【広島優勝】1975年のプロ野球【巨人最下位】part2
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この年は古葉さん、長嶋さん、上田さん、江藤さんなど30代の青年監督が活躍した
みんな鬼籍に入られたことが悲しい この年の近鉄、チーム打率・得点はリーグ5位、本塁打や盗塁は前年より減っている。
西本監督と言えば打撃のチームの印象が強いが、この年はリニューアルした鈴木を中心に
守って勝つチームで一気に順位を上げたわけだ 西本監督は前年オフに主砲の土井を放出したんだよな
この年のオフには永淵も放出する
打撃に目をつぶってでも守れるチームにしていこうとしていた 西本は、翌年からDH制になることを知らなかった
DH制になると分かっていたら、土井は放出していなかった
と後述している この頃の現場の人達には正直DH制は、何だよこれ、って感覚だったのかな。
アメリカで始まったのもたった2年前で制度の評価もまだ確定していないし
DHにされた選手からすると、お前は守備がダメ、って言われてるようで
面白くなかっただろうし。 ロッテの金田監督は、DH制の初年度(昭和50年)は、誰をDHにするか迷っていたな
得津、ラフィーバー、菊川、土肥、長谷川、榊、新井、マクナルティ、バチスタ、江島
がスタメンDHで出場しており(当て馬は除く)、迷走気味だった >>184
家にあるBBM社「写真で見る日本プロ野球史」の年表によると
指名打者制導入が正式発表されたのは75年の年明けのこと ここにいる王長嶋時代観てきた人に訊きたいんだけど
長嶋茂雄の魅せる守備ってどんなものだったの?
オリックスの宗より華麗な守備でしたか?
https://youtu.be/7UPoadj0aCY 巨人は広島の優勝を目の前で見せられたが
セリーグ発足〜1975年以前に巨人がセの他チームの優勝を
見せられた年てあるの? >>189
2006年の中日優勝の時がそうだったな >>189
ない。
1リーグ時代の1947年に阪神の優勝を見て以降は75年までなかった。
日本シリーズを含めると58年以来17年ぶりだった。 巨人はV9のみならず長い歴史において王者だったんだな
それがこの年ここまで急激に弱くなって衝撃的だった >>185
そんなことないだろ
苦手な守備しなくてホッとした奴が多いだろ その最たる例と思われた張本は自己最低の成績になってしまった。
当人もDH制は好きではなかったようだが、味方の投手からすれば
ありがたいと思ったかも。 そりゃまあね、「守備でも安打製造機」と言われた御仁が
バックで守っているといないとじゃ、大きな違いだからw 阪急の長池もこの年からDHで出場するようになったが、不本意だったらしい
守備が不得手でもDHになりたくない意見のほうが主流だったみたいだね 張本とは違って長池は特別守備が下手なわけじゃなかったろうけど
この頃には全身故障だらけで特に腰痛と肘痛がひどかったんじゃなかったっけ。
弱肩怠慢守備の張本と、猛練習とフルスイングの副作用の長池か。 >>197
でも高井保弘はDHの恩恵を思いっきり受けてるよね
代打専任からDH専任になったお陰で3年連続で規定打席に到達してるし 巨人って今もそうだけどやたらとメジャーリーグの実績にこだわって
獲得するよね。
広島はシェーンとホプキンス 阪急マルカーノ 巨人ジョンソン
出がらしばかり。 広島とか阪急みたいに20歳代後半のマイナーリーグの若い選手をどうして
取らないのかなと思う そりゃあ巨人のスカウトには目利きなんていないからでしょ
国内スカウトだって主な仕事は、最初から有名な選手の周りの人間を
裏金漬けにすることだからな。 広島で不運なのは浩二と衣笠いる時にシェーンとホプキンスやライトルに
恵まれて引退してから外人が当たらなかった。
江藤前田とか出て来てロペスに当たった 日本の野球自体スカウトとか育成方法って他スポーツに比べてレベル低い
ような気がする。 結局アマのスターしか育成できない
巨人に限った話ではなく >>200
そりゃ只の代打要員からDHレギュラーの方なら、後者の方が良いに決まっとるわ。
後に石嶺がすんなりDHに定着したのもそれだし。 >>205
讀賣の場合、いざとなったら強奪すりゃいいとでも思っているんじゃないの? >>135
いやあ、讀賣は本当にこの年冴えなかったよねぇ この年以来の讀賣の最下位が
現実味を帯びてきた感がある 残念ながら、讀賣は最下位を逃れることになった
次の讀賣の最下位はいつになるんだろう
生きている内にもう一回あるといいなw この時代にダルや大谷が既に存在してプロ入りしてたら衝撃度凄そう 風見しんご引退。
9月の広島市民球場の大暴動で、広島学院中学校1年の「大下義博少年」は星野仙一を殴ったとか言ってた。
この時中日から星野、大島ら5人の負傷者が出て翌日の試合が中止になった。ただ中日の選手は決してファンに手を出さなかった。
がこの翌年76年4月、開幕から2週間未勝利で迎えた巨人との市民球場初戦、地元段原出身の張本が巨人移籍して初の広島での試合、「朝鮮人!」とかのヤジが飛び交う中異様なムード。
前年の中日との試合と同じく、土井正三が本塁憤死でゲームセット!巨人側が審判に詰め寄ってヒートアップするとお約束通りスタンドから大量のファンが。
その後巨人選手の乗ったバスをファンが取り囲み、窓からバットで小突き1人負傷。まあ取り囲む方も悪いんだけど。
「張本がやった!」と書類送検になったが不起訴処分、どうやら別の選手だったらしい。その選手は既に故人に。 今日、讀賣が負けたことで、単独最下位に転落しただけではなく、
「両リーグ最速10敗」という不名誉(讀賣にとってはこの年以来)
までオマケとして付いてきた 今年の流行語大賞は『アレを・・・』で既に決定済です。 ただしリーグ優勝の事ね。日本一までは含んでいない。 巨人は川上監督時代に強打の外人を入れておくべきだった
長嶋に代わる中軸がいないまま昭和50年のシーズンを迎えてしまった
開幕試合では王も欠場したので、打線にONがいなくなった
四番・末次ではあまりにもつらい >>219
川上監督は予てから再三外国人選手の獲得を要望したものの、「球界の模範となる
べき巨人軍が外国人の助けを求めるのはうんたらかんたら」と丸め込まれて手が
出せなかったらしい。
実情は読売の全国紙化に向けて、1964年、九州に設立した西部本社管内での
激烈な拡販競争(拡販材に新車の自動車まで使われていたなんて話も)や、待望の
名古屋進出に向けての多額の資金注入で、球団にまで資金を回す余裕が無かった
だけの模様。
川上監督が毎年の如くトレードで力が落ちた他球団の中軸クラスを獲得していた
(そしてその殆どが使い物にならなかった)のは、そんな親会社の懐事情に依る
面も大きかった。
只、元中軸だけあって年俸だけは高かったから、結局はコスト高で新人・若手の
スカウティングや育成に多大な悪影響をもたらしただけだったという・・・・・。 生きている内に見てみたい
この年のように、讀賣が真っ逆さまに最下位へと落ちる様をw 広島カープの初優勝
それが達成されたのは、この年の今日のことだった >>215
槌田誠だろ
張本が後年明かしてるわ
槌田は翌年ヤクルトに出されてるが、
これは懲罰トレードだろうな
フロントにはわかってたはず >>110
上田は広島で元々幹部候補生で入団して
自身も監督の座を狙って根本と対立して退団した処を山内の推薦で阪急入り
阪急でも当時の球団代表と昵懇になって西本の次の監督はほぼ決まっていた
オーナー以外の球団首脳部は西本を煙たがっていたからプレーオフ敗退した西本が進退伺もとい辞任を申し出たら快諾されて上田を監督に推薦したが裏ては上田と球団代表は繋がっていたというオチw
長池と不仲だったのは上田が将来の監督候補たる長池を疎んじていただけ >>225
それで西本さんも相当頭に゙きて、
同一リーグなのに翌年から近鉄の監督引き受けたんだろうな >>225
それで西本さんも相当頭に゙きて、
同一リーグなのに翌年から近鉄の監督引き受けたんだろうな ウォーカー=泉・高橋の巨人とホークスのトレードは
張本と加藤初のトレードを合わせたように感じた
ホークス 出血覚悟で来期にかける張本=ウォーカー
巨人 先発タイプよりも救援タイプを求める
しかも相手は九州球団
加藤初のトレードという巨人の大得トレード ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています