川上哲治氏vs広岡達朗氏『確執の歴史について』
似た者同士とも言える二人の関係についてシブく語る趣旨のスレなのであります。 『あのくらいの球を捕らんファーストがいて野球ができるかい!』 >>1
またお前か
その話題お前しか興味ねえんだよ
自演スレ立てては自演レス書きこんで埋めて何が面白いんだキチガイ >>1
なのであります。
だってよ(笑)東條英機かお前は 広島のコーチを辞してから川上宅を訪れ
「コーチになって、自分の至らなさが分かりました」
と言ったことでドンとの関係はかなり氷解した模様。 広岡さんがロッテのGMになったときはエールを送ってたな。
初のメジャー首脳陣で固めたロッテを楽しみにしてるとエールを送っていた。 川上さんに巨人以外の監督をやらせてみたかった。
巨人監督退任時、54歳。今の感覚で言えば十分に若い。 若手のぺーぺー選手が野球解説者のような振る舞いをするのって今の感覚では考えられない。
ある意味で凄い器だったのかなとも。 反抗的な選手って寧ろ昔のほうが多かったというか。
首脳陣には従わないといけないというのをメジャーから学んでから変わってきたというが。 >>14
すぐに自演とわかるから止めとけ
ギャグでやってんのか? 12と14は別人だが。
自演と言う根拠は何?
納得出来る説明を求む。 近鉄のヘッドコーチ就任(引き換えに引退要請)を断って自由契約になった関根潤三選手を
64年オフに巨人が獲得した。
戦力としてよりも冷え切った川上監督と広岡達朗との間を取り持つ存在としての期待値があった。
「関根の言うことなら広岡も聞くんじゃないか」
という考えが読売の上層部にあったようである。
狙いは当たった。関根潤三は広岡の野球理論の確かさに深い感銘を受けた。のちに広島のヘッドコーチ格に
就任した時に少年時代からの野球仲間だった根本陸夫監督に広岡達朗をコーチとして強力に勧めている。
主に代打の切り札として65年に巨人でプレイした関根潤三は生涯初の日本一を体験。
球団からは慰留されたが、満足して現役生活にピリオドを打った。
しかし、そのことで広岡達朗が孤独な状態に陥る。そうして川上哲治監督との対立関係が氷解しないまま
ついには巨人退団へと時を刻んでゆく。 天下の川上さんを向こうに回して
張り合える広岡さんの自信が凄いんだよ。
長嶋さんや王さんでもできないよ。 昔の野球界は今のサッカー界に近かったというか。
選手が首脳陣を公然と批判するというのは一見風通しの良いようにも見えるが。
首脳陣は絶対で選手は従わないといけないという野球の服従主義は実はメジャーから学んだ物なんだね。 広岡さんを「社会人として問題あるんとちゃいますか。あのおっさんは」と評した選手も
過去にいた。 だからその人はすぐ出て行っちゃったではないですか。
移籍先でも色々やらかしていましたがw 1967年2月23日の夜、私は羽田を飛び立った。最初はハワイのマウイでキャンプ中の
オリオンズ球団を訪ね、その後、巨人と因縁深い名門サンフランシスコ・ジャイアンツ
を選んだ。ジャイアンツの本拠地、キャンドル・スティック球場に到着すると、チームは
すでにキャンプ地に出発していた。アリゾナ州のフェニックスだという。私はすぐに
後を追わなければならなかった。ジャイアンツの広報は「ジャイアンツのキャンプタウンは
フェニックスから60マイル(96・5km)も南だ。カサ・グランデといういうところだよ。」
と言う。この時、正直言ってこれからの単独旅行のことを思って。ぞっとした。
私はフェニックス空港に降り立った。夕闇が迫っていた。早く車を借りなければならないと
思った。と、目の前にレンタカーのカウンターがあるではないか。助かった、と思った。
だが、車を借りる手続きが面倒だった。私の英会話もなかなか通じない。旅行鞄から
辞書を取り出して、筆談を交えながら、やっとの思いで手続きをしたが、係員が事故の
補償問題などを説明して、私にしきりに念を押す。そのつど、私は辞書を引いて答える。
時間はどんどん過ぎ、夕闇が迫ってきた。イライラしていると、係員が「ところであんたは
車を借りてどこへ行くんだ。」と訊ねる。「ジャイアンツのキャンプタウンだ。監督の
ハーマン・フランクス氏を訪ねる。」と答えると、急にニコニコして、どこかに電話した。
とたんに、係員の態度が一変した。「OK」車のキーを私に手渡し。親切に道順をメモに
しながら教えてくれた。たぶん、ジャイアンツのフロントの誰かに電話し「広岡という日本人」の
身元を確認したのだろう。後で分かっただが、私のキャンプ地訪問はきちんと連絡され
受け入れ態勢が整えられていたのだった。そんなことを知らない私は、左ハンドルの中古
キャデラックを心細い気持ちで走らせていた。やっとの思いで車を借りたときは、もう夜に
なっていたし、暗夜の道路には、私の車のほかに、行き交う車も無かった。フェニックスの
郊外は、想像以上に田舎だった。映画の西部劇に出てくるような荒涼たる地であった。
心細くなった。私はときおり、ヘッドライトに照らし出される道路標識を1つ1つ確認しながら、
初めての1人ぼっちの旅を実感した。 >>20長嶋はミーティング中に川上の前で新聞を読んでいた。王は二本足に戻せと言う川上を無視 想像だけど川上さんは、ちょっとズッコケているキャラの柴田勲とか堀内恒夫あたりの
ほうが相性は合うと思う。彼らの陽気な振る舞いは、几帳面すぎる川上さんにとっては、
「なんか憎めん奴」と映ったのではないだろうか。あくまでも想像だが。
几帳面だけど献身的な土井正三さんとも相性は悪くないと思う。組織に必要な脇役。
キャラが良く似ている広岡さんとは(少なくとも広岡さんの現役時代は)最悪の相性で、
森さんと川上さんも本質的に水と油だろう。 延々と続く誰も興味ない独り言
同じ内容ばかり
さすがに見飽きた GM時代2期目の96年は機能していなかった。
I投手の「おっさん」発言もそうだが、ロッテファンが完全に敵に回っていて
「GMも長くないな」と感じさせた。
その前にA選手(甲子園優勝投手でプロで打者転向)を虚偽の理由(実際は酒を
ほとんど飲めないのに「大酒飲み」という理由)で2軍に落とし、後で
バレンタイン監督から「擁護出来なくて済まない」と謝罪のセリフがA選手に
あった。
A選手は中日に出されたのだが、ロッテの主力のK投手から「辞めさせてやりましたよ」
とA選手に報告があった。
K投手は広岡GMの大学の後輩でもあるが、GMのことを快く思っていなかったのは
明白だった。 一選手の小宮山がGMを更迭されられる力があるのか? ファンがバレンタイン解任の件で「広岡憎し」の感情に支配されてしまったのが大きい。
95年のファン感謝デーでは「ファンを舐めるな広岡」の横断幕。
もう96年は優勝するしかファンを黙らせるしかなかった。
そこへ持ってきて7月頃に「社会人として問題あるんちゃいますか、あのオッサンは」の主力投手の発言。
広岡GMの権威は地に墜ちた。GMとして全面に出過ぎたのが失敗の理由。 アンチを装って書き込もうが誰も興味ないからw
その辺がまだわからんのは真性の阿呆なんだろな >>37組織人としての広岡を誰一人褒めてないからな >>34
さすがにそこまではないでしょう。
ただロッテに復帰した時にバレンタイン監督復帰をフロントにお願いして、実際に実現しています。
第二次バレンタイン政権時の小宮山の立ち位置は敗戦処理。
汚れ役ですがバレンタイン監督は「小宮山だからこそ頼める」とコメントしていました。
二人の信頼関係が良好だった証しでしょうね。 早大監督に就任中の小宮山は、
広岡からしょっちゅうダメ出しされている模様 広岡が小宮山の髭面をダメ出ししてたな
小宮山もかつては呼び捨てでボロクソ言ってたけど、今は表面上は和解してるんだな 豊田泰光氏は週刊ベースボール誌上の「オレが許さん!」というコーナーで「一番誠実な解説をしているのは小宮山くんですよ」
と褒めていた。 広岡さんはボビーをクビにしようがしまいが選手を呼べるだけの力が元々なかったので
そう長くはなかっただろうと思う。 96年の週刊ベースボールの「タイトルバトラー養成塾」というスポーツ紙の一面の見出しを考える読者
コーナーがあって、「胴上げ」というお題でこういう作品があった。
◯江尻監督 胴上げされる
・伊良部「これであのおっさんも辞めさせられるでしょう」
この作品を考えた読者は、はたちそこそこの青年だったが、読み筋通り「おっさん」はほどなく退任。
伊良部が言いそうなセリフでもある。
蛇足ながら伊良部と結婚した在日韓国人と思われる名前の女は、とんでもない悪妻だった。 広岡スレと同じ見飽きた独り言のリフレーン
ボケ老人かこいつ ロッテオーナーの責任だな。広岡と言う最もGMに不適任なヤツを招聘しちゃったのは メジャーで首位打者経験のあるフランコが来たり、球団の本気度は感じた。 >>47
人脈があるわけじゃなく、采配や指導には口を出したがる
GMとしては最悪だなw 海老沢泰久という作家は随分広岡GM寄りの意見を発しているように思えた。 人間には向き不向きがある
根本はGMでは最高でも山崎裕之いわく
ミーティングもない「のびのび野球」で「この人じゃ勝てない」という監督だったそうだ
中西は打撃コーチでは最高だが江本いわく
「中西さんはピンチになるとベンチから消える監督だった」
広岡は監督では結果を出したがGM向きじゃなかった 川上さんが球団社長になる話はあったみたいですね。
勇退後はNHKと日刊スポーツの評論家で
読売系のメディアからは離れた。 巨人OB総会とかいうのを長嶋茂雄氏が5年連続で欠席したのを「長嶋はけしからん!」
とか言って球界のドンが怒ったらしいけど、別にそんなもん、過去の郷愁に浸るジジイ共
の宴会で出なければならないという必然性がない。
球界のドンの怒りは筋違い。
そこへ「私が来るように仕向けましょう」と広岡達朗氏が言って、本当にミスターを出席
指せたという話は意外性があった。
ミスターを出席の方向へ持って行ったということよりも、広岡達朗氏がその場に居たと
いうことのほうに。 辻にも逃げられて中西さんも出て行った。
慕って来たのはマイク中田くらいで。
つくづく人望のない人だなと思った。 マイク仲田は子供の頃の写真は完全にアメリカ人に見えた。
1964年生まれで高校3年時19歳。どこかで「ダブり」があったものと思われる。 ある富裕層の家で家庭教師をしていたら、そこの生意気なガキが
「お前なんて、ウチの使用人じゃないか」と言った。
そのクソ生意気なガキを怒った川上哲治さんがぶん殴るとガキが泣きだした。
ガキが親に言いつけて川上さんは、その家を追い出された。
この行為について言えば100%川上さんが正しい、と私は思う。
こんなガキを増長させておいてはいけない。
そもそもガキがこんなセリフを口にするのは、親の教育がなっていないからである。
ガキは親の言動を真似しているだけとも感じる。親のほうもぶん殴って構わないだろう。
「暴力は最良の解決策である」というケースが、まさにこれ。
悲観した川上さんは、阿蘇山に行って、身投げすることを考えた。
しかし几帳面な川上さんは、間違いがないように阿蘇山へのルートを丁寧に人に
訊ねた。
そうして阿蘇山に行ってみたら、そこには父親が先回りしていた。
川上さんの様子を見て異変を感じた人が、こっそり父親に連絡していたのだ。
いろいろと悪い評判も聞くが(湯口投手の死に際してのコメントなど)人知れず
川上さんは苦労を重ねた人生を送ってきたのだと今にして思う。 瀬古利彦氏や早稲田大学などを指導した中村清氏は
「私は選手を殴りません。しかし、どうしても我慢出来ない時には一発殴らせてくれ。
ただし、私が殴る時は自分自身もこのぐらい殴るつもりです」
そう言うやいなや、自分自身の顔を思い切り殴りつけたという。 いや瀬古さんの師匠の中村さんね。
川で不審死したのが謎 戦時下に部下だった丹波哲郎さんを殴ってた川上さんは 箱根駅伝ランナーの黒木亮(本名は金山雅之)の『冬の喝采』という本は箱根駅伝が
近付くとつい読み返してしまう。金山選手は早稲田大学で3・4年と2回箱根駅伝出場。
中村清の暴走老人ぶりが余すところなく描かれていて、落雷に遭った人には気の毒だけれど、つい笑ってしまう。
プロ野球の世界に譬えると誰だろう、とか、つい考えたりする。 廣岡は現場を離れる度にラジオ日本(81年9月まではラジオ感度)と解説者契約してたのが、
西武監督辞任後は川上のいるNHKだったな。 ラジオ感度じゃない、ラジオ関東だった
ラジ関時代は出力も弱く、感度も悪かったがw 東京12チャンネルの懐かしい思い出。
プロレスと言えば国際プロレス。金網デスマッチ。ラッシャー木村😊 川上さんのことを「カワさん」とか最近は呼んでいるようで、意外と親しみが
籠っている感じもする広岡さん。
「責任感は強かった」みたいにも言っている。
昭和39年当時の二人のツーショット写真を見たが、目がお互いに笑っていなくて
「冷戦」は本当だったと感じたのだが。
よく修復したと思う。 >>76
山櫻名刺のCMから国際プロレスアワーの流れ子供心に覚えてる ↑意外というか、笑うと愛嬌があってカワイイ(失礼かなあ!?) キモいんだよ広岡キチガイ
この板はお前の落書き帳や日記帳じゃねえ >>63
選手を殆ど凹らなかったのはノム
___
高橋里志 Wikipedia
…南海時代、なかなか一軍に昇格させてもらえず日頃からふてくされていた。二軍での或る試合で、炎天下でもコーチから労いの言葉一つなかったことに怒り試合途中で帰ろうとしたところ、
二軍の視察に偶然やってきた一軍監督の野村に見つかり、殴られ、倒れたところを蹴られたという。
野村が野球人生の中で選手に手を挙げたのは3回で、そのうちの1回がこの件だったとされている[12]。
中村清氏は双眼鏡で自分の頭を思い切り殴りつけ、血がボコッと噴き出して
説教されていた選手が卒倒したというエピソードならば知っている。 40年くらい前だろうか。
川上氏のモノマネをする人と長嶋氏のモノマネをする人がセットでフジテレビ系の番組に
出演していた。
川上氏(ニセモノ)によるとフレッド・ブラッシーと同年代だという。
プロレス番組によく登場していたが、昼の番組にも登場して、ニセ長嶋氏と卓球に興じていた。
右利きだったが「リウマチなんですよ」と元々は左利きであることを強調。 >>89
いいともの草創期じゃないか
子どもにはチョーさんはともかくドンとか言ってモノマネされても
何を言ってるのかさっぱりわかりませんねー だったが ドン川上のモノマネやってた人はたしか当時まだ30代で日本旅行勤務だった 人生はベースボール。ホームランか三振か。
死んで花咲くデッドボール。
来たかチョーさん。待ってたドン。 山本浩二が後楽園の巨人戦でボールを頭に当てて落球したシーンがあった。
宇野選手のヘディングが有名だったが、山本浩二選手もやっていた。
プリティ長嶋氏が「これは私が監督だった時のことですね」とのたまっていたが
手を大きく広げて、セーフをアピールしている三塁ベースコーチは、どう見ても
牧野茂さんで、プリティ長嶋氏が間違ったことを言っているのが分かった。
牧野茂さんは第一次長嶋監督時代はヘッドコーチを務めていない。TBSで解説を
やっていた筈だ。
恐らくこの映像は第一次藤田政権の81年くらいのことだろう。
牧野さんは昭和の時代に亡くなってしまっている。
亡くなる目前に川上さんが「牧野! 起きろ!」と声を掛けると、牧野さんは
しっかりと反応してくれたらしい。川上・牧野コンビは最後まで盤石の信頼関係が
あった。 >>93
ユニフォームの書体見れば一目瞭然。
第1次長嶋政権下はサンフランシスコ・ジャイアンツを似せた書体(1953年にも使用)。
藤田政権以降は伝統的な花文字タイプを復活。 >>94
ユニフォームと言えばビジターでは胸に「TOKYO」だったのを「YOMIURI」に変えたのは引いた 「もう一度監督をやるとしたら、もう二度とあんなつまらない野球はやらないよ。
管理野球は当時誰もやったことがなかったから、やることに意味があったんだ」
監督を退いてから何年も経って、平成の代になってからだが、川上さんが自らの
野球を否定したコメントを発していたのを覚えている。 送りバンドをしないとか、大差での負け試合に野手を登板させるなんてのを、率先していたかも。 見た目の風貌からすると全く意外だが新しもの好きな性格に思える。 >>97
「おれはここに来た球じゃないと捕らないからな」と捕球でジャンプすらしなかったからな
だから広岡がキレた >>100
自演w
何回も何回も同じネタ書き込んで飽きないのか?
いい加減見飽きたわ