〓西鉄・太平洋クラブ・クラウンライター〓Vol.24〓
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「むかしは・・・・・」と話し始めたが、すぐに「これからも博多、小倉で相当数の試合が見れるように
各球団、両リーグの首脳が考えるように努力します」と語っていた。 中村長芳さん個人で球団経営を続けるのは、そもそも難しかった。
今でも、ライオンズもホークスも年間数十億円の赤字だ。
でも、大資本家が経営者で多額の資金を供出できるので経営できている。
ライオンズは西武に売るしか仕方なかったと思う。 >>540
そう言う意味のわからない世論の捏造は止めようぜ
単に40年以上前の川崎時代を全く知らないファンが主流になったってだけの話じゃね? >>541-542
その努力の結果か、オープン戦・公式戦の両方またはいずれかで相当数の球団が平和台や北九州で主催試合を行う形が取られたな。
のちにダイエー〜ソフトバンクで福岡を本拠にする南海もいくらか主催をやった。 >>545
福岡開催をやらなかったのは中日だけだね。
大洋も公式戦はなくともオープン戦はやってたくらいだし。
広島は平和台はなくとも83年は小倉での主催があった。 >>540
たった4年しか使ってないユニに伝統もへったくれもあるかよw >>546
広島なら平和台でもオープン戦なら主催試合をしていたな。
1981年3月28日の読売新聞(岡山)の番組表の画像が
以前懐かしテレビ板の野球中継スレに出ていたけど、
広島ホームテレビが広島対近鉄戦を中継している。
解説が河村英文だけど、九州朝日放送でも放送があったは不明。
ttp://i.imgur.com/DTB9fR4.jpg >>546
連投スマソ。
中日は親会社が新聞を発行している地域とキャンプ地でしか主催試合をやらないからか、
福岡ではビジター扱いしかなかったな。
広島や大洋は巨人主催でのビジターでもよくやっていた印象がある。
基本的に平和台野球や北九州野球が興行会社だったけど、
巨人主催だけは読売新聞・スポーツ報知・日本テレビ主催の自主興行だったという話が
以前何かのスレで出ていたな。
巨人は球団運営会社が選手のマネジメントなどが中心で、
興行関係を直接自社ではしていないという話だが。 >>540こいつ病気だなw
親会社も同じで10km程度移転しただけで何言ってんだ >>549
読賣は全国紙で
中日はブロック紙だしね
あと九州は読賣の牙城だし
仮に中日が主催ゲームを打とうとしても
放送局等の後援協賛企業が付かないだろうね
余談だが近年は中日販売エリアの岐阜市で
読賣の主催ゲームが打たれて
地元民にも中日主催ゲームより
好評です 西鉄ではなく、西日本パイレーツが残ったほうが九州の球団としては繁栄していた
のではないか? セリーグなので、巨人戦があるので興行実績も上がっただろう。
西日本新聞が親会社なので、「九州の中日」のような位置づけになったかも知れない。
昭和25年当時、広島・大洋・国鉄などに比べれば、西日本パイレーツは選手層も
厚くてそこそこ強かった。 全国紙の毎日や産経が球団を手放しているのを見ると、
西日本新聞が球団を保持できるとは、とても思えない 根本陸男
「企業がバックにない特異な球団、当然ありうるとは想像はしていた。
やっぱり変わったのかなという気持ちだ。だが、現場の我々には手の届かないこと、
バタバタする問題ではない。今、私にとって一番必要なことはグラウンドの上の
問題だけだ、それをやるしかない。平和台であろうと、例えば所沢であろうと
野球をやることに変わりはない」 三原御大は寛容な方だったんだね。涙
西武に持っていかれたとか思わないんだ。
その辺が稲尾とかと違うとこだな。 >>556
選手上がりで球団社長まで
務めた御仁だしな
パリーグや球界の事を考えていたんよ 三原にしたら
「それ見たことかw」
って風にしか見えなかっただろ。
自分の後に川崎据えてその後もテキトーな人事で済ませて弱体化して八百長するまで。
なるべくしてなった、と。 豊田も書いてたな。
川崎は選手と一緒にワイワイやっちゃうタイプだったと。 三原も稲尾に依存しすぎで潰したからなあ。
63年に田中勉や安部らが台頭するまで新たな若手投手が出てこなかった一因も
稲尾の投げ過ぎがあるだろな 三原も稲尾依存の面があっただろうが本格的な酷使は三原以降だろうなあ。61年の42勝など当時は賞賛されたのかもしれんけどただ無茶苦茶だし、その結果63年の日本シリーズでついにパンクしたし。 >>561
61年は権藤も新人記録の35勝
流行語まで生む酷使無双
翌年も30勝して終ったが
川崎は一見親分肌の面倒見の良い
ギャンブル好き親父のイメージだが
その実は世渡り立ち回りの巧みな
小狡い親父だなw
同時期だと濃人渉
今だとデス杉本や森繁辺りか >>562
デス杉本と書いてる時点で
いつものキチガイジジイと判明したので
読む価値のないレスでした 稲尾に限らず、三原の投手運用はエースを限界まで使い倒すパターンでしょ
秋山や鈴木もそうだった 当時、日本シリーズで巨人に勝てたのは、稲尾を擁した西鉄と杉浦を擁した
南海だけだった。
稲尾は連投につぐ連投で、自ら決勝のホームランまで打ったし、杉浦は
四連投して四連勝した。
突出した実力のエースを連投させるチームだけが巨人に勝てたのも事実だ。 稲尾がルーキーの年、稲尾が21勝、島原25勝、西村21勝、河村18勝
これだけいた訳だけど皆登板数の半分はリリーフでの登板
その頃MLBは中3日で先発4人でまわす感じ
三原はアメリカ野球に影響受けていたのに1人の投手を使い潰す方向に行って
先発ローテをきっちり確立させるようにしなかったのはわからないなあ
開幕試合にプロで1勝もあげてない投手を先発させたり訳の分からないことも
してるし だってエース投手を酷使しないと当時の阪急並みのシーズン成績で終わる可能性があるからな。 RKBやKBCはちゃんとライオンズナイターやってたのかな
いくら不人気で弱いからって頑張れジャンアンツなんて言って欲しくない 一方で三原の選手時代の監督だった藤本定義が、阪急や阪神でローテーション制を取ったんだな。 東尾と加藤初くらいしか計算できる投手が居ない頃の
東尾は酷使されて負け続けた年があった >>570
RKB関門局とKBC北九州局は本局とは別プログラムで、
ライオンズ戦をやらず、巨人戦をレギュラー放送したという。 >>572
東尾はどんなに投げても壊れにくい体だったのが幸いしたな。
友人の権藤博もそれを言っていた。 >>576
確かに東尾見てると「投手の方は消耗品」て言われてもホントかよ?って思っちゃうよな
ただ、速球派とかじゃないからうまいこと持ったんだろうなあ そんな事言ったってめっちゃ投げ続けてたじゃん(笑)
79年だけだろ、何だか怪しかったのは 74年と79年に故障離脱
76〜77年は騙し騙し
85年も数字は良いがかなり状態が悪かった 前に連載コラムで書いてたが、クラウン〜西武初期は痛みでまともな球が放れなかったと。
そりゃ太平洋時代のイニング見れば分かるわな。 福岡時代の東尾は、真面目に投げる試合と、捨てる試合を分けていたらしい。
その分、負け数も多かったが、長年エースとして活躍できた。
西武になってから広岡監督は、そんな東尾を酷評していたが、あの環境で生き抜くには
仕方なかったと思う。 あれだけ投げても評価基準は勝ちの数だけ。
そりゃ勝ち目無い試合は手抜きしなきゃやってられないよね。 関係ないけど
昔は西武グループと西鉄グループが距離離れてるけど、
同業者だからあまり良く思わないのかな?
分からないけど。 笑 昔の東尾を知らない福岡の若いダイエーファンが西武監督時の東尾を
「東尾とかいう奴、なんかむかつく」 などとほざいていた
おまえらなぁ!・・・いや・・・反論しても無駄だったろうな ナベQの故郷・群馬県の桐生高校出身の田辺義三氏が12日亡くなられました。
田辺氏は昭和31(1956)年に西鉄(現・埼玉西武)に入団し、捕手から内・外野を守り、昭和39(1964)まで19年間ライオンズでプレー。
ご冥福をお祈り申し上げます。
田辺氏っててっきり前西武監督かと思ったじゃないか。 地元テレビ局でダイエー戦の解説を務めていた基満男を
「モトイって何者? どこのチームにいた人? あの暗い喋りはいっちょん好かん」
ううううう〜っ イライライライラ・・・ 昔のプロ野球名鑑みたら、選手の住所が載っていて
今俺が住んでいるところの近くに大洋時代の基が住んできた。
今も住んでいるのかなあ 埼玉に一時いた時は西武時代の永射も近所に住んでいた
みたいだな >>583>>584
本業博徒副業野球屋の
土井正博と通ずるものがあるなw
消化試合で打ちまくってコンスタントに25HR70打点越えと年俸をキープし
息永くプレーした
西本の下で太く短くだった長池と対照的 ダイエーのファンは巨人などセ球団からの転向組やノンポリからの新規だと
西鉄〜福岡野球からの移行組や南海時代からのファンと違って、
福岡時代のライオンズの関係者にはなじみが薄かったんだろうな。 >>587-588
1955年度の高校球界No.1キャッチャーとして評判が高かった。 >>589
基もダイエー戦の専属解説なんて正直な話
やっていてつまらなかったろうね 福岡のライオンズ、福岡のホークス両方の試合で地元局の専属解説者を務めたのは
野口正明、河村英文、稲尾和久というところかな 稲尾はABCの阪神戦解説でホークスは強くなってからだろ 福岡野球時代の二軍組織は西鉄時代同様に関西本拠?
それとも福岡に戻した? >>599
ABC制作でRKBまたはKBCが中継した藤井寺、神戸のビジターをラジオ解説したり、
時折、KBCテレビでも平和台の解説をやったりしてた。 kbcのダイエー平和台での解説は河村藤原しかやってねえよ >>602
1989年9月17日(日)
14時30分〜15時54分
KBCテレビ−テレビ朝日
ダイエー×西武〜平和台
解説・稲尾和久 東尾修
実況・和田安生
翌90年5月の土曜にもKBC-EXでダイエー×ロッテを中継。この時は
解説・河村英文 東尾修
実況・月俣幸三 ハイ大嘘
90年5月5日土曜ロッテ KBC14時〜15時55分 サンTV14時〜試合終了まで 89年にテレ朝でやったのは事実。
解説、実況の紹介に顔写真が使われてるのと、
アイキャッチニにあぶさんのイラストが使われてるのも見た。
だから翌年土曜は中継時間は覚えてなかっただけで、89年関東の対西武はは14時30分から。
だったら縮刷版で調べてくれ。関東は稲尾と東尾で間違いない。
福岡と別立ての可能性もあるが。 >>602-605
1989/09/17(日)
ttp://i.imgur.com/gfNZzkH.jpg
1990/05/05(土・祝)
ttp://i.imgur.com/t7YWwMi.jpg
ttp://i.imgur.com/ylJSwjJ.jpg >>606
懐かしテレビ板の新聞TV欄の方ですね。出張乙。
KBC=SUN=EXという形態もあったのか。KSBでもネットしていたのは意外。
サンテレビでは「サンテレビボックス席」に差し替えていたかもしれんが。
HOMEはカープ戦以外はあまりやらなかったので土ワイ再放送と競馬。
月俣幸三というと11月の大相撲ダイジェストでよく見た。 >>606
テレ東が横浜スタジアムの試合!?
リアルで見た記憶が全く無い >>608
裏送りでテレ東本体ではやってなかったのでは?推測だが たしかクラウンライター時代はRKBは稲尾、KBCで中西の解説だったような
中西はその都度、わざわざ東京から来ていたのかな
両者とも解説していてむなしかっただろうねえ・・・実況アナのほうも >>609
ちゃんとテレ東もやってるよ。>>606 の1989年5月5日の番組表(上が読売岡山、下が朝日東京)の画像を見ればわかる。 93年の仰木彬もKBCの中継に助っ人参戦してたはず?
ホークス贔屓で語ってたのかな?
福岡ドーム開業時当時もまだ西武ファンのほうが多かったらしく、
福岡の西武ファンがダイエー戦メインのラジオ中継にクレーム付けてたって本当? ホークス福岡移転1年目だったか、地元のライオンズファン継続派とホークスを
歓迎する新規のファンが、西スポ紙上のFAX欄で連日にわたって論争してた ライオンズの福岡時代末期の解説者といえば、
RKB=野口正明、稲尾和久
KBC=河村英文、中西太
TNC=若生忠男、宮寺勝利
FBS=河野昭修
かな?
稲尾と中西は福岡の局との契約時と在阪局との契約時とで朝日系・毎日系が逆だった。
在阪局との契約時代は稲尾がABC、中西がMBSだったので。 それだけ放送してもらって、人気がなかったのが信じられない 福岡には判官贔屓って感覚は無いから。
強くなくてはダメ。 >>614
黄金時代当時の地元局解説者は誰だったのかな? RKBもKBCも福岡本局と関門・北九州局とで別カード(関門・北九州は在京発の巨人中心)を中継って、
そんな番組編成じゃファン離れが起きるのは当然だよ。
県内全体でライオンズを支えようという動きがなかったのは至極残念。 今でこそRKBもKBCもラジオはホークス一色の中継体制だが、
ダイエーの福岡移転直後は、普通に文化放送のライオンズナイターをKBCが
放送していたな。福岡ドーム開業後くらいから、KBCもホークス戦中継に
切り替えていったはず。 >>621
82歳か。
みんな歳を取るはずだ。
しかし、発表したのが後継の西武球団とは、ライオンズクラシック以降、OB会と関係良いのかな。 ライオンズのショートとしては珍しい他球団に移籍せずに引退した人。 https://pbs.twimg.com/media/Dd-KzyRUQAEufAo.jpg:small
1970年5月25日の関東版報知新聞(現・スポーツ報知)
https://pbs.twimg.com/media/DeCImz2V4AEIiyE.jpg:small
1970年5月26日の関東版スポーツ各新聞
(上 報知、サンスポ、日刊、下 スポニチ、東京中日、デイリー)
同25日、野球賭博にかかわったとされる西鉄の池永、与田、益田の3選手が
日本野球機構コミッショナー委員会の審査により永久追放の厳罰処分を受ける。
前年・1969年10月に起きた、元西鉄ライオンズの永易の暴力団からのやらせ敗退行為をきっかけに起きた、
一連の黒い霧事件はこの時、大きな転換点を迎えることになり、
これがきっかけで西鉄、東映は相次いで球団譲渡を決断。
ロッテは本拠地の使用料の問題もあり、自前だった東京球場を閉鎖。名目上仙台を本拠とする流浪球団となり、
パ・リーグ激動の70年代を象徴する出来事の端緒となる 滝内は西武になった後も1981年までコーチをしていたな。
西武の根本から広岡への監督交代時に近鉄に移っているが、
近鉄の西本御大の勇退で、同僚だった関口の監督昇格があったからか。
他に西武になってからもコーチをしていたのは和田博美もいたな。 仰木監督・中西ヘッド・滝内コーチという陣営の西鉄バファローズ そういえば平和台最後の公式戦はダイエー×近鉄。
同時に仰木監督最後の平和台でもあった。 >>620
>福岡ドーム開業後くらいから、KBCもホークス戦中継に
>切り替えていったはず
ホークスの平和台時代にも河村英文らの解説で放送してたでしょ
ただしKBCはホークスの福岡移転後にも、しばらくの間は、文化放送の
「ライオンズエクスプレス」 という西武球団の情報番組をネットしていたな
西スポもだけど、当初はまだ地元のライオンズファンに気を使っていたようで ダイエー戦解説時の河村さんは南海のコーチ勤めから間がなかったので
試合を解説しながらいろいろと選手の紹介をしていたね
拙い実況アナにはお説教も
元気だった河村さんまでがいまや故人とはさびしいねえ・・・ >>630
ホークスの事をよく知ってる貴重な戦力だったな 現役引退後は途中でコーチ就任など断続的ではあったが、
西鉄後期〜太平洋・クラウン時代〜球団不在期間〜ホークス移転後と、解説業はKBC一筋。
RKBの野口正明氏も西鉄3連覇以降〜ホークス移転初期まで解説&夕刊フジの評論を長期間務めたが、
解説デビューは日テレ系列時代のTNCで、70年代半ばにRKBへ移籍。
個人的には福岡地区の解説者というと第一にこの二人の名前が浮かぶ 1970年4月29日の中国新聞の広島テレビの広告。
この時点では野口正明はまだTNCの解説者だった様だ。
稲尾がRKBの解説者になった頃には、野口はRKBに移っていた模様。
クロスネット時代なので日テレとフジの解説者が一緒に載ってる。
ttp://i.imgur.com/4A50bq1.jpg 宮寺はいつまでテレビ西日本の解説者だったのだろうか 鬼頭政一も福岡ライオンズの末期のKBC解説者。
球団空白時代も契約は引き続いていた。
巨人戦は出なかったが、各地が雨天中止で唯一行われた平和台でのロッテX近鉄で鬼頭さんの解説を聴いたことがある。
南海コーチを辞任した河村英文が復帰したため、 鬼頭さんの契約は1985年までかな。 >>635
鬼頭政一さんなら83年にヤクルト×大洋戦のラジオ解説を聞いたことがある。
その日は実況のKBCアナが終始、「本日のニッポン放送ショウアップナイターは・・・」を連呼。
KBCはその2連戦、LF裏送り-NRNの西武×日本ハム(火曜はRFの巨人×中日だった可能性も)を中継。
地元平和台開催でも全くの中継なし(JRN系はヤクルト主催の中継権なしでRKBも相当)で、
KBC発の関東裏送りというレアケースだった。
ロッテ×近鉄はその年の7月20日だったと記憶してるが。 >>638
お前の生存が厳禁だよ、福岡の最大派閥である巨オタ王系譜のチョン便器オタw
https://www.youtube.com/watch?v=uK9Ae8OarYc
スラッガー列伝
20分15秒から25分56秒までが土井正博だが、近鉄、太平洋、クラウン、西武と
ユニフォームは変わっても土井は土井だな。長嶋王野村みたく巨人、南海じゃないと
らしくない大物と違って、本人の存在がユニを越える土井は希少な存在だ。
だが、やっぱ近鉄がいちばん似合うかな? 創刊60周年特別記念企画 1958-2018 球団別ベストセレクション(8) 西武編【全12巻】
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LIONS 1958〜2018 登場回数BEST5
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