【王756号】1977年のプロ野球【阪急V3】 [転載禁止]©2ch.net
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もし仮にノムさんがこの年解任されていなかったとしても
>>52 の成績を見る限りさすがにもうレギュラーとしては
限界じゃないのかと言う気がする。
でも後継捕手の育成はまるで出来て無かったようだし
どうなっていただろうな なんか「約」40年ぶりの大寒波らしいけど、この年の2月は九州も寒くて、ロッテキャンプの鹿児島でも積雪があった。
3月始めのクラウン−巨人のオープン戦は初戦の熊本では雪が舞い、前年新人王を惜しくも逃した古賀投手が好投したが肘を痛めた。
翌日の小倉は雪で中止。それ以来って事かな? >>84
この年から野村監督は主に五番を打つようになった(前年までは四番)。
翌年も残留していれば、六番くらいを打って、100試合程度に出場、
残りは黒田(後に西武に移籍)が捕手として出場していただろう。
南海に残った場合、あと何年くらい現役を続けたのだろうか? 誰よりも試合に出ることにこだわってた選手に
後継者を育てろっていうのも難しい話だな
球団が「来年から専任監督で」って言ったところで
反発するのは目に見えてるし 阪急の長池も衰えが決定的になって、あまり試合にも出てこなくなった。
代わりに、長年、代打の切り札だった高井がレギュラーとして浮上した
年であった。
高井と島谷が阪急打線の主軸となった。 ノムさんが監督を続けていたら、捕手の後継者として
高校の時入団拒否された山倉(当時早大)を
この年でドラフトでまた指名したかな
もし駄目なら、袴田や達川も当時大学4年だし
こっちに行ったかも >>88
ノムさんが解任されなかったら長池獲得とか動いたかも。
長池は上田監督との関係があまり良くなかったようだし
ドラフトがなければ南海に入るはずだったし 野村が選手引退、専任監督となっていたら、本塁打打者門田は誕生してないだろう。 >>90
長池はこの年、まだ33歳。衰えるには早すぎる年齢だった。
野村監督のもとで再生すれば大きい。
柏原、門田、長池、ホプキンス、野村がそろえば、強力な打線になる。 5藤原8新井9門田D長池3ホプキンス7柏原2野村6定岡4河埜。あるいはホプキンスを切り、7メイ3柏原かな?
長池は休ませながらで、片平との併用。野村は80試合程度で、黒田との併用だろうな。 >>91
そうはいっても門田はこうと決めたら誰の言うことも聞かんからなw >>96
若い頃からの猛練習と、長打狙いのバッティングで
肉体への負荷が蓄積してたんだろうなあ
打つだけのDHには心理的に抵抗があったらしいけど
上手く馴染めればもっと長くやれたんじゃないかとも思う 野村解任が無ければ、少なくとも翌年のパのペナント争いは史実の様な
阪急と近鉄だけで野球やってるような状況にはならなっかたろう
78年は南海は阪急と近鉄相手にそれぞれ5勝しかできない
サンドバック状態になってたから 「野村は南海のすべてをぶち壊した」なんて意見もあるけど、
野村亡き後の南海の戦績や特にチーム防御率なんかを見るに
野村を追い出したことで南海は終わったようにしか見えない
確かに野村時代にお家芸だった内紛劇は収まったが、
以降は貧乏ってイメージしかないBクラス常連チームだったからな
本当に野村が全てにおいてチームのガンだったはずなら
チームが上昇気流に乗っていいはずなのに、そういった感じは全く無かった >>99
プレーオフで一回だけ阪急に一泡吹かせた事はあっても
シーズン通しての成績で野村監督時代の南海が阪急より
順位で上になったのは監督一年目の1970年だけ。
圧倒的に強い阪急に必死に手練手管を駆使して
何とか対抗し続けていたっていうのが野村監督時代だったと思う。
本当ならもうとっくにホークスの時代は終わっていたのを
流れに棹差して踏みとどまっていた。
野村監督が去った時点で南海ホークスがああなるのは
悲しいけど必然だったって事だったんだろう。 当時は阪急の全盛期だったが、それでも南海は強豪であり、「セリーグは巨人、
パリーグは南海」というブランドがまだ残っていたと思う。
昭和52年は、その「強豪の南海」の最後の年となった。 >>98
阪急の対抗馬は近鉄の他にロッテもそうだったような
南海は野村のやり方を全否定して広瀬を後釜の監督にしたのも間違いだったな。
それまで蓄積してた他球団のデータを無視、シンキング・ベースボールから鶴岡時代への
原点回帰の意味合いで泥まみれの野球を標榜もすでに時代錯誤で
藤原とかの主力も戸惑ってた。また南海は巨人同様に
球団を売却最後するまで外部から監督を招聘しないチームだったのも災いした。 >>102
広瀬監督と言う人選は、言わばセの長嶋とでも言うべき人物を
監督に据えた最悪の人選だったと思う。
せめて穴吹二軍監督とか、在野のOBなら岡本伊三美とか
まだ次善の策はあったのではないか。
極端な事を言えば、鶴岡御大本人が現場に復帰するぐらいの事でも
しなければ、もうどうしようもなかったかもしれない。
まあ、そんなことをすれば野村の鶴岡元老云々の発言を
肯定する事になりかねなかっただろうけど。 鶴岡・野村ともに選手兼任監督(鶴岡は後に監督専任)で、打撃・守備の要、
チームへの影響力が大きく、監督を家長とする家のようなチームだった。
良くも悪くも、それが南海というチームのカラーであったと思う。
野村を追放したことにより、南海のカラーがなくなり、チームも激しく弱体化
してしまった。
このころの野村は打者としては衰えていたが、それでも存在感は大きく、
試合の内容も面白く、強いチームだった。 野村と一緒にホークスを去った人達の中で、守備走塁コーチの山本忠男は
あまり語られる事が多くないけど、この人よりによって阪急に移籍してる。
阪急での立場は二軍コーチだったけど、ホークスの内部事情はこの事で
完全に阪急にばれてしまったと考えてもいいんじゃなかろうか。 山本の辞意表明は高畠よりも早く、ブレイザーと同じタイミング
なのに野村一家にカウントされてないのはなんでだろうか 山本コーチは在日二世で、阪急のコーチの後は
プロ野球草創期の韓国に渡っている。
この時点で野村人脈とは距離が出来ちゃったのかもね。 それと、山本さんは今は母校・龍谷大のコーチをしてるけど
現在の龍谷大の監督はヤクルトでプレーしてた左腕投手の山本樹
というわけで、ノムさんとの縁は微かだが繋がってると言えるかも スワローズはこの年球団史上初の2位だよね
当時は結構驚かれたのかな?
もちろん、翌年の優勝の方がもっと驚きだったろうけど >>109
巨人のライバルは阪神と広島だと思っていたので、ヤクルトの2位浮上は驚いた。
若松・マニエル・大杉の打線は強力だったが、阪神・広島の打線が弱かったとは思えない。
阪神は掛布・広島は山本が本格的に台頭してきた年だった。
「ヤクルトと大洋はBクラス」という先入観が覆されたのは確かだ。 今日の日テレG+で、王さんの755号本塁打の試合が放送されていた。大洋の福嶋捕手が、キャッチャーヘルメットを着用していた。キャッチャーヘルメット第1号は、中日の中尾だと思っていただけに驚いた。 巨人独走優勝でペナント争いに全く絡まなかったから
へー2位なの?程度 で、独走したジャイアンツが日本シリーズでは阪急に完敗してたけど
シリーズ前の下馬評はどうだったの? >>111
YouTubeでその時の動画探して思い出したけどネット裏からの中継もこの年が最後だったね。 ヤクルトは根性論の荒川クビにして合理的采配の広岡に代わったから スワローズにチーム名を戻してから
74年 13年ぶりAクラス
75年 夏場まで優勝争い
76年 Bクラス低迷ながら巨人とは互角の戦い
躍進する下地は出来てた 巨人の4勝1敗ってのが圧倒的に多かったw
日テレ解説者だった森もそう予想してた
まあV9戦士の森からしたら阪急なんかに負ける
なんて信じられんかっただろうね。G+の日シリ特集
見たら阪急凡ミスでボロボロだもん
V9時代見てるファンは改めてやっぱり長島は監督
としてダメだわって痛感したと思う >>117
実際は阪急の圧勝だったけど、ジャイアンツの選手たち自身は
どう思ってたんだろ?俺たちの方が強いって本気で思ってたのかな 前年は近年でいう08や13みたいな見ごたえあるシリーズだったんだがな この年は、セ・リーグは極度の打高投低。そのせいか、巨人が打ち勝つイメージがあったのだろう。
ただ、この頃の阪急と巨人だと、阪急の方が試合巧者で、巨人コンプレックスも消えていたように思う。 巨人はV9末期ごろに比べると、張本が加入して打線は厚みを増したように
見える。一方、阪急は主砲の長池が衰えた分、打線が一回り小さくなった
ように見える。
しかし、実戦では阪急のほうがはるかに強く見えた。
貧打の大橋にまで打たれ、解説者は「大橋に打たれているようではいけません
ねえ」と言っていた。 1977年130試合.1050本
この年のセはホームラン数多いね >>121
投手の山田にも打たれてたしジャイアンツは脇が甘くて隙だらけ。
阪急との立場はV9の頃とは完全に逆転した印象。 >>121
長池は急激に衰えたが、島谷、高井、マルカーノ、ウイリアムス、あと蓑田も使われ始めた。ホームラン王は居なくなったが好打者は増えた この年日シリ3連覇を達成した阪急ブレーブスが殆ど跡形も
無い状態になってしまうとは誰も思っていなかったでしょうな。
全ては小林(バカ)公平のせいだろう・・・・・・。 山本浩二がこの年から完全に覚醒したように見えるがボールの恩恵も大きそうだな >>126
掛布、田代、大島と言った所もそれは言えるかもしれない。
でもその後もずっと実績を残し続けたわけだから
チャンスを生かせたかどうかの差だと思う。
但し同時期のパ・リーグにいたら果たしてどうだったかな
とも確かに思ってしまうね。 そもそもセリーグでは前年も総本塁打数967でかなり多いな
王の世界記録のために飛ぶボール導入したっぽい
パリーグは79から飛ぶボールかな 日本シリーズで第4戦 確か新浦を温存させて9回浅野を投入したの
が失敗。蓑田のスライディングで追いつかれそのあとは・・。
もう張本も守備固めで引っ込めてたし。 前年の昭和51年の日本シリーズのほうが巨人は善戦した。
山田を打ち崩して、7−0から逆転勝ち。満塁の場面で高田がサヨナラ安打を
放ったときのことを鮮烈に覚えている。
だが、この昭和52年の日本シリーズは、巨人はまるでさえなかった。
阪急は一回り大きくなり、756号を放った王を巨人は小さく見えた。 >>131
田舎の子供の自分には阪急の強さは鮮烈だった
普段テレビにちっとも映らないチームの方が
毎日テレビに映ってるチームを圧倒していたので 野球が雑になった長島巨人には勝ててもV9継承した
広岡森のヤクルトに敗れたのが阪急
82年からは広岡森の西武にリーグも制圧されたし
結局のところ阪急の野球ってV9巨人には及ばなかった
んだと思うわ >>133
それでも、「巨人に勝てた」ということで
巨人に対するコンプレックスは無くなった
のかも。
巨人そのものの劣化ぶりは置いといてw 巨人を完璧に倒したこの昭和52年が、上田阪急の頂点となった。
翌年はリーグ優勝はしたものの、日本シリーズでの猛抗議が大きな問題となり、
監督を辞任して上田阪急は終わった。
巨人を倒す役割は、上田阪急を倒した広岡監督が継承していくこととなった。 >>117
フジテレビ『プロ野球ニュース』の解説陣も大半が巨人有利の予想
ただ関西テレビの岡本伊佐美さんは、きっぱりと「私は阪急だと思いますね」 >>136-137
長嶋では阪急に倒されざるを得まい岡本さんの判断が
戦後になってからは賢明だったね…
ひょっとして今のオリックスは20年前の日シリで巨人に
圧勝してしまったのが不味かったのかも?
この時も圧勝して次の日本一まで20年ぐらいかかったし… 南海は打線の方が、不調者(2割5分台かそれ以下)が多かったな。
新井、野村、柏原、桜井 のレギュラー陣。
藤原と門田以外は・・。 足立は日本シリーズでは確実に1勝、場合によっては2勝することを
評論家の予想ではなぜか無視していたね。
第二戦の足立の王対策は圧巻だった
第一打席目 足立は意表をついて横から投げて王を見逃し三振
第二打席目 同じ手は通用しないだろうと見ていたら、
今度はなんと上から投げて王を連続見逃し三振 防御率自体はそんなに良くないからなぁ
確か5点台だったような >足立 足立は、巨人が王手をかけた試合に先発米田がノックアウトした後に
出たときは別人の様で、数回滅多打ちにあっているため、通算防御率は悪い
ただし、76年から78年にかけては通産25イニング無失点 公式戦で足立が上から投げた事ありましたか?
>>141
> 足立は日本シリーズでは確実に1勝、場合によっては2勝することを
> 評論家の予想ではなぜか無視していたね。
> 第二戦の足立の王対策は圧巻だった
> 第一打席目 足立は意表をついて横から投げて王を見逃し三振
> 第二打席目 同じ手は通用しないだろうと見ていたら、
> 今度はなんと上から投げて王を連続見逃し三振 南海で野村(5番打者・正捕手・監督)と時を同じくして退団者
江夏(クローザー)
柏原(6番打者・次世代主砲候補)
ホプキンス(4番打者)
高畠(有能な打撃コーチ)
ブレイザー(ヘッドコーチ・野村の参謀)
これだけ抜けたらそりゃね・・・さらに成績が微妙だったピアースも翌春のキャンプで解雇してるし 野村がいなくなった後に成長した選手(この年不調だった)
新井、片平
2年後には2人とも3割打って主力選手になった。 この年の日本シリーズは何故かほとんど映像(動画)で見た記憶がない
1974年1975年1980年あたりもそうだな
それだけ見所がない日本シリーズだったということか? だな。
簑田の好走塁と河埜のサヨナラホームランくらいしか見た記憶がない。 亀頭監督は地味だったが、チームの育成には貢献した。亀頭監督に
育てられた選手によって、西武の黄金時代につながった。 >>150
当時の永射は先発投手だったもんな
シーズン9勝の勝ち星を挙げてオールスターゲームにも出場 >>152
おいおい、「亀頭」って”男性自身”のことじゃないかw 昨夜BS11でやってた大都会Part2で神宮(劇中では京浜球場の表記)での阪神-ヤクルト戦の様子が
ドラマ内に挿入されてた。
確認できた選手
ヤクルト・・・若松、大矢、永尾、渡辺(ラジオ中継)
阪神・・・掛布(ホームランを打った)、吉田監督、ブリーデン、川藤、遠井、加藤博一、片岡(掛布の出迎えで) この年の阪神のレギュラーシーズン成績は球団史上最低勝率だったんだって
55勝63敗12分だったそうだが、同球団にそれまで弱い時代がなかったことの証明だね
ただ翌年にその最低勝率を一気に更新することになろう
とは思いもしなかっただろうw この年のクラウンは、エースの東尾が不調だったが、山下律夫と永射保が
よく投げた。亀頭監督の投手リレーも光った 南海はノムを追い出した翌年は一気に最下位に落ち、球団身売りまでBクラスが定位置の弱小チームとなった
ノムにしてみれば「ざまあw」の心境だろうけど本人の口から南海への恨み節を聞くことは全くと言っていいほどない 南海に、じゃなくて鶴岡に、だからな
杉浦が監督就任した際に、鶴岡と杉浦に対してやっかんだコラムを載せているが
俺も記憶あるのはこれ1回だけだ
鶴岡に対する言及が増えたのは、鶴岡が亡くなってからやね 阪急に優勝を許していたものの、野村南海は安定して強かった。
いったん打線に火がつくと連打が続き、門田・ホプキンス・野村監督と
連打する激しい南海打線は健在だった。 当時の南海は今の日ハム、ロッテくらいの立ち位置かな? >>164
感覚的にはこんな感じかな?
阪急・・・ソフバン
南海・・・千葉ロッテ
ロッテ・・・北海道日ハム
近鉄・・・西武
日ハム・・・楽天
クラウンライター・・・オリックス 阪急黄金期に一度も優勝できなかったしそこまでなかったな この年のセが打高なのは、やはり王の記録と関係あるか? 王云々というよりも、どの球団も個人名に破壊力はあった
巨人 王 張本
ヤクルト 若松 大杉
阪神 掛布 田淵
広島 山本浩 ライトル
中日 谷沢 大島
大洋 松原 シピン
打撃力はほとんど互角だった
ある意味、ドラフトによる均衡化がうまくハマってた時期なんだとは思う
投手力の差で巨人が強かった
とはいえ
ヤクルト 松岡
大洋 平松
広島 池谷
阪神 江本
中日 鈴木孝
本当に今より個性派揃いですごかった なるほどね。
あと
阪神 ラインバック、ブリーデン
広島 ギャレット
ヤクルト マニエル
中日 マーチン
大洋 田代
このあたりも名前からして迫力あるな。 昭和52年のシーズンは、セリーグは打高投低、パリーグは投高打低と
言ってよいだろう。
セリーグ 首位打者 若松勉 .358
10位 マニエル .316
パリーグ 首位打者 有藤道世 .329
10位 白仁天 .281
セリーグの打撃ベストテンはすべて三割打者で、10位のマニエルでも
三割一分六厘も打っている。
三割打者は18人もいる。
パリーグは9位の石渡茂が二割八分五厘、10位の白仁天が二割八分一厘。
三割打者は8人しかいない。 >>171
セ・リーグは、76年、78年も投低だった。それに対し、パ・リーグは投高。当時、交流戦があったら、どうなっていただろうか? 2001年の近鉄みたいにパの打者がセの飛ばないボールに苦戦すると予測 756号打たれたヤクルト鈴木康次郎は 後に近鉄に移籍
近鉄鈴木啓示と鈴木姓が二人になった…
エース鈴木啓示に『あっち(のスズキ)』と呼ばれてたよ…
眼中に無い感じで、スズキが二人になって迷惑してた見たい‥‥ >>176
王が756号を打った試合で、ヤクルト相手に完投勝利をかざったのが、前の年ヤクルトから移籍してきた浅野。
打たれた鈴木康も後に近鉄井本との失敗トレードでいなくなった。
1978年にヤクルトは優勝するわけだけど、浅野と鈴木康を失わなければ、1982年以降、急激に暗黒期に突入することは無かったような気がしている。 浅野は巨人に移籍してからもしぶとく現役を続けたな
野村がコラムで巨人に触れる時、よく名前が挙がってた >>175
パ・リーグの鈴木、山田、村田、東尾。更に高橋直樹、山内新、藤田学あたりにセ・リーグ打者陣は苦戦しそう。松岡、星野仙あたりは打ち込まれそうに思う。 ボールの質もあったかもしれないが
セ・リーグは貧打という球団はなかった
打撃力は結構拮抗はしていた
やはり投手力の層の厚さかも
大洋は平松以外いなかったし 高橋直なんか盗塁フリーパスでセじゃ全く通用せんかった 当時のパリーグの投手力は高かったと言えるかも知れない。
前年の昭和51年のパリーグは、さらに投高打低だった。
首位打者 吉岡悟 .309
2位 藤原満 .302
3位 門田博光 .3004
4位 加藤秀司 .300
三割打者はこの4人だけ。
一方、防御率第一位の村田兆治は1.82で、防御率ベストテンは、
すべて、1点台と2点台。
セリーグの防御率第一位の鈴木孝政が2.98だったのと対照的だ。 同じ日本のプロ野球でこれだけ投打の質が違うというのは ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています