をかなり大胆に切り刻んで再編集することによって、独特のメッセージを教会に伝えようとしています。 マコ 12章 の一連の物語りが ルカ 20章 に再録されているのですが、その中の マコ 12:28以下 の部分が切り取られて、マコ 10:17 と結びつけられて、今朝の私たちの福音のテキストとなっています。 さらにそこに登場するサマリア人の行動は、代下 28:14-15 の物語りと奇妙に一致します。 恐らくこのテキストの中には、通常私たちが読み取る以上の多様なメッセージ群が秘められていると思われるのです。 先ず注目したいのは ルカ v.28 です。 私たちはこのイエスの言葉を、21世紀の初頭に立っている現代の教会への呼びかけとして受けとめたいと思います。 私たちは御子の十字架の血によって贖われ、罪の赦しをいただいて教会に加え入れられました。 しかし "救われた" ということはそこに安住すればよいものではなくて、"目標を目指してひたすら走る" ことなのだと、ルカ福音書はここで訴えているように思えます(フィリ 3:10-14 参照)。 多くの人々がこの物語りを、キリスト教の博愛主義や人道主義的理解の材料と理解して来た歴史があります。 しかしこのテキストを正しく読むなら、ルカ v.28 で 「それを実行しなさい」 と言われているのは ルカ v.27 のことであって、ルカ v.30以下 はその例示です。 ルカ v.27 から切り離して ルカ v.30 以下の物語りだけを独り歩きさせてはならないのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 7月14日 年間第15主日 申 30:10〜14 コロ 1:15〜20 ルカ 10:25〜37 「戒めと掟」(申 v.10) という表現から、しばしば人は戒律や道徳律のようなものを連想しますが、申命記はこの箇所でこれを 「御言葉」 と呼び換えています(申 v.14)。 そして使徒パウロはこれを引用して、さらに 「信仰の言葉」 と言い換えました(ロマ 10:8)。 それは "十字架の福音"(Iコリ 1:18) であり、"和解の福音"(IIコ リ5:19、コロ 1:22) に他なりません。 この御言葉は、神の民である私たちキリスト者の "ごく近くにあり、口と心にある"(申 v.14) べきものであって、 これを繰り返し読み、学び、理解し、"家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも"(申 6:7) 心に留めることが、"主を愛し、隣人を愛する"(ルカ 10:27) ことと決して切り離せない関係にあることを、 現代のキリスト者は知らなければなりません(申 6:4-9 参照)。 庭に撒いたパンくずに群がる雀たちの中に、初めて親に連れられて来た小雀がいて、目の前に餌があっても自分では啄まないで親鳥に食べさせてもらっていることがありますが、一日経って次の日になると、もう自分で餌を啄むように成長するものです。 そのように、カトリック教会の信者も明日には、自分で聖書を読み自分で学ぶ一人前の信仰者に成長しなければならないのは当然のことです。 普通の人なら、聖書全巻を一通り読むのに、一年以上もかかったりはしないでしょう。 それは決して 「難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」(申 v.11) ことを、各自の体験を通して実際に感謝出来るようになろうではありませんか。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ○ o _____ / \ / 若 ヽ / ヽ │ ニミ, ∠ニ │ |_┌─‐‐ュ__r ‐─┐_ | f''| 丶__'_゚"ハ 丶"゚_'_,イ |T ト| | |ノ |:| (!___,! |:| 2013年(主日C年) 7月21日 年間第16主日 創 18:1〜10a コロ 1:24〜28 ルカ 10:38〜42 「 ・・・・・ どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。」(創 v.3) 旧約聖書を繰り返し読んでいると、イスラエルの長い歴史の中で語り継がれて来た深い信仰的思索の数々に出会います。 この食事をもてなすアブラハムの物語りが、神のことば、すなわち神の約束 (ロマ 4:13) を聞く熱意をどれほど強調して述べているかに気付くと、私たちは驚きを感じないではいられなくなります。 スーパーで食材を買って来て調理するのとは違って、パンを焼くために小麦粉をこね、肉料理を作るために子牛の解体から始めるという途方もない大仕事が、ただ神への熱意のためにだけ描かれているのです。 そのような熱心が、キリストの福音を聞くために、教会には必要なのです。 主の足もとに座っているマリアは、絵画の中に描かれた慎ましい婦人像でも、また敬虔や美徳の象徴でもなくて、私たちに "神のことば" を聞く熱意を促す 「キリストの使者」(IIコリ 5:20) の一人なのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 老クリさんは創世記3章の、 善悪の知識の木の実、命の木の実を、 何の比喩あるいは象徴だと思っていますか? >>434 別に、比喩だとも、象徴だとも思っていません。 >>435 どういうことですか。善悪の知識の木とは具体的に何のことですか。 命の木とは具体的に何のことですか。 善悪の知識の木の実を食べると、なせ楽園を追放されなければ ならないのですか。善悪の知識の木と、命の木との関係は何ですか。 なぜ人間は命の木の実を食べられないのですか。 >>436 聖書が語っていないことを、「それはこういう意味だ」 とか、「それは○○の象徴だ」 などと、 さも分かったように説明してみせるのは、見当外れなことです。 「善悪の知識の木」 とは、神が 「決して食べてはならない」 と言われた対象であり、 この神話の中で男と女の二人が、そこから実を取って食べた木です。 「命の木」 も、人が手を伸ばして取って食べる危険があることを神が危惧して、彼らをエデンの園から追い出された木です。 その神話を通して語られているイスラエルの神理解と信仰に、 つまり舞台装置や小道具ではなくて、 ドラマを通して語られるメッセージに耳を傾けることが、正しい聖書の読み方だと思います。 >>437 >つまり舞台装置や小道具ではなくて、 >ドラマを通して語られるメッセージに耳を傾けることが、 >正しい聖書の読み方だと思います。 そのメッセージは何でしたか、という意味の質問だったのですが、 肩透かしを食らったような感じです。 でも、老クリさんの誠実そうな人柄は伝わってきましたよ。 真剣勝負、ありがとうございました。 2007年(主日C年) 7月22日 年間第16主日 創 18:1〜10 コロ 1:24〜28 ルカ 10:38〜421.ルカ ルカ福音書が伝えているこの伝承では、マルタは "もてなしのためにせわしく立ち働く女" であり、それに対してマリアは "主の足もとに座って、その話に聞き入る女" であります。 ルカが、この伝承を用いることによって訴えようとしたのは、"御言葉に聞く" ことの大切さでありました。 そしてそれは、当時の状況においては、"初代教会の宣教する福音に聞く" ことであったことを理解しましょう。 異邦人世界に急速に成長して行った初代教会において、共同体とその集会のために世話をする仕事の量が増大したとき、それでもなお教会にとって "本質的に必要なことはただ一つだけ" であることを訴えたのです。 教会にとっても、一人一人のキリスト者にとっても、キリストの福音に耳を傾けることは最も大切なことです。 なぜならそれは 「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ロマ 1:16) であり、キリスト教存続の 「よりどころ」(Iコリ 15:1) だからです。 それは聖伝と聖書によって伝えられていて、だれでもその母国語で読んで理解することが出来ます。 大変残念なことに、現代の教会で実際に語られている説教は、カトリックでもプロテスタントでも、かなり怪しげなものが殆どであると言わなければなりません。 ドラえもんのアニメ物語りのように、次々と創作されるイエス物語りと道徳的訓話、現代の社会問題や世界平和をテーマにした新作キリスト教講話が一方にあり、 他方には説教者が聖書の中から切り出したあるテキストを材料にして、個人的な所感を述べる独演会が、会衆と "使徒たちが伝えた福音" との間を隔てて来ました。 今朝の福音の朗読を通して、天上のキリストは私たちに呼びかけておられます。 "必要なことはただ一つだけ" なのだと。 それは、信者が自ら聖書を開いて、自らそれを読むことによって、"徒たちが宣教した福音" に聞き入ることなのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 7月18日 年間第16主日 創 18:1〜10 コロ 1:24〜28 ルカ 10:38〜42 「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。」(コロ v.25) 御言葉を伝えることが "務め" であるように、その伝えられた御言葉を私たちが聞くこともまた "務め" であるということを理解しましょう。 この "務め" という用語は元来、食卓で給仕する奴隷の務めを意味しています(ルカ 17:8)。 キリストこそは "主の僕なるメシア" でありますから、キリスト者はこの "主の僕なるメシア" に仕える "しもべ" です。 そこで、この "御言葉 (福音)" の内容が正しく理解され、語られ、また聞かれなければなりません。 それが 「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画」(コロ v.26) です。 現代のカトリック教会で、各国のそれぞれの小教区のミサで、司祭たちはこの 「秘められた計画」 を伝える務めを果たしているでしょうか。 私たち信者は、この 「秘められた計画」 を理解するために、聖伝と聖書に "聞き入って" いるでしょうか。 天上のキリストの声が今朝も私たちに、「悔い改めて福音を信じなさい」(マコ 1:15) と、祭壇から、また聖書朗読台から呼びかけています。 あなたにはそれが聞こえていますか ? この 「秘められた計画」 とは、異邦人である私たちが今やキリスト・イエスの救いによって、来るべき御国を受け継ぐ者とされたということです(エフェ 3:6)。 「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(エフェ 1:7) という救いの事実が明確に捉えられている人々 ・・・ 聖なる者たち(コロ 1:2) ・・・ にとって、 「その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」(コロ v.27) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 大いなる秘密「爬虫類人」(レプティリアン)〈上〉超長期的人類支配計画アジェンダ全暴露!! www.amazon.co.jp/dp/4879191450/ 法蓮のいちかは他より高い金とって依頼した結果はほとんどださない。しかもだいぶ前から病気で結果を出してもいないのに出したと言うきちがい妄想にやられ 勝手に言ってるだけ。こんな所へ行ってはいけない。お金を病気の患者に恵んでるというよりはドブにすてるようなもん。苦情、弁償取る以外行くべきではない。 一神教は 信じる者はもれなく天国へ そうでない者はみな地獄行き である。 ○ o _____ / \ / 若 ヽ / ヽ │ ニミ, ∠ニ │ |_┌─‐‐ュ__r ‐─┐_ | f''| 丶__'_゚ 2004年(主日C年) 7月25日 年間第17主日 創 18:20〜32 コロ 2:12〜14 ルカ 11:1〜13 神がアブラムに新しい名アブラハムを与え、彼を約束を受け継ぐ民の父とされた日から、彼の神に対する関係が変化しました。 すでに老人となっていたアブラハムとサラの間に子供が誕生するに至る物語りの経過の中に、アブラハムとロトの対照的な運命の描写が挿入されます。 そこでアブラハムは、あたかもかつてアダムがそこから追放されたエデンの園に再び戻ったかのように、神と親しく語り合っています。 祝福の使者としてアブラハムの天幕を訪れた三人の使いは、身を転じて裁きの使者となってソドムの町へと向かっていました。 アブラハムは主の御前に進み出て言います。 「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。」(創 vv.23-24) キリスト教の現代における使命は、世界に対して正義の弁護者として発言することだと考えている人々が多くいて、それが神に向かって教会がささげるべき祈りの課題であると主張されたりします。 しかし私たちは今朝の朗読配分から、もう一つのメッセージを聞き取る賢さを持たなければなりません。 それは私たちがアブラハムよりも神に向かって目を集中し、耳を傾ける賢さです。 アブラハムはソドムの町に正しい者がとても五十人もいないことを知っていました。 ・・・・・ いや彼は、神の目から見て正しい人は、十人どころか一人もいないことを、すでに心の底では感じていたのかもしれません。 神はソドムを滅ぼされましたが、このように熱心に執り成したアブラハムを御心に留めてくださいました(創 19:29)。 アブラハムの弁論が功を奏して、神がご自分の計画を変更されたのではありませんでした。 神は彼を選んで多くの国民の父とし、彼が御自分と親しく語ることを喜ばれたのでした。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 7月29日 年間第17主日 創 18:20〜32 コロ 2:12〜14 ルカ 11:1〜13 さらに "主の祈り" では、罪の赦しの祈願に続いて 「わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから」 という言葉が唱えられます。 しばしばこれは、私たちが自分の罪の赦しを獲得するための条件のように受け止められて来ました。 アブラハムは、ソドムとゴモラの町の赦しのために神に祈って言いました。 「もしあの町に正しい者が五十人いるならば ・・・・・・。」 五十人いるなら、それは十分な条件になるように思えました。 しかし実際にはアブラハムは不安になって、その人数を次第に値切り、交渉は成功して最後に十人でも赦そうという神の言質を得たのです。 しかし結果は、その十人さえいなかったのに、「神はアブラハムを御心に留め、ロト (たち三人) を破滅のただ中から救い出された」(創 19:29) のでした。 そこにあったのは、神の憐れみと恵みであって、決して条件ではありませんでした。 私たちキリスト者は、キリストの十字架の血によって罪赦されたのであって、「これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェ 1:7)。 しかし 「思い上がってはなりません。 むしろ恐れなさい」(ロマ 11:20)。 私たちのキリストは、「わたしたちはなんと惨めな人間なのでしょう。 死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ロマ 7:24) というどん底から、私たちを引き上げてくださいました。 これが "主の祈り" の正しい解釈であり、すべてのキリスト者の祈りに答えてくださる聖霊の御業です。 アブラハムは神と交渉して、敗れました。 そして、祈りとは神との交渉ではないことを、それはただ神の憐れみと恵みへの信仰告白であることを、証ししました。 すべてのキリスト教の祈りに対する天の父の応答は、聖霊の御業であるという救済史的理解を、私たちは今朝聞かされているのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>445 信じない者は生きているうちから地獄を観ている。 預言者と祭司とは共に神を汚す者である。わたしの家においてすら彼らの悪を見たと、主は言われる。 それゆえ万軍の主は預言者についてこう言われる。 見よ、わたしは彼らに、にがよもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。神を汚すことがエルサレムの預言者から出て、全地に及んでいるからである。 万軍の主はこう言われる。 あなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。彼らはあなたがたに、むなしい望みをいだかせ、主の口から出たのでない、自分の心の黙示を語るのである。 >>>452 先ず、上記の出典。 エレ 23:11,15-16 エレミヤ書では、「主の預言者」 と 「偽りの預言者」 の問題が取り上げられているのであって、決して 「預言者と自称する者すべて」 が否定されているのではありません。 「空しい望み」 「自分の心の幻」(23:16) を語る当時の職業預言者たちと、エレミヤとの論争が繰り広げられました。 そして、ハナンヤとの対決においては、ハナンヤもエレミヤと同じく 「万軍の主」 の名によって預言したので、エレミヤは一旦立ち去らなければなりませんでした(28:9-11)。 しかし遂に、エレミヤは 「主はお前を遣わされていない」 と語ることが出来た 「真の預言者」 であったのです(28:15-17)。 2007年(主日C年) 8月5日 年間第18主日 コヘ 1:2, 2:21〜23 コロ 3:1〜11 ルカ 12:13〜21 この物語りは、もし聖書から切り離して語られるなら、富の公平な配分を願って人間の物欲を戒める一つの訓話のようなものになってしまいます。 いつの時代にも、世界は富める者と貧しい者に二極化された社会的経済的構造と無縁ではありませんでした。 主イエスを、このような差別と格差を排するために戦った革命家のように考える人たちがいます。 しかし、そのように考える人は、使徒たちが伝えたキリストの福音を聞いていない人です。 聖書のあのテキストこのテキストを、使徒たちが宣教した福音から切り離して、人間が考え出した各種の思想や主義のために利用することが大いに行われているのです。 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。」(ルカ v.21) "神の前に豊かになる" という表現が何を意味しているかは、使徒たちの宣教を聞かされている初代教会にとっては、自明なことでありました。 "豊かな" とは、神がイエス・キリストにおいて私たちを愛してくださり、御子の血によって私たちを罪から贖い、神の国を受け継ぐ民としてくださったその憐れみと恵みを表現する言葉です。 "憐れみ豊かな神" から、"限りなく豊かな恵み" を受けたキリスト者が、その受け継ぐ神の国が "どれほど豊かな栄光に輝いているかを悟る" ことこそ、"神の前に豊かになる" ということなのです(エフェ 2:4,7, 1:18)。 このような希望を共有する共同体の存続のために、互いに助け合う "慈善の業" のことを "施し" と呼んでいます(IIコリ 8:2-4)。 このような教会の相互扶助の動機付けのために、使徒パウロは次のように言っています。 「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。 それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(IIコリ 8:9) なぜなら "神の前に豊かになる" と "ただ、神の国を求めなさい" が、そこでは同義語だったからです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 出エジプト記20章 あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三代、四代にまで及ぼし >父の罪を子に報いて、三代、四代にまで及ぼし >父の罪を子に報いて、三代、四代にまで及ぼし >父の罪を子に報いて、三代、四代にまで及ぼし エレミヤ その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く」と。 人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。 つまり出エジプト記を書いたのは偽りの預言者なのですね >>456 屁理屈を捏ねるのは、孤独な、だれも友達になってくれない、落伍者にふさわしい。 2010年(主日C年) 8月1日 年間第18主日 コヘ 1:2, 2:21〜23 コロ 3:1〜11 ルカ 12:13〜21 「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロ v.4) 使徒たちはその宣教の過程で、救われた人々が 「真の知識に達する」(コロ v.10) ことの大切さを、切々と訴えました(コロ 1:23、エフェ 1:18、Iコリ 1:5)。 この知識を得るのに人種や身分の区別はなく、キリストがすべてであると教えました(コロ v.11)。 すでに半世紀以上にもわたって "平和ボケ" してしまっている日本人には驚きかもしれませんが、私のインターネットサイトで現在、ニューオルリンズの町での葬儀行進の動画を紹介しています。 http://www.kuwaei2000.com/temp/03/Marching.html アメリカの多数の若者たちが軍人として、世界の安全と平和のために各地に派遣され、その結果として当然、故郷でしばしば戦死者を葬るという事態を決して避けることが出来ない現実を、キリストの福音の光に照らして見せてくれるのです。 Oh, when the saints go marching in . . . . . 「おお、聖なる者たちが (神の国に) 凱旋するとき、おお、聖なる者たちが (神の国に) 凱旋するとき、主よ、私もその数の中に入れてください。 聖なる者たちが (神の国に) 凱旋するとき。」 このゴスペルソングの歌詞が、ニューオルリンズの町の人々にとってどれほど切実な希望であり祈りであるかを、あなたは理解する信仰と (真の) 知識を持っていますか ? ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ○ o _____ / \ / 若 ヽ / ヽ │ ニミ, ∠ニ │ |_┌─‐‐ュ__r ‐─┐_ | f''| 丶__'_゚ 2004年(主日C年) 8月8日 年間第19主日 知 18:6〜9 ヘブ 11:1-2,8-19 ルカ 12:32〜48 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(ヘブ vv.1-2) キリスト教の信仰は、使徒たちから伝えられたものです。 そして初代教会はこれを旧約のイスラエルから受け継ぎました。 すなわち神のイスラエルへの約束 (望んでいる事柄) を確信し、その将来における実現 (見えない事実) を待望する信仰によって、教会は2千年の歴史を歩んで来たのでした。 現代の私たちの教会も、この神の遠大な救済史の中にあって、終わりの日の主の再臨を待ち望んでいます。 なぜなら福音とはこの日の希望を語り伝えるものだからです。 「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(Iコリ 4:14) この希望は死者の中からの復活と固く結びついています。 キリスト教は旅人の宗教だと言われるのは、地上に最終的な希望を置かないで、来るべき天の都を待望しているからであって、新しいイスラエルである教会 (ガラ 6:16) は、この希望を旧約のイスラエルから受け継ぎました。 なぜならイスラエルの神ヤーウェこそは、私たちの主イエス・キリストの父なる神だからです。 ですからキリスト教の希望は、旧約の父祖たちの希望と同じものです。 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。 約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(ヘブ v.13) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 8月12日 年間第19主日 知 18:6〜9 ヘブ 11:1〜19 ルカ 12:32〜48 「小さな群よ、恐れるな。 あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ v.32) 使徒たちによる宣教を、現代の私たちは聖書から聞いています。 その宣教の背後には復活のキリストがおられるのであり、やがて到来する神の国への待望が、何にも勝って第一の関心事となっています。 もし人がキリストの復活を信じず、またキリストの終末の日の再臨と神の国の到来を信じないなら、 換言すればニケア・コンスタンチノープル信条の中の "死者の復活と来世の命を待ち望みます" という宣言を古代の迷信に過ぎないと思うなら、聖書からキリストの福音を聞くことは不可能です。 その昔ヤーウェがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出された夜、ヤーウェは "寝ずの番" をされました(出 12:42)。 そのように、初代教会はキリストの再臨を待つ信仰を "寝ずの番" になぞらえて理解したのでした。 福音書に収められたイエスの言葉は、一人一人の信者にも、彼らの小さな共同体にも、そしてそれを教え導く指導者たちにも、信仰をそのように理解することを求めています。 ルカ v.41 は、恐らく初代教会において使徒ペトロが果たした役割の大きさを想起させますが、その役割は他の多くの指導者たちも共有しているものでありました(ルカ v.48)。 やがて到来する神の国への待望が、何にも勝って第一の関心事となっている、そのような共同体を維持するということが "施し"(ルカ v.33) の目的であったことを、現代のキリスト者は見落としてはなりません(IIコリ 8,9章、申 15:1-11 参照)。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 8月8日 年間第19主日 知 18:6〜9 ヘブ 11:1-2, 8-19 ルカ 12:32〜48 「神に従う人々の救いと、敵どもの滅びを、あなたの民は待っていた。 ・・・・・ そのとき彼らは先祖たちの賛歌を歌っていた。」(知 vv.7,9) 出エジプト記12章に述べられている過越の夜の出来事を、「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」(ヘブ 11:2) という視点で詠じたこの歌は、"(信仰の) 外の世界の人たち" には決して理解出来ないものです。 昔のイスラエルはそんなに宗教的に一枚岩だったのだろうか。 実際の彼らは 「頑なな民」(申 9:6) だったのではないのか。 私たちの知っているカトリック教会も、「自分のふところに罪人を抱いている」(教会憲章 8) と述べられている通り、実際には 「頑なな民」、不満を言う 「多くの寄り集まり人」(民 11:4/口語訳) です。 この現実を、だれも否定することは出来ません。 しかし感謝しましょう。 「あなたがた (教会) はもはや自分自身のものではないのです。 あなたがた (教会) は、代価を払って買い取られたのです。」(Iコリ 6:19-20) ですからミサの交わりの儀で、教会に連なる私たち一人一人は祈ります。 「わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み、おことばの通り教会に平和と一致をお与えください。」 教会が、キリストにあって、神の国を受け継ぐ聖なる民であることを感謝出来る人は幸いです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 今年の 「聖書講義」 に、<2016-4> を追加しました。 http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 昨年の <2015-2> に続いて、今回は救済史のいわば前史に当たる 「原初史」 を取り上げました。 2001年(主日C年) 8月19日 年間第20主日 エレ 38:4〜10 ヘブ 12:1〜4 ルカ 12:49〜53 「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(ヘブ vv.1-2) 主イエス・キリストの十字架の死は、敗北の死でありました。 死とは、神から見捨てられることなのです(マコ 15:34)。 私たちはみな死を逃れることの出来ない存在です。 しかも死は自然な生命の終わりではなくて、神の怒りによって (詩 90:3-12) 命を取り上げられる (ルカ 12:20) ことなのです。 御子がその十字架の上で受けられた死は、正に罪人である私たちへの裁きとしての死でありました。 終末の裁きの日は必ず来る。 しかしそこで私たちが受けるはずの裁きと死を、御子は私たちに代わって、既に耐え忍んで受けてくださっているのです。 しかし終末の裁きを信じない人々、主イエス・キリストの十字架の福音を信じない人々、すべて罪の赦しの洗礼を受けなかった人々は、神の怒りによって滅ぼされます。 このような裁き主イエス・キリストの来られる 「かの日」(ヘブ 10:25) を待ち望みつつ、「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜く」(ヘブ 12:1) キリスト者の人生は、 分裂と対立を安易に避ける偽りの平和主義とは異質なものであることに、目覚めなければなりません。 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリ 3:20-21) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 8月19日 年間第20主日 エレ 38:4〜10 ヘブ 12:1〜4 ルカ 12:49〜53 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」(ルカ v.46) 神が顕現されるとき、その顕現に触れた人々の人生に火が投じられました。 神の山ホレブでヤーウェがモーセに顕現されて以来、彼の生涯の歩みに火が投じられました。 聖書の中には、そのような人々の物語りが満ちています。 御子イエスが受肉して私たちの間に宿られた (ヨハ 1:14) ことによって、キリスト者の生涯の歩みにも火が投じられました。 このかたが十字架につけられて死に、復活して私たちの義と聖と贖いとなられた (Iコリ 1:30) からです。 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。 そうではない。 言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカ v.51) 地上に平和な世界を実現することが、キリスト教の目標であるかのように、またそのようなことが可能であるかのように、考えている人々が一方に存在します。 それに対して、新約聖書の中にも、キリスト教の歴史の中にも、火が投じられた歴史の中を歩んだ多くのキリスト者の苦悩と戦いの記録があって、真の平和は将来の神の国にこそあるという希望を証言しています。 「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(黙 7:14) 「神が人と共に住み、 ・・・・・ 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」(黙 21:3-4) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2004年(主日C年) 8月22日 年間第21主日 イザ 66:18〜21 ヘブ 12:5〜13 ルカ 13:22〜30 「狭い戸口から入るように努めなさい。」(ルカ v.24) イエスはエルサレムに近づき、イスラエルの指導者たちとそこで対決することを思って、話題を弟子たちからもっと広い視野に移されました。 マタ 7:13-14 と並行するこの有名な言葉が、ルカ福音書ではイスラエル人の悔い改めの困難さを指摘するために用いられています。 救われるのはイスラエル全体なのか、それとも残りの者 (イザ 10:20-23、エレ 23:3-4 参照) だけなのかという設問に対して、 イエスはイスラエルへの断罪と異邦人が神の国に集められることを語られた場面で、この言葉を用いられたという構成になっているのです。 ルカ v.26 はイスラエルの指導者たちの弁明であり、イスラエル人たちは 「わたしたちの広場でお教えを受けた」 はずでありました。 私たちが知っている現代の教会で、キリストの福音は語られて来たでしょうか。 キリストの福音はまず第一に神の国の福音であり、さらに十字架と復活の福音、そして生きている者と死んだ者を裁くために再び来られる終末のキリストの福音であることを、人々は聞かされて来たでしょうか。 神の国への備えをすること、これこそがイエスの福音の第一の、そして最大の要求であったと福音書は伝えています。 そして天上のイエスは、今朝共にミサをささげるために集まっている私たちに、聖書を通して再び同じ要求を語っておられるのです。 それが 「狭い戸口から入る」 という言葉で語られていることです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ○ o _____ / \ / 台風 ヽ / ヽ │ ニミ, ∠ニ │ |_┌─‐‐ュ__r ‐─┐_ | f''| 丶__'_゚ 2004年(主日C年) 8月29日 年間第22主日 シラ 3:17-18,20,28-29 ヘブ 12:18〜24 ルカ 14:1,7〜14 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ v.11) 福音書におけるこの用語の前後関係から明らかなことは、「高ぶる者」 とはファリサイ派に代表されるユダヤ人のことであり、 「へりくだる者」 とはキリストの救いに与った神の国の民を指しているということです(ルカ 18:14、マタ 23:12 参照)。 私たちが読んでいるのは単なる道徳の書物ではなくて、キリストの福音と神の国の希望を語る聖書なのだということに、十分に留意する必要があります。 旧新約聖書を通じて、「へりくだる」 とは神の前に自らを低くすることであります。 人は神を忘れると、心おごり、高ぶります(申 8:11-18 参照)。 信仰の父アブラハムもへりくだりの模範として描かれ、モーセもへりくだりの人でありました。 そして正にイエス・キリストこそは、へりくだって受肉された神の子、救い主でありました(フィリ 2:6-11 参照)。 福音書は、その朗読を聞く会衆に向かって、キリストの福音と神の御業へのへりくだりを呼びかけているのです。 高ぶって律法の義を追い求めたユダヤ人は救われず、へりくだって福音を受け入れた異邦人はキリストの救いを得ました。 教会の教導職への従順は、学ぶ者たちの福音へのへりくだりを目的として語られています(Iペト 5:5 参照)。 「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」 を招くとは、このような教会の宣教のことを指して言っている比喩であって、 教会のこの働きに共に参加するすべての信者に 「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」 と約束されているのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 9月1日 年間第22主日 シラ 3:17〜29 ヘブ 12:18〜24 ルカ 14:1,7-14 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ v.11) このイエスの言葉、およびそれに関連するいくつかの言葉が、福音書の中のいろいろな場所で使われていて、 初代教会が旧約の伝統から、またイエス御自身の口から、その深い意味を聞き取って、彼らの宣教の一つのキーワードとしていたことが分かります (ルカ 1:51-53, 18:14, 22:26、マタ 23:12、ヨハ 13:14-15)。 それは何よりもも、イザヤ書に預言された苦難の僕として御自身を献げられた神の子イエスのへりくだりへの、信仰と感謝と賛美に伴う言葉でありました(フィリ 2:6-11、Iペト 2:21-25)。 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マコ 10:45) ですから、これを単なる人間の道徳や美徳のように理解してはなりませんし、まして神に対する功績になるなどと勘違いしてはなりません。 ルカ v.14 の 「 ・・・ あなたは報われる」 や、マタ 5:3-10 の 「幸いである」 を、"功績を獲得する" ことのように思い込んでいる人は、"信仰による神の義"(ロマ 1:17, 3:21-4:12) がまだ分かっていないのです。 救いは "恵みにより、信仰によって、賜物として神から与えられる"(エフ ェ2:8) のであって、人間が自らの功績によって獲得するものでは決してありません。 この福音書のテキストは、ルカ 18:13 で徴税人が祈っている 「神様、罪人のわたしを憐れんでください」 の線上で、理解するのが正しいのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 今年の 「聖書講義」 に、<2016-5> を追加しました。 http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 今回は、キリスト教信仰の中心主題である 「死と復活」 を取り上げました。 2001年(主日C年) 9月9日 年間第23主日 知 9:13〜18 フィレ 9〜17 ルカ 14:25〜33 ルカ福音書独特の語り方に素直に耳を傾けると、私たちは "一切を捨てる"(ルカ v.33) という信仰の姿勢がひときわ強調されていることに気付きます。 キリスト信仰とはキリストの苦しみにも共に与かることであり、肉親との結びつきや自らの命までも犠牲にする覚悟を要求されるものであることを、今朝のテキストは念を入れて説明してくれているのです。 ルカ vv.26-27 は マタ 10:37-38 の並行記事なのですが、ルカ福音書はそこに "妻" をも加えています。 また ルカ v.27 は元来 マコ 8:34 (マタ 16:24、ルカ 9:23) が出所と考えられる句で、そこではイエスの死と復活の予告の言葉と結びついて語られています。 「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:25) 「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。 それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ 6:4) これらの使徒パウロの言葉と同じ内容が、ここではルカ福音書独特の語り方で展開されているのです。 現代のキリスト者である私たちも、各自の人生の途中のどこかで、「腰をすえて計算し」 「腰をすえて考えてみる」 ときに出会うかもしれません。 そのときには、「神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」 キリスト(Iコリ 1:30) が、私たちを助け導いてくださることを願いましょう。 「主よ、あわれみたまえ。 キリスト、あわれみたまえ。 主よ、あわれみたまえ。」(あわれみの賛歌) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 9月5日 年間第23主日 知 9:13〜18 フィレ 9b〜17 ルカ 14:25〜33 聖書が19世紀や20世紀に書かれた文書ではないという当たり前のことに、どうか注目してください。 フィレモンというこの時代の信者に、その奴隷 (所有物 = 財産) であった一人の男を、考えを変えて一人前の人格として、「つまり愛する兄弟として」(フィレ v.16) 迎え受け入れてくれという要求は、 たとえそれが使徒パウロからの 「頼み」(フィレ v.10) であっても、とても尋常なことではありませんでした。 フィレモンにとってそれはコペルニクス的転回を強いるものであったに違いありません。 これは人情話などではない ! 福音への従順、信仰の従順の問題として、パウロは監禁されているローマからこの手紙を書いていました。 ただ希望に応えて彼が妥協してくれることを願ったのではありませんでした。 そうではなくて、「主によって、キリストによって」 彼から 「喜ばせてもらい、心を元気づけられる」 ことを要求したのです(フィレ v.20)。 福音に聞き従うということを、私たちは大きな感激と共に理解しようではありませんか(ガラ 3:26-29 参照)。 私たちはそのようにして、聖書の学びを通して、「(教会に) 伝えられた教えの規範」(ロマ 6:17、Iコリ 11:2) を受け入れる途を見出すことが出来るのです。 「あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれが御旨を知ることができたでしょうか。」(知 v.17) 私たちは、確かに聖伝と聖書とが教会に託されているということに心を向け、感謝しましょう。 教会に託されたこの豊かな福音の宝は、信者一人一人が真剣に学ぼうと努力するなら、「あなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」(ロマ 10:8) と言えるようになるのですから。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 9月8日 年間第23主日 知 9:13〜18 フィレ 9b〜17 ルカ 14:25〜33 「愛する兄弟として、・・・・・ 愛する兄弟である ・・・・・ 。」(フィレ v.16) 私たちはオネシモがかつてどんな人物であり、そして今どんな人物になったのかを知ることは、全く出来ません。 「以前はあなたにとって役に立たない者でした」(フィレ v.11)とは、ダメな人間であったということではありませんし、「今は、役立つ者となっています」(フィレ v.11) とは、有能な善人に変身したということでもありません。 私たちが注目すべきただ一つのことは、彼が共に神の国を受け継ぐキリストの羊になったということなのです。 そのただ一つの事実が、他のあらゆる事情に遙かに勝って重要であるということを、使徒パウロはフィレモンが理解してくれると期待したのです。 私たちのミサで、感謝の典礼の交わりの儀で、会衆一同が行列を作って小羊の食卓に与るとき、この兄弟姉妹の交わりがこの世のあらゆることに勝って重要であると、信じることが出来る人は幸いです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ○ o _____ / \ / 秋晴 ヽ / ヽ │ ニミ, ∠ニ │ |_┌─‐‐ュ__r ‐─┐_ | f''| 丶__'_゚ 2004年(主日C年) 9月12日 年間第24主日 出 32:7〜14 Iテモ 1:12〜17 ルカ 15:1〜32 旧約聖書はイスラエルの民を通して進められて来た "神の救いの歴史" を語っています。 私たち教会はキリストの贖いによって 「神の (新しい) イスラエル」(ガラ 6:16) となり、旧きイスラエルに約束されていたものを彼らと 「一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束に与る者」(エフェ 3:6) となりました。 ですから教会は旧約聖書を、自らの救いの歴史の書物として読むのです。 イスラエルは自らの歴史を、繰り返し道からそれる民の罪への神の怒り (裁き) と、それをなだめるモーセの執り成しという形で、振り返ったことでしょう。 教会は正にそれこそがキリストがそこから私たちを見つけ出して救ってくださった罪と死の世界であったと、そう理解しました。 「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(Iペト 2:25) 「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。」(ロマ 8:2-3) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 9月16日 年間第24主日 出 32:7〜14 Iテモ 1:12〜17 ルカ 15:1〜32 キリストの福音は先ずユダヤ人に向けられたものでした(マタ 10:5-7、使 13:46、ロマ 9:4-5)。 福音によって明らかにされた "秘められた計画" は、本来ユダヤ人への約束であった神の国を、"異邦人も福音によってキリスト・イエスにおいて、一緒に受け継ぐ者となる" というものなのです(エフェ 3:6)。 ユダヤ人への神の賜物と招きとは、今も決して取り消されてはいません(ロマ 11:25-29)。 「主は御自身の民に下す、と告げられた災いを思い直された。」(出 v.14) イスラエルは、それが神の民であるという理由で、モーセの執り成しによって滅びを免れました。 いわゆるユダヤ人と呼ばれている人々は、このイスラエルの子孫なのです。 数え切れないほどの苦難と迫害の歴史を経て来たユダヤ人を、その不従順によって滅ぼすことを繰り返し思い直された神が、彼らと私たちキリスト者の共通の主であることを、決して見落としてはなりません。 「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。」(ロマ 11:22) 本来は "イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた"(エフェ 2:12) 異邦人である私たちを、その血によって贖い、罪を赦して神の国の相続人としてくださったキリストの福音に感謝しましょう。 私たちキリスト者は、イスラエルに接ぎ木されて、その根を通して豊かな養分を受けているのですから。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 9月12日 年間第24主日 出 32:7〜14 Iテモ 1:12〜17 ルカ 15:1〜32 使徒パウロの生涯は、「イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた」(Iテモ v.15) という事実の、いわば典型であります。 彼は 「その罪人の中で最たる者」(同) であり、キリストが彼の救いのために 「限りない忍耐をお示しになった」(Iテモ v.16) ということを、聖書は語っています。 そのような意味で初代教会はパウロを、「キリストを信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本」(同) と理解しました。 Iテモ vv.12-17 は、使徒パウロの直接の言葉であるよりも、むしろ初代教会の理解を示していると考える方がよいかも知れません。 そうだとしても、初代教会の証言を通して、使徒パウロはキリストの福音を今も私たちに語り続けているのです。 むしろ、やがて "聖パウロ" と尊称を付して呼ばれるようになるパウロを、いささかも弁護したりしないで、「神を冒する者、迫害する者瀆」 と述べていることの重大さに、私たちは驚きを覚えずにはいられません。 心優しいモーセの説得によって、「御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」(出 v.14) 頑固親父の物語りのように、出エジプト記のテキストを読んでしまう誘惑が、近代人だけのものだなどと考える必要はありません。 モーセは偉大な預言者でありました(申 34:10)。 主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られました(申 33:11, 34:29-35)。 しかし、罪を赦すことはただ神にのみ属するのです(マコ 2:7)。 「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」(出 34:6-7) 私たちは、この神の恵みにひたすら信頼し、感謝しましょう。 私たちは 「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」 ました(ロマ 5:2)。 「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、− − − あなたがたの救われたのは恵みによるのです − − − 」(エフェ 2:4-5)。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ハレルヤ、皆さま、通りすがりですが聖霊派のクリスチャンです、 突然ですが、来週中、もしかしたら歴史上大きい出来事として成就してしまうのかもしれない預言を兄弟姉妹より、聞きましたので、 ここに来られている、主を愛する、クリスチャンの皆さま、共に祈りませんか。 と、お伝えしたく、貼りに来ています。 下記に貼ります物を読んでみてください、1、や2、の辺りはさらっと見て頂いてもいいかと思います ネタニアフ首相の辺りから読まれて見て下さい。 http://riverside.main.jp/priest/files/Request_H.Gruber.pdf それでは栄光在主。 2004年(主日C年) 9月19日 年間第25主日 アモ 8:4〜7 Iテモ 2:1〜8 ルカ 16:1〜13 福音書におけるイエスの言葉は、人々が神の国の到来に備えることを最大の関心事として語られていることに注目しましょう。 主の死と復活が父なる神の御計画であったように、終末の裁きと神の国の到来は神の救済史の目標であり完成だからです。 キリスト者は 「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(ルカ v.9) ために、この世の子らの賢さに見習うほどの熱心さを持つべきだと、この譬え話は今朝私たちに語りかけています。 光の子らも、実生活においてはずる賢くなるべきだと教えているのではありません。 仕事を解雇されないためになら、上司に対して媚びへつらう方法もあるでしょう。 しかし終末の裁きを越えて神の国を受け継ぐには、人は目を神に向けなければならないのです。 「この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」(ロマ 2:5-6) 「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」(使 10:42-43) 「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」(Iテモ vv.5-6) 神の救済史の目標であり完成である終末の裁きと神の国の到来に備えることは、キリスト者自身のためだけではなくて全世界のすべての人のために、教会が今こそ目覚めなければならない最大の課題なのです。 21世紀の教会にとって、いよいよ 「時が迫っているから」(黙 1:3)、「救いは近づいているから」(ロマ 13:11) です。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 9月19日 年間第25主日 アモ 8:4〜7 Iテモ 2:1〜8 ルカ 16:1〜13 紀元前8世紀の預言者アモスにおいて、初めて神の民である選民イスラエルは、神の審判の対象以外の何物でもなくなりました(アモ 3:1-2)。 商人の不正は、商人だけの罪で終わらない。 祭司や職業預言者といった指導者層には責任がなく、不正を行う庶民だけが審判の対象になるなどということではない。 それは "イスラエルの家" の罪だからです。 その結果は、"主の言葉を聞くことの出来ぬ飢饉"(アモ 8:11) の到来であると預言しました。 それから200年を経て後、預言者エレミヤは語っています。 民は神のことばを聞かず、「わが民はおのが栄光を、助けにならぬものと取り替えた。」 そして 「律法を教える人たちはわたしを理解せず、指導者たちはわたしに背き、預言者たちはバアルに従って預言し、助けにならぬものの後を追った」 という主の言葉を残しています(エレ 2:8-13)。 私たち信徒は、自分の不信仰と無知の責任を聖職者だけに責任転嫁すべきではありません。 「彼らは (福音を) 聞いたことがなかったのだろうか。 もちろん聞いたのです。」(ロマ 10:18) 聖書を通し、カトリックのミサ典礼を通して、「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、 ・・・・・ あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長している」(コロ 1:6) ということが、私たちの実感となる日が来るように、共に励んで賢くふるまおうではありませんか。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 9月22日 年間第25主日 アモ 8:4〜7 Iテモ 2:1〜8 ルカ 16:1〜13 預言者アモスの不正糾弾の叫びを、あたかも富める商人たちへの宣戦布告のように読むことは、果たして正しいのでしょうか。 実に、アモスの預言において初めて、神の民イスラエルこそが、神の裁きの対象以外の何ものでもあり得ないことが明らかにされました(アモ 3:1-2)。 先週の "聖書の学び" で、私たちのミサについて説明している 「神の前に出る教会の構成員は、罪にまみれた人間たちなのである」 という、ユンクマンの言葉を紹介しました。 まさにその罪人を救うために、キリストは来られた (Iテモ 1:15) ということを、聖書を通して学ぶことが重要なのです。 カトリック教会のカテキズムは、"原罪" を説明して、"犯した罪ではなくて、状態"、"原初の義と聖の欠如" という表現を使い、人間が自らの努力や心がけによってそこから脱することの出来ないものであり、 キリストによる贖罪の教えと "対をなしている" と述べています(404〜407)。 アモスの生々しい預言に真面目に耳を傾けることが、現代のキリスト者である私たちを、救い主イエス・キリストに立ち帰らせることとなりますように。 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。 栄光が神に永遠にありますように。」(ロマ 11:36) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 皆さん、聖書を読んでいらっしゃいますか ? 私の、ささやかな ●聖書講義● が、聖書理解の助けとなりますように。 http://www.kuwaei2000.com/mass/Announce2.html 2001年(主日C年) 9月30日 年間第26主日 アモ 6:1〜7 Iテモ 6:11〜16 ルカ 16:19〜31 福音書の中には、イエスが来世についての当時の通俗的な概念を利用して語られたと思われる、いくつかの物語りが伝えられています。 今朝のルカ福音書のテキストもそのようなものの一つです。 ある金持ちと貧乏人の現世と来世での運命の逆転の話は、来たるべき次の世が "ある" のだということを主張するために語られました。 来世とか死人の復活などということを信じることが出来ない人々は、現代と同じように新約聖書の時代にもたくさんいたのです。 来世とは、再臨のキリストによる終末の裁き (IIテサ 2:8) と、神の国の栄光の実現 (IIテモ 4:1、テト 2:13) のことです。 福音書は、主イエスが語られた神の国の到来の危機についての教えを保存することによって、代々の教会がその警告を聞き続けることが出来るようにしました。 それが教会の宣教するキリストの福音の重要な要素だからです。 誤解してならないのは、このような物語りは地獄で燃える炎の有様や、天国の様子についての情報資料ではないということです。 だれもそこに行って見て来た人などいないのです。 そうではなくて、「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ」(IIテモ 4:1)、教会がキリストの福音に耳を傾けることを呼びかけているのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 信仰心とか礼拝とか神への賛美とか栄光を褒め称えるとか免罪符とか神への供物とか生贄っていうのは人間でいう所の賄賂だよ 神におくる賄賂 これで自分を優遇してください、ひいきしてくださいというおべっか、ご機嫌取り つまり 神が自分に対する態度や差し出す金の金額で罰するかどうかを決めると思ってる 神が好き嫌いで特定の誰かをえこひいきすると考えてる 神が公平な裁きをせず気まぐれや気分しだいで裁きの基準を変えるでたらめな暴君だとみなしている だから信仰のない無神論者や異教徒が地獄に落ちるなどというバカげた話を本気で信じてる 礼拝というのは贈賄収賄にまみれた狡猾さの現れに他ならない そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟 創世記の記述は 科学的に矛盾だらけではないのか?01 https://www.youtube.com/watch?v=YdeqJN4Q78g 神は肉食動物を造られなかった? え〜〜〜?(;一_一) 02 https://www.youtube.com/watch?v=A5AzvCxQgyk ティラノザウルスは明らかに肉食恐竜 アダムの創造以前に誕生し絶滅した 03 https://www.youtube.com/watch?v=_a0UeyalCaU 世界的な洪水が あったのなら なぜ5万年前の クレーター痕が 洪水層に 埋もれていないのか?09 https://www.youtube.com/watch?v=bPs63-KOHOw ノアの箱舟伝説では オーストラリアのみに 有袋類が棲息することが 説明できない 07 https://www.youtube.com/watch?v=eHCS5zuvoSY たった2千年足らずで 全ての人種は 分化していっただって〜〜? (;一_一) 08 https://www.youtube.com/watch?v=USIEXew6jXc 「BC2370年以降に 五大陸ができ、 山脈・海溝もできた」 というエホバ そんな地質学的証拠は 全くない!010 https://www.youtube.com/watch?v=he1xCS7jkok 科学的定説に対して牽強付会にこじつけ あくまでも「BC2370年に ノアの大洪水があった」と 頑迷に主張し続ける エホバの証人 011 https://www.youtube.com/watch?v=v2EjwFdbeqE 人間に 自由意思を与えて造っておいて 「神に従わない者は 全て滅ぼす」 結局神のエゴではないか!013 https://www.youtube.com/watch?v=s2xKppd4mBE 2004年(主日C年) 9月26日 年間第26主日 アモ 6:1〜7 Iテモ 6:11〜16 ルカ 16:19〜31 「どうして今の時を見分けることを知らないのか」(ルカ 12:56)。 預言者アモスは北王国の首都サマリアにおける上流階級の贅沢な暮らしを責めました。 「お前たちは象牙の寝台に横たわり、長椅子に寝そべり ・・・・・ 」(アモ v.4)。 近代のサマリア発掘によっても、おびただしい象牙細工の破片が出土しており、それらは家具や調度品の象眼に使われたものと考えられています。 すでに預言者アモスの活動よりも70年ほど前に、イスラエルの王アハブがサマリアに象牙の家を建てたことが記録されています(王上 22:39)。 なぜ、アモスは繁栄するサマリアの上流階級に神の審判を預言したのでしょうか。 その理由は明確でした。 「しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。」(アモ v.6) ヨセフはマナセとエフライムの父で (創 48)、ここでは北王国のことを指してそう呼んでいます。 神の民は、来るべき神の審判の対象以外の何ものでもないというのが、預言者アモスに委ねられた神のことばでありました。 神の救済史への無知と無関心を非難し、避けることの出来ない神の審判の時に備えることこそがイスラエルの最大の課題であるという警告の、彼は "しるし" でありました。 今朝のミサの朗読を通して、天上のキリストはこの預言者アモスの言葉をも用いて、現代の私たちキリスト者に語っておられます。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 9月29日 年間第26主日 アモ 6:1〜7 Iテモ 6:11〜16 ルカ 16:19〜31 「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。 彼らに耳を傾けるがよい。」(ルカ v.29) 「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」(ルカ v.31) この金持ちとラザロの譬え話を、現代の格差社会における富裕層と貧困層に当てはめたり、自国民の社会的経済的安定を守ろうとするヨーロッパの国々とそこに押し寄せる移住者と難民の問題に結びつけて、 教会の社会活動の論理付けに利用するとしたら、それは正しい聖書の読み方ではありません。 ラザロが教会で、金持ちが教会が糾弾すべき体制側の人々であるなどという理解は、聖書自身の主張ではないからです。 むしろ教会は、ラザロと金持ちの両者をその構成員としているのであって、問題は彼らがモーセと預言者、つまり "神のことば" に耳を傾けているか否かが、ここでは問われているのです。 多くの教会で、"聖書の会"、"聖書の分かち合い"、"聖書の学び" などと呼ばれる集会が行われています。 しかし私の経験では、教会がそのような集会で聖書を学ぼうとしている目的が、ほとんど明らかでないままに漫然と、ただの勉強会や読書会、あるいはほとんど聖書と関係のない雑談会になっていることが多いのです。 本当は、生ける神が、神の右の座に着いておられる天上のキリストが、聖書を通して教会に語っておられる福音を "共に聞く" という目的、 すなわち共同体の会衆一同が 「共に福音にあずかる者となる」(Iコリ 9:23) という目標が、教会では決定的な意味を持っているのですから。 "神のことばを聞く" とは、神が聖書を通して語っておられる福音に耳を傾けることであって、 そのことが抜け落ちたただの聖書の勉強をいくら積み重ねても、キリストの復活がもたらす救いに与ることが出来ないばかりか、「罪の赦し、からだの復活、永遠の命」 を信じることにも至り得ません。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「神に従う人の道を主は知っていてくださる。 神に逆らう者の道は滅びる。」(詩 1:6) 「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。 主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。」(詩 27:1) 2004年(主日C年) 10月3日 年間第27主日 ハバ 1:2-3,2:2-4 IIテモ 1:6〜14 ルカ 17:5〜10 「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまであなたは聞いてくださらないのか。 わたしがあなたに "不法" と訴えているのに、あなたは助けてくださらない。」(ハバ 1:2) 預言者ハバククの訴えに対して、主は神の救済史の将来に関わる幻を示して、これをだれもが読めるように板の上に記せと言われました。 これを現代風に言い換えれば、車を運転しながらでも読めるように大きな看板にディスプレイせよという意味です。 そして有名な 「神に従う人は信仰によって生きる」(ハバ 2:4) という言葉が語られました。 ここで "信仰" と訳されている言葉は、アーメン (真実) の派生語で、主への忠誠と信頼を意味しています。 神の恵みや裁きの実行を人間が指図することが信仰ではない ・・・・・ 、そうではなくてただ神に信頼し、その御業の進行と展開を素直に受け入れることが "信仰" なのだと、主は答えられたのでした。 イエス・キリストにおいて、神の約束はことごとく "然り" となりました(IIコリ1:20)。 救済史の御業は神のものであり、信仰とはその御業への信頼だからです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 10月3日 年間第27主日 ハバ 1:2-3, 2:2-4 IIテモ 1:6-8,13-14 ルカ 17:5〜10 「使徒たちが、"わたしたちの信仰を増してください" と言ったとき、主は言われた。 "もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、・・・・・ "」(ルカ vv.5-6) 多くのキリスト教信者が、自分は信仰が足りないと思って心を痛めていることでしょう。 しかし、本当に問題なのは信仰が足りないことではなくて、何を信じるのかその対象が分かっていない ・・・・・ 、教えられていない ・・・・・ ことなのです。 「神はイエスを復活させられた」(使 2:32)、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使 2:36) という、使徒たちが証言した神の御業こそが、 唯一の信仰の対象であることを、現代のキリスト者は再発見しなければなりません。 聖伝と聖書に耳を傾けるとは、そういうことなのです。 新約聖書で用いられている "奉仕" という言葉は、元来奴隷の務めを指しています。 私たちは洗礼の秘蹟によって、キリストと一つの体になりました(Iコリ 12:13)。 私たちはそれによって、キリスト御自身の "僕の身分"(フィリ 2:7) に与る者となったのです。 「しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」(ルカ 22:27) この "主の僕" であるキリストの "僕の務め" に、キリスト者一人一人は主を通して参加するのです(Iコリ 12:5)。 それは、私たちが受けた罪の赦しの 「神の賜物」(エフェ 2:8)、「無償の恵み」(ロマ 3:24) に対する感謝に基づく "奉仕" であって、何らかの報いを期待し得る功績のようなものではありません。 「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 あなたがたも同じことだ。 自分に命じられたことをみな果たしたら、"わたしどもは取るに足りない僕です。 しなければならないことをしただけです" と言いなさい。」(ルカ vv.9-10) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 聖書は間違いなく神の言葉であるという証拠を出しなさい 495. 神の言葉か。 そんなもんはない。 なんでか。 神は人間を、かまっているほどの暇がないからである。 人間が勝手に神の言葉を製造、生産しているだけのことである。 >>495 > 聖書は間違いなく神の言葉であるという証拠を出しなさい 激しく同意。 キリスト教やって人生めちゃくちゃに壊れた http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1470235171/ ↑ この中には、 > 聖書は間違いなく神の言葉である >>495 これで人生がめちゃくちゃになった人もいるとおもう。 2013年(主日C年) 10月6日 年間第27主日 ハバ 1:2-3, 2:2-4 IIテモ 1:6〜14 ルカ 17:5〜10 「しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(ハバ v.4) この預言書は、バビロンの王ネブカドネツァルの攻撃の脅威にさらされていた、恐らくエレミヤと同時代 (王下 24〜25章) のものであって、ハバククはエルサレムの窮状を神に訴え、与えられた答えがこれでありました。 「それは終わりに向かって急ぐ。 ・・・・・ それは必ず来る。」(ハバ v.3) しかし、神からの救いを忍耐して待つ民の間には、信じる者と信じない者の分離が起きるであろう。 神に従う人だけが、信仰によって生きるからです(ロマ 1:17 参照)。 だれも神に代わって救いを作り出したり、人間の努力や能力によって地上に神の国のような世界を実現することは出来ません。 福音を通して啓示された神の義は、「初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(ロマ 1:17) 私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝しましょう。 「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、・・・・・ 今は罪から解放されて神の奴隷となり ・・・・・」(ロマ 6:17,22) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 芥川が自殺する夜(1927年・昭和2年7月24日)、芥川は午前2時頃まで2階で書いていた。 階下に下り、寝室の隣りの部屋には子供たちが寝ていて、 そばでウトウトしていた妻の文(ふみ)と視線が合い、「いつもの薬を飲んできたよ」と言った。 そして、寝床に入ってから聖書を開いていたが、薬が効いて聖書で顔を覆うようにして眠りに入った。 「茂吉さんが与えていた睡眠薬は、急に回ってくると、それこそぱったり眠りにつく」と、 佐古純一郎は斉藤茂吉から実際に聞いている。当時としては最高級の睡眠薬だったそうだ。 芥川は「いつものように飲んできたよ」と言ったが、実は致死量飲んで寝床についたのである。 彼は2度と目覚めることなく35歳の生涯を閉じた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 芥川龍之介の枕元から聖書をとりあげたのは太宰治であった。 「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、 心の思いが御前に置かれますように。」(詩 19:15) 「わたしの命を奪おうとする者は、恥に落とされ、嘲りを受けますように。 わたしに災いを謀る者は、辱めを受けて退きますように。」(詩 35:4) >>503 顔を聖書で覆っていて、開いていた箇所はルカによる福音書24章だった そうです。 芥川龍之介の遺言 「我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせる クリストを求めずにはゐられないであらう」 「神を知らぬ者は心に言う、"神などない" と。 主は天から人の子らを見渡し、探される。 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」(詩 14:1-2) 「わたしの魂は主によって喜び躍り、御救いを喜び楽しみます。」(詩 35:9) >>505 自分の心を中心にして考えるか、主である神に目を向けて聖書に耳を傾けるかで、全く別の判断が生ずるものです。 2007年(主日C年) 10月14日 年間第28主日 王下 5:14〜17 IIテモ 2:8〜13 ルカ 17:11〜19 「イエスは言われた。 "清くされたのは十人ではなかったか。 ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。" それから、イエスはその人に言われた。 "立ち上がって、行きなさい。 あなたの信仰があなたを救った。"」(ルカ vv.17-19) この "救った" と訳されているギリシア語の "ソーゾー" という動詞は、危機や病気や苦しみからの "いやし" という意味にも、またイエス・キリストによる "救い" の意味にも使われている言葉です。 近年わが国でも "いやし" に似た "癒やし" という言葉がたいへん流行して、これを何らかの形で取り入れることが、多くの人々の生活のパターンと考えられるようになりました。 特に新約聖書において、この語がイエス・キリストによる "救い" の意味で用いられている場合にも、むしろこれを "癒やし" と読み替えると、多くの人々にとっての通俗的なキリスト教理解に近くなります。 例えば ロマ 8:24 は 「私たちは、このような希望によって癒やされているのです」 となり、エフェ 2:5,8 は 「あなたがたの癒やされたのは恵みによるのです」 「あなたがたは、恵みにより、信仰によって癒やされました」 となります。 これなら聖書がよく分かる、と思う人がきっとたくさんいらっしゃることでしょう。 重い皮膚病をいやされた "ほかの九人" にとっては、"いやされた" ということがすべてであって、彼らはそのまま去って行きました。 ところが "神を賛美するために戻って来た" 一人は "救われた"、というのが福音書の本来の意図なのです。 初代教会にとっても、使徒たちにとっても、"福音" とは "イエス・キリストの救いの知らせ"でありました。 ですから公式な教会での朗読を前提に翻訳された "新共同訳聖書" では、 マタ 9:22 でも ルカ 17:19 でも、「あなたの信仰があなたを救った」 となっています。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 信仰はモルヒネだ 時に人生の苦痛から逃れるために有効だが対症療法に過ぎない そのまま使い続ければ人生を破壊する >>509 イエス・キリストの救いに至らないような信心は、本物の信仰とは別物なのです。 2013年(主日C年) 10月13日 年間第28主日 王下 5:14〜17 IIテモ 2:8〜13 ルカ 17:11〜19 「それから、イエスはその人に言われた。 "立ち上がって、行きなさい。 あなたの信仰があなたを救った。"」(ルカ v.19) イエスは重い皮膚病を患っている十人の患者の訴えを聞いて、その全員を癒されました。 しかし、癒されたのは十人だったけれども、その中で救われたのは一人だけだったというのが、今朝のテキストの内容であります。 残る九人は救われなかったということを、私たちへの警告として聞くことが、ここでは求められているのです。 イエスの癒しに拍手を送るためではなくて、「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」(ルカ v.18) という、十字架のキリストの嘆きを確かに聞くのでなければ、現代の教会は決して立つことは出来ません。 あなたにとって "神からの救い" は、実際どの程度の重要性を持っているでしょうか。 そのことを今朝、私たちは聖書を通して問われているのです。 「僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。」(王下 v.17) このナアマンの信仰宣言がなかったら、主イエスが故郷の会堂で福音を告知する中で、この物語りを引用されることはなかったに違いありません(ルカ 4:27)。 癒されたことではなくて、ナアマンがイスラエルの神への信仰に立ち至ったことが、この物語りの主要なメッセージでありました。 悔い改めて "神からの救い" に至る一人の罪人のために、天では大きな喜びがあることを(ルカ 15:7)、私たちはもっともっと真剣に、そして大切に考えようではありませんか。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>510 > >>509 > イエス・キリストの救いに至らないような信心は、本物の信仰とは別物なのです。 聖書は残酷。 聖書を読んだら、自分は生まれてこなければよかったとおもう。 「主に従う人よ、主によって喜び歌え。 主を賛美することは正しい人にふさわしい。」(詩 33:1) 「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し、 立ち向かう者からはるかに高く置いてください。」(詩 59:2) 2004年(主日C年) 10月17日 年間第29主日 出 17:8〜13 IIテモ 3:14〜4:2 ルカ 18:1〜8 「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」(ルカ v.1) もちろんこの譬え話は、執拗に祈って訴えなければ人を顧みない不親切な神を述べているのではありません。 そうではなくて、神の国の福音を信ずる者の取るべき姿勢と、"祈りは聞かれる" という信仰を励ますために語られました。 祈りはキリスト教の信仰の旅路に属するものであり、私たち信者にとってとても大切なものです。 「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ v.8) 私たちキリスト者の祈りは、神の国の福音への信仰と切り離されてはなりません。 その福音は御子に関するもので (ロマ 1:3)、御子はダビデの子孫から生まれ、死者の中から復活され、神の右に上げられました。 そして生きている者と死んだ者との審判者として再臨する日を待ち続けておられます。 使徒たちはこのことの証人であり、聖霊もこのことを証ししてくださいます(使 5:32)。 私たちの祈りの古典的手本である "主の祈り" が、神の国待望、日常生活における神からの助け (日毎の糧)、罪の赦しと防御を主題としているように、祈りは神と神の国への信仰に基づいてささげられるものなのです。 私たち現代のキリスト者の中にこの信仰は生きているでしょうか。 21世紀の教会は厳しくこの問いの下に立たされています。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 10月21日 年間第29主日 出 17:8〜13 IIテモ 3:14〜4:2 ルカ 18:1〜8 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスのみ前で、その出現と御国とを思いつつ、厳かに命じます。 御言葉を宣べ伝えなさい。」(IIテモ 4:1-2) 新約聖書の使信は、古い昔の世界観に基づいて語られていて、それは現代人の世界観と相容れないから、そのまま受け入れることが出来ないのだという議論が、20世紀の中頃から盛んに論じられて来ました。 それは真面目な神学界の論争でありましたが、実際には、一般のキリスト教信者たちが抱いている "自分の信仰への不安感" や "聖書への不信感" を、弁護する口実を提供する結果になったように見えます。 難しい神学論争は専門家たちに任せるとして、普通の信者は "使徒たちが信じたように信じる" という姿勢で聖書に向かうのが、いちばん確かな福音理解への早道なのです。 疑ったり、理屈を付けて反論していては、"使徒たちが伝えたこと" を理解出来るわけがありません。 使徒たち自身も、キリストの再臨や神の国の到来について、科学的学問的に説明したり証明したり出来はしませんでした。 しかし、彼らは聖霊の働きと、復活の主に導かれて、"受けた福音"(ガラ 1:11-12) を宣教したのです。 ですから、それは神からの福音であって、この世の知恵や学問の産物ではありませんでした。 どんなに時代が隔たっても、私たちが "使徒たちが信じたように信じる" という姿勢で聖書に向かうことは可能であり、それがいちばん確かな福音理解への早道です。 私たち教会が使徒たちから受け継いだ福音は、イエス・キリストの出現とその御国とを思いつつ、語られまた聞かれねばならないのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 10月20日 年間第29主日 出 17:8〜13 IIテモ 3:14〜4:2 ルカ 18:1〜8 「相手を裁いて、わたしを守ってください。」(ルカ v.3) "裁く" という言葉は、旧約聖書以来 "弁護する" "守る" "救う" という意味で使われ、神による終末的救いへのイスラエルの待望を表明するのに用いられて来ました(詩 7:9, 98:9 他)。 主イエスの受難と復活が、新約聖書でこのような "裁き" の線上で理解され、新約の神の民である教会を贖い取られた御業として説明されている (使 20:28) ことを、先ず指摘しておかなければなりません。 ルカ v.7 の 「選ばれた人たち」 という表現が、新約の神の民を指していることは、先週の学びで取り上げたとおりです(IIテモ 2:10)。 つまり、この譬え話は、そのような選ばれた信者たちが 「気を落とさずに絶えず祈る」 ようにと、励ましているのです。 信仰とは、人の子が来る終末の完成の日まで(ルカ v.8)、「目標を目指してひたすら」(フィリ 3:14) 祈り続けることなのです。 果たして現代の教会には、そのような信仰が本当に生きているでしょうか。 大いに考えさせられる問題ではないでしょうか。 現代のキリスト教活動家たちによる社会的発言が、終末の日には "神は正しいことを行われます。 神はこの報いを実現なさいます"(IIテサ 1:6-8) という、"神の裁き" の警告、"神に対する悔い改め"(使 20:21) の宣教ではなくて、 大衆運動による反体制的な攻撃、つまり権力者や富者の側に打撃を与えるという復讐的性格を強く持っているように見えるのは、私の偏見でしょうか。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「わたしは主に求め、主は答えてくださった。 主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。」(詩 34:5-6) 「神と共に我らは力を振るいます。 神が敵を踏みにじってくださいます。」(詩 60:14) 2004年(主日C年) 10月24日 年間第30主日 シラ 35:15b-17,20-22a IIテモ 4:6-8,16-18 ルカ 18:9〜14 私たちは福音書において、神の国の到来の日に人はどうなるのかを教えられています。 イエスの福音が私たちに要求する第一のことは、近づきつつある神の国への備えをすることであり、それこそが使徒たちの伝えたイエスの姿でありました。 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」(ルカ v.9) この譬え話の中でファリサイ派の人は、自分が神の前にいかに敬虔な生活をしているかを感謝して語っています。 彼は偽ってはいませんでした。 彼は本当に敬虔な人でありました。 しかし彼は祈りの中でその自らの敬虔による特権を主張したのでした。 「神様、わたしは ・・・・・ この徴税人のような者でもないことを感謝します。」(ルカ v.11) 近い将来神の国が到来する日に、聖なる神の御前に彼はどのようにして立つことが出来るのか。 その日にはだれでも高ぶる者は低くされるのだと、イエスは語りました。 徴税人は罪人であるが謙遜であり、彼は自らの将来を神のあわれみに託しました。 神の国への備えとはこのようなものなのだとイエスは教えたのです。 イエスの教えをキリスト教的道徳の目録のように考えて、この世の争いをすべて調停し、あるいは社会的不正を取り除くすべての指針を聖書に求めるという間違いが、歴史の教会において繰り返されて来ました。 しかしイエスの説教は神の国への備えをすること、その日に私たちはどうなるのかを教えるものであったと、聖書は伝えてい.るのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「エキュメニズムに関する教令」 を、皆さんご存じですか ? 2013年(主日C年) 10月27日 年間第30主日 シラ 35:15b〜22a IIテモ 4:6-8,16-18 ルカ 18:9〜14 「今や、義の冠を受けるばかりです。 正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。 しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(IIテモ v.8) 「主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。」(IIテモ v.18) 公会議公文書の五番目に置かれている 「エキュメニズムに関する教令」 は、別れた兄弟 (プロテスタント他) とカトリック教会の両者を "主における兄弟" として認め、次のように説明しています。 "この民は、その地上の旅の間に、その成員が罪にさらされたままであるとしても、キリストにおいて成長し、神の深遠な計らいに従って、優しく導かれ、天上のエルサレムにおいて永遠の栄光が完全に満たされて喜びに達するのである。"(3) そして、現状の課題を分析して以下のように解説しています。 "事実、カトリック教会は神から啓示されたあらゆる真理と恵みのすべての手段を豊かに備えているとはいえ、その成員はそれらに応じた十分な熱意をもって生きているわけではない。 その結果、別れた兄弟にとっても、また全世界にとっても教会の顔は十分に輝いておらず、・・・・・"(4) "御国の福音"(マタ 4:23) が信者一人一人の希望であり(ロマ 8:24)、"御国を受け継ぐ秘められた計画"(エフェ 1:8-14) がすべての信者の心に明らかにされる(コロ 1:26-27) ことは、キリスト教信仰の土台でありますから、 私たちは "預けられたタラントンを地の中に隠しておいた怠け者の悪い僕"(マタ 25:14-30) とならないように、 自ら聖書を熱心に学び、使徒パウロと共に 「主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(IIテモ v.18) と心から言えるように成長しようではありませんか。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 10月27日 年間第30主日 シラ 35:15b〜22a IIテモ 4:6-8,16-18 ルカ 18:9〜14 "主が祈りを聞き入れられる" ことは、虐げられた者、みなしご、やもめ等の貧しく弱い者たちだけの特権ではありません。 「主はえこひいきされない」(シラ v.16) のです。 キリスト者である私たちは、自らの罪を懺悔し、主の憐れみを乞い、御国が来ますようにと祈るためには、先ず 「御旨に従って主に仕える人」(シラ v.20) にならなければならないことを理解しましょう。 ただの善意の人になるためではなくて、キリスト・イエスに結ばれた信仰の人となるために、神が聖書を通して一人一人に、 「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださいますように。」(エフェ 1:18) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。 苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる。」(詩 46:2) 「イスラエルよ、主を待ち望め。 慈しみは主のもとに。 豊かな贖いも主のもとに。 主は、イスラエルを、すべての罪から贖ってくださる。」(詩 130:7-8) しかしそれは情けない文章だなw まあ、日本人向きの宗教じゃねーよな しっかりしろ、おい、て感じだwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww http://blog.goo.ne.jp/mugi411/ 2001年(主日C年) 11月4日 年間第31主日 知 11:23〜12:2 IIテサ 1:11〜2:2 ルカ 19:1〜10 「今日、救いがこの家を訪れた。 この人もアブラハムの子なのだから。」(ルカ v.9) ルカ福音書が特に強調しているのは、"主イエス・キリストの救い" は恵みとして "訪れ" て来たのであって、私たちの悔い改めも信仰もすべては "救いの訪れの結果" なのだということです。 ザアカイという人物についての興味ではなくて、この登場人物によって私たちに与えられた主イエス・キリストの救いの恵みを描くことが、ルカ福音書の目的でありました。 「アブラハムの子」 とは元来はユダヤ人のことを指していて、約束による神の国の相続人である神の民イスラエルを異邦人から区別するための呼称であります。 ところが主イエス・キリストの福音は異邦人をも訪れて彼らに救いを与え、ユダヤ人と 「同じ約束にあずかる者」(エフェ 3:6) としてくださったというのが、ルカおよび彼がその伝道のために共に歩んだ使徒パウロの主張でした。 「アブラハムは神を信じた。 それが、彼の義と認められた。」(ロマ 4:3/創 15:6) 「しかし、"それが彼の義と認められた" という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。 わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:23-25) 「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」(ガラ 3:7) 「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラ 3:29) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 10月31日 年間第31主日 知 11:22〜12:2 IIテサ 1:11〜2:2 ルカ 19:1〜10 もしこの徴税人ザアカイの物語りを、単独の話としてそれだけ聞いて、聖書の他の部分から切り離してしまうと、それはただの美談になってしまって、私たちは福音を理解することが出来ません。 先週の学びの最後で引用した ロマ 1:17 が、私たちが今朝の朗読配分から神のことばを聞くためのいわば決定的な前提であることを、先ず最初に述べておきましょう。 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」 神の義は、その罪によって失われ空しくなっている "虫けらのようなイスラエル"(イザ 41:14) を、御自身の贖いによって救う終末的な御業として (イザ 44:6)、第二イザヤにおいて語られていました。 この終末的な神の義が、イエス・キリストの死と復活によって今や実現したと、使徒パウロは宣教したのです。 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ 3:23-24) この "神の義が現された (示された)" ということの見事な描写を、ルカ福音書はザアカイの物語りによって描きました。 「今日、救いがこの家を訪れた。 この人もアブラハムの子なのだから。」(ルカ v.9) それは "大宴会のたとえ"(ルカ 14:15-24)、"放蕩息子のたとえ"(ルカ 15:11-32) などとも共通する主題です。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww http://blog.goo.ne.jp/mugi411/ 2013年(主日C年) 11月3日 年間第31主日 知 11:22〜12:2 IIテサ 1:11〜2:2 ルカ 19:1〜10 「どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、 ・・・・・ 」(IIテサ v.11) "招きにふさわしいもの" とは、私たちがやがて受け継ぐ "神の国にふさわしい者"(IIテサ 1:5) のことであって、それは "主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき"(IIテサ 1:7) に実現します。 "聖なる者たち"(IIテサ 1:10/= キリスト者) とは、神の国の相続人のことであって (ロマ 8:17 参照)、"聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証"(エフェ 1:14) でありますから、 歴史の教会は今日に至るまで "地上の典礼において、天上の典礼を前もって味わってこれに参加" して来ました(典礼憲章 8)。 現代の教会だけではなくて、すでに初代教会の時代にも、"神の秘められた計画" を信じることの出来ない人たちがいました。 "主の日は既に来てしまったかのように言う者"(IIテサ v.2)、"死者の復活など無いと言っている者"(Iコリ 15:12)、"主が来るという約束は、いったいどうなったのだと言う者"(IIペト 3:4) がいる原因を、 歴史におけるその実現が遅れたからであると説明するのは正しくありません。 使徒たちの宣教を通して神のことばに耳を傾けるということの出来ない人たちは、初めからいたのです(ルカ 16:31 参照)。 しかし、「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。」(IIテサ 1:10) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「全地よ、神に向かって喜びの声を上げよ。 御名の栄光をほめ歌え。 栄光に賛美を添えよ。」(詩66:1-2) 「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。 主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。」(詩 147:10-11) 「神に従う人の道を主は知っていてくださる。 神に逆らう者の道は滅びに至る。」(詩 1:6) 「主を愛する人は主に守られ、 主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。 わたしの口は主を賛美します。」(詩 145:20-21) まさに、幸福の科学は、金に狂ったカルト http://ameblo.jp/an9ue2nfb/entry-12215463189.html 30年、信仰して 布施し尽くして、経済破綻。 それが、活動信者たちの実像。 そして、教祖一家と愛人たちは 極度の贅沢三昧。 これをもって、幸福の科学は 邪教であり、カルトであることは 確定したも同然。 30年、真摯に信じ続け、 教えを実践し続けた結果、 貧乏のどん底。 ORは、仏陀に非ず。 信者を不幸にする仏陀など、 絶対に有り得ない。 まさに、幸福の科学は、金に狂ったカルト http://ameblo.jp/an9ue2nfb/entry-12215463189.html とうとう某信者は、繁栄型エルを個人拝受した。 前回の降魔エルに続けて。 しかし、某は、前回で夫の退職金を使い果たしている。 住宅ローンもまだしっかり残っているのに、一体?? どうやら、借金した模様だ。 完全な、経済破綻だ。 緩慢な家庭崩壊であり、人間崩壊だ。 ここまで信者を狂わせる宗教。 絶対、邪教だ。 流石に、常軌を逸しているので、 教団、支部長、支部女性部長にメールで抗議した。 周囲の者たち、本人の家族、 皆、狂っている。 これは、信仰でも、宗教でも、何でもない。 ただの「狂気」だ。 まさに、幸福の科学は、金に狂ったカルトでしかない。 2007年(主日C年) 11月11日 年間第32主日 IIマカ 7:1-2,9-14 IIテサ 2:16〜3:5 ルカ 20:27〜38 第二バチカン公会議の大きな貢献は、教会の "根元的な本質が、神のことばと主の食卓を囲み、地上を旅する神の民であることを再発見した"(アルベリーゴ) ことでありした。 教会憲章は、神の国と教会を区別して次のように述べています。 「教会は、神の国の地上における芽生えと開始となっている。」(5) 「その国は神自身によって地上に始められたが、・・・・・ ついには世の終わりに、我々の命であるキリストが現れるとき、神によって完成される。」(9) 教会は典礼暦の最後の三主日の朗読配分によって、この世には終わりがあるということを、そして教会は来るべき新しい天と新しい地とを待つ信仰によって歩んでいるということを、再確認するのです。 テサロニケの教会の人々は "福音" によって、神の国でイエス・キリストの栄光にあずかるようにと選ばれ、招かれたのであり(IIテサ 2:13-14)、 彼らには 「永遠の (来るべき世の) 慰めと確かな希望」(IIテサ 2:16) が与えられたと、使徒パウロは書いています。 しかしそれは、聖霊の力と信仰とによってのみ理解出来るものでした。 コリントでもテサロニケでも、「すべての人に、信仰があるわけではない」(IIテサ 3:2) というのが事実でした。 教会の外の世界では当然のことであっても、新しく誕生した初代教会の中では決してあってはならないことでした。 「道に外れた悪人ども」(IIテサ 3:2)、「悪い者」(IIテサ 3:3) という強い表現の意図を、私たちは理解しなければなりません。 同様にコリントの教会の人々に宛てた手紙の中でも、使徒パウロは書いています。 「外部の人々は神がお裁きになります。 あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」(IIコリ 5:13) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 11月10日 年間第32主日 IIマカ 7:1-2,9-14 IIテサ 2:16〜3:5 ルカ 20:27〜38 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。 すべての人は、神によって生きるからである。」(ルカ v.38) イエスの時代のサドカイ派は、当時の議会における多数派でありました。 福音書にしばしば登場するファリサイ派は、実際には AD.73年にユダヤの国が滅亡して後のユダヤ教において初めて有力になったのであって、イエスの時代には少数派でありました。 つまり "復活があることを否定する人々" が多数派であるという状況の中で、イエスは神の国と終わりの日の復活、永遠の命に至る福音を宣教されたのでした。 神は、やがて神の国に復活した人々にとっての神となり、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙 21:4) という希望を与えてくださったのは、十字架のキリスト、復活のキリストであります(ロマ 4:25〜5:11 参照)。 先週の学びの中で私は現代の教会を評して、"救い" という言葉が使徒たちが宣教したようには理解されず、 "義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って受け継ぐ ・・・・・ 神の秘められた計画" とは何の関係もない別のことのように思われている ・・・・・ と書きました。 キリスト教的な道徳、政治、経済、それもほとんど実現などしそうにない理想や夢を語る説教を、私たちはこれまでどれほど聞かされて来たことでしょう。 しかし、神の国の約束や終わりの日の復活、永遠の命の希望についてのメッセージを、会衆が司祭の説教から聞くことは極めて稀でありました。 それでも神は、"主日のミサの朗読配分" を通して、自らの教会に "神のことば" を語っておられることを信じることが出来、そしてそれを聞き取ることの出来る人は幸いです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww http://blog.goo.ne.jp/mugi411/ 2013年(主日C年) 11月10日 年間第32主日 IIマカ 7:1-2,9-14 IIテサ 2:16〜3:5 ルカ 20:27〜38 「永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神 ・・・・・ が」(IIテサ v.16) 新約聖書で "永遠" と翻訳されているのは アイオーン であって、"世" と訳される場合には "この世" と "後の世" の両方に使われる言葉です(マコ 10:30)。 "永遠の慰め、希望" というのは "永遠の命" の場合と同じく、後の世すなわち来るべき神の国の慰め、希望、命のことを言っているのです。 近代人の多くは、聖書の語る復活も来るべき神の国も本気で信じなくなったために、新約聖書で使われている "永遠" の意味が理解出来なくなってしまいました。 実際、主の祈りの副文を締めくくる "国と力と栄光は、限りなくあなたのもの" や、ニケア・コンスタンチノープル信条の中の "その国は終わることがありません" が何を意味しているのかを理解している信者は稀少なのです。 しかし、この神の国を待ち望む "希望と慰め" という前提を抜きにした "善い働き、善い言葉"(IIテサ v.17) がいくら語られても、 それは福音の宣教にはならならないし、そのような説教から人々が "神のことば" を聞くことは、決して起こり得ません。 このように、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタ 22:14) のです。 しかしそれにもかかわらず、カトリック教会には "委ねられた信仰の遺産"(カテキズム/使徒憲章) があることに信頼し、 "わたしたちの罪ではなく教会の信仰を"(教会に平和を願う祈り) 主が顧みてくださることを願って、私たちは 「静かにささやく声」(王上 19:12) に耳を傾けようではありませんか。 なぜなら、私たちに与えられている神の国の約束は、「主イエス・キリストの栄光にあずからせる」(IIテサ 2:14) 救いであり、希望の光だからです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ、 闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。」(詩 11:2) 「主は、主に従う人と逆らう者を調べ、不法を愛する者を憎み、 逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる。 主は正しくいまし、恵みの業を愛し、 御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。」(詩 11:5-7) >>490 >>531 「神に従う人の道を主は知っていてくださる。 神に逆らう者の道は滅びる。」(詩 1:6) >>504 「わたしの命を奪おうとする者は、恥に落とされ、嘲りを受けますように。 わたしに災いを謀る者は、辱めを受けて退きますように。」(詩 35:4) >>518 「神と共に我らは力を振るいます。 神が敵を踏みにじってくださいます。」(詩 60:14) >>538 「主は、主に従う人と逆らう者を調べ、不法を愛する者を憎み、 逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる。」(詩 11:5-7) 神もキリストも信じないものは、このような目にあう。 Am Anfang schuf Gott Himmel und Erde.(I.Mose 1:1) Im Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort.(Joh 1:1) >>539 なぜ、日本人が、 ユダヤの神を信じないとこのような目にあうと、 脅迫され続けなければいけないのか。 信じなければ、生涯、脅迫され続ける。 2004年(主日C/A年) 11月14日 年間第33主日 マラ 3:19〜20a IIテサ 3:7〜12 ルカ 21:5〜19 「そこで、彼らはイエスに尋ねた。 "先生、では、そのことはいつ起こるのですか。 また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。"」(ルカ v.7) キリストの福音は "世の終わり"(ルカ v.9) に関わる "神の国の福音"(ルカ 4:43) であって、教会は代々にわたって "私たちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んで" 来ました(ルカ 21:27)。 使徒たちはこの福音の証人となった人々でありました。 彼らはこの福音のためにあるいは迫害を受け、あるいは殉教の死を遂げました。 そしてそれはキリストとその福音を証しする最高の機会となったのでした。 ルカ vv.8-11 はいわゆる黙示文学的表現であって、これを無理に一世紀の特定の出来事に結びつけて説明しようとするのは適当でありません。 まして後の時代の歴史を予告する "お告げ" などではありません。 「しかし、これらのことがすべて起こる前に」(ルカ v.12)、「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(マコ 13:10) ことが、今朝の福音の日課の主題であります。 使徒たちを通して語るのは復活されたキリスト御自身でありました(ルカ v.15)。 「遣わされた者」(ヨハ 9:7) の口に神は言葉を授け (エレ 1:9)、「この私があなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」(出 4:12) と言われます。 聖霊が語らせるとは、そういうことです。 彼らは 「忍耐によって、命を勝ち取り」(ルカ v.19) ました。 ですから使徒パウロも自分の後継者テモテに書き送って言いました。 「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」(Iテモ 6:12) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 。。。。 † ルカによる福音書11.43-46 わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。 わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」 すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」 しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、 自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。 原発は日本を不幸にするだけです。地震大国なのです。次はないのです。 † マタイ23.13 しかし、忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。 あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。 自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。 。。。。 Und alsdann werden sie sehen des Menschen Sohn kommen in einer Wolke mit großer Kraft und Herrlichkeit.(Luk.21:27) 2013年(主日C年) 11月17日 年間第33主日 マラ 3:19〜20a IIテサ 3:7〜12 ルカ 21:5〜19 「見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。」(マラ v.19) 「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。」(マラ v.20) 終末は、人間の行為によって地球に訪れる破滅ではありません。 戦争も、天災も、地球温暖化も、原発事故も、地上に終末がやって来る原因にはなり得ません。 また教育も医療も、政治運動も平和活動も、決していささかも神の国の到来を促進したりはしません。 もしそのような説教がどこかの教会で聞かれるなら、それは間違っています。 ただ神の愛が、その偉大な摂理と権能が、"この世" を終わらせ、"後の世" を来たらせる "秘められた計画" を実現されるのです。 "その日" を来たらせる方は神であって、人間ではありません。 教会は 「義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(IIペト 3:13) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より サロメ、何必死になってんだ?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww http://swedenborg-platon.seesaa.net/article/290851301.html KKのガンちゃんです。 君らは、クズですww 悔しかったら、私を論破しなさい!! 出来はしないだろうがww 君らのオツムじゃ・・・・ カマ〜ン!! 517:神も仏も名無しさん :2016/11/14(月) 18:34:17.74 ID:aip0wAlW どっかの宗教のバカな最高指導者が北朝鮮から無経験のテコンドーの名誉段位貰って歓喜してるってよww こんなバカなやつにはお似合いだけど 最低なバカ指導者だな どこの宗教だよ? 518:神も仏も名無しさん :2016/11/14(月) 20:28:41.26 ID:tg7BI/Ly >>517 フランシスコ教皇様じゃないか!w 個人的には柔道もしくは空手であって欲しかったけどね。 wwwwwwwwwwwwwwwwww Wir predigen nicht uns selbst, sondern Jesus Christus, daß er sei der Herr.(2.Kor. 4:5) >>549 > Wir predigen nicht uns selbst, sondern Jesus Christus, das er sei der Herr.(2.Kor. 4:5) >>550 > >>549 > > Wir predigen nicht uns selbst, sondern Jesus Christus, das er sei der Herr.(2.Kor. 4:5) 誤爆 誤爆www 何も意味はありません。 片手で携帯を触っていたら知らないあいだに書き込みになっていました。ププ 2004年(主日C年) 11月21日 王であるキリスト サム下 5:1〜3 コロ 1:12〜20 ルカ 23:35〜43 ダビデはそれまでユダ一部族の王でしかありませんでした(サム下 2:4)。 その前は400人ほどの徒党の頭領でした(サム上 22:2)。 その彼がヘブロンで油を注がれて神の民イスラエルの王となりました。 ですからダビデの王座 (ルカ 1:32-33) とは神の民の王座のことであって、父なる神は復活のキリストにこの王座をお与えになりました。 ですから、御子の血によって贖われて神の国の国籍を与えられた者たちは 「神のイスラエル」(ガラ 6:16) であり、キリストは復活して神の国を受け継ぐすべての人々の王なのです。 キリストがすべての人の救い主であるということは、必ずしもすべての人が復活の日に神の国を受け継ぐという意味ではありません。 ましてや神が天地万物を支配する王であるということが、ダビデの王座を無意味にすることはありません。 「いかに美しいことか、山々を行き巡り、よい知らせを伝える者の足は。 彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、“あなたの神は王となられた” と、シオンに向かって呼ばわる。 その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。 彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。」(イザ 52:7-8) 王であるキリストの祭日に、キリストの福音の “良い知らせ” を聞き取ることが出来る人は幸いです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 11月25日 王であるキリスト サム下 5:1〜3 コロ 1:12〜20 ルカ 23:35〜43 イエスが受難のためにエルサレムに入られたときの群衆の叫びを、マタイは 「ダビデの子にホサナ」 と書き(マタ 21:9)、マルコは 「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」 と述べました(マコ 11:10)。 かつてイエスの受難の出来事を、他人事のようにしか考えなかった私たち異邦人が、悔い改めて神を畏れる者となり、今やユダヤ人と共に神の国を受け継ぐという希望に生きるようになったのです(エフェ 3:6)。 歴史上のダビデ王国がそのまま神の国であったのではありませんが、それは今なお、イエス・キリストの再臨によって実現する来るべき神の国を指し示すものであり続けています。 イスラエルのどの部族にもよらずに “ダビデの町” がイスラエル統一の中心となったように、来るべき神の国も人間のどのような集団やその計画によってでもなくて、再臨のイエス・キリストと共に出現することでしょう。 教会は今はまだ目に見えないものを、信じて望んでいるのなら、私たちはその実現を忍耐して待ち望むのです(ロマ 8:25)。 「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロ v.14) 御子の贖いの血によって天の父と和解させていただいた者たちの教会は、“罪の赦しを得ている” ことをいつも感謝しましょう。 イエスの処刑の場を通りかかって侮辱した民衆の罪、一緒に十字架につけられながら同じようにイエスをののしった強盗たちの罪が、まさに私たち自身の罪であったと気づくようになり、 神を畏れる者となって悔い改め、“罪の赦しを得た” ことを、感謝しましょう。 「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(コロ 1:23) 教会の典礼暦の最後の主日である今日は、神の国の王であるキリストの祭日です。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 11月24日 王であるキリスト サム下 5:1〜3 コロ 1:12〜20 ルカ 23:35〜43 「ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。 長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。」(サム下 v.3) しかし復活によって “あらゆる名にまさる名を与えられた”(フィリ 2:9) キリストは、地上の王国を建て直す (使 1:6) ダビデ王の再来 (ルカ 1:32-33) 以上の方でありました。 「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」(ロマ 1:3-4) そして教会を、新しい契約の民として贖ってくださいました。 「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ 22:20) 王であるキリストの祭日は、聖なる者たちが復活の希望を新たにする、典礼暦最後の主日です。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 【典 礼 暦】 2016-2017年(主日A年) を、私の WebSite に upload しました。 http://www.kuwaei2000.com/Document/16-17cal.html ページの下の方に、プリント用の pdf file へのリンクもあります。 ご利用ください。 これは 「教会暦と聖書朗読」 の、各期節ごとの解説の部分を、一ページにまとめたものです。 そしてそれは、「典礼暦と典礼暦年に関する一般原則」 に基づく情報であることを、付言しておきます。 「神に感謝します。 神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」(IIコリ 2:14) 無教会スレ出入りのろんです。こちらでも、お世話になります。 よろしく、お願いします。 幕末維新頃のプロテスタントのキーワード、キーマンを探してみました。 札幌バンド・クラーク(内村鑑三)無教会主義 横浜バンド・バラ(ヘボン塾)オランダ改革派と明治学院 熊本バンド・ジェーンズ(解散させられた熊本洋学校の生徒が合流)京都の新島襄と同志社 横浜・熊本・札幌バンド 日本キリスト教史 天上の青 ttp://tenjounoao.waterblue.ws/jhistory/history20.html ローマ字のヘボンさん ttp://www.hebon.sonanda.net/040hebon.html YouTubeで聞ける見れる明治学院大学の讃美歌 讃美歌158番「あめには御使(みつかい)」 - YouTube 讃美歌312番「いつくしみ深き」 - YouTube 讃美歌370番「めさめよ、わが霊(たま)」 - YouTube 讃美歌461番「主われを愛す」 - YouTube 同志社大学カレッジソング、「ラインの守り」? ttps://www.youtube.com/watch?v=uCYkzBSO6xM 無教会主義(むきょうかいしゅぎ)とは - コトバンク ttps://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E6%95%99%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9-140311#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 無教会主義 明治大正期のプロテスタント系キリスト教思想家 内村鑑三が唱道 実践した信仰の立場と その運動。 福音の理解は 聖書そのものの正しい研究によってのみ得られるとし また福音の本義は 律法によるのではなく キリストの恩恵と信仰のみによる救いにあるとした。 制度化された教会と その聖礼典を批判 聖書と信仰のみを重視する。 内村鑑三によって始められ 弟子の塚本虎二 矢内原忠雄 黒崎幸吉らの 活動によって定着したとみられる日本独自のキリスト教 無教会の 最初の主張は《基督信徒の慰め》(1893)に現れるが これは〈不敬事件〉のあとのもので 国家権力からの 自由を求めるピューリタニズムの思想が 背後にあるとみられる。この主張は同時に 宣教師と牧師の少ない当時にあって 制度的教会に頼らない生き方を教え 日本人の伝統的感情に迎えられた。 無教会主義 内村鑑三(うちむらかんぞう)の主張した キリスト教のあり方。 宣教師による教派主義の弊害を知り フレンド派(クエーカー)のキリスト教の影響 1893年(明治26) 『基督(キリスト)信徒の慰(なぐさめ)』 「第3章 基督教会に捨てられし時」 に「無教会」の言葉が出る。 1901年(明治34) 『無教会』「教会の無い者の教会」(第1号) 「無教会主義」(第3号) 教会の建物、教師の資格も洗礼や聖餐(せいさん)などの儀礼 キリスト教に不可欠のものでない。 教会やその儀式・制度をすべて否定するのではなく 「無教会は進んで有教会となるべきである」 聖書講義と伝道誌の発行を中心に 無教会主義のキリスト教を存続 無教会主義をめぐる神学的解釈には 若干相違があったとしても 多くの集会が日本各地で続けられている。 初期キリスト教に関する歴史的な流れについて。 イエスが十字架にかかられた年代は 第202回のオリンピック大会の第4年目つまり 西暦31年ユダヤ暦ニサン(アビブ・1月)の月の第15日の 朝9時から午後3時の出来事。 西暦49年に皇帝クラウディウスが 「キリストの扇動で年中騒動を起こすユダヤ人」を 首都から追放した。 西暦50〜110年頃の間に 新約聖書の使徒書簡・マルコ福・Q資料が書かれた。 古代ローマ皇帝ネロによるキリスト教への大迫害の理由となった ローマ大火(ローマたいか)は 西暦64年7月19日。西暦2世紀(100年代)初めの歴史家タキトゥスの 年代記15:38〜44に記述あり。 西暦64〜150年頃の間に 新約聖書のマタイ福・ルカ福・使徒言行録・ヨハネ福・黙示録が書かれた。 西暦70〜73年にユダヤ反乱(ユダヤ戦争)があった。ユダヤ人離散となる。 西暦90年にユダヤ教のヤブネヤ会議で旧約聖書39巻が選抜される。 西暦393年のヒッポ会議と 西暦397年のカルタゴ会議で新約聖書27巻が選抜される。 ヒッポ会議(393年)、カルタゴ会議(397年)によって、 現在の27巻が新約聖書の正典として認定されます。 認定の規準は、以下のようなものです。 @著者は、使徒か、使徒と関係の深かった人か。 A教会全体から受け入れられているか。 B正統的な教理や教えと矛盾しないか。 C聖霊による霊感を感じさせる霊的、倫理的価値を含んでいるか。 正典:新約聖書をどう読む(1) ttp://www.geocities.jp/todo_1091/religion/039.htm エイレナイオスのブログ 18.聖書を読む 新約 ttp://irenaeus.blog.fc2.com/blog-entry-123.html 4福音書のシンボル ttp://nyumonkouza.net/2013/09/05/%EF%BC%94%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB/ 新約聖書正典成立過程まとめ odai/2147486034772665001 正典 ttp://www.geocities.co.jp/MotorCity-Rally/5709/canon.html 日本聖書協会 口語訳 新約聖書 ttp://bible.salterrae.net/kougo/html/ 聖書本文検索 日本聖書協会ホームページ ttp://www.bible.or.jp/read/vers_search.html 聖書の成り立ちについて ttp://www.harvesttime.tv/news-topics/q-and-a/how-the-bible-came-to-be/ 「トマス福音書」全文114句 ttp://apocrypha.jimdo.com/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8/%E6%9C%AC%E6%96%87/ 幻のQ文書(Q資料といわれるイエス語録)とは ttp://muso.to/h-qsiryoumakku.htm ルターは ヨハネ福音書 ローマの信徒への手紙 ペテロの手紙 一 が 他の3つの福音書よりまさっているとしている 新共同訳 用語解説 契約の項 モーセの契約(シナイ契約) イエスの死による契約(新しい契約) 律法の行いの大祭司(律法の実行、日々いけにえ、レビ) 信仰の行いの大祭司(約束と恵み、キリストがいけにえ、契約の仲介者、メルキゼデク) ガラテヤ3:13−14 キリストは私達の為に、 呪いとなって、私達を 律法の呪いから贖い出して下さった。聖書に 「木に架けられた者は呪われる」と書いてある。それは アブラハムの受けた祝福がイエス・キリストにあって、 異邦人に及ぶ為であり、 約束された御霊を、私達が 信仰によって受ける為である。 ヘブライ7:27 彼は、ほかの大祭司のように、まず 自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、 いけにえをささげる必要はない。なぜなら 自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。 ガラテヤ2:21 わたしは 神の恵みを無にはしません。もし 人が 律法のお陰で義とされるとすれば それこそ キリストの死は無意味になってしまいます。 ヘブライ6:20 イエスは、わたしたちのために 先駆者として そこへ入って行き、永遠に メルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。 ヘブライ9:15 こういうわけで キリストは 新しい契約の仲介者なのです。それは 最初の契約の下で犯された罪の贖いとして キリストが死んでくださったので召された者たちが 既に 約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。 ガラテヤ3:9 それで 信仰によって生きる人々は 信仰の人アブラハムと共に祝福されています。 私達があなた方に伝えた事は、私自身、主から受けたものです。 即ち主イエズスは引き渡される夜、 パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、 『これは、あなた方の為の私の体である。 私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。 また食事の後で杯も同じようにして、 『この杯は、私の血によって立てられる(エレミヤの)新しい契約である。 飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい。』 と言われました。 だから、あなた方は、このパンを食べこの杯を飲むごとに、 主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。 (コリントT11:23〜26、エレミア31:31〜34) あらし的なカキコでしたが、いま時分はコレまでに致します。 よろしく、どうぞ。 ろんさん。 ようこそ。 これまでに蓄積して来た資料を、一通り書いてくださったようですね。 ろんさん の努力、熱意、そしてエネルギーに感心します。 私としては、ろんさん がご自分の信仰理解や、いろいろ集めた資料に対する自分なりの判断基準を表明できるまでに、ぜひ成長してほしいと感じます。 誰でも、長い模索を経て、「自分の判断」 を持つようになるのですから、これからも求道の旅を続けてください。 折に触れて、書き込みをお待ちしています。 老クリスチャン先生。ありがとうございます。 今後もよろしくご指導をお願いします。助かりました。 2004年(主日A年) 11月28日 待降節第1主日 イザ 2:1〜5 ロマ 13:11〜14 マタ 24:37〜44 「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。 人の子が来る場合も、このようである。」(マタ vv.38-39) 人はみな例外なく日常生活を歩んでいます。 信仰とはこの日常生活から脱出することではなくて、まさにその中で 「人の子が来る」 という将来の事実に目覚めていることなのです。 キリスト信者もそうでない人も、外見上は区別出来ません。 また外見上区別出来るような信仰集団を作って特別な生活をしていても、その日は一人残らずを同じように襲うのです。 そしてその日には、「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」 ことになります。 私たちの希望は、この再び来られるキリストにかかっていることを思いましょう。 「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。」(IIテサ1:10) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日A年) 12月2日 待降節第1主日 イザ 2:1〜5 ロマ 13:11〜14a マタ 24:37〜44 このイザヤが見た幻は、“終わりの日” の幻でした。 ところが近代人はその中の4節だけを前後関係から切り離して、あたかもキリスト教は地上に平和を打ち立てることを目標にする宗教であるかのような、そんな主張を作り上げたのでした。 福音の終末的使信が見失われたところには、実現不能な幻想だけが残ることになりました。 20世紀を代表する哲学者の一人といわれるレヴィナスが、その主著である “全体性と無限”(岩波文庫) の序文で、次のように書いています。 「私たちは道徳によって欺かれてはいないだろうか。 ・・・・・ 聡明さとは、精神が真なるものに対して開かれていることである。 そうであるなら、聡明さとは、戦争の可能性が永続することを見て取ることにあるのではないか。」 ユダヤ人である彼が、通俗的キリスト教による旧約聖書への安易で誤った理解の一つを、痛烈に批判していることに私たちは注目すべきです。 そしてこの4節を、実現不能な幻想としての平和主義を主張するために、しばしば好都合な聖句として利用して来たことを、私たちキリスト者は真剣に反省しなければなりません。 教会が聖書から聞くべきものは、神のことばすなわちキリストの福音であって、それは使徒たちの証言と聖霊の働きによってだけ私たちに届くのです。 キリストは私たちを、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザ v.4) 神の国に迎えるために、今や来たり給うのです。 来たり給う主キリストを歓呼して迎えるために、新しい典礼暦の一年が今日からまた始まります。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より おっ、よかったね。 私以外に老栗さんのサイトを読む人が出て。 「神に感謝します。 神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」(IIコリ 2:14) 「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。」(IIコリ 2:16) 正典:新約聖書をどう読む(1) ttp://www.geocities.jp/todo_1091/religion/039.htm コリントの信徒への手紙2(涙の手紙、和解の手紙) パウロは敵対者との対決を決意して弁明と怒りの手紙、いわゆる 「涙の手紙(10〜13章)」を送り、権威の回復を訴えた。 コリント教会に対するパウロの熱情と、共労者テトスの仲介の努力で、 ようやく誤解が解ける。その和解を喜んでパウロが書いたのが、本文 「和解の手紙(1〜9章)」と考えられる(諸説あり)。 2013年(主日A年) 12月1日 待降節第1主日 イザ 2:1〜5 ロマ 13:11〜14a マタ 24:37〜44 「そのとき、畑に二人の人がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」(マタ vv.40-41) この 「連れて行かれ」 を ヨハ 14:3 の意味で理解すると、「もう一人は残される」 が マタ 7:21-23 や マタ 25:11-12 の “お前たちを知らない” と言われる人々のことであるのが分かります。 後者の人々も教会に連なる仲間であって、「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」(ルカ 13:26) と言うに違いありません。 しかし ・・・・・ 、そうです、彼らは “キリストの福音と、受けた救い” を本当には理解していなかった ・・・・・ “むとんちゃくでいた”(ヘブ 2:3) ことが、終わりの日には暴露されるのです。 “目を覚ましている” とは、世俗から逃れて修養と瞑想の世界に生きるということではなくて、 むしろ世俗の生活と勤めの中にありながら “天にあるわたしたちの本国を思い、そこからわたしたちの主イエス・キリストが救い主として来られるのを待っている”(フィリ 3:20) という、教会の信仰に固く立つことです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 正典:新約聖書をどう読む(1) ttp://www.geocities.jp/todo_1091/religion/039.htm マルコによる福音書(イエスとは何者なのか、何を伝えたのか) ローマの圧制とユダヤ支配層の腐敗 社会不安と終末的世相の中で 差別のない神の国が もうすぐ訪れるという 福音(良き知らせ)を伝えるイエスを表す。 民間伝承である奇跡物語 エルサレム原始教会由来のイエス伝承 典礼化された受難物語などから 人の子イエスの神性を明らかにして イエスは聖霊により神が愛する子となったとする。 被差別者が解放される「神の国」の福音を説き 当時のエルサレム原始教会の使徒達やイエスの弟ヤコブの ファリサイ派(律法主義)的傾向を批判した。 伝統的にマルコが著者とされるが ペテロの弟子というのは 福音書を読む限りその可能性はない。 著者はギリシャ語が稚拙であるから パレスチナ出身のユダヤ人キリスト者だろう。 執筆場所はパレスチナ北部かシリヤ南部。 エルサレム崩壊を知らない事から 紀元70年以前の50〜60年代と推測される (後に改編されている13章の小黙示録部分など)。 処女懐胎や復活顕現はない。 マルコの教会は傍系であったが 最初に書かれて流布したために 正典から外す事が出来なかったと思われる。 典礼暦の新しい一年が始まりました。 私にとっては、典礼暦は聖書神学と並んで、聖書から 「教会に受け継がれて来た福音と信仰の理解」 を聞き取る、貴重な道案内です。 http://www.kuwaei2000.com/2ch.html に収録している 「聖書と説教の関係について」 「カトリック教会の典礼暦」 「主日のミサの朗読配分」 参照。 ろんさん は、かなり広い範囲から情報を集めていらっしゃいますが、これまでの書き込みからは、それらの知識が聖書本文から 「キリストの福音」 を聞き取ることにどのような助けになっているのか、今ひとつ見えてきません。 聖書そのものの素読を繰り返す、という基本が欠けていると、たとえ純粋で熱心であっても、雑多な知識が空回りするだけになってしまうのではないかと、私は心配します。 2ch の論客たちの反応を見ていると、まるで私が普通の信者に、難しい専門的な神学の知識を勉強しろと言っているかのような誤解が、ときどき見られます。 ろんさん を例に取らせていただくと、こんなに広範囲の情報を熱心に追いかけ回すというのは、たいへんなご苦労の筈です。 一般に出版されているキリスト教関係の書物、特に専門的訓練を必要とする本格的な神学書などを、手当たり次第に勉強するには、超人的な努力と能力が必要になります。 私はこれまで一貫して、そのような過大な計画を、軽率にも本気で初めて、結局は途中放棄することに警告して来たつもりです。 これは普通の信者にも、ある程度専門的な教会の指導者に対しても、分かって欲しい私からの助言です。 http://www.kuwaei2000.com/2ch.html の 「聖書と説教の関係について」 の、冒頭の部分を参照。 老クリスチャンさん。こんにちは。今日は作業シフトの休みの日です。 聖書離れと思わせて、ご心配おかけして、すみませんでした。 祈りの中身は神様が前もってご存知だから、マタイやルカにある主の祈りを。 イエス様の十字架と復活が救いなのだから、万事天の父により頼むだけです。 福音書のたとえ話などは高校時代の学校礼拝で通読で聞かされていました。 新約の福音書だけでなく旧約の創世記も通読を聞かされています。 聖書の通読に関し、学校礼拝のあった 登校日の年に何百日の3年間は短いようで長いです。 教会通いの3年間は、聖句が週に一回ですから 教会の聖書の情報量は、学校礼拝の5分の1の量です。 新約聖書の通読は先月か先々月に1度していますが素読でした。 自分が思うに 日本聖書協会の新共同訳にある用語解説や いのちのことば社の聖書ガイドブックや実用聖書註解は 聖書理解に役に立っています。 プロテスタント(改革派・ルーテル教会)の各国語による 聖書普及作戦は大成功だと思っています。神に感謝です。 私は以前に、「現行の日本語聖書として主なものは “新共同訳” と “フランシスコ会訳” の二つですが、そんなに大きな訳文の違いはありません」 と書きました。 ただしそれに続いて、「ただ後者には、聖書各巻の初めに簡単な解説がついているので、これから新しく購入する人にはオススメです」 と、付け加えておきました。 2ch で、自分をいかにも学者ぶって発言しているある人が、「そんなレベルの低い解説 ・ ・ ・ 」 と、馬鹿にしたような反応をしていました。 私は、低レベルでも良い、むしろ普通の方々に簡単に読みこなせる、十分に理解出来る、そんな参考書や資料をお勧めしたいのです。 実際には、本当に内容がしっかりしていてしかも簡略な参考資料というのは、中途半端な人間に書けるものではありません。 本当に信頼できて、役立つ資料は、実は際だってレベルの高い神学の専門家でなければ書けないのです。 老クリスチャンさん。2chは玄人が結構多いです。 神学知識が旺盛な人がいっぱいいます。 私のように問題だとか失敗したカキコだと 訂正のためにネット検索して正しい情報を探す事もあり 参考としてリンクに関する引用ソースや カキコ情報を出すのが精一杯です。 便所の落書きやデマや差別内容も多いのも確かですが。 私は高校時代は 学内YMCA(洗礼を受けてない人もいる聖書クラブのような部活)に いましたので、新約聖書の使徒書簡と聖句解説は読んでいました。 学校礼拝は福音書だけでなく 時折、使徒書簡も読んでいた記憶があります。 現在はパウロ書簡でガイドラインを思い出せるのは ローマ書が義の手紙 コリント書が愛の手紙 ガラテア書が十字架の手紙 コロサイ書が天使礼拝を警告の手紙 エフェソ書が処女神アルテミス批判の手紙(エフェソは聖母マリアの教会に) ヘブル書がユダヤ教とキリスト教の違いを述べている。など、など、 こんな簡単な知識があっただけです。 ろんさん、お返事ありがとうございます。 ろんさん も、まだ分かっておられないのですが、ただの雑多な神学知識の寄せ集めと、本格的な意味での 「神学」 とは、全く別のもの、似て非なるものなのです。 私が言いたいのは、そんな雑学を吹聴して、いっぱしの議論をしているような連中に、惑わされないで欲しいということです。 そなんもので救いを得ることは出来ませんし、福音を理解して信じるということも起こりません。 私はこの 2ch に顔を出すようになって、やっと一年を超えたところですが、これまでに 「神学を理解している」、「自ら神学している」 ような論者には、ほとんどお目にかかっていません。 分かり易い言葉を使えば、「イエス・キリストを信じて救われた人」 に、ほとんど出会っていないということです。 私は、とても自分を誇ることなど出来ない浅学の徒ですが、本物の神学を、確かに学んでいる、ということを感謝しています。 聖書神学にせよ、教義学にせよ、典礼学にせよ、私はそれらから何よりも 「信仰」 を受け取り、学び取って来ました。 それらは私にとっては、「信仰に達し得ないただの学問」 ではありませんでした。 老クリスチャンさん。惑わされないよう気をつけます。 ネットの知識を鵜呑みにせず、信仰に立って考えるクセとか、 自分の判断を磨くという事もしていきたいです。 2ch以外で聖書通読やカテキズムなどを読みながら 自分の言葉を語れる習慣もつけたいと思います。 ところで、すろさん(スロージューサーさん)はどうでしょうか。 2chカキコでは小学生の頃の教会通いの話題もあり 生まれながらのクリスチャンで 注釈書も読みこなしているような気はするのですが。 すろさんは他のスレでつきみさんとレスの書き方で言い合いになり 2chでは仲が悪いコテハン同士がいるものだなぁと思っているのですが。 私はつきみさんのカキコで予定説(予定論)がわかったのです。 >>569 の救済論のリンク先の説明に予定説は書いてあります。 カトリックのミサ ミサ式次第 - カトリック宇部・小野田ブロック ttp://ubecat.jp/missa/ ミサ式次第 ttp://catholic-katsura.life.coocan.jp/mass.htm 各国語版ミサ式次第 ttp://maytetherese.easter.ne.jp/chapel/massorder/massindex.html キリスト教の敵の資料からもキリストが歴史的に存在した事が証明できる。敵を愛すも然り。 ユダヤの敵ギリシアのオリンピックの年代から十字架の日を割り出せる。 キリスト教の敵ユダヤの太陰暦や口承伝承や旧約聖書から十字架の日を割り出せる。 キリスト教の敵のユダヤ人(ガリラヤ人)ヨセフスの記録からも迫害時期を割り出せる。 キリスト教の迫害者ローマの歴史書の年代記や碑文から迫害時期を割り出せる。 主イエスが十字架にかかられた年代と日時 ttp://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20140414/p1 ローマ皇帝ネロとキリスト教徒 ttp://manga.world.coocan.jp/kiri-8-nero-kirisuto.html パウロの伝記的年代の基準 /paulsup/galliondate.htm クラウディウス帝は AD41年には騒乱を起こしたユダヤ人だけを追放した上でユダヤ人の集会を禁じ AD49年にはユダヤ人(キリスト教徒を含む)を全面的にローマから追放したことになります。 使徒言行録17:32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、 ある者は、「それについては、いずれ また聞かせてもらうことにしよう」と言った。 イエスの生まれがドウであれ 十字架で死んだ人間イエスはいるとパウロは信じている。 つまりパウロは当時のギリシア人に相手にされてなかった。 相手にされてない人物パウロが 歴史的に存在した事は証明されている。 信仰者とはイエスが神であることを信じる者達のことです。 聖書とは、処女から人間が産まれた事を信じろなどという書物ではないのです。 >>591-596 以前に私もその話題に、少しだけ言及しました。 「すでに一時代も二時代も昔、20世紀前半の日本の教会では、聖書の記述と自然科学とは両立しないというような議論が盛んであったようです。 ・ ・ ・ 」 興味がありましたら、覗いてみてください。 http://www.kuwaei2000.com/2ch.html 「聖書と信仰、こぼれ話」 → 6. 老クリスチャン先生。たびたび、くだけた話をいただきまして ありがとうございます。キリスト教の信仰についての理解が進みます。 ですが残念ながら信仰を求めて洗礼を受ける覚悟は、いまだ出来ていません。 テサロニケの再臨の話に納得が出来ないからでもあります。 それで密教系の新宗教に約16年間走った理由でもありました。 ノストラダムスの大予言と言うワケワカメな話に人生つきあった結果です。 いまだ求道者の立場でしかものが言えない状態です。 信仰問答もこれからの人生を考えると 難しいことを言っているなと思っている状態です。 >>585 訂正です。 > エフェソ書が処女神アルテミス批判の手紙(エフェソは聖母マリアの教会に) 使徒言行録の話とエフェソ書の話を間違えていました。 カッコ内は学校の時の話ではなく約20年後のインターネットで得た話です。 信仰者とはイエスが神であることを信じる者達のことです。 聖書とは、処女から人間が産まれた事を信じろなどという書物ではないのです。 それは普遍的なことがらであり日本では古来よりムスヒと呼ばれており 万国共通の事象なのです。イエスキリストだけが特別なのではありません。 イエスが半人半神であったと言う説を唱える者もいますが 処女から産まれる事は当然出来ないため完全に却下されます。 老クリとろんのやりとりは、ちょうど 腕が悪いカメラマン同士が、お互いに集めたカメラを見せ合いっこして その性能を語り合っているようなもの。 素人が観ると、あたかも腕がいいカメラマン二人なんだろうなと勘違いする。 こんなキリスト者になってはいけないというサンプルの二人だね。 ろんは老クリのマウンティングのターゲットであり 「薄汚い者」は自分をラビと呼ぶ馬鹿弟子を探しあてた。 >>598 ろんさん と ご縁が出来たのも、きっと主の導きによることだと思います。 今回の書き込みで、初めて ろんさん の人生の歩みが少しだけ想像できるようになりました。 私が 2ch で、特にカトリックと名のつくスレで、どれほど暴言を浴びせられているかは、きっとご存じだと思います。 私は、主が私に与えてくださった救いと、福音への信仰を、大いに誇りに思っています。 自分自身を誇るのではなく、「誇る者は主を誇れ」 と書かれているとおりです。(Iコリ 1:30-31、エレ 9:23 参照) ろんさん が 私に敬意を表してくださっているのは分かるのですが、私を 「先生」 と呼ぶのは差し控えてください。 すでに 2000年1月から、一人の信徒としてカトリックの教会のミサに参加させていただいています。 その最初の頃、ある一人のプロテスタントから来た信者が、何回か私を 「先生」 と呼ぶことがあって、その人には私から 「先生と呼ばないでください」 とお願いしました。 しかし、その数回の先生呼ばわりを耳にしたあるカトリック信者から、後になって敵意ある攻撃を受けたものです。 多くの教会で、カトリックの教会では特に、あまり知識のない初心者には皆さん親切にしてくださいますが、彼らよりも知識のレベルが高いと分かったとたんに、警戒心だけでなく、多くの場合敵意を持った目で見られるようになります。 どこの教会でも、驚くべきことに、ほとんどの信者は (更に牧師や司祭までもが)、自分が何を信じているのかよく分かっていないし、福音に対する明確な確信も持っていないのです。 そして、その (核心的な) 弱点を見透かされることほど、彼らにとって嫌で怖ろしいことはないからです。 本物の信仰者は、ただ主への感謝と賛美に生きるもので、教会と主の小羊たちを愛することはあっても、仲間の足を引っ張ってみたり、蹴落として自分が優位に立とうなどと考えることはありません。 「信仰」 もそうですが、「謙遜」 も、主が与えてくださるものであって、自分の努力で作り出す美徳ではないのです。 ろんさん は、Iテサ 1:10 につまずいたのですね。 それは、とても重要なポイントに直面したということなのです。 たいていのキリスト教信者は、こういう聖書の証言を真面目に考えるのをスキップして、洗礼を受けてしまった人々です。 そういう先輩に、福音や救いをどう考えたら良いのかと質問しても、まともな返事を期待することは出来ません。 キリストの受肉を、死と復活を、そして昇天と将来の再臨を、人間の知恵で理解しようとするのが間違っているのです。 それは信仰の事柄であって、救いは 「初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(ロマ 1:17) そして、その信仰は、賜物として与えられるものであって、決して人間が自分で作り出すものではありません。 お読みになったかも知れませんが、先日別スレに私が書き込んだ 【信仰とは】 へのリンクを紹介しておきます。 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1478019542/288-293 11月26日 年間第34土曜日 (ルカ21,34-36) 「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、 あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、 いつも目を覚まして祈りなさい。」ルカ21,35-36 誰かを愛するとは、その人を高めるように善を行うことですが、この人のために希望を持つということでもあります。 ですから、何の希望も持たずに、絶望して生きている人は、誰も愛していない、また、希望を見出さないかぎり、 誰も愛することが出来ないと言えると思います。 イエス・キリストが再臨されたら、神の国と同時に私たち一人ひとりを完成してくださり、 私たちが永遠に父である神の愛に生きるようになるという希望を新たにして、私たちは私たちの愛、神に対する愛、 また、隣人と自分自身に対する愛が、強められますように祈りましょう。 * すべてを治められる父よ、 み旨にしたがって生きる人に、 あなたは神の国の喜びを備えてくださいます。 あなたからいただくすべてのものが、 救いのみわざの完成に役立つものとなりますように。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ 「キリストの光を全ての人々に」 http://www.nowaksvd.net/ 老クリも馬鹿ではあるまい。 これが、お前がいつもやってることだよ。 >>604 >私が 2ch で、特にカトリックと名のつくスレで、どれほど暴言を浴びせられているかは、 >きっとご存じだと思います。 >私は、主が私に与えてくださった救いと、福音への信仰を、大いに誇りに思っています。 お前はまだわかってない。 自分の神学の勉強の仕方だけは「本物」。他の人とは違って自分は。 いつも人が悪い。自分は正しい。自分が裁く。他者が至らない。 自分を「よそ者」と考えるカトリック信徒が悪い。 お前の独善こそが「まむし族の老クリ」「うす汚い者」と言われる所以。 何個でも神父様の投稿を、お前がやってるスレッドに貼り付けてやってもいいんだよ? ネタはいくらでもある。 古人曰く ち え は い つ わ り の は じ ま り >>606 >>606 天 竺 か ら ふ ん ど し wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 11月29日 待降節第1火曜日 (ルカ10,21-24) 「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、 あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、 幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」 (ルカ10,21) 神についての知識を得るためには、聖書や他の本を読んだり、 神学を勉強したりすることで十分でしょうが、神を知るために、つまり神の愛と命にあずかるためには、 人間になった神の子、しかも十字架に付けられて殺された神の子を信じ、 神の子を自分の人生に受け入れなければならないのです。 私たちは、使徒たちと同じように、イエス・キリストを信頼して、イエスの呼びかけに応えて、 イエスに従い、与えられた使命を果たすことによって、神と人間との間の唯一の仲介者である イエス・キリストと一層深く結ばれますように祈りましょう。 * いつくしみ深い神よ、 苦しみにある人々を力づけてください。 やがて来られる救い主への希望に支えられて、 罪のいざないに打ち勝つことができますように。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ 「キリストの光を全ての人々に」http://www.nowaksvd.net/ とうとう、老クリスチャンは自らの本性を、みんなの前に現し始めましたね。 そして、その歪んだ信仰が徐々に明らかになってきました。 >>605 >知識のレベルが高いと分かったとたんに、警戒心だけでなく、 >多くの場合敵意を持った目で見られるようになります。 皆さんは、老クリスチャンのレベルが高いと思うのではなく、あなたの中の 二心や歪み、間違った方向の信仰を感じるからでしょう。 私はあなたのレベルが高いと思ったことはありません。 くだらない方向、間違った方向に、枝葉を伸ばしたな、と思います。 >どこの教会でも、驚くべきことに、ほとんどの信者は (更に牧師や司祭までもが)、 >自分が何を信じているのかよく分かっていないし、 >福音に対する明確な確信も持っていないのです。 歪んだ実であるあなたが見ると「驚くべきことに」そのように思えてしまうのです。 信仰観を誤っているからです。 >そして、その (核心的な) 弱点を見透かされることほど、 >彼らにとって嫌で怖ろしいことはないからです。 あなたの欺瞞がここ2ちゃんねるでは見透かされていますね。初め、目が曇って 見えなかった○○さんも、見えるようになって、あなたの本性を見抜いたことでしょう。 「牧師ごっこ」「二心のユダ」「うす汚い者」「まむし族」・・リアルでは だれも言ってくれず、自分が神となって「独善」を増長させたのです。 兄弟的勧告に耳を傾け、回心しましょう。あなたが迷った一匹の羊なんです。 あなたたちの中からも、弟子たちを引きつけようとして、有害なことを教える 人が立つでしょう。警戒しなさい。(使20:30) 老クリスチャンさん。おつかれさまです。 おっしゃられる通り先生呼びを控えます。 信仰問答の項目 聖伝のひとつとしての聖書を解釈するのは誰か 使徒信条かニカイア・コンスタンチノポリス信条の説明 秘跡サクラメントか機密ミステリオンの説明 十誡の説明 主の祈りの説明 殉教者や聖人に関するキーワード 中南米サンタ・テクラ 獣と戦う刑 教会洗礼ではなく自己洗礼 外典パウロ行伝 聖イグナティオス 獣と戦う刑 使徒教父文書 聖ポリュカルポス 生きたまま焼かれる刑 骨を拾う信者 聖遺骨崇敬の始まり 黙示録の体の光が照らす記事と迫害で生きたままかがり火にされる殉教の関係 >>618 カトリック教会のカテキズムを例に > 聖伝のひとつとしての聖書を解釈するのは誰かの説明 第1編 信仰宣言 第1部「わたしは信じます」「わたしたちは信じます」 第2章 人間を訪れる神 第2項 神の啓示の伝達 2 聖伝と聖書との関係 第3項 聖書 > 使徒信条かニカイア・コンスタンチノポリス信条の説明 第1編 信仰宣言 第2部 キリスト教の信仰宣言 第1章 わたしは父である神を信じます 第2章 神のひとり子 イエス・キリストを信じます 第3章 聖霊を信じます > 秘跡サクラメントか機密ミステリオンの説明 第2編 キリスト教の神秘を祝う 第2部 教会の七つの秘跡 第1章 キリスト教入信の秘跡 第1項 洗礼の秘跡 第2項 堅信の秘跡 第3項 エウカリスチアの秘跡 6 過越の会食 第2章 いやしの秘跡 第4項 ゆるしと和解の秘跡 第5項 病者の塗油の秘跡 第3章 交わりをはぐくむための秘跡 第6項 叙階の秘跡 第7項 結婚の秘跡 >>620 > 十誡の説明 第3編 キリストと一致して生きる 第2部 神の十戒 第1章 「心を尽くし、精神を尽くし、 思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」 第1項 第一のおきて 2 「ただ主に仕えよ」 第2項 第二のおきて 1 主のみ名は聖である 第3項 第三のおきて 2 主日 第2章 「隣人を自分のように愛しなさい」 第4項 第四のおきて 3 家族の成員の義務 第5項 第五のおきて 1 人間のいのちの尊重 第6項 第六のおきて 3 夫婦愛 第7項 第七のおきて 2 人間とその財貨の尊重 第8項 第八のおきて 4 真実の尊重 第9項 第九のおきて 2 清さを得るための戦い 第10項 第十のおきて 1 欲望の乱れ 3 心の貧しさ > 主の祈りの説明 第4編 キリスト教の祈り 第2部 主の祈り:「わたしたちの父よ」 第2項「天におられるわたしたちの父よ」 3「わたしたちの」父 第3項 七つの願い 2「み国が来ますように」 7「悪からお救いください」 「カトリック教会のカテキズム」 というものを、目次に出てくる各項目に関する 「FAQ (問題と解答集)」 のように考えないで欲しいと思います。 これは歴史の教会が絶えず続けてきた 「(教会に) ゆだねられた信仰の遺産を守る」 という課題への、現代における (一つの) 試みとして理解すべきものです。 つまり、− − もし教会の時が続くなら − − 100年後にも200年後にも、教会はその置かれた時代の中で常に新しく繰り返して行くであろう、それぞれの時点における試みなのです。 冒頭にある使徒憲章は、次のように述べています。 「(これは) 聖書、使徒伝承、教会教導権によって述べられ、あるいは、これらに照らして明確にされた教会の信仰とカトリック教理の解説です。」 律法主義者のための律法集のようにではなく、使徒たちから伝えられた福音、教会がそれを土台として歩んで来た福音を聞き取るために、これが用いられますように。(Iコリ 3:10-13, 15:1 参照) 2007年(主日A年) 12月9日 待降節第2主日 イザ 11:1〜10 ロマ 15:4〜9 マタ 3:1〜12 イザヤ書における預言者の召命の記事 (イザ 6章) に続く大きな出来事は、アラム・エフライム戦争における王アハズとの会見でありました。 イザヤはアハズ王に対して、落ち着いて神の助けを待つことを勧めました(イザ 7章)。 しかしアハズ王は聞き入れませんでした。 恐らくアッシリア王に救援を求めるアハズ王からの使者が、すでにその途上にあったのでしょう。 アッシリア王はその願いを聞き入れて、ダマスコに攻め上ってこれを滅ぼし、北王国もその領土の大部分を失いました(王下 16:7-9)。 この事件は預言者イザヤの中に大いなる変化を引き起こしました。 地上の王に失望したイザヤは、終末的なメシア待望を預言するようになります。 その頃の預言の一つが今朝のテキストです。 教会は降誕節に、御子イエスの誕生によってこのイザヤの預言が実現したことを記念します。 それは壮大な救済史のドラマであって、さらに終末における完成を目指しているというのが、福音の終末的使信なのです。 主の降誕の夜半のミサで、同じイザヤの終末的なメシア待望預言 (イザ 9:1-6) が朗読されるのも、教会が今なお “終わりの時に向かって急ぐ”(ハバ 2:3) 救済史の中を歩み続けていることを、覚えるためです。 「その日が来れば ・・・・・ 」(イザ v.10)。 そうです。 「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ロマ 8:25) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 老クリスチャンさん。おつかれさまです。 今まで律法主義的に解釈していた事に気づかされました。 少し落ち着いてカテキズム等を読んでいきたいです。 11月30日 聖アンデレ使徒 (マタ4,18-22) 「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。」 マタ4,19-20 父である神は、すべての人々を愛の絆で結び、一つに集めたいと求めておられ、そのために 常にご自分で働き、また人々の協力をも求めておられるのです。 ますます多くの人々が、今日記念する聖アンドレのように、すべてを捨てて、 福音宣教のために全生涯をささげるように招かれなくても、生きている場で、いつも イエスの教えを守り、聖霊の導きに従って、神の愛を証しすることによって、 イエスと共に神の望みに応えて人々を集めることができますように祈りましょう。 * すべてを治められる神よ、 みことばを宣教し、教会を導くために、 あなたは聖アンデレを選び、使徒とされました。 聖人の殉教を記念して祈るわたしたちに、 あなたの国のあかしとなる恵みをお与えください。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ 「キリストの光を全ての人々に」 http://www.nowaksvd.net/ 12月1日 待降節第1木曜日 (マタ7,21.24-27) 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。 わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」マタ7,21 待降節は、自分の人生を見つめるための良い機会です。私の人生の基礎的な価値観は何でしょうか。 私の富、私の最も大事な宝とは、何でしょうか。私は何を求めて、何を希望しているのでしょうか。 私の人生は、どんな方向に向かっているのでしょうか。 このように生きていることによって私はどんな人になっているのでしょうか。 私たちは、自分の現実をありのままに見つめることができますように。そして必要に応じて、 まだ遅くないうちに、変えるべきところは変えることができますように祈りましょう。 * 救いの源である神よ、 力を奮い起こして助けに来てください。 救いの日が、わたしたちの罪のために遅れることなく、 あなたのいつくしみによって早められますように。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ 「キリストの光を全ての人々に」 http://www.nowaksvd.net/ 12月2日 待降節第1金曜日 (マタ9,27-31) 「イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、『わたしにできると信じるのか』 と言われた。二人は、『はい、主よ』と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、 『あなたがたの信じているとおりになるように』と言われると、二人は目が見えるようになった。」 マタ9,28-30 イエスを信じると言っている人々の中で、皆が本当にイエスを信じているとは限りません。 私たちが信じているかどうかということが分かるためには、語っている言葉ではなく、 私たちの生き方や、この生き方が結ぶ実を見る必要があるのです。 私たちは心を開いて、イエスご自身とその働きを受け入れることによって、 イエスが歩んだ道を歩み、 イエスご自身が生きていたのと同じように生きることができますように祈りましょう。 * 神よ、 力を奮い起こして来てください。 犯した罪のため、苦しみあえぐわたしたちを救い、 解放の恵みをお与えください。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ 「キリストの光を全ての人々に」 http://www.nowaksvd.net/ そしてアドニーが固有名称でないのは道を通るのは各々の主体だからです。 >>628 父母を敬え、長生きするであろう。 十戒の教えですが本当に今日は幸運でした。 木曜日と言うのは最後の晩餐のパンとワインの日(聖餐の日)なんですが 夕食にハンバーグとワインが出ました。 東方教会の正教に通ってた時に乳製品でバターを食べてはいけない時期に 父親がバターたっぷりの食パンを私に食べさせた時と違い 西方教会カトリックの立場にある老クリスチャンさんを敬うように 父母に珍しく文句を言わなかった今日はこのようなご馳走の日なのです。 またイタリア料理の調理師を目指した女性の方とも話が弾み 西方教会のプロテスタントの女性信者の方とも話が出来て好調な日でした。 西方教会であるカトリック教会の教えを誤解していたのに 目上の人や自分を生んでくれた父母を敬うと神様はご褒美をくれるのだと 神様は本当に憐れみ深い方だと思う次第です。 ご利益で語るのは、異教的かもしれませんが 因果応報で片付けられるものではないと感慨にふけりました。 「あなたの父母を敬え。 あなたの神、主が命じられたとおりに。 そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」(申 5:16) これは、父母と自分が共通の幸せ (神からの恵み) を受けている、という感謝が生まれたとき、本当にアーメンと言える聖句です。 「ご利益」 と片付けてしまわないで、それが神への感謝であれば、素晴らしいことですよ。 前途多難でしょうが、いつか親子そろってイエス・キリストの救いをいただく日が来ますように。 2001年(主日A年) 12月9日 待降節第2主日 イザ 11:1〜10 ロマ 15:4〜9 マタ 3:1〜12 使徒たちによって伝えられた主イエス・キリストについての宣教 (ケリュグマ) は、洗礼者ヨハネの出現の物語りから始まっています(使 1:21-22, 10:36-37)。 私たちはそのことによって、主イエス・キリストの受難と復活に至る受肉とその生涯を、神の救済史の中で理解することが出来るのです。 洗礼者ヨハネの出現は、イザヤ書 40:3 の預言に従ったものでした。 彼の風貌は 王下 1:8 に描かれているエリヤと同じものでした。 それは マラキ書 3:23 の預言に従っていました。 彼は 「主に先立って行き、その道を整え」(ルカ 1:76) るために遣わされました。 彼の授けた洗礼は、「差し迫った神の怒りを免れる」(マタ v.7) ためのものでした。 彼の後から来る主イエス・キリストが 「来たるべき怒りから私たちを救ってくださる」(Iテサ 1:10) ことを予告し、この方を救い主として受け入れるように準備することが、ヨハネに与えられた仕事でした。 彼は 「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタ v.8) と教えました。 このように宣教 (ケリュグマ) は、それを聞くだけではなくて、キリストを信じて救われることを目指しています。 その宣教の初めのところに洗礼者ヨハネは立っているのです。 そのようにして彼は、神の国の王として再臨される終末のキリストを指し示しています。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 12月4日 待降節第2主日A年 (マタ3,1-12) 「悔い改めよ。天の国は近づいた。」 マタ3,2 人間は個人として、また、人類全体として、平和とか幸せとかを求めて、そのために 一生懸命に努力しています。けれども、なかなかそれを実現することができないのが、 私たちの現状ではないでしょうか。その現状の要因はいろいろあるでしょうが、 その内の一つは、人間の傲慢ではないかと思います。 それだけ失敗の繰り返しの長い歴史があっても、人間はなかなか自分の限界を認めようとしませんし、 賢くならないのです。この限界とは、人間が自分の力だけでは、心の中で求めている平和や幸福を 得ることができないがゆえに、すべての人々を愛し、 すべての人のために永遠に続く平和と幸福を求める父である神、創造主であり、 全能者である神の助けを必要としているということなのです。 自分の限界を認識した上に、神の助けの必要性を認めて、この助けを願い求め、 それを受け入れるために心を開くことこそ、一人ひとりにとって、また、人類全体にとって、 最も必要な回心であり真の知恵なのです。 父である神は、私たちが願う前から私たちに必要なものをご存じ(マタ 6,5-8)ですので、 もうすでにイエス・キリストを通して、真の平和と幸福のために必要なものをすべて準備してくださいました。 ですから今、イエス・キリストを信じることによって、つまり、イエスの言葉を受け入れ、 イエスの模範に倣って生きることによって、私たちは永遠に続く平和と幸福に向かって 歩むことができると同時に、その実現に協力し貢献することもできるのです。 * 恵み豊かな神よ、 御子を迎えに急ぐわたしたちが、 あなたの力に強められて罪の妨げに打ち勝ち、 キリストに結ばれることができますように。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ 「キリストの光を全ての人々に」http://www.nowaksvd.net/ 老クリスチャンさん。激励ありがとうございます。神に感謝します。 別の方のブログからのコピーが、先日から貼り付けられています。 こういうことは、大いに歓迎です。 私の過去の 「聖書の学び」 からの紹介と合わせて、ぜひ比較しながら読んでみてください。 皆さんがご自分の判断で、両者を批評的な目で読み比べてくだされば、きっと有益だと思います。 2010年(主日A年) 12月5日 待降節第2主日 イザ 11:1〜10 ロマ 15:4〜9 マタ 3:1〜12 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 “我々の父はアブラハムだ” などと思ってもみるな。 言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる。」(マタ vv.7-9) 新約聖書における “神の怒り” は、“御国” “栄光” “命” などと同様に、終末的な概念です。 イエス・キリストの到来によって、この終末の時が開始されたので (マタ 12:28、マコ 1:15 参照)、聖書を学ぶ人は信仰の目を通してこれを見ることを迫られるのです。 世間では不幸や災難が重なると、神々の怒りによる災いから逃れるために、いわゆる “お祓い” をする慣習がありますが、終末的な神の怒りは “免れることが不可能である” と、洗礼者ヨハネは説教しました。 ですから私たちは新約聖書を、“叱られないようによい子になりましょう” というレベルで理解してはなりません。 「正しい者はいない。 一人もいない」(ロマ 3:10)、私たちは皆 「生まれながら神の怒りを受けるべき者」(エフェ 2:3) であることを、待降節第2主日の福音朗読は宣言します。 やがて来られる方であるキリストは、「生者と死者を裁く」(信条) 審判者であり(マタ 25:31以下、IIテモ4:1,8 参照)、私たちは皆、その裁きの座の前に立つのです(ロマ 14:10、Iペト 4:5)。 「悔い改めにふさわしい実を結べ」 とは、外ならぬ御子イエスの “十字架の死と勝利の復活” に結ばれて、罪の赦しを受けること以外ではあり得ません(ロマ 6:3-11、使 10:43、エフェ 1:7)。 私たちは洗礼者の説教を聞きながら、キリストの十字架こそがまさに神の怒りそのものであったことを、深く黙想しましょう(マコ 15:34、Iペト 2:22-25 参照)。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 12月3日 日本宣教の保護者聖フランシスコ・ザビエル司祭 (マコ16,15-20) 「それから、イエスは言われた。 『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。』」 マコ16,15 二千年の間、どんな時代にも聖フランシスコ・ザビエルと同じようにイエスの言葉に従って、 福音を宣べ伝えていた人々がいましたので、キリストの教会が全世界に広まって、私たちも神の愛についての 良い知らせを聞いて、それを受け、父である神の愛と命にあずかるようになったのです。 今までの教会の宣教活動を神に感謝しながら、これからの時代にも、聖フランシスコ・ザビエル のような多くの熱心な宣教師が生まれ、神が教会を通して働き続け、全人類のための救いの計画を 実現していきますように祈りましょう。 * いつくしみ深い父よ、 あなたは、聖フランシスコーザビエルの宣教を通して、 アジアの民をみもとに集めてくださいました。 わたしたちも、聖人と同じ熱意に燃えて信仰を伝え、 救いの喜びを多くの人と分かち合うことがでぎますように。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ 「キリストの光を全ての人々に」http://www.nowaksvd.net/ >>637 >いつくしみ深い父よ、・ ・ ・ >わたしたちも、聖人と同じ熱意に燃えて信仰を伝え、 >救いの喜びを多くの人と分かち合うことができますように。 この祈りに、だれも異論を唱える人はいないでしょう。 しかし、私はカトリック信徒であるあなた方一人一人にお尋ねしたい。 あなたは (教会を通して) 受けた福音を、人々に確信をもって説明することが出来ますか ? あなたはカトリック教会から与えられた 「教会の信仰」 を、自分自身の信仰として、確信をもって人々に伝えることが出来ますか ? 自分では理解することも信じることもスキップして、ただ形式的にかけ声だけの祈りを唱えているのではありませんか ? 私は皆さんに、「聖書の学び」 の紹介を通して、本気で真面目な悔い改めを呼びかけているのです。 「悔い改めにふさわしい実を結べ。」(マタ 3:8) >>638 >あなたは (教会を通して) 受けた福音を、人々に確信をもって説明することが出来ますか ? できますよ。ただ、日本人への宣教はとても難しいわけです。 あなたのように、ビールケースをひっくり返して、そこに立って声を半オクターブ上げ 鼻に詰まった声で御言葉を語れば、ほいほいと日本人が信者になるということは ありません。 老クリスチャンのようにではなく、この掲示板のカトリック信徒のように「自然体」で 語ること、日本の社会で「浮きそうでないこと」、事実、カトリック信徒はそうなのですが それが伝わった方がいいのです。 鈍くさいプロテスタントの風をわざわざカトリック信徒に求める必要はありません。 あなたは独善的なんですよ。 >>638 > >>637 >いつくしみ深い父よ、・ ・ ・ > >わたしたちも、聖人と同じ熱意に燃えて信仰を伝え、 > >救いの喜びを多くの人と分かち合うことができますように。 > > この祈りに、だれも異論を唱える人はいないでしょう。 異論ありです。 父なる神はいつくしみ深い神ではないです。 私は、救いの喜びとはなんのことか全くわかりません。 生まれながらのカトリック信徒として私が知った福音は、 日本語でいう福音の意味とは違い、悪い知らせです。 キリスト教に関係ない日本人なら、ひとりでもこの福音を知らないほうがよい。 実際、カトリック教会のカテキズムや教会憲章にには、 知らなかった人には救いがあり、 私のように、福音を知って受け入れないもの、拒むものは、救われることはできないだろう、 というようなことが書かれています。 侵略宗教カトリックは日本には不要。 プロテスタント日本人とカトリック日本人と正教日本人と 一般日本人とは 信じがたいほどに温度差がある。 共産党員と在日朝鮮人(創価学会にも居る)は プロテスタントにもカトリックにもいるのに 何で両派は日本人同士で、こんなに仲が悪いのだろうかと思うほどです。 カトリックを弁護して言うのではありませんが 維新後に殉教者をあれほど出したのに同情してもらえない非常さがあります。 たしかに戦国時代のキリシタンは悪事を働いていたのは知っています。 九州の道筋にある石地蔵や法華経寺に 糞尿をかけて偶像崇拝を馬鹿にした例を私は知っています。 確かに大正時代のクリスチャンがスペインの文献を見て イエズス会が奴隷貿易をし日本女性を小間使いや慰安婦にしていた事実は 2chのカキコで知りました。 しかし禁教が解かれた後のフランス・カトリックに復帰した隠れキリシタンが 戦国時代のキリシタンのような偶像崇拝を馬鹿にする行為は知っている限りでは してませんでした。 フランス政府も市民革命後の政府なので イエズス会のしたような事はしませんでした。 江戸幕府に武器供与(最新ライフルであるシャスポー銃3千丁を贈呈)をし 近代歩兵訓練(伝習隊の訓練)をしたのは知っていますが 侵略とは思えません。 プロテスタント国のイギリスの薩英戦争の方が よっぽど侵略ではないでしょうか。 でも、その一方で正教のロシアの侵略、対馬占拠で要塞つくりに イギリスが交渉で排除したのはドウでしょうか。 黒舟来航をし開国させたアメリカはプロテスタント宣教に徹していました。 ものすごく不思議です。 プロテスタントの日本人信徒が、また カトリックの日本人信徒が 日本人女性を集団レイプしましたか。 風俗嬢を海外に売り飛ばしましたか。 お寺や仏像に糞尿をかけて回りましたか。 奴隷貿易のような事をしましたか。 江戸幕府は長州征伐のとき フランスのナポレオン三世が無料供与した 最新ライフルを使いませんでした。 フランス兵は加わっていません。 これでは侵略といちゃもんはつけられません。 では長州にオランダ兵は加わっていません。 オランダ製のライフルは使用されましたが オランダは侵略国ですか。 フランスはカトリック国です。カトリックは侵略した事になりますか。 オランダはプロテスタント国です。プロテスタントは侵略した事になりますか。 どうでしょうか。 たかが約1億3千万の日本人のうち 0・3%の約44万人の日本人カトリック信徒が 日本を侵略しているとは思えません。 聖書でいう「のろい」は ギリシア語でアナテマといい 正教会では破門の意味である。 聖書でいう福音は 中国語で「幸福の音信」の事であり ギリシア語でエヴァンゲリオンといい エウ+アンゲリエ(よい+しらせ)で アンゲリ(み使い[天使]、知らせる人)は エンゲルで エンジェルの事である。 帝政ロシアでのポグロムは ユダヤ人虐殺と 間違えてカキコしたことがあるが 訂正します。 ポグロムはユダヤ人の家財を略奪する事件で 直接虐殺したわけではないと言う事です。 フランス南部のラングドック地方の ベジエ市での虐殺 (市民でカトリック信者は天国に行き、 異端は地獄いきだから 皆殺しOK)を許可したのは ベジエにカトリックを布教したドミニコ会ではなく シトー会といわれてます。 ヘレニズム時代の コイネギリシア語(聖書ギリシア語)でいうと。 主: キュリオス 創り主: クティサス 救い主: ソーテール 全能者: パントクラトール 油注がれた者: クリストス(キリスト) となります。 良スレにするはずが >>641-647 あらしカキコになり、すみませんでした。 【聖書と信仰】信者も未信者も【神学と哲学】 バリバリの信者も なんとなく信者も 迷っている信者も 境界人も離脱者も敵対者も、 基礎的な聖書理解、信仰維持、神学認識、哲学的批評を軸に 丁寧に議論を積み上げて、良スレにしましょう。 ※嵐 誹謗中傷的 愉快犯は 綺麗なスルーで対応してください。 【福音の学び @】 キリストを伝える使命を受けた者 (教導職と信徒のすべて) は、先ず、「キリストを知ることのすばらしさ」 を求めなければなりません。 「キリストを得、キリストの内にいる者」 となるため、「すべてを塵あくたと見なし」、 「キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達し」(フィリ 3:8-11) なければなりません。 キリストの愛に燃える知識から、キリストを告げ知らせ、「福音を告げ」(Iコリ 9:16)、他の人々をキリスト・イエスへの信仰に導きたいという願望が生じるのです。 同時に、この信仰をますますよく知る必要を感じます。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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