【王756号】1977年のプロ野球【阪急V3】 [転載禁止]©2ch.net
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やっぱり王の世界新記録が巨人がヤクルトに負ける負のオーラを吹き飛ばしたのかな?
1974年の金田節でPOで阪急に引導渡したロッテとか、
1994年の10.8に勝利し西武倒した長嶋巨人とか
ある意味オーラで勝ったようなもんだし… んな意味で阪神は巨人に競り勝てないというけど、競り合った時には常に優勝してほしくないオーラが阪神に出るよな
ただでさえ豆腐なチームなのにああでは…
92、08あたりはもう優勝どころかBまで落ちろとまでいう空気だったし >>364
92はファンのラジカセ投げ込み事件が
あったから同情する面もあるが
08は星野が五輪で他球団の戦力を借りても
惨敗した挙句責任転嫁して招集0だった
オリを除いた10球団の怒りを
買っちゃったからな… でもなんで巨人だったんだろうな
五輪から見くびるなまでは巨人絶対の昭和50年代が帰ってきたようだった >>353
いくらいい材料(選手)を揃えたところで、それを
調理する(采配を振るう)のはセゲヲだからねw 第4戦の9回2アウトからの逆転負け無ければ、まあでも負けたな。 仮に第4戦を勝ったとしても、またも足立を打てず2勝4敗ってとこ。 昭和52年の阪急は攻守走すべて充実していた
打線に外人がふたりいて、どこからでも打てる打線だった
守備は一流だが貧打の大橋まで打ったので、巨人は勝ち目はなかった 1977年の王
65試合時点 19本 最終50本
1976年
65試合時点 32本 最終49本
1978年
65試合時点 21本 最終39本 この年の王は手袋の他にセーフティバント試みて話題になった
記録途絶えた34試合時点の成績
打率・・・.313(9位)
HR・・・・9本(6位)
打点・・・29(2位)
打率と打点はまずまずだけど肝心のHRが
34HRペースとシーズン中の756号(40HR)が危ぶまれてた ナゴヤ球場の中日戦で12試合ぶりの20号から5試合連続。
以降量産ペース。 20号から24号まで5試合連続。
30号から33号まで4試合連続。
8月13本、9月10本。 米軍ファントム墜落事件
勝手にしやがれ
津軽海峡冬景色
ウォンテッド
スーパーカーブーム
F1日本GP観客死亡事故
ルパン三世パート2放映開始
劇場版宇宙戦艦ヤマト公開
八つ墓村公開 たたりじゃー
八甲田山公開 天は我々を見放した
スカイラインジャパンデビュー 王冠に付いてるスーパーカー(素敵よ!)
当たるよ当たるわ チャチャチャンスのコカ・コーラ 王の756号
それが達成されたのは、この年の今日のこと この年の阪急も強かったのは確かなんだけど、後期は落してるし
山田と足立がそれぞれ前年から10も勝ち星を減らしてるんだよね。
トレードで獲得した稲葉と島谷の大活躍がえらく効いていた。 プレーオフもロッテに先に王手かけられ危なかったもんね >>380
それでも山田は、前年の最多勝→この年は最優秀防御率ということでMVP獲得だからね この年の近鉄は5割前後をうろうろ、阪急には大きく負け越し、後期は最下位。
翌年以降の飛躍の要素はこの時点ではあまり感じられなかったな。 南海の方が強かったからね。前期惜しくも、って位置で2位、後期は出遅れがたたって3位。年間でも2位。
が、例のサッチーの件で野村解任となり翌年からダイエーにまで跨る20年連続Bクラス。
その星が近鉄に流れたか。投手で井本、柳田、野手で梨田、佐々木、栗橋、羽田、石渡、平野らが伸長して78年の飛躍に 野村南海の最後の年だったね。
野村監督のバッティングはさすがに衰えていたが、それでもクリーンナップを打っていたし、
門田、ホプキンス、野村監督と連打し始めると、南海打線は止まらない破壊力があった。
伝統ある強豪チームの面影がまだ残っていた。 >>385
ノムさん、打つ方の後継者は柏原と思ってたんだろうけど
捕手の後継者はこの時点でも全くいない。
解任が無ければ即戦力捕手をトレードかドラフト指名を見込んでたか >>386
山本雅夫に期待していたって書いてたな
ブレイザーから「YOUは本当にマサオが好きだね」と言われたそうだ
引退後に書いた本で「今考えると育て方を間違っていたと思う」とあった 野村が自分の後継者にと惚れこんでラブコール送ってたのが山倉
結局入団拒否の門前払いだったが この年のドラフトでポスト野村として中出を一位指名したけど、全く使い物にならなかった
ヤクルトの片岡スカウトが一目見て見切りをつけた
余談だが彼が中出を見に行ったときに目についたのが尾花 >>389
社会人屈指の捕手って筈だったのに、攻守とも全くいいところ無しだったしね。
ドラフト1位であれだけものにならなかった選手も珍しい >>390
>ドラフト1位であれだけものにならなかった選手も珍しい
個人的には竹田光訓が浮かぶ
大洋、巨人、中日の競合一位で通算1勝という このころの巨人もドラフト一位はふるわなかった印象がある
赤嶺、藤城は鳴り物入りで入団したが、芽が出なかった
だから、あれほど江川を欲しがったのか 藤城は歌の上手さでは日本一
後に敏いとうとハッピー&ブルーに加入した位だから >>393
敏いとう、柳田、藤城の3人編成だった時もあったな。 >>391
竹田の凄いところは今と比べてもはるかにレベル差があった当時の韓国リーグでも全く活躍出来なかったこと 広島 佐伯・宮本・久保⇔日ハム 新美・内田・皆川・鵜飼のトレード
この年だけ見てると広島の大失敗だが、内田と新美は後の広島の優勝に貢献している 佐伯なんか地元広島のヒーローだったのによく出したもんだわ 原は巨人がドラ1ならプロ、てをなければ東海大学と言っていた。なんで巨人は藤城など? >>398
原は親父の原貢共々、東海大相模から東海大へ進学するのを早々と表明してたから。
原貢の東海大への手土産な感じ(津末や村中も一緒に東海大へ進学) 津末と言えば日本ハムを自由契約になった後に原のコネで巨人に入団したね >>397
トレード通告受けた佐伯が記者会見で広島に対してキレてたのは覚えてる
ちなみに佐伯は移籍初年で開幕投手だった 結局は4年後に広島へ復帰し、引退後は打撃投手→スコアラーとして従事することになる。 前年度のパの首位打者・吉岡(クラウン)
この年も規定打席に達したが打率が8分も下がってしまった。
連年で規定打席に達してこれだけ下がった例ってあるのかな。 >>405
加藤英司 81年.314→82年.235 0.079低下
新井宏昌 87年.366→88年.286 0.080低下
2010年→2011年の違反球導入時だと
和田一浩 10年.339→11年.232で1割以上下がってるケースがあるが
ここまでボールの反発係数が変化した年もないだろうから例外中の例外かな
パの首位打者経験者だけ調べた結果だからまだまだいると思うよ >>406
加藤英のは気付いたけど、新井の方は今の今まで気づかなかった。
2割8分打って前年より8分も下がったなんて普通思わない。 この年やって来た広島の両外人、ギャレットとライトル。
ギャレットが捕手もやっていたのは記憶にあったけど
ライトルが二塁を守っていた時もあったというのは知らなかった。
記録サイトの充実はありがたいね。 ヤンマーファミリーアワー とべ孫悟空
♪スーパーモンキー スーパーモンキーそんごくう >>380
山田は前年よりも勝ち星が減ったとはいえセーブが7あるのが何気に凄い。
現在のの先発投手陣とは違い先発ローテの合間にリリーフ登板もして大車輪だった。 阪急が3年連続日本一になったわけだけど、阪急は決してラクな優勝だったわけではない。
プレーオフでは途中1勝2敗になってロッテに王手を掛けれてしまった。
後がない第4戦は山田が1回裏にリーに先制ツーランを浴びてしまう。 山本浩二が確変したシーズンだね。
前年ホームラン23本、で2年前の30本が最多だった大卒9年目の打者が急に44本打った。 その後も40本台をキープし続けたんだから
確変ではなく成長というべきでは 長池は30代前半で衰えたから本当に人それぞれだね
落合も40過ぎまで働けたし 長池は無理に長距離ヒッターになるようにフォームを改造したから、体に早く限界が
来てしまった。
山本浩二は最初のころは中距離ヒッターだったが、次第に長打を打てるようになってきた >>412
44本で盗塁22、盗塁死4というのが誠に素晴らしい。
日本で40本20盗塁記録者は秋山と山本の2人だけかな? >>417
1950年の別当薫は43本34盗塁
同年の小鶴誠は51本28盗塁。NPBでシーズンHR50本以上で二桁盗塁してるのはこの人だけ
同年の藤村富美男は惜しくも39本21盗塁
他に69年の長池が41本21盗塁
デストラーデは二度40本以上記録して両方二桁盗塁してるけど、20盗塁には達してなかった 日ハムのこの年の開幕投手は広島から移籍1年目の佐伯だった
なぜ広島が地元出身でドラ1の佐伯を放出したのだろうか 佐伯は後に広島に復帰して引退後も広島関連の仕事についてるから
トレードの時点でそういう約束だったのかなと思う それでもトレードに出された時ブチギレてた記憶があるが
記憶違いかな >佐伯 >>421
佐伯はトレード通告受けた後の記者会見で思い切りぶちギレてたぞ
しかし佐伯はついてないよな
79年80年の連続日本一の時はハム在籍で
ハム優勝の81年は広島に出戻り… 田淵は西武へのトレードを通告されて悲壮感溢れる顔をしていた
それに比べて真弓、若菜他の嬉しそうな顔
藤波行雄はクラウンへのトレードを拒否したし
70年代のセとパの人気差は天地の差だった でも、田淵は引退後は、「阪神OB」ではなく、「西武OB」として振舞っているように見えるね。
東尾と対談して、西武時代をなつかしそうに語っている。
西武では高年俸をもらっていたし、明るい性格なので、チームの後輩からも好かれていた。
広岡監督から嫌味を言われながらも、四番を任されて、チームの顔だった。 東尾は今でも廣岡に対して複雑な思いを抱いているようだが
田淵は廣岡流の栄養管理やトレーニングを実践した結果
劇的に体質が改善したことを感謝しているね ノムさん解任って当時まったく前兆みたいなのは無かったんだろうか。
パ・リーグの報道自体が少ない時代だから、田舎の子供だった自分は
突然の報道に驚いたが、たとえば地元の関西では既にそういう噂があったとか。 >>427
75年のオフあたりに主にサッチーの口出しが原因による内紛が起こりかけたことがある。
この時はボヤで済んだものの、これの残り火が燻って77年オフの追放騒動に >>428
なるほど、だとするとその当時ノムさんの巨人移籍の話があったっていうのも
フカシではないわけだ。そうなっていたら野球の歴史がかなり変わっていたかもねえ。 野村、ジャイアント馬場、ジョン・レノン
なんで無駄に気が強い女房が現場に口出しするのを止められないのか >>431
太田の場合は、奥さんが所属事務所の社長だから仕方がないだろ
ダンナの生殺与奪は奥さんが握っているようなもんだし >>428
野村解任で野村の信奉者の江夏と柏原が南海を出て行って南海は暗黒時代に突入… 三大サゲマンとばかにされる野球源田、水泳萩野、相撲高安の嫁は介入してこないだけまだましか >>430
オノ・ヨーコとサッチー一緒にしたら失礼 75年オフの時に野村に対して意見したのが江本だった。これが江夏との交換トレード要員にされたのかも
最も、江夏を売り込んできたのは当時の阪神監督だった吉田からだったが ただ、自分のエピソードをことごとく本に残してる上に巨人に屈折した憧れを抱いてる野村が、
このエピソードを書かなかったのがどうにも解せないんだよなぁ
「私にも実は巨人から声がかかったことがある」って嬉々として書きそうなもんなんだが >>437
ひょっとしたら、そこに至る発端がチームの内紛=自分のマネジメント力の不足
ってことになるからあまり触れたがらないのかもしれない。
巨人からすれば戦力的にはハリーよりノムさんの方がもっと欲しかったかのかもしれないけど
現場にもう一人の監督が出現しかねない状況を長嶋が嫌ったのは無理もない。 阪急は中日とのトレードで島谷と稲葉を獲得できたのがV3の大きな要因
中日はこのトレードの失敗のせいで当時の監督の与那嶺が解任されたと言われてる >>440
大物選手を追い出すのが目的の様な交換相手のバランスが取れないトレードではなく
お互いが強化目的で交換相手の釣り合いが取れてると思えるトレードなのに
ここまで明暗の分かれるケースは珍しかったね。稲葉や島谷はこの移籍のおかげで
選手としてのランクそのものがワンランク上がった感じ。 >>440-441
藤波のトレード拒否でファンが拒否した藤波側についたのは
中日のトレードは中日側が損する素っ頓狂なものが多かった事も理由だったみたいね
(藤波のトレードはもし成立したら基をとった中日側が得したと思うけど) 当時の藤波の長所って何だったんだろ?
長打力・・・×
巧打力・・・△(打率は.260くらい)
守備力・・・△(可もなく不可もなく)
走力・・・△(盗塁も少ない)
しいて挙げれば左打ちくらいか? >>443
谷沢、田尾、谷木とか左打者もいたしねえ。
成立してれば絶対戦力アップだったのになあ。 王さんの目黒区にあった自宅が取り壊されて更地になっていた 10年間やったパ・リーグ2期制で前後期制覇はこの年の阪急と2年後の阪急の2年だけだった。 70年代はセとパの人気差が最も大きかった時代だった
広岡ヤクルトが山崎裕之を獲得しようとしてて
ロッテもトレードに乗り気だったけれど
交換対象になったヤクルトの選手がトレードを拒否した
ヤクルトは甘い体質でそういうワガママも許してしまう
それでロッテで山崎が浮いたところに西武がトレードのオファーを出して成立した >>446
話が1年ずれとる
ここは77年スレ
前後期制覇は76年と78年だよ >>440
このトレードで阪急から中日に来た戸田は太りやすい体質の三沢に煙草を勧めた あのトレードのメインはまず島谷と戸田
結局中日のサードが大島が成長してポジションを獲ったので
戸田が活躍してくれればここまで中日の大損感はなかったのだが 島谷は1981年に23本HRを売ってるのに1982年オフに引退
1983年にキャリアハイの82打点で1984年オフに引退した山崎裕之
代打中心とは言え2年連続で3割超えてるのに引退した基満男
この時代の選手はダラダラ引き延ばさずにあっさり引退してたね 阪急側の事情としてはまず、衰えが顕著になりだした長池の後釜としてクリーンナップを任せられる
右の主砲候補として島谷が欲しかった。中日があっさりOKだしたのはなぜなんだろ? 島谷は阪急に来て成績がアップしたわけだが、仮に阪急に来ても中日時代の打率2割8分前後20本前後
だったとしても阪急にとっては森本よりも大きく戦力アップでトレード大成功と言えるよな。 当時は、「神経質な稲葉より、図太い戸田のほうがよい」「森本も勝負強い」と、
中日が戦力上昇になったトレードだと言われていたのを覚えている。
完全に外れた分析だった。 神経質とか図太いとか以前に投手の比較では誰が見ても中日お得でしょ。
トレード前の2シーズン
戸田11勝5敗0S 稲葉7勝5敗0S
12勝5敗1S 3勝7敗0S それがトレード後の2年間は
戸田6勝7敗0S 稲葉17勝6敗1S
5勝6敗0S 10勝5敗0S
こんな事になると想像した人はいなかっただろう。 稲葉のトレード成績変化は後年オリックスになってトレードで来た野田が似てる。
トレード前後4年間の野田。
阪神8勝14敗1S
阪神8勝9敗1S
オリ17勝5敗0S
12勝11敗0S 恐らく基がトレードで加入するのを前提で動いて島谷放出になったのでは
結局基は藤波がごねてトレードが没になり、戸田と共に来た森本を使わざるを得なくなった。
森本は打率もやや低く(.280が精一杯)、長打力も島谷より下(だいたい15本塁打くらい)、
何よりも力が落ちる一方で当時の年齢が77年で35歳になるベテランだった。
基が加入してたら三塁で併用(基は高木守とも併用)という計画だったが 森本は日本シリーズ決戦第7戦で決勝逆転ツーランを打ったから与那嶺監督が目を付けたなどと言うのを何回か
聞いたことがあるけど、後年監督業も引退した上田氏があのトレードは日本シリーズ前にはほとんど決まっていたと言っていた。
だからまだトレードを知らない森本があのホームランを打ってダイヤモンドを一周している姿を見て涙を堪えいていた(上田自身が)とも言っていた。 中日が田尾を電撃トレードした時
坂東が「中日はトレードで失敗してばかりだがこれも失敗するでしょうね」と書いていたが
このトレードはむしろ中日が得したと思う 阪急は社会人野球出身、特に高卒社会人の選手が多くて
稲葉や島谷も馴染みやすかったのかもとか想像してみる このトレードでは大隅も忘れてはいけない存在。
阪急にとっては一塁の守備固めとして貴重な戦力になった。
日本シリーズでも公式戦同様に第1戦と2戦の勝ち試合では試合の最後に一塁の守備固めに入った。 >>462
79年だったか、加藤が腰痛で春先出遅れ、大隅がオープン戦で打撃好調で
遂に日の目を見るかって報じられた事があったが、結局加藤は開幕に間に合って
大隅もシーズンが始まれば元の守備の人に戻っていた。
まあ阪急の場合は加藤が休んでも一塁に高井が入ってDHは河村なんて布陣に
なってたろうから、結局大隅のレギュラーへの壁はものすごく高かったわけだけど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています