【王756号】1977年のプロ野球【阪急V3】 [転載禁止]©2ch.net
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>>171
セ・リーグは、76年、78年も投低だった。それに対し、パ・リーグは投高。当時、交流戦があったら、どうなっていただろうか? 2001年の近鉄みたいにパの打者がセの飛ばないボールに苦戦すると予測 756号打たれたヤクルト鈴木康次郎は 後に近鉄に移籍
近鉄鈴木啓示と鈴木姓が二人になった…
エース鈴木啓示に『あっち(のスズキ)』と呼ばれてたよ…
眼中に無い感じで、スズキが二人になって迷惑してた見たい‥‥ >>176
王が756号を打った試合で、ヤクルト相手に完投勝利をかざったのが、前の年ヤクルトから移籍してきた浅野。
打たれた鈴木康も後に近鉄井本との失敗トレードでいなくなった。
1978年にヤクルトは優勝するわけだけど、浅野と鈴木康を失わなければ、1982年以降、急激に暗黒期に突入することは無かったような気がしている。 浅野は巨人に移籍してからもしぶとく現役を続けたな
野村がコラムで巨人に触れる時、よく名前が挙がってた >>175
パ・リーグの鈴木、山田、村田、東尾。更に高橋直樹、山内新、藤田学あたりにセ・リーグ打者陣は苦戦しそう。松岡、星野仙あたりは打ち込まれそうに思う。 ボールの質もあったかもしれないが
セ・リーグは貧打という球団はなかった
打撃力は結構拮抗はしていた
やはり投手力の層の厚さかも
大洋は平松以外いなかったし 高橋直なんか盗塁フリーパスでセじゃ全く通用せんかった 当時のパリーグの投手力は高かったと言えるかも知れない。
前年の昭和51年のパリーグは、さらに投高打低だった。
首位打者 吉岡悟 .309
2位 藤原満 .302
3位 門田博光 .3004
4位 加藤秀司 .300
三割打者はこの4人だけ。
一方、防御率第一位の村田兆治は1.82で、防御率ベストテンは、
すべて、1点台と2点台。
セリーグの防御率第一位の鈴木孝政が2.98だったのと対照的だ。 同じ日本のプロ野球でこれだけ投打の質が違うというのは このころのパリーグは、本塁打の数も少ない。
本塁打王
昭和50年 土井正博 34本
昭和51年 ジョーンズ 36本
昭和52年 リー 34本
同時期のセリーグにくらべて10本くらい少ない。 大杉や張本の移籍と野村克也の衰えと外国人の不発だろうな
まだこの頃は、巨人やセ・リーグ信奉時代だった訳だから この年(1977年)ヤクルトから巨人に移籍した浅野啓司氏は
何年か前(2010年頃?)の月刊ジャイアンツのインタビューで
思い出に残る試合として阪急との日本シリーズ第4戦を選んでいた。
自分が1点のリードを守れなかった責任があるんだろうが出来れば
この試合の事は思い出して欲しく無かった。阪急ブレーブスが
「跡形も無くなった」状態の今となっては・・・・・・。 当時の巨人ファンにとって結果的にこの年の日本シリーズが
王の現役選手としての最後のシリーズになるとは夢にも思わなかったんだろうな・・・ そして、阪急ブレーブスにとっては最後の日本一に…。 …などと書いていたら、>>151で既出だったのね。
失礼しました。 >>188
この年は王選手は756号を打って世界記録を打ち立てた上、二冠王になり、
王選手にとっても巨人にとっても栄光にあふれた年だった。
この輝かしい栄光がいつまでも続くような気分にあふれており、
翌年以降、チームも王選手も衰え始めるのを予想もしなかった。 >>187
この夜のTBSラジオ「六輔七転八倒」で、永さんが山田投手の決勝打(浅野をリリーフした加藤から)の実況を言葉に
起こしてアシスタントの遠藤泰子アナに「朗読」させていた。奇才永六輔も過去の人になってしまった。 9回二死ランナー無からの逆転だもんな
阪急はこの試合山田ロングリリーフだして
8回に勝ち越しHR(山田の一発病)打たれてたから落してたら
2勝2敗のタイ以上に不利になってシリーズの
結果どうなったか分からんかったよ 「新巨人の星」の漫画版で巨人がこの年(1977年)の日シリで
阪急に「惨敗」後巨人ファンが
「長嶋あろう御方が何で上田に2タテ(2年連続敗退)を喰らうんや。」
と捨てゼリフを吐いて球場を後にするシーンがあった。この台詞を書いたのは
原作者の梶原一騎先生なんだろうが約20年後の1996年日ハムの監督に
なっていた上田が「家族の宗教問題」を理由にシーズン終盤休養したのを
見て「梶原先生の言った事当たっているな。」と思った1972年生まれの俺。
最もそれ以上に屑だったのは宝塚歌劇可愛いさに阪急ブレーブスを切りやがった
小林「バカ」公平だろうな。こいつのせいで阪急ブレーブスは消えたも同然だった。 年が明けたら40年前になるのか。開幕戦がG−Dなのは同じ。 >>193
一点負けている最終回で二死二ストライクでランナー二塁の場面は、
二塁ランナーは投球がストライクゾーンに吸い込まれていくのを
確認した時点でスタートしなければいけないのに、蓑田のスタートが
遅れたため、結果的にホーム上クロスプレー「好走塁」となって
しまったと、後で上田監督がコメントしていた。
もし2勝2敗になっていたら、第5戦は中三日の足立となって、
同点のまま代わった山口か山田が再度打たれるというパターンが、
容易に想像できる。 昭和52年の阪急は、前年より一回り強くなっていた印象がある。
中日とのトレードで、島谷と稲葉を獲得したのが大きかった。
交換要員の森本より、島谷のほうがよく打った。
長池の衰えが確定的になって、あまり出場しなくなったが、そのかわり
今まで代打専門だった高井がレギュラーとして活躍した。 >>193
そこで勝ちきれなかったのは、巨人の詰めの
甘さ。完全に並のチームに成り下がった
というこった。 並みのチームって2年前にはぶっちぎりの最下位だったことを考えようや
昭和時代の巨人ってシリーズでも割と正攻法の戦い方を貫くところがあって
その分相手との力関係がモロに出やすい傾向はあったのかもしれないな 77年にいきなり並のチームになった、なんて
誰も言ってないのに、勝手に75年がどうとか
意味不明なことを言い出してくる>>200の
アホさ。 だからV9戦士が次々と辞めたり衰えたりしていった中で
リーグ連覇できただけでも十分だってことだよ 蓑田が日本シリーズの走塁で次のシーズンにレフトのレギュラー
獲得に繋がったな。
それまで誰?って存在だった覚えがある。 >>204
大熊
翌年序盤までレギュラーだったが、頭部死球で戦線離脱している間に簑田が台頭した 昭和51、52年のリーグ優勝当時、V9戦士は、王、柴田、高田、土井・末次・
堀内が残っていたが、長嶋・森・黒江・高橋一三がいなくなった。
一方、張本・加藤初が加入し、柳田・淡口・河埜・吉田が台頭してきた。
晩年の長嶋にくらべれば、張本ははるかに優れており、加藤初の加入も大きかった。
V9末期より、巨人の戦力は充実していたのではないか? 「オバQ誕生」
開幕戦の3回表に広島・榎本直樹から第1号を打ったのが始まりだった。この時は榎本が中継ぎ左腕であり、チームの大量15得点の中での一発
だったため注目度はまだ低かった。だが打った本人の田代富雄と監督の別当薫はかすかな手応えを感じていたはずだった。田代は5年目23歳の
若き大砲候補、前年の76年はデビューこそしたが89試合で56三振を喫し本塁打は8本だった。5年ぶりに大洋監督に復帰した別当は、田代を見て
「こいつを育てられなかったら自分の責任だ」と言うと、秋季練習からマンツーマンの指導が始まった。
別当には、これまで監督として原石だった長距離打者を育て上げてきた実績があった。大毎時代は新人ながら抜擢した葛城隆雄、近鉄時代は10代
だった土井正博、大洋の一次政権時代での松原誠など数多くの打者を育成してきていた。
田代の勢いは、開幕3戦目からの5戦連続本塁打でさらに続いた。相手投手も新浦寿夫、小林繁、堀内恒夫、松岡弘、会田照夫と前年2ケタ勝利を
挙げた主戦級ばかり、田代“オバQ”ここに誕生といったところだった。4月は打率.388で20打点、ハル・ブリーデン(阪神)と並ぶ11本塁打で月間
MVPを受賞、5月も7本塁打で単独トップの18本塁打を放っていた田代だったが、6月に入るとペースダウンし月間4発、7月も2発しか打てず
ブリーデン、巨人・王貞治、広島・山本浩二が抜き去っていった。
王が50本塁打を放つなど夢の本塁打王には遠く及ばなかったが、球団新となるチームトップの35本塁打と打率.302は立派の一語に尽きる。
田代は「攻めていくんだという気持ちを持ってやっていた」とがむしゃらだった当時を振り返ったが気が付けば全試合フル出場も達成、別当の目に
狂いはなかった。
全国区になった“田代オバQ”だが、若い頃のもう一つのあだ名が「アジの開き」だった。内角の変化球に対して、どうしても体が開いてしまう事から
一時付けられた呼び名、118三振がリーグワーストとなり豪快さが売り物となったが、開きという欠点を本格的に修正したならば77年の打率3割が
田代自身にとって最初で最後の3割とはならなかったかもしれない。 (了) >>205
蓑田自体が「『誰?』って存在だった」という意味で書き込んでるかと、前の人 >>207
この年、田代は彗星の如く出現した記憶がある。
守備はボイヤーにはかなわなかったが、打撃は豪快だった。 開幕前はW・デービスとサッシー酒井が注目の選手だった >>181
斉藤明夫がデビューしたこの年はまだ口ひげはなかったはず
写真で確認したが、違和感ありまくり
https://bbcrix.com/articles/31084 >>211
ボイヤーはプレーヤーとしては75年限り。76年はコーチで途中秋山監督の指揮を代行したがこの年限りで退団。
田代は76年開幕2戦目が初出場だったと思う。ボイヤーはコーチとして田代を指導していた。 この頃の大洋はホームランの数だけ星のシールをヘルメットに貼ってたな。
横浜に移転した後もしばらく続けていたんだっけ? >>215
81年か82年あたりまでは、シール貼っていたはず。 今夜はマギーが延長で決勝打で巨人がやっとこさ連敗脱出だったが、40年前の5月19日は7連敗目前の巨人が
福井で高田が小谷から9回裏2死から逆転サヨナラ2ランで連敗ストップ。それでも首位だったが。
高田と小谷が今は逆のチームにいるとはね。当時は富山金沢福井と照明も無くデーゲームで転戦。 阪神が84年まで暗黒期に入ったな。
少しは首位争い(79年)したけど、結局は失速したし。 吉田が箸を指して刺したろか?とか、箸に名前書いたとかはこの年あたりか?
前年が打線が驚異的過ぎただけに反動が大きすぎた印象
で、翌年最下位
でも、掛布だけは順調に育ちレコードもでた
相手のピッチャー
ごめんして 吉田義男元阪神監督ってどケチって聞いたことあるけどマジ?
自分のタバコにも1本1本きちんと名前を書いていたとか 東の森、西の吉田って言われるレベルだった
もっとも日本一監督になってからはマスコミに高級ウイスキーを振る舞ったり
そういった部分も鷹揚になったが 森は捕手だから、多少陰気な性格なのはわかるが、吉田は「牛若丸」と
呼ばれた華麗な内野手だったのだから、もっと明るくてさっぱりした
性格であってほしかった。 >>222
タバコは記者が吉田さんのたばこを1本失敬したら怒られたので
「それだったらタバコの1本1本に名前を書いときなはれ」「ああ、そうするわ」
こんなやり取りから尾ひれがついたみたいだよ 山内一弘が吉田のタバコを1本失敬したら10円請求したって話もあるな <訃報>永射保さん63歳=元プロ野球投手
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170624-00000072-mai-base
合掌。この年先発としてプチブレイクし東尾に次ぐ9勝、オールスターにも選出されて
OH砲を打ち取ったことがピンクレディーのサウスポーの楽曲の元ネタになったとか。 >>227
第二期も似たような話があってな、これは笑えるんだ。
85年Vの後、また低迷期が来てぶざまな負け試合の後、
記者、カメラマンに取り囲まれた。
カメラのフラッシュが眩しいので、
吉田が「眩しいなあ。傘でも差したろか」と言ったら、
「吉田、『傘で刺したろか』発言!」「吉田、殺人未遂!?」
と書かれたとさwww 亡くなった元ライオンズ投手の永射が先発完投投手として頭角を現したのは
この年だったっけ (福岡のクラウンライター時代) そう。この年のクラウンで山下律夫(12勝)、東尾(11勝)に次ぐ9勝を挙げた。
しかしオフに酒の飲み過ぎで翌年不活動性肝炎を発症して
先発として投げられなくなった。(本人いわく20球投げるとガクッと球威が落ちた) 永射は左のサイドスローだったので、「左の強打者向けのワンポイント」
として生き残ったね。
長いイニングを投げると、右打者に捕まりそうなイメージがあった。 この年のオールスター戦で一躍有名になった感がじ。
余談だけど、その日は雨混じりで試合開始も遅れたような気もする。
西宮なのに日テレ系とテレ朝系で中継。 永射にとって左打者キラーとして自信をつけたターニングポイントがこの時の王との対戦だと思う。
太平洋へ移籍する前の広島時代は王にホームランを打たれる事もしばしばあったそうだし。
球宴でマスクを被ると王だけはリードで絶対抑える気満々な野村の力も
多少はあっただろうけど。 ピンク・レディーのヒット曲 「サウスポー」 (作詞:阿久悠) のモデルは永射だったんだね
ずっとヤクルトの安田かと思ってた 阪急元監督上田利治さん告別式07/06 15:27nhk
徳島県海陽町出身で、プロ野球・阪急の監督として日本シリーズ3連覇を果たし、今月1日に亡くなった上田利治さんの告別式が6日横浜市で営まれ野球関係者らが別れを惜しみました。
上田さんは海陽町出身で、海南高校から関西大学に進み、昭和34年にプロ野球の広島に入団し、3年間の現役生活のあと、広島などでコーチをつとめ、昭和49年に37歳の若さで阪急の監督に就任しました。
阪急では2年目の昭和50年から3年連続で日本一となり、黄金時代を築き、その後、日本ハムでも監督を務めました。
監督20年間で日本一3回、リーグ優勝は4連覇を含む5回で平成15年には野球殿堂入りを果たしました。
上田さんの告別式は6日、横浜市の斎場で営まれ、野球関係者や親族などおよそ250人が参列しました。
出棺の際には阪急ブレーブスの球団歌が流れ、阪急でピッチャーとして活躍した山口高志さんらが見守る中、ひつぎを載せた車が斎場を出発しました。
山口さんは「上田さんには『先に急いで逝ったな』と声をかけた。
監督としてはすごく負けず嫌いで、勝つことに執念を燃やしていた。
今は学生を指導しているので、勝ちにこだわる姿勢を教えたい」と話していました。
また、広島でのコーチ時代にルーキーとして指導を受けた山本浩二さんは「入団したときのコーチで、熱血指導をしてもらったのが印象に残っている。厳しかったが、優しさもあった。『お世話になりました』のひと言に尽きる」としのんでいました。 米田が近鉄に移籍した昭和52年、通算勝利数は348勝だった。
当時、「金田の400勝まであと52勝、金田の記録に並ぶのも夢ではない」
などと書かれていて、脚光を浴びたのだが、さすがにここから52勝するのは
難しかった。 米田本人は阪神クビになった時点で引退するつもりだったが
せめて350勝は到達させてやりたいと、西本御大が誘った
全盛期の活躍には程遠かったが、10月7日古巣の阪急戦で
無事通算350勝を達成
試合後には近鉄ナインが胴上げし始めたが、これには
阪急ナインも混じり感動的なシーンに
そしてこれが現役最後949試合目の登板だった 「ジャイアンツ77」 とかいう臭い曲のレコードが出ていた 今年と同じく夏に長雨。
ドーム球場ない時代だから巨人戦が8/13〜8/19雨天中止 8/14の巨人―大洋が後楽園初観戦の予定だったがあえなく中止。
ただロートル揃いの巨人は首位にいてもオールスター明けは苦戦していたから、この1週間の休みで復調した。 >>217
校閲されてない素人の文章は読みづらい。
イラッするわ >>213
> >>181
デビュー仕立てメガネ無しで、本格派投手扱いじゃなかった? 夏になってからの王さんはすごかったな。
5月くらいは756号(40号)まで行かないんじゃないかと思ってた。 日本シリーズ第4戦での9回2死からの阪急の逆転勝ちが無ければ、無くても阪急日本一だったかな。 4月2日開幕、王が開幕満塁ホームラン。見に行ってた。 今日NHKで王の756号特集アーカイブやってったね。40年前の映像。
張本と徳光がゲスト・。 ヤクルトのHR打たれた投手サッシー酒井映してたのが77年だわ 前年の甲子園で活躍した酒井(ヤクルト)と、赤嶺(巨人)が注目された年だった
だが、この年はまだそれほどの活躍ではなかった その2人、プロで華々しい活躍した年なんてあったか? なぜ巨人は藤城なんか指名して原を指名しなかったのだろう?
サッシー酒井は通産10勝もしたっけ?赤嶺は0勝で引退だったな。 俺的には、この年昭和31年生まれの定岡、西本、田村、藤城に期待してた。
定岡以外はみんなプロ初勝利をあげたが、活躍と言えたのは西本だけだったな。
その後ローテ入りしたのは西本と定岡だけ。 >>257
原は早々に進路は東海大進学って表明してた。たしか親父の原貢が >>258
4人中2人もローテ投手になれば、順当だろう 佐藤義則も候補に上がっていたが「北海道出身の選手で大成しているのはいない」という理由で巨人はボツにした
若松勉がいるのに… >>261
スカウトが「巨人の顔じゃない」と言ったとか 柴田
高田
王
張本
柳田
土井
河埜
吉田
投手 当時の巨人は赤嶺、藤城が育たなかったのが痛かった。
一方、無名だった西本がこの年から出てきたのが大きかった。 >>264
藤城も「何で佐藤じゃなくてこんなの指名した?」
という謎の獲得 上田利治元監督のお別れ会10月20日 18時30分動画nhk
プロ野球・阪急の監督として活躍しことし7月に亡くなった、海陽町出身の上田利治さんのお別れ会が海陽町で開かれ、多くの人が最後の別れを惜しみました。
上田利治さんは、旧宍喰町、今の海陽町宍喰の出身で県立海南高校から関西大学に進み、プロ野球の広島に入団したあと選手、コーチを経て昭和49年に37歳の若さで阪急の監督に就任しました。
阪急ではチームを3年連続で日本一に導くなど黄金時代を築き、平成15年には野球殿堂入りを果たしました。
20日は上田さんのふるさと、海陽町宍喰にある町民センターでお別れ会が開かれました。
生前親交のあった人たちなどおよそ200人が集まり、黙とうのあと、順番に献花を行いました。
その後、上田さんの妻の勝子さんが「主人は宍喰の美しい海や山が大好きでした。お集まりいただき、主人も喜んでいると思いますありがとうございます」とあいさつしました。
会場の別の部屋には監督時代のユニフォームや、阪急が優勝したときに地元にがい旋して行ったパレードの写真なども展示され、訪れた人が故人をしのんでいました。
生前、上田さんと交流があったという女性は「とても優しい人で、息子の進路のことでお世話になりました。最後にお別れ出来てよかったです」と話していました。 スレ保守がてらに南海スレで見つけてきた、3月11日のオープン戦の記事
ttp://i.imgur.com/e2JAosx.jpg >>266
上田監督、古葉監督、長嶋監督は、当時はまだ青年監督だったが、すでに押しも押されぬ
大指導者の風格だった。
すでに鬼籍に入られたことが残念でならない。
ご冥福をお祈りし、その輝かしい球歴を称えたいと思います。 最近はまた事情が変わってきた感もあるけど
少し前までは50前後でやっと監督になれるようなこともザラだったな
和田や西村なんて引退してから監督になるまで何年かかったんかと >>267
久保康生はこの年柳川高校から近鉄入りして、来年42年ぶりに福岡に戻って来るんだね。 この年の巨人はペナントでは第一次長嶋政権の中で最も充実した年
15ゲーム差を付けて全く他球団を寄せ付けなかった 後楽園での開幕戦巨人−中日、巨人は3回裏先発松本幸行を攻めて王の満塁ホームランなどで一挙5点先制。
ところが、2番手の星野仙一を打てず中日に5−3まで追い上げられ、最後2死満塁で前年首位打者の谷沢を迎えたが移籍初登板の浅野がショートゴロに打ち取り勝利。
この日の星野の好投が忘れられない。
星野は前年7月に10勝しながらふくらはぎか何かの肉離れで閉幕まで離脱。この日は調整登板だったが、次のナゴヤ球場開幕戦の阪神戦で復調を示す完投勝利!大泣きしながらインタビューを受けていた。
ついでに言えば、その次がまたナゴヤで巨人戦、巨人は足に不安の星野にバント攻撃でKO、星野は「武士道に反する!」と試合後にコメントしていた。
中坊に「武士道」なんて言葉を教えてくれて有難うございました、星野様! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています