田中幸雄遊撃手が宮崎・都城高校から日本ハムファイターズ入りしたのは昭和61年。
繰り返すが、昭和61年に生まれたのではない。昭和61年にプロ入りしたのである。
昭和61年といえば、「ドラゴンクエスト」の第1作目が発表され、人気アイドル
岡田有希子が四谷のビルから飛び降りた年である。ここまで聞けば、団塊Jr世代、
胸が潰れて涙がこぼれてくる。
そのような年に、田中はプロのユニホームに袖を通した。2年目からショートの
レギュラーポジションを獲得した田中は順調に安打を重ね、プロ17年目の2002年
シーズン終了の時点で通算1835安打となった。2000本まであと165本、それまでの
田中の実力からすれば、1年半もあれば達成できる数字である。田中にとって、
2000本安打とは女学生がクリームソーダを平らげるよりも容易いことだった。

「2000本、2000本というが、大したことないんだなぁ。再来年には名球会入りか、
 俺の野球人生は順風満帆だぜ」

しかし男の人生は千秋楽を迎えるまでわからない。2002年オフ、それまで日本ハムを
率いていた大島康徳に代わり、トレイ・ヒルマンが新監督に就任した。
ヒルマンはチームの若返りを公言し、3年目の木元邦之をセカンドのレギュラーに抜擢、
そして田中より9歳も年下の金子誠二塁手をショートにコンバートした。こうなると、
ベンチに追いやられるのはベテランの田中である。その結果、2002年には130本だった
田中の安打数は、2003年には半分の66本に激減した。
そして時を同じくしてその年のオフ、住み慣れた東京から北海道に球団が移転した。
考えてもみてくださいよ。部長昇進確実と言われていた男が、新しく上司になった
外国人のさじ加減ひとつで、突然窓際族に放逐され、挙げ句に社屋が東京から札幌に
移るというのだから、田中はたまらなかったと思いますよ。

「あのときは荒れましたね。わざわざ北海道まで来て、毎日試合が終わるまでベンチで
 茶を啜る生活なんてまっぴらだと、毎晩ススキノのバーでウォッカを飲みに飲みました。
 これでは2000本なんて夢のまた夢、長年チームに尽くしてきた俺は一体何なんだと、
 気づいたら自宅のベッドで涙を流して寝ているんです。本当に辛かったなぁ」(田中)

そんな田中を見て、ヒルマン監督はなんと言ったのか。

「1年でたった66本しか打てないベテランなんて、糞の役にも立ってないんだ。
 どうだ、北海道がいやなら、故郷の宮崎に戻って乳搾りでもするか」

とでも言ったのか。
このトレイ・ヒルマンという男、肌と髪の毛と目の色こそ東洋人とかけ離れてはいるが、
胸の奥底には、男気というか、浪花節というか、日本人の心にじぃーんとしみわたるような
熱い心情を秘めている。札幌ドームの監督室に田中を呼ぶと、肩をたたきながらこういった。

「なぁ田中よ。日本ハムファイターズの看板と言えば、小笠原道大一塁手でもなければ、
 金村暁投手でも、新庄剛志中堅手でもない。田中幸雄を置いて他にいないだろう。
 ベンチにいようがグランドに立とうが、お前の1つ1つの言動やプレーに、選手やファンが
 注目しているんだ。いつかお前の力が必要になるときが来る。2000本も、近い将来きっと
 達成できる。だからそれまでは、こらえてくれや」

この言葉を聞き、田中幸雄の腹は決まった。グランドに立たなくても、チームに貢献する
ことはできる。チーム1のベテランが縁の下の力持ちになる覚悟ができたのだから、強く
ならないはずがない。北海道移転後の日本ハムは3位→5位と低迷したが、3年目の2006年、
見事に日本一に輝いた。そして翌年の2007年5月17日、対東北楽天(東京ドーム)において
山村宏樹投手からライト前に弾き返し、田中は2000本安打を達成した。
達成の瞬間、日本ハムベンチからヒルマン監督以下全選手が飛び出して、一塁ベース上の
田中に抱きついた。ヒルマン監督との抱擁を交わしながら、田中は心の奥底でこうどなった
のではないか。

「あのとき、乳絞りをしなくて本当によかったなぁ―――――」