古賀政男総合スレ
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利口な人は、ちゃんと知るべきことをしってるんじあないの。 だろ?古賀政男の曲なんて今となっては古臭いだけ。
時代を越えた魅力を湛えた古関裕而や服部良一の足元にも及ばない。 要は時代を超えようにもなにも、殆どなにもないんじゃ、おはなしにもならないとちがう!。 SPレコード歌謡を中心とした長い昭和の歴史、馴染みの深いその分野で、その創世期、佐藤千夜子の時代から戦後40年代に至るまで、
満遍なく、よどみなく、
数多くの名曲を世に送り続け、
今に至るも繰り返し根強く支持されている、
多くのヒット曲を持つ作曲家。
それを満たすのは、《大御所》と呼ばれ、他を圧倒する随一の著作権を持つといわれた古賀政男、それをおいて他にないですね!。
残念ながら・・。
他にいますか。 >>278
あのさぁ、古賀政男の曲で今の若い人でも知っているような曲があるか?
いちいち曲名まで挙げないけど、古関裕而の曲はたくさんあるぞ。
それだけ飽きられずに、時代を超えてたくさんの人たちに愛されているという何よりの証だ。
音楽としてどちらが格上か語るまでもないのだよ。 古賀政男という巨人と古関一緒にしたってだめ!
上にもあるごとくに、そもそも格が違うんだから。 日本音楽著作権協会(JASRAC)は、クラッシックを含めた日本のすべての著作権を管理するため法律に基ずく団体。
この会長は戦前戦中は政治家で、戦後昭和23年から作曲家中山晋平が第3代会長となり、その後西條八十など詩人や作曲家など錚々たる作家が交代で会長となっている。
古賀政男は、中山晋平、西條八十、堀内敬三、サトウハチロ‐に次いで、昭和49年から亡くなるまで第7代会長。
参考までに、現在のJASRACの本部ビルは、西新橋から小田急線代々木上原駅前の現「古賀政男音楽博物館」と隣接し、旧古賀邸の正門があったあたりに移って来て建つ。
因みにいずれも、「古賀政男音楽文化振興財団」(古賀財団)の管理するビルである。 日 本 橋 か ら
作詩 浜田広介 作曲 古賀政男
昭和6年
1 お江戸日本橋 師走も暮れる
橋の上から あちらを見たりゃ
あちら葭(よし)町 人形町で
ヤレサ 鳴るのは 三味太鼓
2 お江戸日本橋 今年も暮れる
橋の上から こちらを見たりゃ
ならぶ建物 ほこりの雲で
ヤレサ 悲しい 入日空(いりひぞら)
3 お江戸日本橋 さいふが空で
橋の上から 遠くを見ても
どこえ行こうか ゆく手が見えぬ
ヤレサ お江戸の 思案橋
テレビで日本橋のことが取り上げられるとき、流される音楽。
それは江戸古謡「お江戸日本橋」に代わって、「日本橋から」。
昭和のはじめ、80年以上前に作られた曲、浜田広介作詞、古賀政男作曲。
日本におけるタンゴ第一号、タンゴの名曲でもある。
なお、巴里・ムーランルージュ楽員が、バクナデル[編曲]でダンス音楽「日本橋から」を、昭和7年8月に、コロムビアに吹き込んでいる。
昭和6年1月 佐藤千夜子(ビクター)
昭和7年3月 関 種子 (伊田一郎編曲)(コロムビア)
(参考)お江戸日本橋
お江戸日本橋 七ツ立ち 初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ こちゃ高輪(たかなわ)・・ 思えば古賀政男とは日本におけるラテン系音楽の創始者みたいな人だとも言えるだろう。
南欧起源の文化である大学マンドリン・オーケストラ(スペイン語でestudiantina)に身を置き、民謡・都市大衆音楽・クラシック音楽の境界領域にある西欧近代音楽のスタイルを吸収し、
ギターとマンドリンが奏でるラテン趣味を日本的叙情歌謡と融合させた。
それが古賀の仕事の一側面ともいえる。
「影を慕いて」「悲しい酒」なども、日本流バルス・クリオージョ((南米風もしくは土地っ子のワルツ)と呼べなくもない。
弟子筋には、アントニオ古賀や鶴岡雅義など、「ラテン畑」の音楽家として日本ポピュラー音楽史に貢献した人びともいる。 昭和9年(1934)5月、大阪に創立されたテイチク(帝国蓄音機)は、昭和はじめに外国資本で設立された日本コロムビアやビクターなどのレコード会社に追いつこうと、<重役兼、文芸部長兼、作曲家>として新進のヒット・メイカー古賀政男を招聘し制作の全権を委ねた。
古賀は、マンクラの「7人の侍」と呼ばれる側近を呼び寄せ、5月15日、銀座にテイチク東京文芸部《古賀文芸部》を組織し、仕事をスタートさせる。
このとき、淡谷のり子の紹介で専属契約したのがディック・ミネである。テイチク文芸部が反対するのを古賀のツルのひと声で昭和9年11月に録音、翌年1月に発売された「ダイナ」と「黒い瞳」は空前の大ヒット。このことに味をしめて、以後、テイチクはジャズに力を入れていく。
古賀はディックの声を高く買っていた。だから「二人は若い」(玉川映二作詞・古賀政男作編曲)や「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞・古賀政男作編曲)のような日本調の流行歌をうたうのと引き換えに、ディックがやりたいようにさせてくれた。
ディックはジャズやポップスなどの外国曲を探してきては、これらにみずから日本語詞を付けてうたった。こうして発表されたカヴァー曲は、戦前だけで優に100曲を超えるという。ここに、世に言う「テイチク黄金時代」が築かれてゆく。 ディックは、ギターやドラムスもよくした。
なかでもスティール・ギターはインストのレコードを出すほどの腕前だった。
また、編曲にも多く手がけ、さらに、南里文雄(トランペット)、トーマス・ミスマン(サックス)、杉原泰蔵(ピアノ)、
中沢寿士(トロンボーン)、大久保徳二郎(サックス)、小泉幸雄(アコーディオン)ら、一流のミュージシャンを引っぱってくるプロデューサー的な役目もこなす
というマルチぶり。
中村とうようの企画・選曲・監修による“再発見・ニッポンの音/芸”シリーズ全10タイトルの最終集をかざる盤には、『洋楽ポップスの系譜』とあるように、ジャズあり、タンゴあり、シャンソンあり、ハワイアンありの外国曲のカヴァー集。
戦前、これら外国曲は“ジャズ”または“ジャズ・ソング”と総称されていた。つまり、この場合の“ジャズ”とは音楽スタイルというよりフィーリングをさす。
そして、戦前にこのジャズのフィーリングを身に付けていた数少ない日本人のひとりがディック・ミネだった。 古賀政男によって育てられ、テイチクで力を発揮して行くディックミネ、昭和10年(1935)10月発売の「君いずこ」では、ディック本人が訳詞と編曲を担当。
原曲は'SOMEBODY STOLE MY GAL' といい、ビックス・バイダーベックやベニー・グッドマンの楽団の演奏で知られる軽快なナンバー。
「ジーラ・ジーラ」は、フロリダなど日本のダンス・ホールでよく演奏されたアルゼンティン・タンゴで、昭和10年(1935)9月(10月とも)の発売は淡谷のり子とならんでもっとも古い日本語カヴァー。
ディックはこの直後、古賀政男が書いた和製タンゴ「夕べ仄かに」(島田芳文作詞、古賀政男作曲、トーマス・ミスマン編曲)を歌っている他、数多くのタンゴ曲をとりあげている。 《丘を越えて》など、《影を慕いて》に始まるたくさんのヒット曲を持つ《古賀メロディ》。それは、一流詩人とのタグなしで出来えない、古賀政男ならではの、青春・人生をテーマとした映画音楽でもある。ここに多くの人に愛され、今でも歌われる秘密がある。
戦後になると青春をテーマにした流行歌はつぎつぎと生まれてくる。特に石坂洋次郎原作『青い山脈』が映画化され、その主題歌《青い山脈》(西條八十作詞、服部良一作曲)、そして、昭和30年代以降、進学率の上昇とともに戦後の「学園ソング」が沢山作られるが、
《古賀メロディー》はその「青春歌謡」の先駆でもあったのである。 >>288
>原曲は'SOMEBODY STOLE MY GAL' といい、ビックス・バイダーベックやベニー・グッドマンの楽団の演奏で知られる軽快なナンバー。
この文章で検索するだけでも元ネタ確定。
コピペの情報ってあんまありがたくないんだよなー ・アントニオ古賀著『音霊(おとだま)─古賀メロディとともに』(講談社2009.6)
・アントニオ古賀著『ギターソロのための古賀メロディー作品集』 CD・タブ譜付き(楽譜) 現代ギター社、2010年(改訂新版)。ISBN 4874714854 昭和6年(1931)、まだ東京音楽学校の学生だった若き「藤山一郎」によって歌われた《丘を越えて》、いつの時代でも青春を謳歌する青春の息吹を感じさせる歌。
欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある若き作曲家・山田耕筰。
山田耕筰はヨーロッパに行く時、この若き古賀政男の《丘を越えて》のレコードを持って行き、《日本の代表的音楽》として、誇らしげに聴かせていた。
日本を代表する音楽家で、日本における交響楽団の雄たる山田耕筰が、詩人・萩原朔太郎がそうであったように、《古賀メロディー》を高く評価、その最大の理解者であった事は特質に値する。 山田耕筰は誰でも知っている、誰でも認める「作曲家」だからね!。 音楽のわからない者ほど有名無名とか権威に弱いもの(苦笑) 欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある若き作曲家・山田耕筰。
山田耕筰はヨーロッパに行く時、この若き古賀政男の《丘を越えて》のレコードを持って行き、《日本の代表的音楽》として、誇らしげに聴かせていた。 ソースは?
単なる伝聞じゃ意味を成さないのだよ。歌謡曲の世界って伝聞が多すぎるし。 「影を慕いて」とともに、なんといっても日本の名曲、日本の財産だからね!。 日本を代表する音楽家で、日本における交響楽団の雄たる山田耕筰が、詩人・萩原朔太郎がそうであったように、
《古賀メロディー》を高く評価、その最大の理解者であった事は特質に値する。 日本における交響楽団の雄・・・意味がわからない
萩原朔太郎がそうであった・・・何が“そう”なのか?
特質に値する・・・特筆に値するでは? JXyHDDf7 の無理やりねじ伏せるような物言いで
「山田耕筰は古賀メロディーを評価した」と事実化するやり方には拒否感を覚える。
出典を示さないと誰も納得しないよ。少なくとも研究的な態度ではない。
2ちゃんにはふさわしいけどねw うん、悔しいだろうね!
けど、それが歴史的事実なんだよ!。 山田耕筰は、東京音楽学校に作曲科がなく、始めてドイツに留学した人で、当時の日本の作曲界の大御所とされていました。また、日本で最初の交響楽団を作りました。
またクリスチャンで、東京音楽学校で佐藤千夜子に中山晋平を紹介したひとで、黎明期の昭和歌謡の発展にも貢献しています。 オナニーしたいんなら自分のノートにでも書いとけやジジイ! 語るに落ちる!
山田耕筰も知らぬとは!
ついに八方塞ぎ、・・わかる、わかる・・ いいの、いいの
泣かなくてもいいんだよ!
でも、お勉強しましょうね! “日本における交響楽団の雄”ってなぁに?
“萩原朔太郎がそうであった”何が“そう”なのぉ?
“特質”に値するってなぁにぃ?
教えてぇ、おじいさ〜ん NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」には、佐藤が、作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀政男(正夫)、藤原義江、
小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に激動の時代を駆け抜けてゆく姿が描かれていて貴重ですね。 >>309
都合の悪いことにはダンマリかよ。調子のいいジジイだな(笑) 大正から昭和の初めにかけて、「晋平節」を世に広め、古賀政男の才能を発見したことで、それ以後の日本の大衆音楽史において決定的役割を果たすことになる、レコード歌手第一号佐藤千夜子。その影には、クリスチャン山田耕筰との意外な出会があったんだね。 退散!、退散!《笑い!》
無理!・・・手も足もでないね・・いいんだよ! 子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、伝道師のミス・キルバン (Miss Kirwan) と出会う。天童小学校高等科卒業後、英語の勉強をするため、キルバンに連れられて上京。
ミッション系である普連土女学校(現:普連土学園、フレンド学園)に入学。在学中にオペラを鑑賞し、強い感銘を受けたことで音楽を志す。
大正9年(1920)、東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に入学。ここで、作曲家の山田耕筰、中山晋平らと運命の出会いを果たす。 作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀政男(正夫)、藤原義江、・・
こうした芸術家たちは
佐藤を通して知り合い、つながっている・・のです。 大正10年(1921)、24歳のとき、中山が野口雨情らと一緒におこなっていた「新民謡・新童謡コンサート」《全国歌の旅》に賛同、歌手兼講師として参加。
この運動の中で生まれた新民謡「波浮の港」が昭和3年(1928年)5月、昭和2年にできたばかりのビクターから、「日本ビクター創立第一回新譜」として発売。
これが日本の商業レコード第一号とされる。 ちょうど同じ頃、昭和3年(1928)に作られた、
佐藤の歌で世にでた二つの名曲、《影を慕いて》と《波浮の港》・・・、
いずれも《日本の名曲》として、今でも根強く愛され歌われ、演奏されているのです。 >>320
746 :昔の名無しで出ています:2014/05/11(日) 22:55:14.20 ID:???
うぜえっつってるだろ
長文野郎は荒らしなんだよ覚えとけタコ
747 :昔の名無しで出ています:2014/05/11(日) 22:56:40.34 ID:???
長文つかそういう上から目線の文章よく投稿し続けられるな
バカじゃねえの? 目障りだわどっか行け >>321 下品で日本語になっておらず意味不明だね! >>237-238
>>237
ひとこと
何言ってるんだ・・・どうこう言うつもりは無いが、戦前、結果を出すことができず、クビにされる処までになった不名誉は作曲家は彼一人しかいないんよ!。>>234
レコード会社(コロムビア)が求めたのは、そうした特殊な(マイナーな)分野ではないんだよ。! 朝、テレビを付けたら、飛び込んできた「ザックジャパン敗退!」のニュース。あれほど騒がれた渋谷の交差点の警官も撤収、閑古鳥が鳴くとテレビは伝えている。
なお、野球やサッカーその他、オリンピックを含めて、スポーツそのものが嫌いだ、関心がない、オリンピックの間が苦痛という人も少なくないという。
スポーツは万人の讃える崇高なものとされがちだが。 あの興奮して長〜く伸ばすスポーツ中継、スポーツはまさに狂気だもんね!。 2020東京オリンピック招致、賛成は22%だとか!。 古関裕而作曲の東京オリンピックマーチは使えそうだが、東京五輪音頭は微妙。
時代錯誤の感がある。 お知らせ
コガ・ミュージアム講座「蓄音器とSPレコードで楽しむ、日本の流行歌」
1877年、トーマス=エジソンが蓄音器を発明し、人々は音楽をレコードで聴くことができるようになりました。
この講座では、大変貴重な米国ビクタ−社製機械式蓄音器(ビクタービクトローラクレデンサ)と、SPレコードを使用して、日本で流行した幅広い音楽を紹介するレコードコンサートを行います。
講師は飯田久彦さんと金沢蓄音器館の八日市屋館長、ゲストには菅原都々子さんをお迎えします。
開催日 平成26年8月24日(日)
場所 古賀政男音楽博物館 けやきホール
(入場券で、館内ご覧いただけます。)
開場 13:30 開講 14:00
入場料 2,000円(指定席制 要予約)
主催 (一般財団法人)古賀政男音楽文化振興財団
※開催日朝10時から、座席指定券を配布します。
(問合わせ先)
東京都渋谷区上原三丁目6−12
古賀政男音楽博物館
http://www.koga.or.jp/
小田急線・東京メトロ代々木上原駅前
(ホ−ムと斜め交差する井の頭通り、駅前交番直前)
TEL 03−3460−9051 参考
「ビクター ビクトローラ クレデンザ」は、米国ビクター社製で“蓄音器の王様”と呼ばれる、銘機中の銘機。ビクターが開発した蓄音機の高級機種。
キャビネット内に約2mものホーンを収納する画期的な設計によって、幅広い音域とそれまでにない音量でレコードを再生することが可能となった。
http://www.youtube.com/watch?v=kqspcqgoF7A オリンピックはいいよ!
ここは懐メロ邦楽スレだし。 >>216
参考
由利あけみ (1935東京音楽学校 アルト歌手)
美しき鷹 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.10テイチク
愛国六人娘 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.12.1テイチク
茶房の花 (海野七郎=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)藤山一郎1938.6
心の雨 (海野七郎=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)1938.6 テイチク
黒いパイプ (倉仲住人=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)1940 コロムビア >>336
「美しき鷹」・・ 日活(多摩川撮影所)1937.10.01 千葉泰樹監督「美しき鷹」主題歌
「愛国六人娘」・東宝映画(京都撮影所)松井稔監督1937.12.01「愛国六人娘」主題歌
挿入歌 勇敢なる航空兵(藤山一郎)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)
「茶房の花」「心の雨」・・日活多摩川「茶房の花々」(春原政久監督)1938.06.01 主題歌 >>4
市販盤では既出の「ひろしまの母(島倉千代子)」ですが
委託盤を含めると「川崎大師讃歌(近江俊郎)」です。 >>341
そういえば今月の2日で生誕111周年目だったんだ… もうそんなになるのね。
今も生きてても、作曲は無理だわな。
古賀メロディも遠くなりにけり。 新妻鏡をレンタルしようと思ったらオリジナル盤がないのですが
下記の誰がお勧めですか?
石川さゆり、大川栄策、島倉千代子、細川たかし、美空ひばり、都はるみ、八代亜紀 ヤフオクに、楠木繁夫が歌った「白い椿の唄」の作曲者が清水保夫になっているSPが出品されていた
誤ってB面の作曲者と同一にしてしまったのだね 夫婦の歌だからデュエットがいいと思うが
後年のステレオ再録音では霧島盤ですら単独歌唱なのはなぜだろう
カバーは一通り聴いたがやはり新妻感のある島倉盤が抜きん出ている 戦後版映画新妻鏡に古賀さん本人が出演したらしいけど見たことある人いるかな >>352
近江俊郎が監督のドライ夫人と亭主関白という映画に
古賀政男が出演しているのは見た >>354
近江俊郎監督ってのが何とも。新東宝だろう 古賀政男先生とはまったく無関係に、福岡県大川市の歴史を調べていたら、
大川市兼木(三丸)に、昭和5年に健立された古賀家の墓碑があり、
この祖先は。ここからすぐ近くの現在、田口小学校(古賀先生の母校でもある)
に室町時代からの名門、西田口城城主田口刑部、この地にその居城があった。
元々福岡には「古賀姓」がやたら多いが、祖先の墓標や、その居城跡から数十メートル
程度に生家のある古賀政男先生との関係は、かなりおおきな興味を感じさせる。
「天正五、六年から七、八年(1577〜1580)にかけて龍造寺隆信の筑後侵入に刑部の
子孫は、ひとたまりもなく滅亡したのであろう。…
西田口城が滅びた後、田口氏の一族は退いて西田口南方に隠遁し、やがて古賀姓を名のって
土民化していったであろう…」
「大川風土記/西田口城跡考-石橋兎三郎」(昭和57年)_より >>356
>かなりおおきな興味を感じさせる。
そうかなー 「影を慕いて」
古賀先生が歌うのを聴いて好きになりました。 古賀政男のドキュメンタリードラマ『幾山河は越えたれど』(1979)は早坂暁&たなべまもる共同脚本。
矢野顕子が「丘を越えて」を演奏する傍らで、渥美清がコワい顔で眺めているのが可笑しかったです(^^) 渥美清が結構古賀政男に似てて、面白かった。
寅さん臭さも多少残ってはいたが。 去年CSで放送した映画日本よいとこに古賀政男が出演してた 懐メロのように感動的にお金持ちになれるのはなぜ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
DHAGU 朝のテレビ小説『エール』に
若き日の古賀政男のモデルが出てるよね あんな会社に未練は無いが
何故か涙が流れてならぬ
と、テイチクを辞めた夜歌ったとか歌ってないとか
(まあ嘘なんだけどね。もと歌は1959年発売の村田英雄の歌、古賀政男がテイチクを去ったのは1938年だから) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています