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古賀政男総合スレ
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0133昔の名無しで出ています
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2013/12/09(月) 01:54:54.31ID:VzDh27+A
>>132
アップロード日: 2010/01/15

荒城の月 李香蘭 古賀政男編曲、明大マンドリンクラブ伴奏 
彼女の本格クラシック的歌唱力はロシアのオペラ歌手及び三浦環に師事した証と言えるモ­ノで、とてもアイドルスターとしての美貌だけではなくしっかりとした素質と教育の賜物­だと感心させられた一曲です。
0134昔の名無しで出ています
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2013/12/09(月) 05:12:12.25ID:hDHyd5P3
三波春夫と島倉千代子が共演した古賀政男作曲の「すっきり音頭」は
どういう経緯で作られたのでしょうか。歌詞などから推察すると昭和40年頃の作品だと思います。
コロムビアとテイチクの通常ならあり得ない共演作品について詳しくわかる人教えて下さい。
0135昔の名無しで出ています
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2013/12/11(水) 10:36:26.67ID:PCy642B0
思い出さん今日は(星野哲郎作詞、古賀政男作曲)島倉千代子 昭和33年
0136昔の名無しで出ています
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2013/12/11(水) 17:15:26.07ID:rEw7y0DH
潮来笠を唄っていると途中から思い出さん今日はになるというネタをする芸人がいたらしいが誰
0137昔の名無しで出ています
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2013/12/12(木) 00:44:42.00ID:WAWTgA7F
昭和35年、潮来笠の「潮来の伊太郎ちょっと見なれど」と
「思い出さん今日は」の「目隠しした手で肩抱き寄せて」
のメロディーがそっくりということらしいね!
0138昔の名無しで出ています
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2013/12/12(木) 14:21:15.76ID:WAWTgA7F
白い小ゆびの歌(関沢新一作詞、古賀政男作曲)島倉千代子 昭和34年
0139昔の名無しで出ています
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2013/12/12(木) 17:08:27.43ID:sU4kzdTh
>>138
レコード大賞で初めて作曲賞を獲得した曲ですね。
片面は同じく古賀政男作曲の「つばなの小径(美空)」でしたが白い小ゆびの歌の方がヒットしました。
0140昔の名無しで出ています
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2013/12/14(土) 20:37:06.10ID:Rel8xCYM
布良の娘(西条八十作詞、古賀政男作曲)島倉千代子 昭和30年
0142昔の名無しで出ています
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2013/12/15(日) 18:16:35.73ID:???
対馬の娘というのもあったな。作詞は同じく西條八十。
永田とよ子が唄って、後に島倉千代子が唄ったが
平成になって香西かおりも唄ったらしい。
0143昔の名無しで出ています
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2013/12/16(月) 11:56:00.70ID:5k0C289x
>>141
布良海岸は、安房神社の『下の宮』のご祭神の天富命が、神武天皇のご命令により、四国の阿波(徳島県)から遠征されて来て、一行が初めてたどり着いた、記念すべき最初の土地になった海で、安房 房総発祥の地だそうです。
0144昔の名無しで出ています
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2013/12/16(月) 21:38:39.96ID:5k0C289x
>>140
「布良(めら)の娘」は、「りんどう峠」のB面。いずれも(西條八十作詞、古賀政男作曲)。

♪想うお方は 帰らぬ人よ 波にうたせて 鮑とる・・とあるように、恋人を海に取られた悲しい唄。

「りんどう峠」が、『高原の唄』(昭和7年中野忠晴、島田芳文作詞、古賀政男作曲)のエッセンスを引き継いでるように、
このうたも、同じ西條八十・古賀政男コンビ作品で、昭和8年、ミス・コロンビア『「お蝶夫人」の唄』に、♪おもうお方は 帰らぬ人か・・という詞がある。
0146昔の名無しで出ています
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2013/12/17(火) 12:47:47.12ID:QiMJEHNF
このあたりで最近もロケがおこなわれているよう。また房州館山辺りは他に、相州の「石橋山の合戦」で敗れた源頼朝が真鶴半島から房州へ逃れてきて、その上陸地が勝山海岸です。安房の地で鋭気を養った頼朝はその後鎌倉幕府を開き天下を治めました。房州には頼朝伝説が多い。
0147昔の名無しで出ています
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2013/12/18(水) 13:46:49.86ID:464eRFrJ
ひろしまの母 (石本美由紀作詞、古賀政男作曲) 島倉千代子  昭和52年
0149昔の名無しで出ています
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2013/12/18(水) 18:08:36.97ID:g5eilmNv
ひろしまの母のレコーディングに立ち会った古賀政男さんは
島倉千代子さんと共に泣いてしまって別の日に改めてレコーディングしたそうだね。
0150昔の名無しで出ています
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2013/12/18(水) 23:11:22.66ID:464eRFrJ
「ひろしまの母」は、昭和52年(1977)、第4回広島平和音楽祭で発表され、古賀政男最期の作品となった。
古賀政男最後の作品は島倉千代子の歌になる。
0151昔の名無しで出ています
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2013/12/19(木) 10:11:05.19ID:HgnaBVbi
温泉の姉妹(丘 灯至夫作詞、古賀政男作曲)島倉千代子 昭和三十一年 東宝映画同名主題歌
0152昔の名無しで出ています
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2013/12/20(金) 14:19:41.98ID:???
古賀さんが女性に抱くイメージを問われて「優しい…優しい…雪のように淡い」
と答えていたそうだが、やっぱり一番可愛がっていたのは島倉さんなんじゃないかな。
0153昔の名無しで出ています
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2013/12/20(金) 14:46:03.19ID:mUojoLfk
島倉さんは控えめで腰が低いことで好感をもたれてました。
0154昔の名無しで出ています
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2013/12/20(金) 14:50:27.93ID:???
古賀さんは小林千代子と交際したが周囲に反対され結婚できなかった。
後に千代子という名の別人と結婚したがすぐに別れた。
自分の経験からか島倉さんに千代子という名前は結婚できない。
結婚してもすぐ別れると言ったらしい。
0155昔の名無しで出ています
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2013/12/21(土) 17:52:23.27ID:HA78jkGq
「古賀メロディ」の源泉、それは『寂しさ』にあったと言われますね。
0156昔の名無しで出ています
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2013/12/24(火) 16:20:30.67ID:pUgzam0X
古賀政男(正男)は大正元年、7歳、小学二年の時、父を亡くし、朝鮮にいる
長兄・福太郎を頼って一家で朝鮮に渡り、17歳まで、一番感受性の強い
10年間を朝鮮で居候生活する。この間、居場所もない、それはつらい日々だったという。

帰った後も長兄からは、音楽への勉強の路を絶たれ奉公させられる。
東京に出て明治大学に行くも、「勘当」され苦学することになり、ここで
一人の女性と知り合うが自殺してしまう。
0157昔の名無しで出ています
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2013/12/25(水) 21:44:40.15ID:6+k+XXXz
昭和40年、61歳のとき軽い脳卒中を起し、49年に再発作を起し、以来健康がすぐれず病院通いをすることが多かった。

代々木上原一、二丁目の井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中に、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。
古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、数十億といわれる群を抜いた著作権料。外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった。

「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。
「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。
0158昔の名無しで出ています
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2013/12/28(土) 12:04:51.98ID:zEqWza9D
>>157
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。
その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。>>78,>>95,>>96

このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。
他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。

なお、同年8月4日、「国民栄誉賞」が贈られた。前年にプロ野球の王貞治選手に贈られるために制定され、生存者に贈ることを目的にされたもので没後に贈ることには異論もあった。
しかし、福田内閣は『古賀政男氏に贈らない理由は無い。』として贈ることを決めたもの。なお、古賀政男音楽博物館に展示されている。
0159昔の名無しで出ています
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2013/12/29(日) 20:21:59.37ID:mURlNrwt
>>158

『古賀政男と島倉千代子』・・
NHKアーカイブス『幾山河は越えたれど 昭和のこころ 古賀政男』
http://www.youtube.com/watch?v=DaF2dUW88NY

公開日: 2013/11/22
これは、2002年に放送されたNHKアーカイブスの番組の前編と後編の間のインタビューです。その番組とは、古賀政男が亡くなった翌年1979年(昭和54年)放送の『幾山河は越えたれど 昭和のこころ 古賀政男』でした。
この本編の中でも、1979年当時の島倉千代子がインタビューに応えて、「りんどう峠」を唄っています(YouTube投稿済)2002年当時の島倉千代子は64歳でしたが、古賀先生との懐かしい思い出を感慨深く語っています。
島倉千代子さんは、2013年11月8日、75歳で逝去されました。心からご冥福をお祈りいたします。
0161昔の名無しで出ています
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2013/12/29(日) 21:37:48.84ID:mURlNrwt
>>160
ご紹介ありがとうございます。
0162昔の名無しで出ています
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2013/12/29(日) 22:16:41.44ID:mURlNrwt
代々木上原の古賀政男邸は、昭和13年に明大マンドリン倶楽部仲間後輩らを呼び寄せ、音楽村を作ろうと、松林だったこの場所を近くに住んでいた古賀政男が気に入り、地主に掛け合い三千坪を買取り、清水建設の安藤喜八郎に設計を依頼し建築したもの。
和洋折衷型の名建築物で、日本の歴史的・洋館18邸として以下の豪華写真集に収録されていています。

なお昭和53年、古賀政男追悼本として出た、「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版)にも、古賀邸内が写真で紹介されている。



藤森 照信著、藤森 照信写真「歴史遺産 日本の洋館〈第6巻〉 昭和篇(2)」 講談社 (2003/3/19) ISBN-13: 9784062614863

 岩崎小彌太別邸(静岡県) 、三井家別邸(北海道)、徳川義親邸(長野県)、細川護立邸(東京都)、原邦造邸(東京都)、林芙美子邸(東京都)、古賀政男邸(東京都)など。

・古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ p.126
0163昔の名無しで出ています
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2013/12/30(月) 07:56:26.62ID:???
>>159
島倉千代子さんは古賀政男音楽博物館でコンサートを開いたこともありますね
もう古賀政男さんの大ヒット曲を持つ歌手はいないのでは
0165昔の名無しで出ています
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2013/12/31(火) 00:02:53.97ID:RmX069iv
作曲家になる以前、貧乏に貧乏を重ね、その後成功に次ぐ成功を重ねた古賀政男。でも心の底には消すことのできない、何かしこりのようなものがあった。

それが何であるか自分でもわからない。 そんな時、体も弱って73歳になった古賀政男は、亡くなる2ヶ月前、昭和53年5月、うつみ美土里さんに伴われ、体をおして韓国に渡ることにしたのだった。
(TBS TV[古賀政男、第二の故郷に帰る]で放映。;NHKTV[西田ひかるの痛快人間伝・古賀政男])

そして空港で両手で支えられタラップを降りた古賀政男を迎えたのは、朝鮮の民族衣装に身を包んだ女性たちが演奏する朝鮮の民族楽器カヤキンの奏でる、子供のころに聞いた懐かしい朝鮮メロデー・アリランであった。

そして、うつみ宮土理さんの言葉を通してであるが、そこに自らの音楽の原点をみた。 家族の中で居場所の無い中で、やさしい三拍子のメロディとリズムは、古賀少年にやさしく響いた。

朝鮮の民族楽器「カヤキン」の弦の震えは、古賀メロディのこぶし(小節)でもあり、古賀少年のこころの震えであり、それがおなじような同時代の多くの 大衆の人々の心にひびいたのです。 ・・利根川祐「人物昭和史」ちくま文庫720(1989)
0166昔の名無しで出ています
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2013/12/31(火) 00:31:47.28ID:RmX069iv
NHKTV 1993年2月4日[西田ひかるの痛快人間伝・古賀政男]では、マンドリンを通して「古賀メロディ」の曲のひみつ、古賀メロディのルーツを探っていた。

そのなかで、「第二の故郷韓国」を訪ねた時のビデオが最後に流れた。

古賀政男が大正元年、7歳で韓国に渡るあたりから、韓国での暮らし、そして大正11年再び日本に帰り明治大学に入る。

「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」というものができ、それが大衆の中に根付いた歴史そのものでもあること。「影を慕いて」ができるまで日本の流行歌の中に、三拍子はなかった、でも唯一あるのが朝鮮の民謡。

どうして朝鮮の音楽に似てるのかな?という問いかけに、最後のビデオを見ればそれがわかると。(TBS TV[古賀政男、第二の故郷に帰る])
0167昔の名無しで出ています
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2013/12/31(火) 11:58:48.18ID:RmX069iv
古賀政男音楽博物館 歌の舞台を訪ねる〜東京編
http://blogs.yahoo.co.jp/genba1215/62021559.html

東京渋谷区、小田急線代々木上原駅近くにその建物はある。
「古賀政男音楽博物館」。
日本の大衆音楽の偉大なる作曲家古賀政男の自宅があったところである。
昭和13年にこの地に移り住み、生涯ここで暮らした。

井の頭通り沿いの高級住宅街にあり隣はJASRAC(日本音楽著作権協会)のビルがある。
古賀政男は生前この場所を大衆音楽の音楽村にしたいとの思いを抱いていた。
古賀の死後そこは大衆音楽の博物館として生まれ変わった。

ここは近いこともあり、3回ばかり訪れた。一番最近訪れたとき改めて驚かされたことがあった。
一つはその敷地の広大さである。三千坪といわれる。豪邸というよりはお屋敷といったほうが当てはまる。

以前はあまり目に止まらなかったのであろうが、今回展示品の中のあるメモに釘づけとなった。
それは古賀政男が亡くなる2日前に書いたメモで、便箋2枚に書かれたものである。
実物が展示してあり、私はそれを読んである意味ショックを受けた。
その場で読み終え、それをメモした。
以下は私がそのメモをワープロで清書したものである。
古賀政男の最後の心境を知るうえで貴重なものと思いそのまま掲載させていただく。・・
0168昔の名無しで出ています
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2014/01/01(水) 09:05:56.10ID:6dvnv7bL
年が明け、今年は2014年になりました。レコード歌謡は『昭和』と供に始まり、そしてそこに古賀政男(正夫)がいたのでした。

その「昭和」も、はや四分の1世紀が過ぎ、今年は「昭和89年」にあたる。 (昭和は、1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1 月7日まで62年と14日。歴代元号の中で最長。レコード歌謡は昭和3年に始まる。)

昭和4年、明治大学を卒業した古賀政男がコロムビアの専属作曲家となったのは、83年前の昭和6年(1931)3月20日。
0169昔の名無しで出ています
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2014/01/01(水) 09:34:15.51ID:6dvnv7bL
年末年始のテレビ番組を見ても,「昭和の歌姫」とか、「昭和の名曲」とか『名曲』と言う言葉が頻繁に飛び交う
のですが、『昭和』といっても殆どが昭和末の、物が有り余る飽食の時代の真っ盛り、昭和50年代前後あたりから。

「昭和」は60年あることをぜひお忘れなく・・。

それも、ほとんどがJ-POP(和製ポップス(POP=ポピュラー)とか、ホークソング等のニューミュージック、ド演歌など若者文化一色。
古賀政男が亡くなり、最後の島倉千代子も亡くなり残念なことです。
0170昔の名無しで出ています
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2014/01/01(水) 11:36:17.45ID:6dvnv7bL
昭和6年(1931)が明けてまもなく、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から古賀政男に面会の申し入れがあった。

コロムビアの専属作曲家となって、『影を慕いて』のような作曲をしてほしいとのことであった。このとき古賀に破格な『印税』が支払われると言う条件でである。しかもまだ印税制度が一般的でなかった時代である。

昭和4年から昭和5年末にかけて、佐藤千代子によって『文のかをり』(1930年3月発売)をはじめとして、『影を慕いて』(1931年1月発売)など7曲が吹き込まれた。

栄えあるレコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手、佐藤千代子(ビクター)の力添えで、古賀は作曲家になったといえる。この辺りのことは、NHK朝の連続テレビ小説、「いちばん星」(1977年(昭和52年)4月4日から10月1日)に描かれている。
http://www.youtube.com/watch?v=Vz_pa0HGiwU

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。
0172昔の名無しで出ています
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2014/01/01(水) 14:21:16.42ID:6dvnv7bL
>>171
佐藤千代子(さとうちやこ)は山形県天童の人。子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、伝道師のミス・キルバン (Miss Kirwan) と出会う。天童小学校高等科卒業後、その歌の才能を見抜いたキルバンに連れられて上京。
ミッション系である普連土女学校(現:普連土(フレンド)学園)に入学。
在学中にオペラを鑑賞し、強い感銘を受けたことから音楽を志す。
大正9年、東京音楽学校(現東京藝術大学の音楽学部)に入学。クリスチャンである山田耕筰と出会う、ここで中山晋平を紹介される。
中山晋平は当時野口雨情と新民謡運動をしていて、全国を飛び回り「民謡」の採譜やコンサートなどをしていた(新民謡・新童謡コンサート、全国歌の旅)。
これに共鳴した佐藤千代子は東京音楽学校を中退して、この運動に歌手として参加することとなった。と言っても、まだ新幹線も飛行機もラジオ放送も無かった時代。
この「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)運動から生まれた、昭和3年「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、ビクター)が、日本最初の商業レコード歌謡とされ、それを歌った佐藤がレコード歌手第一号とされる。天童市に生家(記念館)がある。
1925年(大正14年)、ラジオ放送が開始され、ラジオを通して歌うようになる。

この辺りは、NHK朝の連続テレビ小説、「いちばん星」に詳しい。

佐藤千代子の曲は次のCDで聴ける。
・CD「昭和を飾った名歌手たち 1/佐藤千夜子」VICL 60326
  http://www.tsutaya.co.jp/works/20058945.html

・CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536 2CD
  http://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536





1925年(大正14年)、ラジオ放送が開始され、ラジオを通して歌うようになる。
0173昔の名無しで出ています
垢版 |
2014/01/01(水) 14:23:42.38ID:6dvnv7bL
>>172
訂正; ×佐藤千代子 ○佐藤千夜子
0174昔の名無しで出ています
垢版 |
2014/01/02(木) 04:32:19.14ID:???
古賀政男=朝鮮人説はさすがに論外だと思う

また古賀の音楽には朝鮮音楽(古典)の影響はさほど大きくないと考える。
古賀の作品を聴いた上で語ってるのかすら疑問だ。
0175昔の名無しで出ています
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2014/01/02(木) 09:19:04.62ID:d1REtoQn
>>174
そうですね。古賀政男は洋楽志向で、古賀政男ほどワルツやジャズ、タンゴ・・その他、世界のいろいろな洋楽を取り入れているものはないと言われますね。
そうした前提でなければならないと思います。
初期の『月の浜辺』などジプシー音楽と呼ばれるものですし。
0177昔の名無しで出ています
垢版 |
2014/01/02(木) 11:33:53.29ID:d1REtoQn
古賀政男の自伝などによると、仏教の「声明」(しょうみょう)や、義太夫など江戸文化の研究や自らも歌っていたとあります。

西洋の音楽にはクラッシックを含め、基本的に『こぶし(小節)』はないので、古賀政男の音楽はクラッシックを基本として、その上に洋楽と、千年以上前に渡来した仏教の声明(しょうみょう)や民謡、その中には朝鮮の民謡も含めて融合が根本にあると考えてもよさそうです。

西洋音楽も教会音楽から生まれたという歴史がありますから、古賀音楽も正しい音楽の歴史のうえに存在するわけです。

古賀政男の音楽には、日本の伝統音楽にジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたあとがあるから、世界的なレベルだといえるでしょう
0178昔の名無しで出ています
垢版 |
2014/01/02(木) 12:44:28.50ID:d1REtoQn
1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。
声明とは、仏さまの教えを讃歎する仏教の聖歌で、仏教とともにインドで生 まれ、中国や朝鮮半島を経由して日本に伝わったもの。
日本に仏教が伝来したのは. 6世紀ですが、声明 については、752年に東大寺大仏開眼供養の大法要が行なわれた。1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。

仏教声明も立派な音楽で、「声明コンサート」もあります。
http://www.youtube.com/watch?v=kbHbpf8NoSY

古賀政男は、小唄・端唄、長唄、義太夫、琵琶歌、謡曲などの江戸の歌謡にも造詣深く、
たくさんの洋楽を多く取り入れただけでなく、音楽としての仏教声明など幅広い音楽を取り入れたことで知られる。
0179昔の名無しで出ています
垢版 |
2014/01/02(木) 13:05:12.80ID:d1REtoQn
ジャズ、クラッシック、J−POP、歌謡曲・・
これまで色々な分野の作曲家が沢山出た、しかし古賀政男ほど日本を含め幅広く世界の多くの音楽をとりいれた
作曲家を知らない。
0180174
垢版 |
2014/01/02(木) 14:26:29.43ID:???
こんなに早くレスつくとは思いませんでしたw

古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思いますよ。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。
だからアレがあんま「日本の」って言われることがそもそも疑問ですね。

古賀氏の音楽を、もちろん旧邦楽ともですが、安易に朝鮮音楽に結び付けるのは、
「ちゃんと分析してないから」としか言えませんw
0181昔の名無しで出ています
垢版 |
2014/01/02(木) 15:00:32.72ID:d1REtoQn
>>180さん

>古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思いますよ。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。
だからアレがあんま「日本の」って言われることがそもそも疑問ですね。

そのとおりだと思います。

古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思います。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。

古賀政男の音楽は、洋楽に、日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたものだと思います。
0182昔の名無しで出ています
垢版 |
2014/01/02(木) 21:18:06.47ID:d1REtoQn
>>170
作曲家・古賀政男は、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。

『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』 『美わしの宵』『嘆きの夜曲』(関種子)、『キャンプ小唄』(藤山一郎)、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎)・・
古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せる。

『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・・ジプシー音楽(ジプシー短音階)、セレナーデ風の佳曲。
0183昔の名無しで出ています
垢版 |
2014/01/03(金) 09:31:54.82ID:Si+RuZiN
タンゴと歌謡曲は戦前から密接な関係があったようで、歌謡曲の創世記に、ハバネラタンゴのリズムが使われた。古賀政男(「正男」)作曲、佐藤千夜子がビクターで吹込んだ《日本橋から》のリズムがそうである。
その後、関種子によって再録音(コロムビア)された。邦人歌曲においてタンゴのリズムが使われた最初の例であろう。

「日本橋から」以来、戦後にいたるまで歌謡曲では旋律に変化をあたえるリズムとして多用されるようになり、流行歌の発展には欠かせなくなりました。 
「赤い花」「銀座セレナーデ」「黒いパイプ」「夢去りぬ」「落葉しぐれ」・・、昭和22年東宝 『音楽五人男』挿入歌「バラ咲く小径」などがあげられる。

ジプシー音楽とハバネラが古賀メロディーの原点だった!ともいわれる所以だろう。
0184昔の名無しで出ています
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2014/01/03(金) 21:10:08.57ID:sSKk/s+T
81年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは、ライバルであるビクター専属の看板作詞家・西條八十と、コロムビアの看板作曲家・古賀政男に、1年間、専属を超えてコンビを組ませるという、昭和歌謡史に残る企画を発表したのです。

これによって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。

また、昭和14年から、二人はコロムビア専属となるのだが、「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「熱砂の誓い」「紅い睡蓮」「サヨンの鐘」「麗人の歌」「三百六十五夜」・・
など戦後に至るまで、数え切れないほど沢山の「西條八十作詞・古賀政男作曲」の名曲を世に送り出すのです。
0185昔の名無しで出ています
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2014/01/09(木) 11:21:23.90ID:+yLiMi+h
TBSに古賀さん自身が影を慕いてを唄っている映像が残っていてビデオ化もされているが
CSでいいから古賀政男大会全編放送してほしい
0186昔の名無しで出ています
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2014/01/10(金) 08:11:46.70ID:Ti9NXNWX
昭和7年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
0187昔の名無しで出ています
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2014/01/10(金) 11:48:40.35ID:Ti9NXNWX
「影を慕いて」 昭7、 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎

昭和7年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

国立国会図書館 第79回 常設展示  平成9年3月25日〜4月25日
流行歌に見る世相と大衆のこころ ―昭和のはじめから東京オリンピックまで―
0188昔の名無しで出ています
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2014/01/10(金) 14:26:45.83ID:Ti9NXNWX
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
0189昔の名無しで出ています
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2014/01/10(金) 21:54:12.04ID:Ti9NXNWX
商業レコードの黎明期、その最初は新民謡『波浮の港』(昭和3年)であったように、歌謡曲(流行歌=レコード歌謡)は、「新民謡」から発展した。
そこに若き古賀政男が現れ、晋平の時代に新風を吹き込むこととなった。

これからは、何々「節」の時代ではなく「メロディー」の時代だと言っていた。
80年以上前から、古賀政男は歌謡において、これまで以上に「メロディー」の重要さを強調していた。

実際に,晋平(節)の時代から「古賀メロディ」の時代へ、ビクター時代からコロムビア時代へと流れが大きく変わってゆく。
そして、古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
0190昔の名無しで出ています
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2014/01/12(日) 16:42:31.21ID:FryqhL4G
>>181-183
(参考)

「赤い花」    1934、飯田信夫作詞 松平 信博作曲   藤山一郎 
「夢去りぬ」   1939 奥山 靉作詞、服部良一作曲.   霧島昇
「銀座セレナーデ」1946 村雨まさを作詞、服部良一作曲  藤山一郎
「黒いパイプ」  1946 サトウ ハチロー作詞、服部良一作曲 二葉あき子
「バラ咲く小径」 1947 野村 俊夫作詞、古関裕而作曲  藤山一郎
「落葉しぐれ」  1953 吉川 静夫作詞、吉田正作曲   三浦洸一
0191昔の名無しで出ています
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2014/01/13(月) 23:07:58.76ID:8hEtKy8j
今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。

昭和〈1926〜1989〉と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

今や、ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年(1925)7月12日、現在NHK放送博物館のある東京港区・愛宕山の放送所で本放送が開始された。
この時、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がラジオ本放送の始まりだそうだ。佐藤千夜子はレコードだけでなくラジオで歌うようになる。

参考までに、佐藤千夜子の最初のレコードは、大正14年(1925) 内外蓄音器、「青い芒(すすき)」(野口雨情作詩、中山晋平作曲)、これは全国歌の旅の途中で録音したもので、ビクターで再録音されている。
なお、そのNHK本放送直後の7月28日に、長田幹彦原作のラジオドラマ「悲しき遍路」が放送された。佐藤千夜子出演で、NHKアーカイブスで聴くことが出来、現存する最古の公開ライブラリーとなってる。
まさに「佐藤千夜子」は新しい時代のスターだったのだ。
佐藤はその中で、「悲しき遍路」(長田幹彦作詞、中山晋平作曲)を歌っている。

「作曲家・古賀政男」は、この栄えあるレコード歌手第一号「佐藤千夜子」の力添えで誕生し、メジャーデビューしたといえる。

今から83年前の、昭和6年(1931)3月、古賀政男26歳だった。
0192昔の名無しで出ています
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2014/01/20(月) 00:18:53.55ID:Ei2wj0tj
童話・童謡運動の真っ盛り、同時に新民謡運動が目覚め、童謡・新民謡運動へと変質して行く、大正から昭和にかけての時代。

1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学した佐藤千夜子、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、
演奏家の古賀正男(古賀政男)、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、大衆音楽の黎明期、激動の時代を駆け抜けてゆきます。

そして、「レコード歌謡」が形作られ、さらに童謡・新民謡風の時代から、古賀政男の登場によって、より「メロディー」が強調されたものになる。
より繊細で温かみのある、人を引き込む「古賀メロディ」の、まさに「3分間の芸術」の極致たる世界に入ってゆく。

古賀のいわゆる「古賀メロディ」は、中山晋平の「晋平節」と並んで、昭和初期レコード歌謡の代表的旋律でした。

「晋平“節”」の時代から、「古賀“メロディ”」の時代へ、昭和一桁時代に、人はそう呼ぶようになってゆく。
0193昔の名無しで出ています
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2014/01/20(月) 00:41:12.67ID:Ei2wj0tj
「日本の名曲」で、古賀メロディの傑作「影を慕いて」
昭和4年6月22日、 佐藤千夜子を招いての明治大學マンドリン倶楽部定期演奏會初演(ギター合奏)。
昭和5年10月20日、佐藤千夜子、ビクタースタジオで吹込み、「日本橋から」のB面。(ビクター、昭和6年1月新譜)。(この8日後には佐藤は日本を離れる。)
昭和7年1月、藤山一郎再吹込み(コロムビア、昭和7年3月新譜)。

http://www.bussan-tendo.gr.jp/?p=log&;l=6950
0194昔の名無しで出ています
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2014/01/20(月) 09:49:13.85ID:Ei2wj0tj
昭和3年、昭和の初め、人生の苦悩からはじまった「古賀メロディ」の歴史、若き古賀政男の人生の苦悩から生れた昭和流行歌(レコード歌謡)の最高傑作とされる「影を慕いて」。

この歌には古賀の人生の苦悩・絶望からの叫びが込められているといわれる、時代を超えた日本の名曲である。この歌が作られるのは『波浮の港』と同じ昭和3年の夏といわれる。現在ある殆どすべての日本の歌謡はまだ存在していなかった時代。
そして、菊池寛原作、日本最初の映画主題歌である「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)が流行した昭和4年、6月22日、 佐藤千夜子を招いての明治大學マンドリン倶楽部定期演奏會初演(ギター合奏)。
昭和5年10月20日、佐藤千夜子は、ビクタースタジオで吹込み。大衆音楽の黎明期、まだ一学生演奏家に過ぎなかった無名の作家の作品。ビクター内では反対もあっただろう、しかし佐藤千夜子のすごいところは、反対を押し切る形での録音だったことだ。
0195昔の名無しで出ています
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2014/01/20(月) 10:55:42.93ID:Ei2wj0tj
この録音の8日後には佐藤千夜子は日本を離れるのだ。ちなみに『影を慕いて』は『日本橋から』のB面だった。この『影を慕いて』のレコードがビクターから発売されたのは、まだ古賀政男は作曲家になる前の昭和6年1月早々である。コロムビアは、放っておかなかった。

このレコードを浅草・鳥越の斉藤楽器店で発見した人物が、コロムビアの営業マンだった伊藤正憲だった。当然コロムビアはレコードの発売を待っていたはずで、偶然ではないだろう。

影を慕いて  古賀正男作詞  佐藤千夜子 1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介作詞  同     1931年1月 ビクター 51519

昭和6年(1931)が明けてまもなく、古賀政男(正男)は、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から面会の申し入れを受ける。>>170

そして古賀政男(正男)26歳は、昭和6年(1931)3月20日付けで、日本コロムビアの専属作曲家として迎えられる。
0196昔の名無しで出ています
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2014/01/20(月) 14:59:37.93ID:Ei2wj0tj
>>195
参考

伊藤正憲「レコードと共に四十五年―私のアルバム」日本クラウン, 1971
0197昔の名無しで出ています
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2014/01/20(月) 16:27:47.96ID:Ei2wj0tj
古賀メロディの原点であり、不朽の名曲「影を慕いて」は、美しき日本の歌で、クラッシックの演奏会のプログラムにもよく見受けられる。今や「古賀メロディ」を超えて『日本の名曲』になっている。

かって、平成のはじめごろ、NHKTV『日本の名曲10』という企画があった。「荒城の月」「波浮の港」など「日本の名歌」と言われる10曲を、1年間に渡り、ゴールデンタイムのそれぞれのNHKTV番組の最後の数分間をつかって放送した。
この10曲に『影を慕いて』が含まれているのは特質すべきことである。
0198昔の名無しで出ています
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2014/01/23(木) 23:50:15.19ID:Q1PlEpro
ここに古賀メロディの佳曲・『嘆きの夜曲』がある。
藤山一郎・『影を慕いて』と同じ、昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲、關(関)種子さん歌唱です。

丁度、東北・東日本大震災(2012)の80年前に作られたものです。
このYou Tubeには、「東日本大震災から1年になり、心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。」とあります。

震災復興支援ソング『花は咲く』と言うのがあります。花を持った若手が大勢歌う。でも、あれっ!?て思うのは、「追悼」であるのに、そこに最初にあるべき《哀しみ》というのが無いこと、いかにも残念なことだと思います。

今や「童謡」選の中に「影を慕いて」など「古賀メロディ」が入っている。癒しという点でも日本の共有財産、「日本の歌」になっている。

80年も前に作られたこの「古賀メロディ」、その簡潔な短い詞の中に、「普遍性」をもって、この大災禍の嘆き・哀しみさえをも予言したかのように包含したかのように、時代を超えて、
80年も後に起こった災禍に追悼の気持ちをぴったり共有しているというのは驚きとしかいえません。

「古賀メロディ」ほど無駄の無い音楽も無いだろう。
また「哀しみ」を歌ったら右に出るものもない「古賀メロディ」。


時代を超えた普遍性を持つ、ここに「古賀メロディ」の「古賀メロディ」たる所以がある。



嘆きの夜曲 関種子.wmv
公開日: 2012/03/05
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。
なお背景の画像は津波被害のものが多いですので、衝撃を受けやすい方々はご遠慮ください。
背景の画像と曲は直接は関係がありません。古いレコードですので雑音が多いのかもしれません。画像はおもにグーグルの検索画像から引用させていただきました。
http://www.youtube.com/watch?v=giaWCvjmsoY&;feature=endscreen&NR=1
0199昔の名無しで出ています
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2014/01/26(日) 16:50:15.03ID:pSk3QESI
藤山一郎の影で、彼ほど知られていないが、藤山一郎とともに、忘れてはならない歌手に、東京音楽学校本科を首席で卒業し、ドイツリートの傍ら、初期の「古賀メロディ」を支えたクラッシックのソプラノ歌手・関種子がいる。
『乙女心』『窓に凭れて』『日本橋から』『青春図絵の唄(貞子の唄)』『博多小夜曲』『かた思い』『あけみの唄』『金色夜叉(お宮の唄)』『笛は冴ゆれど』『朝顔の唄』『秘めたる恋』『美わしの宵』『嘆きの夜曲』『去りゆく影』
『初恋の唄』『愛は紅い』『さらば上海』・・など多くの「古賀メロディ」を歌っている。

古賀政男がテイチクに移った後、1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍。


2011-09-21 03:15:06
昭和の歌手シリーズ『関種子』
http://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html
0200昔の名無しで出ています
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2014/01/30(木) 19:46:38.55ID:TXgf+cQf
寺山修司の編著作の名著に「日本童謡集―青い目の人形から唐獅子牡丹まで」〈光文社カッパブックス1972、1995年復刻版〉と言う本がある。童謡の概念は子供の歌に限らない、その中には「影を慕いて」など沢山の古賀メロディの名曲が入っている。

寺山修司は、この本のまえがきで、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。
「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」と。

また、童謡の価値は、子供時代に歌われた頻度によって決まるのではなく、大人時代の思い出された頻度によって決まるとも言っている。

80年を超える「童謡」も歌謡曲も、やはりすぐれた歌、年月に耐えた歌というものは、長い人生の中で繰り返し現れる。年を重ねるうちに、その短い詞の中にああこういうことなのかと、解釈や感じ方にも深みを増す。
映画に「主題歌」があるように、人生にも主題歌があるはずだという。

昭和が終わって平成の時代がはじまった平成元年(1989)に、忘れ去られつつある日本の
「うた」を日本全国の人々とともに掘り起こし、つぎの世代に伝える「文化遺産」として集大成して、記録にとどめようという趣旨のもとにNHKは、「日本の歌・ふるさとの歌 ベスト100曲」を選定、11月4日に放送。

唱歌・童謡が殆どである中に、「荒城の月」、「城ケ島の雨」、「波浮の港」、それに「影を慕いて」、時を越えた日本のスタンダ-ド、日本の歌・ふるさとの歌として、数多有る中で特にこの日本の名曲4曲だけがジャンルを超えて選ばれているのが印象的である。
http://www.geocities.jp/fujiskre/ka94.html

温かい家庭の和と憩いを夢見た古賀政男、養女に「おとうちゃん」と呼ばれて嬉しくて涙を流した。「明日に残す心に残るうた」・・、「赤い靴」など唱歌童謡の中に「影を慕いて」が含まれる。
HP・童謡新聞 「心の故郷」はこう報じている。
0201昔の名無しで出ています
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2014/02/12(水) 10:21:54.61ID:bU7D9kXA
古賀メロディ誕生70周年記念 古賀政男大全集〜二十世紀の遺産〜 [16CD]
http://artist.cdjournal.com/d/-/3198052509
規格品番: COCA-15216〜31
発売日: 1998/07/18

名曲「影を慕いて」誕生から70年、古賀政男没後20年にちなみ究極の全集を発売。日本人の心に生き続ける古賀メロディを通じて20世紀を振り返る。資料性も高く貴重な作品。全16枚組。
昭和の大衆歌謡を象徴する作曲家・古賀政男の作品を,彼が活躍したビクター,コロムビア,テイチクから集めた文字通りの大全集。

「文のかおり」(佐藤千夜子1930)から、「ひろしまの母」(島倉千代子1977)までCD16枚組、全333曲。

他にDisc16には、以下など貴重な曲が入っている。

03二見情話 (知名定男、大城美佐子)ステレオ版、1932沖縄民謡
13軍艦行進曲 (明治大学マンドリン倶楽部)古賀政男編曲
14荒城の月 (李香蘭)(土井晩翠作詞、瀧 廉太郎作曲, 古賀政男編曲)1942
16米国NBC放送番組:緑の月〜あゝそれなのに〜男の純情〜酒は涙か溜息か〜丘を越えて (1939年8月31日、アメリカNBC放送)
17二世行進曲 (有松由子、板野雪人)

なお、古賀政男音楽博物館(古賀博物館)で、パソコンで選んで1000曲が聴ける。
0203昔の名無しで出ています
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2014/02/12(水) 20:03:13.91ID:bU7D9kXA
昨年の「第55回日本レコード大賞」は、AKB48かEXCILEかと言われ、EXILEが3年ぶり4度目の受賞となったが7割が納得できないという。
古賀政男の作った「レコード大賞」も時代の趨勢には勝てない。作曲活動奨励のため、昭和43年11月に作られた優秀作曲作品に贈られる「古賀政男記念音楽大賞」も、
平成元年、第10回で森進一が優秀賞を貰ってるのですが、残念ながらその後どうなったのかはわかりません。

レコード大賞に西條八十の名を冠した作詞賞があったが現在無いよう。西條八十、古賀政男いずれも誰でも聞いたことがある「巨匠」と言われる。
何でも『名曲』の時代、その名に相応しい、趣旨に合致する曲が付いてこれないと存続も難しいのかもしれません、残念です。
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2014/02/13(木) 19:46:12.69ID:BqUoJ/vr
コロムビア創立百周年記念 古賀政男名曲大全集 CD D6160 GES31911-20

CD10枚組・全200曲収録・別冊歌詞集付

●制作:コロムビアミュージックエンタテインメント(株)
●音源協力:(株)テイチクエンタテインメント
 (株)徳間ジャパンコミュニケーションズ
●制作協力:(財)古賀政男音楽文化振興財団
●発売 2009年11月17日
http://shop.columbia.jp/pickup/kogamasao.html

2010年、コロムビアミュージックエンタテインメントは創立100周年を迎えますその記念企画の一つとして今回ご案内いたしますのが、コロムビアの“顔”であり、昭和歌謡史上最大の巨人、古賀政男の作品全集です。

5000曲ともいわれる“古賀メロディー”の膨大な作品の中から、コロムビア音源を中心に選びに選び抜かれた究極の名曲・全200曲。
0205昔の名無しで出ています
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2014/02/17(月) 11:30:58.26ID:AfrprwfD
西條八十全集 生誕100年 [16CD ]
http://artist.cdjournal.com/d/-/1193010669 (CD Journal)
·規格品番: COCA-10026〜41 (CD16枚組)
·発売日: 1992/10/01

純粋詩から、童謡から新民謡、歌謡曲までを手がけた詩人・西條八十生誕100年記念の全集です。
日本コロムビア、ビクター、キング、ポリドールなどのオリジナル音源を収録した文字通りの全集。

童謡854篇(うち訳詞63篇)流行歌3千2百曲、校歌・社歌700曲以上を含めて、西條八十の生涯の作品数は、計1万5千曲にのぼる。

「東京行進曲」「サーカスの唄」「誰か故郷を想わざる」「同期の桜」「青い山脈」「王将」ほか、昭和の戦前・戦中・戦後を色どった歌の多くが西條八十の詞であった。

他の作曲家から「古賀先生」と呼ばれていた古賀政男が、生涯「西條先生」と「先生」をつけて呼んでいた西條八十。

最も多く珠玉の名曲を残した作品、古賀政男との作品に、歌謡曲篇(11CD)のうち、3CD(66曲)を割き、かつその貴重な対談5つを載せている。


[Disc 1]〈童謡編〉
[Disc 2]〈歌曲編〉
[Disc 3]〈外国曲編〉
[Disc 4]〈新民謡編〜中山晋平作品集〉
[Disc 5]〜[Disc15]〈歌謡曲編)(11) うち(1)〜中山晋平作品集
[Disc 16]〈詩人の声・対談〉
0206昔の名無しで出ています
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2014/02/17(月) 16:25:13.91ID:AfrprwfD
昭和13年〈1938〉11月8日、「人生劇場」(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫)を最後にテイチクからコロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米。
約1年間、全米や南米などを周り、昭和14年10月10日に帰国。

昭和14年〈1939 〉8月31日、1分間1万ドルと言われた、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。

アメリカから帰国凱旋した古賀政男は、「世界の古賀」になったことで、ますます自信を深めてゆく。

そして洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940) 2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》(西條八十作詞)がヒット。

古賀政男はアルゼンチンの音楽をたっぷり自分のひきだしにつめて帰り「誰か故郷を想わざる」、「春よいずこ」に応用した。

アルゼンチンのギターの最高権威者アントニオ・シノポリや、タンゴ黄金時代の巨匠の一人で、わが国タンゴ愛好家のアイドル的存在、フランシスコ・ロムートが率いるオルケスタなどの音楽を吸収したのである。

また、帰国後、古賀政男は明らかにジャズの影響が見られた。
昭和16年、太平洋戦争直前に発売された、古賀メロディーにしては珍しいジャズ調の《歌えば天国》(1941)、サトウハチロー作詞、同名の東宝映画主題歌や、『ジャズ忠臣蔵』(サトウハチロー作詞)などである。

古賀政男は、その直前1938年、アルゼンチン訪問した藤原義江に見送られて横浜を発ち、帰国時には三浦環の歓迎を受けた。

昭和10年(1935)年9月、ビクター専属から、コロムビアへと移籍していた西條八十、ここに西條八十・古賀政男コンビが復活。
昭和13年(1938)には、サトウハチローがコロムビアの専属に。

そして、昭和14年4月には、3年の契約が切れた藤山一郎がテイチクから、コロムビアに移籍。

昭和15年(1940)には、佐藤惣之助がコロムビア専属に。
(昭和17年5月に、この世を去る。)

こうして、ここに古賀政男第三期黄金時代が始まる。
0207昔の名無しで出ています
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2014/02/18(火) 20:46:03.74ID:0F1x0wHA
佐藤惣之助    〜歌謡曲普及の功労者〜

古賀メロディーの作詞家をみて驚くのは、[名曲]と言われる歌に「佐藤惣之助・作詞」というのがなんと多いことか。
古賀メロディーのヒットは、西條八十とともに、佐藤惣之助の日本人の心に訴える名詞があったことを否定できません。
昭和の日本人の古き良き哀歓を謳いあげ、今も延延と根強く愛唱されています。

一般庶民の生活を題材とした詞によって、歌謡曲を身近な音楽として大衆に普及させた功績は大きい。


藤山一郎・・・・「男の純情」「青春日記」「青い背広で」「東京娘」「さらば青春」「白薔薇は咲けど」     
関種子・・・・・「笛は冴ゆれど」「朝顔の唄」「金色夜叉(お宮の唄)」「秘めたる恋」「愛は紅い」
淡谷のり子・・・「アリランの唄」「不如帰」「春の唄」
楠木繁夫・・・・「緑の地平線」「人生劇場」「白い椿の唄」「慈悲心鳥の唄」「真実一路の唄」       
ディックミネ・・「人生の並木路」「愛の小窓」「ゆかりの唄」「白衣の佳人の唄」「黄河の月」    
丸山和歌子・・・「月夜の恋」
中野忠晴・・・・「武雄の唄」
霧島 昇・・・・「新妻鏡」  
伊藤久男・・・・「馬」
             
                                      など

72年前、太平洋戦争が始まって5ヶ月ほどした昭和17年(1942)5月15日、 佐藤惣之助(51歳)が、外出先の東京都大田区雪谷で、脳溢血のため亡くなりました。
2日前に義兄の萩原朔太郎の告別式があり、 佐藤はそこで葬儀委員長をやったばかりだった。

佐藤惣之助 (1890〜1942)  詩人。神奈川県川崎生まれ。民衆詩派系の人道主義詩人として出発。
大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。
http://designroomrune.com/magome/daypage/05/0515.html
http://touyoko-ensen.com/syasen/tudukiku/ht-txt/tudukiku21.html
0208昔の名無しで出ています
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2014/02/19(水) 21:54:42.09ID:PvlqXEXE
>>207

☆佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲・編曲作品
その1

・藤山一郎
[男の純情」「青春日記」「青い背広で」「東京娘」「さらば青春」「白薔薇は咲けど」「青春の謝肉祭」「さらば青春」「青春旅情」「大洋の寵児」「旅の鴎」「聖処女(きよおとめ)の唄」「働こうぜ友よ」   
・井上静雄(藤山一郎)
「鳩笛を吹く女の唄」
・関種子
「笛は冴ゆれど」「朝顔の唄」「金色夜叉(お宮の唄)」「秘めたる恋」「愛は紅い」
・淡谷のり子
「アリランの唄」「不如帰」「春の唄」
・長谷川一郎
「放浪の唄」              
・楠木繁夫
「国境を越えて」「白い椿の唄」「緑の地平線」「人生劇場」「慈悲心鳥の唄」「真実一路の唄」「男のまごころ」「護れ国境」「丹下左膳の唄」「明けゆく蒙古」「カボチャの歌」       
・ディックミネ
「人生の並木路」「愛の小窓」「ゆかりの唄」「白衣の佳人の唄」「黄河の月」「波止場がらす」、   
0209昔の名無しで出ています
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2014/02/19(水) 21:56:53.92ID:PvlqXEXE
その2

・丸山和歌子
「月夜の恋」
・松島詩子
「思い出の雪」
・中野忠晴
「武雄の唄」
・音丸
「会津磐梯山」(日本民謡)
・奥田瑛子
「緑の月」「浜辺の哀唱」
・霧島 昇
「新妻鏡」  
・伊藤久男
「海の豪族」「馬」
・酒井弘
「働く力」(国民皆労の歌)


☆八十と惣之助

大正期の詩人として、西条八十(1892 - 1968)と佐藤惣之助(1890 -1942)のふたりが、 なぜか気になる。
八十は芸術派、惣之助は人道派とタイプは違うが、似ているところもあ る。ひとつは、詩のうまさ。
もとより、その質は異なるし、そのうまさに余剰(余情にあらず)がないところがものたりないと云えるが。
もうひとつは、後に歌謡曲の作詞家として名をなしたところ。・・


なお、惣之助の義兄であり「日本詩人」同人でもある萩原朔太郎、古賀政男とは関係が深い詩人で、「古賀メロディ」を高く評価していました。

上村直己「西条八十・佐藤惣之助における詩から歌謡への移行について」( 日本歌謡学会. 日本歌謡研究(通号 18) 1979.04))(ISSN―0387-3218)
0211昔の名無しで出ています
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2014/02/20(木) 09:03:13.87ID:nVk2MxF3
古賀政男は、自伝「歌はわが友、わが心」(人間の記録93 日本図書センター)で、「私が作曲の醍醐味を知ったのは、やはり惣之助さんと出会ってからだ」と回顧している。

詩人・佐藤惣之助の簡潔にして適切な名詞は古賀政男の曲と出あうことによって、いつの時代にも、それぞれの聴く人の人生に重ねあわせることができる。時代を超えるすばらしい名曲となったということでしょう。

佐藤惣之助は当時盛んであった民謡詩も多く書いていて、昭和4,5年頃の作品に新民謡が多くみられる。
その中には、「新作おわら」(おわら歌詞)、「下婢」(昭和4年)、「大分おどり」「川崎小唄」(町田嘉章曲、川崎 豊、コロムビア )などがある。(昭和五年発行『世界音楽全集13日本民謡曲集』)。

また、昭和5年には、「吉見紫香」の名前で「ふるさと」(松村まこと作曲、コロムビア)がある。


新民謡集
◇大正15年|佐藤惣之助『浮れ鴛鴦 民謠集』東京:紅玉堂書店。
◇昭和4年|佐藤惣之助『波止場のむすめ 新民謡集』東京:泰文館書店。


参考までに、詩人・佐藤惣之助の著作等の資料が以下の図書館で見れます。
http://burari2161.fc2web.com/satousounosuke.htm

・大田区立馬込図書館 馬込文士村コレクション資料
 http://www.lib.city.ota.tokyo.jp/o_magome_sa.html
・川崎市立中原図書館 佐藤惣之助資料
0213昔の名無しで出ています
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2014/02/21(金) 22:16:36.94ID:Yiz1RlWU
>>212

PROGRAM

1 「春の海」  作曲:宮城道雄(尺八:森川友博、ピアノ:吉野りん子)
Spring Sea music by MIYAGI Michio
syakuhachi:MORIKAWA Tomohiro,piano:YOSHINO Rinko

2 「アランブラ宮殿の思い出」  作曲:F.タレガ(ギター:中子祐二)
Recuerdos de la Alhambra music by Francisco Tárrega (guitar:NAKAKO Yuji)

3 「バルカローレ」  作曲:A.タンスマン(ギター:中子祐二)
Barcarole music by Alexandre Tansman(guitar:NAKAKO Yuji)

4  「影を慕いて」  作曲:古賀 政男(ギター:中子祐二)
 KAGE WO SHITAI TE music by KOGA Masao(guitar:NAKAKO Yuji)

5  「ダニー・ボーイ」  作曲:アイルランド民謡
(ソプラノ:伊藤明日奈、アルト:吉野りん子、ギター:中子祐二)
Danny Boy Irish traditional (soprano:ITOH Asuna,alt:YOSHINO Rinko,guitar:NAKAKO Yuji)

6  「エーデルワイス」  作曲:R.ロジャース 作詞:O. ハマースタイン2世
(ソプラノ:伊藤明日奈、アルト:吉野りん子、ウクレレ:中子祐二)
Edelweiss music by Richard Rodgers & words by Oscar Hammerstein II
(soprano:ITOH Asuna,alt:YOSHINO Rinko, ukulele :NAKAKO Yuji)
0214昔の名無しで出ています
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2014/02/22(土) 09:49:56.60ID:fsOei9GI
>>213
【曲目解説】
4 影を慕いて (ギター:中子祐二)
 KAGE WO SHITAITE(guitar:NAKAKO Yuji)
『影を慕いて』 (かげをしたいて) は歌謡曲の一つ。古賀政男作。藤山一郎の歌でヒットした。歌謡曲としては1931年発表。藤山一郎のヒット曲。作曲者古賀政男の人生の苦悩から生れた昭和流行歌の最高傑作である。
この歌には古賀の人生の苦悩・絶望からの魂の叫びが込められており、古賀政男の人生の歌ともいえよう。
0215昔の名無しで出ています
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2014/02/27(木) 10:25:25.77ID:iNzVDqaH
☆古賀政男作品 主なCD

>>201   『古賀政男大全集〜二十世紀の遺産〜』 [16CD] 1998.7
>>205 『西條八十全集 生誕100年』  [16CD] (内古賀作品3CD)1992.10
>>204   『コロムビア創立百周年記念 古賀政男名曲大全集』 (10CD) 2009.11

『演奏家 古賀政男のすべて』(10CD) 2008.9
『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・下)』(各20曲)
 テイチクTECE 2445925460 テイチク作品 2004.12
0216昔の名無しで出ています
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2014/02/28(金) 12:34:54.60ID:qAvDhKxq
>>208-209
☆佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲・編曲作品


藤山一郎・・・・「男の純情」「青春日記」「青い背広で」「東京娘」「さらば青春」「白薔薇は咲けど」「青春の謝肉祭」「青春旅情」「大洋の寵児」「旅の鴎」「聖処女(きよおとめ)の唄」「働こうぜ友よ」「勇敢なる航空兵」、「山内中尉の母」    
井上静雄(藤山一郎)・・「鳩笛を吹く女の唄」
関種子・・・・・「笛は冴ゆれど」「朝顔の唄」「金色夜叉(お宮の唄)」「秘めたる恋」「愛は紅い」
淡谷のり子・・・「アリランの唄」「不如帰」「春の唄」
長谷川一郎・・・「放浪の唄」              
楠木繁夫・・・・「国境を越えて」「白い椿の唄」「緑の地平線」「人生劇場」「慈悲心鳥の唄」「真実一路の唄」「男のまごころ」「護れ国境」「丹下左膳の唄」「明けゆく蒙古」「カボチャの歌」       
ディックミネ・・「人生の並木路」「愛の小窓」「ゆかりの唄」「白衣の佳人の唄」「黄河の月」 「波止場がらす」、   
丸山和歌子・・・「月夜の恋」
松島詩子・・・・ 「思い出の雪」
中野忠晴・・・・「武雄の唄」
音丸・・・・・・「会津磐梯山」(日本民謡)
奥田瑛子・・・・「緑の月」「浜辺の哀唱」
霧島 昇・・・・「新妻鏡」  
松原操・・・・・「勤労乙女」
李香蘭・・・・・「北京の子守唄」
由利あけみ・・・ [愛国六人娘]
伊藤久男・・・・「海の豪族」「馬」
糸井しだれ・・・「おもいでの都」
酒井弘・・・・・「働く力」(国民合唱・国民皆労の歌)
0218昔の名無しで出ています
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2014/03/01(土) 16:42:24.56ID:OwJ884oD
目ン無い千鳥は放送禁止曲なのでしょうか。
大川栄策がデビュー時にカバーしそこそこヒットしましたが最近は全く歌いませんし
ラジオでも全く流れません。CDの歌詞カードには不適切な表現云々書かれています。
0219昔の名無しで出ています
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2014/03/01(土) 19:44:21.14ID:OwJ884oD
同じく古賀政男作曲「目ン無い化粧(霧島・島倉)」にも不適切云々書かれています
0220昔の名無しで出ています
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2014/03/01(土) 20:13:23.32ID:7U4XOzxD
「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞)は、日米開戦前年、昭和15年(1940)に公開された,小島政二郎原作、東宝映画「新妻鏡」の挿入歌です。 (主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)のB面)

戦前戦後2回映画化され、戦後テレビドラマでも3回放送されています。
映画化(1940,1956) 
TVドラマ化(1966,1869.1974) ・1969年挿入歌「目ン無い千鳥」 歌・大川栄策


♪目 ン無い千鳥の高島田 見えぬ鏡に いたわしや 曇る今宵の 金屏風 誰のとがやら 罪じゃやら・.・

「目 ン無い千鳥」とは、目隠し鬼ごっこのこと。子供の空気銃の誤射によって失明した薄幸の美女が辿る「数奇な運命と美しい愛の物語」。

目が見えぬということを、一言も触れずに,それをあらわしています。多分、今ではこういう歌はできないでしょう。この美しい歌が、放送禁止曲とかになったということはありません。

この名歌については、「新妻鏡」と一体で、ぜひこちらを一通りお読みください。
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_1ee6.html

太平洋戦争前に、こうした青春歌謡ができていたことは驚きです。日本がまだまずしかった時代、貧しくもこころ豊かな時代だからこそ生まれた歌でしょう。

でもやはり、霧島昇、ミスコロムビア夫妻が歌うからこその青春歌謡であって、大川栄策が歌うとド演歌になってしまうのは残念です。歌いこなせる歌手がいなくなってきているのは残念なことです。

飽食の時代といわれ久しいですが、日本が豊かになるにつれ、こうした歌が歌われなくなっていると言うことは残念なことです。
また最近、なんでも「言葉狩り」がまかりどおっているようなのは残念なことでは有りますね。
0222昔の名無しで出ています
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2014/03/02(日) 18:03:28.50ID:xL7MRIHl
http://www2.ocn.ne.jp/~stms/index.html/2006folder/tidori1.html

2006年11月
目ンない千鳥

テレビで「目ンない千鳥」という歌が流れていました。視覚障害を持つ私に この言葉が心に残りました。
「目ンない」とは当然、目が見えないことを意味していると考えたのです。
では、「目ンない千鳥」とは何を言うのでしょうか。
この歌の作詞家は何を意味して このタイトルをつけたかが知りたくなったのです。

この歌の作詞はサトウ・ハチロー、作曲は古賀政男です。歌「目ンない千鳥」の歌詞は次の通りです。

「新妻」とは今や死語となっていますが、この時代を生きた方々にはおわかりと思いますが結婚して間もない、どこか初々しい若妻のことです。
また、車中で化粧を行う現代の女性とは異なりこの当時の女性は鏡は女の命であった時代です。我が家も妻の嫁入り道具で最初に家の門をくぐったのは慣わしに従った鏡台で、これが現在まで私を圧し続けた女王の紋章を受け入れた瞬間でした。
「新妻 鏡」とは多分、結婚をする女性の心のような意味合いがあるのではと解釈出来ます。
0223昔の名無しで出ています
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2014/03/03(月) 08:54:52.35ID:5N6Sc/8Q
☆新東宝映画「新妻鏡」(1956)

「目ン無い化粧」(西條八十作詩 ;古賀政男作曲) 霧島昇/島倉千代子
「涙の白粉(おしろい)花」(西條八十作詩 ; 古賀政男作曲) 島倉千代子

島倉千代子は、別に「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)/「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞)をカバーしている。(1965、日本コロムビア/SAS-626)
http://blog.livedoor.jp/yousayplanet/archives/7405763.html
0224昔の名無しで出ています
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2014/03/03(月) 09:51:56.34ID:5N6Sc/8Q
吉祥寺の「目ン無い千鳥」
http://umigamenote.com/blog-entry-150.html

暖かさを感じる日だった。
というよりも、昨日までが寒すぎたのだ。
今日はなにもやらずに過ごそうと思っていたのだが、どうしても書き留めておきたいことができた。

夕刻に吉祥寺に寄ったところ、駅の近くのアーケード商店街の前のバス停留所のベンチのところで、変わったストリートミュージシャンが演奏していた。少しはなれたところを歩いていた私の耳にアコーデオンの音楽がとびこんだ。
続いて歌う声が聴こえた。とっさに、ああ「目ン無い千鳥」だとわかった。
0225昔の名無しで出ています
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2014/03/03(月) 20:19:08.17ID:???
>>223
1956年版は古賀政男役でご本人が登場していますね。
古賀さんが指揮棒を振って島倉さん、池内さんが唄うシーンを見たことがあります。
0226昔の名無しで出ています
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2014/03/03(月) 22:29:14.69ID:5N6Sc/8Q
小島政二郎原作による東宝「新妻鏡」(1940)の戦後リメーク版が、新東宝「新妻鏡」(1956)。
島倉千代子も、このリメーク版映画に本名名ででていて、この歌は島倉千代子のために作られたような歌ですね。
0228昔の名無しで出ています
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2014/03/04(火) 00:34:42.11ID:FCwH3elu
佐藤千夜子さんに見出されたからね。
0231昔の名無しで出ています
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2014/03/12(水) 22:47:40.11ID:triqTser
数え切れないほど多くのヒット曲を持つ「古賀メロディ」。「古賀メロディ」ほど多くのヒット曲を持つものもありません。
そして、その多くは「映画主題歌」でもあります。    

「古賀メロディ」ほど、多くの映画主題歌を持つものもないのです。

「古賀メロディ」は、まだ無声映画の時代から多くの映画主題歌を世に送り出しています。
その多くは、今流に言えば「青春」を歌ったもの(青春歌謡)です。「古賀メロディ」というは、元祖青春歌謡ともいえるものでしょう。
その主題歌の多くは佐藤惣之助、西條八十、サトウハチローなどの珠玉の名詞によるものです。

酒は涙か溜息か(想い出多き女)、丘を越えて(姉)、あけみの唄(佳人よ何処へ)、さらば上海(上海)、緑の地平線(緑の地平線)、東京ラプソディー(東京ラプソディー)、
男の純情(魂)、二人は若い(のぞかれた花嫁)、ああそれなのに(うちの女房にゃ髭がある)、人生の並木路(検事とその妹)、
新妻鏡(新妻鏡)、目ン無い千鳥(新妻鏡)、熱砂の誓い(熱砂の誓い)、紅い睡蓮(熱砂の誓い)、・・麗人の歌(麗人)

昭和SP歌謡の時代、日本がまだ草深く、そして貧しかった時代、まだテレビも無かった時代、昭和の初めから30年代にかけては「日本映画黄金時代」。どんなちいさな街にも、小さな映画館があって、その映画を心待ちにしたことでしょう。
ヒット曲、それは、それだけ多くの人々に支持され愛され歌われたということです。
0233昔の名無しで出ています
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2014/03/13(木) 00:20:05.04ID:6RXPvZNv
古賀さんと親しい作曲家は誰だったのかなあ?
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