新装版・生活保護雑談スレッド 12
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新装版・生活保護雑談スレッド 11
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/okiraku/1523861464/
特定コテハンによる荒し行為で雑談スレが機能しなくなった為、新スレへと移行しました。
出禁NG対象のコテハンは
きゅうちゃん
ドムドム
太郎
矛先
上記のコテハンは出禁NGでお願いします なんだか1人の人に皆夢中なのね。無職の人は
知らんけどw >>383
いや確かに最低だけど、そんな高度な技使う好奇心がないです 大正9年、日立製作所は株式会社となって独立した。欧州大戦は大正7年に終結しており、不況の足音が迫っていた。拡張の一途できた久原鉱業の経営が厳しくなり、久原商事が倒産した。
久原系の企業として日立製作所を見る銀行の眼もきつくなったが、
原価主義に立脚した経営と好況時の収益を積み立ててきた財務体質が評価された。むしろ、久原系の日本汽船笠戸電気機関車製造を開始する。
この頃、長距離送電が可能になったことから大型の水力発電所計画が動きだし、本業も順調に発展した。
大正12年9月に起きた関東大震災では、競争会社の工場が壊滅するなかで、日立工場はほとんど無傷で残るという僥倖もあった。日立製作所は、他地方の注文を断っても、京浜地区の復興を最優先した。
それが、また新しい顧客をつくることにつながった。大正14年に完成した狭軌初の電気機関車のニュースは、遠くニューヨークまで伝えられた。翌15年には30台の扇風機が米国に初輸出された。昭和2年(1927年)には電気冷蔵庫の開発にも成功した。
大正から昭和へ、不況はいっそう深刻さを増し、経営に行きづまった久原鉱業は、久原房之助の義兄の鮎川義介に委嘱された。鮎川はまず莫大な債務を整理し、日本産業と名称を改めて株式公開で資金調達を図り
、日産コンツェルンの基盤をつくった。これにより、恐慌で鈴木商店などの新興財閥が倒産するなかを生きぬいたのである。久原は政界に転じ、田中内閣の逓信大臣となった。
日産コンツェルンの一員となった日立製作所は、日立に10万坪の土地を求めるなど積極経営を展開した。
しかし、恐慌が広がるにつれ、さすがに電力余りで新規受注がほとんどなくなった。この苦境を救ったのが、昭和肥料(現・昭和電工)が持ち込んできた余剰電力を利用して硫安を国産化しようという構想だった。
水を電気分解して作った水素と窒素を化合させてアンモニアをつくる反応槽を2,500台もつなげるプラントである。さすがに高尾も馬場もひるんだが、実験、試作、テストを繰り返して、ようやく昭和6年に全数を完成した。かつての大物製作の苦い経験が生きたのである。
この成功で、日立製作所は蘇り、日本を代表する総合電機メーカーに発展していくのである。
小平浪平は、昭和22年に公職追放の指定を受け、高尾副社長、馬場専務ら15名の役員とともに辞任した。ゴルフも旅行も断った。昭和26年6月に追放解除となり、7月に日立工場を訪れて「以和為貴」
(和をもって貴しと為す)と染め抜いた手ぬぐいを従業員に配った。8月に家族旅行を楽しんだあと、10月、78歳の生涯を閉じた。 大正9年、日立製作所は株式会社となって独立した。欧州大戦は大正7年に終結しており、不況の足音が迫っていた。拡張の一途できた久原鉱業の経営が厳しくなり、久原商事が倒産した。
久原系の企業として日立製作所を見る銀行の眼もきつくなったが、
原価主義に立脚した経営と好況時の収益を積み立ててきた財務体質が評価された。むしろ、久原系の日本汽船笠戸電気機関車製造を開始する。
この頃、長距離送電が可能になったことから大型の水力発電所計画が動きだし、本業も順調に発展した。
大正12年9月に起きた関東大震災では、競争会社の工場が壊滅するなかで、日立工場はほとんど無傷で残るという僥倖もあった。日立製作所は、他地方の注文を断っても、京浜地区の復興を最優先した。
それが、また新しい顧客をつくることにつながった。大正14年に完成した狭軌初の電気機関車のニュースは、遠くニューヨークまで伝えられた。翌15年には30台の扇風機が米国に初輸出された。昭和2年(1927年)には電気冷蔵庫の開発にも成功した。
大正から昭和へ、不況はいっそう深刻さを増し、経営に行きづまった久原鉱業は、久原房之助の義兄の鮎川義介に委嘱された。鮎川はまず莫大な債務を整理し、日本産業と名称を改めて株式公開で資金調達を図り
、日産コンツェルンの基盤をつくった。これにより、恐慌で鈴木商店などの新興財閥が倒産するなかを生きぬいたのである。久原は政界に転じ、田中内閣の逓信大臣となった。
日産コンツェルンの一員となった日立製作所は、日立に10万坪の土地を求めるなど積極経営を展開した。
しかし、恐慌が広がるにつれ、さすがに電力余りで新規受注がほとんどなくなった。この苦境を救ったのが、昭和肥料(現・昭和電工)が持ち込んできた余剰電力を利用して硫安を国産化しようという構想だった。
水を電気分解して作った水素と窒素を化合させてアンモニアをつくる反応槽を2,500台もつなげるプラントである。さすがに高尾も馬場もひるんだが、実験、試作、テストを繰り返して、ようやく昭和6年に全数を完成した。かつての大物製作の苦い経験が生きたのである。
この成功で、日立製作所は蘇り、日本を代表する総合電機メーカーに発展していくのである。
小平浪平は、昭和22年に公職追放の指定を受け、高尾副社長、馬場専務ら15名の役員とともに辞任した。ゴルフも旅行も断った。昭和26年6月に追放解除となり、7月に日立工場を訪れて「以和為貴」
(和をもって貴しと為す)と染め抜いた手ぬぐいを従業員に配った。8月に家族旅行を楽しんだあと、10月、78歳の生涯を閉じた。 大正9年、日立製作所は株式会社となって独立した。欧州大戦は大正7年に終結しており、不況の足音が迫っていた。拡張の一途できた久原鉱業の経営が厳しくなり、久原商事が倒産した。
久原系の企業として日立製作所を見る銀行の眼もきつくなったが、
原価主義に立脚した経営と好況時の収益を積み立ててきた財務体質が評価された。むしろ、久原系の日本汽船笠戸電気機関車製造を開始する。
この頃、長距離送電が可能になったことから大型の水力発電所計画が動きだし、本業も順調に発展した。
大正12年9月に起きた関東大震災では、競争会社の工場が壊滅するなかで、日立工場はほとんど無傷で残るという僥倖もあった。日立製作所は、他地方の注文を断っても、京浜地区の復興を最優先した。
それが、また新しい顧客をつくることにつながった。大正14年に完成した狭軌初の電気機関車のニュースは、遠くニューヨークまで伝えられた。翌15年には30台の扇風機が米国に初輸出された。昭和2年(1927年)には電気冷蔵庫の開発にも成功した。
大正から昭和へ、不況はいっそう深刻さを増し、経営に行きづまった久原鉱業は、久原房之助の義兄の鮎川義介に委嘱された。鮎川はまず莫大な債務を整理し、日本産業と名称を改めて株式公開で資金調達を図り
、日産コンツェルンの基盤をつくった。これにより、恐慌で鈴木商店などの新興財閥が倒産するなかを生きぬいたのである。久原は政界に転じ、田中内閣の逓信大臣となった。
日産コンツェルンの一員となった日立製作所は、日立に10万坪の土地を求めるなど積極経営を展開した。
しかし、恐慌が広がるにつれ、さすがに電力余りで新規受注がほとんどなくなった。この苦境を救ったのが、昭和肥料(現・昭和電工)が持ち込んできた余剰電力を利用して硫安を国産化しようという構想だった。
水を電気分解して作った水素と窒素を化合させてアンモニアをつくる反応槽を2,500台もつなげるプラントである。さすがに高尾も馬場もひるんだが、実験、試作、テストを繰り返して、ようやく昭和6年に全数を完成した。かつての大物製作の苦い経験が生きたのである。
この成功で、日立製作所は蘇り、日本を代表する総合電機メーカーに発展していくのである。
小平浪平は、昭和22年に公職追放の指定を受け、高尾副社長、馬場専務ら15名の役員とともに辞任した。ゴルフも旅行も断った。昭和26年6月に追放解除となり、7月に日立工場を訪れて「以和為貴」
(和をもって貴しと為す)と染め抜いた手ぬぐいを従業員に配った。8月に家族旅行を楽しんだあと、10月、78歳の生涯を閉じた。幸子 特定コテハンによる荒し行為で雑談スレが機能しなくなった為、新スレへと移行しました。
出禁NG対象のコテハンは
きゅうちゃん
ドムドム
太郎
矛先
上記のコテハンは出禁NGでお願いします 大正9年、日立製作所は株式会社となって独立した。欧州大戦は大正7年に終結しており、不況の足音が迫っていた。拡張の一途できた久原鉱業の経営が厳しくなり、久原商事が倒産した。
久原系の企業として日立製作所を見る銀行の眼もきつくなったが、
原価主義に立脚した経営と好況時の収益を積み立ててきた財務体質が評価された。むしろ、久原系の日本汽船笠戸電気機関車製造を開始する。
この頃、長距離送電が可能になったことから大型の水力発電所計画が動きだし、本業も順調に発展した。
大正12年9月に起きた関東大震災では、競争会社の工場が壊滅するなかで、日立工場はほとんど無傷で残るという僥倖もあった。日立製作所は、他地方の注文を断っても、京浜地区の復興を最優先した。
それが、また新しい顧客をつくることにつながった。大正14年に完成した狭軌初の電気機関車のニュースは、遠くニューヨークまで伝えられた。翌15年には30台の扇風機が米国に初輸出された。昭和2年(1927年)には電気冷蔵庫の開発にも成功した。
大正から昭和へ、不況はいっそう深刻さを増し、経営に行きづまった久原鉱業は、久原房之助の義兄の鮎川義介に委嘱された。鮎川はまず莫大な債務を整理し、日本産業と名称を改めて株式公開で資金調達を図り
、日産コンツェルンの基盤をつくった。これにより、恐慌で鈴木商店などの新興財閥が倒産するなかを生きぬいたのである。久原は政界に転じ、田中内閣の逓信大臣となった。
日産コンツェルンの一員となった日立製作所は、日立に10万坪の土地を求めるなど積極経営を展開した。
しかし、恐慌が広がるにつれ、さすがに電力余りで新規受注がほとんどなくなった。この苦境を救ったのが、昭和肥料(現・昭和電工)が持ち込んできた余剰電力を利用して硫安を国産化しようという構想だった。
水を電気分解して作った水素と窒素を化合させてアンモニアをつくる反応槽を2,500台もつなげるプラントである。さすがに高尾も馬場もひるんだが、実験、試作、テストを繰り返して、ようやく昭和6年に全数を完成した。かつての大物製作の苦い経験が生きたのである。
この成功で、日立製作所は蘇り、日本を代表する総合電機メーカーに発展していくのである。
小平浪平は、昭和22年に公職追放の指定を受け、高尾副社長、馬場専務ら15名の役員とともに辞任した。ゴルフも旅行も断った。昭和26年6月に追放解除となり、7月に日立工場を訪れて「以和為貴」
(和をもって貴しと為す)と染め抜いた手ぬぐいを従業員に配った。8月に家族旅行を楽しんだあと、10月、78歳の生涯を閉じた。ザマミロ 製作所の船出は、日露戦後の不況のただなかにあった。明治44年に茨城電気から変圧器を20台受注したものの、故障も多く、信頼性第一の鉱山はなかなか買い上げてくれない。ようやく翌45年夏に275馬
力送風用電動機を納入することができた。その間、後に日立製作所を担うことになる秋田政一、池田亮二、森島貞一や、安川電機創業者の安川第五郎といった東京帝大工科出身者が続々と入社した。
この創業時代で特筆すべきは、最初から厳密な原価計算を行ったことである。少ない予算をやりくりして鉱山の施設づくりを行ってきたなかから育まれたものだった。人材教育にも力を注ぎ、徒弟学校も早々に
創設した。
ある時、徒弟学校を出たのにライバル会社に入社した者があった。これでは意味がないと嘆く声を聞いた浪平は、「その生徒は農夫になったのではなかろう、技術を活かす道に進んだのだから無駄ではない」といったという。
大正3年(1914年)は飛躍の年になった。この年、欧州で第一次大戦が勃発、景気が上向いて電力需要が高まってきたが、外国製品の輸入が途絶したために国産品に目が向けられるようになったのである。
しかし、注文に応えて大型製品をこなすうちに、力不足も明らかになってきた。材料も不足しがちで粗悪なものも出てきた。その結果、遮断器が破裂したり発電機が壊れたりすることが続いて、詫状を書くこともしばしばだった。
原因を徹底的に追求し、実験を重ねて信頼性を高めることが、以後、製作所の理念になった。材料問題では銅線不足が深刻だったが、倉田主税(後の第二代社長)の「目の
前にある銅を使って自前で生産しよう」という進言で、大正6年に電線工場をつくった。翌年には久原鉱業所の機械製作工場である佃島製作所を併合し、本社を東京に定めた。
山手工場
創設当時の久原鉱業日立製作所
(山手工場)
こうして、順調に発展してきた日立製作所だったが、大正8年11月、日立(山手)工場の変圧器工場からの出火で、精鋭の装置や大型仕掛品の多くを失った。
火災現場を見回った浪平は、「諸君、思わぬ大火で私もほとほと途方に暮れます。いっそ事業をやめようかとも思わぬでもないが、私はこの事業の前途に相当の自信
を持っている。これまで余りに順調にきたことのお灸だと思うから、大いに発奮しようではないか」と従業員に語った。 きゅうり死ねよ
向こうが過疎でこちらは楽しくしてんだよ
お前はは要らない 製作所の船出は、日露戦後の不況のただなかにあった。明治44年に茨城電気から変圧器を20台受注したものの、故障も多く、信頼性第一の鉱山はなかなか買い上げてくれない。ようやく翌45年夏に275馬
力送風用電動機を納入することができた。その間、後に日立製作所を担うことになる秋田政一、池田亮二、森島貞一や、安川電機創業者の安川第五郎といった東京帝大工科出身者が続々と入社した。
この創業時代で特筆すべきは、最初から厳密な原価計算を行ったことである。少ない予算をやりくりして鉱山の施設づくりを行ってきたなかから育まれたものだった。人材教育にも力を注ぎ、徒弟学校も早々に
創設した。
ある時、徒弟学校を出たのにライバル会社に入社した者があった。これでは意味がないと嘆く声を聞いた浪平は、「その生徒は農夫になったのではなかろう、技術を活かす道に進んだのだから無駄ではない」といったという。
大正3年(1914年)は飛躍の年になった。この年、欧州で第一次大戦が勃発、景気が上向いて電力需要が高まってきたが、外国製品の輸入が途絶したために国産品に目が向けられるようになったのである。
しかし、注文に応えて大型製品をこなすうちに、力不足も明らかになってきた。材料も不足しがちで粗悪なものも出てきた。その結果、遮断器が破裂したり発電機が壊れたりすることが続いて、詫状を書くこともしばしばだった。
原因を徹底的に追求し、実験を重ねて信頼性を高めることが、以後、製作所の理念になった。材料問題では銅線不足が深刻だったが、倉田主税(後の第二代社長)の「目の
前にある銅を使って自前で生産しよう」という進言で、大正6年に電線工場をつくった。翌年には久原鉱業所の機械製作工場である佃島製作所を併合し、本社を東京に定めた。
山手工場
創設当時の久原鉱業日立製作所
(山手工場)
こうして、順調に発展してきた日立製作所だったが、大正8年11月、日立(山手)工場の変圧器工場からの出火で、精鋭の装置や大型仕掛品の多くを失った。
火災現場を見回った浪平は、「諸君、思わぬ大火で私もほとほと途方に暮れます。いっそ事業をやめようかとも思わぬでもないが、私はこの事業の前途に相当の自信
を持っている。これまで余りに順調にきたことのお灸だと思うから、大いに発奮しようではないか」と従業員に語った。 製作所の船出は、日露戦後の不況のただなかにあった。明治44年に茨城電気から変圧器を20台受注したものの、故障も多く、信頼性第一の鉱山はなかなか買い上げてくれない。ようやく翌45年夏に275馬
力送風用電動機を納入することができた。その間、後に日立製作所を担うことになる秋田政一、池田亮二、森島貞一や、安川電機創業者の安川第五郎といった東京帝大工科出身者が続々と入社した。
この創業時代で特筆すべきは、最初から厳密な原価計算を行ったことである。少ない予算をやりくりして鉱山の施設づくりを行ってきたなかから育まれたものだった。人材教育にも力を注ぎ、徒弟学校も早々に
創設した。
ある時、徒弟学校を出たのにライバル会社に入社した者があった。これでは意味がないと嘆く声を聞いた浪平は、「その生徒は農夫になったのではなかろう、技術を活かす道に進んだのだから無駄ではない」といったという。
大正3年(1914年)は飛躍の年になった。この年、欧州で第一次大戦が勃発、景気が上向いて電力需要が高まってきたが、外国製品の輸入が途絶したために国産品に目が向けられるようになったのである。
しかし、注文に応えて大型製品をこなすうちに、力不足も明らかになってきた。材料も不足しがちで粗悪なものも出てきた。その結果、遮断器が破裂したり発電機が壊れたりすることが続いて、詫状を書くこともしばしばだった。
原因を徹底的に追求し、実験を重ねて信頼性を高めることが、以後、製作所の理念になった。材料問題では銅線不足が深刻だったが、倉田主税(後の第二代社長)の「目の
前にある銅を使って自前で生産しよう」という進言で、大正6年に電線工場をつくった。翌年には久原鉱業所の機械製作工場である佃島製作所を併合し、本社を東京に定めた。
山手工場
創設当時の久原鉱業日立製作所
(山手工場)
こうして、順調に発展してきた日立製作所だったが、大正8年11月、日立(山手)工場の変圧器工場からの出火で、精鋭の装置や大型仕掛品の多くを失った。
火災現場を見回った浪平は、「諸君、思わぬ大火で私もほとほと途方に暮れます。いっそ事業をやめようかとも思わぬでもないが、私はこの事業の前途に相当の自信
を持っている。これまで余りに順調にきたことのお灸だと思うから、大いに発奮しようではないか」と従業員に語った。 製作所の船出は、日露戦後の不況のただなかにあった。明治44年に茨城電気から変圧器を20台受注したものの、故障も多く、信頼性第一の鉱山はなかなか買い上げてくれない。ようやく翌45年夏に275馬
力送風用電動機を納入することができた。その間、後に日立製作所を担うことになる秋田政一、池田亮二、森島貞一や、安川電機創業者の安川第五郎といった東京帝大工科出身者が続々と入社した。
この創業時代で特筆すべきは、最初から厳密な原価計算を行ったことである。少ない予算をやりくりして鉱山の施設づくりを行ってきたなかから育まれたものだった。人材教育にも力を注ぎ、徒弟学校も早々に
創設した。
ある時、徒弟学校を出たのにライバル会社に入社した者があった。これでは意味がないと嘆く声を聞いた浪平は、「その生徒は農夫になったのではなかろう、技術を活かす道に進んだのだから無駄ではない」といったという。
大正3年(1914年)は飛躍の年になった。この年、欧州で第一次大戦が勃発、景気が上向いて電力需要が高まってきたが、外国製品の輸入が途絶したために国産品に目が向けられるようになったのである。
しかし、注文に応えて大型製品をこなすうちに、力不足も明らかになってきた。材料も不足しがちで粗悪なものも出てきた。その結果、遮断器が破裂したり発電機が壊れたりすることが続いて、詫状を書くこともしばしばだった。
原因を徹底的に追求し、実験を重ねて信頼性を高めることが、以後、製作所の理念になった。材料問題では銅線不足が深刻だったが、倉田主税(後の第二代社長)の「目の
前にある銅を使って自前で生産しよう」という進言で、大正6年に電線工場をつくった。翌年には久原鉱業所の機械製作工場である佃島製作所を併合し、本社を東京に定めた。
山手工場
創設当時の久原鉱業日立製作所
(山手工場)
こうして、順調に発展してきた日立製作所だったが、大正8年11月、日立(山手)工場の変圧器工場からの出火で、精鋭の装置や大型仕掛品の多くを失った。
火災現場を見回った浪平は、「諸君、思わぬ大火で私もほとほと途方に暮れます。いっそ事業をやめようかとも思わぬでもないが、私はこの事業の前途に相当の自信
を持っている。これまで余りに順調にきたことのお灸だと思うから、大いに発奮しようではないか」と従業員に語った。 製作所の船出は、日露戦後の不況のただなかにあった。明治44年に茨城電気から変圧器を20台受注したものの、故障も多く、信頼性第一の鉱山はなかなか買い上げてくれない。ようやく翌45年夏に275馬
力送風用電動機を納入することができた。その間、後に日立製作所を担うことになる秋田政一、池田亮二、森島貞一や、安川電機創業者の安川第五郎といった東京帝大工科出身者が続々と入社した。
この創業時代で特筆すべきは、最初から厳密な原価計算を行ったことである。少ない予算をやりくりして鉱山の施設づくりを行ってきたなかから育まれたものだった。人材教育にも力を注ぎ、徒弟学校も早々に
創設した。
ある時、徒弟学校を出たのにライバル会社に入社した者があった。これでは意味がないと嘆く声を聞いた浪平は、「その生徒は農夫になったのではなかろう、技術を活かす道に進んだのだから無駄ではない」といったという。
大正3年(1914年)は飛躍の年になった。この年、欧州で第一次大戦が勃発、景気が上向いて電力需要が高まってきたが、外国製品の輸入が途絶したために国産品に目が向けられるようになったのである。
しかし、注文に応えて大型製品をこなすうちに、力不足も明らかになってきた。材料も不足しがちで粗悪なものも出てきた。その結果、遮断器が破裂したり発電機が壊れたりすることが続いて、詫状を書くこともしばしばだった。
原因を徹底的に追求し、実験を重ねて信頼性を高めることが、以後、製作所の理念になった。材料問題では銅線不足が深刻だったが、倉田主税(後の第二代社長)の「目の
前にある銅を使って自前で生産しよう」という進言で、大正6年に電線工場をつくった。翌年には久原鉱業所の機械製作工場である佃島製作所を併合し、本社を東京に定めた。
山手工場
創設当時の久原鉱業日立製作所
(山手工場)
こうして、順調に発展してきた日立製作所だったが、大正8年11月、日立(山手)工場の変圧器工場からの出火で、精鋭の装置や大型仕掛品の多くを失った。
火災現場を見回った浪平は、「諸君、思わぬ大火で私もほとほと途方に暮れます。いっそ事業をやめようかとも思わぬでもないが、私はこの事業の前途に相当の自信
を持っている。これまで余りに順調にきたことのお灸だと思うから、大いに発奮しようではないか」と従業員に語った。 製作所の船出は、日露戦後の不況のただなかにあった。明治44年に茨城電気から変圧器を20台受注したものの、故障も多く、信頼性第一の鉱山はなかなか買い上げてくれない。ようやく翌45年夏に275馬
力送風用電動機を納入することができた。その間、後に日立製作所を担うことになる秋田政一、池田亮二、森島貞一や、安川電機創業者の安川第五郎といった東京帝大工科出身者が続々と入社した。
この創業時代で特筆すべきは、最初から厳密な原価計算を行ったことである。少ない予算をやりくりして鉱山の施設づくりを行ってきたなかから育まれたものだった。人材教育にも力を注ぎ、徒弟学校も早々に
創設した。
ある時、徒弟学校を出たのにライバル会社に入社した者があった。これでは意味がないと嘆く声を聞いた浪平は、「その生徒は農夫になったのではなかろう、技術を活かす道に進んだのだから無駄ではない」といったという。
大正3年(1914年)は飛躍の年になった。この年、欧州で第一次大戦が勃発、景気が上向いて電力需要が高まってきたが、外国製品の輸入が途絶したために国産品に目が向けられるようになったのである。
しかし、注文に応えて大型製品をこなすうちに、力不足も明らかになってきた。材料も不足しがちで粗悪なものも出てきた。その結果、遮断器が破裂したり発電機が壊れたりすることが続いて、詫状を書くこともしばしばだった。
原因を徹底的に追求し、実験を重ねて信頼性を高めることが、以後、製作所の理念になった。材料問題では銅線不足が深刻だったが、倉田主税(後の第二代社長)の「目の
前にある銅を使って自前で生産しよう」という進言で、大正6年に電線工場をつくった。翌年には久原鉱業所の機械製作工場である佃島製作所を併合し、本社を東京に定めた。
山手工場
創設当時の久原鉱業日立製作所
(山手工場)
こうして、順調に発展してきた日立製作所だったが、大正8年11月、日立(山手)工場の変圧器工場からの出火で、精鋭の装置や大型仕掛品の多くを失った。
火災現場を見回った浪平は、「諸君、思わぬ大火で私もほとほと途方に暮れます。いっそ事業をやめようかとも思わぬでもないが、私はこの事業の前途に相当の自信
を持っている。これまで余りに順調にきたことのお灸だと思うから、大いに発奮しようではないか」と従業員に語った。な 製作所の船出は、日露戦後の不況のただなかにあった。明治44年に茨城電気から変圧器を20台受注したものの、故障も多く、信頼性第一の鉱山はなかなか買い上げてくれない。ようやく翌45年夏に275馬
力送風用電動機を納入することができた。その間、後に日立製作所を担うことになる秋田政一、池田亮二、森島貞一や、安川電機創業者の安川第五郎といった東京帝大工科出身者が続々と入社した。
この創業時代で特筆すべきは、最初から厳密な原価計算を行ったことである。少ない予算をやりくりして鉱山の施設づくりを行ってきたなかから育まれたものだった。人材教育にも力を注ぎ、徒弟学校も早々に
創設した。
ある時、徒弟学校を出たのにライバル会社に入社した者があった。これでは意味がないと嘆く声を聞いた浪平は、「その生徒は農夫になったのではなかろう、技術を活かす道に進んだのだから無駄ではない」といったという。
大正3年(1914年)は飛躍の年になった。この年、欧州で第一次大戦が勃発、景気が上向いて電力需要が高まってきたが、外国製品の輸入が途絶したために国産品に目が向けられるようになったのである。
しかし、注文に応えて大型製品をこなすうちに、力不足も明らかになってきた。材料も不足しがちで粗悪なものも出てきた。その結果、遮断器が破裂したり発電機が壊れたりすることが続いて、詫状を書くこともしばしばだった。
原因を徹底的に追求し、実験を重ねて信頼性を高めることが、以後、製作所の理念になった。材料問題では銅線不足が深刻だったが、倉田主税(後の第二代社長)の「目の
前にある銅を使って自前で生産しよう」という進言で、大正6年に電線工場をつくった。翌年には久原鉱業所の機械製作工場である佃島製作所を併合し、本社を東京に定めた。
山手工場
創設当時の久原鉱業日立製作所
(山手工場)
こうして、順調に発展してきた日立製作所だったが、大正8年11月、日立(山手)工場の変圧器工場からの出火で、精鋭の装置や大型仕掛品の多くを失った。
火災現場を見回った浪平は、「諸君、思わぬ大火で私もほとほと途方に暮れます。いっそ事業をやめようかとも思わぬでもないが、私はこの事業の前途に相当の自信
を持っている。これまで余りに順調にきたことのお灸だと思うから、大いに発奮しようではないか」と従業員に語った。 >>407
今晩は(^-^)/
もっと早く入院すれば良かったよ
デトックスの点滴を1週間やるよ 製作所の船出は、日露戦後の不況のただなかにあった。明治44年に茨城電気から変圧器を20台受注したものの、故障も多く、信頼性第一の鉱山はなかなか買い上げてくれない。ようやく翌45年夏に275馬
力送風用電動機を納入することができた。その間、後に日立製作所を担うことになる秋田政一、池田亮二、森島貞一や、安川電機創業者の安川第五郎といった東京帝大工科出身者が続々と入社した。
この創業時代で特筆すべきは、最初から厳密な原価計算を行ったことである。少ない予算をやりくりして鉱山の施設づくりを行ってきたなかから育まれたものだった。人材教育にも力を注ぎ、徒弟学校も早々に
創設した。
ある時、徒弟学校を出たのにライバル会社に入社した者があった。これでは意味がないと嘆く声を聞いた浪平は、「その生徒は農夫になったのではなかろう、技術を活かす道に進んだのだから無駄ではない」といったという。
大正3年(1914年)は飛躍の年になった。この年、欧州で第一次大戦が勃発、景気が上向いて電力需要が高まってきたが、外国製品の輸入が途絶したために国産品に目が向けられるようになったのである。
しかし、注文に応えて大型製品をこなすうちに、力不足も明らかになってきた。材料も不足しがちで粗悪なものも出てきた。その結果、遮断器が破裂したり発電機が壊れたりすることが続いて、詫状を書くこともしばしばだった。
原因を徹底的に追求し、実験を重ねて信頼性を高めることが、以後、製作所の理念になった。材料問題では銅線不足が深刻だったが、倉田主税(後の第二代社長)の「目の
前にある銅を使って自前で生産しよう」という進言で、大正6年に電線工場をつくった。翌年には久原鉱業所の機械製作工場である佃島製作所を併合し、本社を東京に定めた。
山手工場
創設当時の久原鉱業日立製作所
(山手工場)
こうして、順調に発展してきた日立製作所だったが、大正8年11月、日立(山手)工場の変圧器工場からの出火で、精鋭の装置や大型仕掛品の多くを失った。
火災現場を見回った浪平は、「諸君、思わぬ大火で私もほとほと途方に暮れます。いっそ事業をやめようかとも思わぬでもないが、私はこの事業の前途に相当の自信
を持っている。これまで余りに順調にきたことのお灸だと思うから、大いに発奮しようではないか」と従業員に語った。 製作所の船出は、日露戦後の不況のただなかにあった。明治44年に茨城電気から変圧器を20台受注したものの、故障も多く、信頼性第一の鉱山はなかなか買い上げてくれない。ようやく翌45年夏に275馬
力送風用電動機を納入することができた。その間、後に日立製作所を担うことになる秋田政一、池田亮二、森島貞一や、安川電機創業者の安川第五郎といった東京帝大工科出身者が続々と入社した。
この創業時代で特筆すべきは、最初から厳密な原価計算を行ったことである。少ない予算をやりくりして鉱山の施設づくりを行ってきたなかから育まれたものだった。人材教育にも力を注ぎ、徒弟学校も早々に
創設した。
ある時、徒弟学校を出たのにライバル会社に入社した者があった。これでは意味がないと嘆く声を聞いた浪平は、「その生徒は農夫になったのではなかろう、技術を活かす道に進んだのだから無駄ではない」といったという。
大正3年(1914年)は飛躍の年になった。この年、欧州で第一次大戦が勃発、景気が上向いて電力需要が高まってきたが、外国製品の輸入が途絶したために国産品に目が向けられるようになったのである。
しかし、注文に応えて大型製品をこなすうちに、力不足も明らかになってきた。材料も不足しがちで粗悪なものも出てきた。その結果、遮断器が破裂したり発電機が壊れたりすることが続いて、詫状を書くこともしばしばだった。
原因を徹底的に追求し、実験を重ねて信頼性を高めることが、以後、製作所の理念になった。材料問題では銅線不足が深刻だったが、倉田主税(後の第二代社長)の「目の
前にある銅を使って自前で生産しよう」という進言で、大正6年に電線工場をつくった。翌年には久原鉱業所の機械製作工場である佃島製作所を併合し、本社を東京に定めた。
山手工場
創設当時の久原鉱業日立製作所
(山手工場)
こうして、順調に発展してきた日立製作所だったが、大正8年11月、日立(山手)工場の変圧器工場からの出火で、精鋭の装置や大型仕掛品の多くを失った。
火災現場を見回った浪平は、「諸君、思わぬ大火で私もほとほと途方に暮れます。いっそ事業をやめようかとも思わぬでもないが、私はこの事業の前途に相当の自信
を持っている。これまで余りに順調にきたことのお灸だと思うから、大いに発奮しようではないか」と従業員に語った。 製作所の船出は、日露戦後の不況のただなかにあった。明治44年に茨城電気から変圧器を20台受注したものの、故障も多く、信頼性第一の鉱山はなかなか買い上げてくれない。ようやく翌45年夏に275馬
力送風用電動機を納入することができた。その間、後に日立製作所を担うことになる秋田政一、池田亮二、森島貞一や、安川電機創業者の安川第五郎といった東京帝大工科出身者が続々と入社した。
この創業時代で特筆すべきは、最初から厳密な原価計算を行ったことである。少ない予算をやりくりして鉱山の施設づくりを行ってきたなかから育まれたものだった。人材教育にも力を注ぎ、徒弟学校も早々に
創設した。
ある時、徒弟学校を出たのにライバル会社に入社した者があった。これでは意味がないと嘆く声を聞いた浪平は、「その生徒は農夫になったのではなかろう、技術を活かす道に進んだのだから無駄ではない」といったという。
大正3年(1914年)は飛躍の年になった。この年、欧州で第一次大戦が勃発、景気が上向いて電力需要が高まってきたが、外国製品の輸入が途絶したために国産品に目が向けられるようになったのである。
しかし、注文に応えて大型製品をこなすうちに、力不足も明らかになってきた。材料も不足しがちで粗悪なものも出てきた。その結果、遮断器が破裂したり発電機が壊れたりすることが続いて、詫状を書くこともしばしばだった。
原因を徹底的に追求し、実験を重ねて信頼性を高めることが、以後、製作所の理念になった。材料問題では銅線不足が深刻だったが、倉田主税(後の第二代社長)の「目の
前にある銅を使って自前で生産しよう」という進言で、大正6年に電線工場をつくった。翌年には久原鉱業所の機械製作工場である佃島製作所を併合し、本社を東京に定めた。
山手工場
創設当時の久原鉱業日立製作所
(山手工場)
こうして、順調に発展してきた日立製作所だったが、大正8年11月、日立(山手)工場の変圧器工場からの出火で、精鋭の装置や大型仕掛品の多くを失った。
火災現場を見回った浪平は、「諸君、思わぬ大火で私もほとほと途方に暮れます。いっそ事業をやめようかとも思わぬでもないが、私はこの事業の前途に相当の自信
を持っている。これまで余りに順調にきたことのお灸だと思うから、大いに発奮しようではないか」と従業員に語った。ひ >>413
向こうに行けお前は出禁じゃ
それとも向こうのスレみかぎったんか >>403
本物の屋形なら、屋形主催のグルチャで返事してよ
さっきから屋形〜!ってよんでるんだけど 前スレ
新装版・生活保護雑談スレッド 11
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/okiraku/1523861464/
特定コテハンによる荒し行為で雑談スレが機能しなくなった為、新スレへと移行しました。
出禁NG対象のコテハンは
きゅうちゃん
ドムドム
太郎
矛先
上記のコテハンは出禁NGでお願いします 工作課長としての最初の仕事は、里川の中里発電所を完成させることだった。400kwだから駒橋発電所とは比べるべくもないが、すべて任せられた喜びがあった。設備づくりも多忙をきわめた。産銅量が増え
るに従い、製錬所を本山から下った大雄院に移すことになったのだ。鉱石を運搬するコンベアや鉄索、製品を港に降ろす電気軌道などの建設に加えて、鉱山機械の修理で徹夜が続く日々だった。
電力も不足するので、山中に適地を求めて石岡発電所を建設することになった。明治43年に1,000kwの仮発電所が完成したが、フランシス水車は自前で製作した。翌年には、さらに内作率を高めた4,000kwの新発電所が完成した。
むろん、これだけの仕事をこなすには人材が要る。実習や工場見学でやってきた東京帝大電気工学科の学生たちが、浪平の魅力に接して続々と入社してきた。明治42年
入社の高尾直三郎は、終生浪平を支える存在となった。翌43年には後に中央研究所所長となる馬場粂夫が入社した。
創業小屋
3台の5馬力電動機はすべて現存している。なかでも、日立工場内に復元された「創業小屋」に動態展示されている1台は、数年前まで現役であった。
その頃、大雄院の掘立小屋では、電動機の修理のかたわら、故障原因や製作方法の研究を地道に進めていた。そして、自分たちの手で設計を行い、紡ぎ車のような手回し機
械を自作して巻線するなどの苦心を重ねて、ついに明治43年、5馬力電動機3台が完成した。早速、鉱山で試用してみると性能もよく、続いて200馬力電動機も製作した。
これに自信を得た浪平は、久原に電気機械製造事業の許可を申し出た。久原は機械製造に関心を示さなかったが、所長の竹内維彦が助勢に立ってくれたので、ようやく
認可され、同年暮れ、大雄院からさらに下った芝内に新工場を建設する運びとなった。それが今日の山手工場である。浪平は、国産の気概を込めて『日立』の社章を創案した。 これをもって日立製作所の創業とする。 >>417
>>403
本物の屋形なら、屋形主催のグルチャで返事してよ
さっきから屋形〜!ってよんでるんだけど 工作課長としての最初の仕事は、里川の中里発電所を完成させることだった。400kwだから駒橋発電所とは比べるべくもないが、すべて任せられた喜びがあった。設備づくりも多忙をきわめた。産銅量が増え
るに従い、製錬所を本山から下った大雄院に移すことになったのだ。鉱石を運搬するコンベアや鉄索、製品を港に降ろす電気軌道などの建設に加えて、鉱山機械の修理で徹夜が続く日々だった。
電力も不足するので、山中に適地を求めて石岡発電所を建設することになった。明治43年に1,000kwの仮発電所が完成したが、フランシス水車は自前で製作した。翌年には、さらに内作率を高めた4,000kwの新発電所が完成した。
むろん、これだけの仕事をこなすには人材が要る。実習や工場見学でやってきた東京帝大電気工学科の学生たちが、浪平の魅力に接して続々と入社してきた。明治42年
入社の高尾直三郎は、終生浪平を支える存在となった。翌43年には後に中央研究所所長となる馬場粂夫が入社した。
創業小屋
3台の5馬力電動機はすべて現存している。なかでも、日立工場内に復元された「創業小屋」に動態展示されている1台は、数年前まで現役であった。
その頃、大雄院の掘立小屋では、電動機の修理のかたわら、故障原因や製作方法の研究を地道に進めていた。そして、自分たちの手で設計を行い、紡ぎ車のような手回し機
械を自作して巻線するなどの苦心を重ねて、ついに明治43年、5馬力電動機3台が完成した。早速、鉱山で試用してみると性能もよく、続いて200馬力電動機も製作した。
これに自信を得た浪平は、久原に電気機械製造事業の許可を申し出た。久原は機械製造に関心を示さなかったが、所長の竹内維彦が助勢に立ってくれたので、ようやく
認可され、同年暮れ、大雄院からさらに下った芝内に新工場を建設する運びとなった。それが今日の山手工場である。浪平は、国産の気概を込めて『日立』の社章を創案した。 これをもって日立製作所の創業とする。 工作課長としての最初の仕事は、里川の中里発電所を完成させることだった。400kwだから駒橋発電所とは比べるべくもないが、すべて任せられた喜びがあった。設備づくりも多忙をきわめた。産銅量が増え
るに従い、製錬所を本山から下った大雄院に移すことになったのだ。鉱石を運搬するコンベアや鉄索、製品を港に降ろす電気軌道などの建設に加えて、鉱山機械の修理で徹夜が続く日々だった。
電力も不足するので、山中に適地を求めて石岡発電所を建設することになった。明治43年に1,000kwの仮発電所が完成したが、フランシス水車は自前で製作した。翌年には、さらに内作率を高めた4,000kwの新発電所が完成した。
むろん、これだけの仕事をこなすには人材が要る。実習や工場見学でやってきた東京帝大電気工学科の学生たちが、浪平の魅力に接して続々と入社してきた。明治42年
入社の高尾直三郎は、終生浪平を支える存在となった。翌43年には後に中央研究所所長となる馬場粂夫が入社した。
創業小屋
3台の5馬力電動機はすべて現存している。なかでも、日立工場内に復元された「創業小屋」に動態展示されている1台は、数年前まで現役であった。
その頃、大雄院の掘立小屋では、電動機の修理のかたわら、故障原因や製作方法の研究を地道に進めていた。そして、自分たちの手で設計を行い、紡ぎ車のような手回し機
械を自作して巻線するなどの苦心を重ねて、ついに明治43年、5馬力電動機3台が完成した。早速、鉱山で試用してみると性能もよく、続いて200馬力電動機も製作した。
これに自信を得た浪平は、久原に電気機械製造事業の許可を申し出た。久原は機械製造に関心を示さなかったが、所長の竹内維彦が助勢に立ってくれたので、ようやく
認可され、同年暮れ、大雄院からさらに下った芝内に新工場を建設する運びとなった。それが今日の山手工場である。浪平は、国産の気概を込めて『日立』の社章を創案した。 これをもって日立製作所の創業とする。 工作課長としての最初の仕事は、里川の中里発電所を完成させることだった。400kwだから駒橋発電所とは比べるべくもないが、すべて任せられた喜びがあった。設備づくりも多忙をきわめた。産銅量が増え
るに従い、製錬所を本山から下った大雄院に移すことになったのだ。鉱石を運搬するコンベアや鉄索、製品を港に降ろす電気軌道などの建設に加えて、鉱山機械の修理で徹夜が続く日々だった。
電力も不足するので、山中に適地を求めて石岡発電所を建設することになった。明治43年に1,000kwの仮発電所が完成したが、フランシス水車は自前で製作した。翌年には、さらに内作率を高めた4,000kwの新発電所が完成した。
むろん、これだけの仕事をこなすには人材が要る。実習や工場見学でやってきた東京帝大電気工学科の学生たちが、浪平の魅力に接して続々と入社してきた。明治42年
入社の高尾直三郎は、終生浪平を支える存在となった。翌43年には後に中央研究所所長となる馬場粂夫が入社した。
創業小屋
3台の5馬力電動機はすべて現存している。なかでも、日立工場内に復元された「創業小屋」に動態展示されている1台は、数年前まで現役であった。
その頃、大雄院の掘立小屋では、電動機の修理のかたわら、故障原因や製作方法の研究を地道に進めていた。そして、自分たちの手で設計を行い、紡ぎ車のような手回し機
械を自作して巻線するなどの苦心を重ねて、ついに明治43年、5馬力電動機3台が完成した。早速、鉱山で試用してみると性能もよく、続いて200馬力電動機も製作した。
これに自信を得た浪平は、久原に電気機械製造事業の許可を申し出た。久原は機械製造に関心を示さなかったが、所長の竹内維彦が助勢に立ってくれたので、ようやく
認可され、同年暮れ、大雄院からさらに下った芝内に新工場を建設する運びとなった。それが今日の山手工場である。浪平は、国産の気概を込めて『日立』の社章を創案した。 これをもって日立製作所の創業とする。 工作課長としての最初の仕事は、里川の中里発電所を完成させることだった。400kwだから駒橋発電所とは比べるべくもないが、すべて任せられた喜びがあった。設備づくりも多忙をきわめた。産銅量が増え
るに従い、製錬所を本山から下った大雄院に移すことになったのだ。鉱石を運搬するコンベアや鉄索、製品を港に降ろす電気軌道などの建設に加えて、鉱山機械の修理で徹夜が続く日々だった。
電力も不足するので、山中に適地を求めて石岡発電所を建設することになった。明治43年に1,000kwの仮発電所が完成したが、フランシス水車は自前で製作した。翌年には、さらに内作率を高めた4,000kwの新発電所が完成した。
むろん、これだけの仕事をこなすには人材が要る。実習や工場見学でやってきた東京帝大電気工学科の学生たちが、浪平の魅力に接して続々と入社してきた。明治42年
入社の高尾直三郎は、終生浪平を支える存在となった。翌43年には後に中央研究所所長となる馬場粂夫が入社した。
創業小屋
3台の5馬力電動機はすべて現存している。なかでも、日立工場内に復元された「創業小屋」に動態展示されている1台は、数年前まで現役であった。
その頃、大雄院の掘立小屋では、電動機の修理のかたわら、故障原因や製作方法の研究を地道に進めていた。そして、自分たちの手で設計を行い、紡ぎ車のような手回し機
械を自作して巻線するなどの苦心を重ねて、ついに明治43年、5馬力電動機3台が完成した。早速、鉱山で試用してみると性能もよく、続いて200馬力電動機も製作した。
これに自信を得た浪平は、久原に電気機械製造事業の許可を申し出た。久原は機械製造に関心を示さなかったが、所長の竹内維彦が助勢に立ってくれたので、ようやく
認可され、同年暮れ、大雄院からさらに下った芝内に新工場を建設する運びとなった。それが今日の山手工場である。浪平は、国産の気概を込めて『日立』の社章を創案した。 これをもって日立製作所の創業とする。 工作課長としての最初の仕事は、里川の中里発電所を完成させることだった。400kwだから駒橋発電所とは比べるべくもないが、すべて任せられた喜びがあった。設備づくりも多忙をきわめた。産銅量が増え
るに従い、製錬所を本山から下った大雄院に移すことになったのだ。鉱石を運搬するコンベアや鉄索、製品を港に降ろす電気軌道などの建設に加えて、鉱山機械の修理で徹夜が続く日々だった。
電力も不足するので、山中に適地を求めて石岡発電所を建設することになった。明治43年に1,000kwの仮発電所が完成したが、フランシス水車は自前で製作した。翌年には、さらに内作率を高めた4,000kwの新発電所が完成した。
むろん、これだけの仕事をこなすには人材が要る。実習や工場見学でやってきた東京帝大電気工学科の学生たちが、浪平の魅力に接して続々と入社してきた。明治42年
入社の高尾直三郎は、終生浪平を支える存在となった。翌43年には後に中央研究所所長となる馬場粂夫が入社した。
創業小屋
3台の5馬力電動機はすべて現存している。なかでも、日立工場内に復元された「創業小屋」に動態展示されている1台は、数年前まで現役であった。
その頃、大雄院の掘立小屋では、電動機の修理のかたわら、故障原因や製作方法の研究を地道に進めていた。そして、自分たちの手で設計を行い、紡ぎ車のような手回し機
械を自作して巻線するなどの苦心を重ねて、ついに明治43年、5馬力電動機3台が完成した。早速、鉱山で試用してみると性能もよく、続いて200馬力電動機も製作した。
これに自信を得た浪平は、久原に電気機械製造事業の許可を申し出た。久原は機械製造に関心を示さなかったが、所長の竹内維彦が助勢に立ってくれたので、ようやく
認可され、同年暮れ、大雄院からさらに下った芝内に新工場を建設する運びとなった。それが今日の山手工場である。浪平は、国産の気概を込めて『日立』の社章を創案した。 これをもって日立製作所の創業とする。 工作課長としての最初の仕事は、里川の中里発電所を完成させることだった。400kwだから駒橋発電所とは比べるべくもないが、すべて任せられた喜びがあった。設備づくりも多忙をきわめた。産銅量が増え
るに従い、製錬所を本山から下った大雄院に移すことになったのだ。鉱石を運搬するコンベアや鉄索、製品を港に降ろす電気軌道などの建設に加えて、鉱山機械の修理で徹夜が続く日々だった。
電力も不足するので、山中に適地を求めて石岡発電所を建設することになった。明治43年に1,000kwの仮発電所が完成したが、フランシス水車は自前で製作した。翌年には、さらに内作率を高めた4,000kwの新発電所が完成した。
むろん、これだけの仕事をこなすには人材が要る。実習や工場見学でやってきた東京帝大電気工学科の学生たちが、浪平の魅力に接して続々と入社してきた。明治42年
入社の高尾直三郎は、終生浪平を支える存在となった。翌43年には後に中央研究所所長となる馬場粂夫が入社した。
創業小屋
3台の5馬力電動機はすべて現存している。なかでも、日立工場内に復元された「創業小屋」に動態展示されている1台は、数年前まで現役であった。
その頃、大雄院の掘立小屋では、電動機の修理のかたわら、故障原因や製作方法の研究を地道に進めていた。そして、自分たちの手で設計を行い、紡ぎ車のような手回し機
械を自作して巻線するなどの苦心を重ねて、ついに明治43年、5馬力電動機3台が完成した。早速、鉱山で試用してみると性能もよく、続いて200馬力電動機も製作した。
これに自信を得た浪平は、久原に電気機械製造事業の許可を申し出た。久原は機械製造に関心を示さなかったが、所長の竹内維彦が助勢に立ってくれたので、ようやく
認可され、同年暮れ、大雄院からさらに下った芝内に新工場を建設する運びとなった。それが今日の山手工場である。浪平は、国産の気概を込めて『日立』の社章を創案した。 これをもって日立製作所の創業とする。提げても >>223
好きにしたらいいけど、今の流れはかわるな 工作課長としての最初の仕事は、里川の中里発電所を完成させることだった。400kwだから駒橋発電所とは比べるべくもないが、すべて任せられた喜びがあった。設備づくりも多忙をきわめた。産銅量が増え
るに従い、製錬所を本山から下った大雄院に移すことになったのだ。鉱石を運搬するコンベアや鉄索、製品を港に降ろす電気軌道などの建設に加えて、鉱山機械の修理で徹夜が続く日々だった。
電力も不足するので、山中に適地を求めて石岡発電所を建設することになった。明治43年に1,000kwの仮発電所が完成したが、フランシス水車は自前で製作した。翌年には、さらに内作率を高めた4,000kwの新発電所が完成した。
むろん、これだけの仕事をこなすには人材が要る。実習や工場見学でやってきた東京帝大電気工学科の学生たちが、浪平の魅力に接して続々と入社してきた。明治42年
入社の高尾直三郎は、終生浪平を支える存在となった。翌43年には後に中央研究所所長となる馬場粂夫が入社した。
創業小屋
3台の5馬力電動機はすべて現存している。なかでも、日立工場内に復元された「創業小屋」に動態展示されている1台は、数年前まで現役であった。
その頃、大雄院の掘立小屋では、電動機の修理のかたわら、故障原因や製作方法の研究を地道に進めていた。そして、自分たちの手で設計を行い、紡ぎ車のような手回し機
械を自作して巻線するなどの苦心を重ねて、ついに明治43年、5馬力電動機3台が完成した。早速、鉱山で試用してみると性能もよく、続いて200馬力電動機も製作した。
これに自信を得た浪平は、久原に電気機械製造事業の許可を申し出た。久原は機械製造に関心を示さなかったが、所長の竹内維彦が助勢に立ってくれたので、ようやく
認可され、同年暮れ、大雄院からさらに下った芝内に新工場を建設する運びとなった。それが今日の山手工場である。浪平は、国産の気概を込めて『日立』の社章を創案した。 これをもって日立製作所の創業とする。 工作課長としての最初の仕事は、里川の中里発電所を完成させることだった。400kwだから駒橋発電所とは比べるべくもないが、すべて任せられた喜びがあった。設備づくりも多忙をきわめた。産銅量が増え
るに従い、製錬所を本山から下った大雄院に移すことになったのだ。鉱石を運搬するコンベアや鉄索、製品を港に降ろす電気軌道などの建設に加えて、鉱山機械の修理で徹夜が続く日々だった。
電力も不足するので、山中に適地を求めて石岡発電所を建設することになった。明治43年に1,000kwの仮発電所が完成したが、フランシス水車は自前で製作した。翌年には、さらに内作率を高めた4,000kwの新発電所が完成した。
むろん、これだけの仕事をこなすには人材が要る。実習や工場見学でやってきた東京帝大電気工学科の学生たちが、浪平の魅力に接して続々と入社してきた。明治42年
入社の高尾直三郎は、終生浪平を支える存在となった。翌43年には後に中央研究所所長となる馬場粂夫が入社した。
創業小屋
3台の5馬力電動機はすべて現存している。なかでも、日立工場内に復元された「創業小屋」に動態展示されている1台は、数年前まで現役であった。
その頃、大雄院の掘立小屋では、電動機の修理のかたわら、故障原因や製作方法の研究を地道に進めていた。そして、自分たちの手で設計を行い、紡ぎ車のような手回し機
械を自作して巻線するなどの苦心を重ねて、ついに明治43年、5馬力電動機3台が完成した。早速、鉱山で試用してみると性能もよく、続いて200馬力電動機も製作した。
これに自信を得た浪平は、久原に電気機械製造事業の許可を申し出た。久原は機械製造に関心を示さなかったが、所長の竹内維彦が助勢に立ってくれたので、ようやく
認可され、同年暮れ、大雄院からさらに下った芝内に新工場を建設する運びとなった。それが今日の山手工場である。浪平は、国産の気概を込めて『日立』の社章を創案した。 これをもって日立製作所の創業とする。 >>434
お前は小学生か
気持ち悪い奴だな
いじめられっこみたいな性格ごきぶりか
引っ込んどけ >>435
りんりんできないけどネットはできるんだよ 明治33年、大学を卒業すると藤田組に入社し、小坂鉱山の電気技師として秋田に赴任した。ここで、久原房之助と竹内維彦との出会いがあった。
当時の鉱山は殖産興業のトップランナーであり、小坂、足尾、
別子といった銅山は輸出の花形でもあった。鉱山では動力が欠かせない。明治19年に東京・京橋にアーク灯がともり零細な火力発電が始まった。明治25年に京都の蹴上で水力発電(80kw)が始まり
、3年後に日本初の路面電車が京都市街を走った。鉱山や工場は長く蒸気動力が主だったが、ようやく自前の発電所を作ろうという時代だった。
電動機
日鉱記念館に展示された日立製作所製の電動機
日鋼鉱念館には、創業時の久原本部、当時の鉱山機械、鉱石や製錬の歴史、現代の技術などが総合展示されている。
小坂鉱山での浪平の初仕事も発電所建設だった。発電所、水路、変電所などを設計・施工し、明治35年に止滝発電所が完成した。ところが、翌年、浪平は小坂鉱山を辞してしまう。発電所づくりに魅せられたゆえ
であった。おりしも、東京電灯が山梨県猿橋に本邦最大の1万5,000kwの駒橋発電所を計画していた。浪平は、まず経験を積むために広島水力電気に1年契約で就職し、新妻の也笑を伴って広島に移った。日露戦争が始まった年のことだった。
明治37年、
浪平は送電主任として念願の東京電灯に入社した。しかし、現実は発電機がドイツのジーメンス社、変圧器は米国のGE社、水車はスイスのエッシャウイス社製で、据付も外人技師の指導のもとで行わねばならなか
った。無理もなかった。日本では、明治28年に芝浦製作所が25馬力電動機を完成し、石川島造船所がそれに続いたものの、主要な事業はすべて外国製品で占められていたのである。
浪平は、大学時代の日記に「我国工場の幼稚なるに驚き・・
・我国の工業振るわざれば、之を振るわしむるは吾人の任務なり」と記しているが、痛切に外国の技術に頼らずに日本人の手で自主技術を開発したいと思った。
赤沢鉱山を買収した久原が「再び君の力を借りたい」といってきたのは、そんなおりだった。さらに運命的な出会いが明治39年7月に訪れた。甲府行きの列車に大学の同級生の渋沢元治(後の名古屋大学長)と偶然
乗り合わせたのである。二人は猿橋の大黒屋旅館で夜を徹して語り合った。浪平は、久原氏の誘いを受けて日立に行く決意を語った。渋沢は電力事業の重要性を説き「東京電灯にとどまれば、いずれ大きな仕事
ができる」と諫めた。しかし、浪平は自主技術の夢を熱く語り、最後は渋沢も思い通りやれと励ましたのだった。3カ月後、浪平は日立鉱山に赴任した。 明治33年、大学を卒業すると藤田組に入社し、小坂鉱山の電気技師として秋田に赴任した。ここで、久原房之助と竹内維彦との出会いがあった。
当時の鉱山は殖産興業のトップランナーであり、小坂、足尾、
別子といった銅山は輸出の花形でもあった。鉱山では動力が欠かせない。明治19年に東京・京橋にアーク灯がともり零細な火力発電が始まった。明治25年に京都の蹴上で水力発電(80kw)が始まり
、3年後に日本初の路面電車が京都市街を走った。鉱山や工場は長く蒸気動力が主だったが、ようやく自前の発電所を作ろうという時代だった。
電動機
日鉱記念館に展示された日立製作所製の電動機
日鋼鉱念館には、創業時の久原本部、当時の鉱山機械、鉱石や製錬の歴史、現代の技術などが総合展示されている。
小坂鉱山での浪平の初仕事も発電所建設だった。発電所、水路、変電所などを設計・施工し、明治35年に止滝発電所が完成した。ところが、翌年、浪平は小坂鉱山を辞してしまう。発電所づくりに魅せられたゆえ
であった。おりしも、東京電灯が山梨県猿橋に本邦最大の1万5,000kwの駒橋発電所を計画していた。浪平は、まず経験を積むために広島水力電気に1年契約で就職し、新妻の也笑を伴って広島に移った。日露戦争が始まった年のことだった。
明治37年、
浪平は送電主任として念願の東京電灯に入社した。しかし、現実は発電機がドイツのジーメンス社、変圧器は米国のGE社、水車はスイスのエッシャウイス社製で、据付も外人技師の指導のもとで行わねばならなか
った。無理もなかった。日本では、明治28年に芝浦製作所が25馬力電動機を完成し、石川島造船所がそれに続いたものの、主要な事業はすべて外国製品で占められていたのである。
浪平は、大学時代の日記に「我国工場の幼稚なるに驚き・・
・我国の工業振るわざれば、之を振るわしむるは吾人の任務なり」と記しているが、痛切に外国の技術に頼らずに日本人の手で自主技術を開発したいと思った。
赤沢鉱山を買収した久原が「再び君の力を借りたい」といってきたのは、そんなおりだった。さらに運命的な出会いが明治39年7月に訪れた。甲府行きの列車に大学の同級生の渋沢元治(後の名古屋大学長)と偶然
乗り合わせたのである。二人は猿橋の大黒屋旅館で夜を徹して語り合った。浪平は、久原氏の誘いを受けて日立に行く決意を語った。渋沢は電力事業の重要性を説き「東京電灯にとどまれば、いずれ大きな仕事
ができる」と諫めた。しかし、浪平は自主技術の夢を熱く語り、最後は渋沢も思い通りやれと励ましたのだった。3カ月後、浪平は日立鉱山に赴任した。 明治33年、大学を卒業すると藤田組に入社し、小坂鉱山の電気技師として秋田に赴任した。ここで、久原房之助と竹内維彦との出会いがあった。
当時の鉱山は殖産興業のトップランナーであり、小坂、足尾、
別子といった銅山は輸出の花形でもあった。鉱山では動力が欠かせない。明治19年に東京・京橋にアーク灯がともり零細な火力発電が始まった。明治25年に京都の蹴上で水力発電(80kw)が始まり
、3年後に日本初の路面電車が京都市街を走った。鉱山や工場は長く蒸気動力が主だったが、ようやく自前の発電所を作ろうという時代だった。
電動機
日鉱記念館に展示された日立製作所製の電動機
日鋼鉱念館には、創業時の久原本部、当時の鉱山機械、鉱石や製錬の歴史、現代の技術などが総合展示されている。
小坂鉱山での浪平の初仕事も発電所建設だった。発電所、水路、変電所などを設計・施工し、明治35年に止滝発電所が完成した。ところが、翌年、浪平は小坂鉱山を辞してしまう。発電所づくりに魅せられたゆえ
であった。おりしも、東京電灯が山梨県猿橋に本邦最大の1万5,000kwの駒橋発電所を計画していた。浪平は、まず経験を積むために広島水力電気に1年契約で就職し、新妻の也笑を伴って広島に移った。日露戦争が始まった年のことだった。
明治37年、
浪平は送電主任として念願の東京電灯に入社した。しかし、現実は発電機がドイツのジーメンス社、変圧器は米国のGE社、水車はスイスのエッシャウイス社製で、据付も外人技師の指導のもとで行わねばならなか
った。無理もなかった。日本では、明治28年に芝浦製作所が25馬力電動機を完成し、石川島造船所がそれに続いたものの、主要な事業はすべて外国製品で占められていたのである。
浪平は、大学時代の日記に「我国工場の幼稚なるに驚き・・
・我国の工業振るわざれば、之を振るわしむるは吾人の任務なり」と記しているが、痛切に外国の技術に頼らずに日本人の手で自主技術を開発したいと思った。
赤沢鉱山を買収した久原が「再び君の力を借りたい」といってきたのは、そんなおりだった。さらに運命的な出会いが明治39年7月に訪れた。甲府行きの列車に大学の同級生の渋沢元治(後の名古屋大学長)と偶然
乗り合わせたのである。二人は猿橋の大黒屋旅館で夜を徹して語り合った。浪平は、久原氏の誘いを受けて日立に行く決意を語った。渋沢は電力事業の重要性を説き「東京電灯にとどまれば、いずれ大きな仕事
ができる」と諫めた。しかし、浪平は自主技術の夢を熱く語り、最後は渋沢も思い通りやれと励ましたのだった。3カ月後、浪平は日立鉱山に赴任した。 >>441
屋形主催のグルチャあるのしってる?
そこにでてきてよ、ほんものなら 明治33年、大学を卒業すると藤田組に入社し、小坂鉱山の電気技師として秋田に赴任した。ここで、久原房之助と竹内維彦との出会いがあった。
当時の鉱山は殖産興業のトップランナーであり、小坂、足尾、
別子といった銅山は輸出の花形でもあった。鉱山では動力が欠かせない。明治19年に東京・京橋にアーク灯がともり零細な火力発電が始まった。明治25年に京都の蹴上で水力発電(80kw)が始まり
、3年後に日本初の路面電車が京都市街を走った。鉱山や工場は長く蒸気動力が主だったが、ようやく自前の発電所を作ろうという時代だった。
電動機
日鉱記念館に展示された日立製作所製の電動機
日鋼鉱念館には、創業時の久原本部、当時の鉱山機械、鉱石や製錬の歴史、現代の技術などが総合展示されている。
小坂鉱山での浪平の初仕事も発電所建設だった。発電所、水路、変電所などを設計・施工し、明治35年に止滝発電所が完成した。ところが、翌年、浪平は小坂鉱山を辞してしまう。発電所づくりに魅せられたゆえ
であった。おりしも、東京電灯が山梨県猿橋に本邦最大の1万5,000kwの駒橋発電所を計画していた。浪平は、まず経験を積むために広島水力電気に1年契約で就職し、新妻の也笑を伴って広島に移った。日露戦争が始まった年のことだった。
明治37年、
浪平は送電主任として念願の東京電灯に入社した。しかし、現実は発電機がドイツのジーメンス社、変圧器は米国のGE社、水車はスイスのエッシャウイス社製で、据付も外人技師の指導のもとで行わねばならなか
った。無理もなかった。日本では、明治28年に芝浦製作所が25馬力電動機を完成し、石川島造船所がそれに続いたものの、主要な事業はすべて外国製品で占められていたのである。
浪平は、大学時代の日記に「我国工場の幼稚なるに驚き・・
・我国の工業振るわざれば、之を振るわしむるは吾人の任務なり」と記しているが、痛切に外国の技術に頼らずに日本人の手で自主技術を開発したいと思った。
赤沢鉱山を買収した久原が「再び君の力を借りたい」といってきたのは、そんなおりだった。さらに運命的な出会いが明治39年7月に訪れた。甲府行きの列車に大学の同級生の渋沢元治(後の名古屋大学長)と偶然
乗り合わせたのである。二人は猿橋の大黒屋旅館で夜を徹して語り合った。浪平は、久原氏の誘いを受けて日立に行く決意を語った。渋沢は電力事業の重要性を説き「東京電灯にとどまれば、いずれ大きな仕事
ができる」と諫めた。しかし、浪平は自主技術の夢を熱く語り、最後は渋沢も思い通りやれと励ましたのだった。3カ月後、浪平は日立鉱山に赴任した。 明治33年、大学を卒業すると藤田組に入社し、小坂鉱山の電気技師として秋田に赴任した。ここで、久原房之助と竹内維彦との出会いがあった。
当時の鉱山は殖産興業のトップランナーであり、小坂、足尾、
別子といった銅山は輸出の花形でもあった。鉱山では動力が欠かせない。明治19年に東京・京橋にアーク灯がともり零細な火力発電が始まった。明治25年に京都の蹴上で水力発電(80kw)が始まり
、3年後に日本初の路面電車が京都市街を走った。鉱山や工場は長く蒸気動力が主だったが、ようやく自前の発電所を作ろうという時代だった。
電動機
日鉱記念館に展示された日立製作所製の電動機
日鋼鉱念館には、創業時の久原本部、当時の鉱山機械、鉱石や製錬の歴史、現代の技術などが総合展示されている。
小坂鉱山での浪平の初仕事も発電所建設だった。発電所、水路、変電所などを設計・施工し、明治35年に止滝発電所が完成した。ところが、翌年、浪平は小坂鉱山を辞してしまう。発電所づくりに魅せられたゆえ
であった。おりしも、東京電灯が山梨県猿橋に本邦最大の1万5,000kwの駒橋発電所を計画していた。浪平は、まず経験を積むために広島水力電気に1年契約で就職し、新妻の也笑を伴って広島に移った。日露戦争が始まった年のことだった。
明治37年、
浪平は送電主任として念願の東京電灯に入社した。しかし、現実は発電機がドイツのジーメンス社、変圧器は米国のGE社、水車はスイスのエッシャウイス社製で、据付も外人技師の指導のもとで行わねばならなか
った。無理もなかった。日本では、明治28年に芝浦製作所が25馬力電動機を完成し、石川島造船所がそれに続いたものの、主要な事業はすべて外国製品で占められていたのである。
浪平は、大学時代の日記に「我国工場の幼稚なるに驚き・・
・我国の工業振るわざれば、之を振るわしむるは吾人の任務なり」と記しているが、痛切に外国の技術に頼らずに日本人の手で自主技術を開発したいと思った。
赤沢鉱山を買収した久原が「再び君の力を借りたい」といってきたのは、そんなおりだった。さらに運命的な出会いが明治39年7月に訪れた。甲府行きの列車に大学の同級生の渋沢元治(後の名古屋大学長)と偶然
乗り合わせたのである。二人は猿橋の大黒屋旅館で夜を徹して語り合った。浪平は、久原氏の誘いを受けて日立に行く決意を語った。渋沢は電力事業の重要性を説き「東京電灯にとどまれば、いずれ大きな仕事
ができる」と諫めた。しかし、浪平は自主技術の夢を熱く語り、最後は渋沢も思い通りやれと励ましたのだった。3カ月後、浪平は日立鉱山に赴任した。は 明治33年、大学を卒業すると藤田組に入社し、小坂鉱山の電気技師として秋田に赴任した。ここで、久原房之助と竹内維彦との出会いがあった。
当時の鉱山は殖産興業のトップランナーであり、小坂、足尾、
別子といった銅山は輸出の花形でもあった。鉱山では動力が欠かせない。明治19年に東京・京橋にアーク灯がともり零細な火力発電が始まった。明治25年に京都の蹴上で水力発電(80kw)が始まり
、3年後に日本初の路面電車が京都市街を走った。鉱山や工場は長く蒸気動力が主だったが、ようやく自前の発電所を作ろうという時代だった。
電動機
日鉱記念館に展示された日立製作所製の電動機
日鋼鉱念館には、創業時の久原本部、当時の鉱山機械、鉱石や製錬の歴史、現代の技術などが総合展示されている。
小坂鉱山での浪平の初仕事も発電所建設だった。発電所、水路、変電所などを設計・施工し、明治35年に止滝発電所が完成した。ところが、翌年、浪平は小坂鉱山を辞してしまう。発電所づくりに魅せられたゆえ
であった。おりしも、東京電灯が山梨県猿橋に本邦最大の1万5,000kwの駒橋発電所を計画していた。浪平は、まず経験を積むために広島水力電気に1年契約で就職し、新妻の也笑を伴って広島に移った。日露戦争が始まった年のことだった。
明治37年、
浪平は送電主任として念願の東京電灯に入社した。しかし、現実は発電機がドイツのジーメンス社、変圧器は米国のGE社、水車はスイスのエッシャウイス社製で、据付も外人技師の指導のもとで行わねばならなか
った。無理もなかった。日本では、明治28年に芝浦製作所が25馬力電動機を完成し、石川島造船所がそれに続いたものの、主要な事業はすべて外国製品で占められていたのである。
浪平は、大学時代の日記に「我国工場の幼稚なるに驚き・・
・我国の工業振るわざれば、之を振るわしむるは吾人の任務なり」と記しているが、痛切に外国の技術に頼らずに日本人の手で自主技術を開発したいと思った。
赤沢鉱山を買収した久原が「再び君の力を借りたい」といってきたのは、そんなおりだった。さらに運命的な出会いが明治39年7月に訪れた。甲府行きの列車に大学の同級生の渋沢元治(後の名古屋大学長)と偶然
乗り合わせたのである。二人は猿橋の大黒屋旅館で夜を徹して語り合った。浪平は、久原氏の誘いを受けて日立に行く決意を語った。渋沢は電力事業の重要性を説き「東京電灯にとどまれば、いずれ大きな仕事
ができる」と諫めた。しかし、浪平は自主技術の夢を熱く語り、最後は渋沢も思い通りやれと励ましたのだった。3カ月後、浪平は日立鉱山に赴任した。 明治33年、大学を卒業すると藤田組に入社し、小坂鉱山の電気技師として秋田に赴任した。ここで、久原房之助と竹内維彦との出会いがあった。
当時の鉱山は殖産興業のトップランナーであり、小坂、足尾、
別子といった銅山は輸出の花形でもあった。鉱山では動力が欠かせない。明治19年に東京・京橋にアーク灯がともり零細な火力発電が始まった。明治25年に京都の蹴上で水力発電(80kw)が始まり
、3年後に日本初の路面電車が京都市街を走った。鉱山や工場は長く蒸気動力が主だったが、ようやく自前の発電所を作ろうという時代だった。
電動機
日鉱記念館に展示された日立製作所製の電動機
日鋼鉱念館には、創業時の久原本部、当時の鉱山機械、鉱石や製錬の歴史、現代の技術などが総合展示されている。
小坂鉱山での浪平の初仕事も発電所建設だった。発電所、水路、変電所などを設計・施工し、明治35年に止滝発電所が完成した。ところが、翌年、浪平は小坂鉱山を辞してしまう。発電所づくりに魅せられたゆえ
であった。おりしも、東京電灯が山梨県猿橋に本邦最大の1万5,000kwの駒橋発電所を計画していた。浪平は、まず経験を積むために広島水力電気に1年契約で就職し、新妻の也笑を伴って広島に移った。日露戦争が始まった年のことだった。
明治37年、
浪平は送電主任として念願の東京電灯に入社した。しかし、現実は発電機がドイツのジーメンス社、変圧器は米国のGE社、水車はスイスのエッシャウイス社製で、据付も外人技師の指導のもとで行わねばならなか
った。無理もなかった。日本では、明治28年に芝浦製作所が25馬力電動機を完成し、石川島造船所がそれに続いたものの、主要な事業はすべて外国製品で占められていたのである。
浪平は、大学時代の日記に「我国工場の幼稚なるに驚き・・
・我国の工業振るわざれば、之を振るわしむるは吾人の任務なり」と記しているが、痛切に外国の技術に頼らずに日本人の手で自主技術を開発したいと思った。
赤沢鉱山を買収した久原が「再び君の力を借りたい」といってきたのは、そんなおりだった。さらに運命的な出会いが明治39年7月に訪れた。甲府行きの列車に大学の同級生の渋沢元治(後の名古屋大学長)と偶然
乗り合わせたのである。二人は猿橋の大黒屋旅館で夜を徹して語り合った。浪平は、久原氏の誘いを受けて日立に行く決意を語った。渋沢は電力事業の重要性を説き「東京電灯にとどまれば、いずれ大きな仕事
ができる」と諫めた。しかし、浪平は自主技術の夢を熱く語り、最後は渋沢も思い通りやれと励ましたのだった。3カ月後、浪平は日立鉱山に赴任した。 明治33年、大学を卒業すると藤田組に入社し、小坂鉱山の電気技師として秋田に赴任した。ここで、久原房之助と竹内維彦との出会いがあった。
当時の鉱山は殖産興業のトップランナーであり、小坂、足尾、
別子といった銅山は輸出の花形でもあった。鉱山では動力が欠かせない。明治19年に東京・京橋にアーク灯がともり零細な火力発電が始まった。明治25年に京都の蹴上で水力発電(80kw)が始まり
、3年後に日本初の路面電車が京都市街を走った。鉱山や工場は長く蒸気動力が主だったが、ようやく自前の発電所を作ろうという時代だった。
電動機
日鉱記念館に展示された日立製作所製の電動機
日鋼鉱念館には、創業時の久原本部、当時の鉱山機械、鉱石や製錬の歴史、現代の技術などが総合展示されている。
小坂鉱山での浪平の初仕事も発電所建設だった。発電所、水路、変電所などを設計・施工し、明治35年に止滝発電所が完成した。ところが、翌年、浪平は小坂鉱山を辞してしまう。発電所づくりに魅せられたゆえ
であった。おりしも、東京電灯が山梨県猿橋に本邦最大の1万5,000kwの駒橋発電所を計画していた。浪平は、まず経験を積むために広島水力電気に1年契約で就職し、新妻の也笑を伴って広島に移った。日露戦争が始まった年のことだった。
明治37年、
浪平は送電主任として念願の東京電灯に入社した。しかし、現実は発電機がドイツのジーメンス社、変圧器は米国のGE社、水車はスイスのエッシャウイス社製で、据付も外人技師の指導のもとで行わねばならなか
った。無理もなかった。日本では、明治28年に芝浦製作所が25馬力電動機を完成し、石川島造船所がそれに続いたものの、主要な事業はすべて外国製品で占められていたのである。
浪平は、大学時代の日記に「我国工場の幼稚なるに驚き・・
・我国の工業振るわざれば、之を振るわしむるは吾人の任務なり」と記しているが、痛切に外国の技術に頼らずに日本人の手で自主技術を開発したいと思った。
赤沢鉱山を買収した久原が「再び君の力を借りたい」といってきたのは、そんなおりだった。さらに運命的な出会いが明治39年7月に訪れた。甲府行きの列車に大学の同級生の渋沢元治(後の名古屋大学長)と偶然
乗り合わせたのである。二人は猿橋の大黒屋旅館で夜を徹して語り合った。浪平は、久原氏の誘いを受けて日立に行く決意を語った。渋沢は電力事業の重要性を説き「東京電灯にとどまれば、いずれ大きな仕事
ができる」と諫めた。しかし、浪平は自主技術の夢を熱く語り、最後は渋沢も思い通りやれと励ましたのだった。3カ月後、浪平は日立鉱山に赴任した。 明治33年、大学を卒業すると藤田組に入社し、小坂鉱山の電気技師として秋田に赴任した。ここで、久原房之助と竹内維彦との出会いがあった。
当時の鉱山は殖産興業のトップランナーであり、小坂、足尾、
別子といった銅山は輸出の花形でもあった。鉱山では動力が欠かせない。明治19年に東京・京橋にアーク灯がともり零細な火力発電が始まった。明治25年に京都の蹴上で水力発電(80kw)が始まり
、3年後に日本初の路面電車が京都市街を走った。鉱山や工場は長く蒸気動力が主だったが、ようやく自前の発電所を作ろうという時代だった。
電動機
日鉱記念館に展示された日立製作所製の電動機
日鋼鉱念館には、創業時の久原本部、当時の鉱山機械、鉱石や製錬の歴史、現代の技術などが総合展示されている。
小坂鉱山での浪平の初仕事も発電所建設だった。発電所、水路、変電所などを設計・施工し、明治35年に止滝発電所が完成した。ところが、翌年、浪平は小坂鉱山を辞してしまう。発電所づくりに魅せられたゆえ
であった。おりしも、東京電灯が山梨県猿橋に本邦最大の1万5,000kwの駒橋発電所を計画していた。浪平は、まず経験を積むために広島水力電気に1年契約で就職し、新妻の也笑を伴って広島に移った。日露戦争が始まった年のことだった。
明治37年、
浪平は送電主任として念願の東京電灯に入社した。しかし、現実は発電機がドイツのジーメンス社、変圧器は米国のGE社、水車はスイスのエッシャウイス社製で、据付も外人技師の指導のもとで行わねばならなか
った。無理もなかった。日本では、明治28年に芝浦製作所が25馬力電動機を完成し、石川島造船所がそれに続いたものの、主要な事業はすべて外国製品で占められていたのである。
浪平は、大学時代の日記に「我国工場の幼稚なるに驚き・・
・我国の工業振るわざれば、之を振るわしむるは吾人の任務なり」と記しているが、痛切に外国の技術に頼らずに日本人の手で自主技術を開発したいと思った。
赤沢鉱山を買収した久原が「再び君の力を借りたい」といってきたのは、そんなおりだった。さらに運命的な出会いが明治39年7月に訪れた。甲府行きの列車に大学の同級生の渋沢元治(後の名古屋大学長)と偶然
乗り合わせたのである。二人は猿橋の大黒屋旅館で夜を徹して語り合った。浪平は、久原氏の誘いを受けて日立に行く決意を語った。渋沢は電力事業の重要性を説き「東京電灯にとどまれば、いずれ大きな仕事
ができる」と諫めた。しかし、浪平は自主技術の夢を熱く語り、最後は渋沢も思い通りやれと励ましたのだった。3カ月後、浪平は日立鉱山に赴任した。 明治33年、大学を卒業すると藤田組に入社し、小坂鉱山の電気技師として秋田に赴任した。ここで、久原房之助と竹内維彦との出会いがあった。
当時の鉱山は殖産興業のトップランナーであり、小坂、足尾、
別子といった銅山は輸出の花形でもあった。鉱山では動力が欠かせない。明治19年に東京・京橋にアーク灯がともり零細な火力発電が始まった。明治25年に京都の蹴上で水力発電(80kw)が始まり
、3年後に日本初の路面電車が京都市街を走った。鉱山や工場は長く蒸気動力が主だったが、ようやく自前の発電所を作ろうという時代だった。
電動機
日鉱記念館に展示された日立製作所製の電動機
日鋼鉱念館には、創業時の久原本部、当時の鉱山機械、鉱石や製錬の歴史、現代の技術などが総合展示されている。
小坂鉱山での浪平の初仕事も発電所建設だった。発電所、水路、変電所などを設計・施工し、明治35年に止滝発電所が完成した。ところが、翌年、浪平は小坂鉱山を辞してしまう。発電所づくりに魅せられたゆえ
であった。おりしも、東京電灯が山梨県猿橋に本邦最大の1万5,000kwの駒橋発電所を計画していた。浪平は、まず経験を積むために広島水力電気に1年契約で就職し、新妻の也笑を伴って広島に移った。日露戦争が始まった年のことだった。
明治37年、
浪平は送電主任として念願の東京電灯に入社した。しかし、現実は発電機がドイツのジーメンス社、変圧器は米国のGE社、水車はスイスのエッシャウイス社製で、据付も外人技師の指導のもとで行わねばならなか
った。無理もなかった。日本では、明治28年に芝浦製作所が25馬力電動機を完成し、石川島造船所がそれに続いたものの、主要な事業はすべて外国製品で占められていたのである。
浪平は、大学時代の日記に「我国工場の幼稚なるに驚き・・
・我国の工業振るわざれば、之を振るわしむるは吾人の任務なり」と記しているが、痛切に外国の技術に頼らずに日本人の手で自主技術を開発したいと思った。
赤沢鉱山を買収した久原が「再び君の力を借りたい」といってきたのは、そんなおりだった。さらに運命的な出会いが明治39年7月に訪れた。甲府行きの列車に大学の同級生の渋沢元治(後の名古屋大学長)と偶然
乗り合わせたのである。二人は猿橋の大黒屋旅館で夜を徹して語り合った。浪平は、久原氏の誘いを受けて日立に行く決意を語った。渋沢は電力事業の重要性を説き「東京電灯にとどまれば、いずれ大きな仕事
ができる」と諫めた。しかし、浪平は自主技術の夢を熱く語り、最後は渋沢も思い通りやれと励ましたのだった。3カ月後、浪平は日立鉱山に赴任した。さ 明治33年、大学を卒業すると藤田組に入社し、小坂鉱山の電気技師として秋田に赴任した。ここで、久原房之助と竹内維彦との出会いがあった。
当時の鉱山は殖産興業のトップランナーであり、小坂、足尾、
別子といった銅山は輸出の花形でもあった。鉱山では動力が欠かせない。明治19年に東京・京橋にアーク灯がともり零細な火力発電が始まった。明治25年に京都の蹴上で水力発電(80kw)が始まり
、3年後に日本初の路面電車が京都市街を走った。鉱山や工場は長く蒸気動力が主だったが、ようやく自前の発電所を作ろうという時代だった。
電動機
日鉱記念館に展示された日立製作所製の電動機
日鋼鉱念館には、創業時の久原本部、当時の鉱山機械、鉱石や製錬の歴史、現代の技術などが総合展示されている。
小坂鉱山での浪平の初仕事も発電所建設だった。発電所、水路、変電所などを設計・施工し、明治35年に止滝発電所が完成した。ところが、翌年、浪平は小坂鉱山を辞してしまう。発電所づくりに魅せられたゆえ
であった。おりしも、東京電灯が山梨県猿橋に本邦最大の1万5,000kwの駒橋発電所を計画していた。浪平は、まず経験を積むために広島水力電気に1年契約で就職し、新妻の也笑を伴って広島に移った。日露戦争が始まった年のことだった。
明治37年、
浪平は送電主任として念願の東京電灯に入社した。しかし、現実は発電機がドイツのジーメンス社、変圧器は米国のGE社、水車はスイスのエッシャウイス社製で、据付も外人技師の指導のもとで行わねばならなか
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浪平は、大学時代の日記に「我国工場の幼稚なるに驚き・・
・我国の工業振るわざれば、之を振るわしむるは吾人の任務なり」と記しているが、痛切に外国の技術に頼らずに日本人の手で自主技術を開発したいと思った。
赤沢鉱山を買収した久原が「再び君の力を借りたい」といってきたのは、そんなおりだった。さらに運命的な出会いが明治39年7月に訪れた。甲府行きの列車に大学の同級生の渋沢元治(後の名古屋大学長)と偶然
乗り合わせたのである。二人は猿橋の大黒屋旅館で夜を徹して語り合った。浪平は、久原氏の誘いを受けて日立に行く決意を語った。渋沢は電力事業の重要性を説き「東京電灯にとどまれば、いずれ大きな仕事
ができる」と諫めた。しかし、浪平は自主技術の夢を熱く語り、最後は渋沢も思い通りやれと励ましたのだった。3カ月後、浪平は日立鉱山に赴任した。さ 屋形のコテが現れたらすぐに出てきたきゅうりの気色の悪さ
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