敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
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2011年(主日B年) 12月18日 待降節第4主日
サム下 7:1〜16 ロマ 16:25〜27 ルカ 1:26〜38
「わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」(サム下 vv.13-14)
南王国ユダへの “ダビデ王朝” の約束は、その初期からずっと、歴史のどこかの時点で理想の “神の子としての王” が即位するという期待として理解されていました。
ですから代々の王の即位は常に、“神の養子となる” という意味での “神の子の誕生” として祝われました(詩 2:6-7)。
そしてこの期待は、終末的な将来への希望として、主イエスの誕生に至るまでイスラエルに受け継がれて来たのでした。
私たち教会の信仰も、受けた救いも、神が歴史の中で実現されたイエス・キリストの出来事にその根拠をおいています。
「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。 神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ 1:32-33)
これはすでに起こったことの報告です。
そしてそれに続いて聖書は、「キリストは・・・・・ ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブ 9:12)、
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Iコリ 15:20)と伝えているのです。 (つづき)
私たち現代の教会は、飼い葉桶の乳飲み子の誕生を待っているのではなくて、この方の終末における第二の来臨を待望しているのです。
これは福音のメッセージであって、おとぎ話なんかではありません。
「しかし、その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次の通りであった。」(サム下 v.4)
司祭やオラトリオの教師たちの “お話” と、 “主の言葉” とは、違っていることがあるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています