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古賀政男総合スレ
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0101昔の名無しで出ています
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2013/11/14(木) 15:56:29.27ID:ojiQsUx3
これらの多くは藤山一郎とかが歌っていたもので、なんといっても物足りなさは拭ぐえないものでしたが、80年以上前の歌が今も歌われていることはすごいことだと思います。
0102昔の名無しで出ています
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2013/11/15(金) 18:14:11.11ID:/1m+ACsU
底辺に哀調と愁いを秘めた誰も真似のできない独特のメロディ、音のキャンパスいっぱいつかったような,
昭和のはじめから「古賀メロディ」と呼ばれて親しまれてきたそのメロディには、
16部音符とか使った「小節」が多用されている。

ディックミネも、それでなくとも音域が広く僕にはとても歌えません、勘弁してくださいと辞退しようとしたという、
とても今の演歌歌手のとても歌いこなせるようなものではない。
もっとビデオなど元の歌手の実映像を活用しないと演歌になってしまうだろう。
0103昔の名無しで出ています
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2013/11/17(日) 09:44:51.80ID:mfmrqD+p
>>100
それを言ったら美空ひばりの「悲しい酒」はどうなるのか・・・。
0104昔の名無しで出ています
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2013/11/17(日) 19:50:43.53ID:dE9H2J95
同じでしょ
0105昔の名無しで出ています
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2013/11/24(日) 10:15:54.39ID:sg4LG34U
昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。
0106昔の名無しで出ています
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2013/11/24(日) 14:07:47.73ID:Blud878E
懐メロには小節(しょうせつ・。こぶしともいうことがある)が多く使われています。特に古賀政男は、5連符6連符といった小節を多く用いました。デッィク・ミネが古賀政男に流行歌を勧められた時、「私はジャズ歌手なので小節(こぶし)が苦手でして」と躊躇したという。
小節が廻るとは4部音符2部音符のように長い音符の小節(しょうせつ)に比べて16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげること。
ジャズなど洋楽には日本の流行歌のような小節(こぶし)の小節(しょうせつ)はない。歌うにも、演奏するにも「古賀メロディ」は難しい。
0107昔の名無しで出ています
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2013/11/24(日) 16:50:23.02ID:Blud878E
5連符、6連符といった小節を多く用い、16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげ、
前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、あの独特の哀調を帯びたメロディ、
人はそれを「古賀メロディ」と呼んだんだね。
0108昔の名無しで出ています
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2013/11/25(月) 22:26:49.18ID:AZBJz+UG
>>103
美空ひばりは一種の怪物ですから…
0109昔の名無しで出ています
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2013/11/26(火) 21:25:18.99ID:2Bq5zVWR
あの嘘泣き見ると虫酸が走る
0110昔の名無しで出ています
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2013/11/28(木) 08:37:41.71ID:HQpw9m2c
あれ、ひばりのオリジナルな持ち歌じゃないそうだよ・・。
0111昔の名無しで出ています
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2013/11/28(木) 22:20:55.50ID:eoCC/4Cl
>>110
オリジナルは北見沢淳。

ところで井上宗孝とシャープファイブの「古賀メロディ大作戦」というアルバムって
このスレ的にはどうなの?
強烈なファズのかかった演奏が聴けるけど。
0112昔の名無しで出ています
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2013/11/29(金) 22:57:43.23ID:HriPOBVu
「古賀メロディ」を含め世界の色々な音楽に挑戦しているという点では買えるでしょうが、
なにぶんリズム系バンドにつき、「メロディ」で呼ばれる、あの哀調を帯びた独特のメロディになじまないのでは。
0113昔の名無しで出ています
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2013/11/30(土) 07:04:38.01ID:/b2+liUO
>>111>>112
裏ジャケでシャープ5ベースを抱えてしゃがんでる古賀先生がおちゃめ
0114昔の名無しで出ています
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2013/11/30(土) 10:16:56.83ID:y2kbFj0B
>>109

古賀先生も苦笑してたんでしょうね。
0115昔の名無しで出ています
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2013/12/01(日) 18:41:42.30ID:v8JxNKD6
古賀政男と美空ひばりの歌の出会いは、昭和30年(1955)、ひばり18歳の時、松竹映画『娘船頭さん』の主題歌『娘船頭さん』(西條八十作詞、古賀政男作曲)♪娘十八 口紅させど わたしゃ淋しい 船頭むすめ・・

島倉千代子が、初めて「りんどう峠」(西條八十作詞、古賀政男作曲)歌ったのも同じ年です。(ついでに、西條八十作詞歌謡作品で圧倒的に多いのが古賀政男作曲。)

しかし、実際の出会いは意外と早く、昭和22年の春、ひばり10歳の時、横浜桜木町の焼けビルでのど自慢大会(「市民によるのど自慢大会」)があり、そこに古賀政男が審査員として来ていました。
ひばりを連れた母親は古賀政男の楽屋に強引に入り込み、娘の歌をぜひ聴いてくれ――と頼んだそうです。当時、売り込みを盛んにしていたようです。

ひばりのホームページにもでているのだが、絶賛されると書いてあるのだが、この点については書いてない。このとき近江俊郎/奈良光枝の歌った「悲しき竹笛」(西條八十作詞、 古賀政男作曲) を歌った。
0116昔の名無しで出ています
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2013/12/01(日) 18:48:23.19ID:v8JxNKD6
古賀は想像する以上に包容力のある人だったらしく、無名の少女が大人の歌を歌うのを聴いてくれました。伝えられるところでは、古賀政男はひばりの歌を褒めてくれたそうですが、デビューには直接は結びつきませんでした。

美空ひばりは昭和24年8月12歳のときに、『踊る竜宮城』に出演して『河童ブギウギ』(藤浦洸作詞、浅井挙曄作曲)を歌い、これがひばりのレコードデビューとされています。
 そのあと映画『悲しき口笛』(1949年9月10日)で主役を演じ、その主題歌『悲しき口笛』(藤浦洸作詞、万城目正作曲)が大ヒットして、実質的なデビューを果たします。
0117昔の名無しで出ています
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2013/12/02(月) 08:26:36.51ID:9x/9ZyO7
ひばりの歌で一番好きなのは『娘船頭さん』ですというのも多い。
0118昔の名無しで出ています
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2013/12/03(火) 20:49:00.55ID:A3byDrY1
>>100

しかし、藤山さんは、明るい歌を明るく歌ってないか?
0119昔の名無しで出ています
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2013/12/03(火) 22:36:11.81ID:aXZy30fz
古賀作品を最も唄った女性歌手は島倉千代子さんではないか。
地方盤PR曲などを含めると相当ある。
0121昔の名無しで出ています
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2013/12/05(木) 01:09:11.48ID:ZY20NSLm
>>119,>>120

5000曲とも言われる古賀政男の作品には、沖縄民謡「二見情話」1932 などの新民謡や、「会津磐梯山」「ヨサホイ節」など国内民謡曲や、「アリランの歌」「南の花嫁さん」など外国民謡曲等の編曲,「荒城の月」「宵待草」など国内曲の編曲など結構沢山ありますね。

1962年には、福井の新民謡「イッチョライ節(福井温音頭)」があり島倉千代子、守屋浩がうたってますね。
0122昔の名無しで出ています
垢版 |
2013/12/05(木) 01:12:46.74ID:ZY20NSLm
>>121
☆古賀政男の主な編曲曲

アリランの唄〈朝鮮民謡〉1932(佐藤惣之助作詞、古賀政男編曲)
(コロムビア27066/淡谷のり子・長谷川一郎=蔡奎Y)
  ・・ 日本で「アリラン」が歌になった最初の歌とされる。

二見情話(沖縄民謡)1932(西岡水朗作詞、補作詞 照屋朝保、古賀政男作曲、編曲 佐々永治)

ヨサホイ節 (鹿山鶯邨=鹿山鶯村作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1934年9月、永井松子=音丸、テイチク

会津磐梯山(佐藤惣之助作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1938年、音丸、 テイチクTEI907

のぞかれた花嫁(玉川映二作詞、古賀政男編曲、杉 狂児歌)(1935.8テイチク50055)(アメリカ民謡曲)

軍艦行進曲(鳥山啓作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、演奏 明治大学マンドリン倶楽部)1938.2

愛国行進曲(森川幸雄作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、歌 藤山一郎) テイチク1938.2発売、レコード番号 2074

荒城の月 (土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9コロムビアCOL100542)明大マンドリンクラブ演奏・・李香蘭が慰問先の戦地でいつも最初に歌った歌

宵待草 (竹久夢二作詞、多 忠亮作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9 COL100542)
明大マンドリンクラブ演奏

南の花嫁さん1943.1(藤浦洸作詞・古賀政男編曲、高峰三枝子歌)コロムビアレコード 100596。(原曲 1935任光「彩雲追月」)(藤浦洸作詞・古賀政男作編曲、高峰三枝子歌)

イッチョライ節 (福井音頭)」1962年 モノラル 作詞:西村爽 作曲:古賀政男. ... 島倉千代子・守屋浩
0123昔の名無しで出ています
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2013/12/05(木) 22:36:49.27ID:ZY20NSLm
>>122
(参考)

☆「荒城の月」について


「荒城の月」(『荒城月』)(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)は無伴奏で、実際聞けるのは編曲版。
 
 大正6年、三浦環の命で山田耕筰が編曲したのが最初で一般に歌われているのはこれ。
 SP時代、主な編曲版としては次のものがある。

 古賀政男編曲版は、李香蘭が、戦地慰問で歌ったもの。慰問では必ず最初にこの歌を歌ったという。

『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲
0124昔の名無しで出ています
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2013/12/06(金) 04:29:05.98ID:XENf8jYy
イッチョライ節の片面「ああ北の庄」と「お染半九郎」は似ている
0125昔の名無しで出ています
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2013/12/06(金) 11:42:04.92ID:ubCi89HJ
お染半九郎(石川潭月作詞 古賀政男作曲)島倉千代子・村田英雄 昭和35年12月 

ああ 北の庄(西沢爽作詞、古賀政男作曲)島倉千代子 昭37年
♪戦い敗る 賤ヶ岳 死なば柴田勝家が 青葉の城に たちもどる
0126昔の名無しで出ています
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2013/12/06(金) 12:00:42.04ID:ubCi89HJ
島倉千代子 乙女心の十三夜
昭和三十一年発売。
作詩:西條八十  作曲:古賀政男。 日活映画「乙女心の十三夜」主題歌

島倉千代子 遠い人 
連続ラジオドラマ放送「夜光虫」主題歌
昭和35年6月発売 北条誠作詞 古賀政男作曲
0127昔の名無しで出ています
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2013/12/06(金) 14:44:53.09ID:???
「ワンダフルカナダ(島倉千代子・アントニオ古賀)」
ポップス系の曲かとおもったら音頭だった
0128昔の名無しで出ています
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2013/12/07(土) 01:11:40.20ID:iRom6FiH
>>122
そういえば蔡奎Yって「酒は涙か溜息か」や「影を慕いて」の朝鮮語版を歌ってましたね
0129昔の名無しで出ています
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2013/12/07(土) 11:13:41.22ID:fLrp7PxC
蔡奎Yは、朝鮮のテナーで人気歌手ですね。
コロムビア専属時代に内地向けの日本語レコードを吹き込む際に使用した芸名で、当時コロムビア京城支店があった京城府長谷川町にちなんで付けられたといわれています。
0130昔の名無しで出ています
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2013/12/07(土) 13:01:08.14ID:fLrp7PxC
『アリランの唄』のB面は、長谷川一郎で、放浪の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作編曲 唄:長谷川 一郎)1932.8
(朝鮮民謡「放浪歌」)。
http://blog.roodo.com/wien/archives/9184871.html

昭和37年(1962)小林旭が、歌いました。


 
0131昔の名無しで出ています
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2013/12/07(土) 18:27:23.19ID:fLrp7PxC
>>127

[ワンダフルカナダ]は、古賀政男作曲でカナダの日系社会で何十年も前からよく歌われている歌だそうですね。
(島倉千代子・アントニオ古賀)
0132昔の名無しで出ています
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2013/12/08(日) 22:15:14.67ID:rnYZJpju
>>122-123

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏 1942.9


この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンターで見れる。

http://www.youtube.com/watch?v=iXxYruH3XNM

戦時中各地を慰問してまわった李香蘭、その李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。

戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。 そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、この昭和17年古賀政男編曲になるもの。

戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。

戦時中慰問先で、明日をも知れぬ数多くの無名の兵隊さんを前にして「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

「荒城の月」を、オペラでも歌うつもりか、何と勘違いしているのか、あらん限りの力を振り絞って、頭の芯に突き刺さるような激しい声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手の歌。
今、テレビではそんな思わず耳を覆いたくなるような場面も少なくない。ぜひこの映画を見せてあげたい。
0133昔の名無しで出ています
垢版 |
2013/12/09(月) 01:54:54.31ID:VzDh27+A
>>132
アップロード日: 2010/01/15

荒城の月 李香蘭 古賀政男編曲、明大マンドリンクラブ伴奏 
彼女の本格クラシック的歌唱力はロシアのオペラ歌手及び三浦環に師事した証と言えるモ­ノで、とてもアイドルスターとしての美貌だけではなくしっかりとした素質と教育の賜物­だと感心させられた一曲です。
0134昔の名無しで出ています
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2013/12/09(月) 05:12:12.25ID:hDHyd5P3
三波春夫と島倉千代子が共演した古賀政男作曲の「すっきり音頭」は
どういう経緯で作られたのでしょうか。歌詞などから推察すると昭和40年頃の作品だと思います。
コロムビアとテイチクの通常ならあり得ない共演作品について詳しくわかる人教えて下さい。
0135昔の名無しで出ています
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2013/12/11(水) 10:36:26.67ID:PCy642B0
思い出さん今日は(星野哲郎作詞、古賀政男作曲)島倉千代子 昭和33年
0136昔の名無しで出ています
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2013/12/11(水) 17:15:26.07ID:rEw7y0DH
潮来笠を唄っていると途中から思い出さん今日はになるというネタをする芸人がいたらしいが誰
0137昔の名無しで出ています
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2013/12/12(木) 00:44:42.00ID:WAWTgA7F
昭和35年、潮来笠の「潮来の伊太郎ちょっと見なれど」と
「思い出さん今日は」の「目隠しした手で肩抱き寄せて」
のメロディーがそっくりということらしいね!
0138昔の名無しで出ています
垢版 |
2013/12/12(木) 14:21:15.76ID:WAWTgA7F
白い小ゆびの歌(関沢新一作詞、古賀政男作曲)島倉千代子 昭和34年
0139昔の名無しで出ています
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2013/12/12(木) 17:08:27.43ID:sU4kzdTh
>>138
レコード大賞で初めて作曲賞を獲得した曲ですね。
片面は同じく古賀政男作曲の「つばなの小径(美空)」でしたが白い小ゆびの歌の方がヒットしました。
0140昔の名無しで出ています
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2013/12/14(土) 20:37:06.10ID:Rel8xCYM
布良の娘(西条八十作詞、古賀政男作曲)島倉千代子 昭和30年
0142昔の名無しで出ています
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2013/12/15(日) 18:16:35.73ID:???
対馬の娘というのもあったな。作詞は同じく西條八十。
永田とよ子が唄って、後に島倉千代子が唄ったが
平成になって香西かおりも唄ったらしい。
0143昔の名無しで出ています
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2013/12/16(月) 11:56:00.70ID:5k0C289x
>>141
布良海岸は、安房神社の『下の宮』のご祭神の天富命が、神武天皇のご命令により、四国の阿波(徳島県)から遠征されて来て、一行が初めてたどり着いた、記念すべき最初の土地になった海で、安房 房総発祥の地だそうです。
0144昔の名無しで出ています
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2013/12/16(月) 21:38:39.96ID:5k0C289x
>>140
「布良(めら)の娘」は、「りんどう峠」のB面。いずれも(西條八十作詞、古賀政男作曲)。

♪想うお方は 帰らぬ人よ 波にうたせて 鮑とる・・とあるように、恋人を海に取られた悲しい唄。

「りんどう峠」が、『高原の唄』(昭和7年中野忠晴、島田芳文作詞、古賀政男作曲)のエッセンスを引き継いでるように、
このうたも、同じ西條八十・古賀政男コンビ作品で、昭和8年、ミス・コロンビア『「お蝶夫人」の唄』に、♪おもうお方は 帰らぬ人か・・という詞がある。
0146昔の名無しで出ています
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2013/12/17(火) 12:47:47.12ID:QiMJEHNF
このあたりで最近もロケがおこなわれているよう。また房州館山辺りは他に、相州の「石橋山の合戦」で敗れた源頼朝が真鶴半島から房州へ逃れてきて、その上陸地が勝山海岸です。安房の地で鋭気を養った頼朝はその後鎌倉幕府を開き天下を治めました。房州には頼朝伝説が多い。
0147昔の名無しで出ています
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2013/12/18(水) 13:46:49.86ID:464eRFrJ
ひろしまの母 (石本美由紀作詞、古賀政男作曲) 島倉千代子  昭和52年
0149昔の名無しで出ています
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2013/12/18(水) 18:08:36.97ID:g5eilmNv
ひろしまの母のレコーディングに立ち会った古賀政男さんは
島倉千代子さんと共に泣いてしまって別の日に改めてレコーディングしたそうだね。
0150昔の名無しで出ています
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2013/12/18(水) 23:11:22.66ID:464eRFrJ
「ひろしまの母」は、昭和52年(1977)、第4回広島平和音楽祭で発表され、古賀政男最期の作品となった。
古賀政男最後の作品は島倉千代子の歌になる。
0151昔の名無しで出ています
垢版 |
2013/12/19(木) 10:11:05.19ID:HgnaBVbi
温泉の姉妹(丘 灯至夫作詞、古賀政男作曲)島倉千代子 昭和三十一年 東宝映画同名主題歌
0152昔の名無しで出ています
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2013/12/20(金) 14:19:41.98ID:???
古賀さんが女性に抱くイメージを問われて「優しい…優しい…雪のように淡い」
と答えていたそうだが、やっぱり一番可愛がっていたのは島倉さんなんじゃないかな。
0153昔の名無しで出ています
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2013/12/20(金) 14:46:03.19ID:mUojoLfk
島倉さんは控えめで腰が低いことで好感をもたれてました。
0154昔の名無しで出ています
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2013/12/20(金) 14:50:27.93ID:???
古賀さんは小林千代子と交際したが周囲に反対され結婚できなかった。
後に千代子という名の別人と結婚したがすぐに別れた。
自分の経験からか島倉さんに千代子という名前は結婚できない。
結婚してもすぐ別れると言ったらしい。
0155昔の名無しで出ています
垢版 |
2013/12/21(土) 17:52:23.27ID:HA78jkGq
「古賀メロディ」の源泉、それは『寂しさ』にあったと言われますね。
0156昔の名無しで出ています
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2013/12/24(火) 16:20:30.67ID:pUgzam0X
古賀政男(正男)は大正元年、7歳、小学二年の時、父を亡くし、朝鮮にいる
長兄・福太郎を頼って一家で朝鮮に渡り、17歳まで、一番感受性の強い
10年間を朝鮮で居候生活する。この間、居場所もない、それはつらい日々だったという。

帰った後も長兄からは、音楽への勉強の路を絶たれ奉公させられる。
東京に出て明治大学に行くも、「勘当」され苦学することになり、ここで
一人の女性と知り合うが自殺してしまう。
0157昔の名無しで出ています
垢版 |
2013/12/25(水) 21:44:40.15ID:6+k+XXXz
昭和40年、61歳のとき軽い脳卒中を起し、49年に再発作を起し、以来健康がすぐれず病院通いをすることが多かった。

代々木上原一、二丁目の井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中に、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。
古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、数十億といわれる群を抜いた著作権料。外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった。

「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。
「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。
0158昔の名無しで出ています
垢版 |
2013/12/28(土) 12:04:51.98ID:zEqWza9D
>>157
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。
その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。>>78,>>95,>>96

このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。
他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。

なお、同年8月4日、「国民栄誉賞」が贈られた。前年にプロ野球の王貞治選手に贈られるために制定され、生存者に贈ることを目的にされたもので没後に贈ることには異論もあった。
しかし、福田内閣は『古賀政男氏に贈らない理由は無い。』として贈ることを決めたもの。なお、古賀政男音楽博物館に展示されている。
0159昔の名無しで出ています
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2013/12/29(日) 20:21:59.37ID:mURlNrwt
>>158

『古賀政男と島倉千代子』・・
NHKアーカイブス『幾山河は越えたれど 昭和のこころ 古賀政男』
http://www.youtube.com/watch?v=DaF2dUW88NY

公開日: 2013/11/22
これは、2002年に放送されたNHKアーカイブスの番組の前編と後編の間のインタビューです。その番組とは、古賀政男が亡くなった翌年1979年(昭和54年)放送の『幾山河は越えたれど 昭和のこころ 古賀政男』でした。
この本編の中でも、1979年当時の島倉千代子がインタビューに応えて、「りんどう峠」を唄っています(YouTube投稿済)2002年当時の島倉千代子は64歳でしたが、古賀先生との懐かしい思い出を感慨深く語っています。
島倉千代子さんは、2013年11月8日、75歳で逝去されました。心からご冥福をお祈りいたします。
0161昔の名無しで出ています
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2013/12/29(日) 21:37:48.84ID:mURlNrwt
>>160
ご紹介ありがとうございます。
0162昔の名無しで出ています
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2013/12/29(日) 22:16:41.44ID:mURlNrwt
代々木上原の古賀政男邸は、昭和13年に明大マンドリン倶楽部仲間後輩らを呼び寄せ、音楽村を作ろうと、松林だったこの場所を近くに住んでいた古賀政男が気に入り、地主に掛け合い三千坪を買取り、清水建設の安藤喜八郎に設計を依頼し建築したもの。
和洋折衷型の名建築物で、日本の歴史的・洋館18邸として以下の豪華写真集に収録されていています。

なお昭和53年、古賀政男追悼本として出た、「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版)にも、古賀邸内が写真で紹介されている。



藤森 照信著、藤森 照信写真「歴史遺産 日本の洋館〈第6巻〉 昭和篇(2)」 講談社 (2003/3/19) ISBN-13: 9784062614863

 岩崎小彌太別邸(静岡県) 、三井家別邸(北海道)、徳川義親邸(長野県)、細川護立邸(東京都)、原邦造邸(東京都)、林芙美子邸(東京都)、古賀政男邸(東京都)など。

・古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ p.126
0163昔の名無しで出ています
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2013/12/30(月) 07:56:26.62ID:???
>>159
島倉千代子さんは古賀政男音楽博物館でコンサートを開いたこともありますね
もう古賀政男さんの大ヒット曲を持つ歌手はいないのでは
0165昔の名無しで出ています
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2013/12/31(火) 00:02:53.97ID:RmX069iv
作曲家になる以前、貧乏に貧乏を重ね、その後成功に次ぐ成功を重ねた古賀政男。でも心の底には消すことのできない、何かしこりのようなものがあった。

それが何であるか自分でもわからない。 そんな時、体も弱って73歳になった古賀政男は、亡くなる2ヶ月前、昭和53年5月、うつみ美土里さんに伴われ、体をおして韓国に渡ることにしたのだった。
(TBS TV[古賀政男、第二の故郷に帰る]で放映。;NHKTV[西田ひかるの痛快人間伝・古賀政男])

そして空港で両手で支えられタラップを降りた古賀政男を迎えたのは、朝鮮の民族衣装に身を包んだ女性たちが演奏する朝鮮の民族楽器カヤキンの奏でる、子供のころに聞いた懐かしい朝鮮メロデー・アリランであった。

そして、うつみ宮土理さんの言葉を通してであるが、そこに自らの音楽の原点をみた。 家族の中で居場所の無い中で、やさしい三拍子のメロディとリズムは、古賀少年にやさしく響いた。

朝鮮の民族楽器「カヤキン」の弦の震えは、古賀メロディのこぶし(小節)でもあり、古賀少年のこころの震えであり、それがおなじような同時代の多くの 大衆の人々の心にひびいたのです。 ・・利根川祐「人物昭和史」ちくま文庫720(1989)
0166昔の名無しで出ています
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2013/12/31(火) 00:31:47.28ID:RmX069iv
NHKTV 1993年2月4日[西田ひかるの痛快人間伝・古賀政男]では、マンドリンを通して「古賀メロディ」の曲のひみつ、古賀メロディのルーツを探っていた。

そのなかで、「第二の故郷韓国」を訪ねた時のビデオが最後に流れた。

古賀政男が大正元年、7歳で韓国に渡るあたりから、韓国での暮らし、そして大正11年再び日本に帰り明治大学に入る。

「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」というものができ、それが大衆の中に根付いた歴史そのものでもあること。「影を慕いて」ができるまで日本の流行歌の中に、三拍子はなかった、でも唯一あるのが朝鮮の民謡。

どうして朝鮮の音楽に似てるのかな?という問いかけに、最後のビデオを見ればそれがわかると。(TBS TV[古賀政男、第二の故郷に帰る])
0167昔の名無しで出ています
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2013/12/31(火) 11:58:48.18ID:RmX069iv
古賀政男音楽博物館 歌の舞台を訪ねる〜東京編
http://blogs.yahoo.co.jp/genba1215/62021559.html

東京渋谷区、小田急線代々木上原駅近くにその建物はある。
「古賀政男音楽博物館」。
日本の大衆音楽の偉大なる作曲家古賀政男の自宅があったところである。
昭和13年にこの地に移り住み、生涯ここで暮らした。

井の頭通り沿いの高級住宅街にあり隣はJASRAC(日本音楽著作権協会)のビルがある。
古賀政男は生前この場所を大衆音楽の音楽村にしたいとの思いを抱いていた。
古賀の死後そこは大衆音楽の博物館として生まれ変わった。

ここは近いこともあり、3回ばかり訪れた。一番最近訪れたとき改めて驚かされたことがあった。
一つはその敷地の広大さである。三千坪といわれる。豪邸というよりはお屋敷といったほうが当てはまる。

以前はあまり目に止まらなかったのであろうが、今回展示品の中のあるメモに釘づけとなった。
それは古賀政男が亡くなる2日前に書いたメモで、便箋2枚に書かれたものである。
実物が展示してあり、私はそれを読んである意味ショックを受けた。
その場で読み終え、それをメモした。
以下は私がそのメモをワープロで清書したものである。
古賀政男の最後の心境を知るうえで貴重なものと思いそのまま掲載させていただく。・・
0168昔の名無しで出ています
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2014/01/01(水) 09:05:56.10ID:6dvnv7bL
年が明け、今年は2014年になりました。レコード歌謡は『昭和』と供に始まり、そしてそこに古賀政男(正夫)がいたのでした。

その「昭和」も、はや四分の1世紀が過ぎ、今年は「昭和89年」にあたる。 (昭和は、1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1 月7日まで62年と14日。歴代元号の中で最長。レコード歌謡は昭和3年に始まる。)

昭和4年、明治大学を卒業した古賀政男がコロムビアの専属作曲家となったのは、83年前の昭和6年(1931)3月20日。
0169昔の名無しで出ています
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2014/01/01(水) 09:34:15.51ID:6dvnv7bL
年末年始のテレビ番組を見ても,「昭和の歌姫」とか、「昭和の名曲」とか『名曲』と言う言葉が頻繁に飛び交う
のですが、『昭和』といっても殆どが昭和末の、物が有り余る飽食の時代の真っ盛り、昭和50年代前後あたりから。

「昭和」は60年あることをぜひお忘れなく・・。

それも、ほとんどがJ-POP(和製ポップス(POP=ポピュラー)とか、ホークソング等のニューミュージック、ド演歌など若者文化一色。
古賀政男が亡くなり、最後の島倉千代子も亡くなり残念なことです。
0170昔の名無しで出ています
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2014/01/01(水) 11:36:17.45ID:6dvnv7bL
昭和6年(1931)が明けてまもなく、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から古賀政男に面会の申し入れがあった。

コロムビアの専属作曲家となって、『影を慕いて』のような作曲をしてほしいとのことであった。このとき古賀に破格な『印税』が支払われると言う条件でである。しかもまだ印税制度が一般的でなかった時代である。

昭和4年から昭和5年末にかけて、佐藤千代子によって『文のかをり』(1930年3月発売)をはじめとして、『影を慕いて』(1931年1月発売)など7曲が吹き込まれた。

栄えあるレコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手、佐藤千代子(ビクター)の力添えで、古賀は作曲家になったといえる。この辺りのことは、NHK朝の連続テレビ小説、「いちばん星」(1977年(昭和52年)4月4日から10月1日)に描かれている。
http://www.youtube.com/watch?v=Vz_pa0HGiwU

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。
0172昔の名無しで出ています
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2014/01/01(水) 14:21:16.42ID:6dvnv7bL
>>171
佐藤千代子(さとうちやこ)は山形県天童の人。子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、伝道師のミス・キルバン (Miss Kirwan) と出会う。天童小学校高等科卒業後、その歌の才能を見抜いたキルバンに連れられて上京。
ミッション系である普連土女学校(現:普連土(フレンド)学園)に入学。
在学中にオペラを鑑賞し、強い感銘を受けたことから音楽を志す。
大正9年、東京音楽学校(現東京藝術大学の音楽学部)に入学。クリスチャンである山田耕筰と出会う、ここで中山晋平を紹介される。
中山晋平は当時野口雨情と新民謡運動をしていて、全国を飛び回り「民謡」の採譜やコンサートなどをしていた(新民謡・新童謡コンサート、全国歌の旅)。
これに共鳴した佐藤千代子は東京音楽学校を中退して、この運動に歌手として参加することとなった。と言っても、まだ新幹線も飛行機もラジオ放送も無かった時代。
この「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)運動から生まれた、昭和3年「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、ビクター)が、日本最初の商業レコード歌謡とされ、それを歌った佐藤がレコード歌手第一号とされる。天童市に生家(記念館)がある。
1925年(大正14年)、ラジオ放送が開始され、ラジオを通して歌うようになる。

この辺りは、NHK朝の連続テレビ小説、「いちばん星」に詳しい。

佐藤千代子の曲は次のCDで聴ける。
・CD「昭和を飾った名歌手たち 1/佐藤千夜子」VICL 60326
  http://www.tsutaya.co.jp/works/20058945.html

・CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536 2CD
  http://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536





1925年(大正14年)、ラジオ放送が開始され、ラジオを通して歌うようになる。
0173昔の名無しで出ています
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2014/01/01(水) 14:23:42.38ID:6dvnv7bL
>>172
訂正; ×佐藤千代子 ○佐藤千夜子
0174昔の名無しで出ています
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2014/01/02(木) 04:32:19.14ID:???
古賀政男=朝鮮人説はさすがに論外だと思う

また古賀の音楽には朝鮮音楽(古典)の影響はさほど大きくないと考える。
古賀の作品を聴いた上で語ってるのかすら疑問だ。
0175昔の名無しで出ています
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2014/01/02(木) 09:19:04.62ID:d1REtoQn
>>174
そうですね。古賀政男は洋楽志向で、古賀政男ほどワルツやジャズ、タンゴ・・その他、世界のいろいろな洋楽を取り入れているものはないと言われますね。
そうした前提でなければならないと思います。
初期の『月の浜辺』などジプシー音楽と呼ばれるものですし。
0177昔の名無しで出ています
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2014/01/02(木) 11:33:53.29ID:d1REtoQn
古賀政男の自伝などによると、仏教の「声明」(しょうみょう)や、義太夫など江戸文化の研究や自らも歌っていたとあります。

西洋の音楽にはクラッシックを含め、基本的に『こぶし(小節)』はないので、古賀政男の音楽はクラッシックを基本として、その上に洋楽と、千年以上前に渡来した仏教の声明(しょうみょう)や民謡、その中には朝鮮の民謡も含めて融合が根本にあると考えてもよさそうです。

西洋音楽も教会音楽から生まれたという歴史がありますから、古賀音楽も正しい音楽の歴史のうえに存在するわけです。

古賀政男の音楽には、日本の伝統音楽にジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたあとがあるから、世界的なレベルだといえるでしょう
0178昔の名無しで出ています
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2014/01/02(木) 12:44:28.50ID:d1REtoQn
1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。
声明とは、仏さまの教えを讃歎する仏教の聖歌で、仏教とともにインドで生 まれ、中国や朝鮮半島を経由して日本に伝わったもの。
日本に仏教が伝来したのは. 6世紀ですが、声明 については、752年に東大寺大仏開眼供養の大法要が行なわれた。1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。

仏教声明も立派な音楽で、「声明コンサート」もあります。
http://www.youtube.com/watch?v=kbHbpf8NoSY

古賀政男は、小唄・端唄、長唄、義太夫、琵琶歌、謡曲などの江戸の歌謡にも造詣深く、
たくさんの洋楽を多く取り入れただけでなく、音楽としての仏教声明など幅広い音楽を取り入れたことで知られる。
0179昔の名無しで出ています
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2014/01/02(木) 13:05:12.80ID:d1REtoQn
ジャズ、クラッシック、J−POP、歌謡曲・・
これまで色々な分野の作曲家が沢山出た、しかし古賀政男ほど日本を含め幅広く世界の多くの音楽をとりいれた
作曲家を知らない。
0180174
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2014/01/02(木) 14:26:29.43ID:???
こんなに早くレスつくとは思いませんでしたw

古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思いますよ。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。
だからアレがあんま「日本の」って言われることがそもそも疑問ですね。

古賀氏の音楽を、もちろん旧邦楽ともですが、安易に朝鮮音楽に結び付けるのは、
「ちゃんと分析してないから」としか言えませんw
0181昔の名無しで出ています
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2014/01/02(木) 15:00:32.72ID:d1REtoQn
>>180さん

>古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思いますよ。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。
だからアレがあんま「日本の」って言われることがそもそも疑問ですね。

そのとおりだと思います。

古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思います。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。

古賀政男の音楽は、洋楽に、日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたものだと思います。
0182昔の名無しで出ています
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2014/01/02(木) 21:18:06.47ID:d1REtoQn
>>170
作曲家・古賀政男は、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。

『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』 『美わしの宵』『嘆きの夜曲』(関種子)、『キャンプ小唄』(藤山一郎)、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎)・・
古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せる。

『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・・ジプシー音楽(ジプシー短音階)、セレナーデ風の佳曲。
0183昔の名無しで出ています
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2014/01/03(金) 09:31:54.82ID:Si+RuZiN
タンゴと歌謡曲は戦前から密接な関係があったようで、歌謡曲の創世記に、ハバネラタンゴのリズムが使われた。古賀政男(「正男」)作曲、佐藤千夜子がビクターで吹込んだ《日本橋から》のリズムがそうである。
その後、関種子によって再録音(コロムビア)された。邦人歌曲においてタンゴのリズムが使われた最初の例であろう。

「日本橋から」以来、戦後にいたるまで歌謡曲では旋律に変化をあたえるリズムとして多用されるようになり、流行歌の発展には欠かせなくなりました。 
「赤い花」「銀座セレナーデ」「黒いパイプ」「夢去りぬ」「落葉しぐれ」・・、昭和22年東宝 『音楽五人男』挿入歌「バラ咲く小径」などがあげられる。

ジプシー音楽とハバネラが古賀メロディーの原点だった!ともいわれる所以だろう。
0184昔の名無しで出ています
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2014/01/03(金) 21:10:08.57ID:sSKk/s+T
81年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは、ライバルであるビクター専属の看板作詞家・西條八十と、コロムビアの看板作曲家・古賀政男に、1年間、専属を超えてコンビを組ませるという、昭和歌謡史に残る企画を発表したのです。

これによって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。

また、昭和14年から、二人はコロムビア専属となるのだが、「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「熱砂の誓い」「紅い睡蓮」「サヨンの鐘」「麗人の歌」「三百六十五夜」・・
など戦後に至るまで、数え切れないほど沢山の「西條八十作詞・古賀政男作曲」の名曲を世に送り出すのです。
0185昔の名無しで出ています
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2014/01/09(木) 11:21:23.90ID:+yLiMi+h
TBSに古賀さん自身が影を慕いてを唄っている映像が残っていてビデオ化もされているが
CSでいいから古賀政男大会全編放送してほしい
0186昔の名無しで出ています
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2014/01/10(金) 08:11:46.70ID:Ti9NXNWX
昭和7年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
0187昔の名無しで出ています
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2014/01/10(金) 11:48:40.35ID:Ti9NXNWX
「影を慕いて」 昭7、 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎

昭和7年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

国立国会図書館 第79回 常設展示  平成9年3月25日〜4月25日
流行歌に見る世相と大衆のこころ ―昭和のはじめから東京オリンピックまで―
0188昔の名無しで出ています
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2014/01/10(金) 14:26:45.83ID:Ti9NXNWX
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
0189昔の名無しで出ています
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2014/01/10(金) 21:54:12.04ID:Ti9NXNWX
商業レコードの黎明期、その最初は新民謡『波浮の港』(昭和3年)であったように、歌謡曲(流行歌=レコード歌謡)は、「新民謡」から発展した。
そこに若き古賀政男が現れ、晋平の時代に新風を吹き込むこととなった。

これからは、何々「節」の時代ではなく「メロディー」の時代だと言っていた。
80年以上前から、古賀政男は歌謡において、これまで以上に「メロディー」の重要さを強調していた。

実際に,晋平(節)の時代から「古賀メロディ」の時代へ、ビクター時代からコロムビア時代へと流れが大きく変わってゆく。
そして、古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
0190昔の名無しで出ています
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2014/01/12(日) 16:42:31.21ID:FryqhL4G
>>181-183
(参考)

「赤い花」    1934、飯田信夫作詞 松平 信博作曲   藤山一郎 
「夢去りぬ」   1939 奥山 靉作詞、服部良一作曲.   霧島昇
「銀座セレナーデ」1946 村雨まさを作詞、服部良一作曲  藤山一郎
「黒いパイプ」  1946 サトウ ハチロー作詞、服部良一作曲 二葉あき子
「バラ咲く小径」 1947 野村 俊夫作詞、古関裕而作曲  藤山一郎
「落葉しぐれ」  1953 吉川 静夫作詞、吉田正作曲   三浦洸一
0191昔の名無しで出ています
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2014/01/13(月) 23:07:58.76ID:8hEtKy8j
今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。

昭和〈1926〜1989〉と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

今や、ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年(1925)7月12日、現在NHK放送博物館のある東京港区・愛宕山の放送所で本放送が開始された。
この時、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がラジオ本放送の始まりだそうだ。佐藤千夜子はレコードだけでなくラジオで歌うようになる。

参考までに、佐藤千夜子の最初のレコードは、大正14年(1925) 内外蓄音器、「青い芒(すすき)」(野口雨情作詩、中山晋平作曲)、これは全国歌の旅の途中で録音したもので、ビクターで再録音されている。
なお、そのNHK本放送直後の7月28日に、長田幹彦原作のラジオドラマ「悲しき遍路」が放送された。佐藤千夜子出演で、NHKアーカイブスで聴くことが出来、現存する最古の公開ライブラリーとなってる。
まさに「佐藤千夜子」は新しい時代のスターだったのだ。
佐藤はその中で、「悲しき遍路」(長田幹彦作詞、中山晋平作曲)を歌っている。

「作曲家・古賀政男」は、この栄えあるレコード歌手第一号「佐藤千夜子」の力添えで誕生し、メジャーデビューしたといえる。

今から83年前の、昭和6年(1931)3月、古賀政男26歳だった。
0192昔の名無しで出ています
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2014/01/20(月) 00:18:53.55ID:Ei2wj0tj
童話・童謡運動の真っ盛り、同時に新民謡運動が目覚め、童謡・新民謡運動へと変質して行く、大正から昭和にかけての時代。

1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学した佐藤千夜子、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、
演奏家の古賀正男(古賀政男)、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、大衆音楽の黎明期、激動の時代を駆け抜けてゆきます。

そして、「レコード歌謡」が形作られ、さらに童謡・新民謡風の時代から、古賀政男の登場によって、より「メロディー」が強調されたものになる。
より繊細で温かみのある、人を引き込む「古賀メロディ」の、まさに「3分間の芸術」の極致たる世界に入ってゆく。

古賀のいわゆる「古賀メロディ」は、中山晋平の「晋平節」と並んで、昭和初期レコード歌謡の代表的旋律でした。

「晋平“節”」の時代から、「古賀“メロディ”」の時代へ、昭和一桁時代に、人はそう呼ぶようになってゆく。
0193昔の名無しで出ています
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2014/01/20(月) 00:41:12.67ID:Ei2wj0tj
「日本の名曲」で、古賀メロディの傑作「影を慕いて」
昭和4年6月22日、 佐藤千夜子を招いての明治大學マンドリン倶楽部定期演奏會初演(ギター合奏)。
昭和5年10月20日、佐藤千夜子、ビクタースタジオで吹込み、「日本橋から」のB面。(ビクター、昭和6年1月新譜)。(この8日後には佐藤は日本を離れる。)
昭和7年1月、藤山一郎再吹込み(コロムビア、昭和7年3月新譜)。

http://www.bussan-tendo.gr.jp/?p=log&;l=6950
0194昔の名無しで出ています
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2014/01/20(月) 09:49:13.85ID:Ei2wj0tj
昭和3年、昭和の初め、人生の苦悩からはじまった「古賀メロディ」の歴史、若き古賀政男の人生の苦悩から生れた昭和流行歌(レコード歌謡)の最高傑作とされる「影を慕いて」。

この歌には古賀の人生の苦悩・絶望からの叫びが込められているといわれる、時代を超えた日本の名曲である。この歌が作られるのは『波浮の港』と同じ昭和3年の夏といわれる。現在ある殆どすべての日本の歌謡はまだ存在していなかった時代。
そして、菊池寛原作、日本最初の映画主題歌である「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)が流行した昭和4年、6月22日、 佐藤千夜子を招いての明治大學マンドリン倶楽部定期演奏會初演(ギター合奏)。
昭和5年10月20日、佐藤千夜子は、ビクタースタジオで吹込み。大衆音楽の黎明期、まだ一学生演奏家に過ぎなかった無名の作家の作品。ビクター内では反対もあっただろう、しかし佐藤千夜子のすごいところは、反対を押し切る形での録音だったことだ。
0195昔の名無しで出ています
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2014/01/20(月) 10:55:42.93ID:Ei2wj0tj
この録音の8日後には佐藤千夜子は日本を離れるのだ。ちなみに『影を慕いて』は『日本橋から』のB面だった。この『影を慕いて』のレコードがビクターから発売されたのは、まだ古賀政男は作曲家になる前の昭和6年1月早々である。コロムビアは、放っておかなかった。

このレコードを浅草・鳥越の斉藤楽器店で発見した人物が、コロムビアの営業マンだった伊藤正憲だった。当然コロムビアはレコードの発売を待っていたはずで、偶然ではないだろう。

影を慕いて  古賀正男作詞  佐藤千夜子 1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介作詞  同     1931年1月 ビクター 51519

昭和6年(1931)が明けてまもなく、古賀政男(正男)は、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から面会の申し入れを受ける。>>170

そして古賀政男(正男)26歳は、昭和6年(1931)3月20日付けで、日本コロムビアの専属作曲家として迎えられる。
0196昔の名無しで出ています
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2014/01/20(月) 14:59:37.93ID:Ei2wj0tj
>>195
参考

伊藤正憲「レコードと共に四十五年―私のアルバム」日本クラウン, 1971
0197昔の名無しで出ています
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2014/01/20(月) 16:27:47.96ID:Ei2wj0tj
古賀メロディの原点であり、不朽の名曲「影を慕いて」は、美しき日本の歌で、クラッシックの演奏会のプログラムにもよく見受けられる。今や「古賀メロディ」を超えて『日本の名曲』になっている。

かって、平成のはじめごろ、NHKTV『日本の名曲10』という企画があった。「荒城の月」「波浮の港」など「日本の名歌」と言われる10曲を、1年間に渡り、ゴールデンタイムのそれぞれのNHKTV番組の最後の数分間をつかって放送した。
この10曲に『影を慕いて』が含まれているのは特質すべきことである。
0198昔の名無しで出ています
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2014/01/23(木) 23:50:15.19ID:Q1PlEpro
ここに古賀メロディの佳曲・『嘆きの夜曲』がある。
藤山一郎・『影を慕いて』と同じ、昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲、關(関)種子さん歌唱です。

丁度、東北・東日本大震災(2012)の80年前に作られたものです。
このYou Tubeには、「東日本大震災から1年になり、心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。」とあります。

震災復興支援ソング『花は咲く』と言うのがあります。花を持った若手が大勢歌う。でも、あれっ!?て思うのは、「追悼」であるのに、そこに最初にあるべき《哀しみ》というのが無いこと、いかにも残念なことだと思います。

今や「童謡」選の中に「影を慕いて」など「古賀メロディ」が入っている。癒しという点でも日本の共有財産、「日本の歌」になっている。

80年も前に作られたこの「古賀メロディ」、その簡潔な短い詞の中に、「普遍性」をもって、この大災禍の嘆き・哀しみさえをも予言したかのように包含したかのように、時代を超えて、
80年も後に起こった災禍に追悼の気持ちをぴったり共有しているというのは驚きとしかいえません。

「古賀メロディ」ほど無駄の無い音楽も無いだろう。
また「哀しみ」を歌ったら右に出るものもない「古賀メロディ」。


時代を超えた普遍性を持つ、ここに「古賀メロディ」の「古賀メロディ」たる所以がある。



嘆きの夜曲 関種子.wmv
公開日: 2012/03/05
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。
なお背景の画像は津波被害のものが多いですので、衝撃を受けやすい方々はご遠慮ください。
背景の画像と曲は直接は関係がありません。古いレコードですので雑音が多いのかもしれません。画像はおもにグーグルの検索画像から引用させていただきました。
http://www.youtube.com/watch?v=giaWCvjmsoY&;feature=endscreen&NR=1
0199昔の名無しで出ています
垢版 |
2014/01/26(日) 16:50:15.03ID:pSk3QESI
藤山一郎の影で、彼ほど知られていないが、藤山一郎とともに、忘れてはならない歌手に、東京音楽学校本科を首席で卒業し、ドイツリートの傍ら、初期の「古賀メロディ」を支えたクラッシックのソプラノ歌手・関種子がいる。
『乙女心』『窓に凭れて』『日本橋から』『青春図絵の唄(貞子の唄)』『博多小夜曲』『かた思い』『あけみの唄』『金色夜叉(お宮の唄)』『笛は冴ゆれど』『朝顔の唄』『秘めたる恋』『美わしの宵』『嘆きの夜曲』『去りゆく影』
『初恋の唄』『愛は紅い』『さらば上海』・・など多くの「古賀メロディ」を歌っている。

古賀政男がテイチクに移った後、1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍。


2011-09-21 03:15:06
昭和の歌手シリーズ『関種子』
http://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html
0200昔の名無しで出ています
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2014/01/30(木) 19:46:38.55ID:TXgf+cQf
寺山修司の編著作の名著に「日本童謡集―青い目の人形から唐獅子牡丹まで」〈光文社カッパブックス1972、1995年復刻版〉と言う本がある。童謡の概念は子供の歌に限らない、その中には「影を慕いて」など沢山の古賀メロディの名曲が入っている。

寺山修司は、この本のまえがきで、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。
「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」と。

また、童謡の価値は、子供時代に歌われた頻度によって決まるのではなく、大人時代の思い出された頻度によって決まるとも言っている。

80年を超える「童謡」も歌謡曲も、やはりすぐれた歌、年月に耐えた歌というものは、長い人生の中で繰り返し現れる。年を重ねるうちに、その短い詞の中にああこういうことなのかと、解釈や感じ方にも深みを増す。
映画に「主題歌」があるように、人生にも主題歌があるはずだという。

昭和が終わって平成の時代がはじまった平成元年(1989)に、忘れ去られつつある日本の
「うた」を日本全国の人々とともに掘り起こし、つぎの世代に伝える「文化遺産」として集大成して、記録にとどめようという趣旨のもとにNHKは、「日本の歌・ふるさとの歌 ベスト100曲」を選定、11月4日に放送。

唱歌・童謡が殆どである中に、「荒城の月」、「城ケ島の雨」、「波浮の港」、それに「影を慕いて」、時を越えた日本のスタンダ-ド、日本の歌・ふるさとの歌として、数多有る中で特にこの日本の名曲4曲だけがジャンルを超えて選ばれているのが印象的である。
http://www.geocities.jp/fujiskre/ka94.html

温かい家庭の和と憩いを夢見た古賀政男、養女に「おとうちゃん」と呼ばれて嬉しくて涙を流した。「明日に残す心に残るうた」・・、「赤い靴」など唱歌童謡の中に「影を慕いて」が含まれる。
HP・童謡新聞 「心の故郷」はこう報じている。
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