〓西鉄・太平洋クラブ・クラウンライター〓Vol.25〓
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>>750
広岡さんの痛風はよく茶化されるけど、肉の食い過ぎじゃなくてたぶん豆乳のせいでしょ。
最近実感してるが、大豆製品食い過ぎると尿酸値上がるから。
さすがの広岡さんもそこまでは知らなかったようだね。 >>756
球団買収の前年に食肉業界で首位になっていたから無名ではない 知名度がないはオーバーだけど
首都圏で知名度イマイチだったのが改善されたらしい
日拓ホームフライヤーズ買収の時はやっぱり反対されたようだ
球団運営機に一躍業界トップに 日本ハムの“成長モデル”
https://www.sankei.com/smp/west/news/150916/wst1509160002-s.html
しかし、合併から10年を経ても、売上高こそ業界トップだが、
肝心のハム・ソーセージのシェアは2割弱と業界他社に圧倒されていた。
売上高の6割を西日本で占める一方、首都圏では知名度が低かったためだ。 https://www.youtube.com/watch?v=KLTkh0nSlOM
音質がアップした 「西鉄ライオンズの歌」
音源はKBCが出したDVDかな?
2番を独唱の豊田は本当にうまいね クラウンガスライターは百円ライターで業界2位だったのにライオンズへ出資後に経営悪化。
結果的に宣伝効果は無かったんだな。
1980年に製造中止して親会社の廣済堂が救済合併して会社消滅 なお、太平洋クラブ→クラウンライターにスポンサーが変わった時に地域密着としてクラウンの本社を福岡市に移転するという報道があったが
本当になされたかどうかは不明 >>762
当時業界一位が東海(チルチルミチル)で、新日本プロレスのスポンサーだった記憶がある。
メディア露出度でも差を付けられてたのでは?
クラウンガスライターは事業撤退後はBicライターに取って代わられたな >>765
オレも小学生だったけど勝つ気あんのかと思ったよ
開幕早々に初はノーノーやるし(15勝4敗8セーブ)
しかし代わりに来た関本(1勝4敗)と玉井(3勝13敗2セーブ)は全く使い物にならないしで 1970年オフに巨人は「投手が足りなくて困っているだろう」って事で
ライオンズに田中章と高橋明をトレードしている
加藤初のトレードはその借りを返す意味もあったんじゃないか
1975年は巨人が最下位だったしね >>766
ガチ金欠だったんだからそんな2人なんかじゃなくて
移籍金じゃダメだったんかね? 関本はすぐ大洋にトレードされたが
心中でライオンズファンに対して詫び続けていたらしい 昭和50年の太平洋は、江藤(監督)、土井、白など強打者を獲得して、よい補強が
できたが、昭和51年のトレードは失敗だった
監督予定のドローチャーまで失い、散々だった 山村の三塁守備覚えてるかい。
捕球は並以上なんだが、送球がめちゃめちゃ。
ペナントを争う気があるチームでは使われなかっただろうな。 >>772
南海時代は三塁でも意外と普通に守っていたので
今思うとイップスの先駆けみたいなものだったとか? 豊田が書いていた、遠征での夜汽車三等車移動はいつまであったのだろうか。
山陽新幹線全通の頃には大阪方面への夜行急行などは壊滅状態になっていたから新幹線・飛行機・寝台特急を使わざるえなくなってたのかな。
ただでさえ苦しい福岡野球が移動経費増大でさらに圧迫されたっぽいな >>731
西鉄監督してた時期に株やってて経済に詳しくて
その頃に「今後は大洋や日本一の路線規模がある近鉄みたいな企業が
やるチームが有望と思うよ」というコメントしてて
後で実際に就任した時にそのコメント聞いた人間はその話思い出して納得したらしい >>765
玉屋の社長が巨人ファンでトレードに絡んでたとか聞いたが本当かな 最初東尾のトレード話だったのを後援会が猛反対して
加藤初になったのでは? >>774
若い頃の記述で
「2等車は三原さんと何人かだけで俺らはみんな3等車」
って(当時は2等車が最高級)書いてたが豊田もすぐに主軸になったから
その頃には2等車だったんだろうけど。
ちなみにこないだ殿堂入りした権藤博の若い頃の映像で、まだ東海道新幹線開業前に
中日の選手みんなが特急電車(つばめとかだろう)のグリーン車で移動してた映像が流れてたわ 西鉄がだめになった原因は八百長ではなく「三連覇」
選手も、ファンも、マスコミも、のぼせ上ってしまった 一方、三原監督は、今後西日本鉄道が従来の旅客&貨物輸送から、通勤客相手の都市間交通へとの業務形態移行に伴うオール電化も含めた巨額投資で、
傘下に過ぎないプロ野球チームへの資金投下は望めないと冷静に見つめ、捕鯨事業で高度経済成長初期の日本で繊維企業と並びいち早く世界規模の企業に
移行し金が唸るほどあった大洋漁業への移籍を三連覇の最中に決断すると(´・ω・`)
繊維事業は日米繊維摩擦(日米貿易摩擦の端緒)並びにその後のアジア諸国との価格競争の激化で、大洋漁業は世界的な反捕鯨運動に依り、企業の基礎
体力や競争力が大きく衰退し、共に昔日の面影は無いが。 >>779
スター選手揃いでハチャメチャな勝ち方で強敵南海とのデッドヒートを制してその上シリーズでも巨人を倒して三連覇
これを当たり前と思って以降の基準にしちゃったからね 仮に65〜67年あたりに三連覇したとしてもたぶんガラガラだった気がする 巨人が西鉄を吸収か?/週べ1963年2月18日号
https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180710-01
巻頭記事で「巨人が西鉄を吸収か」という、ほかの週刊誌の記事について検証している。
これは巨人の親会社読売新聞が九州進出を狙っており、この時期、実際に北九州に土地を買っていたことから広がったものだ。
要は新聞の拡販のため巨人が西鉄を買収するのでは、という話である。
当時の西鉄球団が観客動員に苦しみ、親会社のお荷物になってきていたのは事実だった。
記事中には、巨人は吸収ではなく、西鉄をセ・リーグに参入させる方向で動く可能性のほうが高いので、ともあった。
63年シーズン前に既にこんな記事書かれるくらいだからね、地元ファン飽きるの早過ぎ
結局このシーズン優勝してる(しかも球史に残る大逆転劇)のに大して観客動員戻せなかったという >>783
外人3人が打つだけだから
こんなの俺らのライオンズじゃなか!って感じだったんじゃない? 52年 400500人 3位(大下、中西加入)
53年 549500人 4位(豊田新人王、中西2冠)
54年 888500人 1位(リーグ初制覇、大下MVP、中西本塁打王)
55年 702300人 2位(中西2冠)
56年 614750人 1位(初の日本一、稲尾新人王、中西2冠&MVP)
57年 675110人 1位(連続日本一、稲尾タイトル独占)
58年 897350人 1位(大逆転でリーグ制覇、3連敗4連勝で3連覇、伝説の完成)
59年 811569人 4位(シーズン後、三原退任、大下引退、河村移籍)
60年 568865人 3位(川崎監督就任、中西故障、稲尾39試合20勝止まり)
61年 747000人 3位(稲尾復活42勝タイトル独占、シーズン後、関口移籍)
62年 459800人 3位(中西青年内閣、シーズン後、豊田移籍)
63年 594100人 1位(奇跡の大逆転でリーグ制覇、三外人活躍)
64年 421025人 5位(稲尾故障で不在)
65年 382700人 3位(池永新人王、稲尾なんとか復活)
66年 541500人 2位(池永、稲尾、田中勉でチーム防御率1位、シーズン後、高倉移籍)
67年 366600人 2位(池永最多勝、チーム防御率1位もチーム打率は最下位)
68年 331000人 5位(池永は安定しているも相変わらずの貧打)
69年 326900人 5位(シーズン後、黒い霧発覚、中西、稲尾、引退)
70年 580000人 6位(5月に大量の黒い霧処分者を出す、お詫びの外野席解放で皮肉にも観客増)
71年 362600人 6位(ライオンズ史上最低の成績.311でシーズン終わる)
72年 320000人 6位(加藤初、新人王もついに西鉄身売り) 古葉監督時代の広島もファンが勝つことに慣れてしまって
かなり観客動員数が減少したよな
「地味な機動力野球はつまらん」 という感じだったのかな 三連覇中でも川崎ロッテ末期並みの観客数だから結構苦戦してるな >>786
広島はそれでも放映権収入があったからなんとかなってたし、親会社も景気いい時代だったからね。
西鉄は放映権収入なんか微々たるものしかないし親会社は斜陽だし地元ファンにはそっぽ向かれるしで八方塞がり >>784
豊田出しちゃったからねぇ
3連覇の立役者の中西はあまり出てこなくなってきてたし
稲尾くらいだ セントラル・リーグ 年度別入場者数(1950〜2018)
http://npb.jp/statistics/attendance_yearly_cl.pdf
パシフィック・リーグ 年度別入場者数(1950〜2018)
http://npb.jp/statistics/attendance_yearly_pl.pdf
セは54年に既にリーグ平均入場者数が1万人突破してるけど
パは73年の太平洋旋風とカネヤン旋風で太平洋とロッテがそれぞれ激増させてやっとだもんな
黒い霧以前に60年代のパは酷いね(苦笑 中西は川崎監督時代の61年に無理矢理出場させられて規定打席不足ながら3割20HR打ってベストナインに。
が、自分が監督になると肝心要の試合しかスタメンで出なくなる。
そのうちたまのスタメンもほぼ消えて代打専任になるが、代打としての出場も少なくなっていった >>785
昔は小粒な選手揃えてチームが優勝するよりもスター選手が派手に活躍した方が客入りに結び付いたんだなってのがよく解るね >>786
観客動員は減ったけど、テレビの視聴率は悪くなかったらしい。
結構ホームゲームでゴールデンの通常番組の差し替えが認められていた点からしても。 東尾は去年が西鉄OB会初参加だったのか。
中西OB会長は御年85歳にして孫の結婚式に出るほど元気なんだな。
東尾、池永らが参加 西鉄ライオンズOBらが大忘年会(朝日新聞デジタル・有料限定)
https://www.asahi.com/articles/ASLDJ315ZLDJTIPE002.html
終了したオークションだけど、アンパンマンの版元のフレーベル館がこんなのを出していたんだな。
ちょうど最終年の1978年だが。
クラウンライターライオンズのすべて
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/q292677232 >>790
ライオンズは所沢移転
ホークスは福岡移転でグンと動員数を上げているが
オリオンズは川崎移転でグンと動員数を落としている
1972年が酷いな
「パ・リーグ崩壊。最後の日本シリーズになる。」と書かれただけの事はある 東尾が西鉄OB会長になったら、西鉄から西武までの横断的なOB会ができそうだ >>785
この時代、球団によっては、観客動員数の水増し発表などはあったのでしょうか。 >>790
62年の東映のパ初の100万突破は凄いね
駒沢から神宮への移転と怪童尾崎の入団と初の日本一の効果かな
で東映って動員数的には黒い霧の影響って西鉄や他のチームよりは受けてないんだね、意外
しかし福岡野球の営業はよく頑張ったね、320000→876700だからね
まあなりふり構わずの営業だったみたいだけどw 東京スタジアム最後の年も酷い
小佐野が「賃貸じゃ採算がとれないので買い取ってほしい」と要求するわけだ >>800
東映は前年に巨人から水原が監督就任、南海と最後まで優勝争いを繰り広げた
それ以前から弱くても個性的な面子が揃っていて、それで人気があった 水原東映の時に加入した主力選手は
尾崎 白 森安 大杉 大下か
鶴岡南海末期は次の世代に続く選手を
殆ど見出だせなかった感 >>801
開場して10年も経ってないのに70年日本シリーズの映像を見ると早くも見た目から老朽化してるからな。
不入り続きと親会社の経営難で補修改修の予算がろくに下りなかったんじゃないかと思う。
同じく完成からまだ20年ほどの平和台もボロボロになりかけていた 真弓はタイガースに移籍して数年ほどは「引退したら九州に帰る」とよく言っていたが結局は今も神戸に住んでるな。
ま、本当にタイガース退団後、福岡に帰ったらところで向こうの放送局に専属解説者として雇ってもらえたかどうか微妙だっただろう。タイガース・旧ライオンズOBよりホークスOBを優先するだろうし。 >>790見ると東映って優勝1回なのに62年から黒い霧を経て身売りするまでずっとパの観客動員1〜2位なんだね
個性派揃いだけど不人気球団だと思ってたからなんか凄い意外
東京フランチャイズだからなのかなと思ったけどオリオンズの東京スタヂアムは悲惨だったしね
タイムマシンがあったら71〜72年頃の平和台とか他のパの球場に行きたいな フライヤーズは日拓ホーム→日本ハムが買ってくれたが
ライオンズはどこも買ってくれず中村が面倒を見ることになったのは
場所の差もある このシリーズは面白い
1967年の時点でパはジリ貧だったのが分かる
山本浩二も「第一希望は広島だがセならどこでも入団する気だった」と回想していたし
鶴岡一家の結束にほころび?/週ベ回顧
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190705-00000003-baseballo-base
「プロなら巨人」と明言していた明大・高田繁は希望どおり、巨人から指名された。
当時の六大学安打記録も作った俊足選手で、鹿児島生まれで2歳のとき大阪へ。
少年時代は南海ファン。「ホークス子供の会」にも入っていた。
浪商高を卒業するとき、自宅に鶴岡一人監督が訪れ、
「君を育ててみたい」と声をかけられたというが、大学時代であこがれが巨人へと変わった。
大学組では、早大の三輪田勝利が近鉄を拒否し、大昭和製紙へ。
慶大の藤原真は南海を拒否し、鐘紡に入った。
藤原は「巨人かサンケイに行きたかった。パ・リーグには魅力を感じない」と話している。 >>809
その藤原も最後はパリーグの東映にトレードされ、
高田は日本ハムの監督やGMでパリーグに関わる事になるんだよな。
何気にこの2人の共通点はフライヤーズ→ファイターズだが。 昭和20年代後半〜昭和30年代前半の西鉄は、球史に残る名選手が続々と入団した。
だが、その後、新しい名選手が次第に出なくなっていく。
豊田を放出して外人3人を主軸とした昭和38年の打線は、あまり面白味がなかったのではないか?
外人が抜けていくと、無残な貧打線になってしまった。
日本人の人気のある主砲が入ってくるのは、昭和50年の土井、昭和54年の田淵まで
待たなければならない。
生え抜きの主砲は、秋山・清原まで待つことになる。 60年代中頃以降、チーム防御率1位も優勝できないのはチーム打率最下位の貧打にあるのは明白なのに
高倉出すわロイ出すわで
代わりに獲ったのは宮寺、菊川、高木喬の打てない面々
もうアホかと
黒い霧前後だとトンタケコンビがまあまあ頑張ってくれたかな
太平洋になるまで貧打時代続いたねぇ 日本人選手で高倉離脱以降に
年間20発越えしたのは
太平洋時代の土井移籍加入まで
田中勉の交換広野功とトンタケのみか
稲尾監督も榎本喜八に期待もしたくなるわなw 他には72年の基がかろうじて20本塁打には到達してるな。
打率も3割1厘と健闘してる。 高木は一応三割近くを期待されていたし
広野にもかなり期待して打率が悲惨なのに四番を任せたりした。
伊藤光四郎がクリーンアップを打つくらい顕著な貧打にイライラしたのか
67年オフには上の二人に加え吉田勝豊らも補強して「西鉄黄金期の猛打復活で優勝」とフロントがぶちまけたものの所詮付け焼き刃でしかなく
全員イマイチだった上に全体的な戦力低下で5位に転落。
順位も観客数も低迷したまま黒い霧を迎えてさらに壊滅状態になる 20発以上も数えるほどしかいないが3割打者はもっと少ない
西鉄中期〜末期で3割超えは64年の高倉と72年の基のみ
どんだけ貧打なんだw
その後は74年のビュフォード、75年の白
日本人って括りで言うと76年の吉岡まで待たなきゃいけないw >>816
その吉岡も1年だけ確変の首位打者なんだよなw
あんなに極端なのも珍しい 70年代中盤はボールの反発力が変わった
(リーグ全体で)
のでまぁ数字は伸びて当然なので本質的にはあまり変わってないかも >>812
前、西鉄の番記者が書いた本で
池永の方が下手な一軍野手よりも打撃うまかったとか書いてたな。
中西監督の「池永は20勝出来るから投手させてるが、15勝なら野手転向させてるよ」
という当時のコメントも紹介してた あまりに打てないから.260 20HRクラスのボレスに足元を見られて
チームは極貧なのに帝国ホテル宿泊などワガママを受け入れていた >>821
ボレスのあまりのワガママにキレて本人の希望通り引退させてやったのはいいんだけど
代わりに来たニコラスってのがまた打てないw
39試合2本塁打9打点.221
西鉄の末期3年間に在籍したポインターもそこそこの数字を残したのは初年だけ
2年目ダメなら契約切れよw
代打ならよく打ったってことらしいけどそれにしても数字酷過ぎw
70年 126試合22本塁打67打点.260
71年 73試合11本塁打34打点.186
72年 103試合 7本塁打24打点.208 ポインターは最終年の7本塁打のうち4本塁打が代打によるもの
野球よりも引退後に超最難関のNFL審判になったことのほうが凄い
>>812
高倉、ロイの放出は西鉄の財政難によるもの(後者は年齢も一因しているが)
宮寺は正捕手不在の穴を埋めたし、菊川も貧弱な三遊間をカバーしたから失敗ではないと思うが、やはり代償が大きかった
まあトンタケコンビが登場しても塁が埋まらないからソロ本塁打ばかり
得点力そのものは解消されなかった >>809
以前NHKラジオ深夜便で高田繁がNHK元スポーツアナ(名前失念)からインタビューを受けてた時、「やはりプロ入りは巨人と最初から決めていたのですか?」と聞かれて「いや、巨人には一番行きたくなかったんです」と答えてたんだけどねぇ。
理由は、あの当時の巨人の外野陣が国松、柴田、高倉など何人かの名前をあげて「とても自分の入る場所がないから試合に出られるとこに行きたかった」と。 >>823
基が3割20発打ってるのに40ちょいしか打点がなかったりとかな。
基が特別チャンスに弱かった訳でもないのに 好機に弱いのではなく、そもそもチャンスが少なかったわけね 水原が契約を結んでいなかったってのも凄い話だ
東映のスカウトが岩切の契約金をピンハネした話も含めて
いかに当時の球界がデタラメだったか分かる
東映・水原茂監督、電撃辞任はなぜ起こったのか/週ベ回顧
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00000003-baseballo-base 東映の大川毅は非常に評判が悪くて社長になりそうになったら岡田茂一派がクーデターを起こした。
毅は岡田社長下でも十年ほど重役を務めたが実権は無いままポイ捨てされる ライオンズクラシックに招かれた週べの田村大五
西武は懐が深いと感心していた >>827
ま、まぁ中村長芳も太平洋クラブと
「男と男の約束」
で契約書結んでいなかったというし・・・ ハワードの動画とか貴重だな MLBオールスターに出ている動画は見たことあるけど ハワードが来日当時は
現役メジャー通算本塁打含め実績トップだったが
ビュフォード アルー 中日経由のデービスと来日助っ人トップクラスばかりだな
アルーはMLBで首位打者
デービスは未だに来日時点でのMLB通算安打最多記録者(2500本越え) 資金力は絶望的なのにそのレベルの選手のディールをまとめられたのは凄い
仲介したのはどんな人物だったのだろう? 玉造は67年に117試合に出ているのに引退なんだな。
事実上のリストラなんだろうが、こんな事をするから西鉄は急激に弱くなった 新外国人選手でも前年のユニで練習してたんだ
ビュフォードは小さいからいいけどハワードはどうしてたんだろ?w 西鉄の待遇が悪くなったのでタニマチに連れられてタダ酒を飲むようになる
そしてタニマチを経由して893が近づき頼み事をされると断れなくなる 天神でソフトバンクのユニを着た70代後半くらいの爺さんが歩いていた
西鉄黄金期を知る世代も素直に 「いま」 を受け入れてるんだろうか >>837
08年のライオンズクラシックの時に田村大五が引退の真相を聞いたが、過去のことだからと記事にはしていない ビュフォード、ハワード、アルー、デービスetc...
島原キャンプに参加した歴代助っ人たちは木造の国光屋旅館に驚いただろうなぁ
たぶん喜んで楽しんでくれたとも思うけど
関係ないけどオレの中のダメ外人No.1はロザリオ
ジェナスは記憶にすらないw
平和台で生で見て鮮烈に記憶に残ってるのはビュフォードとデービス 68年の東映の自滅(水原解任→三無主義→大下休養、尾崎の故障)
69年南海の最下位独走(皆川と野村の故障、飯田監督がナインからそっぽ向かれる)
これらが無かったら68年から最下位でも不思議じゃなかったな >>844
あと三原就任以前のお荷物近鉄と
6年連続Bクラス低迷期に入っていた東京が居たから
何とか67年迄はBクラス転落を免れていた感じかな?
濃人渉って67年途中で監督就任した以外の年は優勝含めて全部Aクラスなんだよな 田村大五は選手の都合の悪い話は書かないでいてくれた、と豊田泰光が語っていた >>842
俺もジェナスは317打席も立ってるのに記憶から全く抜け落ちてるw
>>846
結局西鉄三連覇の頃がパ全体にとっても一番華だったんだろうな
長嶋入団と翌年の天覧試合でセ・パの差が一気にね
仮に長嶋が南海に入団してて天覧試合が西鉄・毎日戦だったらどうなってただろう
まあパは親会社の業種からどの道衰退していっただろうし職業野球全体も繁栄しなかったのかな 南海は会社そのものがオワコンになるから、仮に長島が入ってても不当な待遇になってただろうな。
入る当時はまだ景気いい頃だけど >>842
ロザリオは正面のフライをいつもポケットキャッチしていて危なっかしかった
ロッテクビになった翌年にMLB復帰しているが、どうして打高のPCLでも平凡な成績だった選手をクラウンは獲ったのか
デービスはヒゲのハンセンとセットで覚えてる ロザリオは試合後半になるとよく守備固めで出てきたから、守備はよかったのかも知れない
だけど、これだけ貧打だと、わざわざ外人を取る意味がないね 豊田泰光は田村大五(元ベーマガ社常務)の葬儀に出席して弔辞まで読んだ
稲尾の葬儀は欠席した >>842
ジミー・ロザリオ
107試合257打数56安打5本塁打18打点5盗塁4失策
ググッたら82年まで米マイナーで現役続けてたみたいね
>>851
そうそうラジオの実況がロザリオのポケットキャッチが危なっかしいってよく言ってたのを覚えてるw
福岡野球は総じて大物外人を連れてきてたからジェナス、ロザリオはショボさが実際に残した数字と共に際立つね >>831
ビュフォードの西鉄ユニは写真とはいえ大貴重品。
西鉄ユニのレポーズは、だいぶ前にうpられた動画で見たけど。
>>842
1963年のワールド・シリーズ、ヤンキースvsドジャースの一部がYoutubeにまだあるが、
ドジャースのセンターにデービス(3番)、ライトにハワード(5番)という布陣がいい。
>>853
>豊田はプロ野球関係者の葬儀に基本的に参列しなかった。
>その理由について「グラウンドで戦った先輩や友人、仲間たちの葬式に行ったら、悲しくなってしまってね、
>涙が止まらなくなって堪らないからです。そういうのが嫌だから、自分は葬式に行かないで自分なりに(故人に)
>お別れするようにしているんです」と、『週刊ベースボール』のコラムに書いていた。
>ただし、親交の深い野球ジャーナリストの田村大五の葬儀には参加し弔辞も読んだ。
そういう書き方で「稲尾の葬儀だけに欠席した」なんてイメージ操作すっから、
恨日バカチョン脳なんだよ、お前みたいな西鉄原理主義者の極悪人はw >>855
他に真弓明信・加藤博一・石井茂雄の西鉄ユニ動画や写真を見た事がある。
博一はヘルメットだけ太平洋ホーム用のを被った太平洋になってからの背番号の67番の写真だったし、
石井は西鉄最終年は空き番だった20番だったから、わざわざ背番号を貼り替えて使っていたんだな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています