〓西鉄・太平洋クラブ・クラウンライター〓Vol.24〓
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現役最終の69年はHR1本だっけ?
川崎球場の大洋戦で、朝日新聞の縮刷版でホームインするシーンが載ってたが、
胸文字が「Yakult」の豊田の写真はこれ以外で見たことない。 >>711
それ、自分がプロ選手だったとしても同じこと言えるか? 西鉄を捨てて在京セに行った豊田が、西鉄の語り部というのは腑に落ちないな 豊田は中西監督と合わなくなっていたし、球団として豊田を放出する方針だったから
国鉄移籍について豊田を責めるのは如何かと思う。
ただ、豊田放出後、西鉄には日本人の主力打者がいなくなり、打線に魅力がなくなった。
これでは集客できなくなるのも当然だ。
昭和50年、土井・江藤を獲得するまで、ライオンズ打線は貧弱だった。 >>719
亡くなったときの芸スポのスレは
色んなエピソード出てきてネット版の故人を偲ぶ会のようで良かった >>724
西鉄の話題作りで青年内閣やらせた姿勢や待遇にも不満持ってそうだったしね
豊田が自伝で書いてたが中西監督とは記者やら取り巻きが
事実を曲げたり盛ったりして
両方に告げ口したりしてこじれたみたいね
中西さんは監督を他でもやっても色々やらかしてるし
豊田の言い分の方に分がありそうな感じが 中西が監督、豊田が助監督、稲尾が投手コーチなった時、会見の時の
写真が残っていて見ると豊田も満更でもないような顔してるんだよなあ >>727
あくまで豊田の回想から抜粋するので豊田目線であることを踏まえて読んで欲しい
川崎さんになってチームがおかしくなった
監督コーチと選手が連れ立ってギャンブルに浸るなんて三原さんの時は考えられなかった
金銭の貸し借りがチームに横行して空気が緩む、ライオンズはあっという間に堕ちた
俺は川崎さんに稲尾を使うのをやめて翌年に備えましょうよ、今年はもうダメですよと言ったことがある
そうしたら川崎さんはいくつ勝てるのか試してみようと思ってとか言った
だからシーズン42勝なんてのは本当に馬鹿馬鹿しい数字ですよ
西鉄球団が俺を呼んで監督を中西に変えると言った
で、オレには兼任コーチになってほしいと言う
社長が「豊田にコーチになってもらわなきゃ俺は腹を切らにゃならん」と言った
茶番だと判ってはいたがオレもプロだ
相応の条件で契約貰う以上応えなきゃイカンという気持ちになった キャンプ初日中西監督に呼ばれてコーチ陣が監督室に集まった
集まったみんなを前に中西は三原から譲り受けたノートを取り出すと内容を朗読し始めたのだった
オレはそんな新監督の姿を見てガッカリした
自分の言葉で語って欲しかったのだ
チームのみんなが中西に先頭に立ち自らがグラウンドのプレーで士気を鼓舞する選手中西の姿を求めていた
だが中西は練習には参加して快音を響かせるが試合になると痛いと言って出たがらなかった
キャンプ、シーズンと経過すると兼任コーチなる役職の無意味さを痛感した
そもそも自ら選手としてのコンディション調整で目一杯
他の選手に教えてやれる余裕などない
これは稲尾も一緒だった(稲尾は選手兼任投手コーチ)
主力として本人が投げながら他人の調整までするなんて無理ですよ
だからシーズン半ばにしてオレはライオンズの全てに愛想が尽きていました >シーズン42勝なんてのは本当に馬鹿馬鹿しい数字ですよ
豊田は「川崎さんはAクラス入りに拘っただけ」と断じているけど、早い段階で4位以下を突き放して、新生水原東映との2位争い→首位南海・杉浦投手
故障で東映・西鉄に優勝の目が!って展開だったのだから1958年の再現を本気で狙っていた様にも思えるけどな。
土橋・久保田とエース級を二枚持つ強みを持つ東映が南海に迫り、稲尾一人の西鉄は振るい落とされる格好となったが。 三原政権の次の川崎政権は、森の後の東尾と同じで、息抜きとして必要だったと思う
問題は中西政権、水と油の豊田はいらなかった
事実、豊田放出後の中西ライオンズは清原放出の東尾ライオンズと同じく優勝を果たした、 豊田を国鉄に金銭譲渡して得た金で外人を3人獲得したので、西鉄打線は強化され、
翌年はリーグ優勝できた。
だが、外人が帰国して抜けていったとき、主軸にまともな打者はいなかった。
黒い霧事件頃には、西鉄打線はすでに衰えていた。 >>729
試合でない中西に「太さん。そんな役に立たない手首は切り落としてしまいなさい」とか
言っちゃったりしてるエピソードあるね。
独特の言い回しとはいえ言われた方はいい気分しないだろうなぁ >>733
腱鞘炎という症状名自体が中西さんの手首の症状に対して九州大の担当医師が名付けられたとされ、当時は
原因不明の奇病扱いだったという背景もあるけどな。
後にキーパンチャーの職業病として脚光を浴びる腱鞘炎だが、補償を求められた企業側は
「キーパンチャー程度でプロ野球選手の様な症状なんてあり得ないw」
程度のものだったという。 中西の腱鞘炎慢性化による出場激減、豊田の移籍でなぜ当時の西鉄は日本人主砲を育てようと
しなかったのか理解に苦しむ。
東田、竹之内が台頭したのは69年からだし >そうしたら川崎さんはいくつ勝てるのか試してみようと思ってとか言った
これって権藤壊したノーニン(こいつも九州北部出身)と思考が一緒だよなw >>736
濃人は広島の出身だな。福岡の日鉄二瀬で監督を務めていたけど。 豊田は三原にも稲尾の酷使を止めるよう直訴してたな。
三原は怒るでもなしに受け流していたらしいが。
そんな豊田も現役中に三原の言いつけを守って遊びすぎず読書を趣味にしていて
引退後に読書経験が文筆活躍に役立つようになった 西鉄時代はほとんどいないだろう
安倍晋三は子供の頃、産経‐巨人戦で豊田が中村からサヨナラホームラン
打ったの神宮球場で見たらしいけど >>732
豊田のトレードマネーに味をしめた西鉄球団はその後も
高倉、田中久寿男と主力打者を出したからなあ
当時を振り返る本を読んでると国鉄と豊田のトレードは
あのカネやんとの交換まで案として浮上していたそうで…… カネやん西鉄入団は良いと思う
川上監督も感心していたカネやんの猛練習と節制は、西鉄ナインの刺激になった筈だ >>741
長谷川法世さんとか「僕の西鉄ライオンズ」
という作品のキャッチコピーが
「稲尾が投げた!中西が打った!豊田が守った?」て書いてるから
見た記憶がありそう
内容はフィクションぽいが
実際にもその辺の方々が三連覇の記憶ある最後の世代の感じが フジサンケイの総帥水野成夫が豊田のファンで獲得を命じたらしい
安倍晋三がスワローズファンというのは水野=岸信介人脈から来てるのかも 中西の腱鞘炎みたいにそれまで事例が無かった症状の患者は、もう少し後の時代なら救われたんだろうな。 昔のスポーツ雑誌とか本読むと、中西が兼任監督になった時も
打撃練習するとそれこそチームで一番打球を飛ばすんだって
試合出てもそこそこ活躍する。でもあまり試合に出場したがらない。
監督として出た巨人との最後のシリーズも途中でスタメンに出たのは
三原監督に勧められての出場。で何本か安打を放った。
入団したばかりの大田卓司も中西監督の打撃練習見てびっくりしたって
話している。通算打率3割維持のために守りに入っていたって話もあるね 最近知ったが60年代の控え野手の山本秀一は引退後著名な陶芸家になったらしいな >>707
株式会社の面から見るとさらに面白いことが分かる
実は日本ハムが東京時代と北海道移転後では別組織の扱いになっている >>750
前は、けっこうメディアに取り上げられてたよ
>>751
主人公の少年が成人になった 「ぼくの西鉄ライオンズ」 の続編でね >>752
帝国データバンクに東京時代の運営会社は特別清算での倒産情報出たしな >>752
巨人も法人格が何度か変わってるな。広島も一度新旧分離を行った。 永易に逃亡資金を与え、姿をくらますよう指示する稲尾和久、
を長谷川法世に描いてほしい 新旧分離といえば、
中央公論社(嶋中家)→中央公論新社(読売グループ)
中国バス株式会社→株式会社中国バス(両備グループ)
毎日新聞(旧社)→毎日新聞(新社)→債務処理が一段落して旧社に統合
フォーライフ・レコード→フォーライフミュージックエンタテイメント
とかがあるな。
事業に支障を生じさせず債務処理を行うための手法だから
確かに偽装倒産みたいなものだが。
巨人の場合は、球団運営会社が単独だったり、
他の事業(読売新聞の地域本社や不動産など)との兼業だったりするために、
グループ内での会社分割・合併などが時々あった。 >>707
あまり知られていないけど西武ライオンズの親会社も
コクド→プリンスホテル→西武鉄道という風な変化をしているからな >>761
但し、登記上の会社は
西鉄野球→福岡野球→西武ライオンズ
と継承している
南海ホークスは一時、一旦整理したみたいだが 「ぼくの西鉄ライオンズ」が面白いのは、栄光の後に奈落が待っているから
ソフトバンクはずっと栄光が続くから、ドラマにならない 野球が生活の中にあったこんな時代が昔はあったねて感じが
作品が出た当時はあったからかなと思う 長谷川法世は、少年サンデーにクラウンを題材にした読み切りを書いてる
西武に身売りして、所沢に移転するという話を最初に見たのはコレだった あと「博多新聞東京支社」という漫画で黒い霧をネタにフィクションの話を書いてるみたいね 長谷川法世に黒い霧をまともに描けるとは思えない
どうせ選手がかわいそうだ、でお茶を濁すんじゃないの? 某ブログに江藤正氏と大岡虎雄氏のお孫さんの2ショット写真が載ってたが、
いくらプロのキャリアが浅かったからとは言え、大岡氏が殿堂入りと無縁なのはどうなのかと思う
大リーグで通算200勝近くした投手から1試合2本塁打って、澤村並みの偉業だと思うし ライオンズが福岡から去った後、新しいライオンズが同じ福岡に誕生する漫画があった
月刊少年サンデーだったと思う、連載はすぐ打ち切りになったけど すすめパイレーツとかどぐされ球団などの野球漫画が当時あったけど
ギャグ部分などはともかく球団の貧乏ぶりは福岡野球も大して変わらなかったろうな。
南海も貧乏扱いされたけど腐っても大手私鉄がバックについてたけど
福岡野球はなんにも無かったからな 既出だけど、黒い秘密兵器で1963年の日本シリーズが描かれてた
主人公の椿投手と西鉄のバーマ選手がベーブ・ルースのサイン入りバットを賭けて勝負するが、
当然椿投手の勝ち
バーマの顔も、ろくに写真を見て描かなかったのが見え見えなただの外人のおっさんだった 南海末期、試合終了後のクラブハウスにはポテトチップスが数袋置かれていただけだった
それがダイエーになった途端、
テーブルには食べきれないほどのお菓子や果物、フライドチキン、オードブルなどが所狭しと並べられ、
間違えて届けられたのではないか、と思ってしばらく手をつけられなかったそう
昔香川がテレビで言ってた 三原御大の晩年は根本・広岡西武の事どういう想いで見てたのかな? そりゃもう理想郷に見えたやろ。
自分らはユニフォームの替えも無い球団にいるのに。 三原も晩年(80年代初め)は往時の投手酷使の批判を受けていた記憶がある >三原御大の晩年は根本・広岡西武の事どういう想いで見てたのかな?
福岡のライオンズを強奪した!とは思わなかっただろう、もともと巨人の人だからね
広岡西武については、管理野球だと批判していた記憶がある >>776
『アマチュア野球だったら
川上や広岡の野球が正しいだろうが』だったかな
二人に対比してたのが近藤貞雄と
長嶋だったが
三原翁と野球観に共通する処が
あったからだろうかな
選手の特性を見て短所に目を瞑って長所を生かす
ファン(観客)有ってのプロ野球(興業)
記者と上手く対応する さんざん堤が福岡時代を消してたのに
埼玉移転後の生え抜き監督が皮肉な事に福岡時代の東尾なんだよな・・・ 堤も福岡野球色を完全に消そうとしていたのは対外ポーズで
今となって思えば球団職員が福岡時代の資料をこっそり保存してるのを
りながら見ぬふりしてた気もするんだよな。
冷酷非道にえて多少は人間味がある人物だし 「おやりになりたければどうぞ」は堤なりの精一杯の気遣いの台詞だと
主張してた人を以前見たことがある
文脈だけなら分からんでもないが映像で見たらそんな感想にはならないと思うんだがw >>780
87〜88年の平和台での主催ゲーム復活も 福岡時代の顛末を見たら
完全抹殺は仕方無いと思うがな
多少は人間味無けりゃ
好き嫌いはあれど
賭博でやらかした
東尾や土井正博は
完全粛清してるだろうと思えるし
当時の監督の森へやりたいなら発言は
森の人間性を見透かしてたの事なんかな? 「球団とは言えない様な所でやってましたからね。
選手に切符を売らせたり、練習用のボールに事欠いたり。
実は移転の時も大した感慨は無かったんですよ。
新しい所で必死でやるしかないとしか思わなかった」
竹之内が阪神のコーチを辞めた直後ぐらいの雑誌のインタビューより 福岡のマスコミは、堤の悪口を書けば売れるから、話しを盛っていた節がある
そのゴシップを信じているのが、ソフトバンクの高齢ファン 堤社長の人間性については、いろんな見方がある。
だが、堤のような独裁者がいなければ、あれだけの巨費を投じて球団買収・創設する
ことはできない。集団指導体制の大企業なら、「金がかかり過ぎるからやめよう」
という結論になっていたのではないか? 堤のおかげでライオンズ球団が救われた
のも事実だ。
昔から球団経営者は、田村駒次郎、永田雅一など個性的なワンマンが多い。
その系譜の中で、堤の人間像を評価したい。 義明のワンマン振りは父康次郎を継承し且つ父に追い付き追い越すべくああいう方向性に
なったんだろうなあと今は思っている。
>「金がかかり過ぎるからやめよう」
嘗て東京セネタースで職業野球参入経験があった西武鉄道(旧)を手中に収める(俺的には乗っ取ったと書きたいけど(w))
形で西武グループを形成した康次郎の遺言に「職業野球には一切手を出すな」があったとも言われてて、(多分岸信介人脈
からの)福田赳夫氏等の勧めがあったとは言え、康次郎の忠実な継承者として振る舞っていた義明にとってはそれ相当の決断
が要ったものと思われ、だからこそ何が何でも成功させるべく、巨額の資本投下等を実行したんだろう。
只、ブランデージ譲りのゴリゴリのアマチュア至上主義が本質の彼にはプロスポーツの本質に対する理解が今一つ足らなかったのが、
ビジネスとしては成功出来なかった要因だろうと。 もし西武グループ本体を清二(辻井喬)が継いでいたら、果たして球団を買っていたのだろうか?とも思ったな。 >>785
南海時代からのソフトバンクの高齢ファンにはどうでもいい話だけど 堤はマスコミや兄にいろいろ書き立てられても殆ど反論しなかったからな。
西武グループ内の女子社員に手をつけまくったとか(事実なら入社辞退させる親が続出しただろう)
かなり嘘くさいゴシップが流されても放置していた 青年期の喬は共産にカブれてた?から
コクドの事業中核を継承させるいう決断を大堤が下せたかどうか… 堤清二は子供の頃から父親に嫌われてた
左傾化した理由もその辺からきてる 辻監督めっちゃ泣いてたな・・・ほんといい監督だわ
リーグ優勝に変わりはない。胸を張れ山賊ナイン! 60年前の秋は歓喜に包まれ
40年前の秋は悲しみに包まれ 昨日1958年10月21日西鉄巨人日本シリーズ第7戦から60年だったんだな
第7戦の後楽園球場、第6戦よりなぜか1万人近く観客が入ってねえな 巨人の敗北を悟って来なかったんじゃない?
3連勝の後の3連敗なんてやっている選手以上に観客の方が絶望感に打ちひしがれるって事かも。
後、雨天中止等で第7戦が火曜日までずれ込んだから入場切符が捌けなかったという面もあったかと。 福岡ライオンズ最後の年ってオレ小6で黄金時代とか当時とんでもなく昔の話って感覚だったけど
大人になってみるとたった20年しか経ってなかったんだな
そしてその胸が空っぽになった秋から40年か… クラウンの想い出はたくさんあるけど野球自体に興味が無くなった 福岡のライオンズ対広島のカープという熱狂ファン同士の日本シリーズが観たかった タイムマシンがあったら昭和45年〜47年の平和台に行ってみたい ガラガラぶりなら64〜69年の平和台もあまり変わらない 西鉄ライオンズ全盛の時代だったら、ファンの熱狂振りや気性の荒さという点では
福岡のファンも決して広島に負けていなかったろう どっちのファンもやたらグラウンドになだれ込んでは暴れてたし >>803
オレもその頃の雰囲気を体感してみたかったな、どれくらい暗黒だったのかをw
ホームもビジターもヤジきつかっただろうな
前に小倉での開幕戦の映像があがってたね
開幕戦なのに客席ガラガラw 榎本も西鉄に移籍せずに引退してりゃ通算打率3割キープ出来てたのになと思ってwiki見て計算したらそれでも.2994だった 深夜の天神の屋台は、広島の赤いユニを着た若い連中でいっぱい
もし西鉄の時代だったら、奴らも危ない仕打ちを受けてるかもね >>808
そう、大毎退団時に3割切ってしまった通算打率を3割に戻すべく西鉄に移籍したなんて言う向きもあった様だね。 山内らを放出して長打力が不足してきて
元来HR打者ではない榎本までHRを意識させられるようになって打撃が崩れだしたらしい。
故障や奇癖で濃人時代から干されだして大沢が監督になって完全に戦力外にされた 榎本は西鉄移籍の前々年で辞めてれば通算3割だったんだけどその年の成績が110試合出場で.284 本塁打15本だからな
その数字じゃ普通やめようとは思わないもんな
で翌年出場機会が激減で数字も落とし通算3割も切る
西鉄に移籍してからは4月末までは3番ファーストで先発出場で.283と稲尾監督の期待に応えてたんだけどな
5月に成績急降下で以降は代打or奇行 >>812
中日を追放されて引退寸前に追い込まれた江藤が濃人のツテでロッテに加入して
一塁手として榎本と併用されてたんだっけか。その江藤も大洋を経て太平洋に >>794
41年前は怒号?
「僕はひとりっ子なので・・・」 1957年の古い野球雑誌の記事によると、平和台での巨人との日シリのときは
それなりに巨人ファンも席を埋めていたとある
もちろん、いまのソフトバンク vs 広島、阪神ほど極端ではなかったろうけどね
巨人・水原監督
「うちは長い年月をかけて、日本全国にファンを増やしてきたんだぜ!」 ここ5年で4回も日本シリーズに登場したハゲタカバンク
過去に下克上チームを2回も叩き潰してきたハゲタカ軍団
太平洋クラブ・クラウンライターライオンズ世代の福岡人としては
地元の球団が強くて嫌われるという事実がピンとこないw
もし仮に、このままソフトバンクが日本一になってしまったら
史上最低の日本シリーズにランクインするだろうなw
広島のほうが勝ったら、逆に球史に残る名勝負と言われるだろうw
連日の接戦で、試合そのものは面白いと思う >>793
常勝西武の頃は泣いていたのは清原ぐらいだったのに
最近だと秋山前監督、工藤監督、辻監督が泣いていたなぁ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています