〓西鉄・太平洋クラブ・クラウンライター〓Vol.24〓
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西鉄の3連覇が巨人相手のものでなかったら
ここまでの伝説扱いはされていなかったかも 仮に由伸巨人と工藤SBが日本シリーズだったら
今のSBが勝つんじゃないかな・・
選手層からしてそうだけど。 最近スポーツニュース新聞見てたら
山賊打線何ちゃらとかの話題や
去年とか11連勝の時も西鉄以来とか言うとちょっと懐かしさ感じるよな。
ソフバンも80周年とかで南海の話題出てるからオールドファンからしたら
ちょっと嬉しいよな。 ダイエー時代に南海色を薄める姿勢を取り、これに加えて当時の西武・西鉄両グループが
ライオンズの福岡時代をタブー視する向きがあったのも手伝った。
これがホークスの福岡への定着を促進する一つの要因にはなっていた気がするな。
ただ、このタブー視は、ライオンズの経営が一番困難だった
「福岡野球株式会社」時代の歴史をも薄める結果にもなったと思う。
ダイエーがソフトバンクに身売りし、西武グループが堤一族体制から脱却し、
西鉄側も創業100年を機に過去の歴史を見直す機運が生まれた事で、
これらの前身時代がクローズアップされるようになった、という感じかと。
ホークスも南海時代末期は福岡野球ほどではなかったにせよ、待遇が悪化していたな。 末期の南海は既に乗客が減少傾向だったのに加えて
空港線建設・高野線複線化・難波再開発・林間田園都市開発など巨大プロジェクトが続いて
とても球団に資金を回せる状態ではなかった >>196
巨人とは福岡では一度だけだよね。それ以外のダイエー・ソフトバンクは6戦6勝。 佐藤道によると南海はグリーン車に乗ると差額を天引きされたとのこと。
末期に西鉄や福岡野球はどうだったのだろ 食事をラーメンだけで済ませていた一軍選手もいたという・・・ ダイエーがソフトバンクになったときは、移転どころか球団歌も変わらなかった
それは強くて人気があったから! 球団歌(ダイヤモンドの鷹)はひっそりと廃止され、
応援歌が球団歌に昇格な 西鉄ライオンズの球団歌って球場内で流してたのかな?
凋落後に「金色まばゆき王者の姿」という歌詞はむなしい 福岡ホークスは今年30年目で「福岡」ライオンズを超えていたよ
軽々と越えられてしまったなあ ドジャース ジャイアンツもニューヨークからカリフォルニアに移転して
今年60周年やで。 >>206
ダイヤモンドの鷹もそうだけど
オリックスブレーブスの球団の歌は比較的豪華なメンバーが作ったのに
定着しなかったな >>207
昔はそんな風習どこの球団にもなかったよ
最初にやりだしたのが広島のはず
勝ちゲームの後それゆけカープを流してね
昭和50年代過ぎてからだろうな せっかく山賊打線と言われてるんだから交流戦で着用すればよかったのに
流行に乗ってアメフトユニフォームでもいいよ! >>210
オリックスなんて何一つ定着したものがないみそっかす球団だしな 東京者にでかい顔されたくないと村八分にした結果所沢に逃げられるよりはマシだろ 東京者というより、岸信介系長州閥が好意を持たれていなかったという事かな? >>211
太平洋時代の平和台球場では「君こそライオンズ」を場内で流していたと思うが
いまのようにラッキーセブン時ではなかった 「君こそライオンズ」はクラウンで太平洋は子門真人だと思ったが? >>210
六甲おろしの方が先では?
時期はその辺だと思うが。 「君こそライオンズ」は、最初は今陽子の歌唱のが場内で流されて、その後レコード化の際に西郷輝彦のに変わったらしい。 >>216
岸信介の評判が最悪だったから
その子分というので変に勘ぐられて
嫌がられたというのはありそう 中村 青木 坂井 切れ者ではあるが
心がなかった
福岡市、西鉄、市民など地元の対応もなってないし
泣きを見たのは弱くても応援していた一部のファン >>217
「君こそ ライオンズ」はラッキーセブンに流してた記憶があるけどな
太平洋 クラウンとも
あと最後の年に「パリーグの歌」もどこかの回に流していた >>221
60年安保からそんなに経ってなかったからな。
あと福岡県民特有の山口県への優越感も影響あるだろな >>218
「君こそライオンズ」は太平洋の球団歌で、クラウンになっても
そのまま継続
俺はジャケット写真の違うレコードを両方持っている
クラウンの分は対南海の写真 レコードはもってたけど
1975年の「僕らのあこがれライオンズ」は球場では流れてなかったからね
当時を知る地元民からすると、数年前のクラシックで流れたときは違和感を感じた。
「君こそライオンズ」はクラウンの時に流すため使用しなかったと思う。 ヤフオクの立花のクラウンのユニフォーム入札71
50万超えてる 中西太(85歳)が西鉄OB会長なのはちょっとなあ
3連覇で時代が止まってる >>227
オールスターに出た選手以外はシーズン通して冬物(春秋もの)だったというクラウンのユニか。 >>201
S40年代に本業で立て続けに事故を起こし、
当時の中曽根運輸相から「本業もまともに出来ないのに・・・」と揶揄された。
その辺りからドラフトとも相まって資金をホークスに廻さなくなった。 外資系だから買収はできない
中村は日本法人だから大丈夫と思ったが、結局駄目だった 日本法人ならおkなんだろ?東映まで身売りしたパの状況見てダメだこりゃと思われたんだろ。
買ってたらその後ペプシがサントリーに買われてけっこう良い感じだったのでは?
ライオンズが今でも福岡にいたか。
じゃあコクドはどこ買ったかな? >>235
コクドは大洋球団への資本参加を継続していたかも。 ペプシがライオンズ買収を蹴ったのには裏の理由もありそうだな。
けどその後のペプシコーラの売れ行き不振を見ると買収しておいた方が良かっただろな もし西鉄ライオンズの黄金期にセ・パ交流戦があったら、平和台球場の左側が
セ・リーグ球団のファンでギッシリ埋まるなんてことはなかったんじゃないか?
先日のヤフオクドームでのソフバンvs広島の模様を見て考えてしまった
ビジターのカープファンは本当にウザかった >>238
当時の交通事情を考えたら広島から遠征してくるファンもほとんどいなかったと思う
そもそも遠征応援する風習すらなかったろうし だから、金やんとのプロレスで大騒ぎになった時に、川崎や後楽園で
今で言うアウエー側が九州から移住した太平洋ファンで多く埋められたのは当時としては異質だった。 ダイエーの株主だった外資系ファンドが身売り先を探そうとしたのに止められたのを覚えている
あれを見て外資の息のかかってる球団は無理と思った
仮に日本法人としてもその親会社は外資なんだし、審査は下りなかっただろう 本決まり寸前まで行ってなければあんなペプシコーラカラーのユニフォーム発注しないだろ普通 坂井氏が以前BBM誌(号数失念)のインタビューで買収当時の事に答えていたけど、
ペプシへの身売り話が出た時は、外資規制を回避するための方法をペプシジャパンと話し合っていたのが、
ただ、東映の身売り話が出た事で破談になったと回想していたな。 >>243
それ04年夏に発売の「球団消滅」じゃないかな? >>237
まず日本国内でのマーケティングが弱かった>ペプシ
コカは三菱商事筆頭で純日本的なマーケティングを展開出来て知名度も上がったが
ペプシは地域のボトラー任せな一面もあったのと、日本法人のリーダーシップも弱か
った。そのため地域によってはペプシの自販機がなかなかない地域すらあったよ。
サントリーへの国内販売・営業権譲渡があって、コカ並みに入手もお目にかかるケース
も実現出来たようなもの。日本法人を米本社単独の力で置くより伊藤忠など日本の有力
企業も出資した上で置いた方がもっと早くシェアも上げられたような気もするが。 中村「ライオンズを所沢で球場建設中の堤義明に売ることにした」
中村「大変だ、堤義明はライオンズを所沢に移転すると言ってきた」
坂井の本ではこう書かれている
ライオンズ移転の責任を中村ではなく堤に押し付けている! 紳助もラジオで大阪球場などのヤジの面白い客の話してたけど
日生球場のライオンズ戦なんか3塁側にかなならず来てるうるさい客がいた
関西テレビのカメラマンに兄ちゃん映してくれ、そのカメラマンも僕もライオンズファンと答えたり >>245
日本ペプシコって永田が関わってらしいが、ライオンズの件と全く無関係かね?
ロッテに売ってもらった恩もある頃だろうし 永田つながりでペプシは中村とも縁があったんじゃないか
そして、東映が身売りしたのを口実に西鉄買収を断ったんじゃないかな もし西鉄と西日本新聞が仲良く「福岡ライオンズ」結成してセに加盟してたら、
昭和30年代の黄金期に市民・県民球団として地固めし、
昭和40年代も注目の高いセにいるから893とも接触できず黒い霧も起きず、
昭和50年代に所沢に移転することもなく、
21世紀の今ごろ「レオ女子」で球場あふれかえっていたかも。 >>251
レオのキャラクターは堤義明が手塚治虫を直接口説いて実現したものだから
福岡にいたままじゃそれが球団キャラクターになることは無かっただろう >>251 西鉄と西日本新聞が仲良くi「福岡ライオンズ」結成するわけないし、
もし結成できてセに加盟できたとしても結局身売り移転だったと思うよ
昭和30年代は巨人に勝てず、阪神、中日と2位、3位争い
昭和40年代も注目の低い福岡にいるから893とも接触し、黒い霧も起きる
昭和50年代に所沢に移転してようやくプロ野球らしい球団に生まれ変わる 口うるさい豊田がずっと西鉄にいればどうだったろうか。
豊田は毀誉褒貶あるけど893との付き合いやましてや八百長なんかはしないだろうし
後輩にも目を光らせただろうから田中勉などもあんなに酷くならなかったかもしれない ライオンズ買い戻しとかポーズだけだったんだろうな
ttp://i.imgur.com/kcCjVdj.jpg
クラウン(巨人との連合軍)平和台最終戦
ttp://i.imgur.com/vtu1jsP.jpg 当時のライオンズ2軍って中百舌鳥なん?
九州広いから他にも2軍球場建てたん違うの?
よく知らんけど。 移動費がかかるから大阪に二軍を置いてたが、それはいつまでだったんだろ。 豊田は球団の待遇が不満で出て行った不満分子だから西鉄愛なんかなかったと思うよ 当時の待遇は一流選手でも今の二軍以下だから不満も言いたくなるわな。
豊田が国鉄に移ったら国鉄の二等席に座れると感激してたくらいだし。
遠隔地福岡なのに西鉄がケチだから北海道遠征とか以外はめったに飛行機を使わせなかった。
また年俸も稲尾中西クラスと外人以外は格安だったようだし(黒い霧の遠因になった) >>259
西鉄は監督と主軸以外は3等車だった、
って書いてたから流石に豊田は2等席だったと思うけど、まぁそんな球団なんだからそれ以外にも不信感がつもりまくってたのだろうな ドローチャーが正式に監督になってても
かなり高齢だし途中休養だったろうな ドローチャー招聘って坂井のアイデア?
ハワードは既に膝がボロボロだったのを承知で話題づくりの為に招聘したのは既出だけど
坂井って話題づくりのみばかりで
貧乏球団の身の丈で最大の効果を挙げる事は全くしなかった感
カープの松田元の方が有能かもw 青木一三らと球団内で権力争いしていて中村オーナーが巻き込まれて右往左往していたイメージ 豊田氏は笹塚の西鉄の社宅に水戸から家族を呼んで住まわせ、解説者時代も「渋谷」に住んでたとか言ってたからその辺に
ずっと住んでいたのだろう。 >>258
国貞泰汎がかつて「南海ホークスは大好きだが、南海野球株式会社は大嫌いだ。年俸が安過ぎる」と言っていたが、
豊田も似たような感情があったのかも。 西鉄球団は末期までマイクロバスを持ってなくて
百円玉を渡されて選手が市電やバスで移動していたらしいな。
身内の西鉄バスから借りるくらいすれば良かったのに。
末期の平和台のナイターは照明をケチっていたので薄暗くて不評だった >>266
マジで?
身内のバスすら使えないって実は球団とバス事業部との内部対立があったとかないか?
金渡して他の交通機関使うより安全で割安だろうに。
あのホークスでも金のない南海末期ですら南海観光使って移動していたぞ。
>>265
広島と一緒である程度実力ついたら年俸高騰の懸念から放出する手口だな。
阪神も野村政権までそうだったが、星野時代になってからそれは駄目と一喝して体質変化へ。 >>266
今の時代に全球団移動を
費用を出す代わりにそういう風に各自で移動してもらう感じにしたらどうなるか 西武ライオンズが初めて優勝したとき、西日本スポーツの紙面に大きな広告を掲載
記憶が曖昧だが、 「やっぱりライオンズは博多っ子の血を沸かせてくれるバイ!」
稲尾和久がロッテオリオンズの監督に就任したときには、 「稲尾監督を応援しよう!」 の広告 実の話、西武グループもライオンズのオーナーになるまで福岡、いや九州では
認知度低かったからね・・・
西武を「さいぶ」と口にする者さえいた。西部ガスの影響?
阿蘇にプリンスホテル作った時、聞いた話では土地買収の時に「ライオンズの
西武です、昔の西鉄ライオンズだった西武です」と地権者に説明していたりもし
たと阿蘇の麓にいる爺ちゃんから聞いたよ・・・
ライオンズの福岡時代を完全否定せねばならなかった大人の事情も時にはこ
んな時も・・・
あと、福間に西武不動産が分譲地作った時にも同じ手法で切り口を探ったなん
て聞いたよ。あの頃はなんだかんだで九州もライオンズ贔屓がそこそこいた時代。
でも福岡市内とかになると複雑な感情もあったよな。
これ、あまり知られていない話なんだけど、ファミマが九州進出するに当たって、
(当時西武セゾンな)実は岩田屋に話を持ち掛けたんだよね。
当時自力で西友の進出もしていたのにかかわらず、そのような手法になったかと
言えば反西武感情が地域的にあるので、当時のファミマ社長の伝手で岩田屋の
社長に話をつけて表向き西武色を薄めた話、どこかで聞いたぞ・・・・?
鉄道とセゾンは資本は別立てだが堤兄弟が互いにそれぞれのグループの役員に
就いていたりしていたから、無関係でもなかった。 >>270
>西武を「さいぶ」と口にする者さえいた。西部ガスの影響?
今は西部ガスの方が地域外から来た人に「せいぶガス」と読まれる始末
本当だとしたら時代の変化を感じるエピソードだね >>270
清二が西武鉄道の重役だったのは以前何かの本で読んだ事があるが、
義明も西武百貨店の重役だったのか。 >>251
もし西鉄と西日本新聞で「福岡ライオンズ」結成セ加盟なら、その後のパ。
パ・オリジナル6
東映(東京)、大映(東京)、毎日(東京)、阪急(西宮)、南海(大阪)、近鉄(大阪)
東映(後楽園→駒沢→神宮)→日拓→日本ハム→北海道日本ハム(札幌)
大映(後楽園→東京)→東京スターズ→ロッテスターズ(東京→仙台→川崎)→千葉ロッテマリーンズ(千葉)
毎日(後楽園)→ヤクルトオリオンズ
もしくは→埼玉西武オリオンズ(所沢)
阪急→オリックス(京都あたりに移転?)→近鉄吸収
南海→神戸ダイエーホークス→神戸ソフトバンクホークス
近鉄→オリックスに吸収 【サッカーで、洗脳″】 スポーツで関心を方向転換させ、投機家を通じて、すべて我々の金庫に収める
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1529980919/l50
マスレジャー、スポーツ、クイズ番組によって、自民党が国民を飼いならす! あれを、さいぶ、と発音するのはこの地域だけだろうな…
さいぶ警察… >>267
国貞が南海から出されたのは本人の志願トレード
バリバリの鶴岡派で野村の兼任監督就任に対する意趣返し 国貞は広島で打撃十傑上位にランクインした年もあったのにクビになったのは首脳陣批判して疎まれたのかな?
ライオンズでも江藤監督批判してたみたいだし
江藤さんは白や基らには後年感謝されてたようだがフロント土井東尾竹之内辺りからは軽く見られてた感 江藤はクビ寸前のところを救われたので真弓から感謝されてる 西日本パイレーツは貴重なセの福岡球団だったはずなのに、あっさりパの西鉄に吸収合併された
これを考えるとセに「福岡ライオンズ」を設立するのは無理だったと思う 西日本パイレーツは球団運営がすぶの素人だったらしいから
売上金を持ち逃げされたりして1年で経営が行き詰まった そもそも当時の福岡市の人口考えたら無理な事くらいアホでも分かるだろうになあ 最初は経営=西鉄、宣伝面=西日本新聞で共同でやるつもりが、
セ・パ分立で別々になったという話があるが、その真偽の程は… セは西日本パイレーツを入れると7球団だったから、パに行ってくれて喜ばれたかもね >>272
堤義明の弟である堤猶二氏が西武百貨店の取締役に就いていたことがある。
後にプリンスホテルの社長に就くも、義明との反目で清二寄りになってホテル西洋銀座、
横浜のインターコンチネンタルホテルを育てた。
何しろ堤義明はああ見えて子供っぽい一面もあって、結果的に裸の殿様へと化けるのだ
が。 西武鉄道グループや西武流通グループ(後のセゾングループ)は
77年以前にどの程度福岡近辺に進出していたのかな? >>286
西武化学工業と西武ポリマ化成の九州営業所?は福岡市内にあった。
その他は西武運輸以外ほとんどなし。
コクド、プリンスホテルの駐在ぐらいはあっただろうが不明。
セゾン関連はほとんどなく、わずかに西武百貨店外商部九州駐在がある位。
西武自動車販売は・・・でも地域代理店だったからなあ。
よって、福岡では西武の名はほとんど知られていなかった。
旅行部門でも西武観光案内所、西武トラベルなんぞ福岡にはなかったもの。
株式投資や新卒の就職活動でもしない限り知ることは少なかったよ。 思わぬ副産物として、ライオンズが西武に身売り→所沢移転してから九州での
知名度が高くなり、プリンスホテルやゴルフ場の進出、西友の出店などがしやす
くなった側面はあるな。 西武化学工業と西武自動車販売はグループ分立後セゾン側に行っていたな。
西武ポリマ化成は鉄道側だったけど、今は西武グループを離れて現存。
その時代の福岡で西武の名を知っていたとしたら、
鉄ヲタか関東に親戚のいる人ぐらいか。 >>289
ピストル堤や箱根山戦争は九州でもそこそこ知られていたと思う >>289
百貨店関係者。
同業ということもあるだろうが、当時の西武百貨店は卓越したセンスが世に知られていた。
あとはアイスホッケーファン、と言いたいけど、福岡では全国版のスポーツニュースで知る
程度だった。 >>284
それ逆。西日本の脱退で8→7球団に。
尤も、広島も潰して都合の良い6球団を目論んでいたのだが・・・ 質問なんだけど、西鉄ライオンズ時代に放映されていた西鉄のCMで公式戦の案内とか
やってたりした?
あと、行楽関連のCMに選手を起用したりとかあった?
あってもおかしくないけど全然聞かないし。 >>291
その時代の西武はまさに時代の最先端を行ってたからね。
まさに野球と同じだったし、その後の凋落も… >>266
福岡・小倉の移動も国鉄の普通列車だったそうじゃない。
昔から西鉄バスの直通便もあるのだから、それを利用するとかの発想はなかったのか?
それと、社員は社員証で乗れたが選手は金がいったとか嘘だろと思ったぞ。 さすがに福小間の移動で毎回普通列車ではなくて
球団が極度に金欠の時に限られたらしい。
その頃の鹿児島線は福岡小倉を完全ノンストップの特別快速が走っていたと思う(これも今では考えられない) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています