「プロ野球トレード史U」(ベースボール・マガジン社)の記述だと
1974年オフ、大洋の監督に就任した秋山登が扱いにくい江藤の放出を決めると、
大洋のフロントが、江藤の熊本県出身で福岡の日鉄二瀬に在籍していた経歴を考慮して譲渡を持ち掛けると、
ちょうど稲尾の解任に踏み切っていたこともあって選手兼任監督ということになったという流れだったという。

この時、大洋は中部謙吉オーナーの同席で会見を行って、
そのあと太平洋も中村オーナー同席で会見を行ったけど、地元記者クラブが
「福岡でまず新監督の発表をして、その後東京でやるというのならわかるが、先に東京でやるとは」と抗議文を突き付けて
一斉に退席するという始末だった。