【王756号】1977年のプロ野球【阪急V3】 [転載禁止]©2ch.net
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>>606
その頃、スタジアム内で飲酒ができるかね 「崩壊」
古葉竹識体制の11年間で広島がBクラスに終わったのはたったの2回だったが、唯一の勝率5割を切ったのは77年の一度だけだった。
77年は古葉政権下で勝率もワーストなら、順位も5位で最も低かった。そしてもう一つ11年間で最も悪い数字を残した項目が防御率で、
投手陣は正に一年通して崩壊状態といえた。5度目の開幕投手となった外木場義郎が2回6失点KOするなど、6投手全員失点の計15失点で
黒星スタートした広島、外木場は前年からの右肩痛が再発してわずか6試合しか投げられず1勝しか挙げられなかった。他の投手にも計算外が
続き、前年20勝の沢村賞投手・池谷公二郎も不調でほぼ年間通して防御率5点台と調子が上がらず、5.22はリーグ22位といった低迷ぶりで
11勝16敗という数字が残った。
トレード補強も裏目に出た。先発陣の柱で2年連続二ケタ勝利を挙げていた佐伯和司と抑え役を担っていた宮本幸信との交換で日本ハムから
加入した新美敏と皆川康夫は共に力になれなかった。4年前新人王に輝いていた新美だったが、初勝利は8月下旬でチームが独走巨人から
既に15ゲーム差以上離されていた頃だった。結局3勝止まりで、皆川に至っては1勝も出来ずに終わった。金城基泰との交換で南海から
獲得した松原明夫は、救援役として金城の穴埋めが出来たとはいえず6勝5Sと健闘するも、こちらも防御率は5点台だった。
対する日本ハム・宮本が防御率2.00で13SP、南海・金城が2ケタ勝利とトレードの難しさを知った年でもあった。
引き分けを挟んだ開幕6連敗でスタートして、4月5勝13敗2分けという出足の悪さをそのまま最後まで引きずったようなシーズンだった。盗塁が
リーグトップで得点も3位ながら、低迷の原因となった投手陣が防御率5位で、被安打と被本塁打で最下位と足を引っ張った。一度も4位以上に
上がれず古葉も「開幕から一度として盛り上がる時期がなかった」と嘆いたペナントレース、ラストの5連勝で3年ぶりのテールエンドを免れるのが
やっとだった。投手難の中で20歳の北別府学が5勝7敗、19歳の小林誠二もプロ初勝利を挙げただけで後半は苦しんだ。他にも山根和夫や
大野豊などといった新人も含めた若鯉もまだ“発展途上”だった。 (了) >>379
それがきっかけとなって「国民栄誉賞」が設立され、王が第1号の受賞者になった
(この年の今日の出来事) >>610
懐かしいね。カウンタックマンとかだっけ? 国民栄誉賞?
福田赳夫内閣の支持率がイマイチだったら、王を利用して、支持率をあげようとしただけ 1977年度日本シリーズ 阪急対 巨人
王対山口高志
巨人打線対山口高志はどんなでしたか…?
山口の速球も75年程ではなくなってきてるし。 記録を調べてみたが
77年日本シリーズの山口高志は第3戦のみの登板、救援で7回1/3投げて5失点で敗戦投手だな
延長12回裏にサヨナラ3ラン打たれた なお76年は1先発4救援の5登板で1勝1敗1S、防御率4.50だな
起用法が70年代80年代の抑え投手って感じ。投げさせすぎ
10/23 1戦 救援 3.2回 自責0 勝利投手
10/25 2戦 救援 3.0回 自責1 セーブ
10/29 4戦 救援 4.1回 自責3 敗戦投手
10/30 5戦 救援 1.0回 自責0
11/1 ...6戦 先発 6.0回 自責5 当時は良い投手をいかにたくさん投げさせるかだったしな 安田猛投手逝去。哀悼!
巨人は序盤から首位だったが、5月の名古屋―北陸遠征で6連敗。最後の福井の9回裏2アウトで当時ホームランダービー上位だった高田繁が大洋小谷から逆転サヨナラ2ランでやっとこさ連敗脱出。
その後東京に帰って息を吹き返し、6連勝!阪神と共に巨人に迫ってたヤクルトを神宮で3タテしたが、3戦目だったか、ルーキー松本匡史が早稲田の先輩安田から決勝アーチを打ってた。 王さんが756号達成した翌日に757号サヨナラ3ランを打ったのが
亡くなった安田から 島谷や稲葉は、中日時代にも優勝経験はあったけど
阪急に来て選手としてのランクその物が上がった感じ 反対に中日に移った森本と戸田はあまり出番がなかったな
阪急側が得をしたトレードだった >>627
ランクどうこうじゃなくてパの水が合ってだけだろ。
島谷はセでは守備の人だったが、
直球勝負してくるパでは打てるようになった。
後で広島から来た水谷もそうだろ、
いきなりキャリアハイになったし。
稲葉も落ち目で引退寸前だったのに、
パの振り回す打者連中相手に変化球で復活できた。 >>629
>>630
わざわざID変えてまで連投かよ >>631
パの水と言うか、阪急の水が合ってたんじゃなかろうか。
阪急は高卒社会人出身の選手が多くて馴染み易かったのかも。
それと強いチームに来て意識も変わったのかもしれない。
ごくたまにしか優勝しない中日と毎年優勝を争う阪急では
周囲の環境も違うだろうし。 >>632
馬鹿か?
ID変えるのに何で同じ書き込みするんだ?
重いので2度押したらID変わってただけだ
プロバイダによっては1日に何度か勝手に変わるんだよ >>634
馬鹿は書き込み確認もせずに連投したお前だ 連投と言えば、この年はロッテの村田が先発・リリーフと連投していた
明らかに疲れ切っていて、「村田は大丈夫か?」と心配になった >>636
この年の他のチームのエースはどうなのかなと思ったら
山田や東尾はセーブを挙げてるけど、高橋直樹は全試合先発
鈴木啓示も意外だったがリリーフもしていた >>636
カネやんが馬車馬の如く投手を使い倒したんじゃないの? セ・リーグの方はどうなのかと思ったらパよりもっとこき使われていた。
堀内、平松、星野、松岡、安田、この世代の投手は掛け持ち当たり前。 鈴木孝政(中日)、安仁屋(阪神)、江夏(南海)など抑え専門の投手もいたが、当時は
先発のエースがリリーフもすることが多かったな 阪急の山口、この年は登板42試合中リリーフ29試合
その一方で先発13試合の内10試合は完投し2試合完封している
今のピッチャーがこれやったらシーズン途中でパンクだな この年、初代ミスタータイガース藤村富美男が
時代劇 新必殺仕置人に元締・虎役で出演 >>641
阪急くらい選手層が厚ければ、山口は完全に抑え専門で使えたのに
この年で完全に抑え専門だったのは南海の江夏くらいか?
中日の鈴木孝政でさえ先発完投していた試合がある >>646
米田梶本足立石井茂の四天王時代か終わった後だし、
山田以外の投手陣はそうでもない頃 抑え専門の始まりは、権藤(大洋)・宮田(巨人)・佐藤(南海)あたりかな?
杉浦(南海)も晩年は抑え専門だったらしい
昔はセーブポイントの制度がないので、誰が抑え専門だったのかわかりにくい >>649
違う。
鶴岡監督時代の南海にいた戸川一郎が先。 戸川って人を調べてみたら、昭和30年にはほぼリリーフで二けた勝利しているな
ただ、このころのリリーフ投手はどの程度「切り札」感があったのか?
終盤にマウンドに上がってきたとき観客が「待ってました!」と沸くような抑えのエース
だったのか、当時の感触を知りたい ヤクルトは巨人に大差をつけられながらも初の2位を確保
ただこれが翌年の優勝に繋がるとは当時のプロ野球関係者でも予測は難しかったのでは >>653
いわゆる「切り札」ではない
先発が早く崩れたときロングリリーフをしてそのまま勝ち投手になるパターン
終盤の肝心な場面で火消しをするタイプではない
そういうのはやっぱり宮田が出てきてからだね >>639
その頃は、エースを使い潰してナンボ
的な風潮だったんだろうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています