二葉あき子について語ろう
戦前の大歌手で唯一元気な二葉さんについて語ろう。
淡谷のり子は洋楽志向が強く
渡辺はま子は中国風で
二葉あき子は演歌じゃないけど古きよき日本の
歌を歌ってます。今もコンサートを開いたりしてるそうで。 詳しくはわかりません02暮れ頃のヤクルトホールではないでしょうか?細かい仕事ならば03初頭関東周辺の老人ホーム慰問等で唄っていたかも知れません。 日本コロンビアの専従者と行動を共にしていたので詳細はわからない事が多く正確な返答はできかねますので悪しからず。 >>加藤雅也さん
そうですか。
僕は今19ですけど99年の「年忘れ日本の歌」で「さよならルンバ」を聴いた以来ファンです。
二葉さんは祖母と同い年で、祖母も二葉さんのファンです。
不思議な事に二葉さんは年を重ねた後の方が歌が上手くなっている気がします。
生で聴ける機会がなさそうなのが非常に残念です。
これからも元気でいて欲しいです。 祖母はやはりスターだと思います。もう一度舞台に立てればよいのですが長寿を祈る他ありません 「フランチェスカの鐘」のオリジナル音源にはあばずれ女の台詞が入ってるんだよな。 高杉妙子という女優の吹き替えです。 ほくも意味はわかりません。 昔、お孫さんのピアノで「水色のワルツ」を歌ってたのをテレビで見ました。
「ガラスの指輪」と「白いライオン」はお孫さんの作品ですね。
すごく素敵な作品だと思います。
息子さんの作品も歌ってらっしゃいますし、二葉さんはお幸せだと思います。
「水色のワルツ」を作曲した高木東六はまだ生きてるんだよな。
流行歌嫌いだったらしいけど。
これほどの名作を残せるぐらい実力があるのだからもっと作曲すればよかったのに。 >84作品は結構ありますが、あまりにもクラシカルで世に出ないだけ。 「情婦マノンの唄」古関裕而作曲。隠れたる名曲です。 「アデュー巴里」もいいね。
和製シャンソンで、ちゃんと本場のシャンソンみたいに
クプレとルフランから成り立ってる。
「巴里の夜」よりいいかも。 「パリの夜」「情婦マノンの唄」「アデュー巴里」は和製シャンソンの傑作だと思
います。日本の和製シャンソンでは「パリの夜」が一番ヒットしたのでは?二葉あ
き子は和製シャンソンの大御所である一方、典型的な日本調の流行歌や軍歌も大ヒ
ットさせています。シャンソンとは対照的な日本調の曲(「新妻鏡」「お島千太郎
旅唄」や「父よあなたは強かった」「海の進軍」など)を戦前に大ヒット曲させ、
戦後、和製シャンソンをもヒットさせた歌手は二葉さん以外いないでしょう。 まったくその通り!!よく美空ひばりのジャンルの広さがテレビで(昨日の17回忌で
も)取り沙汰されますが、カバー曲でなく、和製オリジナル曲で二葉あき子ほど
ジャンルを越えてヒットを放った歌手はまず見当たりません。「ビロードの月」
(和製ジャズ)「古き花園」(和製ブルース)、「めんこい仔馬」(童謡)、「高
原の月」(和製クラシック)「黒いパイプ」(和製タンゴ)、「パリの夜」(和製
シャンソン)など、洋楽調の和製オリジナル曲を大ヒットさせているところは、
歌謡史上、二葉さんしかいません。音楽教育の頂点である上野でクラシックを学んだ
後に、日本調の流行歌や軍歌で大ヒットを飛ばし、洋楽調でもジャンルを越えて、
数々のヒットを放ったそのキャリアに優る歌手は皆無といってもいいでしょう。
発売されて55年〜70年後にも通信カラオケに残り、歌い継がれる曲があるというの
は、まさに大歌手としての証左以外の何ものでもありません。 「村の一本橋」とか「祇園の坊さん」とか和ものでジャズィでカッコいいですね。 戦後二葉さんが歌ったジャズィな米山作品について、発売当時に聴いた世代の中に
は「二葉さんには似合わない!!」と酷評する人がいます。戦後、クラシック嗜好の
音楽ファンが唯一許せた流行歌歌手が二葉さんであったとされ、戦後「別れても」
から「恋のアマリリス」までの品のある流行歌を歌ってきた二葉さんがそれまでの
イメージを覆すジャズィな日本調の曲を歌うことが許せなかったのでしょう。確か
に純粋な二葉ファンにとっては抵抗があったかもしれませんが、ブギ全盛の戦後の
時代にあって、米山作品は二葉さんの新しい魅力を引き出すことに一役買っていま
す。 霧島昇のとデュエット曲
「新妻鏡」「高原の月」「旅の舞姫」もいい!
ヒット曲たくさんあるよな。
ナツメロ番組では淡谷さんや渡辺さんは同じ曲歌わされてたけど、二葉さんはいろんな曲歌ってたようなイメージがある。
もっと評価されるべき方です。 スローワルツの「新妻鏡」は歌いだしのG音が松原操ではでず、急遽音域の広い二
葉さんが歌うことになり、大ヒット、「高原の月」も霧島に合わせて一音低く、B♭
長調で吹き込みしています。逆に後年、二葉さんがコントラアルトになって以降テ
レビの舞台で「新妻鏡」を歌った時、霧島の後、間奏で一音下げて歌っていました。
以後、通信カラオケの音源やステージの演奏も低く設定され、世界的でも稀な低音
女性歌手として語られることがあります。楽譜に忠実な二葉さんの歌唱は業界でも
大変評価が高く、全盛時を知る同窓の森一也氏も絶賛していました。 二葉は昭和30年代に入り高音が出なくなり、それ以降アルトで歌うことに。低音も素晴らしいが、高音が聞けなくなったのは惜しまれた。 >93二葉はヒット曲が多すぎる分、自身の代表曲がない。例えば淡谷なら「別れのブルース」、渡辺はま子なら「桑港のチャイナ街」。二葉には突出したヒット曲がない。 そういえば森一也氏は二葉さんと同い年で東京音楽学校を浪人して入学して
いますね。で、本人いわく、昭和7年当時でも、一回で(現役で)入学でき
る生徒はほとんどいなかったそうです。ですから、100日の受験勉強で、す
んなり現役合格した二葉さんを宇宙人だといっています。特に師範科は一般
科目の傾斜配置も高く、学力的にも難関だったことはいうまでもありません。
代表曲か、強いて言うなら「水色のワルツ」か「フランチェスカの鐘」だと思う。
「古き花園」も好きだけど代表曲とは言い難いな。 >98二葉あき子のこの1曲ってなるとなかなかしぼられない。確かに「水色のワルツ」は高木東六作曲の曲が素晴らしい。「フランチェスカの鐘」も古関裕而の傑作。…だけど、やはりしぼれない。 >97
東京音楽学校は戦後の昭和24年に新制東京芸大となり、入試日程も国立一期
校となりました。その後、一期校、二期校制が廃止となり、さらに昭和50年
代前半、共通一次という全国の国公立大学が一律に5教科7科目の同一日受
験となるや、各大学の合格点平均点から大学の序列化が始まりました。
同大学は当時、一次試験のボーダーラインに関し、受験者平均のやや上位
といったところでしたが、二次試験の難易度を考慮すると、国公立受験者の
平均を上回った上で、芸能に特別秀でた能力が要求されたということで、宝
塚が女子の東大といわれたように、もう一つの東大とされたのも納得できます。
二葉さんは女子の東大(宝塚や東京女子高等師範学校)ではなく、学力と芸
能における最高学府であった官立東京音楽学校師範科に広島の県立女学校か
ら現役合格されたのですから、まさに宇宙人といっても過言ではないでしょ
う。 付け加えるなら、その官立の最高学府を卒業して高等女学校の教壇に立ち、
(これは師範科の義務過程ですが)その後、流行歌歌手に転じ、戦前、戦
中、戦後にヒット曲を連発しているところも正に宇宙人。例えば、東京芸大
を卒業して、高校の教員をし、その後、歌手デビューしてヒット曲を連発、
紅白に10回も連続出場した歌手が戦後にいるでしょうか?コロンビアでは
ひばりに次ぐ売り上げがあったとされますが、県下一の女学校の卒業者、上
野卒、教員経験者、映画出演、海外公演(戦後初の日本人歌謡使節)、紅白
出場、レコード会社での売り上げトップ、叙勲を総合すれば、経歴と実力、
売り上げ、名声すべてが揃った歌手という意味で、ひばりと対峙する存在で
はありません。さらに、付け加えるなら、その対照的な経歴で楽譜が読めな
かった子供時代のひばりの才能を真っ先に認め、可愛がったところも、宇宙
人といえます。ひばりじゃ後年、大スターとなった後々も、二葉さんを唯一
先生と慕い、楽屋が一緒(同じ舞台)となった場合、豪華な弁当を持参し、
「先生食べてください」と挨拶を忘れなかったと言われます。一方淡谷のり
子のひばりに対する態度はまさにいじめであり、「こまっしゃくれた子供が
ゲテモノのような声を上げる」といってこけおろしていたそうです。二葉さ
んはほんとうに偉大な方であります。 >>101・102
読みにくい。もっと分かりやすく簡潔に! 101・102
二葉さんってすごい方なんですね。
ひばりさんが慕うのも解るなってか女性の先輩歌手でひばりさんに好意的だったの二葉さんぐらいなのかな?と勝手に思ったりする。
歌手活動から引かれたのは残念だけどいつまでもお元気でいてほしいね。 >103
簡潔にいうと、「二葉さんの傑出した経歴と音楽的広がりは、まさに不世出の大歌手
と呼ぶに相応しい存在である」といったところでしょう。晩年、二葉さんはNHKのBS
放送で氷川きよしと共演、ソロで氷川の「箱根八里の半次郎」を堂々と歌われました。
昭和9年に東京音楽学校在校時、同校生徒名義で「四葉のクローバー」を初吹き込ま
れていますが、同曲は旧制女学校の教材に用いられました。その65年後にクラシッ
クとは対極にある演歌をNHKで歌いきったというのも、芸大史上最初で最後でしょう。
番組で司会を務めた氷川と神野は二葉さんのことを『二葉ばあちゃん』と愛着を込
めて呼んでいましたが、少しは彼女の経歴や音楽的属性、また、人物的側面と内面
的属性に焦点を当て、好々爺ならぬ好々婆的イメージとのギャップにおける意外性
を掘り下げて発言していただきたかった。逆に、知れば知るほど、同業歌手と
して足が震えてしまう(最近、人を前に畏怖で足が震えるという体験などする戦後
生まれはいないでしょうが)のではないでしょうか。
103の人が理解できるまで、表現は簡潔に分かりやすくしていきましょう。
全ての階層に認められる大歌手ですから。
二葉さんはデビュー間もない頃、近代史に名を残した西條八十や山田耕筰と交流を
持たれていました。当時、世界のプリマドンナと称された母校の大先輩の三浦環も
現役、与謝野晶子も現役、(二葉さんは晩年(60代)の与謝野晶子が作詞した「新
鉄道唱歌(近畿篇)」を伊藤久男らと共に歌っています)、また、北白川宮殿下の
戦死に際し、「ああ北白川宮殿下」を御前演奏で皇族を前に歌われています。そう
いう経歴を持った歌手が平成14年に氷川きよしと演歌の共演をしたという事実は非
常に大きな意味合いを持つものだと考えます。 二葉さんがデュエットで歌った日本調の「涙の三人旅」「新妻鏡」「お島千太郎旅
唄」「春之助の唄」「旅の舞姫」などは現在の演歌に通じる曲想ですね。いずれも
楽譜に忠実で、それでいて非常に味のある歌声で心が惹かれます。これらの曲は西
條八十、古賀政男、奥山貞吉、服部良一ら欧米文化に通じたインテリ作詞家やジャ
ズ・クラシックをこよなく愛する作曲家によって書かれたものであり、二葉さんの
歌唱によってさらに大きく開花した日本調の傑作であります。 「フランチェスカの鐘」の台詞は高杉妙子だけど、「青い牧場」や「荒鷲
慕ひて」の台詞は二葉さん自身が言っている。とても味があっていい。 二葉さんの舞台演技も味があって素晴らしい。65周年の時、二葉さんは85
歳、20分ぐらいの一人演技はユーモアたっぷり。歌の歌詞も完璧に暗記。
加齢に伴う記憶力の減退なんてどこ吹く風。恐れ多いばかり。 昭和11年の「あの夢この夢」から昭和29年の「南蛮おどり」(新東宝『神州
天馬侠』主題歌)までおよそ60曲以上が映画主題歌、副主題歌、挿入歌とし
て使われています。戦後の特徴としては歌のヒットに合わせて映画が製作さ
れたケースが多いですね。「夜のプラットホーム」「あの夢この歌」「フラ
ンチェスカの鐘」「夢よもう一度」「水色のワルツ」など。
映画には二葉さん自身が出演しているものもある。「そよかぜ」「三百六十
五夜」など。映画『三百六十五夜』では「恋の曼珠沙華」と「さよならルン
バ」を歌っていて、とてもきれい。美人。 映画『三百六十五夜』での二葉さんはほんとうにすらっとして、きれいです。東宝
のレーザーカラオケで「恋の曼珠沙華」をかけるとその映像が出ます。「さよなら
ルンバ」を歌って踊るシーンなんかは今でいうビジュアル系のアイドルとしても
通用するかも。 ぽっちゃり顔というイメージですね。戦後の一時期は本当にすらっとして114のと
おりです。映画では昭和14年24歳当時『純情二重奏』に出演して歌っていますが、
ビデオではカットされています。かろうじてオーラスで「歌で暮らせば」を合唱
するシーンで一瞬映る程度です。はやりぽっちゃりしていました。「そよかぜ」
では演技もされています。映画の舞台では「宵待草」をソロで、霧島とデュエット
で「別れ路の歌」を歌われていますが、ふっくらしたイメージでした。 映画『純情二重奏』は前編・後編があり、それぞれに二葉さんは誕生日の
歌手役で出演されています。歌った歌は、不明ですが、同映画の挿入歌で
志村道夫と奥村彩子がデュエットで歌った「青空の夢」というのがあり、
そのB面が二葉さんの「伊豆はなつかし」でした。よって、一つは「伊豆
はなつかし」だと思いますが、もう一曲がわかりません。だれかご存知で
すか? >116 「誕生日の歌手役」ではなく「新曲発表会の歌手役」でした。
当時レコード会社と映画会社がタイアップして、新曲を映画の公開後
に発売することがよくありました。まず、映画のタイトル・バック
でレコードを紹介(レコード会社、曲名、作詞者、作曲者、歌手、
レコード番号)し、映画の一場面で流すか、歌手が歌い、映画公開後
にレコードの発売という段取りでした。 二葉さんは映画『フランチェスカの鐘』に出演して「フランチェスカの鐘」を歌
っていますね。スチール写真では見たこありますが、ダンスホールで歌っている
ような写真でした。相当厚いメーキャップ(長い付け睫をして)で手を広げてい
ます。フィルムは残っていないのですか? 文芸春秋で二葉さんは昭和二十年の紅白歌試合の思い出を語られていますが、当時
歌った曲は「純情の丘」とあります。一方インターネットや紅白の歴史を紐解いた
本では「「古き花園」になっていて、一体どちらが本当なのでしょうか?紅白歌試
合と紅白歌合戦初回〜10回まで連続11回出場した歌手は二葉さんしかいませんね。
すごい!!紅白歌試合に出た歌手で現在現役(存命)は川田正子、第一回紅白に出場
した歌手は菅原都々子のみです。もし紅白が戦前からあったとしたら、二葉さんは
昭和14年の「古き花園」や「純情の丘」のヒットから出場し、昭和34年まで20年間
連続出場していたでしょう。紅白歌試合と紅白歌合戦の初回からの連続出場について
二葉さんの記録をもっと伝えるべきだと思います。 黒柳徹子は昭和33年当時、最年少で紅白の司会をしたそうです。以前、『徹子の部
屋』に二葉さんが出た時言っていました。当時、二葉さんはコントラアルトとなっ
て初めて「夜のプラットホーム」を歌われたそうです。そのことを徹子がいうと
覚えていないようでした。また、その時、二葉さんが音楽学校の生徒名義で吹き
込んだ二枚目のSP「ブラームスの子守唄」が流れ、自分の声を二葉さんは「きれ
ない声ね」と笑みを浮かべて言っていました。黒柳徹子は若き日、二葉さんのス
テージの司会をずっとやってきた人です。後にザ・ベストテンの司会を引き受け
ていますが、当時既に40歳、その後、50代後半まで歌謡曲の司会でアイドルや演
歌歌手を相手にしていますが、司会者としてのキャリアの長さには驚かされます。
昭和50年代初めに始まった『徹子の部屋』は週5日、いまだに放送されており、
昭和20年代後半に二葉さんの舞台の司会をしていた徹子が平成14年、88歳の二
葉さんと対談するという、お互い50年間現役でなければありえないめぐり合わ
せが実現しています。平成14年の『徹子の部屋』出演時、二葉さんは徹子が昭
和33年、初めて紅白の司会をした時歌った「夜のプラットホーム」を歌われて
いるのも感慨深いものがあります。
>>121
せっかく一生懸命に書いてくださったのにごめんなさいね。
あのとき流れたのは「ビロードの月」よ。
アタシあの日ビデオ撮ってるし、
↓ここ↓ではテキストおこしされてるわよ。
http://www.h2.dion.ne.jp/~kinki-bc/z14-6-24.htm 「ビロードの月」でした。あいまいな記憶で失礼。ビデオは撮っているけど、
一回見ただけで、記憶が「ブラームスの子守唄」とすりかわっていました。
ご指摘に感謝します。
>122
謝る必要ありませんよ。「一生懸命に書く」いう表現とおどけ言葉
さえなければOKですよ。 85歳の森光子も現役ばりばり。その昔、二葉さんの前座をしていたそうな。 二葉百合子は本当に紛らわしい。 つまり二葉あき子は利用されているのである。 せめて双葉百合子にしてもらいたかった。 二葉あき子の「二葉」を名乗り、同じく「あきこ」名の菊池章子の「岸壁の母」
をリバイバルで歌い、歌謡界に現れた浪曲師。50代〜60代ですら百合子が歌った
「岸壁の母」の印象が強烈であったために混同する始末。百合子は東京生まれ
で本名は「二葉」の名とは全くゆかりのない「木村」姓。厄介なことに、彼女
は奇しくも二葉あき子が東京音楽学校在学中に初吹き込みをした昭和9年に三歳
で浪曲師として舞台デビューしており、以来今日で70周年を迎えた。また、その
芸能生活70周年の特別公演を行うという。一方、二葉あき子も今年デビュー70周
年だということを考えると、余りにも偶然過ぎるような気がする。どう捉えるべ
きか。
今年の夏にあった『NHK思い出のメロディー』では本来、被爆60周年の年に
合わせ、二葉さんが原爆ドームの前で『フランチェスカの鐘』を歌うとい
うセッティングを考えていたらしいが、本人の都合で流れたという。結局
同姓の二葉百合子が取って代わって出演した。案の定、「岸壁の母」を歌っ
た。考えようによっては、「二葉」の名を混同させた責任は大きいもの
の、「二葉」の名を引き継いでくれていると善意に解釈すれば、癇癪は起
きない。でもくやしい。 二葉百合子は昭和14年、ポリドールレコードで浪曲デビューしている。
丁度二葉あき子が「古き花園」「純情の丘」「白蘭の歌」を歌っていた
頃である。昭和14年に至り、二葉あき子は「古き花園」の大ヒットによ
って、スターの座を手に入れた。であるがため、当時、小学生の二葉百
合子には相当な思い入れがあり、戦後に歌手デビューするにあたり芸名
の一部に取り入れたものと推測される。 二葉百合子は現役で未だに新譜を発売している。確か先月もDAMのカラオケ
に新譜が入っていた。全くの新曲であったが、本家二葉あき子の「二葉」
を名乗るのであれば、新曲も結構だが、二葉あき子の曲もリバイバルして
後世に歌い継いでほしいものである。 昭和14年、二葉あき子は和製ブルースの「古き花園」を歌い、一方二葉百
合子は小学生ながら浪曲を歌っていた。流行歌と浪曲との感覚的違いは今
でいえば、Jポップと演歌といった関係であろう。いってみれば小学生が
演歌で歌手デビューしたという例えになるのかも。戦前の昭和14年に24歳
の大人の女性が歌うブルースと小学生が歌う浪曲、余りにも対照的過ぎ。 年忘れ日本の唄の司会はだれだったか忘れた。水前寺清子さんだったようなだれかご存じの方おられます? 「年忘れにっぽんの歌」の司会については記憶していませんが、水前寺清子氏は
軍歌をたくさん吹き込んでいますね。「敵は幾万」「雪の進軍」など明治期の作
品が中心ですが。方や、二葉さんは日華事変〜太平洋戦争の時代に発表されたオ
リジナル作品としての軍歌を多く吹き込んでいます。「愛国行進曲」「父よあな
たは強かった」「空の勇士」「婦人愛国の歌」「荒鷲慕いて」「紀元2600年」
「くろがねの力」「海の進軍」「そうだその意気」などなど。
国家総動員という時局を煽るべく創作されたものですが、二葉さんの歌声に
より、兵士たちは、国威発揚の物々しい空気の中、一時の清涼剤を得た思いで
あったに違いありません。 支那満州ビルマ蘭印 フィリピン ニューギニア 南洋諸島 の月夜の晩に二葉さんや渡辺はま子藤山一郎などを日本兵が内地を思いながら口づさんだのでしょうねぇ。 二葉さんが歌った「荒鷲慕いて」という曲は西條八十作詞の作品が2曲あり、昭和
12年発売、二葉さんのソロで台詞入りのものが江口夜詩作曲、昭和14年発売で
松平、松原、渡辺、香取との共唱ものもは古関裕爾作曲です。前者の歌は、夫の
戦死の訃報に接し、自らも国に殉じ入水自殺した妻の実話がベースになってい
ますが、その遺書の一節を台詞に取り込んだものと思われます。二葉さんの歌手
デビューの翌年の発売ですが、「保定陥落の快報をよき土産に御仏の御名を唱え
させて頂き、喜んで浄土の主計様の許へ参らせていただきます」という二葉さん
の朗読はほんとうにリアリティーのあるもので、身につまされます。 二葉さんのデビューの翌年にあたる昭和12年7日7日、日中両軍が盧溝橋で衝突
(77事件)し、いわゆる日華事変が勃発しました。この日、二葉さんは「勤労歌」
(作詞:杉本民夫、作曲:吉沢実)を録音しています。(発売は8月20日)
135で述べられた「荒鷲慕いて」の台詞にある保定陥落は9月24日で、わずか3週
間後の10月14日に「荒鷲慕いて」が録音されており、正に、ニュース歌謡に近い性
格のものだと思われます。(発売は12月15日ですが)
「荒鷲慕いて」で挿入されている妻の遺書原稿によると、夫の戦死に殉じる妻
の行動は訃報に接し、取り乱してのことではなく、夫の戦死確定の時にすでに
覚悟は決めていたとし、また、夫の両親に対し、あの世で、夫と二人で必ずお
守りするとの決意が述べられています。最後は死んで「比翼の鳥」とならんこ
とを誓い、幸せ者であったと締めくくっています。「比翼の鳥」とは夫婦の深
い結びつきを指しますが、これは玄宗皇帝と楊貴妃の愛を歌った白居易の詩
「長恨歌(ちょうごんか)」によるものです。歌の最後に「君が姿を偲ば
せて 雲に消えゆく渡り鳥」という一節があり、西條は中国由来の詩歌の
句を用いて、大陸と内地とで引き裂かれた夫婦愛が浄土で蘇るという事の
成り行きを見事に表現しています。敵国の詩をもってして、敵地で散った
御霊への思いを歌謡詞に込めるという非常にテクニカル、且つ厳かで高尚
な歌だと感じます。曲自体もF短調でA音からF音まである難曲です。逆説
的に捉えると一種の反戦歌であったという解釈も成り立つのではないで
しょうか。 「荒鷲慕いて」(江口夜詩作曲)を聴きました。舞台は夜の伊豆の渚。効果音と
して小波の音が前奏部分に入っていて、郷愁に満ちた物悲しいメロディーです。
これから入水する妻の姿が目に浮かびます。ふと感じたのですが、伊豆の渚から
見上げる空の一つ星が敵地支那で最後を遂げた夫の瞳に重なって見えるという
のは、地理的に逆方向ですね。それで、なぜか伊豆大島に行ったことのない、
野口雨情が故郷北茨城・平潟の港に想を得て書き上げたとされる「波浮の港」
のシチュエーションに通じる感覚を覚えました。
二葉あき子の歌は映画の主題歌や挿入歌として知られる曲が多いようですが、
今話題に挙げられている「荒鷲慕いて」の歌詞の内容はまさに、映画のテー
マに最適のように感じられます。ですが、この歌は映画とタイアップされた
形跡は全くありません。音楽評論家の森一也氏はこの歌を時局歌謡といって
います。彼は10年前この歌のベースとなった報道記事(戦死した夫を追って
入水自殺した妻)を新聞の縮刷版で探したそうですが、結局見つけられなか
ったそうです。彼いわく、時局柄、あまり表沙汰にされなかったのではと。
実際、実話にもとづく戦時における美しい恋愛劇として映画化されるに充分
な内容だと思います。 フランチェスカの鐘をスリーグレイセスに歌って欲しい。 二葉あき子は戦前淡谷のり子が吹き込んだ「夜のプラットフォーム」や鈴木良枝が
歌った「別れても」を戦後に吹き込んで大ヒットを飛ばした。だから今度は「フラ
ンチェスカの鐘」でもなんでもいいから正統派歌手のリバイバルで復活させてほし
い。 昨日のNHK「古賀政男特集」では二葉さんの「恋の曼珠沙華」を小林幸子が
歌っていました。小林独特の節回しは演歌ファンには小林節を堪能できよ
かったのかもしれませんが、小林のオリジナル曲ならともかく、二葉さん
の曲をやるのであれば、SP音源を聴いて、歌唱研究をした上でオリジナル
に似せて歌ってほしかった。もっともひばりがリバイバルで吹き込んだも
のを手本にしていたのかもしれませんが。物まね名人で鳴らした歌手だけ
にいただけません。 以前二葉さんと小林幸子がテレビ番組で一緒になり、小林が「水色のワルツ」
を歌い、それを聴く二葉さんの表情が画面に映りました。あのこぶしころころ
の品のない歌い方に、二葉さんはせんぶりを飲まされたような顔をされていま
した。差し出がましい歌い方に耐えられなかったのでしょうね。 「水色のワルツ」は森昌子が歌ったことがありますが、こちらは正に正統派の歌
い方でした。天性の澄んだ声に抜群の歌唱力とが合わさり、二葉さんの歌唱よろ
しく心が洗われる思いがしました。また、森昌子は『歌のワイド90分』という
徳光が司会をしていた番組で藤山一郎とデュエットで「春よいずこ」を歌って
います。一番藤山、二番森、三番デュエットということで、コントラアルトに
転向した二葉さんの代理を充分に果しました。
いろんなことを、みなさんに教えていただきました。
ありがとうございます。
今、夜のプラットホームを勉強しています。
今日、歌ってみたら、大先輩が
「戦中はこの歌をうたえなかったのよねえ」と。
CDでしか聞いたことがなく、実はお顔もわからないのですが
ナマで聞けるチャンスがあったら、ぜひ聞いてみたいなあ。 144で森昌子が歌う「水色のワルツ」と「春よいずこ」が出ましたが、実は
彼女は20代の半ばにテレビで二葉さんと共に「夜のプラットホーム」も歌
っています。二葉さんは歌い終えた森の手の甲をほっぺに当て、満面の笑
顔でねぎらっていました。よほどかわいかったのでしょう。森の澄んだ声
は二葉さんの曲がお似合いです。 森昌子はひばりを目標にしていた歌手。二葉さんはそのひばりが先生
と仰いだ大歌手である。昌子は17歳の時、すでにデビュー5周年。テ
レビではその5周年記念にひばりが駆けつけ、歌を披露、昌子もひばり
を前にひばりメドレー(「悲しき口笛」、「越後獅子の唄」、「あの
丘越えて」など)を堂々と歌いきり、ひばりに「うまいわね!」と褒
められていました。またひばりは「私5周年の時祝ってもらったかし
ら」と司会の玉置宏にこぼしていました。今考えてみると17歳の歌手
の5周年記念をゴールデンタイムで放送し、ひばりが駆けつけるなど
というのはありえないことでしょう。その時、ひばりは森に「あと5年、
10周年を迎えて、本物の歌手といわれるようにがんばってね」と激励
していました。その後、10年を経て、その大歌手の先生である二葉さ
んと競演、「夜のプラットホーム」を掛け合いで歌い、あの二葉さん
の満面の笑顔をもって評価されたのですから、これほどの歌手冥利に
つきるものはありません。
美空ひばりは森昌子に対して「私の後を継ぐのは昌子しかいない。」と言うほど、
その才能を買っていましたからね。 「バラのルムバ」は、レコードでは、香り高き…の部分をA,清らかな…の部分を
Bとすると、ABAとなっていますよね。ところが、以前、ずいぶん古い歌の本には、
一番がAB,二番がA'B'という風にかかれていました。
A'は、今宵限りのルムバ…で始まり、B'の部分もBとは異なる歌詞でした。
新録音かなにかで、このように吹き込まれたことがあるのでしょうか。
どなたかご存知でしたらおしえていただきとうございます。
「バラのルムバ」について、40周年のライブ盤はありますが、スタジオで
の新録音はないようです。歌謡曲の楽譜集か何かでご覧になったのでしょ
うか?編集の段階でアレンジし直されたにしても、ご指摘のようにB'の
部分で異なる歌詞があったというのは腑に落ちませんね。 「一億人の昭和史」という本の中の一冊の、二葉さんのページでみたのです。
まだ、ABA,A'B'A'と書かれているなら、レコードには時間の都合でABAしか
収録されていないのだろうということで納得がいくのですが、その本には、
AB、A'B'というふうにのっています。あの歌は、最後に「ルンバー」と高音で
のばすところが一番もりあがると思うのに、B'でおわってしまったら中途
半端ではないかと思います。
以前、別の本でバラのルムバの当時の歌詞カードをみたことがあるのですが、
A'やB'の歌詞はのっていませんでした。きっと草稿にはあったのだと思います
が、それが「一億人の…」にのっているということは、もしかしたら二葉さん
がその部分をおしんで、後で吹き込みなおしたときに、先に申しましたような
かたちで吹き込んだのかなと思ったりしていましたが、スタジオでの再録はな
いのですね。ご教示ありがとうございました。
雪村いづみさんのアルバム「スーパー・ジェネレーション」に「バラのルムバ」が収録されてますが、
彼女はAB、A'B'で歌っています。 「バラのルムバ」はSP音源ではABAの最後「心おどる薔薇のルンバ」の部分を高音
に上げて締めています。作詞者の村雨まさをは作曲者の服部良一のことですが、
宝塚に在籍していた妹・服部富子の先輩であった村雨まき子のコミックな演技や歌
に感銘を受け「村雨まきを」としたところ、レーベルの印刷段階で「まさを」と
なったそうです。確か歌謡曲の歌詞集ではB'の部分がAで繰り返しとなっているの
もあったような気がします。服部オリジナルのB'の歌詞もご指摘のとおり、草稿
の段階ではあったものの、録音時間の関係で割愛されたものと推察されます。
二葉・霧島のデュエットによる「新妻鏡」も4番の歌詞があり、割愛されています
のでその類例かと思われます。 「買い物ブギ」の楽譜を見るとやはり2曲分の長さで、たいへんテンポが速く、
舌をかんでしまいそうですね。「バラのルムバ」の歌詞は白バラは若き乙女
の夢、赤いバラは恋に生きる今現在の情熱を表現しているようです。当時、
二葉さんはすでに30代に突入しています。一説によると、この曲は高峰三枝
子のために書き下ろられたものの、難曲のため、二葉さんが歌ったとされます。
また、その高峰もこの曲の発売当時乙女というには塔が立っていますので、戦
前に純な白バラの乙女が、戦争という荒波を越えて、戦後、血潮に燃え盛る真
っ赤なバラとなって恋に生きるイメージを描いたのかもしれません。 二葉さんが上野の音校時代、範唱レコードとして「四葉のクローバー」や「ブラ
ームスの子守唄」を吹き込んだ頃、既に中国・満州では戦火があがっていました。
二葉さんは1年間の教員義務年限を終えた後、純真無垢な清純派歌手として「愛
の揺籠」という曲でデビュー、その翌年が2.26事件、翌々年に日華事変勃発。
以後終戦までの激動の時代を歌に映しながら第一線で活躍されました。以前話題
となった「荒鷲慕いて」などは緊迫する時局を反映させた流行歌として非常に象
徴であり、一方、今話題となっている「バラのルムバ」は戦後の開放感に溢れた
自由な雰囲気を彷彿とさせます。戦死の夫を追って入水するうら若き妻を歌った曲
から戦後ダンスホールで踊り、恋と歌に生きる女性(後家?)の曲まで正に時代
の空気を描いた作品を数多く吹き込まれています。実際、二葉さんが初吹き込みさ
れて以来終戦までの間、官民合わせて何百万という人間が国に殉じて戦没したとい
うことを考えると、戦後、占領下にあっても、文化面での開放感・充足感はただな
らぬものであったに違いありまえん。「バラのルムバ」を聴くとその当時の流行
歌が持つ時代に対する心理的影響力の大きさを感じずにはいられません。
ほんとうにおっしゃる通りだと思います。
戦後は、戦争中おさえつけられていたものが一気にはじけるかのように、「バラのルムバ」
を初めとして、「心月の如く」「懐かしのブエノスアイレス」「雨の日ぐれ」などなど、
覚えて歌って楽しむというよりは、二葉さんの歌声を聴いて楽しむようなハイブローな歌も
ずいぶん増えたと思います。
戦前からいろいろな歌をうたってきて二葉さんですが、戦後の二葉さんは七色に輝いていた
ような感じがします。あまり有名ではないかもしれないけれど、戦前の「乙女十九」とか、
「波の行進曲」なども、大好きです。二葉さんの歌声もとても可愛らしい感じです。 七色に輝く二葉さんということですが、歌の種類(歌詞、曲調)もさること
ながら、歌唱方法も曲によって七色に変わります。これは戦前の吹き込み曲
から明らかです。157の方がご指摘のように曲に合わせてうぶで可愛らしい女
性をイメージして歌っている曲もあれば、洗練された都会の女性を思わせる
ものもあります。特に「東京セレナーデ」では曲の前半ではうぶで可愛らし
い女性を思わせる発声ですが、途中、「青い灯赤い灯〜」の部分から一転し
て、急に大人びた女性の声に変わります。これも意図的にそうしているので
しょうが、戦前の東京・銀座で展開される恋人との出会いの情景が目に浮か
びます。昭和12年の発売曲ですが、前年発売の田舎娘を描いた「広島娘」
とは打って変わり、モダンな雰囲気が漂ってきます。同年に「荒鷲慕いて」
も発売されているのですから、まさに七色の女性像を戦前から歌で表現して
いたわけですね。
二葉さんは戦前から曲のイメージによって変幻自在に歌唱法を変えるというのは周
知のことですが、特に、純真可憐な乙女のごとく愛らしい声色を使って自然体で甘
く発声するテクニックにかけては戦前からの女性歌手の中では右にでる者はいない
でしょう。現代風な言い方ではいわゆる元祖ぶりっ子的歌唱法というと語弊がある
でしょうが、歌唱テクニックの点で突出しているのは間違いありません。うら若き
乙女のイメージで描かれた歌は戦前にも山ほどありますが、果たして二葉さんほど
魅力に溢れた声色を駆使して可憐さを歌に表現した歌手が他にいるでしょうか?
特に、クラシック畑出身の歌手(佐藤、四谷、淡谷、関、渡辺、松原など)で彼女
ほど、巧みに歌いこなせる歌手は皆無といってもよいのではないでしょうか。 確かに松原は劣っていない。「荒野の夜風」の共唱でも明らかなように、二葉と
聞きまがうほど声質が似ている。ただ、二葉ほど甘く歌ってはいない。これは先
天的な声の質の違いで、力量の差ではないが、いわゆるぶりっ子的な歌唱法合わせ
もつと、異性に対する引き付け効果は倍加する。松原の独身時代の吹き込みと比べ
ても大きな違いがある。 そういえば、松原操は二葉さんの先輩にあたり、上野(東京音楽学校)の本科卒業
の後、研究科に進学している。彼女こそ、音楽教育における最高学府を終了して流
行歌歌手に転じた変り種である。四谷も4年過程の本科卒業だが、研究科には進学し
ていない。ただ四谷の場合は一旦流行歌歌手に転じるも、後に声学家となり、さら
に母校(新制東京芸大)の教授、国立音大の学長となった大やり手である。何れも
官立でクラシックを学び、流行歌を吹き込んだ面々である。流行歌の歌唱法におけ
る魅力度を論うこと自体、ナンセンスかもしれない。 >160松原操は二葉あき子に比べると音域が狭い。顔は松原に軍配かな。だから、霧島昇が松原に惚れた。ちなみに、意外にもデビューは霧島より二葉の方がちょい先輩だとか。松原はもっと古い。 伊藤久男がデビュー間もない二葉あき子とコロムビアの前でバッタリ会ったとき、
「よ、二葉さん、コーヒーでも飲まない?」って誘ったら、
二葉さんはカンカンに怒って会社に
「会社に不良がいます!!」って訴えたんだって。
カワイイね。 伊藤久男は女ったらしで有名。妻がいながら女優と浮気をし、後に協議離婚している。松原操と最期まで連れ添うた同郷でライバルの霧島昇とは違う。 四谷は生前テレビのトーク番組に出演し、「歌手になる前は英語学者に
なりたかった」と漏らしており、大正期に官立の音楽学校に進学した女
子の向学心の高さに驚かされたことがあります。現実問題として大正
〜終戦期まで女子が学者(大学教員)として採用されたケースは皆無に
等しく、また、学者になるためには帝国大学(東京大学、京都大学)卒
業というのが大前提で、その二帝大には終戦まで女子の入学門戸は閉ざ
されていたのです。ですから女子で大学に研究者として奉職したケース
は、当時女子の最高学府とされた東京高等女子師範(現御茶ノ水女子大)
の研究科に進学後、旧7帝大の内、女子にも門戸が開かれていた東北帝
大に進学、さらに大学院終了、東京帝大の研究室に助手として採用、以
後、論文提出により学位記を授与され、晴れて女性の研究者(学者)と
なるといった、非常に長い道のりを覚悟しなければなりませんでした。
現実問題、理科系の女子の学位取得は戦前にも数例ほど前例があるもの
の文化系分野(語学系)では前例がありません。かなりの現実乖離が
ありましたが、 これに対し、二葉さんは別のテレビのトーク番組で
「医者になりたかった」といっていました。こちらは、戦前既に女子専
門の医師養成学校(東京女子医科専門学校)があり、現実的進路といえ
ます。いずれも、芸は身を救うといわれた時代に典型的職業婦人として
の選択肢を得た上で、歌手の道に進んだ者はそうでない一般の流行歌歌
手に比べ、メンタリティーにおいて大きな相違があり、官立出の彼女ら
の出現は、明治〜大正期の流行歌歌手(演歌師)のイメージに比べ大き
く変化していく、端緒となったであろうことは容易に想像されます。そ
の意味でも大変な功績があったといえます。 官立出ということで、付け加えるなら、もう一人、由利あけみという存在がありま
す。彼女は旧制日本女子大学校(現日本女子大)へ進学の後、進路を変更し、官立
東京音楽学校に入学しています。そういうわけで彼女は二葉さんより、2歳年上で
すが、同期入学で、机を並べた間柄です。しかも二人とも同郷(広島出身)で、
さらに本名の姓も同じ加藤姓。おまけに寮の部屋まで同じであったといいます。
年上の由利は二葉さんを「よっちゃん」と呼び、一方二葉さんは由利を「加藤さん」
と呼んでいたそうです。官立出という話の延長となりますが、由利は昭和14年「長
崎物語」「熱海ブルース」のヒットを最後に、大蔵省の課長と見合結婚をします。
ビクターの文芸部長は由利の引退を引き止めるべく母親に説得工作に出ますが、結
局叶わず由利はそのまま流行歌界から身を引きます。当時も今も大蔵省のキャリア
はエリート中のエリートであり、特に当時高等文官試験に合格し、大蔵省に採用さ
れた帝大出身官僚との見合いは女性にとり、容姿もさることながら、門地、出自な
ど相応の条件が揃わなければ果せないことでした。それゆえ、流行歌の吹き込み歌
手が大蔵官僚の夫人になることはまず考えられないことであったのでしょうが、官
立の音楽学校出というブランドはその両者が引き合わせられるほど、知的情操面で
共通性があったといえるのではないでしょうか。官立出身とはそれだけ高いブラン
ド性を発揮していたという証左であるような気がいたします。 昭和14年、由利は「長崎物語」「熱海ブルース」をヒットさせた後、大蔵官僚と
結婚、惜しまれつつも引退した。方や二葉さんは「古き花園」が大ヒットし、ス
ター歌手の仲間入りを果す。家庭に入った由利は、職業歌手としての地盤を固め
以後米寿の年まで歌い続けた二葉さんとは非常に対照的な道を歩んだ。続くヒット
となった「純情の丘」は松竹映画『新女性問答』の主題歌となり、スクリーンで
頻繁に歌われた。昭和14年に公開されたこの映画は女性弁護士の物語である。丁
度前年の昭和13年、女性が初めて司法試験に合格し、修習を終える2年後(昭和15
年)に女性弁護士が誕生するという盛り上がりの中で、女性弁護士をモデルにした
この映画が脚光を浴び、その主題歌を官立出の職業歌手である二葉さんが歌った
という。戦前の封建的社会において、女性の社会進出は専門職では医師、教員、
看護婦が最たるものであった中、いよいよ法曹の世界にも進出かと注目が向けら
れた年でもある。同年、二葉さんは原節子が主演した東宝映画『東京の女性』で
同名主題歌「東京の女性(節子の唄)」も歌っている。この映画も女性の社会進出
がテーマで原節子が自動車販売会社のタイピストから営業職(映画ではセールス
マン)に転じ職業婦人として悪戦苦闘する姿が描かれている。男女機会均等法が
施行される50年も前に、しかも戦前(といっても14年戦争という意味では戦時
中であるが)に女性の弁護士や営業職をテーマに描いた映画が注目を浴び、いず
れも主題歌を二葉さんが歌っていたというところが官立出身の職業歌手二葉あき
子らしいところではないか。
>男女機会均等法が 施行される50年も前に、しかも戦前(といっても14年戦争という意味では戦時
中であるが)に女性の弁護士や営業職をテーマに描いた映画が注目を浴び、いず
れも主題歌を二葉さんが歌っていたというところが官立出身の職業歌手二葉あき
子らしいところではないか。
男女機会均等法を成立させたフェミズムと二葉あき子の官立出身とは論理的につながらないし関係ない。もっと勉強してから書いてくださいね。
あと文、長すぎ。こういうとこには不向きだね。
>男女機会均等法を成立させたフェミズムと二葉あき子の官立出身とは論理的に
つながらないし関係ない。もっと勉強してから書いてくださいね。
フェミズムと官立出身の関係を論理的に繋げようという意図で書いていると
仮定すれば、「関係ない」「もっと勉強してから書いてくださいね」と書かれ
るのは当然でしょう。が実際、それを意図して述べているのではありません。
実際、両者の関係を論理的に立証することは不可能であり、実際関係ないから
です。ただ、そのような曲解を招く表現であったのは書き手の落ち度でありま
しょう。ようするに二葉さんの経歴と戦前の女性社会進出を扱った映画の主
題歌の吹き込みとの接点を好意的に捉え、結びつけているだけですね。批評す
るにも、書き手の心理を読みとって好意的にコメントしていただくとこのページ
が盛り上がります。「長すぎ」は確かにそう思います。好意を持っていないと
すればなおさらです。あと、「不向きだね」→「不向ですね」と文体を上品に
すれば批評してもきちんと受け止められるでしょう。長文これにて終わりとし
ます。 二葉さんが音楽コンクールで独唱し、NHKラジオで放送された「君よ知るや南の国」
という曲は誰のどんな曲ですか? 「君よ知るや南の国」はシューベルト作曲のオペラかアリア♪詳しくは俺も知りません。 歌劇「ミニヨン」の中の一曲です。
多分、三浦環さんのCDに収録されてあると思います。
他にも色々な方が吹き込んでいます。 早急なるご回答、ありがとうございます。今後三浦環のCDを聴いてみようかと
思います。二葉さんは広島高女時代に音楽教師に才能を見出され、音楽コンク
ールに出場、見事優勝したそうですが、さぞかし発声も素晴らしかったので
しょう。 森昌子が「水色のワルツ」「夜のプラットホーム」を歌ったと言う書き込みがあったが、
逆に二葉の歌声で「せんせい」「越冬つばめ」「哀しみ本線日本海」などを聴いてみたい。