昭和時代の野球にありがちな事©2ch.net
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>>155
5試合通して3人で賄うなんて、すごいよね
今では、ヘタしたら1試合で7人登板とかあるからね 選手名鑑が前年の日本一関係なくセリーグから必ず始まる 試合中や試合終了後に観客がグランドに雪崩れ込む
グランドに降りてくる
ガラガラだと席を移動出来た
外野→内野に パ・リーグのリアルタイムの途中経過が知りたくて関東以外から雑音の中で文化放送ライオンズナイターや関西以外からOBCバファローズナイターにチューニングしていた amラジオ付ければ、7局中4局くらいは巨人戦中継やってる しかも、申し合わせたように讀賣の応援放送だったりする 試合終了時敗戦チームのファンがメガホンを投げる
今だとネットで特定されて出入り禁止になってしまう ナイター中継が雨で中止の時、
網走番外地、トラック野郎 >>170
東映が大株主且つ通常のレギュラー番組が極めて弱かった当時のテレ朝では、ほぼ間違いなくそれだったっけ。 >>164
そして、その試合でも勝敗に関わらず完投がお約束 キャンプ地はあの時期でも温暖な沖縄orあの時期、晴天が異様に多い宮崎に集約されちゃったな。
一時期は共に晴天日が多い高知、宮崎に集約されそうだったけど、曇天日が多いとして敬遠されていた沖縄が2月でもクーラーの出番があったり、
曇天でも20℃近くに上る様な温暖さから、こりゃエエわ!と他球団の選手にまで評判が伝わった事から、すっかり定着しちゃったとは最初に沖縄で
キャンプした日ハムに当時所属していた江夏豊の話。 沖縄は施設さえできればの状態だったからな
先駆者の日ハム名護は当初確か?室内がなくて、グラウンドの土も悪くて
ちょっとの雨で練習中止の状態から、少しづつ手を入れて改良していったらしい >>177
それも最近、すっかりなくなったね
それどころか、四国も絶滅 >>178
平成初期は海外キャンプがやたら多かったけど何でだろう >>174-175
それらが祟って、若くして引退を余儀なくされる >>183
それらに生き残れば200勝で名球会
消防の頃、10勝×20年じゃん
山田なんか280勝してるんだから、何が難しいねん って思ってたさw 確かに、そういうふうに思っていた時期もありましたよ
故障リスクとかはガン無視で >>181
その頃だと、ちょうどバブルの時期と被るからかね 少数の投手を連投させる体制じゃないと200勝投手は出ないんだよね
投手の練習方法は「走れ、走れ」だった >>186
新生ホークスはそれまでの雪の舞い散る呉からハワイ・カウアイ島へ…
ただ 設備は整ってなかったらしいが
とにかく安易に海外海外という当時の空気がよく感じられる 呉キャンプは鶴岡御大への忖度で続けてただけだから
身売りと共にもっと暖かい地域へ移転するのは当然だけどね 総監督とか助監督みたいな訳の分からない肩書を見なくなった >>192-206
ちょっと何言ってるか分からない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています