〓西鉄・太平洋クラブ・クラウンライター〓Vol.27〓
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>489
追い出した連中が今生きてるかどうか怪しいだろ >491
どういう意味ですか?
球団を継続させた人に対して地元の人は敬意を。という意味ですよ。
誰も引き受けない、リーグの存続すら危ぶまれる中、火中の栗を拾った人の一人
口は出すがカネは出さない。いきなりよそ者扱い。という逆境の中必死に経営して
きた点。そこをもっと地元の方も見つめ直す時期に来ていると思う。 中村も堤義明もライオンズを存続させた功労者なんだよ
ただ福岡の人から見ると「よそ者」の一言で済まされてしまう
ダイエーの中内さんも大功労者なのにすっかり消えてしまった 一度ライオンズに出ていかれたことで野球が恋しくなり
民間から誘致活動が起こってホークスがやってくることにはなったが
そのホークスも最初から熱心に応援されたわけではなかった
この辺は少々虫のいい県民性を感じる 西鉄がシーズン前から身売りを表明していたライオンズ。
合意寸前まで行っていた引受先のペプシが相次ぐリーグ球団身売りに不信感を抱き破談
話を持って行った中村氏がロッテから個人の会社を立ち上げライオンズを引き取り。
しかもタダでも良いという西鉄にそれでは栄光の球団が不憫と一億円を払い
窮余の策で見つけてきたスポンサーが太平洋クラブ。
直後の法改正でスポンサー料が当初のものと食い違う躓き。(書面でなく口約束での誤算)
契約を見直すということで球場の弁当販売業者の既得権を無しにした腹いせに大元の議員が
議会に働きかけ嫌がらせ。
市役所から「あんたら来年からどこで野球すっとね?」という凄いもの
ようやく球場使用が下りても利用料が西鉄時代の1試合6千円から数十万円に。
太平洋クラブからはライオンズというロゴはいいからユニフォームに
【漢字とカタカナで大きく太平洋クラブ】と表記しろと無理難題を突き付けられ
毎月給料日には銀行や信用金庫を駆け回る。
そんな中市民のかけがえのない文化のプロ野球、リーグを灯を消してはならないという
思いが中心にあったから極貧球団と言われながら経営し続けられたと思う。 >>496
当時の技術だとメッシュのユニに漢字は困難だったとか? ちょっと不思議に思うのは「福岡時代は別物」と切り捨てた堤が
なぜか「ライオンズ」という名前は残したこと
そこも変えてもおかしくなかった気がする それを外野の市民やマスコミや議員や九州の有力企業は
【大変だね】という見方。
自分がそうなったらそこまで思いだけで出来るのか?
大いに山師的なものや風呂敷を広げるきらいもあったかもしれない。
でも誰が見ても苦難が見える役を自ら引き受けて可能性ある限り九州で経営を存続
しようとしたその点は今称えるべきではないか?
熱しやすく冷めやすいというのが当時の福岡のファン。
どうすることも出来なくなって極秘に西武に球団身売りを持ちかけたのも球団の延命
の為。断腸の思いもあったと思う(議員や財界にはそうではなかったと思うが)
身売りが報道されるや掌返しに裏切り者扱い、ライオンズを返せと突然大声を出し始めた
博多の人間。当時住んでいた小学生の自分でも違和感を感じた。
8月下旬から大失速した連敗時の観客は新聞報道で2〜3,000人。
まだ盛り上がっていたお盆には2万人以上の観客。
これが当時の現実。だからこういう事態が起った原因を市民も作ったという点で
自戒を込めたというのがその後の球団誘致の一つの要素。
中村氏を称えることで過去の教訓を福岡の多くの人が知り過去の事実を繰り返さない
という風にしてもらいたい。
ライオンズは西武になり生き続けたのだから。 >498
一回堤氏はライオンズでなくレッドアローという名前にしようとしたこともあった。
多分推測だが
中村氏の思いもあったのであろう【ライオンズの名前は残してくれ】と懇願したのでは?
堤氏の繋がりのあった福田元首相の親元に当たる岸元首相の秘書であった中村氏の顔を
立てたのではないかと思う。
ライオンズの名を残してくれたのでは?と思う。
レッドアローなら福岡のファンは絶対別物と振り向きもしなかったと思う。 >>500
どう考えてもライオンズの方が良いな
レッドアローってダサすぎる
60年代のヒーロー漫画みたいだ >太平洋クラブのユニフォーム漢字表記
当時のユニフォームの技術云々ということでなく
資金力のない個人経営の福岡野球に対してスポンサーの威を借りて傲慢に
要求してきたのではないだろうか。
そこをはねつけた坂井氏(多分もしくは青木氏?)
また日拓みたいに一年足らずで球団経営から身を引き次の若手経営陣会の企業に
回していこうという何とも舐めた安く足元を見たふざけた事例より
青色吐息しながら個人会社で6年継続させた点の方が評価もされるべきと思う。
させた点も 基氏や大田氏が当時を振り返り
西鉄から【太平洋クラブ】という名前になった途端【よそ者扱い】され寂しい思いをした
と語っている。
西鉄はおらがチームという思い。弱くても球場に行かなくても地元のチームの認識
それが太平洋クラブというスポンサーながら当時は親会社と間違われ
馴染みない社名と地元でないオーナー。当時の博多の人は今の人口の半分くらいだったし
(80万人くらい)新幹線も通っていない地方都市。余計地元の人が多かったのでよそ者
扱いが今とは感覚が違う質ものだったとも考慮に入れないといけない。
基氏が太平洋クラブという社名がアカンかったかも。という事を言っていた。
その辺に九州の有力企業の名前が付けられなかった本音と建て前の当時の事情を垣間見ることが
出来る。口は出すがカネは出さない。というスタンス。
そういう土壌では一度原点に立ち返って自分たちを含め見つめ直すことがが必然だったと
思える。ライオンズの事例をもう一回福岡で皆思い出し考察して今があるのはそういう人たち
歴史があったからとする他のものででも生かせる良い教材になると思う。
そういう意味で中村氏の功績を称えてほしい。中内氏も然り。
よそ者とカ関係ない。地元から見てよそ者と言われた人が尽力したのだから。
そこは過去に葬るべきでないと思う。
そういう人がいたから今があるという思い。それを皆今共有してほしい。 ホークスの名称も中内とダイエーが残したよな。
もし福岡ダイエーツインズとかなってたら、福岡のファンは根付いても、南海ファンは見向きもしないだろうな。
西鉄と南海の遺産でかいよな。
阪急ブレーブス、は.... 確かに愛称を残したのはとてつもなく大きかったと思う。
堤氏の新球団発表会見で記者からの新球団名は?という問いに
一瞬間が空き
これでいいよね?という確認をして
【新球団名は西武ライオンズ】
と正式に発表。国土計画が親会社だが西武を採用。ライオンズも引き続き採用
福岡のファンからみれば見ようによってはシンプルな球団名と【西鉄ライオンズ】
と一字違いというのも。本拠地は所沢に行ったとは言え不思議な親近感も感じたのでは
ないか?(自分は事実そう思った。主観にはなるが)
それまでの福岡にはあったが長ったらしいスポンサー名の球団より
それがその後の平和台ライオンズ応援の応援の小さいけれど要素の一つにもなったのでないか?
あの時堤氏が一瞬迷って
【国土計画レッドアローズ】にします。
という可能性が無かったわけでもなかった。
そういう意味ではあの球団名は英断でもあったし西武グループのその後の知名度などにも
大きく貢献したと思う。
球団の名前の重要性を思い知った。 当時のベースボールマガジン、他社の野球雑誌とか、広岡西武のパリーグ初優勝&日本シリーズ初優勝なのか、パリーグ6度優勝&日本シリーズ4度優勝なのか表記どうなってるだ? 新聞だとリーグ優勝段階では「初優勝(前身を含めれば6度目)」と書いてあるが、
日本シリーズに関してはどこも前身には言及なし
むしろ広岡野球がセパ両リーグ制覇という扱い
ttp://i.imgur.com/TSaMkGY.jpg
ttp://i.imgur.com/1iXUvnI.jpg
ttp://i.imgur.com/L9FMGeZ.jpg
ttp://i.imgur.com/8ZP5zXl.jpg 西武の堤氏は中村オーナーがライオンズの救済を求めた際負債の12億円も引き受けてくくれた。
その代わりに球団の存続と引き換えに本拠地の移転を条件にした。
福岡の市議会は中村オーナーの会社の【自己破産】を待って市民球団の構想を持っていた。それが当時の福岡市や財界の塩飽の本質
つまり負債は引き受けない。けど市民球団を持つことは賛成
だから中村オーナーに負の遺産を全部かぶせてというとんでもない都合の良い考え。
そこを読んで中村オーナーは断腸の決断をしたのではないか?
その後もロッテの福岡への移転の時も当時球団が持っていた負債を市が持ってくれ。
という条件を却下して破談になっている
稲尾監督の尽力もここで一旦終わる。
カネが絡むと理念や目標が一気に形骸化
それが80年代半ばまでの九州の政界財界のプロ野球誘致に対する現実だったと感じる
そうカネが現実に絡むと一気に現実的な対応となりチャンスを逃している。
ロッテはまぁ当時の福岡という土地にそう魅力を感じてなかった面もあったが
(あくあで関東・首都圏にこだわった)
都落ちという言葉もあったようでそれはそれで配慮に欠けた言葉
結果的に実現しなくてよかったと今は思う。
ホークスの方がロッテよりイメージは良かった。
受け入れないというより年代の高い層に時間がかかったというのが当時の正直な感想
子供世代はファンクラブの特典もあり一気に受け入れられたと感じた。
その世代が今ホークスのファンの親世代に。
双方によかったと思う。 ライオンズが西武に身売りされ他球団にトレードされた選手は数多く
クリーンなイメージづくりの新生球団スタートと旧ライオンズのカラーの払拭
代表的な選手が
阪神へトレードされた
真弓、若菜、竹之内
大洋にトレードされた
基
移籍するやいきなり開幕スタメン・レギュラーの堂々たる活躍
当時別世界だった九州からブラウン管を通して観た巨人戦の満員の観客の中彼らがカクテル光線を浴びて活躍する様は眩しく映ったものだった。
昨年まであの寂れた平和台での彼らとは全く違う姿
あのセリーグでも活躍できるんだ!!と誇らしく思った。
それは技術や力は勿論ハングリー精神も大きかったのではと思う。
例を挙げると竹之内選手は試合が終わり家に着くと奥さんが洗濯ものに破れたストッキングがないことに気づき聞くとあぁすぐスポンサーがすぐ新しいのを提供してくれるんだよ。と回答。それが本当のプロ野球よね!!と奥さんがそれまで繕っていた作業から解放され喜んだエピソードがよく表しているかと。
クリーニングも球団がすべてしてくれることにも驚いたという。
余計好きな野球に打ち込める環境をありがたかったかと。
だからしばらくライオンズが去った後も選手では負うことができ活躍して応援することもできた。
そしてその後ライオンズが優勝するようになり数少ない福岡ライオンズの選手が大舞台で活躍。ある意味幸せだったかもしれない。 wikipediaがソースのにわかがどやって語る痛いスレだな。 429神様仏様名無し様2020/06/17(水) 20:34:24.18ID:kHeCYVEN>>431>>432
>>411
当たり前だろ。
既に西鉄末期から、福岡のファン層にしたって
「テレビの巨人ファン」>>>>>>「西鉄太平洋クラウン」だったんだぞ。
ちょっと深く年代別に見るなら、1978年当時の50代以上が付かず離れずのライオンズ・ファン。
20代〜40代のメイン層が巨人ファン。10代未満でライオンズ・ファンと巨人ファンが拮抗、
やや巨人ファン多しという状態だわ。
昭和58年に福岡の地元企業に大卒就職したが、その当時の20代の先輩は全員が巨人ファンで
西鉄〜西武ファンは40代以上に数人いただけ。同期の+/-3歳に、太平洋、クラウンを知るファンが
数的には巨人ファンに対抗できなくても、飲み会できる人数はいたな。
福岡の還暦老人オナニー文章を書くw
430神様仏様名無し様2020/06/17(水) 20:35:46.73ID:kHeCYVEN
>>424
「巨人の王」を神輿に担いで、西武時代に痛い目に合わされた秋山、工藤を、王の部下扱いにしてる現状は
福岡の多数派である巨人ファン的には最高の構図だからな。
もう40代以下は、太平洋クラウンはもちろん南海さえ見たことないのばっかなんだから。
福岡のミニ東京化こそが上京成金になれない、なりたくもない福岡人の望みよ。
地元ローカル・マスゴミも、しっかりミニ東京を実現して商売してるわw >>505
昭和56年の紅白歌合戦に新人王となった石毛が審査員として出演したのだが、このとき
NHKのアナウンサーが「西鉄ライオンズの石毛選手」と紹介したのを覚えている
西武ライオンズだからこそ、この言い間違えになった
太平洋やクラウンなら間違えなかったと思う 西武にライオンズが身売りされた時に親が驚いていた。
【今までの親会社とけた違いだよ。と。】
西鉄や九電よりも?と聞くと、そんなん比較ならんくらっいでかかっと!!
(博多弁で)よー、そげなとこがライオンズを買ったんね。
すごかねー。という感じ
それくらい大きな会社だったと初めて知った。
九州以外の本州いや関東のスケールの大きさを初めて身近の例で体感した。
学校の社会の時間で産業・工業地帯の九州と京浜の違いを習ったのがここで符号
するくらい。
そのあとニュースとかで帽子や球団旗デザインのカッコよさ
サンシャイン60に球団事務所
斬新なユニフォーム(選手ごとのオーダーメイド・新素材)
新球場のきれいさ・先進性
有望選手の入団
が立て続けに。
つい先日の福岡のライオンズの色褪せ方が半端なかった。
それくらい立て続けで目がくらむような全く新しい球団の歩みだった。 永射が言ってた
「夏でも春秋用ユニフォームを着てたのでAS出る時に自分らだけ新調してもらった」
っていう話は1人1着しか支給されなかったっていう日ハムより酷い
日ハムもさすがに夏用は支給されてたよなぁ? 永射の話は聞いたことある。
東尾か土井が球団と掛け合って翌年に支給してもらったようにも聞いている。
ホテルから球場の移動は公共機関。
福岡から北九州の移動も何と特急でなく普通電車料金の支給。
(乗りたかったら差額分は自己負担)
遠征の食事代も現金支給だし。
練習のボールも他の球団から【調達したり】真弓は得意だったらしい。
貧乏エピソードには事欠かない球団
でも、それでも野球が出来て給料がもらえると事に喜びを感じる選手が
集まっていた。
それがまた独特の魅力を醸し出していたのでは? 西武に身売りされ愛称ライオンズを継続したのと同時に
ユニフォームの筆記体ロゴもさりげなく
【太平洋〜クラウン】のものから洗練されたもの〜デザインに連続性を感じた。
つまり新球団という事で
福岡のライオンズの歴史をなくすという事をしたが
太平洋〜クラウンからの流れはさりげなく取り込んでもいる。ライオンズも含め
時を経て昔の太平洋クラブのホーム用青の写真を見た今のファンが一瞬西武のもの
にも見えた、似ていると感想を述べたことから
一気に新球団でなにもかも変えるという事はせずある程度数字の見込める既存の
ライオンズファンも商売的に考慮に入れていたとも感じる。
つまり福岡のライオンズ=黒い霧の西鉄ライオンズのイメージは断つが
前中村オーナーの顔を立てることや上記のことなど考え
太平洋〜クラウンの流れはデザインで取り入れていたというのは興味深い。
ロゴや色がケンカしてしたようなイメージの福岡ライオンズのユニフォームから
一気に球団カラーで統一されたスマートなユニフォーム。
パジャマと言われたビジター用のユニフォームも奇抜さは全くなく最強西武のイメージと
他球団のOBに言われているくらい。
そこにも親企業の力の差を感じた。 当時ライオンズが後楽園で日ハム戦やロッテ戦を消化する時の宿舎は、球場の向かい側にある水道橋グランドホテル
ユニフォーム姿で野球道具を抱えて白山通りを横断するライオンズナインの姿を目撃された方はいらっしゃるでしょうか? >>517
なお堤のライオンズブルー廃止、西鉄風に復活した模様。 坂井の著書を読むと
西武に身売り。負債を全額受けてもらった代わりに西武本社から来た人の
監査は相当屈辱的なものだったようで。
当然といえば当然かもしれないが救ってもらった側なので耐えるしかなかったという
無念の思い。必死にスタッフがボーナスも無い中持ちこたえてきたそういう共有の
ものも去来してたと思う。
せっかくの記念だからと売店の球団グッズか何かの一つを皆に配ったが監査の人に
見つかり【そんな意識だからこんなザマなんですよ!!】とキツく言われたらしい
身売りされる側の悲哀をまざまざと感じる記述。
でも西武は引き取ってくれた。
もし引き取ってくれなかったら会社を倒産という市や議会の思惑・打算があったわけで
どちらが現場の人に不幸かは一目瞭然。
後付けでライオンズ応援の了承とか色々新球団になって掌返しで交渉してくる福岡の人には
流石の坂井氏も塩対応をしたかと。
それでもファンや球団には感謝の意は持っていたと思う。 信じられないかも知れないが
福岡野球の事務所の登記は実は坂井氏の自宅だったかと。
そこまで市に嫌がらせをされていた。
球場の二階にあった球団事務所は強引に間借りして
実は市の了承を取ってなかったらしい。(許可もしてなかったらしいが)
こういう事実があった。
凄いでしょ?
よそ者扱いで地元のプロ野球の親会社をこんな形で。
色々な視点があると思う
でもそういう視点も事実も今福岡の人は知ることにより改めて今のホークス
の有難さも違った意味で身に染みてわかるのではないか?
ライオンズが去る時カープが強くなっていた時期と重なり
身売りの翌年カープが二度目の優勝。
福岡市も市民球団をとか声を上げ始めてたが
上記の経緯をしてきて市民球団の目をつぶすことを散々していた行政や財界に
当時の坂井氏や現場の人たちは大いに懐疑的な目で見ていたようだ。
それが一つの現実です。 ダイエーは福岡野球やロッテの例を見て緻密に対策を練ったんだろうな ホークス誘致の際は若手の会の人たちが
その辺を十分教訓として動いたと感じます。
移転後弱くても観客はライオンズの末期よりは全然来てくれたし
もう逃げられたら絶対プロ野球は来ないという危機感もあったのでは?
そしていつでも応援するという違った文化が生まれてきたのではと思う。
でも今はホークスの黄金期
ライオンズの歴史を振り返っても良い時期だと思う。
そこにまた新しい福岡や九州の人の中に違うライオンズが生まれ生きてくると思う。 まあ坂井も坂井で現場の選手たちを見下していた節があるから言えた義理ではない
野村さんには効果があるかもあやふやなリード論があるから(笑)だからな 坂井氏はまぁ球団経営という視点で見ればそう書けるが
組織人としてはトップの顔を常に伺っているという風にも選手側から見えたかも
実際西武になって資金が潤沢になっても
選手の年棒交渉では前球団の手を使ってたらしいし
【あいにく全体の予算が決まってて貴方の提示はこれが精いっぱい】とか
でも選手も他チームの選手の情報とか耳にしてただろうし福岡の時なら煮え湯を
飲まされても耐えていただろうがさすがに選手の一部にもキレたのが出たのは
当然だろう。
代表的な選手で言えば大田選手。
あまりにも同レベルの選手と比べ低かったらしい。
結局移籍を要求しアップを勝ち取ったらしい。
選手の狡猾な年俸交渉にはこの例は解釈できなかった。
ベストナイン取った年にオールスター出た時成績よりも12球団一安い4番打者とか
言われたくらい(確か300万くらい)
ダイエー時代も隙あらばそうしてたようだ。
考えるに大盤振る舞いや大幅アップはトップがそうしろというジャッジをしない限り必要事以上出さずそれを評価にしてもらおうとも思えてしまう。
外資・商社出身なのでその辺は結構日本的なものでなくシビアなものが身についているのかも。 >>484
出来る限り中継していたイメージ
テレビ朝日制作KBCの中継で稲尾氏が解説だったことも。 >>413
メジャーリーグの場合は、現在のアスレチックス、ドジャース、ジャイアンツはどうだろうか??アスレチックスは三か所移転だからな。
>>415
金田正一氏のコマーシャルは、国鉄でなく、政府広報のコマーシャルの筈
>>498
手塚治虫氏逝去時のエピソードで、西武の堤義明氏のコメントで、『ジャングル大帝レオをデザイン化したマスコットマーク』を、手塚氏に使用公認を取りに行った際
手塚氏から、公認が取れない事態が想定した場合、西武ライオンズになって居なかったらしい。 >>512
元は大阪の球団だし仕方ないよね。
福岡ライオンズとは別球団だし。 >>517
マジ?堤が中村の顔立てたから
太平洋クラウンに似た筆記体を引き続いたの?
道理で似てるわけだ せっかく福岡ライオンズを西武が買ってくれて、延命してくれたのに、
なぜ一部西鉄OBで西武毛嫌いする人多いのか?晩年の三原御大でさえ身売り仕方ないし肯定的なのに...
他の西鉄OBはどう思ってるのか? 一部西鉄OBで西武毛嫌いする人多いのか?
例えば誰が毛嫌いしてるの? 若菜は西武のおかげで阪神に入団できたのに恩知らずな奴だな >>532
毛嫌いはしてないにしても、
福岡系OBと西武黄金期選手との距離感あるよな。仮にも堤がライオンズ買ったのに...。
仰木、稲尾は近鉄、ロッテ監督してたから、
広岡、森西武のライバルは仕方ないけど。
何故か知らないけど和田さんは黄金期西武で2軍監督、コーチしてたな。
埼玉移転した時点で辞めても不思議じゃないけど、移転後もコーチでライオンズも支えてって凄いよな。 西鉄太平洋OBが福岡で解説の仕事してると、
どうしてもホークス贔屓なっちゃうよな。
ただ、西鉄OBは球団はあるだけマジだろ。
名門阪急OBなんかもっと悲惨だぞ球団存続してるけど弱小ライバル球団との合併だぞ。名称も
弱小ライバル名やし。
阪急OBは仕事上阪神解説して阪神OB面しないといけないし。 滝内は根本監督時代まで西武に残って、監督が広岡に代わるタイミングで近鉄に行ったが、
当時の近鉄の関口・仰木といった西鉄OBのコーチとの関係かな? 近鉄はその世代の有力OBが他所に流出してたしね
関根は根無し草になっていたし児玉は三原の邪魔になるからと放逐された 関根潤三が近鉄を出されたのは高年俸ベテランを整理したかったからだろうけど後の指導者・解説者歴を考えるとトレードは本人の為になったな。
近鉄一筋で引退したら忘れられた存在になったかもしれない。
話を西鉄に無理やり戻すと、68年にかつての近鉄エース徳久を獲得しているが全く戦力にならずに解雇してるな。
近鉄監督に就任したばかりの三原は知名度あるけど問題がある選手をどんどん放出したそうだが
高木喬(こちらも不振のまま)らと合わせて西鉄が「掴まされた」のかもしれない。
ただでも戦力層が薄かったんだから黒い霧関係なく弱くなる一途だったな 近鉄は後に土井と永淵を放出したし、チームの主力をどんどん出してしまう傾向がある
土井はライオンズに来て、主砲として活躍し、指導者としても大成功したから、これでよかったのだろう
あのまま近鉄にいたら、西本監督とも合わなかったかも知れない 最新式の球場に超一流の選手達、日本シリーズ不敗の強さ
ソフトバンクホークスが福岡のファンを魅了し続けるのには理由がある
それが福岡から石持て追われたライオンズとの大きな違いだ それもあるけど
ダイエー時代に地元の商店街や競合のスーパーとかに
球団のロゴや名称を使用許可出したのも大きい。
皆のチームと地元経済界も一体になった。
ダイエーらしからぬ大英断
でも物凄いものも球団にもたらした。
おらがチームの現代版。
ライオンズの反省も生きたのだろう 関根や根本や別当らによる監視があったから小玉は選手としてはヤオっていない(と思う)が
彼らが退団した後の兼任監督時代に致命的な不祥事をやらかした >>542
今のソフバンは黄金時代西武と重なるな。
共に日本有数の大手企業。
そら、設備投資、待遇面、何もかも恵まれてし、
そら必然的に優勝するわ。
逆にオリックスは親会社恵まれてるのなぁ。 2軍の食事面も一時期ホークスはコンビニ弁当だったらしいから
その辺も工藤監督になってから変わっていったかと。
基本の身体づくり。
広岡監督の遺産だな。
そういう中遠征のたびに食事料を手渡され当時そんなに店も開いてない中
やりくりしていたライオンズ選手。
大変だったろう。
しかもシーズンオフは2軍給料無しとか。(9か月くらいの分割でもらってたとか)
それでも遅配だけは避けたらしいから金策は想像を絶するものだったかと。
球場の食堂に代金未払でお米が仕入れられなかったというエピソード
(カレーだけだったらしいがその米さえ仕入れられなかったらしい)
それほど財政は末期的だったと思う。 >>547
西鉄時代の加藤博一氏は、シーズンオフの時期は、魚河岸か、生鮮市場でバイトしていたそうだ。セリーグの阪神タイガースにトレードで、良かった筈。 加藤博一氏は福岡時代色々なバイトをやったと語っていた。
靴問屋の整理とかキャバレーの司会とかも。
あの話芸はそこでも培われていたかと。
バイトしながら先輩選手の家に泊めてもらったり一緒に練習したり
貧しいながらも楽しかった面もあったと語っていたような。
ウェスタンの盗塁王になってスイッチヒッターの練習を始めて
必死にプロで生き残る術を磨きながらチャンスを伺いブレイザー監督の目に
止まり(挟殺プレーの練習でランナー役でセーフに何度もなったのを)
出場の機会を。79年江川からホームランで注目。80年3割で一回燃え尽き症候群
トレードされ大洋で再度ブレイク。
TVとは違い裏ではストイックだったと。 加藤博一氏は福岡時代色々なバイトをやったと語っていた。
靴問屋の整理とかキャバレーの司会とかも。
あの話芸はそこでも培われていたかと。
バイトしながら先輩選手の家に泊めてもらったり一緒に練習したり
貧しいながらも楽しかった面もあったと語っていたような。
ウェスタンの盗塁王になってスイッチヒッターの練習を始めて
必死にプロで生き残る術を磨きながらチャンスを伺いブレイザー監督の目に
止まり(挟殺プレーの練習でランナー役でセーフに何度もなったのを)
出場の機会を。79年江川からホームランで注目。80年3割で一回燃え尽き症候群
トレードされ大洋で再度ブレイク。
TVとは違い裏ではストイックだったと。 博一さんはプロ野球ニュースではおちゃらけキャラでしたけど、解説者としては怠慢プレーや全力疾走を怠った選手には手厳しくて、試合前の練習中に当該選手に苦言を呈することもあったとのことですね。告別式で、博一さんに叱られたことのある選手、OBが参列していて、感謝の言葉を述べてたのを覚えてます。亡くなられるのが本当に早すぎました 亡き加藤初はケーキ屋、若菜は郵便局で郵便物の仕分け作業と、
オフは野球選手の身分も捨てて獅子奮迅した シーズンオフのバイト
竹之内は焼き鳥屋、永射が自衛隊
リアル「すすめ!パイレーツ」だな
そりゃ藤波行雄もトレードを拒否りたくなる 竹之内はNumberのインタビューで、
「福岡野球は選手に切符を売らせていた」と貧乏劇団みたいなエピソードを暴露していた それ本当なら竹之内も竹之内だな
市民に見放されてどうしようもない状態なんだから
自分らが飯食うためにも必要な事だろうに チケット買ってくださいよとお願いすれば、
またタニマチとの変な関係に結び付くと思うけど。 それはある程度年間予約席を【確保できている】球団だったら
その危険性も含んで言えるけど
最末期の福岡野球で年間予約席は坂井氏の談話だと
あの九州電力すら10席しか購入してもらえなかったらしい。
年間入場料のある意味確保する【予約席】がそんな状態。
なりふり構っていられない状況だったという事です。 >>551
フジテレビの『プロ野球ニュース』の、シーズンオフ企画で、DJ風のトークパフォーマンスを決めていた加藤博一さん・・・
あの時代は、まだ大洋フォエールズの選手だった筈。
話が上手いのは、この理由か・・・・ 「球団とは言えないような所でやってましたからね。選手に切符を売らせたり、練習に使うボールに事欠いたり。
まあ僕はフロントに対して割と言いたいことを言っていたので、嫌われていたでしょうね。
(中略)西武に身売りされた時も阪神にトレードされた時も特に感慨はなかったですよ。
結局は与えられた環境で必死でやるしかない、というのがプロでずっと生きてきた結果たどり着いた哲学のようなものだったから」
(『Number』1987年10月5日号「プレーにも、人生そのものにも体当たりしてきた男 竹之内雅史」) 雑誌が手元に無いんで、「西武に〜」以降の部分は記憶に頼った内容。原文とはちょっと違うかもしれない 竹之内選手を始めそういう当時の貧乏エピソードを見るに
本当に野球が好きでなければここで野球やってないな。お金だけではないものの
ある意味純真さも感じる。
あるスカウトは
ピカ一の好捕はどうせウチなんか来てもらえないから中堅どころの
伸びそうな埋もれているやつを狙っていたという。
それはそれでやりがいがあったという風にも言っていた。
野手ではある程度良い選手がそろいつつあった。
投手がそれには当てはまらなかったのだろう。(大黒柱となる投手が)
あの悲惨な財政の中後年名を遺す選手が何人も輩出してる点でそこは注目すべき クラウン時代のユニフォームって皆どう感じてたんだろう?
当時の自分だと
他のプロ野球チームに比べてかっこ悪いと地元でありながら
思っていた。
何か当時やっていたレッドビッキーズみたいなデザインに
ピンポンパン体操のお兄さんがしてそうな帽子デザインに見えた。
帽子ロゴもロッテに似てたし
(まぁ中村氏の影響も今となっては考えてしまうが)
赤というか何というか自分らが体操着で着ていた色に似ていてプロ野球の
球団が使うような色でもなかったように子供心見えた。
ビジターもアルファベットがテンコ盛りで????という感じ
でも、でも、地元の球団という事で好きになろうとして好きになって
身売り後にデパートでクラウンの帽子販売でもう一つ買ったりして
そういう思いがある。好きでないけど好きになろうとしたデザイン
阪急や阪神・巨人がダントツでカッコ良かった。
その前の太平洋の帽子も親が買ってくれたが帽子のロゴのLTが
漢字の女に見えて野球チームなのに女って書いてある。と言って絶句させた
あの帽子の色なんていうのだろう? >>564
俺も地元中の地元で児童だったが
クラウンの帽子ってクラスに一人いるかいないかくらいだったな。
朝礼に選手(練習生?)が来て素振りを見せてくれたり
多分節分の時だと思うが、神社でサイン入りのゴムボールを選手が投げてたのは覚えてる。 西鉄太平洋ファンって巨人ファン兼任なんか、
アンチ巨人どっち? あくまで私見だが(当時の子供時代の感じからすると)
地元として応援していたのがライオンズ
TVの向こうのヒーローとして応援していたのが巨人
という人が多かったのではと思う。
阪神ファンはその時はそんなにいなくて
例の江川ドラフト・空白の一日事件が起きて、田淵ー真弓・若菜トレードと
重なって一気に阪神ファンが増えたような気がした。
アンチ巨人 アンチ中央みたいな意識
小林投手に対する半官びいき
旧ライオンズ主力が移籍 が重なり。
巨人のやり方もどうかと子供心に思ったがそれで流れるように阪神に鞍替え
というのも何かなぁという気もあった。
ライオンズはファンではあったが遠くに行ってしまったなぁという感じだった。 新日本紀行「ライオンズが来た町 所沢の四月」
7月16日(木) NHK・BS4K 午後8時00分〜午後8時41分
昭和54年、埼玉県所沢市を訪ねた新日本紀行が鮮やかな4K映像に!
福岡から所沢に本拠地を移したライオンズ球団を町のシンボルにしようという
市民の期待が描かれている。
https://www4.nhk.or.jp/P5123/ 福岡野球(太平洋・クラウン)時代は、福岡ローカル局による公式戦のテレビ中継は
どれくらいあったか覚えてる人はいますか?
特にライオンズ主催試合の中継がどれくらいあったか興味がある クラウン時代
ハンセンって外国人いたな。
デービスはやらかし助っ人のイメージだったけど。
イマイチ印象が薄い。
どんな選手が覚えている方は >>751
なんとなくだが 8試合位 裏の後楽園巨人と比べて
平和台のナイターの光量が低く暗い感じがしたのを覚えている。
平日ナイターだと寂しいスタンドと応援団の太鼓の音が印象に残っている。
>>752
陽気な中南米の選手
練習中、守備練習をしているハンセン(一塁)に、友達が「へ〜イ ハンセン!」
と叫ぶと「へ〜イ」と返して 手をふってくれてた。 当時の平和台の良い思い出。
バックスクリーン裏にあったうどん屋
まる天うどんが美味しかった!!
親子で行って唯一買ってもらったフード。
球場の弁当も学生になって食べたけどイマイチ
すぐうどん買いに行った。
カープうどんが有名だが平和台のうどんも負けてないと思う。
例えて言うなら手作りのウエストのうどん麺にしっかり取った昆布出汁。
よく分からないか。。。 堤は西鉄色を消すけど、
福岡野球と中村オーナーの顔を立てた?
だからLionsの筆記体は引き継いだのか多分? 西日本パイレーツ強そうな名前なのに逆やね。
青森で藤本英雄にノーノーされるパイレーツ。
読売に圧力に耐えきれず西鉄と合併解散。
南村、平井を強奪。
西鉄クリッパーズ結成。
実業団の寄せ集めで弱い。西日本パイレーツと合併。パイレーツから関口、日比野獲得。
市民の公募てライオンズに。
前読売監督三原が西鉄ライオンズ監督に就任。 >>576
79〜81、87〜88年の平和台開催も 資金面で厳しいと言われていた福岡野球時代は、保護地域の福岡県
以外での主催試合(遠征)はやはり少なかったのだろうか
クラウン時代に鹿児島でやる予定だったのが桜島の噴火で
中止になったことはあったようだが >>579
熊本藤崎台73年から3,5,4,2,1試合
鹿児島鴨池78年3試合
松山市営78年1試合
(中止試合・他球団専用球場は含まず)
西鉄後半は61年那覇奥武山で2試合やったあと72年藤崎台1試合まで10年間無し >>581
Yahooニュースは消えるのが早いから、
週刊ベースボールONLINEの元記事を貼ろうとしたら、NGワードに引っかかったww ライオンズを九州に残すには、九州の有力企業が球団を買収するのがよいが、九州電力のような
公共企業はお金のかかる球団経営への了承を取るのが難しかったんだろうな。
西武のように、ワンマンな経営者がいて、その経営者が「球団を買う」と言ったらその通りに
できることが大切だ。
そのような企業を九州で探すのは難しかったと思う。 表向きはともかく本音では「不良債権を回収してくれて嬉しい」だっただろうね 前から思ってたけど、ホークス移転30年経つのに
西日本スポーツの西武担当って未だにあるの?
旧本拠地の名残かな? >>585
別に人気のライオンズ出て行ってから
地元ホークス来て
人気の巨人取り上げても不思議じゃ無さそうなのに
現在も申し訳程度に西武の記事あるから。 >>585
今も西日本の西武記事あるの不思議やな。 パイレーツ+クリッパーズ=ライオンズだからじゃないの?縁が切れたけど我が息子みたいな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています