敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
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人 2005年(主日B年) 11月27日 待降節第1主日
イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
私たちが知っている教会の実状は、人々はみな “自分は神の恵みを受けている” とは思っているけれども、だれも “自分はキリストに結ばれて、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされている” とは全然言えないというものです。
しかしコリントの町では、まだ最近信者になったばかりの異邦人キリスト者たちが、「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」(Iコリ v.7)と述べられています。
明らかに、そこには現代のキリスト者である私たちとの決定的な違いがありました。
初代教会の人々が聞いた使徒的宣教が、聖伝と聖書という形でそのまま現代の教会にも伝えられているのに、私たちが知っている教会ではそれが語られることも聞かれることも僅かなのです。
まさに 「目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることがない」(イザ 6:10)というのがありのままの姿です。
物質的、経済的には豊かになったが、キリストの体である教会の 「破滅に心を痛めることがない」(アモ 6:6)という叫びが、読まれざる聖書の中に閉じ込められています。 (つづき)
私たちはこれまで、論ずることには雄弁でありましたが、聞くことには無能であることが多かったと気づくべきです。
教科書は読まずに参考書を頼りにし、学校の授業には本気で取り組まずに学習塾を当てにするように、キリスト教の各種出版物や雑誌から雑多な情報を入手はするが、聖書そのものは殆ど読まないというのが、現代のキリスト者のごく普通の姿となって久しいのです。
この世の論客(Iコリ 1:20)の発言には無批判に耳を傾けるが、使徒たちの伝えた福音には殆ど全く関心がなかったという大きな誤りに、私たちは大いなる決断を以て対処しなければなりません。
その要求こそが、待降節第一主日のミサの朗読配分から私たちが聞かされている使信であります。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2008年(主日B年) 11月30日 待降節第一主日
イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
「その日、その時は、だれも知らない。 天使たちも子も知らない。 父だけがご存じである。 気をつけて、目を覚ましていなさい。 その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マコ vv.32-33)
教会は、その典礼暦の一年を “待つ” ということで始めます。
私たちが体験してきた限りのキリスト教では、この “待つ” という主題がミサの説教で語られることはなかったと言って過言ではないでしょう。
説教する人たち(司祭や司教)も、ミサに集う信徒たちも、聖伝と聖書の中にあるこの主題を、あたかも時代錯誤のおとぎ話ででもあるかのように無視して来ました。
「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マコ 13:26-27) (つづき)
教会が “その日” を待っている民の共同体であることを、典礼暦はその最初にアドベント(待降節)を置くことによって宣言し続けて来ました。
有名なハイデルベルク信仰問答の 第52問 は、すべての使徒的教会の信仰を言い表しています。
問 : 生者と死者を裁くために来られる(使徒信条)キリストの再臨は、あなたにどのような慰めを与えますか。−−−
答 : それは、かつて私のために神の裁きに対して御自身を献げ、私からすべての呪詛を取り除き給うたあの裁き主が、天から来たり給うのを、私があらゆる苦難と迫害の中にあっても、首を挙げて待ち望むということです。 ・・・・・
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 聖書に書いてある言葉に従うことが、私たちの
幸せへと繋がっています。
御言葉は神の言葉です。
私たちはその神に創られたものです。 ____
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人 2011年(主日B年) 11月27日 待降節第1主日
イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
「しかし、主よ、あなたは我らの父。 わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。」(イザ v.7)
待降節は、待ち望む期節です。
それは御子の第一の来臨の祭りを準備するときであると同時に、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向けるときです。
なぜなら教会はその誕生のとき以来ずっと今も、救済史の完成に期待することがその歩みの根拠であり道しるべである、そのような神の民であるからです。
キリスト教的な希望は、単なる個人の現世における、また死後の世界での幸福追求から説明出来るものとは異なり、神がキリストによって世を御自分と和解させてくださった十字架と復活の福音が、キリストの来臨によって完成する終わりの日への希望です。
その日には、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリ 3:21)
私たちが通常の葬儀で、死者が直ちに来世に移されて、今や天国で生きているかのように聞かされるのは、ただの俗信であって、聖書の使信ではありません。
教会では死者は、私たち生きている者たちと共に、復活の日を待つ “現在” に属していて(Iテサ 4:13-18)、ともにミサをささげる交わりの中に今なおいるのです(奉献文参照)。
今朝のイザヤ書に歌われている “イスラエルの哀歌” を、私たちは現代の教会の実態への嘆きの歌として、しかもその教会に約束された確かな希望の歌として、ご一緒に聞いているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 今年も 「17〜18年典礼暦」 をアップロードしました。
http://www.kuwaei2000.com/guide.html
→ ●資料集● の冒頭にあります。 ____
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人 >>471 >>485-486 >>497-492
>>500-501
祝 老クリスチャン 生誕500年
,.r‐く: : : : -二ニニー_‐-=__ ',
l /l |ヽヽ、 .,,,,,,,,,,,,,、`老''ーミ l
l /7ノ `ヾ、_二ニ二、 ,,, ,'
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 ̄ ̄>- ,' -l ‐ _ , ' ,'γ-t=、,' ヽ  ̄'`'` ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
-┬ 'l l ゝ- ‐.ァ '´ i, `''`:. /
l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「安心しなさい。 わたしだ。 恐れることはない。」
l ',', ,' , ´`ー-'! c, '
l ',ヽ ! 'ゝ-===、 /
l ', \ ``ーァ゛/
l ヽ \ `゙ ´/
l ヽ、 >‐---イ
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> 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!!<
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|┃ ノ´⌒ヽ,,
|┃ γ⌒´ ヽ,
|┃ //""⌒⌒\ )
|┃ ∩_i / ⌒ ⌒ ヽ ) ガラッ
|┃三 { !゙ (・ )` ´(・ )i/
|┃ | | ///(__人_)// 祝 老クリスチャン 500ゲット
|┃ ヘ \ `ー' __/ __
|┃ \ { } ̄ ̄っフ
|┃ `| ノ ノ ̄ ̄
|┃三 /ヽゝ二 / /⌒ヽ
|┃ (___ヽ、 l {
|┃ / } `l~ヽヽ__)
|┃三 /  ̄  ̄} ガラガラッ
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X / ̄ ̄ ̄\ X
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トニィ'| `⌒´ | トニィ' /( ●) (● ) \
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人 2005年(主日B年) 12月4日 待降節第2主日
イザ 40:1〜11 IIペト 3:8〜14 マコ 1:1〜8
現代の教会がこの世の人々への福音の証言者としての役割を果たすためには、その福音が神からの福音、神のことばの福音、キリストの福音でなければなりません。
福音の土着化という耳当たりの良い表現で、もし使徒たちが伝えたのとは別な “日本的、あるいは東洋的キリスト教の再構築” を考えるなら、それは神が 「力を振るって声をあげよ」 「声をあげよ、恐れるな」(イザ v.9)と言っておられるものではあり得ません。
救済史に関わる宣教は 「主の口がこう宣言される」(イザ v.5)ことばの宣教であり、「見よ、主なる神」(イザ v.10)と指さすものなのです。
第二イザヤの冒頭のこのテキストは、神の救済史の完成を予告する大いなる慰めを、代々のキリスト者の心に与え続けて来ました。
「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。」(イザ v.1)
ルカ福音書2:25のシメオンのように、代々の敬虔なキリスト者たちは聖霊に導かれて、神の民の慰められるのを切に待ち望んでいたからです。
その同じ神からの慰めと、神の国の到来が近いという知らせを、今年もこのテキストから聞くことが出来る人は幸いです。
待降節第2主日は、神の約束から来る慰めの主日です。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 660 :神も仏も名無しさん:2017/12/05(火) 11:47:01.70 ID:u8GBWhMn
信者たちからお金を集めたり、信者たちを集金要員にしたり、
集めたお金で組織を拡大したりします。
連中にとっては、神は「飾り物」「お神輿」です。
飾り物になれる、ふさわしい人物を、適当に神にして
真の目的は、組織を形成させて拡大させる事なんです。
神やメシアや救世主なんてものは「客寄せパンダ」であって
「客を集めるためのお神輿」であり、実際は、連中の創作です。
宗教も、需要と供給が成り立ってます。
信者たちも組織に入ると色々と出会いもあるし
組織内で出世することも可能です。
真の目的は「組織の形成」であり、神などは
客を集めてくれるものであり、それでいいのです。
客を集める為に、ウソを付いて、神格化させます。
イエスも、弟子や教徒や後世の人たちの作り話によって
神格化されてるだけで、実際は、普通の人間なのです。
このままでは地獄に落ちて消滅すると脅し、
ここに入って定期的に会費を払って
このように信じてこのように行動すれば
天国で永遠の命だから、と教え、服従させます。.
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. 〈U -=ト = !!
. ヘ!. ^,,_、 ` l
. ヽ 丿トェェェイヽ /
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/ ヽ /_ヲトj|\ヾ、|
| ' フ' !Oj ヾ_)) i、
`i" ノ:::::::::::::::::::Å |
レ' |:::::: 破:::::::::| i|J
. | |::::::: 戒::::::::川
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|  ̄ ヽ\  ̄ ,|
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. ヽ \ |
. k―t-、..,,__,!
. 〉 |i | |
. (之ノ | ,!、 2008年(主日B年) 12月7日 待降節第2主日
イザ 40:1-5,9-11 IIペト 3:8〜14 マコ 1:1〜8
使徒たちが伝えたキリストの福音を、現代人の理性を基準にして批判するという18世紀の啓蒙思想以来、教養あるキリスト教信者の多くが聖伝と聖書に対しても疑義を差し挟むことが、決して不当なことではないと思われるようになりました。
それは学問の自由であり、19-20世紀の神学の世界も大いにそして多方面に発展したのですが、それで今21世紀の教会の実態はどうなったかを見ると、非常に明確に一つの点を指摘することが出来ます。
それは代々の教会が使徒たちから受け継いで来た “宣教(ケリュグマ)” を、小教区の司牧者も信者たちも全く本気では信じなくなったということです。
特殊な原理主義的な教派の人々は別として、普通のキリスト教信者が “聖書に書かれていることを、そのまま文字通りに信じる” ことは、狂気の沙汰であると思うようになってしまったということです。
カトリックの司祭たちや、プロテスタントの牧師たちの説教が、どれも今や使徒たちの宣教の継続ではなくて、いわば “新作の福音” “新作の説教” であることを、だれも不思議に思わないのです。
現代の私たちが見ているキリスト教は、使徒たちのキリスト教と同じではない、“新作のキリスト教” になっているのです。
「しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。 だから、 ・・・・・ 」(IIペト vv.13-14)
この 「だから、 ・・・・・ 」 を、私たちは今日、待降節第2主日のミサで、そのことばの典礼で聞きます。
神のことばは、確かに朗読台から私たち会衆に向かって語られることを、信じることが出来ますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 >>516
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 2011年(主日B年) 12月4日 待降節第2主日
イザ 40:1-5,9-11 IIペト 3:8〜14 マコ 1:1〜8
「高い山に登れ、善い知らせをシオンに伝える者よ。 力を振るって声をあげよ ・・・・・ 、声を上げよ、恐れるな ・・・・・ 。」(イザ v.9)
“生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト” とは、そして教会に神の国を受け継がせてくださる主キリストの福音とは何の関係もないようなキリスト教が、私たちの経験して来たこれまでの教会の実態であったことを、残念ながら認めざるを得ません。
しかし、それでもカトリック教会は典礼暦を保持し続け、来る年も来る年もこれを待降節から始めて来たのです。
主日のミサの朗読配分は、待降節の主題をずっと維持し続けて来たのです。
「今おられ、かつておられ、やがて来られる」(黙 1:4)キリストを語ることに躊躇し、真面目に信じることも待ち望むこともしなかった罪から立ち帰り、私たちが聖伝と聖書を通して伝えられた福音の希望に固く立つために、神のことばは語りかけています。
「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。 彼は力を帯びて来られ ・・・・・ 」(イザ vv.9-10)
「“然り、わたしはすぐに来る。” アーメン、主イエスよ、来てください。」(黙 22:20) ハレルヤ。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 ポルノの蔓延と、漫画やゲームが常に「男同士のぶつかり合い」を描いていることから、女子高生たちは大人に憧れた。
しかし、この全体主義の国ではサラリーマンたちにとって女子高生との恋は「禁じ手」とされて監視の対象となった。
しかし、相撲を見た後だけはみんな「全て許す」と言ったために相撲ファンが多い。
相撲という文化を若い世代に教えたこと、そして中卒のヒエラルキーの動物的な側面を見たこと、相撲を見るだけのお金を払ったことなどが理由として考えられる。
1972年にメイナード・スミスがこのような「相撲のセールス」を考えたのだ。
タカ派にはお金がない。ハト派だけがお金を持っているということも背景にあった。
一緒に女子高生と文化を楽しまなければ、女子高生もその気にならなかったし、大人の世界を見せてもらうという最高のプレゼントが相撲だった。
https://youtu.be/Yxe9arYtAVY
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/117598928 2005年(主日B年) 12月11日 待降節第3主日
イザ 61:1-2,10-11 Iテサ 5:16〜24 ヨハ 1:6-8,19-28
教会は特にこの期節に、「主が恵みをお与えになる年、私たちの神が報復される日」(イザ v.2)についての希望を聞かされます。
キリスト者の喜びの源泉は将来の神の国からのものです。
「私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神にあって喜び躍る。
主は救いの衣を私に着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。
大地が草の芽を萌えいでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、
主なる神はすべての民の前で、恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。」(イザ vv.10-11)
使徒パウロはこの希望について、ロマ 8:24-25 に次のように書きました。
「現に見ているものを誰がなお望むでしょうか。 私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」 と。
それが私たちの教会に使徒継承によって受け継がれて来た 「良い知らせ(福音)」 であります。
全世界の教会がこの期節に共有する喜びは、この確かな希望から来る喜びであります。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日B年) 12月14日 待降節第3主日
イザ 61:1-2a,10-11 Iテサ 5:16〜24 ヨハ 1:6-8,19-28
ベネディクト16世教皇は2006年に公にした “ナザレのイエス/第一部” という著書の中で、次のように述べています。
「イエスの教えは人間の学識の産物ではない。 それは父なる神との直接の交わり、顔と顔をあわせての対話(出 33:11、申 34:10 参照)からのものであり、父のふところにいる独り子である神(ヨハ 1:18)のことばなのである。」
この救済史を導いて神の国の完成に至らせる御父と、人との間の仲介者である方、それが教会と共に歩まれるキリストです(Iテモ 2:5)。
イザ第61章で、預言者は自らを一人称で 「わたし」(イザ v.1)と呼んで、主なる神がその民のために与えられる贖いと解放の知らせを伝えています。
彼自身については、ただその知らせを語るために 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた」 とだけ述べ、そして 10-11節 では、自らが救われたシオンの代弁者となって神を賛美しています。
彼は終末的な 「良い知らせ」(イザ v.1)を伝える一人の預言者であり、「主がシオンに帰られるのを」(イザ 52:8)、「主が再建に取りかかり、エルサレムを全地の栄誉としてくださる」(イザ 62:7)のを、民と共に期待することを許されたのでした。
そのように、神のことばが語られ聞かれるところには、主イエス・キリストがおられます。
説教者が世の中を動かしたり、歴史の成り行きを変えるなどと考えてはなりません。
そうではなくて、教会と共におられる主キリストが、その日までに私たちを聖なる、非のうちどころのない者にしてくださるのです。
そのことに期待して、私たちは共に、今年も待降節の朗読聖書から神のことばを聞いて喜ぼうではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2014年(主日B年) 12月14日 待降節第3主日
イザ 61:1-2a,10-11 Iテサ 5:16〜24 ヨハ 1:6-8,19-28
「神から遣わされた一人の人がいた。 その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。 光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しするために来た。」(ヨハ vv.6-8)
待降節第3主日には、私たちは毎年、洗礼者ヨハネについての福音書の証言を聞きます。
しかし彼は“光ではなく”(ヨハ v.8)、“メシアでもない”(ヨハ v.20)。
彼は “荒れ野で叫ぶ声である”(ヨハ v.23)。
彼は “来るべき方”(マタ 11:3)、すなわち ”光について証しするために来た”(ヨハ v.8)のであって、彼はその存在と使命をこの “来るべき方” に負っている。
そのように、待降節第3主日の福音のテキストは、実は共にミサをささげている私たち教会に対して、来たり給うキリストを証ししているのです。 (つづき)
すでに原始教会の時代に、この洗礼者ヨハネをメシアと考える一派が存在していたことが知られていますが、そのように歴史の教会においてはいつも、
今は天に上げられて見えなくなった “来るべき方であるキリスト ”(使 1:9-11)に代えて、もっと身近な存在である教皇や司教、さらに神の母聖マリアや各地方の守護聖人らを、事実上の “救いを与える者” のように考えることが行われて来ました。
現在でも、もしかすると多くのカトリックの普通の信者が、このような人々を ”救いの鍵を握っている者”(黙 3:7)のように勘違いしているかも知れません。
「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」(ヨハ v.26)
使徒と預言者の証しを通して、キリストは私たちのミサの中に現存しておられますが、それは信仰によってしか知ることの出来ないものでありますから、
教皇や司教、司祭が ”救いの鍵を握っている” かのように思っている人々にとっては、それは “あなたがたの知らない方” のままなのです。
私たちのミサで司祭は、その説教によってこの “来るべき方” を証ししているでしょうか。
信徒はこのことを真剣に問わなければなりません。
説教だけでなくミサ全体から、預言者と使徒の証しを確かに聞き取ることは、私たちすべての信者にとっての最大の課題なのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2005年(主日B年) 12月18日 待降節第4主日
サム下 7:1〜16 ロマ 16:25〜27 ルカ 1:26〜38
天使ガブリエルは、やがてマリアが産む男の子について言いました。
「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。 神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ vv.32-33)
ヤコブすなわち神の民イスラエルを治める王の誕生を告げる天使の言葉に、マリアは戸惑いましたが、天使ガブリエルはさらに続けて言いました。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。 だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ v.35)
“時が来れば実現する神の言葉”(ルカ 1:20)を、マリアは信じて受け入れました。
神がイエス・キリストの福音によって御自身の “秘められた計画” を啓示されたその最初のところに、この信じて受け入れたマリアがいたことを、ルカ福音書は語りました。
人は神の御計画に服従することを通して、神の栄光に奉仕することになります。
そしてそれは過ぎ去った過去の美しい物語りとしてではなくて、教会が “身を起こして頭を上げて”(ルカ 21:28)その実現の日を今なお待ち望んでいる “秘められた計画” を伝えるために、今朝全世界の教会で再び朗読されているのです。
マリアは私たちすべての、いわば代弁者として、神への信仰の従順を捧げました。
「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ v.37)
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2017/12/18 21:01
中国・瀋陽の大学でXマス禁止令 西側文化や価値観を警戒か
【北京共同】米政府系放送局のラジオ自由アジアは18日までに、中国遼寧省瀋陽市の
大学がクリスマス関連のイベント開催を禁止する通知を出したと報じた。キリスト教などの
西側の文化や価値観の浸透を警戒する政府の意向を受けた措置とみられるという。
報道によると、通知を出したのは瀋陽薬科大学で「一部の若者はクリスマスなどの
西側宗教の記念日に夢中になっている」と批判し「西側宗教文化の侵食に抵抗」するよう
呼び掛けているという。
中国では近年、キリスト教徒が多いことで知られる浙江省温州市など各地の教育機関で、
クリスマス関連の活動を禁じる動きが広がっている
https://www.kobe-np.co.jp/news/zenkoku/compact/201712/0010829491.shtml
クリスマス
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ε≡Ξ ノノ `Jノ `J ノ `J ノ `J 2008年(主日B年) 12月21日 待降節第4主日
サム下 7:1〜16 ロマ 16:25〜27 ルカ 1:26〜38
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。 だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ v.35)
多くの人々、特にカトリック信者にとって、処女マリアによるキリスト懐胎というテーマは、キリスト教を理解する上で決して見過ごすことの出来ない問題と考えられています。
しかし、その根拠を新約聖書に求めることは適切ではありません。
それは聖伝に属する関心事であって、私たちは公会議の意向に沿ってこれを学ぶことが大切です(教会憲章/第8章)。
イエスはユダヤ人の女から生まれ(ガラ 4:4)、ダビデの子孫と認められ(ロマ 1:3)、その母の名はマリアといい、ガリラヤのナザレで育ったと新約聖書は伝えています。
このことから推測出来ることは、使徒たちによる最初期の宣教には、処女降誕という主題は含まれていなかったということです。
しかし、私たちが使徒信条で見るように、教会ではかなり早い時期に、洗礼式の信仰宣言の中に “おとめマリアから生まれ” が加えられたように思われます。
おそらくそれは人が洗礼式で、その名を信じる信仰を告白して “神の子となる資格を与えられ”(ヨハ 1:12)、聖霊によって新しく生まれるように(ヨハ 3:3-6)、主イエスの誕生は聖霊による出来事であったということを、明確にするためでありました。
マタイとルカ福音書にイエスの誕生の物語りが加えられた理由の一つがここにあります。 (つづき)
聖霊の注ぎは “終わりの時代”(ヘブ 1:2)の開始の象徴として、聖書では理解されています(エゼ 36:26-27,37:14、ヨエ 3:1-2、ゼカ 12:10、使 1:8、エフェ 1:14)。
ですからイエスの誕生の物語りは、私たちが洗礼の秘蹟を受けて、聖霊によって新しく生まれたという事実と固く結びつけて理解されなければなりません。
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ロマ 8:11)
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サム下 7:1〜16 ロマ 16:25〜27 ルカ 1:26〜38
「わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」(サム下 vv.13-14)
南王国ユダへの “ダビデ王朝” の約束は、その初期からずっと、歴史のどこかの時点で理想の “神の子としての王” が即位するという期待として理解されていました。
ですから代々の王の即位は常に、“神の養子となる” という意味での “神の子の誕生” として祝われました(詩 2:6-7)。
そしてこの期待は、終末的な将来への希望として、主イエスの誕生に至るまでイスラエルに受け継がれて来たのでした。
私たち教会の信仰も、受けた救いも、神が歴史の中で実現されたイエス・キリストの出来事にその根拠をおいています。
「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。 神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ 1:32-33)
これはすでに起こったことの報告です。
そしてそれに続いて聖書は、「キリストは・・・・・ ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブ 9:12)、
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Iコリ 15:20)と伝えているのです。 (つづき)
私たち現代の教会は、飼い葉桶の乳飲み子の誕生を待っているのではなくて、この方の終末における第二の来臨を待望しているのです。
これは福音のメッセージであって、おとぎ話なんかではありません。
「しかし、その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次の通りであった。」(サム下 v.4)
司祭やオラトリオの教師たちの “お話” と、 “主の言葉” とは、違っていることがあるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ ____
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~`''ー--‐'` `''ー---‐' ~`''ー--‐'`~`''ー---‐'~`'ー---一' ~`ー---‐' 2005年(主日B年) 12月25日 主の降誕/日中のミサ
イザ 52:7〜10 ヘブ 1:1〜6 ヨハ 1:1〜18
毎年クリスマスのミサで、イザヤ書からのテキストが朗読されますが、それはそこに預言されている神の民の救いがイエス・キリストの誕生によって実現し始め、救済史がいよいよその最後の段階にさしかかったという教会の信仰宣言を表明するためであります。
教会がイエス・キリストによる間近な救済史の終末的完成に目を向けるために、イザヤ書からのテキストがこの期節のミサで朗読されて来ました。
それはイスラエルの過去の諸々の期待の思い出としてではなく、あるいは昔の預言者の語った単なる美しい夢としてでもなく、
そうではなくてイエス・キリストの第一の来臨によって始まった救済史の急展開が教会にとっての現実となったことを、会衆に知らせるためであります。
「彼らは目の当たりに見る。 主がシオンに帰られるのを。」(イザ v.8)
実に教会は 「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。 キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ロマ 8:17)
この教会の宣教は今日も、使徒たちの宣教の継続であって、神の国の福音の宣教以外の何ものでもありません(マコ 1:15、マタ 4:23、ルカ 9:60)。
「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」(イザ v.7)
教会の宣教の主体は神であって、私たち一人一人はその宣教のための働き人として用いていただく僕に過ぎません。
終末の日に、“私どもは取るに足りない僕です。 しなければならないことをしただけです”(ルカ 17:10)と言うことの出来る人は幸いです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ,..-──-.‐-‐-.‐-、
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【完成図】
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,べヽy〃へ 謹んで
/ :| 'ツ' | ヽ お断り申し上げます
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,くリ=ッ=[ゝ.__」「「「「L_.」
じ(ノルハ)Jつ」」」」」⊂ソ., 2011年(主日B年) 12月18日 待降節第4主日
サム下 7:1〜16 ロマ 16:25〜27 ルカ 1:26〜38
「わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」(サム下 vv.13-14)
南王国ユダへの “ダビデ王朝” の約束は、その初期からずっと、歴史のどこかの時点で理想の “神の子としての王” が即位するという期待として理解されていました。
ですから代々の王の即位は常に、“神の養子となる” という意味での “神の子の誕生” として祝われました(詩 2:6-7)。
そしてこの期待は、終末的な将来への希望として、主イエスの誕生に至るまでイスラエルに受け継がれて来たのでした。
私たち教会の信仰も、受けた救いも、神が歴史の中で実現されたイエス・キリストの出来事にその根拠をおいています。
「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。 神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ 1:32-33)
これはすでに起こったことの報告です。
そしてそれに続いて聖書は、「キリストは・・・・・ ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブ 9:12)、
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Iコリ 15:20)と伝えているのです。 (つづき)
私たち現代の教会は、飼い葉桶の乳飲み子の誕生を待っているのではなくて、この方の終末における第二の来臨を待望しているのです。
これは福音のメッセージであって、おとぎ話なんかではありません。
「しかし、その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次の通りであった。」(サム下 v.4)
司祭やオラトリオの教師たちの “お話” と、 “主の言葉” とは、違っていることがあるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2014年(主日B年) 12月25日 主の降誕/日中のミサ
イザ 52:7〜10 ヘブ 1:1〜6 ヨハ 1:1〜18
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハ v.14)
「いまだかつて、神を見た者はいない。 父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ v.18)
昔の思い出話でもなく、それについてのもったいぶった弁証でもなくて、私たちキリスト者はここで “神の啓示” に出会うのです。
神の啓示に関する教義憲章が教えるように、受肉し、その受難と死と復活によって永遠の贖いを成し遂げて、父なる神の右の座にお着きになったキリストが “啓示そのもの” であって、聖伝と聖書は私たちがこの啓示に出会うための “伝達の器” だからです。
私たちキリスト者が神の啓示に出会うのは、その証人として立てられた使徒たちの証しによるのであって、私たちに出来ることはその証しを通して啓示を受け入れ、信じることだけなのです。
この啓示の証しが教会を造り、私たちの主イエス・キリストの栄光ある再臨の日まで、これを保ちます。 (つづき)
私たちは、教会が待ち望んでいる “来たり給うキリスト” の、かつての地上における御業(ガラ 4:4-5、IIコリ 5:19)の使徒による証しを、この日中のミサの朗読配分によって聞いているのです。
これとは違うような、ただの昔話の中の思い出のメシアを回顧しようとしたり、あるいは神の秘められた計画とは何の関係もない現代のメシア出現への幻想を抱いてクリスマスを祝うことは、神の啓示とは何の関係もないことです。
キリスト教界の大多数の人々が、実際には全く理解しなかったとしても、
それでも、“今おられ、かつておられ、やがて来られる”(黙 1:4)キリストの啓示の光は、使徒の証しを通して “暗闇の中で輝いている”(ヨハ v.5)ということを、聞いて信じることの出来る信者は幸いです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2008年(主日B年) 12月28日 聖家族
創 15:1-6, 21:1-3 ヘブ 11:8〜19 ルカ 2:22〜40
「それは、神が約束されていた時期であった。」(創 21:2)
教会がこの世にある限り、いつもその時代の社会的、経済的、あるいは政治的な事柄と無縁ではあり得ません。
特に最近の世界規模の金融危機によって、我が国でも深刻な景気悪化、急速な雇用の縮小による打撃が、庶民を襲っています。
だれが無関心でいられるでしょうか。
今日キリスト教は我が国では超少数派であって、実際には効果的といえるほどの活動を行うことは殆ど出来ません。
しかし、その社会的、あるいは経済的実力の無さにもかかわらず、これまでもキリスト教関係の人々や団体による政治や社会や経済に関わる発言は盛んでした。
それらの諸発言や活動は、それぞれ彼らの信仰に発しているのでありましょうし、賛否は別として、恐らくそれも良い信仰なのだろうと思います。
ただ、聖書を学ぶ者として、一つの警告をここに書いておきます。
私たちは自分の心の感情(それがどんなに善意からのものであっても)を、あるいは自分の知識に基づく確信(それがどんなに熟慮されたものであっても)を、教会の信仰(使徒継承による)の代替物にしてしまってはならないということです。
教会の信仰は、救済史をその完成へとお進めになる神、御子の血によって教会を贖われた父なる神への信仰であり、神が世の罪を取り除く小羊としてお遣わしになったイエス・キリストへの信仰だからです。
「わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(IIペト 3:13)
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