昭和時代の野球にありがちな事©2ch.net
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>>100
80年代どころか西武が選手のCM出演解禁したのは90年代だよ >>96
「巨人の星」のオープニングで、「重いコンダラ〜」と思い込んでいた
幼少期の自分… その勘違いが浸透しすぎて
地ならしローラーをコンダラと呼ぶようになったぐらいの影響力 >>89
NHKニュースウォッチで今でもやりますわ
NHKといえば平気で火曜とかに巨人の試合やっていたよな
大事な政局や災害があってもニュースをずり下げたり
あとは日本シリーズの放送 西武ファンだったが土日のデーゲームは藤井寺や西宮開催だと中継ないから電話サービスで途中経過聞いてたな 伸び悩んでる左打ちの長距離砲候補は
とりあえず一本足打法の練習してみる >>100-101
当時のオーナーの方針だったよな、確か 解禁後も清原とか工藤とかがCMに出てた記憶が無い… 清原、ビタシーゴールドを、飲んで、打って、ドカーン!
キヨ、ハラ減っては戦えない で、馬車馬の如く投げさせられ、シーズン途中で故障離脱 そして引退後「才能はあったが練習をしない天才タイプだったので短命だった」みたいな勝手なことを言われる ビールの紙コップの底をくりぬきメガホン代わりにして
ラジオ中継聞きながら観戦するスタイルの観客。
当然野次もキツイ。 ベテランで実力的にはとっくに衰えてるのに、
過去のネームバリューで実力以上に過大評価してレギュラー固定されてた選手が多かった。
そのせいで若手はなかなかチャンスをもらえずに埋もれていった有望株も多かった。
今よりもベテランが優遇されてた時代だった。 リーグ優勝決定直後、ファンがグランド内に乱入&逃げる選手たち(しかも数十名以上) 客席の足元には常に空き瓶・空き缶・吸い殻が放置されている ビールの売り子のお姉さんのブラ線、パン線がくっきり >>89
>>92
贔屓チームがリードで
アナが「さらに…」と言うと
「やったぜ!!」 あのスポーツニュースのドキドキ感もネットで簡単に検索できる今では
味わえないな スポーツニュースすら待ちきれなくて、
巨人のテレホンサービスで結果聞いてたっけなぁ
思い返すとQ2だった様な
(昭和よりも平成初頭くらいだったかも知れんけど) 代走の選手がギャップを被る
捕手がキャップを逆に被る
これいつくらいまで続いたの?
今やベースコーチですらヘルメットを被る時代なのに… ストリーキングが後楽園にも出現!
今はLGBTとか公務員の露出狂がいっぱいいるからまた起きるかもね(笑) 9回2点差で勝ってるときはランナーが一人出てもワインドアップで投げてた
球種により全く違った投げ方をすると投手がいた(特にアンダースロー)
首位攻防戦は第一戦はエース対決、負けた投手は第二戦もリベンジ先発 外野フェンスにラバークッションが無く、コンクリートむき出し
外野手は激突したら骨折 プレイボール直前に「デーンデーンデーンデーンデーンデーンデーンデーンデンデン
エキサイティングリーグ・パ!」のジングル(パリーグ限定) 日本シリーズのエース四連投は当たり前
ダブルヘッダーが頻繁にあってエース連投は当たり前 審判の判定前に一塁に歩く王
審判の判定前にベンチに戻る江川 >>97
放送された回で点が入らなかったら、最悪。負けを覚悟した 緒方監督、本当に辞めちゃったね。
あんな事はどこの監督もやってた事なのにね(笑) >>143
その中には「ジャンパイア」もいたんだろうねw >>89
あ〜みんな同じこと考えてたんだねw
「先発投手の何々投手が6回までは好投を続けてたのですが7回に入って突如乱れて〜」とか
「6回にピンチを迎えます、しかしここから何々投手の圧巻のピッチングを観てみましょう」
とか一喜一憂したな。情報がネットですぐ判る今より全然くわしかったw 新聞のスポーツ面をよく読んだなぁ
気持ちよく勝った日の翌日は駅までチャリでスポーツ新聞買いに行った
そのうちスポーツ新聞の定期購読までしたっけ 途中経過が頻繁だからあえてラジオで楽しんだ時期もあった
途中経過のピンポーンって音で凄いわくわくしたなぁ 今は、CSとかでその試合を直接見ることができるからね 巨人V9最後の年、巨人が高橋一三、倉田、堀内の3人だけで日本シリーズ5試合を戦い
4勝1敗で南海を下したこと。分業化の激しい現在では夢のまた夢。 >>157
19時中継の最初の数分くらいやってた奴だっけ?
なんか妙にワクワクしたな、あの特別感w
思い返すと存在意義がよく分からん
ロッテが千葉に来る前は、千葉テレビでリレー中継とかもあったな >>155
5試合通して3人で賄うなんて、すごいよね
今では、ヘタしたら1試合で7人登板とかあるからね 選手名鑑が前年の日本一関係なくセリーグから必ず始まる 試合中や試合終了後に観客がグランドに雪崩れ込む
グランドに降りてくる
ガラガラだと席を移動出来た
外野→内野に パ・リーグのリアルタイムの途中経過が知りたくて関東以外から雑音の中で文化放送ライオンズナイターや関西以外からOBCバファローズナイターにチューニングしていた amラジオ付ければ、7局中4局くらいは巨人戦中継やってる しかも、申し合わせたように讀賣の応援放送だったりする 試合終了時敗戦チームのファンがメガホンを投げる
今だとネットで特定されて出入り禁止になってしまう ナイター中継が雨で中止の時、
網走番外地、トラック野郎 >>170
東映が大株主且つ通常のレギュラー番組が極めて弱かった当時のテレ朝では、ほぼ間違いなくそれだったっけ。 >>164
そして、その試合でも勝敗に関わらず完投がお約束 キャンプ地はあの時期でも温暖な沖縄orあの時期、晴天が異様に多い宮崎に集約されちゃったな。
一時期は共に晴天日が多い高知、宮崎に集約されそうだったけど、曇天日が多いとして敬遠されていた沖縄が2月でもクーラーの出番があったり、
曇天でも20℃近くに上る様な温暖さから、こりゃエエわ!と他球団の選手にまで評判が伝わった事から、すっかり定着しちゃったとは最初に沖縄で
キャンプした日ハムに当時所属していた江夏豊の話。 沖縄は施設さえできればの状態だったからな
先駆者の日ハム名護は当初確か?室内がなくて、グラウンドの土も悪くて
ちょっとの雨で練習中止の状態から、少しづつ手を入れて改良していったらしい >>177
それも最近、すっかりなくなったね
それどころか、四国も絶滅 >>178
平成初期は海外キャンプがやたら多かったけど何でだろう >>174-175
それらが祟って、若くして引退を余儀なくされる >>183
それらに生き残れば200勝で名球会
消防の頃、10勝×20年じゃん
山田なんか280勝してるんだから、何が難しいねん って思ってたさw 確かに、そういうふうに思っていた時期もありましたよ
故障リスクとかはガン無視で >>181
その頃だと、ちょうどバブルの時期と被るからかね 少数の投手を連投させる体制じゃないと200勝投手は出ないんだよね
投手の練習方法は「走れ、走れ」だった >>186
新生ホークスはそれまでの雪の舞い散る呉からハワイ・カウアイ島へ…
ただ 設備は整ってなかったらしいが
とにかく安易に海外海外という当時の空気がよく感じられる 呉キャンプは鶴岡御大への忖度で続けてただけだから
身売りと共にもっと暖かい地域へ移転するのは当然だけどね 総監督とか助監督みたいな訳の分からない肩書を見なくなった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています