「テレビじゃ見れない」

川崎球場がロッテの本拠地となって14年が経った91年、球団が千葉への移転を発表したために川崎球場に別れを告げる時が来た。78年に大洋の
横浜移転に伴いロッテがやって来た頃から既に老朽化が囁かれていて、選手からも不安の声が出ていた。移転の噂が出ると、ロッテ引き留めを図り
90年のシーズン終了後に、総工費17億円をかけて全面人工芝化とスコアボードの電光掲示板改造をしたが、“年増の厚化粧”と言われますます
侘しい気持ちになった。91年シーズン前には、球団が4億5千万をかけて「テレビじゃ見れない川崎球場」のキャッチコピーでポスターとテレビCМを
制作した。もはや川崎球場は、自虐も交えないといけないほど追い込まれていた。

身を切るような宣伝活動の効果はあった。観客動員は初めて100万人を超える102万人で、前年より23万人も多かった。思えばファンも、どこかで
“テレビどころか何処でも見れなくなる川崎球場”の可能性を感じ取っていたのか。
91年はロッテにとって散々だった。出だしこそ4月5割、5月も中旬まで貯金を持ち日本ハムと2位争いをしていた。主砲マイク・ディアズにエンジンが
かかっていなかったが、西村徳文、横田真之、愛甲猛、堀幸一の上位打線4人が3割打者で平均得点4.5と投手を助けていた。しかし直後6連敗、
6月2日からは9連敗した上にディアズが骨折で離脱、6日後からまた9連敗で6月の月間成績は3勝19敗と惨めだった。これには金田正一監督が
5月に、前田幸長や園川一美といったローテーション投手を救援でも使う采配のツケもあった。
千葉移転を正式発表したのは7月31日の試合後、その頃には既に借金29で首位西武とは23.5ゲーム差、5位オリックスとだけでも11ゲーム差が
ついていた。さすがの金田からも「手品でも使わん限り勝てない」と弱音が出た。9月以降は閉幕まで15勝10敗4分け、最後は意地と惜別の5連勝で
フィニッシュした。

金田は最終戦のセレモニーで「やっと勝てるチームになった」と負け惜しみとも取れる言葉を口にしたが、2年ぶりのテールエンドとあって解任同然で
寂しく退団した。千葉移転当時はまだパ・リーグ人気は高いものではなかったが、人気の上昇と放映の多様化が年々進み、観客動員も川崎時代とは
見違える数字になった現代では“テレビでも見れるマリンスタジアム”が当たり前のようになった。 (了)