敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
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2011年(主日B年) 11月27日 待降節第1主日
イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
「しかし、主よ、あなたは我らの父。 わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。」(イザ v.7)
待降節は、待ち望む期節です。
それは御子の第一の来臨の祭りを準備するときであると同時に、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向けるときです。
なぜなら教会はその誕生のとき以来ずっと今も、救済史の完成に期待することがその歩みの根拠であり道しるべである、そのような神の民であるからです。
キリスト教的な希望は、単なる個人の現世における、また死後の世界での幸福追求から説明出来るものとは異なり、神がキリストによって世を御自分と和解させてくださった十字架と復活の福音が、キリストの来臨によって完成する終わりの日への希望です。
その日には、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリ 3:21)
私たちが通常の葬儀で、死者が直ちに来世に移されて、今や天国で生きているかのように聞かされるのは、ただの俗信であって、聖書の使信ではありません。
教会では死者は、私たち生きている者たちと共に、復活の日を待つ “現在” に属していて(Iテサ 4:13-18)、ともにミサをささげる交わりの中に今なおいるのです(奉献文参照)。
今朝のイザヤ書に歌われている “イスラエルの哀歌” を、私たちは現代の教会の実態への嘆きの歌として、しかもその教会に約束された確かな希望の歌として、ご一緒に聞いているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 今年も 「17〜18年典礼暦」 をアップロードしました。
http://www.kuwaei2000.com/guide.html
→ ●資料集● の冒頭にあります。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています