「赤鬼のチーム」

「たら・れば」の話をしてはいけない事を承知で言えば、前年を大きく上回る打撃成績からしてスーパールーキーと言われた日本ハム・木田勇
さえいなければ、おそらく近鉄のリーグ連覇に貢献したチャーリー・マニエルの2年連続MVPは濃厚だっただろう。来日5年目の“赤鬼”は、
打撃三部門で自己最高をマークし、初めて本塁打と打点の二冠王にも輝いた。前年の死球による下顎骨折の後遺症など全く感じさせない
どころか、忘れさせてしまうほどの大活躍を見せた。そんなマニエルには全試合出場が一度も無いが、118試合出場の80年は怪我以外の
欠場でチームを度々困らせた。

最初は開幕3戦目、対南海3回戦で頭部付近の球を投じた村上之宏を殴打して退場処分、3日間の出場停止処分を受けた。これはまだ
顎骨折で死球に対し過敏になっていた事もあり、“情状酌量”の余地があった。しかし長男の高校の卒業式出席のために帰国し、4試合に
欠場したのには球団も参った。首位ロッテを2差で追っている前期優勝争いの大事な時期だっただけに、近鉄にとっては痛かった。優勝した
後期は2戦のみの欠場だったが、マニエルが消化試合以外で先発を外れた全10試合での勝敗は、3勝6敗1分けと良くなかった。闘将と
いわれた西本幸雄も、自分勝手を真正面に咎めるなどマニエルを助っ人ではなくリーダーとして認めだしたのもこの頃。近鉄はマニエルの
チームになっていたのだった。

大功労者マニエルだったが、オフの契約交渉で決裂して退団となった。存在が大きくなってワガママになったせいか、度重なるトラブルや、
友人の妻と不倫してしまうなどの女性問題で近鉄が抱え切れなくなったとの見方もあった。だがこの時は、金銭面の折り合いがつかなかった
のが大きな原因だった。シーズン途中に西武に入団したスティーブ・オンティベロスが、当時では異例の複数年契約。しかも「3年100万ドル」
(日本円で約2億2千万)という破格条件という事で、日本で実績を残してきたマニエルがスティーブ級の球団史上最高年俸を求めてきたのだ。
当時の日本球界は巨人・王貞治の8170万が最高、近鉄側は最後まで首を縦に振らなかった。マニエルに「ニシモトの笑顔を見るために
オレは打つ」とまで慕われていた西本は後年「苦楽を共にした当人同士の話し合いなら、なんとかなった。代理人が間に入って、ややこしく
なった」と残念がっていた。 (了)