「日本代表級投手陣」

もしも現代のように五輪やWBCといったプロ選手で日本代表を結成していたら、86年の広島投手陣からは何名のメンバーが選出されていただろうか。当時の広島には先発、中継ぎ、抑えと各部門で好投手が目白押しだった。だが打撃陣の方は新旧交代の時期に差し掛かっていて、
山本浩二と衣笠祥雄の長打力に頼るわけにもいかなくなってきていた。
11年間による長期政権を指揮した前任者・古葉竹識の後を継いだのは、守備走塁コーチの阿南準郎だった。古葉と阿南の関係は現役時代
からで、二遊間もしくは三遊間を組んでいただけでなく、姓名判断に出向いて改名を共にしたほどだった。75年からみっちり古葉野球を
学んでいただけではなく、近鉄でも現役晩年では三原脩の選手掌握術、コーチ時代は岩本堯の若手登用法を身に付けていた。

4月は13勝5敗1分けで首位、達川光男が4割を越える打率で首位打者だった。平均得点5.05の打線が活発で、29日の大洋戦では
21安打18得点を挙げていた。しかし山本浩の腰痛悪化と衣笠の大不振で7月からペースダウンすると、球宴明けの8月頭での巨人3連戦に
負け越して遂に首位の座を明け渡した。衣笠の打率もとうとう2割を切っていた頃で、8月27日には巨人と最大の5.5差をつけられる
状態にまで陥った。
チームの苦境を救ったのはやはり投手陣だった。エース北別府学は9月1日から閉幕まで7連勝、18勝で最多勝を獲った。左腕川口和久は
巨人・阪神のAクラス2球団から計9勝で3年ぶり2ケタ勝利、8年目の金石昭人は前半戦だけでリーグトップタイの9勝を挙げただけでなく
一番大事な最終盤で連続完封して初の2ケタとなる12勝、新人・長冨浩志は7月まで主に中抑えを中心とした救援だったが8月12日に
先発へ回って以来8連勝して10勝に乗せて新人王、他にも白武佳久に9月に復帰した大野豊も先発で貢献、救援でも川端順や抑え転向で
26SPの津田恒実と日本代表級投手が数多くいた。

古葉野球の継承ばかり言われがちな阿南だったが、投手陣の抜擢や配置転換だけでなく、打線でも長内孝と小早川毅彦の三番起用に高橋慶彦の
一番再配置など、他球団も含めたコーチ時代での勉強で得た手腕は確かなものだった。 (了)