【王756号】1977年のプロ野球【阪急V3】 [転載禁止]©2ch.net
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>>284
またお前か。
長文は自分のブログで書いてろライター気取りの勘違い馬鹿がw
ここは不特定多数が会話する掲示板だ。
「そういやこの年、佐野のフェンス激突があったよね」の1行でいいんだよボケ
そこから会話が始まって思い出や情報交換の場になるの自然な流れ。
ここはお前の独り善がりな作文発表の場じゃねえんだよカス >>288
嫌なら見るなフジテレビ
わざわざ書き込むなよ 1977年かぁ
まだ普通にチンポが起ってたなぁ
いまは・・・トホホ・・・ その頃に普通にチン○が立っていたなんて、あなたは何歳なんだw 89年にもジャイアンツVSブレーブスの日本シリーズの組み合わせが実現していたかもしれない 巨人はジョンソンの代わりに獲得したリンドが期待はずれだった。
ジョンソンが残留するか、マニエルとかマーチンくらいの外人を獲得できていれば
打線は強力になっていた。 もう山口高志も1975頃のスピードはなかった
それでも他の本格派に比べれば圧倒的に速かった >>295
ジョンソンは2年契約だったし、76年に成績向上したため待遇を王並みにしろと要求
(つまり現役選手として特別待遇)したために
フロント陣の心情を悪くして契約交渉が物別れになって退団した ジョンソンによると長島に謝罪を要求した結果クビになったそうだ
で、日本の他球団でプレーする積もりだったが巨人が圧力かけて
それも叶わずMLB復帰 王の年俸が5500万円くらいだったころ、ジョンソンは6000万円の年俸を
要求したらしい。ジョンソンは打力だけでなく、セカンドの守備もうまく、できれば
欲しい選手だったが、さすがにこの要求は飲めなかった、と昭和52年に出版された
巨人の本に書いてあったのを覚えている。 昔は、王の年棒を越えてはならないタブーだあった。鈴木啓、山田久が勝ちまくっても絶対に王を越えてはならなかった。 >>299
今年、定年を迎えたよ
当時はセ・リーグに背を向けて、後楽園の日ハム戦をばかり観に行ってた >>299 → >>293
もう目もダメになってる・・・ ジョンソンの代わりに入団したリンドは守備はよかったが、打撃は今ひとつだった。
当時の巨人は外人を取り慣れてなかったためか、外人の取り方がよくないと思う。 >>284
阪神の池辺が急造捕手やったのは佐野の大怪我の次の日。
捕手が誰もいなくなってしまい「センターだからいつも投手の球筋jを見ている」
と言ういい加減な理由で池辺が選ばれ、なんとかリードを守りきって勝利に導いた。
巨人のキムタクと似たようなケースだが、元捕手のキムタクと違って池辺は全くの初体験だった >>304
当時はフォークボールとか縦の変化球が今ほど多くなかったからどうにかなったのかね。 >>305
ピッチャーの古沢とはストレートとスライダーのサインだけ決めて臨んだらしいね。
捕球を焦って前に出過ぎるので打撃妨害になるんじゃないかとベンチのエモやんはハラハラしながら見てたそうだ 9月4日日曜日、756号の翌日王さんはサヨナラホームラン 池辺が緊急捕手を務めたことは、当時もかなり話題になった。
朝、学校に行くとき友達が興奮気味に「池辺がキャッチャーやったらしいぞ」と
話していた。
阪神は田淵、片岡、大島の3人の捕手がいるのに、すべて使い果たしてしまった。 池辺といえばロッテ時代に監督就任したカネやんを恨みケンカして阪神にトレードされたのが最大の記憶。 77年か
淡口が満塁ホームラン打ったシリーズかな? >>312
それは前年かと。
この年の巨人はまったくいいことなく(河埜の紗世なら弾くらいか)シリーズ敗退。 淡口は日本シリーズでは満塁ホームラン打ってないぞ。
満塁ホームランは76年10月の阪神との後楽園決戦第三戦で打ったのと混同してないか?
その直後の日本シリーズで阪急の山口から打ったのはスリーランだった。例の0-7から大逆転した試合の6回裏。 淡口はレギュラーになれる打力があったのに、巨人ではずっと控えだった。
この昭和52年は末次が負傷して出場機会が得られそうだったが、柳田が
高打率で活躍して、淡口は控えのままだった。 柳田が「史上最強の5番打者」。ただしこの年限りの革変。
日本シリーズ第4戦の9回2死からの逆転負けはトラウマ、40年以上経った今でも。 >>316
左投手を打てないというレッテルを張られていたからな。
実際、巨人時代に左投手から打ったホームランは大洋の間柴からの一本だけ。
藤田監督時代の83年に規定打席到達して三割打ったんじゃなかったか? >>308
9月4日は第一回の『アメリカ横断ウルトラクイズ』の後楽園第一次予選日だった。
もし、王の世界新記録達成がもう少し遅れていたら、一次予選なんざやってるどころじゃなかったかも知れない。 淡口と柳田は早い時期に太平洋とか近鉄のようなパリーグの弱小球団に移籍して
いればレギュラーになることができた。
ふつうにクリーンナップを打って、2割8分、15本くらいは打つと思う。 巨人のチーム事情としては末次が3月のオープン戦前の練習中に打球が左目を直撃して長期離脱し
結果シーズン終了と共に引退に追い込まれる事態になったため、2人とも欠かせなかった。
もっとも、その打球を打ったのは柳田だが >>285
しかし佐野は、その大事故のわずか2月後、7月3日の対ヤクルトダブルヘッダーで復帰してるのよね。
意外と早い復帰だった。 あれだけのケガがあって、わずか2ヵ月後に復帰だなんて凄すぎる… たしか復帰戦でホームラン打っているよな。
この日は肋膜炎で療養していた巨人の加藤初もこのとし初登板しているはず。 佐野はファイトがあるし、チャンスに強いし、いい選手だった。
六番打者としては最適だと思う。 >>307
東尾はシーズン25敗のパリーグ記録を持ってるんだよね 東尾は23勝して最多勝を取った年に18敗している
典型的な弱小チームのエースだった ☆★☆【神よこの者たちはもはや人間ではない悪魔であるこのような悪魔どもを一匹残らず殺してくださいお願いします】★☆★
《超悪質!盗聴盗撮・つきまとい嫌がらせ犯罪首謀者の実名と住所/死ねっ!! 悪魔井口・千明っ!!》
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◎井口・千明(東京都葛飾区青戸6−23−16)
※盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者のリーダー的存在/犯罪組織の一員で様々な犯罪行為に手を染めている
低学歴で醜いほどの学歴コンプレックスの塊/超変態で食糞愛好家である/醜悪で不気味な顔つきが特徴的である
【超悪質!盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者の実名と住所/井口・千明の子分たち】
@宇野壽倫(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸202)
※宇野壽倫は過去に生活保護を不正に受給していた犯罪者です/どんどん警察や役所に通報・密告してやってください
A色川高志(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103)
※色川高志は現在まさに、生活保護を不正に受給している犯罪者です/どんどん警察や役所に通報・密告してやってください
【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111
B清水(東京都葛飾区青戸6−23−19)
※低学歴脱糞老女:清水婆婆 ☆☆低学歴脱糞老女・清水婆婆は高学歴家系を一方的に憎悪している☆☆
清水婆婆はコンプレックスの塊でとにかく底意地が悪い/醜悪な形相で嫌がらせを楽しんでいるまさに悪魔のような老婆である
C高添・沼田(東京都葛飾区青戸6−26−6)
※犯罪首謀者井口・千明の子分/いつも逆らえずに言いなりになっている金魚のフン/親子孫一族そろって低能
D高橋(東京都葛飾区青戸6−23−23)
E長木義明(東京都葛飾区青戸6−23−20)
F若林豆腐店店主(東京都葛飾区青戸2−9−14)
G肉の津南青戸店店主(東京都葛飾区青戸6−35ー2 ヤクルトが急に強くなって、2位に浮上した
巨人のライバルは阪神だと思っていたので、意外だった >>310
大島はこのシーズンから野手登録に変わっていた。後の狩野と同じようなもの。
しかもその川崎でのホエールズ戦前に大島は二軍に降格していたため、この時のタイガースベンチに捕手経験者は田淵と片岡だけだった。 大洋ホエールズのオーナーだった大洋漁業の社長が1月に死亡。
シピンを中心とした外人選手が活躍するも最下位に終わり観客動員数がパリーグ並に低迷する危機状態に突入。
翌年から横浜大洋ホエールズとなる。ハマスタに移転し観客動員は一気に倍増する。 >>300
それは都市伝説。
当時のパリーグにそんな金は無い。 山田は王はおろか巨人でちょっと活躍した選手に年俸並ばれることをぼやいてたぞ 阪急なんて巨人と比べたら観客動員数が1/6で放送権料は、ほぼゼロ。
こんなに収益力に差があるのに同じレベルの年俸を払ったら経営が傾くどころの問題ではない。 当時は親会社が球団経営にそれほどお金を出さなかった。
球場や設備の整備に資金を投入し、高額の契約金や年俸を払うようになったのは、
昭和54年に参入した西武からだった。
西武のお金の使い方は、当時のパリーグはもちろん、巨人をも超えていた。 >>81
あの年によくこんな事やって中日3位になれたな…
広島の不振と阪神の虎戦病院化のおかげ? 超ワガママのデービス
与那嶺監督辞めろとファンが暴れる
ホントよく三位になったわ >>339
途中で問題児のデービスがいなくなって団結力が上がったんだろ。
特にマーチンが輝いていたw デービスの穴を埋めたのがシーズン開幕前にクラウンライターへのトレードを拒否して
開幕からしばらく出場停止処分を受けてた藤波だった。
(背番号もそれまで付けてた3をデービスに譲る名目で剥奪されて40に変更されてた) どこでどういった形でチャンスが巡ってくるか分からんよね デービスはわがまま放題だったが、野球の実力は確かだった。
ナゴヤの巨人戦での満塁ランニングホームランはテレビで見たが、ものすごい足の速さだった。
ホームインした直後に巨人ベンチに向かって「アッカンベー」をしたのがデービスらしかったが。 デービスは煙草を吸いながら練習をしたり、態度が悪かった。
実力を考慮したとしても、「デービスなんかいないほうがいい」という評価になり
中日を追われてしまった。
クラウンに移籍してからも態度は悪く、亀頭さんの後任の根本監督を悩ませた。 デービスがスタメンだった7月まで中日は5位、離脱後の8月以降は調子を上げて
3位とAクラスまで浮上できた。この事からいない方がいいと判断されてクラウンライターへのトレードに。
なぜ移籍先がクラウンライターなのかは前年末に基と藤波のトレードが藤波の拒否で
成立しなかったお詫びという形に。(クラウンの監督に就任した根本がそこを突いて金銭トレード成立という説も) デービスは晩年、親に日本刀ぶりまわして金取ろうとしたクズだし。 >>345
亀頭でなくて鬼頭だぞ。
アソコじゃないから(笑) 巨人は強打のジョンソンの代わりに取った外人が貧打のリンドだったのがいけなかった
「打てるセカンド」を取っていれば、打線は完璧だった。
日本シリーズで阪急に勝つためには、万全の補強をしてほしかった。 南海時代の江夏の映像って、どこを探しても無いのかな?(写真はあるけど)
当時の放送局のビデオテープ上書きという悪しき風習のせいで >>354
当時はフィルムでの取材もまだまだあったから探せばあるはずだが 確かに、江夏の映像と言えば、全盛期の阪神時代、「江夏の21球」の広島時代、
西武とのプレーオフの日本ハム時代しか見たことがない
野村監督とバッテリーを組んだ南海時代のはないのかな? 南海の江夏がテレビ中継された日(放送枠内に登板したと推測される試合)
1976年
0417(KTV)、0429(TX)、0505(MBS)、0516(TX)、0720(AS3:YTV発NTV系・ABC発NET系)、0911(KTV)、0925(ABC)
1977年
0429(MBS)、0515(MBS)、0702(KTV)、0827(NHK)、0910(KTV)、0911(MBS)、
映像残ってそうなのは76年のオールスター第3戦くらいか >>286
平成最後にモモクロの替え歌CMが半端なくうざかった
令和に入り流れなくなったが 巨人はヤクルトと終盤の優勝争いに競ると負けるジンクスがあるがこの年は例外 この年は巨人独走だから終盤の優勝争いなんてなかったよ 坂本が王の開幕33試合連続出塁の記録を更新したが、この年の34試合目は5月18日金沢でのデーゲーム大洋戦。
巨人は首位ながら6連敗で阪神に2ゲーム差まで詰め寄られてた。この日巨人はライトが2回表メッタ打ち9失点で
大洋田村に完投を許し4-13の大敗。王はこの頃23打席くらいノーヒットでこの日5−0、ついに連続出塁も途絶えた。
翌5月19日の福井でも小林が中盤に逆転を許し、4−5と1点差まで追い上げるも、9回裏代走松本が盗塁失敗2死。
が、ここで柴田が歩き、打者はこの時点で王の9本を凌ぐ11本の高田。次が張本では無く代走でレフトに入っていた
二宮だったので開き直ったか一発狙いの大振り。小谷の2球目を捕えた打球はレフトスタンドへ逆転サヨナラ2ラン!
北陸3連戦の最後の最後、これで7連敗を免れた巨人は東京に帰って息を吹き返し独走へ。
この時スタンドにグラブを差し入れるも及ばずうなだれていたレフトが若林、今息子が巨人の選手。 覚えてる。この時点ではこの年は王さん756号打てないんじゃないかと心配してた。
あの絶不調だった序盤の王さんが開幕33試合連続出塁とは意外だ。
王さんプロ入りして初めて手袋して打席に立ったんだよね、この頃。 やっぱり王の世界新記録が巨人がヤクルトに負ける負のオーラを吹き飛ばしたのかな?
1974年の金田節でPOで阪急に引導渡したロッテとか、
1994年の10.8に勝利し西武倒した長嶋巨人とか
ある意味オーラで勝ったようなもんだし… んな意味で阪神は巨人に競り勝てないというけど、競り合った時には常に優勝してほしくないオーラが阪神に出るよな
ただでさえ豆腐なチームなのにああでは…
92、08あたりはもう優勝どころかBまで落ちろとまでいう空気だったし >>364
92はファンのラジカセ投げ込み事件が
あったから同情する面もあるが
08は星野が五輪で他球団の戦力を借りても
惨敗した挙句責任転嫁して招集0だった
オリを除いた10球団の怒りを
買っちゃったからな… でもなんで巨人だったんだろうな
五輪から見くびるなまでは巨人絶対の昭和50年代が帰ってきたようだった >>353
いくらいい材料(選手)を揃えたところで、それを
調理する(采配を振るう)のはセゲヲだからねw 第4戦の9回2アウトからの逆転負け無ければ、まあでも負けたな。 仮に第4戦を勝ったとしても、またも足立を打てず2勝4敗ってとこ。 昭和52年の阪急は攻守走すべて充実していた
打線に外人がふたりいて、どこからでも打てる打線だった
守備は一流だが貧打の大橋まで打ったので、巨人は勝ち目はなかった 1977年の王
65試合時点 19本 最終50本
1976年
65試合時点 32本 最終49本
1978年
65試合時点 21本 最終39本 この年の王は手袋の他にセーフティバント試みて話題になった
記録途絶えた34試合時点の成績
打率・・・.313(9位)
HR・・・・9本(6位)
打点・・・29(2位)
打率と打点はまずまずだけど肝心のHRが
34HRペースとシーズン中の756号(40HR)が危ぶまれてた ナゴヤ球場の中日戦で12試合ぶりの20号から5試合連続。
以降量産ペース。 20号から24号まで5試合連続。
30号から33号まで4試合連続。
8月13本、9月10本。 米軍ファントム墜落事件
勝手にしやがれ
津軽海峡冬景色
ウォンテッド
スーパーカーブーム
F1日本GP観客死亡事故
ルパン三世パート2放映開始
劇場版宇宙戦艦ヤマト公開
八つ墓村公開 たたりじゃー
八甲田山公開 天は我々を見放した
スカイラインジャパンデビュー 王冠に付いてるスーパーカー(素敵よ!)
当たるよ当たるわ チャチャチャンスのコカ・コーラ 王の756号
それが達成されたのは、この年の今日のこと この年の阪急も強かったのは確かなんだけど、後期は落してるし
山田と足立がそれぞれ前年から10も勝ち星を減らしてるんだよね。
トレードで獲得した稲葉と島谷の大活躍がえらく効いていた。 プレーオフもロッテに先に王手かけられ危なかったもんね >>380
それでも山田は、前年の最多勝→この年は最優秀防御率ということでMVP獲得だからね この年の近鉄は5割前後をうろうろ、阪急には大きく負け越し、後期は最下位。
翌年以降の飛躍の要素はこの時点ではあまり感じられなかったな。 南海の方が強かったからね。前期惜しくも、って位置で2位、後期は出遅れがたたって3位。年間でも2位。
が、例のサッチーの件で野村解任となり翌年からダイエーにまで跨る20年連続Bクラス。
その星が近鉄に流れたか。投手で井本、柳田、野手で梨田、佐々木、栗橋、羽田、石渡、平野らが伸長して78年の飛躍に 野村南海の最後の年だったね。
野村監督のバッティングはさすがに衰えていたが、それでもクリーンナップを打っていたし、
門田、ホプキンス、野村監督と連打し始めると、南海打線は止まらない破壊力があった。
伝統ある強豪チームの面影がまだ残っていた。 >>385
ノムさん、打つ方の後継者は柏原と思ってたんだろうけど
捕手の後継者はこの時点でも全くいない。
解任が無ければ即戦力捕手をトレードかドラフト指名を見込んでたか >>386
山本雅夫に期待していたって書いてたな
ブレイザーから「YOUは本当にマサオが好きだね」と言われたそうだ
引退後に書いた本で「今考えると育て方を間違っていたと思う」とあった 野村が自分の後継者にと惚れこんでラブコール送ってたのが山倉
結局入団拒否の門前払いだったが この年のドラフトでポスト野村として中出を一位指名したけど、全く使い物にならなかった
ヤクルトの片岡スカウトが一目見て見切りをつけた
余談だが彼が中出を見に行ったときに目についたのが尾花 >>389
社会人屈指の捕手って筈だったのに、攻守とも全くいいところ無しだったしね。
ドラフト1位であれだけものにならなかった選手も珍しい >>390
>ドラフト1位であれだけものにならなかった選手も珍しい
個人的には竹田光訓が浮かぶ
大洋、巨人、中日の競合一位で通算1勝という このころの巨人もドラフト一位はふるわなかった印象がある
赤嶺、藤城は鳴り物入りで入団したが、芽が出なかった
だから、あれほど江川を欲しがったのか 藤城は歌の上手さでは日本一
後に敏いとうとハッピー&ブルーに加入した位だから >>393
敏いとう、柳田、藤城の3人編成だった時もあったな。 >>391
竹田の凄いところは今と比べてもはるかにレベル差があった当時の韓国リーグでも全く活躍出来なかったこと 広島 佐伯・宮本・久保⇔日ハム 新美・内田・皆川・鵜飼のトレード
この年だけ見てると広島の大失敗だが、内田と新美は後の広島の優勝に貢献している 佐伯なんか地元広島のヒーローだったのによく出したもんだわ 原は巨人がドラ1ならプロ、てをなければ東海大学と言っていた。なんで巨人は藤城など? >>398
原は親父の原貢共々、東海大相模から東海大へ進学するのを早々と表明してたから。
原貢の東海大への手土産な感じ(津末や村中も一緒に東海大へ進学) 津末と言えば日本ハムを自由契約になった後に原のコネで巨人に入団したね >>397
トレード通告受けた佐伯が記者会見で広島に対してキレてたのは覚えてる
ちなみに佐伯は移籍初年で開幕投手だった 結局は4年後に広島へ復帰し、引退後は打撃投手→スコアラーとして従事することになる。 前年度のパの首位打者・吉岡(クラウン)
この年も規定打席に達したが打率が8分も下がってしまった。
連年で規定打席に達してこれだけ下がった例ってあるのかな。 >>405
加藤英司 81年.314→82年.235 0.079低下
新井宏昌 87年.366→88年.286 0.080低下
2010年→2011年の違反球導入時だと
和田一浩 10年.339→11年.232で1割以上下がってるケースがあるが
ここまでボールの反発係数が変化した年もないだろうから例外中の例外かな
パの首位打者経験者だけ調べた結果だからまだまだいると思うよ >>406
加藤英のは気付いたけど、新井の方は今の今まで気づかなかった。
2割8分打って前年より8分も下がったなんて普通思わない。 この年やって来た広島の両外人、ギャレットとライトル。
ギャレットが捕手もやっていたのは記憶にあったけど
ライトルが二塁を守っていた時もあったというのは知らなかった。
記録サイトの充実はありがたいね。 ヤンマーファミリーアワー とべ孫悟空
♪スーパーモンキー スーパーモンキーそんごくう >>380
山田は前年よりも勝ち星が減ったとはいえセーブが7あるのが何気に凄い。
現在のの先発投手陣とは違い先発ローテの合間にリリーフ登板もして大車輪だった。 阪急が3年連続日本一になったわけだけど、阪急は決してラクな優勝だったわけではない。
プレーオフでは途中1勝2敗になってロッテに王手を掛けれてしまった。
後がない第4戦は山田が1回裏にリーに先制ツーランを浴びてしまう。 山本浩二が確変したシーズンだね。
前年ホームラン23本、で2年前の30本が最多だった大卒9年目の打者が急に44本打った。 その後も40本台をキープし続けたんだから
確変ではなく成長というべきでは 長池は30代前半で衰えたから本当に人それぞれだね
落合も40過ぎまで働けたし 長池は無理に長距離ヒッターになるようにフォームを改造したから、体に早く限界が
来てしまった。
山本浩二は最初のころは中距離ヒッターだったが、次第に長打を打てるようになってきた >>412
44本で盗塁22、盗塁死4というのが誠に素晴らしい。
日本で40本20盗塁記録者は秋山と山本の2人だけかな? >>417
1950年の別当薫は43本34盗塁
同年の小鶴誠は51本28盗塁。NPBでシーズンHR50本以上で二桁盗塁してるのはこの人だけ
同年の藤村富美男は惜しくも39本21盗塁
他に69年の長池が41本21盗塁
デストラーデは二度40本以上記録して両方二桁盗塁してるけど、20盗塁には達してなかった 日ハムのこの年の開幕投手は広島から移籍1年目の佐伯だった
なぜ広島が地元出身でドラ1の佐伯を放出したのだろうか 佐伯は後に広島に復帰して引退後も広島関連の仕事についてるから
トレードの時点でそういう約束だったのかなと思う それでもトレードに出された時ブチギレてた記憶があるが
記憶違いかな >佐伯 >>421
佐伯はトレード通告受けた後の記者会見で思い切りぶちギレてたぞ
しかし佐伯はついてないよな
79年80年の連続日本一の時はハム在籍で
ハム優勝の81年は広島に出戻り… 田淵は西武へのトレードを通告されて悲壮感溢れる顔をしていた
それに比べて真弓、若菜他の嬉しそうな顔
藤波行雄はクラウンへのトレードを拒否したし
70年代のセとパの人気差は天地の差だった でも、田淵は引退後は、「阪神OB」ではなく、「西武OB」として振舞っているように見えるね。
東尾と対談して、西武時代をなつかしそうに語っている。
西武では高年俸をもらっていたし、明るい性格なので、チームの後輩からも好かれていた。
広岡監督から嫌味を言われながらも、四番を任されて、チームの顔だった。 東尾は今でも廣岡に対して複雑な思いを抱いているようだが
田淵は廣岡流の栄養管理やトレーニングを実践した結果
劇的に体質が改善したことを感謝しているね ノムさん解任って当時まったく前兆みたいなのは無かったんだろうか。
パ・リーグの報道自体が少ない時代だから、田舎の子供だった自分は
突然の報道に驚いたが、たとえば地元の関西では既にそういう噂があったとか。 >>427
75年のオフあたりに主にサッチーの口出しが原因による内紛が起こりかけたことがある。
この時はボヤで済んだものの、これの残り火が燻って77年オフの追放騒動に >>428
なるほど、だとするとその当時ノムさんの巨人移籍の話があったっていうのも
フカシではないわけだ。そうなっていたら野球の歴史がかなり変わっていたかもねえ。 野村、ジャイアント馬場、ジョン・レノン
なんで無駄に気が強い女房が現場に口出しするのを止められないのか >>431
太田の場合は、奥さんが所属事務所の社長だから仕方がないだろ
ダンナの生殺与奪は奥さんが握っているようなもんだし >>428
野村解任で野村の信奉者の江夏と柏原が南海を出て行って南海は暗黒時代に突入… 三大サゲマンとばかにされる野球源田、水泳萩野、相撲高安の嫁は介入してこないだけまだましか >>430
オノ・ヨーコとサッチー一緒にしたら失礼 75年オフの時に野村に対して意見したのが江本だった。これが江夏との交換トレード要員にされたのかも
最も、江夏を売り込んできたのは当時の阪神監督だった吉田からだったが ただ、自分のエピソードをことごとく本に残してる上に巨人に屈折した憧れを抱いてる野村が、
このエピソードを書かなかったのがどうにも解せないんだよなぁ
「私にも実は巨人から声がかかったことがある」って嬉々として書きそうなもんなんだが >>437
ひょっとしたら、そこに至る発端がチームの内紛=自分のマネジメント力の不足
ってことになるからあまり触れたがらないのかもしれない。
巨人からすれば戦力的にはハリーよりノムさんの方がもっと欲しかったかのかもしれないけど
現場にもう一人の監督が出現しかねない状況を長嶋が嫌ったのは無理もない。 阪急は中日とのトレードで島谷と稲葉を獲得できたのがV3の大きな要因
中日はこのトレードの失敗のせいで当時の監督の与那嶺が解任されたと言われてる >>440
大物選手を追い出すのが目的の様な交換相手のバランスが取れないトレードではなく
お互いが強化目的で交換相手の釣り合いが取れてると思えるトレードなのに
ここまで明暗の分かれるケースは珍しかったね。稲葉や島谷はこの移籍のおかげで
選手としてのランクそのものがワンランク上がった感じ。 >>440-441
藤波のトレード拒否でファンが拒否した藤波側についたのは
中日のトレードは中日側が損する素っ頓狂なものが多かった事も理由だったみたいね
(藤波のトレードはもし成立したら基をとった中日側が得したと思うけど) 当時の藤波の長所って何だったんだろ?
長打力・・・×
巧打力・・・△(打率は.260くらい)
守備力・・・△(可もなく不可もなく)
走力・・・△(盗塁も少ない)
しいて挙げれば左打ちくらいか? >>443
谷沢、田尾、谷木とか左打者もいたしねえ。
成立してれば絶対戦力アップだったのになあ。 王さんの目黒区にあった自宅が取り壊されて更地になっていた 10年間やったパ・リーグ2期制で前後期制覇はこの年の阪急と2年後の阪急の2年だけだった。 70年代はセとパの人気差が最も大きかった時代だった
広岡ヤクルトが山崎裕之を獲得しようとしてて
ロッテもトレードに乗り気だったけれど
交換対象になったヤクルトの選手がトレードを拒否した
ヤクルトは甘い体質でそういうワガママも許してしまう
それでロッテで山崎が浮いたところに西武がトレードのオファーを出して成立した >>446
話が1年ずれとる
ここは77年スレ
前後期制覇は76年と78年だよ >>440
このトレードで阪急から中日に来た戸田は太りやすい体質の三沢に煙草を勧めた あのトレードのメインはまず島谷と戸田
結局中日のサードが大島が成長してポジションを獲ったので
戸田が活躍してくれればここまで中日の大損感はなかったのだが 島谷は1981年に23本HRを売ってるのに1982年オフに引退
1983年にキャリアハイの82打点で1984年オフに引退した山崎裕之
代打中心とは言え2年連続で3割超えてるのに引退した基満男
この時代の選手はダラダラ引き延ばさずにあっさり引退してたね 阪急側の事情としてはまず、衰えが顕著になりだした長池の後釜としてクリーンナップを任せられる
右の主砲候補として島谷が欲しかった。中日があっさりOKだしたのはなぜなんだろ? 島谷は阪急に来て成績がアップしたわけだが、仮に阪急に来ても中日時代の打率2割8分前後20本前後
だったとしても阪急にとっては森本よりも大きく戦力アップでトレード大成功と言えるよな。 当時は、「神経質な稲葉より、図太い戸田のほうがよい」「森本も勝負強い」と、
中日が戦力上昇になったトレードだと言われていたのを覚えている。
完全に外れた分析だった。 神経質とか図太いとか以前に投手の比較では誰が見ても中日お得でしょ。
トレード前の2シーズン
戸田11勝5敗0S 稲葉7勝5敗0S
12勝5敗1S 3勝7敗0S それがトレード後の2年間は
戸田6勝7敗0S 稲葉17勝6敗1S
5勝6敗0S 10勝5敗0S
こんな事になると想像した人はいなかっただろう。 稲葉のトレード成績変化は後年オリックスになってトレードで来た野田が似てる。
トレード前後4年間の野田。
阪神8勝14敗1S
阪神8勝9敗1S
オリ17勝5敗0S
12勝11敗0S 恐らく基がトレードで加入するのを前提で動いて島谷放出になったのでは
結局基は藤波がごねてトレードが没になり、戸田と共に来た森本を使わざるを得なくなった。
森本は打率もやや低く(.280が精一杯)、長打力も島谷より下(だいたい15本塁打くらい)、
何よりも力が落ちる一方で当時の年齢が77年で35歳になるベテランだった。
基が加入してたら三塁で併用(基は高木守とも併用)という計画だったが 森本は日本シリーズ決戦第7戦で決勝逆転ツーランを打ったから与那嶺監督が目を付けたなどと言うのを何回か
聞いたことがあるけど、後年監督業も引退した上田氏があのトレードは日本シリーズ前にはほとんど決まっていたと言っていた。
だからまだトレードを知らない森本があのホームランを打ってダイヤモンドを一周している姿を見て涙を堪えいていた(上田自身が)とも言っていた。 中日が田尾を電撃トレードした時
坂東が「中日はトレードで失敗してばかりだがこれも失敗するでしょうね」と書いていたが
このトレードはむしろ中日が得したと思う 阪急は社会人野球出身、特に高卒社会人の選手が多くて
稲葉や島谷も馴染みやすかったのかもとか想像してみる このトレードでは大隅も忘れてはいけない存在。
阪急にとっては一塁の守備固めとして貴重な戦力になった。
日本シリーズでも公式戦同様に第1戦と2戦の勝ち試合では試合の最後に一塁の守備固めに入った。 >>462
79年だったか、加藤が腰痛で春先出遅れ、大隅がオープン戦で打撃好調で
遂に日の目を見るかって報じられた事があったが、結局加藤は開幕に間に合って
大隅もシーズンが始まれば元の守備の人に戻っていた。
まあ阪急の場合は加藤が休んでも一塁に高井が入ってDHは河村なんて布陣に
なってたろうから、結局大隅のレギュラーへの壁はものすごく高かったわけだけど。 大隅は巨人時代もレギュラーの壁は厚かった。
なにせ王だからね >>464
谷沢は第一希望は巨人で第一希望じゃなかった中日に指名されて
周囲から「セだから入団した方が良い」と勧められて入団したそうだけど
中日に行って正解だったと思う
王の一塁は谷沢でも奪えそうにないし外野手で淡口みたいな経歴で終わったかもしれん 阪急は加藤が途中交代したときは、藤井栄治が一塁に入ることもあったね
藤井は現役最晩年で、阪急が最終球団になった 大隅は阪急に来てから3年続けて80試合くらい出場したんだから阪急に来て良かったでしょ。
例え守備固めオンリーでも。 >>466 >>467
藤井にしても大隅にしても、強いチームにはこう言う渋い脇役がいるよな。
弱いチームだと只の地味な控え以上の評価にしかならないで終わってしまうけど。 前年と同じ5位だったファイターズだけど成績は向上。
投手の頭数は揃ったけど打つ方は依然として外人頼み。
大沢監督は日本人の中軸打者が欲しいと思ってただろうけど
野村解任という他チームの事情のおかげで予期せぬ形で叶うことになった。 それにしても、柏原はよほど日ハムの空気が合っていたのかな。
南海時代は、クリーンアップ任せるにはやや不足気味な成績だったのが、移籍していきなり4番として十分な活躍しだしたからな。 この時代の日ハムは東映・日拓時代の主力選手を放出し続けたからな
そのせいで寄せ集めチームになってたが
この年も新美と皆川(二人とも新人王を獲得してる)を放出して広島から佐伯と宮本を獲得してるし
柏原とトレードされた小田は大杉とトレードされてハムに来た選手だったし
ほんととっかえひっかえトレードしてた 日本ハムは、東映時代からの生き残りは、捕手の加藤、エースの高橋直樹くらいか?
その高橋も広島にトレードになり、後に西武に移籍した。
おかげで、56年の優勝、57年の後期優勝のときは、まったく新しいメンバーに
なっていた。
張本との交換できた高橋一三は、優勝に貢献したし、引退後はコーチとしても
活躍した。 >>472
外野の準レギュラーだった岡持が東映から日ハムで移籍しなかった最後の生き残り
後楽園最終年の87年までプレー 柴田保光、富田勝もそうだが日本ハムは外様が活躍しやすい球団である
その反面、生え抜きでも積極的にトレードで放出する
エースの高橋直樹や西崎でも放出した位だし >>473
訂正。岡持は東京ドーム元年の88年まで現役だった >>474
日ハムが今でもバンバン生え抜きをトレードしたり、外様が活躍できる土壌はこの日ハム創成期に出来上がったんだと思う >>474
日ハムが今でも生え抜きをトレードしたり、外様が活躍できる土壌になったのは
日ハム創成期の容赦ない東映・日拓時代の主力を放出→交換で来た選手の活躍
からではなかろうか? >>475
しかも、万年準レギュラーなのに、最終年は開幕スタメン。
たしか引退してすぐ結婚した。 東映生え抜きを一掃したのは三原球団社長の方針だね
ライバル水原の息のかかった選手だからと言うのはうがちすぎだろうが、
事前に何の連絡もなかった大杉が三原に抗議をしたら
「そういう性格だからトレードに出されるんだ!」と言われたとか。 >>479
まあ放出された金田、大下、大杉、張本らは移籍先で優勝もしたし
これでよかったんじゃないのか、とも思う。 77年オフの日ハムのトレード
小田・杉田⇔柏原(南海)
野村収⇔間柴・杉山(大洋)
このトレードで獲得した三人が優勝時の主力になってるのが地味にすごい
この年のドラフトで獲得した古屋も優勝時の主力メンバーになった
ちなみに野村は大洋の後に阪神にトレードされて阪神日本一のメンバーになった 古屋、高代、島田誠、田村
ファイターズの選手は生え抜きのレギュラーでも
現役の最後は他球団で終わるパターンが多い >>483
彼らがいつどこで引退したのか言えるかどうかで
ファイターズファン度が分かるように思える。 「生え抜き一掃」は三原監督の時代にできた方針なんだね。
でも、今は一掃しなくても、FAや大リーグ挑戦で、一流選手が自分からどんどん
流出するチームになってしまった。 元々は東映色を消すってことが目的だったんだろうけど
思い切った入れ替えをするのがチームに定着してしまったってところか。 関本⇔山下・高垣のトレード
まだ関本の昔の名前が効いてたんだろうけど、77年は山下12勝、関本0勝。
阪急⇔中日間のトレードと違って弱いチーム同士だったので
あまり話題にはならんかったけどクラウンの一方的なお得となった。 >>489
クラウンは前の年、関本・玉井⇔加藤・伊原という、損なトレードしたから…
永射がオールスターの三連投で名前を売ったこともあって、救世主的に脚光浴びたけど、山下も勝ち頭としてよく頑張った。
如何せん、東尾が絶不調で、負け過ぎた。 >>483
現コーチの白井さんも現役最後はオリックスだったな >>483
島田誠以外ハムでコーチなっているのか
高代は1年だけだったが リトル巨人くんという当時の野球漫画の中で、この年の日本シリーズが実際の流れに
即して描かれていて、第4戦の阪急の9回表の大逆転劇は主人公の巨人くん
が打たれたことになっていた(史実は浅野)巨人を持ち上げてるだけの漫画
と思っていたらシビアな展開で驚いた。 >>493
リトル巨人くんでは82年もあと一勝で優勝逃した事に触れているし
リーグ優勝すらしてない78年に史実をねじ曲げて
日本一になったナントカの星とはエラい違いだ 巨人くんは王監督時代も子供のまま在籍しているのが凄い
実は小人症の大人なのでは 『ミラクルジャイアンツ童夢くん』の、野球の基本的なルールすら無視する設定と比べたら、リアリティがあったかな。 >>496
主人公の巨人くんは別に魔球とかを投げるわけじゃなかったしね。
日本シリーズで阪急に打たれたのも、確か連投で肩が痛くて調子が落ちていたから
という児童漫画なのにリアル寄りな展開だった。
当時の阪急と巨人の力関係をちゃんとしっかり描いてたように思う。 巨人くんでは堀内に習ってカーブを習得するというだけで
一話作ってたからね
巨人の星よりよっぽどリアルだった 侍ジャイアンツという漫画はもっと現実離れしていて、海老投げハイジャンプ・
大回転魔球という物理法則上も野球ルール上もあり得ない投球をしていた。
しかし、昭和48年にV9達成という史実は守っていた。 内山まもるで魔球系は「燃えろ!クロパン」という漫画
この漫画に出てきたサンダーボルトという電撃でバッターをKOする魔球が良かった
甲子園が始まる前に「危険だ」という理由で高野連から使用禁止にされた >>499
海老投げは漫画にはない。アニメだけ。
そもそもハイジャンプ自体プレートから足が離れてるので違反投球。 S49年にV10を逃しその責任を取るかのように
番場蛮はハラキリ魔球を投げすぎて死亡だったが
アニメでは48年で終わりで架空の日米決戦を描いてたな 「新・巨人の星」は巨人の星じゃなくて侍ジャイアンツ系列だという
指摘があって納得した
スクリュースピンスライディングなんて侍ジャイアンツに出てきそうだもの 新巨人の星でもこの年の日本シリーズは確か
飛雄馬が阪急に打ち込まれて敗れるという展開だったような。
漫画の中でも当時の阪急は強かった アニメのほうは77年開幕直後の花形球界復帰と合わせて飛雄馬vsロメオ南條の
新旧GTライバル対決が描かれ第1シリーズが終了。半年後の第2シーズンはその途中の77年から描かれたが、
説明なしに物語は78年に突入して2クール持たず23話で終了(低視聴率によるもの)。
77年なのに大洋のユニフォームが横浜大洋色、78年ヤクルトも74〜77年タイプだったりと、
第2シリーズは最終回だけでなく全ての面でおかしかった。 巨人の連覇が終わったら漫画の連載も終了予定だったとか 童夢くん
…お前ら1イニングに何回監督がマウンドに行っとんねん。ルール違反やろ、さっさとピッチャー代えろや >>507
新・巨人の星U第4話「左門の握った秘密」(1979年5月5日放映)は
紺色のビジターユニを着た髭面のシピンが見られる貴重な回だなw
他にも衣笠が左打ちだったり、その広島のビジターユニもアンダーシャツが黒w
イースタンリーグなのに巨人と阪神が対戦したりと、スタッフはプロ野球見てなかっただろw >>511
テレビで全国放送する番組でそんな無茶苦茶な事をやっていたとは・・・ >>511
いやだいたい原作者も漫画家も全く野球見てないから。
巨人の星の原作酷いぞ?
巨人阪神の試合で後楽園でも甲子園でも
ユニフォームの胸文字がGIANTSとTigersで固定されてるから。
後楽園はHANSHIN、甲子園はTOKYOだろ。
川崎のぼるは全く野球に興味なかったんだろうな >>511
いやだいたい原作者も漫画家も全く野球見てないから。
巨人の星の原作酷いぞ?
巨人阪神の試合で後楽園でも甲子園でも
ユニフォームの胸文字がGIANTSとTigersで固定されてるから。
後楽園はHANSHIN、甲子園はTOKYOだろ。
川崎のぼるは全く野球に興味なかったんだろうな 西武の森監督を見て、今は狸親父みたいになっているけど、現役時代は星飛雄馬の
消える魔球や番場蛮の大回転魔球を受けていたすごい人なんだなあと尊敬の目で
見ていた この年の野村監督解任で「あぶさん」を終了することを水島新司も考えたそうだけど
まだまだ終了するには惜しい作品だった。その後の広瀬監督時代が漫画としては
一番面白かったと思うので終わらなくてよかった。この時点では。 あぶさんは門田より1歳上だからダイエーへの身売りで完結させるのが
一番綺麗だった気がする >>513
アニメ版も花形ら阪神勢が後楽園でも縦縞だった。
侍ジャイアンツ以降では訂正され後楽園での阪神は縦縞ではなくなり、
新巨人の星では巨人も敵地ではブルーのビジター用で描かれるようになった。 「たたりじゃー」
「天は我々を見放した」
「あずさ2号」
「勝手にしやがれ」
「津軽海峡冬景色」 >>514
アニメ版のような手抜き感満載の「左胸にアルファベット1文字」じゃないだけマシに感じてしまうのは、俺だけだろうか… 大島やすいちの「三冠王王貞治物語」では丁寧にGIANTSとTOKYOに描き分けられてた。ユニフォーム自体もその時代のモデル丁寧に描いてた。水原時代、川上時代、長嶋時代と。 >>520
1文字に略したのはあの頃のアニメの技術じゃ
躍動した時のユニフォームの長い文字の歪みを
綺麗に表すのが難しかったからなんじゃね? TBSエキサイトナイター、文化放送ジャイアンツナイター(土日のみ)、
ニッポン放送ショウアップナイター、ラジオ関東バッチリナイター。 朝にもプロ野球ニュース。日刊アルバイトニュースと吉野屋の牛丼知ったのはこの再放送で。 プロ野球ニュースが深夜の番組だと知ったのは、もう少し経ってからだった子供のころ。 >>520
お前だけだろ
アニメは当時は技術的にあれが限界 >>526
昔の技術のことなんか知らんのや、お前みたいに何でも知ってなくてすまんな 亡くなった高井はこの年長池から指名打者の定位置を奪いベストナイン。
日本シリーズ第4戦の同点タイムリーに日本一。最高はこの年か。
翌年、翌々年の方が数字はいいけどヤクルトや近鉄に負けてるからな。 長池は指名打者になったことで、早く衰えたようだ
指名打者制度のないセリーグに移籍しておけば、もっと長く活躍できた
巨人に行けば、最強の五番打者になった >日本シリーズ第4戦の同点タイムリー
ホームインしたのは代走簑田だね。
有名な簑田の好走塁ですね。 当時の長池は満身創痍だったはず。
確か肘痛とアキレス腱痛を抱えていたので
指名打者制は救済となってもよかったけど
当人がそれをよしとしなかったんだろうね。 長池はパリーグ9人制最後の年の74年は2割9分27本と、下降線の兆候が出ていた。
そんな打者がDHのないセリーグに移籍しても復活はしなかっただろう。 DHで苦しんでDHの無いセに移籍して成功したのが張本だね。
74年は3割4分で首位打者だったがDH元年の75年は.276と不調に終わった。
このタイミングでDHのないセリーグの巨人へ移籍して大成功だった。 データ的に76年からセは飛ぶボールになったっぽいからね
それで王も復活。タイミングが良かった むしろ米田のように西本翁を慕って近鉄へ行った方が良かったのでは 阪急⇔近鉄間の移籍ってあまり記憶に無いな
ライバル意識が強くてチーム事情がばれるのを警戒してた? >>535
米田は阪急から直接近鉄へ移籍したわけじゃないだろ。
間に阪神の2年間がある。正確には1.5年みたいなもんだけど。 翌年には2位に躍進したけど、この年の近鉄は一年を通して今一つさえない成績で
西本監督でもこのチームを勝たせるのは無理なんじゃないかって空気は無かったのかな。
75年の後期優勝の実績もあるから、任せておけば大丈夫って感じだったのだろうか。 >>535
別に慕ってたわけじゃないし。
信任投票では×付けた一人。 >>534
王に756号打たせようと飛ぶボールにしたのかな?
前年の不調だったし 75年王不調は故障で出遅れたからだろ
王だけ飛ぶボールの恩恵受けるわけじゃあるまいし 当時の近鉄は阪急に比べれば選手層が手薄だったので、長池が移籍すれば、もっと
長くレギュラーを続けられたと思う。
代打で使うにはもったいない選手だった。 近鉄は低打率スラッガー(とはいえ前年は36本塁打でパリーグのホームラン王)のジョーンズが
年齢的な衰えもあってか不振で退団し、マニエルがヤクルトから移籍加入するまで
打線のパンチ力が落ちてたしな。土井移籍から栗橋や羽田、佐々木恭介らが全盛期になるのは
もう少し後になってから。 >>542
その年のタイトル争いは王だけが恩恵受けるわけじゃないが、数年以内に
756号を狙えるという恩恵を受けられるのは王だけ 両リーグ本塁打数
セ パ
1970 *642 *821
1971 *616 *911
1972 *773 *830 ←大阪球場の両翼拡張(84→91.5m)
1973 *679 *765
1974 *826 *680
1975 *747 *703 ←パDH制導入、王不調の年
1976 *967 *659
1977 1050 *699 ←王が756号を打つ、この年の1050本(130試合制)は2004年の1074年に抜かれるまでセのリーグ本塁打記録。現在も歴代2位
1978 *910 *724 ←阪急が飛ぶボール導入、ハマスタ開場で大洋が川崎から移転
1979 *945 *934 ←阪急・近鉄が飛ぶボール、ライオンズ所沢移転
1980 *849 1196 ←パ全球団飛ぶボール?問題になり翌年からこの飛ぶボールは禁止になる
1981 *806 *812 ←この年から圧縮バットも禁止
パはDH制を導入したのに、76-78と3年連続でセの方が200-350本もHRが多い
パで飛ぶボールを導入するチームが複数現れた79年にようやく五分と書けば、この異常さが伝わるだろうか 追記すると、試合あたりのHR数では
NPBの歴史上パは1980年、セは1977年が最も多い 王756号、スーパーカー、ピンクレディー、「天は我々を見放した」、ジュリーの「勝手にしやがれ」の年でした。 >>237
安田以外にそんなこと思う奴いたわけがないわ。
がんばれ田淵くんに出る前には全国的に知名度なかったし、
あれに出たのもたまたまいしいひさいちがヤクルトファンだったから。 >>545
阪急はユニフォームから使用球、球場のメイン広告と美津濃に徹していた >>539
米田はあれを単なるパフォーマンスだと思っていて
本当に辞意を表明するとは思ってなかったとも言ってるけどね
近鉄移籍の経緯は正確には西本側から声がかかっての移籍
本人は阪神2年目に窓際に追いやられやる気を失い引退しようとしていたが
阪急で初優勝した時に主力だった米田に、西本が最後の錦を飾らせてやりたくて声をかけた 阪神退団時に348勝だった米田は、金田の記録に最も近い現役投手で、当時の
雑誌には「400勝も夢ではない」と書かれていた。
だが、さすがにもう限界に近くて、350勝達成を花道に引退ということだった。 >>553
>最後の錦を飾らせて
日本語表現としておかしい。
それを言うなら「最後の一花を咲かせる」が妥当 この年フジテレビでワールドカップバレー中継。野球以外の団体球技初めて見ました。面白かった。バレーが好きになりました。
ワールドカップとはバレーのことだとこの後ずっと思ってました。 
バボちゃん登場もこの時。日本を応援するって楽しかった。野球は国内完結。他の団体球技はどこも弱かったし テレ朝とフジは19時開始延長あり。
日テレとTBSは19時半の延長なし。
♪わが家のともだち10チャンネル テレビあ・さ・ひ!
NETからテレビ朝日に局名変更。 >>557
俺は翌年中学に入学したが大勢バレー部に入ったな
当然野球部と思ったいちばん運動神経のいい奴も入った
そいつは実業団まで続けた >>558
その編成のため王が756号を打った試合はちょうどそっくりショーという番組を19時から放送してて
756号を打った瞬間の映像はビデオ録画しか無かったという。
当然苦情が日テレに殺到し、しばらくしたらそっくりショーは打ち切られた >>561
だから「あの場面を生でテレビで見てたよ」って言う奴は嘘つきなんだよなw
みんなラジオで聴いてたよ。 王が756号を打った日は実は土曜日で、20時から放送してた8時だよ全員集合でも
志村が「王が756号打った!」と前半のメインコント(国語算数理科社会)で登場した際に
興奮して言ってたというエピソードもあった。 1977年9月3日の中継は、冒頭王の756号ホームランのディレイ録画。ちなみに前日の2日金曜日、普段金曜日は「太陽にほえろ」でナイターは、11PMナイターと言う深夜録画だったが、この日は「太陽にほえろ」お休み。 >>566
番組開始5周年を記念したオーストラリアロケ編だったが、
ナイター中継の為に前編と後編が1週空いてしまう珍事に。 77年TV視聴率ベスト20
8/31 巨人×大洋 42.1%
9/ 1 巨人×大洋 39.5%
8/30 巨人×大洋 39.1%
9/ 2 巨人×ヤクルト 38.4% >>555
350勝もあるけど、それより当時金田の持っていた通算登板数(944)更新の記録がかかっていたんだよ
76年終了時点で937だったから十分更新可能だった 756号のワリを食ったのが「全日本プロレス中継」
もともとナイター期間中は深夜0時過ぎに録画放送だったのだが
この日はその時間帯に756号おめでとうの特別番組が入ったおかげで
更に放送が遅れるハメになった >>557
田舎の中学のバレー部の奴が先生に「どうしたら日本鋼管に入れるか?」って真顔で聞いてた。花輪って選手が人気でね。 月曜と金曜は生中継無くてね、11PMナイターやってた。巨泉さんが司会で、解説が付いて。
この年は別当薫さんが大洋の監督に復帰して村山実さんと森「昌彦」さんの2人しか日テレ解説はいなかった。
5月に巨人が川崎から名古屋、北陸の富山金沢でも勝てず6連敗、最後の福井で9回裏2死で高田が大洋小谷から逆転サヨナラ2ラン!
その時解説の村山さんが「良かったですねえ」と呟いてた。今ならかなり問題になっただろうけど(笑)
村山さんは阪神戦以外は巨人に優しかったな。
当時は札幌、北陸、東北シリーズはデーゲームで録画中継。仙台はナイター設備があったが、巨人は盛岡、郡山と転戦だったのでデーゲーム。 >>571
花輪はワールドカップではサービスエースを面白いようにとりまくってたね
サイドハンド気味にゆっくりなでるようにして打ち出すサーブのフォームが好きだった この年からクラウンでは真弓と若菜が常時出場するようになった。
西武ライオンズ誕生の際にこの二人を放出するのは
ライオンズフロントにも断腸の思いがあっただろうな。
ひょっとしたらこの年までホークスのコーチだったブレイザーが
田淵の交換相手は何としてもこの二人を欲しいと希望したか。 当時のライオンズは、人気があって集客できる田淵がどうしても欲しかったのだろう
田淵・古沢で真弓・若菜・竹ノ内が取れた阪神が得なトレードだ 阪神監督に就任した時にチームの顔とも言える田淵を出してまでブレイザーが欲しがったのが真弓で、
野村南海でのヘッドコーチ時代から才能を見抜いてた。
若菜は捕手・田淵を出すための穴埋めとして 25→22→18→15
こんな感じだろうから、まず無理 ♪我が家のともだち10ちゃんねる テレビあ・さ・ひ! NHK 7時20分から 延長あり ナゴヤ 甲子園 広島
日テレ 7時30分から 延長なし 後楽園 甲子園 広島
TBS 7時30分から 延長なし ナゴヤ 甲子園 広島
フジ 7時00分から 延長あり 川崎 神宮 ナゴヤ 甲子園 広島
テレ朝 7時00分から 延長あり 川崎 甲子園 広島
テレ東 神宮の試合あったと記憶 >>578
むしろもっとガクッと落ちるんじゃないかね
衰えは急激に来るからな 王の最終シーズン、昭和55年はかなり苦しかったが、オールスター前には盛り返してきて、
打率2割8分7厘、本塁打も21本まで打って、本塁打トップの山本浩二と3本差。
東京スポーツに「浩二、勝負だ!」という見出しがつくまでになった。
だが、後半に急激に衰えが出て、特に打率の低下が激しかった。
凡退を繰り返す王の姿を見かねた王のお母さんがつらくなって、「もう引退してくれ」と
懇願するまでだったという。
ずっと応援してきた自分も、王選手はもうダメかも知れないと、悲しくなったのを覚えている。 王は、打順を6・7番に下げるか「1点差、7回裏2死2塁」などの場面での
代打の切り札で重点起用していれば、あと2〜3年はやれたのではないか? スポーツ選手が現役を続けて行くには日々のトレーニングや練習が重要で、これが年齢とともにキツくなり
継続していくことが困難と本人が感じたら引退なんですよ。
試合出場のボリュームを軽減させれば良いという問題とは限らない。 >>583
そういう王をファンは見たいのか。
また王自身がそんな立場を良しとするのかって事なんだろうね。 王が引退したのはあのまま続けると生涯打率3割を切るのが確実になったからだった
HRについてはどう考えても抜けない記録を作ったからね
年間40本を21年続けてその後に30本でようやく抜ける記録だから 巨人の4番を長年務めた選手は、自分だけの都合で進退を決められない
みたいなことを言ってた気がする 「巨人軍の4番」の重みを最初に実感したのは、川上哲治だったと思う
川上は、「3割を打てなくなったら、巨人軍の4番は務まらない。そのときは引退する」
と考えていたという
その後継者である長嶋、王も巨人の4番を務めた者としての引き際があったと思う 長嶋が引退して王のホームランが33本?になった時、プロ野球の危機となり飛ぶボールが導入された。
それで王は復活できたが超打高投低となり、近鉄などは超ラビットを使いホームランを量産。
バースの年間54本、バース、ブーマー、落合と三冠王が打ちまくり速球投手は消え失せた。
池谷が年間48本のホームランを浴びながら踏ん張り、江川もホームランをよく打たれていた。
ラビットボールの狭い球場で北別府、星野、尾花、池田、東尾などの変化球主体の投手が活躍。 昭和40年代の終わりごろには、甲子園球場にラッキーゾーンが設置されていた。
球場をわざと狭くして、ホームランが出やすくする方針にすでになっていた。
「ホームランがよく出る試合のほうが面白い」という考え方が当時はあったのだろう。
阪神の中心打者・田淵にホームランが出やすくするという狙いもあっただろう。 田淵の為に、更に右左中間を狭くしたと田淵本人が語っていたね。 >>572
それに引き替え、中継数が激減した昨今の解説者数といったら・・・
スポット含めて不要な解説者が多すぎる。 村山は書面契約では読売テレビと交わしていたから、
この年の正式な日テレ解説者は森だけということになるな。 この年は加藤進とか小西得郎がまだ解説をしていたな
往年の名調子の解説が聞けた時代だ この年の巨人はペナントにおいては第一次長嶋政権の中で最も充実した年では >>598
ペナントでは、ね。
ところで、もしかしたらこの年の巨人、優勝してビールかけをしなかった史上最後の球団なのかもしれん。
当時のスポーツニュースや週刊ベースボールでも、みんな粛々と立食で飲み食いしてるだけのシーンしか見たことがない。
まあヤクルトが負けての優勝決定だからかもしれんが。 1981年の巨人。
この年も試合じゃない。
原がサービスで少し。
新聞には「日本一」でないとやらないと。 87年も結果待ちで優勝だったが
ビールかけやったんじゃないかな >>599
1988年の中日が天皇病気の自粛モードで乾杯だけでビールかけはしなかった。 01年の近鉄もアメリカ同時多発テロの影響でビールかけを行っていない 開幕が遅くなるから、閉幕は冬になってしまうね
優勝するころは寒くなっているから、ビールではなく、日本酒の熱燗をかけたほうがいい >>606
その頃、スタジアム内で飲酒ができるかね 「崩壊」
古葉竹識体制の11年間で広島がBクラスに終わったのはたったの2回だったが、唯一の勝率5割を切ったのは77年の一度だけだった。
77年は古葉政権下で勝率もワーストなら、順位も5位で最も低かった。そしてもう一つ11年間で最も悪い数字を残した項目が防御率で、
投手陣は正に一年通して崩壊状態といえた。5度目の開幕投手となった外木場義郎が2回6失点KOするなど、6投手全員失点の計15失点で
黒星スタートした広島、外木場は前年からの右肩痛が再発してわずか6試合しか投げられず1勝しか挙げられなかった。他の投手にも計算外が
続き、前年20勝の沢村賞投手・池谷公二郎も不調でほぼ年間通して防御率5点台と調子が上がらず、5.22はリーグ22位といった低迷ぶりで
11勝16敗という数字が残った。
トレード補強も裏目に出た。先発陣の柱で2年連続二ケタ勝利を挙げていた佐伯和司と抑え役を担っていた宮本幸信との交換で日本ハムから
加入した新美敏と皆川康夫は共に力になれなかった。4年前新人王に輝いていた新美だったが、初勝利は8月下旬でチームが独走巨人から
既に15ゲーム差以上離されていた頃だった。結局3勝止まりで、皆川に至っては1勝も出来ずに終わった。金城基泰との交換で南海から
獲得した松原明夫は、救援役として金城の穴埋めが出来たとはいえず6勝5Sと健闘するも、こちらも防御率は5点台だった。
対する日本ハム・宮本が防御率2.00で13SP、南海・金城が2ケタ勝利とトレードの難しさを知った年でもあった。
引き分けを挟んだ開幕6連敗でスタートして、4月5勝13敗2分けという出足の悪さをそのまま最後まで引きずったようなシーズンだった。盗塁が
リーグトップで得点も3位ながら、低迷の原因となった投手陣が防御率5位で、被安打と被本塁打で最下位と足を引っ張った。一度も4位以上に
上がれず古葉も「開幕から一度として盛り上がる時期がなかった」と嘆いたペナントレース、ラストの5連勝で3年ぶりのテールエンドを免れるのが
やっとだった。投手難の中で20歳の北別府学が5勝7敗、19歳の小林誠二もプロ初勝利を挙げただけで後半は苦しんだ。他にも山根和夫や
大野豊などといった新人も含めた若鯉もまだ“発展途上”だった。 (了) >>379
それがきっかけとなって「国民栄誉賞」が設立され、王が第1号の受賞者になった
(この年の今日の出来事) >>610
懐かしいね。カウンタックマンとかだっけ? 国民栄誉賞?
福田赳夫内閣の支持率がイマイチだったら、王を利用して、支持率をあげようとしただけ 1977年度日本シリーズ 阪急対 巨人
王対山口高志
巨人打線対山口高志はどんなでしたか…?
山口の速球も75年程ではなくなってきてるし。 記録を調べてみたが
77年日本シリーズの山口高志は第3戦のみの登板、救援で7回1/3投げて5失点で敗戦投手だな
延長12回裏にサヨナラ3ラン打たれた なお76年は1先発4救援の5登板で1勝1敗1S、防御率4.50だな
起用法が70年代80年代の抑え投手って感じ。投げさせすぎ
10/23 1戦 救援 3.2回 自責0 勝利投手
10/25 2戦 救援 3.0回 自責1 セーブ
10/29 4戦 救援 4.1回 自責3 敗戦投手
10/30 5戦 救援 1.0回 自責0
11/1 ...6戦 先発 6.0回 自責5 当時は良い投手をいかにたくさん投げさせるかだったしな 安田猛投手逝去。哀悼!
巨人は序盤から首位だったが、5月の名古屋―北陸遠征で6連敗。最後の福井の9回裏2アウトで当時ホームランダービー上位だった高田繁が大洋小谷から逆転サヨナラ2ランでやっとこさ連敗脱出。
その後東京に帰って息を吹き返し、6連勝!阪神と共に巨人に迫ってたヤクルトを神宮で3タテしたが、3戦目だったか、ルーキー松本匡史が早稲田の先輩安田から決勝アーチを打ってた。 王さんが756号達成した翌日に757号サヨナラ3ランを打ったのが
亡くなった安田から 島谷や稲葉は、中日時代にも優勝経験はあったけど
阪急に来て選手としてのランクその物が上がった感じ 反対に中日に移った森本と戸田はあまり出番がなかったな
阪急側が得をしたトレードだった >>627
ランクどうこうじゃなくてパの水が合ってだけだろ。
島谷はセでは守備の人だったが、
直球勝負してくるパでは打てるようになった。
後で広島から来た水谷もそうだろ、
いきなりキャリアハイになったし。
稲葉も落ち目で引退寸前だったのに、
パの振り回す打者連中相手に変化球で復活できた。 >>629
>>630
わざわざID変えてまで連投かよ >>631
パの水と言うか、阪急の水が合ってたんじゃなかろうか。
阪急は高卒社会人出身の選手が多くて馴染み易かったのかも。
それと強いチームに来て意識も変わったのかもしれない。
ごくたまにしか優勝しない中日と毎年優勝を争う阪急では
周囲の環境も違うだろうし。 >>632
馬鹿か?
ID変えるのに何で同じ書き込みするんだ?
重いので2度押したらID変わってただけだ
プロバイダによっては1日に何度か勝手に変わるんだよ >>634
馬鹿は書き込み確認もせずに連投したお前だ 連投と言えば、この年はロッテの村田が先発・リリーフと連投していた
明らかに疲れ切っていて、「村田は大丈夫か?」と心配になった >>636
この年の他のチームのエースはどうなのかなと思ったら
山田や東尾はセーブを挙げてるけど、高橋直樹は全試合先発
鈴木啓示も意外だったがリリーフもしていた >>636
カネやんが馬車馬の如く投手を使い倒したんじゃないの? セ・リーグの方はどうなのかと思ったらパよりもっとこき使われていた。
堀内、平松、星野、松岡、安田、この世代の投手は掛け持ち当たり前。 鈴木孝政(中日)、安仁屋(阪神)、江夏(南海)など抑え専門の投手もいたが、当時は
先発のエースがリリーフもすることが多かったな 阪急の山口、この年は登板42試合中リリーフ29試合
その一方で先発13試合の内10試合は完投し2試合完封している
今のピッチャーがこれやったらシーズン途中でパンクだな この年、初代ミスタータイガース藤村富美男が
時代劇 新必殺仕置人に元締・虎役で出演 >>641
阪急くらい選手層が厚ければ、山口は完全に抑え専門で使えたのに
この年で完全に抑え専門だったのは南海の江夏くらいか?
中日の鈴木孝政でさえ先発完投していた試合がある >>646
米田梶本足立石井茂の四天王時代か終わった後だし、
山田以外の投手陣はそうでもない頃 抑え専門の始まりは、権藤(大洋)・宮田(巨人)・佐藤(南海)あたりかな?
杉浦(南海)も晩年は抑え専門だったらしい
昔はセーブポイントの制度がないので、誰が抑え専門だったのかわかりにくい >>649
違う。
鶴岡監督時代の南海にいた戸川一郎が先。 戸川って人を調べてみたら、昭和30年にはほぼリリーフで二けた勝利しているな
ただ、このころのリリーフ投手はどの程度「切り札」感があったのか?
終盤にマウンドに上がってきたとき観客が「待ってました!」と沸くような抑えのエース
だったのか、当時の感触を知りたい ヤクルトは巨人に大差をつけられながらも初の2位を確保
ただこれが翌年の優勝に繋がるとは当時のプロ野球関係者でも予測は難しかったのでは >>653
いわゆる「切り札」ではない
先発が早く崩れたときロングリリーフをしてそのまま勝ち投手になるパターン
終盤の肝心な場面で火消しをするタイプではない
そういうのはやっぱり宮田が出てきてからだね >>639
その頃は、エースを使い潰してナンボ
的な風潮だったんだろうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています