「天国と地獄」

野手が飛球を追った先のフェンスに体を激突させて負傷する、プロ野球ではよく見る光景だが取り分け外野手に多くみられる。外野手の激突と負傷が
球場の構造と野球規則を変えるきっかけにとなったのが、77年4月29日の川崎球場での事件だった。大洋−阪神3回戦、阪神1点リードの9回裏、
一死一塁で大洋・清水透の打った左翼への大きな飛球を背走で追いかけた阪神・佐野仙好が、飛び上がってボールを捕った時だった。勢いで左
前頭部をフェンスに強打した佐野は昏倒、そのまま動かないため一塁走者・野口善男がタッチアップで長駆生還して同点とした。これを巡って阪神
から吉田義男監督、一枝修平コーチらが「佐野は倒れて動けないから、審判はボールデッドでタイムをかけるべき。生還は認められない」と野球規則
を持ち出して激しく抗議した。しかし、球審を務めていた平光清が「佐野君には申し訳ないが、突発事故でないのでタイムをかける場面がなかった」と
受け付けなかった。
34分間の抗議の末、阪神側は提訴を条件に試合再開に応じた。結局試合は引き分けで終了、あくまでインプレーと判定された佐野の守備も、清水の
「犠飛」ではなく「返球しなかったから失策」の記録になるなど(後に犠飛と訂正)阪神には泣きっ面に蜂だった。他の野手が送球を手伝っても良かった
が、中堅手・池辺巌が駆け寄った時には佐野が「白目をむいて両手を痙攣させていた」状態だった。

直ちに病院に運ばれた佐野の診断結果は、頭蓋骨に8センチの線状骨折で、頭部出血は無いものの頚椎も痛めているため予断を許さ
ない全治未定というものだった。この件をきっかけに大阪、広島、平和台、日生、仙台、そして川崎の各球場に安全ラバーのフェンス取り付けが
コミッショナー指示として下った。そして、野球規則にも「選手の人命にかかわるような事態が起きた時はタイムをかけられる」という細則ルールが
追加された。

佐野は同期入団の掛布雅之の成長もあって、この年から左翼にコンバートしていた。打撃が好調で、負傷までの開幕20試合で打率.338、本塁打5、
打点12の成績を挙げていた上に、この日も満塁弾を放っていた。ファイト溢れる守備も、捕球出来なければ同点の可能性があった打球に
対して気の抜けた守備で掴みかけた定位置を手放すわけにはいかなかったからだった。
中央大から鳴り物入りで入団後は4歳下の掛布に本職の三塁を取られ、77年は出足好調の中での大怪我といった“天国と地獄”を行ったり来たりの
野球人生を味わった佐野、そんな運命に翻弄されながら約2ヶ月で奇跡ともいえる復活をして、その日にいきなり一発を放っただけに留まらず翌年
以降も10年間左翼のポジションに定着し続けるなど、佐野は自身で運命を切り開いたファイターだった。 (了)