【毎日大毎ロッテ】 オリオンズ 【川崎宮城南千住】 [転載禁止]©2ch.net
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栄光のオリオンズについて語ってくれ!!
「あんな場面でスクイズを指示する馬鹿がどこにいるんだ!!」 我が物顔で暴走するチャリ、うつろな目で歩くホームレス、
オーストリッチのセカンドバックを持った、いかにも怪しげなフィリピン人女と歩くおっさん、
トラサルディなどの「ヤートラ」ファッションに身を包み携帯を持ち歩くやーさん、
髪の毛が金色でスカートの下にジャージをはいてる女子高生
エンドレスに上から降り注いでくる「銀柳街」のテーマソング・・・・
誰が何と言おうと俺はこんな川崎が大好きだったぜ・・・ >>89
川崎おかだやモアーズってあったよね
横浜のモアーズは何とか生き残ってるけど
真夏、川崎にイースタンリーグを観に行ったことがあった
球場近くで顔が真っ黒のホームレスとボーダーな人が屋台出して磯辺焼きを
売っていた
真夏の昼間に磯辺焼き!?と驚いたが、プール帰りの子供が買ってたよ
何だか不思議な光景であった >>90
昔は駅前に停まってる893の車にはカッティングシートで
“稲川会”って貼ってあったなあ、
今じゃとてもできないだろうけどw さらに昔は川崎駅から球場前をトロリーバスが走っていた
(その頃は東京球場時代だが) モアーズといえば、毎週土曜日、屋上と7F特設会場に
ニッポン放送の「モアモア歌謡センター」の公開放送で
誰かしらアイドルや歌手などのタレントが来ていたね。
川崎球場といえば新人時代の野茂の完封勝利を見た記憶があるな。
あとは前期優勝した時に、サインボールやお菓子が入った福袋が発売されて
有藤、落合、リー、などのサインボールを期待していたのに、
山内監督のボールでがっかりしたのを子供心に覚えてる(笑) レスを見る限り、オリオンズは案外川崎に根付いてたんだな
当時のロッテが地域密着にそれほど熱心でなかった印象があるだけに以外だった 川崎は市民球団を名乗ってなかったっけ
自分は他の市民なので、川崎市にどれほど浸透してたのか知らないが 東京球場は73年以後もしばらくはロッテが戻ってくるという噂が
地元住民の間で広まっていたらしい。
完全な閉鎖ではなく、77年に取り壊されるまで町内会のイベントなどで
東京球場が使われる機会があったそう >>95-96
ロッテになってからは唯一の毎日・大毎時代在籍経験のある監督だったな。 68年公開の『闇を裂く一発』(大映・峰岸龍之介主演)では、今はなき東京球場でのオリオンズ対ブレーブスの試合風景がふんだんに使用されている。
(写真はスコアボード)
http://livedoor.sp.blogimg.jp/donzun-baseball/imgs/9/3/93a1e52d.jpg >>97
そういう思い込みで勝手な記憶が作られていくんだなw レオンさんはのちにアメリカで逮捕されたね
冤罪だったみたいだけど
基本的にまじめでいい人 >>103
オリオンズ絡みの映画といえば、修行を積んだ主人公の剣豪が大毎オリオンズに
入団して大活躍する 『一刀斎は背番号6』 (1959年 大映)
西鉄ライオンズとの試合のシーンあり
原作の小説では巨人に入団するらしいが・・・ 映画「KANO」に出てきた人間機関車・呉波(ランニング君)巨人ー阪神と在籍して
最後には毎日にいたんだな
いい映画なのでおまいらも見てください >>96
その4人だったら
高値が付くのは
えびせんかリーのボールだろうなw >>103
ど真ん中に鎮座するアイデアルの広告がいかにも下町の球場らしくていいね
アイデアルが何の会社だかわかる世代はオッサンどころか年寄りの域に入っちゃったかな >>103
帰ってきたウルトラマンでもロケ場所に東京球場が使用されてるが、撮影時期が1971年9月頃なので本当取り壊される直前の姿。 大映が倒産したのが71年10月だったかな。
その半年前までオーナーをやってたラッパも破天荒というか。
大映本社の巨額債務隠しがばれたのが67年だから
そこから約4年、本業ともども低空飛行を続けて墜落したわけか。
結果的に球団をおしつけられたロッテは今やパ最古球団になってしまった 最強だったのって2リーグ分裂直後?
阪神からいい選手がたくさん入ったらしいね >>113
パリーグ最古球団はオリックス。
ロッテは同一親会社が最古球団。 >>106
千葉時代でスレチだがヤクルトからきた秦も「はた」表記だった。 >>112
最終回でも使われてたね。劇中だと「東亜スタジアム」だったけどw
放映日が1972年3月31日だったから、撮影時期は3月初旬か? 1967年大映製作のガメラ対ギャオスでも東京球場は使用されてる。中日球場としてW
この映画、永田オーナーが政治力を使って国から資金を引き出して作ったもの。(輸出振興の名目。)
その後のシリーズでも主役の子供はオリオンズの帽子をかぶっていた。 水谷実雄の野球人生をめちゃくちゃにしたロッテの土屋 水谷といえば、近鉄のデービスが東尾にぶつけられて乱闘になった時、
プロ野球ニュースで「殴ってもかまわない!」と言う過激なコメントしてたな。
やはり、死球にはかなり悔しい思いをしたんだろうなと思ったもんだ。
そういや水谷つながりで思い出したけど、ロッテの水谷はその阪急に滅法強かったな。
阪急が山田や今井でも、水谷先発の時はかなりの確率でロッテが勝ってた記憶がある。 >>120
打点王のタイトル・ホルダーが翌年の開幕戦で頭部死球、三半規管の損傷で引退だからな
川崎時代はあちこちの球団と死球トラブルを起こしてた
日ハム大宮、西武秋山、南海河埜など
与死球数は稲尾就任年から急増して清原のバット投げの年に頂点に達したが、「弱投球団の内角攻めは
仕方ねーだろ」みたいな開き直り声もデカかった
野村がヤクルト、阪神の監督になってからは、「野村が監督になった球団は死球数が増える」というデータが
週ベで大きく扱われたりしたが、長嶋巨人戦相手の死球トラブルを反映したものだった 死球といえば八木沢・・・
その後マニュエルさんとは和解したん?故意じゃないんだろうけど >>124
一応手打ちはしたが、マニエルは故意死球であると譲らなかった模様 東京球場でプレーした最後の選手
確実なのは門田(92年引退)
可能性あるのは大島(94年引退) 最後の公式戦に出てたヤクルトの杉浦は1993年引退だった 結局、戦前の少年院のロケ地に使われるレベルの川崎に移転するなら
東京球場のままでも良かったのでは…
狭さも変わらないだろ。
でも、小佐野がレンタル球場を頑なに認めないってのが
最大の課題だったらしいから無理か… >>125
双方が存命なうちにテレビの企画で和解シーン撮れないかな >>129
ジプシー2年目で日本一になったこと思えば、東京球場に腰を据えていたら常勝球団になっただろうか? >>131
無理だろう。絶対的なファン数が少ないし。
あくまでも仙台は名目上の本拠地
実際は後楽園や神宮がメインだった。 >>126
門田の公式戦デビューは東京スタジアム。
1970年4月12日(日)ロッテ×南海1回戦。
前日の雨天中止で日曜ダブルヘッダーによる開幕。プロ2打席目に木樽から初安打を記録。 >>120
をいをい、千葉県民で銚子市・・・の隣の隣の隣(富里市)出身の俺にとっちゃ
銚子商の土屋は永遠に英雄だぜ。
2年の夏は江川擁する作新学院との高校球史に残る雨中の投げ合いを制し、
満を持した翌3年夏は桑田・清原のPL、松坂の横浜などにもひけをとらない
「史上最強」と言っても過言ではない戦力を整えた銚子商のエースとして
県大会を通じてもわずか2失点で甲子園優勝投手にまで登りつめたんだぞ。
しかしだ、この数年後に甲子園のアルプスから銚子商のシンボルだった大漁旗は消えてしまったのだよ。
なぜって?アホ高野連が禁止したからですよ。
そして応援も「○○倒せ!お〜」の言葉を禁止してしまった。
時代がやさしく、いやつまらなく変化していくにつれ次第に
銚子商の姿も甲子園で見ることが少なくなってしまった。
たまに甲子園に出てももはやあの「強かった銚子商」という
昔日の面影を見ることはできなかった…。
それでも土屋の時代の銚子商の栄光を知る者は
剛腕を擁して相手をバッタバッタと切り捨て
打っては黒潮打線でなぎ倒す。
そんな銚子商の華麗なる復活を心待ちにしているのである。 第一次金田監督時代の「ロッテ親衛隊」の歌
その歌詞は単なる親会社の社名連呼で「オリオンズ」の名前は皆無・・・
「○○ズ」の名を重要視するセの他球団の応援歌と比べると情けなくなるわ ・交通の便が悪い(実際には営団・都電・都バスが来てたからイメージほど悪くない)
・南千住という偏見を持たれがちな立地で集客しにくい
・オリオンズが不人気でパの人気もどん底の時期(年間30万人を切った年もある)
・大映が経営難→倒産でラッパが東京球場から手を引く
・ロッテが小佐野の球場買収提案(当時で数億かかる)を拒否
・新監督カネやんが欠陥球場発言で拒絶
いろんな要素が積み重なって東京球場は閉鎖された。
小佐野は「オリオンズ戦は赤字だから貸せないが大洋やヤクルト主催ならOK」
と言ってたらしいがセ公式戦も行われなくなった >>135
毎日・大毎・東京時代のOBたちは、さぞ寂しい思いをしたであろう
オリオンズという名称にはそれなりに誇りを持っていただろうし >>134
ロッテで夏の甲子園の優勝投手といえば
あのお方だっているぜ
ここまで全く話題になってないがw ロペス リー
江藤 有藤
榎本 アルトマン レオン
田宮 落合
山内
葛城 夢のある打線だった >>138
牛島は村田には私淑していたがカネやんとは確執があったな 川崎球場の看板
閉鎖のドサクサの間に盗まれたままなんだよな >>138
愛甲か。ロッテでは野手としての印象が強いからかな? >>138
>>143
取手ニ高の石田のことも思い出してあげて 平和台のロッテ戦でライトを守る愛甲選手に仲間3、4人で汚いヤジ飛ばしてたら、
ものすごい形相で我々がいるライト後方の外野席へ向かって来た。
あの時、外野フェンスが無かったら、間違いなく我々は愛甲選手に殺されていただろう。
彼は高校までは神奈川一の悪だったらしいが、それも納得の恐ろしさと迫力だった。 >>145
その愛甲も意中の大洋に入れずロッテに指名されてこの世の終わりみたいな顔で
悔しいです
といってたな。 >>144
そんな選手ロッテに在籍してないだろ
川越工の石田か? >>147
ロッテ3大ドラ1ハズレの1人の石田さんか?
(ちなみに残りの2人は佐波農の笠原さんと沖縄水産の比嘉さん)
83年比嘉さん、84年笠原さん、85年石田さんと3年連続して指名した
ドラ1投手が全員1勝もできずじまいだったことは黒歴史なんで触れんといてくれや! >>148
当時のロッテは超超超不人気球団ということもあり、
「ロッテだけには絶対に入団しない」というドラフト候補も多く、
そのためロッテ球団としても半分ギャンブルとして
無名の高卒投手の指名を続けざるを得なかったという点もあるんだけどね。
まあ笠原の時の2位・小川と4位・横田、
石田の時の2位・園川がモノになったんで少しは救われたのだが。 >>149
当時のロッテは超超超不人気球団ということもあり、
「ロッテだけには絶対に入団しない」というドラフト候補も多く、
その象徴が小池のドラフト拒否事件だったな 小池は亜大4年の時に日米大学野球を生で神宮で見たことあるが、
2安打くらいで完封勝利 まさに神だった
皇太子殿下もすぐ後ろでご覧になられておったねえ
殿下の始球式は米国投手がネット裏の殿下の近くまで来て、
殿下がそいつにポーンと投げられた
小池も発奮したことだろう
ロッテに指名されて運気が落ちたのか、
大学時代の輝かしい実績を思えば、
プロでは今一つな印象だったね 小池が入りたかったのが当時のマスコミ受けする人気球団で野球ファンはザマアミロだったはず。
社会人進んで肩壊して不人気の近鉄指名で入らざるを得なかったのが笑える。
小池拒否後ロッテがすぐに移転して千葉の人気球団になってたのも笑える。 千葉移転後に逆指名した吉田篤史も、
週ベで「川崎時代なら入りたくなかった」みたいなことを言っていたと
記憶しているが。 超超超不人気とは川崎に失礼だな
超超超絶不人気と言えよw 南海だって同じようなもんだったんだろ
大洋は横浜に移って本当に嬉しかったろうな
都市のイメージが雲泥の差 >>134
高校四天王、土屋、定岡、永川、工藤か
中日時代は「すすめ!パイレーツ」で、鈴木孝政や谷沢と一緒に、猿山に誘われるまま試合中に
「千葉県人会」の茶飲み話に参加するという、お茶目キャラで描かれたこともあるが
土屋はロッテ移籍1年目の開幕戦で水谷への頭部死球、しかも当時は危険球退場が慎重化されてた時代で
主審から「ワザと狙って投げたわけではない」と判断されて退場にはならず、そのまま投げ続けてたから、
阪急の上田利治監督がカッカしてたんだよなw
そもそも、パが危険球退場ルールを制定化した1982年、阪急の山口高志、佐藤義則が、立て続けに危険球退場の
第1号、2号を宣告されたことにキレた上田が「ワザとじゃないのに、内角攻めができないルールで野球ができるか!」
と、審判相手に激昂、あげく佐藤の退場が取り消し、ついには危険球退場ルールも、その場で審判がよく考慮した上で
宣告するという、曖昧な定義で有名無実化した流れがあった
危険球退場が増加したのは、長嶋が復活し、長嶋巨人を守れ!という空気ができた94年以降であって
当時でもマイナー色の強かったパはセの流れに乗っただけ
ま、それでも水谷が土屋からの頭部死球で引退に追い込まれた事実は変わりはない
マニエルのアゴ砕き死球や、ハム戦での一試合7死球でロッテのイメージがメチャクチャ悪かった背景も土屋には不運だった >>155
理論派の小宮山は意外にもアンチカネやんではない。
第二期政権でカネやんに感謝してそうな選手
前田、井辺、白武、今野、堀、初芝、島田(茂)、平井、佐藤(和史)、古川 '86年夏の甲子園で、伊良部率いる尽誠学園は、大村巌のいる東海大四に負け、初戦で姿を消した。
その東海大四は、次の二回戦で五十嵐のいる前橋商に負けた。
伊良部・大村・五十嵐は皆エースだったが、
投手としてロッテに入団したのは、最初に負けた伊良部だけ。
ちなみにプロ入団後、五十嵐は全ポジションでの出場、全打順本塁打・先発出場を達成している。
大村巌は、個人的に大村三郎をサブローにするのではなく、この人の登録名をイワオにしてほしかった。 【社会】川崎市河川敷中1男子遺体 1カ月ほど前に殴られて大けが[フジテレビ]★3 [転載禁止](c)2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1424614277/
川崎怖い 小池は本当に気の毒としか言いようが無かった。
だから複数球団記名式の志望届にすりゃいいのにと思う。 >>161
東急が持ち主だった日本ハムフライヤーズの練習場が近い可能性もある >>159
ロッテは小林至の失敗で懲りたはずなのに アマとしても二流以下だった小林と
外れドラ1相当の能力の田中を並べちゃいかんよ 小林がテスト受けて、東大生なのに根性ある奴で面白いと評価したのは
当時監督のカネやんだったよね。
結局、卒業できずに留年することになって翌年はカネやん退任(一応球団名誉職で残る)
入団を約束してしまったロッテは八木沢体制になったのに仕方なく指名。 一時期、大学社会人は逆指名できる制度があったが、今はもう元に戻った?
昔と違って最近は名指しでどことどこは拒否!みたいな人は減ったからな 今はFA制度があるし、昔みたいに球団によって極端な環境差もないからな 田中も変わったキャリアの1つとしてプロ野球に入っただけだろ
5年後にはもういないよ
アメリカの大学に留学し、別の道を進んでる 東大からプロ入りといえば日ハム遠藤も早々に退いて、球団費用で米国留学。今やGM補佐 ハムのGM補佐?
何人いるんだろう 木田もでしょ? >>166
至は東大出身選手の中でダントツ実績も人間性もゴミだったな
ナベツネと孫を誑し込んで
ホークスのフロント取締役ゲットした時期に
目標はコミッショナー就任と東大出身のネームバリューを活用して球界や財界でのし上がる積もりだとインタビューで自信満々だったw >171
木田と2人になってる(スポニチ選手名鑑)
小林、江戸川大学助教授だったっけ 80年代前半のロッテは、何気に強豪チームで山内一弘監督の下、80年、81年と、連続でパリーグ「前期」制覇を成し遂げている。
若い人には馴染みがないであろう前期優勝だが、間違いなく交流戦優勝などよりはビッグイベントで、ビールかけとかやっていた。
で、前期優勝チーム対後期優勝チームで3勝先勝式の日本シリーズ進出を掛けた「真のプレーオフ」が行われるのだが、
1981年は山内ロッテと後期を制した大沢親分率いる日本ハムの激突となったわけだ。
川崎で2連戦、後楽園で3連戦が行われたが、川崎の2ゲーム目が球史に残る試合となった。
が、この試合は現在は多く語られていない。この時点でのレギュラーシーズンにおける「最長時間試合」が5時間15分で、これは延長戦により達成されたものだった。
しかしこの試合は9回で終了したのにも関わらず、なんと5時間17分かかったのだった。つまり、ポストシーズンゲームながら、
それまでのNPB最長ゲームの記録を塗り替えた試合だったのだ。
その後、八木疑惑のホームラン→平光引退決意試合の阪神×ヤクルト、6時間23分ゲームが飛び出すので、
立ち位置もあやふやな過去のポストシーズンゲーム、しかも盛り上がり度ゼロの川崎球場で行われた試合など、野球史の闇の彼方へ葬り去られた。
世間では、あの10.19ロッテ×近鉄が盛んに取り上げられ、川崎最高のビッグゲームとして野球ファンの記憶に残り続けている。
が、あれはホームチームのロッテが優勝を争った試合でも何でもない。
真の川崎ロッテファンならば、この1981.10.10にこそ光を当てるべきではなかろうか。。
一応どんな試合だったか、テーブルスコアを載せておこう。
▼1981年10月10日 川崎(25,000人) プレーオフ第2戦
日本ハム 200 000 102 = 5
ロッテ 120 001 100 = 5
【日】岡部-高橋里-村上-宇田-江夏
【ロ】仁科-倉持-三宅-三井
本塁打:高代
オーダーは日本ハムが島田誠-高代-ソレイタ-柏原-服部-古屋-井上弘-大宮-菅野で、ロッテが庄司-弘田-落合-リー-レオン-有藤-小俣-高橋-水上。
服部がアテ馬で岡持、小俣がアテ馬で張本、他、代打で(日本ハム)加藤、村井、(ロッテ)土肥、新井、江島、代走で(日本ハム)五十嵐、木村、山本、(ロッテ)芦岡、
守備要員で(日本ハム)岩崎、(ロッテ)井上、剣持。
大沢、山内、両将が手持ちの駒をフルに使った総力戦は5-5のドロー。結局地元川崎で1敗1分に終わったロッテは流れをつかめず、日本ハムの軍門に下った。
この年セは巨人が優勝し、1-7戦まですべて後楽園球場で行われる日本シリーズとなった。
日本シリーズ自体は盛り上がったが、川崎のプレーオフ第1戦の観客動員数は水増しに増して17,000人・・・。取り上げた第2戦も「体育の日」ゆえの2万5千…。
それでも「1981.10.10」が川崎ロッテ、いやパ・リーグ史に残る偉大な1日だったと信じている。 81年のプレーオフは、第1戦がロッテにとっては痛かったな。
村田と高橋一三の白熱の投手戦で、柏原に痛恨の一発を浴びて0-1の敗戦。
村田は柏原の一発以外は、ほぼ完ぺきに日ハムを抑えてて、
試合内容的には圧倒的にロッテが押してたのでほんと残念。
9回に2点差を追いつかれた第2戦といい、勝てるプレーオフだっただけに悔いが残る。
山内ロッテと藤田巨人の日本シリーズが見たかった…。 かつての前後期制も10年間に全球団が優勝を経験したのだから
リーグ全体の盛り上げという意味では良かったのかな
南海→ロッテ→阪急→近鉄→日ハム→西武
順番に優勝してるのもおもしろい
ちなみにロッテは2番目に多い4回も優勝している
日シリに出れたのは1度だけだけどw ロッテはジプシー時代はそこそこの人気球団だったのに
川崎に来てから急激に不人気になったよな。
落合という大スターを擁していてもパッとしなかった。
その落合はロッテ時代はアンチも認めるほどファンサービスに熱心だった >>177
全然盛り上がってなんかないよ。
前期優勝が決まるのが梅雨時の変な時期なので、その直後は盛り下がって大変だった。
個人記録の問題があるので消化試合が山のように組まれる。その間セ・リーグが
盛り上がったりするものだからなんのために導入した制度かわからなかった。
実際あのころのプレーオフはいつも閑古鳥が鳴いていたし。
前後期制はパリーグにとっては完全な黒歴史。 >>149
数年前のドラフトで最大の目玉と言われた東洋大の藤岡が
クジでロッテに指名されて歓びの涙を流してたけど
小池の頃の不人気ぶりを思うと隔世の感を禁じ得ないな >>174
>江戸川大学助教授
おじゃまんが山田君に出てきそうな学校名だな
今日川崎に行ったが、発展しててワロタ
横浜駅並みに人いるし 正しいスレタイ 【毎日大毎東京ロッテ】 オリオンズ 【川崎宮城南千住水道橋】 後楽園球場は同時期に複数の球団がホームグラウンドとして使用していた
かつてはスワローズも 関係ないけど、フロリダ行ったイチローの黒いユニ姿
千葉ロッテに入ったのか?と錯覚する >>183
大阪球場も南海・近鉄・洋松が使用していた時期があるな。
阪神も甲子園にナイター設備がなかった頃に時々使用して、
難波騒擾事件が起きている。 >>179
前後期制導入の時は
「優勝争いが2回行われるので、盛り上がりも2倍になる」
というふれこみだったのに、いざ導入すると確かに優勝争いの盛り上がりは2倍だが、消化試合も2倍というお間抜けな結果に。 >>176
その第1戦、既にセ優勝を決めた藤田巨人の主力選手が、バックネット裏で偵察観戦してたな
新人の原、篠塚、西本、松本ら10名前後だったが、当時の週ベは、ロッテ-ハムの試合内容より
巨人の若手スターばかりをグラビアで大きく取り上げ、巨人様御前試合のように扱ってた
巻末には千葉茂や水原茂なんかの巨人OB時事放談みたいなんがあって、村田(兆治)を巨人に取れんのか?
いや、今の巨人は打線が弱いから近鉄の栗橋や阪急の加藤秀を取るべきだ、とかパのスター選手を
巨人用の見本市みたいに扱うのが常だった
いちおう、前年80年後期の優勝争いが激烈を極め、川崎でのロッテ-ハム戦が日ロ戦争と煽られたことはあったが
メインはあくまで近鉄と日ハムの新人木田、それから急に台頭してきた万年最下位の西武だったな >>186
前後期制が盛り上がったのは73年前期以外は、西本・近鉄が優勝争いに絡んだ時くらいだな
73年のカネやんフィーバーと太平洋とのプロレス遺恨試合は翌年まで続いたが、南海・野村克也や阪急・西本の
元巨人、セの大スター金田に対する強烈なライバル心と挑発的なコメントのやり取りも多く、
金田もその挑発にいちいち乗っては言い返す様が、当時のスポーツ新聞のあちこちで散見できるw
それが頂点に達したのが73年7月11日のロッテ-日拓12回戦(神宮、観客5万3000)
前日からの3連戦で、カネやんロッテが3連勝すればロッテの前期優勝、一つでも負ければ野村南海の優勝という状況
ロッテが先勝した翌日の試合だったが、当初、予定になかったテレビ中継まで組まれ、九州でも福岡、長崎、熊本で見られたほど
この時、日拓で監督やってた田宮謙次郎がカネやんを「お調子者のノボセ」「あいつは口だけのケンカ屋」とさかんに挑発、
カネやんも「老いぼれは引っ込んでなさい」「あんたの名前なんて若いモンは知らんよ」と言い返し、それをスポーツ紙が
寸分漏らさず記事にしている
当時はカネやんの弟、金田留広が日拓にいたから、田宮が「弟で兄貴に止めを刺してやる!」とも言ってる
F 212300010 渡辺秀-山崎-金田(留)-○江田-新美
O 212201000 木樽-野村(収)-鬼頭-近藤-●成田-八木沢
主審が、プロボクサー出身で派手なパンチング・ジャッジで有名だった露崎
日拓は、張本が2本塁打、大杉も本塁打を打った後、バンザイジャンプでホームイン、ベンチ前で両手を大きく広げて「カネやんをやっつけろ!」の煽り
ロッテは弘田が金田留から2ラン本塁打、金田留は2回から登板して5失点で「兄貴に遠慮して八百長やってるのか!」の野次も飛んでいたとか
テレビ中継が始まったのは4回裏からだったが、当時の視聴者はスコアを見て驚いたのではないか?
この試合、ネットの実況があれば、凄いものになっていただろう
ちなみに5万3000人の9割以上が、カネやんロッテに声援を送っていたらしい その1年前には5500人を集めるにも四苦八苦してた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています