流星ひとつ☆藤圭子
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オリコン歴代記録保持者、いまだに破られていない
アルバム37週連続1位(新宿の女・女のブルース)
(アルバム42週連続1位、上記に加えて、前川清との全曲集コラボ)
シングル18週連続1位(女のブルース・圭子の夢は夜ひらく) オリコンシングル売り上げ
69/9/25 新宿の女 9位 37.4万枚
70/2/25 女のブルース 1位 74.8万枚
70/4/25 圭子の夢は夜ひらく 1位 76.5万枚
70/7/25 命預けます 3位 46.8万枚 70/10/25 女は恋に生きてゆく 7位 23.3万枚
71/2/5 さいはての女 8位 16.0万枚
71/5/5 恋仁義 21位 8.1万枚 71/6/5 みちのく小唄 23位 11.1万枚
71/7/5 愛の巡礼 44位 5.0万枚
71/10/25 知らない町で 46位 3.2万枚
72/1/25 京都から博多まで 20位 13.8万枚
72/5/25 別れの旅 14位 19.6万枚 72/9/25 花は流れて 19位 8.2万枚
72/12/5 悲しみの町 59位 2.9万枚
73/3/25 今日から私は 21位 12.9万枚
73/8/25 遍歴 50位 3.6万枚
73/11/5 恋の雪割草 41位 5.3万枚
74/4/5 私は京都へ帰ります 95位 0.5万枚 74/8/25 命火 34位 6.9万枚
75/4/25 生きているだけの女 73位 2.1万枚
75/11/5 はしご酒 43位 11.1万枚
76/4/25 女だから 99位 0.4万枚
76/8/25 聞いて下さい私の人生 70位 4.5万枚
77/2/5 哀愁酒場 77位 1.6万枚 77/6/25 貴方ひとすじ 97位 0.2万枚
77/11/5 面影平野 78位 1.8万枚
87/2/25 新宿挽歌 89位 0.8万枚
以上 母方の竹山家の両親は、富山県黒部市宇奈月(うなづき)町出身
1970年12月に圭子自身が書いた「新評」の「私の18年<涙の記録>」によると
「旭川は母の生まれた土地です」「旭川には実家はないが、母の知り合いがいた」と
母方の両親は宇奈月で大規模な事業を営んでいたようであるが
明治期に倒産、北海道に移住し、11人の子供は全員、北海道で生まれたが
成人したのは6人、竹山幸子いわく「姉も私も旭川から北北西30キロの
朱鞠内(しゅまりない)で生まれる、戦争中の昭和16年に旭川に移って
そこの尋常小学校に入学、戦後すぐススキノに移住
竹山家は札幌のススキノに大きな家を借りて、兄弟姉妹が共同生活
兄嫁が浪曲の講師から浪曲や民謡や三味線を習っていて
幸子と澄子(圭子、本名純子の母)も弟子入りして、旅回りするようになり
そのとき阿部壮(つよし)(純子の父)と出会った、四番目の兄が目が不自由で
マッサージ師やほかに巡演の手配もしていた
阿部純子は、岩手県一関市の磐井(いわい)病院で生まれ、そこに生家もある
ハローページを見ても一関市の阿部姓は850人もいる
阿部壮の父は阿部壮志治(そうしじ)という、阿部壮志治一家の墓には
長男であるにも拘わらず、親の反対を押し切って浪曲家になったことで
壮の遺骨は納められていない、名前もない、墓には壮の弟、日出男(85才没)
その長男、七三男も亡くなって納骨されている
実家にはその奥さんと長男が住んでいた、宗志治は牛の繁殖も手掛ける酪農家だった
壮は澄子と73年に離婚後、花巻の女性と再婚し、そこに墓があるという あの時代なら京都から博多まで「まつかぜ」で行きたいもんですな。 昭和20年代の芸能人所得番付のベストテンの半分以上が浪曲師だった
ラジオでも浪曲が一番多かった(邦楽堂和楽器店ブログ)
昭和30年代になると、見切りをつけた浪曲師(三波春夫など)や
民謡(三橋美智など)が続々と歌謡界へと転身していった
父・阿部壮は松平国二郎と言い、浪曲四天王の松平国十郎の弟子だった
しかし、昭和26年に純子が生まれて、岩手県一関から、まもなく北海道へ渡った
それは破門されて本州では松平を名乗ることが出来なかったからに他ならない
破門の理由は博打の借金
家族を塗炭の苦しみに追いやっても、廃れた浪曲にしがみつき
プライドだけは捨てきれず、戦争で頭に受けた銃弾の破片が残っていて
いつも頭痛がするということを理由に働かない
母澄子より純子の方が背が低い、これは戦後の栄養状態の改善からすれば
一般的には考えられないこと
いかに自分たちの子供の頃より、純子たちの子供の頃の方が貧しかったか
ろくに育ち盛りに栄養のあるものを食べさせていなかったかの証明
あと一年東京に出て来るのが遅かったら
一家は生きていなかったかもと、圭子は述懐する 遠足などの費用のかかる学校行事はすべて欠席、服装は一年中穴の開いた同じものを着て来る
靴もゴムの底がカッパカッパと音を立てて取れそうだった、寒い日は走って帰る
保護者たちに古着を持ち寄ってもらい、それをあの子の家に届けたこともあったと
小4の担任の先生は言う
小3の冬休み、稚内まで、ひざまで雪に埋もれて黙々と12キロの道を歩いた、しかし
小屋主はその非の出演料を払ってくれなかった
「もう死にてえ・・・」父は言った
旭川の−40度の橋の下で野宿をしていたのを地元の老人は知っている
この話は、テレビで圭子一家を知っている近所の人や、小学校時代の恩師が出てきて証言している
旭川の橋の下の部落から(サムライ部落、本州のいわゆる被差別部落ではなく、
旭川の最貧困生活者の集まり)次に住んだのが、旭町の風呂屋の二階
そこには畳のない部屋だった、次が神居
旭町も神居も旭川市内、旭町は中心街の北側、巾300m、長さ3キロ
神居は中心街の西側にある、圭子が住んでいたと思われる
旭町2条3丁目から神居中まで4.5キロ 定着者の農民と芸能娯楽で金を稼ぐ流民、圭子の子供の頃、農家で花(金銭)をもらう
このような日本民族文化の原点を体験したのは、圭子が最後であろう
竹山澄子は「万歳」や「祝福芸」といったハレの演目(正式な出演者として歓迎される)
ではない旅回りの芸人であった、より貧しさが強調されるドサ周りだった
上京するまで白米食べたことがない、肉やエビ食べたことないというのは
2006年のテレ朝インタビューで圭子自身が語っている
親と流しをしていたとき、旅館の中居さんが余った料理をこっそりくれて
そこで銀紙がついた食べ物がなんだか分からなかった
それがチキンだと知らなかった
上京してしばらくは日暮里のガード下で路上生活をしていた
そのことは海老名香葉子も知っている
学校時代はオール5、たまに体育と家庭科が4に落ちる
テストはいつも学年で10番以内、学級副委員長(委員長は男子のみ)をずっとする
楽しかったのは中二の夏休みに、学校の友達40人ぐらいで登山に行ったこと
このとき初恋の人、鈴木和弘くんも一緒だったからなおさらね(平凡・明星より)
阿部純子(藤圭子の子供の頃の本名)は勉強が好きで、特に英語が
英語弁論大会にも出た、普通の弁論大会も校内一位、札幌の大会にも出た
神居中学卒業時の寄せ書きに「友よ!一人一人が私の宝」と書く 阿部純子を旭川雪まつり大会で歌ってたのを見てスカウトした作曲家八州秀章と
「中卒ですが、作詞家になるにはどうしたら良いでしょうか」と手紙を出して
「独学であっても道は開けます」と返事をし、澤ノ井龍二の背中を押した作詞家横井弘
彼らは「あざみの歌」の作詞・作曲者だった
いわば藤圭子と石坂まさをを結びつけたのが「あざみの歌」だった
「山には山の愁いあり/海には海の悲しみや/まして心の花園に/咲しあざみの花ならば」
この歌詞は横井が理想の女性像を歌ったものだと言われているが、父の恩は山より高く
母の愛は海より深いと言うように、山は父の象徴であり、海は母の象徴でもある
だから父母という崇高な存在でさえ、愁いや悲しみがある、まして自分の罪悪感は
お前に対しては、茨とあざみを生え出させる/野の草を食べようとするお前に」(創世記3-18)
アダムの罪によって、あざみは茨と共に世界が呪いの元に置かれた象徴
またキリストの茨の冠により流された血は、私たちの身代わりに世界の呪いを受けられたことを示す
「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」(ヘブライ人の手紙9-22)
山上の垂訓に出て来る野の花はあざみを指していると言われる(荒井献「問いかけるイエス」p110)
またマリアあざみの伝説として、キリストを抱いて乳を飲まして歩いていたマリアが
道端のあざみを踏みつけそうになり、よろけて体が曲がったとき、あざみの上に
乳がしたたり落ちて、葉に白い斑点が出たという 一方、デビューの前、石坂は圭子を連れて、星野哲郎のところへデビュー曲の作詞を依頼しに行く
その際、圭子は星野作詞の歌を数曲歌ったが、最初に歌ったのが、青山ミチの「叱らないで」だった
「十字架のそばへ/あの子の手をひいて/叱らないで/叱らないで/マリアさま」という詞だった
結局、石坂が作詞作曲することになったデビュー曲だが、「新宿の女」の冒頭
「私が男に」のメロディー「ドレミソ ドレミソ」はこの「叱らないで」の冒頭の
「あの子がこんなに」のメロディー「ソミレド ソミレド」を反転させたもの
(大下栄治著『心歌百八つ』p195)
そしてアルバム「新宿の女」のジャケット写真にはロザリオを手に提げている
「生きているだけの女」のジャケットにも十字架のネックレスがある
事故などで死んだとき、残された関係者は、死を無駄にしないように
二度とこういうことが起きないようにと誓う
これは死が無駄死にではなく、死に意義を与えようと
つまり死は贖いの死として意味付けようとすること 母親と石坂は何を考えたか、娘同席で山口組武闘派の親分と東京近郊のホテルで密会した
この四人の食事は一部のマスコミが小さく写真報道したが、その続報はなかった
数百億持つといわれる親分と人知れず会う、恐ろしい話だ(渡辺正次郎の話)
S44年に意味あり、43年はべ平連の押せ押せ戦後派若者パワーで
44年に情勢が傾き、挫折、「アカシアの雨」より沈み込み
漂泊や挫折をすくい上げていく歌心を17、8才で具えていた圭子のルサンチマンや
時代の慰撫を担う点で、単なる流行歌の域をはるかに超えていた
過大な期待を気丈に背負い、社会のネガティブな感情全般を負い
時代の傷を慰撫するやるせなさと寂しさの体現者
いつ明けるとも知れない夜の暗さを歌心に託して放ち
我々はそれを、つくづく貪るように聴いていた
彼女はパワーの強い歌を歌い続けることで、自分にもたらされた
虐げられた薄幸の女が憑依してしまうのを避けられない
聡明であったにせよ、まだ本当の意味で世間を知らず
芸能界という、まがまがしい仕組みに
急激にもまれていった十代の女が頭では分かってても 700人以上の逮捕者を出した新宿騒乱事件以来、体制権力側が
モノや現象やサブカルチャーを犯罪の温床に見立て
統治側はそこを隈なく見渡せるように、どんどん平明化
可視化をブリーチみたいに推進して行った時代
そんな危うい地点で圭子は、古い型の歌手として
滅び行く芸人の立ち位置から己を発揮していた
当時、文化人による圭子への評論やインタビューが多かった
五木寛之、相倉久人、松田政男、阿久悠、平岡正明、佐久間俊
西井一夫、野沢あぐむ、鈴木清純,開高健、酒井政利、筒井康隆
三島由紀夫、楳図かずお、川端康成、村上春樹、中山千夏、大竹昭子、酒井隆史 北海道で泥水をすするような辛酸をなめた少女が
時代の寵児として開花するのに必要なアングルやスペックは
やはり60年代末デビューという、同時代とのシンクロなしには語れない
時代が終わってしまうと、祖母ー母ー娘の三代にわたる圭子的存在は
義経をかくまった頃の奥州藤原のように一本の柱の意味にだけなっていく
圭子は曲への依存的関係ではなく、存在そのものが日本人の精神史に残った 圭子の最大の特徴はハスキーな声、といってもカスレ声ではない
そういう歌手は多い、違いは二音を持っていること
彼女いわく「声を一旦のどに当てて出す」のである
当てないで出す方の声は、たとえカスレ声でも常に世の中の声である
一方、のどに当てた声は、譬えて言えば、神がかりした
巫女の押し殺した声に通じている
この声は幼児期に大きな声で鳴いていた少女のもの
音質の異なる「和声」である
「倍賞千恵子さんのような声で歌う、そんな気持ちを持ったことはありません」 『流星ひとつ』を読むと、阿部純子さんは、もともと頭脳明晰で
たくましい精神力と、ゆるぎない自己肯定観を持っていた
だから、あの生い立ちでも鈍感なほど平気ですごせた
大事を成すことになる子に必要なことだけが見えていて
些細なことは何も気にせずに
真っすぐに「藤圭子」への道を歩んで行くことになった
あの頃は現在のように小中学生の女子が、自分の見た目を
商品のように査定したり自覚したりしてはいない
育ちが良くて、きれいな服を着て、優雅な所作を具えている子がモテ
そうでない女子は非モテに回るから、造形的な美貌には気づかないと
東京に来てからは芸能界の奈落で切磋琢磨しながら
田舎者の自分より、洗練された美しいスター候補生を
あまた見て、自分はそこまで美人ではないと自己評価していた 当時の新宿で流しをするということは、地回りのやくざの中に放り込まれて
稼ぎの四割をショバ代として取られる 圭子の詞を読む力は早熟すぎるほどしっかりあった
その曲の持つ情感を歌い上げる純潔の心の余地がいつも開かれていた
石坂は圭子デビュー後、マスコミ取材に一度も同伴していない
それは阿部純子は「藤圭子」を演ずることは出来ないからと
つまり石坂や工藤社長あるいは五木寛之は「藤圭子」の造形には関与しているが
プロデュースは純子自らが決然と(自然というべきか)行っていた
流し時代の処世術として、純子には「藤圭子はこうあるべき」を
瞬時に自分で判断できるプロ根性が備わっていた あの悲しい表情は虚像の芯にいつもあった本物の貧しさと不幸だった
同じ不幸の物語を背負った例えばこまどり姉妹などとは根本的に違う
藤圭子の歌は遥かに強く伸びやか、低い所から押し上げて来るような
不幸の沼からこぶしを突き上げるような強さがある
自らの声が飲んでいる剣の抜身の見せ方、隠し方の勘どころが
めっぽう上手く、リズムの微妙なズラシを通して
歌を歌ってしまうのではなく歌を心に語りかける
その抜群のリズム感を発揮しているように感じた
ふとした不安、摩耗、やるせなさや寂しさを表現するのに異常に長けていた
藤圭子の圧倒的な歌唱力は、外の世界を支配しているテンポから取り残されて
どうしようもなくはみ出してしまう機微や感性に天性のテイストを与えていた
ちあきなおみは女優の資質もあったから総合的に評価されユーモアもあったが
藤圭子は歌だけ、また女に仮想的に憑依した歌で一時代を築いた森進一とは好対照
母性本能をくすぐる森節に対して、圭子は本来の女一筋の道を強く潔く歌い切った
青江三奈や八代亜紀などとは怖い声で情念を歌うところは似ていたが
凄みのある歌唱の強さという点で藤圭子の鬼気迫る集中力には及ばない
これと同等の存在感を以て君臨するのは美空ひばり唯一人 <1970~72年の平凡・明星より>
兄の博いわく、マルベル堂にいったら、藤圭子のプロマイド、タイガース以来の売れ行きだったって
圭子は、前は一家の食事の用意を全て自分でやったほど
理想の男性は、やさしくて、気が長く、日本的な顔、堀の深いいわゆる二枚目は嫌い
別に信仰はしていませんが、神様はいると信じています
いつも神に感謝する心を持ち続けています
座右の銘、好きな言葉は「お互い様」です、いつも相手の立場になって考えたり
行動するようにしています
寝るのが怖い、怪獣が出て来たり、追っかけられる夢ばかり見る
レコーディング、新曲の譜面と歌詞が彼女に渡されるのが、吹込みの前日か当日
テスト一回ぐらいで、すぐ本番(「さいはての女」はこだわって三日かけた)
それであれだけ歌えるのだから、歌に対する感覚はすごいものがある [圭子の夢は夜ひらく」はシングルチャート10週連続1位
そのうち2週はチャートを再浮上した8週連続1位の「女のブルース」を従えての1・2位独占
更にデビューアルバムからの3作で、アルバムチャート42週
その内、18週はシングル・アルバム両チャートで1位
まるで1964年のアメリカのビートルズ旋風を思わせる凄まじさで
街角には彼女の歌が溢れていたという
この日本音楽史上、空前絶後の大記録は、今後破られることはないであろう
(アルバム3作目は前川清との共演ベストアルバムだが、圭子を聞くために買った人が殆どだろう) オリコン歴代
シングル連続1位
1位 18週 女のブルースと圭子の夢は夜ひらく
2位 17週 渚のシンドバッドとウォンテッド
3位 女のみち
アルバム連続1位
1位 37週(42)藤圭子
2位 18週 カーペンターズ
3位 16週 エルビスプレスリー
ちなみに通算1位 34週 氷の世界 井上陽水 1970年のレコード大賞は菅原洋一の「今日でお別れ」オリコン2位63.0万枚
圭子は大衆賞「命預けます」
なぜ、「圭子の夢は夜ひらく」ではないのか
それは先に第1回日本歌謡大賞を受賞しているから
本来、レコード大賞も夢夜がふさわしかったが
TBSと対立してTBS以外の全民放が連盟して作ったのが歌謡大賞だったので
TBSとしては意地でも同じレコードを大賞にするわけにはいかなかった
歌謡大賞の影響を受けたと思われたくなかった 普通なら大衆賞は「夢夜」を持ってくるだろう、最大のヒット作、代表作だから
それが「女のブルース」でもない「命預けます」になっているのは不思議だ
選考過程が非常に混乱していた証拠だ
夢夜は大衆賞に貶められる曲ではない、と選考委員に認識されていた
しかし歌謡大賞と同じ最高賞にはできなかった
かといって大衆賞にもできなかった
なら、外すしかない、賞そのものから
「もし夢夜で歌謡大賞を取らなかったらレコード大賞がもらえたかもしれないかな」
「そうかもしれないね、その頃は、その二つの賞が、すごいライバル意識を持っていて
歌謡大賞で夢夜が大賞とっちゃったんで、わざわざ夢夜を外したわけ」
(『流星ひとつ』P136) 「知りたくないの」は、なかにし礼が日本語訳を付けて、菅原洋一が1967年にヒット
公称80万枚(レコードマンスリーでは最高3位)オリコンは1968年10月から集計開始
それまではレコードマンスリーしかなかった
その後、菅原洋一は。オリコンによれば、68/1行かないで78位 2.3万枚 69/4 誰もいない 91位 0.2万枚
69/12 今日でお別れ 2位 63.0万枚 70/8 愛のフィナーレ 29位 12.7万枚
71/11 忘れな草をあなたに 37位 6.1万枚 74/12 愛の嵐 54位 4.7万枚 以上 それに対して、圭子は 新宿の女から、女は恋に生きてゆくまでベストテン以内にランクイン
このように売り上げでは菅原洋一は藤圭子には遠く及ばない、しかもアルバム三作
連続42週1位という歴代記録を作った
歌唱力も菅原洋一に引けをとらない、なのにレコード大賞は菅原洋一が受賞した
レコード大賞は新聞各社の評価が主体なのに対して
歌謡大賞はTBSを除いた民放各社が主体の評価
打倒レコード大賞を目指して発足したという、対立関係の中で
第2回は尾崎紀世彦が両方の大賞を受賞した
おそらく第1回の、意地を通して現実を曲げてしまった
圭子には悪いことをしたという反省があったのだろう
歌謡大賞の歴史は短かったが、レコード大賞のような
買収とか審査への疑惑とかはなかった
また大賞辞退、賞レースそのものに加わらない大物歌手が続々出てきて
すっかり権威失墜したレコード大賞でもあった 平尾昌晃は「圭子はひばりに次ぐ歌唱力の持ち主だった」と評している
音楽評論家の阿部寧(康)も才能を惜しむ一人だ
「最初に歌を聞いてまず驚くのが、並外れた歌唱力
加えて泥臭くなく、モダンな感じがあった
人間の心の中に持っているドロドロしたものをストレートに歌い上げる
作り物じゃない表現力があった」 1970年は圭子の年だった、しかし翌年には早くも新しい潮流が押し寄せヒットチャートの風景を一変させた
新御三家、新三人娘、シンガーソングライター勢が、それまでの歌謡曲というくくりで一括されていた
流行歌の中に、アイドル歌手、ニューミュージック(のちにJ-popと名前を変えて)というジャンルが確立し
そのまま歌謡曲の正統な後継者としての歌唱力第一の演歌との三つどもえの争いとして
今日に至っている(演歌は衰退しつつあるが)
そういう意味で圭子は、それまでの歌謡曲・国民歌手の最後の末裔であり
三分割された、今日のジャンルの源流だった 流行歌は時代を写す鏡であるという
1970年という年は、マッカーサーから続く、戦後民主主義の頂点といっていい
黒船が日本の近代化の第一波であるとしたら、マッカーサーは第二波であった
世論は「世界」や「朝日ジャーナル」の論客である進歩的知識人たちが支配していた
その左寄りの情勢が頂点を迎えたのが1970年だと言ってもいい
しかし60年安保の時と違って、学生はシラケていた、シラケながら造反有理を叫んだ
団交で吊し上げたのは大学教授たちだった
「モーツアルト聴きながら学問しやがって」「どうせ俺たちは下積みで終わりだ」
学生運動の挫折は1972年の連合赤軍事件によって明確に社会に印象付けられた
その後ソ連の崩壊などでマルクス主義の夢は霧と消え
敵のいなくなった資本主義は絶対化した
そういう現代史の流れの中で、圭子の存在は戦後の流行歌の頂点を形成してると言える 謡人結節(肥厚性声帯炎)という歌手独特の病気に罹る
声帯の根元の細胞が増殖し、ペンだこのようなもの
手術は声帯の一部を切るので、声質に影響
ポリープは大声や無理に高い声を出した時
血管が切れ、血豆のようなものが出来るもの
(1970〜72年の平凡、明星より) 川端康成、彼の好みの生い立ち、女性だった
「伊豆の踊子」大正時代の旅芸人の話
もはや滅びゆく日本人の形態として旅芸人の習俗を著した
それがあったからこそ、まさに生い立ちがそれと思わせる純子の存在は
川端には、自己の奥にある郷愁に感応して、会って見たいと思うようになった
何度か会っている、川端と対談している雑誌も残っている(週刊明星1971年)
肩を叩いている写真がある 運勢の強弱、いわゆる運がいい、ラッキーとは別
強運とは、あらゆることが強く現れる星の配置を生きるということで
易学的には不安定であることから
良いというより悪いこととして捉えられる場合が多い
圭子は出自が極貧、そして一世を風靡してスターになった
娘を計画的にスター歌手にするべく英才教育を施しその通りになった
そしてその成功を母として享受することで終わらず
自死したことで、めったにない強運の持ち主であったと捉えられる 中学元担任の話 数学が得意だった
数学が得意な女は男脳に近い
中2の時、学級副委員長(委員長は男子という決まりがあった)
神居中学時代成績は常に学年10位以内 >>3
1970第1回日本歌謡大賞
第12回日本レコード大賞 菅原洋一今日でお別れより遥かにうれてたのになぁ
1969前年度の日本レコード大賞
なんか森進一150万 最優秀歌唱賞
佐良直美33万枚大賞
おかしいよね 1972年ヤングセンス夏号より
藤圭子は性的には未熟で、セックスは初夜だけだったという記事については母は
「確かに純子は、性的なことはよく知らないので、結婚前に生理用のタンポンを
買ってきたのに使い方が分からず、返しに行ったこともありましたよ」
そして、本人も、「初夜だけなんてそんな・・・、一年間もひとつ屋根の下で
暮らして来たんですよ」否定するのも恥ずかし気にボソボソと答えた
またこの取材の最中、「純ちゃんは今では前川さんのことをどう思っているの」
と質問してみた。すると彼女は遠くを見つめるような目で
「前川さんって、歌は上手いし、背も高いし、ハンサムで
スーツもよく似合うし、いい男なんだなあ」とつぶやいた
そばにいたマネージャーが「そんなこと言ったらまずいよ」と慌てて止めたが
それは何とも奇妙な、狐につままれたような一瞬だった S45/9藤圭子ショー・パンフレットより
身長155p
(好きなもの)映画:チャンバラ映画、色:黒、ピンク、季節:秋、冬、特に北海道の秋
動物:猫、スポーツ:卓球、食べ物:フルーツ、トマト、サクランボ、スイカ
(嫌いなもの)夜汽車、お酒、短気な人
(理想の男性)やさしく気が長くて日本的な顔の男性、二枚目は嫌い
(性格)わがままでお天気屋そして短気、人見知りで、内弁慶、照れ屋で涙もろい
忠告をよく聞いて素直 中学同級生・吉崎真の話
Q、どんな性格?A、一言で言うとピュアな人、純粋な人、聡明で純真すぎる、
不思議な少女、レベルが違う、世界が違う、だから何も恐れない、言い訳しない
だから誤解される、圭子の性格は、絶対主張を曲げない、芯が強い、潔癖症
誇り高い、妥協しない、だからごまかしが効かない、世渡りがヘタ
汚辱に充ちた社会に適応できない、それに逆らい続けて来た人性だった
最も純粋、純真な東北人の魂を持った人
正義の人だから、誤解されたってかまわない、心がきれいで、
誰を見ても差別しない
Q、それで最近テレビで放映された彼女のビデオを見ると
一般の人からも理解され難いのではないですか
A、でも私に言わせれば、あの時と変わっていないな、テレビ見て
昔と変わっていない、周りが何と言おうと全く気にしない
あの人の口から出たことは一ミリの嘘がない
ピュアだから打算的なことは考えない、そういう計算ができない 体育以外はオール5、慕う友人多数
全員集合で跳び箱でダメ姿を披露する圭子は
体育が上手くできない子の代表としての役どころ
そこでは三枚目を務めていた
全員集合は、高視聴率番組だったが
石坂と大喧嘩しながらよく出ていた
エンディングでマイクを向けられた圭子が
「はぁー、ビバノンノン」とやるのを見るのは皆恥ずかしかった 〜YouTubeや市販のレコード、CD音源で
青江三奈と藤圭子の同曲カバーを比較〜
ひとり酒場で、人生劇場、
星の流れに、船頭小唄、明治一代女、黒い花びら、命かれても、赤坂の夜は更けて、別れの朝、
カスバの女、赤と黒のブルース、下町育ち、
あなたのブルース、君こそわが命、なみだの操、
うしろ姿、星の流れに、、、、、、、、
↑これらはいずれも青江三奈が上である。
何回聴いても、飽きさせない大した才能だ。また、
二度聴いてから、良さが分かるという作品もある。
80年代に少し、衰えた時期もあるけれども、
90年代から最晩年までの多くの映像で
青江は持ち直している。やはり上なのだ。
さてさて絶賛されている藤圭子が優れているのは
アカシアの雨がやむとき、うそ、
のニ曲であってな。
港町ブルースは編曲では藤が勝るが、歌声では
青江が格段に上。
藤圭子の池袋の夜、高校のブルース、長崎ブルース
たしかに
上手いけれども、青江三奈ほどの面白みはない。
藤圭子と青江三奈を比べると藤圭子の同曲カバーは
飽きるのが早いのだよ。
以上、青江三奈のほうが明らかに歌手としてのレベルが上ということが分かる。
ちなみに、同程度に評価できるカバー曲は
好きだった。 池袋の夜、恍惚のブルース、長崎ブルース↑
船頭小唄なんか聴くと、青江と藤の差が歴然だ。
藤圭子は曲の内容を忠実に再現しているに過ぎず、これという面白みも無い。青江三奈は自らの歌唱ですべて味付けして、しかもハマっている。
別れの朝も藤のほうが声が出ているが、聴いていて
退屈なのだ。青江のように引きこまれないのだ。 ちなみに、リマスターボイスに収録されている
京都から博多まで
は、青江節で素晴らしい。持ち歌さえ藤圭子は
青江三奈に、すっかり歌われてしまっている。
藤圭子verがいかにつまらないか分かるだろう。
これらの質と量を考慮すると
本当の意味で、カバーの上手い歌手は
青江三奈なのだ。
ちあきや藤は足元にも及ばない。そのあたりが
分かったからこの2人は引退同様にフェードアウト
したと思えてくる。青江には敵わない。 例えば、彼女が70年初頭のあの一世風靡だけの歌手であったら
自殺は人気がなくなったことや、病気のことを苦にしての
いわば人生の敗北として世間に見られ、本人もそうとして処理されたかもしれない
しかし彼女の才能を引き継ぎ、彼女がプロデュースした宇多田ヒカルの存在で
再び脚光を浴びたからには、その自殺は敗北からの自殺ではないと誰もが思うだろう
自殺願望、自殺念慮は、彼女には若いころからあった
しかし敗北としての自殺は彼女の美学に反していた
だから娘が歴代トップの売り上げを誇る歌手になったという栄光が
藤圭子という栄光と結びつき
永遠の藤圭子への、死への花道を形作った やっぱり、同じ早死にしたテレサテンの方が人気あるな
テレサを視聴してから藤圭子視聴すると、嫌悪感がわく
テレサのオリジナルアルバム全18枚、すべてCD化されアマゾンで売っている 藤圭子の場合、マイナーなものも含めてオリジナルアルバムは全部で19枚あるが
CD化されたのは7枚にすぎない 清との結婚は意外と好意的、レコード会社も同じ
クールファイブの事務所の方が小さかったので
周囲の思惑も一致
新婚旅行もマスコミ集団引き連れて団体旅行のよう
ワイドショーも連日の祝福
前川の言い分「仕事で留守にするとき、飼っている魚の世話を
圭子に頼みたかったけど、圭子の方も忙しくて家にいない
ともかく二人はすれ違い、結婚生活一年のうち
夫婦が一緒に過ごせたのは、自分(前川)が病で寝込んだ一週間ぐらい
とても夫婦と言える生活ではなかったので別れた」 >>51
歌手ってのは、とどのつまり"声の好み"なので
あって
俺も
淡谷、二葉、ペギー、青江、テレサ、倍賞
てなところは大好きで、よく聴くが
藤とちあきは、どーも苦手である。なぜかというと
声が好きでないから。
ちあきに限って言えば、青江やペギーの後に聴くと
丁寧な歌唱が、スーッと入ってくるが
そんなに多くは聴きたくない。
こればかりは、声の好みでどーしようもない。 ただ、データで青江さんの擁護をすると
カバー曲を含めて
ちあきと藤は暗い、湿った歌でそれも演歌・歌謡曲
ジャンルが殆どだが
青江さんは、クラブ時代に
ジャズと流しの経験があるから、藤ちあきと
比べると、その生涯でキー変化も含めて
明るい歌から暗い歌まで幅広く歌っていたろうな わいが好きなのは、西田佐知子、伊東ゆかり、藤圭子、テレサテン
みな上手いし、声がいい、藤圭子は異色だが 藤圭子は酷使されて声のツヤを失ったんだよ
それで一度引退したんだよ 言及してる人が少なくて驚くんだがyoutube観たら
青江さんの、衰えた時期が長すぎるんだよ。
あれさえなければ女性歌手なら、3本の指に入る
評価をされるはずの人。
明るい曲調から暗い曲調まで、歌った分野で言えば
ちあき、藤よりも格段に広い。
紫のタンゴ(灰田勝彦)のカバーみたいな、
陽気な作品がもっと知られれば、変わるはず。
70年代後半から80年代なんて、高音出にくいし
キーは下がるし、声量も減ってる。あれからよく
96年の30周年コンサートまで、
声量持ち直したよ。
最晩年の長崎ブルースなんて、迫力が戻って
実に素晴らしい。
あと10年生きてくれたら、かなり評価が変わってた
と思う。 >>55
俺は、年代に関係なく
藤ボイスは青江ボイスから、ハスキーを減らして
青臭くしただけに聴こえてしまうんだよな。
それなら、青江の声で聴きたいと思う >>59
これは、好みでしょう。人並みに、聴いてます。
生涯を通して、藤とちあきは
それほどハスキーでもなければ
それほど美声でもなかった
=歌える幅が限られた
というか解釈です アップテンポで歌ってくれれば
藤もちあきも聴いてられるかな 青江三奈の、つい最近
カバーアルバムが何枚か復刻されたばかりだ
これらがもっと普及すれば、認識も変わるだろう。
ジャズやラテンの録音は、もっと残ってるだろう 他の方も仰せの通り、リマスターボイスの青江ver
京都から博多まで は、絶品であるから
お聴きになると宜しい。藤圭子ファンも唸るよ 他の方も仰せの通り、リマスターボイスの青江ver
京都から博多まで は、絶品であるから
お聴きになると宜しい。藤圭子ファンも唸るよ 続き。京都から博多まで。
藤のほうが、抒情は上手いけれども何度聴いても
飽きないほど音楽的なのは青江では?
その点青江も、ちゃんと情感を
工夫して歌ってるんでしょうが
青江三奈の多くの歌には森進一などの
恋歌にありがちな、聴き手の同情を誘うほどのものでは、ないように思います。
でも、どこかでなんとも言えない情感とくに
優雅な味わいがあるのが青江であり、藤やちあきに
ないものを個人的に、感じるのです。 ちあきや藤の歌は、悲しみを歌うことに
長けていたのであってジメジメシトシト、、、。
青江みたいな優雅な、清涼感に欠けるわけで
歌に優雅な味わいを求める当方には
それらの多くが惨めったらしく
どうも、入り込めない歌手となっています。
森進一も青江同様に好きな歌手ですが、
彼の感情移入スタイルの歌唱には、ちゃんと
血の通った芸術を感じます。
藤さんも、ちあきさんも、どうもその辺りが
中途半端で、陰気臭いのです。 青江は玄人というかケバイ印象が、歌う時いつも微笑してキャバレー歌手的な雰囲気があった
藤圭子は薄幸の少女が水商売の女の歌を歌うというギャップがよかった ちあきなおみは詞の世界に没頭するあまり、
語尾を伸ばさずに消すように歌ったりするのが、
あまりにも多すぎる。聴く側は、音楽を聴きたいのであって語りを聴きたいのではない。
歌い上げるのが、良い楽曲もあれば語る楽曲も
必要である。
語る歌い方は、抑えた表現であり美徳とも取れるが
彼女のように、多用しすぎると単に歌として
つまらなくなるだけである。 ひばり過大評価
かつ
ちあき過小評価
などと言う意見が、散見出来るが
こういう人達は、ちあきの声が好きで
ひばりの声が嫌いなのだろう。
当方のように、ちあきの声が嫌いな人も
割合に多いのではないだろうか?当方に言わせれば
ちあき、ひばりは過大評価である。歌唱芸として
良いのはわかるが、声が受け付けない。 藤圭子の場合、歌いっぷり良し、
感情表現も上手いが、声がイマイチ中途半端。
ハスキーかと思えば、部分的であり
美声かと言われれば、違う。
言っちゃ悪いが、所詮青江三奈の亜流である。
また
藤さんのリズム感はあくまでも譜面通りに歌うこと
である。
聴く人が聴けば
青江の声と拳回しのほうが
充実感とか深みを感じられるはずだけれど、、、。 あの日に発覚したマンションで同居の男性は
天皇に産まされた子だという
それでその重要参考人であるはずの男性に関する情報が全く出てこない理由が分かった ちあきなおみとか藤圭子みたいな、
ネクラ歌手好きなネクラが多い。ネクラども笑笑
青江三奈には、優雅な味わいが
あるし暗い歌でも、悲惨にならないセンス。 久しぶりに見たが、あいかわらず青江三奈命のお人が居ついているんだ。
しかし、藤圭子の板で青江三奈の話というのも悲しいね。 悲しいついでに、テレサテンは喘息の発作で死んだが
その前に、中国民主化運動に身を投じた、そのストレスが発作の原因になったらしい
やはり藤圭子もストレスが引き金になって身を投じたのだろうな 藤圭子ほど頂点を極めた歌手はいない(自身の記録、娘の記録)
その頂きから眺めた景色は、すでに生死を超越した心境を呼び起こしたに違いない
その頂上から降りることは考えられなかった もてる男は女を捨てる、なぜなら女の醜さを知っているから
もてる男は女の性欲の対象となる
女の性欲ほど醜いものはない(フィヒテ)
もてる男にはそういう女が群がるから女への不信感が出来上がる
女の方は自分のそういう性欲を愛と勘違いする
捨てられた女は女の命である自分の貞操を捨てたことに
男への不信感をつのらせ
それが幾たびも重なると男への完全な不信感が出来上がる
そういう世界が藤圭子の世界 藤圭子さんを、ものまね出来ない事を再認識した。なぜ無理して真似ようとするのか不思議に思う。 かつては京都〜博多各停ひかりまであったのが今や岡山止まり
その岡山止まりもいつかは新大阪止まりに短縮されるのだろうか
【山陽新幹線直通】京都以西各駅停車ひかり消滅の日は来るのか
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/rail/1678987262/ 今時はそんなのもねえのだろうけど昔は
家族事務所ってさ親が口出しとかしてきたりあるらしいが
その点藤圭子さんはエラかったらしいってどっかで聞いたがよ
すべてお任せしますとプロに一任
これが大正解だったようだな
あのイントロはすげー!よね
もちろんあの曲で行こうとなる
当時テレビも何も見れなかったが
あのイントロがかかっちゃうと
やっぱ曲へ引っ張り込む力の強さに驚いちゃうよね
たぶんイントロのところはお静かにして
曲流してくださいとか頼んでそうって思うな
そういうプロの計算とかやっぱあったのかな?
プレミアム感とかやっぱ半端ねえよね
全国のお茶の間聞き入り静まりかえる!って 感じありそう
すべてプロに任せればよいという
藤圭子さんのファインプレーが光ったって聞いたわ 藤圭子の歌唱、青江三奈の歌唱をやたら比較する方がいたの私もでちょっとここで
細かくやってみたいと思うんだけど。曲はみんなが知ってる「柳ヶ瀬ブルース」
以下にYouTubeでの両者の歌唱をUPするのでYouTube聴ける人は簡単に
聴き比べられる。PCある人ならどこの個所でも簡単に出せるでしょう。
柳ヶ瀬ブルース / 青江三奈
https://www.youtube.com/watch?v=AqQNndo619E
藤圭子 柳ヶ瀬ブルース
https://www.youtube.com/watch?v=7JVrOWKrFqc
たとえば2番を出すとしますと。2番は
「二度と逢えない人なのに/なぜか心がまた痛む/忘れたいのにあの夢を/思い出させる
この酒が/ああ柳ケ瀬の夜に泣いている」です。
「忘〜れ〜たあいいのにーああの夢を」をピックアップすると。青江さんの動画で
1:30あたりから
「わすうれ〜たいい(ん)のに〜」と途中「ん」を小さく挿入して
一瞬ためて歌うのがわかります。
藤さんの動画では同じく1:30あたりから同じ個所が始まる。わかるのは
青江さんの歌唱と違って「わすうれ〜たあいいのにぃ」と青江さんのような
「ん」のためを入れない。むしろ一切ためずに「たあいいのにぃ」としている。
私は藤さんのような、ためずに、スラーで噴出させる方があの個所の気持ち
すなわち
「忘れたいのに(忘れられない)」
という気持ちがよく出てると思います。 むしろあそこで小さく「ん」を入れることでどっかわざとらしいことになってる
んではと思います。ああいう悲恋の世界でそれを感じさせてはならない。それを
青江さんはやっちゃってる。
その次の行。2:02「おおーもおい、ださせええるーこおのさあけええがあ」では。
青江さんは割合すんなり「おおおもおいい、ださせええるー」とやっている。
対して藤さんは「おおおもおいい」では「おおおもお(〜)い」でまずコブシを
まわす。つづく「ださせええるう」では「だ(っ)させええるぅ」と
タメを作ってる。しかも「だ(っ)させええるぅ」では「っ」でタメを入れながら
ダメ押しのように感情をこめる。しかもよく聴くと、ほとんど
「だ、さ、せええるぅ」
と区切りながら歌っている。その区切り歌唱によって、より感情がこもってくる。
実に微細なところをはずさない。これしかない、
という線・点でおさえている。でなければ歌は伝わらないと知ってたからでしょう。 つづく「こおのさああけえがー」も同じです。
青江さんは2:07「こおのさああけえがー」と割合直線的にこなしてる。
対して藤さんは同じ個所で「こおのさああけ(〜)があ」とまたもコブシを
挿入。「こおの」ではほとんど息を吹き込むように、未練を吹き込んでいる。
「さああけえ(〜)があ」でダメ押しのようなコブシをまわす。
サビである「ああ柳ケ瀬の夜に泣いている」はどうか。
青江さんは「ああああ柳ケ瀬の」を涙声のように震わせながら歌う。
「夜に泣いている」
は「よるうに」でスラーさせ、音量上げ、「(ん)ない(〜)てえいるぅー」では
冒頭で小さく「ん」を挿入。また「ない(〜)て」で小さくコブシを回して。
「いるぅー」ではここで決めるとばかりに上へスラーさせる。
ここがキメの個所だと悟っていたのでしょうさすがに工夫しています。
藤さんは青江さんのように震わせないが続く「夜に泣いている」で全開で
「よるうーに(〜)、ない(〜)てえいーるう」と途中コブシを多用。
青江さんはさすが女性の気持ちをこめるのが上手い。サビで涙声を使うのはさすが。
藤さんもあのドスを効かせてキメている。
サビの部分は両者の作法の個性の差異が大きく出ているキメ方になっている。
しかし私は藤さんが劣っているとは全く思えないですね。理由はここまでに
さんざん書いたと思いますが。このころは天才だと思います。
青江さんが秀才だとすると藤さんは天才だと思います。 もう次スレは
【魅惑の】青江三奈・藤圭子【ハスキーボイス】
でいいだろ、もう 藤圭子のカスバの女は確かに別格。
わざわざ、キーを半音下で歌唱しているのも計算だろうけど
良いよね。手術前は確かに神声だったな
手術せずにイベルで治しておけば
スーパースターになっていたと思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています