敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
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人 2003年(主日B年) 4月6日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
受肉されたキリストがその地上の生涯において自分を徹底的に低くされ、「多くの苦しみによって従順を学ばれ」(ヘブ v.8)たことは、それに続く復活の栄光と結びつけて、使徒たちの宣教の中に組み入れられました。
この復活のキリストは地上の教会の歩みを支え導く方であり、やがて終わりの日に再臨される神の国の王であります。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければなりませんでした。
しかし死んで、否、復活して、御自分の体である教会を贖われ、多くの実を結ぶこととなりました。
このように、教会にとって、キリストの福音からイエスの死と復活の事実を切り離すことは出来ません。
その死と復活の光に照らして解釈されない(単なるナザレの)イエスの物語りや教えは、使徒たちが伝えた福音とは違うものです。
一部の人々の中にある “イエスの宗教がイエスについての宗教に変質した” という異論への解答は、イエスの復活の後に最初の弟子たちが経験したことの中にあります。
それは、イエスの死と復活の出来事は神の贖いの業であったという、復活節における神自らの啓示の行為によって起こった経験でした。
使徒たちの福音宣教はそこから始まりました。 (つづき)
預言者エレミヤが語った 「新しい契約を結ぶ日」(エレ v.31)が、イエス・キリストの十字架の死によって実現しました。
使徒パウロは教会に書き送って、「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」(Iコリ 5:7)と教えました。
主イエスは感謝の典礼を制定して、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。 飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(Iコリ 11:25)と言われたと伝えられています。
私たちのミサは “キリストの血にあずかること”、“キリストの体にあずかること”(Iコリ 10:16 )であります。
「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Iコリ 11:26)
四旬節は、全世界の教会が今年も、主の過越の神秘を学ぶ期節です。 アーメン。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2012年(主日B年) 3月25日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
「 ・・・・・ 何人かのギリシア人がいた。 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、“お願いです。 イエスにお目にかかりたいのです” と頼んだ。」(ヨハ vv.20-21)
現代のキリスト者である私たちが、だれかから “イエスに会いたい” と相談を受けたら、“ミサに出席しなさい” と答えるかも知れません。
それで、その後このギリシア人たちはどうなったのでしょうか。
人はミサに出席しても、その朗読台と祭壇で私たちに会ってくださる “キリストのことば” を理解出来なければ、失望して去って行きます。
ヨハネ福音書はここで、まさにその核心に触れているのです。
「イエスはこうお答えになった。 “人の子が栄光を受ける時が来た。 はっきり言っておく。 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。”」(ヨハ vv.23-24)
弟子たちは最初、この言葉の意味を全く理解出来ませんでした。
なぜならこの言葉には直ちにその後に v.25 が続いていて、それぞれが何を指しているのか納得出来なかったからです。
しかしその数日後に、弟子たちはイエスが十字架上に御自分の命を捨てられたこと(ヨハ 10:11-18 参照)を、確かに見たのでした。
そしてイエスの復活の後になって初めて、彼らの福音を理解する目が開かれたのでした。 (つづき)
「一粒の麦」 が、他ならぬ 「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ 4:25)イエス・キリストのことであるという明確な事実を、多くの人が気づかずに、間違って解釈しています(マコ 8:31 と 8:34 を参照)。
このテキストに登場するギリシア人たちが、今までよりも “少しはましな人間になる” ためにイエスに会いに来て、この答えを聞いたのだとしたら ・・・・・ 。
人が救いを得るためには、ミサに出席することと並行して、使徒たちによる福音証言を自らしっかりと聖書から学ぶ必要があるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2012年(主日B年) 3月25日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
新約聖書によれば使徒たちは、「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(エフェ 1:7)、
「あなたがたが ・・・・・ 贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(Iペト 1:18-19)、
「言は肉となって、(世の罪を取り除く神の小羊となるために)わたしたちの間に宿られた」(ヨハ 1:14)という十字架の福音の宣教によって、原始教会という “実を結んで” 行きました。
ヨハ 12:24 は、このキリストの贖罪の事実を言っているのであって、だれか他の先人たちの偉業のことを指しているのではありません。
そして人は洗礼の秘跡によって、キリストの死にあずかり、キリストの復活にもあずかる者となりました(ロマ 6:1-11、コロ 2:12)。
それが ヨハ 12:25 の意味であって、それは神の賜物であり、人は自らの行為をいささかでも誇ることがあってはなりません(エフェ 2:8-9)。
決して思い上がって、キリストの美徳に倣って、自分もキリストのようになろうなどという不遜な考えに誘われてはならないのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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\ \_| / 。 2003年(主日B年) 4月13日 受難の主日
イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 14:1〜15:47
ピラトの裁判とそれに続く十字架の場面は、イザ 50:4-9 の “僕の歌” や 詩 22 を背景にして物語られています。
主イエスは最後の晩餐の席で、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」(マコ 14:21)と言われました。
そして捕えられたときに再び、「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」(マコ 14:49)と言われます。
イエスはピラトの命令で鞭打たれます。 それからイエスは紫の衣を着せられ、茨の冠をかぶせられて、ローマの兵士たちに侮辱されました。
「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。 主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。 わたしは知っている。 わたしが辱められることはない、と。」(イザ 50:6-7)
兵士たちはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、イエスの服を分け合いました(詩 22:19)。
祭司長や律法学者たちも代わる代わるイエスをののしりました。 「他人は救ったのに、自分は救えない。 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。 それを見たら、信じてやろう。」(マコ 15:31-32)
しかし、イザ 50:9 には歌われていました。 「見よ、主なる神が助けてくださる。 誰がわたしを罪に定めえよう。」 (つづき)
十字架は決して単なる歴史の中の偶然の出来事ではありませんでした。
それは神の業であり、受肉された御子イエスは 「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:8)
「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。 そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(Iペト 2:23-24)
私たちを愛して、その御子をさえ惜しまずに死に渡された(ロマ 8:32)父なる神は、「その十字架の血によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロ 1:20)
ですから、教会の信仰にとって十字架は中心的な事柄です。
十字架の出来事から切り離して、私たちはイエスの生涯を解釈することは出来ません。
教会は、洗礼の秘跡によってキリストと共に死に、またキリストと共にその復活の命に生きている者たちの群れです。
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロ 3:3-4)
神は御子の十字架によって、私たちに和解の福音を宣言しておられます。
・・・・・ 以下、本文参照。
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UU ̄U U `ヽ. 2009年(主日B年) 4月5日 受難の主日
イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 15:1〜39
「わたしは顔を硬い石のようにする。 わたしは知っている。 わたしが辱められることはない、と。」(イザ v.7)
罪と死からの救い、そして神との和解という福音は、ただ神の御業にのみ依存することであって、いささかも人間の能力や貢献にはよらないことを、聖書は語っています。
受難物語りの頂点であるイエスの逮捕から十字架上の死に至る部分は、そのことを意図的に強調しているのです。
祭司長たちと議会も、ユダヤの群衆も、そしてローマの総督ピラトも、だれも “救い” を生み出すことは出来ませんでした。
御子イエスは、この場面で彼らの行動を矯正しようとはなさいませんでした。
“救い” は彼らの協力によってではなく、ただ御子が 「十字架の死に至るまで従順」(フィリ 2:8)であることによってだけ、実現することを知っておられました。
このキリストの永遠の贖いは、既に成し遂げられただけではなくて、現在も教会を通して活き活きと私たちに働いています。
私たちは現在、原始教会の使徒たちや会衆と同じ救いに与っているのです。
ですから、「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり」(コロ 1:23)、今年も復活の祭儀に備えようではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
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l ',', ,' , ´`ー-'! c, '
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l ', \ ``ーァ゛/
l ヽ \ `゙ ´/
l ヽ、 >‐---イ 2012年(主日B年) 4月1日 受難の主日
イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 15:1〜39
「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブ 5:8)
「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:7-8)
旧新約聖書を通して、“従順” とは神の御心に徹底的に “聞き従うこと” でありました。
現代人はこれを、単なる人間関係における徳目に置き換えて理解してはならないのです。
フィリ vv.6-9 を、人が敬虔なキリスト者になるための手本のように読むとき、神のことばの輝かしい恵み(エフェ 1:6)の大部分を捨ててしまっています。
これは、「神がキリストによって世を御自分と和解させ」(IIコリ 5:18)、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」(ロマ 8:32)福音の出来事の告知以外の何ものでもないからです。
「主なる神はわたしの耳を開かれた。 わたしは逆らわず、退かなかった。」(イザ v.5) (つづき)
イザヤ書の “僕の歌” とは、 @42:1-4, A49:1-6, B50:4-9, C52:13〜53:12 であって、
私たちが新約聖書が語る “キリストの受難と死に勝利しての復活” を正しく理解するためには、主と共に、そこで歌われている神の御心に “耳が開かれる” 必要があるのです。
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。 ・・・・・ そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」(イザ 53:5-6)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)
教会の信仰とは、使徒や預言者の宣教という土台の上に建てられているのですから(エフェ 2:20)、私たち信者はその宣べ伝えられた福音を確かに聞き、救いへの神の招きに “聞き従う” ことが大切です。
それは信者一人一人が自ら聖伝と聖書を学ぶことによって、聞き、理解し、信じるべきことであって、私たちは決して “怠け者の悪い僕”(マタ 25:26)になってはなりません。
今朝の聖書朗読を通して聞いた “御子の十字架の死に至るまでの従順” が、私たち信者一人一人にとって “御子キリストへの私たちの従順”(ヘブ 5:9)の手本となる、実り豊かな聖週間でありますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
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使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
主イエス・キリストの復活の福音には、この復活されたキリストが生きている者と死んだ者との審判者、また信仰の完成者として再臨されるという終末の使信が、その重要な要素として含まれています。
「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」(使 10:42)
洗礼の秘跡によってキリストに結ばれた(ロマ 6:11)すべてのキリスト者へのメッセージが、ここにあります。
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロ vv.3-4)
ですから、私たちのミサの中の交わりの儀で、一同が主の祈りを唱和すると、司祭はその副文の中で唱えます。
「わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。」
私たちキリスト者は 「体の贖われること」(ロマ 8:23)、すなわち神の国への復活の日を待望しているのです。
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(Iコリ 15:20) ハレルヤ、アーメン。
・・・・・ 以下、本文参照。
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「わたしがキリストに倣う者であるように、
あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」 2009年(主日B年) 4月12日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
“福音の事実”を理解しようと思うなら、先ず何よりも私たちは、イエス・キリストの十字架において顕された悪の力との戦いと、そして勝利に目を向けなければなりません。
十字架は、悪魔の働きへの勝利(Iヨハ 3:8)でした。
ですから、イエスの死を悲惨な殉教者の死のように思い描いてはなりません。
新約聖書は、イエスが十字架で勝利した敵を、罪、死、悪魔とその支配などと呼び(ガラ 1:4、IIテモ 1:10、ヘブ 2:14 他)、さらに使徒パウロはこれらに律法を加えています(Iコリ 15:56-57、ガラ 3:13)。
私たちキリスト者が洗礼の秘蹟によって、罪に対して死に、今や新しい命に生きているということから離れて、聖書を中立的な立場で読むなどということは、無益なことです。
現代の一般人の目線に立って聖書を学ぶ、などと言う人は、キリストの救いからいちばん遠い所にいることになります。
「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、 ・・・・・ 」(コロ v.1)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ,,..,,_
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人 2012年(主日B年) 4月8日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(ヘブ 5:7)と書かれている 「御自分」 とは、
“私たち罪人に代わっての御自分” であったことを(Iペト 2:24)、そして 「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザ 53:6)という十字架と復活の出来事を、あなたはまだ信じていないのですか。
洗礼の秘跡によって、私たちキリスト者はみな 「キリストと共に死んだ」(コロ v.3、ロマ 6:8)のです。
今や私たちの(永遠の)命は、「キリストと共に神の内に隠されているのです。」
私たちキリスト者の人生に残されているのは、ただの肉体の死だけであって、すでにキリストは死に勝利されました。
来るべき日には、キリストがその勝利を私たちに与えてくださいます(コロ v.4、Iコリ 15:54-57)。
私たちが毎週ミサで唱える信条の中の、「主は、生者と死者を裁くために、栄光のうちに再び来られます」 という条項の重要性を、あなたはこれまで真面目に考えて来たでしょうか。
実に教会は、すでに私たちのために神の裁きに対して御自身を献げ、すべての呪詛(罪が支払う報酬である死)を私たちから取り除いてくださった審判者キリストが、天から来られるのを頭を上げて待ち望んでいるのです。
このキリストを信じる者はだれでも、今やその名によって罪の赦しが受けられるからです(使 v.43)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、
>涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(ヘブ 5:7)
>と書かれている 「御自分」 とは、“私たち罪人に代わっての御自分” であったことを(Iペト 2:24)、
>そして 「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザ 53:6)という十字架と復活の出来事を、
>あなたはまだ信じていないのですか。
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605老クリスチャン2016/11/29(火) 19:40:03.73ID:meLDxuBD
多くの教会で、カトリックの教会では特に、あまり知識のない初心者には皆さん親切にしてくださいますが、彼らよりも知識のレベルが高いと分かったとたんに、警戒心だけでなく、多くの場合敵意を持った目で見られるようになります。
どこの教会でも、驚くべきことに、ほとんどの信者は (更に牧師や司祭までもが)、自分が何を信じているのかよく分かっていないし、福音に対する明確な確信も持っていないのです。
そして、その (核心的な) 弱点を見透かされることほど、彼らにとって嫌で怖ろしいことはないからです。
本物の信仰者は、ただ主への感謝と賛美に生きるもので、教会と主の小羊たちを愛することはあっても、仲間の足を引っ張ってみたり、蹴落として自分が優位に立とうなどと考えることはありません。
「信仰」 もそうですが、「謙遜」 も、主が与えてくださるものであって、自分の努力で作り出す美徳ではないのです。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1407104440/605
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__,イ /≼ⓞ≽. 2000年(主日B年) 4月30日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
教会は今年も主イエス・キリストの復活を祝って、この期節のミサをささげます。
“信じる” という言葉と “愛する” という言葉が、特にヨハネ文書では密接に結びつけて使われています。
この “愛する” という言葉は、ミサをささげる群の中で、またミサをささげる群に向かって語られていることに注目したいと思います。
“主イエス・キリストを信じる人々を愛し、洗礼の秘跡によって新しく生まれさせてくださった神を愛する” ことから、すべては始まりました。
神が御子の十字架のいけにえによって、私たちを罪と死の支配するこの世から贖ってくださったからです。
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。 そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」(Iヨハ v.1)
“愛する” とは、救われた会衆が “共にミサをささげる” こと、“共にミサをささげ続けるために一致協力する” こととして、ヨハネ文書はこの言葉を使っていることを理解しましょう。
ですから、私たちが主イエス・キリストの復活を祝って共にミサをささげているなら、私たちは互いに愛し合っていることになります。
主イエスが最後の晩餐の席で残された言葉は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハ 15:12)でした。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2009年(主日B年) 4月19日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。 そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」(Iヨハ v.1)
よく知られている日本の聖歌に、“愛といつくしみのあるところ、神はそこにおられる” というのがありますが、これはキリストの福音を知らない人には誤解を与える危険性があります。
なぜなら、聖書が語っている愛の掟の前提は、「神から生まれた者」 だからです。
この信仰の事実(ヨハ 3:3-8)から離れて、人間の美徳として愛を考えてしまうと、もはや 「天上のこと」(ヨハ 3:12-15)を信じることが出来なくなります。
ミサの中の感謝の典礼で交わりの儀にあずかるのは、洗礼の秘蹟によって “新たに生まれた者たち” だけです。
この交わりの儀こそが、なによりも先ず “互いに愛し合う” ことの第一の中心です。
かつてはこれを個人的信心として追求し、聖体拝領と呼んでいた時代がありましたが、現代では交わりの儀と呼ばれるようになった意味を理解しましょう。
共にミサをささげる群れである教会は、“神が永遠の命を与えられた者たち(Iヨハ 5:11)の交わり(Iヨハ 1:3)” なのです。
このことを理解しない群れは、ただの人間の集会でしかありません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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//・\老/・\\ あ
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| (_人_) | た
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|  ̄ ̄ | を
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\ \_| い
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| | ほ
| | か
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//・\ \ 教
|  ̄ ̄ | 師
(_人_) | が
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| ̄ ̄  ̄ ̄ | て
| (_人_) | は
\ \_| / な
//・\老/・\\ ら
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | い
\ \_| / 。 2012年(主日B年) 4月15日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
「キリストはご自分の教会の典礼を通して ・・・・・ その救いのわざを現し、現在化し、分け与えられるのです。 ・・・・・ キリストは ・・・ ご自分の教会の中で ・・・ 諸秘跡を通して働かれるのです。」(カトリック教会のカテキズム 1076)
しかもこのことと同時に聖霊は、キリストが歴史の中で実際に 「人間の姿で現れ」(フィリ 2:7)、私たちの罪を身に負ってヨハネから洗礼を受け、
私たちの贖いのために十字架の死を通して御自身を神に献げられた、あの出来事を証してくださるのです(Iヨハ v.6)。
キリストは死に勝利して復活されました。 だから ・・・ ! 「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つのです。」(Iヨハ v.4)
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2003年(主日B年) 5月4日 復活節第3主日
使 3:13〜19 Iヨハ 2:1〜5a ルカ 24:35〜48
今年も全世界のカトリック教会で、復活徹夜祭の洗礼の儀によって新しい民が加えられ、すでに信者であった人々も自らの洗礼を思い起こして、共に喜びのうちにミサをささげています。
救い主イエス・キリストは引き渡される夜(Iコリ 11:23)、御自分の死と復活の記念を教会に託して、聖体のいけにえ(ミサ)を制定されました。
ですから洗礼を受けて救われることは、共にミサをささげる共同体に加えられることであって、聖書はこのような信者の生き方を 「神の掟を守る」 「互いに愛し合う」 と表現しました。
このミサの重要性を明確に述べて、典礼憲章は次のように教えています。
「したがって教会は、キリスト信者がこの信仰の秘義に外来者、あるいは無言の傍観者として列席するのではなく、儀式と祈りによってこの秘義をよく理解し、聖なる行為に意識的に、敬虔に、また行動的に参加し、
神のことばによって教えられ、主のからだの食卓において養われ、神に感謝をささげ、ただ司祭の手を通してだけでなく、信者も司祭とともに清い供え物を奉献して自分自身を奉献することを学び、
こうしてキリストを仲介者として日々神との一致と相互の一致の完成に向かい、ついには神がすべてにおいてすべてとなるように全力を傾注しているのである。」(典礼憲章 48) (つづき)
「神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。 わたしたちは、このことの証人です。」(使 v.15)
信じて洗礼を受けたすべてのキリスト者にとって、使徒たちは主の復活の証人であります。
洗礼によってイエス・キリストが私たちの主となってくださったこと、私たちを罪と死と悪魔の力から救い出し、贖って御自分の民としてくださったことの証人は使徒たちなのです。
その罪とは、「聖なる正しい方を拒んで、・・・・・ 命の導き手である方を殺してしまった」(使 vv.14-15)罪であり、
「悔い改めて立ち帰る」(使 v.19)とは、洗礼の秘跡によって 「イエス・キリストは主である」(フィリ 2:11)と告白する民に加えられることであります。
このイエスを復活させた 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたち(旧約のイスラエル)の先祖の神」(使 v.13)が、私たちキリスト者の神となられたことを、現代の教会は再認識する必要があります。
キリストの救いが単なる心の中の思想ではなくて、罪と死からの現実の贖いであって、やがて神の国への復活に至るものであるように、
私たちの神は抽象的な空想の神ではなくて、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イエス・キリストの父なる神なのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 2006年(主日B年) 4月30日 復活節第3主日
使 3:13〜19 Iヨハ 2:1〜5a ルカ 24:35〜48
「神の掟」(Iヨハ v.3)、「神の言葉」(Iヨハ v.5)とは、「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(Iヨハ 3:23)。
主日のミサを共にささげるために、キリストの祭壇を囲む群である私たち教会に、復活のキリストは今朝も、互いに愛し合う結びつきを期待しておられます。
聖書はこの愛を、共に救いに与っている “兄弟” への愛として繰り返し語っています(Iヨハ 2:10,4:20-21、Iテサ 4:9-10)。
なぜならそれは、“神の子イエス・キリストの名を信じる信仰” を互いに強め支え合うための、“福音に共にあずかる者となるための(Iコリ 9:23)” 兄弟愛だからです。
この認識が不十分なままで、ミサの中で形式的に手をつなぎ合ったり、抱擁し合ったりしても、それで “仲良しクラブ” は生まれても、真のキリストの体としての教会は育ちません。
共に信仰によって罪の赦しを受け、義とされたという事実が、その認識が、“教会を造り上げる兄弟愛” を生み出す源泉であることを思い、今朝も記念唱を歌おうではありませんか。
司祭 : 信仰の神秘。
会衆 : 主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 来る来る詐欺やからwww
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人 2009年(主日B年) 4月26日 復活節第3主日
使 3:13〜19 Iヨハ 2:1〜5a ルカ 24:35〜48
「次のように書いてある。 “メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる” と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ vv.46-48)
初代教会のケリュグマには、次の三つの主要な要素が含まれていたと考えられます。
第一は “キリストが聖書に書いてある通り復活したこと”、第二は “キリストは生きている者と死んだ者との審判者に定められたこと”、そして第三は “信じるすべての者に罪の赦しを与える主となられたこと” です。
審判者としてのキリストの再臨という終末論的背景の中で、初代教会はキリストの死と復活の事実を宣教したのであって、それ故にキリストの福音は十字架の福音であり、勝利の福音でありました。
ですから、福音が宣教されるところではどこでも、復活のイエスが語られた 「あなたがたに平和があるように」(ルカ v.36)も、常に新しく伝えられたのです。
平和は信じる者にキリストが与えてくださる賜物であって、代々の教会は使徒たちの宣教を通してこれを受けて来ました。 (つづき)
平和という言葉はしばしば聖書とは無関係に、心の中に宿る一つの精神的な状態と解釈されたり、あるいは人間の努力目標としての争いのない世界達成のことだと考えられて来ました。
しかし聖書が語る平和は、キリストがその死と復活を通して贖われた民である教会に与えてくださったもので、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザ 53:5)のです。
キリストの復活なしには、私たちは今もなお罪の中にあり(Iコリ 15:17)、神の怒りを受けるべき者であります(エフェ 2:3)。
しかし、実にキリストは私たちの平和であり(エフェ 2:14)、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている(ロマ 5:1)のです。
聖書がミサの中で朗読されるとき、キリストは使徒たちの証言を通して、罪の赦しを得させる勝利の福音を(Iコリ 15:56-57、Iヨハ 5:4-5)、神と和解させる平和の福音を(エフェ 2:16-17)、語ってくださいます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>835-836
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/
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人 老クリスチャンは牧師としての人生に満足できてないんだろうね。 3 世界中の戦争を終わらせるために活動を続ける
いま、私たちは大きな「時代の変わり目」に存在している
日本では建国記念の日に当たる二月十一日は、南アフリカのネルソン・マンデラ氏が、一九九〇年に二十七年間の監獄生活を終えて釈放された日でもあります。
当会では、「ネルソン・マンデラ ラスト・メッセージ」という霊言を発刊しましたし、国際活動をするにあたって、「HS・ネルソン・マンデラ基金」という募金活動も行っており、
こういうものを通じて知っている人もいるでしょうし、募金への寄付をしている人もいるでしょう。
私が幕張メッセ等の会場で講演会を行うようになった一九九〇年ごろに、マンデラ氏は釈放され、その後、大統領になり、「白人と黒人に分断された国家を一つにする」という偉業を成し遂げました。
このように、黒人解放運動をし白人政府からすれば、ある意味でテロリストのように見えていた人が。
二十七年の刑期を終えて出所した後、大統領になり、分断された国家を一つにしたわけです。 今、「トランプ大統領によって、アメリカが分断されるのではないか」などと多くのマスコミから危惧の声が出ていますが、実際には、そうはならず、その正反対のことが起きてくるのではないかと私は読んでいます。
アメリカが再びアメリカらしくなり、「世界の先生」として、世界を護ってくれるようになると思うのです。
その時の日本の果たすべき役割は、おそらく、今までよりも、もっとはるかに大きなものになってくるでしょう。アメリカの良き片腕になるはずです。
やはり、先行するものは「考え方」です。
では、その「考え方」とは何でしょうか。今の時代を目指して、天上界の神々、あるいは高級心霊から降ろされているさまざまな教えがあります。
そのことに関して、「なぜ今、この国に、これだけの教えが、天上界から降り注いでいるのか」ということを知ってほしいのです。
時代的に見れば、こういうものはめったにないことであり、それが来るというというのは、今、私たちは、「大きな時代の変わり目に存在している」ということだと思うのです。 2000年(主日B年) 5月14日 復活節第4主日
使 4:8〜12 Iヨハ 3:1〜2 ヨハ10:11〜18
「わたしは良い羊飼いである。 良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハ v.11)
私たちが今朝もこうして集まって、共に囲んでミサをささげているこの祭壇は、「良い羊飼い」 「羊のために命を捨て」 てくださった御子イエス・キリストの祭壇です。
教会は、「良い羊飼い」 であって御自身を罪の贖いのいけにえとして献げてくださった、この救い主イエス・キリストの羊の群に他なりません。
イエス・キリストは、なぜ十字架上で死なれたのか ・・・・・ ?
ヨハネ福音書は、主御自身が自らその羊である教会の贖いのために命を捨ててくださったということを、ここで説明しているのです。
十字架の出来事は、ナザレのイエスの人生に訪れた挫折や敗北ではありませんでした。
そうではなくて、それは父なる神の御計画であって、御子イエス・キリストは自ら進んで御自分の命を捨てることによって、父なる神への従順を貫いて、その羊の群である教会を贖ってくださったのです。 (つづき)
私たち人間にとって、死ということほど直視することの困難な問題は他にないと思います。
一人の人が死ぬとき、あるいは死去したとき、周囲のだれもが “それが当然だ ・・・・・ ” とは考えないのが普通です。
“もっと生きていて欲しかった” “たいへん残念だ” “まだまだ活躍して欲しかったのに、無念だ” と考え、またそのように弔辞を述べることが礼に適うと思われています。
兵役に服してとか、国や社会のために働いて、その責務のために戦死や殉職した人の場合でも、やはり周囲の者たちはだれも “それで良かった” とは言わず、“残念であった” “どんなに心残りであったろうか・・・・・ ” と、その死を悔やむことでしょう。
ですから、自ら命を捨てて十字架の処刑を受け入れ、それによって私たちの救い主となった御子イエス・キリストを理解することは、本来この世の常識からかけ離れたことだったのです。
神は 「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを」(Iコリ 2:9)、イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちのために成しとげてくださったのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 牧師は、当然一週間、主日に備えて祈るんだろうけどその間お金を儲けることは難しい、、、いろんな理由をつけてお金を信徒から巻上げる算段をする牧師までもいる。
そりゃ、牧師や宣教師だって人間だから家族を支える為に必死だ。時には伝道集会や講演会などの理由・名目で献金を募りこっそりかなりな額の上前をはねる。
教会の役員をしていたので知ってるが、そのような悪事は既成教会より福音派などを謳うが実は個人商店化しカルト化した教会に多い。
宗教法人にすると公に会計書類を提出する必要も限りなく無いに等しいし(営利事業は別)、当然、有っても役員に現世的利益をちらつかせ、その目やその信徒さえ誤魔化せば良い。
これは忌々しきことだが現実で、神さまはそんなパリサイ化した指導者の状況を永遠に許すわけが無い。
少なくても牧師の衣を借るそのような教会関係者は無意味な事をしてる事に気がついていないか(気がつく義務は有る)、
気がついているとしたら、神さまは居ないから現世のうちに大胆に周囲を騙し、金を献金という名目で巻上げる、、、と腹をくくったか。
大半が後者だろう、神さまの前では言い訳は利かないのは当然だ。
キリスト教を騙り信仰を悪用した泥棒である。神殿の中で堂々と商売をしてるわけである。
自分だけは楽をして信徒には負いきれない重荷を押し付ける、自分の栄誉・宣伝のために意味の無い苦行などを強いるなど、あの手この手だ。
カトリック教会の修道士などは清貧を義務づける修道会も有るのはそういった現実的な意味も有るからだ。
現世と隔絶した生活、当然現世のままを享受するのは不適切と考える修道会が出てきてもおかしくはない。
社会的にもすばらしい業績を残すだけではなく、多くのものが信仰に導かれている。
一部の福音派と呼ばれる教会の中にはそれを非難しそんな肉的な行為で信仰に導かれるのではないと言う。
しかし、そんな戯言を言うのは、ただ、愛がないだけである。つまり、神さまから愛されていない、呪われた頭でっかちの牧師が言う事だ。
一度、献金した金品は法律的にも返還請求するのは難しい。
少しでも疑問が有るのなら、そういった牧師から離れその教会も去ることだ。
それは不信仰なことではなく、神さまに対しても素直なことである。
この日本でも、他にもすばらしい信徒の群れはたくさん有る。 そもそも最初から教会に行かなければいいんだよ。
教会に行かないと救いはない!
なんて言い出したのは
教会で飯食ってるやつらだよ。 2006年(主日B年) 5月7日 復活節第4主日
使 4:8〜12 Iヨハ 3:1〜2 ヨハ 10:11〜18
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。 それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実またそのとおりです。」(Iヨハ v.1)
神の御業について私たちが知っていることは、一部分にしか過ぎません(Iコリ 13:8-13 参照)。
しかし、すべてのキリスト者にとって明確でなければならない一事があります。
それは、私たちは救われて神の子とされたということです(ガラ 3:26-29、ロマ 8:14-17 参照)。
この世のすべての人が無条件に神の子なのではありません。
この世の人々は “神の子とそうでない者の区別” を知りません。
私たちキリスト者は、「心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われた」(ロマ 10:10)ことを知っています。
この “神の子” とは、“神の国の相続人” のことであって(ガラ 3:29、ロマ 8:17)、私たちは復活の日には 「御子に似た者となる」(Iヨハ v.2、ロマ 8:29)でしょう。
その日を待ち望んでいるすべてのキリスト者の初穂として、キリストは死者の中から復活されました(Iコリ 15:20)。
私たちが 「今既に神の子」(Iヨハ v.2)であるのは、この将来の約束(秘められた計画)の故であることを、再確認しましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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チロチロ >>846
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ただの飯はうまい 2009年(主日B年) 5月3日 復活節第4主日
使 4:8〜12 Iヨハ 3:1〜2 ヨハ 10:11〜18
御自身の血によってただ一度(天の)聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたキリストは(ヘブ 9:12)、終わりの日に 「生きている者と死んだ者を裁くために来られる」(IIテモ 4:1)のと同じキリストです。
イエス・キリストはその死と復活によって、今や信じるすべての人に永遠の命を与えてくださいます。
私たちキリスト者は、永遠の命を与えられて(Iヨハ 5:11)、「今既に神の子ですが」(ヨハ v.2)、まだ将来の神の国についての私たちの知識には限界があります(Iコリ 13:12)。
「しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」(ヨハ v.2)
ですから、ニケア・コンスタンチノープル信条によって、私たちは代々の時代の聖徒と共に宣言します。
「罪の赦しをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世の命を待ち望みます。 アーメン。」
実に、神の義は 「初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(ロマ 1:17)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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